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2016年10月17日 (月) 12:53時点における版

桑名 正博
生誕 (1953-08-07) 1953年8月7日
出身地 日本の旗 日本 大阪府大阪市天王寺区
死没 (2012-10-26) 2012年10月26日(59歳没)
学歴 甲南高等学校兵庫県)中退
ジャンル ロック
J-POP
職業 歌手
俳優
タレント
活動期間 1971年 - 2012年
事務所 アベノス、吉本興業
共同作業者 THE TRIPLE X

桑名 正博(くわな まさひろ、旧芸名・桑名 将大、桒名 正博 1953年(昭和28年)8月7日 - 2012年(平成24年)10月26日)は、ミュージシャン俳優実業家

略歴

1953年1830年創業の廻船問屋「桑文」(現・桑名興業)の7代目の跡取りとして生まれる。家庭には女中が2名おり、両親と妹の4人家族だが700坪の邸宅で育った。 1957年、勝山幼稚園入園。 1960年大阪市立住吉小学校入学。 1967年兵庫県芦屋市甲南中学校入学。 1969年大阪市立阪南中学校へ転校。 1970年大阪万博でアルバイトをしたのをきっかけに、サンフランシスコへ行く。

1971年に帰国後、ファニー・カンパニー結成。翌1972年に「スウィートホーム大阪」でデビュー。 1973年『ファニー・カンパニー』、1974年『ファニー・ファーム』と2枚のアルバムを残し、同年解散。桑名正博バンド、そして加賀テツヤ、山本翔と結成したユグドラジルの名義でキングレコードからリリースされたオムニバスアルバム『イントロダクション』に参加している。

1975年にソロ活動を開始し、1976年RCAからアルバム『Who are you?』をリリース。1977年、当時のRCAの担当ディレクターだった小杉理宇造の紹介で筒美京平と出逢う。筒美は作詞に松本隆を指名。同年6月には二人の作品『哀愁トゥナイト』が発売される。その後も『サード・レディー』など松本・筒美コンビのシングルをリリースし続ける。

1977年9月に大麻コカインの使用で書類送検された。さらにコカイン常用の証拠隠滅を図ったことで10月12日麻薬取締法違反容疑で逮捕され[1]懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けた[2]

1979年発売のカネボウ化粧品キャンペーンソング『セクシャルバイオレットNo.1』は、チャート1位を獲得する大ヒットを記録。代表作のひとつとなる。いわゆる「ロック歌謡」と呼ばれたジャンルがブームだったのもこの頃である

1980年3月5日アン・ルイスと挙式し、10日に結婚を発表した[3]

1981年4月、芸名を桑名正博から桑名将大へ改名[4]。読みは同じ。

1981年9月29日には、モデルをしていた19歳の女性ファンへの強制わいせつ致傷容疑で逮捕されるが[4][5]示談が成立して、不起訴処分となる[6]

同年12月25日には、大阪府警生活課と豊中警察署から、9月に大阪の実家で開いた大麻パーティーで大麻を使用とした大麻取締法違反容疑で取り調べを受け、容疑を認める供述をする[2]

1984年に、アン・ルイスと離婚[7][8]

東京に拠点を置いて芸能活動をしていたが、芸能活動を陰で支え続けた父の没後、遺志を継ぎ1990年から家業を継ぐために出身地の大阪に拠点を戻した。「桑名興業」は江戸時代から続く廻船問屋で、桑名正博は七代目となる。港湾荷役、建設業倉庫業を営む中堅企業で、一時ゴルフ場の経営もしていた。

1998年から2002年までは「THE TRIPLE X」というバンドを中心にして活動。その後はしばらく活動休止していたが、2009年8月以降、桑名・芳野以外のメンバーを入れ替えてライブを行っている。 2000年5月、桑名興業社長に就任。社長業が多忙なため、東京での芸能関係の仕事はほとんどせず、大阪中心に活動。 しかし、バブル崩壊の煽りを受け会社は危機を迎えており、桑名が引き継いだ時には、すでに手遅れの状態であった。700坪の豪邸を売り払っても立て直しがきかず倒産している。

2003年10月に吉本興業入り。

2006年、静かな生活がしたい、と軽井沢へ転居。

2012年7月15日早朝に大阪市内の自宅で脳幹出血により倒れ、大阪市住之江区友愛会病院に緊急搬送されたが、意識不明の重体となる[9]

