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「マックス・パーキンズ」の版間の差分

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|親戚=父方の祖父:{{仮リンク|チャールズ・キャラハン・パーキンズ|en|Charles Callahan Perkins}}<br />母方の祖父:[[ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ]]<br />甥:[[アーチボルド・コックス]]
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== 生い立ち ==
== 生い立ち ==
=== 両親の出自 ===
=== 両親の出自 ===
父エドワード・クリフォード・パーキンズは、[[ボストン]]出身の[[美術評論家]]{{仮リンク|チャールズ・キャラハン・パーキンズ|en|Charles Callahan Perkins}}の息子(3人きょうだいの2番目)であった<ref name="上42-43">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=42-43}}</ref>。チャズは実業家の家に生まれたが、[[ハーバード大学]]在学中に絵画へ興味を示し、その後[[アメリカ合衆国|アメリカ]]初の美術評論家となった{{r|上42-43}}。エドワード自身は、ハーバード大学とそのロー・スクールを卒業した人物だった{{r|上42-43}}。
父エドワード・クリフォード・パーキンズは、[[ボストン]]出身の[[美術評論家]]{{仮リンク|チャールズ・キャラハン・パーキンズ|en|Charles Callahan Perkins}}の息子(3人きょうだいの2番目)であった<ref name="上42-43">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=42-43}}</ref>。キン元々実業家だったが、チャールズは[[ハーバード大学]]在学中に絵画へ興味を示し、その後[[アメリカ合衆国|アメリカ]]初の美術評論家となった{{r|上42-43}}。息子のエドワードも父と同様にハーバード大学へ進み、後に附属のロー・スクールを卒業した{{r|上42-43}}。


母エリザベス・エヴァーツは、[[ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ]]の娘であった{{r|上p43}}パーキンズの名前はこの祖父から貰ったものである<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=177}}</ref>。パーキンズにとって母方の祖父にあたるエヴァーツは[[イェール大学]]からハーバード大学のロー・スクールに進んだ[[弁護士]]で、[[ラザフォード・ヘイズ]]政権では[[アメリカ合衆国国務長官]]を務めたほか、[[ニューヨーク州]]選出の[[アメリカ合衆国上院|上院議員]]2期務めている<ref name="上40-42">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=40-42}}</ref>。エザベ[[ワシントンD.C.|ワシントン]]そんな父の女主人役をよく務めていた{{r|上p43}}。
母エリザベス・エヴァーツは、[[ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ]]の娘であ{{r|上p43|historyofinn}}パーキンズの名前はこの祖父から貰ったものである<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=177}}</ref>。エヴァーツは[[イェール大学]]からハーバード大学のロー・スクールに進んだ[[弁護士]]で、[[ラザフォード・ヘイズ]]政権[[アメリカ合衆国国務長官]]を務めたほか、[[ニューヨーク州]]選出の[[アメリカ合衆国上院|上院議員]]として2期務め上げた<ref name="上40-42">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=40-42}}</ref><ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=ブタニカ・コンサイ百科事典 |title=Evarts, William Maxwell|accessdate=2016-12-23|edition= |date=2011|publisher=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica, Inc.]]}}{{en icon}}</ref>。父の[[ワシントンD.C.|ワシントン]]生活中エリザベスは女主人役をよく務めていたという{{r|上p43}}。


父方の祖父にあたるチャールズ・パーキンズは、ヨーロッパでの美術評論生活から財産を使い果たしてしまい、元々先祖が移住してきた[[ニューイングランド]]へ戻って、そこでウィリアム・マクスウェル・エヴァーツと親交を結んだ{{r|上42-43}}。パーキンズの両親はここで知り合い、どちらも24歳になった[[1882年]]に、[[バーモント州]]{{仮リンク|ウィンザー (バーモント州)|label=ウィンザー|en|Windsor, Vermont}}で結婚した{{refnest|group="注"|ウィンザーにはウィリアム・マクスウェル・エヴァーツが建てた、一族団欒用の別荘が複数存在した<ref name="上p36-37">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=36-37}}</ref>。パーキンズはここで兄弟や従兄弟たちと過ごしたほか、結婚してからも娘たちを連れてウィンザーを訪れており、夏は毎年のようにここで過ごしていた{{r|上p36-37}}。}}{{r|上42-43}}。2人は[[ニュージャージー州]][[プレインフィールド (ニュージャージー州)|プレインフィールド]]に居を構え、エドワードは[[ニューヨーク]]の法律事務所に勤めた{{r|上p43}}。2人の間には6人の子どもが生まれた{{r|上p44}}。
父方の祖父にあたるチャールズ・パーキンズは、ヨーロッパでの美術評論生活から財産を使い果たしてしまい、元々先祖が移住してきた土地である[[ニューイングランド]]へ戻って来た{{r|上42-43}}。ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツとの家族ぐるみの付き合いはここで始まり、パーキンズの両親は2人が24歳になった[[1882年]]に、[[バーモント州]]{{仮リンク|ウィンザー (バーモント州)|label=ウィンザー|en|Windsor, Vermont}}で結婚した{{refnest|group="注"|ウィンザーにはウィリアム・マクスウェル・エヴァーツが建てた、一族団欒用の別荘が複数存在した<ref name="上p36-37">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=36-37}}</ref>。パーキンズはここで兄弟や従兄弟たちと過ごしたほか、結婚してからも娘たちを連れてウィンザーを訪れており、夏は毎年のようにここで過ごしていた{{r|上p36-37}}。うちひとつは、パーキンズの母エリザベスを経てパーキンズたち兄弟の手に渡り、更にパーキンズの長女バーサが引き取った<ref name="historyofinn">{{cite web|url=http://www.snapdragoninn.com/history/|title=History - Snapdragon Inn|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161120075523/http://www.snapdragoninn.com/history/|archivedate=2016-11-20|accessdate=2016-11-20}}</ref>。現在この建物は宿泊施設として使われており、図書室にはパーキンズと娘たちの間で交わされた手紙も残されている{{r|historyofinn}}。}}{{r|上42-43}}。2人は[[ニュージャージー州]][[プレインフィールド (ニュージャージー州)|プレインフィールド]]に居を構え、エドワードは[[ニューヨーク]]の法律事務所に勤めた{{r|上p43}}。2人の間には6人の子どもが生まれた{{r|上p44|historyofinn}}。


=== 幼少期 ===
=== 幼少期 ===
パーキンズは、[[1884年]][[9月30日]]に、[[ニューヨーク]]・[[マンハッタン]]でパーキンズ家の次男として生まれた{{r|上p39}}<ref name="上p44">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=44}}</ref>。ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ・パーキンズ({{lang-en-short|William Maxwell Evarts Perkins}})と名付けられたが「ウィリアム・マクスウェル」という名前は[[ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ|母方の祖父]]と同じであり、また両親双方の名字を受け継いだ<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=39-41}}</ref>。謹厳実直なエヴァーツ家の人間は、華々しいパーキンズ家をあまり良く思っていなかったというが{{r|上42-43}}、結果としてパーキンズは、苗字だけでなく両家の性質も受け継ぐこととなった。
パーキンズは、[[1884年]][[9月30日]]に、[[ニューヨーク]]・[[マンハッタン]]でパーキンズ家の次男として生まれた{{r|上p39}}<ref name="上p44">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=44}}</ref>。母方の祖父から取ってウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ・パーキンズ({{lang-en-short|William Maxwell Evarts Perkins}})と名付けられ、両親双方の名字を受け継いだ<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=39-41}}</ref>。エヴァーツ家の人間は謹厳実直な家風で、華々しいパーキンズ家をあまり良く思っていなかったというが{{r|上42-43}}、結果としてパーキンズは、苗字だけでなく両家の相対するような性質も受け継ぐこととなった。


パーキンズは16歳で、[[ニューハンプシャー州]][[コンコード (ニューハンプシャー州)|コンコード]]にある[[セント・ポールズ・スクール (ニューハンプシャー州)|セント・ポール・アカデミー]]へ入学した{{r|上p44}}。[[1902年]]10月、父エドワードが[[肺炎]]のため死去している(44歳没){{r|上p44}}。パーキンズは実家へ呼び戻され、ハーバード大学へ進学していた兄エドワードに代わって家長の役を務めた<ref name="上p45">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=45}}</ref>。経済上の理由からセント・ポール・アカデミーを1年で退学し<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=179}}</ref>、中等教育はプレインフィールドのリール・スクールで修了した{{r|上p45}}。後に文芸評論家として知られる{{仮リンク|ヴァン・ワイク・ブルックス|en|Van Wyck Brooks}}は同郷の友人である。
パーキンズは16歳で、[[ニューハンプシャー州]][[コンコード (ニューハンプシャー州)|コンコード]]にある[[セント・ポールズ・スクール (ニューハンプシャー州)|セント・ポール・アカデミー]]へ入学した{{r|上p44}}。[[1902年]]10月には、父エドワードが[[肺炎]]のため44歳で死去し{{r|上p44}}。パーキンズは実家へ呼び戻され、ハーバード大学へ進学していた兄エドワードに代わって家長の役を務めた<ref name="上p45">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=45}}</ref>。経済上の理由からセント・ポール・アカデミーを1年で退学し<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=179}}</ref>、中等教育はプレインフィールドのリール・スクールで修了した{{r|上p45}}。後に文芸評論家として知られる{{仮リンク|ヴァン・ワイク・ブルックス|en|Van Wyck Brooks}}は同郷の友人である。


=== ハーバード大学 ===
=== ハーバード大学 ===
パーキンズは父や兄と同様、[[ハーバード大学]]へ進学した<ref name="上p46-52">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=46-52}}</ref>。在学中に彼は、全く使っていなかったファースト・ネームの「ウィリアム」を捨てた{{r|上p46-52}}。父を亡くしたパーキンズは貧しい生活を送っていたが、伯父プレスコット・エヴァーツの援助で、フォックス・クラブへ入会している{{refnest|group="注"|この伯父もハーバード大学の同窓生であった。パーキンズの在学当時、伯父はケンブリッジ、クライスツ・チャーチの教区牧師{{enlink|Vicar}}を務めていた{{r|上p46-52}}。}}{{r|上p46-52}}。
パーキンズは父や兄と同様、[[ハーバード大学]]へ進学した<ref name="上p46-52">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=46-52}}</ref>。在学中に彼は、全く使っていなかったファースト・ネームの「ウィリアム」を捨てた{{r|上p46-52}}。父を亡くしたパーキンズは貧しい生活を送っていたが、伯父プレスコット・エヴァーツの援助で、ハーバード大学の会員制クラブである{{仮リンク|フォックス・クラブ (ハーバード大学)|label=フォックス・クラブ|en|Fox Club (Harvard)}}へ入会している{{refnest|group="注"|この伯父もハーバード大学の同窓生であった。パーキンズの在学当時、伯父はケンブリッジ、クライスツ・チャーチの教区牧師{{enlink|Vicar}}を務めていた{{r|上p46-52}}。}}{{r|上p46-52}}<ref>{{cite book|title=Secret Societies Vol. 3: The Collegiate Secret Societies of America|page=[https://books.google.co.jp/books?id=Kp5sCQAAQBAJ&pg=PA87 87]|url=https://books.google.co.jp/books?id=Kp5sCQAAQBAJ|first=Arthur Morius |last=Francis|accessdate=2016-12-23|publisher=Lulu.com|date=2015-02-20}}</ref>


パーキンズは、『{{仮リンク|ハーバード・アドヴォケート|en|The Harvard Advocate}}』の編集委員を務めていた{{r|上p46-52}}。これは学内で発行される文芸雑誌で、当時の寄稿者には詩人の{{仮リンク|ジョン・ホール・ホィーロック|en|John Hall Wheelock}}{{refnest|group="注"|ホィーロックはまた、スクリブナー社の編集者としてパーキンズと共に働いた{{r|上p24-29}}。パーキンズは彼を、自分の右腕として深く信頼していた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=90}}</ref>。}}、劇作家の{{仮リンク|エドワード・シェルドン (劇作家)|label=エドワード・シェルドン|en|Edward Sheldon}}、ヴァン・ワイク・ブルックスなどがおり、彼らはパーキンズの友人でもあった{{r|上p46-52}}。中でもブルックスは、パーキンズと同郷の後輩であり(ブルックスが1年遅れで入学している)、2人はウィンスロップ通り41番地の文芸クラブ「スタイラス」でしばしば一緒に過ごした{{r|上p46-52}}。
パーキンズは、『{{仮リンク|ハーバード・アドヴォケート|en|The Harvard Advocate}}』の編集委員を務めていた{{r|上p46-52}}。これは学内で発行される文芸雑誌で、当時の寄稿者には詩人の{{仮リンク|ジョン・ホール・ホィーロック|en|John Hall Wheelock}}{{refnest|group="注"|ホィーロックはまた、スクリブナー社の編集者としてパーキンズと共に働いた{{r|上p24-29}}。パーキンズは彼を、自分の右腕として深く信頼していた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=90}}</ref>。}}、劇作家の{{仮リンク|エドワード・シェルドン (劇作家)|label=エドワード・シェルドン|en|Edward Sheldon}}、ヴァン・ワイク・ブルックスなどがおり、彼らはパーキンズの友人でもあった{{r|上p46-52}}。中でもブルックスは、パーキンズと同郷の後輩であり(ブルックスが1年遅れで入学している)、2人はウィンスロップ通り41番地の文芸クラブ「スタイラス」でしばしば一緒に過ごした{{r|上p46-52|bruccoli&baughman-xxi}}。


パーキンズは大学で政治経済学を専攻した{{r|上p46-52}}。またこれとは別に、{{仮リンク|チャールズ・タウンゼンド・コープランド|en|Charles Townsend Copeland}}教授の作文指導講座も受講している{{r|上p46-52}}。入学当初は留置所に入れられたり、進級保留者にされたりとあまり真面目ではない学生生活を送っていたパーキンズだったが、コープランドの授業を受けて以来学業に専念するようになった{{r|上p46-52}}。このコープランドの授業は、パーキンズの天職となった編集業に大きな影響を与えた。コープランドに恩義を感じていたパーキンズは、後に彼が選集『コープランド・リーダー』を出版する際、その編纂や各作品の版権獲得に大いに力を注いだ<ref name="上188-190">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=188-190}}</ref>。1926年に刊行されたこの本は、コープランドが授業で取り上げた内、特にお気に入りの作品を集めたもので、1,700ページの大作ながら数万部を売り上げた{{r|上188-190}}<ref>本の詳細は次の通り:{{citation|oclc=350013|author=Charles Townsend Copeland|title=The Copeland reader : an anthology of English poetry and prose|publisher=[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|C. Scribner's Sons]]|year=1926|location=New York ; London}}</ref>。
パーキンズは大学で政治経済学を専攻した{{r|上p46-52}}。またこれとは別に、{{仮リンク|チャールズ・タウンゼンド・コープランド|en|Charles Townsend Copeland}}教授の作文指導講座も受講している{{r|上p46-52}}<ref name="copeland">{{cite encyclopedia|encyclopedia=Encyclopædia Britannica|title=Charles Townsend Copeland|accessdate=2016-12-23|edition= |date=2006-10-26|publisher=[[ブリタニカ百科事典]]|url=https://global.britannica.com/biography/Charles-Townsend-Copeland|author=The Editors of Encyclopædia Britannica}}{{en icon}}</ref><ref name="bruccoli&baughman-xxi">{{harvtxt|Bruccoli|Baughman|2004|p=xxi}}(Cf. [https://books.google.co.jp/books?id=XfPa5B2blv0C&pg=PR21 p. xxi])</ref>。入学当初は留置所に入れられたり、進級保留者にされたりとあまり真面目ではない学生生活を送っていたパーキンズだったが、コープランドの授業を受けて以来学業に専念するようになった{{r|上p46-52}}。このコープランドの授業は、パーキンズの天職となった編集業に大きな影響を与えた。コープランドに恩義を感じていたパーキンズは、後に彼が選集『コープランド・リーダー』を出版する際、その編纂や各作品の版権獲得に大いに力を注いだ<ref name="上188-190">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=188-190}}</ref>。1926年に刊行されたこの本は、コープランドが授業で取り上げた内、特にお気に入りの作品を集めたもので、1,700ページの大作ながら数万部を売り上げた{{r|copeland|上188-190}}<ref>本の詳細は次の通り:{{citation|oclc=350013|author=Charles Townsend Copeland|title=The Copeland reader : an anthology of English poetry and prose|publisher=[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|C. Scribner's Sons]]|year=1926|location=New York; London}}</ref>。


[[1907年]]6月、パーキンズは専攻していた経済学で優等賞を受け、ハーバード大学を卒業した{{r|上p46-52}}。
[[1907年]]6月、パーキンズは専攻していた経済学で優等賞を受け、ハーバード大学を卒業した{{r|上p46-52}}。
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大学を卒業したパーキンズは、まずボストンの[[スラム街]]にある市営のサービス・ハウス(福祉会館)に就職した{{r|上p46-52}}。昼間は巡回訪問をし、夜は[[ロシア]]や[[ポーランド]]からの移民に[[英語]]を教えた{{r|上p46-52}}。
大学を卒業したパーキンズは、まずボストンの[[スラム街]]にある市営のサービス・ハウス(福祉会館)に就職した{{r|上p46-52}}。昼間は巡回訪問をし、夜は[[ロシア]]や[[ポーランド]]からの移民に[[英語]]を教えた{{r|上p46-52}}。


1907年の夏の終わり、パーキンズは新聞社に勤めるためニューヨークへ出た<ref name="上p53">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=53}}</ref>。『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙の編集局長の息子と知己があり、の縁で同社の社会部に就職した{{r|上p53}}。最初の内は社会部長に気に入られず閑職に回されたが、後に昇格して[[警察]]記者となっている{{r|上p53}}。
1907年の夏、パーキンズは新聞社に勤めようとニューヨークへ向かい、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙の編集局長の息子と知己があったとから同社の社会部に就職した<ref name="上p53">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=53}}</ref>。最初の内は社会部長に気に入られず閑職に回されたが、後に昇格して[[警察]]記者となっている{{r|上p53}}。


== スクリブナー社での編集生活 ==
== スクリブナー社での編集生活 ==
[[File:Scribner-building.jpg|thumb|パーキンズの務めたスクリブナー社の社屋ビル]]
[[File:Scribner-building.jpg|thumb|パーキンズの務めたスクリブナー社の社屋ビル]]
[[1909年]]の冬、記者を辞めて勤務時間が固定された仕事に就きたいと考えていたパーキンズは、[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ]]社(以下スクリブナー社)の宣伝部に欠員があることを聞きつけた<ref name="上p57">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=57}}</ref>。彼は社長の旧友だったハーバード時代の教授から、{{仮リンク|チャールズ・スクリブナー2世|label=チャールズ・スクリブナー|en|Charles Scribner II}}社長宛の推薦状を書いてもらっている{{r|上p57}}。
[[1909年]]の冬、記者を辞めて勤務時間が固定された仕事に就きたいと考えていたパーキンズは、[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ]]社(以下スクリブナー社)の宣伝部に欠員があることを聞きつけた<ref name="上p57">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=57}}</ref>。スクリブナー社長の{{仮リンク|チャールズ・スクリブナー2世|label=チャールズ・スクリブナー|en|Charles Scribner II}}は、ハーバード時代教授と旧友であり、パーキンズはこの教授へ頼み込んで推薦状を書いてもらっている{{r|上p57}}。


パーキンズは[[1910年]]にスクリブナー社へ入社し<ref name="上p19">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=19}}</ref>。スクリブナー社は、話題の作家には目もくれず、[[イギリス]]風の伝統を重んじた作家の作品を出版し続けるやや古風な[[出版社]]であった{{r|上p19}}。彼は入社から4年半ほど宣伝担当マネジャーを務めた後、編集者の1人が他社の共同経営者になるため辞職したのを契機に編集室へと異動した{{r|上p19}}<ref name="上p60">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=60}}</ref>。
パーキンズは[[1910年]]にスクリブナー社へ入社し<ref name="上p19">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=19}}</ref>、死去する[[1947年]]まで37年同社に勤め続けたパーキンズが入社した当初のスクリブナー社は、話題の作家には目もくれず、[[イギリス]]風の伝統を重んじた作家の作品を出版し続けるやや古風な[[出版社]]であった{{r|上p19}}。彼は入社から4年半ほど宣伝担当マネジャーを務めた後、編集者の1人が他社の共同経営者になるため辞職したのを契機に編集室へと異動した{{r|上p19}}<ref name="上p60">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=60}}</ref>。


