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2016年6月8日 (水) 01:58時点における版

しまだ かしち
島田 嘉七
島田 嘉七
1920年代の写真。
本名
別名義 嵐 璃丈 (あらし りじょう)
生年月日 (1895-08-14) 1895年8月14日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田
身長 160.9cm
職業 俳優、元女形
ジャンル 新派関西歌舞伎劇映画現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1919年 - 1935年
主な作品
八幡屋の娘
嵐の舞
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島田 嘉七(しまだ かしち、1895年8月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8]。本名同じ[1][2][4]。旧芸名嵐 璃丈(あらし りじょう)[2]新派旧派を経て、日活向島撮影所の新派女形となり、男役に転向後もその美貌により人気を得たスター俳優として知られる[1]

人物・来歴

1895年明治28年)8月14日東京府東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)に生まれる、とされている[1][4]。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』(揚幕社)には、生年月日は「明治廿六年八月十九日」(1893年8月19日)、生地は東京市下谷区谷中坂町52番地(現在の台東区谷中1丁目)である旨が記されている[2]。『裸にした映画女優』の島田の項には「明治二十七年八月十四日」(1894年8月14日)、「東京の深川で生る」(深川区、現在の江東区深川地区)と記されている[9]。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』の島田の項には生年月日は冒頭の通りだが、「東京京橋に出生」(京橋区、現在の中央区日本橋以外の地区)と記されている[3]。幼少時から「女の子のように可愛らしく役者の子のようだ」と言われて育つ[1]

旧制小学校を卒業し、下谷区上野西黒門町11番地(現在の台東区上野1丁目)にあった旧制・東京中学校(現在の東京高等学校)に進学したが、同校を中途退学して伊井蓉峰の一門に加入し、数え年15歳になる1909年(明治42年)に新富座で初舞台を踏む[1][2][3]。その後、初代村田正雄の一座に参加して、全国を巡業する[2]。大阪に移り、関西歌舞伎四代目嵐璃珏の一座に参加、「嵐 璃丈」を名乗る[1][2][3]

1919年(大正8年)6月、日活向島撮影所に入社、満23歳にして映画俳優に転向、同年7月14日に公開された『破れ筏』(監督不明)、同年9月27日に公開された『恋の津満子』(監督小口忠)等に女形として出演する[1][3][6][7][8]。のちに男役に転向し、東猛夫衣笠貞之助五月操らの女形の相手役として、人気を得る[1]。1922年(大正11年)12月、田中栄三が監督した『京屋襟店』に出演、完成後の試写後の夜に、藤野秀夫、衣笠貞之助、荒木忍、東猛夫ら幹部俳優13名が集団退社の辞表を提出、石井常吉の計画によって国際活映(国活)に引き抜かれる事件が起きるが、島田もこれに連座し、国活に電撃的に移籍している[1][10][11]

1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』によれば、当時、島田は同書が「生地」として掲載するのと同一の地番に父・姉とともに住み、身長は5尺3寸1分(約160.9センチメートル)、体重13貫300匁(約49.9キログラム)、常用煙草は敷島で、洋装を好み、当時の島田にとっての代表作は、『八幡屋の娘』(監督田中栄三)における「時子」役、『嵐の舞』(監督不明)における「遠山省三」役であるという[2]。同年3月、国活が製作を停止すると、同社を退社し、同年5月、京都に移り、等持院に撮影所を持つマキノ映画製作所に移籍した[1][3][6][7]。マキノ、および東亜キネマに吸収されてからも引き続き等持院撮影所では、向島時代に先輩女形であった衣笠貞之助が監督に転向し、衣笠監督・島田主演で数々の作品を生み出し、スター俳優として活躍した[1][6][7]

1925年(大正14年)春には、東京に戻って松竹蒲田撮影所に移籍、満29歳となった同年5月1日に公開された『椿咲く国』や同31日に公開された『地獄谷』(いずれも監督吉野二郎)を初めとして、1931年(昭和6年)までの間、多くの作品に主演、もしくは栗島すみ子の相手役俳優として出演した[1][3][6][7]飯田蝶子森野五郎が幹部に昇進した1927年(昭和2年)1月には、粂讓筑波雪子松井千枝子とともに準幹部に昇進した[1][12]トーキーの始まる1932年(昭和7年)以降は、脇役に回ることが増えた[1][6][7]。同年12月1日に公開された時代劇『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』ならびに『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』にも出演し、上杉綱憲を演じている[6][7]。満40歳を迎えた1935年(昭和10年)10月15日に公開されたサウンド版永久の愛』(監督池田義信)に「医者富谷」役で出演して以降の出演記録は見当たらない[1][6][7]

1949年(昭和24年)の写真、満54歳。

戦中は大陸各地を慰問したが帰国後に罹災し、1945年(昭和20年)5月に長野県更級郡へ疎開した[13]。戦後も同地で石鹸会社に勤務していたが[13]、以降の消息は不明である[1][6][7]没年不詳

フィルモグラフィ

クレジットはすべて「出演」である[6][7]。公開日の右側には役名[6][7]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[14][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

日活向島撮影所

すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[6][7][8]

国活巣鴨撮影所

1923年(大正12年)の写真、満27歳。

すべて製作は「国活巣鴨撮影所」、配給は「国際活映」、すべてサイレント映画である[6][7]

マキノ等持院撮影所

特筆以外すべて製作は「マキノ等持院撮影所」、配給は「マキノ映画製作所」、すべてサイレント映画である[6][7]

東亜等持院撮影所

特筆以外すべて製作は「東亜等持院撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[6][7]

国活巣鴨撮影所

すべて製作は「国活巣鴨撮影所」、配給は「国際活映」、すべてサイレント映画である[6][7]

松竹蒲田撮影所

受難華』(1926年)公開時のポスター。島田の写真と名が確認できる。
1933年(昭和8年)の写真、満37歳。

特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、特筆以外はすべてサイレント映画である[6][7]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q キネマ旬報社[1979], p.272-273.
  2. ^ a b c d e f g h i j 揚幕社[1923], p.38-39.
  3. ^ a b c d e f g 蒲田[1933], p.73.
  4. ^ a b c 映画世界社[1934], p.143.
  5. ^ 島田嘉七jlogos.com, エア、2013年3月25日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 島田嘉七日本映画データベース、2013年3月25日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af 島田嘉七、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月25日閲覧。
  8. ^ a b c d e 島田嘉七日活データベース、2013年3月25日閲覧。
  9. ^ 泉沢[1925], p.195-197.
  10. ^ 田中[1975], p.363-366.
  11. ^ 佐相[2001], p.106.
  12. ^ 松竹[1985], p.238.
  13. ^ a b アサヒグラフ』 1949年6月1日号。
  14. ^ 所蔵映画フィルム検索システム東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月25日閲覧。
  15. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年3月25日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク