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2016年11月15日 (火) 19:01時点における版
池田 大作 いけだ だいさく | |
---|---|
生年月日 | 1928年1月2日(96歳) |
出生地 | 日本東京都大田区 |
出身校 | 富士短期大学 |
現職 |
創価学会名誉会長 創価学会インタナショナル会長 |
称号 |
創価大学名誉博士・名誉教授 準学士(富士短期大学) マハトマ・ガンディー世界平和賞 |
配偶者 | 妻・池田香峯子 |
親族 |
長男・池田博正 二男・(一般人、故人) 三男・池田尊弘 |
在任期間 | 1960年5月3日 - 1979年4月24日 |
池田 大作(いけだ だいさく、1928年1月2日 - )は、日本の宗教家、作家。宗教法人・創価学会の名誉会長、SGI(創価学会インタナショナル)会長。 山本 伸一(やまもと しんいち)、法悟空のペンネームで作家活動もしている。
来歴
1949年まで
- 3月 尋常小学校卒業の後、兄が勤めていた「新潟鐵工所」に就職[3]。
- 8月 肋膜炎を患い茨城県の結核療養所へ入院するための順番待ちをしていた中で終戦を迎える[4]。
- 9月 新橋にある「昭文堂印刷」で文選工をする傍ら、私立の「東洋商業高校」(現、東洋高等学校)に編入[1]。
- 3月、東洋商業学校を卒業。
- 8月14日 小学校時代の同級生の女性から「仏教や哲学のいい話がある」と誘われ座談会に出席。戸田城聖の御書講義、小平芳平の折伏を受け、入信を決意、8月24日、創価学会に入信手続きを行なう[8]。入信したことで、家からは勘当状態になる[10]。→「創価学会 § 1928年 - 1949年」も参照
- 「大世学院」(後の東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。
1950年代
- 10月 「大蔵商事」(現:「日章」)に移動[11]。
- 7月4日 参院大阪選挙区の補欠選挙において、自分の部下にあいりん地区の日雇い労働者達に候補者名の氏名が入ったタバコや現金を渡すようを指示したとして公職選挙法違反(買収)の疑いで逮捕、大阪東警察署と大阪拘置所に勾留。→詳細は「大阪事件_(創価学会) § 概要」を参照
- 7月29日 創価学会幹部45人と共に起訴される。→詳細は「大阪事件_(創価学会) § 創価学会の対応」を参照後に検察官より禁固10か月の求刑を受ける[12]。
1960年代
- 5月3日 創価学会第3代会長に就任。戸田の七回忌までに300万世帯の弘教を掲げる[14]→「折伏大行進 § 歴史」も参照
- 5月3日 第27回本部総会において、政党の創設と衆議院進出、ならびに正本堂の建立・寄進の計画を発表。
- 宗門から法華講総講頭に任命される。
- 11月17日 「公明党」を結成。結党宣言で、日蓮の『立正安国論』を引用し、「『王仏冥合』・『仏法民主主義』を基本理念とする」旨を謳う。
1970年代
- 創価学会と公明党に対する批判本に対して、創価学会員、公明党議員らが出版・流通を妨害したとされる「言論出版妨害事件」に関し、野党議員が池田の証人喚問を要請[15]。
- 5月3日 創価学会第33回本部総会において、「言論妨害という意図はまったくなかったが、結果として、妨害と受けとられ、関係者に圧力を感じさせ、世間にもご迷惑をかけてしまったことは、まことに申し訳ないと残念に思っております」[16]と謝罪、公明党と創価学会の分離を約束。→詳細は「言論出版妨害事件 § 池田会長の公式謝罪」を参照
- 9月 ソ連を訪問し、アレクセイ・コスイギン首相と会見。
- 10月29日 創価学会の代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任。
- 11月 『中国の人間革命』(毎日新聞社刊)を出版
- 12月29日 松本清張の仲介により、日本共産党の宮本顕治委員長と松本の自宅で会談。創価学会と日本共産党とが互いの存在を認め、相互不干渉を約束する、いわゆる「創共協定」を結ぶ(発表は約7ヶ月後の翌1975年7月)。→詳細は「日本共産党と創価学会との合意についての協定」を参照
