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== 概要 == |
== 概要 == |
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名港トリトンの3橋は[[名古屋港]](名港)の[[埋立地]]を東西に横断し、流通基地をはじめ工業地帯が点在する各[[埠頭|ふ頭]]間を連絡する使命の他に、名古屋港と周辺工業地帯の有機的連携を目的として架橋された{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=488 - 489}}。さらに、[[東名高速道路|東名]]、[[新東名高速道路|新東名]]と[[東名阪自動車道|東名阪]]、[[新名神高速道路|新名神]][[高速道路]]の短絡ルートを構成することから、東西主要都市間の直結ルートとしての役割も担っている<ref name="中日20041214">{{Cite news |date=2004-12-14 |title=豊田JCT - 豊田南が開通 伊勢湾岸道 |newspaper=中日新聞 朝刊 |page=22}}</ref>。さらに、[[中央自動車道]]、[[名古屋第二環状自動車道|名二環]]、[[東海環状自動車道]]、[[東海北陸自動車道]]とも連絡することで、名古屋港と関西、北陸、信越地方が自動車専用道路で結ばれることで、海上輸送と陸上輸送が一体となって国際物流を形成し、国内産業を下支えしている{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。 |
名港トリトンの3橋は[[名古屋港]](名港)の[[埋立地]]を東西に横断し、流通基地をはじめ工業地帯が点在する各[[埠頭|ふ頭]]間を連絡する使命の他に、名古屋港と周辺工業地帯の有機的連携を目的として架橋された{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|pp=488 - 489}}。さらに、[[東名高速道路|東名]]、[[新東名高速道路|新東名]]と[[東名阪自動車道|東名阪]]、[[新名神高速道路|新名神]]の各[[高速道路]]の短絡ルートを構成することから、東西主要都市間の直結ルートとしての役割も担っている<ref name="中日20041214">{{Cite news |date=2004-12-14 |title=豊田JCT - 豊田南が開通 伊勢湾岸道 |newspaper=中日新聞 朝刊 |page=22}}</ref>。さらに、[[中央自動車道]]、[[名古屋第二環状自動車道|名二環]]、[[東海環状自動車道]]、[[東海北陸自動車道]]とも連絡することで、名古屋港と関西、北陸、信越地方が自動車専用道路で結ばれることで、海上輸送と陸上輸送が一体となって国際物流を形成し、国内産業を下支えしている{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。 |
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[[File:Triton map 20170618.png|thumb|550px|left|高速道路ネットワークによって名古屋港と国内各地を直結し、輸送コスト削減、時間短縮効果をもたらしている。港の中を高規格幹線道路が横断するのは名古屋港のポテンシャルの高さのあらわれである{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。]] |
[[File:Triton map 20170618.png|thumb|550px|left|高速道路ネットワークによって名古屋港と国内各地を直結し、輸送コスト削減、時間短縮効果をもたらしている。港の中を高規格幹線道路が横断するのは名古屋港のポテンシャルの高さのあらわれである{{Sfn|名古屋港管理組合|2016|p=11}}。]] |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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[[File:Nagoya Ring Route No.2 20160818A.png|350px|thumb|right|名港トリトンを含む東海 - 飛島間は名古屋環状2号線の一部として構想された。のちに飽和状態の国道23号(名四国道)の海側にバイパスを造り、東名高速豊田と東名阪四日市を連絡するために第二名四国道が構想され、名四東IC - 飛島間で環状道路と並行することとされた。並行区間はのちに統合され往復6車線となった。路線名やインター名は計画当時の名称。]] |
[[File:Nagoya Ring Route No.2 20160818A.png|350px|thumb|right|名港トリトンを含む東海 - 飛島間は名古屋環状2号線の一部として構想された。のちに飽和状態の国道23号(名四国道)の海側にバイパスを造り、東名高速豊田と東名阪四日市を連絡するために第二名四国道が構想され、名四東IC - 飛島間で環状道路と並行することとされた。並行区間はのちに統合され往復6車線となった。路線名やインター名は計画当時の名称。]] |
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=== 名古屋環状2号線としての構想・計画 === |
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名港トリトンとその取り付け道路(東海IC - 飛島IC間)は[[名古屋環状2号線]]の海上区間であり、あくまで環状道路の一部分として構想された<ref name="朝日19980304"/>。その起源は1964年で、1975年を目標年次とする長期港湾整備計画の策定に端を発している<ref name="中日19640517">{{Cite news |title=管理組合が長期整備計画を発表 10年後に大名古屋港 貨物は年間9500万トン 商港の中心に13号地 |newspaper=中部日本新聞朝刊|date=1964-05-17|page=1}}</ref>。計画では名古屋市を取り巻く名古屋環状2号線と名古屋港を連絡する名目で、南と西のふ頭間のほぼ中央を大橋で連絡する構想が初めて示され、そのルートはほぼ現在の名港トリトンと一致している<ref name="中日19640517"/>。この横断ルートは名古屋環状2号線のルートに組み込まれたが{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|p=488}}、1967年3月の名古屋環状2号線(一部)の都市計画決定にあたって陸上区間は現行ルートに決定されたものの、海上横断ルートについては路線計画が進んでいないために計画から除外された{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=20}}。この時点では、海上区間は臨海工業地帯の適地を横断する、といった程度の構想に過ぎなかった{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=23}}。 |
名港トリトンとその取り付け道路(東海IC - 飛島IC間)は[[名古屋環状2号線]]の海上区間であり、あくまで環状道路の一部分として構想された<ref name="朝日19980304"/>。その起源は1964年で、1975年を目標年次とする長期港湾整備計画の策定に端を発している<ref name="中日19640517">{{Cite news |title=管理組合が長期整備計画を発表 10年後に大名古屋港 貨物は年間9500万トン 商港の中心に13号地 |newspaper=中部日本新聞朝刊|date=1964-05-17|page=1}}</ref>。計画では名古屋市を取り巻く名古屋環状2号線と名古屋港を連絡する名目で、南と西のふ頭間のほぼ中央を大橋で連絡する構想が初めて示され、そのルートはほぼ現在の名港トリトンと一致している<ref name="中日19640517"/>。この横断ルートは名古屋環状2号線のルートに組み込まれたが{{Sfn|名古屋港管理組合三十年史編集会議|1984|p=488}}、1967年3月の名古屋環状2号線(一部)の都市計画決定にあたって陸上区間は現行ルートに決定されたものの、海上横断ルートについては路線計画が進んでいないために計画から除外された{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=20}}。この時点では、海上区間は臨海工業地帯の適地を横断する、といった程度の構想に過ぎなかった{{Sfn|名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会|1967|p=23}}。 |
