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「宝塚古墳 (松阪市)」の版間の差分

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{{Location map+|Japan Mie|width=200|float=right|caption={{Center|宝塚古墳の位置}}|places=
[[Image:Funagata-haniwa 01.JPG|thumb|192px|松阪市文化財センター・はにわ館に展示される船形埴輪]]
{{Location map~|Japan Mie|lat_deg=34|lat_min=32|lat_sec=59.12|lon_deg=136|lon_min=30|lon_sec=55.03|label='''宝塚古墳'''|label_size=100|width=200|position=top|mark=Red pog.svg|marksize=10}}<!--宝塚-->
'''宝塚古墳'''(たからづかこふん)は[[三重県]][[松阪市]]にある[[古墳]]。1号墳と2号墳の2基が現存している。
{{Location map~|Japan Mie|lat_deg=34|lat_min=48|lat_sec= 6.10|lon_deg=136|lon_min=10|lon_sec=23.77|label=[[御墓山古墳|御墓山]]|label_size=90|width=200|position=top|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--御墓山-->
{{Location map~|Japan Mie|lat_deg=34|lat_min=42|lat_sec=27.81|lon_deg=136|lon_min=10|lon_sec=22.59|label=[[石山古墳|石山]]|label_size=90|width=200|position=right|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--石山-->
{{Location map~|Japan Mie|lat_deg=34|lat_min=39|lat_sec=42.91|lon_deg=136|lon_min= 8|lon_sec= 3.77|label=[[美旗古墳群|馬塚]]|label_size=90|width=200|position=bottom|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--馬塚-->
{{Location map~|Japan Mie|lat_deg=34|lat_min=53|lat_sec= 4.36|lon_deg=136|lon_min=28|lon_sec=55.09|label=[[能褒野王塚古墳|能褒野王塚]]|label_size=90|width=200|position=top|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--能褒野王塚-->
{{Location map~|Japan Mie|lat_deg=34|lat_min=27|lat_sec=18.00|lon_deg=136|lon_min=43|lon_sec=30.63|label=[[伊勢神宮]]|label_size=90|width=200|position=bottom|mark=Blue pog.svg|marksize=8}}<!--伊勢神宮-->
}}
{{座標一覧}}
'''宝塚古墳'''(たからづかこふん)は、[[三重県]][[松阪市]]宝塚町・光町にある[[古墳]]2基(宝塚1号墳・宝塚2号墳)の総称。宝塚古墳群を構成する古墳の2つ。国の[[史跡]]に指定され、1号墳の出土品は国の[[重要文化財]]に指定されている。


== 概要 ==
== 概要 ==
三重県中部、松阪市街地から南方約3[[キロメートル]]、[[阪内川]]右岸の低丘陵地(南北1キロメートル・東西1.25キロメートル)上に築造された古墳2基の総称である{{Sfn|宝塚古墳群(古墳)|1989年}}{{Sfn|宝塚古墳(平凡社)|1983年}}。一帯では1号墳を盟主墳とする少なくとも88基の古墳が確認されており、これらは宝塚古墳群として認知されたが、1号墳・2号墳のほかに4号墳が現存する以外は戦中・戦後の開墾・宅地開発で消滅している{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。「宝塚」の古墳名は、[[昭和]]初期の鈴木敏雄の分布調査における村人からの聞き取り調査による<ref name="松阪市">[https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/bunkazai-center/takarazuka-kohun.html 伊勢の王墓 宝塚古墳](松阪市ホームページ)。</ref>。これまでに[[1998年|1998]]-[[2003年]]度([[平成]]10-15年度)に松阪市教育委員会による発掘調査が実施されている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
[[1928年]]([[昭和]]3年)の鈴木敏雄による調査でほぼ1[[キロメートル]]四方の丘陵上に墳丘の確かな古墳が26基、不確かなものを含めれば88基の古墳の存在が確認され、'''花岡古墳群'''と呼ばれた。1965年(昭和40年)ころまでに宅地開発などで81基が失われ7基だけになり、中部台公園(総合運動公園)などの開発が行なわれたのちの昭和60年ころには4基を残すのみとなった。


1号墳・2号墳は、それぞれ当時の伊勢地方を代表する大型[[前方後円墳]]・[[帆立貝形古墳]]で、[[古墳時代]]中期の[[5世紀]]初頭・5世紀前半頃の築造と推定され、相前後する首長墓に位置づけられる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。特に1号墳では多量の[[円筒埴輪]]の樹立が認められるとともに、出島状施設([[造出]]の類型)の全面的発掘調査が実施されて多種多様な[[形象埴輪]]の製作も認められており、築造には[[ヤマト王権]]からの後援が想定される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。その背景として、ヤマト王権の外港と見られる近隣の古代港の的潟(まとかた)との関連が注目されており、同様の様相を示す古墳として[[三河湾]]沿岸部の[[正法寺古墳 (西尾市)|正法寺古墳]]([[愛知県]][[西尾市]])も知られることから、これらの地が海上交通の拠点として王権から重要視された様子が示唆される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。出島状施設の調査によって当時の古墳祭祀が解明されたとともに、ヤマト王権による東国支配の進展を考察する上でも重要な要素を担う古墳になる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。
2006年に現存しているのは、1号墳と、道路を挟んでその北側に隣接する2号墳のみである。いずれも[[前方後円墳]]で、1932年(昭和7年)4月25日に国の[[史跡]]に指定された。また、1号墳から出土した船形[[埴輪]]をはじめとする埴輪群は、他の出土品と併せて2006年([[平成]]18年)6月9日に「三重県宝塚一号墳出土品」の名称で国の[[重要文化財]]に指定された<ref>平成18年6月9日文部科学省告示第79号</ref>。


1号墳・2号墳の古墳域は[[1932年]](昭和7年)に国の[[史跡]]に指定されているほか<ref name="国指定 宝塚古墳"/>、1号墳の出土品は[[2006年]](平成18年)に国の[[重要文化財]]に指定されている<ref name="国指定 宝塚1号墳出土品"/>。現在の古墳域は史跡整備の上で宝塚古墳公園として公開されている。
== 1号墳 ==

=== 来歴 ===
* [[昭和]]初期、鈴木敏雄による古墳分布調査。1号墳を含む古墳計88基の報告(『飯南郡花岡村考古誌考』){{Sfn|宝塚古墳群(古墳)|1989年}}{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
* [[1932年]](昭和7年)4月25日、1号墳・2号墳の古墳域が国の[[史跡]]に指定<ref name="国指定 宝塚古墳"/>{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
* [[1970年|1970]]-[[1971年]](昭和45-46年)、1号墳・2号墳の測量調査([[三重大学]]歴史研究会原始古代史部会)。
* [[1978年]](昭和53年)9月18日、史跡範囲の追加指定(2号墳が円墳でなく帆立貝形古墳と判明したため、前方部の指定地外部分を追加指定)<ref name="国指定 宝塚古墳"/>。
* [[1998年|1998]]-[[2000年]]度([[平成]]10-12年度)、1号墳の発掘調査(松阪市教育委員会){{Sfn|宝塚古墳(平凡社、刊行後版)|2006年}}{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
* [[2000年|2001]]-[[2003年]]度(平成13-15年度)、2号墳の発掘調査(松阪市教育委員会){{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
* [[2005年]](平成17年)4月27日、宝塚古墳公園開園<ref>[https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/bunkazai-center/takarazuka-kohun-kouen.html 宝塚古墳へ行こう!!](松阪市ホームページ)。</ref>。
* [[2006年]](平成18年)6月9日、1号墳出土品が国の[[重要文化財]]に指定<ref name="国指定 宝塚1号墳出土品"/>。

