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{{基礎情報 君主
{{出典の明記|date=2014年3月2日 (日) 16:42 (UTC)|ソートキー=沖縄人1259年没}}
| 人名 = 義本
'''義本'''(ぎほん、[[1206年]]? - 没年未詳、在位:[[1249年]] - [[1259年]])は、『[[中山世譜]]』など[[琉球]]の歴史書に登場する王。神号は煕継。
| 各国語表記 =
| 君主号 = [[琉球国王|琉球国中山王]]
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| 在位 = [[1249年]] - [[1259年]]
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| 王朝 = [[舜天王統]]
| 父親 = [[舜馬順煕]]
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'''義本'''(ぎほん<ref name="asato etc-61">安里ほか(2004年)、p.61</ref>、[[1206年]]([[開禧]]2年) - [[没年不詳]])は、[[舜天王統]]最後(3代目)にして、第3代[[琉球国王]]とされる人物である。在位11年([[1249年]]([[淳祐 (南宋)|淳祐]]9年) - [[1259年]]([[開慶]]元年))。[[神号]]は不伝。


父・[[舜馬順煕]]の死後、44歳で即位したが、国内に[[飢饉]]や[[疫病]]が流行した。群臣の薦めで[[英祖 (琉球国王)|英祖]]に政治を任せたところ、災厄は収まったため、英祖に王位を譲ったとされる。これにより、英祖を祖とする[[英祖王統]]が始まり、[[舜天王統]]は滅亡した。退位後の義本の消息は不明であるが、[[沖縄本島]]や[[奄美群島]]各地に彼を葬ったと伝えられる[[墓]]が存在している。
== 概要 ==
舜天王統最後の王であり、先代の[[舜馬順煕]]の子である。


== 名前 ==
義本の在位中に、[[沖縄本島]]で天災や疫病が発生し、責任を取って当時[[琉球の摂政|摂政]]であった[[英祖 (琉球国王)|英祖]]に譲位する。その後の義本の消息は不明。
[[東恩納寛惇]]は、義本という名前の意義を不明とした<ref name="higashionna-29">東恩納(1966年)、p.29</ref>。義本と、彼を含む舜天王統の名前は、『[[おもろさうし]]』や『[[歴代宝案]]』に見受けられる琉球人の名前における[[漢字]]・[[かな]]表記とは特殊で、後世になって付けられた[[諡]](おくりな)ではないかと思われる<ref name="asato etc-63">安里ほか(2004年)、p.63</ref>。『[[中山世譜]]』は、義本の[[姓]]を「[[源氏|源(みなもと)]]」としている<ref name="seifu-57">『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.57</ref>。神号は不伝<ref name="okinawa-chu478-shunten">糸数兼治「神号」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.478</ref>。


== 経歴 ==
花崎家には義本王の直系子孫であるという口承が伝わっている。
義本は、彼を含む舜天王統と同様、存在さえ不明であり<ref name="okinawa-chu407-408 shunten outo">[[高良倉吉]]「舜天王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、pp.407 - 408</ref>、実在しない伝説上の人物と考えられる<ref name="asato-4">安里(2006年)、p.4</ref>。


