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2016年11月11日 (金) 03:10時点における版

高田 渡
出生名 高田 渡
生誕 1949年1月1日
出身地 日本の旗 日本岐阜県北方町
死没 (2005-04-16) 2005年4月16日(56歳没)
ジャンル フォークソング
職業 歌手
活動期間 1960年代 - 2005年

高田 渡(たかだ わたる、1949年1月1日 - 2005年4月16日)は、1960年代から2000年代にかけて活躍したフォークシンガー

父親は、詩人・活動家・元共産党員の高田豊。 マルチ弦楽器奏者の高田漣は息子。

人物

岐阜県北方町出身、材木商の実父は資産家で篤志家でもあったが破産し、東京都深川の援護施設で父子生活をする。少年時代の一時期、佐賀県鹿島市で育てられた。 東京都立市ヶ谷商業高等学校卒。

山之口貘金子光晴草野心平らの現代詩にフォークのスタンダードを組み合わせ全く別物をつくり上げる作業を得意とし、添田唖蝉坊の流れを汲み時事の話題を辛辣に滑稽に取り上げ、皮肉たっぷりの作風は大いに客を惹きつけた。「人間は、なにかコンプレックスがあると、ほかの方法でそれを乗り越えようとする。その方法というのが僕にとっては歌だったのかもしれない」という[1]

岡林らとの「三億円強奪事件の唄」「自衛隊に入ろう」、「転身」「しらみの旅」「生活の柄」「長屋の路地に」「鉱夫の祈り」など数多くのアメリカ民謡に詞を乗せた曲を生み出している(上記の曲、全て原曲はアメリカ楽曲)。「自衛隊に入ろう」は、1968年の第3回関西フォークキャンプ1969年の第4回関西フォークキャンプのコンサートのライブ録音が有名。

経歴

フォーク集団「アゴラ」

1960年代後半に、遠藤賢司南正人金子章平(後に音楽プロデューサーとして活躍)、真崎義博(ボロディラン)らと東京でアマチュアシンガーの集団「アゴラ」として活動。

1968年第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」)に参加。「自衛隊に入ろう」や「事だよ」を唄い、観客に衝撃を与える。

関西時代

1960年代末、京都に拠点を移す。高石ともや岡林信康中川五郎早川義夫加川良岩井宏らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。フォークキャンプなどで全員でプロテストソングを歌う際は、口をパクパクさせて積極的には歌っていなかった。

1969年URCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでデビュー。また後に、京都ひがしのひとし古川豪らと親交を深める。全日本フォークジャンボリーには第1回から参加。また第2回ではURC関連の出版社にいた加川良をステージ上に引っぱり出し、フォークシンガーとしてデビューさせる (後にステージ上に引っぱり出したのは演出であり、フォークジャンボリーで加川をデビューさせるのは予定されていたことだと加川によって明かされる)。

弾き語りと対話形式の『汽車が田舎を通るそのとき』をリリース。キングから、はっぴいえんどを従えた『ごあいさつ』をリリース。この『ごあいさつ』には、高田の代表曲でシングルカットもされ、後に真心ブラザーズがカバーした「自転車にのって」、後述する「値上げ」等が収録されている。

「吉祥寺フォーク」の仲間たちと

1970年代初頭、東京に拠点を移し、シバ友部正人いとうたかおなぎら健壱佐藤GWAN博林ヒロシ林亭佐久間順平大江田信)らを率い、「吉祥寺フォーク」の第一人者的存在に。 拠点となった「[BLUES HALL / [武蔵野火薬庫 ぐゎらん堂」は、様々な音楽や演芸や芸術の空間だった。青林堂の初代社長である長井勝一や、詩人の金子光晴も常連だった。当時、日本にライブハウスはほとんどなく、東京の「ぐゎらん堂」と京都の「拾得」が代表だった。平野悠はこの2店を参考に「ロフト(ライブハウス)」を開いていき、現在のライヴハウスの形式が出来上がっていった。

1971年第3回全日本フォークジャンボリージャグ・バンド武蔵野タンポポ団を編成。吉祥寺派に加えて中川イサト山本コウタローが参加。また、シバいとうたかおが武蔵野タンポポ団により人気者に。そのときの模様は、『武蔵野タンポポ団の伝説』『もうひとつの伝説』としてベルウッドからリリース。

