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: 翼内にホ5 20mm機関砲2門、機首にホ103 12.7mm機関砲2門を装備した対戦闘機戦重視の基本型。生産されたほとんどの機体はこの型式。携行弾数はホ5が1門につき150発、ホ103は1門につき350発であった。 |
2017年5月5日 (金) 13:30時点における版
中島 キ84 四式戦闘機「疾風」
多摩陸軍飛行場(福生飛行場)にて陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊によりテスト中のキ84増加試作機(第124号機)
四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、太平洋戦争中の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ84。愛称は疾風(はやて)。呼称・略称は四式戦、四戦、ハチヨン、大東亜決戦機、決戦機など。連合軍のコードネームはFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機。
概要
九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式戦闘機(二式単座戦闘機)「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性および生産性に優れた傑作機であった。さらに、624km/h/5,000mという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であり、またキ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/h/6,000mを、戦後のアメリカ軍によるテストでは687km/h/6,096mを記録している(100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカ製点火プラグを使用し、武装を取り除いた重量7,490lb(3,397kg)の状態)。四式重爆撃機「飛龍」(キ67)とともに重点生産機に指定され、総生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争(大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零戦、一式戦に次ぐ約3,500機に及んだ。
帝国陸軍から早くから「大東亜決戦機(大東亜決戦号・決戦機)」として大いに期待され、大戦後期の主力戦闘機として多数機が各飛行戦隊といった第一級線の実戦部隊に配備、当時の主要戦線の全て(中国戦線・フィリピン戦線・ビルマ戦線)および日本本土防空戦に従軍し、対戦したアメリカ軍からも「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機、日本最良戦闘機)」と評価された[要出典]機体だったが、整備状況によるものの搭載した新型エンジンハ45(誉)の不調や、潤滑油・ガソリン(オクタン価)の品質低下、点火プラグ・電気コードといった部品の不良・不足、整備力の低下などにより全体的に稼働率が低く、また、スペック通りの最高性能を出すのが難しかったため、大戦後半に登場した陸海軍機の多くと同様、専門家の間でも評価の分かれる機体である。
開発経過
1941年(昭和16年)12月29日、キ44(のちの二式戦)の発展型として中島に対し、最高速度680km/h以上、20mm機関砲2門・12.7mm機関砲2門装備、制空・防空・襲撃など、あらゆる任務に使用可能な高性能万能戦闘機の開発指示がなされた。当初はキ44の2,000馬力級エンジンハ145搭載型であるキ44-III(計画のみという説と少数機試作されたとの説がある)をベースに翼面積を増やして着陸を容易にし、燃料搭載量を増して航続距離を伸ばし、強力なエンジンにより速度・上昇力の向上を狙ったものになる予定であった。
しかし、キ84は最初から広大な太平洋戦域で運用される事が決まっていたため、更なる航続距離の伸長が求められ、燃料搭載量の増加とともに翼面荷重を計画値の155kg/m2に収めるために翼面積の拡大を余儀なくされ、2,700kg程度と目されていた全備重量は3,000kgを優に越える見通しとなり、それに対応して翼面積を増やすとまた重量が増加するという悪循環に陥り、特に主翼の設計は難航した。さらに、前線からの要求で防弾・防火装備、武装の強化なども必須となり、これも重量が増加する一因となった。
結局主翼面積は計画値の17.4m2から最終的に21m2となり、予定していた全備重量が実機の自重になってしまう程だったが、紆余曲折を経てようやくキ84の設計はまとまり、1943年(昭和18年)3月に試作1号機が完成、4月に初飛行した。陸軍側で初めてキ84を操縦した陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊(旧飛行実験部実験隊戦闘機班)キ84審査主任(テストパイロット)岩橋譲三少佐は、「これはいける」と笑いながら述べ、設計主務者小山以下開発スタッフが感涙に咽んだエピソードがある。試験飛行は1~3号機までは比較的順調に進み好成績を収めたが、量産型のハ45を搭載した4~7号機ではエンジンとプロペラのトラブルに悩まされ、特にエンジンに関しては試験期間中最後まで解決しなかったと伝えられる。
問題を抱えながらも一刻も早い実用化と生産体制の整備を目的に、また審査部のテストパイロットである荒蒔義次少佐の進言もあり、増加試作機は10機以内という従来の方針を転換し審査と試作を併行して進めた結果、制式前に100機を越える大量の増加試作機が生産され、1944年(皇紀2604年)4月にキ84は四式戦闘機として制式採用、順次中島太田工場・宇都宮工場で量産が開始された。
愛称
1944年10月、四式戦は所沢陸軍飛行場において各報道関係者に初公開された。公開された機体は飛行第73戦隊に所属し[注 1]、無塗装銀地に部隊マークや機体番号などを描いた実戦機であり、この際に写真撮影された機体(右掲画像)は最初期量産型である第491号機であった。
さらに愛称は「隼(一式戦)」・「鍾馗(二式戦)」・「飛燕(三式戦)」・「屠龍(二式複戦)」といった各新鋭戦闘機に次ぐものとして日本全国から募集された。中でも多くの票数を占めかつ陸軍省選定の結果「疾風」(はやて)の名が選ばれ、1945年(昭和20年)4月11日付の各新聞にて「殊勲を樹てている陸軍最新鋭戦闘機」「疾風のごとく敵に襲いかかるわが戦闘機の雄姿を讃ふにふさわしい名前」という賛辞が交えられつつ、実戦部隊所属機の写真付きで発表されている[1]。