舜天王統3代目にして最後の王と伝えられ<ref name="okinawa-chu407-408 shunten outo"/>、『[[中山世鑑]]』によれば、[[舜馬順煕]]の第一王子として、[[1206年]]([[開禧]]2年)に生誕した<ref name="seikan-57">『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.57</ref>。舜馬順煕を父としていることから、[[舜天]]の[[孫]]にあたる<ref name="okinawa-jo862-gihon">[[高良倉吉]]「義本」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.862</ref>。舜馬順煕の死後、[[1249年]]([[淳祐 (南宋)|淳祐]]9年)に44歳で即位し<ref name="seikan-56 - 57">『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.56 - 57</ref>、父より「[[琉球国王|琉球国中山王]]」の3代目を引き継いだとされる<ref name="seikan-12">『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.12</ref>。しかし、その翌年に国内に[[飢饉]]が、さらにその翌年から[[疫病]]が流行し、国民の半数が死亡したという<ref name="seikan-57"/>。[[ジョージ・H・カー]]は、自書『琉球の歴史』において、日本では[[台風]]や[[地震]]による被害を受け、さらに[[ヨーロッパ]]でも天候不順で飢饉に陥り、[[ペスト]]が流行するなど、この時期は琉球はもとより[[世界]]的も災難が訪れていたと述べている<ref name="seifu-ref2 58-59">「注釈 2」、『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、pp.58 - 59</ref><ref name="yonami84">与並(2005年)、p.84</ref>。この国状を憂いた義本は群臣を呼び集め、徳の無い自分の代わりに誰に国を譲るべきかを問い下したところ、皆は[[英祖 (琉球国王)|英祖]]を推薦した<ref name="seikan-57"/>。この時、[[1253年]]([[宝祐]]元年)、英祖は25歳のときであった<ref name="yonami82-85">与並(2005年)、pp.82 - 85</ref>。試しに英祖に政治を行わせると、災厄は止み、国は大いに治まったという<ref name="seifu-58">『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.58</ref>。[[1259年]]<ref name="okinawa-jo862-gihon"/>([[開慶]]元年<ref name="asato etc-62">安里ほか(2004年)、p.62</ref>)、英祖が[[琉球の摂政|摂政]]を務めて7年目、在位11年にして54歳の義本は、英祖に王位を譲った<ref name="seikan-58">『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.58</ref>。はじめ、英祖は頑なに拒否したが、群臣の説得により受け入れたとされる<ref name="yonami87">与並(2005年)、p.87</ref>。しかし、この王位[[禅譲]]説を否定する見解があり、英祖が起こした[[クーデター]]により、義本を追放したとも言われている<ref name="yonami70">与並(2005年)、p.70</ref>。後節の「[[#王位禅譲説について|王位禅譲説について]]」を参照。
== 家族 ==

*父:[[舜馬順煕]]
彼が統治していたとされる時期は、小規模の[[グスク]]が各地に点在し、まだ[[沖縄本島]]全域を統治するに至った人物は現れていないとされる<ref name="urasoe-338">池宮正治「舜天王統」、『浦添市史』(1989年)、p.338</ref>。『中山世譜』によれば、[[天孫氏]]王統が王城を[[首里]]に築き<ref name="seifu-39">『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.39</ref>、それ以降の王統も[[首里城]]を居城としていたというが<ref name="asato-2">安里(2006年)、p.2</ref>、義本らの舜天王統は[[浦添城]]と伝えられている<ref name="urasoe-225-227">知念勇「浦添グスク」、『浦添市史』(1989年)、pp.225 - 227</ref><ref name="okinawa-chu780-chuzan outo">嘉手納宗徳「中山王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.780</ref>。
*母:不詳

*妃:不詳
『中山世譜』によれば、退位後の義本の消息を不明と伝え<ref name="okinawa-jo862-gihon"/>、彼の母や[[王妃|妃]]、[[世子]]も不伝とある<ref name="seifu-57"/>。しかし、義本にまつわる伝説や墓が、[[沖縄本島]]や[[奄美群島]]にも言い伝えられている<ref name="yonami90">与並(2005年)、p.90</ref><ref name="inoue25">井上(1985年)、p.25</ref>。後節の「[[#各地の義本王伝説|各地の義本王伝説]]」と「[[#陵墓|陵墓]]」を参照。
**世子:不詳

== 王位禅譲説について ==
『中山世鑑』、『中山世譜』、『[[球陽]]』といった琉球の正史や、中国側で著された[[徐葆光]]の『中山伝信録』にも、義本は英祖に王権を譲位したと記している<ref name="inoue20-21">井上(1985年)、pp.20 - 21</ref>。糸数兼治は、『中山世鑑』と『中山世譜』それぞれにおいて、義本の英祖への禅譲に対する評価が異なることを指摘した<ref name="asato etc-61"/>。『中山世鑑』は、徳を備えた英祖に王位を譲ろうとした義本がいたからこそ、英祖は王として存在しえたと評価したが、『中山世譜』は、国が災厄に陥った状況下で、徳をおさめる努力もせず、自分に徳が無いと憂いただけの義本は、元から王になる資質を備えていなかったと批判している<ref name="asato etc-61-62">安里ほか(2004年)、pp.61 - 62</ref>。評価の異なる理由として、『中山世鑑』の主編者である[[羽地朝秀]]と、『中山世譜』の[[蔡温]]が学んだ[[儒教|儒学]]の違いによるものとした<ref name="asato etc-61"/>。

