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2016年10月19日 (水) 12:16時点における版

やしき たかじん
出生名 家鋪 隆仁(やしき たかじ)[1]
別名 じんちゃん、たかじんさん、たかじん
生誕 (1949-10-05) 1949年10月5日
出身地 日本の旗 日本大阪府大阪市西成区
死没 (2014-01-03) 2014年1月3日(64歳没)[2]
学歴 桃山学院大学経済学部中退
龍谷大学経済学部中退
ジャンル ポップスAOR歌謡曲
職業 歌手
タレント
司会者
ラジオパーソナリティ
活動期間 1971年 - 2014年
レーベル 京都レコード1971年
キングベルウッド1976年 - 1978年
キングレコード1979年 - 1982年
ビクターインビテーション1983年 - 1991年
ポリスターTAKAJINレーベル(1992年 - 2009年
ビクターエンタテインメント
2010年 - 2014年
事務所 P.I.S
共同作業者 及川眠子
藤山寛美横山やすし上岡龍太郎(タレントとして)

やしき たかじん1949年10月5日 - 2014年1月3日[2])は、日本歌手タレント司会者ラジオパーソナリティ大阪市西成区出身。本名は家鋪 隆仁やしき たかじ[1]。主に関西ローカルや大阪の放送局製作で、関東を除く広域ネットの番組に出演していた。愛称は「じんちゃん」「たかじんさん」「たかじん」など[3]

個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)代表取締役[4]、大阪を盛り上げるために発足された民間団体「OSAKAあかるクラブ」のキャプテン[5]および理事長[6]などを歴任した。 死去後、やしきたかじんの肖像などの権利関係はP.I.SとOffice TAKAJINが主張している状態である[7]

人物・経歴

デビューまで

大阪市立成南中学校卒業。桃山学院高等学校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、生まれて初めて作曲した「コーヒーインタイム」が、NHKあなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院大学経済学部に進学するが、新聞記者を志した際「NHK嫌い(後述)を克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移った後、東京都東村山市に数カ月住む。

その後、京都に戻って龍谷大学経済学部へ入学するも中退。同大学在学中に歌手を目指し、京都祇園のクラブでギターとピアノの弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行うようになる。当時たかじんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章が手掛けていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵・ママレモン・タバスコ等をぶっかけたり、2階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという。

歌手活動

1971年京都レコード(2002年に日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的且つ退廃的、「現在の日本国において、娼婦などという職業は存在しない」との理由で程なく発売禁止廃盤となる。

1973年5月15日には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。1974年に東京・二子玉川に移住して地下鉄工事のアルバイトなどをしながら生活するが1年ほどで再び京都に戻る。その後の1976年に、キング・ベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。

1977年に宝塚歌劇団史上初のリサイタル『私の肖像画』を鳳蘭がやるということで、同歌劇団が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時同歌劇団の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじん本人が歌っている(アルバム『MOOD-夢見る男のために-』の3曲目)。

さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詞:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、旅人役でゲスト出演するも、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたという。後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』(後述)と同等で「生涯最大の汚点」と語っている。また、この時の経験がトラウマとなり、その後テレビドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになる(自身が出演の番組(冠番組・ゲスト問わず)でこれを流すことはタブーであり、冠番組で流せば番組をその日を以って終了させると公言していた。ただし『新・木枯し紋次郎』単独での地方局等での再放送は拒んでいない)。これを機に猪俣とは親しくなり、コマーシャルソングサントリーレッド」「桃屋塩辛」などを歌うようになる。

1978年、一度は歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「第2回大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』というタイトル通り10分程ある長い歌でグランプリを獲得[8](本人曰く、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立っていたくて長い曲を作ったという)。これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなる。

1980年にファンクラブ「CONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。当時、レギュラー番組であった文化放送ラジオセイ!ヤング』の構成作家で作詞家デビュー前の秋元康と出会い親密な関係になる。当初は相談も兼ねて歌詞を持ってきた秋元に対し「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と散々こき下ろしたが、その後に秋元作詞の曲は多数ヒットすることになった(この時の歌詞について、たかじんは「詩じゃなくて作文、文章であって歌詞とは呼べない」と評していた。一方、秋元は「たかじんさんは独特のこだわりがあるから、たかじんさんを納得させる歌詞を書くのは至難の業」と言っている)。後に、たかじんは「あの時、なんぼかもろとったらよかったわ」と、ネタとして度々話している。この当時大阪のほかに東京・仙台名古屋などにもレギュラー番組を持っており、雑誌『明星』に日本一移動距離の長い芸能人として取り上げられていた。

2009年12月には、その秋元康が作詞、小室哲哉が作曲という形で新曲を発表する予定があることを明かし、翌2010年11月に件の新曲『その時の空』(OSAKAあかるクラブテーマ曲)が発売された。

前述の秋元のコメントの通り、たかじんの歌詞へのこだわりが強く、かつて多くたかじんの曲の作詞・作曲を手がけた鹿紋太郎が新曲作りに取り組む際には、鹿がたかじんの自宅に泊り込んで半月程度の合宿をおこなったという。代表的な大阪の曲として知られている『悲しい色やね』の作詞家である康珍化に依頼して作ってもらった『心斎橋に星が降る』に対して、「心斎橋はアーケードあるから星降らん!!」(康自身は静岡の出身で大阪のことは詳しくない)と自身の曲として歌うことを断っている[9]。そのため、この曲は大上留利子の持ち歌となって世に出てしまい前述の秋元とのエピソードと同じ状況に至ってしまった。このことから、作家泣かせとして業界で有名である。

1981年には、谷村新司が作詞・作曲し、たかじんが歌ったアニメ映画『機動戦士ガンダム』(劇場版3部作の第1作目)の主題歌『砂の十字架』が13万枚[10]のヒットとなるが、本人にとっては生涯最大の汚点だという。これには数々の事情があり、当時たかじんを担当していたディレクターキングレコードの部長に涙ながらに土下座をして、長い間鳴かず飛ばずだったたかじんにレコードを出させて下さいと直訴。その結果キングレコードは条件として、たかじんにガンダムの主題歌を歌うように指示、たかじんも歌詞に「ガンダム」という固有名詞がないことを条件に、(土下座したディレクターのこともあり)渋々承諾する。しかし、歌詞が気に入らなかったことと、ジャケットに自分の写真でなく、(同作品の主人公の)「アムロ・レイ」のイラストが描かれていた事にたかじんがクレームをつけて発売は延期となるが、結局そのまま発売されてしまう。このように自分の意向が蔑ろにされ、全てが事後承諾で制作された経緯がある作品である上に、無理矢理歌わされた曲が結果的に大ヒットしたため、「これまた人生の汚点だ」として番組などで嘆いた。またその後長い間ガンダムを観る事すら拒んだ。しかし後年になり岡田斗司夫から「今、歌えば逆に新鮮かも」との提案に、少し色気を出していた。

1982年、大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年にビクターに移籍して『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。1986年には『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集めヒット。さらにこれが「大阪の歌手」として人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』がヒット、大阪色を前面に出したバラードシンガーとして根付いていくことになる(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった)。本人曰く「歌手一本で食えるようになるまで20年はかかった」という。

この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。

1992年にポリスターに移籍して『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚[10]の自己最高のヒットとなり、翌1994年に全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞する。なおポリスター移籍後、多くの楽曲の作詞を及川眠子(和歌山出身)が担当している。

1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサート「YASHIKI TAKAJIN 50YEARS OLD ANNIVERSARY SPECIAL CONCERT」で一度休業している。2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで歌手活動を再開。2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた復活スペシャルコンサート「YASHIKI TAKAJIN SPECIAL CONCERT 2002」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは活動再開を喜んだ。なお、2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降一切のコンサート活動をしなかった。

2003年、「やっぱ好きやねん」がバックに流れ川藤幸三がCM出演した『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている「やっぱ好きやねん」「生まれる前から好きやった」「なめとんか」「大阪恋物語」「あんた」)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進していることも相まって15万枚の売り上げを記録した。

2007年6月9日に行なわれた当時MBSアナウンサー八木早希の結婚式で「My Memory」「My Way」を披露した(この結婚披露宴はたかじんがプロデュースしている)。

2007年11月16日にやしきたかじん携帯公式サイト「発禁!?たかじん新聞」の「熱唱!!やしきたかじん」というコーナーで、本格的な歌手活動に向けてのハワイでのトレーニングの模様を収めた映像を公開するという形で歌手活動を再開した(歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」。またダイジェストで「エゴイズム」「なめとんか」も歌っている)。

2008年5月に公式サイトをリニューアルし、プラチナムメンバーを対象に「熱唱!!やしきたかじん」をはじめとするたかじんのプライベートやたかじんのオススメ通販情報などを動画で提供するサービスやチケットの優先予約などのサービスを開始する(「熱唱!!やしきたかじん」で歌唱した曲目は「見えない糸」「東京」「ICHIZU」「もしも夢が叶うならば」「Fly me to the moon」「やっぱ好きやねん」「大阪恋物語」「生まれる前から好きやった」「サン・トワ・マミー」「雪が降る」「」「ついてくよ」)。

2008年8月29日に読売テレビの開局50周年記念として大阪城ホールで行なわれたやしきたかじん自らプロデュースする音楽イベントkoi-conにてステージで6年ぶりに歌った。「惚れた弱み」「未練〜STILL〜」「My memory」「大阪恋物語」「東京」「夢見る男のために」「やっぱ好きやねん」「明日になれば」を歌った。(「東京」「やっぱ好きやねん」は松山千春とのデュエット)このイベントの中で「もしかしたらこれ(koi-con)が最後(の舞台)かもしれない」という発言をしているが、同時に歌うかもしれないということをほのめかした。

2009年に7年ぶりのコンサートツアー(8/30岸和田 - 12/14京都、全国10箇所・12公演)ディナーショー(12月20日帝国ホテル大阪)を行った。

たかじんのコンサート

たかじんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめで、あくまで歌とトークを重視したシンプルなスタイルである。3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、晩年期では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないことも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)。聴衆からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。それ故ほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともある(例えば、ゲストでたかじん同様にコンサートの大半をトークに費やす円広志を迎えた時などには漫才に熱が入り過ぎる(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。

コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りた時に意識を失い、生死をさまよったことがある。客席をまともに見ることが怖いため、ステージに立つ時は必ずサングラスをかけている。トーク時にステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。

コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名であるが、このようなスタイルになったきっかけは、まだヒット曲に恵まれず泣かず飛ばずだった頃、どのようにすれば満員になるのか試行錯誤した結果であるという。

たかじんバンド

初期の「フライング・リバティー」<Pf/Key:土井淳(バンマス) G:近藤芳弘 B:奥田勝彦(後にBULGE細木隆広→小笹了水) Dr:五十川清(後に浅川ジュン)の4人構成で、後に、Key:十川知司森俊之(後に鈴木賢) Sax/Flute:河田健(後にエレファント酒井)らが参加>に始まり、晩年期の「アンビエンス」<1994年春にファンクラブの募集でバンド名が決定した。正式には英語のambienceの発音記号がバンド名。Pf/Key:土井淳(バンマス) Key:鈴木賢 G:近藤芳弘 B:小笹了水(2002年代役で福栄宏之が参加) Dr:浅川ジュン Sax/Flute:小梶博司(2001年から横山貴生)の6人に1995年秋〜1999年に当時たかじんの弟子であった佐々木清次Ag/Choが参加。>また、かつては、尾崎亜美(ピアノ)や河島英五(ギター)らが参加していた。

  • 東京時代のバンド
    • 「MAKITA BAND」B:牧田和男、G:岸卓巳・丸山ももたろう、Dr:金原広行、KB:下山金太郎・大久保佳子・田代修二、SAX:春名正治