パーキンズは、フィッツジェラルドなど多数の人気作家を世に送り出したことで一目置かれ、1920年代前半には、有望な原稿は多くが名指しでパーキンズの元へ集まるようになっていた{{r|上p91-92}}。彼の活躍まで、編集者の仕事は名作の再版、有名作家の原稿での綴りや句読点の細かな校正、宣伝文作りなどが中心だったが、パーキンズはその慣習を打ち破って前途ある作家を積極的に登用した<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=12-13}}</ref>。編集者を始めて15年後には、収入が1万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]へ倍増していただけでなく、経営者のスクリブナー兄弟から自由に仕事をするよう一任されていた{{r|上p196}}。[[1930年]]頃、彼はスクリブナー社の役員となさらに編集局長のポストにも就いた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=246}}</ref>。[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街大暴落]]から始まった[[世界恐慌]]では出版業界にも不況が訪れたが、スクリブナー社はパーキンズの編集した本などで売り上げを維持した(例えば[[S・S・ヴァン・ダイン]]の『[[僧正殺人事件]]』や[[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]]の『[[武器よさらば]]』など)<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=249}}</ref>。[[1932年]]夏にアーサー・H・スクリブナー{{enlink|Arthur Hawley Scribner}}が死去した後、パーキンズは編集長兼副社長に就任した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=315}}</ref>。彼は死去する[[1947年]]までスクリブナー社で働き続けたが、名実ともにスクリブナー社に欠かせない人物であった
パーキンズは、フィッツジェラルドなど多数の人気作家を世に送り出したことで一目置かれ、1920年代前半には、有望な原稿は多くが名指しでパーキンズの元へ集まるようになっていた{{r|上p91-92}}。彼の活躍まで、編集者の仕事は名作の再版、有名作家の原稿での綴りや句読点の細かな校正、宣伝文作りなどが中心だったが、パーキンズはその慣習を打ち破って前途ある作家を積極的に登用した<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=12-13}}</ref>。編集者を始めて15年後には、収入が1万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]へ倍増していただけでなく、経営者のスクリブナー兄弟から自由に仕事をするよう一任されていた{{r|上p196}}。[[1930年]]頃、彼はスクリブナー社の役員となったほか、編集局長のポストにも就いて、名実ともにスクリブナー社に欠かせない人物となった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=246}}</ref>。[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街大暴落]]から始まった[[世界恐慌]]では出版業界にも不況が訪れたが、スクリブナー社はパーキンズの編集した本などで売り上げを維持した(例えば[[S・S・ヴァン・ダイン]]の『[[僧正殺人事件]]』や[[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]]の『[[武器よさらば]]』など)<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=249}}</ref>。[[1932年]]夏にアーサー・H・スクリブナー{{enlink|Arthur Hawley Scribner}}が死去した後、パーキンズは編集長兼副社長に就任した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=315}}</ref>。


パーキンズは、原稿を丁寧に読み込んで助言し、純文学・ミステリーなどのジャンルにかかわらず、質の高い作品を作者に求める編集姿勢を貫いた<ref name="上p196">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=196}}</ref>。また語句を削除したり、表現を変更したりする際には必ず作家と話し合い、本人の意向に反して勝手に編集することは行わなかった{{r|上p202-221}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=142-144}}</ref>。彼の関心は、同僚{{仮リンク|ジョン・ホール・ホィーロック|en|John Hall Wheelock}}の言葉を借りれば、「アメリカの作家の才能を育て、アメリカ文学を発展させること」にあった{{r|下p259}}。
パーキンズは、原稿を丁寧に読み込んで助言し、純文学・ミステリーなどのジャンルにかかわらず、質の高い作品を作者に求める編集姿勢を貫いた<ref name="上p196">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=196}}</ref>。原稿を丁寧に読み込んで助言するというのは、先述のように作品にほとんど関与しなかったそれでの編集者とは大きな違いであっ。<!--語句を削除したり、表現を変更したりする際には必ず作家と話し合い、本人の意向に反して勝手に編集することは行わなかった{{r|上p202-221}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=142-144}}</ref>、この編集姿勢は[[トーマス・ウルフ]]との訣別も招いた(→[[#トーマス・ウルフとの出会いと別れ]])-->彼の関心は、同僚{{仮リンク|ジョン・ホール・ホィーロック|en|John Hall Wheelock}}の言葉を借りれば、「アメリカの作家の才能を育て、アメリカ文学を発展させること」にあった{{r|下p259}}。


=== フィッツジェラルドとの出会い ===
=== フィッツジェラルドとの出会い ===
[[File:This Side of Paradise dust jacket.jpg|thumb|180px|フィッツジェラルドの処女長編『楽園のこちら側』のカバー写真]]
[[File:This Side of Paradise dust jacket.jpg|thumb|180px|フィッツジェラルドの処女長編『楽園のこちら側』のカバー写真]]
[[1918年]]、スクリブナー社へ寄稿していた作家の{{仮リンク|シェーン・レズリー|en|Shane Leslie}}を介して、[[F・スコット・フィッツジェラルド]]の原稿が届けられた{{r|上p20}}。原稿は『ロマンティック・エゴティスト』と題された12万語の小説で、これは陸軍仕官中のフィッツジェラルドが、毎週末を費やして書き上げたものだった<ref name="上p20">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=20}}</ref>。この原稿は3ヶ月間編集部をたらい回しにされパーキンズの元に辿り着いた<ref name="上p21">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=21}}</ref>。パーキンズは原稿に惚れ込んだが、編集室で同意は得られず、政府の出版物供給規制策や制作費の問題などを挙げて渋々出版を断った{{r|上p21}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=27-28}}</ref>。一方で、作品の改善に繋がる感想をフィッツジェラルドに書き送ったり、ライバル社へ原稿を持ち込んだり(2社に送って結局どちらも突き返された)と、フィッツジェラルドの小説出版に向けて奔走している<ref name="上p23">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=23}}</ref>。
[[1918年]]、スクリブナー社へ寄稿していた作家の{{仮リンク|シェーン・レズリー|en|Shane Leslie}}を介して、[[F・スコット・フィッツジェラルド]]の原稿がスクリブナー社へ届けられた{{r|上p20}}。『ロマンティック・エゴティスト』と題された12万語の小説原稿陸軍仕官中のフィッツジェラルドが、毎週末を費やして書き上げたものだった<ref name="上p20">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=20}}</ref>。この原稿は3ヶ月間編集部をたらい回しにされた末にパーキンズの元に辿り着いた<ref name="上p21">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=21}}</ref>。パーキンズは原稿に惚れ込んだが、編集室で同意は得られず、政府の出版物供給規制策や制作費の問題などを挙げて渋々出版を断った{{r|上p21}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=27-28}}</ref><ref name="Bruccoli&Baughman2-3">{{harvtxt|Bruccoli|Baughman|2004|pp=2-3}} (Cf. [https://books.google.co.jp/books?id=XfPa5B2blv0C&pg=PR31 pp. 2-3])</ref>。出版を諦めきれなかったパーキンズは、作品の改善に繋がる感想をフィッツジェラルドに書き送ったり、ライバル社へ原稿を持ち込んだり(2社に送って結局どちらも突き返された)と、の小説出版に向けて奔走している<ref name="上p23">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=23}}</ref>。


パーキンズの熱意の一方で、フィッツジェラルドはこの原稿への自信を喪失していた。代わにパーキンズに会って助言をもらい、骨組みを活かして意図を明確にした別の作品を書いた<ref name="上p24-29">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=24-29}}</ref>。題名は当初『人格教育』とされていた、[[1919年]]9月にパーキンズ宛に原稿が送られてきた時には『[[楽園のこちら側]]』と変更されていた{{r|上p24-29}}。編集会議では、作品に眉を顰める者もおり意見は真っ二つに分かれたが、パーキンズの説得が実り出版が決定した{{r|上p24-29}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=24-26}}</ref>。[[ゼルダ・セイヤー]]との結婚を考えていたフィッツジェラルドはすぐでも出版たがったがパーキンズは作品の売れ行きを考え、出版シーズンとなる翌春まで待つよう説得した{{r|上p24-29}}。『楽園のこちら側』は[[1920年]][[3月26日]]に発行され、1週間後には2万部の大台を突破した<ref name="上p31-35">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=31-35}}</ref>。フィッツジェラルドは、スクリブナー社が作品を世に送り出した最年少の作家となた{{r|上p31-35}}。
パーキンズの熱意の一方で、フィッツジェラルドはこの原稿への自信を喪失して、彼の助言骨組みを活かして意図をより明確にした別の作品を書いた<ref name="上p24-29">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=24-29}}</ref>。当初『人格教育』とされていた作品のタイトルは、[[1919年]]9月にパーキンズへ実際の原稿が送られてきた時には『[[楽園のこちら側]]』と改題されていた{{r|上p24-29}}。編集会議では、作品に眉を顰める者もおり意見は真っ二つに分かれたが、パーキンズの説得が実り出版が決定した{{r|上p24-29}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=24-26}}</ref>。[[ゼルダ・セイヤー]]との結婚を考えており、すぐにでも出版したがっていたフィッツジェラルドにし、作品の売れ行きを考えたパーキンズは、出版シーズンとなる翌春まで待つよう説得した{{r|上p24-29}}。『楽園のこちら側』は[[1920年]][[3月26日]]に発行され、1週間後には2万部の大台を突破した<ref name="上p31-35">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=31-35}}</ref>。フィッツジェラルドは、スクリブナー社が作品を世に送り出した最年少の作家となり、刊行から1週間後には、スクリブナー社に程近い教会でゼルダと結婚した{{r|上p31-35}}。


長編処女小説の刊行から1週間後、フィッツジェラルドはスクリブナー社に程近い教会でゼルダと結婚した{{r|上p31-35}}。この作品の成功で、フィッツジェラルドの年収は前年の879ドルから18,850ドルへと跳ね上がったが{{refnest|group="注"|1919年の879ドルは{{Inflation-year|US}}年の{{Inflation|US|879|1919|fmt=c}}ドル、翌1920年の18,850ドルは{{Inflation-year|US}}年の{{Inflation|US|18850|1920|fmt=c}}ドルに相当する{{Inflation-fn|US}}。}}{{r|上p31-35}}、彼はこれを全て使い果たし、後の破滅の一端となった浪費生活まった。長編第2作目に当たる『{{仮リンク|美しく呪われし者|en|The Beautiful and Damned}}』を書き上げたフィッツジェラルドは、夫妻のヨーロッパ旅行用の金をパーキンズへ無心している<ref name="上p67-68">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=67-68}}</ref>。この時交わした契約書が元で、パーキンズはフィッツジェラルドの金銭面を細かくサポートすることになった{{r|上p67-68}}。この長編には、処女作刊行に一役買ったシェーン・レズリー、ジョージ・ジーン・ネーサンと並び、パーキンズ宛の献辞が付けられ、[[1922年]][[3月3日]]に出版された<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=76}}</ref><ref>目次の前ページにパーキンズ宛の献辞を確認できる:{{citation|title=The beautiful and damned|url=https://archive.org/details/beautifuldamned00fitzuoft|accessdate=2016-11-15|last=Fitzgerald|first=F. Scott|year=1922}}</ref>。
長編処女小説の成功で、フィッツジェラルドの年収は前年の879ドルから18,850ドルへと跳ね上がったが{{refnest|group="注"|1919年の879ドルは{{Inflation-year|US}}年の{{Inflation|US|879|1919|fmt=c}}ドル、翌1920年の18,850ドルは{{Inflation-year|US}}年の{{Inflation|US|18850|1920|fmt=c}}ドルに相当する{{Inflation-fn|US}}。}}{{r|上p31-35}}、彼はこれを全て使い果たし、後の破滅の一端となった浪費生活た。長編第2作目に当たる『{{仮リンク|美しく呪われし者|en|The Beautiful and Damned}}』を書き上げたフィッツジェラルドは、夫妻のヨーロッパ旅行用の金をパーキンズへ無心しているが、この時交わした契約書が元で、パーキンズはフィッツジェラルドの金銭面を細かくサポートすることになった<ref name="上p67-68">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=67-68}}</ref>。この長編には、処女作刊行に一役買ったシェーン・レズリー、ジョージ・ジーン・ネーサンと並び、パーキンズ宛の献辞が付けられ、[[1922年]][[3月3日]]に出版された<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=76}}</ref><ref>目次の前ページにパーキンズ宛の献辞を確認できる:{{citation|title=The beautiful and damned|url=https://archive.org/details/beautifuldamned00fitzuoft|accessdate=2016-11-15|last=Fitzgerald|first=F. Scott|year=1922}}</ref>。


その後もフィッツジェラルドは、『[[グレート・ギャツビー]]』などをはじめ、ほとんどの作品をスクリブナー社から刊行した。また若手作家のリーダー格として、前途のある作家をパーキンズへ紹介し続けた{{r|上p102}}。その中にはリング・ラードナーや、アーネスト・ヘミングウェイなどの作家も含まれる。
その後もフィッツジェラルドは、『[[グレート・ギャツビー]]』などをはじめ、ほとんどの作品をスクリブナー社から刊行した。また若手作家のリーダー格として、前途のある作家をパーキンズへ紹介し続けた{{r|上p102}}。その中にはリング・ラードナーや、アーネスト・ヘミングウェイなどの作家も含まれる。


=== リング・ラードナー ===
=== リング・ラードナー ===
[[リング・ラードナー]]は、ロングアイランド在住だった元スポーツ記者で、フィッツジェラルドがパーキンズに紹介した作家のひとりである<ref name="上p81-84">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=81-84}}</ref>。自作を手元に置いていなかったラードナーに代わって、パーキンズが苦心して探し出した作品を元に編纂されたのが、短編集『短編小説の書き方』{{en|"''How to Write Short Stories''"}} である{{r|上p81-84}}。パーキンズは先輩編集者から反対を受けていたが、ラードナー本人の合意もそこそこに、翌春の出版リストへ半ば強引にこの本を突っ込んだ<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=57}}</ref>。ラードナーの同名の息子{{仮リンク|リング・ラードナー・ジュニア|en|Ring Lardner Jr.}}は、フィッツジェラルドとパーキンズがいなければ父は新作を書かなかったかもしれないと振り返っている{{r|上p81-84}}。各短編に付けられた警句めいた序文は、執筆の初歩本と間違われと考えたパーキンズが、ラードナーに書き加えさせたものである{{r|上p81-84}}。この作品には好意的な書評が寄せられ、フィッツジェラルドのような若手作家の登用に首を傾げていたスクリブナー社長{{仮リンク|チャールズ・スクリブナー2世|en|Charles Scribner II}}も、この作品を気に入った{{r|上p81-84}}。
[[リング・ラードナー]]は、ロングアイランド在住だった元スポーツ記者で、フィッツジェラルドがパーキンズに紹介した作家のひとりである<ref name="上p81-84">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=81-84}}</ref>。短編集『短編小説の書き方』{{en|"''How to Write Short Stories''"}} は、自作を手元に置いていなかったラードナーに代わ、パーキンズが苦心して探し出した作品を元に編纂された{{r|上p81-84}}。パーキンズは先輩編集者から反対を受けていたが、ラードナー本人の合意もそこそこに、翌春の出版リストへ半ば強引にこの本を突っ込んだ<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=57}}</ref>。ラードナーの同名の息子{{仮リンク|リング・ラードナー・ジュニア|en|Ring Lardner Jr.}}は、フィッツジェラルドとパーキンズがいなければ父は新作を書かなかったかもしれないと振り返っている{{r|上p81-84}}。各短編に付けられた警句めいた序文は、パーキンズが執筆の初歩本と間違われかねないと考え、ラードナーに書き加えさせたものである{{r|上p81-84}}。この作品には好意的な書評が寄せられ、フィッツジェラルドのような若手作家の登用に首を傾げていたスクリブナー社長{{仮リンク|チャールズ・スクリブナー2世|en|Charles Scribner II}}も、この作品を気に入った{{r|上p81-84}}。


=== ヘミングウェイを紹介される ===
=== ヘミングウェイを紹介される ===
[[File:Manuscript Notebook of "The Sun Also Rises" - NARA - 192680.jpg|thumb|ヘミングウェイによる『日はまた昇る』の原稿の表紙]]
[[File:Manuscript Notebook of "The Sun Also Rises" - NARA - 192680.jpg|thumb|ヘミングウェイによる『日はまた昇る』の原稿の表紙]]
フィッツジェラルドの長編第3作『[[グレート・ギャツビー]]』が完成しかかていた[[1924年]]10月、パーキンズは彼から[[アーネスト・ヘミングウェイ]]を紹介された<ref name="上p102">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=102}}</ref>。12月になって、『{{仮リンク|われらの時代<!-- (短編集)-->|en|In Our Time (short story collection)}}』と銘打たれた小品集がヘミングウェイから送られてきた{{refnest|group="注"|因みにこの作品の版権は、後にスクリブナー社に買い取られている<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=248}}</ref>。}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=139}}</ref>。パーキンズは彼の非凡な能力を見て取って是非作品を刊行したいと考えたが、ヘミングウェイは折悪しく[[オーストリア]]へ出かけ、パーキンズが連絡を取れないうちに{{仮リンク|ボニ&リヴライト|label=ボニ&リヴライト社|en|Boni & Liveright}}に刊行許可を与えてしまっていた<ref group="注">ヘミングウェイはこの時に限らず、突然思い立って出国したり、取材として数ヶ月単位で海外生活をしたり、という生活を行っていた。例えば『[[誰がために鐘は鳴る]]』はそんな取材経験を活かして書かれた小説である。</ref><ref name="上p140-141">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=140-141}}</ref>。[[パリ]]帰ってパーキンズの手紙を読んだヘミングウェイは、自分としてはスクリブナー社から短編集を出したかった旨を返信している<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=68-69}}</ref>。
長編第3作『[[グレート・ギャツビー]]』が完成間近だった[[1924年]]10月フィッツジェラルドはパーキンズ[[アーネスト・ヘミングウェイ]]を紹介する手紙を送った<ref name="上p102">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=102}}</ref>。12月になって、『{{仮リンク|われらの時代<!-- (短編集)-->|en|In Our Time (short story collection)}}』と銘打たれた小品集がヘミングウェイから送られてきた{{refnest|group="注"|因みにこの作品の版権は、後にスクリブナー社に買い取られている<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=248}}</ref>。}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=139}}</ref>。パーキンズは彼の非凡な能力を見て取って是非作品を刊行したいと考えたが、折悪しく[[オーストリア]]へ出かけたヘミングウェイは、パーキンズが連絡を取れないうちに{{仮リンク|ボニ&リヴライト|label=ボニ&リヴライト社|en|Boni & Liveright}}に刊行許可を与えてしまっていた<ref group="注">ヘミングウェイはこの時に限らず、突然思い立って出国したり、取材として数ヶ月単位で海外生活をしたり、という生活を行っていた。例えば『[[誰がために鐘は鳴る]]』はそんな取材経験を活かして書かれた小説である。</ref><ref name="上p140-141">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=140-141}}</ref>。[[パリ]]帰ってパーキンズの手紙を読んだヘミングウェイは、自分としてはスクリブナー社から短編集を出したかった旨を返信している<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=68-69}}</ref>。