- 創価学会本部総会で、「七つの鐘」構想を発表。1990年までに広宣流布の総仕上げを目標に掲げた。
- 池田と創価学会員との不倫関係を報じた月刊誌『月刊ペン』に対し、名誉毀損に当たるとして創価学会及び相手とされた創価学会員らと共に月刊ペン社の発行人と編集長隈部大蔵を刑事告訴。→詳細は「月刊ペン事件」を参照
- 1月15日 第9回教学部大会で「仏教史観を語る」と題する講演を行う。創価学会独自の経本を作る。(「昭和52年路線」)これに反発した日蓮正宗内の若手僧侶が創価学会の教義逸脱を正すという活動を始める。→詳細は「創価学会 § 昭和52年路線」を参照→「正信会 § 結成までの経緯」、および「日達 § 日達と創価学会の軋轢」も参照
- 6月30日 「教学上の基本問題について」と題し、教義逸脱を是正することを『聖教新聞』紙上で表明。
- 9月3日 『聖教新聞』が本尊模刻の事実を認める記事を掲載[1]。創価学会側は本尊の謹刻について事態の収拾のために他の7体の本尊は総本山へ納められることとなった。
- 11月7日 本尊謹刻などについての院達を不服とする一部宗内を治めるため、創価学会創立48周年記念登山代表幹部会として、2千人の創価学会幹部、全国の教師と共に大石寺に登山を行い、本尊模刻を初めとする教義逸脱を謝罪(おわび登山)[1]。
- 4月24日 日蓮正宗との問題で創価学会会長を引責辞任。新しく創設したポストである名誉会長に就任。終身制だった会長職を5年の任期と変更、後任の会長には北条浩が就任。→詳細は「創価学会 § 名誉会長と歴代会長」を参照
- 4月26日 法華講総講頭を引責辞任。他の法華講と同様に日蓮正宗の監督を受けることを約束。日蓮正宗の管長日達より、法華講名誉総講頭の辞令をもらう。
- 5月3日 日蓮正宗の法主、日達が池田名誉会長ら創価学会幹部の反省を受け入れ、問題の収束を宣言。
1980年代
- 1月25日 「SGIの日」記念提言を発表(これ以後、毎年発表)。
- 6月 ルーマニアを訪問、当時の大統領だったニコラエ・チャウシェスクと会談。「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることがよく、理解できました」との賛辞を贈る[19]。
1990年代
- 12月13日 日蓮正宗より創価学会に対して池田のスピーチの真意を問いただしたが「出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができない」と創価学会は拒否。
- 12月27日 日蓮正宗は法華講総講頭に任期制を導入。これにより任期終了と共に池田が法華講総講頭の資格を自動的に失う。
- 11月28日 創価学会とSGIが日蓮正宗から破門される。→詳細は「創価学会 § 対立が高じ破門となる」、および「日顕 § 創価学会破門」を参照
- 8月11日 池田自身を含む全創価学会員が日蓮正宗から信徒除名処分。
- 日寛の本尊を創価学会が会員に配布。→詳細は「創価学会 § 本尊・本仏」を参照
- 8月8日 第69回創価学会本部幹部会において、細川連立政権の内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得したと語ったことが、国会で問題となる[20]当時創価学会会長であった秋谷栄之助は国会で、「当日の新聞の閣僚予想記事の内容を話したのであって、党から何か事前に連絡や相談があったのではない」という旨を説明。
- 9月24日 アメリカのハーバード大学で「21世紀文明と大乗仏教」と題して講演。
- 12月18日 オウム真理教が池田殺害を計画。創価大学キャンパス内でサリンを噴霧。池田は被災を免れるが、牙城会員数人が被災。新実もサリンを吸い込み一時重体に陥る。→詳細は「池田大作サリン襲撃未遂事件」を参照→「新実智光 § オウム真理教での略歴」も参照
- 2月11日 「戸田記念国際平和研究所」を設立[21]。
- 6月、女性信者が過去数回にわたり池田から強姦を受けたという訴えを起こされる。→詳細は「池田大作に対する訴権の濫用」を参照
- 12月1日 日蓮正宗の一部改正に伴い、創価学会員の日蓮正宗の檀信徒資格が喪失。→詳細は「除名 § 宗門の除名」を参照
- 6月4日 フィリピンのジョセフ・エストラーダ大統領と会談。
2000年代