タレント活動

普段の喋る時のダミ声の地声と、歌う時の高く澄んだ甘い歌声[11]とのギャップがあまりにも大きいため、関西以外ではたかじんが歌手であることを疑われることが頻繁にあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていた。上岡龍太郎はたかじんを評して「普段の喋り声は芸人の声、歌っている時の声は歌手の声」と言った。

歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」を受賞(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退したための処置)。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。

一時期桂雀々2代目桂春蝶や『MBSヤングタウン』で共演した桂三枝(現・6代桂文枝)のもとに付いたり、様々な名だたる上方芸人と交流を深め(特に雀々とは北新地の居酒屋「猫八」で出会って以来の付き合いで、かつては天満のマンションに一緒に住んでいた)、しゃべりや遊びの勉強をしていた事がある(祇園の弾き語り時代には、6代目笑福亭松鶴藤山寛美にお茶屋遊びを教えられ、3代目桂米朝には大阪宗右衛門町の南地大和屋で遊びの基本を学んだ)。そのため、芸人以上に芸人としての意識が強いことから、若手に対して厳しい一面もあり、飲みに行く際には喫煙・飲酒をさせない程である。タカアンドトシ博多華丸・大吉サンドウィッチマン波田陽区はなわヒロシ世界のナベアツなどに太鼓判を押し、彼らを気に入っていた。また、サンドウィッチマンの富澤たけしは歌手としてのたかじんのファンである。

1994年にアサヒビールの関西限定ビール「生一丁」のCMに出演。「あけまっせ!」「これやがな!」の台詞が受け、同製品が爆発的なヒットとなる。

さらに1985年、ABCラジオ聞けば効くほどやしきたかじん』で初めて帯番組を務める。この時、金曜日に円広志と行なっていた大阪駅ビルのサテライトスタジオ「ABCエキスタ」での公開生放送で注目を浴びる。「音曲漫才(ちゃうのんブルース)」や生ライヴ、さらにはCMを無視した1時間以上にわたる内輪話が大人気となり、観客がスタジオに殺到。その人気ぶりを写真週刊誌『フライデー』が取材。「昼休みにサラリーマンがわざわざ営業車に乗ってまで聴く程のお化け番組」と紹介された。朝日放送ではラジオ・テレビの他のレギュラー番組にも進出。『聞けば-』は1987年10月に終了するが、その直後にラジオ『サタデーたかじん 〜午後はイッキに〜』のパーソナリティー、さらに夕方の報道番組ニュース・ウェーブ』のコメンテーターを務める。

放送禁止用語放送局の出入り禁止や、名誉毀損(後述)も恐れないストレートな発言(友人であろうとも容赦なく批判する)で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、全レギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男[12][13](関西の高視聴率男とも[14])と呼ばれた。本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせた。

読売テレビ製作『たかじんnoばぁ〜』でも、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークが評判を呼んでキー局日本テレビでも放送されるようになる。たかじんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともあった。この「ガオー」がこの番組の名物となる。放送時間が深夜12 - 1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%を超え(関西地区)、読売テレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する事となった。この番組中に泥酔のため、たかじんの東京嫌い(後述)や、司会におけるスタイルを批判したゲストの立川談志に灰皿を投げつけ「気に入らんかったら帰れ」とスタジオから追い出し、犬猿の仲に発展したが、トミーズ雅に「放送できない」と止められた。また、内田裕也安岡力也がゲストに来た際、内田が番組のお約束でもあったコントにも参加せず、特に問題発言・行動もなく番組途中で帰ったのにまったく怒らず、その後何事も無かったかのように力也とトークを続ける懐の深さもみせた。ただし、たかじん公式サイトの企画によりハワイで再会するまでの一時期、内田が共演NGのブラックリスト入りをした。

1992年10月より、在京放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持つも、東京に嫌気が差し半年後に全て降板。また、この年は後述する『晴れ時々たかじん』における朝日放送でも局長の失言が原因で、結果としてたかじんは東西のテレビ朝日の系列局で激昂したことにより、テレビ朝日は勿論、在京テレビ局および朝日放送とは絶縁し、出演することがほとんど無くなってしまった。これ以降は、歌手活動と並行しながら関西ローカルで数本のレギュラーを持つようになる。とは言え、1994年から2004年頃までは、親交のある明石家さんまや島田紳助などが司会の東京収録の番組にも義理でゲスト出演していた(『恋のから騒ぎ』、『開運!なんでも鑑定団』、『料理バンザイ!』など)が、やはり、キー局とそりが合わずトラブルを起こした。結果的に、1998年頃から2004年に『さんまのまんま』と『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にゲスト出演するまで、東京収録の番組には全く出演しなかった。また、1994年10月から2年半の間は大阪発全国ネット番組『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』(毎日放送)の司会を務めた。

1994年から自身が司会を務める『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)が開始。さらに1998年には『たかじんONE MAN』(毎日放送)が始まる。この2つはテレビ番組や芸能人など主に業界に関する企画が中心で、番組改編期になると、新番組の平均視聴率を予想するのが恒例であった。また、この視聴率予想の的中率が異常とも言える程の高さを誇っていた。これも「晴れ時々たかじん」の司会就任の頃、自宅に10台前後のビデオデッキ(晩年では1テラバイトのHDDレコーダーを6台購入したと『たかじんのそこまで言って委員会』で述べていた)を使って、テレビ番組の動向をたとえ本人が嫌いな番組であってもチェック(以前はチャンネルごとに録画していたが後にジャンルごとに録画する形に変更)していて以来続いた、彼のネタのひとつである。なおアニメに関しては早送りしているとたかじん本人が『たかじんONEMAN』内で言っている。

これまで芸能関連の企画が多かったが、2002年、政治・経済などの時事問題をテーマにした特別番組『たかじんのそこまで言って委員会』を放送(翌2003年にはレギュラー化)。そして2004年には『ムハハnoたかじん』が開始、5年間守っていた「レギュラー2本」が倍増した(2011年1月から死去するまではレギュラー3本)。理由について本人は「老後のため」とギャグで交わしていた。

家族

生前から本人はあまり家族の事を語らず、母の光子についても、言及はかなり少ないが、憎んでいたと発言したことがある。[15][16][17]

生前に三度結婚しており、20代前半で別れた1人目の妻との間に一女がいる。離婚理由について「1人目は、銭湯に行ったまま帰ってけぇへんねん」とギャグにしていた。1人目の妻は1988年10月5日にたかじんの39歳の誕生日にクモ膜下出血で急死している。1993年12月25日に再婚した15歳年下の和服モデルの2人目の妻は2006年に「離婚届けを送ってきよった」と『そこまで言って委員会』で発言していた。自身が食道癌などで闘病を続けていた2013年10月には、30代の一般人女性と再々婚していたことがマスコミ等で報じられた[18]

名前について

たかじんという名前は、読みも含めて本名である。知人の住職に命名を依頼したが、それが隆仁(たかひと)であったため、父・権三郎が「天皇陛下の「仁(ひと)」を使うとは何事だ」と激怒し(避諱)、「仁」を「ひと」ではなく「じん」に湯桶読みさせ「隆仁(たかじん)」と命名したことによるものである。ただし戸籍名は「たかじ」とされている事が没後実弟により明かされており、小さい頃は「たかし兄ちゃん」とも呼ばれていたという[1]

「家鋪」という苗字は多いほうではなく[19]、また名前の「隆仁」の読み方は「たかひと」が多い。たかじん本人は風邪を引いた時に病院に通い、待合室で看護師に「かしきさん」「いえしきさん」「いえほさん」「やっほーさん」「かほさん」「いえほこさん」などと言い間違われ、わざと気づかないふりをしていたという(『たかじん胸いっぱい』でのコメントおよびコンサートでのトーク)。

病歴

幼少の頃、遊んでいた時にダーツの矢が左の眼球に刺さり、視力が低下。それもあって常に眼鏡姿であり、トレードマークとなっていた。2002年に後遺症の緑内障の影響により、ファッションのためだけでなく、常にサングラスをかけていた。愛用していたサングラスはドルチェ&ガッバーナ

2006年4月に、持病の腰痛(ヘルニア)治療のためレーザー手術を行い、さらに歯の治療(表面を削った上で抗菌パネルを張ることでワイン焼けやヤニで歯が汚れないようにし、奥歯にインプラントを入れた)や喉のポリープの治療も行った。

また、片目に白内障を患い、手術を行ったことを2006年9月10日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で、本人が明らかにしている(収録2日前の9月6日に手術したと述べている)。術後はスタジオが明るくて爽快と述べた。2007年11月には右目のみレーシックの手術を受け、翌月には左目外斜視の矯正手術を受けた。本人曰く「60歳迄に腹以外の肉体改造をする」と語っていた。なお、日々の不摂生を補うための点滴にも定期的に通っていた。

食道癌闘病と死去

2012年1月31日には公式ウェブサイトで、食道癌(早期のものと発表していたが、実際は進行していたという)治療のため芸能活動を休止することを発表した[20][21]。 2012年1月30日に発覚したこのii期食道癌についてたかじんは「悪性やと思っていた。これまで好き勝手に生きてきて、これで良性やったら申し訳ない」として、落胆することはなくその日の夕食にも焼肉を平らげたという[22]。翌31日には、芸能活動の休止を発表し、2月には東京病院へ入院[22]。ここでは、「サインが簡単だから」という理由で画数が少ない林一を名乗っていた[22]。ここでは、抗がん剤治療を受けながら、4月9日には最新型の3D内視鏡を用いた切除手術を受けたものの、縫合不全があったため、再手術を受けることになった[22]。しかしながら、これも1ヶ月で回復を果たし、最初の外出ではマクドナルドハンバーガーのフィレオフィッシュを買って食べ、さらには「9月までは無理」と宣告されていた退院も6月に強行するなどしており、この回復の速さには主治医も驚きを隠せないといわれた[22]。7月には自身の生活拠点の一つである北海道へ移住し、に直接栄養を補給するためにパイプをとりつけたものの、それをも自分で抜いてしまうなどしている[22]。結局、9月には抗がん剤の副作用の影響で再び入院することになったものの、これも通常2週間の入院を一泊二日で切り上げている。これは、入院した翌日に札幌競馬場競馬観戦に興じたかったからであるという[22]

その後、11月にはハワイの別荘に移動し、カラオケ20曲を熱唱したり、仲間3人とワイン10本を空けるなどしており、ここでも病気休業前の豪快さを誇示していた[22]。なお、このハワイには例年同様、年明けまで滞在しており、ここでゴルフに興じた際には、偶然にも島田紳助と会った[22][23]。たかじんがそこまで言って委員会で語った内容によれば、ゴルフコースで自分たちの前を回っている4人組に順番を替わってほしいと頼んだところ、その中に紳助もいたという事であり、「大丈夫?」と紳助がたかじんの体調を気遣う発言をすると、紳助の引退問題に絡めて「それより、お前こそ大丈夫か」と切り返したということである[23]

芸能活動休止から1年2か月後の2013年3月21日『たかじん胸いっぱい』の収録より仕事復帰(2日後の23日に放送)[22]

しかし、2013年5月、「疲労による食欲不振や睡眠不足などによる体力低下」を理由に再び休養。以後、死去するまでにメディアに出演することはなかった。休養期間中の2013年10月、3人目の妻を迎えていたことが2013年12月にマスコミ報道などで明らかにされている[18]

北野誠によると、たかじんは2013年12月31日、病室で『第64回NHK紅白歌合戦』を視聴していたという。北野は「最後までリモコンを離さず、出にくい声で『綾瀬はるか(紅組司会)、これどやねん?』と突っ込んでいた」とその様子を報告している[24]

2014年1月3日未明、東京都内の病院で心不全で死去した[25][26]。死去の事実は、たかじんが生前に関係者や遙洋子に対して「みんながめでたい気持ちで迎えている正月に、自分の訃報で(関係者およびファンに)悲しい思いをさせたくない」との意向を示していた[27]ことを踏まえて、5日に密葬を済ませた後、日本時間7日23時に所属事務所のP.I.Sから公表[25]。また遙には、7日の午前中に、3人目の妻より伝えられた[28]。3人目の妻が「やしきがお茶したい」と、自宅に呼び出し、そこで伝えられた[28]。独身の遙が、ニュースで先に知ることにならないようにするための配慮から別途伝えられることになった[28]