== 一覧 ==
=== 1号墳 ===
{{日本の古墳
{{日本の古墳
|名称=宝塚古墳1号墳
|名称 = 宝塚1号墳
|画像 = [[File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, zenkei.jpg|280px]]<br>出島状施設(復元)から墳丘を望む<br>(右に後円部、左に前方部)
|所在地=[[三重県]][[松阪市]][[宝塚町]]・光町
|別名 =
|位置={{ウィキ座標2段度分秒|34|32|59.63|N|136|30|55.38|E|region:JP-24}}
|所属 = <!--宝塚古墳群:当然なので記載せず-->
|形状={{前方後円墳}}
|所在地 = [[三重県]][[松阪市]]宝塚町・光町<br>(宝塚古墳公園内)
|規模=全長111[[メートル|m]]
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|32|59.12|N|136|30|55.03|E|region:JP-24_type:landmark|display=inline,title|name=宝塚1号墳}}
|築造年代=5世紀初頭
|形状 = {{前方後円墳}}
|被葬者=伝・乙加豆知命
|規模 = 墳丘長111[[メートル|m]]<br>高さ10m(後円部)
|史跡指定=1932年([[昭和]]7年)国の史跡
|築造年代 = [[5世紀]]初頭
|出土品=[[埴輪]]ほか(国の[[重要文化財]])
|埋葬施設 = (推定)[[粘土槨]]
|画像=[[Image:Takaraduka-1go-fun 01.JPG|250px]]<br>宝塚古墳1号墳}}
|被葬者 = (伝)乙加豆知命
|出土品 = [[埴輪]]276点、土器・土製品11点
|史跡指定 = <!--国の[[史跡]]「宝塚古墳」に包含:当然なので記載せず-->
|特記事項 = 三重県第4位/伊勢地方第1位の規模
}}
'''宝塚1号墳'''は、宝塚古墳群の主墳。形状は[[前方後円墳]]。[[1998年|1998]]-[[2000年]]度([[平成]]10-12年度)に松阪市教育委員会による発掘調査が実施されている{{Sfn|宝塚古墳(平凡社、刊行後版)|2006年}}{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。


==== 概要 ====
この地の[[豪族]]であった飯高氏の祖先の乙加豆知命(おとかずちのみこと)の墓とする説がある。墓の北西約1キロメートルにある阿形を本拠地とした飯高氏は、[[大和朝廷]]に接近することで繁栄したと考えられている。[[平安時代]]には衰退したものの、松阪市[[飯高町]]にその名を残している。
墳形は前方後円形で、前方部を東方に向ける。墳丘は3段築成{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。墳丘長は111[[メートル]]を測り、伊勢地方では最大、三重県では第4位の規模になる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}<ref group="注">三重県における主な古墳は次の通り。
# [[御墓山古墳]](伊賀市佐那具町) - 墳丘長188メートル。伊賀地方第1位。
# 馬塚古墳(名張市美旗町) - 墳丘長142メートル。[[美旗古墳群]]内、伊賀地方第2位。
# [[石山古墳]](伊賀市才良) - 墳丘長120メートル。伊賀地方第3位。
# '''宝塚1号墳'''(松阪市宝塚町・光町) - 墳丘長111メートル。伊勢地方第1位。
伊勢地方第2位の古墳は[[能褒野王塚古墳]](亀山市田村町)で、墳丘長90メートルを測る。</ref>。墳丘表面では[[葺石]]・[[埴輪]]が検出されている{{Sfn|宝塚古墳(平凡社)|1983年}}。墳丘北側には出島状施設([[造出]]の類型)が付され、発掘調査ではその全面調査が実施されているが、特に多種多様な[[形象埴輪]]が出土した点が特筆される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかでない{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。


この宝塚1号墳は、[[古墳時代]]中期の[[5世紀]]初頭頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、当地の豪族の飯高氏祖とされる乙加豆知命(おとかずちのみこと、『皇太神宮儀式帳』等に見える人物)に比定する伝承がある{{Sfn|宝塚古墳〈三重県〉(国指定史跡)}}。当時の伊勢地方では突出する規模・内容の古墳になるが、埴輪には在地的要素と外来的要素の併存が認められるため、被葬者像としては[[ヤマト王権]]から伊勢の支配を移譲された在地系有力者と想定される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。宝塚1号墳と同様の様相の古墳として、[[伊勢湾]]対岸における西三河最大の[[正法寺古墳 (西尾市)|正法寺古墳]]([[愛知県]][[西尾市]]、墳丘長90メートルの前方後円墳、5世紀前半)においても、3段築成の墳丘、やや短小な前方部、葺石、円筒埴輪・形象埴輪の本格的な採用、島状遺構が認められており、両古墳がヤマト王権による海路確保を背景として築造された様子が示唆される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。
松阪市と松阪市教育委員会を主体として1999年(平成11年)6月 - 2000年(平成12年)3月に発掘調査が行われた。調査結果を以下に列記する。


==== 構造 ====
*調査前は100メートルと考えられていた全長が111メートルであることが確認された。伊勢地方(旧[[伊勢国]])最大である。
古墳の規模は次の通り{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
*[[古墳時代]]中期初頭(5世紀初頭ごろ)の築造の首長墓であると考えられる。
* 墳丘長:111メートル
*墳丘は前方部を東に向けて造成されている。この前方部の北側には、祭事の場であったと考えられている方形台状の「[[造り出し]]」が設けられ、「造り出し」と前方部の間を繋ぐ橋状の通路が日本で初めて確認された。この通路は「土橋(どばし)」と呼ばれている。この「造り出し」部と土橋の周囲で[[円筒埴輪]]列と多くの[[形象埴輪]]が出土した。
* 後円部 - 3段築成。
*[[畿内]]以外の地域では珍しく円筒・朝顔形の円筒埴輪、船形・盾形・家形・靫形・囲形・甲冑形・蓋形・大刀形などの豊富な種類の形象埴輪が出土した。
** 直径:75メートル
** 高さ:10メートル(出島状施設裾から)
* 前方部 - 3段築成。
** 幅:66メートル
** 高さ:8.1メートル(出島状施設裾から)
築造企画としては、1尋を154[[センチメートル]]とする小尋が基準尺として想定される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。墳丘1段目は北側のみで確認されているが、南側については当初から存在しなかったとする説と、後世の消失とする説が挙げられている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。前者の場合、墳丘北側には出島状施設も伴うことから、北面が正面観とされた可能性が指摘される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
<gallery>
File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, funcho.jpg|後円部墳頂
File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, kouenbu.jpg|後円部(前方部から望む)
File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, zenpoubu.jpg|前方部(後円部から望む)
</gallery>


