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「浅虫温泉」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2015年2月15日 (日) 02:00 (UTC)}}
{{日本の温泉地
{{日本の温泉地
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|名称 = 浅虫温泉
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|画像 = Asamushi Onsen -Yanagi no yu.jpg
|コメント = 柳の湯
|コメント = 柳の湯
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|所在地 = [[青森県]][[青森市]]大字浅虫<br>{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=7|frame-align=center|frame-width=250}}
|座標 = {{ウィキ座標度分秒|40|53|21|N|140|51|41|E|type:landmark_region:JP-02|display=inline,title}}<br />{{Location map|Japan Aomori Prefecture|width=240|float=center
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|交通アクセス = [[青い森鉄道線]]・[[浅虫温泉駅]]下車すぐ
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|外部リンク = [http://www.asamushi.com/index.php 一般社団法人 浅虫温泉観光協会・浅虫温泉旅館組合]
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[[ファイル:Asamushi Onsen 01.jpg|thumb|300px|浅虫温泉郷遠望]]
[[ファイル:Asamushi Onsen 01.jpg|thumb|300px|浅虫温泉郷遠望]]
'''浅虫温泉'''(あさむしおんせん)は、[[青森県]][[青森市]]浅虫(旧国[[陸奥国]])にある[[温泉]]。青森市の[[陸奥湾]]に突出する[[夏泊半島]]の基部にある
'''浅虫温泉'''(あさむしおんせん)は、[[青森県]][[青森市]]浅虫(旧国[[陸奥国]])にある[[温泉]]。海水浴やスキー、水族館や遊園地といったさまざまなレジャー施設も兼ね備えた観光地として賑わい、「の[[熱海温泉|熱海]]<ref name="陸奥新報20150323"/>」、「青森の[[奥座敷]]<ref name=mice/>」などと呼ばれた


[[陸奥湾]]に突出する[[夏泊半島]]の基部に位置し、[[浅虫夏泊県立自然公園]]の一角を成している。
歓楽街温泉として発展したことから「東北の[[熱海温泉|熱海]]」<ref>{{cite news |url=http://www.mutusinpou.co.jp/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E3%81%AE%E8%A1%97%E3%81%A8%E9%A2%A8%E6%99%AF/2015/03/35640.html |title=遊興地となる浅虫温泉=22 |newspaper=[[陸奥新報]] |publisher=陸奥新報社 |date=2015-3-23 |author=中園美穂(青森県史編さん調査研究員) |accessdate=2015-11-28 }}</ref>「青森の[[奥座敷]]」<ref name=mice>{{cite web |accessdate=2015-11-28 |url=http://mice.jnto.go.jp/cms/content/files/city_guide/aomori.pdf |format=PDF |title=青森市の公的支援と施設ガイド |work=日本政府観光局web |publisher=独立行政法人 国際観光振興機構 |quote=青森の奥座敷といわれる浅虫は、開湯1200年、[[棟方志功]]や[[太宰治]]など数多くの文化人も訪れた歴史のある[[温泉街]]です }}[http://mice.jnto.go.jp/place/city_1302.php]</ref>とも呼ばれる。


== 泉質 ==
==泉質==
*旧表記:含石膏[[食塩泉|弱食塩泉]]<ref name="百科-浅虫温泉"/>、または[[石膏泉|含食塩石膏泉]]・[[食塩泉]]<ref name="温泉大事典"/>
[[塩化物泉]](旧泉質名 : 含石膏弱食塩泉。新泉質名 : ナトリウム・カルシウム-硫酸塩-塩化物泉)。[[源泉]][[温度]]30 - 78度。
*新表記:ナトリウム・カルシウム-硫酸塩-[[塩化物泉]]<ref name="角川地名-浅虫温泉"/>
:(※新旧の表記については[[泉質]]参照)
*効能:[[神経痛]]、[[リューマチ]]、[[婦人病]]<ref name="百科-浅虫温泉"/><ref name="角川地名-浅虫温泉"/><ref name="温泉大事典"/>。


*[[源泉]]温度:平均63℃<ref name="百科-浅虫温泉"/>、56℃ - 70℃<ref name="温泉大事典"/>など
== 効能 ==
:かつて浅虫温泉にはいくつもの源泉があり、30℃から78℃で湧出していた<ref name="角川地名-浅虫温泉"/>。しかし乱掘によって湧出量の減少をみたうえ、泉質が変わって食塩泉となった。そのため1968年(昭和43年)に源泉を1箇所に統合して汲み上げることとなった。こうした方式は当時の日本では珍しい試みだったという<ref name="百科-浅虫温泉"/>。
[[神経痛]]、[[リューマチ]]、[[創傷]]、[[婦人病]]<ref>ふるさとの文化遺産『郷土資料事典』2、30頁、人文社</ref>。
:源泉から46℃に調整後、各温泉施設や一般家庭へ配湯が行われている<ref name="百科-浅虫温泉"/>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
開湯伝説は[[慈覚大師]](円仁)や[[円光大師]](法然)による発見説を伝える<ref name="平凡地名-浅虫温泉"/>。また、かつて「麻蒸」と表記したことから[[アサ]]を蒸していたのだろうとする語源説もある<ref name="平凡地名-浅虫温泉"/>。
[[平安時代]]の[[876年]]に、[[円仁]]が発見したとされる。発見後も[[麻]]を蒸すことにのみ温泉が使われていたが、[[1190年]]にこの地を訪れた[[法然]]が温泉への入浴を広めてから、入浴用途にも使われるようになった。


{{Quotation|出湯のやかたに宿つきたり。湯は滝の湯、目のゆ、柳のゆ、おほゆ、はだかゆなどのいときよげにわき、はた、軒をつらねたる家々のしりにも、ゆのありてやよけん。里中に烹坪とて、ふちふちとにへかへる温湯あり<ref name="平凡地名-浅虫温泉"/>。|[[菅江真澄]](1754年 - 1859年)|『率土が濱傅ひ(外が浜伝ひ)』([[天明]]8年(1788年))}}
温泉名も麻を蒸すことに由来し、麻蒸転じて浅虫となった。[[江戸時代]]には[[本陣]]も置かれ、[[弘前藩]]の藩主も入浴した。


===開湯の伝説===
[[太宰治]]や[[棟方志功]]とゆかりがある<ref name=mice/>。
江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した[[菅江真澄]](1754年 - 1859年)は、『率土が濱傅ひ(外が浜伝ひ)』([[天明]]8年(1788年))の中で、現地の伝承を紹介した<ref name="角川地名-浅虫"/>。これによると、温泉は「烹坪(につぼ)」と称し、もっぱら源泉で[[アサ]]を蒸して繊維をとり、織布とするために利用していたことからかつては「麻蒸」と呼んでいたという<ref name="角川地名-浅虫"/>。しかし村で火災が頻発したことから、火に関連する「蒸」の字を忌み、「浅虫」と書き表すようになったという<ref name="角川地名-浅虫"/><ref name="百科-浅虫温泉"/><ref name="百科-鹿の湯"/>。


温泉の発見については伝説があり、[[平安時代]]の1190年頃、[[浄土宗]]の開祖[[法然]](1133年 - 1212年)が[[陸奥国]]を訪れた際、[[シカ]]が怪我を癒すために湯に浸かっていたのを見出したという<ref name="角川地名-浅虫温泉"/><ref name="百科-浅虫温泉"/>{{refnest|group="注"|浅虫温泉観光協会と浅虫温泉旅館組合が運営する公式サイトでは法然による発見説を紹介している<ref name="公式-紹介"/>。}}。これにはさらに古く遡る異伝があり、発見者を[[円仁]](794年 - 864年)に帰す伝承もある<ref name="百科-鹿の湯"/>。いずれの場合にも、地元の住民は入浴の効能を知らなかったため、発見者の仏僧が浴用とすることを住民に教えたのだとされる<ref name="百科-浅虫温泉"/>。
== 温泉街 ==
浅虫温泉駅を中心に、大型[[ホテル]]や[[旅館]]などの宿泊施設約40軒が営業している。大型ホテルが並ぶ通りの裏手の海辺には[[浅虫ヨットハーバー]]と海水浴場の[[サンセットビーチあさむし]]がある。