この時間帯に放送していた民放各局の全国ネットの報道番組が、速報扱いで訃報を伝えた。

訃報を受けて、たかじんと親交のあった多くの音楽・芸能関係者、さらには内閣総理大臣安倍晋三や大阪市長橋下徹ら政治家など、多くの各界著名人が追悼のコメントを発表した[29]。遺作となった『その時の空』を作曲した小室は、たかじんの復帰に向けて、自身の曲・秋元の詞によるニューシングルの制作を準備していたことをtwitterで明かした[30]

生前に多数の冠番組およびレギュラー番組を放送してきた毎日放送では、訃報が伝えられた翌日(同月8日)に、ラジオ(MBSラジオ)で追悼特別番組を急遽生放送。また、『たかじん胸いっぱい』『たかじんNOマネー』『たかじんのそこまで言って委員会』でも、相次いで追悼企画を収録・放送した[31]。いずれの番組も、当面はたかじんの名を冠したままで放送を続ける方針を打ち出している[32]。さらに、生前にたかじんのレギュラー番組を放送していた在阪民放テレビ5局が、同年春頃までに大阪で「やしきたかじんさん お別れの会」を共催する計画が浮上[33]3月3日には、たかじんと親交の深かった10人[34]と在阪民放局5社の各社長を発起人として、2部構成によるお別れの会「TAKAJIN MEMORIES 2014 あんたのことが ICHIZUに やっぱ好きやねん」をリーガロイヤルホテル大阪の「光琳の間」で開催した[35]。同時期にたかじんの権利関係の事務所が「P.I.S」から三人目の妻が設立した「Office TAKAJIN」に変更されている[36][37]

死後、たかじんが残した膨大なメモや3人目の妻の看護日記と証言などを元に、百田尚樹が取材し執筆したノンフィクション本『殉愛』が2014年11月7日幻冬舎から発行された[38][39]。この本の出版を受け、たかじんと最初の妻の間に産まれた41歳の長女は11月21日に名誉毀損・プライバシー侵害の廉で発行元の幻冬舎に対し、同書の出版差し止めと1100万円の損害賠償などを求める訴えを東京地裁に起こした。長女は自身の生活に誤った認識を与える可能性がある、長女とたかじんの間に確執があったように書かれている、長女がたかじんに金銭を求め続ける一報でたかじんに冷たい態度を取り続けるなど非常識な人物であるかのように書かれている、一部の遺族(再婚した妻側)の主張を無批判に受け入れた内容である、事実に反する虚偽の記述で名誉と感情を傷つけられたとし、また百田は長女をはじめとする親族に取材などをしなかったとしている[40][41][42][43][44]

仕事に関するスタンス・特徴

「営業」の仕事を一切受けない

たかじんが大阪でP.I.Sを設立した直後は、関西での仕事の依頼が皆無だったことに加えて、既に離婚していた最初の妻への生活費・養育費の支払いなどで苦しい状況にあった。やがて、あるクラブから、マネージャーの野田を通じて「営業」(クラブのステージで数曲を歌う仕事)の依頼が舞い込んだ。「営業」と割り切ればギャランティとして大金を得られる仕事だったが、「いったん引き受けてしまうと、(歌手として)何か大切なものまで売ってしまう」と感じたたかじんは躊躇。結局、野田と協議した末に、「営業」の依頼を断った。この時の決断がきっかけで、たかじんも野田も、「営業」の引き合いに一切応じなくなった[45]

同じ時期に出演するレギュラー番組は最大でも3本

たかじんが1970年代後半に「日本一移動距離の長い芸能人」(前述)と称されるほどにまで多忙を極めたのは、当時の東京での仕事の窓口だったヤングジャパンから、週に6本ものラジオ番組でレギュラーを任されていたことによる。ただし、いずれの番組でも、たかじんの役割は同社からの情報を提供する「ナビゲーター」に過ぎなかった。

たかじんは、そのような境遇で2年ほど過ごした末に、同社の社員だった野田と共に東京からいったん撤退[46]。「歌手」としての仕事を地元の関西に求めた。しかし、たかじんをかつて『MBSヤングタウン』のレギュラーに起用した渡邊一雄 (プロデューサー)から、「大阪というか関西では、歌だけで食べていかれへんぞ」と指摘。これを機に、出演を依頼された全ての番組でレギュラーを引き受ける道を選んだ。たかじんが後に述懐したところによれば、(タレントとしての)上昇機運をつかんだことを実感したのは、『聞けば効くほどやしきたかじん』のパーソナリティを務めていた時期だったという[47]

もっとも、『聞けば効くほどやしきたかじん』や『晴れ時々たかじん』を軌道に乗せてからは、同じ時期に出演するレギュラー番組を最大でも3本に限定。東京へ再び進出した1992年度の下半期にも、大阪・東京で3本の姿勢を貫いた。たかじんの逝去後も、在阪の民放テレビ局では、「たかじん」の名を冠した3本のレギュラー番組が放送を続けている(前述)。ちなみに、たかじんは生前、レギュラー番組を3本以下にとどめるようになった理由について「企画の段階から参加できない番組でレギュラーを務めることは、『ギャラ稼ぎ(を狙った)流しの仕事』に過ぎないので視聴者に失礼」「新番組を引き受ける限りは(視聴率で裏番組に)圧勝しなければならないが、不器用な自分の能力では3本が限界」「テレビ番組に関わる以上、(自宅へ大量に設置した)ビデオデッキで録画した番組を全部見たうえで、放送内容を徹底的に分析しなければ納得が行かない」と述べている[48]

東京での仕事を極力避ける

上岡龍太郎と同じく大の東京嫌いのため、在京局の番組での出演は非常に少なく、全国ネットの出演番組も多くなかった(なお、上岡は1987年から2000年の引退まで全国ネット番組には出演していた)。かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、また『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ)もキー局の日本テレビからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじんが「関東には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」と言い(『そこまで言って委員会』の宮崎哲弥も同様に埼玉・千葉・神奈川では辞めないにしても、東京で放送したら辞めると宣言している)、在京キー局(関東)ではネットされなかった。

しかし、『たかじん胸いっぱい』は かつてはテレビ埼玉tvkとちぎテレビ群馬テレビなど関東の独立局でも放送していた。このことは東京都民も視聴できる可能性があるものの、そこまでは反対していなかった(かつてGAORAで3ヶ月遅れで放送された『たかじんONE MAN』もケーブルテレビを介してなら視聴可能だった)。東京都の独立局であるTOKYO MXについては「東京唯一の独立局だけれども東京のテレビ局だから」だけでキー局扱いにし、毛嫌いしており(ただしその他の在京キー局ほどではない)、独立局ではTOKYO MXのみ、たかじんの出演番組のネット放送は開局以来全くされなかった。千葉テレビでは『たかじんnoばぁ〜』の復活特番第1弾でネットの実績がある。

在京キー局では放送できない内容を多く話し、オンエアではほとんどカットされている。これについてたかじんは常に不満を述べており、時には収録中にクレームをつける事もあった。関西・関東以外の地方局でも放送できないと判断される場合もあった。関西(西日本)と関東(東日本)でたかじんの印象が違うのはこのためである。このような事から、在阪局制作のレギュラー番組でも基本的にたかじんは東京キー局や地方局へのネットを断わり、放送地域が拡大することを不服に思っていた[49]。実際、1998年3月の『たかじんnoどォ!』(読売テレビ)の終了以降、たかじんのレギュラー番組は関東地区では独立局でのみ放送し、キー局では放送されなかった。

たかじんの出演する番組は1998年以降、静岡県以東の東日本の放送局では放送されない時期もあったが、後に、『そこまで言って委員会』が関東、福島、岩手、青森、山形、福井、沖縄[50] 以外の全国各地で放送されることになった。特に北海道中京圏愛知岐阜三重)、広島県熊本県(一時は愛媛県富山県でも)では死去時点まで出演していた全番組を放送していることもあり、関東以外での知名度は上がっていた。関東地方でのマスコミ露出が少なかった1999年頃には一部で死亡説が流れた事がある。普段のレギュラー番組で、47都道府県関係なく、放送禁止用語が飛び交う内容で身内を含んで容赦なく批判していたが、2005年1月1日付朝日新聞東京本社版別刷り特集にインタビューが掲載されている。一方で、「くるダス」(アスコム)のインタビューでテレビ東京を応援しており、『ペット大集合!ポチたま』と『新春ワイド時代劇』(両番組ともテレビ東京)に太鼓判を押している。

2009年12月12日放送の『たかじん胸いっぱい』で、番組が放送されていない秋田県東京都山口県の一般人に『たかじん胸いっぱい』を見てもらい(後に秋田県、山口県でも「たかじん胸いっぱい」が放送開始されたがその後、共に打ち切りとなっている)、番組自体の感想に関するアンケートをとったところ、「東京では受け入れられない」「月亭八光は東京で通用するだろうが、大阪色の強いたかじんは無理だろう」という意見を紹介。その際、たかじんは「うん、(番組及び自身が)売れへん。」「言い方によったら売れへんと言えるけど、俺が東京に入ったらんねん。昔は東京の番組に出てくださいって頭下げられたことあってんで。こんなに心を解放する人の気持ちが温かい大阪を退けて東京に入るアホがどこにおんねん。」と発言した。

2004年には、親交のある細木数子たっての希望でフジテレビ系全国ネットの『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にゲスト出演。その3年半後、2008年7月21日の読売テレビ制作・日本テレビ系全国ネット『情報ライブ ミヤネ屋』に仕事復帰したばかりの親友の歌手・松山千春との単独インタビューのインタビュアーを務めた(後述)。2009年12月14日放送の『SMAP×SMAP』(フジテレビ・関西テレビ系)「BISTRO SMAP」で宮根誠司がゲスト出演した際にVTRで出演。宮根に対して「宮根 お前が『SMAP×SMAP』のゲスト?100年早いわ、ドアホ!」と一喝した。あくる日の12月15日には『うたばん』(TBS系)のご当地名曲ソング特集で「やっぱ好きやねん」を歌っているVTRが流れた。たかじんがTBS制作の全国ネットの番組への登場は17年ぶり(MBS制作も含めれば1997年に終了した「たかじん・ナオコのシャベタリーノ」終了以来12年ぶり)。2010年5月17日放送の『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)のコーナー「今聴きたい名曲!HEY!HEY!HEY!」ではケンドーコバヤシがゲスト出演の際に、「大阪」をテーマにした持ち込み企画で「やっぱ好きやねん」を取り上げ、同曲を歌うたかじんがVTRとして登場した。

2010年3月28日放送のテレビ朝日「超タイムショック」で、「“家鋪隆仁(たかじんの本名)”を何と読むか?」と問題が出て、さらに解答をおさらいの時に、写真ながら、たかじんが歌っている姿が久々にテレビ朝日制作から全国ネットで流れた。他にも東京のラジオ番組で「やっぱ好きやねん」が流れたり、ネプチューンの名倉潤が番組で、「やっぱ好きやねん」を熱唱したり、伊集院光がラジオ番組でたかじんの事をネタにしたことがあるが、これらに関して特に問題は起きていない。

2011年11月26日放送のフジテレビ『めちゃ2イケてるッ!』にやべっち寿司のコーナーでゲスト出演し、久方ぶりに在京キー局に登場した。たかじんは持参したワイン片手に自らがカウンターに立ち、めちゃイケメンバーの岡村隆史矢部浩之加藤浩次三中元克らを席に座らせて自らが大の番組ファン(視聴率を毎週チェックしていると公言)であることを明かし、収録の2日前から東京入りしていたことや東京で遊び目的の別宅を探しているなどを語った。放送中、矢部浩之も「たかじんnoばぁ〜や!」と驚くほどかつての『たかじんnoばぁ〜』を髣髴させ、ファンを喜ばせた。出演者は「毎年年末、たかじんさんを出演させたい。」と話していたが、2012年から休養生活に入り、2014年1月に死去したため実現しなかった。