==== 埋葬施設 ====
対岸にあたる[[三河湾]]岸[[愛知県]][[西尾市]]の[[正法寺古墳 (西尾市)|正法寺古墳]]も本古墳と類似した形状をしており、両古墳は、[[伊勢湾]]、[[三河湾]]などの[[水上交通]]で覇権を得て、強大な勢力を有した関西系[[豪族]]により作られたものとみられる<ref>正法寺古墳現地説明板</ref><ref>岡崎市美術博物館 副館長 荒井信貴[http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/20okazakigaku/20-2.pdf 「「岡崎」のなかった頃の岡崎学 -古墳時代~古代の西三河―」]</ref>。
主体部の埋葬施設は、発掘調査が実施されていないため明らかでない。ただしレーザー探査によれば、後円部墳頂下1.2メートルにおいて、南北方向を主軸とする全長約7メートルの[[粘土槨]]の存在が推定される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
=== 船形埴輪 ===
この調査で土橋の西側から出土した船形埴輪は、全長140[[センチメートル]]、高さ90センチメートルとそれまでに出土した中では日本最大であると同時に独特の装飾がなされていたため第1級の埴輪資料であるとされ、2006年(平成18年)6月9日に他の1号墳からの出土品と併せて国の重要文化財に指定された。指定対象は造り出し付近出土の埴輪120点(船形埴輪を含む)と墳丘出土の埴輪50点であり、包含層出土の埴輪95点と土器11点が附(つけたり)指定となっている<ref>[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/Miebunka/mobile/bunkazaiMobile/detail/731022 「三重県宝塚一号墳出土品」](三重県サイト)</ref>。この発掘調査ののち、当時を想定し埴輪の模型を並べるなどの整備が行われ、2005年(平成17年)4月27日に「宝塚古墳公園」となり一般に公開されている。
{{clear}}


そのほか、前方部墳丘上では家形埴輪が出土しているが、この地点にも埋葬施設が存在した可能性が指摘される(類例に[[島の山古墳]]([[奈良県]][[磯城郡]][[川西町]])){{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。また出島状施設の南西裾において、盾形埴輪を用いた埴輪棺と見られる埋納が認められている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。この埴輪棺は葺石を壊して設置されており、葺石施工時以降のものになる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。
== 2号墳 ==

==== 出島状施設 ====
[[File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, dejima-1.jpg|thumb|250px|right|{{center|出島状施設}}{{small|後円部から望む。右は主墳丘前方部。}}]]
主墳丘の北側では、付帯施設として出島状施設が認められる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。この出島状施設は[[造出]]の類型になる付帯祭祀施設とされるが、主墳丘に直接取り付く造出とは異なり、主墳丘から離れて位置し土橋で連結されるもので、類例としては[[巣山古墳]](奈良県[[北葛城郡]][[広陵町]])が知られる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。宝塚1号墳の築造時点では既に造出・島状施設とも成立しており、出島状施設が採用された背景は必ずしも詳らかでないが、一説には文字通り島として海をイメージした可能性が指摘される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。この出島状施設については、これまでに全面的に発掘調査が実施されている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。

発掘調査によれば、出島状施設はくびれ部前方部側から北方に位置し土橋で連結される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。2段築成で、1段目は東西18メートル・南北16メートル、上段は東西13メートル・南北10メートルを測り、上段は主墳丘の2段目に対応する{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。施設上面については後世の削平のため築造当時の様相が明らかでないが、施設裾部については原位置を留める多数の埴輪が検出されている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。それによれば、出島状施設の東裾には導水施設型囲形埴輪・家形埴輪を中心とした一群、西裾には湧水施設型囲形埴輪2点を中心とした一群が配され、土橋の東西裾部には船形埴輪1点ずつが配されていた{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。現在、この出島状施設は実物大で再現されている。
<gallery>
File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, dejima-2.jpg|西裾部<br>{{small|手前に船形埴輪(1号船)、奥に湧水系囲形埴輪。}}
File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, dejima-3.jpg|東裾部<br>{{small|奥に導水系囲形埴輪。}}
File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-1, dejima-4.jpg|土橋
</gallery>