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やがては並行する国道23号と国道1号の慢性的な渋滞を緩和する意図から、海上区間を東西に延ばして<ref name="中日19780905"/>、東側は東名高速豊田JCT、西側は東名阪自動車道四日市JCTまでつなげることで、名実ともに国道23号線のバイパス(第二名四国道)とすることになった{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。この内、名古屋南JCT - 飛島IC間が環状道路と第二名四国道が重複し、当初は両道路を上下に並行して建設することとされ、環状道路が往復6車線、第二名四国道が往復4車線の合計10車線とされた{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。しかしながら、名古屋港通過箇所は橋の規模が大きくなり、建設費が3千数百億円と事業化の見通しが得られないことに加えて、交通量の将来予測が見込みよりも減少することが明らかとなった。このため、1976年には両道路を統合して、シングルデッキの往復6車線に変更した{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。この他にもトンネル構造から橋梁への変更、ゲルバートラス橋から斜張橋への変更を経て{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}1979年8月に海上区間の都市計画が決定を見た(名古屋環状2号線全線の都市計画決定){{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。なお、この時点の海上区間は一般有料道路としての規格であったが、1989年に第二名四国道が高速道路([[新東名高速道路|新東名]]・[[新名神高速道路]])に昇格したことを受けて{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=340 - 341}}<ref name="中日19890201">{{Cite news |title=第2東名・名神を優先建設 基本計画に昇格 審議会決定 |newspaper=中日新聞朝刊 |date=1989-02-01|page=1}}</ref>、重複する国道302号東海IC - 飛島IC間も高速道路規格の構造に変更され、橋梁の横幅も拡大されるに至った。橋梁は当初は設計速度80km/h規格であったが{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=4}}、この変更を受けて100 km/hとされた<ref name="中日19910427">{{Cite news |title=名古屋高速1号 2.8キロをトンネル化 都市計画変更の知事案を発表 場所により幅員拡大 伊勢湾岸道路 |newspaper=中日新聞朝刊 |date=1991-04-27|page=18}}</ref>。 |
やがては並行する国道23号と国道1号の慢性的な渋滞を緩和する意図から、海上区間を東西に延ばして<ref name="中日19780905"/>、東側は東名高速豊田JCT、西側は東名阪自動車道四日市JCTまでつなげることで、名実ともに国道23号線のバイパス(第二名四国道)とすることになった{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。この内、名古屋南JCT - 飛島IC間が環状道路と第二名四国道が重複し、当初は両道路を上下に並行して建設することとされ、環状道路が往復6車線、第二名四国道が往復4車線の合計10車線とされた{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。しかしながら、名古屋港通過箇所は橋の規模が大きくなり、建設費が3千数百億円と事業化の見通しが得られないことに加えて、交通量の将来予測が見込みよりも減少することが明らかとなった。このため、1976年には両道路を統合して、シングルデッキの往復6車線に変更した{{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所|1989|pp=300 - 301}}。この他にもトンネル構造から橋梁への変更、ゲルバートラス橋から斜張橋への変更を経て{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|pp=3 - 5}}1979年8月に海上区間の都市計画が決定を見た(名古屋環状2号線全線の都市計画決定){{Sfn|建設省中部地方建設局 名四国道工事事務所 |1989|p=301}}。なお、この時点の海上区間は一般有料道路としての規格であったが、1989年に第二名四国道が高速道路([[新東名高速道路|新東名]]・[[新名神高速道路]])に昇格したことを受けて{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|pp=340 - 341}}<ref name="中日19890201">{{Cite news |title=第2東名・名神を優先建設 基本計画に昇格 審議会決定 |newspaper=中日新聞朝刊 |date=1989-02-01|page=1}}</ref>、重複する国道302号東海IC - 飛島IC間も高速道路規格の構造に変更され、橋梁の横幅も拡大されるに至った。橋梁は当初は設計速度80km/h規格であったが{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=4}}、この変更を受けて100 km/hとされた<ref name="中日19910427">{{Cite news |title=名古屋高速1号 2.8キロをトンネル化 都市計画変更の知事案を発表 場所により幅員拡大 伊勢湾岸道路 |newspaper=中日新聞朝刊 |date=1991-04-27|page=18}}</ref>。 |
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=== 西大橋が先行開通 === |
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[[File:Meiko West Bridge 20170617G.jpg|thumb|250px|left|名港西大橋は当初は右側の橋のみ建設された。1998年3月までは西大橋のみの開通のため、時間短縮効果のメリットはなく、港湾物流関係者にとっては無用の長物であった<ref name="中日19860429"/>。]] |
[[File:Meiko West Bridge 20170617G.jpg|thumb|250px|left|名港西大橋は当初は右側の橋のみ建設された。1998年3月までは西大橋のみの開通のため、時間短縮効果のメリットはなく、港湾物流関係者にとっては無用の長物であった<ref name="中日19860429"/>。]] |
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1985年3月20日、3橋の先陣を切って名港西大橋(北側・現在の上り線)が暫定往復2車線にて、有料道路「名港西大橋」(路線名は一般国道302号)として供用開始された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}。この時は金城ふ頭側に料金所が設置された<ref name="中日19850320夕">{{Cite news |title=輸入博 舞台は出来た 名港西大橋 待望の開通 世界最長の斜張橋 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1985-03-20|page=1}}</ref>。なお、その翌日より金城ふ頭で開催された「輸入博」(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ)は西大橋開通に合わせたイベントとして企画された<ref name="中日19850320夕"/>。開通当初の西大橋の利用台数は1日平均1,700台で、事業主体の日本道路公団の当初予測たる8,900台を大幅に下回った(ただし通行量は年々1割程度の上昇を見せた<ref name="朝日19930528"/>)<ref name="中日19860429">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 上 点から線へ 全線整備への第一歩 採算ワーストワン |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-04-29|page=1}}</ref>。事業費185億円{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=8}}に対して全くの赤字経営で、[[会計検査院]]による調査が入るなど、投資対効果の点で疑問が付された<ref name="中日19860429"/>。地元経済界の強い要請で先行建設された割には、蓋を開けてみれば、西大橋の主要な収入源と目論んでいた港湾物流業界から全く見放された格好であった。開通当初の西大橋の通行料金は西二区(現・木場金岡ふ頭) - 金城ふ頭間3.2 kmの通行で片道1,400円([[特定大型車]])であったが、そもそも高額な通行料金を支払ってまで利用する大きな理由は、行きたい場所に短時間でアクセスできるからである。ひるがえって当時の西大橋は、それ自体で道路が完結しているため、四日市方面や北陸、静岡方面にアクセスするには、西大橋を渡ってから国道23号や国道1号に出なければならなず、広域アクセスする業務交通にとって西大橋を利用した場合の時間距離短縮効果は皆無に等しかった<ref name="中日19860429"/>。それならば、わざわざ西大橋を使わずとも最初から国道23号および国道1号を使った方が経費節約となるため、西大橋は港湾業界から全く見向きもされない状況に陥ることになった<ref name="中日19860429"/>。当時の西大橋は行楽客主体の利用で、伊勢湾に沈む夕日を見るための隠れたスポットであって、増収に結びつかないこれらの利用方法は公団関係者にとって頭痛の種であった<ref name="中日19860429"/>。なお、この状況を打開するべく、公団は港湾物流の利用促進を狙って業界に回数券を売り込んだが、冷たくあしらわれるだけだった<ref name="中日19860429"/>。 |