意識不明の状態が続く中の同年7月20日、ゲスト出演した『ライオンのごきげんよう』が放映され、その際には倒れる前の7月11日に収録されたものである旨が表示された。3回の出演予定だったが、残り2回は7月18日に収録予定だったため、出演はこの回きりとなった[10]

同年8月2日、入院先の病院で長引く闘病生活に耐えるため気道に注入された人工呼吸器を外し、気管切開の手術を受けた[11]

倒れてから長らく意識不明の状態であり、高カロリーの点滴(ラクトリンゲル)で栄養補給をしている状態が続いていたが、2012年10月26日午後に死去した[12]。59歳没。

葬儀・告別式は10月30日に大阪市阿倍野区内の葬儀場で行われ、約700人が参列し、原田喧太が弔辞を読んだ。出棺後、桑名を乗せ、巨大な遺影を掲げた霊柩車が御堂筋を走り、5000人もの大阪市民や橋下徹市長(当時)らも見送った。法名は、明月院釋響流(みょうげついんしゃくこおる)。

人物

実業家として

2000年以降の本業は家業である桑名興業の社長を務め、音楽活動はチャリティなども含め、マイペースではありながらも地道に行っていた。

俳優・タレントとして

俳優としては、1980年に根津甚八大竹しのぶと共演した『恋人たち』(TBS)での根津の不良の弟"ロク"役などで強い印象を残し、その他ドラマでは大阪弁をしゃべる気さくな役柄が多い。1983年、横山やすし主演の映画『唐獅子株式会社』にインテリヤクザ役で助演。横山や桑名と酒席をともにした原作者の小林信彦は後年、著書『天才伝説 横山やすし』で、桑名を温厚で礼儀正しい青年として好意的に描写している。また「チャオチャオたこかいな」では、大地真央と共演した。更にはタレントとしてコメンテーターやリポーターなど幅広い活躍を続けた。

社会活動など

その荒っぽい言動や、不祥事による逮捕で騒がれたことがあることから破天荒なイメージが先行しているが、現実には行動的な社会活動家として多くの足跡を残しており、障害のある子供への支援事業や、海外の戦地の子供たちへの支援活動やチャリティ或いは捨て犬の里親探しの財団を設立するといった地道な活動を約20年に渡ってコツコツと続けていたことでも知られた。そのため、晩年の音楽活動はそのために行っている傾向が強かった。本人のシャイな性格と、売名行為と中傷されることを嫌い、社会活動を行っていることを積極的にアピールすることはなかったものの、生前の桑名のその姿勢や活動に賛同した西城秀樹松本孝弘河村隆一など多数の歌手仲間や芸能人が桑名のチャリティー活動に協力していた。