四式戦「疾風」は「帝国陸軍の新鋭戦闘機」として国民に知られた存在であり、一式戦「隼」の宣伝に代表される広報活動に対する陸軍の関心の高さも相まり、「疾風」もまた各メディアで登場することになる。例として、1945年7月1日公開の日本ニュース第254号では『陸の猛鷲「疾風」戦闘機隊 神州犯す醜翼に挑む我等が決戦機隊』と題し、軍歌『疾風戦闘隊の歌』をBGMに、機体番号を派手なフォントで大きく垂直尾翼に描いた明野教導飛行師団教導飛行隊所属の四式戦数十機の映像(地上駐機時や操縦席、4機編隊からなる小隊離陸や低空飛行シーン)が使用されている。なお、この日本ニュース第254号『征空部隊』号は海軍の雷電と前後でセットになっており、また大戦最末期の公開のため第二次大戦最後の日本ニュースとなっている[注 2]。
コードネーム
本機に付けられた連合軍のコードネーム「Frank(フランク)」の由来は、当時フィリピンで鹵獲した当機をテストしたアメリカ陸軍航空軍のチームの長、フランク・マッコイ大佐が、優れた性能を持つ敵機に自らの名を呈上したものだと伝えられる。
マッコイはコードネームを付与する部門の責任者でもあり、自分の名前を有力な戦闘機に付けたいと願い、一旦「三菱陸軍零式単座双発戦闘機(Mitsubishi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter.」(架空の機体)に与えたが、のちにそれを取り上げて四式戦に割り当てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代わりに「Harry(ハリー)」という名が与えられたという[2]。
技術的特徴
機体設計
四式戦は2,000馬力級戦闘機としては極めて小型、軽量に設計されている。基本的に一式戦・二式戦の延長線上にあり、機軸と前縁が直交し後縁が前進する主翼や、水平尾翼より後方にある垂直尾翼、蝶形フラップ[注 3]、前後で分割する胴体など、中島製戦闘機の特徴を有している。ただし、一式戦・二式戦がエンジンの後方から急速に絞られた胴体を採用しているのに対し、四式戦ではここでの乱流発生を警戒して徐々に細く絞った胴体形状を採用しているのが特徴となる。生産性に配慮しているのも特徴で、一式戦・二式戦と比較して生産時間が2/3ほどに減少している。
生産性を除くと四式戦の機体設計は一式戦・二式戦とあまり変わり映えのしないものであったが、九七戦・一式戦では軽く設定されていた操縦系統が意図的に重く設定されている。従来の軽い操縦系統は急旋回を行えるためその際にかかる荷重に対応して機体強度を高くしなければならず、強度確保のために機体重量が増加し、結果として飛行性能が低下するという悪循環が起きていた。そこで、急旋回を難しくすることで機体強度を低く設定して機体の軽量化を図り、速度や上昇力の向上につなげるという意図の元に重い操縦系統が採用されている[注 4]。これは陸軍(准尉)から中島のテストパイロットに転出した吉沢鶴寿の意見を取り入れたものと推測される。以下に機体設計時に吉沢が述べた意見を記す。
「そこで私は翼桁を太くするより操縦桿を重くして欲しいといった。エルロンは軽目でもいいが、昇降舵と方向舵は重目でなければいけないというのが私の考え。それというのもキ27から日本人は舵の軽いのに慣れてきた。その方が器用に扱え、空中戦もこなせるからであった。ところが、キ43クラスになると操縦桿を思わず引っぱりすぎて空中分解を起こすケースも出てきた。これを避けるには翼桁を太くすればよいかもしれないが、それでは機体が大きく重くなる。これに対し、アメリカ、イギリス、ドイツのは実に舵が重い。どんなに引っ張っても、われわれ日本人の力では効かないぐらい重い。これはひとつにはスティックの長さが違うこともある。日本のは長い。当然、レシオが異なってくるわけで、この点を改めたいと思っていたわけだ」 — 吉沢鶴寿、井口修道「軍用機メカ・シリーズ7」中の「異色のテス・パイ“疾風”を語る」光人社[3]より
このため四式戦では急旋回を多用する従来の空戦法(格闘戦)を行い難くなり、四式戦に適応した一撃離脱戦法を用いなければ本来の能力を活かせなくなった。そのため、一式戦などに慣れているベテラン操縦者の一部からは「いざというときに敵弾を回避できない気がする」、「座敷のような広い主翼のついた、押しても引いてもびくともしない戦闘機」、「何をしてもできるが、何をしても大したことがない戦闘機」と不評を投じる向きもあった。
上記、昇降舵の重さについては設計主務者である小山悌、テストパイロットの吉沢鶴寿、計画課長の内藤文治は雑誌「航空情報」上の対談において戦後以下のように述べている。
「吉沢 黒江保彦さん(元少佐)も述べていたようですが,突っ込みがよくなかったと思いますね。
馬場 加速性が悪いのですか?
吉沢 つまり,突っ込みますと,昇降舵に応えて重くなり, 押さえがきかなくなってしまう。だから,機首が持ち上がってしまう。
小山 あの時の思想としては,ある程度突っ込んでいったら, 機首が起きるほうがよいと記憶しています。どんどん突っ込んでいったら,どんなことになるか分からぬ。そういうことを審査員が心配されたので,意識して「昇降舵は速度を増してくると重くなる」といっていましたよ。
吉沢 敵がどんどん逃げたら,どうしょうもない。
小山 そう,逃げる者は当時としては追わぬ,戦闘機パイロットの思想としては……。
内藤 結局,戦法が変わっちゃったのだから……。」
— 「知られざる軍用機開発」下巻 中の座談会『キ87高々度戦闘機の思い出』酣燈社[4]より
操縦者によっては四式戦より慣れ親しんだ一式戦や、末期に登場した五式戦闘機(キ100)を高く評価する事があるのは、エンジンの信頼性のほか旋回性能を極限まで発揮できる機体であったからとも言える。しかし、飛行第22戦隊附脇森降一郎少尉の「操縦桿を力っぱい振れば格闘戦用の旋回能力もかなりある」といった感想や、実戦での模様から四式戦は「格闘戦も出来る重戦」、「軽戦(一式戦)と重戦(二式戦)の良いとこ取り」とも評価され、また、高高度での操縦性や速度、防御の点で本機の右にでる日本陸海軍戦闘機はなかった。
エンジン