===近世===
[[共同浴場]]は[[浅虫温泉駅]]裏手の「'''松の湯'''」と、[[国道4号]]沿いの[[道の駅浅虫温泉]]内の「'''ゆーさ浅虫'''」の2軒がある。後者は「はだか湯」という名称の展望浴場で、これはかつて温泉街にあった共同浴場の名称を引き継いだもの。
中世末期の[[天文 (元号)|天文]]年間(1532年 - 1555年)の史料には「麻蒸湯」と記されている<ref name="角川地名-浅虫"/><ref name="平凡地名-浅虫村"/>。[[江戸時代]]になると温泉地としての言及が増え、[[貞享]]4年(1687年)の検地帳では「出湯」4箇所と記録されている<ref name="角川地名-浅虫"/>。


[[弘前藩]]では領内の温泉地18箇所のうちの1つと数え、[[御仮屋]]・御陣屋を備えた御休所とされている<ref name="角川地名-浅虫"/>。藩主は青森や[[外が浜]]を巡察する際には浅虫温泉に立ち寄って入浴した<ref name="平凡地名-浅虫温泉"/>。当時の藩主が利用した[[本陣]]が、現在の「柳の湯」であると伝わる<ref name="青森市20130222"/>。[[亨保]]9年(1724年)には村で火災があり、「[[本陣]]」も焼損被害を受けたという記録も残されている<ref name="平凡地名-浅虫温泉"/>。
至近に[[浅虫水族館]]や[[東北大学臨海実験所]]がある。観光客は主に、温泉と温泉街で開催される[[津軽三味線]]ライブや[[浅虫温泉ねぶた祭り]]などのイベントを目的に訪れるため、温泉地の周辺施設は寂れてきており、[[2005年]][[10月10日]]で遊園地を中心とするレジャー施設である[[ワンダーランドASAMUSHI]]が閉園した。


前述の[[菅江真澄]]のほか、同時代の地理学者[[古川古松軒]](1726年 - 1807年)は幕府の巡見使に帯同して[[天明]]8年(1788年)に浅虫温泉を訪れており、その際の様子が『東遊雑記』8月24日の記録に著されている<ref name="平凡地名-浅虫温泉"/>。
[[File:Yunoshima -Asamushi.jpg|thumb|300px|湯の島 (右)]]
=== 周辺の見所 ===
==== 湯の島 ====
温泉街の海釣り公園から海を隔てて800m、陸奥湾上に湯の島が浮かぶ。[[ボート]]で渡ることができる。湯の島には[[カタクリ]]の群落があり、4月に『湯の島カタクリ祭り』が催される。


{{Quotation|此所は青森より三里といへども大ひに遠し。此地海浜にのぞみて温泉あり、至ての熱湯にて湯つぼより流れ出る湯、川々へ落て湯気の立あがる事煙のごとし<ref name="平凡地名-浅虫温泉"/>|[[古川古松軒]](1726年 - 1807年)|『東遊雑記』}}
==== 陸奥湾展望台 ====
温泉街の裏手の山には、[[森林浴]]に最適な[[ハイキング]]コースがある。コース上には[[陸奥湾]]展望台がある。


===近現代===
<gallery>
[[File:Asamushi-Onsen Station platform.jpg|right|thumb|1891年(明治24年)開業の[[浅虫駅]](現・浅虫温泉駅)]]
File:Asamushionsen matsunoyu.JPG|共同浴場 松の湯
[[File:Asamushi Aquarium Aomori Japan02n.jpg|right|thumb|[[浅虫水族館]]]]
File:Asamushionsen insenzyo.JPG|飲泉所
ファイル:Tsugaru-jamisen Kaisenkaku Asamushi Onsen Aomori Japan05s5.jpg|津軽三味線ライブ
[[File:Asamushi Onsen Nebuta Matsuri Aomori Japan06n.jpg|right|thumb|浅虫ねぶた]]
[[File:Aomori Bay Asamushi Onsen Japan01n.jpg|thumb|right|海岸の夕景。右に屹立するのが裸島。]]
</gallery>
[[File:Asamushionsen insenzyo.JPG|thumb|right|温泉組合前の飲泉所]]
[[File:Kaisenkaku Asamushi Onsen Aomori Japan01n.jpg|right|thumb|高層化された宿泊施設]]
[[File:Kaisenkaku Asamushi Onsen Aomori Japan02n.jpg|right|thumb|湯ノ島を望む大浴場]]
[[File:Asamushi Onsen 02.jpg|right|thumb|宿泊施設の夜景]]
====明治初期====
1876年([[明治]]9年)に刊行された官撰地誌書『新撰陸奥国誌』には、[[明治元年]](1868年)当時の浅虫温泉の様子が記されている。これによれば、浅虫温泉は[[湯治場]]として知られていたものの、住人は「浴客を待て口を糊す」(たまに来る湯治客によってどうにか生計が成り立つ)ような状態で、多くの者は[[蝦夷地]]への出稼ぎでしのいでいたという<ref name="平凡地名-浅虫村"/>。このように明治時代初期の浅虫温泉は「ひなびた<ref name="角川地名-浅虫"/>」温泉地で、温泉客舎18軒(1876年(明治9年))程度の規模だった。小さな商家はあったが、陸運業者はなかったという<ref name="平凡地名-浅虫村"/><ref name="角川地名-浅虫"/>{{refnest|group="注"|[[明治維新]]による[[廃藩置県]]では、旧[[弘前藩]]領は[[弘前県]]となった。県内は[[弘前市|弘前]]を中心に郡が編成され、浅虫温泉のあたりは弘前県の東のはずれ、というべき位置にあって交通不便な場所だった。}}。

西の[[青森市|青森]]側から浅虫温泉までは、距離こそ3[[里]](約11.8キロメートル)ほどだったが、途中には[[善知鳥崎]]という難所があって、まともな道が通じていなかった。善知鳥崎は断崖絶壁が海に突き出でており、当時は崖伝いに岬の突端までいき、岩場に板を渡してなんとか通行していた<ref name="歴史散歩-143"/><ref name="青森市20130222"/><ref name="百科-善知鳥崎"/>{{refnest|group="注"|[[寛政|寛政年間]](1789年 - 1801年)に善知島崎を通った[[渋江長伯]]は「平蜘蛛が壁にとりつくようにして横歩きで6[[間]](約10.9メートル)(中略)岩角へ渡るため丸太を2本渡してある」と伝え<ref name="陸奥新報20121224"/>、[[松浦武四郎]](1818年 - 1888年)は『東奥沿海日誌』(嘉永3年・1850年)のなかで「大岩石峨々たる難所の道也、右は峨々たる岩壁有、左は河岸汐潮満る時は通り難し、故に上に材木渡して是を号してカケハシと云、此上を渡る、然れ共風波荒きときは通りがたし」と記している<ref name="角川地名-浅虫"/>。}}。1876年(明治9年)に[[明治天皇]]が北海道へ[[巡幸]]するにあたり、浅虫温泉に立ち寄ることになった。しかし明治天皇は[[駕籠]]で、従者たちは騎馬で移動しており、善知島崎の桟道の通過は危険すぎるということで、断崖を穿って[[隧道]]を掘ることになった<ref name="陸奥新報20080227"/>。開通した善知島トンネルは牛馬の通行も可能で、これが[[国道4号|国道4号線]](旧[[奥州街道]])として利用され、弘前・青森方面から浅虫温泉を経て八戸方面へ青森県の東西を結ぶ重要な陸路となった<ref name="陸奥新報20121224"/><ref name="歴史散歩-143"/><ref name="百科-善知鳥崎"/>。

====明治中・後期====
1891年(明治24年)に[[東北本線]]が全通し、東京と青森が鉄路で結ばれ、[[浅虫駅]]が開業した。これが原動力となり、温泉地は徐々に発展を始めた<ref name="角川地名-浅虫"/><ref name="陸奥新報20080227"/><ref name="角川地名-野内"/>。温泉地に駅ができたことで単に交通の便がよくなったというだけでなく、本州と北海道とを行き来する旅客が長距離移動の途中で体を休めたり、津軽海峡が[[時化]]て足止めとなった場合の滞在地となった<ref name="T14-淺蟲温泉"/>。1902年(明治35年)の[[八甲田雪中行軍遭難事件]]の生存者や、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の[[日露戦争]]の[[傷痍軍人]]らが浅虫温泉へ送り込まれ、温泉の名が青森県民以外にも知られるようになった<ref name="陸奥新報20080227"/><ref name="青森市20130222"/>。1909年(明治42年)には[[大日本帝国陸軍|旧日本陸軍]]の[[第2師団 (日本軍)|第2師団]](仙台)と[[第8師団 (日本軍)|第8師団]](弘前)により、浅虫転地療養所が設立された<ref name="陸奥新報20150323"/>。

