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2016年11月10日 (木) 23:29時点における版
岡林 信康 | |
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別名 | フォークの神様 |
生誕 | 1946年7月22日(78歳) |
出身地 | 日本 滋賀県近江八幡市 |
学歴 | 同志社大学神学部中退 |
ジャンル |
フォークソング ロック |
職業 |
ミュージシャン シンガーソングライター 音楽プロデューサー |
担当楽器 | ボーカル、ギター |
活動期間 | 1968年 - |
レーベル |
ビクターエンタテインメント ソニー・ミュージックエンタテインメント 日本コロムビア 東芝EMI 日本クラウン |
共同作業者 |
はっぴいえんど(バックバンド) 松本隆(プロデューサー) 加藤和彦(プロデューサー) 他 |
公式サイト | なし |
岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日 - )は、日本のミュージシャン。
経歴
生い立ち
父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていた[1][2]。しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。その時期に宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズ)に出会い牧師となって大阪の神学校で通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた[1][2]。当地で信康は生まれる。近江兄弟社中学、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ「脱出」[2]、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。
フォークシンガーとして
1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した[1]。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」[1]。
1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した[1]。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る[1]。
1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す。
4年間の農耕生活
人ぎらい、街ぎらいの欝病を病むが、三重県で農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒[1]。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める[1][2][3]。1973年にソニーへ移籍し、活動を再開。松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」、「26番目の秋」などの曲などを発表するが、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった。この時期はレコードこそ発表はしたが、数度のゲスト出演を除き人前に登場しなかった。
復帰後
数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた[1]。ふと聞いた西川峰子の「あなたにあげる」を聴いて感激[1][4]。「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた[1]。「月の夜汽車」「風の流れに」が美空ひばりに採用される。4年間にわたる農耕生活を終え[3]山を降り亀岡市に転居。
1975年には、岡林本人もコロムビアに移籍し、演歌路線のアルバム『うつし絵』をコロムビアより発表。 美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行った[5]。コロムビアでは他に、新録の2枚組ベストアルバム『岡林信康』、私小説的弾き語りの『ラブソングス』を発表。
しかし『ラブ・ソングス』を音楽評論家の中村とうようが「岡林が演歌をやめてフォークに戻ってきた」と評し、再び「フォークの神様」に戻ることを危惧した岡林は、1978年に偶然テレビで観たピンク・レディーの影響を受けてアルバム『セレナーデ』を発表。これを皮切りに、パロディ色の強い、ニューミュージック路線を展開した[6]。古巣のビクターに再び移籍し、さらに『街はステキなカーニバル』、『ストーム』、『グラフィティ』を発表し路線を深めていく。「ミッドナイト・トレイン」、「Good-bye My Darling」、「君に捧げるラブ・ソング」、「山辺に向いて」などがこの時代の代表曲である。
1980年、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』のエンディング・テーマである「Gの祈り」を発売。しかし、『ストーム』制作の際、プロデュースを担当した加藤和彦にそれまでの作詞の根本としていた部分を「逃げ」だとして批判されたことで、再び新たなスタイルを模索することになる。
1980年代中頃より、メジャーレーベルとの契約が切れたことなどもあり、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始し、全国を巡る。また、この頃より、封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。
エンヤトットの完成~現在