搭載エンジンであるハ45はハ25/ハ115(海軍名「栄」)の18気筒版とでも言うべきものであり、当時欧米に水を空けられていたエンジン技術の格差を埋めるべく、ハ25と殆ど同じ前面面積で約2倍の出力を目指した新世代エンジンであった。やや無理な小型化が行われたためエンジン各部の余裕が少なく、「芸術品」と評されるほど繊細な部分があったとされる。このため大戦末期の量産時には、初期故障の頻発の上に、未熟な徴用工員を動員しての軍需省主導の無理な大量生産、さらには、量産数を維持させるための監督官からの指示が原因による品質低下などが起こり、額面通りの性能が発揮できないものが多発した[注 5]。この事態に陸海軍や中島が手をこまねいていたわけではなく、可能な限りの対策が取られている。なお、1944年に海軍に納められた誉のベンチテストの結果が、カタログ値より数割低かったという証言があるが、その反面で同時期にフィリピンでアメリカ軍に鹵獲され、好評価を得た機体のハ45は完全な量産品であった。
ハ45は高品質の100オクタンガソリンの使用を前提に設計されたが、対外情勢の悪化に伴い入手が困難となったため、91オクタンガソリンに水メタノール噴射を行うことで100オクタンガソリンと同様の効果を得られる様に設計変更された。反面この水メタノール噴射の調整が難しく、ハ45の不調原因の一つとなっている(一式戦三型や雷電においても同様の不調が発生している)。因みに「陸軍は87オクタンガソリンが精々で実態はそれ以下」とする説もあるが、本土だけでなく南方に展開していた実戦部隊の記録には最低限の需要を満たす程度の91オクタンガソリンは安定的に供給されていたことが記されており、87オクタンガソリンで飛んだという証言も「後方で実用機を転用した練習機に使えるかどうか試してみた」や「実戦でも使えないか試験的に入れて飛行してみた」という記述がほとんどである。つまり、陸海軍を問わず、練習機を除く第一線の実用機には91オクタンガソリンが使用されていたことになる。しかし、飛行第47戦隊で整備隊長を務めていた刈谷正意大尉は自著で「これ(ガソリン)自身も果たして充分にその性能を発揮していたか疑わしい」と述べており、「燃料の性能が額面割れ」していた可能性も全く無いとは言えない。
「ハ45(誉)」の運転制限
1943年7月1日と10日の2回、審査部のある多摩陸軍飛行場で行われた飛行実験機材によれば、「供試機体キ84第3号機」、「発動機ハ45特」とある。中島の技術報告書によると、ハ45特は離昇2,000馬力のハ45(海軍名誉二一型)より先行して開発されていた離昇1,800馬力の誉一一型と同じになっている。つまり四式戦の初期試作機が搭載していたハ45特は誉一一型とほとんど同じものということである。なお、ハ45特と離昇出力2,000馬力のハ45の性能差は、不具合への対策による運転制限によるものである。この運転制限はキ84の操縦参考書にも「ハ45特と同等の水準に運転制限を行う」と明記されている。なお、1944年末になっても、ほぼ同一エンジンの紫電改の操縦参考書において「制限解除の見通しが立ちつつある」と述べられていることから、かなりの長期間運転制限が行われていたのは確かである[注 6]。
プロペラ
エンジンと並んで四式戦の不調の元凶となったのがプロペラで、一式戦や零戦に使われていたアメリカ「ハミルトン」式油圧式可変ピッチプロペラではピッチ変更角度が足りず性能不足とされ、フランス「ラチェ」式を独自に改良した電動可変ピッチ機構を採用した。当初ピッチ変動速度が遅く戦闘機には不向きとされたが、日本国際航空工業で構造が改善され(毎秒1.2度から13.2度)戦闘機への搭載となった。しかし、今度は変節速度が早過ぎてハンチングやエンジンの過回転といった問題が発生し、最終的には電動機の電力を半減して動作速度を落とす(毎秒13.2度から6.6度)ことで解決された。四式戦に採用されたプロペラは直径3.05mの4翅タイプで、2,000馬力クラスの諸外国の戦闘機が採用した3.6~4.0mに比べるといかにも小さく、上昇力や最高速度の発揮を難しくしたと言われている。同時期に海軍の紫電/紫電改に採用されたドイツ「VDM」系のプロペラが直径3.3m、同じ中島製の彩雲が3.6mを採用したことから、機体を小型にまとめようとするあまり、小径のプロペラを採用したことを悔やむ意見も後年多く出されている。一般にプロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上する。戦闘機の設計において離陸と上昇、速度性能のどれを優先するかは運用コンセプトによって定めるものである。そもそも中島では設計段階で「プロペラ効率76%で、最高速度660km/h」と試算し、実際それに近い速度性能を発揮している。
最高速度
四式戦の最高速度は、審査部の岩橋少佐が高度5,000mで記録した624km/hが広く知られている。同じ試作機の別の記録では、640km/h/6,000mというのもある。また、船橋中尉が試作4号機により、高度6,120mにて631km/hを記録している。これらの記録は、いずれも推力式集合排気管を装備した初期試作機のもので、量産型と同じ推力式単排気管に改造した機体では、キ84-I乙試作機が審査部において660km/h/6,000mを記録した。実戦においてはエンジンの調子が良い時ならば、一型甲量産機が650-655km/h以上出たという証言がある。
アメリカ軍はフィリピンの戦いで鹵獲した飛行第11戦隊所属であった第1446号機(1944年12月に製造された量産機)を使い、戦後の1946年(昭和21年)4月2日から5月10日にかけて、ペンシルベニア州のミドルタウン航空兵站部(Middletown Air Depot)で性能テストを行った。100オクタン/140グレードのガソリンとアメリカ製点火プラグを使用した四式戦は、武装を取り除いた重量7,490lb(3,397kg)の状態で(四式戦の正規全備重量は3,890kg)、高度20,000ft(6,096m)において時速427mi(687km/h)を記録した(687km/h/6,096m)。これは同高度におけるP-51D-25-NA マスタングおよびP-47D-35-RA サンダーボルトの最高速度よりも、それぞれ時速3mi(5km/h)および時速22mi(35km/h)優速であった[5]。しかし、この高度6,096mでの最高速度が全高度における四式戦の最高速度であり、それ以上の高度では速度が落ちてしまうので[6]、高度7,600 mで最高速度703 km/hを出せるP-51Dや9,145 mで最高速度697 km/hを記録するP-47Dに対して必ずしも優位に立つものではない。
武装