契約を結べず落胆したパーキンズだったが、状況は一変する。ボニ&リヴライト社風刺小説『{{仮リンク|春の奔流|en|The Torrents of Spring}}』の刊行拒否たことで、ヘミングウェイの契約が破綻したのである{{refnest|group="注"|『春の奔流』は[[シャーウッド・アンダーソン]]の作品を風刺したものだったが、ボニ&リヴライト社にとってアンダーソンは重要作家の1人であったため、刊行が拒否された<ref name="荒地p71">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=71}}</ref>。永岡は、この小説の第1部のタイトル「赤と黒の笑い」が、アンダーソンの『{{仮リンク|黒い笑い|en|Dark Laughter}}』のパロディであることを指摘している{{r|荒地p71}}。この小説の出版には{{仮リンク|ハーコート (出版社)|label=ハーコート社|en|Harcourt (publisher)}}・クノッフ社{{enlink|Alfred A. Knopf|Knopf Publishing Group}}が手を挙げていたことがフィッツジェラルドの手紙に記されている{{r|荒地p71}}。}}<ref name="上p148-152">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=148-152}}</ref>。ヘミングウェイは、前々から色よい返事をくれていたパーキンズ、そしてスクリブナー社にぐっと心が傾いていた{{r|上p148-152}}。の作品は猥語の多用などが原因で社の出版方針に反しており、パーキンズもあまり良い値は提示できなかったが、それでもヘミングウェイはスクリブナー社との契約に合意した{{r|上p148-152}}。こ『春の奔流』と『[[日はまた昇る]]』がスクリブナー社から刊行されることが決定し、パーキンズは間を取り持ったフィッツジェラルド大いに感謝した{{refnest|group="注"|なお、ヘミングウェイがフィッツジェラルドの作品へ否定的な評価をするなど、後年のふたりは何かとぶつかることが多かったが、パーキンズはそんなふたりの間を取り持つ羽目になっている{{r|上p148-152}}。}}{{r|上p148-152}}。『春の奔流』は[[1926年]][[5月28日]]、『日はまた昇る』は同年秋の[[10月22日]]に刊行され、後者は3年で10版を重ねた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=155, 159}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=77}}</ref>。[[1928年]]にヘミングウェイの父が[[猟銃]][[自殺]]して以来、彼はパーキンズをますます慕い、スクリブナー社から『[[武器よさらば]]』(1929年9月)、『[[誰がために鐘は鳴る]]』(1940年)などの傑作を出版した{{refnest|group="注"|パーキンズとウルフの関係を元にした映画『[[ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ]]』の日本版公式ホームページ・予告では、パーキンズが『[[老人と海]]』の編集を行ったように書かれている{{r|Genius2016}}<ref>{{YouTube|V2E-iiIWZ70|映画『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』予告編 }}</ref>。この作品は確かにスクリブナー社から出版されたが、出版は[[1952年]]とパーキンズの死後であるため、この記述は正しくない<ref>{{citation|oclc=9583168|isbn=9780684163260|publisher=[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|Scribner]]|location=[[ニューヨーク|New York]]|year=1952|title=[[老人と海|The old man and the sea]]|author=Ernest Hemingway|authorlink=アーネスト・ヘミングウェイ}}</ref>。この作品にはパーキンズ宛の献辞が付けられた<ref>{{cite web|url=https://archive.org/details/TheOldManAndTheSea-Eng-Ernest|title=THE OLD MAN AND THE SEA - ENG - ERNEST HEMMINGWAY|author=[[アーネスト・ヘミングウェイ]]|accessdate=2016-11-15|publisher=[[インターネット・アーカイブ]]}}</ref><ref>{{harvtxt|Bruccoli|Baughman|2004|p=xxvii}}(Cf. [https://books.google.com/books?id=XfPa5B2blv0C&pg=PR27&lpg=PR27&dq=the+old+man+and+the+sea+dedicated+to+maxwell+perkins&source=bl&ots=AWF5e97STZ&sig=vYy26IlLDCq0RVg9s9LtGJL0yXU&hl=en&ei=FqanTPmBCIOB8gbzooSNDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=8&ved=0CDcQ6AEwBw#v=onepage&q=the%20old%20man%20and%20the%20sea%20dedicated%20to%20maxwell%20perkins&f=false p. xxvii])</ref>。}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=222}}、{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=228-230}}</ref>。パーキンズの側も、彼を「やんちゃな弟」のように見ていた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=311}}</ref>。またヘミングウェイも、かつてフィッツジェラルドがしてくれたように、有望な作家をパーキンズへ紹介した。
パーキンズは契約を結べず落胆したが、ボニ&リヴライト社とヘミングウェイの契約は、風刺小説『{{仮リンク|春の奔流|en|The Torrents of Spring}}』の刊行拒否されたことであっさりと破綻した{{refnest|group="注"|『春の奔流』は、フィッツジェラルドもパーキンズ宛の手紙で指摘するように<ref name="bruccoli&baughman57">{{harvtxt|Bruccoli|Baughman|2004|p=57}} (Cf. [https://books.google.co.jp/books?id=XfPa5B2blv0C&pg=PR509#v=onepage&q=The%20Torrents%20of%20Spring&f=false p.57])</ref>、[[シャーウッド・アンダーソン]]の作品を風刺したものだったが、ボニ&リヴライト社にとってアンダーソンは重要作家の1人であったため、刊行が拒否された<ref name="荒地p71">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=71}}</ref>。永岡は、この小説の第1部のタイトル「赤と黒の笑い」が、アンダーソンの『{{仮リンク|黒い笑い|en|Dark Laughter}}』のパロディであることを指摘している{{r|荒地p71}}。この小説の出版には{{仮リンク|ハーコート (出版社)|label=ハーコート社|en|Harcourt (publisher)}}・クノッフ社{{enlink|Alfred A. Knopf|Knopf Publishing Group}}が手を挙げていたことがフィッツジェラルドの手紙に記されている{{r|bruccoli&baughman57|荒地p71}}。}}<ref name="上p148-152">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=148-152}}</ref>。ヘミングウェイの気持ちは、前々から色よい返事をくれていたパーキンズ、そしてスクリブナー社にぐっと傾いていた{{r|上p148-152}}。ヘミングウェイの作品は猥語の多用などが原因で社の出版方針に反しており、パーキンズもあまり良い値は提示できなかったが、それでもはスクリブナー社との契約に合意した{{r|上p148-152}}。この契約で『春の奔流』と『[[日はまた昇る]]』がスクリブナー社から刊行されることが決定し、パーキンズは仲介役となったフィッツジェラルド大いに感謝した{{refnest|group="注"|後年のふたりは、ヘミングウェイがフィッツジェラルドの作品へ否定的な評価をするなど何かとぶつかることが多かったが、パーキンズはそんな彼らの間を取り持つ羽目になっている{{r|上p148-152}}。}}{{r|上p148-152}}。『春の奔流』は[[1926年]][[5月28日]]、『日はまた昇る』は同年秋の[[10月22日]]に刊行され、後者は3年で10版を重ねた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=155, 159}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=77}}</ref>。[[1928年]]にヘミングウェイの父が[[猟銃]][[自殺]]して以来、彼はパーキンズをますます慕い、スクリブナー社から『[[武器よさらば]]』(1929年9月)、『[[誰がために鐘は鳴る]]』(1940年)などの傑作を出版した{{refnest|group="注"|パーキンズとウルフの関係を元にした映画『[[ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ]]』の日本版公式ホームページ・予告では、パーキンズが『[[老人と海]]』の編集を行ったように書かれている{{r|Genius2016}}<ref>{{YouTube|V2E-iiIWZ70|映画『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』予告編 }}</ref>。この作品は確かにスクリブナー社から出版されたが、出版は[[1952年]]とパーキンズの死後であるため、この記述は正しくない<ref>{{citation|oclc=9583168|isbn=9780684163260|publisher=[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|Scribner]]|location=[[ニューヨーク|New York]]|year=1952|title=[[老人と海|The old man and the sea]]|author=Ernest Hemingway|authorlink=アーネスト・ヘミングウェイ}}</ref>。この作品にはパーキンズ宛の献辞が付けられた<ref>{{cite web|url=https://archive.org/details/TheOldManAndTheSea-Eng-Ernest|title=THE OLD MAN AND THE SEA - ENG - ERNEST HEMMINGWAY|author=[[アーネスト・ヘミングウェイ]]|accessdate=2016-11-15|publisher=[[インターネット・アーカイブ]]}}</ref><ref>{{harvtxt|Bruccoli|Baughman|2004|p=xxvii}}(Cf. [https://books.google.com/books?id=XfPa5B2blv0C&pg=PR27&lpg=PR27&dq=the+old+man+and+the+sea+dedicated+to+maxwell+perkins&source=bl&ots=AWF5e97STZ&sig=vYy26IlLDCq0RVg9s9LtGJL0yXU&hl=en&ei=FqanTPmBCIOB8gbzooSNDQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=8&ved=0CDcQ6AEwBw#v=onepage&q=the%20old%20man%20and%20the%20sea%20dedicated%20to%20maxwell%20perkins&f=false p. xxvii])</ref>。}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=222}}、{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=228-230}}</ref>。パーキンズの側も、彼を「やんちゃな弟」のように見ていた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=311}}</ref>。またヘミングウェイも、かつてフィッツジェラルドがしてくれたように、有望な作家をパーキンズへ紹介した。


=== トーマス・ウルフとの出会いと別れ ===
=== トーマス・ウルフとの出会いと別れ ===<!--節リンクあり-->
{{external media|image1=[[:en:File:LookHomewardAngel.jpg]]<br />? 『天使よ故郷を見よ』初版本のカバー写真}}
{{external media|image1=[[:en:File:LookHomewardAngel.jpg]]<br />? 『天使よ故郷を見よ』初版本のカバー写真}}
[[1928年]]秋、パーキンズはマドレーヌ・ボイド{{refnest|group="注"|文芸評論家アーネスト・ボイドの妻で、ヨーロッパで活動する作家のエージェントとして働いていた{{r|上p202-221}}。}}から、[[ニューヨーク大学]]の講師[[トーマス・ウルフ]]が書いた30万語に及ぶ自伝的長編小説『失われしもの』{{en|"''O Lost''"}} について聞かされた<ref name="上p202-221">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=202-221}}</ref>{{r|柴田元幸}}。パーキンズは、ボイドから届けられた原稿を、同僚と共に行き戻りしながら読み通した{{r|上p202-221}}。作品が非凡なものであることは認めたものの、構成はめちゃくちゃで、整えるためにいくつか大幅な削除が必要だった(実際出版までには6万6,000語あまりが削除された){{refnest|group="注"|削除された語数については、旧来9万語とされていたが{{r|上p202-221}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=116}}</ref>、現在では6万6,000語あまりというのが定説である<ref name="柴田元幸">[[#柴田元幸]]</ref>。}}{{r|上p202-221}}。それでも、数社から出版を断られていたウルフは、作品を丁寧に読み込んでくれたパーキンズに感謝して手直しに同意した{{r|上p202-221}}。翌年1月に出版が正式決定し、ウルフはこの吉報を、ボイドへ原稿を持ち込んだ舞台装置家{{仮リンク|アリーン・バーンスタイン|en|Aline Bernstein}}に伝えた(バーンスタインはウルフのパートナーだった){{r|上p202-221}}。編集の途中で作品名は『{{仮リンク|天使よ故郷を見よ|en|Look Homeward, Angel}}』に変更され{{refnest|group="注"|これは[[ジョン・ミルトン]]の『{{仮リンク|リシダス|en|Lycidas}}』から引用されたものである{{r|上p202-221}}。}}、1929年9月に出版された<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=233}}</ref>。ウルフはパーキンズへの感謝を序文に書きたがったが、パーキンズやボイドの意見を聞き入れ、結局「A・Bへ」としてバーンスタイン宛の献辞が付けられた{{refnest|group="注"|天使が持つ巻物の中に、"To A・B" として献辞が書かれている<ref name="天使よ故郷を見よ">{{citation|first=Thomas|last=Wolfe|authorlink=トーマス・ウルフ|accessdate=2016-11-15|url=https://archive.org/details/storyoftheburied030251mbp|title=A Story Of The Buried Life Look Homeward Angel |year=1952|publisher=[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|Charles Scribner's Sons]]|location=[[ニューヨーク|New York]]}}</ref>。なおこれには、ジョン・ダンの『告別・窓に刻んだわが名前』から引用があり、バーンスタインとの別れを望んでいたウルフが、自らの気持ちを暗示している{{r|上p202-221}}。またURL先に掲載されているスキャンの底本には、パーキンズが死の2日前に書き上げ{{r|天使よ故郷を見よ}}、彼の机から死後発見された{{r|下p340-341}}、ハーバード大学のウルフコレクションへの紹介記事が転載されている{{r|天使よ故郷を見よ}}。}}{{r|上p202-221}}。処女作刊行に尽力したバーンスタインに感謝していた一方、ウルフの愛情冷め、彼は関係を清算したがっていた{{r|上p202-221}}。パーキンズはウルフから相談を受けたほか、バーンスタインから手紙を受けるなどして、ウルフの死までふたりの間を取り持つことになった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=267-274}}、{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=54-55}}</ref>。
[[1928年]]秋、パーキンズはマドレーヌ・ボイド{{refnest|group="注"|文芸評論家アーネスト・ボイドの妻で、ヨーロッパで活動する作家のエージェント業を行っていた{{r|上p202-221}}。}}から、[[ニューヨーク大学]]の講師[[トーマス・ウルフ]]が書いた自伝的長編小説『失われしもの』{{en|"''O Lost''"}} について聞かされた<ref name="上p202-221">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=202-221}}</ref>{{r|柴田元幸}}。パーキンズは、ボイドから届けられた30万語に及ぶ原稿を、同僚と共に読み進めては前のページにったりしながら何とか読み通した{{r|上p202-221}}。読み終えた後、彼は作品が非凡なものとは認めたものの、めちゃくちゃな構成あり、整えるためにいくつか大幅な削除が必要だった(実際出版までには6万6,000語あまりが削除された){{refnest|group="注"|削除された語数については、旧来9万語とされていたが{{r|上p202-221}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=116}}</ref>、現在では6万語から6万6,000語あまりというのが定説である<ref name="柴田元幸">[[#柴田元幸]]</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2000/10/02/books/looking-homeward-thomas-wolfe-uncut-version-his-first-novel-be-published-his.html|title=Looking Homeward To Thomas Wolfe; An Uncut Version of His First Novel Is to Be Published on His Centenary|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|first=Dinitia|last=Smithoct|date=2000-10-02|accessdate=2016-12-23}}</ref>。}}{{r|上p202-221}}。それでも、数社から出版を断られていたウルフは、作品を丁寧に読み込んでくれたパーキンズに感謝して手直しに同意した{{r|上p202-221}}。出版は翌年1月に正式決定し、ウルフはこの吉報を、ボイドへ原稿を持ち込んだ舞台装置家で当時パートナー兼[[パトロン]]だった{{仮リンク|アリーン・バーンスタイン|en|Aline Bernstein}}に伝えた{{r|上p202-221}}。編集の途中で作品名は『{{仮リンク|天使よ故郷を見よ|en|Look Homeward, Angel}}』に変更され{{refnest|group="注"|これは[[ジョン・ミルトン]]の『{{仮リンク|リシダス|en|Lycidas}}』から引用されたものである{{r|上p202-221}}。}}、1929年9月に出版された<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=233}}</ref>。ウルフはパーキンズへの感謝を序文に書きたがったが、パーキンズやボイドの意見を聞き入れ、結局「A・Bへ」としてバーンスタイン宛の献辞が付けられた{{refnest|group="注"|天使が持つ巻物の中に、"To A・B" として献辞が書かれている<ref name="天使よ故郷を見よ">{{citation|first=Thomas|last=Wolfe|authorlink=トーマス・ウルフ|accessdate=2016-11-15|url=https://archive.org/details/storyoftheburied030251mbp|title=A Story Of The Buried Life Look Homeward Angel |year=1952|publisher=[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|Charles Scribner's Sons]]|location=[[ニューヨーク|New York]]}}</ref>。なおこれには、ジョン・ダンの『告別・窓に刻んだわが名前』から引用があり、バーンスタインとの別れを望んでいたウルフが、自らの気持ちを暗示している{{r|上p202-221}}。またURL先に掲載されているスキャンの底本には、パーキンズが死の2日前に書き上げ{{r|天使よ故郷を見よ}}、彼の机から死後発見された{{r|下p340-341}}、ハーバード大学のウルフコレクションへの紹介記事が転載されている{{r|天使よ故郷を見よ}}。}}{{r|上p202-221}}。処女作刊行に尽力したバーンスタインに感謝していた一方、愛情冷めていたウルフこの関係を清算したがっていた{{r|上p202-221}}。パーキンズはウルフから相談を受けたほか、バーンスタインから手紙を受けるなどして、ウルフの死までふたりの間を取り持つことになった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=267-274}}、{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=54-55}}</ref>。


ウルフの作品の分量が多いのは、登場人物の心情や動作を全て再現しようとするためだった<ref name="下p21-22">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=21-22}}</ref>。一方で記述の分量などバランス感覚が欠けていたので、この点をパーキンズの編集が補った{{r|下p21-22}}。ウルフはこれに深く感謝しており、第2作『{{仮リンク|時と川について|en|Of Time and the River}}』(1935年)では、パーキンズ宛の献辞を付けた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=42}}</ref><ref name="時と川について">{{citation|first=Thomas|last=Wolfe|authorlink=トーマス・ウルフ|accessdate=2016-11-15|url=https://archive.org/details/oftimeandtherive030629mbp|title=Of Time And The River|year=1935|publisher=The Sun Dial Press.}}</ref>。編集者が表に出るのをよしとしなかったパーキンズは、ウルフの身を切らせて削除に同意させたことなどを挙げて献呈を断ろうとしたが、結局はこれを受け入れ、幸せなことだと書き送っている<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=124-125}}</ref>。
ウルフの作品の分量が多いのは、登場人物の心情や動作を全て再現しようとするためだったが、一方で記述の分量などバランス感覚が欠けていたので、この点をパーキンズの編集が補った<ref name="下p21-22">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=21-22}}</ref>。ウルフはこれに深く感謝しており、第2作『{{仮リンク|時と川について|en|Of Time and the River}}』(1935年)では、パーキンズ宛の献辞を付けた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=42}}</ref><ref name="時と川について">{{citation|first=Thomas|last=Wolfe|authorlink=トーマス・ウルフ|accessdate=2016-11-15|url=https://archive.org/details/oftimeandtherive030629mbp|title=Of Time And The River|year=1935|publisher=The Sun Dial Press.}}</ref>。編集者が表に出るのをよしとしなかったパーキンズは、ウルフの身を切らせて削除に同意させたことなどを挙げて献呈を断ろうとしたが、結局はこれを受け入れ、幸せなことだと書き送っている<ref>{{citation|title=Look Homeward: A Life of Thomas Wolfe|first=David Herbert|last=Donald|accessdate=2016-12-23|page=308|url=https://books.google.co.jp/books?id=OVPHgzHxUgEC&pg=PA308|publisher={{仮リンク|ハーバード大学出版局|en|Harvard University Press}}|location=[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|Cambridge, Massachusetts]]; London, England}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.todayinliterature.com/stories.asp?Event_Date=3/8/1935|title=Thomas Wolfe - Wolfe, Perkins, Time and the River|first=Steve|last=King|accessdate=2016-12-23|publisher=Today in Literature}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=124-125}}</ref>。


また、息子を欲しがっていたパーキンズにとって、ウルフとの関係は父子のようなものだった。パーキンズは仕事と家庭生活をきっちり分けていたが、ウルフだけは例外で、何度もパーキンズ家を訪れて会食した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=27}}</ref>。一方ウルフの側も同じように思っていたのか、『汝再び故郷へ帰れず』中では、パーキンズがモデルのエドワーズ編集長について、次のように書き記している<ref name="荒地p128">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=128}}</ref>。
また、息子を欲しがっていたパーキンズにとって、ウルフとの関係は父子のようなものだった。パーキンズは仕事と家庭生活をきっちり分けていたが、ウルフだけは例外で、何度もパーキンズ家を訪れて会食した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=27}}</ref>。一方ウルフの側も同じように思っていたのか、『汝再び故郷へ帰れず』中では、パーキンズがモデルのエドワーズ編集長について、次のように書き記している<ref name="荒地p128">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=128}}</ref>。
{{quotation|徐々に、フォックスの中に、亡くなった父、探し求めていた父親の姿を見いだしているようにジョージは思った。かくしてフォックスは第二の父——精神上の父——になったのである。|トーマス・ウルフ|『汝再び故郷へ帰れず』{{r|荒地p128}}}}
{{quotation|徐々に、フォックスの中に、亡くなった父、探し求めていた父親の姿を見いだしているようにジョージは思った。かくしてフォックスは第二の父——精神上の父——になったのである。|トーマス・ウルフ|『汝再び故郷へ帰れず』{{r|荒地p128}}}}


ウルフは元から神経質な人間だったが、1935年に出した最初の短編集『死より朝へ』{{en|"''From Death to Morning''"}} が酷評を受け始めたことで、パーキンズなど周囲の人間に当たり散らすようになった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=92}}</ref>。パーキンズとの決裂に追い討ちを掛けたのは、[[1936年]]に{{仮リンク|バーナード・デヴォート|en|Bernard DeVoto}}が発表した非難記事だった<ref name="下p104-106">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=104-106}}</ref>。デヴォートはこの中で、構成力も無いウルフは、パーキンズ無しでは大作家になれなかったと断定した{{r|下p104-106|荒地p126}}。1935年7月に[[コロラド大学]]で開かれた作家会議で、ウルフは自作執筆におけるパーキンズの助力を語り、これに加筆して『ある小説の物語』{{en|"''The Story of a Novel''"}}(1936年)を出版したが、デヴォートはこれを以てウルフを批判したのである<ref name="荒地p126">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=126}}</ref>。
ウルフは元から神経質な人間だったが、1935年に出した最初の短編集『死より朝へ』{{en|"''From Death to Morning''"}} が酷評を受け始めたことで、パーキンズなど周囲の人間に当たり散らすようになった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=92}}</ref>。パーキンズとの決裂に追い討ちを掛けたのは、[[1936年]]に{{仮リンク|バーナード・デヴォート|en|Bernard DeVoto}}が発表した非難記事だった<ref name="下p104-106">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=104-106}}</ref>。デヴォートはこの中で、構成力も無いウルフは、パーキンズ無しでは大作家になれなかったと断定した{{r|下p104-106|荒地p126}}。1935年7月に[[コロラド大学]]で開かれた作家会議で、ウルフは自作執筆におけるパーキンズの助力を語り、これに加筆して『ある小説の物語』{{en|"''The Story of a Novel''"}}(1936年)を出版したが<ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=Encyclopædia Britannica|title=Tomas Wolfe|accessdate=2016-12-23|edition= |date=2008-05-06|publisher=[[ブリタニカ百科事典]]|url=https://global.britannica.com/biography/Thomas-Wolfe#ref284868|author=The Editors of Encyclopædia Britannica}}{{en icon}}</ref>、デヴォートはこれを以てウルフを批判したのである<ref name="荒地p126">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=126}}</ref>。