==== 出土品 ====
[[ファイル:宝塚1号墳出土 船形埴輪 (1号船).JPG|thumb|250px|right|{{center|船形埴輪(1号船)}}{{small|左が推定船首側、右が推定船尾側。}}]]
これまでの発掘調査で検出された出土品は次の通り。
* 船形埴輪
*: 出島状施設と前方部をつなぐ土橋の東西両脇に1点ずつ(1号船・2号船)が配される。この船形埴輪の意味としては、被葬者の海上活動を表象する現実船説、被葬者の喪葬に伴う葬送船説がある{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
** 1号船
**: 宝塚1号墳の象徴的な埴輪で、土橋東裾に位置する。全長140センチメートル・高さ94メートルを測る大型船形埴輪で、長さの点では[[岡古墳]]([[大阪府]][[藤井寺市]])出土埴輪に次ぐ全国第2位、高さの点では全国最大の規模になる。この埴輪は、地中に埋めた楕円形台座2基の上に船体がはめ込まれて据えられていた。船体は準構造船で、船首・船尾は大きく反り返る。船首・船尾には鰭飾り、舷側板頂部には櫂を固定するピボット3対、内部には仕切り板として装飾隔壁4個がそれぞれ付される。船内器財類としては、推定船首側(土橋側)から装飾隔壁・大刀・装飾隔壁・石見型立物(鑓の表現か)・不明器物(円孔のみ)・石見型立物・装飾隔壁・蓋・装飾隔壁が並ぶ{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
**: [[東殿塚古墳]]([[奈良県]][[天理市]])出土埴輪の線刻では船首側に大刀、船尾側に蓋が描かれており、同様の古墳時代の習俗を示すとして注目される。また三重県[[尾鷲市]]の二木島祭(三重県指定無形民俗文化財、近年は中止)の関船では、船首側に薙刀、船尾側にカサブキ・鉾が載せられており、その習俗との対応を指摘する説もある{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
** 2号船
**: 土橋西裾に位置する。船体中央部の破片のみの検出で、円筒埴輪に詰め込まれた状態で発見されたが、この詰め込みは後世の造作とされる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
{{Four images|right|宝塚1号墳出土 囲形埴輪 (導水).JPG|150|宝塚1号墳出土 囲形埴輪 (湧水).JPG|150|{{center|囲形埴輪(左:導水、右:湧水)}}{{small|上段:外観<br>下段:内部(左:樋形土製品、右:井戸状土製品)}}||宝塚1号墳出土 囲形埴輪 (導水, 内部).JPG|宝塚1号墳出土 囲形埴輪 (湧水, 内部).JPG}}
* 囲形埴輪
*: 船形埴輪とともに宝塚1号墳を象徴する埴輪。出島状施設の東西両裾に導水施設型1点・湧水施設型2点の計3点が配される。南郷大東遺跡(奈良県[[御所市]])で検出された導水施設や、[[伊勢神宮]][[豊受大神宮|外宮]]([[伊勢市]]豊川町)の[[上御井神社]]・[[下御井神社]]の社殿構成との対応が指摘される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
* 壺形埴輪・円筒埴輪
*: 墳丘上で列状に配され、墳丘を囲繞する。これらは大量に検出され、1号墳以前の南伊勢の古墳とは一線を画する様相になる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
*: 壺形埴輪は、二重口縁壺形埴輪・鍔付壺形埴輪の2種。二重口縁壺形埴輪は全て出島状施設に樹立される。二重口縁壺形埴輪は在地的要素であり、鍔付壺形埴輪は大和・河内的要素(外来的要素)になる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。
*: 円筒埴輪は、二条突帯三段構成・三条突帯四段構成の2種。二条突帯三段構成埴輪は鍔付壺形埴輪と組み合わされて使用され、三条突帯四段構成埴輪は単独で使用された。また円筒埴輪のごく一部には、5世紀前半の河内地域の特徴を有する高い技術レベルの埴輪が認められており、同地の工人が技術指導にあたった可能性が指摘される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
* 家形埴輪
*: 出島状施設や前方部上に配される。多くは高床入母屋形式。一部には鰭飾、斗束、鰹木の表現も見られる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
* 柱状埴輪(柵形埴輪/塀形埴輪)
*: 主墳丘・出島状施設に配される。2点1対で配され、門柱の表象と推定される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
* 器財埴輪
*: 上記以外の器財埴輪として、盾形埴輪、靫形埴輪、甲冑形埴輪、蓋形埴輪、冠形埴輪、高坏形埴輪、鳥形埴輪が検出されている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
* 土器・土製品
*: [[土師器|土師質]]の土器・土製品として、前方部端部から胴部穿孔小型壺・S字甕片、出島状施設周辺からミニチュア鳥形土製品片(埴輪付属品か)・食物形土製品片、後円部墳頂からミニチュア高坏形土製品・笊形土製品が検出されている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=4-33}}。
出土品の埴輪265点、土器・土製品11点の計276点は国の[[重要文化財]]に指定され、現在は松阪市文化財センター(はにわ館、松阪市外五曲町)で保管・展示されている。
{{hidden begin
|title = 宝塚1号墳 出土埴輪画像
|border = #aaa solid 1px
|titlestyle = text-align: center; ; background:lightgrey;
}}
いずれも松阪市文化財センター(はにわ館)展示。
<gallery>
ファイル:宝塚1号墳出土 船形埴輪 (2号船).JPG|船形埴輪(2号船)
ファイル:宝塚1号墳出土 二重口縁壺.JPG|二重口縁壺形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 壺形埴輪.JPG|鍔付壺形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 円筒埴輪.JPG|円筒埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 家形埴輪-1.JPG|家形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 柱状埴輪.JPG|柱状埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 盾形埴輪 (主墳丘出土).JPG|盾形埴輪(主墳丘出土)
ファイル:宝塚1号墳出土 盾形埴輪 (出島状施設出土).JPG|盾形埴輪(出島状施設出土)
ファイル:宝塚1号墳出土 埴輪棺.JPG|埴輪棺
ファイル:宝塚1号墳出土 靫形埴輪.JPG|靫形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 草摺形埴輪.JPG|草摺形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 蓋形埴輪.JPG|蓋形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 冠形埴輪.JPG|冠形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 高坏形埴輪.JPG|高坏形埴輪
ファイル:宝塚1号墳出土 ミニチュア土製品.JPG|ミニチュア土製品
</gallery>
{{hidden end}}

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=== 2号墳 ===
{{日本の古墳
{{日本の古墳
|名称=宝塚古墳2号墳
|名称 = 宝塚2号墳
|画像 = [[File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-2, zenkei.jpg|280px]]<br>墳丘全景(中央に後円部、右に前方部)
|所在地=三重県松阪市宝塚町
|別名 =
|位置={{ウィキ座標2段度分秒|34|33|3.78|N|136|30|54.75|E|region:JP-24}}
|所属 = <!--宝塚古墳群:当然なので記載せず-->
|形状=[[帆立貝式古墳]]
|所在地 = [[三重県]][[松阪市]]宝塚町<br>(宝塚古墳公園内)
|規模=全長90m、高さ10.5m
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|34|33|3.36|N|136|30|54.99|E|region:JP-24_type:landmark|display=inline|name=宝塚2号墳}}
|築造年代=5世紀
|形状 = [[帆立貝形古墳]]
|史跡指定=1932年(昭和7年)国の史跡
|規模 = 墳丘長90[[メートル|m]]<br>高さ10.5m(後円部)
|出土品=埴輪
|築造年代 = [[5世紀]]前半
|画像=[[Image:Takaraduka-2go-fun 01.JPG|250px]]<br>宝塚古墳2号墳}}
|埋葬施設 = 不明
1号墳の北に位置する全長90メートルの前方後円墳である。前方部が極端に小さいため[[帆立貝式古墳]]と呼ばれる。1号墳より後に築造されたと考えられている。当初は[[円墳]]とみなされていたが、のちに帆立貝式の前方後円墳であることが判明した。1号墳と同様、1932年に国の史跡に指定されたが、墳丘が史跡指定範囲外にも広がっていることが判明したため、1978年に指定範囲を拡大して国の史跡に追加指定された。
|被葬者 =
|出土品 = [[埴輪]]片
|史跡指定 = <!--国の[[史跡]]「宝塚古墳」に包含:当然なので記載せず-->
|特記事項 =
}}
'''宝塚2号墳'''は、1号墳の北方に位置する。形状は[[帆立貝形古墳]]。[[2000年|2001]]-[[2003年]]度([[平成]]13-15年度)に松阪市教育委員会による発掘調査が実施されている{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。


==== 概要 ====
後円部は径89メートル、高さ10.5メートルで、前方部は幅約40メートル、長さ17メートル、高さ2.9メートルである。2号墳も周囲に埴輪が並べられていたことが確認された。墳丘の一部が当初史跡として指定した範囲外に及んでいたため、1969年(昭和44年)に一部が宅地として造成されたり、前方部が道路になってしまうなどの損傷を受けている。
墳形は、前方部が短小な帆立貝形の前方後円形(または造出付き[[円墳]])で、前方部を南南東方(1号墳の方角)に向ける{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。墳丘は後円部が3段築成、前方部が2段築成で{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}、前方部の一部(東隅)は道路工事の際に削平されている<ref name="松阪市"/>。墳丘表面では[[葺石]]・[[埴輪]]が検出されている{{Sfn|宝塚古墳(平凡社)|1983年}}。埴輪のうちでは1号墳で見られる壺形埴輪は無くなり、代わって朝顔形埴輪(壺形埴輪と円筒埴輪が一体化したもの)が使用される<ref name="松阪市"/>。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかでない{{Sfn|宝塚古墳(平凡社)|1983年}}。

