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2016年6月8日 (水) 02:21時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 |
東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿 (現:東京都渋谷区神宮前) |
生年月日 | 1927年3月15日(97歳) |
身長 体重 |
173 cm 65 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手、外野手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年3月15日 |
最終出場 | 1965年11月5日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2003年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
|
関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - )は、東京府(現:東京都)出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・監督、野球解説者。生まれは東京府北豊島郡巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)。戸籍上の生年月日は1927年3月15日だが、実際の生年月日は1926年12月25日(詳しくは人物の項を参照)。
現役時代は近鉄、巨人で活躍し、史上初[要出典]の打者で1000本安打・投手で50勝を、またオールスターゲームでは初めての投手・野手の両方でのファン投票選出を記録した(2015年に大谷翔平が史上二人目の選出となった)。引退後は広島・巨人のコーチ。その後大洋、ヤクルトの監督を歴任した。2003年、野球殿堂入り。
現在はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者。また、近鉄のOB会長も務めていた。
経歴
現役時代
アマチュア時代
藤田省三が監督を務める旧制日大三中へ進学したものの、入学初年度は小柄だったため、練習に参加させてもらえなかった。2年生に進級後ようやく参加できたが、それでも外野の球拾いだった。やがて、兼務していた法政大野球部に掛かり切りと成った藤田が去り、後任監督から2塁手として抜擢されたのが転機となり、試合に出場できるように成った。しかし左利きの2塁手が2塁のベースカバーで併殺を完成させるのは難があったが、それでも関根は3度成功させた記憶がある、と『さらば、愛しきプロ野球…。』の中で語っている。また投手に抜擢されたのも、この旧制中学時代の頃であったが、杉下茂が居た旧制帝京商などに阻まれ、甲子園への出場は叶わなかった。
その後、法政大学経済学部に進み、藤田が監督を務めるチームで4年間にわたりエース(4年生春に主将)として活躍した。3年生秋(1948年)にチームを戦後初のリーグ優勝に導き、翌4年生秋には戦後初・史上2人目の通算40勝を記録した。
大学通算79試合登板、41勝30敗。毎試合のように先発し、当然のように1試合を投げきった。エースの連投が当たり前だった当時の東京六大学ではあったが、通算658イニング、シーズン投球回数133回2/3(1949年秋季)、勝敗通算71(若林忠志と同数)という記録を残した。1949年秋には来日したサンフランシスコ・シールズ相手に好投した。急遽子供たちだけを招待する「オドールデー」として組まれた六大学選抜軍との試合に、法政は明治との秋のリーグ戦優勝争いの渦中にあったが、エースの関根が先発登板することとなった。このためか、翌々日の明大戦にチームは敗れ、優勝を逃した。
打者としても93試合に出場し350打数93安打、打率.266、0本塁打、38打点を記録した。
プロ入り後
当初はプロ入りを望んでいた訳ではなく、社会人野球・八幡製鐵所(後の新日本製鐵八幡硬式野球部)に就職が内定していたが、恩師の藤田省三が近鉄の監督に就任した事もあって、1950年に近鉄パールスに入団。1951年と1953年には開幕投手を務める(51年開幕戦では法大の先輩でもある同僚森下重好外野手が3打席連続本塁打で援護射撃する)など万年最下位の近鉄でエースとして活躍するが、プロ入団初年の開幕2戦目にして、肩を壊していたと言う。それ以降は、本当の球の力が戻らなかったと述べている。「カーブやフォークは遊びであり、ピッチャーでまっすぐが通用しなくなったら終わりだ」との自論もあって、プロ8年の投手人生に見切りをつけ、打者に転向したと述べている[1]。