在京局および一部地方局への批判

在京キー局や(キー局の意向に追随する)一部地方局の首脳はたかじんの態度を快く思っていない。筆頭がフジテレビ会長・日枝久で、これによりフジは『たかじん胸いっぱい』の人権侵害事件や『発掘!あるある大事典II』の捏造事件を庇いだてなく報じていたが、それ以上にたかじんは東京キー局や一部地方局の首脳を「きちがい」「アホの頂点」「東京を嫌って何が悪い。文句あるんやったらかかってこい」と非難している。とは言え、『たかじんONE MAN』で「俺が嫌っている都道府県は東京都だけや」と発言したことから、東京以外の首都圏の県を特に嫌っているわけではない。事実、前述の通り東京以外の関東地方では、たかじんの番組がネットされていた。しかし、上岡龍太郎や島田紳助同様、和歌山県に対しても、TVなどで「近畿のお荷物」などと暴言や悪口を発言しており、吉本を中心とした関西芸人にこのような傾向がある。

在阪民放各局の首脳陣とは深いつながりがあり、自分の番組以外でもキャスティングや企画・編成にも関わる場合があった。

レギュラー番組での共演者を厳しく選別

たかじんは嫌いな人物のブラックリストを持っており、たかじんの逆鱗に触れた人物はたかじんのレギュラー番組に原則キャスティングされなくなる。その傾向は、たかじん批判、大阪批判をした人物となる。しかし、場合によりけりで状況が変わる。このブラックリストが実在する事は、たかじん自身が公表しており、リストの実物を冠番組内で見せた事もある。在京局のアナウンサーやNHKのアナウンサーは、フリーアナウンサーになった者も含め全員が載っていると発言していたが、過去には『たかじんnoどォ!』ではみのもんた(元文化放送)、『たかじん胸いっぱい』では古舘伊知郎(元テレビ朝日)、『ムハハnoたかじん』では小倉智昭(元テレビ東京)とそれぞれ共演し、他にも有賀さつき富永美樹(いずれも元フジテレビ)、魚住りえ(元日本テレビ)、鈴木史朗(元TBS)などと共演し、『たかじんONE MAN』ではフリーアナウンサーについて取り上げてフリーアナのゲスト(有賀・山中秀樹など)も出演している。また、逸見政孝(元フジテレビ)に関しては、自身の冠番組にて嫌う発言をしていたが、逸見の訃報を知り残念そうに語っていた。

明確に言えば、ブラックリストの掲載人物はたかじんのレギュラー番組にキャスティングされなくなるというだけであり、在京局の番組などで共演することは皆無ではなかった。例えば、フジテレビ『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜』にたかじんが出演した時、徳光和夫(元日本テレビ)と共演している。逆に上記のことから、たかじんが共演したい芸能人から拒否されて、たかじん自身が後悔する面がある。それと同時に、たかじんが批判した芸能人が自分、および「たかじんnoばぁ〜」などの番組のファンだと知り、ショックを受けることもあった(例えば、桑田佳祐などがその例)。

NHK(公共放送)の番組には絶対に出ない

歌手デビュー時のオーディションで、NHKへの悪口を連発した挙句に、NHK側のあまりに横柄な態度にたかじんが噛み付いたために不合格になったこと、NHK大阪放送局の『BK芸能チャンネル』での何らかの事件がありそれを皮切りに「役人・官僚体質」「中身のない番組を垂れ流して受信料を取る」などの批判もあり、それ故にNHKに対して異常なまでの憎悪を抱くことになる。実際、普段のレギュラー番組でも「腐ったヤクザな放送局」「アホの集まり」「さっさと潰れろ」「民営化しろ」「価値がない」などと非難したり、放送禁止用語を連発することも頻繁にあった。民放在京キー局同様、NHKアナウンサーも前述のブラックリストに掲載していた。無論、全員が掲載されているため、元NHKアナウンサーとの共演もたかじんは基本的に拒絶していた(『ムハハnoたかじん』で共演した宮川俊二大塚範一は例外)。

紅白歌合戦』に関しては年末年始に番組内で特大パネルを用いての批評が定番と化していた(後に減少傾向に至っており、援護をするようなコメントに傾向していた)。実際、NHK側が「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定したことから、たかじんは生涯1度も紅白に出場することはなかった。それでも、2009年の『第60回NHK紅白歌合戦』の出場を最後に「後進に枠を譲りたい」との理由で紅白勇退を表明した布施明が、たかじんの紅白出場を推奨したが、実現はしなかった。持ち歌が紅白の舞台で披露されたのはたかじんの死後で、死去した2014年の『第65回NHK紅白歌合戦』にて、たかじんと親交の深い天童よしみが追悼の意味を込めて、「やっぱ好きやねん」を熱唱した。

たかじんの死後、40年以上親交を続けると同時にライバルでもあった上沼恵美子(紅白で2回紅組司会を務めた)が、読売テレビ・中京テレビ上沼・高田のクギズケ!』で「たかじんさん。東京嫌いやとか言うてたけど、紅白出たかったんと違う?本音の本音の本音は歌手ですからね。関西ローカルタレント同士で、来世は、彼が歌で紅白に、私が司会…そんなお付き合いをしたい…」と、涙ながらに語った[51]

2001年、NHK大阪ホールこけら落しとして立ち上げられた『わが心の大阪メロディー』の出演を依頼されるも「誰が糞NHKなんかに出るか」と即座に断った唯一の人物でもあり、それを自慢話にしている。NHK受信料も払っていないと公言。ただ、同局の『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』、『(連続テレビ小説芋たこなんきん』に対しては高く評価していた。

自身の出演は拒絶していたが、自身の持ち歌をNHKの歌謡番組で他の歌手がカバーすることや『NHKのど自慢』出場者が選曲することや、ラジオ番組でレコード演奏することまでは拒絶していなかった。

朝日放送幹部との対立

朝日放送(ABC)では、1980年代後半から1990年代前半まで、『聞けば効くほどやしきたかじん』(ラジオ)のメインパーソナリティや『晴れ時々たかじん』(テレビ、いずれも生放送番組)の司会者として視聴者・リスナーから人気を博した。しかし、後述する関係者の発言などで心証を害したことから、『晴れ時々たかじん』の終了後はレギュラー番組を持たなかった。

『聞けば効くほどやしきたかじん』では、当時『必殺』シリーズ(ABCテレビ制作)のスポンサーだった養命酒製造の主力商品・養命酒について、「説明書には『だんだん効いてくる』と書いているけど、いつ頃から効くのかよく分からない」という単純な疑問から「全部(ボトル1本分)飲んだら吐いてしもた」と発言。この発言が同社に伝わったことから、たかじんはラジオ制作局長の勧めで始末書を提出せざるを得なくなった。さらに、別の出演日に自家用車でABC本社内のラジオスタジオへ向かったところ、交通渋滞に本社警備員の不手際が重なって本番開始5分後にスタジオへ到着。スタジオへ着くなり、「駐車場へ車を入れようとしたら、警備員が理由(社内での社葬)を言わずに駐車場へ入れさせてくれなかった。毎日来てる人間がどうかも分からんような警備員を使うぐらいだから、この放送局(ABC)はそもそも社員教育がなっとらんのよ」「若い社員がアホなんは、上司がアホやからやろ。ひょっとすると、ここはアホから順番に社長になっていきよるのんと違う?」とまくし立てた。しかし、この放送を聴いていた当時の副社長が激怒。たかじんにABCへの永久出入禁止処分を課す構えを見せたことから、たかじんも副社長への謝罪を拒否した。結局、当時の社長・藤井桑正が「そんなこと(出入禁止)をしたら(ABCの番組へ出演する)タレントがいなくなる」という一言で仲裁に入ったこともあって、たかじんは1週間の謹慎だけで放送に復帰した[52]

『晴れ時々たかじん』では、視聴率が低迷していた開始当初に、馴染みの鉄板焼屋で旧知の乾浩明(当時のアナウンス部長)と遭遇。前々番組の『ワイドショー・プラスα』シリーズで長らく司会を務めてきた乾に対して、「いやー、視聴率が全然上がりません。番組やめたほうがよろしいですかね?」と相談したところ、乾から「そやそや、君には荷が重すぎるんやで。早よ辞めた方が君のためやで」と冗談交じりで忠告された。この忠告に対して、たかじんは「乾を見返してやる!」と奮起。結果として、同番組の視聴率を(平日午後の番組としては)異例の高さにまで押し上げた[53]。しかし、たかじんの意向で放送を終了した直後の慰労パーティーにおいて、朝日新聞出身の幹部が挨拶の中で「なぜこんな番組が視聴率を取るのかわからない」と発言。この発言に激怒したたかじんは、この幹部のような朝日新聞出身者への反感を抱くあまり、長らくABCテレビ・ラジオの番組へ出演しなかった。

ただしたかじんは、ABCの番組へ出演しない時期も、同局プロパーの役員や職員(主にテレビ番組の制作スタッフ)と深く交流を続けた。2002年と2003年には、『晴れ時々たかじん』時代のプロデューサーの下で、『おやじと、娘と、たかじんと』という特別番組に出演。第1回放送の公開収録では、最初の妻との間に授かった娘(長女)からの手紙をパートナーの秋野暢子が代読したところ、たかじんが号泣するというシーンがあった[54]。もっとも、ABCの関係者が第3回の制作をたかじんに打診したところ、「それなら(特番ではなく)レギュラー番組に起用しろ!」との一言で拒否している。

また、ABCの若手アナウンサー時代に『サタデーたかじん』『聴けば効くほどやしきたかじん』で共演していた宮根誠司には、かねてから親交のあった西村嘉郎(元・社長、現在は常勤特別顧問)への直談判を通じてフリーアナウンサーへの転身(2004年4月)につなげた。さらに、龍谷大学放送部の同期生であった林伸一郎(元・アナウンサー→ 監査役会事務局事務長)とは、林がアナウンス職を退いた後の2003年4月頃に『たかじんONE MAN』(MBSテレビ)の「対面ショー」という企画で久々に共演。『必殺』シリーズをはじめ、ABCテレビ制作のドラマのプロデュースで知られる山内久司(元・専務、現在は顧問)も、役員からの退任後に『やしきたかじんプロデュース』(テレビ大阪)や『たかじんのそこまで言って委員会』(読売テレビ) にゲストで出演していた。

ラジオ大阪の番組とは無縁

たかじんは在阪局であるラジオ大阪(OBC)でレギュラー番組を持った経験がない[55]

ラジオ大阪でたかじんが出演した実績は、ゲストとして「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」・「歌って笑ってドンドコドン」に出演したことと、代役として出演した『オールナイトニッポン』がラジオ大阪のスタジオからニッポン放送のネット受けで放送されたことがあるのみである。

特にラジオ大阪を嫌っていたわけではないが、出演経験が少ないため、たかじんはラジオ大阪のことを話すことは滅多になかった。しかしながら、『たかじん胸いっぱい』では、元OBCアナウンサーの中井雅之と共演していた。

地方局に範囲を広げれば、ネット受けしたことがある放送局を含め、出演したことのない放送局は多数存在する(出演経験のある地方放送局は、RKB毎日放送熊本県民テレビ北海道文化放送など)。

生放送のレギュラー番組を極力持たない

1990年代まで生放送番組に出演していたが、1998年3月に『たかじん生JINJIN』(MBSラジオ)を終了してからは、生放送によるラジオのレギュラー番組を持たなかった。ただしテレビでは、『ムハハnoたかじん』(関西テレビ)や『たかじんNOマネー』(テレビ大阪)で、定期的に生放送を実施した時期があった。また、他の冠番組でも、生放送による特別番組を編成したことがある。