この宝塚2号墳は、[[古墳時代]]中期の[[5世紀]]前半頃の築造と推定される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。築造時期・規模の点で1号墳の後代首長墓に位置づけられるが、この2号墳以降の伊勢地方首長墓は規模が大きく縮小する様相になる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。

==== 構造 ====
古墳の規模は次の通り{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。
* 墳丘長:約90メートル
* 後円部 - 3段築成。
** 直径:83メートル
** 高さ:10.5メートル
* 前方部 - 2段築成。
** 長さ:17メートル
** 幅:39-40メートル
** 高さ:2.9メートル
1号墳と2号墳を比較した場合、墳形の点では帆立貝形(2号墳)は前方後円形(1号墳)より格下とされる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。一方で後円部直径・高さの点では2号墳の方が大きく、かつ築成の点では1号墳は地山主体であるのに対して2号墳は盛土主体であるため、築造の労力は1号墳に匹敵するとされる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。

また築造企画としては、1号墳・2号墳には同じ基準尺の使用が推定され、立地的にも1号墳の地割の延長上に2号墳の地割が収まる点が指摘される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。
<gallery>
File:Takarazuka Kofun (Matsusaka)-2, funcho.jpg|後円部墳頂
ファイル:宝塚2号墳出土 円筒埴輪.JPG|円筒埴輪<br>{{small|松阪市文化財センター(はにわ館)展示。}}
ファイル:宝塚2号墳出土 蓋形埴輪.JPG|蓋形埴輪<br>{{small|松阪市文化財センター(はにわ館)展示。}}
</gallery>

=== その他 ===
一帯では1号墳・2号墳のほかに4号墳が遺存するが、かつては88基の古墳があったとされる{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=34-57}}。その中の1基は前方後円墳であったとされ、1号墳・2号墳と並び首長系譜上にあった可能性が指摘される{{Sfn|穂積裕昌|2017年|pp=68-87}}。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 重要文化財(国指定) ===
=== 重要文化財(国指定) ===
* 三重県宝塚1号墳出土品(考古資料) - 明細は以下。松阪市文化財センター保管。2006年(平成18年)6月9日指定<ref>平成18年6月9日文部科学省告示第79号及び平成23年(2011年)6月27日文部科学省告示第112号</ref><ref>平成23年(2011年)6月27日文部科学省告示第112号で、包含層出土の埴輪の点数「90点」から「95点」に変更されている(追加指定ではなく、員数の訂正)。なお、文化庁公式サイトの「国指定文化財等データベース」では上記の員数変更が反映されておらず、「90点」のままになっている。</ref>。
* 三重県宝塚1号墳出土品 一括(考古資料) - 明細は以下。松阪市文化財センター保管。2006年(平成18年)6月9日指定<ref name="国指定 宝塚1号墳出土品">{{国指定文化財等データベース|201|00011238|三重県宝塚1号墳出土品}}</ref>、2011年(平成23年)6月27日員数訂正<ref>平成18年6月9日文部科学省告示第79号平成23年6月27日文部科学省告示第112号</ref><ref group="注">平成23年6月27日文部科学省告示第112号で、包含層出土の埴輪の点数「90点」から「95点」に変更(追加指定ではなく、員数の訂正)。</ref>。
** 造り出し出土
** 埴輪船 1点 - 造り出し出土
*** 埴輪 1
** 埴輪 119 - 造り出し出土。
*** 埴輪 119
** 埴輪 50 - 墳丘出土。
** (附指定)埴輪 95点 - 包含層出土。
** 墳丘出土
** (附指定)土器・土製品 11点 - 包含層出土。
*** 埴輪 50点
** (附指定)
*** 埴輪 95点 - 包含層出土。
*** 土器・土製品 11点 - 包含層出土。


=== 国の史跡 ===
=== 国の史跡 ===
* 宝塚古墳 - 1932年(昭和7年)4月25日指定、1978年(昭和53年)9月18日に史跡範囲の追加指定<ref>{{国指定文化財等データベース|401|1505|宝塚古墳}}</ref>。
* 宝塚古墳 - 1932年(昭和7年)4月25日指定、1978年(昭和53年)9月18日に史跡範囲の追加指定<ref name="国指定 宝塚古墳">{{国指定文化財等データベース|401|1505|宝塚古墳}}</ref>。

== 関係施設 ==
* 松阪市文化財センター(はにわ館)(松阪市外五曲町) - 宝塚古墳出土品を保管・展示。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
'''注釈'''
{{reflist|group="注"}}

'''出典'''
{{reflist}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{small|(記事執筆に使用した文献)}}
* 『史跡宝塚古墳』(松阪市教育委員会発行、2005年3月)
* 史跡説明板
* 『三重県の歴史散歩』([[山川出版社]]、1975年12月10日発行1版3刷)
* 宝塚古墳公園パンフレット(松阪市教育委員会)
* 『伊勢志摩を歩く』([[皇學館大学]])
* 事典類
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1983|chapter=宝塚古墳|title=[[日本歴史地名大系]] 24 三重県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490247|ref={{Harvid|宝塚古墳(平凡社)|1983年}}}}
*** {{Wikicite|reference=刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年|ref={{Harvid|宝塚古墳(平凡社、刊行後版)|2006年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=下村登良男|year=1989|chapter=宝塚古墳群|title=[[日本古墳大辞典]]|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=4490102607|ref={{Harvid|宝塚古墳群(古墳)|1989年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=下村登良男|year=2002|chapter=宝塚1号墳|title=[[日本古墳大辞典|続 日本古墳大辞典]]|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=4490105991|ref={{Harvid|宝塚1号墳(続古墳)|2002年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=|chapter=[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9D%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%80%88%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E3%80%89-1444351 宝塚古墳〈三重県〉]|title=国指定史跡ガイド|publisher=[[講談社]]|isbn=|ref={{Harvid|宝塚古墳〈三重県〉(国指定史跡)}}}} - リンクは[[朝日新聞社]]「[[コトバンク]]」。
* その他
** {{Cite book|和書|editor=|author=穂積裕昌|year=2017|chapter=|title=船形埴輪と古代の喪葬 -宝塚一号墳-(シリーズ「遺跡を学ぶ」117)|publisher=新泉社|isbn=978-4787716378|ref={{Harvid|穂積裕昌|2017年}}}}

== 関連文献 ==
{{small|(記事執筆に使用していない関連文献)}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2005|chapter=|title=三重県松阪市宝塚町・光町所在 史跡宝塚古墳 -保存整備事業に伴う宝塚1号墳・宝塚2号墳調査報告-(松阪市埋蔵文化財報告書 1)|publisher=松阪市教育委員会|isbn=|ref=}}
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2006|chapter=|title=史跡宝塚古墳保存整備報告書|publisher=松阪市教育委員会|isbn=|ref=}}