始めは、旧制中学からのチームメイトであった捕手の根本陸夫に転向の意思を打ち明けた。関根の球威に限界を感じていたのか、根本からは反対されなかった。もともと野手顔負けの打撃力を備えていたこともあり、右翼手あたりを狙って正式に野手転向を申し入れたものの首脳陣からは「転向しても下位打線では困る」と難色を示された。そこで5番・右翼手としての3試合限定起用、クリーンナップとしての適性を試された。すると、その初戦から1本塁打を含む3安打、2戦目で2安打、3戦目でも3安打して見事に難題をクリア。こうして1957年からは小玉明利を核とする中軸打者の仲間入りし、そこでシュアな打棒を振るった。もっとも関根だけでなく小玉も長打力を持ち味としておらぬ中軸に代表される様に、打線全体としては他球団よりも爆発力で劣っており、後年「ピストル打線」とあだ名される所以でもあった。
1965年に読売ジャイアンツへ移籍し、16年目38歳で初のリーグ優勝や(V9初年度の)1965年の日本シリーズ出場・制覇を経験し、同年に引退。若い選手からは「お父さん」と呼ばれていたという(監督の川上哲治以外はコーチも含めて全員年下だったため)。
投手・野手両方で実績を残した数少ない選手である。史上初めて、投手・野手の両方でオールスターゲームに出場した。投手としてファン投票で1回。外野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場(長らく「史上唯一」であったが大谷翔平が2013年に野手として、2014年に投手として選出され、出場し2人目となった。)。また、2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成。さらに、通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めても他に中日ドラゴンズなどで活躍した西沢道夫しか達成していない記録である。
引退後
引退後の1966年、ニッポン放送の野球解説者に就任。
1970年、根本陸夫監督と広岡達朗の要請で広島東洋カープの一軍打撃コーチ(名目上はヘッド格)に就任(同時に広岡は守備コーチに就任。広岡は後に荒川博の後を継いでヤクルトの監督となる)、山本浩二・衣笠祥雄・三村敏之・水谷実雄らを育て後の広島黄金時代の礎を築いた。
1975年、親交のあった長嶋茂雄に誘われ(長嶋現役引退直後の監督初采配年)、巨人のヘッドコーチに就任するが最下位の責任を取って翌1976年は二軍監督に降格となり、同年限りで退団。
1981年オフ、長嶋の監督招聘を働きかけていた横浜大洋ホエールズに「長嶋監督が実現したら交代する」との条件で監督に就任。投手の遠藤一彦、野手の屋鋪要、高木豊を育てた。2年目の1983年にはレオン・リーと加藤博一をトレードで獲得し、チームを4年ぶりのAクラス(3位)に導いたが、結局「大洋・長嶋監督」は実現することなく、1984年に辞任し、近藤貞雄に監督をバトンタッチ。近藤は屋鋪・加藤・高木を「スーパーカートリオ」として売りだした。
その後フジテレビ・ニッポン放送解説者を務めた後、1987年にヤクルトスワローズの監督として招かれる。ヤクルトでは大洋監督時代に投手コーチだった小谷正勝を招聘、池山隆寛・広沢克己・栗山英樹・荒井幸雄・内藤尚行・伊東昭光(1988年4月8日東京ドーム初の公式戦でセーブ記録)・荒木大輔・秦真司・笘篠賢治らを起用し、後任の監督野村克也にわたり起用されるレギュラー選手として育てあげた。1989年限りで辞任し、小谷コーチも大洋へ戻った。
通算6シーズン経験した一軍監督時代は成績面では恵まれなかった。優勝はおろかAクラスにも一度(1983年の3位)しか手が届かなかったが、若手を積極的に実戦に投入した実績から人材育成の名手として評価され、広岡達朗もその手腕を認めている。