同じ頃から、周辺では馬場山散策コースの整備が行われ、観光客誘致の取り組みも始まった<ref name="角川地名-浅虫"/>。1911年(明治44年)には「浅虫八景」を選定し、絵葉書や新聞を利用した宣伝も行われた<ref name="陸奥新報20150323"/>。1907年(明治40年)の時点では、温泉地には旅館7軒、温泉客舎15、共同浴場2、商店33となり、貨物の運送業者、郵便局、電信局、電話局もあり、人口1000を超す街となった<ref name="角川地名-浅虫"/>。

====大正時代====
大正時代に入ると、[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]に支えられた遊客増加によって、浅虫温泉も大いに発展した。1924年(大正13年)には[[東北帝国大学]](当時)の臨海実験所(現在の[[浅虫海洋生物学教育研究センター]]の前身)が浅虫に開設、ここに併設された[[浅虫水族館]]は当時の日本を代表する水族館として人気を博した<ref name="角川地名-浅虫"/>{{refnest|group="注"|東北大学臨海実験所附属の[[浅虫水族館]]は、1984年(昭和59年)に閉館となるまで、当時営業するものとしては日本国内で最古の水族館だった<ref name="百科-浅虫水族館"/>。同水族館に近接して青森県営の水族館が1983年に開設されたことで、東北大学附属としての浅虫水族館は閉鎖となった。}}。翌1925年(大正14年)には馬場山に「清遊館」が開業した。これは温泉施設に劇場、食堂、娯楽室、展望台、宴会場などを併設したもので、1年後には増築が行われて宿泊機能も兼ね備えて大いに繁盛したという<ref name="陸奥新報20150323"/>。これを機に周辺の旅館も増築や新築が急増、一帯はみるみるうちに歓楽街となっていき、[[芸妓]]や[[コンパニオン (接客業)|酌婦]]の数も150人に達した<ref name="角川地名-浅虫"/><ref name="陸奥新報20150323"/>。1925年(大正14年)刊行の『全國溫泉案内』では、浅虫温泉を「東北地方では屈指の温泉」としている<ref name="T14-淺蟲温泉"/>。

この時期の主な源泉として、次のようなものがあげられている。「柳の湯」、「大湯」、「裸湯」、「桜の湯」、「牡丹の湯」、「高砂の湯」、「鶴の湯」など<ref name="T14-淺蟲温泉"/>。源泉によって泉質などはわずかな差異はあるがおおよそ一致している<ref name="T14-淺蟲温泉"/>。当時は温泉の適応症として、肝臓病、神経麻痺、胃腸カタル、痛風、子宮疾患、梅毒、痔核、創傷、多血症などがあげられている<ref name="T14-淺蟲温泉"/>。

====昭和初期====
浅虫温泉は青森県としては割合に冬の寒さは穏やかで、春の[[潮干狩り]]、夏の海水浴、秋の花火大会、冬のスキーと、一年を通じてレジャーが可能な行楽地となった<ref name="陸奥新報20150323"/><ref name="T14-淺蟲温泉"/><ref name="S15-浅虫温泉"/>。1936年(昭和11年)には、同じ青森県内に[[十和田八幡平国立公園|十和田国立公園]]が設立されたが、こちらは手付かずの自然が売りなのに対し、浅虫温泉は文化施設や陥落施設、行楽施設が揃った観光地として人気を博した<ref name="陸奥新報20150323"/>。1939年(昭和14年)には、浅虫温泉ちかくに傷痍軍人青森療養所([[国立病院機構青森病院]]の前身<ref name="青森病院"/>)が設立され、その利用者のために新駅[[西平内駅]]も開業した<ref name="陸奥新報20150309"/>。

====文化====
浅虫温泉には、さまざまな文化人がやってきている。[[高浜虚子]](1874年 - 1959年)は、[[高木晴子|娘]]婿が[[日本銀行]]青森支店長を務めていたこともあり、浅虫温泉を何度か訪れた。このとき詠んだ句「百尺の裸岩あり夏の海」などが残されている<ref name="陸奥新報20080227"/>。俳人[[秋元不死男]](1901年 - 1977年)は1958年(昭和33年)に来訪し、「あおあおと林檎の鎮(おもし)稿を継ぐ」と詠んだ<ref name="陸奥新報20080227"/>。津軽地方出身の[[太宰治]](1909年 - 1948年)は、家族が浅虫温泉で湯治をしていたので自身もたびたび浅虫温泉に逗留し、その時の様子を『津軽』『思ひ出』に書いている<ref name="椿館-太宰"/>。

[[青森市]][[本町 (青森市)|大町]]{{refnest|group="注"|現在は青森市本町}}出身の[[棟方志功]](1903年 - 1975年)は1924年(大正13年)に画家を目指して東京に出た。のちに[[版画]]に転向すると、1938年(昭和13年)に浅虫にある善知鳥崎を描いた作品「善知鳥」で、初めての[[帝展]]での特選を果たした<ref name="百科-棟方志功"/>。棟方志功は[[太平洋戦争]]中を除き、例年浅虫温泉を訪れて1ヶ月から2ヶ月間滞在したといい<ref name="椿館-棟方"/>、滞在先の旅館のために描いた仏画『浅虫温泉如来』などが残されている<ref name="青森美術-棟方"/>。

「[[くぢらもち|くじら餅]]」は浅虫温泉を代表する郷土菓子である<ref name="陸奥新報20160606"/>。これはもともと[[津軽地方]]の[[鰺ヶ沢町|鰺ヶ沢]]の<!--中村順助が作っていた-->菓子の製法を、浅虫温泉の<!--永井源三郎という-->菓子屋が学んできたもので、1907年(明治40年)に日露戦争の傷病兵が浅虫温泉に逗留するようになったときに生み出された。この餅菓子は安価で保存性に優れ、携帯にも便利だとして土産物として人気になった。軍人の除隊土産としても知られていたという<ref name="陸奥新報20160606"/>。くじら餅は浅虫温泉の名物として[[くぢらもち]]が知られるようになり<ref name="陸奥新報20080227"/>、1918年(大正7年)には品評会に出陳されてさらに注目されるようになった<ref name="陸奥新報20160606"/>。<!--ウィキペディア的には書きにくいのですが、この「永井源三郎」の菓子屋さんは2015年に廃業したそうで、浅虫温泉にはその親類筋の別の菓子屋さんが現存するそう。-->

====「東北の熱海」====
浅虫温泉は海辺にあり、鴎島、裸島、湯ノ島といった小島が浮かんでいる。さらに[[下北半島]]を遠望し、夏季の海水浴に適した砂浜がある<ref name="S15-浅虫温泉"/><ref name="T14-淺蟲温泉"/>。背後三方は山に囲まれている<ref name="T14-淺蟲温泉"/>。このような地形から、浅虫温泉は明治時代から「[[熱海温泉]]に似ている」「東北の熱海」というようになった<ref name="陸奥新報20081013"/><ref name="陸奥新報20150323"/>{{refnest|group="注"|当時の熱海温泉は、「温和の気候と、稀に見る風景と、それから温泉を兼備した保養地<ref name="T14-熱海温泉"/>」と評され、どちらかというと風光明媚な景勝地として知られていた。}}。

熱海温泉は1925年(大正14年)の[[熱海線]]開業と1934年(昭和11年)[[丹那トンネル]]開通によって利用客が急増し、歓楽地・遊興地へと変貌を遂げた<ref name="陸奥新報20150323"/>。これと同じ頃に浅虫温泉も歓楽地と変化していき、昭和に入るとどちらも遊興地として栄えていることを以て「東北の熱海」と称せられるようになった<ref name="陸奥新報20150323"/>。

====源泉の一元管理化====
温泉地では利用客の増加に伴って各旅館は独自に温泉を採掘し、ポンプで汲み上げた。しかしこうした乱掘は源泉を損なうことになっていった<ref name="研究所-集中管理"/><ref name="高柳2014"/>。

1913年(大正2年)頃、浅虫温泉の泉質は硫酸塩泉だった。主要な源泉は8か所で自噴しており、湧出量は毎分約120リットル、泉温は61.5℃から79℃となっていた<ref name="研究所-集中管理"/>{{refnest|group="注"|湧出量・温度は推定値<ref name="研究所-集中管理"/>。源泉を自噴泉と揚湯泉に区別した湧出量などの定量的調査は、1957年(昭和32年)に公表された、1954年(昭和29年)12月のデータが最初だった<ref name="甘露寺1978"/>。}}。