歴史学者である[[伊波普猷]]、[[東恩納寛惇]]、[[比嘉春潮]]、[[高良倉吉]]、[[ジョージ・H・カー]]らは、義本の王位禅譲説について肯定的か、あるいは一応否定的に捉えているものの、詳細に分析や考察を行っていない<ref name="inoue21-22">井上(1985年)、pp.21 - 22</ref>。そこで、井上秀雄は英祖による[[クーデター]]説を提唱している<ref name="inoue23">井上(1985年)、p.23</ref>。理由として、義本の禅譲について書いた琉球の正史は信憑性に乏しく、義本側から調査する必要があることを挙げた<ref name="inoue23"/>。カーは、義本の治世に発生した飢饉・疫病が、琉球のみならず世界中で起きていたと述べ、井上は、世が世ならば平穏に過ごせていた義本に、この災難を克服するほどの政治手腕はなく、英祖が情勢不安の中に追い込まれた義本をうまく利用したのではないかと推測している<ref name="inoue24-25">井上(1985年)、pp.24 - 25</ref>。さらに、退位後に消息不明となったにも関わらず、義本と伝えられる墓が存在していることも挙げ、もし実際に王位を平和裏に譲ったのならば、英祖を葬ったとされる「[[浦添ようどれ]]」のような立派な陵墓を造営し、後世にわたっても墓の管理を怠らなかったはずであるとした<ref name="inoue25-26">井上(1985年)、pp.25 - 26</ref>。次に、井上は、琉球の正史が[[1609年]]の[[薩摩侵入]]以降に編纂されたことも理由に挙げている<ref name="inoue23"/>。正史の作成段階で、少なからず[[島津氏]]から[[検閲]]を受け、事実を書けない状況に置かれていたとし、島津氏が、同じく[[源氏]]の流れを汲むと伝えられる舜天王統が英祖という地元の人間に滅ぼされたとなると、[[自尊心]]を傷つけられ、クーデターを認めるはずがなく、歴史の改竄が行われていたであろうと述べた<ref name="inoue28-29">井上(1985年)、pp.28 - 29</ref>。

また、与並岳生はクーデター説の根拠として2つ挙げている。第一に、義本の退位後に訪れたとされる[[玉城城]]{{Refnest|group=注|name=note-tamagusuku|本来のグスクの名前は、単に「玉城(玉グスク)」である<ref name="yonami88">与並(2005年)、p.88</ref>。}}で、[[焼身自殺]]を図ったという伝説があるが、当時の玉城城は栄え、按司など人の出入りも行われていた場所に、あえて他人のグスクに立ち入り、さらに火を焚いて自死しようとするはずはないとした。玉城城の城主である按司と縁があり、退位後に頼って匿ってもらったのではないかと述べた。そして第二に、[[おもろ]]に登場する、英祖を指したとされる「いくさもい」が、戦術に優れた人物を意味することを理由に挙げ、英祖が義本の摂政に任命された時点で「クーデター」が成立し、義本の群臣を味方につけ、追放することは容易であると述べている<ref name="yonami88-91">与並(2005年)、pp.88 - 91</ref>。

== 各地の義本王伝説 ==
[[ファイル:Historic sites of Tamagusuku Castle 01.JPG|thumb|玉城城主郭の城門]]

沖縄本島南部の玉城城<ref group="注" name="note-tamagusuku"/>に義本にまつわる伝説が残されている。退位後の義本は「天つぎ・あまつぎ」といわれる玉城城に現れ、自分の不徳を天に詫びようと焼身自殺を図った。城内で[[薪]]を積み上げ、その上に座り、臣下に火をつけるよう命令した。しかし、義本に燃え移ろうとした時、突然空が曇り始め、大雨をもたらした。これにより、焼死は免れ、失意のうちに臣下と共に帰路についたが、大雨による増水で来た道が川となっていたので、義本は仕方なく泳いで渡った。この渡った場所が、「泳ぎ口」と呼ばれ、後に「上江洲口(イイジグチ)」となった、と言われている<ref name="tamagusuku14-15">『玉城村の文化財概要』(1986年)、pp.14 - 15</ref><ref name="yonami88-89">与並(2005年)、pp.88 - 89</ref>。

