「真田信政」の版間の差分
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慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の陣]]に兄の信吉と共に参戦したが、豊臣方先鋒隊らとの戦いに敗れて兄と共に敗走した。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])6月、従五位下大内記に叙任。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に大内記を兼任する。元和8年([[1622年]])10月、父信之の[[松代城]]転封に伴い、その領内で1万7000石を[[新田分知|分知]]され大名に列する。[[寛永]]11年([[1634年]])に兄の[[沼田城]]主信吉が早世し、甥の[[真田熊之助|熊之助]]が相続すると、幼年の熊之助を後見して沼田領の支配に当たった。寛永16年([[1639年]])、熊之助の早世により沼田藩主となる。この際、相続した沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟[[真田信利|信利]]に分与し、それまで領有していた松代藩[[内分分知|内分]]の1万7000石は弟の信重に譲った。 |
慶長19年([[1614年]])からの[[大坂の陣]]に兄の信吉と共に参戦したが、豊臣方先鋒隊らとの戦いに敗れて兄と共に敗走した。[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])6月、従五位下大内記に叙任。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に大内記を兼任する。元和8年([[1622年]])10月、父信之の[[松代城]]転封に伴い、その領内で1万7000石を[[新田分知|分知]]され大名に列する。[[寛永]]11年([[1634年]])に兄の[[沼田城]]主信吉が早世し、甥の[[真田熊之助|熊之助]]が相続すると、幼年の熊之助を後見して沼田領の支配に当たった。寛永16年([[1639年]])、熊之助の早世により沼田藩主となる。この際、相続した沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟[[真田信利|信利]]に分与し、それまで領有していた松代藩[[内分分知|内分]]の1万7000石は弟の信重に譲った。 |
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[[明暦]]2年([[1656年]])、父が隠居したため松代藩の家督を相続したが、わずか2年で死去した。信政は、信之が後継の問題(兄系に当たる沼田藩主への相続を考えている)で居座っていると思い込み(実際は信之が何度も幕府に隠居を願ったが、将軍[[徳川家綱]]が幼少などの理由で認められなかった)、父子間で対立があったとされる。そのためか、遺言状には信之のことは一切書かれておらず、それを知った信之は立腹している<ref>[[平山優 (歴史学者)|平山優]]『真田信之 父の知略に勝った決断力』([[PHP新書]] 2016年 |
[[明暦]]2年([[1656年]])、父が隠居したため松代藩の家督を相続したが、わずか2年で死去した。信政は、信之が後継の問題(兄系に当たる沼田藩主への相続を考えている)で居座っていると思い込み(実際は信之が何度も幕府に隠居を願ったが、将軍[[徳川家綱]]が幼少などの理由で認められなかった)、父子間で対立があったとされる。そのためか、遺言状には信之のことは一切書かれておらず、それを知った信之は立腹している<ref>[[平山優 (歴史学者)|平山優]]『真田信之 父の知略に勝った決断力』([[PHP新書]] 2016年 ISBN 978-4-569-83043-8) p399-400</ref>。 |
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長男[[真田信就|信就]]を故あって相続対象から外したが([[旗本寄合席|寄合]]として別家を立てる。のち七男の[[真田信弘|信弘]]が幸道の跡を相続)、次男の信守は17歳の[[正保]]2年([[1645年]])、異母弟の三男信武(大学、16歳)を殺害して自刃、四男の信福は夭折するなど後継者に恵まれず、死の直前に生まれたばかりの幼少の六男[[真田幸道|右衛門(幸道)]]を後継指名している。末期であり幸道も幼少でもあるため、支藩で幸道従兄の[[沼田藩]]主・信利がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あったが、信政の遺言状や祖父の信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより右衛門の相続と決定した。 |
長男[[真田信就|信就]]を故あって相続対象から外したが([[旗本寄合席|寄合]]として別家を立てる。のち七男の[[真田信弘|信弘]]が幸道の跡を相続)、次男の信守は17歳の[[正保]]2年([[1645年]])、異母弟の三男信武(大学、16歳)を殺害して自刃、四男の信福は夭折するなど後継者に恵まれず、死の直前に生まれたばかりの幼少の六男[[真田幸道|右衛門(幸道)]]を後継指名している。末期であり幸道も幼少でもあるため、支藩で幸道従兄の[[沼田藩]]主・信利がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あったが、信政の遺言状や祖父の信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより右衛門の相続と決定した。 |
2016年11月15日 (火) 18:58時点における版
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長2年(1597年)11月 |
死没 | 万治元年2月5日(1658年3月8日) |
戒名 | 円陽院殿威良一中大居士 |
墓所 | 長野県長野市松代町松代の長国寺 |
官位 | 従五位下、大内記、従四位下、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 信濃埴科藩主→松代藩主 |
氏族 | 真田氏 |
父母 | 父:真田信之、母:小松姫(本多忠勝の娘) |
兄弟 | 信吉、信政、信重 |
妻 |
正室:稲垣重綱の娘 側室:浜松の局、小野国子(2代目小野お通) |
子 | 信就、信守、信武(大学)、信福(四男、早世)、幸道、娘(遠山政亮正室)、娘(小出有重正室)、娘(土岐頼長室)、娘(鎌原重俊室)、娘(青山忠雄正室)ら |
真田 信政(さなだ のぶまさ)は、江戸時代前期の大名。信濃松代藩第2代藩主。初代藩主真田信之の次男。
生涯
慶長19年(1614年)からの大坂の陣に兄の信吉と共に参戦したが、豊臣方先鋒隊らとの戦いに敗れて兄と共に敗走した。元和3年(1617年)6月、従五位下大内記に叙任。その後、年月日不詳ながら従四位下に昇叙し、侍従を本官に大内記を兼任する。元和8年(1622年)10月、父信之の松代城転封に伴い、その領内で1万7000石を分知され大名に列する。寛永11年(1634年)に兄の沼田城主信吉が早世し、甥の熊之助が相続すると、幼年の熊之助を後見して沼田領の支配に当たった。寛永16年(1639年)、熊之助の早世により沼田藩主となる。この際、相続した沼田領3万石のうち5000石を熊之助の弟信利に分与し、それまで領有していた松代藩内分の1万7000石は弟の信重に譲った。
明暦2年(1656年)、父が隠居したため松代藩の家督を相続したが、わずか2年で死去した。信政は、信之が後継の問題(兄系に当たる沼田藩主への相続を考えている)で居座っていると思い込み(実際は信之が何度も幕府に隠居を願ったが、将軍徳川家綱が幼少などの理由で認められなかった)、父子間で対立があったとされる。そのためか、遺言状には信之のことは一切書かれておらず、それを知った信之は立腹している[1]。
長男信就を故あって相続対象から外したが(寄合として別家を立てる。のち七男の信弘が幸道の跡を相続)、次男の信守は17歳の正保2年(1645年)、異母弟の三男信武(大学、16歳)を殺害して自刃、四男の信福は夭折するなど後継者に恵まれず、死の直前に生まれたばかりの幼少の六男右衛門(幸道)を後継指名している。末期であり幸道も幼少でもあるため、支藩で幸道従兄の沼田藩主・信利がこれに不満を抱いて本家相続を訴えるなど、決定・認可まで紆余曲折あったが、信政の遺言状や祖父の信之が幕閣への働きかけに奔走したことにより右衛門の相続と決定した。
脚注
- ^ 平山優『真田信之 父の知略に勝った決断力』(PHP新書 2016年 ISBN 978-4-569-83043-8) p399-400