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「十二因縁」の版間の差分

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'''十二因縁''' (じゅうにいんねん)、あるいは、'''十二縁起'''(じゅうにえんぎ、{{要出典範囲|{{lang-pi-short|dvādasaṅga-paṭiccasamuppāda}}, '''ドヴァーダサンガ・パティッチャサムッパーダ'''、{{lang-sa-short|dvādaśāṅga-pratītyasamutpāda}}, '''ドヴァーダシャーンガ・プラティーティヤサムトパーダ''')|date=2017年7月21日 (金) 07:41 (UTC)|title=}}は、[[仏教]]において、現実の人生の苦根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件系列化したもの<ref name="ib485">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |coauthors= |others= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |page=485 }}</ref>仏教基本な考え一つである<ref name="ib485" />
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'''十二因縁''' (じゅうにいんねん)、あるいは、'''十二縁起'''(じゅうにえんぎ、{{lang-pi-short|dvādasaṅga-paṭiccasamuppāda}}, '''ドヴァーダサンガ・パティッチャサムッパーダ'''、{{lang-sa-short|dvādaśāṅga-pratītyasamutpāda}}, '''ドヴァーダシャーンガ・プラティーティヤサムトパーダ''')は、[[仏教用語]]の一つ。しみ原因は無明より始まり、老死で終わるされる、それぞれが順序として相互関連する12の因果の理法いう因果関係を端に表現したが「'''[[此縁性]]'''」である。


鳩摩羅什訳(旧訳)では'''十二因縁'''とし、玄奘訳(新訳)では'''十二縁起'''と訳す。他にも'''十二支縁起'''、'''十二支因縁'''などと表記する場合がある。
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== 概要 ==
== 概要 ==
十二因縁の支分は、'''無明'''、'''行'''、'''識'''、'''名色'''、'''六処'''、'''触'''、'''受'''、'''愛'''、'''取'''、'''有'''、'''生'''、'''老死'''の12個であり(支分の詳細は[[#十二の支分(十二支縁起の要素)|十二の支分]]の節を参照)、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを'''順観'''という<ref name="ib485" />{{efn|順観は'''流転の縁起'''ともいう<ref name="ib485" />。}}。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を'''逆観'''という<ref name="ib485" />{{efn|逆観は'''還滅の縁起'''ともいう<ref name="ib485" />。}}。
『[[阿含経]]』では[[釈迦]]が自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認したとあり、人間が「[[苦 (仏教)|苦]]」を感ずる原因を順に分析したものであることを説いている<ref>十二因縁には[[五蘊]]にみられる、「受({{lang|sa|vedanā}})、想({{lang|sa|saṃjña}})、行({{lang|sa|saṃskāra}})、識({{lang|sa|vijñāna}})」のうちの「想({{lang|sa|saṃjña}})」が存在せず、順序も異なっている。</ref>


順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する[[因果]]の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと[[悟り|悟る]]<ref name="ib485" />。その際には苦悩が消滅し、根源の無明が消滅しているため[[輪廻]]もなくなるとされる<ref name="ib485" />。
== 十二支縁起の要素 ==


== 十二の支分(十二支縁起の要素 ==
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# [[無明]](むみょう、{{lang-pi-short|avijjā}}, {{lang-sa-short|avidyā}}) - 過去世の無始の[[煩悩]]。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
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# [[老死]](ろうし、{{lang|pi|jarā-maraṇa}}) - 老いと死。
# [[老死]](ろうし、{{lang|pi|jarā-maraṇa}}) - 老いと死。


== 経典における扱い ==
==十二因縁の展開==
=== 阿含経 ===
老死とは、老いて死んでゆく人間にとっての厳粛な事実であり、生もまた生まれることである。しかし、これは単なる生命現象としてではなく、老死によって無常苦が語られ、また生においても苦が語られている。そうでなければ、釈迦の成道に何らの関係もない。したがって、老や死は苦悩の具体的事実である。これは無常苦の中を行き続ける自己を見つめることで、喜と楽による幸福の儚(はかな)さを物語るものであり、人間生存自身の無常苦を意味する。この点で、生も単なる生命現象としてではなく、無常苦の起因、根本として求められたものとされる。
{{出典の明記|date=2017年7月21日 (金) 07:41 (UTC)|section=1}}
『[[阿含経]]』では[[釈迦]]が自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認したとあり、人間が「[[苦 (仏教)|苦]]」を感ずる原因を順に分析したものであることを説いている{{efn|十二因縁には[[五蘊]]にみられる、「受({{lang|sa|vedanā}})、想({{lang|sa|saṃjña}})、行({{lang|sa|saṃskāra}})、識({{lang|sa|vijñāna}})」のうちの「想({{lang|sa|saṃjña}})」が存在せず、順序も異なっている。}}