自らの実体験を元に『天使よ故郷を見よ』『時と川について』を書き上げたウルフは、パーキンズから聞いた話などを元に、スクリブナー社の内幕を小説に起こし始めた<ref name="下p125-127">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=125-127}}</ref>。パーキンズの同僚だったホィーロックは、「彼は不用意な発言をする男ではなかった」が、「酔いがまわってくると、トムを授からなかった息子のように思って話をしたのだろう」と振り返っている{{r|下p125-127}}。パーキンズはこれでは会社に居られなくなると漏らし、エージェントから不用意にもこの発言を伝えられたウルフは激怒した{{r|下p125-127}}{{refnest|group="注"|しかしこの発言についてパーキンズは、ウルフを型に嵌めてしまうくらいなら彼のため会社を辞めても構わない、という趣旨のものだったと弁解している<ref name="下p139">{{harvtxt|バーグ|1987b|p=139}}</ref>。これに対しウルフは、パーキンズの編集能力は会社に不可欠で、自分のせいで辞職などさせられない、と書き送っている{{r|下p139}}。}}。さらに具合の悪いことに、『死より朝へ』収録の短編でモデルにされた女性から、慰謝料として[[示談]]を申し入れられた<ref name="下p130-131">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=130-131}}</ref>。パーキンズとして彼女たちが金のため申し入れたに過ぎず、ウルフを執筆に専念させるため示談で穏当に解決しようと考えていた{{r|下p130-131}}。また、ウルフは長年にわたって身近な人物を題材としてきたため、裁判沙汰になれば[[名誉毀損]]訴訟を何件も起こされるリスクがあった{{r|下p130-131}}。しかしウルフはこの行動に対して、「スクリブナー社が自分を守ってくれなかった」と不満を抱いた{{r|下p130-131}}。この一件を機に、[[1936年]][[11月12日]]、ウルフは契約の解除を手紙で申し入れ、スクリブナー社もそれを了承して印税を清算した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=132-134}}</ref>。[[1937年]]8月、再びデヴォートのウルフ評が掲載され、本腰を入れて出版社を探し始めたウルフは、12月に{{仮リンク|ハーパー (出版社)|label=ハーパー・アンド・ブラザーズ|en|Harper (publisher)}}と契約することを決めた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=164}}</ref>。
自らの実体験を元に『天使よ故郷を見よ』『時と川について』を書き上げたウルフは、パーキンズから聞いた話などを元に、スクリブナー社の内幕を小説に起こし始めた<ref name="下p125-127">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=125-127}}</ref>。パーキンズの同僚だったホィーロックは、「彼は不用意な発言をする男ではなかった」が、「酔いがまわってくると、トムを授からなかった息子のように思って話をしたのだろう」と振り返っている{{r|下p125-127}}。パーキンズはこれでは会社に居られなくなると漏らし、エージェントから不用意にもこの発言を伝えられたウルフは激怒した{{r|下p125-127}}{{refnest|group="注"|しかしこの発言についてパーキンズは、ウルフを型に嵌めてしまうくらいなら彼のため会社を辞めても構わない、という趣旨のものだったと弁解している<ref name="下p139">{{harvtxt|バーグ|1987b|p=139}}</ref>。これに対しウルフは、パーキンズの編集能力は会社に不可欠で、自分のせいで辞職などさせられない、と書き送っている{{r|下p139}}。}}。さらに具合の悪いことに、『死より朝へ』収録の短編でモデルにされた女性ウルフへ慰謝料の支払いを求める訴えを起こそうとした<ref name="下p130-131">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=130-131}}</ref>。パーキンズは彼女たちが金目当てに申し入れたに過ぎず、ウルフを執筆に専念させるため[[示談]]で穏当に解決しようと考えていた{{r|下p130-131}}。また、長年にわたって身近な人物を題材としてきたウルフには、裁判沙汰になれば[[名誉毀損]]訴訟を何件も起こされるリスクがあった{{r|下p130-131}}。しかしウルフはこの行動に対して、「スクリブナー社が自分を守ってくれなかった」と不満を抱いた{{r|下p130-131}}。この一件を機に、[[1936年]][[11月12日]]、ウルフは契約の解除を手紙で申し入れ、スクリブナー社もそれを了承して印税を清算した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=132-134}}</ref>。[[1937年]]8月、再びデヴォートのウルフ評が掲載され、本腰を入れて出版社を探し始めたウルフは、12月に{{仮リンク|ハーパー (出版社)|label=ハーパー・アンド・ブラザーズ|en|Harper (publisher)}}と契約することを決めた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=164}}</ref>。


スクリブナー社、そしてパーキンズと袂を分かったウルフは、パーキンズとの関係に敬意を表し、彼をモデルにした小説を書くことにした{{refnest|group="注"|彼をモデルとした人物は「フォックスホール・モートン・エドワーズ」(通称フォックス)として登場する<ref name="下p182-187">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=182-187}}</ref>。}}。この原稿を書いている途中で、執筆や周囲の騒乱に疲れたウルフは、そこまでの原稿をまとめてハーパーズの編集者に託し、[[1938年]]5月にアメリカ西部の旅へと出かけた{{r|下p182-187}}。ウルフは旅先の[[カナダ]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]で風邪をこじらせて重症の[[肺炎]]を発病し、[[シアトル]]の[[サナトリウム]]に入院した{{r|下p182-187}}<ref name="荒地p202-203">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=202-203}}</ref>。その後脳の病気([[脳腫瘍]])が疑われたウルフは、1938年9月10日に[[ボルチモア|ボルティモア]]の[[ジョンズ・ホプキンズ大学]]病院へ転院し手術を受けた{{r|荒地p202-203}}<ref name="下p191-193">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=191-193}}</ref>。ウルフは手術の甲斐無く9月15日に亡くなった(37歳没){{r|下p191-193}}。遺言の執行人に指名されていたパーキンズはこれを引き受け、また{{仮リンク|ノース・カロライナ大学|en|University of North Carolina}}の『カロライナ・マガジン』へ追悼文を寄せた<ref>{{cite web|url=http://www.nchistoricsites.org/wolfe/perkins.htm|title=Thomas Wolfe Memorial: Maxwell Perkins|work=North Carolina Historic Sites|publisher=North Carolina Department of Natural and Cultural Resources|accessdate=2016-11-15}}</ref><ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=200}}</ref>。パーキンズをモデルとした部分の原稿は、[[1940年]]に『{{仮リンク|汝再び故郷に帰れず|en|You Can't Go Home Again}}』としてハーパーズから出版された<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=223}}</ref>。また、[[1947年]]春、ウィリアム・B・ウィズダムが収集したウルフの資料集が[[ハーバード大学]]図書館へ寄贈されたが<ref>{{cite web|url=http://oasis.lib.harvard.edu/oasis/deliver/~hou00320|title=Perkins, Maxwell E. (Maxwell Evarts), 1884-1947. Maxwell Evarts Perkins correspondence and papers on Thomas Wolfe: Guide.|publisher=Houghton Library, Harvard College Library|accessdate=2016-11-15}}</ref>、パーキンズはこの紹介記事を『ハーバード・ライブラリー・ブレティン』{{en|"''Harvard Library Bulletin''"}} に寄せている<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=334}}</ref>{{refnest|group="注"|この記事はパーキンズが死の2日前に書き上げ{{r|天使よ故郷を見よ}}、彼の机から死後発見された{{r|下p340-341}}。全文はリンク先のアーカイブで読むことができる{{r|天使よ故郷を見よ}}。}}。
スクリブナー社、そしてパーキンズと袂を分かったウルフは、パーキンズとの関係に敬意を表し、彼をモデルにした小説を書くことにした{{refnest|group="注"|彼をモデルとした人物は「フォックスホール・モートン・エドワーズ」(通称フォックス)として登場する<ref name="bruccoli&bucker21">{{harvtxt|Bruccoli|Bucker|p=xxi}} (Cf. [https://books.google.co.jp/books?id=rw8RPPBIuf8C&pg=PR21 p.xxi])</ref><ref name="下p182-187">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=182-187}}</ref>。}}。この原稿を書いている途中で、執筆や周囲の騒乱に疲れたウルフは、そこまでの原稿をまとめてハーパーズの編集者に託し、[[1938年]]5月にアメリカ西部の旅へと出かけた{{r|下p182-187}}。ウルフは旅先の[[カナダ]]・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]で風邪をこじらせて重症の[[肺炎]]を発病し、[[シアトル]]の[[サナトリウム]]に入院した{{r|下p182-187}}<ref name="荒地p202-203">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=202-203}}</ref>。その後脳の病気([[脳腫瘍]])が疑われたウルフは、1938年9月10日に[[ボルチモア|ボルティモア]]の[[ジョンズ・ホプキンズ大学]]病院へ転院し手術を受けた{{r|荒地p202-203}}<ref name="下p191-193">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=191-193}}</ref>。ウルフは手術の甲斐無く、結核性脳炎で9月15日に亡くなった(37歳没)<ref>{{cite journal|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3448571/|title=Thomas Wolfe: Chapel Hill days and death from tuberculosis|author=S. Robert Lathan, MD|accessdate=2016-12-23|journal=Proc (Bayl Univ Med Cent)|issue=2012 Oct; 25(4)|pages=334–337}}</ref>{{r|下p191-193}}。遺言の執行人に指名されていたパーキンズはこれを引き受け、また{{仮リンク|ノース・カロライナ大学|en|University of North Carolina}}の『カロライナ・マガジン』へ追悼文を寄せた<ref>{{cite web|url=http://www.nchistoricsites.org/wolfe/perkins.htm|title=Thomas Wolfe Memorial: Maxwell Perkins|work=North Carolina Historic Sites|publisher=North Carolina Department of Natural and Cultural Resources|accessdate=2016-11-15}}</ref><ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=200}}</ref>。パーキンズをモデルとした部分の原稿は、[[1940年]]に『{{仮リンク|汝再び故郷に帰れず|en|You Can't Go Home Again}}』としてハーパーズから出版された{{r|bruccoli&bucker21}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=223}}</ref>。また、[[1947年]]春、ウィリアム・B・ウィズダムが収集したウルフの資料集が[[ハーバード大学]]図書館へ寄贈されたが<ref>{{cite web|url=http://oasis.lib.harvard.edu/oasis/deliver/~hou00320|title=Perkins, Maxwell E. (Maxwell Evarts), 1884-1947. Maxwell Evarts Perkins correspondence and papers on Thomas Wolfe: Guide.|publisher=Houghton Library, Harvard College Library|accessdate=2016-11-15}}</ref>、パーキンズはこの紹介記事を『ハーバード・ライブラリー・ブレティン』{{en|"''Harvard Library Bulletin''"}} に寄せている<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=334}}</ref>{{refnest|group="注"|この記事はパーキンズが死の2日前に書き上げ{{r|天使よ故郷を見よ}}、彼の机から死後発見された{{r|下p340-341}}。全文はリンク先のアーカイブで読むことができる{{r|天使よ故郷を見よ}}。}}。


== 晩年 ==
== 晩年 ==
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まず、働き過ぎと不摂生がたたった[[リング・ラードナー]]が、[[結核]]を再発させて弱り始めた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=295-296}}</ref>。ラードナーは、結核に加えて[[不眠症]]・[[アルコール依存症]]などを併発し、[[1933年]]9月に亡くなった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=325}}</ref>。[[トーマス・ウルフ]]は[[1938年]]に亡くなった{{r|下p191-193}}。[[S・S・ヴァン・ダイン]]は、パーキンズに遺言の執行人を頼んだ数ヶ月後、[[心筋梗塞]]で亡くなった([[1939年]])<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=206-207}}</ref>。この頃、彼は愛読書の『[[戦争と平和]]』を何度も読み返している<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=200}}</ref>。[[1942年]]には、室内でも帽子を被るパーキンズの習慣を生む元となった、作家の{{仮リンク|ウィル・ジェームズ (作家)|label=ウィル・ジェームズ|en|Will James (artist)}}が亡くなった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=274}}</ref>。[[1946年]]には、ハーバード大学の学友だった{{仮リンク|エドワード・シェルドン (劇作家)|label=エドワード・シェルドン|en|Edward Sheldon}}が亡くなっている。
まず、働き過ぎと不摂生がたたった[[リング・ラードナー]]が、[[結核]]を再発させて弱り始めた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=295-296}}</ref>。ラードナーは、結核に加えて[[不眠症]]・[[アルコール依存症]]などを併発し、[[1933年]]9月に亡くなった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=325}}</ref>。[[トーマス・ウルフ]]は[[1938年]]に亡くなった{{r|下p191-193}}。[[S・S・ヴァン・ダイン]]は、パーキンズに遺言の執行人を頼んだ数ヶ月後、[[心筋梗塞]]で亡くなった([[1939年]])<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=206-207}}</ref>。この頃、彼は愛読書の『[[戦争と平和]]』を何度も読み返している<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=200}}</ref>。[[1942年]]には、室内でも帽子を被るパーキンズの習慣を生む元となった、作家の{{仮リンク|ウィル・ジェームズ (作家)|label=ウィル・ジェームズ|en|Will James (artist)}}が亡くなった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=274}}</ref>。[[1946年]]には、ハーバード大学の学友だった{{仮リンク|エドワード・シェルドン (劇作家)|label=エドワード・シェルドン|en|Edward Sheldon}}が亡くなっている。


[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]からの契約を打ち切られ、様々な面で破滅していた[[F・スコット・フィッツジェラルド|フィッツジェラルド]]だったが、1939年には『[[ラスト・タイクーン]]』の概要をパーキンズに明かしていた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=234-235}}</ref>。ところがフィッツジェラルドは、この小説が未完のまま、[[1940年]][[12月21日]]に、愛人{{仮リンク|シーラ・グレアム|en|Sheilah Graham}}のアパートで死去した(フィッツジェラルドは、直前に彼女のアパートへ転居していた)<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=245}}</ref>。法律的に疑義があったため、パーキンズは遺言の執行人こそ辞退したが、彼の娘[[スコティー・フィッツジェラルド|スコティー]]が大学に通っている間の資金を手配したり、彼女の結婚式費用を支払ったりなどしている<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=247-249, 286}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=206}}</ref>。パーキンズの元にはグレアムから『ラスト・タイクーン』の遺稿が届けられ、彼は[[エドマンド・ウィルソン]]に編纂を依頼してこれを出版することにした{{refnest|group="注"|なおウィルソンは、プリンストン大学時代からのフィッツジェラルドの友人であった<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=67}}</ref>。}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=250-254}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=47-50}}</ref>{{r|tycoon}}。
[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー|MGM]]からの契約を打ち切られ、様々な面で破滅していた[[F・スコット・フィッツジェラルド|フィッツジェラルド]]だったが、1939年には『[[ラスト・タイクーン]]』の概要をパーキンズに明かしていた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=234-235}}</ref>。ところがフィッツジェラルドは、この小説が未完のまま、[[1940年]][[12月21日]]に、愛人{{仮リンク|シーラ・グレアム|en|Sheilah Graham}}のアパートで死去した(フィッツジェラルドは、直前に彼女のアパートへ転居していた)<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=245}}</ref>。法律的に疑義があったため、パーキンズは遺言の執行人こそ辞退したが、彼の娘[[スコティー・フィッツジェラルド|スコティー]]が大学に通っている間の資金を手配したり、彼女の結婚式費用を支払ったりするなど支援を続けた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=247-249, 286}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=206}}</ref>。パーキンズの元にはグレアムから『ラスト・タイクーン』の遺稿が届けられ、彼は[[エドマンド・ウィルソン]]に編纂を依頼してこれを出版することにした{{refnest|group="注"|なおウィルソンは、プリンストン大学時代からのフィッツジェラルドの友人であった<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=67}}</ref>。}}<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=250-254}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=47-50}}</ref>{{r|tycoon}}。


編集者としてのパーキンズは、自分が表に出ることをよしとしなかった<ref name="下p293-297, 303-304">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=293-297, 303-304}}</ref>。『[[ザ・ニューヨーカー]]』紙は、ウルフの生前にパーキンズの特集記事を書かないか持ちかけたが、この意向によって話が頓挫した{{r|下p293-297, 303-304}}。この企画に目敏く反応したのが批評家の[[マルカム・カウリー]]で、[[1944年]]に『ザ・ニューヨーカー』紙に掲載されたパーキンズの取材記事は、長らく影でアメリカ文学界を支えた彼の名を世間に知らしめることになった(→[[#発展資料]])。記事のタイトル「ゆるぎなき友」は、ウルフの第2作『{{仮リンク|時と川について|en|Of Time and the River}}』の献辞から引かれ、紹介文が長かったことから異例の2回に分けて発表された{{r|時と川について|下p293-297, 303-304}}。
編集者としてのパーキンズは、自分が表に出ることをよしとしなかった<ref name="下p293-297, 303-304">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=293-297, 303-304}}</ref>。『[[ザ・ニューヨーカー]]』紙は、ウルフの生前にパーキンズの特集記事を書かないか持ちかけたが、この意向によって話が頓挫した{{r|下p293-297, 303-304}}。この企画に目敏く反応したのが批評家の[[マルカム・カウリー]]で、[[1944年]]に『ザ・ニューヨーカー』紙に掲載されたパーキンズの取材記事は、長らく影でアメリカ文学界を支えた彼の名を世間に知らしめることになった(→[[#発展資料]])。記事のタイトル「ゆるぎなき友」は、ウルフの第2作『{{仮リンク|時と川について|en|Of Time and the River}}』の献辞から引かれ、紹介文が長かったことから異例の2回に分けて発表された{{r|時と川について|下p293-297, 303-304}}。


パーキンズは、自身の編集者としての直感が失われつつあることに気付いていた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=218}}</ref>。また、長年心に秘めていたアイデアを作家に押しつけようとすることも多かったが、ほとんど上手く行かなかった<ref name="下p259">{{harvtxt|バーグ|1987b|p=259}}</ref>。酒量が増えただけでなく、[[喫煙]]を続けたことで空咳が激しくなったり、手の震えが出たりと、身体的な衰えも見え隠れし始めた<ref name="下p275-276">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=275-276}}</ref>。1942年頃には、妻ルイーズとの隔たり大きくなり、パーキンズは一層仕事に打ち込むようになった{{r|下p275-276}}。
パーキンズは、自身の編集者としての直感が失われつつあることに気付いていた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=218}}</ref>。また、長年心に秘めていたアイデアを作家に押しつけようとすることも多かったが、ほとんど上手く行かなかった<ref name="下p259">{{harvtxt|バーグ|1987b|p=259}}</ref>。酒量が増えただけでなく、[[喫煙]]を続けたことで空咳が激しくなったり、手の震えが出たりと、身体的な衰えも見え隠れし始めた<ref name="下p275-276">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=275-276}}</ref>。1942年頃には、妻ルイーズとの隔たり大きくなり、パーキンズは一層仕事に打ち込むようになった{{r|下p275-276}}。


編集者として有名になるにつれ、パーキンズに自作を編集してもらいたいとする作家も増え、その中には迷惑な人物も混じるようになった<ref name="下p308-311">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=308-311}}</ref>。何故自作を出版しないのか詰る人物も、個人的な相談を持ち込む者も、自分の文学観を押しつけようとする人物もいた{{r|下p308-311}}。そんな中でもパーキンズは正気を保ち、唯一人[[#エリザベス・レモンの存在|エリザベス・レモン]]にだけ悩みを打ち明けた{{r|下p308-311}}。
編集者として有名になるにつれ、パーキンズに自作を編集してもらいたいとする作家も増え、その中には迷惑な人物も混じるようになった<ref name="下p308-311">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=308-311}}</ref>。何故自作を出版しないのか詰る人物も、個人的な相談を持ち込む者も、自分の文学観を押しつけようとする人物もいた{{r|下p308-311}}。そんな中でもパーキンズは正気を保ち、唯一人[[#エリザベス・レモンの存在|エリザベス・レモン]]にだけ悩みを打ち明けた{{r|下p308-311}}。