その後、ボーリングによる温泉開発がすすみ、1944年(昭和19年)頃には掘削による源泉は126か所を数えるようになった。1961年(昭和36年)頃からはポンプによる汲み上げも始まり、数字の上では湧出量は増加していった<ref name="研究所-集中管理"/>。ところがそのかげでは、1952年(昭和27年)には119か所で自噴していた源泉が、1963年(昭和38年)には11か所しか湧出しなくなっていた<ref name="百科-浅虫温泉"/><ref name="浅虫方式"/>。源泉によっては湯の水位が4メートルから5メートルも低くなっていて、地下水や海水の流入のために、源泉の温度の低下を招いた<ref name="浅虫方式"/><ref name="研究所-集中管理"/><ref name="高柳2014"/>。また、とくに海に近い源泉では泉質の食塩泉化が顕著に進行していた<ref name="百科-浅虫温泉"/><ref name="研究所-集中管理"/>{{refnest|group="注"|単純に海水が流入したのではなく、海岸に近い源泉へ海水が地層を浸透していく過程で、海水中のナトリウム、カリウム、マグネシウムイオンは減衰し、かわりに地層に含まれる[[炭酸カルシウム]]からカルシウム成分が流出し、これらが源泉の成分に影響を与えた<ref name="甘露寺1971"/>。}}。

温泉地では対策として、1966年(昭和41年)に源泉を一元管理する浅虫温泉事業協同組合を組織、源泉の個人所有をやめた。温泉の総採取量は従来の半分を目標とし、毎分920リットルに制限された。すべての温泉利用者は、この協同組合に対して温泉使用料をおさめて湯の供給を受けることになった。この結果、10年で源泉の回復をみた。このように温泉地で源泉を集中管理する方式は日本で最初期の試みで、その成功例として知られるようになった<ref name="百科-浅虫温泉"/><ref name="浅虫方式"/><ref name="研究所-集中管理"/><ref name="高柳2014"/>。

====近況====
もともと海岸に沿って温泉街が発展していたが、[[国道4号|国道4号線]]のバイパス化するにあたり海側に道路を通したため、温泉街と海との間に距離ができた。温泉施設の中には、客室や大浴場から海を望むように高層化をはかったものもある<ref name="温泉大事典"/>。この結果、山側には昔ながらの温泉旅館が、海側には大規模なホテルが並ぶようになった<ref name="温泉大事典"/>。1986年(昭和61年)には海浜部に浅虫海づり公園を建設した<ref name="青森-水産年表"/>。これは桟橋から陸奥湾の魚介類を釣るための場所で、初心者向けに生簀の釣り堀も備えたものである<ref name="コンベ-海づり"/>。開園初年度は3万人を超える利用客を集めた<ref name="青森-海づり利用者"/>。

[[バブル景気]]の終焉以降、<!--景気後退や人口減、少子高齢化、レジャー産業における消費者の嗜好の変化、そして2011年(平成23年)の[[東日本大震災]]の影響などにより、-->浅虫温泉の利用者は減少している<ref name="青森市H30予算"/>。宿泊客数は1991年(平成3年)の29万5000人から、2016年(平成28年)には16万6000人へと縮小した<ref name="河北20170522"/>。宿泊施設や飲食店の数は最盛期に比べて半分になり<ref name="青森市H30予算"/>{{refnest|group="注"|2009年(平成22年)の青森県の調査報告書によれば、浅虫温泉旅館組合に加入している宿泊施設数は14施設<ref name="青森県H22報告"/>。2017年5月の「[[河北新報]]」によれば、宿泊施設は24軒(1991年)から10軒(2017年)、飲食店は約50軒から約15軒へ減少<ref name="河北20170522"/>。}}、2013年(平成25年)に浅虫小学校が、2015年(平成27年)には浅虫中学校が廃校になった<ref name="日経20171206"/>。2017年には浅虫温泉の大手ホテルの運営会社が経営破綻した<ref name="TV20170122"/>。

地元の[[みちのく銀行]]や旅館の経営者らは、温泉地の復興にむけて共同で取り組みを行っている<ref name="日経20170603"/>。温泉地の再生への取り組みの一環として、青森県による[[ヒートポンプ]]による地下熱の利用の調査研究や<ref name="青森県H22報告"/>、[[再生可能エネルギー]]としての温泉熱を利用した地熱発電の検討を行っているものの、採算性などが課題となって実現には至っていない<ref name="東奥20170525"/>。

== 施設・催事 ==
[[File:Asamushionsen matsunoyu.JPG|thumb|right|共同浴場「松の湯」]]
[[File:Yunoshima -Asamushi.jpg|thumb|right|湯ノ島]]
[[File:Beach of Asamushi, -11 Jun. 2012 a.jpg|thumb|right|夏は海水浴が行われる海岸]]
[[File:Aomori Bay Asamushi Onsen Japan02bs5.jpg|right|thumb|港の夕景。背後には裸島が見える。]]

===温泉施設===
*「'''松の湯'''」
*「'''ゆーさ浅虫'''」([[道の駅浅虫温泉]]内) - かつて温泉街にあった共同浴場「はだか湯」の名称を引き継ぐ。

=== 湯ノ島 ===
'''[[湯ノ島 (青森湾)|湯ノ島]]'''は温泉地から約1キロメートル沖合いの無人島<ref name="シマダス-45"/>。島付近の海中から温泉が湧出していることからその名があるという<ref name="和田1925"/>。[[カタクリ]]の群落があり、4月の『湯の島カタクリ祭り』では渡航もできる<ref name="シマダス-45"/>。島周辺の奇岩見物の観光船も運航される<ref name="シマダス-45"/>。

===裸島===
'''裸島'''は温泉地から約1.7キロメートル先の白根崎という岬の先端部にある無人島。もともとは岬の一部だったものが、波蝕により独立した岩の柱となって屹立している。白根崎流紋岩と呼ばれる[[中新世]]の特徴的な[[流紋岩]]から成るが、温泉化作用によって変色して黄色みを帯びる<ref name="百科-白根崎"/><ref name="百科-裸島"/>。浅虫温泉の海岸の景物として昔から知られる。江戸時代の史料では高さ25間(約45メートル)、「肌赤島」と称し、これは、鷲が赤子をさらってこの岩の上に止まったのを、母親が助けに行こうとして岩場を登り、指から出た血によって岩が染まったことに由来するという。岩場に植物がまったくないのもこれが原因だとするという伝承が紹介されている<ref name="平凡地名-浅虫村"/>。裸島の目の前には旧東北大学臨海実験所([[浅虫海洋生物学教育研究センター]]・旧浅虫水族館)がある<ref name="角川地名-裸島"/>。

===観光施設・観光地===
*[[浅虫ヨットハーバー]]
*[[サンセットビーチあさむし]](海水浴場)
**[[青森県営浅虫水族館]] - [[東北大学]]の臨海実験所の附属水族館を前身とする。
**[[浅虫海洋生物学教育研究センター]]([[東北大学]]大学院[[生命科学研究科]]) - 前身は[[東北大学]]臨海実験所<ref name="研究センター"/>。1924年(大正13年)創設の附属水族館は、日本で最も歴史の長い水族館だったが、県営浅虫水族館の開設により閉鎖となった<ref name="百科-浅虫水族館"/>。
**[[ワンダーランドASAMUSHI]](2005年閉鎖)
*[[夢宅寺]] - [[弘前藩]]藩主[[津軽信政]]が眼病治癒祈願をしたと伝わる寺院<ref name="歴史散歩-143"/>。

=== 陸奥湾展望台 ===
温泉街の裏手の山には、[[森林浴]]に最適な[[ハイキング]]コースがある。コース上には[[陸奥湾]]展望台がある。


== 祭事・行事 ==
=== 祭事・行事 ===
[[ファイル:Asamushi Onsen Nebuta Matsuri Aomori Japan04s3.jpg|thumb|浅虫温泉ねぶた祭り]]
[[ファイル:Asamushi Onsen Nebuta Matsuri Aomori Japan04s3.jpg|thumb|浅虫温泉ねぶた祭り]]
* 湯の島カタクリ祭り - 4月
* 湯の島カタクリ祭り - 4月
* [[浅虫温泉ねぶた祭り]] - 7月中旬、8月14日
* [[浅虫温泉ねぶた祭り]] - 7月中旬、8月14日
* 浅虫温泉花火大会 - 8月1日
* 浅虫温泉花火大会 - 8月1日

===ギャラリー===
<gallery>
ファイル:Tsugaru-jamisen Kaisenkaku Asamushi Onsen Aomori Japan05s5.jpg|津軽三味線ライブ
</gallery>