義本の直系子孫といわれる花崎家の伝承によれば、[[国頭村]]の辺戸に隠遁し、時世が落ち着いてから[[読谷村]]の瀬名波に渡り、晩年は北中城村仲順で没したという<ref name="higa16-17">比嘉(1989年)、pp.16 - 17</ref>。国頭村辺戸に逃れた義本は、[[ノロ|祝女]]との間に男子を儲け、それが[[第二尚氏]][[尚円王]]の祖先であるという<ref name="inoue25"/>。また、辺戸に向かう道すがら、同村の佐手という集落に立ち寄り、「サチのウイ」とよばれる場所の[[井戸]]水を飲み、ここが当地区発祥の地と言い伝えられている<ref name="inoue25"/>。さらに同村の与那集落でも、辺戸へ行く途中に、現地の女性との間に2人の子供を授かったといい、伊地集落には、義本が海から上陸した浜と、水を飲んだ川や登ったとされる山があるという<ref name="inoue25"/>。

[[鹿児島県]]の[[奄美群島]]にも義本王伝説がある。[[奄美大島]]の芝家によると、退位後の義本は「阿麻弥(あまみ)島」に渡り、当地に定住した。その子孫が芝家となり、義本の子・継好(つぐよし)が奄美大守と称したとされる。また、[[喜界島]]にも、「ジブンシュー伝説」なるものが存在し、「ジブン」とは義本の転訛とされ、「シュー」は高貴の人に対して付けられる尊称、すなわち「主」と解される<ref name="kunigami-54">国頭村役場編(1967年)、p.54</ref>。

== 陵墓 ==
[[ファイル:Nasu no Utaki 01.jpg|thumb|ナスの御嶽。奥に義本を含む舜天王統三代の王を葬ったとされる墓がある。{{ウィキ座標|26|18|17.96|N|127|47|50.66|E|region:JP|地図|name=ナスの御嶽}}]]
義本を葬ったと伝えられる墓は、知られている中で、沖縄本島北部の国頭村に7か所、中部の[[北中城村]]に1か所、そして鹿児島県奄美群島に2か所、計10か所に点在している<ref name="inoue25"/>{{Refnest|group=注|『国頭村史』(1967年)によれば、墓の所在は沖縄本島の国頭村辺戸・伊地・佐手、北中城村仲順の4か所としている<ref name="kunigami-52">国頭村役場編(1967年)、p.52</ref>。}}。退位後の義本の消息は不明であるが、それが人々の関心と同情を買い、その後、義本と由縁があると称する者が墓を設置している<ref name="kunigami-52"/>。

[[沖縄県]][[国頭郡]]国頭村の辺戸に、義本を葬ったと伝えられる墓がある。これは「辺戸玉陵」と呼ばれ、高さ約1[[メートル]]の石垣で囲い、その中に縦・横約1.8メートル、高さ約3メートルの石造りの墓が築かれている。[[明治]]初期に第二尚氏によって改修させられ、墓は近代的な構造になっている。義本が辺戸に住む佐久真家の家宅を仮寓にしたと言われ、[[尚穆王]]時代以降に当家が墓守に任命されたという<ref name="kunigami-52, 53, 317">国頭村役場編(1967年)、pp.52 - 53, 317</ref>。

同県[[中頭郡]]北中城村の仲順(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽」とよばれる[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]がある。その中に石垣があり、その奥の岩が当御嶽の本体(イベ)である。さらにその岩の上に、舜天と舜馬順煕の二人の王を葬ったとされる、[[コンクリート]]製の墓が存在するが、義本も葬られているとされ、「ナスの御嶽」は「義本王の墓」とも呼ばれている<ref name="kitanakagusuku-11">「仲順の文化財 ナスの御嶽」、『北中城村の文化財』(1990年)、p.11</ref>。

国頭村辺戸以外にも、同村の伊地には「一つ墓(ティーチバカ)」と呼ばれる墓があるが、文化財保護委員会による調査で、義本のものと思われる遺物は発見できなかった<ref name="kunigami-52"/>。また、同村の佐手や半地地区など、さらに、奄美群島にも義本と伝えられる墓は所在している<ref name="inoue25"/>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}