[[1945年]]2月、パーキンズは[[ジェームズ・ジョーンズ (小説家)|ジェームズ・ジョーンズ]]と出会った<ref name="下p313-319">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=313-319}}</ref>。パーキンズは持ち込まれた処女作よりも、彼が手紙で明かしたプロットの方に興味を示し、これは後に『{{仮リンク|地上より永遠に (小説)|label=地上より永遠に|en|From Here to Eternity (novel)}}』([[1951年]])として出版された{{r|下p313-319}}。この稿を最初に受け取った[[1946年]]末、咳が激しくなったり手が[[麻痺]]したりと、パーキンズの体調は更に悪化した{{r|下p313-319}}。晩年のパーキンズは、ウルフの原稿に根気よく付き合ったような精力を欠き、丁寧な編集が出来なくなっていた<ref name="下p326-330">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=326-330}}</ref>。
[[1945年]]2月、パーキンズは[[ジェームズ・ジョーンズ (小説家)|ジェームズ・ジョーンズ]]と出会った<ref name="下p313-319">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=313-319}}</ref>。パーキンズは持ち込まれた処女作よりも、彼が手紙で明かしたプロットの方に興味を示し、これは後に『{{仮リンク|地上より永遠に (小説)|label=地上より永遠に|en|From Here to Eternity (novel)}}』([[1951年]])として出版された{{r|下p313-319}}。この作品の初稿を受け取った[[1946年]]末、咳が激しくなったり手が[[麻痺]]したりと、パーキンズの体調は更に悪化した{{r|下p313-319}}。晩年のパーキンズは、ウルフの原稿に根気よく付き合ったような精力を欠き、丁寧な編集が出来なくなっていた<ref name="下p326-330">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=326-330}}</ref>。


[[1947年]]6月、パーキンズは体調を崩して熱を出し、救急車でスタンフォード病院へ担ぎ込まれた{{r|下p336-337}}。搬送前に彼は、娘バーサに『地上より永遠に』と、{{仮リンク|アラン・ペイトン|en|Alan Paton}}の『{{仮リンク|泣け、愛する祖国を|en|Cry, the Beloved Country}}』の原稿を秘書のワイコフへ託すよう言いつけた(この2冊が彼の最後の仕事となった){{r|下p336-337}}。入院先で[[肋膜炎]]と[[肺炎]]を併発していることが分かったパーキンズは、翌日の[[6月17日]]午前5時に妻ルイーズに看取られて亡くなった{{r|下p336-337}}。{{没年齢|1884|9|30|1947|6|17}}。
[[1947年]]6月、パーキンズは体調を崩して熱を出し、救急車でスタンフォード病院へ担ぎ込まれた{{r|下p336-337}}。搬送前に彼は、娘バーサに『地上より永遠に』と、{{仮リンク|アラン・ペイトン|en|Alan Paton}}の『{{仮リンク|泣け、愛する祖国を|en|Cry, the Beloved Country}}』の原稿を秘書のワイコフへ託すよう言いつけた(この2冊が彼の最後の仕事となった){{r|下p336-337}}。入院先で[[肋膜炎]]と[[肺炎]]を併発していることが分かったパーキンズは、翌日の[[6月17日]]午前5時に妻ルイーズに看取られて亡くなった{{r|下p336-337}}。{{没年齢|1884|9|30|1947|6|17}}。
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== 私生活 ==<!--節リンクあり-->
== 私生活 ==<!--節リンクあり-->
=== 妻ルイーズと5人の娘 ===<!--節リンクあり-->
=== 妻ルイーズと5人の娘 ===<!--節リンクあり-->
『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙の記者として働いていた頃、パーキンズは[[プレインフィールド (ニュージャージー州)|プレインフィールド]]のダンス教室で一緒だったルイーズ・ソーンダースの家に足繁く訪問した<ref name="上p54-56">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=54-56}}</ref>。ルイーズの実家もプレインフィールドの名家であり、父ウィリアム・ローレンスは、[[ウッドロウ・ウィルソン|ウッドロー・ウィルソン]]の友人だったほか、プレインフィールドの市長も2期務めていた{{r|上p54-56}}。活動的なルイーズはアマチュア[[女優]]として活動する傍ら、自ら[[戯曲]]も書いていて地元では有名な女性だった{{r|上p54-56}}。派手好みのルイーズは、夫の実家であるパーキンズ家・エヴァーツ家ではあまり評判が良くなく、むしろ見下されていたという<ref name="荒地p184">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=184}}</ref>。
『[[ニューヨーク・タイムズ]]』紙の記者として働いていた頃、パーキンズは[[プレインフィールド (ニュージャージー州)|プレインフィールド]]のダンス教室で一緒だったルイーズ・ソーンダースの家に足繁く訪問した<ref name="上p54-56">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=54-56}}</ref>。ルイーズの実家もプレインフィールドの名家であり、父{{仮リンク|ウィリアム・ローレンス・ソーンダース|label=ウィリアム・ローレンス|en|William Lawrence Saunders
}}は、[[ウッドロウ・ウィルソン|ウッドロー・ウィルソン]]の友人だったほか、プレインフィールドの市長も2期務めていた<ref>{{cite web|url=http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=118093463|title=William Lawrence Saunders|work=Find A Grave|accessdate=2016-12-23}}</ref>{{r|上p54-56}}。活動的なルイーズはアマチュア[[女優]]として活動する傍ら、自ら[[戯曲]]も書いていて地元では有名な女性だった{{r|上p54-56}}。派手好みのルイーズは、夫の実家であるパーキンズ家・エヴァーツ家ではあまり評判が良くなく、むしろ見下されていたという<ref name="荒地p184">{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=184}}</ref>。


[[1910年]]早春、[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|スクリブナー社]]への就職が決まったパーキンズは、ルイーズと婚約した<ref name="上p59">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=59}}</ref>。2人は1910年[[12月31日]]に、プレインフィールドのホリー・クロス・エピスコパル教会で結婚式を挙げた{{r|上p59}}。2人はハネムーンの旅行先に、[[ニューハンプシャー州]]{{仮リンク|コーニッシュ (ニューハンプシャー州)|label=コーニッシュ|en|Cornish, New Hampshire}}を選んだ{{r|上p59}}。ハネムーンから戻った2人は、ルイーズの父が購入した、{{仮リンク|ノース・プレインフィールド (ニュージャージー州)|label=ノース・プレインフィールド|en|North Plainfield, New Jersey}}、マーサー通り95番地の家で新婚生活をスタートした{{r|上p59}}。義父から結婚祝いに送られた金時計は、左耳の耳硬化症から来る[[難聴]]を患っていたパーキンズの進行度を測るのに使われた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=59, 316}}</ref>。夫妻は自尊心の高さから何度もぶつかったが、それでも離婚が話に上がることは無かった{{r|上p362}}。
[[1910年]]早春、[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ|スクリブナー社]]への就職が決まったパーキンズは、ルイーズと婚約した<ref name="上p59">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=59}}</ref>。2人は1910年[[12月31日]]に、プレインフィールドのホリー・クロス・エピスコパル教会で結婚式を挙げた{{r|上p59}}。2人はハネムーンの旅行先に、[[ニューハンプシャー州]]{{仮リンク|コーニッシュ (ニューハンプシャー州)|label=コーニッシュ|en|Cornish, New Hampshire}}を選んだ{{r|上p59}}。ハネムーンから戻った2人は、ルイーズの父が購入した、{{仮リンク|ノース・プレインフィールド (ニュージャージー州)|label=ノース・プレインフィールド|en|North Plainfield, New Jersey}}、マーサー通り95番地の家で新婚生活をスタートした{{r|上p59}}。左耳の耳硬化症から来る[[難聴]]を患っていたパーキンズ義父から結婚祝いに送られた金時計を、難聴の進行度を測るのに使という<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=59, 316}}</ref>。夫妻は自尊心の高さから何度もぶつかったが、それでも離婚が話に上がることは無かった{{r|上p362}}。


2人の間には5人の娘が生まれた。パーキンズ自身は息子が生まれるのを切望していたが、その願いは叶わなかった{{refnest|group="注"|そんなパーキンズに対し、息子ばかり生まれていて娘を欲しがっていたヘミングウェイは、もし女の子を作る秘訣を教えてくれるなら、自分も男の子を作る秘訣を教えようと茶化している<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=178, 310}}</ref>。}}<ref name="Genius2016">{{cite web|url=http://best-seller.jp/|title=映画『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』公式サイト - キャスト|accessdate=2016-10-30}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=183}}</ref>。[[1911年]]に長女バーサ、[[1913年]]に次女エリザベス(愛称ジッピー{{refnest|group="注"|姉バーサが、回らない舌で妹を呼んだのが愛称となった{{r|上p60}}。}})が生まれている{{r|上p60}}。2人の娘は、それぞれルイーズとマックスの母から名前を取って命名された{{r|上p60}}。さらに2年後の[[1915年]]には三女ルイーズ・エルヴィーア(愛称はペギーほか)が生まれた{{refnest|group="注"|彼女はペギーのほか、ペグ、ペゴティーなどの愛称で呼ばれた{{r|下p336-337}}。}}{{r|上p60}}。
2人の間には5人の娘が生まれた。パーキンズ自身は息子が生まれるのを切望していたが、その願いは叶わなかった{{refnest|group="注"|そんなパーキンズに対し、息子ばかり生まれていて娘を欲しがっていたヘミングウェイは、もし女の子を作る秘訣を教えてくれるなら、自分も男の子を作る秘訣を教えようと茶化している<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=178, 310}}</ref>。}}<ref name="Genius2016">{{cite web|url=http://best-seller.jp/|title=映画『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』公式サイト - キャスト|accessdate=2016-10-30}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=183}}</ref>。[[1911年]]に長女バーサ、[[1913年]]に次女エリザベス(愛称ジッピー{{refnest|group="注"|姉バーサが、回らない舌で妹を呼んだのが愛称となった{{r|上p60}}。}})が生まれている{{r|上p60}}。2人の娘は、それぞれルイーズとマックスの母から名前を取って命名された{{r|上p60}}。さらに2年後の[[1915年]]には三女ルイーズ・エルヴィーア(愛称はペギーほか)が生まれた{{refnest|group="注"|彼女はペギーのほか、ペグ、ペゴティーなどの愛称で呼ばれた{{r|下p336-337}}。}}{{r|上p60}}。


[[1916年]]、パーキンズは[[騎兵隊]]の予備役に志願し、同郷の兵士で組まれた中隊で[[メキシコ]]国境警備へ配備された{{r|上p60}}。3ヶ月に及んだ彼の軍役中、妻ルイーズは妹夫妻から、父がくれた家が大きすぎるので交換しないかと持ちかけられた{{r|上p60}}。パーキンズ家はこれを受け入れ、パーキンズの帰還後にロックビュー街112番地へ引っ越した{{r|上p60}}。これから2年後の[[1918年]]、パーキンズ家に四女ジェーンが生まれた<ref name="上p61">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=61}}</ref>。また[[1924年]]に一家は[[コネチカット州]]{{仮リンク|ニュー・ケイナン (コネチカット州)|label=ニュー・ケイナン|en|New Canaan, Connecticut}}へ引っ越し<ref name="上p127">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=127}}</ref>、翌[[1925年]]には末娘ナンシー・ゴールトが生まれている<ref name="上p128">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=128}}</ref>。5人の娘はいずれもパーキンズ似であった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=口絵XIV-XV}}</ref>。またパーキンズは、娘たちに毎晩本を読み聞かせたり、家族と離れている時には手紙を送るなど、まめな父親であった<ref name="上p63">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=63}}</ref>。
[[1916年]]、パーキンズは[[騎兵隊]]の予備役に志願し、同郷の兵士で組まれた中隊で[[メキシコ]]国境警備へ配備された{{r|上p60}}。3ヶ月に及んだ彼の軍役中、妻ルイーズは妹夫妻から、父がくれた家が大きすぎるので交換しないかと持ちかけられた{{r|上p60}}。パーキンズ家はこれを受け入れ、パーキンズの帰還後にロックビュー街112番地へ引っ越した{{r|上p60}}。これから2年後の[[1918年]]、パーキンズ家に四女ジェーンが生まれた<ref name="上p61">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=61}}</ref>。また[[1924年]]に一家は[[コネチカット州]]{{仮リンク|ニュー・ケイナン (コネチカット州)|label=ニュー・ケイナン|en|New Canaan, Connecticut}}へ引っ越し<ref name="上p127">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=127}}</ref>、翌[[1925年]]には末娘ナンシー・ゴールトが生まれている<ref name="上p128">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=128}}</ref>。5人の娘はいずれもパーキンズ似であった<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=口絵XIV-XV}}</ref>。またパーキンズは、娘たちに毎晩本を読み聞かせたり、家族と離れている時には手紙を送るなど、まめな父親であった{{r|historyofinn}}<ref name="上p63">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=63}}</ref>。


ルイーズはパーキンズの希望で結婚と同時に女優を辞めたものの、その活動力は児童演劇の脚本作りやアマチュア劇団の演出へ活かされた<ref name="上p62">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=62}}</ref>。1920年代半ばには以前よりも精力的に活動するようになり、スクリブナー社から児童劇の脚本を出版したり、『[[ハーパーコリンズ|ハーパーズ]]』や『スクリブナーズ』に短編が掲載されたりした{{refnest|group="注"|児童劇の脚本は、妻のやる気を高めようとパーキンズが持ちかけたものだが、『スクリブナーズ』への短編掲載は、夫の口添え無彼女の実力のみで成し遂げたことである<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=162-163}}</ref>。}}。
ルイーズはパーキンズの希望で結婚と同時に女優を辞めたものの、その活動力は児童演劇の脚本作りやアマチュア劇団の演出へ活かされた<ref name="上p62">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=62}}</ref>。1920年代半ばには以前よりも精力的に活動するようになり、スクリブナー社から児童劇の脚本を出版したり、『[[ハーパーコリンズ|ハーパーズ]]』や『スクリブナーズ』に短編が掲載されたりした{{refnest|group="注"|児童劇の脚本は、妻のやる気を高めようとパーキンズが持ちかけたものだが、『スクリブナーズ』への短編掲載は、夫の口添え無しに彼女の実力のみで成し遂げた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=162-163}}</ref>。}}。


[[1933年]]、長女バーサを嫁に出したパーキンズ家は、ルイーズの父親がかつて住んでいた[[マンハッタン]]の家へと移り住んだ<ref name="上p358">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=358}}</ref>。隣家には女優の[[キャサリン・ヘプバーン]]が住んでいた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=98}}</ref>。これは都会生活に憧れていたルイーズが説得したものだったが、パーキンズ自身も娘の教育のため提案に同意した{{r|上p358}}。転居後ルイーズはますます演劇に打ち込むようになった一方で成功することはなかった<ref name="上p362">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=362}}</ref>。次女ジッピーは1936年9月に結婚した<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=201}}</ref>。
[[1933年]]、長女バーサを嫁に出したパーキンズ家は、ルイーズの父親がかつて住んでいた[[マンハッタン]]の家へと移り住んだ<ref name="上p358">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=358}}</ref>。隣家には女優の[[キャサリン・ヘプバーン]]が住んでいた<ref>{{cite web|url=http://www.newyorker.com/magazine/2016/06/20/a-scott-berg-saves-max-perkins-from-anonymity|title=Ghost Editor|date=2016-06-20|publisher=[[ザ・ニューヨーカー]]|first=Tad|last=Friend|accessdate=2016-12-23}}</ref><ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=98}}</ref>。マンハッタンへの転居は都会生活に憧れていたルイーズが説得したものだったが、パーキンズ自身も娘の教育のため提案に同意した{{r|上p358}}。転居後ルイーズはますます演劇に打ち込むようになったものの結局成功することはなかった<ref name="上p362">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=362}}</ref>。次女ジッピーは1936年9月に結婚した<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=201}}</ref>。


[[1938年]]、夫婦は再びニュー・ケイナンに居を構えることにした<ref name="下p177-179">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=177-179}}</ref>。これと同じ時期、ルイーズは[[修道女]]の訪問を受けて[[カトリック]]に傾倒したが、パーキンズはこれを苦々しく思い、自身の改宗には取り合わなかった{{r|下p177-179}}。
[[1938年]]、夫婦は再びニュー・ケイナンに居を構えることにした<ref name="下p177-179">{{harvtxt|バーグ|1987b|pp=177-179}}</ref>。これと同じ時期、ルイーズは[[修道女]]の訪問を受けて[[カトリック]]に傾倒したが、パーキンズはこれを苦々しく思い、自身の改宗には取り合わなかった{{r|下p177-179}}。


何かとぶつかることが多かった夫妻だが、[[1947年]]にパーキンズが死んだ後、ルイーズの心にはぽっかり穴が空いた。教会は更に彼女の心の拠り所となり、友人に[[修道院]]へ入りたいなどと漏らしている<ref name="下p340-341">{{harvtxt|バーグ|1987b|p=340-341}}</ref>。また同時に飲酒癖も嵩じた{{r|下p340-341}}。[[1965年]][[2月21日]]、彼女は住んでいた家の離れで失火事故を起こし、重度の[[熱傷]]を負って同日中に亡くなった{{r|下p340-341}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=213}}</ref>。
何かとぶつかることが多かった夫妻だが、[[1947年]]にパーキンズが死んだ後、ルイーズの心にはぽっかり穴が空いた。教会はますます心の拠り所となり、ルイーズは友人に[[修道院]]へ入りたいなどと漏らしている<ref name="下p340-341">{{harvtxt|バーグ|1987b|p=340-341}}</ref>。また同時に飲酒癖も嵩じた{{r|下p340-341}}。[[1965年]][[2月21日]]、彼女は住んでいた家の離れで失火事故を起こし、重度の[[熱傷]]を負って同日中に亡くなった{{r|下p340-341}}<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=213}}</ref>。


=== エリザベス・レモンの存在 ===<!--節リンクあり-->
=== エリザベス・レモンの存在 ===<!--節リンクあり-->
エリザベス・レモンは、パーキンズにとって最も親しく思っていた友人であった。パーキンズは8歳年下のレモンと、[[1922年]]4月に知り合った<ref name="上p115-122">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=115-122}}</ref>。レモンが毎春の恒例にしていた北部州での逗留、プレインフィールドを訪れたのがきっかけである{{r|上p115-122}}。彼女は[[バージニア州|ヴァージニア州]]と[[ボルティモア]]にゆかりがある旧家の出身で、ボルティモアで社交界デビューした{{r|上p115-122}}。
パーキンズより8歳年下のエリザベス・レモンは彼が最も親しく思っていた友人で、2人は[[1922年]]4月に知り合った<ref name="上p115-122">{{harvtxt|バーグ|1987a|pp=115-122}}</ref><ref name="AsEverYours">{{cite web|url=http://www.psupress.org/books/titles/0-271-02254-X.html|title=As Ever Yours: The Letters of Max Perkins and Elizabeth Lemmon Edited by Rodger L. Tarr|accessdate=2016-12-23|publisher=[[ペンシルベニア州立大学|Penn State University Press]]}}</ref>。これは、レモンが毎春の恒例にしていた北部州での逗留先に、プレインフィールドを選んだのがきっかけである{{r|上p115-122}}。彼女は[[バージニア州|ヴァージニア州]]と[[ボルティモア]]にゆかりがある旧家の出身で、ボルティモアで社交界デビューした{{r|上p115-122}}。


パーキンズはレモンの姿に強く惹かれたが、これは飽くまで[[プラトニック]]な崇敬の念であり、夫妻の仲を脅かすようなものではなかった{{r|上p115-122}}。パーキンズはレモンを心のよりどころのように感じていた一方で、自分とレモンが深い仲になることは自律した{{r|上p115-122}}。2人はパーキンズが亡くなるまでの25年間文通を続けたが、その一方で彼がレモンの家を訪ねたのはわずかに2回であった{{r|上p115-122}}。レモンが大切に保管していたパーキンズの手紙は、折々の彼の心中を綴りつつレモンを賛美するもので、同時に彼の手記として唯一のでもある{{r|上p115-122}}。パーキンズは、妻ルイーズがカトリックに傾倒した時期など、家庭や仕事上で悩みの多い時期に、レモンと数多く文通した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=179}}</ref>。レモンはヴァージニア州{{仮リンク|ミドルバーグ (バージニア州)|label=ミドルバーグ|en|Middleburg, Virginia}}に住み{{r|荒地p184}}、生涯独身を通した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=241}}</ref>。
パーキンズはレモンの姿に強く惹かれたが、これは飽くまで[[プラトニック]]な崇敬の念であり、夫妻の仲を脅かすような不倫関係に陥ることはなかった{{r|上p115-122}}。パーキンズはレモンを心のよりどころ感じつつも、自分とレモンが深い仲になることは自律した{{r|上p115-122}}。2人はパーキンズが亡くなるまでの25年間文通を続けたが、その一方で彼がレモンの家を訪ねたのはわずかに2回であった{{r|上p115-122}}。レモンが大切に保管していたパーキンズの手紙は、折々の心中を綴りつつレモンを賛美するもので、結果として唯一残された彼手記となった(なおこ手紙は、後に書簡集としてまとめられてい{{r|上p115-122|AsEverYours}}。パーキンズは、妻ルイーズがカトリックに傾倒した時期など、家庭や仕事上で悩みの多い時期に、レモンと数多く文通した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=179}}</ref>。レモンはヴァージニア州{{仮リンク|ミドルバーグ (バージニア州)|label=ミドルバーグ|en|Middleburg, Virginia}}に住み{{r|荒地p184}}、生涯独身を通した<ref>{{harvtxt|バーグ|1987b|p=241}}</ref>。