- 中華人民共和国首相温家宝と会談
- 3月22日 元ソ連大統領のミハイル・ゴルバチョフと会談。
- 12月 アメリカの世界的経済誌『フォーブス』(Forbes、2004年12月27日号)は、2004年9月6日号に「先生の世界」(「Sensei's World」)と題して、池田及び創価学会に関する記事を特集し掲載。
- 5月の本部幹部会以降、体調不良から創価学会内の公式行事を全て欠席、現在へ至る。そのため重病説や死亡説が一部マスメディアで取り上げられた[25]。
人物
執筆
随筆、小説、対談集などの他、仏法哲学の解説書、子ども向けの童話なども執筆している。また、写真家・詩人としても活動している。
対談・講演
国家指導者を初め、教育者、文学者、科学者、芸術家、社会活動家などと会見を多数行ない、発刊した対談集は50にも上る。特に印象に残った人物として周恩来を挙げている。「名優のごとく、言葉がわかりやすく、しかも深い。鋭さと温かさがある。」と評している。また、海外の大学・学術機関で講演を多数行なっている。
海外の大学・学術機関での講演回数
- 中国7回(香港1回を含む)
- アメリカ6回
- ロシア3回
- メキシコ、ブルガリア、ルーマニア、フランス、アルゼンチン、マカオ、フィリピン、インド、トルコ、ブラジル、イタリア、スペイン、ネパール、キューバ各1回
顕彰
国家勲章、大学からの名誉学位、国連や学術機関からの表彰など、多くの顕彰を受けており、授賞のたびに、創価学会の機関紙『聖教新聞』の一面を飾る事が多い。[26][27]。
海外では、モスクワ大学、グラスゴー大学、ボローニャ大学、フランス学士院、ナイロビ大学等より「名誉博士号」「名誉教授称号」を授与されている。今では、池田が高齢のため学長や一行がかけつけ、特例として日本で現地の形式に則った、授賞式が行われるようになった。
池田は今まで、自身が創設した創価大学からは1974年に名誉教授を、1983年11月に名誉博士を授与されている[28]。
地方自治体からは、静岡県の富士宮市の名誉市民となっている他、第2代会長、戸田城聖の故郷の北海道の厚田村(現「石狩市」)から「栄誉村民章」(1977年)を授与されている[29]。2009年には大阪府高槻市から「国際文化交流貢献賞」が送られた[30]。池田は オーストリアの政治学者、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーとの対談において対談の中で「ノーベル平和賞」について、「そのような栄誉はほしくもありません。また下さるといっても、受けることもありません。そのような人間が世界に一人くらい、いてもいいでしょう」と語っている[31]。永年の貢献に対し1995年マハトマ・ガンディー民衆福祉財団(Mahatma Gandhi People's Welfare Trust, India)、正式名称、マダヴィ・マンディラム民衆福祉財団(The Madhavi Mandiram Loka Seva Trust)よりガンディー平和賞が贈られている。1988年「国際理解のためのG・ラマチャンドラン賞」を受賞[32]。この他数々の賞(国連平和賞(1983年)、国連栄誉表彰(1988年)、ラウレアナ・ロサレス 教育・人道賞(1989年) (フィリピンにあるキャピトル大学から受賞)平和貢献・国連事務総長表彰(1989年)を授与されている。
2015年にはノーベル平和賞候補に挙がっているとしてCNNに[33]報じられる。
中国との関係
これまで10度訪中し、北京、西安、鄭州、上海、杭州、広州などを訪れている。また、毛沢東、周恩来、鄧小平、江沢民、胡錦濤、温家宝といった政府指導者をはじめとする中国各界の要人と会見するなど、親密な関係にある。
中国首脳陣との会談
1968年9月8日 「日中国交正常化提言」を発表。
1974年5月30日 中国の招聘により初訪中。 李先念副総理と会見。[34]
1974年12月5日 2度目の訪中。鄧小平副総理と会見。その直後、病気療養中の周恩来総理の強い意志により、周恩来と池田との会見が行われる。
中国人学生との交流
1984年、「中華全国青年連合会(全青連)」と創価学会青年部との交流が始まる。池田自身が全青連の訪日団と会見。また、創価大学は、1975年に日本で初めて、中国から日本への正式な留学生を受け入れた。
