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2016年6月8日 (水) 05:39時点における版
西武時代(2014年4月2日、QVCマリンフィールドにて) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都荒川区 |
生年月日 | 1981年1月31日(43歳) |
身長 体重 |
185 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 外野手、一塁手 |
プロ入り | 1998年 ドラフト4位 |
初出場 | 2000年8月2日 |
最終出場 | 2015年9月27日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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森本 稀哲(もりもと ひちょり、1981年1月31日 - )は、東京都荒川区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。
経歴
プロ入り前
在日韓国人の父親と韓国人(済州島出身)の母親を持つ。帝京高校では3年生の時に主将、遊撃手として第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。3回戦の浜田高校戦で、8回表に和田毅からバックスクリーンへの同点本塁打を放つも敗退した[注 1]。高校通算34本塁打。
1998年のドラフトで日本ハムファイターズに4位で指名され、入団。当初は内野手だったが、外野手に転向した。
日本ハム時代
2年目の2000年に一軍初出場・初本塁打を記録。主に守備・代走要員で起用される。
2003年、監督に就任したトレイ・ヒルマンに「バーニー・ウィリアムスの再来」と評され、1番・中堅手で初めて開幕スタメン起用される。4月だけで4本塁打を打つが、その後は打撃が伸び悩み、移籍してきた坪井智哉にポジションを奪われ、守備・代走要員にとどまった。しかし、2005年には打撃が向上し、初の100試合出場で打率.264、7本塁打を記録した。
2006年は開幕スタメンの坪井の離脱などもあり4月下旬頃から1番・左翼手に定着し、自身初の規定打席に到達し、本塁打・打率ともに自身過去最高を記録。パシフィック・リーグ最多得点を記録し、ゴールデングラブ賞を初受賞した。7月、オールスターゲームに初出場して第2戦で本盗に成功した(2004年の同僚・新庄剛志(SHINJO)以来史上3人目)。10月、日本シリーズに初出場して当シリーズ最高打率を記録し、優秀選手賞を受賞した。
2007年、前年限りで引退した新庄が着用していた背番号1を継承し、中堅手に定着。シーズン終盤まで片岡易之(西武ライオンズ)と盗塁王のタイトルを争うなど(結果は片岡が盗塁王)、不動の1番打者として全イニング出場を果たし、2年連続のリーグ最多得点と初の打率3割を記録。24試合連続安打はリーグ歴代6位タイ、球団では大下弘と並び最多タイ記録。右打者であるが、内野安打の数も稲葉篤紀に次ぐリーグ2位を記録。最多得票でゴールデングラブ賞と、初のベストナインを受賞。補殺数は両リーグ1位の15個を記録した。
2008年5月25日の読売ジャイアンツ戦で、西村健太朗から死球を受けて左手小指を骨折(全治5週間)。2006年から続いていたフルイニング出場も途絶えた。後半戦はケガの影響から不振に喘ぎ、自身最低の打撃成績となった。3年連続となるゴールデングラブ賞を受賞。5月19日に新庄剛志経営でアスリートのマネジメント等を業務とする株式会社レハサフとマネジメント契約を締結し、一定期間契約していた[1]。
2009年は糸井嘉男に中堅手を奪われ、左翼手としての出場が多くなり、スタメン落ちも増え出場機会が激減。同年5月、出場登録日数が8年に達し、国内移籍が可能となるFA権を取得。オールスター戦明けには出場機会も増えていたが、8月6日の西武戦でジョン・ワズディンから死球を受け、左手小指を骨折。107試合に出場したが規定打席に到達せず、打率も.247に終わった。田中賢介が1番に定着して2番に回り、リーグ最多の43犠打を記録し、成功率10割を誇ったが、巨人と対戦した日本シリーズでは何度もバント失敗を繰り返し、2併殺と不振だった。この年はFA権を行使せず残留し、記者会見で「どんな条件を出されても残留するつもりだった。他チームでプレーする理由がまったくない」と語った。
2010年7月14日の西武戦の初回、犠打を試みた際に野上亮磨から死球を受け退場。右手薬指を骨折し、翌日に登録を抹消された。これで3年続けて死球により骨折したが、それでも2年連続リーグ最多の55犠打を記録し、打率も.272と持ち直した。