==脚注==
「老死がなぜあるか、それは生まれてきたから」では無常苦の解決にはならない。生も苦、老死も苦、人生そのものが苦と、ここに語られる。生老死がなぜ苦なのか、毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活だからである。その生活こそ生老死を苦とする根本であり、それを有という。生活の行為が生老死を苦と感じさせるのはなぜかというと、常に執着をもった生活をしているからである。とくに、自分自身と自分の所有へのとらわれが、その理由であり、取による有といわれる。その取こそ愛によるのである。
=== 注釈 ===
{{notelist}}


=== 出典 ===
経典は、この愛について三を説いている。
{{reflist}}
*有愛({{lang-pi-short|bhava-taṇhā}}) - 存在欲。生きることを渇望する心。
*非有愛({{lang-pi-short|vibhava-taṇhā}}) - 非存在欲。有愛がはばまれる時に起こる、死を求める心。
*欲愛({{lang-pi-short|kāma-taṇhā}}) - 刺激欲。感覚器官からの刺激を求める心。思考やイメージなど、自分の心(意根)で生み出す刺激も含む。

==後代の縁起論との相違 ==
仏教においては、[[部派仏教]]・[[大乗仏教]]の時代になると、釈迦の縁起説の解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、縁起を原因である「因」と条件である「縁」に分けて複線的または非線形的な「因縁生起」として理解したり、[[中観派]]に見られるような双方向的(相補的・相対的)な「相依性」(そうえしょう)として理解する縁起観が生まれた。それらの説は専ら「主客」設定の方法論の相違に起因する世界観の違いと捉えられるが、この十二因縁のような初期の縁起説は、あくまでも「煩悩」と「苦」をつなぐ、原因と結果の連なりによる直線的かつ主体的な因果関係であることに注意が必要である。

==脚注==
<references/>


==関連項目==
==関連項目==
*[[此縁性]]
* [[此縁性]]
* [[五蘊]] - [[八苦]]
* [[五蘊]]
* [[八苦]]
* [[因]]
* [[縁起]]
* [[縁起]]
* [[因]]


{{Buddhism2}}
{{Buddhism2}}

2017年7月21日 (金) 07:41時点における版

十二因縁 (じゅうにいんねん)、あるいは、十二縁起(じゅうにえんぎ、: dvādasaṅga-paṭiccasamuppāda, ドヴァーダサンガ・パティッチャサムッパーダ: dvādaśāṅga-pratītyasamutpāda, ドヴァーダシャーンガ・プラティーティヤサムトパーダ)[要出典]は、仏教において、現実の人生の苦悩の根源を断つことによって苦悩を滅するための12の条件を系列化したもの[1]。仏教の基本的な考えの一つである[1]

鳩摩羅什訳(旧訳)[要追加記述]では十二因縁とし、玄奘訳(新訳)では十二縁起と訳す。他にも十二支縁起[1]十二支因縁などと表記する場合がある。

概要

十二因縁の支分は、無明名色六処老死の12個であり(支分の詳細は十二の支分の節を参照)、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という[1][注釈 1]。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という[1][注釈 2]

順観と逆観の両方を行って、人間のありように関する因果の道理を明らかにした結果、因果の道理に対する無知が苦悩の原因であったと悟る[1]。その際には苦悩が消滅し、根源の無明が消滅しているため輪廻もなくなるとされる[1]

十二の支分(十二支縁起の要素)

  1. 無明(むみょう、: avijjā, : avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。
  2. (ぎょう、: saṅkhāra, : saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業
  3. (しき、: viññāṇa, : vijñāna) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
  4. 名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
  5. 六処(ろくしょ、: saḷāyatana, : ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
  6. (そく、: phassa, : sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
  7. (じゅ、vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。
  8. (あい、: taṇhā, : tṛṣṇā) - 渇愛。
  9. (しゅ、upādāna) - 執着。
  10. (う、bhava) - 存在。生存。
  11. (しょう、jāti) - 生まれること。
  12. 老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。

経典における扱い

阿含経

阿含経』では釈迦が自らの苦を解決する道が正しかったかどうか、この十二支によって確認したとあり、人間が「」を感ずる原因を順に分析したものであることを説いている[注釈 3]

脚注

注釈

  1. ^ 順観は流転の縁起ともいう[1]
  2. ^ 逆観は還滅の縁起ともいう[1]
  3. ^ 十二因縁には五蘊にみられる、「受(vedanā)、想(saṃjña)、行(saṃskāra)、識(vijñāna)」のうちの「想(saṃjña)」が存在せず、順序も異なっている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、485頁。 

関連項目