陸軍単発単座戦闘機としては初めて計画段階から20mm機関砲(ホ5 二式二十粍固定機関砲)の装備が要求された機体で、当時の陸軍単発単座戦闘機の中ではホ301装備の二式戦二型乙(キ44-II乙)を除き、三式戦一型丙/丁(キ61-I丙/丁)・二型(キ61-II改)と並んで最も火力が大きかった。かつ、一型甲(キ84-I甲)のホ103 一式十二・七粍機関砲は携行弾数各350発と、同じく機首砲としてホ103を装備する一式戦二型/三型(キ43-II/III)・二式戦二型丙(キ44-II丙)・三式戦一型乙(キ61-I乙)の250発~270発より約100発増量されている。しかし世界的な趨勢からみるとやや軽武装であるのは否めず、開発の比較的初期段階から武装強化型の乙型や丙型の開発が始まっている。照準器は一式戦二型(キ43-II)などが装備していた従来の一〇〇式射撃照準器(光像式)に代わり、量産機では新開発の三式射撃照準器(光像式)を装備している。
防弾装備
防弾・防火装備については従来の陸軍戦闘機と同じく装備かつ強化されており、全ての燃料タンクは積層ゴムで包まれたセルフシーリング式の防火タンク(防漏タンク・防弾タンク、12.7mm弾対応)、操縦者の頭部と上半身を保護するため操縦席背面に13mm厚の防弾鋼板(防楯鋼板、12.7mm弾対応)を備え、さらに風防前面は70mm厚防弾ガラスとなっている。また、被弾墜落時に操縦者の脱出を手助けするため天蓋には飛散装置が設定されている(操縦席上部の槓杵を引くと風圧で天蓋自体が容易に外れ飛び操縦者は迅速に機外脱出・落下傘降下が可能)。
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機首
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機首
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尾翼
実戦
四式戦を本格的に装備する実戦部隊は1944年3月1日付編成[注 7]の飛行第22戦隊で、垂直尾翼に描く部隊マークを菊水紋とした同戦隊は四式戦の実戦テストも兼ねたものであり、使用機体はキ84増加試作機を、幹部空中勤務者・地上勤務者は主に審査部から精鋭を抽出となり[注 8]戦隊長は当機を熟知していた審査主任であり、ノモンハン事件からのエース・パイロットでもあった岩橋譲三少佐、整備隊長は同じくキ84班整備班長として長く携わっていた中村考大尉の両名が任命された。第22戦隊は太平洋戦争の「天王山」と称されるフィリピンの戦いに投入予定であった。
一方で5月末、一号作戦(大陸打通作戦)を控えた支那派遣軍の第5航空軍は、参謀長橋本秀信少将が参謀本部第一次長後宮淳大将に対し新鋭機四式戦・四式重爆、電波警戒機などの補充を求めた。当時の中国方面航空兵力の差は1対3と推定され、この劣勢を新鋭機投入で解決しようとしたものであり、結果、四式重爆の派遣は見送られたが四式戦派遣の要望は早々に叶えられたとされる[7]。当時の中国戦線(中国航空戦)には一式戦と二式戦が投入されており、帝国陸軍航空部隊は1943年8月21日から1944年5月6日の期間中、空戦損害僅か10機喪失(一式戦8機・二式戦2機)に対し最低でも連合軍機44機を確実撃墜(戦闘機33機・爆撃機11機)、大戦中後期においてもビルマ航空戦と並び、連合軍空軍に対して互角以上の勝負を行い度重なる勝利を収めていたが(一式戦闘機#中国航空戦)[8]、1944年半ば当時は上述の兵力差の拡大やP-38やP-47を始めとする新型機やP-51B/Cといった新鋭機の投入により苦戦を強いられるようになっていた。
7月上旬、中国航空戦を二式戦で戦っている飛行第85戦隊が四式戦への機種改変に着手。まず派遣された4名の操縦者が漢口で伝習教育を受け、4機を広東の第85戦隊へ持ち帰り改変を進め、8月1日時点での戦隊保有可動機は二式戦22機に対し四式戦3機。さらに第85戦隊は9月に漢口で四式戦9機を受領した[9]。第22戦隊は1ヶ月限定で中国航空戦に派遣されることになり、8月25日に南京に到着、漢口を根拠地飛行場に白螺磯を前進飛行場として作戦を開始(9月1日保有機四式戦28機)。8月28日には飛行第25戦隊・飛行第48戦隊(ともに一式戦装備)とともに、来襲したアメリカ陸軍航空軍第14空軍および中米混成航空団(CACW、中美混合空軍団・米支混成空軍)のP-40と交戦、空戦で日本軍側は四式戦1機・一式戦2機を喪失、連合軍側はP-40 1機(ないし4機)を喪失している[10]。翌29日には第22戦隊四式戦13機・第25戦隊一式戦16機がB-24・P-40・P-51と交戦、日本軍側は一式戦1機・四式戦1機を喪失、連合軍側はP-40 2機さらに同日夕方にはP-40 1機を喪失[11]。30日、第22戦隊四式戦10機は帰義でP-51 6機と交戦、第22戦隊機に喪失無く第76戦闘飛行隊のP-51Bウィリアム・D・マクレノン中尉機(戦死)を撃墜。これはノモンハン以来の古参操縦者である古郡吾郎准尉の戦果であり、同時に四式戦による初めての明確な勝利であった[12]。
9月9日、第22戦隊四式戦3機が老河口飛行場に不時着していた第58爆撃航空団のB-29を対地攻撃により撃破炎上[13]。しかし21日の西安飛行場襲撃時、第22戦隊長岩橋少佐機は離陸中のP-51ウィリアム・E・ホール曹長機(戦死)を対地攻撃で撃破炎上させるも被弾、自爆した(死後陸軍中佐特進)。この1ヶ月の期間中、第22戦隊は四式戦6機を喪失(戦死6名)、対して四式戦によるほぼ明確な戦果はP-51 1機撃墜・P-40 2機撃墜・B-25 1機撃墜・P-51 1機地上炎上(離陸途中)・B-29 1機地上炎上、全てが四式戦の戦果ではない他戦隊との協同戦によるものでP-40 7機撃墜となる(各戦果は戦史家梅本弘が連合軍の損害記録等一次史料を用い照会した数値)[14]。
第22戦隊は状態「甲」の四式戦9機のうち6機を第85戦隊に引渡し、フィリピン航空戦に備えるため9月26日に内地へ帰還。第85戦隊はP-51B/Cを相手に善戦し、「赤鼻のエース」として敵味方双方で知られていた若松幸禧少佐[注 9]の活躍など、10月には中国上空の制空権を回復する活躍をしている。10月4日に第85戦隊第2中隊長若松大尉は四式戦4機・二式戦4機を率い梧州付近で友軍船団の上空哨戒中、来襲した第76戦闘飛行隊のP-51B/Cを奇襲攻撃し4機を確実撃墜(シャル中尉機・リーゼズ中尉機・オデル中尉機、ほかもう1機喪失)、日本軍機には1発の被弾もなく損害は皆無であった(四式戦若松大尉機2機撃墜報告、四式戦大久保軍曹機2機撃墜報告、二式戦石川軍曹機1機撃墜報告)。四式戦若松大尉機は最初に発見した1機を一撃で発火させ撃墜、続いて攻撃した左の1機もまた発火・冷却水噴出させ撃墜、僚機四式戦大久保軍曹機は1機を追撃しつつ撃墜、二式戦石川軍曹機もまた1機を追尾撃墜している[15]。若松大尉は当日の日記に「我が方被弾機一機もなく、赤子の手をねじるがごとし」としるしている。ほか、特徴的なエピソードとして若松少佐は地上勤務者の士気を鼓舞するために、搭乗機の無線電話の送信スイッチをオンにした状態で「空戦の実況」を行っていた。