同年オフにFA権を行使し、横浜ベイスターズへ移籍。
横浜・DeNA時代
12月11日に正式契約。同日に横浜中華街の「媽祖廟(まそびょう)」で入団会見が行われた[2]。背番号は5に決定。
2011年、6番・中堅手で開幕スタメン出場。5月1日に扁桃腺炎のため登録を抹消された。その後復帰したが、7月6日の広島東洋カープ戦で上野弘文との投打戦に自打球を当て左足を負傷。左足脛骨近位骨挫傷と診断され8日に再び登録を抹消され、一軍復帰は10月となった。復帰後も若手主体で起用する監督の方針もありスタメン出場は限られ、成績面でも結果を残せなかった。
2012年、2年連続で開幕スタメンとなるが、アレックス・ラミレスの加入、荒波翔の飛躍もあり、5月以降はスタメン機会が減少。代打、代走、守備固めでの途中起用が多くなった。最終的には108試合に出場し、スーパーサブとしてチームを支えた。9月に左手有鈎骨を骨折し、28日に登録抹消されシーズンを終える。
2013年、この年は出場機会に恵まれず、シーズンのほとんどが二軍でのプレーとなり[3]、10月4日に球団から戦力外通告を受けた[4]。シーズン最終戦の10月8日の対阪神戦(横浜)で2番右翼で先発出場し、2打数無安打で4回の守備から退いた[5]。
西武時代
その後埼玉西武ライオンズの秋季キャンプにテスト生として参加し、2013年11月19日に同球団への入団内定が発表され[6]、12月4日に正式に契約したことが発表された[7]。
2014年、開幕一軍入りし[8]、3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で移籍後初出場。開幕前の秋季キャンプで一塁手の練習をしており[9][10]、実際4月12日の対日本ハム戦で一塁手として出場した[2]。一軍の試合で一塁の守備に就いたのはプロ初である。最終的に、一塁手としての出場機会が外野手としてのそれを上回った。同年は99試合に出場し、打率は.252と一定の成績は残した。
2015年も開幕一軍入りは果たしたが11試合で11打数無安打と結果を残せず二軍落ちとなり、このシーズンを限りに現役引退を決断、9月21日に会見を行った。
9月27日に引退試合(対楽天、西武プリンスドーム)が行われ、8回表の守備から7番右翼として途中出場する。試合にチームが勝利したため最後の攻撃となった8回裏は1番打者から始まるが、ベンチで起こった「ひちょりさんに回せ」の合言葉のもと、二死で打席が回る。涙を流しながら入った現役最終打席で三塁ゴロを記録する。セレモニーで流されたビデオメッセージには同僚に加え、日本ハム時代の元同僚・新庄剛志、稲葉篤紀もコメントを寄せており、その後グラウンドへ現れた稲葉からも花束を贈られる。スピーチでは打席を回してくれたチームメイトへ涙ながらに感謝の意を表す[11]。11月27日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された[12]。
現役引退後
経営学を学ぶ目的で、コンサルティングなどの事業を展開する東京都内の一般企業へ入社[13]。2016年1月からは、日本ハム時代のチームメイト・金村曉の後任扱いで、『みんなのテレビ』(北海道文化放送)の月曜コメンテーターを務める[14]。さらに、同年のプロ野球シーズンからは、同局に加えてSTVラジオ・北海道テレビ放送・HBCラジオ・テレビ北海道・TVQ九州放送・文化放送(ゲスト)・GAORA・スポナビライブ横浜DeNA戦の野球解説者としても活動する。
人物
人物像
真面目で、とにかく明るい性格とスキンヘッドが特徴。
「ひちょり」という名前は、「稀哲」の韓国語での発音「ヒチョル」から取って父が命名した(「稀哲」という名に決めた理由は不明)。プロ入り当時、一部の選手名鑑には「ひちょり」でなく「ひろより」「ひちより」と誤った振り仮名を振っているものや、「稀哲」を「秘哲」と誤植しているものがあった[15]。
初等教育は韓国学校で、本人も「在日としての民族意識は強かったです」と話している。
小学生の時、汎発性円形脱毛症にかかった。これは髪の毛などの体毛全てが、突然、抜け落ちて生えなくなってしまう病気で、現在はほぼ克服しているが、「当時の苦労を忘れないように」「同じ病気で苦しむ人に勇気を与えるために」と、毎日自分で剃刀を当ててスキンヘッドにし続けている。
中学生まではサッカーもやっていて、中学生時代に東京ヴェルディの入団テストを受験したことがある。
自らのイメージカラーを日本ハム時代は緑、横浜移籍後は黄に定めている。
鯖(特に塩焼き)が嫌い。これは高校時代、監督から「もっと体力をつけろ」と食事を増やされ、食べ過ぎによる嘔吐を起こした時の食べ物が鯖の塩焼きだったというトラウマによるもの。
対人関係