1990年にフジテレビ・ニッポン放送野球解説者に復帰。解説者としては、結果論や当たり前のことしか言わない点を揶揄されることが多い。この点については、解説者を始めた時に詳細な技術論を展開したところ、兄から「解説がわかりづらい。専門的なことを長々と喋られても、視聴者に伝わりづらい」という指摘を受けたため、わかりやすくシンプルな解説を心がけるようにした、と著書で述べている。実況アナウンサーとの間(ま)を大事にしており、アナウンサーの実況を遮ってまで喋り続けることはほとんどない。また、実況アナウンサーが的外れな質問をすると、無視をして何も答えない。一見おだやかなイメージがあるが、話す内容は「ダメですね」「どうしようもない」など、かなり手厳しいコメントを連発する。
2011年現在、テレビ局・ラジオ局専属のプロ野球解説者の中ではTBSラジオの杉下茂[2]に次いで高齢となっている。
人物
この記事に雑多な内容を羅列した節があります。 |
- 生年月日は1927年3月15日になっているが、関根によると親の話では実際は1926年12月25日であるとのこと。これは父親が戸籍を登録しようと役所に行ったが、その日大正天皇が崩御したため役所が休みで登録できず、そのまま忘れてしまい、3か月後ようやく戸籍登録していないことに気づき、1927年3月15日に登録したためだという(2007年3月13日ニッポン放送『ショウアップナイターネクスト』より)。他に実際に出生した日と戸籍上の生年月日の異なる人物は植木等(関根と同じ日に生まれた。戸籍上は1927年2月25日)、板東英二、王貞治、徳光和夫、高野孟などがいる。
- テレビなどで自身を紹介された時は必ず「よろしくどうぞ」と挨拶する。
- ニッポン放送の解説者になった当時(1966-69年)、専属解説者が関根1人だったため、ニッポン放送で中継されるほとんどの試合の解説を関根が行っていた。元ニッポン放送アナウンサーの深澤弘は「他局は当時から何人もの解説者を起用していたが、 関根さんの声が聴こえたらニッポン放送だと解るようにあえて関根さん1人しか起用しなかった」とコメントしている。
- 大洋・ヤクルト監督時代の老成した、穏やかな印象から「笑顔があふれる温厚な人物(好々爺)」と思われがちであるが、実際は若い頃から、言葉より先に手が出るという熱血漢である。旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となった永年の戦友である根本陸夫が、『関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴、あの底恐ろしさは“インテリヤクザ”だよ』と生前言い残した逸話を持つ(根本自身も、若い頃に相当の武勇伝を持つことで知られている)。広岡達朗も『関根さんは怒らせてはいけない』と釘を刺していた。
- 著書の中で『僕も根本も売られたケンカは買った。でも自分から売ることはなかったねぇ。殴り合いになる前に「生まれはどこだ?」「ヤサは?」なんて話してるうちに、ケリがついちゃう事が多かった』と記している[3]。
- もっとも、若い選手たちにはその恐さが浸透していたとは言い難い。大洋監督時代、試合前のミーティングに遅刻したベテラン選手がいたので「てめぇら、ふざけるんじゃねぇ!」と怒鳴ったところ、選手たちは恐縮せず、ただ驚くばかりであった。その後しばらく、選手間では「てめぇら、ふざけるんじゃねぇ!」が、流行語になったという。
- 広島コーチ時代、門限を破った衣笠祥雄を寮の玄関で待ち伏せていた逸話は有名。説教を覚悟した衣笠に対し、笑顔で「さあ、素振りをやろうか」とバットを渡し、夜中にも関わらず衣笠の素振りを付っきりで見守った。後に関根は「素振りさせたけど、(衣笠が)最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている(2008年9月27日フジテレビ739『プロ野球ニュース』より)。
- 他球団の情報を収集する「先乗りスコアラー」がまだ存在していなかった近鉄選手時代の1954年、監督の藤田から「西鉄の選手の打撃時の特徴をまとめてくれ」と依頼され、関根は旅館に閉じこもり一晩かけてまとめあげた。この依頼、実は日本シリーズに出場する中日監督・天知俊一からの依頼で、藤田と天知が旧知の仲であったことから実現したもの。このデータは同年の日本シリーズで中日が初優勝を決めた際に大きく役立ったという。ちなみに大下弘に関しては「得点圏にランナーがいる時の大下は敬遠しろ」と警告したという(2007年のニッポン放送日本シリーズ中継時の談話)。
- 2004年の球界再編騒動の際、CSの『プロ野球ニュース』で「近鉄は(プロに)ぎりぎりのチームだったから、お客さんを呼ぶことができませんでした」と発言した大久保博元に対して「近鉄がプロにぎりぎりのチームなんて、ふざけんじゃないよ!!」と激しく非難した。このとき関根は近鉄のOB会長を務めていた。1980年代以降に書かれた野球漫画の中では温厚な人物として書かれていることが多く、この大久保怒鳴りつけ事件の後、該当漫画に対して抗議文を送るなどした者もいたという。
