「履正社中学校・高等学校」の版間の差分
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* [[1945年]](昭和20年)7月 - [[大阪大空襲]]により校舎が焼失したため、履正社中学校は滝川小学校、福島商業学校は[[大阪市立神津小学校|神津小学校]]を仮校舎として使用。焼け跡に新校舎ができると元に戻った。 |
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* [[1948年]](昭和23年)7月 - 学制改革により、履正社中学校・履正社高等学校となって、加島町の履正社中学校(旧制)跡に両校とも移転。 |
* [[1948年]](昭和23年)7月 - 学制改革により、履正社中学校・履正社高等学校となって、加島町の履正社中学校(旧制)跡に両校とも移転。 |
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* [[1949年]](昭和24年)2月 - 摂津高等学校・摂津中学校に校名変更。 |
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* [[1951年]](昭和26年) - 摂津中学校を閉校し、摂津高等学校のみになる。 |
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* [[1952年]](昭和27年)3月 - 十三西之町五丁目一(当時の番地・現在の[[淀川区]]十三本町3丁目4番地)に移転。 |
* [[1952年]](昭和27年)3月 - 十三西之町五丁目一(当時の番地・現在の[[淀川区]]十三本町3丁目4番地)に移転。 |
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* [[1955年]](昭和30年)2月 - 大阪福島[[商業高等学校]]に改称。 |
* [[1955年]](昭和30年)2月 - 大阪福島[[商業高等学校]]に改称。 |
2016年3月24日 (木) 13:06時点における版
履正社学園豊中中学校 履正社高等学校 | |
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過去の名称 |
大阪福島商業学校 履正社中学校(旧制) 摂津高等学校 大阪福島商業高等学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人履正社 |
校訓 |
履正不畏 勤勞愛好 報本反始 |
設立年月日 | 1922年(大正11年)3月31日 |
創立記念日 | 4月20日 |
共学・別学 | 男女共学(普通コースのみ男子校) |
中高一貫教育 |
併設型(外部混合有) 旧6ヶ年特進コース (現在は集約文理I・II類、普通III類に組み込まれている) |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学科内専門コース |
集約文理コース(I類・II類) 普通コース(III類・スポーツ) |
学期 | 3学期制 |
高校コード | 27509D |
所在地 | 〒561-0874 |
大阪府豊中市長興寺南四丁目3番19号 | |
外部リンク |
履正社学園豊中中学校公式サイト 履正社高等学校公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
履正社学園豊中中学校・履正社高等学校(りせいしゃがくえんとよなかちゅうがっこう・りせいしゃこうとうがっこう)は、大阪府豊中市長興寺南四丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立中学校・高等学校(併設型中高一貫校)。学校法人履正社が運営し、90年以上の歴史と伝統を持つ。
歴史
- 1922年(大正11年)3月31日 - 大阪府大阪市北区上福島一丁目(旧・福島区海老江上二丁目)に大阪福島商業学校として仮校舎にて開校。
- 1923年(大正12年)3月 - 旧西淀川区浦江町に新校舎が竣工し、移転。
- 1923年(大正12年)4月 - 創立記念日を4月20日と制定。
- 1925年(大正14年) - 現代でも当時でも珍しい自動車部ができる。第1回鮮満旅行実施。
- 1934年(昭和9年) - 旧東淀川区加島に校外運動場完成。
- 1940年(昭和15年)3月20日 - 西淀川区加島町(当時の番地・現在の淀川区加島)に履正社中学校(旧制)創設。
- 1944年(昭和19年) - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、大阪府福島商業学校廃校が決定。以後募集停止(これについては下の特徴の欄で説明)。
