「四諦」の版間の差分
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{{複数の問題|出典の明記=2017年5月29日 (月) 07:29 (UTC)|独自研究=2017年5月29日 (月) 07:29 (UTC)|一次資料=2017年5月29日 (月) 07:29 (UTC)}} |
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'''四諦'''(したい)、または'''四聖諦'''(ししょうたい、{{lang-sa-short|catvāri ārya-satyāni}}, チャトヴァーリ・アーリヤ・サティヤーニ、{{lang-pi-short|cattāri ariya-saccāni}}, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理([[諦]]))とは、[[仏教用語]]で、[[釈迦]]が[[悟り]]に至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である苦・集・滅・道のこと。[[此縁性]]を実践的観点から言い換えたもの。 |
'''四諦'''(したい)、または'''四聖諦'''(ししょうたい、{{lang-sa-short|catvāri ārya-satyāni}}, チャトヴァーリ・アーリヤ・サティヤーニ、{{lang-pi-short|cattāri ariya-saccāni}}, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理([[諦]]))とは、[[仏教用語]]で、[[釈迦]]が[[悟り]]に至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である苦・集・滅・道のこと。[[此縁性]]を実践的観点から言い換えたもの{{要出典|date=2017年7月21日 (金) 02:49 (UTC)|title=}}。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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*滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理 |
*滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理 |
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*道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理 |
*道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理 |
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<!--(エッセーのような内容なので、隠します。文面を整理して客観的な記述に改めて下さい。)諦(たい)は通常「諦(あきら)める」と読み、仕方がないと断念したり、思い切ってその良くない状態を受け入れたりする、という人の行動の一つ。この現代語の意味どおりに四諦を訳すると |
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* 苦諦:苦を仕方ないと諦める |
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* 集諦:苦の原因を知って諦める |
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* 滅諦:苦の滅を諦める |
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* 道諦:苦の滅を実現する道を諦める(→[[八正道]]) |
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となり、 |
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まるで全てを諦めて平穏に生きろと言っているようだが、そうではない。 |
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もともと日本語の「あきらめる」は「明らかにする(=一説によると「明らむ+める(めり)」)から来ている。転じて諦めるは気づく、気がつくという意味になる。つまり、どうにもならないことに固執してしがみつくのをやめるということである。その時に人間は平安になれるというのが、仏の教えなのである。つまり、釈迦は何もかも諦めると平穏になると気がついた、ということになってしまう。 |
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これは、人が苦を知った後の行動を言っている。 |
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苦を知った後、諦める・諦めないという2つの選択肢ができる。諦めないなら、どうするか。苦の原因を探すだろう。その原因を知って、また、2つの選択肢のどちらかを進む。その原因が取り除けないものとわかったら、諦めるだろう。諦めないなら、次に、苦を滅しようと原因をとろうとする。そして、成功すれば苦の滅を実現する道(人生)となる。失敗すれば、実現する道を諦めることになる。--> |
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釈迦は[[悟り|さとり]]を得た後、[[ヴァーラーナスィー]]の[[鹿野苑]]において、初めて[[五比丘]]のために法を説いた([[初転法輪]])。この時、四諦を説いたと言われる。 |
釈迦は[[悟り|さとり]]を得た後、[[ヴァーラーナスィー]]の[[鹿野苑]]において、初めて[[五比丘]]のために法を説いた([[初転法輪]])。この時、四諦を説いたと言われる。 |
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== 歴史的背景 == |
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{{要出典範囲|釈迦は[[初転法輪]]において、まず迷いの現実が苦であることと、その苦は克服しうるものであることを明らかにした。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、煩悩こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道は、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することが、苦の原因である。この苦を滅して涅槃の世界に入る方法が「仏道」である。|date=2017年5月22日 (月) 00:49 (UTC)|title=}} |
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⚫ | パーリ語経典長部の『[[沙門果経]]』では、四諦は、[[沙門]](出家修行者、[[比丘]]・[[比丘尼]])が、[[戒律]]([[具足戒]]・[[波羅提木叉]])順守によって清浄な生活を営みながら、[[止観]]([[瞑想]])修行に精進し続けることで得られる[[六神通]]の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている<ref>長尾雅人(責任編集) 『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』 中央公論社、1969年、503-537頁。</ref>{{要検証|date=2017年5月22日 (月) 00:49 (UTC)|title=537頁のみでは出典として足りず、少なくとも503-537頁までの範囲が出典として必要なことは明らかであるが、それのみで足りるかどうかはなお未検証。}}。 |