== 逸話 ==
== 逸話 ==
パーキンズは室内でも常に[[帽子]]を被っていることで有名だった{{r|Genius2016}}<ref name="上p90-91">{{harvtxt|バーグ|1987|pp=90-91}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=196-197}}</ref>。これは元々、『{{仮リンク|スクリブナーズ・マガジン|en|Scribner's Magazine}}』に寄稿していた作家{{仮リンク|ウィル・ジェームズ (作家)|label=ウィル・ジェームズ|en|Will James (artist)}}の[[テンガロンハット]]をパーキンズが気に入り、ジェームズが似たようなものを見繕って送ったのがきっかけだった{{r|上p90-91}}。その内帽子は7号サイズで[[灰色]]のソフト帽に代わったが、室内でも帽子を被る習慣はパーキンズの奇癖として有名になるほどだった{{r|上p90-91}}。その理由について、彼の秘書を務めていたアーマ・ワイコフは、会社の下層階にあったスクリブナー書店の店員と間違われないようにするためだったと語っている{{r|上p90-91}}。ただし自身では、急な来客時に外出するところだったと装って逃れるため、などとしていた{{r|上p90-91}}。
パーキンズは室内でも常に[[帽子]]を被っていることで有名だった{{r|Genius2016}}<ref name="上p90-91">{{harvtxt|バーグ|1987|pp=90-91}}</ref><ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|pp=196-197}}</ref><ref>{{cite web|url=http://chicago.suntimes.com/entertainment/a-scott-bergs-maxwell-perkins-book-is-now-genius-film/|title=A. Scott Berg’s Maxwell Perkins book is now ‘Genius’ film|date=2016-06-13|accessdate=2016-12-23|first=Bill|last=Zwecker|work=Entertainment|publisher=[[シカゴ・サンタイムズ|Chicago Sun Times]]}}</ref>。これは元々、『{{仮リンク|スクリブナーズ・マガジン|en|Scribner's Magazine}}』に寄稿していた作家{{仮リンク|ウィル・ジェームズ (作家)|label=ウィル・ジェームズ|en|Will James (artist)}}の[[テンガロンハット]]をパーキンズが気に入り、ジェームズが似たようなものを見繕って送ったのがきっかけだった{{r|上p90-91}}。その内帽子は7号サイズで[[灰色]]のソフト帽に代わったが、室内でも帽子を被る習慣はパーキンズの奇癖として有名になるほどだった{{r|上p90-91}}。その理由について、彼の秘書を務めていたアーマ・ワイコフは、会社の下層階にあったスクリブナー書店の店員と間違われないようにするためだったと語っている{{r|上p90-91}}。ただし自身では、急な来客時に外出するところだったと装って逃れるため、などとしていた{{r|上p90-91}}。


またパーキンズは、編集作業中に座りっぱなしになるのを防ごうと、演台のような高くて広々とした机を特注し、立ちながらそれに向かって原稿を読むのを常とした<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=114}}</ref>。昼には、オフィスから歩いて43丁目46番地のレストラン「チェリオ」に行くことを常としており、店の一角にはパーキンズ専用席が用意されていた<ref name="上p339-340">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=339-340}}</ref>。お気に入りのメニューは[[ホロホロチョウ|ホロホロ鳥]]胸肉の蒸し焼きで、[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]撤廃以来は、昼のメニューに[[マティーニ]]を付け加えた{{r|上p339-340}}。
またパーキンズは、編集作業中に座りっぱなしになるのを防ごうと、演台のような高くて広々とした机を特注し、立ちながらそれに向かって原稿を読むのを常とした<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=114}}</ref>。昼には、オフィスから歩いて43丁目46番地のレストラン「チェリオ」に行くことを常としており、店の一角にはパーキンズ専用席が用意されていた<ref name="上p339-340">{{harvtxt|バーグ|1987a|p=339-340}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1990/12/09/books/i-who-knew-nothing-was-in-charge.html?pagewanted=all|title=
'I, Who Knew Nothing, Was in Charge'|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|date=1990-12-09|accessdate=2016-12-23|author=Charles Scribner Jr.}}</ref>。お気に入りのメニューは[[ホロホロチョウ|ホロホロ鳥]]胸肉の蒸し焼きで、[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]撤廃以来は、昼のメニューに[[マティーニ]]を付け加えた{{r|上p339-340}}。


彼自身は編集者でありながら、しばしば[[スペル]]を間違うことでも有名だった。長年文通を続けたエリザベス・レモンへの最初の手紙では、彼女の名前を間違ってスペリングしている{{r|上p115-122}}。また、[[F・スコット・フィッツジェラルド]]が最初に送った作品を『ロマンティック・エゴ'''イ'''スト』と勘違いしている(正しくは『エゴ'''ティ'''スト』){{r|上p21}}。
彼自身は編集者でありながら、しばしば[[スペル]]を間違うことでも有名だった。長年文通を続けたエリザベス・レモンへの最初の手紙では、彼女の名前を間違ってスペリングしている{{r|上p115-122}}。また、[[F・スコット・フィッツジェラルド]]が最初に送った作品を『ロマンティック・エゴ'''イ'''スト』と勘違いしている(正しくは『エゴ'''ティ'''スト』){{r|上p21|Bruccoli&Baughman2-3}}。


自分の担当する作家が行き詰まっていると感じると、パーキンズは本を送るのが常だった{{r|上p31-35}}。本を送られた作家の一人、ジェームズ・ジョーンズは、彼の送ってくる本が「相手の気持ちを引き立てるような」ものだったと述べている{{r|上p31-35}}。また彼自身は、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』を愛読し、しばしば娘たちに読み聞かせた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=37}}</ref>。一方で[[シェイクスピア]]には触れることがなく、編集生活を通じて自分の無知を恥じていたという<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=180}}</ref>。
自分の担当する作家が行き詰まっていると感じると、パーキンズは本を送るのが常だった{{r|上p31-35}}。本を送られた作家の一人、ジェームズ・ジョーンズは、彼の送ってくる本が「相手の気持ちを引き立てるような」ものだったと述べている{{r|上p31-35}}。また彼自身は、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』を愛読し、しばしば娘たちに読み聞かせた<ref>{{harvtxt|バーグ|1987a|p=37}}</ref>。一方で[[シェイクスピア]]には触れることがなく、編集生活を通じて自分の無知を恥じていたという<ref>{{harvtxt|永岡|坪井|1983|p=180}}</ref>。
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{{Portal 文学}}
{{Portal 文学}}
* [[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ]] - パーキンズが務めていた出版社。
* [[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ]] - パーキンズが務めていた出版社。
** 『{{仮リンク|スクリブナーズ・マガジン|en|Scribner's Magazine}}』- スクリブナー社が刊行していた文芸雑誌。ここから何人もの作家が巣立っていった
** 『{{仮リンク|スクリブナーズ・マガジン|en|Scribner's Magazine}}』- スクリブナー社が刊行していた文芸雑誌。
* 『[[ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ]]』 - パーキンズと作家[[トーマス・ウルフ]]との交流を元にした映画。パーキンズ役は[[コリン・ファース]]、妻ルイーズ役は[[ローラ・リニー]]が演じた{{r|Genius2016}}。
* 『[[ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ]]』 - パーキンズと作家[[トーマス・ウルフ]]との交流を元にした映画。パーキンズ役は[[コリン・ファース]]、妻ルイーズ役は[[ローラ・リニー]]が演じた{{r|Genius2016}}。
* [[アーチボルド・コックス]] - [[ウォーターゲート事件]]に関わった法律家。パーキンズの甥(妹ファニーの息子)にあたる<ref>{{cite news|url=http://observer.com/2014/09/not-so-junior-son-of-watergate-prosecutor-archibald-cox-drops-condo-for-17-25-m/|title=Not So Junior: Son of Watergate Prosecutor Archibald Cox Drops Condo for $17.25M|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|author=Chris Pomorski|date=2014-09-24|accessdate=2016-10-29}}</ref>。
* [[アーチボルド・コックス]] - [[ウォーターゲート事件]]に関わった法律家。パーキンズの甥(妹ファニーの息子)にあたる<ref>{{cite news|url=http://observer.com/2014/09/not-so-junior-son-of-watergate-prosecutor-archibald-cox-drops-condo-for-17-25-m/|title=Not So Junior: Son of Watergate Prosecutor Archibald Cox Drops Condo for $17.25M|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|author=Chris Pomorski|date=2014-09-24|accessdate=2016-10-29}}</ref>。
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* {{cite book|和書|title=天才の発見 名編集者M・パーキンズとその作家たち|last=永岡|first=定夫|last2=坪井|first2=清彦|publisher=[[荒地出版社]]|date=1983-11-25|year=1983|isbn=|ncid=BN03440719|oclc=673349694|id={{全国書誌番号|84014587}}|ref=harv}}
* {{cite book|和書|title=天才の発見 名編集者M・パーキンズとその作家たち|last=永岡|first=定夫|last2=坪井|first2=清彦|publisher=[[荒地出版社]]|date=1983-11-25|year=1983|isbn=|ncid=BN03440719|oclc=673349694|id={{全国書誌番号|84014587}}|ref=harv}}
* {{cite book|title=The Sons of Maxwell Perkins: Letters of F. Scott Fitzgerald, Ernest Hemingway, Thomas Wolfe, and Their Editor|last=Bruccoli|first=Matthew J.|last2=Baughman|first2=Judith S.|publisher=University of South Carolina Press|year=2004|isbn=9781570035487|oclc=54046176|location=Columbia SC|page=|quote=|ncid=BA67812833|url=https://books.google.com/books?id=XfPa5B2blv0C|ref=harv}}
* {{cite book|title=The Sons of Maxwell Perkins: Letters of F. Scott Fitzgerald, Ernest Hemingway, Thomas Wolfe, and Their Editor|last=Bruccoli|first=Matthew J.|last2=Baughman|first2=Judith S.|publisher=University of South Carolina Press|year=2004|isbn=9781570035487|oclc=54046176|location=Columbia SC|page=|quote=|ncid=BA67812833|url=https://books.google.com/books?id=XfPa5B2blv0C|ref=harv}}
* {{cite book|title=To Loot My Life Clean: The Thomas Wolfe--Maxwell Perkins Correspondence|first1=Matthew Joseph|last1=Bruccoli|first2=Park|last2=Bucker|publisher=University of South Carolina Press|accessdate=2016-12-23|page=xxi|url=https://books.google.co.jp/books?id=rw8RPPBIuf8C|isbn=1-57003-355-2|ncid=BA50033796|year=2000|ref=harv}}
* 映画パンフレット:{{citation|和書|title=ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ|others=大田圭二(発行者)|date=2016-10-14|accessdate=2016-11-18|publisher=[[東宝]]映像事業部|editor=東宝ステラ}}
** {{cite web|url=http://best-seller.jp/contents/interpretation.html|title=編集者パーキンズとその時代|author=柴田元幸|accessdate=2016-11-15|work=『[[ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ]]』|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161115213904/http://best-seller.jp/contents/interpretation.html|archivedate=2016-11-15|ref=柴田元幸}} - 映画『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』の公開に際して寄せられた解説文。映画のパンフレットにもほぼ同文が掲載されている。『天使よ故郷を見よ』削除語数に関してはパンフレットの記載を採用した。
* {{cite encyclopedia |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |editor= |encyclopedia=Britannica Concise Encyclopedia |title=Perkins, Maxwell (Evarts) |url= |accessdate=2016-11-20 |edition= |date= |year=2011 |month= |publisher=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica, Inc.]]|volume= |location= |id= |isbn= |oclc= |doi= |pages= |quote= }}


=== 発展資料 ===<!--節リンクあり-->
=== 発展資料 ===<!--節リンクあり-->
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* {{cite web|url=http://theamericanreader.com/13-november-1936-thomas-wolfe-to-maxwell-e-perkins-charles-scribner-iii/|title=13 November (1936): Thomas Wolfe to Maxwell E. Perkins, Charles Scribner III|work=This Day in Lettres|publisher=The American Reader|accessdate=2016-11-15}}
* {{cite web|url=http://theamericanreader.com/13-november-1936-thomas-wolfe-to-maxwell-e-perkins-charles-scribner-iii/|title=13 November (1936): Thomas Wolfe to Maxwell E. Perkins, Charles Scribner III|work=This Day in Lettres|publisher=The American Reader|accessdate=2016-11-15}}
* {{cite web|url=http://www.scribnermagazine.com/2015/02/max-perkinss-letter-ernest-hemingway/|title=A Letter to Ernest Hemingway|work=From The Desk of Maxwell Perkins|publisher={{仮リンク|スクリブナーズ・マガジン|label=Scribner Magazine|en|Scribner's Magazine}}|accessdate=2016-11-15}}(パーキンズの自筆サイン写真を閲覧できる)
* {{cite web|url=http://www.scribnermagazine.com/2015/02/max-perkinss-letter-ernest-hemingway/|title=A Letter to Ernest Hemingway|work=From The Desk of Maxwell Perkins|publisher={{仮リンク|スクリブナーズ・マガジン|label=Scribner Magazine|en|Scribner's Magazine}}|accessdate=2016-11-15}}(パーキンズの自筆サイン写真を閲覧できる)
* 映画パンフレット:{{citation|和書|title=ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ|others=大田圭二(発行者)|date=2016-10-14|accessdate=2016-11-18|publisher=[[東宝]]映像事業部|editor=東宝ステラ}}
* パーキンズの編集ペーパーは、[[プリンストン大学]]の[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ]]コレクションに収められている。
* パーキンズの編集ペーパーは、[[プリンストン大学]]の[[チャールズ・スクリブナーズ・サンズ]]コレクションに収められている。
* {{cite book|title=Editor to Author: The Letters of Maxwell E. Perkins|first=Maxwell|last=Perkins|editor={{仮リンク|ジョン・ホール・ホィーロック|label=Wheelock, John Hall|en|John Hall Wheelock}}|year=1950|location=New York|publisher=Scribners|oclc=575390}} - パーキンズの死後、学友・同僚だったホィーロックがまとめた書簡集
* {{cite book|title=Editor to Author: The Letters of Maxwell E. Perkins|first=Maxwell|last=Perkins|editor={{仮リンク|ジョン・ホール・ホィーロック|label=Wheelock, John Hall|en|John Hall Wheelock}}|year=1950|location=New York|publisher=Scribners|oclc=575390}} - パーキンズの死後、学友・同僚だったホィーロックがまとめた書簡集
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* {{cite book|title=As Ever Yours: The Letters of Max Perkins and Elizabeth Lemmon|first=Maxwell|last=Perkins|last2=Lemmon|first2=Elizabeth|editor=Tarr, Rodger L.|location= University Park, Pa.|publisher=[[ペンシルバニア大学|Pennsylvania State University Press]]|year=2003|isbn=027102254X|oclc=50982348}}
* {{cite book|title=As Ever Yours: The Letters of Max Perkins and Elizabeth Lemmon|first=Maxwell|last=Perkins|last2=Lemmon|first2=Elizabeth|editor=Tarr, Rodger L.|location= University Park, Pa.|publisher=[[ペンシルバニア大学|Pennsylvania State University Press]]|year=2003|isbn=027102254X|oclc=50982348}}
* "William Maxwell Evarts Perkins." ''Encyclopedia of World Biography'', 2nd ed. 17 Vols. Gale Research, 1998. Reproduced in Biography Resource Center. Farmington Hills, Michigan: Thomson Gale. 1999
* "William Maxwell Evarts Perkins." ''Encyclopedia of World Biography'', 2nd ed. 17 Vols. Gale Research, 1998. Reproduced in Biography Resource Center. Farmington Hills, Michigan: Thomson Gale. 1999
* {{cite encyclopedia |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |editor= |encyclopedia=Britannica Concise Encyclopedia |title=Perkins, Maxwell (Evarts) |url= |accessdate=2016-11-20 |edition= |date= |year=2011 |month= |publisher=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica, Inc.]]|volume= |location= |id= |isbn= |oclc= |doi= |pages= |quote= }}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{cite web|url=http://best-seller.jp/contents/interpretation.html|title=編集者パーキンズとその時代|author=柴田元幸|accessdate=2016-11-15|work=『[[ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ]]』|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161115213904/http://best-seller.jp/contents/interpretation.html|archivedate=2016-11-15|ref=柴田元幸}} - 映画『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』の公開に際して寄せられた解説文。映画のパンフレットにもほぼ同文が掲載されている。『天使よ故郷を見よ』削除語数に関してはパンフレットの記載を採用した。
* {{cite web|url=http://www.newyorker.com/magazine/2016/06/20/a-scott-berg-saves-max-perkins-from-anonymity|title=Ghost Editor|date=2016-06-20|publisher=[[ザ・ニューヨーカー]]|first=Tad|last=Friend|accessdate=2016-11-15}}
* {{cite web|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080419005106/http://www.ah.dcr.state.nc.us/sections/hs/wolfe/perkins.htm|archivedate=2008-04-19|deadlink=2016-11-20|url=http://www.ah.dcr.state.nc.us/sections/hs/wolfe/perkins.htm|title=Thomas Wolfe Memorial - Maxwell Perkins|accessdate=2016-11-20}}
* {{cite web|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080419005106/http://www.ah.dcr.state.nc.us/sections/hs/wolfe/perkins.htm|archivedate=2008-04-19|deadlink=2016-11-20|url=http://www.ah.dcr.state.nc.us/sections/hs/wolfe/perkins.htm|title=Thomas Wolfe Memorial - Maxwell Perkins|accessdate=2016-11-20}}
* {{cite web|url=http://www.nytimes.com/books/first/g/gormley-cox.html|title=Archibald Cox, Conscience of a Nation|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|accessdate=2016-11-20|author=KEN GORMLEY}} - 甥アーチボルド・コックスに関する記事
* {{cite web|url=http://www.nytimes.com/books/first/g/gormley-cox.html|title=Archibald Cox, Conscience of a Nation|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|accessdate=2016-11-20|author=KEN GORMLEY}} - 甥アーチボルド・コックスに関する記事
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** {{cite web|url=http://www.snapdragoninn.com/history/|title=History - Snapdragon Inn|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161120075523/http://www.snapdragoninn.com/history/|archivedate=2016-11-20|accessdate=2016-11-20}} - [[バーモント州]]{{仮リンク|ウィンザー (バーモント州)|label=ウィンザー|en|Windsor, Vermont}}にあるパーキンズの旧宅。祖父[[ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ]]から母エリザベスを経てパーキンズたちきょうだいに引き継がれ、後に長女バーサが引き取った。現在は宿泊施設として利用されている


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2016年12月23日 (金) 14:42時点における版

マックス・パーキンズ
Max Perkins
1943年のパーキンズ
生誕 ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ・パーキンズ
(William Maxwell Evarts Perkins)[注 1][2][3]

1884年9月30日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨークマンハッタン[2][3]
死没 (1947-06-17) 1947年6月17日(62歳没)[3][4]
コネチカット州スタンフォード、スタンフォード病院[3][4]
死因 肋膜炎肺炎[4]
墓地 コネチカット州ニュー・ケイナン英語版、レイクヴュー墓地[5]
住居 後述 / 最終居住地:ニュー・ケイナン、パーク通り56番地[6]
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身校 ハーバード大学[1]
職業 編集者
雇用者 チャールズ・スクリブナーズ・サンズ
身長 175 cm (5 ft 9 in)(61歳時)[7]
体重 65 kg (143 lb)(61歳時)[7]
配偶者 ルイーズ・ソーンダース・パーキンズ(1910年12月31日[8] - 1947年6月17日、死別)
子供 娘5人
父:エドワード・クリフォード・パーキンズ、
母:エリザベス・エヴァーツ・パーキンズ[9][10]
親戚 父方の祖父:チャールズ・キャラハン・パーキンズ英語版
母方の祖父:ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ
甥:アーチボルド・コックス
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マクスウェル・エヴァーツ・"マックス"・パーキンズ[注 1]: Maxwell Evarts "Max" Perkins[3], 1884年9月30日[2][3] - 1947年6月17日[3][4])は、アメリカ合衆国の書籍編集者である。チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社に務め、F・スコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイトーマス・ウルフなどの作家を見出して文壇へ送り込んだ。

生い立ち

両親の出自

父エドワード・クリフォード・パーキンズは、ボストン出身の美術評論家チャールズ・キャラハン・パーキンズ英語版の息子(3人きょうだいの2番目)であった[11]。パーキンズ家は元々実業家だったが、チャールズはハーバード大学在学中に絵画へ興味を示し、その後アメリカ初の美術評論家となった[11]。息子のエドワードも父と同様にハーバード大学へ進み、後に附属のロー・スクールを卒業した[11]

母エリザベス・エヴァーツは、ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツの娘であり[9][10]、パーキンズの名前はこの祖父から貰ったものである[12]。エヴァーツはイェール大学からハーバード大学のロー・スクールに進んだ弁護士で、ラザフォード・ヘイズ政権のアメリカ合衆国国務長官を務めたほか、ニューヨーク州選出の上院議員として2期務め上げた[13][14]。父のワシントン生活中、エリザベスは女主人役をよく務めていたという[9]