== 関連項目 ==
* [[正法寺古墳 (西尾市)]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Takarazuka Kofun (Matsusaka)}}
* [http://www.city.matsusaka.mie.jp/www/genre/0000000000000/1000000000742/index.html 宝塚古墳公園(松阪市)]
* [http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=401&item_id=1505 宝塚古墳]、[http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp?register_id=201&item_id=00011238 三重県宝塚1号墳出土品] - 国指定文化財等データベース([[文化庁]])
* [http://www.city.matsusaka.mie.jp/www/genre/0000000000000/1000000000725/index.html 松阪市文化財センター・はにわ館]
* [http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/daItemDetail?mngnum=730853&pageCur=6&pub_id=1 宝塚古墳]、[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/daItemDetail?mngnum=731022&pageCur=6&pub_id=1 三重県宝塚一号墳出土品] - 三重県教育委員会
* {{国指定文化財等データベース|401|1505|宝塚古墳}}
* [https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/takarazukakohun.html 宝塚古墳]、[https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/culture-info/takarazuka1gohunsyutsudohin.html 三重県宝塚1号墳出土品]、[https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/bunkazai-center/list266.html 宝塚古墳公園] - 松阪市ホームページ


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2017年11月25日 (土) 06:14時点における版

宝塚古墳の位置
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宝塚古墳(たからづかこふん)は、三重県松阪市宝塚町・光町にある古墳2基(宝塚1号墳・宝塚2号墳)の総称。宝塚古墳群を構成する古墳の2つ。国の史跡に指定され、1号墳の出土品は国の重要文化財に指定されている。

概要

三重県中部、松阪市街地から南方約3キロメートル阪内川右岸の低丘陵地(南北1キロメートル・東西1.25キロメートル)上に築造された古墳2基の総称である[1][2]。一帯では1号墳を盟主墳とする少なくとも88基の古墳が確認されており、これらは宝塚古墳群として認知されたが、1号墳・2号墳のほかに4号墳が現存する以外は戦中・戦後の開墾・宅地開発で消滅している[3]。「宝塚」の古墳名は、昭和初期の鈴木敏雄の分布調査における村人からの聞き取り調査による[4]。これまでに1998-2003年度(平成10-15年度)に松阪市教育委員会による発掘調査が実施されている[3]

1号墳・2号墳は、それぞれ当時の伊勢地方を代表する大型前方後円墳帆立貝形古墳で、古墳時代中期の5世紀初頭・5世紀前半頃の築造と推定され、相前後する首長墓に位置づけられる[5]。特に1号墳では多量の円筒埴輪の樹立が認められるとともに、出島状施設(造出の類型)の全面的発掘調査が実施されて多種多様な形象埴輪の製作も認められており、築造にはヤマト王権からの後援が想定される[5]。その背景として、ヤマト王権の外港と見られる近隣の古代港の的潟(まとかた)との関連が注目されており、同様の様相を示す古墳として三河湾沿岸部の正法寺古墳愛知県西尾市)も知られることから、これらの地が海上交通の拠点として王権から重要視された様子が示唆される[5]。出島状施設の調査によって当時の古墳祭祀が解明されたとともに、ヤマト王権による東国支配の進展を考察する上でも重要な要素を担う古墳になる[5]

1号墳・2号墳の古墳域は1932年(昭和7年)に国の史跡に指定されているほか[6]、1号墳の出土品は2006年(平成18年)に国の重要文化財に指定されている[7]。現在の古墳域は史跡整備の上で宝塚古墳公園として公開されている。

来歴

  • 昭和初期、鈴木敏雄による古墳分布調査。1号墳を含む古墳計88基の報告(『飯南郡花岡村考古誌考』)[1][3]
  • 1932年(昭和7年)4月25日、1号墳・2号墳の古墳域が国の史跡に指定[6][3]
  • 1970-1971年(昭和45-46年)、1号墳・2号墳の測量調査(三重大学歴史研究会原始古代史部会)。
  • 1978年(昭和53年)9月18日、史跡範囲の追加指定(2号墳が円墳でなく帆立貝形古墳と判明したため、前方部の指定地外部分を追加指定)[6]
  • 1998-2000年度(平成10-12年度)、1号墳の発掘調査(松阪市教育委員会)[8][3]
  • 2001-2003年度(平成13-15年度)、2号墳の発掘調査(松阪市教育委員会)[3]
  • 2005年(平成17年)4月27日、宝塚古墳公園開園[9]
  • 2006年(平成18年)6月9日、1号墳出土品が国の重要文化財に指定[7]

一覧

1号墳

宝塚1号墳

出島状施設(復元)から墳丘を望む
(右に後円部、左に前方部)
所在地 三重県松阪市宝塚町・光町
(宝塚古墳公園内)
位置 北緯34度32分59.12秒 東経136度30分55.03秒 / 北緯34.5497556度 東経136.5152861度 / 34.5497556; 136.5152861 (宝塚1号墳)座標: 北緯34度32分59.12秒 東経136度30分55.03秒 / 北緯34.5497556度 東経136.5152861度 / 34.5497556; 136.5152861 (宝塚1号墳)
形状 Template:前方後円墳
規模 墳丘長111m
高さ10m(後円部)
埋葬施設 (推定)粘土槨
出土品 埴輪276点、土器・土製品11点
築造時期 5世紀初頭
被葬者 (伝)乙加豆知命
特記事項 三重県第4位/伊勢地方第1位の規模
テンプレートを表示

宝塚1号墳は、宝塚古墳群の主墳。形状は前方後円墳1998-2000年度(平成10-12年度)に松阪市教育委員会による発掘調査が実施されている[8][3]

概要

墳形は前方後円形で、前方部を東方に向ける。墳丘は3段築成[3]。墳丘長は111メートルを測り、伊勢地方では最大、三重県では第4位の規模になる[3][注 1]。墳丘表面では葺石埴輪が検出されている[2]。墳丘北側には出島状施設(造出の類型)が付され、発掘調査ではその全面調査が実施されているが、特に多種多様な形象埴輪が出土した点が特筆される[3]。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかでない[3]

この宝塚1号墳は、古墳時代中期の5世紀初頭頃の築造と推定される。被葬者は明らかでないが、当地の豪族の飯高氏祖とされる乙加豆知命(おとかずちのみこと、『皇太神宮儀式帳』等に見える人物)に比定する伝承がある[10]。当時の伊勢地方では突出する規模・内容の古墳になるが、埴輪には在地的要素と外来的要素の併存が認められるため、被葬者像としてはヤマト王権から伊勢の支配を移譲された在地系有力者と想定される[5]。宝塚1号墳と同様の様相の古墳として、伊勢湾対岸における西三河最大の正法寺古墳愛知県西尾市、墳丘長90メートルの前方後円墳、5世紀前半)においても、3段築成の墳丘、やや短小な前方部、葺石、円筒埴輪・形象埴輪の本格的な採用、島状遺構が認められており、両古墳がヤマト王権による海路確保を背景として築造された様子が示唆される[5]

構造

古墳の規模は次の通り[3]