- 2000年、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に出演していた関根は、司会の島田紳助から「明らかにここ(頭)を狙ったデッドボールってありますよね?」と振られ、「ありますよ。でも頭はダメですよね。ここ(頭)から下ならいいですけどね」などと喋ってしまい、同じく司会の大橋マキから「関根さんは監督時代に、ここ(頭)から下のデッドボールを指示されたことってあるんですか?」と聞かれるとあっさり「ありますよ」と認めてしまった。これに対し紳助は「爆弾発言ですよ! 関根さんは普段から本当に温厚で、いつもなら湯船に浸かっているような状態で…」と笑いを取っていた。紳助は他にも、関根から聞いた「人生1勝2敗で十分」との人生観を披露し、「そらヤクルトは強よなりませんわな」とコメントしていた。
- ヤクルト監督時代には数々のエピソードを残している。
- 就任1年目のキャンプで池山隆寛に「いいと言うまで止めないこと」と素振りを命令。その後命令したことをすっかり忘れてしまって喫茶店に行ってしまい、池山は止めるに止められず延々素振りし続けた。
- 偶然ながら、いずれの年も優勝したチームに負け越す一方で2位のチームには勝ち越していたことから、当時の一部マスコミやファンからは「優勝お助けマン」と揶揄された。
- 試合中のピンチや投手交代時にマウンドに赴いた際、投手の足を思い切り踏みつけていたことがあった。主な被害者は内藤尚行、川崎憲次郎。ピンチ時には「ここで打たれたら怒るよ」と笑顔で言いながらやっていたという。
- 1988年のある試合で、チャンスの場面で関根に交代を告げられた広沢克己は、「若松さんか。代打の切り札だから仕方ないかな」と納得してベンチに引き揚げたが、打席に入ったのは長嶋一茂だった。広沢は「なんでオレの代打が一茂なんだよ」とどうにも納得がいかなかったという。一説によると、これは「関根監督本人が長嶋茂雄の大ファンであるから。」というのが理由とされている。
- 1989年の春季キャンプでテスト入団したホアン・アイケルバーガーを入団させた理由をラジオにて、「名前がおもしろくて獲ったんだよねー。なんて言ったっけ? 開幕で暴投してすぐいなくなっちゃった…」と発言したという噂がある。
- 夫人との間に一男一女があったが、息子はポニーキャニオンに勤務。1980年代後半、当時ポニーキャニオンと契約していたとんねるず・石橋貴明がテレビ番組内で関根の愛息とはたびたび仕事で顔を合わせていたという。
- 関根の現役時代、夫人は神奈川県川崎市で喫茶店を営んでおり、関根は長らく大阪で単身赴任状態となっていた。
- 21世紀以降、日本人の中でも数少なくなった第二次世界大戦時代を肌で経験した世代となって「太平洋戦争と野球」を語る機会が増えた。2005年にはNHK衛星第2テレビで放送された平日の帯番組『あの日 昭和20年の記憶』に出演し、東京大空襲直後に渋谷区周辺で多数の焼死体を目撃したことを語った。また、2006年10月3日にNHK総合に放送された『その時歴史が動いた・戦火をこえた青春の白球~学徒出陣前 最後の早慶戦~』にゲスト出演。自らの学生時代を語り、バットを持って歩いたところ警察官に呼び止められ「宿敵・米国産の野球をやるとは何事か!!」と怒鳴られたことを明かした。
- かつて『プロ野球ニュース』で一緒に仕事をした八木亜希子の大ファンで、2007年6月22日の『松本秀夫のやっぱり野球は面白い』(ニッポン放送)で次の番組(『八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション』)の紹介に来た時は大喜びした。その後、急遽『八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション』に顔を出し、小学校時代の失恋話を披露した(テーマが失恋だったため)。
- 現役時代の1955年には『ここが命の2・3(ツースリー)』という曲を作詞したことがある(歌は真木不二夫、テイチクレコードより発売)。関根は2009年12月に放送された『プロ野球ここだけの話』(フジテレビワンツーネクスト)の中で久々に曲を聴いて「若気の至り」と反省していた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 近鉄 | 26 | 14 | 8 | 0 | 1 | 4 | 12 | -- | -- | .250 | 689 | 148.0 | 185 | 16 | 53 | -- | 7 | 69 | 1 | 1 | 110 | 90 | 5.47 | 1.61 |