父方の祖父にあたるチャールズ・パーキンズは、ヨーロッパでの美術評論生活から財産を使い果たしてしまい、元々先祖が移住してきた土地であるニューイングランドへ戻って来た[11]。ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツとの家族ぐるみの付き合いはここで始まり、パーキンズの両親は2人が24歳になった1882年に、バーモント州ウィンザー英語版で結婚した[注 2][11]。2人はニュージャージー州プレインフィールドに居を構え、エドワードはニューヨークの法律事務所に勤めた[9]。2人の間には6人の子どもが生まれた[16][10]

幼少期

パーキンズは、1884年9月30日に、ニューヨークマンハッタンでパーキンズ家の次男として生まれた[2][16]。母方の祖父から取ってウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ・パーキンズ(: William Maxwell Evarts Perkins)と名付けられ、両親双方の名字を受け継いだ[17]。エヴァーツ家の人間は謹厳実直な家風で、華々しいパーキンズ家をあまり良く思っていなかったというが[11]、結果としてパーキンズは、苗字だけでなく両家の相対するような性質も受け継ぐこととなった。

パーキンズは16歳で、ニューハンプシャー州コンコードにあるセント・ポール・アカデミーへ入学した[16]1902年10月には、父エドワードが肺炎のため44歳で死去した[16]。パーキンズは実家へ呼び戻され、ハーバード大学へ進学していた兄エドワードに代わって家長の役を務めた[18]。経済上の理由からセント・ポール・アカデミーを1年で退学し[19]、中等教育はプレインフィールドのリール・スクールで修了した[18]。後に文芸評論家として知られるヴァン・ワイク・ブルックスは同郷の友人である。

ハーバード大学

パーキンズは父や兄と同様、ハーバード大学へ進学した[1]。在学中に彼は、全く使っていなかったファースト・ネームの「ウィリアム」を捨てた[1]。父を亡くしたパーキンズは貧しい生活を送っていたが、伯父プレスコット・エヴァーツの援助で、ハーバード大学の会員制クラブであるフォックス・クラブ英語版へ入会している[注 3][1][20]

パーキンズは、『ハーバード・アドヴォケート英語版』の編集委員を務めていた[1]。これは学内で発行される文芸雑誌で、当時の寄稿者には詩人のジョン・ホール・ホィーロック英語版[注 4]、劇作家のエドワード・シェルドン英語版、ヴァン・ワイク・ブルックスなどがおり、彼らはパーキンズの友人でもあった[1]。中でもブルックスは、パーキンズと同郷の後輩であり(ブルックスが1年遅れで入学している)、2人はウィンスロップ通り41番地の文芸クラブ「スタイラス」でしばしば一緒に過ごした[1][23]

パーキンズは大学で政治経済学を専攻した[1]。またこれとは別に、チャールズ・タウンゼンド・コープランド教授の作文指導講座も受講している[1][24][23]。入学当初は留置所に入れられたり、進級保留者にされたりとあまり真面目ではない学生生活を送っていたパーキンズだったが、コープランドの授業を受けて以来学業に専念するようになった[1]。このコープランドの授業は、パーキンズの天職となった編集業に大きな影響を与えた。コープランドに恩義を感じていたパーキンズは、後に彼が選集『コープランド・リーダー』を出版する際、その編纂や各作品の版権獲得に大いに力を注いだ[25]。1926年に刊行されたこの本は、コープランドが授業で取り上げた内、特にお気に入りの作品を集めたもので、1,700ページの大作ながら数万部を売り上げた[24][25][26]

1907年6月、パーキンズは専攻していた経済学で優等賞を受け、ハーバード大学を卒業した[1]

大学卒業後の生活

大学を卒業したパーキンズは、まずボストンのスラム街にある市営のサービス・ハウス(福祉会館)に就職した[1]。昼間は巡回訪問をし、夜はロシアポーランドからの移民に英語を教えた[1]

1907年の晩夏、パーキンズは新聞社に勤めようとニューヨークへ向かい、『ニューヨーク・タイムズ』紙の編集局長の息子と知己があったことから同社の社会部に就職した[27]。最初の内は社会部長に気に入られず閑職に回されたが、後に昇格して警察記者となっている[27]

スクリブナー社での編集生活

パーキンズの務めたスクリブナー社の社屋ビル

1909年の冬、記者を辞めて勤務時間が固定された仕事に就きたいと考えていたパーキンズは、チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社(以下スクリブナー社)の宣伝部に欠員があることを聞きつけた[28]。スクリブナー社長のチャールズ・スクリブナー英語版は、ハーバード時代の教授と旧友であり、パーキンズはこの教授へ頼み込んで推薦状を書いてもらっている[28]

パーキンズは翌1910年にスクリブナー社へ入社し[29]、死去する1947年まで37年同社に勤め続けた。パーキンズが入社した当初のスクリブナー社は、話題の作家には目もくれず、イギリス風の伝統を重んじた作家の作品を出版し続けるやや古風な出版社であった[29]。彼は入社から4年半ほど宣伝担当マネジャーを務めた後、編集者の1人が他社の共同経営者になるため辞職したのを契機に編集室へと異動した[29][30]

パーキンズは、フィッツジェラルドなど多数の人気作家を世に送り出したことで一目置かれ、1920年代前半には、有望な原稿は多くが名指しでパーキンズの元へ集まるようになっていた[31]。彼の活躍まで、編集者の仕事は名作の再版、有名作家の原稿での綴りや句読点の細かな校正、宣伝文作りなどが中心だったが、パーキンズはその慣習を打ち破って前途ある作家を積極的に登用した[32]。編集者を始めて15年後には、収入が1万ドルへ倍増していただけでなく、経営者のスクリブナー兄弟から自由に仕事をするよう一任されていた[33]1930年頃、彼はスクリブナー社の役員となったほか、編集局長のポストにも就いて、名実ともにスクリブナー社に欠かせない人物となった[34]ウォール街大暴落から始まった世界恐慌では出版業界にも不況が訪れたが、スクリブナー社はパーキンズの編集した本などで売り上げを維持した(例えばS・S・ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』やヘミングウェイの『武器よさらば』など)[35]1932年夏にアーサー・H・スクリブナー (Arthur Hawley Scribnerが死去した後、パーキンズは編集長兼副社長に就任した[36]

パーキンズは、原稿を丁寧に読み込んで助言し、純文学・ミステリーなどのジャンルにかかわらず、質の高い作品を作者に求める編集姿勢を貫いた[33]。原稿を丁寧に読み込んで助言するというのは、先述のように作品にほとんど関与しなかったそれまでの編集者とは大きな違いであった。彼の関心は、同僚ジョン・ホール・ホィーロック英語版の言葉を借りれば、「アメリカの作家の才能を育て、アメリカ文学を発展させること」にあった[37]

フィッツジェラルドとの出会い

フィッツジェラルドの処女長編『楽園のこちら側』のカバー写真

1918年、スクリブナー社へ寄稿していた作家のシェーン・レズリー英語版を介して、F・スコット・フィッツジェラルドの原稿がスクリブナー社へ届けられた[38]。『ロマンティック・エゴティスト』と題された12万語の小説原稿は、陸軍仕官中のフィッツジェラルドが、毎週末を費やして書き上げたものだった[38]。この原稿は3ヶ月間編集部をたらい回しにされた末にパーキンズの元に辿り着いた[39]。パーキンズは原稿に惚れ込んだが、編集室で同意は得られず、政府の出版物供給規制策や制作費の問題などを挙げて渋々出版を断った[39][40][41]。出版を諦めきれなかったパーキンズは、作品の改善に繋がる感想をフィッツジェラルドに書き送ったり、ライバル社へ原稿を持ち込んだり(2社に送って結局どちらも突き返された)と、この小説の出版に向けて奔走している[42]

パーキンズの熱意の一方で、フィッツジェラルドはこの原稿への自信を喪失しており、彼の助言と骨組みを活かして、意図をより明確にした別の作品を書いた[21]。当初『人格教育』とされていた作品のタイトルは、1919年9月にパーキンズへ実際の原稿が送られてきた時には『楽園のこちら側』と改題されていた[21]。編集会議では、作品に眉を顰める者もおり意見は真っ二つに分かれたが、パーキンズの説得が実り出版が決定した[21][43]ゼルダ・セイヤーとの結婚を考えており、すぐにでも出版したがっていたフィッツジェラルドに対し、作品の売れ行きを考えたパーキンズは、出版シーズンとなる翌春まで待つよう説得した[21]。『楽園のこちら側』は1920年3月26日に発行され、1週間後には2万部の大台を突破した[44]。フィッツジェラルドは、スクリブナー社が作品を世に送り出した最年少の作家となり、刊行から1週間後には、スクリブナー社に程近い教会でゼルダと結婚した[44]

長編処女小説の成功で、フィッツジェラルドの年収は前年の879ドルから18,850ドルへと跳ね上がったが[注 5][44]、彼はこれを全て使い果たして、後の破滅の一端となった浪費生活を始めた。長編第2作目に当たる『美しく呪われし者英語版』を書き上げたフィッツジェラルドは、夫妻のヨーロッパ旅行用の金をパーキンズへ無心しているが、この時交わした契約書が元で、パーキンズはフィッツジェラルドの金銭面を細かくサポートすることになった[46]。この長編には、処女作刊行に一役買ったシェーン・レズリー、ジョージ・ジーン・ネーサンと並び、パーキンズ宛の献辞が付けられ、1922年3月3日に出版された[47][48]

その後もフィッツジェラルドは、『グレート・ギャツビー』などをはじめ、ほとんどの作品をスクリブナー社から刊行した。また若手作家のリーダー格として、前途のある作家をパーキンズへ紹介し続けた[49]。その中にはリング・ラードナーや、アーネスト・ヘミングウェイなどの作家も含まれる。

リング・ラードナー

リング・ラードナーは、ロングアイランド在住だった元スポーツ記者で、フィッツジェラルドがパーキンズに紹介した作家のひとりである[50]。短編集『短編小説の書き方』"How to Write Short Stories" は、自作を手元に置いていなかったラードナーに代わり、パーキンズが苦心して探し出した作品を元に編纂された[50]。パーキンズは先輩編集者から反対を受けていたが、ラードナー本人の合意もそこそこに、翌春の出版リストへ半ば強引にこの本を突っ込んだ[51]。ラードナーの同名の息子リング・ラードナー・ジュニアは、フィッツジェラルドとパーキンズがいなければ父は新作を書かなかったかもしれないと振り返っている[50]。各短編に付けられた警句めいた序文は、パーキンズが執筆の初歩本と間違われかねないと考え、ラードナーに書き加えさせたものである[50]。この作品には好意的な書評が寄せられ、フィッツジェラルドのような若手作家の登用に首を傾げていたスクリブナー社長チャールズ・スクリブナー2世英語版も、この作品を気に入った[50]

ヘミングウェイを紹介される

ヘミングウェイによる『日はまた昇る』の原稿の表紙

長編第3作『グレート・ギャツビー』が完成間近だった1924年10月に、フィッツジェラルドはパーキンズへアーネスト・ヘミングウェイを紹介する手紙を送った[49]。12月になって、『われらの時代』と銘打たれた小品集がヘミングウェイから送られてきた[注 6][53]。パーキンズは彼の非凡な能力を見て取って是非作品を刊行したいと考えたが、折悪しくオーストリアへ出かけたヘミングウェイは、パーキンズが連絡を取れないうちにボニ&リヴライト社英語版に刊行許可を与えてしまっていた[注 7][54]パリへ帰ってパーキンズの手紙を読んだヘミングウェイは、自分としてはスクリブナー社から短編集を出したかった旨を返信している[55]

パーキンズは契約を結べず落胆したが、ボニ&リヴライト社とヘミングウェイの契約は、風刺小説『春の奔流英語版』の刊行が拒否されたことであっさりと破綻した[注 8][58]。ヘミングウェイの気持ちは、前々から色よい返事をくれていたパーキンズ、そしてスクリブナー社にぐっと傾いていた[58]。ヘミングウェイの作品は猥語の多用などが原因で社の出版方針に反しており、パーキンズもあまり良い値は提示できなかったが、それでも彼はスクリブナー社との契約に合意した[58]。この契約で『春の奔流』と『日はまた昇る』がスクリブナー社から刊行されることが決定し、パーキンズは仲介役となったフィッツジェラルドへ大いに感謝した[注 9][58]。『春の奔流』は1926年5月28日、『日はまた昇る』は同年秋の10月22日に刊行され、後者は3年で10版を重ねた[59][60]1928年にヘミングウェイの父が猟銃自殺して以来、彼はパーキンズをますます慕い、スクリブナー社から『武器よさらば』(1929年9月)、『誰がために鐘は鳴る』(1940年)などの傑作を出版した[注 10][66]。パーキンズの側も、彼を「やんちゃな弟」のように見ていた[67]。またヘミングウェイも、かつてフィッツジェラルドがしてくれたように、有望な作家をパーキンズへ紹介した。

トーマス・ウルフとの出会いと別れ

画像外部リンク
en:File:LookHomewardAngel.jpg
? 『天使よ故郷を見よ』初版本のカバー写真

1928年秋、パーキンズはマドレーヌ・ボイド[注 11]から、ニューヨーク大学の講師トーマス・ウルフが書いた自伝的長編小説『失われしもの』"O Lost" について聞かされた[68][69]。パーキンズは、ボイドから届けられた30万語に及ぶ原稿を、同僚と共に読み進めては前のページに戻ったりしながら何とか読み通した[68]。読み終えた後、彼は作品が非凡なものだとは認めたものの、めちゃくちゃな構成であり、整えるためにいくつか大幅な削除が必要だった(実際出版までには6万6,000語あまりが削除された)[注 12][68]。それでも、数社から出版を断られていたウルフは、作品を丁寧に読み込んでくれたパーキンズに感謝して手直しに同意した[68]。出版は翌年1月に正式決定し、ウルフはこの吉報を、ボイドへ原稿を持ち込んだ舞台装置家で当時パートナー兼パトロンだったアリーン・バーンスタイン英語版に伝えた[68]。編集の途中で作品名は『天使よ故郷を見よ英語版』に変更され[注 13]、1929年9月に出版された[72]。ウルフはパーキンズへの感謝を序文に書きたがったが、パーキンズやボイドの意見を聞き入れ、結局「A・Bへ」としてバーンスタイン宛の献辞が付けられた[注 14][68]。処女作刊行に尽力したバーンスタインに感謝していた一方、愛情が冷めていたウルフはこの関係を清算したがっていた[68]。パーキンズはウルフから相談を受けたほか、バーンスタインから手紙を受けるなどして、ウルフの死までふたりの間を取り持つことになった[74]

ウルフの作品の分量が多いのは、登場人物の心情や動作を全て再現しようとするためだったが、一方で記述の分量などバランス感覚が欠けていたので、この点をパーキンズの編集が補った[75]。ウルフはこれに深く感謝しており、第2作『時と川について英語版』(1935年)では、パーキンズ宛の献辞を付けた[76][77]。編集者が表に出るのをよしとしなかったパーキンズは、ウルフの身を切らせて削除に同意させたことなどを挙げて献呈を断ろうとしたが、結局はこれを受け入れ、幸せなことだと書き送っている[78][79][80]

また、息子を欲しがっていたパーキンズにとって、ウルフとの関係は父子のようなものだった。パーキンズは仕事と家庭生活をきっちり分けていたが、ウルフだけは例外で、何度もパーキンズ家を訪れて会食した[81]。一方ウルフの側も同じように思っていたのか、『汝再び故郷へ帰れず』中では、パーキンズがモデルのエドワーズ編集長について、次のように書き記している[82]

徐々に、フォックスの中に、亡くなった父、探し求めていた父親の姿を見いだしているようにジョージは思った。かくしてフォックスは第二の父——精神上の父——になったのである。 — トーマス・ウルフ、『汝再び故郷へ帰れず』[82]

ウルフは元から神経質な人間だったが、1935年に出した最初の短編集『死より朝へ』"From Death to Morning" が酷評を受け始めたことで、パーキンズなど周囲の人間に当たり散らすようになった[83]。パーキンズとの決裂に追い討ちを掛けたのは、1936年バーナード・デヴォート英語版が発表した非難記事だった[84]。デヴォートはこの中で、構成力も無いウルフは、パーキンズ無しでは大作家になれなかったと断定した[84][85]。1935年7月にコロラド大学で開かれた作家会議で、ウルフは自作執筆におけるパーキンズの助力を語り、これに加筆して『ある小説の物語』"The Story of a Novel"(1936年)を出版したが[86]、デヴォートはこれを以てウルフを批判したのである[85]

自らの実体験を元に『天使よ故郷を見よ』『時と川について』を書き上げたウルフは、パーキンズから聞いた話などを元に、スクリブナー社の内幕を小説に起こし始めた[87]。パーキンズの同僚だったホィーロックは、「彼は不用意な発言をする男ではなかった」が、「酔いがまわってくると、トムを授からなかった息子のように思って話をしたのだろう」と振り返っている[87]。パーキンズはこれでは会社に居られなくなると漏らし、エージェントから不用意にもこの発言を伝えられたウルフは激怒した[87][注 15]。さらに具合の悪いことに、『死より朝へ』収録の短編でモデルにされた女性が、ウルフへ慰謝料の支払いを求める訴えを起こそうとした[89]。パーキンズは彼女たちが金目当てに申し入れたに過ぎず、ウルフを執筆に専念させるため示談で穏当に解決しようと考えていた[89]。また、長年にわたって身近な人物を題材としてきたウルフには、裁判沙汰になれば名誉毀損訴訟を何件も起こされるリスクがあった[89]。しかしウルフはこの行動に対して、「スクリブナー社が自分を守ってくれなかった」と不満を抱いた[89]。この一件を機に、1936年11月12日、ウルフは契約の解除を手紙で申し入れ、スクリブナー社もそれを了承して印税を清算した[90]1937年8月、再びデヴォートのウルフ評が掲載され、本腰を入れて出版社を探し始めたウルフは、12月にハーパー・アンド・ブラザーズ英語版と契約することを決めた[91]

スクリブナー社、そしてパーキンズと袂を分かったウルフは、パーキンズとの関係に敬意を表し、彼をモデルにした小説を書くことにした[注 16]。この原稿を書いている途中で、執筆や周囲の騒乱に疲れたウルフは、そこまでの原稿をまとめてハーパーズの編集者に託し、1938年5月にアメリカ西部の旅へと出かけた[93]。ウルフは旅先のカナダバンクーバーで風邪をこじらせて重症の肺炎を発病し、シアトルサナトリウムに入院した[93][94]。その後脳の病気(脳腫瘍)が疑われたウルフは、1938年9月10日にボルティモアジョンズ・ホプキンズ大学病院へ転院し手術を受けた[94][95]。ウルフは手術の甲斐無く、結核性脳炎で9月15日に亡くなった(37歳没)[96][95]。遺言の執行人に指名されていたパーキンズはこれを引き受け、またノース・カロライナ大学英語版の『カロライナ・マガジン』へ追悼文を寄せた[97][98]。パーキンズをモデルとした部分の原稿は、1940年に『汝再び故郷に帰れず英語版』としてハーパーズから出版された[92][99]。また、1947年春、ウィリアム・B・ウィズダムが収集したウルフの資料集がハーバード大学図書館へ寄贈されたが[100]、パーキンズはこの紹介記事を『ハーバード・ライブラリー・ブレティン』"Harvard Library Bulletin" に寄せている[101][注 17]

晩年

パーキンズの晩年は、担当した作家たちに先立たれつつ、スクリブナー社での編集生活を続けるというものだった。

まず、働き過ぎと不摂生がたたったリング・ラードナーが、結核を再発させて弱り始めた[102]。ラードナーは、結核に加えて不眠症アルコール依存症などを併発し、1933年9月に亡くなった[103]トーマス・ウルフ1938年に亡くなった[95]S・S・ヴァン・ダインは、パーキンズに遺言の執行人を頼んだ数ヶ月後、心筋梗塞で亡くなった(1939年[104]。この頃、彼は愛読書の『戦争と平和』を何度も読み返している[105]1942年には、室内でも帽子を被るパーキンズの習慣を生む元となった、作家のウィル・ジェームズ英語版が亡くなった[106]1946年には、ハーバード大学の学友だったエドワード・シェルドン英語版が亡くなっている。

MGMからの契約を打ち切られ、様々な面で破滅していたフィッツジェラルドだったが、1939年には『ラスト・タイクーン』の概要をパーキンズに明かしていた[107]。ところがフィッツジェラルドは、この小説が未完のまま、1940年12月21日に、愛人シーラ・グレアムのアパートで死去した(フィッツジェラルドは、直前に彼女のアパートへ転居していた)[108]。法律的に疑義があったため、パーキンズは遺言の執行人こそ辞退したが、彼の娘スコティーが大学に通っている間の資金を手配したり、彼女の結婚式費用を支払ったりするなど支援を続けた[109][110]。パーキンズの元にはグレアムから『ラスト・タイクーン』の遺稿が届けられ、彼はエドマンド・ウィルソンに編纂を依頼してこれを出版することにした[注 18][112][113][114]