たかじんのそこまで言って委員会』が熊本地区で20%超の高視聴率を獲得したことを記念して、辛坊治郎(読売テレビ解説委員)と共に2007年7月9日にくまもと県民テレビのローカルワイド番組『テレビタミン』に生出演し、2008年4月10日放送の『なまみつ』に桂ざこばとともに番組中に乱入して出演した。同年8月、タカアンドトシの冠番組『タカアンドトシのどぉーだ!』(北海道文化放送の番組で『胸いっぱい』とは重複時間も発生する番組)にもゲスト出演している。

タレントや芸人に対する眼力

大橋巨泉の様にまだブレイク前のタレントと芸人の才能を見抜く眼にすぐれていると評された。

前述のように、関西地方の人気アナウンサーだった宮根誠司を、全国区のフリーアナウンサーに転身させたことで知られる。横山たかし・ひろしはこれまで目立った活躍はなかったが、「たかし・ひろしは面白い」と絶賛したことから、たかじんの番組に呼ばれることが増えた。コンビニの雑誌の表紙を飾っていた、駆け出し当時(グラビアアイドルとして)のほしのあきを目に留め、後日即座に自身の番組にブッキング。その後ほしのが全国区でブレイクしたため、改めてゲストにブッキングすることが困難になってしまった(なお、ほしのはたかじんの番組にレギュラー出演していたが、現在表向きは育児休業という形で出演を見合わせている)。

一方で、たかじんが才能を見抜けなかった者として、前述するように酷評した秋元康などがいる。

また、干された芸人に対する面倒見もよく、旧友の太平サブローが吉本復帰をしたいと知った時は上層部に自分も一緒に土下座をした逸話もある[56]

不祥事

味の素激昂事件

  • たかじんの東京嫌いを決定づけた事件が、1992年12月、たかじんが司会をしていたテレビ朝日の深夜番組『M10』の料理コーナーで起きた。たかじんが「こんにゃくサイコロ ステーキ」を調理中、隠し味に必要な味の素が見つからず、番組スタッフや助手を務めていた服部栄養専門学校の生徒に「味の素はどこや?!」と連呼したが、誰も答えなかったため、アシスタントディレクター(後に小宮悦子と結婚した人物)を殴り、スタジオのセットを破壊する出来事があった。その状況に慌てた共演のトミーズ雅が「味の素を入れたことにしましょう」と軌道修正を図るフォローをしたが、「出来ん、それは。味の素が無いのに出来ない!」と調理を放棄。たかじんは生放送中にも関わらず、スタジオを後にして帰った。スタジオに残されたゲストの中山秀征大竹まことは、たかじん作成の進行表だけを頼りに残りの放送時間内で「味の素を入れない、こんにゃくステーキ」を完成。トミーズ雅、大竹、中山の3人で試食をして、波乱の生放送を締めくくった[57]
    • ただし、この激昂は味の素だけが原因ではなく、味の素はきっかけに過ぎなかった。それ以前にスタッフが、大阪のタレントを見下している感が強すぎたからである。後日、たかじんは別の番組で「ファックスで再三、打ち合わせしたにも関わらず、味の素を持って来なかったことに腹を立てた」と話している。この事件で、たかじんは右手を骨折した。
  • 生番組中に「味の素」と連呼したことで、味の素本社から1000本の味の素が送られて、スタジオのセットやたかじんの楽屋の至るところに置かれるという後日談も生まれた。この差し入れは同社からの善意によるものとされているが、激怒した原因は打ち合わせをしたにも関わらず制作スタッフの怠慢で進行に支障を来したことから「味の素がなかったから」とすることは本意ではなく「あるかないかの問題ではなく、制作業務としての当然の通達が全く機能していなかったためである」と本人が吐露している。
  • 後に番組内で、たかじんは「騒動を引き起こした責任を取って、番組を自ら降板する」と宣言したが、トミーズ雅から説得され、一旦は慰留を受け入れたが、バーのマスター役のたかじんとトミーズ雅が有名人を迎えてトークをする『M10』金曜日の番組構成は、既に関東地区以外で放送されていた読売テレビの『たかじんnoばぁ〜』と全く同じであったため、この事件で『自局制作の番組を模倣した番組』が関東ローカルで放送されていたことを知った読売テレビが、テレビ朝日と制作プロダクションのオフィス・トゥー・ワンに事情説明を求めるまでに発展して、翌1993年3月に降板した。同時に、彼の東京嫌いが決定的なものとなった。
  • その後、『上岡龍太郎にはダマされないぞ!フジテレビ)』に、たかじんがゲスト出演した際、司会の上岡龍太郎のアイディアで、セットに「味の素」を敷き詰めたという後日談もある[58]
  • 後に『たかじんTV非常事態宣言』の企画で、味の素 大阪支社を訪れた際、この事件が味の素の社内でも伝説として語り継がれていることを知る。

読売新聞社員引き回し

新曲のキャンペーンで読売新聞大阪本社を訪れた際、取材記者が挨拶も無くアルバムを一瞥してテーブルに放り投げ開口一番「売れとるらしいな、で、なんや?」と尋ねた。記者のあまりの横柄さに激怒したたかじんは記者の髪の毛をつかんで引きずり回す事件を起こした[59]

名誉毀損裁判・勧告

  • 2005年、関西テレビ『たかじん胸いっぱい』での発言で、杉田かおるの元夫鮎川純太への名誉毀損行為で人権委員会 (BPO) から人権侵害と認定され、最も重い「以後斯様な事のないよう、企画・編集の体制を整えるべきである」との勧告処分を受けている。
  • 『たかじんONE MAN』2005年10月18日深夜放送分で、離婚した堀ちえみの元夫について「別れるときは大変やった。最高裁まで行った」「男が絶対別れへん言うた」などと発言したことで、2006年1月に元夫が、事実と違う発言により名誉を傷つけられたとして、たかじんと番組を放送した毎日放送に、計2200万円の損害賠償を求めて提訴した。12月22日、大阪地方裁判所で、たかじんと毎日放送に対し、「発言は公益性を欠く」などとして330万円の損害賠償を命じる判決が下され、たかじんは『判決には従います』と控訴しない意向を示した。2007年4月に総務省から厳重注意処分。

エピソード

酒絡み

  • 大相撲の大阪場所で数多くの幕内力士と飲みに行ったが、たかじんと飲みに行った力士全員が一人の例外もなく全員怪我で休場に追い込まれるという事態になり、日本相撲協会がたかじんに力士との接触の自粛要請をするという異例の事態に発展した。このことに自分の番組でネタにし「俺が何悪いことしたんじゃ!」とぼやいていた(過去に貴闘力を引き連れてはしご酒をしたこともある。また、暴走族をはしご酒に巻き込んだこともある)。
  • 京都会館のコンサートで、ステージ上にはタバコ水割りを用意させ、水割りがなくなるとボーイが取りに行くというもので、そういう状況で当時全く無名でヒット曲が皆無であったたかじんは延々としゃべり続けた(1ネタ40分程度)。客席はホステスばかりで香水の匂いが相当きつかったという。半ばエンドレスの状況であったため、ついに演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、たかじんは京都会館を数年間出入り禁止になってしまった。
  • 客引きに「暴力バーあるんやったら入ったるわ」と言い、大阪・梅田にある阪急東通商店街の暴力バーに入り、ビール小瓶2本を注文し、その勘定が5万円程度だったことに激怒し、「俺を舐めとんか?何やこの勘定は。お前とこ暴力バーやろ。10万は取れるはずやろが。暴力バーが生半可なことすんなドアホ!!」と一喝した上で説教を始め、最後にビール小瓶2本分に相当する10万円払って帰った。金を払って帰る際に店の奥から若い連中が出てきて「兄貴ありがとうございます」と言った[60]
  • 前述の通りたかじんのファンであった、桑田佳祐サザンオールスターズ)は、嘉門達夫桂雀々を頼りに、たかじんに電話を掛けたことがあり、その際桑田・たかじん共々酒に酔っており、たかじんはバーの女性店員に説教をしている最中であった。桑田が挨拶をすると、たかじんは「あぁっ!?」と聞き返した。たかじんはこの事について、「雀々からの電話だったので、桑田を小朝と聞き間違えたのかもしれない」と述べている。それらを2010年8月1日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」で触れた際にたかじんは桑田を激励する発言[61]をすると同時に「桑田を番組に呼びたい」と述べていたが、実現しなかった。また、桑田およびサザンの所属レーベルはたかじんと同じビクターである。

音楽関係絡み

  • 愛用楽器は「MARTIN D-41」(アコースティックギター)である。
  • 1987年に徳島文化センターでコンサートを行った際、演奏に入る前に「お客さん、今から歌いますけど、その後の話はとっておきの大ネタですから、聴き逃したら一生後悔しまっせ。トイレ行くなら歌の間に行って下さい」と、たかじん本人は冗談のつもりで言ったが、いざ5曲目の『My Friend』の演奏が始まると、一斉に聴衆が立ってトイレに行きだしたという逸話がある(コンサートを聴きに来ていた大阪遠征組のファンはこの聴衆の行いに対して激怒したという)。
  • プリンスホテルのディナーショーで従来通りのディナーショーしか出来ないという理由でキャンセルするも、ホテル側が違約金600万を要求した。これにたかじんが「上等やないか」とホテルに乗り込み「600万でええんやな。ディナーショーやめさせてもらうわ」と札束を投げ出し帰った。これにホテル側が慌て対応策を出し、かろうじてディナーショーを開催することができた(他にも今は無きホテルプラザでボーイの態度が気に入らないとの理由でディナーショーをキャンセルしたことがある)。
  • 北新地の本通りでストリートライブを見ていたたかじんが「下手じゃ!」とストリートミュージシャンを殴り、ギターを取り上げ、ストリートライブを始めだした。それからしばらくして、偶然、金村義明が通りかかったのを見つけると「金村、こっち来んかい!」と呼びつけ、「お前も金出せ!」と1万円を出させた。その後、たかじんと金村でたかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』のサビの部分を10分ほど延々と歌っていた(たかじんが泥酔していたためサビの部分しか思い出せなかったという)。最終的にチップが20万円くらい集まり、そのストリートミュージシャンに全額渡して帰っていった。
  • レギュラーラジオ番組であった『ハローナショナルショールーム』(MBSラジオ)にゲストとしてECHOESがプロモーションで出演した際、ボーカルの辻仁成の横柄な態度(番組に出演しておきながら質問されても無視し、何を訊かれても「CDを買ってもらえれば分かりますよ」としか答えないなど、全くやる気のない受け答え)に番組が進行しなくなってしまい、最初は下手に出ていたたかじんと出演者であった泰葉がついに激怒。泰葉がたかじんに「やっちゃいな!」と言い放ち、たかじんは録音を止めさせて、「そんなんやったらわざわざここへ来んと、CDだけ売っとったらええやろ!」と譜面台を投げつけ一喝、会場は騒然となった。が、聴衆はむしろ拍手で応えたという。泰葉は番組収録後、たかじんに感謝の意を伝えた。後に語ったたかじんの言い分は、「喋るのが嫌やったらFMに出ろ! ここはAMじゃ!」というもの。ただし、「リーダーはどう思いますか?」というたかじんの質問に、辻が何も答えなかったことも怒りの原因の一つだが、ECHOESのリーダーはドラムの今川なのに、たかじんが辻をリーダーだと勘違いしていたという、たかじん側の落ち度もあった。この件に関して、「あの時(25才)の自分は若かった。たかじんさんの檄を胸に刻み、今は初対面の人には礼儀正しく挨拶するようにしています」という辻の反省と感謝の弁が、2014年11月8日放送の「たかじんNOマネー〜人生は金時なり〜」で流れた[62]
  • 2009年10月26日の京都会館第1ホールでのコンサートで、8曲目の「なめとんか」を歌い終わり、喋り始めるや否や舞台下手から転落し、肋骨3本を骨折、膝を強打し、膝に血と水が溜まる重傷を負った。なお、同年12月14日に同会館で追加公演を行った(これが生涯最後のコンサートになった)。2002年11月8日での同会館でも、細木数子ネタを披露中に舞台から転落している(しかも、過去に転落したことを喋っている最中に転落した)。
    • 過去では、和歌山のコンサートで初めて転落したのを機に、神戸のディナーショーなどで転落している。
  • 「大阪恋物語」をぜひコブクロに歌ってほしいとノートに綴っており、コブクロが2014年の夏フェス「大阪の陣400年音楽祭」にてカバーを披露することによって実現した。[63]