=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 安里進 『琉球の王権とグスク』 [[山川出版社]]〈日本史リブレット 42〉、2006年12月20日。ISBN 4-634-54420-2
* 安里進ほか 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年8月5日。ISBN 4-634-32470-9
* 井上秀雄「舜天王統滅亡の考察 - 英祖王への禅譲説に対する疑問 -」、[[沖縄女子短期大学]]紀要編集委員会編 『沖縄女子短期大学紀要 第4号』 pp.21 - 30、沖縄女子短期大学、1985年3月。
* [[浦添市]]史編集委員会編 『浦添市史 第一巻 通史編 <small>浦添のあゆみ</small>』 浦添市教育委員会、1989年3月29日。
* 沖縄県玉城村教育委員会編 『玉城村の文化財概要』 玉城村教育委員会、1986年10月。
* 沖縄大百科事典刊行事務局編 『[[都道府県別百科事典|沖縄大百科事典]]』 [[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]、1983年5月30日。{{全国書誌番号|84009086}}
* [[北中城村]]教育委員会社会教育課編 『北中城村の文化財 北中城村文化財調査報告書第1集』 北中城村教育委員会、1990年3月。
* 国頭村役場編 『国頭村史』 国頭村役場、1967年3月31日(1983年3月1日二刷)。
* [[蔡鐸]]著 原田禹雄訳注 『蔡鐸本 [[中山世譜]] <small>現代語訳</small>』 [[榕樹書林]]〈琉球弧叢書 4〉、1998年7月30日。ISBN 4-947667-50-8
* 首里王府([[羽地朝秀]] 他)編著、諸見友重訳注 『訳注 [[中山世鑑]]』 榕樹書林〈琉球弧叢書 24〉、2011年5月27日。ISBN 978-4-89805-152-8
* [[東恩納寛惇]] 『琉球の歴史』 [[至文堂]]〈日本歴史新書 増補版〉、1966年11月10日。
* 比嘉朝進 『沖縄の事件史100のナゾ』 風土記社、1989年5月29日。
* 与並岳生 『新琉球王統史 1 舜天 / 英祖』 新星出版、2005年10月1日。ISBN 4-902193-20-5


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[琉球国王一覧]]
* [[沖縄県歴史]]
* [[グスク時代]]
* [[琉球王国]]

== 外部リンク ==
* [http://www.kunigami-shoko.jp/?p=546 義本王の墓] - 国頭村商工会
* [http://www.vill.kitanakagusuku.lg.jp/site/view/contview.jsp?cateid=6&id=127&page=1 ナスの御嶽] - 北中城村ホームページ
* [http://www.urasoenavi.jp/tokushu/2015101800013/ 舜天・英祖・察度 「浦添三大王統」ゆかりの地を訪ねる] - うらそえナビ(浦添市観光振興課)


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{{琉球国王}}
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[[Category:没年不明]]

2017年10月22日 (日) 03:55時点における版

義本
琉球国中山王
在位 1249年 - 1259年

神号 不伝
居城 浦添城
出生 1206年
死去 不詳
王世子 不伝
配偶者 不伝
王朝 舜天王統
父親 舜馬順煕
母親 不伝
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義本(ぎほん[1]1206年開禧2年) - 没年不詳)は、舜天王統最後(3代目)にして、第3代琉球国王とされる人物である。在位11年(1249年淳祐9年) - 1259年開慶元年))。神号は不伝。

父・舜馬順煕の死後、44歳で即位したが、国内に飢饉疫病が流行した。群臣の薦めで英祖に政治を任せたところ、災厄は収まったため、英祖に王位を譲ったとされる。これにより、英祖を祖とする英祖王統が始まり、舜天王統は滅亡した。退位後の義本の消息は不明であるが、沖縄本島奄美群島各地に彼を葬ったと伝えられるが存在している。

名前

東恩納寛惇は、義本という名前の意義を不明とした[2]。義本と、彼を含む舜天王統の名前は、『おもろさうし』や『歴代宝案』に見受けられる琉球人の名前における漢字かな表記とは特殊で、後世になって付けられた(おくりな)ではないかと思われる[3]。『中山世譜』は、義本のを「源(みなもと)」としている[4]。神号は不伝[5]

経歴

義本は、彼を含む舜天王統と同様、存在さえ不明であり[6]、実在しない伝説上の人物と考えられる[7]