系図』では、タンポポ団を従えてレコーディング。いとうたかおの唄う「あしたはきっと」が収録され、それが好評で、いとうのアルバムデビューの布石となる。 1970年代半ば、カントリーブルーグラス色をより深める。

1973年薗田憲一薗田憲一とディキシーキングス)、柳田ヒロを従えた『』をリリース。

1976年細野晴臣中川イサトヴァン・ダイク・パークスらをバックに、『FISHIN' ON SUNDAY』をリリース。春一番コンサート、ホーボーズコンサートなどに参加。

1977年、佐久間順平らとヒルトップ・ストリングスバンド結成。フォーライフ・レコードから『バーボンストリート・ブルース』を発表。

1983年、『ねこのねごと』リリース。

1993年、『』リリース。

1999年、ライヴアルバム『ベストライブ』発表。

晩年

2001年、『日本に来た外国詩…。』リリース。

2004年、彼の日常とライヴ映像を写し撮ったドキュメント映画『タカダワタル的』が発表され注目を集める。監督タナダユキ

2005年4月3日北海道白糠町でのライブの後に倒れて入院。その地で永眠した。

4月16日午前1時22分、入院先の北海道釧路市病院心不全により死去。56歳没。死の直前に病院でカトリックの洗礼を受けていた。(洗礼名パウロ)

そして永眠に歌になる

葬儀ミサはカトリック吉祥寺教会で執り行われた。葬儀委員長は筑紫哲也が務めた。

小金井公会堂で開かれた「高田渡を送る会」では、多くのミュージシャンや俳優やアーティストが、ひとりずつ壇上に上がり歌を歌ったり思い出を語った。出演者は、中川五郎シバ柄本明高田漣笑福亭鶴瓶加川良なぎら健壱坂崎幸之助中山ラビ井上陽水遠藤賢司山崎ハコシーナ&ロケッツ杉田二郎みなみらんぼうスズキコージほか多数。

2008年、『タカダワタル的』に続くドキュメント映画『タカダワタル的ゼロ』が公開。

2016年赤城乳業の主力製品「ガリガリ君」が25年ぶりに値上げすることを受けて、お詫びのTV-CMが作られ、高田の「値上げ」がCMソングに起用された。放映期間は2日間のみではあったが、情報番組等でもこのCMが取り上げられ話題となった。

作品

高田渡のレコード・CDはURC音源の販売権の移動により、同一の作品が時期により違ったレコード会社から発売されている(詳細はアングラレコードクラブを参照)。

  • ヴァーボン・ストリート・ブルース (1992年11月20日発売・フォーライフミュージックエンタテイメント
  • 渡 (1993年5月25日発売・徳間ジャパンコミュニケーションズ
  • さびしいといま (1997年6月18日発売・アゲント・コンシピオ
  • 高田渡/五つの赤い風船 (1998年9月30日発売・東芝EMI)
  • ベストライヴ (1999年1月20日発売・アゲント・コンシピオ)
  • ごあいさつ (2000年2月4日発売・キングレコード
  • 石 (2000年7月26日発売・キングレコード)
  • 系図 (2000年7月26日発売・キングレコード)
  • 日本に来た外国詩…。(2001年4月21日発売・アゲント・コンシピオ)
  • 高田渡/五つの赤い風船 (2002年9月11日発売・avex io
  • 汽車が田舎を通るその時 (2002年10月9日発売・avex io)
  • ねこのねごと (2003年1月22日発売・徳間ジャパンコミュニケーションズ)
  • 高田渡BOX (2004年1月10日発売・ベルウッドレコード)
  • タカダワタル的 (2004年4月14日発売・アルタミラミュージック
  • 高田渡アンソロジー(2006年3月29日)発売・avex io)
  • "27/03/03"高田渡/高田漣(2006年4月発売・エイベックス・マーケティング)
  • 高田渡、旅の記録(上巻)
  • 高田渡、旅の記録(下巻)

脚注

  1. ^ 高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫)。

関連項目

外部リンク