1981年にロンドンでキング・クリムゾンのロバート・フリップに「俺たちの真似じゃない。日本人のロックを聴かせろ。」と言われたことで、日本民謡的なリズムに乗せた独自のロック「エンヤトット」を思案[6]。平野融らとともに模索を続ける中、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。
1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing』を発表。その後、東芝や日本クラウンなどでアルバムを発表。全国各地でコンサートを行う。
「古いファンからはあまり喜ばれなかった」と本人が語る「エンヤトット路線」ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野外音楽堂ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。また、前述の日比谷野音ライブに前後した時期から、10年以上「封印状態」にあったURC時代の音源を含む全アルバムが、紙ジャケットで再発された。また、岡林を敬愛するサンボマスターとの競演や、フジロックフェスティバル、COUNTDOWN JAPANなどのロックフェスへの参加、ロック時代の曲を数十年ぶりに再演するミニライブの開催、数々のテレビ出演など、より積極的な活動を行っている。
2009年の九段会館のコンサートで「越後獅子の唄」をカバーしたことをきっかけに、翌2010年、EMIから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行った。
2011年、「岡林信康コンサートツア-2011」を行い、東名阪のZEEPでライブを行った。
2012年、14年ぶりに作詞作曲をした自主制作シングル「さよならひとつ」を発表した。
人物
本人は気さくな性格で、コンサートで「友よ」の歌い出しを「ホモよー♪」と自ら歌うほどである。サントリー「京番茶」のCMでは、出勤拒否を娘に諭される交番のおまわりさんを演じた。
前述のように、プロテストソングとしての評価は高く、先輩の小室等は、「岡林、よくぞ歌ってくれた」と『昭和は輝いていた』で絶賛していた。ただし、フォークの神様の称号が、一人歩きする苦悩も垣間見たという。
部落差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」は、放送禁止歌の代表例といわれる(実際のところ、放送禁止になっている歌というものは存在しない。抗議などを恐れての自主規制・自粛である)。現在に続くエンヤトット(御歌囃子)の活動は、英国を訪れた際に会ったキング・クリムゾンのリーダー、ロバート・フリップに「欧米の真似ではなく日本独自のロックを見せろ」と言われたことをきっかけにしている。
2009年、美空ひばり作詞の「むぎばたけの鳥」を作曲した。
岡林の作品の特徴として、「くそくらえ節」のように関西弁と東京弁を混ぜた歌詞もあれば、「山谷ブルース」のように東京弁だけを使用した歌詞もあったりする。
「友よ」は、歌詞の内容からJリーグのスタジアムで歌われることがある。大抵は、長期間低迷が続いているクラブのサポーターが低迷脱出を願って試合前などに歌うケースであり、例えば2010年、J2ギラヴァンツ北九州の一部サポーターがリーグ戦後半期間、試合開始前などに勝利を願い歌っていた。J1ではリーグ後半戦に降格圏にあるクラブのサポーターが歌っている。
ディスコグラフィ
シングル
- URCレコード
- くそくらえ節/がいこつの唄(URS-0003/1969年4月)
- それで自由になったのかい/手紙(URS-0017/1970年3月)
- 愛する人へ*/ラブ・ゼネレーション*(URS-0028/1970年5月)
- だからここに来た*/コペルニクス的転回のすすめ*(URS-0029/1970年10月)
- 家は出たけれど*/君を待っている*(URT-0050/1971年2月)
- 自由への長い旅*/今日をこえて*(URT-0052/1971年6月)
- 手紙/それで自由になったのかい(1970年全日本フォークジャンボリー実況録音)*(URT-0053/1971年6月)
- A面の「手紙」は45回転だが、B面の「それで自由になったのかい」は9分弱の収録時間である為、33回転と言う変則盤
- 俺らいちぬけた/申し訳ないが気分がいい(URT-0056/1971年7月)
- 墜ちた鳥のバラード/いくいくお花ちゃん(URT-0065/1971年11月)
- ビクターレコード
- 山谷ブルース/友よ(SV-1028/1968年9月25日)
- 「山谷ブルース」は元々メジャーデビュー盤となるはずだった発禁シングル「ほんじゃま おじゃまします」のB面に収められていた。
- 流れ者/チューリップのアップリケ(SV-1043/1969年3月)
- 私たちの望むものは/性と文化の革命(SV-1080/1970年7月)
- もずが枯木で/お父帰れや(SF-1/1971年6月)
- ゆきどまりのどっちらけ/つばめ(SF-14/1971年11月)
- 日本クラウン
- 風唄/乱の舟唄(CRSN-525/1998年1月21日)
- EMIミュージック・ジャパン
- 自主制作盤
- さよならひとつ/遥かなるこの旅を/さくら雨の朝に(ON-1/2012年5月23日)
発禁シングル
- ほんじゃま おじゃまします/山谷ブルース(SV-1019/1968年5月)
- 詳細は「くそくらえ節」のページを参照
オリジナル・アルバム
- わたしを断罪せよ(URL-1007/1969年8月)
- 見るまえに跳べ(URG-4001/1970年6月)
- 俺らいちぬけた(URG-4008/1971年8月)
- 金色のライオン(1973年)
- 誰ぞこの子に愛の手を(1975年)
- うつし絵(1975年)
- ラブソングス(1977年)
- セレナーデ(1978年)
- 街はステキなカーニバル(1979年)
- ストーム(1980年)
- GRAFITI(1981年)
- ベア・ナックル・ミュージック(1990年)
- 信康(1991年)