このように四式戦は中国戦線において実戦部隊の操縦者からも高い評価を受けた一方で、台湾沖航空戦においてほぼ奇襲された状況、しかも圧倒的な数的劣勢下でアメリカ海軍のF6Fに立ち向かい、戦隊長や中隊長ら幹部が戦死し被害を被った第11戦隊の四式戦に対する評価は芳しくないものであった。
台湾沖航空戦とは比較にならないほど多数の四式戦部隊が編成・投入されたフィリピン航空戦では、レイテ島の戦い初期にP-38に苦戦したため、レイテ島防衛に当たっていた第2飛行師団長は1944年10月28日、「四式戦に大いなる信頼を置き居たるに困った事なり」と誌している[16]。しかし、11月1、2日には一式戦とともにオルモック湾を制空し第1師団の上陸成功に貢献(多号作戦#第2次輸送部隊)、この空戦において船団直掩の飛行第52戦隊・飛行第200戦隊の四式戦および飛行第33戦隊・飛行第26戦隊・飛行第20戦隊の一式戦は、来襲したアメリカ陸軍第49戦闘航空群のP-38と交戦、断続的に続いた戦闘で日本軍は6機(四式戦2機・一式戦4機)を喪失するも5機(第8戦闘飛行隊・第9戦闘飛行隊所属)を確実撃墜した[17]。この日の空戦で第200戦隊のエース吉良勝秋曹長(かつて飛行第24戦隊で九七戦・一式戦をもって活躍したエース)は四式戦1機でP-38 10機と交戦、格闘戦に持ち込むことでオルモック湾上空でP-38エリオット・デント大尉機を確実撃墜、かつ無事に帰還している(吉良曹長はこの活躍により准尉に特別進級)。また、日本軍航空部隊は一時的とはいえレイテ湾の制空権確保に成功。この代償として四式戦部隊を含む多くの飛行部隊が壊滅したとは言え、ようやく四式戦の存在に気が付いたアメリカ軍も「速度と上昇力に優れ、運動性も高く、被弾にも強い」と評価している。なお、当時フィリピン方面に四式戦を空輸する任務に就いていた穴吹智軍曹(かつて飛行第50戦隊で一式戦をもって活躍したエース、当時は明野陸軍飛行学校助教)は数回にわたりアメリカ海軍艦載機と交戦しており、台湾の高雄上空などでF6F 計4機ないし6機撃墜を報告している。フィリピン航空戦末期には四式戦の集成戦闘部隊として戦っていた第30戦闘飛行集団にて特別攻撃隊である精華隊が編成され、250kg爆弾2発を装備した四式戦が1945年1月8日に護衛空母「キトカン・ベイ」に突入、同月13日には護衛空母「サラマウア」に突入、それぞれ大破の戦果を残している。
特筆に価する戦果としてフィリピン航空戦中の1945年1月7日、ネグロス島上空において飛行第71戦隊の福田瑞則(ふくだみずのり)軍曹が操縦する四式戦が、アメリカ全軍第2位のエース(38機撃墜)であるトーマス・マクガイア少佐のP-38Lを事実上撃墜している。哨戒飛行を任務に長機マクガイア少佐(第431戦闘飛行隊長)、2番機エドゥイン・ウィーバー大尉(北アフリカ戦線従軍経験有)、3番機ジャック・リットメイア少佐(フィリピン航空戦で既に4機撃墜記録)、4番機ダグラス・スロップ少尉(出撃53回、1機撃墜記録)からなら第431戦闘飛行隊P-38Lの4機編隊は、7日午前6時30分にレイテ島ドラッグ飛行場を離陸開始(途中、リットメイア機はエンジン不調によりスロップ機と編隊位置を交代)。福田の証言では、第71戦隊は同日ルソン島へ向かう大艦船団発見の報告により、午前3時30分150kg爆弾を搭載した福田軍曹機・三浦軍曹機が単機ごとの策敵攻撃のためマナプラ飛行場を離陸(当時の第71戦隊は消耗により単機地上攻撃任務が主体)。しかし予定地点で船団を発見出来なかったため6時に捜索を中止、帰還中の6時30分頃にバコロド上空高度1,000m付近で飛行第54戦隊杉本明准尉操縦の一式戦と遭遇し、しばらくの編隊飛行ののちタリサイ上空で別れた。マナプラ飛行場への着陸コースに入った四式戦福田機は、先程の一式戦杉本機が哨戒飛行中であった4機のP-38マクガイア編隊と空戦中のところを発見(この際P-38 1機が炎上墜落中、一式戦は不時着のため降下中を確認)、福田機はP-38 3機に突進し正反航(対進戦)で撃ち合い先頭の1機を撃墜するも被弾。その後も四式戦福田機は残る2機と1分ほど格闘し1機を撃破。双方は空戦場を離脱し戦闘は終了、福田機は着陸時に転覆しのちに廃棄処分となったが福田自身は軽傷ですんだ[18]。離脱したスロップ機は午前7時55分、ウィーバー機は8時5分頃にドラッグ飛行場へ帰還着陸した。実際にこの空戦において、マクガイア機・リットメイア機が撃墜され両名は戦死しているが(杉本准尉は被弾のため不時着するも、地上で抗日ゲリラによって射殺された遺体を現地日本軍守備隊が発見)、一式戦杉本機が1度目の戦闘でマクガイア機を撃墜し(超低空域の格闘戦で一式戦に追随するため無理な急旋回を行い失速・墜落するマニューバキル)、四式戦福田機は2度目の戦闘でまずスロップ機を撃破し続いてリットメイア機を撃墜したという説明もあるなど[19]、乱戦ゆえに四式戦福田機・一式戦杉本機どちらがマクガイア機・リットーメイヤー機を撃墜したのかは詳細は不明であり、協同撃墜ともいえる。福田軍曹は当時マラリアの高熱により意識朦朧状態であり、かつ乗機は落下タンクと150kg爆弾を搭載したままで(空戦発見時は味方宿舎上空のため投下出来ず)、マクガイア編隊も(落下タンク投下を拒む空戦突入後の)マクガイア少佐の無線電話指示によりこちらも落下タンクを抱いたまま、高度1,000m以下の低空域で空戦を行っている。ちなみに、福田軍曹は陸軍少年飛行兵第10期で1944年5月に第71戦隊へ着任し11月に戦隊とともにフィリピンへ進出、操縦時間が少なく今まで実戦経験もなくこれが最初の空戦らしい空戦体験であったにもかかわらずこの大戦果を挙げ、この1ヵ月後にネグロス島を脱出し本土へ後退、飛行第101戦隊に転属し沖縄戦も四式戦で戦い終戦を迎えた。戦後の1974年(昭和49年)には第475戦闘航空郡(第431戦闘飛行隊の上空部隊)の戦友会に、本空戦を調査した秦郁彦の手引によって福田はメッセージを届けている[20]。
中国航空戦末期の12月18日、漢口をB-29を含む戦爆連合大編隊が波状攻撃し、漢口市街と飛行場在地機は爆撃で大きな被害を出した。邀撃には第85戦隊の四式戦12機と第25戦隊の一式戦13機が出撃し、同日午後の空戦では「赤鼻のエース」若松少佐機を含む四式戦3機・一式戦2機を喪失するも戦果は対空砲火と合わせP-51 4機・P-40 1機・B-29 1機を確実撃墜(空対空の戦果はこのうち3機とされる)。1945年1月3日・5日・6日そして14日にも漢口は連続空襲を受け同じく第85戦隊・第25戦隊がこれを邀撃、両戦隊計6名の戦死操縦者を出すも戦果は対空砲火と合わせP-51 8機・P-47 4機を確実撃墜(P-47は中国ではこれが初陣である)。17日、来襲したP-47との空戦で第85戦隊・第25戦隊は両戦隊各1名が戦死するも、P-47 2機を確実撃墜している[21]。