1951 | 39 | 21 | 10 | 2 | 1 | 7 | 11 | -- | -- | .389 | 798 | 189.0 | 189 | 13 | 55 | -- | 8 | 97 | 2 | 2 | 91 | 72 | 3.43 | 1.29 | |
1952 | 39 | 17 | 7 | 1 | 1 | 5 | 16 | -- | -- | .238 | 737 | 173.2 | 170 | 10 | 52 | -- | 5 | 78 | 2 | 2 | 77 | 68 | 3.52 | 1.28 | |
1953 | 35 | 26 | 19 | 1 | 1 | 10 | 15 | -- | -- | .400 | 914 | 219.0 | 209 | 10 | 58 | -- | 8 | 106 | 0 | 0 | 99 | 77 | 3.16 | 1.22 | |
1954 | 35 | 30 | 19 | 3 | 2 | 16 | 12 | -- | -- | .571 | 899 | 232.0 | 174 | 20 | 57 | -- | 4 | 118 | 0 | 0 | 75 | 63 | 2.44 | 1.00 | |
1955 | 40 | 28 | 14 | 3 | 2 | 14 | 16 | -- | -- | .467 | 944 | 226.0 | 228 | 17 | 54 | 2 | 10 | 106 | 3 | 0 | 105 | 89 | 3.54 | 1.25 | |
1956 | 28 | 20 | 10 | 2 | 3 | 9 | 11 | -- | -- | .450 | 616 | 152.1 | 132 | 6 | 29 | 1 | 2 | 66 | 0 | 0 | 64 | 50 | 2.95 | 1.06 | |
1957 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 23 | 5.1 | 6 | 1 | 2 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 3 | 3 | 5.06 | 1.50 | |
通算:8年 | 244 | 157 | 87 | 12 | 11 | 65 | 94 | -- | -- | .409 | 5620 | 1345.1 | 1293 | 93 | 360 | 3 | 44 | 645 | 8 | 5 | 624 | 512 | 3.43 | 1.23 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950 | 近鉄 | 63 | 137 | 129 | 15 | 32 | 2 | 0 | 4 | 46 | 21 | 1 | 0 | 1 | -- | 5 | -- | 2 | 14 | 1 | .248 | .287 | .357 | .643 |
1951 | 52 | 93 | 89 | 4 | 23 | 3 | 1 | 0 | 28 | 11 | 0 | 0 | 0 | -- | 3 | -- | 1 | 3 | 0 | .258 | .290 | .315 | .605 | |
1952 | 69 | 103 | 99 | 7 | 31 | 5 | 0 | 1 | 39 | 16 | 0 | 0 | 0 | -- | 4 | -- | 0 | 3 | 0 | .313 | .340 | .394 | .734 | |
1953 | 42 | 89 | 85 | 10 | 27 | 3 | 3 | 0 | 36 | 7 | 0 | 0 | 0 | -- | 4 | -- | 0 | 2 | 2 | .318 | .348 | .424 | .772 | |
1954 | 56 | 114 | 97 | 10 | 25 | 2 | 0 | 1 | 30 | 10 | 0 | 0 | 2 | 1 | 13 | -- | 1 | 6 | 1 | .258 | .348 | .309 | .657 | |