- MADE IN JAPAN(1992年)
- 風詩(1998年)
ライヴ・アルバム
- 岡林信康リサイタル(現タイトル:あんぐら音楽祭 岡林信康リサイタル)(URL-1003/1969年6月/1969年3月29日 神田共立講堂)
- 私たちの望むものは 音楽舎春場所実況録音(1970年8月/1970年4月12・24日 文京公会堂・渋谷公会堂)
- 岡林信康コンサート(URL-1016~7/1971年2月/1970年12月1日 神田共立講堂)
- 岡林信康自作自演コンサート 狂い咲き(URL-1019~21/1971年11月/1971年7月28日 日比谷野外音楽堂)
- 1973PM9:00→1974AM3:00(1975年)
- 岡林信康ライブ 中津川フォーク・ジャンボリー(1979年/1970年8月8-9日 1971年8月7-9日 岐阜県中津川)
- 岡林信康ロックコンサート(現タイトル:岡林信康ろっくコンサート)(1979年/1970年10月9日 日比谷野外音楽堂)
- '70岡林信康ロックコンサートPartII(現タイトル:岡林信康壮行会)(1979年/1970年4月24日 渋谷公会堂)
- グッドイブニング(1980年)
- 岡蒸気(1993年)
- 岡林信康ライブ レアトラック(2009年3月)
- 岡林信康リサイタル 中野サンプラザ・1975(2009年9月)
- ロックミュージック(2010年11月)
新録ベスト・アルバム
- 岡林信康(1976年)
- 歌祭り(2001年)
- 歌祭りセカンド(2003年)
- 歌祭りサード(2007年)
企画・アルバム
- レクイエム〜我が心の美空ひばり〜(2010年) - 美空ひばりのカバーアルバム。
- アナザー・サイド・オブ・オカバヤシ~岡林信康、吉岡治を歌う(2013年) - 岡林が吉岡治と組んで五木ひろし、石川さゆり、ロカビリーの山下敬二郎、イラストレーターの黒田征太郎などに書き下ろした楽曲をセルフカバーしたアルバム。
関連ミュージシャン
URC時代
バックバンド
- ジャックス(1969年) - つのだ☆ひろなど一部メンバーのみ
- はっぴいえんど(1970年 - 1971年)
- 柳田ヒロ(1971年)
- はちみつぱい
- 伊藤銀次(1973年)
- ダウンタウンブギウギバンド(1976年)
- ムーンライダース(1976年、1980年)
- 渡辺茂樹(1979年 - 1980年)
- センチメンタル・シティ・ロマンス(1981年)
- 山下洋輔(1992年、2009年)
岡林から影響を受けた人物
曲提供
カバーされた曲
- 私たちの望むものは - 泉谷しげる、松山千春、阿部芙蓉美(2010年)、BLESS、kōkua(2016年)
- 嘆きの淵にある時も - 矢野顕子(2010年)、「音楽堂」収録
- 自由への長い旅 - 和幸(2009年)
- チューリップのアップリケ - 笹生実久(2007年)「チューリップのアップリケ」収録、大竹しのぶ×野田洋次郎(RADWIMPS)(2014年)「歌心 恋心」収録
- いくいくお花ちゃん - カーネーション(1992年)、「天国と地獄」収録
テレビ出演
- DOサタデー(KTV・CX系)-テーマ曲を担当、最終回ではゲスト出演し、由紀さおりとテーマ曲を歌った。
- いのちの響(TBS)
- 逃亡者(フジテレビ、1992年放送)
- キンギョ(NHK) - 金魚を取り上げた番組。金魚マニアの一人として出演。
- 情熱大陸(毎日放送、2009年12月27日放送)
- SONGS(NHK、2010年2月3日放送)
映画出演
書籍
- 自著
-
- 『フォークは未来をひらく―民衆がつくる民衆のうた』(1969年・社会新報)※高石ともや・中川五郎との共著
- 『岡林信康の村日記』(1982年・講談社・ISBN 978-4062002608)
- 『かんとりーソングス』(1984年・芸文社・ISBN 978-4874651490)
- 『ぼくの歌の旅―ベアナックルレヴュー道中記』(1987年・晶文社・ISBN 978-4794950703)
- 『伝説 岡林信康 』(1991年・小学館・ISBN 978-4093633819 → 2009年・増補改訂新装版・白夜書房・ISBN 978-4777102365)
- 『バンザイなこっちゃ!』(2005年・ゴマブックス・ISBN 978-4777102365)
- 『ぼくの村は美しい国 竜太の日記 [We love childrenアーティストによる絵本シリーズ 5] 』(2007年・ランダムハウス講談社・ISBN 978-4270002216)
- 『岡林、信康を語る』(2011年・DISK UNION・ISBN 978-4925064415)
- 解説書等
-
- 『岡林信康読本(CDジャーナル・ムック)』(2010年・音楽出版社・ISBN 978-4861710667)
脚注
関連項目
- 愛という名のもとに - 1992年に放送された、フジテレビのテレビドラマ。「友よ」「私たちの望むものは」が挿入歌として使用された。
- 僕たちの好きだった革命 - 2007年に上演され、2009年に再演もされた、KOKAMI@networkの舞台作品。「私たちの望むものは」の一部が挿入歌として使用された。
外部リンク
- アートライフ ミュージアムザネット 岡林信康(事実上の公式サイト)
- EMI Music Japan 岡林信康(※音が出るので注意)
- 見る前に跳べ(ディスクユニオン社員のブログ)
参考文献
James Dorsey, “Breaking Records: Media, Censorship, and the Folk Song Movement of Japan’s 1960s.” In Asian Popular Culture: New, Hybrid, and Alternate Media, ed. John A. Lent and Lorna Fitzsimmons. Lanham, MD: Lexington Books, 2013, pp. 79~107.