日本ハム時代の先輩の新庄剛志と師弟関係を築いている。2004年からの新庄の日本ハム入団が決まった頃、森本はコーチ等の指導にもあまり耳を傾けておらず伸び悩んでいた。森本は同ポジションのスター選手が入団することに対し「なんで新庄来るんだよ」と思っていたが、新庄から打撃や守備を毎日根気強く教わり、「初めて自分のためを思って言ってくれている」と感じて慕いだしたと語る[16]。新庄は2006年シーズン限りでの引退を発表した後に「背番号1を森本に受け継いでもらいたい」と発言し、翌年より「1」を受け継いだ。新庄の現役最終出場となる2006年の日本シリーズ第5戦で日本一を決めるレフトフライのウイニングボールを掴んだ森本は、マウンド方向へではなく打球を追ってきている中堅手・新庄の方へ向かい走り出し、両者は左中間で抱擁しあった。[17]
出身の帝京高校野球部の先輩であるとんねるず・石橋貴明と交遊があり、正月特番『夢対決!とんねるずのスポーツ王は俺だ!スペシャル』(テレビ朝日系)に「チーム石橋」の一員として2007年、2009年~2011年と続けて出演している。2007年はチームパラダイス(新庄、森本、川崎宗則)として石橋と対戦し、2009年からは石橋とチームを組んでいた。2012年に前年の本業の打率が.187と不調であったためチーム石橋を戦力外通告されていたが、2014年には「チーム帝京高校」として出演している。
プライベート
実家は東京都荒川区西日暮里の焼肉店「絵理花」。野球ファンも多く集まる人気店だったが、建物の老朽化と両親の体力的な問題のため、2013年10月限りで閉店している。
2007年11月に帰化[注 2]。
2012年3月8日、モデルの悠美と婚姻届を提出したことを発表した[18]。
2014年7月26日、第1子となる女児が誕生したことを妻がブログで公表した[19]。
パフォーマンス
新庄剛志の影響もあり、他の選手も交えて様々なパフォーマンスを披露している。また、2シーズン以上を通じて新庄が本塁打時の談話にて独特の打法名を付けていたのを倣い「~ホームラン!」、タイムリーを出すと「~ヒッツ!」と付けている[20]。
- 2004年
- 9月20日:この年起こったプロ野球再編問題から発展した日本初のプロ野球ストライキ明けの初戦となったこの試合前練習に新庄剛志、島田一輝、石本努、坪井智哉とともに『秘密戦隊ゴレンジャー』のかぶりもの(仮面)を被って参加[21]。
- 2005年
- 2006年
- 7月2日:試合後のヒーローインタビューで、尾崎豊『きっと忘れない』を熱唱した(前年のファン感謝イベントでの公約による)[23]。
- 7月21日:オールスター第1戦の試合前イベントに漫画『ドラゴンボール』に登場するピッコロの姿で登場[注 3][24]。第2戦(7月23日)の試合前イベントにはリングドーナツ型のカツラを装着し、差し歯を抜いて登場[25]。
- 8月13日:試合前のスターティングメンバー紹介時に自身だけ「ラリージャパン」の幟をつけた自転車で入場[注 4]。
- 10月26日:日本シリーズ優勝決定後のビールかけの場にスピードスケート選手の衣装で登場[24]。
- 2007年
- 6月2日:試合前練習に竹馬とズボンを履いて登場。身長3mの「ひちょ・マックス」(ジャンボマックスにちなむ)姿で守備練習を行った。
- 7月20日:オールスター第1戦の試合前イベントに、帽子から「伸びた頭」を付けて登場[注 5][25]。21日の第2戦試合前イベントには、タイのムエタイ風の姿(上半身裸に緑のトランクス)で登場した[24]。
- 12月10日:ゴールデングラブ賞表彰式会場に、マイケル・ジャクソンの様な上下赤のレザーファッションとメイクで登場[24]。
- 2008年
- 2月14日:沖縄キャンプでの紅白戦初打席の登場曲に国生さゆりの『バレンタイン・キッス』を選曲、口には口紅で大きなハートマークを書いて登場。北海道文化放送で前年末に放送された番組での公約を守るためだったが、相手投手の藤井秀悟に試合終了後、謝罪した。
- 5月18日:始球式投手を務めた引退している新庄剛志と余興ながら1打席の真剣勝負を行う。結果は5球目の140km/h超の速球で内野ゴロに打ち取られた[26]。
- 7月22日:「WE LOVE HOKKAIDO シリーズ 2008」で「ひちょりイリュージョン」と称し、バックスクリーン横の地上17メートルからワイヤーに吊られて登場。
- 8月1日:オールスター試合前イベントに、ユニフォームを上下逆さまに着て尻に人形の頭をつけ、一見すると逆立ちしているような姿で登場。その格好のまま堀内恒夫と山本浩二の野球殿堂入り表彰式に臨んだため、一部批判を受けた。
- 2010年
- 2011年
- 2月1日:春季キャンプに黄色いリストバンドを披露。日本ハム時代の緑から変えた理由は「青いユニホームに映える色にしたかったから」[27]。