舜天王統3代目にして最後の王と伝えられ[6]、『中山世鑑』によれば、舜馬順煕の第一王子として、1206年開禧2年)に生誕した[8]。舜馬順煕を父としていることから、舜天にあたる[9]。舜馬順煕の死後、1249年淳祐9年)に44歳で即位し[10]、父より「琉球国中山王」の3代目を引き継いだとされる[11]。しかし、その翌年に国内に飢饉が、さらにその翌年から疫病が流行し、国民の半数が死亡したという[8]ジョージ・H・カーは、自書『琉球の歴史』において、日本では台風地震による被害を受け、さらにヨーロッパでも天候不順で飢饉に陥り、ペストが流行するなど、この時期は琉球はもとより世界的も災難が訪れていたと述べている[12][13]。この国状を憂いた義本は群臣を呼び集め、徳の無い自分の代わりに誰に国を譲るべきかを問い下したところ、皆は英祖を推薦した[8]。この時、1253年宝祐元年)、英祖は25歳のときであった[14]。試しに英祖に政治を行わせると、災厄は止み、国は大いに治まったという[15]1259年[9]開慶元年[16])、英祖が摂政を務めて7年目、在位11年にして54歳の義本は、英祖に王位を譲った[17]。はじめ、英祖は頑なに拒否したが、群臣の説得により受け入れたとされる[18]。しかし、この王位禅譲説を否定する見解があり、英祖が起こしたクーデターにより、義本を追放したとも言われている[19]。後節の「王位禅譲説について」を参照。

彼が統治していたとされる時期は、小規模のグスクが各地に点在し、まだ沖縄本島全域を統治するに至った人物は現れていないとされる[20]。『中山世譜』によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き[21]、それ以降の王統も首里城を居城としていたというが[22]、義本らの舜天王統は浦添城と伝えられている[23][24]

『中山世譜』によれば、退位後の義本の消息を不明と伝え[9]、彼の母や世子も不伝とある[4]。しかし、義本にまつわる伝説や墓が、沖縄本島奄美群島にも言い伝えられている[25][26]。後節の「各地の義本王伝説」と「陵墓」を参照。

王位禅譲説について

『中山世鑑』、『中山世譜』、『球陽』といった琉球の正史や、中国側で著された徐葆光の『中山伝信録』にも、義本は英祖に王権を譲位したと記している[27]。糸数兼治は、『中山世鑑』と『中山世譜』それぞれにおいて、義本の英祖への禅譲に対する評価が異なることを指摘した[1]。『中山世鑑』は、徳を備えた英祖に王位を譲ろうとした義本がいたからこそ、英祖は王として存在しえたと評価したが、『中山世譜』は、国が災厄に陥った状況下で、徳をおさめる努力もせず、自分に徳が無いと憂いただけの義本は、元から王になる資質を備えていなかったと批判している[28]。評価の異なる理由として、『中山世鑑』の主編者である羽地朝秀と、『中山世譜』の蔡温が学んだ儒学の違いによるものとした[1]

歴史学者である伊波普猷東恩納寛惇比嘉春潮高良倉吉ジョージ・H・カーらは、義本の王位禅譲説について肯定的か、あるいは一応否定的に捉えているものの、詳細に分析や考察を行っていない[29]。そこで、井上秀雄は英祖によるクーデター説を提唱している[30]。理由として、義本の禅譲について書いた琉球の正史は信憑性に乏しく、義本側から調査する必要があることを挙げた[30]。カーは、義本の治世に発生した飢饉・疫病が、琉球のみならず世界中で起きていたと述べ、井上は、世が世ならば平穏に過ごせていた義本に、この災難を克服するほどの政治手腕はなく、英祖が情勢不安の中に追い込まれた義本をうまく利用したのではないかと推測している[31]。さらに、退位後に消息不明となったにも関わらず、義本と伝えられる墓が存在していることも挙げ、もし実際に王位を平和裏に譲ったのならば、英祖を葬ったとされる「浦添ようどれ」のような立派な陵墓を造営し、後世にわたっても墓の管理を怠らなかったはずであるとした[32]。次に、井上は、琉球の正史が1609年薩摩侵入以降に編纂されたことも理由に挙げている[30]。正史の作成段階で、少なからず島津氏から検閲を受け、事実を書けない状況に置かれていたとし、島津氏が、同じく源氏の流れを汲むと伝えられる舜天王統が英祖という地元の人間に滅ぼされたとなると、自尊心を傷つけられ、クーデターを認めるはずがなく、歴史の改竄が行われていたであろうと述べた[33]

また、与並岳生はクーデター説の根拠として2つ挙げている。第一に、義本の退位後に訪れたとされる玉城城[注 1]で、焼身自殺を図ったという伝説があるが、当時の玉城城は栄え、按司など人の出入りも行われていた場所に、あえて他人のグスクに立ち入り、さらに火を焚いて自死しようとするはずはないとした。玉城城の城主である按司と縁があり、退位後に頼って匿ってもらったのではないかと述べた。そして第二に、おもろに登場する、英祖を指したとされる「いくさもい」が、戦術に優れた人物を意味することを理由に挙げ、英祖が義本の摂政に任命された時点で「クーデター」が成立し、義本の群臣を味方につけ、追放することは容易であると述べている[35]