== アクセス ==
== アクセス ==
75行目: 151行目:
* 車 - 青森市街から[[国道4号]]で約30分。高速道路の場合は[[青森自動車道]]・[[青森東インターチェンジ|青森東IC]]利用。
* 車 - 青森市街から[[国道4号]]で約30分。高速道路の場合は[[青森自動車道]]・[[青森東インターチェンジ|青森東IC]]利用。


== 脚注 ==
==脚注==
===注釈===
{{脚注ヘルプ}}
<references />
<references group="注"/>
===出典===
{{Reflist|colwidth=30em
|refs=
<!-- -->
*<ref name="百科-浅虫温泉">『青森県百科事典』p46「浅虫温泉」</ref>
*<ref name="百科-鹿の湯">『青森県百科事典』p395「鹿の湯」</ref>
*<ref name="百科-浅虫水族館">『青森県百科事典』p46「浅虫水族館」</ref>
*<ref name="百科-棟方志功">『青森県百科事典』p897「棟方志功」</ref>
*<ref name="百科-善知鳥崎">『青森県百科事典』p115「善知鳥崎」</ref>
*<ref name="百科-裸島">『青森県百科事典』p732「裸島」</ref>
*<ref name="百科-白根崎">『青森県百科事典』p459「白根崎」</ref>

*<ref name="角川地名-浅虫">『角川日本地名大辞典2 青森県』p83-84「浅虫」</ref>
*<ref name="角川地名-浅虫温泉">『角川日本地名大辞典2 青森県』p84「浅虫温泉」</ref>
*<ref name="角川地名-野内">『角川日本地名大辞典2 青森県』p735-737「野内」</ref>
*<ref name="角川地名-裸島">『角川日本地名大辞典2 青森県』p747「裸島」</ref>

*<ref name="平凡地名-浅虫村">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p334「浅虫村」</ref>
*<ref name="平凡地名-浅虫温泉">『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p334-335「浅虫温泉」</ref>

<!--近代-->
*<ref name="T14-淺蟲温泉">『全國溫泉案内』p192-194「淺蟲温泉」</ref>
*<ref name="T14-熱海温泉">『全國溫泉案内』p106「熱海温泉」</ref>
*<ref name="S15-浅虫温泉">『温泉案内』p315「浅虫温泉」</ref>
*<ref name="歴史散歩-143">『青森県の歴史散歩』p143「麻蒸湯」</ref>

*<ref name="陸奥新報20080227">[[陸奥新報]],2008年2月27日付,[http://www.mutusinpou.co.jp/tsugaru/2008/02/1025.html 二十三番 安養寺夢宅寺(浅虫)], 2018年5月17日閲覧。</ref>
*<ref name="陸奥新報20081013">[[陸奥新報]],2008年10月13日付,[http://www.mutusinpou.co.jp/北方史の中の津軽/2008/10/3869.html 景勝地の選定で活気=13], 2018年5月18日閲覧。</ref>
*<ref name="陸奥新報20121224">[[陸奥新報]],2012年12月24日付,[http://www.mutusinpou.co.jp/北方史の中の津軽/2012/12/24349.html 蝦夷地への出入り口=104], 2018年5月19日閲覧。</ref>
*<ref name="陸奥新報20150309">[[陸奥新報]],2015年3月9日付,[http://www.mutusinpou.co.jp/津軽の街と風景/2015/03/35440.html 駅や築港は国策に翻弄=21](中園裕(青森県史編さんグループ主幹)), 2018年5月17日閲覧。</ref>
*<ref name="陸奥新報20150323">{{cite news |url=http://www.mutusinpou.co.jp/津軽の街と風景/2015/03/35640.html |title=遊興地となる浅虫温泉=22 |newspaper=[[陸奥新報]] |publisher=陸奥新報社 |date=2015-3-23 |author=中園美穂(青森県史編さん調査研究員) |accessdate=2015-11-28 }}</ref>
*<ref name="陸奥新報20160606">[[陸奥新報]],2016年6月6日付,[http://www.mutusinpou.co.jp/津軽の街と風景/2016/06/41713.html 駅郷土菓子に歴史、風土=49](中園美穂(青森県史編さん調査研究員)), 2018年5月19日閲覧。</ref>

*<ref name="青森病院">[[国立病院機構青森病院]],[http://www.nhoaomori.jp/outline/history.html 青森病院のあゆみ], 2018年5月17日閲覧。</ref>

*<ref name="椿館-棟方">椿館,[http://www.810215.com/shikou/dsp_detail.php?no=30 棟方志功画伯との出会い], 2018年5月17日閲覧。</ref>
*<ref name="椿館-太宰">椿館,[http://www.810215.com/tsubakikan/index.html 椿館と太宰治], 2018年5月17日閲覧。</ref>
*<ref name="青森美術-棟方">[[青森県立美術館]],2016年4月28日,[http://www.aomori-museum.jp/ja/blog/1588.html 特別展示 棟方志功の三湯仏 ぜひご観覧ください!], 2018年5月17日閲覧。</ref>

<!--集中管理-->
*<ref name="浅虫方式">『温泉と日本人』八岩まどか,青弓社,1993,[https://books.google.co.jp/books?id=4U5xDgAAQBAJ Google Books版],p180-182</ref>
*<ref name="研究所-集中管理">NPO法人健康と温泉フォーラム,甘露寺泰雄(財団法人[[中央温泉研究所]]・所長),[http://www.onsen-forum.jp/enterprise/hoyochigakukoza/group-environment/environment05.html 適正利用としての浴槽衛生管理と資源の集中管理] 2018年5月12日閲覧。</ref>
*<ref name="高柳2014">[[一橋大学]],高柳友彦,2014,「{{PDFlink|[https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/26129/1/keizai0070200210.pdf 近現代日本における温泉資源利用の歴史的展開 -多目的利用の観点から-]}}」 2018年5月12日閲覧。</ref>
*<ref name="甘露寺1978">一般社団法人日本温泉科学会,「温泉科学」29巻3号(1978年),甘露寺泰雄(財団法人[[中央温泉研究所]]),「{{PDFlink|[http://www.j-hss.org/journal/back_number/vol29_pdf/vol29no3_118_128.pdf 温泉統計と枯渇現象]}}」 2018年5月12日閲覧。</ref>
*<ref name="甘露寺1971">公益社団法人[[日本薬学会]],「衛生化学」18巻2号(1972年),甘露寺泰雄(財団法人[[中央温泉研究所]]),「{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhs1956/18/2/18_2_90/_pdf/-char/ja 海水混入による温泉成分の変化に関する研究(第2報)浅虫温泉の海水浸入過程におけるナトリウム, カリウム, カルシウムおよびマグネシウムイオンの挙動について]}}」 2018年5月18日閲覧。</ref>

<!--近況-->
*<ref name="温泉大事典">『全国温泉大事典』,p100「浅虫温泉」</ref>

*<ref name="河北20170522">[[河北新報]],東北ニュース,2017年5月22日付,[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201705/20170522_22002.html <浅虫温泉>経営者がチーム にぎわい創出へ] 2018年5月12日閲覧。</ref>
*<ref name="青森市H30予算">[[青森市]],市政情報,{{PDFlink|[https://www.city.aomori.aomori.jp/koho-kocho/shiseijouhou/kouhou/press/h3003/documents/20180323-06-03.pdf 青森市のわかりやすい予算書(平成30年度)]}},p16, 2018年5月11日閲覧。</ref>
*<ref name="日経20171206">[[日本経済新聞]],2017年12月6日付,[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO24291830V01C17A2L01000/ 学校が消える 少子高齢化の現実 東北の未来を考える 第1部「人口減の衝撃」(3)] , 2018年5月11日閲覧</ref>
*<ref name="TV20170122">トラベルビジョン,2017年1月22日付,[http://www.travelvision.jp/news-jpn/detail.php?id=76129 ホテルの元経営会社が破産開始、負債13億円] , 2018年5月11日閲覧</ref>
*<ref name="日経20170603">[[日本経済新聞]],2017年6月3日付,[https://www.nikkei.com/article/DGXLASFB02H6V_S7A600C1L01000/ 青森市の浅虫温泉、みちのく銀が再生を主導 ] , 2018年5月12日閲覧</ref>
*<ref name="青森県H22報告">[[青森県]],{{PDFlink|[http://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/energy/enerugi/files/200902_asamushichiku_onsennetsuriyoukanouseichousa.pdf 浅虫地区の温泉熱利用可能性調査 報告書(平成22年2月)]}}, 2009, 2018年5月12日閲覧。</ref>
*<ref name="東奥20170525">[[東奥日報社]],Web東奥,2017年5月25日付,[http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170525025390.asp 浅虫温泉協組、温泉熱発電を断念/青森] 2018年5月12日閲覧。</ref>

