「ピーター・セテラ」の版間の差分
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2016年11月12日 (土) 04:03時点における版
ピーター・セテラ | |
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ピーター・セテラ(2004年) | |
基本情報 | |
生誕 | 1944年9月13日(80歳) |
出身地 | アメリカ・シカゴ |
ジャンル |
ロック ポップス |
担当楽器 |
ボーカル ベース |
活動期間 | 1967年~現在 |
共同作業者 | シカゴ |
公式サイト | http://www.petercetera.com/ |
ピーター・セテラ(Peter Paul Cetera、1944年9月13日 - )はアメリカ合衆国イリノイ州シカゴ出身のミュージシャン、ヴォーカリスト。シカゴの元メンバー。シカゴ時代だけでなくソロとしても成功を収めた。特徴のある伸びやかなハイトーンの歌声は「ミリオン・ダラー・ボイス(100万ドルの声)」と評される。
略歴
アメリカ、イリノイ州シカゴでポーランド系移民の両親のもとに生まれる(ポーランド語による名前はピョートル・ツェテラPiotr Ceteraとなる)。敬虔なカトリック教徒としての教育を受け、幼少より教会で合唱、ポーランド人会でアコーディオンとギターを習った。
1967年、シカゴの前身となるバンド、ザ・ビッグ・シングにヴォーカリスト兼ベーシストとして加入。 1969年にバンドはシカゴとしてデビュー。ピーターは「長い夜(25 Or 6 To 4)」などのヒット曲のリード・ヴォーカルを務める。なおビリー・ジョエルの楽曲「マイ・ライフ」では、同じくシカゴに所属するドニー・デイカスとともにバックコーラスとして参加している。
シカゴ在籍中の1981年には初のソロアルバムを発表するが、当時はシカゴの低迷期でもあり、さほど話題にもならなかった。ところが翌1982年、レコード会社を移籍したシカゴはプロデューサーとしてデヴィッド・フォスターを迎え、キーボードのロバート・ラムに代わってセテラがそれまでより積極的に作詞作曲に参加。アルバム『シカゴ16』を大ヒットさせる。現在もバラード曲のスタンダードとして親しまれている「素直になれなくて(Hard To Say I'm Sorry)」は全米1位を記録した。
1984年のアルバム『シカゴ17』も引き続き全米700万枚の大ヒットを記録し、シカゴは復活を通り越して過去最大の成功を収めた。
1985年、ソロアーティストとして成功する自信を深めシカゴを脱退。リード・ヴォーカルであったセテラはシカゴがそれまで行っていた頻繁なコンサートツアーは体力的な負担が大きすぎると感じていた上、「売れっ子」となったゆえの激務により家族と過ごす時間がほとんど取れなくなったことに悩んでおり、フィル・コリンズとジェネシスとの関係のように、ソロ活動とバンド活動とを分け、より個人の自由時間を欲しいと訴えたが、他のメンバーから拒否されたための脱退決断だったようである。脱退の真相については、セテラがバンド活動とソロ活動を同時に行なわない確約を含んだ契約書面への署名を迫られ、それをセテラが拒否したためであることをはっきりと本人が話している。
同年に、映画「ベスト・キッド2(THE KARATE KID PART II)」の主題歌「Glory Of Love」、翌1986年にはエイミー・グラントとのデュエット曲「The Next Time I Fall」がそれぞれ全米1位の大ヒットを記録。両曲を収録した、アルバム『SOLITUDE/SOLITAIRE』もベストセラーとなった。
1987年、「STAY WITH ME(邦題:ステイ・ウィズ・ミー song for KA・GU・YA・姫)」が日本映画「竹取物語」の主題歌となり、日本でも一躍有名となった。1988年には「One Good Woman」が全米4位に、1989年にはシェールとのデュエット曲、「After All(Love Theme From Chances Are)」も全米6位にランクインする。
なお、ピーター脱退後のシカゴは、彼によく似た声質のジェイソン・シェフを新しいヴォーカリストに迎えたことから、その影響の大きさがうかがい知れた。ピーターは現在でもシカゴのことについては語りたがらず、自身のベストアルバムでもシカゴ時代の曲は再録バージョンを収録している。また、彼は以前からシカゴのブラス・ロック的アプローチを嫌い、ソロ転向の機会をうかがっていたといい、本人曰く「加入した翌日からやめたくなった」らしい。
2009年12月13日、15日、17日の3日間、東京駅前のコットン・クラブでシカゴ脱退後初めての日本公演を行った。2010年10月にはデイヴィッド・フォスター&フレンズの一員として再来日し、「素直になれなくて」など共作したシカゴの曲を数曲演奏した他、フジテレビの「情報プレゼンター とくダネ! 」にも生出演し、デイヴィッド・フォスターのピアノ伴奏で「素直になれなくて」を歌唱している。2012年1月には東京・名古屋公演が行われた。2012年11月12日にはDavid Foster & Friendsの一員として東京国際フォーラムで公演を行い、「素直になれなくて」や「Glory Of Love」など自身のヒット曲を歌唱した。
2013年9月8日、日本武道館でマイケル・ボルトンと深見東州のトリプルバンドで、「深見東州と世界の友人コンサートツアー 日本武道館」に参加。「素直になれなくて」、「Glory Of Love」など11曲のヒット曲を歌唱。アンコールでは、マイケル・ボルトン、深見東州と3人でイマジンを熱唱し、世界平和へのメッセージを発信した[1][2][3]。
注釈
- ^ マイケル・ボルトン (2013年9月6日). “A Starry show at the Budokan in Toyko!”. 2014年2月26日閲覧。
- ^ “深見東州と世界の友人コンサートツアー日本武道館 世界に垣根なし”. 日刊スポーツ. (2013年9月7日)
- ^ “深見東州 in 武道館 マイケル・ボルトン ピーター・セテラと奇跡コラボ実現”. 東京スポーツ. (2013年9月8日)