テレビ・インターネット絡み

  • 休みの日は朝から晩まで自宅に10台以上のHDDレコーダーに撮った録画したテレビ番組を鑑賞し、テレビ局の作る番組の動向をチェックし、気づいたことをネタ帳に記してトークに生かしていた[64]
  • 愛用している指し棒は「開明ポインター」。
  • 大阪・八尾市にある旭食品が製造している「旭ポンズ」をテレビ・ラジオで絶賛したことがきっかけで、関西で大ヒット商品となり、たかじんが火付け役となって多くの著名人にも愛用されるようになった。他にも、通販の商品などたかじんが取り上げた商品はすべて注文が殺到し生産が追いつかない事態となった。
  • たかじんが番組中に激怒することがよくあると同時に、たかじんの発言に対し、共演者(特にゲスト)が口論となった末、本番中に帰ってしまうこともよくあった。
  • スポーツ中継が嫌いであるが、かつての南海ホークスのファンであり、野球中継には数年に一度は登場していた。たかじんは常に、「巨人戦中心のテレビ中継をすべきでない」など、在京局のプロ野球中継にやり方を批判していた。たかじんの趣味の1つであるゴルフ番組にも登場することがあった。また、かつては馬主でもあった。たかじんは他にバレーボールなどで応援するアイドルを起用することに対して、「東京のテレビ局や一部の地方局は、アイドルに無駄な仕事をやらせる」などと不満を述べることが多かった。
  • たかじんのそこまで言って委員会』が熊本地区で20%超の高視聴率を獲得したことを記念して、辛坊治郎(当時読売テレビ解説委員)と共に2007年7月9日にくまもと県民テレビテレビタミン』に生出演した際、視聴者が電話参加するプレゼントクイズで賞品を逃した参加者に「1万円札にサインして送る」と宣言し、司会の本橋馨村上美香両アナや参加者の「本当にいいんですか?」という疑問に「ええの、ええのよ!」と即答し、視聴者に対するサービス精神の旺盛さが垣間見られた。
  • 2008年7月21日の読売テレビ『情報ライブ ミヤネ屋』に仕事復帰したばかりの親友の歌手・松山千春との単独インタビューのインタビュアーを務めた。たかじん自身にとっては2004年12月に放送された『幸せって何だっけ 〜カズカズの宝話〜2時間SP』(フジテレビ)以来、全国ネットの番組出演は3年半振り。VTRとはいえ、東京・日本テレビでも流れている番組に出演することは異例のことであった(この日は特別編成のため1時間の短縮版だったため、放送する時間帯が必然的に14時台の全国枠しかなかった)。日本テレビでも流れているためか、普段よりは大人しかった。また、たかじんを紹介する資料映像も当時の人気番組である『たかじんのそこまで言って委員会』の映像は使われず[65]、日本テレビでも放送されていた『たかじんnoばぁ〜(レギュラー放送版ではなく、前日7月20日に読売テレビローカルで放送された復活版第2弾)』の映像が使われた。その直後の8月2日深夜に『たかじんnoばぁ〜』復活版第2弾が日本テレビで遅れ放送された。2004年ごろに放送された『ウチくる!?』(フジテレビ)で田嶋陽子がゲスト出演の際に、田嶋の親しい友人の一人として「メルくる」でVTRにてコメント出演したことがある。
※後日、2008年8月30日放送『ズームイン!!サタデー』のコーナー「モッチーのよくばりエンタ」にて「やしきたかじんPRESENTS koi-con」で松山千春復活熱唱の記事をVTRにて紹介され、たかじんの姿が数秒映った。
  • 2011年11月26日放送のフジテレビ系列『めちゃ2イケてるッ!』2時間SP内のコーナー「やべっち寿司」に出演した。全国ネットの番組出演は約3年振り、東京での収録は約7年振りである。また、収録時間は1時間10分(実際の放送は10分28秒)。この2時間SP中に関東・関西ともに瞬間最高視聴率を記録したのは、たかじんが出演した部分であった。

競馬絡み

  • 放送作家の古川嘉一郎が番組の打ち合わせでたかじんの家に来ていたとき、その日がたまたま土曜日であった。打ち合わせ中、競馬中継を観ながら構成作家が「このレース、●●(馬名)で鉄板」というのを聞いて、たかじんは「『鉄板』ってなんですの?」と聞き返した。その馬が1着になれば単勝オッズ2.0倍だから2倍になって返ってくる、ということを聞かされ、その馬の単勝式馬券に100万円を投じたのが、競馬との関わりのきっかけであったが、そのレースは鉄板だったその馬は勝てず、100万円は一瞬で消えた。
  • JRAの馬主登録をしており、2009年の秋華賞を勝ったレッドディザイアの母、グレイトサンライズをたかじんが所有していた。しかし、2006年以降は個人で競走馬を所有していない。

その他

  • ヘビースモーカーで、多い時は煙草を1日60本も吸っていたようである。銘柄はピース・スーパーライト・ボックス喫煙による肺気胸の症状も患った。医師から「煙草を止めなければ死にますよ」と禁煙を勧められ、2008年11月から電子たばこも使っていた。
  • 趣味であるゴルフをすることもあり、ハワイや熊本でワンラウンドプレーした様子がテレビで放送されたことがある。ゴルフのベストスコアは80であると番組内で発言した。ハワイでは、ハーフ39とホールイン・ワンを記録している。
  • 桃山学院高校では新聞部の部長を務めたが、多くのいざこざから自らの手で新聞部を廃部にした。その経緯から、同校の卒業名簿の著名な卒業生一覧から「やしきたかじん」の名は抹消されている。文化祭にたかじんをゲストとして招聘する案が学生から度々出るが、教職員の猛烈な反対で頓挫している。なお、桃山学院高校の新聞部は廃部の状態である。
  • 1980年代、まだ留守番電話が普及していない頃に高価な機材(15万円位するヤマハのポーターサウンド)を買い(当時は大阪で売っていなかったためわざわざ名古屋まで買いに行ったという)、自作のメッセージを作っていた。自作メッセージには朝用・昼用・夜用とあり、夜用は映画『ジョーズ』のテーマ曲を使用していた。しかし、メッセージを変えるため朝・昼・夜と自宅に帰らなければならず、「こんなもんやってられへん!」とやめてしまった。
  • 南海ホークスの熱狂的なファンでもあった。南海時代はホークス関係で取材を受けたり、南海がダイエー身売りされる話が出た際も戎橋で身売り反対の署名活動に参加したり、南海ホークスにまつわるレコード「南海ファンやもん」(歌:アンタチャブル)をプロデュースしたり、といったエピソードがあった。その後ダイエーに身売りされてからはファンをやめている。
  • 『たかじんONE MAN』で2003年の長者番付(関西版)にてTOP10に入っていた時、「長者番付けでTOP10入ったろ思て、去年(2002年)本気で歌やったんや」と言っていた。
  • 2008年から松山千春との縁により、札幌市と大阪市の両方で生活していた。番組中でも、札幌での生活ぶり(大半はすすきの界隈の話)を話す機会が多かった。また、気に入っているお笑いタレントの1人であるタカアンドトシの冠番組『タカアンドトシのどぉーだ!』(北海道文化放送で、『胸いっぱい』とは重複時間も発生する番組)にもゲスト出演している。『たかじんTV非常事態宣言』を札幌テレビで収録したこともある。
  • 晩年は北川景子のファンであった。過去には、安井ゆたか吉川十和子安めぐみ長澤まさみ井上真央の事も気に入っていた時期もあり、自身の冠番組でも語っていた。
  • 2009年7月は味の時計台とのコラボで大阪と札幌で「心斎橋ラーメンACHA」を期間限定でプロデュースした[66]
  • 過去に福岡県などにある博多ラーメン「一蘭」福岡天神店入口横には、過去に来店した芸能人やタレントのサインがあるが、一蘭の接客システム(客と店員の間に暖簾があり顔を確認できない)のため気づかずに、サインをもらえなかった有名人の一覧に「やしきたかじん」の名前がある。
  • 上岡龍太郎などを除き、たかじん同様に「物事をはっきりという性格」のタレントとの交友が少なく、代表例として山城新伍和田アキ子らが挙げられる。ただ和田に関しては、和田がローカル番組にはほとんど出演しないため、東京嫌いであるたかじんとの共演が難しかったという事情もある。なお、明石家さんまや島田紳助など、たかじん、山城、和田それぞれと交友を持つタレントは多く存在した(和田も山城と親交があった)。たかじんは一度だけ番宣で『アッコにおまかせ!』に出演した事がある(東京でたかじんの知名度が低い事に愕然としていた)。
  • 2006年に椎間板ヘルニアを治療しているが、その主治医は衆議院議員伊東信久である。なお、伊東は日本維新の会の所属であるが、その代表の橋下徹と、伊東の仲を取り持ったのはたかじんであるともされている[67]
  • 「AKB48」に関しては極めて辛辣な意見を持っていた。2013年3月23日に放送された「たかじんNOマネーGOLD」(テレビ大阪)で「AKBのAが出た時ダッ!とチャンネル変える」と発言し、「AKBの何がいけないのか?」と問われ、「団体主義だよね」「1つのコンセプトが、クラスで10番目くらいの可愛い子を集めるっていうけど、1人1人見たら10番目じゃなくて28番目ぐらい」と発言した。[68]
  • たかじんの2番目の妻の智子は「神経が細い人だったので、コンサートが近付いてくると、下痢でおなかをくだして、朝からトイレに何回も入ってましたね。精神的に追い込まれているのがわかりました」。弟子で付き人だった小丸は「普段、情に厚く優しい人柄だったたかじんが周囲に人がいるとなったとたん、自分を誇示するかのように威張り豹変した」「車を運転している際もひとりのときはそんなことはないのに、同乗者がいると難癖をつけられ、自分の力を誇示するかのように後部座席から殴打される」「酔っ払っているときは恐怖でしたね、人が怒られるのを見るのもつらかったですね。あまりに理不尽な怒り方をしはるんで。うわー、次は自分にくるんちゃうかって恐怖がありました」と語っている。[69][70]

死去時点での出演番組

自らが司会を務めるようになってから、『晴れ時々たかじん』以後は番組の打ち切りは放送局が決めるのではなく、自らが「辞める」と言って終了すると公言していた。しかし、様々な事情が絡み合い「辞めたくても辞められない」と発言することもあった。また『そこまで言って委員会』は、三宅久之が亡くなった時点で番組終了と公言していた[71]。以上の3番組については、死去後も番組名に「たかじん」の名前を残す意向と報じられた[72]

だが、2015年4月から、『たかじん胸いっぱい』は番組タイトルから「たかじん」の冠を外し『胸いっぱいサミット!』(むねいっぱいサミット)に、『たかじんのそこまで言って委員会』も番組タイトルから「たかじん」の冠を外し『そこまで言って委員会NP』(そこまでいっていいんかい エヌピー)に改題された。

なお、残る『たかじんNOマネー』は『たかじんNOマネー BLACK』(レギュラー放送)のまま2015年4月以降もたかじんの冠を外さず放送を継続しており、「たかじん」名義では最後のレギュラー番組になった[73]が、同番組も2015年6月27日放送分を持って終了[74]。「たかじん」名義の冠番組は消滅した。