ビルマの戦い(ビルマ航空戦)では第50戦隊が1944年9月から四式戦に機種改変。当初は故障が続出したものの、一式戦装備の飛行第64戦隊とともに12月31日に撤退する第15師団を追尾するイギリス軍を中心とした連合軍機甲部隊の捕捉・攻撃(襲撃)に成功。のちの第64戦隊長である宮辺英夫少佐はこの戦闘と四式戦に対し「(掃射では20mm機関砲の)威力が大いに発揮された」「まずは、四式戦のビルマにおける初のお手柄」と述べている[22]。1945年1月9日、第50戦隊の四式戦7機は爆装し第64戦隊の一式戦28機の直掩を受けアキャブ沖連合軍艦船攻撃に出撃、このうちエース大房養次郎曹長機が巡洋艦ないし輸送船への命中戦果を報告している。以後、ラングーンが陥落しビルマ航空戦が事実上終了する5月まで、第50戦隊の四式戦は第64戦隊の一式戦とともに空戦や地上攻撃に活躍した。
本土防空戦にて、飛行第47戦隊は整備指揮班長を務め「整備の神様」と謳われた刈谷大尉のもと、戦隊内に指揮小隊を設けそこで機体整備に関する全てを掌握し、厳密なる飛行時間の管理、点火プラグの早期交換、定期的なオーバーホールなど、徹底的かつ適切な整備を施すことで部隊の四式戦稼働率を常時87から100パーセントに保っている。ただ、このような整備方法は欧米諸国では一般的に行われていたので、ハ45自体がどうこうと言うよりもむしろ、それを扱う整備兵の教育や補給が立ち遅れていた側面が大きい。刈谷陸軍大尉によれば「47戦隊で100パーセント働いた」エンジンが他部隊で動かなかったのは「日本陸軍の整備教育が間違っていたから」であり、「疾風(誉)のせいじゃない」と回想している。また本土より遙かに条件が劣悪なフィリピンにおける四式戦の稼動率は三式戦はおろか一式戦よりも高かったという記録も残されている(当時の一式戦三型は水メタノール噴射装置自体や整備兵の不慣れにより稼働率が低下している)。さらに満州の飛行第104戦隊は再生潤滑油を使用せず、補給廠デッドストックのアメリカ産輸入潤滑油を用い稼働率80から100パーセントを保ったという記録があり、これは潤滑油をアメリカ産の輸入に頼っていながら[注 10]、事前の国産化を怠ったままアメリカとの開戦に突入し、戦前に輸入したストックに頼らざるを得ない状況に陥らせた[注 11]、日本の戦前工業行政の致命的な失敗であった。
本土での運用時期における可動割合については前述の刈谷大尉が第47戦隊においては前述の通り在隊機100%、航空廠修理機を含めて87%、その当時一般部隊においては良好なところで40%、悪いところで20~0%であると述べている[23]。また、この時期の陸軍調査の数字としては1945年5月20日調査の「航空総軍飛行機保有状況」があり、ここでは野戦部隊・防空部隊あわせて555機保有の四式戦のうち(対象は航空総軍隷下部隊であり、第2航空軍隷下部隊(満州方面:飛行第104戦隊など)などの外地部隊や内地でも特攻飛行部隊は除く)、「状態甲」(自隊内にて整備完了。出撃可能機数は同数かこれ以下となる)の機体は235機となり割合としては42%となる[24]。
その後も沖縄戦(菊水作戦)や本土防空戦にも投入されたが、既に多くの熟練操縦者を失いさらに戦局自体もますます悪化した末期には、他の陸海軍戦闘機と同様に散発的な戦果に留まり、更に最末期には本土決戦(決号作戦)に備え兵器は温存され邀撃も控えられていたために大きな戦果を挙げることは出来なかった。1945年8月13日には占領下の沖縄から朝鮮に来襲したP-47に対し、京城飛行場の第22戦隊・第85戦隊(中国戦線で壊滅したのち同地に後退し戦力回復)の四式戦が出撃したものの、飛行場自体が他方面から飛来していた重爆撃機で混雑し邀撃が後手にまわっていたこともあり機数に勝るも一方的な敗北を喫した。沖縄戦においては部隊マークとしてドクロを描いたことで有名な第58振武隊など、四式戦で編成された特攻隊も出撃している。沖縄戦の特攻戦果としては6月21日夕刻に都城東飛行場を出撃し沖縄沖に突入した第26振武隊(四式戦4機)がカーチス級水上機母艦「カーチス」大破炎上、ケネス・ホイッティング級水上機母艦「ケネス・ホイッティング」小破、エヴァーツ級護衛駆逐艦「ハローラン」小破の記録を残している[注 12]。
満州では1945年8月9日にソ連軍が侵攻したが(ソ連対日参戦)、8月12日・15日の2度にわたって第104戦隊の四式戦が、同じく満州に展開していた独立飛行第25中隊の二式複戦とともにソ連軍機甲部隊に対しタ弾による攻撃を行ない、戦車やトラックなどの軍用車輌数十輌を破壊・炎上させる戦果を挙げている。
なお、海軍航空技術廠に初期生産型の2機が海軍の研究用として正式に譲渡された。陸海軍の機種統一を検討してとも言われるが[誰?]詳細は不明。これらは終戦時まで残置しており、写真も残されている。
現存機
四式戦の現存機として、現在鹿児島県知覧の知覧特攻平和会館に収蔵・展示されている一型甲が飛行可能な唯一の機体となる。本機はフィリピン戦に展開した第11戦隊所属の機体で、1945年1月にアメリカ軍に鹵獲され本土に運ばれ性能テストに使用され、戦後アメリカの私設航空博物館(プレーンズ・オブ・フェーム)に払下げられレストアを経て飛行可能となった。これは栃木県宇都宮市の日本人実業家(元海軍下士官で戦闘機操縦員)に買い取られ、1973年(昭和48年)に日本へ移送し航空自衛隊入間基地(旧陸軍航空士官学校・豊岡陸軍飛行場跡地)にて展示飛行を行っている。この後、中島飛行機の後身である富士重工業の航空部門たる宇都宮製作所(当時はFA-200 「エアロスバル」を開発生産)が隣接する陸上自衛隊宇都宮飛行場に空輸され、当時の関係者らによる整備も行われつつ富士重によって飛行可能な良好な状態で維持されていた。
日本人実業家オーナーの死後は京都の京都嵐山美術館に売却され同地で展示されていたが、劣悪な管理状況により一度飛行不能となった。本機を日本人実業家に売り渡した当事者である私設航空博物館のドン・ライキンスはこの状況を聞いて深く後悔。本機の復元を行ったマロニー博物館も「他の機体数機との交換で良いので還して欲しい」とコメントしている。飛行不能となった要因については「ずさんな野外展示が行われ、元々機体から容易にはずせない部品を強引に取る盗難にあった」、「嵐山美術館閉館に伴い南紀白浜に移転し、海岸そばでの展示のため零戦六三型と同じく機体の腐食やエンジンの悪化が進んだ」などである[注 13]。嵐山美術館時代は容易に取れる部品に関しては初めからはずして展示されていたが前述のように盗難被害に遭った。