1985年3月20日、3橋の先陣を切って名港西大橋(北側・現在の上り線)が暫定往復2車線にて、有料道路「名港西大橋」(路線名は一般国道302号)として供用開始された{{Sfn|名港西大橋編集委員会|1986|p=7}}。この時は金城ふ頭側に料金所が設置された<ref name="中日19850320夕">{{Cite news |title=輸入博 舞台は出来た 名港西大橋 待望の開通 世界最長の斜張橋 |newspaper=中日新聞夕刊|date=1985-03-20|page=1}}</ref>。なお、その翌日より金城ふ頭で開催された「輸入博」(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ)は西大橋開通に合わせたイベントとして企画された<ref name="中日19850320夕"/>。開通当初の西大橋の利用台数は1日平均1,700台で、事業主体の日本道路公団の当初予測たる8,900台を大幅に下回った(ただし通行量は年々1割程度の上昇を見せた<ref name="朝日19930528"/>)<ref name="中日19860429">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 上 点から線へ 全線整備への第一歩 採算ワーストワン |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-04-29|page=1}}</ref>。事業費185億円{{Sfn|名港西大橋編集委員会(写真集)|1985|p=8}}に対して全くの赤字経営で、[[会計検査院]]による調査が入るなど、投資対効果の点で疑問が付された<ref name="中日19860429"/>。地元経済界の強い要請で先行建設された割には、蓋を開けてみれば、西大橋の主要な収入源と目論んでいた港湾物流業界から全く見放された格好であった。開通当初の西大橋の通行料金は西二区(現・木場金岡ふ頭) - 金城ふ頭間3.2 kmの通行で片道1,400円([[特定大型車]])であったが、そもそも高額な通行料金を支払ってまで利用する大きな理由は、行きたい場所に短時間でアクセスできるからである。ひるがえって当時の西大橋は、それ自体で道路が完結しているため、四日市方面や北陸、静岡方面にアクセスするには、西大橋を渡ってから国道23号や国道1号に出なければならなず、広域アクセスする業務交通にとって西大橋を利用した場合の時間距離短縮効果は皆無に等しかった<ref name="中日19860429"/>。それならば、わざわざ西大橋を使わずとも最初から国道23号および国道1号を使った方が経費節約となるため、西大橋は港湾業界から全く見向きもされない状況に陥ることになった<ref name="中日19860429"/>。当時の西大橋は行楽客主体の利用で、伊勢湾に沈む夕日を見るための隠れたスポットであって、増収に結びつかないこれらの利用方法は公団関係者にとって頭痛の種であった<ref name="中日19860429"/>。なお、この状況を打開するべく、公団は港湾物流の利用促進を狙って業界に回数券を売り込んだが、冷たくあしらわれるだけだった<ref name="中日19860429"/>。 |
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西大橋の低調さをさらに印象付ける出来事として、通行量が少ないことをいいことに<ref name="朝日19920218夕"/>、港の夜景を眺めるためにカップルが大挙して西大橋に押し寄せ、路肩に駐車のうえ、週末にはその列が1kmに及ぶこともあった<ref name="朝日19930528"/><ref name="朝日19920709">{{Cite news |title=名港西大橋 夜景見物の困った名所(えんぴつ最前線) |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1992-07-09|page=25}}</ref>。当時は往復2車線で中央分離帯もなかったことから、料金所の無い飛島側から西大橋に入り、夜景をみてからUターンして料金を払わずに退出する者が続出した<ref name="朝日19920709"/>。カップルが去った後には多数の落書きとごみが残され、職員がそれを片付けるのが仕事の一つであった<ref name="朝日19920709"/>。その翌年には退散を促すスピーカーを設置しているが、これは付近に民家が無いことを逆手に取った対策であった<ref name="朝日19930528">{{Cite news |title=スピーカーで夜景目当ての違法駐車を一掃 名港西大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1993-05-28|page=27}}</ref>。 |
西大橋の低調さをさらに印象付ける出来事として、通行量が少ないことをいいことに<ref name="朝日19920218夕"/>、港の夜景を眺めるためにカップルが大挙して西大橋に押し寄せ、路肩に駐車のうえ、週末にはその列が1kmに及ぶこともあった<ref name="朝日19930528"/><ref name="朝日19920709">{{Cite news |title=名港西大橋 夜景見物の困った名所(えんぴつ最前線) |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1992-07-09|page=25}}</ref>。当時は往復2車線で中央分離帯もなかったことから、料金所の無い飛島側から西大橋に入り、夜景をみてからUターンして料金を払わずに退出する者が続出した<ref name="朝日19920709"/>。カップルが去った後には多数の落書きとごみが残され、職員がそれを片付けるのが仕事の一つであった<ref name="朝日19920709"/>。その翌年には退散を促すスピーカーを設置しているが、これは付近に民家が無いことを逆手に取った対策であった<ref name="朝日19930528">{{Cite news |title=スピーカーで夜景目当ての違法駐車を一掃 名港西大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1993-05-28|page=27}}</ref>。 |
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=== 伊勢湾岸道と接続し交通量が増大 === |
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名港トリトンはあくまでその前後を高速道路で直結のうえ、東名高速と東名阪自動車道を連絡してこそ、その真価を発揮できるのであって<ref name="中日19860429"/>、実際、1998年3月の3橋のグランドオープンおよび名古屋南IC - 東海IC間が供用開始した後も依然として赤字経営であった<ref name="朝日20000809">{{Cite news |title=一般有料道、26道路赤字 道路公団営業文を監察 |newspaper=朝日新聞朝刊|date=2000-08-09|page=2}}</ref>。しかし、1986年時点における逆風のさなかにあっても、建設省は3橋を境にして[[名古屋南インターチェンジ|名古屋南IC]]直結(すなわち国道23号に連結)で1日交通量約2万台、続く[[みえ川越インターチェンジ|みえ川越IC]]までの開通(同様に国道23号に連結)で約4万台、そして最終的に東名高速と東名阪 |
名港トリトンはあくまでその前後を高速道路で直結のうえ、東名高速と東名阪自動車道を連絡してこそ、その真価を発揮できるのであって<ref name="中日19860429"/>、実際、1998年3月の3橋のグランドオープンおよび名古屋南IC - 東海IC間が供用開始した後も依然として赤字経営であった<ref name="朝日20000809">{{Cite news |title=一般有料道、26道路赤字 道路公団営業文を監察 |newspaper=朝日新聞朝刊|date=2000-08-09|page=2}}</ref>。しかし、1986年時点における逆風のさなかにあっても、建設省は3橋を境にして[[名古屋南インターチェンジ|名古屋南IC]]直結(すなわち国道23号に連結)で1日交通量約2万台、続く[[みえ川越インターチェンジ|みえ川越IC]]までの開通(同様に国道23号に連結)で約4万台、そして最終的に東名高速と東名阪道の連結で約6万台と強気の予想通行量を算出した<ref name="中日19860501">{{Cite news |title=新動脈への期待 伊勢湾岸道路 民活の条件 採算性の裏付けを |newspaper=中日新聞朝刊|date=1986-05-01|page=5}}</ref>。結果として、3大橋のグランドオープンを含む名古屋南IC - 名港中央ICの開通以降は利用台数が大きく増加し始め、2003年のみえ川越IC連結による国道23号のバイパスルート完成によって25000台に増加{{Sfn|日本道路公団中部支社|1998|p=38}}、その後も増加傾向は続き、2013年には93000台を記録した。このことは、高速道路とは一定のネットワークを形成して初めてその真価を発揮することを示し{{Sfn|名古屋高速道路公社20年史編集委員会|1991|pp=100 - 101}}、その中間部分(名古屋港の横断部分)だけを構築してもほとんど意味を成さないことを名港トリトンの歴史は如実に示している。 |