- 2012年
- 6月9日:交流戦・古巣日本ハムとの試合の降雨中断時に、日本ハムの小谷野栄一と乱闘のパフォーマンスで観衆を楽しませた[28]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2000 | 日本ハム | 7 | 16 | 13 | 2 | 2 | 0 | 0 | 1 | 5 | 3 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .154 | .313 | .385 | .697 |
2001 | 65 | 148 | 133 | 16 | 33 | 4 | 2 | 1 | 44 | 9 | 11 | 2 | 3 | 1 | 9 | 0 | 2 | 35 | 2 | .248 | .303 | .331 | .634 | |
2002 | 66 | 66 | 60 | 6 | 10 | 3 | 0 | 1 | 16 | 5 | 5 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 3 | 16 | 0 | .167 | .215 | .267 | .482 | |
2003 | 61 | 151 | 133 | 21 | 26 | 2 | 1 | 4 | 42 | 16 | 3 | 2 | 3 | 0 | 14 | 0 | 1 | 48 | 2 | .195 | .277 | .316 | .593 | |
2004 | 78 | 71 | 58 | 19 | 11 | 3 | 0 | 0 | 14 | 3 | 1 | 2 | 0 | 0 | 12 | 0 | 1 | 24 | 3 | .190 | .338 | .241 | .579 | |
2005 | 103 | 325 | 295 | 48 | 78 | 10 | 3 | 7 | 115 | 25 | 9 | 2 | 5 | 1 | 22 | 1 | 2 | 82 | 3 | .264 | .319 | .390 | .709 | |
2006 | 134 | 595 | 520 | 84 | 148 | 28 | 6 | 9 | 215 | 42 | 13 | 9 | 21 | 5 | 46 | 1 | 3 | 103 | 4 | .285 | .343 | .413 | .757 | |
2007 | 144 | 660 | 584 | 91 | 175 | 27 | 3 | 3 | 217 | 44 | 31 | 3 | 17 | 6 | 47 | 1 | 6 | 111 | 6 | .300 | .355 | .372 | .726 | |
2008 | 121 | 549 | 478 | 66 | 121 | 15 | 1 | 0 | 138 | 21 | 12 | 7 | 17 | 1 | 49 | 1 | 4 | 81 | 5 | .253 | .327 | .289 | .616 | |
2009 | 107 | 404 | 316 | 50 | 78 | 14 | 4 | 1 | 103 | 29 | 9 | 2 | 43 | 0 | 43 | 0 | 2 | 52 | 2 | .247 | .341 | .326 | .667 | |
2010 | 115 | 505 | 408 | 65 | 111 | 11 | 3 | 2 | 134 | 30 | 10 | 3 | 55 | 1 | 36 | 0 | 5 | 71 | 12 | .272 | .338 | .328 | .666 | |
2011 | 横浜 DeNA |
48 | 153 | 134 | 13 | 25 | 3 | 1 | 1 | 33 | 9 | 0 | 1 | 9 | 1 | 8 | 0 | 1 | 42 | 4 | .187 | .236 | .246 | .482 |
2012 | 108 | 230 | 201 | 20 | 49 | 5 | 1 | 3 | 65 | 18 | 0 | 2 | 4 | 1 | 20 | 0 | 3 | 44 | 6 | .244 | .320 | .323 | .643 | |
2013 | 4 | 5 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2014 | 西武 | 99 | 173 | 147 | 19 | 37 | 8 | 3 | 0 | 51 | 13 | 2 | 2 | 9 | 0 | 16 | 0 | 1 | 42 | 0 | .252 | .329 | .347 | .676 |