1955 | 54 | 108 | 91 | 11 | 25 | 1 | 1 | 0 | 28 | 9 | 0 | 0 | 2 | 3 | 12 | 0 | 0 | 11 | 3 | .275 | .349 | .308 | .657 | |
1956 | 59 | 89 | 82 | 11 | 22 | 1 | 0 | 1 | 26 | 15 | 0 | 0 | 3 | 1 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .268 | .291 | .317 | .608 | |
1957 | 125 | 479 | 429 | 47 | 122 | 16 | 2 | 6 | 160 | 39 | 8 | 7 | 5 | 0 | 40 | 0 | 5 | 28 | 6 | .284 | .352 | .373 | .725 | |
1958 | 59 | 234 | 213 | 21 | 54 | 10 | 1 | 1 | 69 | 17 | 1 | 0 | 3 | 1 | 16 | 0 | 1 | 20 | 1 | .254 | .307 | .324 | .631 | |
1959 | 116 | 451 | 412 | 49 | 120 | 17 | 9 | 5 | 170 | 38 | 4 | 3 | 5 | 0 | 30 | 1 | 4 | 32 | 5 | .291 | .345 | .413 | .758 | |
1960 | 112 | 429 | 390 | 44 | 110 | 16 | 1 | 2 | 134 | 32 | 0 | 0 | 6 | 3 | 25 | 4 | 5 | 22 | 10 | .282 | .331 | .344 | .675 | |
1961 | 128 | 483 | 435 | 51 | 123 | 18 | 1 | 9 | 170 | 49 | 4 | 4 | 7 | 5 | 34 | 4 | 2 | 26 | 10 | .283 | .334 | .391 | .725 | |
1962 | 126 | 509 | 465 | 66 | 144 | 18 | 4 | 9 | 197 | 49 | 4 | 2 | 3 | 3 | 33 | 1 | 5 | 34 | 5 | .310 | .360 | .424 | .783 | |
1963 | 144 | 578 | 506 | 73 | 150 | 26 | 1 | 12 | 214 | 66 | 6 | 4 | 4 | 2 | 61 | 1 | 5 | 34 | 12 | .296 | .376 | .423 | .799 | |
1964 | 122 | 392 | 357 | 28 | 81 | 10 | 0 | 5 | 106 | 25 | 1 | 2 | 4 | 3 | 22 | 1 | 6 | 27 | 9 | .227 | .281 | .297 | .578 | |
1965 | 巨人 | 90 | 221 | 199 | 16 | 48 | 6 | 1 | 3 | 65 | 20 | 1 | 0 | 1 | 1 | 15 | 1 | 5 | 16 | 5 | .241 | .309 | .327 | .636 |
通算:16年 | 1417 | 4509 | 4078 | 463 | 1137 | 154 | 25 | 59 | 1518 | 424 | 30 | 22 | 46 | 23 | 320 | 13 | 42 | 283 | 70 | .279 | .336 | .372 | .708 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982年 | 大洋 | 5位 | 130 | 53 | 65 | 12 | .449 | 14.5 | 125 | .250 | 3.92 | 55歳 |
1983年 | 3位 | 130 | 61 | 61 | 8 | .500 | 11.0 | 137 | .272 | 4.52 | 56歳 | |
1984年 | 6位 | 130 | 46 | 77 | 7 | .374 | 30.5 | 100 | .263 | 4.55 | 57歳 | |
1987年 | ヤクルト | 4位 | 130 | 58 | 64 | 8 | .475 | 19.5 | 159 | .260 | 4.51 | 60歳 |