<!--周辺-->
*<ref name="研究センター">[[東北大学]]付属浅虫海洋生物学教育研究センター,[http://www.biology.tohoku.ac.jp/lab-www/asamushi/pg87.html 浅虫海洋生物学教育研究センターについて] 2018年5月12日閲覧。</ref>

*<ref name="青森-水産年表">[[青森市]]農林水産部水産振興センター,2018年2月5日付,[https://www.city.aomori.aomori.jp/suisan/sangyo-koyou/sangyo/suisangyou/02/01.html 青森開港と水産関係略年表] 2018年5月20日閲覧。</ref>

*<ref name="青森-海づり利用者">[[青森市]]農林水産部水産振興センター,2018年2月5日付,[https://www.city.aomori.aomori.jp/suisan/sangyo-koyou/sangyo/suisangyou/02/04.html 浅虫海づり公園利用者数] 2018年5月20日閲覧。</ref>

*<ref name="コンベ-海づり">公益社団法人 青森観光コンベンション協会,[http://www.atca.info/detailview.html?oid=190 浅虫海づり公園] 2018年5月20日閲覧。</ref>

*<ref name="シマダス-45">『日本の島ガイド SHIMADAS』p45「湯ノ島」</ref>
*<ref name="和田1925">[[農商務省 (日本)|農商務省]]嘱託・和田干藏([[青森県師範学校]]),1925,「淺蟲温泉と附近の名勝[https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=5209&file_id=20&file_no=1]」, 2018年5月20日閲覧。</ref>

<!--その他-->
*<ref name=mice>{{cite web |accessdate=2015-11-28 |url=http://mice.jnto.go.jp/cms/content/files/city_guide/aomori.pdf |format=PDF |title=青森市の公的支援と施設ガイド |work=日本政府観光局web |publisher=独立行政法人 国際観光振興機構 |quote=青森の奥座敷といわれる浅虫は、開湯1200年、[[棟方志功]]や[[太宰治]]など数多くの文化人も訪れた歴史のある[[温泉街]]です }}[http://mice.jnto.go.jp/place/city_1302.php]</ref>

*<ref name="公式-紹介">一般社団法人 浅虫温泉観光協会・浅虫温泉旅館組合,[http://www.asamushi.com/about/index.html 浅虫温泉紹介] 2018年5月11日閲覧。</ref>

*<ref name="青森市20130222">[[青森市]]HP,青森市教育委員会事務局市民図書館 歴史資料室,「あおもり歴史トリビア」第46号,2013年2月22日付,[https://www.city.aomori.aomori.jp/toshokan/bunka-sports-kanko/rekishi/mailmagagine-rekishi-trivia/45.html 浅虫温泉と浅虫水族館] 2018年5月19日閲覧。</ref>

}}
===書誌情報===
*『全國溫泉案内』,溫泉研究會/著,日本書院,1924(初版),1925(10版)
*『温泉案内』,[[鉄道省|鐵道省]],1940
*『[[都道府県別百科事典|青森県百科事典]]』,[[東奥日報|東奥日報社]],1981,ISBN 4-88561-000-1
*『[[日本歴史地名大系]]2 青森県の地名』,[[平凡社]],1982
*『[[角川日本地名大辞典]]2 青森県』,[[角川書店]],1985
*『全国温泉大事典』,野口冬人/著,旅行読売出版社,1997,ISBN 4-89752-059-2
*『青森県の歴史散歩』,青森県高等学校地方史研究会/編,[[山川出版社]],2007,ISBN 978-4-634-24602-7
*新・分県登山ガイド改訂版1『 青森県の山』,いちのへ義孝/著,[[山と渓谷社]],2010,2014(初版第2刷),ISBN 978-4-635-02351-1
*『日本の島ガイド SHIMADAS』財団法人日本離島センター編、1998年、2005年(第2版第3刷)、ISBN 4-931230-22-9


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commonscat}}
{{commonscat}}
* [[南部屋旅館]] - ホテル海扇閣と南部屋を運営する企業
* [[青森県の観光地]]
* [[青森県の観光地]]
* [[浅虫夏泊県立自然公園]]
* 浅虫温泉事業協同組合 - 源泉を管理する組合
* [[南部屋旅館]] - 温泉旅館を運営する企業


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2018年6月2日 (土) 11:08時点における版

浅虫温泉
柳の湯
温泉情報
所在地 青森県青森市大字浅虫
地図
座標 北緯40度53分28.7秒 東経140度51分44.2秒 / 北緯40.891306度 東経140.862278度 / 40.891306; 140.862278
交通 青い森鉄道線浅虫温泉駅下車徒歩5-15分[1]
泉質 ナトリウム・カルシウム - 硫酸塩 - 塩化物泉[2]
泉温(摂氏 平均63℃[3]
宿泊施設数 10(2017年[4]
年間浴客数 166,000人(2016年[4]
外部リンク 一般社団法人 浅虫温泉観光協会・浅虫温泉旅館組合
テンプレートを表示
浅虫温泉郷遠望

浅虫温泉(あさむしおんせん)は、青森県青森市浅虫(旧国陸奥国)にある温泉。海水浴やスキー、水族館や遊園地といったさまざまなレジャー施設も兼ね備えた観光地として賑わい、「東北の熱海[5]」、「青森の奥座敷[6]」などと呼ばれた。

陸奥湾に突出する夏泊半島の基部に位置し、浅虫夏泊県立自然公園の一角を成している。

泉質

(※新旧の表記については泉質参照)
かつて浅虫温泉にはいくつもの源泉があり、30℃から78℃で湧出していた[2]。しかし乱掘によって湧出量の減少をみたうえ、泉質が変わって食塩泉となった。そのため1968年(昭和43年)に源泉を1箇所に統合して汲み上げることとなった。こうした方式は当時の日本では珍しい試みだったという[3]
源泉から46℃に調整後、各温泉施設や一般家庭へ配湯が行われている[3]

歴史

開湯伝説は慈覚大師(円仁)や円光大師(法然)による発見説を伝える[7]。また、かつて「麻蒸」と表記したことからアサを蒸していたのだろうとする語源説もある[7]

出湯のやかたに宿つきたり。湯は滝の湯、目のゆ、柳のゆ、おほゆ、はだかゆなどのいときよげにわき、はた、軒をつらねたる家々のしりにも、ゆのありてやよけん。里中に烹坪とて、ふちふちとにへかへる温湯あり[7] — 菅江真澄(1754年 - 1859年)、『率土が濱傅ひ(外が浜伝ひ)』(天明8年(1788年))

開湯の伝説

江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した菅江真澄(1754年 - 1859年)は、『率土が濱傅ひ(外が浜伝ひ)』(天明8年(1788年))の中で、現地の伝承を紹介した[8]。これによると、温泉は「烹坪(につぼ)」と称し、もっぱら源泉でアサを蒸して繊維をとり、織布とするために利用していたことからかつては「麻蒸」と呼んでいたという[8]。しかし村で火災が頻発したことから、火に関連する「蒸」の字を忌み、「浅虫」と書き表すようになったという[8][3][9]

温泉の発見については伝説があり、平安時代の1190年頃、浄土宗の開祖法然(1133年 - 1212年)が陸奥国を訪れた際、シカが怪我を癒すために湯に浸かっていたのを見出したという[2][3][注 1]。これにはさらに古く遡る異伝があり、発見者を円仁(794年 - 864年)に帰す伝承もある[9]。いずれの場合にも、地元の住民は入浴の効能を知らなかったため、発見者の仏僧が浴用とすることを住民に教えたのだとされる[3]

近世

中世末期の天文年間(1532年 - 1555年)の史料には「麻蒸湯」と記されている[8][11]江戸時代になると温泉地としての言及が増え、貞享4年(1687年)の検地帳では「出湯」4箇所と記録されている[8]

弘前藩では領内の温泉地18箇所のうちの1つと数え、御仮屋・御陣屋を備えた御休所とされている[8]。藩主は青森や外が浜を巡察する際には浅虫温泉に立ち寄って入浴した[7]。当時の藩主が利用した本陣が、現在の「柳の湯」であると伝わる[12]亨保9年(1724年)には村で火災があり、「本陣」も焼損被害を受けたという記録も残されている[7]

前述の菅江真澄のほか、同時代の地理学者古川古松軒(1726年 - 1807年)は幕府の巡見使に帯同して天明8年(1788年)に浅虫温泉を訪れており、その際の様子が『東遊雑記』8月24日の記録に著されている[7]