家族

妹は同じくミュージシャンである桑名晴子。若い頃から非常に仲が良く、お互いライブなどに参加しデュエットすることも多かった。

1980年にアン・ルイスと結婚するも、1984年離婚。二人の間には長男・美勇士がいる。現在の夫人(桑名栄子)との間に次男・桑名錬がいる。

2011年10月31日、美勇士に娘が誕生した。桑名にとっても、元妻のルイスにとっても初孫となる。

エピソード

  • 甲南中学校2年の時引きこもりになり、義務教育であるにも拘らず留年を経験。のちに退学処分を受け、公立の中学校に移ってから卒業。高校から再び甲南に進んだが、入学式だけ出席して中退した[6]
  • 1970年代初めに活動したファニー・カンパニーは、当時「東のキャロル、西のファニカン」と呼ばれ人気を博した。これを仕掛けたのは内田裕也という。しかし「プロとしてやっていくんだ!」「これで成り上がるんだ!」という意識の強いキャロルと比べて、ファニカンのメンバーは桑名も含めてみなノンポリでフラフラしていて「思い出を作って20歳で辞めよう」と考えていたため、ライバル扱いされたことは「(キャロルに)ちょっと悪いような気がした」という。イベントで一緒になった時、ぎゅうぎゅう詰めの中古のスバル360で会場に向かうキャロルを、ファニカンの医者の息子だったメンバーの真っ赤なポルシェで追い抜いていたという。仕事が一緒になった時、矢沢永吉から「お前は甘い」、酔った勢いで「成り上がりがどうの」と言われたため、「そんな金持ってて使い方がわかんないんだったら、俺が使ってやる!」とケンカになったことがあるという[6]
  • セクシャルバイオレットNo.1がヒットし日本各地をコンサートでまわっていた頃に俳優陣内孝則が「ザ・ロッカーズ」のボーカルとして 前座をつとめていた。
  • 吉田豪のインタビュー『人間コク宝』(2004年、コアマガジン)で桑名は「ファニカンのメンバーはみんなドラッグをやっていた」「大阪万博のときにみんな持ち込んでた。毎日どっかのパビリオンが主催でパーティーやってて、カナダ館のコンパニオンとかとパーティーをやるとドラッグが回ってきた」ブレイク直前で逮捕されたときは「なぜ今ごろ?と思った」「ドラッグで死にかけた」などと話している[6]。 
  • LIVEなどステージ活動中には最も長くパートナーを組んだキーボード奏者の小島良喜にトーク面で頼ることが多く、「コジやん」「コジマ」「小島良喜」など、やたらと彼を呼称することが多かった。
  • クチ癖として「今日も二日酔いやわ〜」「時間のロスや!」などが有る。「時間のロスや!」は2008年7月6日放送の『行列のできる法律相談所』に出演した際 島田紳助から「アン・ルイスさんとは会わないんですか?」「会いづらい?」と桑名自身一番触れられて欲しくないことを尋ねられ、答えに詰まり、つい出たオヤジギャグのダジャレが思いのほか世間に広まってしまい、自分でもそれを認識して事あるごとに言うようになった。
  • Flashを使ってホームページを作るなどパソコンプログラミングに精通していた為、ホームページやYouTubeへの画像投稿や編集などはほとんど自分自身でこなしていたと言う。
  • 自身のサイトではmo-jaと名乗っている。由来は、「その昔、KinKi Kidsの堂本剛が大阪で深夜番組をやってて、「先輩をニックネームで呼ぼう」とかいう企画をやっててね。たとえば「桑名さん」って呼んだら堅いし、まさか「桑名!」とは呼ばれへんし、とかでニックネームつけようって。呼び方は堂本が考えるんやけど、その頃、僕、1回ドレッドヘアーやっててんけど、その後、伸ばしてグチュグチュグチュッてカーリーになってる時で(笑)…。そしたら彼が「桑名さん、頭もじゃもじゃやから、(もじゃ)!」ていう話で(もじゃ)になってんね。その後で家の近く歩いてたりすると、中学生くらいの子に「あっ、もじゃだ~!」であんまり言われるんで、ほんだら(まさやん)はよーけおるし、ハンドルネームもmo-ja(もじゃ)にしよっていうことになったんです」と桑名自身が話している。
  • 2010年9月頃からTwitterにはまり、頻繁に家族や知人と連絡を取り合っていたこともあり、ブログや個人サイトはあまり更新していなかった。
  • 島田紳助がまだ売れていない頃から目をかけており、紳助がビッグネームになった後も、飲みに誘った帰り際に紳助の付き人にタクシー代5,000円を渡してくれたと紳助自身が語っている。
  • 現在の音楽界において、『「どんな曲ですか?」と言われるより、まず「どこのレコード会社ですか?」と言われる」』というレーベルがイニシアティブをとる現状を危惧していた。
  • 2008年7月6日に『行列のできる法律相談所』に出演した際、1978年に発表した曲「月のあかり」が大阪人のカラオケのスタンダード・ナンバーであり、ある年齢以上の男性であれば、ほとんどの人が歌うことができると報告された。
  • 大の犬好きであり、軽井沢の住居ではフレンチブルドッグをはじめ、多数の犬と共に生活していた。
  • 1970年代はちりちりパーマの長髪、1980年代以降は口ひげがトレードマークだった。2000年代に入りヒゲを落とし、金髪がトレードマークとなっていたが、2008年7月6日放送の『行列のできる法律相談所』に出演した際は、総白髪にひげ姿で登場した。
  • 外車好きはよく知られており、デビュー当時からカマロなどアメ車をよく運転していたという。なお晩年はゲレンデヴァーゲンをマネージャーを兼ねる夫人が運転して、移動する事が多かった。
  • 「セクシャルバイオレットNo.1」が大ヒットしコンサートの多かった頃には最も痩せており 身長178cm[13]にして体重が55kg程度しかなかった。本人曰く、カマキリのようだった。しかし30代に入ってからは暴飲暴食がたたって太ってしまい、30代後半から40代にかけてはもう少しで90kgに届こうというところまでいった。その後40代後半から体重を落とし70kg半ば程度を維持。50歳を過ぎてから更にダイエットを意識し、五穀米中心の食事で68kgまで痩せた。