各地の義本王伝説

玉城城主郭の城門

沖縄本島南部の玉城城[注 1]に義本にまつわる伝説が残されている。退位後の義本は「天つぎ・あまつぎ」といわれる玉城城に現れ、自分の不徳を天に詫びようと焼身自殺を図った。城内でを積み上げ、その上に座り、臣下に火をつけるよう命令した。しかし、義本に燃え移ろうとした時、突然空が曇り始め、大雨をもたらした。これにより、焼死は免れ、失意のうちに臣下と共に帰路についたが、大雨による増水で来た道が川となっていたので、義本は仕方なく泳いで渡った。この渡った場所が、「泳ぎ口」と呼ばれ、後に「上江洲口(イイジグチ)」となった、と言われている[36][37]

義本の直系子孫といわれる花崎家の伝承によれば、国頭村の辺戸に隠遁し、時世が落ち着いてから読谷村の瀬名波に渡り、晩年は北中城村仲順で没したという[38]。国頭村辺戸に逃れた義本は、祝女との間に男子を儲け、それが第二尚氏尚円王の祖先であるという[26]。また、辺戸に向かう道すがら、同村の佐手という集落に立ち寄り、「サチのウイ」とよばれる場所の井戸水を飲み、ここが当地区発祥の地と言い伝えられている[26]。さらに同村の与那集落でも、辺戸へ行く途中に、現地の女性との間に2人の子供を授かったといい、伊地集落には、義本が海から上陸した浜と、水を飲んだ川や登ったとされる山があるという[26]

鹿児島県奄美群島にも義本王伝説がある。奄美大島の芝家によると、退位後の義本は「阿麻弥(あまみ)島」に渡り、当地に定住した。その子孫が芝家となり、義本の子・継好(つぐよし)が奄美大守と称したとされる。また、喜界島にも、「ジブンシュー伝説」なるものが存在し、「ジブン」とは義本の転訛とされ、「シュー」は高貴の人に対して付けられる尊称、すなわち「主」と解される[39]

陵墓

ナスの御嶽。奥に義本を含む舜天王統三代の王を葬ったとされる墓がある。北緯26度18分17.96秒 東経127度47分50.66秒

義本を葬ったと伝えられる墓は、知られている中で、沖縄本島北部の国頭村に7か所、中部の北中城村に1か所、そして鹿児島県奄美群島に2か所、計10か所に点在している[26][注 2]。退位後の義本の消息は不明であるが、それが人々の関心と同情を買い、その後、義本と由縁があると称する者が墓を設置している[40]

沖縄県国頭郡国頭村の辺戸に、義本を葬ったと伝えられる墓がある。これは「辺戸玉陵」と呼ばれ、高さ約1メートルの石垣で囲い、その中に縦・横約1.8メートル、高さ約3メートルの石造りの墓が築かれている。明治初期に第二尚氏によって改修させられ、墓は近代的な構造になっている。義本が辺戸に住む佐久真家の家宅を仮寓にしたと言われ、尚穆王時代以降に当家が墓守に任命されたという[41]

同県中頭郡北中城村の仲順(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽」とよばれる御嶽がある。その中に石垣があり、その奥の岩が当御嶽の本体(イベ)である。さらにその岩の上に、舜天と舜馬順煕の二人の王を葬ったとされる、コンクリート製の墓が存在するが、義本も葬られているとされ、「ナスの御嶽」は「義本王の墓」とも呼ばれている[42]

国頭村辺戸以外にも、同村の伊地には「一つ墓(ティーチバカ)」と呼ばれる墓があるが、文化財保護委員会による調査で、義本のものと思われる遺物は発見できなかった[40]。また、同村の佐手や半地地区など、さらに、奄美群島にも義本と伝えられる墓は所在している[26]

脚注

注釈

  1. ^ a b 本来のグスクの名前は、単に「玉城(玉グスク)」である[34]
  2. ^ 『国頭村史』(1967年)によれば、墓の所在は沖縄本島の国頭村辺戸・伊地・佐手、北中城村仲順の4か所としている[40]