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{{wide image|トリトン日平均交通量.png|1000px|1985年 - 1997年までのデータは名港西大橋の平均利用台数。<small>出典:『高速道路と自動車』公益財団法人高速道路調査会、vol.28 - vol.56までの毎年7月号「一般有料道路統計月報」</small>}} |
{{wide image|トリトン日平均交通量.png|1000px|1985年 - 1997年までのデータは名港西大橋の平均利用台数。<small>出典:『高速道路と自動車』公益財団法人高速道路調査会、vol.28 - vol.56までの毎年7月号「一般有料道路統計月報」</small>}} |
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** [[3月22日]] : 大府IC - 名港中央IC間で「夢ロードわくわくフェスタ」を挙行。徒歩で3万人が渡り初め<ref name="中日19980208">{{Cite news |title=名港3大橋 3万人が"渡り初め" |newspaper=中日新聞朝刊|date=1998-03-23|page=1}}</ref>。 |
** [[3月22日]] : 大府IC - 名港中央IC間で「夢ロードわくわくフェスタ」を挙行。徒歩で3万人が渡り初め<ref name="中日19980208">{{Cite news |title=名港3大橋 3万人が"渡り初め" |newspaper=中日新聞朝刊|date=1998-03-23|page=1}}</ref>。 |
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** [[3月30日]] : 東海IC - 名港中央IC(名港東大橋、名港中央大橋)が15時開通<ref name="朝日19980330夕"/>。併せて名港西大橋の二期線(南側の橋)が供用され、一期線も3車線化された<ref name="朝日19980330夕"/>。 |
** [[3月30日]] : 東海IC - 名港中央IC(名港東大橋、名港中央大橋)が15時開通<ref name="朝日19980330夕"/>。併せて名港西大橋の二期線(南側の橋)が供用され、一期線も3車線化された<ref name="朝日19980330夕"/>。 |
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{{-}} |
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== 通行料金 == |
== 通行料金 == |
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名港トリトン(伊勢湾岸道路)は一般国道302号であるが、東海IC - 飛島IC間は有料区間であるため、通行料金が発生する。 |
名港トリトン(伊勢湾岸道路)は一般国道302号であるが、東海IC - 飛島IC間は有料区間であるため、通行料金が発生する。 |
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== ライトアップ == |
== ライトアップ == |
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[[File: Meiko Central Bridge 20170704A.jpg|thumb|250px|right|中央大橋の夏のライティング。テーマカラーはブルー。]] |
[[File: Meiko Central Bridge 20170704A.jpg|thumb|250px|right|中央大橋の夏のライティング。テーマカラーはブルー。]] |
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3橋は夜間の一部時間帯にライトアップを実施している。この内、中央大橋のみ季節ごとにライティングカラーを変えるため、848個の水銀灯を取り付けている<ref name="朝日19961218">{{Cite news |title=4色の彩り、主塔に点灯 名古屋港の中央大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1996-12-18|page=25}}</ref>。ライティングのテーマカラーは、春がグリーン(若葉のイメージ)、夏がブルー(海と空のイメージ)、秋がグリーンイエロー(紅葉のイメージ)、冬がレッド(炎のイメージ)である。点灯時間は当初 |
3橋は夜間の一部時間帯にライトアップを実施している。この内、中央大橋のみ季節ごとにライティングカラーを変えるため、848個の水銀灯を取り付けている<ref name="朝日19961218">{{Cite news |title=4色の彩り、主塔に点灯 名古屋港の中央大橋 |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1996-12-18|page=25}}</ref>。ライティングのテーマカラーは、春がグリーン(若葉のイメージ)、夏がブルー(海と空のイメージ)、秋がグリーンイエロー(紅葉のイメージ)、冬がレッド(炎のイメージ)である。点灯時間は、当初から日没に合わせて開始時間を変えており<ref name="朝日19980331">{{Cite news |title=春宵に浮かぶ、名港トリトン |newspaper=朝日新聞(名古屋)朝刊|date=1998-03-31|page=29}}</ref>、現在も月によって18時から22時と19時から22時の2通りで点灯されている<ref name="ライティング">{{Cite web|url=http://www.port-of-nagoya.jp/triton/index.html|title=名港トリトンのライトアップ |publisher=名古屋港管理組合|accessdate=2017-06-20|language=日本語}}</ref>。また、クリスマスや年末年始、ゴールデンウィークには特別点灯が実施される<ref name="ライティング"/>。 |
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ライトアップは地元負担とされ、ライティング用機材6億円は[[名古屋港管理組合]]が負担し、電気代も同組合が負担している<ref name="中日19950316">{{Cite news |title=名港三大橋をライトアップ 管理組合 建設費6億円計上|newspaper=中日新聞朝刊|date=1995-03-16|page=14}}</ref>{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=344}}。日本道路公団(現、NEXCO中日本)は高額な斜張橋の建設費が通行料金に跳ね返っていることからライティング費用の負担については消極的である<ref name="中日19941124"/>。 |
ライトアップは地元負担とされ、ライティング用機材6億円は[[名古屋港管理組合]]が負担し、電気代も同組合が負担している<ref name="中日19950316">{{Cite news |title=名港三大橋をライトアップ 管理組合 建設費6億円計上|newspaper=中日新聞朝刊|date=1995-03-16|page=14}}</ref>{{Sfn|名古屋港開港百年史編さん委員会|2008|p=344}}。日本道路公団(現、NEXCO中日本)は高額な斜張橋の建設費が通行料金に跳ね返っていることからライティング費用の負担については消極的である<ref name="中日19941124"/>。 |
2017年8月11日 (金) 10:36時点における版
名港トリトン | |
---|---|
名港中央大橋 | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 飛島村・名古屋市・東海市 |
交差物件 | 名古屋港 |
用途 | 道路橋 |
路線名 | 国道302号(伊勢湾岸道路) |
管理者 | 中日本高速道路 |
建設 | 1980年4月[1] - 1998年3月30日[2] |
座標 | 北緯35度03分05秒 東経136度50分02秒 / 北緯35.05139度 東経136.83389度座標: 北緯35度03分05秒 東経136度50分02秒 / 北緯35.05139度 東経136.83389度 |