  • 墳丘長:111メートル
  • 後円部 - 3段築成。
    • 直径:75メートル
    • 高さ:10メートル(出島状施設裾から)
  • 前方部 - 3段築成。
    • 幅:66メートル
    • 高さ:8.1メートル(出島状施設裾から)

築造企画としては、1尋を154センチメートルとする小尋が基準尺として想定される[3]。墳丘1段目は北側のみで確認されているが、南側については当初から存在しなかったとする説と、後世の消失とする説が挙げられている[3]。前者の場合、墳丘北側には出島状施設も伴うことから、北面が正面観とされた可能性が指摘される[3]

埋葬施設

主体部の埋葬施設は、発掘調査が実施されていないため明らかでない。ただしレーザー探査によれば、後円部墳頂下1.2メートルにおいて、南北方向を主軸とする全長約7メートルの粘土槨の存在が推定される[3]

そのほか、前方部墳丘上では家形埴輪が出土しているが、この地点にも埋葬施設が存在した可能性が指摘される(類例に島の山古墳奈良県磯城郡川西町))[3]。また出島状施設の南西裾において、盾形埴輪を用いた埴輪棺と見られる埋納が認められている[3]。この埴輪棺は葺石を壊して設置されており、葺石施工時以降のものになる[3]

出島状施設

出島状施設
後円部から望む。右は主墳丘前方部。

主墳丘の北側では、付帯施設として出島状施設が認められる[3]。この出島状施設は造出の類型になる付帯祭祀施設とされるが、主墳丘に直接取り付く造出とは異なり、主墳丘から離れて位置し土橋で連結されるもので、類例としては巣山古墳(奈良県北葛城郡広陵町)が知られる[3]。宝塚1号墳の築造時点では既に造出・島状施設とも成立しており、出島状施設が採用された背景は必ずしも詳らかでないが、一説には文字通り島として海をイメージした可能性が指摘される[3]。この出島状施設については、これまでに全面的に発掘調査が実施されている[3]

発掘調査によれば、出島状施設はくびれ部前方部側から北方に位置し土橋で連結される[3]。2段築成で、1段目は東西18メートル・南北16メートル、上段は東西13メートル・南北10メートルを測り、上段は主墳丘の2段目に対応する[3]。施設上面については後世の削平のため築造当時の様相が明らかでないが、施設裾部については原位置を留める多数の埴輪が検出されている[3]。それによれば、出島状施設の東裾には導水施設型囲形埴輪・家形埴輪を中心とした一群、西裾には湧水施設型囲形埴輪2点を中心とした一群が配され、土橋の東西裾部には船形埴輪1点ずつが配されていた[3]。現在、この出島状施設は実物大で再現されている。

出土品

船形埴輪(1号船)
左が推定船首側、右が推定船尾側。

これまでの発掘調査で検出された出土品は次の通り。

  • 船形埴輪
    出島状施設と前方部をつなぐ土橋の東西両脇に1点ずつ(1号船・2号船)が配される。この船形埴輪の意味としては、被葬者の海上活動を表象する現実船説、被葬者の喪葬に伴う葬送船説がある[11]
    • 1号船
      宝塚1号墳の象徴的な埴輪で、土橋東裾に位置する。全長140センチメートル・高さ94メートルを測る大型船形埴輪で、長さの点では岡古墳大阪府藤井寺市)出土埴輪に次ぐ全国第2位、高さの点では全国最大の規模になる。この埴輪は、地中に埋めた楕円形台座2基の上に船体がはめ込まれて据えられていた。船体は準構造船で、船首・船尾は大きく反り返る。船首・船尾には鰭飾り、舷側板頂部には櫂を固定するピボット3対、内部には仕切り板として装飾隔壁4個がそれぞれ付される。船内器財類としては、推定船首側(土橋側)から装飾隔壁・大刀・装飾隔壁・石見型立物(鑓の表現か)・不明器物(円孔のみ)・石見型立物・装飾隔壁・蓋・装飾隔壁が並ぶ[11]
      東殿塚古墳奈良県天理市)出土埴輪の線刻では船首側に大刀、船尾側に蓋が描かれており、同様の古墳時代の習俗を示すとして注目される。また三重県尾鷲市の二木島祭(三重県指定無形民俗文化財、近年は中止)の関船では、船首側に薙刀、船尾側にカサブキ・鉾が載せられており、その習俗との対応を指摘する説もある[11]
    • 2号船
      土橋西裾に位置する。船体中央部の破片のみの検出で、円筒埴輪に詰め込まれた状態で発見されたが、この詰め込みは後世の造作とされる[11]
囲形埴輪(左:導水、右:湧水) 上段:外観 下段:内部(左:樋形土製品、右:井戸状土製品) 囲形埴輪(左:導水、右:湧水) 上段:外観 下段:内部(左:樋形土製品、右:井戸状土製品)
囲形埴輪(左:導水、右:湧水) 上段:外観 下段:内部(左:樋形土製品、右:井戸状土製品) 囲形埴輪(左:導水、右:湧水) 上段:外観 下段:内部(左:樋形土製品、右:井戸状土製品)
囲形埴輪(左:導水、右:湧水)
上段:外観
下段:内部(左:樋形土製品、右:井戸状土製品)
  • 囲形埴輪
    船形埴輪とともに宝塚1号墳を象徴する埴輪。出島状施設の東西両裾に導水施設型1点・湧水施設型2点の計3点が配される。南郷大東遺跡(奈良県御所市)で検出された導水施設や、伊勢神宮外宮伊勢市豊川町)の上御井神社下御井神社の社殿構成との対応が指摘される[11]
  • 壺形埴輪・円筒埴輪
    墳丘上で列状に配され、墳丘を囲繞する。これらは大量に検出され、1号墳以前の南伊勢の古墳とは一線を画する様相になる[11]
    壺形埴輪は、二重口縁壺形埴輪・鍔付壺形埴輪の2種。二重口縁壺形埴輪は全て出島状施設に樹立される。二重口縁壺形埴輪は在地的要素であり、鍔付壺形埴輪は大和・河内的要素(外来的要素)になる[11][5]
    円筒埴輪は、二条突帯三段構成・三条突帯四段構成の2種。二条突帯三段構成埴輪は鍔付壺形埴輪と組み合わされて使用され、三条突帯四段構成埴輪は単独で使用された。また円筒埴輪のごく一部には、5世紀前半の河内地域の特徴を有する高い技術レベルの埴輪が認められており、同地の工人が技術指導にあたった可能性が指摘される[11]
  • 家形埴輪
    出島状施設や前方部上に配される。多くは高床入母屋形式。一部には鰭飾、斗束、鰹木の表現も見られる[11]
  • 柱状埴輪(柵形埴輪/塀形埴輪)
    主墳丘・出島状施設に配される。2点1対で配され、門柱の表象と推定される[11]
  • 器財埴輪
    上記以外の器財埴輪として、盾形埴輪、靫形埴輪、甲冑形埴輪、蓋形埴輪、冠形埴輪、高坏形埴輪、鳥形埴輪が検出されている[11]
  • 土器・土製品
    土師質の土器・土製品として、前方部端部から胴部穿孔小型壺・S字甕片、出島状施設周辺からミニチュア鳥形土製品片(埴輪付属品か)・食物形土製品片、後円部墳頂からミニチュア高坏形土製品・笊形土製品が検出されている[11]