中国の大学との文化交流
北京大学や中国社会科学院などで記念講演を行っている。また、創価大学との教員・学生の交換などが行われている。さらに北京大学では「池田大作研究会」等の研究機関が設立されている。
中国との文化交流
1967年に北京芸術団が、民主音楽協会で公演。東京富士美術館で中国敦煌展、北京・故宮博物院名宝展を開催。
政見
その他の政見
- 安全保障
- 「憲法改正の論議はいいが、憲法第9条だけは絶対に変えてはいけない。」との見解を持っている[36]。日本は国連の常任理事国入りを望んでいるが、安全保障理事会の機軸である集団的自衛権という考えと、それを禁じる日本の憲法との間には矛盾があるので、「国際連合平和維持活動」(PKO)に参加するために、自衛隊とは別個の組織を作るというのが正しい道であろうと思う」との見解を示した(1991年・第16回「SGIの日」記念提言)。1991年の湾岸戦争の直前には、5人の識者と共に、「戦争回避のための『緊急アピール』」をイラクのフセイン大統領宛に送った。しかし、2003年「イラク戦争」の開戦が迫っていた1月26日『聖教新聞』紙上で「軍事力を全否定するということは(中略)政治の場でのオプションとしては、必ずしも現実的とはいえない」、「武力を伴った緊急対応も必要とされるかもしれない。そうした毅然たる姿勢がテロへの抑止効果をもたらすという側面を全く否定するつもりはない」との見解を示した。
- 選挙
- 1999年 SGI(創価学会インタナショナル)の日(1月25日)付の『聖教新聞』で首相公選制を提言。
- 多様化した日本社会には、幅広い選択できるという理由で、中選挙区制が一番合っているとしている。
- 教育
- 『朝日新聞』(2001年5月23日付)の「私の視点」というコラムで、「教育基本法」の見直しについて、「拙速は慎むべきである」、「『教育勅語』に盛られたような具体的な徳目は、基本法の性格になじまないと思う。法文化されれば、必然的に権威主義的な色彩を帯びてしまう」と述べている。
日本と韓国・朝鮮に関する見解
韓国SGIの機関紙和光新聞が池田の日本と韓国・朝鮮に関する見解を数度にわたり掲載している。
和光新聞のコラムに掲載された歴史観
- 「貴国(韓国)は、まことに日本に“文化の師匠”の国で、教育でも兄さんの国です。私は心深い所から尊敬しています。それにもかかわらず、……貴国を侵略した日本はいくら愚かだったか。」[37]。
- 豊臣秀吉の朝鮮出兵を、朝鮮から仏教を初め、様々な文化的恩恵を受けたことを踏みにじる侵略だとして強く非難[38]。
- 日本は韓国と友情を結んで、韓国を尊敬して、韓国の心を学べばこそ平和と、繁栄の方向に進むことができる。しかし、韓国に対して傲慢になったら日本は必ず衰退して滅亡する。これが万代にかけて生命に刻まなければならない歴史観でまた人間の道だ」[39]。
- 「韓国が日本文化の“大恩である”ことは言うまでもない。仏教を含めてすべてのものに恩恵をこうむったと言っても過言ではない。(日本は)どうして“大恩である”国を裏切っただろうか」[40]。
神格化の否定
『聖教新聞』の紙上で、池田は「代々の会長を神格化などしてはなりません」「私などを絶対視してはならない」「私自身、罪業深き、過ち多き身であることをよく知っております」と創価学会会長は指導者であって、仏ではないことを明言している[41]。 1983年10月31日、元創価学会幹部の山崎正友の裁判に証人として出廷した際に、「一部の同志が調子に乗って自分を美化したのでは」という旨を述べている。
事件やデマ
選挙違反容疑は無罪
創価学会が池田体制へ移行する前より学会員による選挙違反が繰り返し行われ逮捕者も出している現状がある。池田自身も参議院大阪府選挙区の補欠選挙をめぐって、組織ぐるみでの選挙違反事件を起こし個別訪問と買収の容疑で逮捕されている。池田が拘留段階で個別訪問や買収を指示したと容疑を認め自白、署名した[42]が、裁判では自白の信用性が裁判の争点となり
裁判では無罪判決が下りた。自民党は1996年の衆議院予算委員会で、「創価学会の選挙運動への関与を究明する」という名目で池田の証人喚問を要求した[43]。
信者暴行というデマ