最終的に、知覧町が本機を取得し知覧特攻平和会館に移動して今に至る。同町が本機を取得した背景には、戦中に知覧陸軍飛行場に飛行第103戦隊の四式戦約30機が配備され特攻機の直掩・誘導や邀撃にあたっていたことと、ほかの陸海軍機と同様に四式戦も特攻機として使用された事実があるためである。沖縄戦では宮崎県都城東・西両飛行場を中心とした九州の各基地から四式戦が特攻機として出撃し、118機が未帰還となっている。知覧からは4機が出撃し2機未帰還[25]。
諸元
制式名称 | 四式戦闘機一型甲 | 四式戦闘機一型甲(量産型) | 四式戦闘機一型乙 |
---|---|---|---|
試作名称 | キ84-I甲 | キ84-I甲 | キ84-I乙 |
全長 | 9.92m | ||
全幅 | 11.24m | ||
全高 | 3.38m | ||
翼面積 | 21m2 | ||
翼面荷重 | 185.24 kg/m2 | ||
自重 | 2,698kg | 2,698kg+胴体12.7mm機関砲×2⇒胴体20mm機関砲×2への換装分 | |
正規全備重量 | 3,890kg | 3,890kg+携行弾増加分 | 3,890kg+胴体12.7mm機関砲×2⇒胴体20mm機関砲×2への換装分 |
発動機 | ハ45-21(離昇2,000馬力) | ||
排気管 | 推力式集合排気管 | 推力式単排気管 | |
最高速度 | 624km/h(高度5,000m) 640km/h(高度6,000m) 631km/h(高度6,120m) |
624~655km/h(高度5,000~6,000m) | 660km/h(高度6,000m) |
上昇力 | 5,000mまで6分26秒 | 5,000mまで約5分弱 | |
航続距離 | 2,500km(落下タンクあり)/1,400km(正規) | ||
武装 | 翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各120発) 胴体12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各250発) |
翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各150発) 胴体12.7mm機関砲(ホ103)2門(携行弾数各350発) |
翼内20mm機関砲(ホ5)2門(携行弾数各150発) 胴体20mm機関砲(ホ5)2門 |
爆装 | 30kg~250kg爆弾ないしタ弾2発 | ||
無線 | 九九式飛三号無線機二型 | 四式飛三号無線機一型 | |
生産機数 | 100機以上(推定/試作機のみ) | 3,000機(推力式集合排気管装備の試作機含む) | 500機(推定/試作機含む) |
バリエーション
- 一型甲(キ84-I甲)
- 翼内にホ5 20mm機関砲2門、機首にホ103 12.7mm機関砲2門を装備した対戦闘機戦重視の基本型。生産されたほとんどの機体はこの型式。携行弾数はホ5が1門につき150発、ホ103は1門につき350発であった。
- 一型乙(キ84-I乙)
- 甲型の翼砲ホ5はそのままに機首砲ホ103をホ5に換装した対爆撃機戦重視の武装強化型。製造番号3001以降がこの型とされるが、生産数は不明。試作機は試験飛行において660km/h/6,000mを記録したとされる。
- キ84-I丙
- 一型乙の機首砲ホ5はそのままに翼砲ホ5をホ155-II・30mm機関砲に換装した武装強化型。試作のみ。
- キ84-I丁
- 一型乙の操縦席後方にホ5を上向き砲として1門を追加した夜間戦闘機型。試作のみ。
- キ84-II
- 機体の一部を木製化したもの。計画のみ。
- キ84-III
- 排気タービン搭載を追加装備した高高度型。計画のみ。
- キ84-IV
- エンジンを高高度性能に優れたハ45-44に換装した高高度戦闘機型。計画のみ。
- キ84サ号(サ号機とも)
- ハ45の水エタノール噴射を酸素噴射に変更し、高高度における性能向上を図った型。上昇力が向上し、高度9,000mでの速度が50km/h増したといわれる。テスト中に終戦を迎えた。
- キ106
- 1944年、アルミ合金の不足から、機体の大半を木製化したもの。重心の変化により機首が延長され、フラップは蝶型ではないスプリット式に変更された。17%もの重量増加のため上昇力・速力が低下。また組み立てに使う接着剤に問題があり、試験中に主翼下面外板が剥離・脱落するトラブルも発生した。立川飛行機に加え呉羽紡績や、王子航空機においても試作され、合計10機が完成した。訓練用としての使用も考えられたが、強度不足や構造が量産向きでない問題から生産は中止された。終戦後、アメリカ本国に1機が送られ調査された[26]。のち1994年に北海道江別市早苗別川畔の地中から設計図が発見された。[27]
- キ113
- アルミ合金の不足から、機体の大半を鋼製化したもの。中島飛行機で試作一号機体が完成しエンジン未着装の状態で終戦を迎えた。やはり重量増加や工程増加による生産性の悪さに加え、鋼材も不足したため生産の見込みがたたず失敗作となった。
- キ116
- 満州飛行機での転換生産型。発動機を信頼性の高い三菱ハ112-II(公称1,500馬力)に換装。プロペラも3翅とし、全長が重心調整のため20cm長くなり翼面荷重は制式機より25kg程度減少したこともあり、速度がやや低下したが、飛行特性も向上したといわれる。かつ、エンジン他での1,000kg重量減少はエンジン出力の約300Hp低下を十分補って余りあるものとなった。特に翼面荷重はキ84の185kg/mに対して160kg/mになったために旋回性能や、離着陸性能はむしろ向上したものと容易に推定することが出来る。試験飛行の結果は良好であったが、各種飛行特性や厳密な性能測定の直前の1945年8月9日ソ連侵攻に遭遇し、関係者の手により機体・設計図とも自らの手で処分された[28]。
- キ117
- エンジンを大馬力のハ44-13型(離昇2,400馬力)に換装した性能向上型。主翼を1.5m2広げ高高度性能の向上を図った。設計中に終戦。キ84-Nとも称した[29]。
登場作品
漫画・アニメ
ゲーム
- 『IL-2_Sturmovik 1946』
- コンバットフライトシミュレータゲーム
- 『War_Thunder』
- コンバットフライトシミュレーターゲーム。プレイヤーの操縦機体として一型甲・一型乙・キ84-I丙が登場する
- 『World of Warplanes』