2015 | 12 | 15 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | .143 | .000 | .143 | |
通算:16年 | 1272 | 4066 | 3497 | 521 | 904 | 133 | 28 | 33 | 1192 | 267 | 106 | 39 | 188 | 18 | 328 | 4 | 34 | 760 | 50 | .259 | .327 | .341 | .669 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名変更
年度別守備成績
年度 | 一塁 | 外野 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
2000 | - | |||||||||||
2001 | - | |||||||||||
2002 | - | |||||||||||
2003 | - | |||||||||||
2004 | - | |||||||||||
2005 | - | 97 | 179 | 6 | 1 | 1 | .995 | |||||
2006 | - | 134 | 251 | 9 | 1 | 2 | .996 | |||||
2007 | - | 143 | 342 | 15 | 2 | 3 | .994 | |||||
2008 | - | 121 | 258 | 4 | 3 | 0 | .989 | |||||
2009 | - | 106 | 187 | 6 | 2 | 1 | .990 | |||||
2010 | - | 114 | 184 | 11 | 2 | 1 | .990 | |||||
2011 | - | 40 | 85 | 1 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2012 | - | 90 | 117 | 4 | 3 | 1 | .976 | |||||
2013 | - | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |||||
2014 | 49 | 223 | 9 | 1 | 18 | .996 | 35 | 35 | 1 | 0 | 0 | 1.000 |
2015 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 10 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
通算 | 50 | 225 | 9 | 1 | 18 | .996 |
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
- ベストナイン:1回(外野手部門:2007年)
- ゴールデングラブ賞:3回(外野手部門:2006年 - 2008年)
- JA全農Go・Go賞:2回(強肩賞:2007年9月、2010年9月)
- 札幌ドームMVP:1回(野球部門:2006年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(2006年)
- オールスターゲーム優秀選手賞:2回(2006年第2戦、2007年第2戦)
- オールスターゲーム新人賞(2006年)
記録
- 初記録
- 初出場:2000年8月2日、対西武ライオンズ19回戦(西武ドーム)、10回表に上田佳範の代打で出場
- 初打席:同上、10回表に森慎二の前に三振
- 初先発出場:2000年8月10日、対大阪近鉄バファローズ21回戦(大阪ドーム)、1番・左翼手で先発出場
- 初安打:同上、3回表にナルシソ・エルビラから右前安打
- 初本塁打・初打点:同上、9回表に宇高伸次から左越3ラン
- 初盗塁:2001年7月18日、対西武ライオンズ18回戦(東京ドーム)、2回裏に二盗(投手:松坂大輔、捕手:伊東勤)
- 節目の記録
- 1000試合出場:2010年9月26日、対埼玉西武ライオンズ24回戦(札幌ドーム)、2番・左翼手で先発出場 ※史上439人目
- その他の記録
- リーグ最多得点:2回(2006年、2007年)
- リーグ最多犠打:2回(2009年、2010年)
- リーグ外野手最多補殺:2回(2007年、2010年)
- リーグ外野手レンジファクター(RF/G)1位:2回(2007年:2.50、2008年:2.17)[33]
- 2試合連続先頭打者本塁打:2006年4月25日・26日、対西武ライオンズ4・5回戦 ※史上11人目
- 1試合6安打:2006年9月17日、対千葉ロッテマリーンズ18回戦(札幌ドーム) ※パ・リーグ歴代1位タイ