構造諸元 | |
形式 | 3径間連続斜張橋[3] |
全長 |
2,628 m(3橋合計)[4] 6,100 m(全長:東海IC - 飛島IC)[4] |
幅 | 30 m(名港中央大橋)[5] |
高さ | 195 m(名港中央大橋主塔)[3] |
最大支間長 | 590 m(名港中央大橋)[3] |
地図 | |
名港トリトンの位置 | |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
名港トリトン(めいこうトリトン)とは、伊勢湾岸自動車道のうち、伊勢湾岸道路(国道302号の愛知県東海市 - 海部郡飛島村間)の東海ICから飛島ICの間にある、3つの斜張橋(名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋)の愛称である[6]。
名港トリトンとその前後の取り付け区間は、高速道路として供用される以前より、一般有料道路「名港西大橋」として先行供用された経緯から[7]、東海IC - 飛島IC間の全線が高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路となっている[8]。
本項では、3橋とその取り付け道路を含む東海IC(西側出入口) - 飛島IC(東側出入口)間をまとめて解説する。
概要
名港トリトンの3橋は名古屋港(名港)の埋立地を東西に横断し、流通基地をはじめ工業地帯が点在する各ふ頭間を連絡する使命の他に、名古屋港と周辺工業地帯の有機的連携を目的として架橋された[9]。さらに、東名、新東名と東名阪、新名神の各高速道路の短絡ルートを構成することから、東西主要都市間の直結ルートとしての役割も担っている[10]。さらに、中央自動車道、名二環、東海環状自動車道、東海北陸自動車道とも連絡することで、名古屋港と関西、北陸、信越地方が自動車専用道路で結ばれることで、海上輸送と陸上輸送が一体となって国際物流を形成し、国内産業を下支えしている[11]。
名古屋港は資源および工業材料や衣類などを海外から輸入するほか、輸入した原材料を国内工場で加工、製品化して海外へ輸出するための貿易港である[12]。名古屋港の特色はこうした貿易港としての機能のみならず、港と中部圏の各工場間の道路ネットワークが完備されている点にある[11]。海外から輸入した製品、原材料を中部圏の各工場に輸送する際、それが交通渋滞に巻き込まれて製品調達が滞るようでは企業の生産活動に深刻な影響をもたらしかねない[13]。したがって港と道路の連携が確実な輸送、コストの面からとりわけ重要な要素となるが、名古屋港の場合は港を高規格幹線道路(高速道路)が貫いており、信号待機による渋滞の心配が無用な高速道路の輸送は、輸送コスト削減と調達時間短縮を実現して効率的な生産、加工を可能としている[13]。名港トリトンにはマイカー利用のみならず、こうした国内産業を支える物流ルートとしての重要な側面がある。なお、港の中を高規格幹線道路が貫いているのは日本国内では名古屋港のみとされ、日本の中央部に位置するロケーション[注釈 1]と共に交通インフラの優位性をいかんなく発揮している[11]。
1985年(昭和60年)3月、名港西大橋が暫定2車線対面通行により単体で供用開始された(後に伊勢湾岸道の豊田方面行き車線、片側3車線として供用)[15]。1998年(平成10年)3月には伊勢湾岸道の開通に伴い、名港中央大橋(片側3車線ずつ計6車線)と名港東大橋(片側3車線ずつ計6車線)および名港西大橋(四日市方面行き片側3車線)がそれぞれ開通した[16]。これに伴い、地域のシンボルとしてより親しみをもってもらうべく3つの斜張橋に愛称を付与することになり、一般公募で約2万通の応募がなされた。選考委員会の審査によって6作品(ポートプリズム、名古屋マリンゲートブリッジ、名港ウィングス、名港スリーハープ、名港トリトン、名港三彩大橋)が選ばれ、これを2作品(名港ウィングス、名港トリトン)に絞り込んだうえで決選投票を行い「名港トリトン」が選ばれた[17]。トリトン(Triton)とは、ギリシャ神話の海神ポセイドンとアンピトリテの間に生まれ、緑色の髪とひげをはやしたイルカの尾を持つ半人半魚の王子で、トライデントとほら貝を手にしながら難破した船を救うために荒波を鎮めた海の守護神である[17]。海神であることからのふさわしさと共に、「トリ」が「3つ」を意味する「tri-」に通じることから、3橋になぞらえる意味でこの愛称が採用された[18][19][20]。
3橋は西側(飛島IC側)から、名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋の順に架橋されている。架橋されているふ頭と自治体は、木場金岡ふ頭(海部郡飛島村)、金城ふ頭(名古屋市港区)、潮見ふ頭(名古屋市港区)、新宝ふ頭(東海市新宝町)である[21]。名港西大橋が木場金岡ふ頭 - 金城ふ頭間、名港中央大橋が金城ふ頭 - 潮見ふ頭間、名港東大橋が潮見ふ頭 - 新宝ふ頭間にそれぞれ架橋されている。3橋は連続して架橋されていることから、名港トリトン進入の際に、A形の主塔が8つ居並ぶ光景を見ることが出来る[19]。3橋は貿易港たる名古屋港のゲートに位置し、フェリー、タンカー、貨物船など[22]、一日に約90隻の船が橋の下を通過する[23]。なお、名港トリトンは自動車専用道路に架かる橋梁であることから、徒歩で横断するための橋ではない。よって港を展望するための遊歩道のたぐいは一切設置されていない[24]。
建設は主として日本道路公団(前後の取り付け道路は主として建設省)が担当した[25][26]。運営者はNEXCO中日本(当初は日本道路公団[27])である。
名港トリトンとその取り付け道路の内、金城ふ頭 - 東海IC間の事業費は1,500億円で[注釈 2]、この内の500億円については日本道路公団が発行する低利縁故債を地元が引き受けている[26]。当該区間の建設によって恩恵を受ける地元経済界に対し、応分の負担を求めるとの国の方針から、財界も協力することになったためである[28]。
名港トリトンを含む東海IC - 飛島IC間6.1 kmは国道302号の一般有料道路(伊勢湾岸道路、自動車専用道路)である[29]。当該区間の1 km換算の通行料金は、その他の区間と比較して高めに設定されている。理由は、斜張橋に関わる工事費が高速道路平均の10倍以上を要し、工事費償還のために割高としているためである[7]。現状、東海IC - 飛島IC間が普通車870円で、これを伊勢湾岸自動車道弥富木曽岬IC - 湾岸桑名IC間(6.5 km)330円と比較しても2倍強の料金設定となっている[30](通行料金については後述)。なお、伊勢湾岸自動車道と名港トリトンを含む一般有料区間(伊勢湾岸道路)の連続利用に関しては、一本の道路のようにそのまま通過できるが、境界となる飛島ICと東海IC付近には「ここから高速道路」「ここから一般有料道路」の案内標識が設置され、境界が視覚化されると共に、高速道路に準じた規制が設けられている[7](詳細は伊勢湾岸自動車道#概要を参照)。これに関連して、当該区間には最低速度が設定され、このため時速50 km以下で走行することは禁じられている[7]。また、名港トリトンを含む伊勢湾岸道路には4つのインターチェンジ(東海IC、名港潮見IC、名港中央IC、飛島IC)が設けられている。各インターは名古屋港に点在する物流拠点や石油化学工場、鉄鋼生産基地付近に敷設され、工業色が濃厚なICとなっている。
名港トリトンを含む一般有料道路・伊勢湾岸道路(東海IC - 飛島IC間)の路線データは以下の内容である。なお、この区間は高速自動車国道の路線を指定する政令によって[31]東海IC - 名港中央IC間[8]が第二東海自動車道横浜名古屋線、名港中央IC[8] - 飛島IC間が近畿自動車道名古屋神戸線に指定されている。
路線データ
- 有料道路名 : 伊勢湾岸道路[32]
- 路線名 : 一般国道302号[32]
- 主な経由地 : 海部郡飛島村、名古屋市港区、東海市[32]
- 道路区分 : 第1種第2級[32]
- 車線数 : 6車線(片側3車線)[32]
- 設計速度 : 100 km/h[32]
構想
構想段階では海底トンネル式および橋梁式とトンネル式両方の組み合わせも考案された。しかし、トンネル式では建設費が高く、換気や道路照明に要する費用も高額であることから採算性が劣るとされた[36]。また高潮による浸水被害が心配され、車両火災等のリスクも懸念された。さらに、海底から20 mという長い距離で泥土層が存在することで、トンネル構造物を支えきれないとされた[35]。そして海底トンネルであるために、危険物積載車輛の通行制限がかかることは、当該区間の利用交通がタンクローリー等の港湾業務に従事する車であることを考えた場合、利用実態にそぐわないことからトンネル方式は破棄された[35]。また橋との複合案も、トンネルと橋の移行区間で掘割となることで工業地帯の分断が生じ、急勾配(4.2 %)となることで走行性が劣ることから、こちらも破棄された。なお、複合案における移行区間は金城ふ頭が該当し、西大橋が橋梁式、ほかはトンネル式であった[36]。
この点、全てが橋であれば、船舶追突防止対策のほか、場所によっては船舶の航路制限がかかるにしても、土地利用上の問題が少なく、美観的に好ましいことや港のランドマークともなりえることから、橋梁案が採用された[36]。ただし、橋梁案は船舶関係者からは安全面で憂慮されたことから、海難事故防止策として橋桁の最高潮位面高さを十分に取ることのほかに、海中の橋脚に防護柵を設置するなどの対策を講じることになった[37]。当初は橋脚で支えるゲルバートラス橋で構想されたが、大型船の通過に橋脚が障害となることから、吊り橋式と斜張橋式に変更された[22]。