1988年 | 5位 | 130 | 58 | 69 | 3 | .457 | 22.0 | 147 | .246 | 3.79 | 61歳 | |
1989年 | 4位 | 130 | 55 | 72 | 3 | .433 | 28.5 | 140 | .254 | 3.97 | 62歳 | |
通算:6年 | 780 | 331 | 408 | 41 | .448 | Aクラス1回、Bクラス5回 |
- ※1982年から1996年までは130試合制
表彰
- 野球殿堂競技者表彰(2003年)
記録
- オールスターゲーム出場:5回 (1953年、1959年、1960年、1962年、1963年)
- 通算1000試合出場:1962年7月14日(72人目)
背番号
- 19 (1950年 - 1965年)
- 63 (1970年)
- 70 (1975年 - 1976年)
- 71 (1982年 - 1984年)
- 83 (1987年 - 1989年)
関連情報
出演番組
- BASEBALL SPECIAL〜野球道〜
- SWALLOWS BASEBALL L!VE
- プロ野球ニュース(2011年より原則としてMC<形式上は関根とアナウンサーの2-3人司会であるが、実際はアナウンサー(2013年以後は別の解説者も)が総合司会を担当し、関根はコメンテーター席で「ご意見番」という位置づけで出演する>のみでの出演となった)
- ニッポン放送ショウアップナイター(土・日曜にMBSタイガースライブとネットワークを組むこともある。また、MBSの中継でゲスト解説をしたこともある)
- すぽると
- プロ野球珍プレー・好プレー大賞
出演映画
- アモーレの鐘(1981年) - 別荘の管理人 役
著書
- 『一勝二敗の勝者論』(佼成出版社:1990年8月)
- 『若いヤツの育て方』(日本実業出版社:1990年10月)
- 『野球ができてありがとう - 関根潤三野球放談』(小学館:1998年11月)
- 『いいかげんがちょうどいい - 85歳、野球で知った人生で大切なこと』(ベースボール・マガジン社:2012年11月)
脚注
関連項目
外部リンク
- 野球殿堂 関根潤三 - 公益財団法人野球殿堂博物館
期間 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1976.4 | 1977.9 | 佐々木信也 | 土居まさる | |||||
1977.10 | 1977.12 | はらたいら | ||||||
1978.1 | 1980.3 | 押阪忍 | ||||||
1980.4 | 1983.9 | みのもんた | ||||||
1983.10 | 1985.9 | 佐々木信也 | みのもんた | 佐々木信也 | ||||
1985.10 | 1986.3 | 佐々木信也 | みのもんた | |||||
1986.4 | 1988.3 | みのもんた、大島智子 | ||||||
1988.4 | 1991.3 | 野崎昌一、須田珠理 | 中井美穂 大矢明彦、平松政次、谷沢健一 | |||||
1991.4 | 1992.3 | 野崎昌一、石川小百合 | ||||||
1992.4 | 1992.10 | 中井美穂 | 田尾安志、石川小百合 | 中井美穂 | ||||
1992.11 | 1993.3 | 田尾安志、小島奈津子 | ||||||
1993.4 | 1994.3 | 田尾安志 森口博子 |
中井美穂 | 森脇健児 関根潤三 八木亜希子 | ||||
1994.4 | 1995.3 | 福井謙二、志岐幸子 | (『スポーツWAVE』に内包) | |||||
1995.4 | 1996.3 | 福井謙二、久保恵子 | パンチ佐藤 中村江里子 |
田尾安志 陣内貴美子 斎藤英津子 | ||||
1996.4 | 1997.3 | 福井謙二 西山喜久恵 |
福井謙二 木佐彩子 |
パンチ佐藤 西山喜久恵 |
田尾安志 西山喜久恵 | |||
1997.4 | 1997.9 | 福井謙二、西山喜久恵 | 木佐彩子 | (放送なし) | ||||
1997.10 | 1998.3 | 木佐彩子 | ||||||
1998.4 | 1999.3 | 福井謙二 木佐彩子 |
福井謙二 西山喜久恵 |
長嶋一茂、中村江里子 | ||||
1999.4 | 2000.3 | 木佐彩子 | 長嶋一茂、荒瀬詩織 | |||||
2000.4 | 2001.3 | 三宅正治 宇田麻衣子 |
三宅正治 荒瀬詩織 |
田尾安志、大久保博元 大橋マキ |