「村木賢吉」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
24行目: | 24行目: | ||
{{Singer-stub}} |
{{Singer-stub}} |
||
{{DEFAULTSORT:むらき けんきち}} |
{{DEFAULTSORT:むらき けんきち}} |
||
[[Category:日本の歌手]] |
[[Category:日本の男性歌手]] |
||
[[Category:秋田県出身の人物]] |
[[Category:秋田県出身の人物]] |
||
[[Category:1932年生]] |
[[Category:1932年生]] |
2016年11月11日 (金) 02:11時点における版
村木 賢吉(むらき けんきち、1932年8月30日 - ) は、日本の男性演歌歌手。
経歴
当時父親が働いていた三菱金属鉱業に入社、1967年に尾去沢鉱山から直島製錬所に転勤。[1]同所で勤務中、同じ職場で直島出身の佐義達雄と意気投合。
1972年、真木島人(まき しまんど)の芸名で、佐義の作詞作曲の「土方渡世/漁師一代」を出すが一部に注目されるだけで終わった。同年に再び佐義の作詞作曲、村木の唄で演歌「おやじの海」を500枚自主制作するも、翌1973年には御殿場に転勤。[1]「おやじの海」はその後当人ですら存在を忘れかけていたが、1977年に北海道釧路市の有線放送から人気に火がついて数か月で全国に広がり、1979年の大ヒット曲となった。
47歳の新人歌手は各方面から注目を浴びて140万枚以上のセールスを記録、[2]全日本有線放送大賞最優秀新人賞を受賞。佐義も日本作詞大賞大衆賞を受賞。1979年の第21回日本レコード大賞では企画賞を受賞(大賞はジュディ・オングの「魅せられて」)。銀座音楽祭にも出場したが、NHK紅白歌合戦への出場はならなかった。同年三菱金属鉱業を退社して歌手業に専念。
2007年頃まで民謡教室を主宰する傍ら歌手活動を続け、懐メロ番組などで時折以前と変わらない声と姿を見せていたが、同年以降原因不明の病で高音声域の声が出なくなり、現在は歌手活動は行っていない。[1]
民謡経験に裏打ちされたしっかりとしていて温かみのある素朴な歌声が魅力。
脚注
- ^ a b c 日刊ゲンダイ あの人は今こうしている 「海はヨ〜」の村木賢吉さん 原因不明の病で歌えなくなり…2014年9月27日掲載
- ^ 長田暁二『歌謡曲おもしろこぼれ話』社会思想社、2002年、286頁。ISBN 4390116495
関連項目
- 大泉逸郎 - 村木と同様、プロではない中年歌手として持ち歌が大ヒット
- 総務部総務課山口六平太 - 村木がネーミングソースと思われる登場人物、「村木賢吉」が登場