此所は青森より三里といへども大ひに遠し。此地海浜にのぞみて温泉あり、至ての熱湯にて湯つぼより流れ出る湯、川々へ落て湯気の立あがる事煙のごとし[7] — 古川古松軒(1726年 - 1807年)、『東遊雑記』

近現代

1891年(明治24年)開業の浅虫駅(現・浅虫温泉駅)
浅虫水族館
浅虫ねぶた
海岸の夕景。右に屹立するのが裸島。
温泉組合前の飲泉所
高層化された宿泊施設
湯ノ島を望む大浴場
宿泊施設の夜景

明治初期

1876年(明治9年)に刊行された官撰地誌書『新撰陸奥国誌』には、明治元年(1868年)当時の浅虫温泉の様子が記されている。これによれば、浅虫温泉は湯治場として知られていたものの、住人は「浴客を待て口を糊す」(たまに来る湯治客によってどうにか生計が成り立つ)ような状態で、多くの者は蝦夷地への出稼ぎでしのいでいたという[11]。このように明治時代初期の浅虫温泉は「ひなびた[8]」温泉地で、温泉客舎18軒(1876年(明治9年))程度の規模だった。小さな商家はあったが、陸運業者はなかったという[11][8][注 2]

西の青森側から浅虫温泉までは、距離こそ3(約11.8キロメートル)ほどだったが、途中には善知鳥崎という難所があって、まともな道が通じていなかった。善知鳥崎は断崖絶壁が海に突き出でており、当時は崖伝いに岬の突端までいき、岩場に板を渡してなんとか通行していた[13][12][14][注 3]。1876年(明治9年)に明治天皇が北海道へ巡幸するにあたり、浅虫温泉に立ち寄ることになった。しかし明治天皇は駕籠で、従者たちは騎馬で移動しており、善知島崎の桟道の通過は危険すぎるということで、断崖を穿って隧道を掘ることになった[16]。開通した善知島トンネルは牛馬の通行も可能で、これが国道4号線(旧奥州街道)として利用され、弘前・青森方面から浅虫温泉を経て八戸方面へ青森県の東西を結ぶ重要な陸路となった[15][13][14]

明治中・後期

1891年(明治24年)に東北本線が全通し、東京と青森が鉄路で結ばれ、浅虫駅が開業した。これが原動力となり、温泉地は徐々に発展を始めた[8][16][17]。温泉地に駅ができたことで単に交通の便がよくなったというだけでなく、本州と北海道とを行き来する旅客が長距離移動の途中で体を休めたり、津軽海峡が時化て足止めとなった場合の滞在地となった[18]。1902年(明治35年)の八甲田雪中行軍遭難事件の生存者や、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)の日露戦争傷痍軍人らが浅虫温泉へ送り込まれ、温泉の名が青森県民以外にも知られるようになった[16][12]。1909年(明治42年)には旧日本陸軍第2師団(仙台)と第8師団(弘前)により、浅虫転地療養所が設立された[5]

同じ頃から、周辺では馬場山散策コースの整備が行われ、観光客誘致の取り組みも始まった[8]。1911年(明治44年)には「浅虫八景」を選定し、絵葉書や新聞を利用した宣伝も行われた[5]。1907年(明治40年)の時点では、温泉地には旅館7軒、温泉客舎15、共同浴場2、商店33となり、貨物の運送業者、郵便局、電信局、電話局もあり、人口1000を超す街となった[8]

大正時代

大正時代に入ると、大戦景気に支えられた遊客増加によって、浅虫温泉も大いに発展した。1924年(大正13年)には東北帝国大学(当時)の臨海実験所(現在の浅虫海洋生物学教育研究センターの前身)が浅虫に開設、ここに併設された浅虫水族館は当時の日本を代表する水族館として人気を博した[8][注 4]。翌1925年(大正14年)には馬場山に「清遊館」が開業した。これは温泉施設に劇場、食堂、娯楽室、展望台、宴会場などを併設したもので、1年後には増築が行われて宿泊機能も兼ね備えて大いに繁盛したという[5]。これを機に周辺の旅館も増築や新築が急増、一帯はみるみるうちに歓楽街となっていき、芸妓酌婦の数も150人に達した[8][5]。1925年(大正14年)刊行の『全國溫泉案内』では、浅虫温泉を「東北地方では屈指の温泉」としている[18]

この時期の主な源泉として、次のようなものがあげられている。「柳の湯」、「大湯」、「裸湯」、「桜の湯」、「牡丹の湯」、「高砂の湯」、「鶴の湯」など[18]。源泉によって泉質などはわずかな差異はあるがおおよそ一致している[18]。当時は温泉の適応症として、肝臓病、神経麻痺、胃腸カタル、痛風、子宮疾患、梅毒、痔核、創傷、多血症などがあげられている[18]

昭和初期

浅虫温泉は青森県としては割合に冬の寒さは穏やかで、春の潮干狩り、夏の海水浴、秋の花火大会、冬のスキーと、一年を通じてレジャーが可能な行楽地となった[5][18][20]。1936年(昭和11年)には、同じ青森県内に十和田国立公園が設立されたが、こちらは手付かずの自然が売りなのに対し、浅虫温泉は文化施設や陥落施設、行楽施設が揃った観光地として人気を博した[5]。1939年(昭和14年)には、浅虫温泉ちかくに傷痍軍人青森療養所(国立病院機構青森病院の前身[21])が設立され、その利用者のために新駅西平内駅も開業した[22]

文化

浅虫温泉には、さまざまな文化人がやってきている。高浜虚子(1874年 - 1959年)は、婿が日本銀行青森支店長を務めていたこともあり、浅虫温泉を何度か訪れた。このとき詠んだ句「百尺の裸岩あり夏の海」などが残されている[16]。俳人秋元不死男(1901年 - 1977年)は1958年(昭和33年)に来訪し、「あおあおと林檎の鎮(おもし)稿を継ぐ」と詠んだ[16]。津軽地方出身の太宰治(1909年 - 1948年)は、家族が浅虫温泉で湯治をしていたので自身もたびたび浅虫温泉に逗留し、その時の様子を『津軽』『思ひ出』に書いている[23]

青森市大町[注 5]出身の棟方志功(1903年 - 1975年)は1924年(大正13年)に画家を目指して東京に出た。のちに版画に転向すると、1938年(昭和13年)に浅虫にある善知鳥崎を描いた作品「善知鳥」で、初めての帝展での特選を果たした[24]。棟方志功は太平洋戦争中を除き、例年浅虫温泉を訪れて1ヶ月から2ヶ月間滞在したといい[25]、滞在先の旅館のために描いた仏画『浅虫温泉如来』などが残されている[26]

くじら餅」は浅虫温泉を代表する郷土菓子である[27]。これはもともと津軽地方鰺ヶ沢の菓子の製法を、浅虫温泉の菓子屋が学んできたもので、1907年(明治40年)に日露戦争の傷病兵が浅虫温泉に逗留するようになったときに生み出された。この餅菓子は安価で保存性に優れ、携帯にも便利だとして土産物として人気になった。軍人の除隊土産としても知られていたという[27]。くじら餅は浅虫温泉の名物としてくぢらもちが知られるようになり[16]、1918年(大正7年)には品評会に出陳されてさらに注目されるようになった[27]

「東北の熱海」

浅虫温泉は海辺にあり、鴎島、裸島、湯ノ島といった小島が浮かんでいる。さらに下北半島を遠望し、夏季の海水浴に適した砂浜がある[20][18]。背後三方は山に囲まれている[18]。このような地形から、浅虫温泉は明治時代から「熱海温泉に似ている」「東北の熱海」というようになった[28][5][注 6]

熱海温泉は1925年(大正14年)の熱海線開業と1934年(昭和11年)丹那トンネル開通によって利用客が急増し、歓楽地・遊興地へと変貌を遂げた[5]。これと同じ頃に浅虫温泉も歓楽地と変化していき、昭和に入るとどちらも遊興地として栄えていることを以て「東北の熱海」と称せられるようになった[5]

源泉の一元管理化

温泉地では利用客の増加に伴って各旅館は独自に温泉を採掘し、ポンプで汲み上げた。しかしこうした乱掘は源泉を損なうことになっていった[30][31]

1913年(大正2年)頃、浅虫温泉の泉質は硫酸塩泉だった。主要な源泉は8か所で自噴しており、湧出量は毎分約120リットル、泉温は61.5℃から79℃となっていた[30][注 7]