1996年、北海道創価学会の幹部だった女性が、「過去数回にわたり創価学会名誉会長池田大作から暴行された」との告発手記を『週刊新潮』に発表した後、女性とその夫が池田を相手取り損害賠償請求の訴えを起こした。内容は全くのデマであり、訴訟も金銭目当てであるとされた。判決も「訴権の濫用による却下」という前代未聞の判決が下る。
池田大作暗殺計画
池田は過去に暗殺計画をかけられたことがある。
藤原行正による暗殺計画
1988年、弟弟子であった藤原行正が池田大作を暗殺し自分の息子を創価学会の会長に据える計画を立てる。実際に藤原は暴力団関係者と密会し暗殺は実行寸前にまで至ったが金銭トラブルから契約は頓挫し暗殺計画が発覚した [44][45]。その後藤原は『池田大作の素顔』という暴露本を出版し池田に対抗した。
オウム真理教による暗殺計画
1990年代に創価学会とオウム真理教との間で信者の奪い合い(改宗合戦)が横行し多数のオウム信者が創価学会に改宗した。そんな中1993年12月18日に池田が創価大学での演奏会に出席するという情報を手に入れたオウム真理教はかねてより仏敵と称していた池田大作をサリンで殺害しようと暗殺計画を実行した[46]。しかし会館の警備を担当していた創価学会員に怪しまれ計画はとん挫、池田に被害はなく創価学会員数名が負傷するだけに終わった。しかし池田の行動予定という情報が漏洩した事態を重く見た創価学会は以後情報管理を徹底するようになった。
評価
関係する人物や団体による称賛
- 安倍晋太郎 1958年、大石寺の大講堂完成記念の祝典に岸信介の代理で安倍晋太郎が出席して以来、何度も面会したという。「きれいな心で、学会のこと、世界のこと、人間と社会の話などを、私と語り合うことを、楽しみにしてくださっていたようである」と池田は述べている[47]。
- 冬柴鐵三(公明党元幹事長、国土交通大臣):「人生で最も影響を受けた人物」「あらゆる面で影響を受けた」[48]。
- 遠藤乙彦(元外交官、公明党所属の国会議員):「人生に関するどんなことでも相談して、教えを受けられる先生」、「池田先生の思想・仏教に基づいた教えに耳を傾ければ、もっと(世界の)問題が解決していくでしょう」[49]。
批判
- 田中角栄(元首相、自民党幹事長経験者):秘書の早坂茂三によれば「池田大作はしなやかな鋼だ。煮ても焼いても食えない。公明党は法華さんの太鼓を叩くヒトラーユーゲントだ」[2][50]。
- 石原慎太郎:1999年東京都知事選挙を直前に控えた時期に、池田大作に対する人物評価を尋ねたアンケートに「一言で表現すれば、『悪しき天才、巨大な俗物』。」『週刊文春』 平成11年3月25日号。
- ニコラエ・チャウシェスク:Jurnalul National(ルーマニア国営新聞)で池田を絶対的な権力を持っているよう他人へ見せかけるだけで強きものには諂い、弱きものには傲慢な態度で臨む小悪党だと批判[51]。
批判する立場になったまたは袂を分けた元幹部
- 龍年光(元創価学会幹部・元公明政治連盟書記長・元公明党東京都議会議員)[52]
- 原島嵩(元創価学会教学部長)[18]
- 山崎正友(元創価学会副理事長・元顧問弁護士)[53]
- 竹入義勝(公明党元委員長)[54]
- 矢野絢也(公明党元委員長)[55]
- 福島源次郎(元創価学会副会長)[56]
- 石田次男(元公明党参議院議員)[57]
- 大橋敏雄(元公明党衆議院議員)[58]
- 桑原春蔵(元公明党大田区区議、創価学会副会長)「池田が政治権力を握って天下を取るといった姿勢は、もはや信仰者ではない。信仰を利用した魔物」[59]
- 後呂雅巳(元創価学会壮年部長)[60]
- 山口隆司(元創価学会幹部)「池田大作の名誉欲達成のために、大変な資産と人生の半分を費やしたのが腹だたしい」[61]
- 鈴木広子(元創価学会幹部)[62]
- 細谷健範(元創価学会幹部)[63]
エピソード
家族
- 父 子之吉(ねのきち)[要出典]
- 母 一(いち)[要出典]
- 兄 4人の兄がおり、長兄はビルマ(現:ミャンマー)で戦死[65]。
- 妻 香峯子(かねこ)
- 長男 池田博正
- 次男 (著書活動等を行っていない一般人のため氏名は伏せる)成蹊中学校・高等学校同級生に安倍晋三 1984年10月 29歳で急逝
- 三男 池田尊弘