- 1945年(昭和20年)7月 - 大阪大空襲により校舎が焼失したため、履正社中学校は滝川小学校、福島商業学校は神津小学校を仮校舎として使用。焼け跡に新校舎ができると元に戻った。
- 1948年(昭和23年)7月 - 学制改革により、履正社中学校・履正社高等学校となって、加島町の履正社中学校(旧制)跡に両校とも移転。
- 1952年(昭和27年)3月 - 十三西之町五丁目一(当時の番地・現在の淀川区十三本町3丁目4番地)に移転。
- 1955年(昭和30年)2月 - 大阪福島商業高等学校に改称。
- 1958年(昭和33年)4月 - 校外運動場を豊中市長興寺に設置。
- 1963年(昭和38年) - 服部緑地前に2つの校舎完成。
- 1964年(昭和39年) - 服部校舎本館・講堂兼体育館完成。
- 1965年(昭和40年) - 現在地へ移転。
- 1966年(昭和41年) - 服部校舎にプール設置。
- 1967年(昭和42年) - 十三校舎を廃止し服部校舎を本校とする。
- 1972年(昭和47年) - 普通科設置。
- 1979年(昭和54年) - 進路指導部設立。
- 1982年(昭和57年) - 商業科募集停止。普通科・自動車コースのみとなる。
- 1983年(昭和58年) - 履正社高等学校に改称。
- 1985年(昭和60年) - 履正社学園豊中中学校開校(3ヵ年独立コース)。
- 1989年(平成元年) - 自動車コース募集停止。
- 1994年(平成6年)3月 - 春の高校バレーにバレー部が全国大会初出場。
- 1997年(平成9年)3月 - バレー部が春の高校バレー出場。
- 1997年(平成9年)8月 - 念願の夏の甲子園大会に初出場。初戦(2回戦)敗退。
- 1998年(平成10年)3月 - バレー部が春の高校バレー出場。
- 2000年(平成12年) - 履正社学園豊中中学校が6ヶ年特進コースを設置、同時に男女共学化。高校・国際特進コースが男女共学化。
- 2001年(平成13年)9月 - 体育館を廃止して図書館・音楽ホールを作り、学校南に総合体育館を竣工。
- 2001年(平成13年)11月 - 履正社茨木グラウンド竣工。
- 2006年(平成18年)3月 - 春の甲子園に初出場。初戦敗退。
- 2008年(平成20年)3月 - 春の甲子園2度目の出場を果たし、甲子園で初勝利を挙げるも、次3回戦で敗退。
- 2010年(平成22年)8月 - 夏の甲子園2度目の出場。夏の甲子園で初勝利を挙げるも、次戦の3回戦で敗退。
- 2011年(平成23年)4月 - 春の甲子園3度目の出場で初のベスト4の成績(準決勝敗退)を修める。
- 2012年(平成24年)3月 - 春の甲子園4度目の出場、3回戦で敗退。
- 2013年 (平成25年) 3月 - 春の甲子園5度目の出場、1回戦で敗退。
- 2014年(平成26年)1月 - サッカー部が冬の大会に初出場。準々決勝まで進めるも国立を目の前に敗退。
- 2014年 (平成26年) 4月 - 春の甲子園6度目の出場、準優勝。
校訓
- 履正不畏…正を履んで畏れずとよむ。自ら由とするところを、自由・公正に勇気と責任を持って力強く履み行う、本校の基本的信条
- 勤労愛好…勤労愛好は、勤勉で学問を愛することが若人の生きるしるしであり、それを正であるとして国家・社会と人間に役立つ教育をするということ
- 報本反始…本に報い始めに返るとよむ。初心に返り、今日あらしめている本源、すなわち両親・先生などの先人の恩に報いるような教育をするということ
教育課程の類型
履正社学園豊中中学校
履正社学園豊中中学校には、次に掲げる履正社高等学校との中高一貫教育を提供するコースと他の高校入試に必要な準備教育を提供するコースが存在する。このような中高一貫コースと高校受験対策コースが設置されている他の私立中高一貫校としては、浜松修学舎中学校・高等学校、白鴎大学足利中学校・高等学校及び霞南至健中学校・霞ヶ浦高等学校が挙げられる[1][2][3]。
3ヵ年進学コースは、高校受験を目指す生徒が集まる。そのため濃い授業内容の割りに進度が早く(学校側は公立中学校の1.7倍の授業量としている)、五ツ木書房・駿台予備学校などの模擬試験対策も行う。五ッ木や駿台の成績上位者に履正社生が挙がることもある。灘高等学校や甲陽学院高等学校(甲陽学院高等学校では2009年度以降高等学校からの生徒募集をしない)には毎年数人が合格・進学する。慶應義塾・早稲田系列の学校にも合格者を出しているほか、大阪の上位公立進学校(大阪府立北野高等学校など)に合格・進学する者もいる。
6ヵ年特進コースの生徒は、卒業後原則履正社高等学校へ進学する。よって中学の勉強にあまり固執せず高等学校の範囲を先取り学習し、3ヵ年独立コースとはカリキュラムにかなりの違いがある。五ッ木テストの代わりに校内実力テスト、駿台テストは受けずにベネッセの模擬テストを受ける。