その後、ボーリングによる温泉開発がすすみ、1944年(昭和19年)頃には掘削による源泉は126か所を数えるようになった。1961年(昭和36年)頃からはポンプによる汲み上げも始まり、数字の上では湧出量は増加していった[30]。ところがそのかげでは、1952年(昭和27年)には119か所で自噴していた源泉が、1963年(昭和38年)には11か所しか湧出しなくなっていた[3][33]。源泉によっては湯の水位が4メートルから5メートルも低くなっていて、地下水や海水の流入のために、源泉の温度の低下を招いた[33][30][31]。また、とくに海に近い源泉では泉質の食塩泉化が顕著に進行していた[3][30][注 8]

温泉地では対策として、1966年(昭和41年)に源泉を一元管理する浅虫温泉事業協同組合を組織、源泉の個人所有をやめた。温泉の総採取量は従来の半分を目標とし、毎分920リットルに制限された。すべての温泉利用者は、この協同組合に対して温泉使用料をおさめて湯の供給を受けることになった。この結果、10年で源泉の回復をみた。このように温泉地で源泉を集中管理する方式は日本で最初期の試みで、その成功例として知られるようになった[3][33][30][31]

近況

もともと海岸に沿って温泉街が発展していたが、国道4号線のバイパス化するにあたり海側に道路を通したため、温泉街と海との間に距離ができた。温泉施設の中には、客室や大浴場から海を望むように高層化をはかったものもある[1]。この結果、山側には昔ながらの温泉旅館が、海側には大規模なホテルが並ぶようになった[1]。1986年(昭和61年)には海浜部に浅虫海づり公園を建設した[35]。これは桟橋から陸奥湾の魚介類を釣るための場所で、初心者向けに生簀の釣り堀も備えたものである[36]。開園初年度は3万人を超える利用客を集めた[37]

バブル景気の終焉以降、浅虫温泉の利用者は減少している[38]。宿泊客数は1991年(平成3年)の29万5000人から、2016年(平成28年)には16万6000人へと縮小した[4]。宿泊施設や飲食店の数は最盛期に比べて半分になり[38][注 9]、2013年(平成25年)に浅虫小学校が、2015年(平成27年)には浅虫中学校が廃校になった[40]。2017年には浅虫温泉の大手ホテルの運営会社が経営破綻した[41]

地元のみちのく銀行や旅館の経営者らは、温泉地の復興にむけて共同で取り組みを行っている[42]。温泉地の再生への取り組みの一環として、青森県によるヒートポンプによる地下熱の利用の調査研究や[39]再生可能エネルギーとしての温泉熱を利用した地熱発電の検討を行っているものの、採算性などが課題となって実現には至っていない[43]

施設・催事

共同浴場「松の湯」
湯ノ島
夏は海水浴が行われる海岸
港の夕景。背後には裸島が見える。

温泉施設

  • 松の湯
  • ゆーさ浅虫」(道の駅浅虫温泉内) - かつて温泉街にあった共同浴場「はだか湯」の名称を引き継ぐ。

湯ノ島

湯ノ島は温泉地から約1キロメートル沖合いの無人島[44]。島付近の海中から温泉が湧出していることからその名があるという[45]カタクリの群落があり、4月の『湯の島カタクリ祭り』では渡航もできる[44]。島周辺の奇岩見物の観光船も運航される[44]

裸島

裸島は温泉地から約1.7キロメートル先の白根崎という岬の先端部にある無人島。もともとは岬の一部だったものが、波蝕により独立した岩の柱となって屹立している。白根崎流紋岩と呼ばれる中新世の特徴的な流紋岩から成るが、温泉化作用によって変色して黄色みを帯びる[46][47]。浅虫温泉の海岸の景物として昔から知られる。江戸時代の史料では高さ25間(約45メートル)、「肌赤島」と称し、これは、鷲が赤子をさらってこの岩の上に止まったのを、母親が助けに行こうとして岩場を登り、指から出た血によって岩が染まったことに由来するという。岩場に植物がまったくないのもこれが原因だとするという伝承が紹介されている[11]。裸島の目の前には旧東北大学臨海実験所(浅虫海洋生物学教育研究センター・旧浅虫水族館)がある[48]

観光施設・観光地

陸奥湾展望台

温泉街の裏手の山には、森林浴に最適なハイキングコースがある。コース上には陸奥湾展望台がある。

祭事・行事

浅虫温泉ねぶた祭り

ギャラリー

アクセス

脚注

注釈

  1. ^ 浅虫温泉観光協会と浅虫温泉旅館組合が運営する公式サイトでは法然による発見説を紹介している[10]
  2. ^ 明治維新による廃藩置県では、旧弘前藩領は弘前県となった。県内は弘前を中心に郡が編成され、浅虫温泉のあたりは弘前県の東のはずれ、というべき位置にあって交通不便な場所だった。
  3. ^ 寛政年間(1789年 - 1801年)に善知島崎を通った渋江長伯は「平蜘蛛が壁にとりつくようにして横歩きで6(約10.9メートル)(中略)岩角へ渡るため丸太を2本渡してある」と伝え[15]松浦武四郎(1818年 - 1888年)は『東奥沿海日誌』(嘉永3年・1850年)のなかで「大岩石峨々たる難所の道也、右は峨々たる岩壁有、左は河岸汐潮満る時は通り難し、故に上に材木渡して是を号してカケハシと云、此上を渡る、然れ共風波荒きときは通りがたし」と記している[8]
  4. ^ 東北大学臨海実験所附属の浅虫水族館は、1984年(昭和59年)に閉館となるまで、当時営業するものとしては日本国内で最古の水族館だった[19]。同水族館に近接して青森県営の水族館が1983年に開設されたことで、東北大学附属としての浅虫水族館は閉鎖となった。
  5. ^ 現在は青森市本町
  6. ^ 当時の熱海温泉は、「温和の気候と、稀に見る風景と、それから温泉を兼備した保養地[29]」と評され、どちらかというと風光明媚な景勝地として知られていた。
  7. ^ 湧出量・温度は推定値[30]。源泉を自噴泉と揚湯泉に区別した湧出量などの定量的調査は、1957年(昭和32年)に公表された、1954年(昭和29年)12月のデータが最初だった[32]
  8. ^ 単純に海水が流入したのではなく、海岸に近い源泉へ海水が地層を浸透していく過程で、海水中のナトリウム、カリウム、マグネシウムイオンは減衰し、かわりに地層に含まれる炭酸カルシウムからカルシウム成分が流出し、これらが源泉の成分に影響を与えた[34]
  9. ^ 2009年(平成22年)の青森県の調査報告書によれば、浅虫温泉旅館組合に加入している宿泊施設数は14施設[39]。2017年5月の「河北新報」によれば、宿泊施設は24軒(1991年)から10軒(2017年)、飲食店は約50軒から約15軒へ減少[4]

出典

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  2. ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典2 青森県』p84「浅虫温泉」
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  4. ^ a b c d 河北新報,東北ニュース,2017年5月22日付,<浅虫温泉>経営者がチーム にぎわい創出へ 2018年5月12日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j 中園美穂(青森県史編さん調査研究員) (2015年3月23日). “遊興地となる浅虫温泉=22”. 陸奥新報 (陸奥新報社). http://www.mutusinpou.co.jp/津軽の街と風景/2015/03/35640.html 2015年11月28日閲覧。 
  6. ^ 青森市の公的支援と施設ガイド” (PDF). 日本政府観光局web. 独立行政法人 国際観光振興機構. 2015年11月28日閲覧。 “青森の奥座敷といわれる浅虫は、開湯1200年、棟方志功太宰治など数多くの文化人も訪れた歴史のある温泉街です”[1]
  7. ^ a b c d e f g 『日本歴史地名大系2 青森県の地名』p334-335「浅虫温泉」
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『角川日本地名大辞典2 青森県』p83-84「浅虫」
  9. ^ a b 『青森県百科事典』p395「鹿の湯」
  10. ^ 一般社団法人 浅虫温泉観光協会・浅虫温泉旅館組合,浅虫温泉紹介 2018年5月11日閲覧。
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  12. ^ a b c 青森市HP,青森市教育委員会事務局市民図書館 歴史資料室,「あおもり歴史トリビア」第46号,2013年2月22日付,浅虫温泉と浅虫水族館 2018年5月19日閲覧。
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  14. ^ a b 『青森県百科事典』p115「善知鳥崎」
  15. ^ a b 陸奥新報,2012年12月24日付,蝦夷地への出入り口=104, 2018年5月19日閲覧。
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書誌情報

関連項目

外部リンク