所属事務所

作品

シングル

  1. 哀愁トゥナイト(1977年6月5日) 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:萩田光雄
  2. 薔薇と海賊(1978年7月5日) 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:鈴木茂,船山基紀
  3. サード・レディー(1978年11月25日) 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:鈴木茂
  4. スコーピオン(1979年4月21日) 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops,戸塚修
  5. セクシャルバイオレットNo.1(1979年7月21日) 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops,戸塚修 カネボウ化粧品キャンペーンソング、オリコン1位獲得。
  6. THE SUPER STAR(1979年12月1日) 作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops,鈴木茂
  7. ダーティーヒーロー(1980年5月1日) 作詞:下田逸郎/作曲:桑名正博/編曲:桑名正博&Tear Drops 名義は桑名正博&TEAR DROPS。
  8. ロンリネス(1980年10月5日) 作詞:下田逸郎/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops
  9. 追跡ハートエイク(1981年3月5日) 作詞:糸井重里/作曲:桑名正博/編曲:桑名正博,萩田光雄

アルバム

  1. Who are you?(1976年7月5日)
  2. マサヒロ・II(1977年7月5日)
  3. テキーラ・ムーン(1978年7月5日)
  4. ロード・マシーン(1979年1月25日)
  5. KUWANA No.5(1979年6月21日)
  6. コミュニケーション(1979年12月16日) セクシャル・バイオレットNo.1を収録、オリコンBEST10入り。
  7. TEAR DROPS(1980年6月21日)
  8. ROCK’N SOUL SPECIAL(1981年) ミニアルバム
  9. MILLER DR.(1981年11月21日)
  10. ウーマニアック(1983年)
  11. KUWANA(1988年2月5日)
  12. IT'S ONLY LOVE(1988年11月)
  13. For Paradise(1989年9月)
  14. 百万人に一人の女(1992年6月)
  15. マハロ(1996年3月25日) ミニアルバム
  16. for Angels(1996年12月9日)
  17. ディア・マイ・フレンド(2005年6月29日) ライブアルバム

ベスト・アルバム

  1. NEW BEST(1994年11月23日)
  2. セクシャルヴァイオレットNO.1~桑名正博RCA BEST COLLECTION(1999年4月21日)
  3. GOLDEN☆BEST 桑名正博~RCA/AIR YEARS(2005年4月20日)
  4. 桑名正博35周年BEST「Masahiro Kuwana Tracks on」(2008年1月23日)
  5. GOLDEN☆BEST 桑名正博-MASAYAN 40Years-ロード・マシーン(2012年11月14日)

出演

映画

テレビドラマ

オリジナルビデオ

舞台

  • 服部家の人々 
  • IMAGINE 9.11(2007年8月)

ラジオ

CM

書籍

  • 武勇伝―男は、誰のために、何を守るために戦うのか(1997年、ひらく)
  • 不良親父のボランティア(2000年、講談社

親交のあった人物

脚注

  1. ^ 「ロックの桑名はコカイン」『中日新聞』1977年10月14日
  2. ^ a b 「桑名また大麻 妹らと回し飲み」『中日新聞』1981年12月25日付
  3. ^ 「桑名正博さん アン・ルイスさん挙式」『中日新聞』1980年3月11日付夕刊
  4. ^ a b 「桑名また"監獄ロック" モデル嬢に乱暴…逮捕」『中日新聞』1981年9月30日付
  5. ^ 「マンスリー・フェイス うわさの人 桑名将大の巻」『噂の眞相』1982年10月号、p.48。桑名将大インタビューより。
  6. ^ a b c d 吉田豪『人間コク宝』コアマガジン2004年、pp.221-234。桑名正博インタビュー。
  7. ^ 週刊明星』1984年3月8日
  8. ^ 女性セブン』1984年3月8日号
  9. ^ 桑名正博が意識不明の重体 - 日刊スポーツ(2012年7月15日)
  10. ^ 桑名正博「ごきげんよう」に“出演” 倒れる4日前に収録 - スポーツニッポン (2012年7月20日)
  11. ^ 桑名正博が気管切開の手術、数値安定 - デイリースポーツ(2012年8月2日)
  12. ^ 桑名正博さんが死去 - 日刊スポーツ 2012年10月26日閲覧
  13. ^ 『桑名正博』人物情報[リンク切れ]

外部リンク