著書
- 『人間革命』 聖教新聞社
- 『新・人間革命』 聖教新聞社
- 『私の履歴書』 日本経済新聞社
- 『若き日の日記』
- 『忘れ得ぬ同志』 聖教新聞社
- 『心に残る人びと』 角川書店
- 『法華経の智慧』 聖教新聞社
- 『アレクサンドロスの決断』 集英社
- 『青春対話』 聖教新聞社
- 『母の詩』 聖教新聞社
- 『明日をみつめて(Embracing the Future)』ジャパンタイムズ
- 『ありがとう韓国』朝鮮日報
ほか共同著書として多数の著書を出版している。
関連項目
- 創価学会
- 創価学会インタナショナル(SGI)
- 公明党
- 池田大作サリン襲撃未遂事件
- 池田大作に対する訴権の濫用
- 戸田城聖(「創価学会」第2代会長)
- 池石戦争
- 池田大作舌禍事件
- 池田大作本仏論
- 創価大学
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 古川利明 『シンジケートとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年11月20日) ISBN 978-4-8074-9924-3
- ^ a b 新「創価学会」を斬る【第7回】(『週刊新潮』2003年12月18日号)
- ^ a b 『月刊ペン』1976年5月号(月刊ペン社)
- ^ a b c 小口偉一(編)、1956年、『宗教と信仰の心理学』、河出書房〈新心理学講座4〉
- ^ 溝口敦 『池田大作 権力者の構造』(三一新書(1972年3月)、講談社(2005年9月) ISBN 978-4-380-72004-8 ISBN978-4062569620
- ^ 『週刊宝石』(1996年4月号)
- ^ 「協友会」は東大出身の経済学者が主導していた20名ほどの青年グループであり、文化・芸術・政治・経済・哲学などを研究していた。
- ^ a b c 『財界』(財界研究所 1967年8月1日号)
- ^ 加盟業者への社会保険の指導と業界内の連絡などの仕事を任される。
- ^ “信者一千万人の頂点に君臨する池田大作氏の「謎」を作家指摘”. NEWSポストセブン. (2011年12月27日) 2014年12月26日閲覧。《→アーカイブ》
- ^ 当時の『聖教新聞』の名刺広告に「大蔵商事」の幹部としての肩書きが載っている。『週刊新潮』平成15年(2003年)12月18日号
- ^ 『朝日新聞』 1957年7月29日付夕刊
- ^ a b 古川利明 『システムとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年10月25日) ISBN 978-4-8074-9922-9
- ^ 大白蓮華2010年4月号P32「会長就任50周年記念企画 永遠に師と勝利を共に」
- ^ 公明党と自民党の反対により、実現には至らなかった
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- ^ 『諸君!』 2005年6月号
- ^ Jumalul National 1984年1月10日号
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- ^ 山崎正友 『闇の帝王、池田大作をあばく』(三一書房 1981年12月)
- ^ 『朝日新聞』の連載「秘話・・・55年体制のはざまで」1998年8月26日〜9月18日
- ^ 矢野絢也 『二重権力・闇の流れ―平成動乱を読む、政界仕掛人・矢野絢也回想録』(文藝春秋 1994年8月)
- ^ 『月刊Asahi』1991年4月号
- ^ 石田次男 『内外一致の妙法 この在るべからざるもの』(縁友会 1995年)
- ^ 大橋敏雄 『吹けば飛ぶ男の奮戦記--古参代議士が見た創価学会』(人間の科学社 1900年1月15日)ISBN 978-4-8226-0000-6
- ^ 『宝石』1995年5月号126ページ
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- ^ 高瀬広居 『人間革命を目指す池田大作・その思想と生き方』(有紀書房 1965年)
- ^ 『聖教新聞』 2005年6月19日付