橋梁案決定後、中央大橋建設区域の地盤に問題があることが判った。中央大橋は当初は水域内に主塔が1本のみで計画され(もう1本は9号地に近接設置[38])、これは船舶の航行条件による制約であった[39]。このため橋長1,560 m、中央径間780 mと規模が大きいために吊り橋式で計画された。吊り橋式はケーブルの張力を得るためにアンカーブロックとケーブルを連結させる必要があるが、当該区域にはアンカーブロックを支える支持岩盤が存在せず、これによるクリープ[注釈 3]が特に懸念された[40]。そして中央径間が長すぎることは事業費が多額で、9号地(現・潮見ふ頭)に計画されているインターが片方向しか造れないという問題もあった[39]。そこでやむを得ず中央径間を縮小することになり、航路の変更について海事関係者と協議した結果、了解を得た。これによって主塔は水域内に2本設置することが可能となり、併せて橋長が1,170 mに短縮された。この時も吊り橋案は生きていたが、最終的に工期や経済性に優れる現行の斜張橋式に変更された[39]。また、港湾を出入する船舶の支障なきよう、桁下空間を確保する意図から橋の中央部については海面から47 mの空間を確保した[41]。
3橋の建設優先順位を決めるにあたり、コンテナ基地および流通基地を控えることによる港湾交通需要の高さ、および地元経済界から早期の建設を要望された経緯から[42]、木場金岡ふ頭と金城ふ頭を結ぶ名港西大橋が3橋の先陣を切って建設されることになった[43]。建設に当たっては、第一期と第二期に分けることになり[44]、第一期として北側(現・上り線)の橋のみが建設され、暫定往復2車線として1985年3月に供用開始した[26]。独立2橋並列とされたのは、第一期と第二期として分離施工するうえで施工プロセスおよび経済性に問題がなかったためである[45]。一方で、名港東大橋並に幅広の主塔を構築して、その中心部に暫定的に細幅の道路を載せて第一期線とする案もあったが、ケーブルを全完成時点の仕様で張ることから、つり合い荷重を必要とし、第二期線の建設(道路を左右に拡幅する)が大変困難になることで破棄された[45]。一方で、上下に道路を構築する案もあったが、一期線建設時点で約90 %の建設費を要することから、こちらも破棄された[45]。
名港西大橋および残り2橋の以上に見る構想および調査は進展したものの、実際の着工は西大橋のみで、残りは着工の目途さえ立たなかった。しかしながら、西大橋単独の開通では港湾物流は全く機能せず、投資対効果でも劣悪であり、この状況を一刻も早く脱するためには残り2橋を含む豊田 - 四日市間の全線早期開通が望ましいことから、地元の要請を受けた国は建設に向けて重い腰を上げることになった[47]。ただし、財政難であることから国は早期着工の条件として地元経済界にも応分の負担を求めることになった。具体的には、日本道路公団が発行する公団債を地元経済界が低利で引き受けるという内容で[48]、国からは無利子金投入、民間からは低利の資金を投入することで建設に弾みを付けて内需拡大につなげるという、当時の内閣総理大臣、中曽根康弘の肝いりの政策であった[49]。これによって停滞していた残り2橋も1986年3月には政府自民党によって計画推進が決定した[49]。なお、縁故債の利率は平均6.149 %以下(10年満期)の低利で、本四連絡橋公団が明石海峡大橋建設で関西の各財界に提示した利率と同様である[50]。
構造
3橋の諸元
名港西大橋
- 橋長:758 m[6]
- 形式 : 鋼3径間連続斜張橋[25]
- 中央径間:405 m[6]
- 桁下:38 m[25]
- 主桁 : 箱型[51]
- ケーブル : ファン型(2面12段マルチケーブル)[52]
- 基礎 : ニューマチックケーソン基礎[25]
名港中央大橋
- 橋長:1,170 m[53]
- 形式 : 鋼3径間連続斜張橋
- 中央径間:590 m[53]
- 桁下:47 m[6]
- 主桁 : 多室箱型[53]
- ケーブル : ファン型(2面17段マルチケーブル)[53]
- 基礎 : ニューマチックケーソン基礎[54]
名港東大橋
- 橋長:700 m[2]
- 形式 : 鋼3径間連続斜張橋[55]
- 中央径間:410 m[55]
- 桁下:40 m
- 主桁 : 多室箱型[55]
- ケーブル : ファン型(2面12段マルチケーブル)[55]
- 基礎 : ニューマチックケーソン基礎[3]
下部工(基礎)
海上に姿を見せる主塔を海面下で支えるのが下部工(基礎)で、その深さは、海面基準で東大橋が約37 m[56]、中央大橋が約52 m[3]、西大橋が約45 m[57]である。3橋に差があるのは、地質構造が東と西では大きく変移しているためで、東側は東海層群が海面から近接することから東大橋はこの層を支持基盤としている。しかし、西に向かうにつれて東海層群は深さを増し、西大橋付近では100m以下となることからそこまで掘削することは不可能である。同様に中央大橋でも70mで不可能であることから、それよりも上層にある適正な層を支持基盤とした[56]。ただし、西大橋の支持層は洪積層中間の砂層で、軟弱地盤であることから[58]主塔形状もそれに対応している(後述)。
以下は主として西大橋について解説するが、中央大橋と東大橋も概ね同様の工法である[59]。 基礎の選定において船舶の往来が激しいことから、工事専有面積を縮小出来る方式として[60]ニューマチックケーソン方式を採用した[25]。コップを逆さにして水中に沈めると、コップの中に空気が充満する(空気の圧力によって水の侵入を防ぐ)状態が維持されるが、ケーソン工法はこの原理を応用したものである。コップに相当するケーソン躯体は、縦35m、横33m、高さ16m(重量はケーソン躯体の他に鉄筋と必要な機材込みで2000トン[61])で、この巨大な箱を水深12 mの海底に沈め、ケーソン躯体最下部の作業室に圧縮空気を送り込み、作業室内の水を排除したうえで人力(パワーショベル使用)により掘削を行い、同時に躯体上部ではケーソン本体の構築(継ぎ足し)を行う[62]。掘削と継ぎ足しを繰り返しながらケーソン躯体を沈めていき[59]、最終的に支持層の45 m付近まで到達する[63]。掘り出した土砂はバケットに投入して巻き上げ機で地上に吊り上げて排土する[64]。また、ニューマチックケーソン工法の中でも、ケーソン基礎構築と同時に橋脚の躯体の一部を構築するピアケーソン工法を採用している[65]。所定の深度まで掘り進めたケーソンは内部全体にコンクリートを充填、基礎そのもとして埋め殺しとした[66]。なお、一期線の隣り10 mの間隔をおいて将来二期線の基礎を構築するにあたり、一期線の基礎の安定性については両者の施工時期に10年間の間隔があることを踏まえ、特に問題はないと判断されている[67]。
ケーソン下部に空気の空間を維持するためには地上から高圧の空気を送って作業室の気圧を高くする必要があるが[68]、潜函病(ケーソン病)にかかるリスクがあることから、地下水を揚水することで作業室内の気圧を低減することになった(ディープウェル工法)[69]。当工法は大深度掘削の中央大橋でも採用されたが[70]、西大橋二期線の掘削にあたって当工法を使うと地盤が影響を受けて近接する一期線の基礎が傾斜することが懸念された[71]。よって、当工法以外で作業員の安全を図る方法が模索され、結果、ヘリウム混合ガス(ヘリウム、酸素、窒素の3種類を混合したもの)を作業員に呼気させることになった[72]。これに世界初の無人掘削システムを併用するなどして高気圧障害から作業員を守っている[73][74]。
主塔
主塔は美観向上の意図の他に、軟弱地盤に建設されることから重量軽減のためにA形とされ[52]、最初に建設された西大橋のみ、橋軸中心線基準で50 m分離した独立2橋並列とされた[75][注釈 4]。これは先述通り、北側(上り線)の橋のみ先行供用として、南側は段階施工とするためである[77][78]。50 m分離とされたのは、北側の橋によって乱れた風が南側の橋に不規則な強制振動を与えることを抑制するに適当な間隔だからである[79]。なお、東大橋は当初、逆Y形(例 : 天保山橋)もしくは逆V形で検討されたが、風洞実験の結果、風の影響による振動が発生したことから、主桁と頭頂部の中間に水平材を1本付加することで振動を抑止できる現行のA形となった[80][81]。
塔高さは、後述の主桁高さの関係上、中央大橋が最も高く、T.P(Tokyo Peil : 東京湾の平均海面[82])+195 m [83]、次いで東大橋のT.P+130 m(大型自動車運搬船の通過を考慮した桁高さに対応)[84]、西大橋のT.P+127 m[57]の順である。この内、東大橋と西大橋は主塔を部分的に地上で組み上げてからフローティングクレーンで一括架設を行ったが[85]、中央大橋だけは高すぎることから一括は無理で、各ブロック単位で架設した[80][86]。
主塔の基部(底辺)は、西大橋は塔上部からストレートで基部に達し、その形状はAであるのに対し、中央大橋と東大橋は基部で塔柱間隔を絞り込んでいる[5]。理由は、下部工の寸法を極力小さく抑えるためである[53]。
主塔の断面形状は、西大橋と東大橋が四角形で、中央大橋だけが八角形である[87]。中央大橋は他の2橋に比べて全高が高く、海風の影響を受けて主塔が揺らぐ危険性が高いことから、風の影響を抑えるために角を取ることとなった[88]。なお、東大橋も主塔にぶつかった海風が塔を伝うことで猛烈な風圧を受ける点は中央大橋と同様である[88]。