- 24試合連続安打:2007年 ※パ・リーグ歴代6位タイ、球団では大下弘と並び最多
- オールスターゲーム出場:3回(2006年 - 2008年)
- 本盗:2006年第2戦(7月23日、宮崎県総合運動公園硬式野球場) ※史上3人目
背番号
- 53 (1999年)
- 46 (2000年 - 2006年)
- 1 (2007年 - 2010年)
- 5 (2011年 - 2013年)
- 0 (2014年 - 2015年)
登場曲
- EXILE feat.Bach Logic / Touch The Sky
- RYO the SKYWALKER / Seize The Day
- Fire Ball / PLACE IN YOUR HEART
- Fire Ball / FIRE WAY ~待たせたな~
- Fire Ball / BIRD MAN ~STEVEN~
- KEN-U / DOKO
- Linkin Park & Jay-Z / Numb/Encore
- Fire Ball / SUMMER TIME
- 福山雅治 / 明日の☆SHOW
- 福山雅治 / 旅人
- 福山雅治 / 追憶の雨の中
- Fire Ball / 一番 feat. Da'Ville
関連情報
出演
テレビ番組
- TVhファイターズ中継(テレビ北海道 2016年 - )
- 野球道 〜挑戦〜(北海道文化放送 2016年 - )
- GAORAプロ野球中継(GAORA 2016年 - )
ラジオ番組
- HBCファイターズナイター(HBCラジオ 2016年 - )
CM
- 野口観光 - 北海道の旅館グループのローカルCM
- ユニクロ(2007年1月) - 松下奈緒と共演
- ろうきん(2007年) - 北海道のローカルCM
- 守護神(2007年) - 北海道のローカルCM(声の出演)
- イワクラホーム(2007年4月) - 北海道のハウスメーカーのローカルCM
脚注
注釈
出典
- ^ ひちょり、新庄社長とマネジメント契約nikkansports.com、2015年9月27日閲覧。
- ^ http://www.sanspo.com/baseball/news/101211/bse1012111611000-n1.htm
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- ^ 2014年 開幕登録選手発表! 埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト
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- ^ 西武・森本、慣れない守備にも「ひちょり一塁と言われるように」 SANSPO.COM(サンスポ) 2014年2月9日掲載
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- ^ 日本スポーツ出版社刊「'99プロ野球12球団全選手百科名鑑」、ベースボール・マガジン社刊「1999年度決定版 プロ野球選手名鑑」など。
- ^ 2009年1月12日放送・テレビ朝日『旅のココロ 石ちゃん・新庄の絶対美味しい!感動グルメツアー!!』出演にて。
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- ^ a b ハム陽「新庄魂」で球宴サプライズ予告nikkansports.com、2015年11月11日閲覧。
- ^ 【日本ハム】新庄氏が仰天145キロ始球式nikkansports.com、2015年8月29日閲覧。
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- ^ 北海道日本ハムファイターズ 個人守備成績(パシフィック・リーグ)NPB.jp 日本野球機構、2016年3月15日閲覧。
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- ^ 埼玉西武ライオンズ 個人守備成績(パシフィック・リーグ)NPB.jp 日本野球機構、2016年3月15日閲覧。
- ^ 過去20年で最高の外野手は誰だ?~記録で見る真実の「守備力」~プロ野球 - Number Web - ナンバー、2016年3月15日閲覧。
関連項目
- 東京都出身の人物一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 松坂世代
- 新庄劇場 - 日本ハム時代の同僚・新庄剛志による試合前パフォーマンス
外部リンク
- 個人年度別成績 森本稀哲 - NPB.jp 日本野球機構
- ちょりぶろ
- 森本稀哲 (@onifukkusencho) - X(旧Twitter)