放送中の上記レギュラー番組が全て放送される地域は中京広域圏京都大阪府和歌山県奈良県広島県福岡県となっている。

過去の出演番組

テレビ番組

レギュラー番組(冠番組・特番も含む)

ほか

レギュラー出演

ほか

ゲスト出演

ほか

テレビドラマ(ゲスト出演)
  • 新・木枯し紋次郎 第25話「生国は地獄にござんす」(1978年3月22日、12ch) - 名無しの渡世人

ラジオ番組

ディスコグラフィ

代表曲

  • 明日になれば - 千葉真一主演テレビ時代劇柳生あばれ旅』の挿入歌としても流れている。
  • あんた - たかじんと一人目の妻との想いをベースに作られており、たかじんの最も思い入れのある曲のひとつであった。レコーディング中は何度も泣き崩れてなかなか歌えなかった。一人目の妻が急死してすぐのコンサートではこの曲を歌っている最中に泣き崩れて立ち上がれずに歌えなかった。たかじん二度目の再婚直後の1994年8月のシアタードラマシティのコンサートのラストで歌って以来封印されており、次に歌うのは生涯最後のコンサートのラストの曲とまで言い切っていたが果たせなかった。
  • やっぱ好きやねん - 東京の人間である作家の鹿紋太郎が、大阪の文化が大好きで作った曲である。たかじんはデモテープを聴いたとき不自然な関西弁に違和感を覚えたという。「やっぱ」は関東弁で、関西弁で正式には「やっぱし好きやねん」である。しかし、「歌詞がメロディーにのらないこと」と、「女性の一途な気持ちややり切れなさを歌いたいのであって、関西弁の歌を歌うのが目標ではない」ということで最終的にたかじんが関西関東合同弁でいこうと決めたという。2014年5月1日からJR大阪駅の発車メロディに使用される[75]
  • ICHIZU - 最初は「ナニワ・トワイライト」というタイトルであったが、たかじんが「今回は関西色を避けたい」「ナニワ・トワイライトでは売れそうなタイトルではない」と鹿に全面的に歌詞の変更を要求し完成した。
  • 未練〜STILL〜
  • 大阪恋物語-たかじんのコンサートで本編のラストで歌われることが多い定番曲。1988年の春のコンサートで初めて披露された(編曲はバンドマスターの土井淳)。その当時のタイトルは「OSAKA恋物語」であった(1988年8月13.14日のホテルプラザでのディナーショーのプレゼントに1988年6月17日の大阪厚生年金会館大ホールでのコンサートで「OSAKA恋物語」が収録されたカセットテープが配布されている)。その後、1989年4月21日にリリースされたアルバム「The Vocal」に収録されている(編曲は若草恵)のみで、シングルのリリースはない(販促用シングルは除く)。
  • なめとんか - たかじんが鹿に「いつもついていく女ばかりやから、開き直る女の立場で歌を作ってくれへんかなぁ」とリクエストしてできた曲である。しかし、この歌詞があまりに強烈であったため、鹿がこれ以上インパクトのある歌詞を書けずスランプに陥り、「もうこれ以上書けません。許してください」とたかじんに言ったという。この曲以降、たかじんは鹿の作品を歌うことはなくなった。
  • 泣いてもいいか
  • 東京 - コンサートの地名によってサビの歌詞の「東京」を地名に変えるのがこの歌の特長。1993年度全日本有線放送大賞「読売テレビ最優秀賞」「特別賞」受賞曲。
  • さよならが言えるまで
  • My memory

シングル

No. 発売年月日 曲名 CD・レコードのサイズ レコード会社名 備考・曲が使用された番組名
1971年5月20日 娼婦和子/さよならの言葉 EP 京都レコード 即日発売禁止
1st 1976年10月21日 ゆめいらんかね/流れ者 EP キングベルウッド デビューシングル
2nd 1977年7月21日 君はどこへ/ほんの昔 EP キングベルウッド  
3rd 1977年10月21日 焼けた道/けもの道 EP キングベルウッド テレビ時代劇新・木枯し紋次郎主題歌
4th 1978年12月5日 ながばなし/近頃の人生 EP キングレコード 大阪大衆音楽祭グランプリ受賞曲
5th 1980年1月20日 明日になれば/今さら・・ EP キングレコード テレビ時代劇『柳生あばれ旅挿入歌
6th 1980年10月21日 Walking on/明日になれば EP キングレコード テレビ時代劇『柳生あばれ旅』主題歌。作詞はいなばきみこ
7th 1981年2月21日 砂の十字架/スターチルドレン EP キングレコード 劇場版機動戦士ガンダム主題歌 2006年11月22日にオリジナルカラオケ付きで再発売
8th 1981年6月5日 かりそめのパートナー/スマイル・アゲイン EP キングレコード  
9th 1981年12月5日 横顔/ルームナンバー301 EP キングレコード  
10th 1982年5月21日 愛の時代に/さよならの落としもの EP キングレコード 愛の時代に:武田薬品工業CM「アリナミンA25」イメージソング/さよならの落としもの:NHKドラマ「大阪ドンキホーテ物語」主題歌
11th 1983年11月5日 ラヴ・イズ・オーヴァー/ハーバー・ライト EP ビクター音楽産業  
12th 1984年5月21日 あんた/愛したあとからメランコリー EP ビクター音楽産業  
13th 1986年9月21日 やっぱ好きやねん/Yume Irankane(Remix.Ver) EP ビクター音楽産業  
14th 1987年8月1日 ICHIZU/思い出オン・ザ・ロック EP ビクター音楽産業 当初、製造ミスでカセット版のB面には「やっぱ好きやねん」が収録された
15th 1988年3月21日 未練〜STILL〜/カウント・ダウン EP・8cmCD ビクター音楽産業 このシングルで初めてビクター音楽産業は8cmCDシングルを導入する
16th 1988年11月1日 愛することを学ぶのに/順子 EP・8cmCD ビクター音楽産業  
17th 1989年4月21日 大阪恋物語/ひとり覚え EP ビクター音楽産業 販促用
18th 1990年11月21日 なめとんか/晴れときどきTAKAJIN 8cmCD ビクター音楽産業 晴れときどきTAKAJIN:朝日放送「晴れ時々たかじん」オープニングテーマ曲
19th 1992年4月25日 泣いてもいいか/いっぱいの酒 8cmCD ポリスター  
20th 1993年3月25日 東京/夢の雫 8cmCD ポリスター 全日本有線放送大賞「読売テレビ最優秀賞」「特別賞」受賞曲
21st 1993年6月25日 さよならが言えるまで/見えない糸 8cmCD ポリスター 見えない糸:MBS骨髄移植啓発キャンペーン曲
22nd 1994年3月25日 優しい女には毒がある/はぐれた背中 8cmCD ポリスター はぐれた背中:関西テレビ「たかじん胸いっぱい」エンディング主題歌
23rd 1994年11月26日 泣いたら負け/いいがかり 8cmCD ポリスター 毎日放送「たかじん・ナオコのシャベタリーノ」エンディング主題歌
24th 1996年3月25日 もしも夢が叶うならば/思い出よりこの瞬間 8cmCD ポリスター  
25th 1996年11月25日 ICHIZU new version '96/明日になれば new version '96 8cmCD ポリスター  
26th 1997年7月9日 惚れた弱み/待ってあげて 8cmCD ポリスター  
27th 1998年6月24日 想い出にて/まだ夏は終わらない 8cmCD ポリスター  
28th 2003年10月24日 My memory/最初から今まで 12cmCD ポリスター  
29th 2010年11月24日 その時の空/やっぱ好きやねん(ニュー・ヴォーカル・ヴァージョン)/大阪恋物語(ニュー・ヴォーカル・ヴァージョン) 12cmCD ビクターエンタテインメント その時の空:OSAKAあかるクラブテーマ曲、作詞を秋元康、作曲を小室哲哉が担当
カセットシングルについては省略

アルバム

オリジナルアルバム

主なベスト・アルバム

ライヴ・アルバム

その他CD/レコード・出版物

  • 鳳 蘭「肖像画」(宝塚ミラーボール実況録音)たかじんがゲスト出演したライブの実況版。ベルウッド・レコードの好意により全曲収録。
  • 阪神タイガースの優勝を知らない子供たち
  • 南海ファンやもん(プロデュース)
  • くるダス
  • 雀々十八番 上巻(特典ディスクに収録されている「たかじん&の音曲漫才」に出演)