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== 四つの真理 == |
== 四つの真理 == |
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=== 滅諦 === |
=== 滅諦 === |
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滅諦(めったい、{{lang-sa-short|nirodha satya}}, ニローダ・サティヤ、{{lang-pi-short|nirodha sacca}}, ニローダ・サッチャ、'''苦滅諦''', くめつたい)とは、「苦は滅する」という真理 |
滅諦(めったい、{{lang-sa-short|nirodha satya}}, ニローダ・サティヤ、{{lang-pi-short|nirodha sacca}}, ニローダ・サッチャ、'''苦滅諦''', くめつたい)とは、「苦は滅する」という真理。 |
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具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。--> |
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=== 道諦 === |
=== 道諦 === |
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道諦(どうたい、{{lang-sa-short|mārga satya}}, マールガ・サティヤ、{{lang-pi-short|magga sacca}}, マッガ・サッチャ、'''苦滅道諦''', くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した[[解脱]]への道である。その[[七科三十七道品]]といわれる修行の中の一つの課程が[[八正道]]である。 |
道諦(どうたい、{{lang-sa-short|mārga satya}}, マールガ・サティヤ、{{lang-pi-short|magga sacca}}, マッガ・サッチャ、'''苦滅道諦''', くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した[[解脱]]への道である。その[[七科三十七道品]]といわれる修行の中の一つの課程が[[八正道]]である。 |
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== 仏典における扱い == |
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=== パーリ仏典 === |
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{{一次資料|date=2017年7月21日 (金) 02:49 (UTC)|section=1}} |
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⚫ | パーリ語経典長部の『[[沙門果経]]』では、四諦は、[[沙門]](出家修行者、[[比丘]]・[[比丘尼]])が、[[戒律]]([[具足戒]]・[[波羅提木叉]])順守によって清浄な生活を営みながら、[[止観]]([[瞑想]])修行に精進し続けることで得られる[[六神通]]の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている<ref>長尾雅人(責任編集) 『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』 中央公論社、1969年、503-537頁。</ref>{{要検証|date=2017年5月22日 (月) 00:49 (UTC)|title=537頁のみでは出典として足りず、少なくとも503-537頁までの範囲が出典として必要なことは明らかであるが、それのみで足りるかどうかはなお未検証。}}。 |
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=== 阿毘達磨大毘婆沙論 === |
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{{一次資料|date=2017年7月21日 (金) 02:49 (UTC)|section=1}} |
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{{独自研究範囲|[[阿毘達磨大毘婆沙論]]などは、四諦は[[四沙門果]]と同義としている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『根本説一切有部毘奈耶(義淨譯)』 (T1442_.23.0676c21: ~): 謂四沙門果 預流一來不還阿羅漢 智者謂四智 苦智集智滅智道智 及餘諸智 見者謂四聖諦見。</ref><ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[阿毘達磨大毘婆沙論]](義淨譯)』 (T1545_.27.0553c05: ~): 學謂預流一來不還補特伽羅 迹謂四聖諦 以無漏慧已具見四諦迹故名學見迹 阿羅漢者謂慧解脱或倶解脱。※補特伽羅(ほとがら 梵: Pudgala)の意味には諸説ある。</ref>。|date=2017年5月22日 (月) 15:14 (UTC)|title=出典とされる引用内容に「同義」という語は無い。}} |
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=== 大般涅槃経における四諦 === |
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{{一次資料|date=2017年7月21日 (金) 02:49 (UTC)|section=1}} |
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大乗の『[[大般涅槃経]]』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。 |
大乗の『[[大般涅槃経]]』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。 |
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;苦聖諦 |
;苦聖諦 |
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:仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別なく一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、[[三宝]]の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。 |
:仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別なく一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、[[三宝]]の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。 |
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== 脚注 == |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
2017年7月21日 (金) 02:50時点における版
四諦(したい)、または四聖諦(ししょうたい、梵: catvāri ārya-satyāni, チャトヴァーリ・アーリヤ・サティヤーニ、巴: cattāri ariya-saccāni, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理(諦))とは、仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である苦・集・滅・道のこと。此縁性を実践的観点から言い換えたもの[要出典]。
概要
4つの諦(たい)を示す。これらは苦集滅道と略称される。
- 苦諦(くたい) - 一切は苦であるという真理
- 集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
- 滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
- 道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理
釈迦はさとりを得た後、ヴァーラーナスィーの鹿野苑において、初めて五比丘のために法を説いた(初転法輪)。この時、四諦を説いたと言われる。
四つの真理
苦諦
苦諦(くたい、梵: duḥkha satya, ドゥッカ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)とは、人間にとってはこの世界の一切が苦であるという様態の真相、現実を指す。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、生・老・病・死である。これらに、下の四つの苦を加えて八苦という。
- 愛別離苦(あいべつりく) - 愛する対象と別れること
- 怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
- 求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ている。
集諦
集諦(じったい、じゅうたい、梵: samudaya satya, サムダヤ・サティヤ、巴: dukkha sacca, ドゥッカ・サッチャ)または苦集諦(くじゅうたい)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって表れたものである、つまり「苦には原因がある」という真理のこと。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれる。集(じつ)とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされる。
集諦の原語は samudaya(サムダヤ)であり、一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「積み重ねる」などを意味し、さらに「結合する」などを意味する。したがって、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは "duḥkha samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは、欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦である。
滅諦
滅諦(めったい、梵: nirodha satya, ニローダ・サティヤ、巴: nirodha sacca, ニローダ・サッチャ、苦滅諦, くめつたい)とは、「苦は滅する」という真理。
道諦
道諦(どうたい、梵: mārga satya, マールガ・サティヤ、巴: magga sacca, マッガ・サッチャ、苦滅道諦, くめつどうたい)とは、「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。
仏典における扱い
パーリ仏典
パーリ語経典は、釈迦はこの四諦のそれぞれを示・勧・証(知る・実践する・確認する)の三転から考察し(三転十二行相)、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとする[1]。
パーリ語経典長部の『沙門果経』では、四諦は、沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)が、戒律(具足戒・波羅提木叉)順守によって清浄な生活を営みながら、止観(瞑想)修行に精進し続けることで得られる六神通の最終段階「漏尽通」に至って、はじめてありのままに知ることができると述べられている[2][要検証 ]。
阿毘達磨大毘婆沙論
阿毘達磨大毘婆沙論などは、四諦は四沙門果と同義としている[3][4]。[独自研究?]
大般涅槃経における四諦
大乗の『大般涅槃経』の四諦品(したいぼん)では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、涅槃の教理的な四聖諦を説いている。
- 苦聖諦
- この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
- 集聖諦
- 苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、窮まりないと證知すること。また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
- 滅聖諦
- 苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅することが悟りの境地であるが、如来の秘密蔵(ひみつぞう)を正しく知り修智(しゅち)すれば、煩悩があっても除くことができる。また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(にょらいぞう)(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
- 道聖諦
- 仏道修行を通して一体三宝(仏法僧は差別なく一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、修習すること。また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。
脚注
注釈
出典
- ^ 『パーリ仏典』律蔵大品1:1:6:28[要追加記述]
- ^ 長尾雅人(責任編集) 『世界の名著 1 バラモン経典 原始仏典』 中央公論社、1969年、503-537頁。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『根本説一切有部毘奈耶(義淨譯)』 (T1442_.23.0676c21: ~): 謂四沙門果 預流一來不還阿羅漢 智者謂四智 苦智集智滅智道智 及餘諸智 見者謂四聖諦見。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘達磨大毘婆沙論(義淨譯)』 (T1545_.27.0553c05: ~): 學謂預流一來不還補特伽羅 迹謂四聖諦 以無漏慧已具見四諦迹故名學見迹 阿羅漢者謂慧解脱或倶解脱。※補特伽羅(ほとがら 梵: Pudgala)の意味には諸説ある。