- 『ストライカーズ1945II』(彩京)
- シューティングゲーム
脚注
注釈
- ^ 第73戦隊は多数の四式戦部隊のうちのひとつとして同年5月に編成。以降は錬成や防空にあたり12月には捷号作戦のためにフィリピンへ進出、第71戦隊・第72戦隊などともに第21飛行団を構成し従軍した。
- ^ 次号・第255号は9月6日公開の『聖断拝す 大東亜戦争終結 昭和二十年八月十四日』という敗戦を報道するものであった。
- ^ 蝶形フラップは円弧の一部を切り落としてあり、一見そうは見えない。
- ^ 逆説的だが軽量化される分だけ旋回性能も向上する。
- ^ 本機の試験飛行を担当した吉沢鶴寿は、100オクタンガソリン、高度8,000mの条件下で、試作品では640km/h程度の速度が出たが、量産品では580km/h程度しか出なかった、と証言している(『航空ファン』1961年7月号「四式戦闘機『疾風』のすべて」、ただし『悲劇の発動機「誉」』p.206 - からの孫引き)。
- ^ 関連で烈風の審査時に、中島側はエンジン不良の原因について「誉の出力が一番出ていない時期だった」と述べており、この頃、海軍でベンチテストした際の性能低下の結果とも一致する。
- ^ 部隊編成準備自体は1943年秋、発令自体は12月27日。
- ^ 実戦テストを兼ねた最新鋭機による部隊編成、戦地派遣の前例としてはキ44(二式戦)装備の独立飛行第47中隊がある。
- ^ 若松は機種改変時に今まで使用していた二式戦とは違うこの四式戦を「全てにおいて勝る」と高評価している。
- ^ アメリカ産の潤滑油に依存したのは、当時の航空レシプロの世界ではアメリカ製潤滑油が基準であり、エンジン設計における指定油がアメリカ製というのは対米開戦直前の日本においても当然であった。過酷な航空レシプロに耐えられる鉱物系潤滑油は当時の日本の精製技術ではアメリカ・ペンシルバニア原油の様な極めて良質なパラフィン基原油が必要であり、本邦や南方にもパラフィンリッチな原油は存在したもののその差は埋めがたく、ついぞその域の潤滑油を実用レベルで量産する事はかなわなかったとされる。また精製技術についても関連資材も禁輸対象であり新技術の導入は遅延し、苦難の末に大戦末期に設備が完成しても空襲により破壊される状況であった。
- ^ 石油製品の禁輸までにあらゆる手段でアメリカ製潤滑油を掻き集め輸入しておりストックに頼る事となったのはある程度は想定内の結果とも言える。
- ^ このほか、同日同方面では海軍特別攻撃隊の白菊とされる特攻でLSM-1級中型揚陸艦「LSM-59」および、「LSM-59」が「特攻機対策の囮」として曳航していた除籍済のマンリー級高速輸送艦「バリー」が沈没している。
- ^ 「輸送のために機体をガスで切断した」とされることもあるが事実ではなく、正規の方法で分解してから輸送されている。知覧特攻平和会館展示の三式戦二型や、靖国神社遊就館の彗星などの保存機(いずれも一度ガス切断されている)と混同されている可能性がある。
出典
- ^ 『疾風』と命名 陸の最新鋭戦闘機 大阪毎日新聞、1945年4月11日
- ^ "JAPANESE AIRCRAFT Code Name & Designations" Robert C. Mikesh, Schiffer Military/Aviation History, 1993(フランク・マッコイ陸軍少将の序文付)
- ^ 井口修道「軍用機メカ・シリーズ7」中の「異色のテス・パイ“疾風”を語る」光人社
- ^ 「知られざる軍用機開発」下巻 酣燈社 124-125頁
- ^ R. J.FRANCILLON"Japanese Aircraft of the Pacific War"(New Edition 1979,London,ISBN 0-370-30251-6)p.236
- ^ http://www.wwiiaircraftperformance.org/japan/Ki-84-156A.pdf
- ^ 梅本 (2008a), pp.48-50
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- ^ 梅本 (2008a), pp.50-51
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- ^ 戦史叢書 41 P.342, P.356
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- ^ 宮辺英夫『加藤隼戦闘隊の最後』光人社、1986年、p.245
- ^ 刈谷正意『日本陸軍試作機物語』光人社、2007年、273頁
- ^ 防衛研修所戦史室『陸軍航空の軍備と運用(3)大東亜戦争終戦まで』 朝雲新聞社〈戦史叢書〉1976年、412頁
- ^ 知覧特攻平和会館 四式戦闘機展示室
- ^ 文林堂『世界の傑作機No.19』、大日本絵画 『世界の駄っ作機3』他
- ^ 田中和夫『幻の木製戦闘機キ106』北海道新聞社、2008年、10-17頁
- ^ 大内建二『間に合わなかった軍用機』光人社、2004年、53頁
- ^ 秋本実『日本の戦闘機 陸軍編』出版協同社、1961年、50頁
参考文献
- 防衛研修所戦史室編 『戦史叢書 41 捷号陸軍作戦(1) レイテ決戦』 朝雲新聞社、1970年
- 歴史群像『太平洋戦史シリーズ46 四式戦闘機 疾風』学習研究社、2004年、ISBN 4-05-603574-1
- 軍用機メカ・シリーズ第7巻『疾風/九七重爆/二式大艇』光人社 1993年 ISBN 4-7698-0637-X C0372
- 『続・日本機傑作機物語』 酣燈社 1960年
- 『決戦機疾風 航空技術の戦い 知られざる最高傑作機メカ物語』光人社 (碇義朗 著)2007年
- 刈谷正意『日本陸軍試作機物語』 光人社 2007年 ISBN 978-4-7698-1344-6 C0095
- 鈴木五郎 『第二次大戦ブックス64『疾風』』サンケイ新聞社出版局 1975年
- 鈴木五郎 『不滅の戦闘機 疾風 日本陸軍の最強戦闘機物語』光人社 2007年
- 前間孝則 『悲劇の発動機 誉』 草思社 2007年7月31日 ISBN 978-4794215130
- 渡辺洋二 『未知の剣 陸軍テストパイロットの戦場』文春文庫 2002年
- 梅本弘 (2008a),『陸軍戦闘隊撃墜戦記2 中国大陸の鍾馗と疾風』、大日本絵画、2008年1月
- 梅本弘 (2010b),『第二次大戦の隼のエース』 大日本絵画、2010年8月
関連項目
外部リンク
- 疾風展示室/知覧特攻平和会館
- 中島 四式戦闘機「疾風」
- NHK 戦争証言アーカイブス 日本ニュース