著書

参考文献

CM出演

DVD

親交のあった人物

  • 星野仙一(『たかじんONE MAN』でトークするなど、親交がある)
  • 藤山直美 - 過去には女性誌に結婚以上の仲であると報道されたことがある。特番等での共演も多く、プライベートでも12時間以上の長電話をしたり電話口で10曲以上も歌うなど、ふたりの相性が抜群によいことが伺われた。NHKが大嫌いなたかじんも、藤山が出演する連続ドラマ芋たこなんきん』については自身の番組で「どうぞよろしくお願いします」と(観覧客に向かって)言っていたが、「芋ブタなんきん」(←藤山の体格が良いことから)と本人の前でネタにもしていた(テレビ大阪の特番『たかじんプロデュース』にて)。また、藤山が関西テレビ『ムハハnoたかじん』2007年4月13日放送分でゲスト出演した際、たかじんと夫婦コントを演じた。
  • 松山千春(『たかじんONE MAN』に出演したことがある他、たかじんのコンサートなどで共演している)
  • 細木数子(『幸せって何だっけ〜カズカズの宝話〜』で強引にたかじんを共演させたことは有名である)
  • 藤田まこと(2010年2月逝去)
  • 六代桂文枝
  • 堀内孝雄 - 桃山学院高校時代の同級生。かつて同じ事務所に所属し、たかじんのライブなどにゲスト参加する事もある旧知の仲だった。また、20代後半の頃、東京・ニッポン放送の廊下で再会した際「いまアリスやってるねん」と近況を話した堀内に対して、まさか同級生が当時売り出し中のグループのメンバーであるとは思いもしなかったたかじんは、堀内がアダルト向け書籍のアリス出版で働いているものと勘違いし「お前ええ歳してもう少し真面目な仕事せんかぁ!!」と説教をした。
  • 桂ざこば - プライベートで親交があり、最高の親友であったが、一時期不仲になった時期があった。ざこばが朝丸だった当時、サンケイホールで行われる予定だった2代目桂ざこば襲名記念講演が中止となり、たかじんがその日のABCラジオで「サンケイをケツ割った」と発言してネタにした。後日、たかじんが当時司会を務めた『ナイトinナイト』水曜で「桂ざこば襲名記念特番」でゲスト出演したざこばが無口だったので、たかじんが「プロやったらしゃべれ」と一喝し、ざこばが「プロやからしゃべらんのや」と激怒し、収録中にもかかわらず帰ってしまった(2011年6月25日の『そこまで言って委員会』増刊号より)。この件で暫く不仲になったが、『たかじんnoばぁ〜』での共演で和解し、再び親しい仲に戻った。
  • 桂南光(「晴れときどきたかじん」の後継者として南光を指名。一晩中かけて口説き落とした)
  • 桂雀々
  • 笑福亭鶴瓶 - 祇園の弾き語り時代、金がなく食べ物を求め2人で四条河原町をさまよっていた。ホームレス不二家の店の前にあるゴミ箱にあったシュークリームを分けてもらおうと、ジャンケンでたかじんが行くことになったのだが、ホームレスに無視され続け、最後には「兄ちゃん、素人が食ったら腹壊すで」と言われ断られたという(2007年11月5日の『そこまで言って委員会』でも語っていた)。また、2010年5月1日放送の『たかじん胸いっぱい』では、41年位の付き合いになると語っている。
  • 明石家さんま(全国ネットの番組では、『恋のから騒ぎ』、『さんまのまんま』などで共演している)
  • 島田紳助(全国ネットの番組では、『なんでも鑑定団』などで共演している)
  • 大平サブロー
  • オール阪神・巨人(『MBSヤングタウン』で共演。その縁でコンビ結成30周年のNGKイベントに出演している)
  • 志村けん
  • ビートたけし
  • 上岡龍太郎(たかじんに影響を与えた人物の一人)
  • 円広志
  • 掛布雅之
  • 板東英二
  • 加藤みどり
  • 杉田かおる(番組内の発言で、厳重注意を受けたこともある)
  • 金村義明
  • 井岡弘樹
  • 岩本勉
  • 徳山昌守
  • シャンプーハット
  • 秋元康
  • 小室哲哉
  • 谷村新司- 桃山学院大学の先輩(二人共中退)。たかじんが鳴かず飛ばずの不遇の時代に、キングレコードから谷村新司の作詞作曲で『機動戦士ガンダム』劇場三部作の第一作目・主題歌『砂の十字架』で13万枚のヒット曲がある。
  • 桑名正博
  • リリアン
  • 三宅久之
  • 橋下徹(第19代大阪市長、第17代大阪府知事) - 番組で共演。大阪府知事選に当選した橋下と関わりのある人物としてたかじんの名前や過去の映像、番組名を在京のニュース・ワイドショーが頻繁に取り上げた。ただし、在京キー局にてたかじん自身の姿が放送される時は、たかじんの発言が大幅にカットされる事が多かった。
  • 平松邦夫(第18代大阪市長) - MBSラジオでパーソナリティをしていた際知り合いになった。橋下より数ヶ月先に大阪市長となったため、知り合いが大阪の二大トップになってしまったのは信じられないと自身の番組内で語っている。橋下と平松がトップ会談をするきっかけを作ったのはたかじんの番組『ムハハnoたかじん』である。時折非公式会談をたかじん宅で行なうことがあった(ただし、たかじんはあくまで場所を提供しただけであって会談に口は一切挟んでいないと『そこまで言って委員会』2008年6月1日放送分で語っている)。
  • 安倍晋三
  • 勝谷誠彦
  • 宮崎哲弥
  • 角淳一
  • 宮根誠司 - 番組で共演。『情報ライブ ミヤネ屋』でたかじんの話題を取り上げる事がある。
  • 梅田淳
  • 北野誠 - 北野とは長きにわたる親交があり、2009年からの謹慎後、北野を自身の番組で復帰させることを公言。実際に『たかじん胸いっぱい』2010年2月27日放送分で復帰後初出演を果たしている。
  • 佐々木恭介
  • 泰葉 - 1980年代半ば以降、MBSラジオ『ウィークエンド・イングス』『ハローナショナルショールーム』の共演を縁に親交を深める。当時、根岸の実家に頻繁に出入りした事もあった。そのためか、母・海老名香葉子から林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)を預かってくれるように懇願される。その後、しばらくこぶ平はたかじん宅に住み込み、かばん持ちをしていたが、実質たかじんの弟子入りのような形になった。以前ウィキペディアに「たかじんと泰葉は結婚寸前の仲までに発展した」という記述があったことについて、たかじん本人は自らが主筆の発禁!?たかじん新聞のコラムで「根も葉もないデタラメだ」と記述している。
  • 眞鍋かをり - 眞鍋が事務所移籍騒動で思うように芸能活動ができなかった時期に「大阪なら大丈夫」と声を掛け、『たかじんNOマネー〜人生は金時なり〜』に誘う。
  • 加藤茶
  • 長戸大幸(音楽プロデューサー・音楽制作会社ビーイング元代表取締役) - 京都時代のミュージシャン仲間。2008年頃に共通の知人を通じて、数十年振りに再会。たかじんの生涯最後となった2009年のコンサートツアーでは、長戸の紹介でGIZA Studio所属のミュージシャンがバックバンドを務めた。

脚注

  1. ^ a b c たかじんさん本名は「やしきたかじ(家鋪隆仁)」?”. 日刊スポーツ新聞社 (2016年4月1日). 2016年4月1日閲覧。
  2. ^ a b やしきたかじん死去 再復帰かなわず”. 日刊スポーツ新聞社 (2014年1月7日). 2014年1月7日閲覧。
  3. ^ ただし桃山学院高等学校で同級生だった堀内孝雄軽音楽部部長)はたかじん(新聞部部長)のことを「やしき」と呼んでいた。
  4. ^ この場合における名義は漢字(本名)表記である
  5. ^ キャプテンからのメッセージ”. OSAKAあかるクラブ. 2014年1月8日閲覧。
  6. ^ “[http://akaruclub.jp/report/forum.html 『第一回OSAKAあかるクラブ』ご報告�]”. OSAKAあかるクラブ. 2014年1月8日閲覧。
  7. ^ 橋下市長、たかじんさん寄付「取りやめ」 - 芸能ニュース : nikkansports.com
  8. ^ この時審査委員長だったキダタローがたかじんにグランプリを与えるように尽力したと後年述べている[要出典]
  9. ^ 1993年4月3日放送の『たかじんnoばぁ〜』でたかじん本人が語っている。
  10. ^ a b ムハハnoたかじん1時間スペシャル』2007年4月6日放送
  11. ^ 持ち歌の多くは華やかな色気のある声を特色とするバリトンの声域で歌われている。
  12. ^ やしきたかじんさん死去 64歳、歌手・テレビ司会朝日新聞2014年1月8日、2014年1月12日観覧
  13. ^ 〝浪花の視聴率男〟やしきたかじんさん死去 食道がんで休養中産経新聞・2014年1月7日、2014年1月12日観覧
  14. ^ タレントやしきたかじんさん死去 歌手 関西の高視聴率男47NEWS2014年1月8日、2014年1月12日観覧
  15. ^ 『たかじんのそこまで言って委員会』2007年4月22日放送
  16. ^ 母が息子の死去を初めて知ったのも、既に密葬を済ませた後で孫(たかじんの娘)から聞かされてからであった。
  17. ^ たかじんの後を追うようにたかじんの母は2014年5月3日に胃がんで死去した。30年前にお会いして…: 打越もとひさの携帯日記
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  37. ^ やしきたかじんさん「遺産10億円」に勃発した“骨肉バトル” - 女性自身
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  45. ^ 著書『たかじん胸いっぱい』「ぼくのマネージャーは宇宙一」pp.173 - 176
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  47. ^ 著書『たかじん旅たび失礼』「それにしても長かったぼくの道のり」pp.50 - 54
  48. ^ 『たかじん旅たび失礼』「たかじん流・テレビとの闘い方」pp.132 - 135
  49. ^ いずれも読売テレビ制作の『たかじんTV非常事態宣言』と『たかじんのそこまで言って委員会増刊号』での言動
  50. ^ 琉球放送で2011年4月10日に1度だけ放送されたことがある。
  51. ^ [1],デイリースポーツ,2014年1月12日配信。
  52. ^ 『たかじんが来るぞ!』第II章「出演禁止なんか怖くない」pp.59 - 68
  53. ^ 『たかじんが来るぞ!』第III章「ぼくを視聴率男と呼ばないで」pp.90 - 92
  54. ^ 2014年1月8日にABCおよびテレビ朝日のニュース番組(『キャスト』『スーパーJチャンネル』)でたかじんの訃報を伝えた際には、生前の人柄を紹介する目的で、このシーンのVTRを放送している。
  55. ^ これは同じく関西を中心に活動し、生前のたかじんの旧知の友人であった笑福亭鶴瓶が、ラジオ関西(CRK)でレギュラー番組を持った経験がいまだに1本もないのと似た事例である。
  56. ^ 太平サブロー吉本復帰の裏に「たかじんさん土下座」
  57. ^ 「追悼! やしきたかじん 追悼ってなめとんか! やしきたかじんを全部しゃべり倒したらぁ〜SP!!(関西テレビ 2014年2月8日放送分)」より[出典無効]
  58. ^ 「追悼! やしきたかじん 追悼ってなめとんか! やしきたかじんを全部しゃべり倒したらぁ〜SP!!(関西テレビ 2014年2月8日放送分)」より
  59. ^ 件の記者は社内でも有名なのか、このエピソードを話している横で辛坊治郎がバツが悪そうに苦笑いしており、北野誠は著作の宣伝で件の記者に当たり、後日、北野出演のラジオで「あれは…どうなんや…」と言葉を濁している。
  60. ^ 週刊大衆2014年2月3日号 52ページ
  61. ^ 当時桑田は初期の食道癌と診断され、2010年8月2日に手術を受けた。
  62. ^ 辻仁成 たかじんさんとの“確執”謝罪&感謝「人生のいい喝」スポニチアネックス 2014年11月9日閲覧
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  64. ^ 『日刊スポーツ』2014年1月11日付
  65. ^ 司会のたかじんや多くの出演者が猛烈な反対していたため、キー局である日本テレビ進出を拒否されていたため未放送のまま。(関東の独立局を除く)。
  66. ^ なんばに「心斎橋ラーメン」-やしきたかじんさんがプロデュース - なんば経済新聞
  67. ^ 大物破った維新新人は、たかじんさん診た開業医YOMIURI ONLINE 2012年12月17日 09:19配信(2012年12月19日閲覧))
  68. ^ 「AKBのかわいさはクラスで28番目」 復帰早々のたかじん「爆弾発言」に賛否J-CASTニュース 2013年3月25日閲覧
  69. ^ やしきたかじんが口を閉ざしていた「在日」のルーツに迫る評伝が出版 LITERA2014年9月15日
  70. ^ 角岡伸彦『ゆめいらんかね やしきたかじん伝』小学館[要ページ番号]
  71. ^ 三宅は2012年11月15日に死去したが、番組宛に「自分が亡くなっても番組は続けるように」と遺言を残しており、その遺志に従う形で現在も継続している。
  72. ^ 冠3番組たかじんさんの名前残す - デイリースポーツ 2014年1月8日(2014年1月8日確認)
  73. ^ テレビ大阪はたかじんさん冠を継続 各局で対応分かれる(『スポーツニッポン2015年3月11日付記事)
  74. ^ “やしきたかじんさん 最後の“冠番組”消えた”. 日刊スポーツ. (6月12日). http://www.nikkansports.com/entertainment/news/1491296.html 
  75. ^ 大阪駅の発車メロディ やしきたかじんさん「やっぱ好きやねん」に決定!JR西日本2014年3月31日付けプレスリリース

関連項目

  • 林伸一郎 - 元朝日放送アナウンサーで、龍谷大学放送部の同期。学生運動のときに放送部を守るためにたかじんが放送部員全員に結束を呼びかけたが、実際集まった部員はたかじんと林だけであったため計画を断念した。発売禁止になった幻のデビュー曲『娼婦和子』を最初に購入した。
  • 山口智充DonDokoDon) - 現在の全国放送で、たかじんのモノマネをやり続けている一人であり、そのモノマネで、陽気な表情を貫いて批判的な発言を一切しなかったり、東京、NHKを好む様な発言を連発しているが、たかじんは承知している。
  • はなわ - 持ち歌の『佐賀県』という曲の中で、「大阪といえば、やしきたかじんの大阪」と歌っている。また『大阪府』という曲でも「ベッカムよりもやしきたかじん」と歌っている。
  • チュートリアル - 家鋪家の墓の隣には「徳井家」の墓があるが、それは徳井の所であることが最近判明してお互いびっくりしたという(『たかじんのそこまで言って委員会』2007年5月6日放送分より)。
  • ケロロ軍曹 - ケロロの関西人のコスプレは「やしきたかじん」がモデル。
  • 大阪維新の会2008年大阪府知事選挙2011年大阪市長選挙2011年大阪府知事選挙橋下徹が当選した際、鯛を送った。
  • 打越元久 - 弟子・付き人。
  • 佐々木清次 - 上記と同じ。

外部リンク