出典

  1. ^ a b c 安里ほか(2004年)、p.61
  2. ^ 東恩納(1966年)、p.29
  3. ^ 安里ほか(2004年)、p.63
  4. ^ a b 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.57
  5. ^ 糸数兼治「神号」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.478
  6. ^ a b 高良倉吉「舜天王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、pp.407 - 408
  7. ^ 安里(2006年)、p.4
  8. ^ a b c 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.57
  9. ^ a b c 高良倉吉「義本」、『沖縄大百科事典 上巻』(1983年)、p.862
  10. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、pp.56 - 57
  11. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.12
  12. ^ 「注釈 2」、『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、pp.58 - 59
  13. ^ 与並(2005年)、p.84
  14. ^ 与並(2005年)、pp.82 - 85
  15. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.58
  16. ^ 安里ほか(2004年)、p.62
  17. ^ 『訳注 中山世鑑』(2011年)、p.58
  18. ^ 与並(2005年)、p.87
  19. ^ 与並(2005年)、p.70
  20. ^ 池宮正治「舜天王統」、『浦添市史』(1989年)、p.338
  21. ^ 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳』(1998年)、p.39
  22. ^ 安里(2006年)、p.2
  23. ^ 知念勇「浦添グスク」、『浦添市史』(1989年)、pp.225 - 227
  24. ^ 嘉手納宗徳「中山王統」、『沖縄大百科事典 中巻』(1983年)、p.780
  25. ^ 与並(2005年)、p.90
  26. ^ a b c d e f 井上(1985年)、p.25
  27. ^ 井上(1985年)、pp.20 - 21
  28. ^ 安里ほか(2004年)、pp.61 - 62
  29. ^ 井上(1985年)、pp.21 - 22
  30. ^ a b c 井上(1985年)、p.23
  31. ^ 井上(1985年)、pp.24 - 25
  32. ^ 井上(1985年)、pp.25 - 26
  33. ^ 井上(1985年)、pp.28 - 29
  34. ^ 与並(2005年)、p.88
  35. ^ 与並(2005年)、pp.88 - 91
  36. ^ 『玉城村の文化財概要』(1986年)、pp.14 - 15
  37. ^ 与並(2005年)、pp.88 - 89
  38. ^ 比嘉(1989年)、pp.16 - 17
  39. ^ 国頭村役場編(1967年)、p.54
  40. ^ a b c 国頭村役場編(1967年)、p.52
  41. ^ 国頭村役場編(1967年)、pp.52 - 53, 317
  42. ^ 「仲順の文化財 ナスの御嶽」、『北中城村の文化財』(1990年)、p.11

参考文献

  • 安里進 『琉球の王権とグスク』 山川出版社〈日本史リブレット 42〉、2006年12月20日。ISBN 4-634-54420-2
  • 安里進ほか 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年8月5日。ISBN 4-634-32470-9
  • 井上秀雄「舜天王統滅亡の考察 - 英祖王への禅譲説に対する疑問 -」、沖縄女子短期大学紀要編集委員会編 『沖縄女子短期大学紀要 第4号』 pp.21 - 30、沖縄女子短期大学、1985年3月。
  • 浦添市史編集委員会編 『浦添市史 第一巻 通史編 浦添のあゆみ』 浦添市教育委員会、1989年3月29日。
  • 沖縄県玉城村教育委員会編 『玉城村の文化財概要』 玉城村教育委員会、1986年10月。
  • 沖縄大百科事典刊行事務局編 『沖縄大百科事典沖縄タイムス社、1983年5月30日。全国書誌番号:84009086
  • 北中城村教育委員会社会教育課編 『北中城村の文化財 北中城村文化財調査報告書第1集』 北中城村教育委員会、1990年3月。
  • 国頭村役場編 『国頭村史』 国頭村役場、1967年3月31日(1983年3月1日二刷)。
  • 蔡鐸著 原田禹雄訳注 『蔡鐸本 中山世譜 現代語訳榕樹書林〈琉球弧叢書 4〉、1998年7月30日。ISBN 4-947667-50-8
  • 首里王府(羽地朝秀 他)編著、諸見友重訳注 『訳注 中山世鑑』 榕樹書林〈琉球弧叢書 24〉、2011年5月27日。ISBN 978-4-89805-152-8
  • 東恩納寛惇 『琉球の歴史』 至文堂〈日本歴史新書 増補版〉、1966年11月10日。
  • 比嘉朝進 『沖縄の事件史100のナゾ』 風土記社、1989年5月29日。
  • 与並岳生 『新琉球王統史 1 舜天 / 英祖』 新星出版、2005年10月1日。ISBN 4-902193-20-5

関連項目

外部リンク