出土品の埴輪265点、土器・土製品11点の計276点は国の重要文化財に指定され、現在は松阪市文化財センター(はにわ館、松阪市外五曲町)で保管・展示されている。

宝塚1号墳 出土埴輪画像

いずれも松阪市文化財センター(はにわ館)展示。


2号墳

宝塚2号墳

墳丘全景(中央に後円部、右に前方部)
所在地 三重県松阪市宝塚町
(宝塚古墳公園内)
位置 北緯34度33分3.36秒 東経136度30分54.99秒 / 北緯34.5509333度 東経136.5152750度 / 34.5509333; 136.5152750 (宝塚2号墳)
形状 帆立貝形古墳
規模 墳丘長90m
高さ10.5m(後円部)
埋葬施設 不明
出土品 埴輪
築造時期 5世紀前半
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宝塚2号墳は、1号墳の北方に位置する。形状は帆立貝形古墳2001-2003年度(平成13-15年度)に松阪市教育委員会による発掘調査が実施されている[3]

概要

墳形は、前方部が短小な帆立貝形の前方後円形(または造出付き円墳)で、前方部を南南東方(1号墳の方角)に向ける[5]。墳丘は後円部が3段築成、前方部が2段築成で[5]、前方部の一部(東隅)は道路工事の際に削平されている[4]。墳丘表面では葺石埴輪が検出されている[2]。埴輪のうちでは1号墳で見られる壺形埴輪は無くなり、代わって朝顔形埴輪(壺形埴輪と円筒埴輪が一体化したもの)が使用される[4]。主体部の埋葬施設は未調査のため明らかでない[2]

この宝塚2号墳は、古墳時代中期の5世紀前半頃の築造と推定される[5]。築造時期・規模の点で1号墳の後代首長墓に位置づけられるが、この2号墳以降の伊勢地方首長墓は規模が大きく縮小する様相になる[5]

構造

古墳の規模は次の通り[5]

  • 墳丘長:約90メートル
  • 後円部 - 3段築成。
    • 直径:83メートル
    • 高さ:10.5メートル
  • 前方部 - 2段築成。
    • 長さ:17メートル
    • 幅:39-40メートル
    • 高さ:2.9メートル

1号墳と2号墳を比較した場合、墳形の点では帆立貝形(2号墳)は前方後円形(1号墳)より格下とされる[5]。一方で後円部直径・高さの点では2号墳の方が大きく、かつ築成の点では1号墳は地山主体であるのに対して2号墳は盛土主体であるため、築造の労力は1号墳に匹敵するとされる[5]

また築造企画としては、1号墳・2号墳には同じ基準尺の使用が推定され、立地的にも1号墳の地割の延長上に2号墳の地割が収まる点が指摘される[5]

その他

一帯では1号墳・2号墳のほかに4号墳が遺存するが、かつては88基の古墳があったとされる[3]。その中の1基は前方後円墳であったとされ、1号墳・2号墳と並び首長系譜上にあった可能性が指摘される[5]

文化財

重要文化財(国指定)

  • 三重県宝塚1号墳出土品 一括(考古資料) - 明細は以下。松阪市文化財センター保管。2006年(平成18年)6月9日指定[7]、2011年(平成23年)6月27日員数訂正[12][注 2]
    • 埴輪船 1点 - 造り出し出土。
    • 埴輪 119点 - 造り出し出土。
    • 埴輪 50点 - 墳丘出土。
    • (附指定)埴輪 95点 - 包含層出土。
    • (附指定)土器・土製品 11点 - 包含層出土。

国の史跡

  • 宝塚古墳 - 1932年(昭和7年)4月25日指定、1978年(昭和53年)9月18日に史跡範囲の追加指定[6]

関係施設

  • 松阪市文化財センター(はにわ館)(松阪市外五曲町) - 宝塚古墳出土品を保管・展示。

脚注

注釈

  1. ^ 三重県における主な古墳は次の通り。
    1. 御墓山古墳(伊賀市佐那具町) - 墳丘長188メートル。伊賀地方第1位。
    2. 馬塚古墳(名張市美旗町) - 墳丘長142メートル。美旗古墳群内、伊賀地方第2位。
    3. 石山古墳(伊賀市才良) - 墳丘長120メートル。伊賀地方第3位。
    4. 宝塚1号墳(松阪市宝塚町・光町) - 墳丘長111メートル。伊勢地方第1位。
    伊勢地方第2位の古墳は能褒野王塚古墳(亀山市田村町)で、墳丘長90メートルを測る。
  2. ^ 平成23年6月27日文部科学省告示第112号で、包含層出土の埴輪の点数を「90点」から「95点」に変更(追加指定ではなく、員数の訂正)。

出典

  1. ^ a b 宝塚古墳群(古墳) & 1989年.
  2. ^ a b c d 宝塚古墳(平凡社) & 1983年.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 穂積裕昌 & 2017年, pp. 34–57.
  4. ^ a b c 伊勢の王墓 宝塚古墳(松阪市ホームページ)。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 穂積裕昌 & 2017年, pp. 68–87.
  6. ^ a b c d 宝塚古墳 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  7. ^ a b c 三重県宝塚1号墳出土品 - 国指定文化財等データベース(文化庁
  8. ^ a b 宝塚古墳(平凡社、刊行後版) & 2006年.
  9. ^ 宝塚古墳へ行こう!!(松阪市ホームページ)。
  10. ^ 宝塚古墳〈三重県〉(国指定史跡).
  11. ^ a b c d e f g h i j k l 穂積裕昌 & 2017年, pp. 4–33.
  12. ^ 平成18年6月9日文部科学省告示第79号、平成23年6月27日文部科学省告示第112号。

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板
  • 宝塚古墳公園パンフレット(松阪市教育委員会)
  • 事典類
    • 「宝塚古墳」『日本歴史地名大系 24 三重県の地名』平凡社、1983年。ISBN 4582490247 
      • 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年
    • 下村登良男「宝塚古墳群」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
    • 下村登良男「宝塚1号墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991 
    • 宝塚古墳〈三重県〉」『国指定史跡ガイド』講談社  - リンクは朝日新聞社コトバンク」。
  • その他
    • 穂積裕昌『船形埴輪と古代の喪葬 -宝塚一号墳-(シリーズ「遺跡を学ぶ」117)』新泉社、2017年。ISBN 978-4787716378 

関連文献

(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 『三重県松阪市宝塚町・光町所在 史跡宝塚古墳 -保存整備事業に伴う宝塚1号墳・宝塚2号墳調査報告-(松阪市埋蔵文化財報告書 1)』松阪市教育委員会、2005年。 
  • 『史跡宝塚古墳保存整備報告書』松阪市教育委員会、2006年。 

関連項目

外部リンク