編集者としてのパーキンズは、自分が表に出ることをよしとしなかった[115]。『ザ・ニューヨーカー』紙は、ウルフの生前にパーキンズの特集記事を書かないか持ちかけたが、この意向によって話が頓挫した[115]。この企画に目敏く反応したのが批評家のマルカム・カウリーで、1944年に『ザ・ニューヨーカー』紙に掲載されたパーキンズの取材記事は、長らく影でアメリカ文学界を支えた彼の名を世間に知らしめることになった(→#発展資料)。記事のタイトル「ゆるぎなき友」は、ウルフの第2作『時と川について英語版』の献辞から引かれ、紹介文が長かったことから異例の2回に分けて発表された[77][115]

パーキンズは、自身の編集者としての直感が失われつつあることに気付いていた[116]。また、長年心に秘めていたアイデアを作家に押しつけようとすることも多かったが、ほとんど上手く行かなかった[37]。酒量が増えただけでなく、喫煙を続けたことで空咳が激しくなったり、手の震えが出たりと、身体的な衰えも見え隠れし始めた[117]。1942年頃には、妻ルイーズとの隔たりも大きくなり、パーキンズは一層仕事に打ち込むようになった[117]

編集者として有名になるにつれ、パーキンズに自作を編集してもらいたいとする作家も増え、その中には迷惑な人物も混じるようになった[118]。何故自作を出版しないのか詰る人物も、個人的な相談を持ち込む者も、自分の文学観を押しつけようとする人物もいた[118]。そんな中でもパーキンズは正気を保ち、唯一人エリザベス・レモンにだけ悩みを打ち明けた[118]

1945年2月、パーキンズはジェームズ・ジョーンズと出会った[119]。パーキンズは持ち込まれた処女作よりも、彼が手紙で明かしたプロットの方に興味を示し、これは後に『地上より永遠に英語版』(1951年)として出版された[119]。この作品の初稿を受け取った1946年末、咳が激しくなったり手が麻痺したりと、パーキンズの体調は更に悪化した[119]。晩年のパーキンズは、ウルフの原稿に根気よく付き合ったような精力を欠き、丁寧な編集が出来なくなっていた[120]

1947年6月、パーキンズは体調を崩して熱を出し、救急車でスタンフォード病院へ担ぎ込まれた[4]。搬送前に彼は、娘バーサに『地上より永遠に』と、アラン・ペイトンの『泣け、愛する祖国を英語版』の原稿を秘書のワイコフへ託すよう言いつけた(この2冊が彼の最後の仕事となった)[4]。入院先で肋膜炎肺炎を併発していることが分かったパーキンズは、翌日の6月17日午前5時に妻ルイーズに看取られて亡くなった[4]。62歳没。

葬儀は1947年6月19日にニュー・ケイナン英語版の聖マーク教会で執り行われ、遺骸は近くのレイクヴュー墓地に葬られた[5]。彼の死を知り、マーシャ・ダヴェンポート英語版は、最新作 "East Side, West Side" をパーキンズに捧げた[5][121][122]。残された仕事は、ハーバード大学時代からの友人で同僚のジョン・ホール・ホィーロック英語版がその多くを引き受けた[5]。また遺言執行者は、長年パーキンズの秘書を務めたアーマ・ワイコフが務めた[123]

1950年、パーキンズの手紙を集め、書簡集 "Editor to Author" が出版された[3]。編纂にはジョン・ホール・ホィーロックが中心となって尽力した[124]

私生活

妻ルイーズと5人の娘

ニューヨーク・タイムズ』紙の記者として働いていた頃、パーキンズはプレインフィールドのダンス教室で一緒だったルイーズ・ソーンダースの家に足繁く訪問した[125]。ルイーズの実家もプレインフィールドの名家であり、父ウィリアム・ローレンス([[:en:William Lawrence Saunders |英語版]])は、ウッドロー・ウィルソンの友人だったほか、プレインフィールドの市長も2期務めていた[126][125]。活動的なルイーズはアマチュア女優として活動する傍ら、自ら戯曲も書いていて地元では有名な女性だった[125]。派手好みのルイーズは、夫の実家であるパーキンズ家・エヴァーツ家ではあまり評判が良くなく、むしろ見下されていたという[127]

1910年早春、スクリブナー社への就職が決まったパーキンズは、ルイーズと婚約した[8]。2人は1910年12月31日に、プレインフィールドのホリー・クロス・エピスコパル教会で結婚式を挙げた[8]。2人はハネムーンの旅行先に、ニューハンプシャー州コーニッシュ英語版を選んだ[8]。ハネムーンから戻った2人は、ルイーズの父が購入した、ノース・プレインフィールド英語版、マーサー通り95番地の家で新婚生活をスタートした[8]。左耳の耳硬化症から来る難聴を患っていたパーキンズは、義父から結婚祝いに送られた金時計を、難聴の進行度を測るのに使ったという[128]。夫妻は自尊心の高さから何度もぶつかったが、それでも離婚が話に上がることは無かった[129]

2人の間には5人の娘が生まれた。パーキンズ自身は息子が生まれるのを切望していたが、その願いは叶わなかった[注 19][61][131]1911年に長女バーサ、1913年に次女エリザベス(愛称ジッピー[注 20])が生まれている[30]。2人の娘は、それぞれルイーズとマックスの母から名前を取って命名された[30]。さらに2年後の1915年には三女ルイーズ・エルヴィーア(愛称はペギーほか)が生まれた[注 21][30]

1916年、パーキンズは騎兵隊の予備役に志願し、同郷の兵士で組まれた中隊でメキシコ国境警備へ配備された[30]。3ヶ月に及んだ彼の軍役中、妻ルイーズは妹夫妻から、父がくれた家が大きすぎるので交換しないかと持ちかけられた[30]。パーキンズ家はこれを受け入れ、パーキンズの帰還後にロックビュー街112番地へ引っ越した[30]。これから2年後の1918年、パーキンズ家に四女ジェーンが生まれた[132]。また1924年に一家はコネチカット州ニュー・ケイナン英語版へ引っ越し[133]、翌1925年には末娘ナンシー・ゴールトが生まれている[134]。5人の娘はいずれもパーキンズ似であった[135]。またパーキンズは、娘たちに毎晩本を読み聞かせたり、家族と離れている時には手紙を送るなど、まめな父親であった[10][136]

ルイーズはパーキンズの希望で結婚と同時に女優を辞めたものの、その活動力は児童演劇の脚本作りやアマチュア劇団の演出へ活かされた[137]。1920年代半ばには以前よりも精力的に活動するようになり、スクリブナー社から児童劇の脚本を出版したり、『ハーパーズ』や『スクリブナーズ』に短編が掲載されたりした[注 22]

1933年、長女バーサを嫁に出したパーキンズ家は、ルイーズの父親がかつて住んでいたマンハッタンの家へと移り住んだ[139]。隣家には女優のキャサリン・ヘプバーンが住んでいた[140][141]。マンハッタンへの転居は都会生活に憧れていたルイーズが説得したものだったが、パーキンズ自身も娘の教育のため提案に同意した[139]。転居後ルイーズはますます演劇に打ち込むようになったものの、結局成功することはなかった[129]。次女ジッピーは1936年9月に結婚した[142]

1938年、夫婦は再びニュー・ケイナンに居を構えることにした[143]。これと同じ時期、ルイーズは修道女の訪問を受けてカトリックに傾倒したが、パーキンズはこれを苦々しく思い、自身の改宗には取り合わなかった[143]

何かとぶつかることが多かった夫妻だが、1947年にパーキンズが死んだ後、ルイーズの心にはぽっかり穴が空いた。教会はますます心の拠り所となり、ルイーズは友人に修道院へ入りたいなどと漏らしている[6]。また同時に飲酒癖も嵩じた[6]1965年2月21日、彼女は住んでいた家の離れで失火事故を起こし、重度の熱傷を負って同日中に亡くなった[6][144]

エリザベス・レモンの存在

パーキンズより8歳年下のエリザベス・レモンは彼が最も親しく思っていた友人で、2人は1922年4月に知り合った[145][146]。これは、レモンが毎春の恒例にしていた北部州での逗留先に、プレインフィールドを選んだのがきっかけである[145]。彼女はヴァージニア州ボルティモアにゆかりがある旧家の出身で、ボルティモアで社交界デビューした[145]

パーキンズはレモンの姿に強く惹かれたが、これは飽くまでプラトニックな崇敬の念であり、夫妻の仲を脅かすような不倫関係に陥ることはなかった[145]。パーキンズはレモンを心のよりどころと感じつつも、自分とレモンが深い仲になることは自律した[145]。2人はパーキンズが亡くなるまでの25年間文通を続けたが、その一方で彼がレモンの家を訪ねたのはわずかに2回であった[145]。レモンが大切に保管していたパーキンズの手紙は、折々の心中を綴りつつレモンを賛美するもので、結果として唯一残された彼の手記となった(なおこの手紙は、後に書簡集としてまとめられている)[145][146]。パーキンズは、妻ルイーズがカトリックに傾倒した時期など、家庭や仕事上で悩みの多い時期に、レモンと数多く文通した[147]。レモンはヴァージニア州ミドルバーグ英語版に住み[127]、生涯独身を通した[148]

逸話

パーキンズは室内でも常に帽子を被っていることで有名だった[61][149][150][151]。これは元々、『スクリブナーズ・マガジン英語版』に寄稿していた作家ウィル・ジェームズ英語版テンガロンハットをパーキンズが気に入り、ジェームズが似たようなものを見繕って送ったのがきっかけだった[149]。その内帽子は7号サイズで灰色のソフト帽に代わったが、室内でも帽子を被る習慣はパーキンズの奇癖として有名になるほどだった[149]。その理由について、彼の秘書を務めていたアーマ・ワイコフは、会社の下層階にあったスクリブナー書店の店員と間違われないようにするためだったと語っている[149]。ただし自身では、急な来客時に外出するところだったと装って逃れるため、などとしていた[149]

またパーキンズは、編集作業中に座りっぱなしになるのを防ごうと、演台のような高くて広々とした机を特注し、立ちながらそれに向かって原稿を読むのを常とした[152]。昼には、オフィスから歩いて43丁目46番地のレストラン「チェリオ」に行くことを常としており、店の一角にはパーキンズ専用席が用意されていた[153][154]。お気に入りのメニューはホロホロ鳥胸肉の蒸し焼きで、禁酒法撤廃以来は、昼のメニューにマティーニを付け加えた[153]

彼自身は編集者でありながら、しばしばスペルを間違うことでも有名だった。長年文通を続けたエリザベス・レモンへの最初の手紙では、彼女の名前を間違ってスペリングしている[145]。また、F・スコット・フィッツジェラルドが最初に送った作品を『ロマンティック・エゴスト』と勘違いしている(正しくは『エゴティスト』)[39][41]

自分の担当する作家が行き詰まっていると感じると、パーキンズは本を送るのが常だった[44]。本を送られた作家の一人、ジェームズ・ジョーンズは、彼の送ってくる本が「相手の気持ちを引き立てるような」ものだったと述べている[44]。また彼自身は、トルストイの『戦争と平和』を愛読し、しばしば娘たちに読み聞かせた[155]。一方でシェイクスピアには触れることがなく、編集生活を通じて自分の無知を恥じていたという[156]

手慰みに悪戯描きをすることも好きで、よくナポレオンの横顔をスケッチしていたという[157]

パーキンズが担当した作家たち

作家たちの顔ぶれ

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ a b パーキンズは、ハーバード大学在学中に、元々使っていなかったファーストネームの「ウィリアム」を捨てた[1]。このため本記事では、フルネームを「マックスウェル・エヴァーツ・パーキンズ」として扱う。
  2. ^ ウィンザーにはウィリアム・マクスウェル・エヴァーツが建てた、一族団欒用の別荘が複数存在した[15]。パーキンズはここで兄弟や従兄弟たちと過ごしたほか、結婚してからも娘たちを連れてウィンザーを訪れており、夏は毎年のようにここで過ごしていた[15]。うちひとつは、パーキンズの母エリザベスを経てパーキンズたち兄弟の手に渡り、更にパーキンズの長女バーサが引き取った[10]。現在この建物は宿泊施設として使われており、図書室にはパーキンズと娘たちの間で交わされた手紙も残されている[10]
  3. ^ この伯父もハーバード大学の同窓生であった。パーキンズの在学当時、伯父はケンブリッジ、クライスツ・チャーチの教区牧師 (Vicarを務めていた[1]
  4. ^ ホィーロックはまた、スクリブナー社の編集者としてパーキンズと共に働いた[21]。パーキンズは彼を、自分の右腕として深く信頼していた[22]
  5. ^ 1919年の879ドルは2023年の15,447ドル、翌1920年の18,850ドルは2023年の286,695ドルに相当する[45]
  6. ^ 因みにこの作品の版権は、後にスクリブナー社に買い取られている[52]
  7. ^ ヘミングウェイはこの時に限らず、突然思い立って出国したり、取材として数ヶ月単位で海外生活をしたり、という生活を行っていた。例えば『誰がために鐘は鳴る』はそんな取材経験を活かして書かれた小説である。
  8. ^ 『春の奔流』は、フィッツジェラルドもパーキンズ宛の手紙で指摘するように[56]シャーウッド・アンダーソンの作品を風刺したものだったが、ボニ&リヴライト社にとってアンダーソンは重要作家の1人であったため、刊行が拒否された[57]。永岡は、この小説の第1部のタイトル「赤と黒の笑い」が、アンダーソンの『黒い笑い英語版』のパロディであることを指摘している[57]。この小説の出版にはハーコート社英語版・クノッフ社 (Knopf Publishing Groupが手を挙げていたことがフィッツジェラルドの手紙に記されている[56][57]
  9. ^ 後年のふたりは、ヘミングウェイがフィッツジェラルドの作品へ否定的な評価をするなど何かとぶつかることが多かったが、パーキンズはそんな彼らの間を取り持つ羽目になっている[58]
  10. ^ パーキンズとウルフの関係を元にした映画『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』の日本版公式ホームページ・予告では、パーキンズが『老人と海』の編集を行ったように書かれている[61][62]。この作品は確かにスクリブナー社から出版されたが、出版は1952年とパーキンズの死後であるため、この記述は正しくない[63]。この作品にはパーキンズ宛の献辞が付けられた[64][65]
  11. ^ 文芸評論家アーネスト・ボイドの妻で、ヨーロッパで活動する作家のエージェント業を行っていた[68]
  12. ^ 削除された語数については、旧来9万語とされていたが[68][70]、現在では6万語から6万6,000語あまりというのが定説である[69][71]
  13. ^ これはジョン・ミルトンの『リシダス英語版』から引用されたものである[68]
  14. ^ 天使が持つ巻物の中に、"To A・B" として献辞が書かれている[73]。なおこれには、ジョン・ダンの『告別・窓に刻んだわが名前』から引用があり、バーンスタインとの別れを望んでいたウルフが、自らの気持ちを暗示している[68]。またURL先に掲載されているスキャンの底本には、パーキンズが死の2日前に書き上げ[73]、彼の机から死後発見された[6]、ハーバード大学のウルフコレクションへの紹介記事が転載されている[73]
  15. ^ しかしこの発言についてパーキンズは、ウルフを型に嵌めてしまうくらいなら彼のため会社を辞めても構わない、という趣旨のものだったと弁解している[88]。これに対しウルフは、パーキンズの編集能力は会社に不可欠で、自分のせいで辞職などさせられない、と書き送っている[88]
  16. ^ 彼をモデルとした人物は「フォックスホール・モートン・エドワーズ」(通称フォックス)として登場する[92][93]
  17. ^ この記事はパーキンズが死の2日前に書き上げ[73]、彼の机から死後発見された[6]。全文はリンク先のアーカイブで読むことができる[73]
  18. ^ なおウィルソンは、プリンストン大学時代からのフィッツジェラルドの友人であった[111]
  19. ^ そんなパーキンズに対し、息子ばかり生まれていて娘を欲しがっていたヘミングウェイは、もし女の子を作る秘訣を教えてくれるなら、自分も男の子を作る秘訣を教えようと茶化している[130]
  20. ^ 姉バーサが、回らない舌で妹を呼んだのが愛称となった[30]
  21. ^ 彼女はペギーのほか、ペグ、ペゴティーなどの愛称で呼ばれた[4]
  22. ^ 児童劇の脚本は、妻のやる気を高めようとパーキンズが持ちかけたものだが、『スクリブナーズ』への短編掲載は、夫の口添え無しに彼女の実力のみで成し遂げた[138]
  23. ^ 1932年ジョンズ・ホプキンズ大学病院付属のヘンリー・フィップス精神診療所で治療を受けていたゼルダは、小説の執筆を病からの回復の助けとした[158]。スコットとの夫婦生活などを散りばめた美文調の作品を、彼女は夫の編集者だったパーキンズへ持ち込んだ[158]。作品は『ワルツは私と英語版』として1932年10月に出版されたが、ゼルダが原稿に手を入れすぎてスペルミスや意味不明な箇所がそのまま出版されることになる[158][159]。交通事故に遭った娘バーサのことで頭がいっぱいだったパーキンズは出版準備に身が入らず、そんな事情もあって作品は商業的に失敗した[159]
  24. ^ 日本人特派員を主人公にした『ミスター・モト』シリーズで人気を博した作家[160]。後にスクリブナー社と袂を分かったが、小説 "The Late George Apley" (enピューリッツァー賞小説部門を受賞するなどベストセラー作家となった[161]
  25. ^ 先述の通り、室内でも帽子を被って生活するというパーキンズの習慣を作る元となった人物。
  26. ^ 自信も刑事担当の弁護士で、タット・アンド・タット法律事務所を舞台にしたシリーズで有名となった作家[162]
  27. ^ 南北戦争時の南軍司令官ロバート・E・リーの伝記を書いた人物。パーキンズの同僚エドワード・バーリンゲームが編集者として担当していたが、彼の他界でパーキンズが仕事を引き継いだ[145]。後にリー伝でピューリッツァー賞 伝記部門を獲得し、その編集で功績のあったウォーレス・メイヤーが編集業を引き継いでワシントン伝へとりかかったが、最終7巻が未完のまま死去した[163]
  28. ^ フィッツジェラルドの友人でもあった文芸評論家で、後に彼の遺作『ラスト・タイクーン』を編纂して発表している[114]
  29. ^ 後にスクリブナー社と袂を分かち、ヴァイキング社から出版することになる[165]。代表作は『タバコ・ロード』や『神の小さな土地英語版』など。
  30. ^ ヘミングウェイが紹介した作家のひとりだったが、パーキンズに明かした計画とは裏腹に、結局回想録の一章しか渡されなかった[168]
  31. ^ モーツァルト伝で文壇にデビューした人物で、アルマ・グルックの娘[169]。後にパーキンズの勧めで小説も書き始め、パーキンズの書簡集 "Editor to Author" が1987年に再版された際には、彼女が序文を寄せている[170]
  32. ^ 作家エドワード・エヴェレット・ヘイル英語版の孫娘で、後にオー・ヘンリー賞を獲得している[171]
  33. ^ アレン・テイトの妻で、夫婦でスクリブナー社から出版した[172]。後にオー・ヘンリー賞を受賞している。
  34. ^ セオドア・ローズヴェルトの長女で、回想録『充実した時』がベストセラーとなった[173]
  35. ^ 代表作に『子鹿物語』を持つ作家。この作品は処女作 "South Moon Under" の刊行後、彼女の描写を気に入ったパーキンズが、子どもを主軸にした作品を書くよう勧めて作られたものである[174]。彼女は後にこの作品でピューリッツァー賞を獲得した[175]
  36. ^ 代表作『ポンペイズ・ヘッドからの情景英語版』には、パーキンズ自身も登場している[177]
  37. ^ 代表作『時の大砲』は、北部版『風と共に去りぬ』として絶賛されベストセラーになった[180]
  38. ^ 元々ボニ&リヴライト社英語版で長年出版していたが、ホレス・リヴライト英語版社長の死で会社が倒産したことから、パーキンズの誘いを受けてスクリブナー社に移った[182]。スクリブナー社では目立った作品を出版できず、パーキンズの勧めで書いていた自伝が未完のまま1941年に亡くなった[182]
  39. ^ ヘミングウェイの3番目の妻だった人物[185]。彼女は元々『コリアーズ英語版』の特派員を務めていた[186]
  40. ^ ウクライナ出身の作家で、反ソ小説『第五の封印』"The Fifth Seal" をスクリブナー社から出版した[187]
  41. ^ 俳優ジョン・バリモアの元妻で、「マイケル・ストレンジ」の筆名で詩人として活動した[189]
  42. ^ 南アフリカ出身の作家で、『泣け、愛する祖国を英語版』をスクリブナー社から出版した[120]

出典

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参考文献

発展資料

外部リンク