主塔内部には3橋ともエレベーターを装備している。主塔塔頂に据え付けられている航空障害灯のほか、主ケーブル、塗装等の維持管理のためである[89][90][88]。中央大橋の場合、約3分で頂上へ到着する[88]。
主塔は東側の橋が青、中央が白、西側が赤のトリコロールカラーで塗装されている[91]。最初に建設された西大橋は誘目性、視認性、港のシンボルを考慮して赤とされた[92]。後年になって3橋がグランドオープンするに伴い、色彩に新たな検討を加えることになった。結果、連続する3つの斜張橋は海外にも例がないことから、この景観資源を生かし、港のゲート性を強く印象づけるためにも公団主催の検討委員会の提言によって3橋の色彩を別々にすることになった[91]。これによって、西大橋は親しまれた赤をそのまま踏襲し、中央大橋は大白鳥が羽を広げたイメージを表現するために白、東大橋はさわやかな空と海の青が採用された[93][19]。また、橋桁は当初は赤だったものが[92]、中央と東の完成を機に陸上区間の高架橋との統一感を考慮のうえ、青い空、海に連続した水平線を表現するために3橋とも白とされた[93]。
橋桁
橋桁は桁高さを抑えて重量軽減を図り、ケーブルの定着性向上と耐風安定性の観点から両端にフェアリングを取り付けた薄型偏平六角形の箱型構造である[95][96]。その両端には飛行機のフラップにも似た形の抑流板を取り付けたが[97](二期線完成を機に撤去[98])、いずれも風洞実験の結果をフィードバックしたもので、伊勢湾台風以上の暴風に対処できる構造とされた[19]。橋梁部と両端の取り付け高架部の主桁の断面形状は大きくことなることから、見栄え向上のために橋梁部主桁端部にもフェアリングを据付けた[99]。
なお、東大橋の場合、航路確保という大前提から中央径間(2つの主塔の間)が長く、潮見ふ頭側に名港潮見ICが近接する関係上、中央径間に比べ側径間(主塔からふ頭側)が極端に短いアンバランスな橋となった[54]。これによる負反力発生が懸念されたことから、当径間の橋桁上におもり(カウンターウエイト)としてRCを打設し、負反力を軽減している[95]。一方で、中央大橋は航路が側径間にも設定されていることで大径間となり、ケーブルのたわみ対策に万全を期している[100]。
橋桁およびタワー、基礎(ケーソン)の鋼材は大規模であることから陸上輸送が不可能であることに加え[101]、輸送コストの面から海上輸送を基本とした[95]。このため、名古屋港と航路で輸送可能な鉄工企業が選定され、三重県津市の日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)をはじめ、日本車両製造衣浦工場、石川島播磨重工業(現・IHI)愛知工場など近在の企業のほか[102][103]、横浜市や遠くは北九州市[95]、愛媛県伊予市で製作されたものが名古屋港まで曳航された[104]。
3橋の中で橋桁が最も高いのが中央大橋で、直下の航路空間を47 m確保、次いで東大橋の40 m、西大橋の38 mである[105]。これと連動して中央大橋の路面高さが最も高くなっている。設計当初は当時考えられる限りの大型船の通行を考慮して桁高さを決定し、西大橋の場合はカーフェリーの「いしかり」(マスト高36 m)が対象とされた[106]。しかしながら、後年になってより巨大なクルーズ船が名古屋港に寄港することになった。ダイヤモンドプリンセスのほか、クァンタム・オブ・ザ・シーズやボイジャー・オブ・ザ・シーズが寄港した際は、名港中央大橋の許容高さ51 m(桁下空間は55 mだが、余裕を4 m以上保持する決まりから51 m[107])を超過することから客船用のガーデンふ頭[108]に接岸することが叶わず、貨物船用の金城ふ頭に接岸している[109][110][111]。なお、外国客船が寄港することによる地域への経済効果は4000万円ともされ、名古屋港としてもその恩恵に与ろうと誘致に力を入れているが、いかんせん中央大橋をくぐれないことから金城ふ頭受け入れとならざるを得ず、入国態勢が貧弱なこともあって他港に出し抜かれているのが現状である[112]。
橋桁には桁に吊り下がるようにして検査車が設置されている。主桁外面の点検、塗装作業のためで、前後の径間に1台、中央部に1台で、一つの橋に対して3台付属し、各径間を移動できる。動力はディーゼルエンジンで、躯体は防錆、軽量化の観点からアルミ合金製である[113][114]。
ケーブル
西大橋の場合、直径5 mmの鋼線に防錆のために亜鉛めっきを施したものをポリエステル焼付(樹脂被覆)のうえ、用途に合わせて163 - 379本に収束して7種類のケーブルを製作し、これをポリエチレン管で覆った。そして、主塔と主桁をケーブルで緊張する際に防錆のためのセメントミルクを充填している[115]。ケーブル段数は当初、片側11本と6本の場合とが比較され、6本の場合、ケーブルの断面積が大きくなり、主桁との定着(連結)が不利となるため11本(本採用は12本)とされた[79]。このため、片側12本ずつの2面吊り(一つの橋で96本)で主桁を吊り上げている[25]。なお、東大橋も同本数であるが[53]、直径は7 mmでノングラウト(セメントミルクなし)とされた[116]。ケーブルはファン型で張られている[52]。計画段階ではハープ型も検討されたが、たわみ剛性が大きく取れるなど[117]力学的観点から現行方式とされた[118]。
中央大橋の場合、主塔から伸びるケーブルは17本ずつで重さ2万トン以上の橋桁を支えている[19]。直径7 mmの亜鉛めっき鋼線を397本から199本の間で束ねて(都合10種類製作)、最も太い場合で直径17 cmの一本のケーブルとしてまとめている[119]。ケーブルは樹脂で被覆して塩害対策を施し、寿命を100年と想定している[19]。また、中央大橋だけはライトアップ効果を図るため、ケーブルを主塔と同色の白いフッ素樹脂被膜で覆っている[53]。残る2橋は塔の色が映える黒を基調とした[120]。
その他設備
航空法に基づいて航空障害灯を設置している[121]。これは地表(水面)から60 m以上の高さの施設について設置が義務付けられているためである[121]。
港を横断することから航行船舶の安全確保のために航路標識灯を設置している。中心灯、側端灯、橋脚灯として海上保安庁規定に基づいた器具を各々設置している[122]。
道路照明はポール照明である[123]。また、名古屋港のイメージアップのために夜間はライティングを実施しているが、これについては後述する。
橋桁両端は遮音壁等、視界を遮るものはなく、名古屋の街と港を一望することが可能であるが[19]、名港東大橋の東側途中からは壁に囲まれ、視界は効かない。理由は、付近の新宝ふ頭に敷設されている化学工場から東海市を通して日本道路公団に要請があったためで、自動車通過時に眼下の工場を見下ろすことによる企業秘密の漏洩を避けるためである[124]。さらに、南側にはトヨタ自動車の海外への自動車積出基地(モータープール)があり[125]、高架から空き缶等の落下物があった場合に新車に傷が付くことが懸念されたことで、道路両脇が壁で目隠しされることになった[124]。
橋上には「たばこ投げ捨て禁止」看板が設置されている。これは潮見ふ頭が石油製品基地であり[34]、なかでも名港トリトンの道路直下に油槽所があることから火災防止のための措置である[19]。なお、潮見ふ頭はこうした事情から消防法によって火気の使用が厳しく禁じられている[126]。
歴史
名古屋環状2号線としての構想・計画
名港トリトンとその取り付け道路(東海IC - 飛島IC間)は名古屋環状2号線の海上区間であり、あくまで環状道路の一部分として構想された[7]。その起源は1964年で、1975年を目標年次とする長期港湾整備計画の策定に端を発している[127]。計画では名古屋市を取り巻く名古屋環状2号線と名古屋港を連絡する名目で、南と西のふ頭間のほぼ中央を大橋で連絡する構想が初めて示され、そのルートはほぼ現在の名港トリトンと一致している[127]。この横断ルートは名古屋環状2号線のルートに組み込まれたが[128]、1967年3月の名古屋環状2号線(一部)の都市計画決定にあたって陸上区間は現行ルートに決定されたものの、海上横断ルートについては路線計画が進んでいないために計画から除外された[129]。この時点では、海上区間は臨海工業地帯の適地を横断する、といった程度の構想に過ぎなかった[130]。
やがては並行する国道23号と国道1号の慢性的な渋滞を緩和する意図から、海上区間を東西に延ばして[43]、東側は東名高速豊田JCT、西側は東名阪自動車道四日市JCTまでつなげることで、名実ともに国道23号線のバイパス(第二名四国道)とすることになった[131]。この内、名古屋南JCT - 飛島IC間が環状道路と第二名四国道が重複し、当初は両道路を上下に並行して建設することとされ、環状道路が往復6車線、第二名四国道が往復4車線の合計10車線とされた[131]。しかしながら、名古屋港通過箇所は橋の規模が大きくなり、建設費が3千数百億円と事業化の見通しが得られないことに加えて、交通量の将来予測が見込みよりも減少することが明らかとなった。このため、1976年には両道路を統合して、シングルデッキの往復6車線に変更した[131]。この他にもトンネル構造から橋梁への変更、ゲルバートラス橋から斜張橋への変更を経て[36]1979年8月に海上区間の都市計画が決定を見た(名古屋環状2号線全線の都市計画決定)[15]。なお、この時点の海上区間は一般有料道路としての規格であったが、1989年に第二名四国道が高速道路(新東名・新名神高速道路)に昇格したことを受けて[29][132]、重複する国道302号東海IC - 飛島IC間も高速道路規格の構造に変更され、橋梁の横幅も拡大されるに至った。橋梁は当初は設計速度80km/h規格であったが[44]、この変更を受けて100 km/hとされた[133]。
西大橋が先行開通
1985年3月20日、3橋の先陣を切って名港西大橋(北側・現在の上り線)が暫定往復2車線にて、有料道路「名港西大橋」(路線名は一般国道302号)として供用開始された[25]。この時は金城ふ頭側に料金所が設置された[135]。なお、その翌日より金城ふ頭で開催された「輸入博」(ワールド・インポート・フェア・ナゴヤ)は西大橋開通に合わせたイベントとして企画された[135]。開通当初の西大橋の利用台数は1日平均1,700台で、事業主体の日本道路公団の当初予測たる8,900台を大幅に下回った(ただし通行量は年々1割程度の上昇を見せた[136])[134]。事業費185億円[77]に対して全くの赤字経営で、会計検査院による調査が入るなど、投資対効果の点で疑問が付された[134]。地元経済界の強い要請で先行建設された割には、蓋を開けてみれば、西大橋の主要な収入源と目論んでいた港湾物流業界から全く見放された格好であった。開通当初の西大橋の通行料金は西二区(現・木場金岡ふ頭) - 金城ふ頭間3.2 kmの通行で片道1,400円(特定大型車)であったが、そもそも高額な通行料金を支払ってまで利用する大きな理由は、行きたい場所に短時間でアクセスできるからである。ひるがえって当時の西大橋は、それ自体で道路が完結しているため、四日市方面や北陸、静岡方面にアクセスするには、西大橋を渡ってから国道23号や国道1号に出なければならなず、広域アクセスする業務交通にとって西大橋を利用した場合の時間距離短縮効果は皆無に等しかった[134]。それならば、わざわざ西大橋を使わずとも最初から国道23号および国道1号を使った方が経費節約となるため、西大橋は港湾業界から全く見向きもされない状況に陥ることになった[134]。当時の西大橋は行楽客主体の利用で、伊勢湾に沈む夕日を見るための隠れたスポットであって、増収に結びつかないこれらの利用方法は公団関係者にとって頭痛の種であった[134]。なお、この状況を打開するべく、公団は港湾物流の利用促進を狙って業界に回数券を売り込んだが、冷たくあしらわれるだけだった[134]。
西大橋の低調さをさらに印象付ける出来事として、通行量が少ないことをいいことに[24]、港の夜景を眺めるためにカップルが大挙して西大橋に押し寄せ、路肩に駐車のうえ、週末にはその列が1kmに及ぶこともあった[136][137]。当時は往復2車線で中央分離帯もなかったことから、料金所の無い飛島側から西大橋に入り、夜景をみてからUターンして料金を払わずに退出する者が続出した[137]。カップルが去った後には多数の落書きとごみが残され、職員がそれを片付けるのが仕事の一つであった[137]。その翌年には退散を促すスピーカーを設置しているが、これは付近に民家が無いことを逆手に取った対策であった[136]。
伊勢湾岸道と接続し交通量が増大
名港トリトンはあくまでその前後を高速道路で直結のうえ、東名高速と東名阪自動車道を連絡してこそ、その真価を発揮できるのであって[134]、実際、1998年3月の3橋のグランドオープンおよび名古屋南IC - 東海IC間が供用開始した後も依然として赤字経営であった[27]。しかし、1986年時点における逆風のさなかにあっても、建設省は3橋を境にして名古屋南IC直結(すなわち国道23号に連結)で1日交通量約2万台、続くみえ川越ICまでの開通(同様に国道23号に連結)で約4万台、そして最終的に東名高速と東名阪道の連結で約6万台と強気の予想通行量を算出した[138]。結果として、3大橋のグランドオープンを含む名古屋南IC - 名港中央ICの開通以降は利用台数が大きく増加し始め、2003年のみえ川越IC連結による国道23号のバイパスルート完成によって25000台に増加[139]、その後も増加傾向は続き、2013年には93000台を記録した。このことは、高速道路とは一定のネットワークを形成して初めてその真価を発揮することを示し[140]、その中間部分(名古屋港の横断部分)だけを構築してもほとんど意味を成さないことを名港トリトンの歴史は如実に示している。
名港西大橋が単体で開通していた頃の港湾物流業者の嘆きの一つに、港が世界と結ばれても国内各地とは結ばれていないということがあった[141]。名古屋自体は各高速道路と結ばれているが、名古屋港と直結する高速道路は当時一本も存在しなかった。当時、勢いを増す名古屋港のコンテナ貨物も、それを国内各地に配送するための道路が常時渋滞する一般国道のみとあっては、国際貿易港の機能が著しく損なわれる状態におかれることになった[141]。名港トリトンが港を通り抜けて各高速道路と結ばれている今日、それは当時の港湾物流業者が十数年先のこととして頭に思い描いた未来の道路網そのものであった[141]。
年表
- 1964年(昭和39年)5月16日 : 名古屋港管理組合は長期港湾整備計画を発表。ここで海上横断道路を初めて示した[128][127]。
- 1969年(昭和44年)4月 : 名古屋環状2号線の名古屋港横断箇所(海上区間)について建設省直轄の幹線道路整備計画の一環として調査開始[25][142]。
- 1973年(昭和48年)
- 1976年(昭和51年)8月30日 : 建設省で名古屋港3大橋の予備設計が開始。ゲルバートラス橋案を完全破棄して斜張橋と吊り橋案で計画推進[22]。
- 1979年(昭和54年)
- 1980年(昭和55年)6月3日 : ターニングベースン浚渫工事開始(翌年3月20日まで)[143]。
- 1981年(昭和56年)11月17日 : 名港西大橋一期線の起工式を仲谷愛知県知事、本山名古屋市長臨席のもと名古屋市国際展示場で挙行[144][143]。
- 1984年(昭和59年)7月17日 : 一期線主桁が閉合[145]。
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)3月22日 : 政府自民党は中央大橋、東大橋を含む豊田市 - 四日市市間の建設推進を正式決定[49]。
- 1987年(昭和62年)
- 1989年(平成元年) 12月24日 : 建設省が要求していた中央大橋と東大橋の建設事業費138億円が満額で認められる[147]。
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)10月1日 : 9号地沖の海上に灯浮標を設置。東大橋が着工[150]。
- 1992年(平成4年)4月13日 : 中央大橋のケーソンをジャケットに引き込み完了[151]。
- 1994年(平成6年)11月24日 : 名古屋市市議会で計画局長が名港三大橋の夜間ライトアップを計画していることを表明[152]。
- 1996年(平成8年)
通行料金
名港トリトン(伊勢湾岸道路)は一般国道302号であるが、東海IC - 飛島IC間は有料区間であるため、通行料金が発生する。
伊勢湾岸道路(東海IC - 飛島IC)のみの利用では、全区間利用で普通車870円、区間利用は、東海IC - 名港中央ICで570円、名港中央IC - 飛島ICで310円となっており、いずれもキロ当たりの料金は他の高速国道と比べ割高に設定されている[30]。また、伊勢湾岸道路を全線利用し、その前後の高速国道(伊勢湾岸自動車道)を連続利用する場合は、東海IC - 飛島IC間の料金から普通車で150円引きとなる[165]。ETCでなくとも適用されるため、料金検索では本割引適用後の額を通常料金として表示している。ETC時間帯割引や障害者割引は、本割引適用後の料金に対して重複適用する[165]。
ライトアップ
3橋は夜間の一部時間帯にライトアップを実施している。この内、中央大橋のみ季節ごとにライティングカラーを変えるため、848個の水銀灯を取り付けている[166]。ライティングのテーマカラーは、春がグリーン(若葉のイメージ)、夏がブルー(海と空のイメージ)、秋がグリーンイエロー(紅葉のイメージ)、冬がレッド(炎のイメージ)である。点灯時間は、当初から日没に合わせて開始時間を変えており[167]、現在も月によって18時から22時と19時から22時の2通りで点灯されている[168]。また、クリスマスや年末年始、ゴールデンウィークには特別点灯が実施される[168]。
ライトアップは地元負担とされ、ライティング用機材6億円は名古屋港管理組合が負担し、電気代も同組合が負担している[169][91]。日本道路公団(現、NEXCO中日本)は高額な斜張橋の建設費が通行料金に跳ね返っていることからライティング費用の負担については消極的である[152]。
なお、ライトアップは1989年の 世界デザイン博覧会開催中に名古屋港のイメージアップを狙って、7月14日から11月26日までの日没から22時の間で西大橋を点灯したのがその起源である[170]。その後、1991年の年末年始でライトアップを再開している[171]。
脚注
注釈
出典
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- 名古屋環状二号線整備促進期成同盟委員会による以下の3資料は3冊を1冊にまとめた合冊製本である(愛知県図書館蔵)。
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