授業後には進学講座又は部活動に出席すことが出来る。
履正社高等学校
- 集約文理 Ⅰ類・Ⅱ類
- 6ヵ年特進コース
- Ⅲ類(スポーツ推薦コース・普通コース・)
- 集約文理クラス 6ヵ年特進コースは部活をすることはできない。これは放課後進学講座をするためである。
歴代学校長
- 初代:釜谷善蔵(大正11年4月 - 大正14年4月)
- 2代:西岡純平(大正14年5月 - 昭和2年2月)
- 3代:釜谷善蔵(昭和2年3月 - 昭和15年4月)
- 4代:梅村武次郎(昭和16年4月 - 昭和24年3月)
- 5代:釜谷善蔵(昭和24年4月 - 昭和41年1月)
- 6代:釜谷行蔵(昭和41年2月 - 昭和48年3月)
- 7代:橘孝(昭和48年4月 - 昭和49年7月)
- 8代:江川登(昭和49年8月 - 昭和58年3月)
- 9代:井内嘉美(昭和58年4月 - 平成5年8月)
- 10代:釜谷行蔵(平成5年9月 - 平成6年3月)
- 11代:岸仲徹(平成6年4月 - 平成9年3月)
- 12代:前田恭幸(平成9年4月 - 平成17年3月)
- 13代:村瀬典弘(平成17年4月 - 平成20年3月)
- 14代:小森重喜(平成20年4月 - )
特徴
- スポーツクラスは野球部、サッカー部、テニス部、バレー部など全国レベルである。
- 『読売新聞』web版2007年7月27日配信記事によると、指定校推薦で受験する生徒に対し、学校側が「関関同立」の6学部以上の一般受験を義務づける誓約書を書かせていたことがわかっている。
- 昭和初期は大阪の学校では珍しく、修学旅行には満州国へ行っていた。これは大東亜戦争(太平洋戦争)が進むにつれ、反日運動が激化したために打ち切られることになった。ルートとしては大阪から下関まで急行で行き、そこから船で釜山へ渡り、そこから朝鮮にて朝鮮神宮・朝鮮総督府・南大門などの観光をして満州へ入り、同国の観光をするといった経路であった。これを当時は朝鮮・満州の名前から取って、鮮満旅行と呼んでいた。1925年(大正14年)から1936年(昭和11年)まで11回実施され、771名の生徒が参加した。
- 1944年(昭和19年)に大阪府福島商業学校の廃校が決定したのは、戦局が悪化しつつあった当時、工業教育が重視され、商業学校は工業学校に転換せよと政府から命令があったのにも関わらず、創立者の釜谷理事長が強固に反対したためである。これは釜谷理事長は戦時中でも商業は必要であると考えていたからである。
- かつて、敷地内には合宿のためにブルートレインの車両が置かれていた。ブルトレの名前は「正夢号」で、1987年(昭和62年)、国鉄(現・JR)より、大阪・長野間を走っていた急行「ちくま」号の最後尾車両を学校が1600万円で購入したものであった。車掌室に畳を敷き、教師の宿泊室に、更に冷暖房、水洗トイレ、外に3台シャワー室を取り付けて使用した。中は3段ベッドで定員は48人、ちょうど1クラス分であった。1987年に、NHKや新聞でこの合宿が報道されている。
交通
- 最寄り駅は、阪急宝塚本線 曽根駅および北大阪急行緑地公園駅。
- 阪急曽根駅から国道176号線を越えて東に徒歩15分ほど。緑地公園駅からは西へ徒歩18分ほど。服部緑地内を通過し天竺川を渡ったところであるが、校門は反対側にあるため大回りをしなくてはならない。
- 下校時の緑地公園駅まで、女子生徒にのみ送迎バスがある。緑地公園駅行きの下校時だけ通学バスがある理由は、服部緑地内は夜間に痴漢等の不審者が出る可能性があるためであり、かつ曽根駅前ロータリーには大型車は路線バス以外は入れないからである。バスは3台あるが、下校時に普段使われるのはそのうち一番小さいものである。他のバスは運動系クラブ員の学校から茨木グラウンドの輸送などに使われる。
- また自転車で通学する生徒も多い。
- 自動車での送り迎えは原則禁止である。
- 学校に専用の駐車場はない。学校のスクールバスの駐車場は学校前の郵便局横に2006年(平成18年)に設置された。
設備
敷地の南側に4階建ての体育館、校舎の上には屋外プールと弓道場がある。本館4階にはホール(釜谷記念ホール)があり、入学試験や、中学校のみの始業・終業式、卒業式、生徒向けの各種検定試験などが催され、文化祭催行時には舞台となる。ホールを含む本館4階は許可なし(4階のトイレ掃除の係の生徒を除く)に生徒だけでは入れない。校舎は古いが、2004年ごろからラグビー部などの部室を廃止して生徒指導室の拡張工事(その後、グラウンド近辺にラグビー部の部室ができ、野球部やサッカー部などの部室は茨木グラウンドの方に完成した)、教室の更新工事が行われた。教室に関しては廊下側と服部緑地側の窓枠の交換・ドアの交換・教室内のフローリング化が行われた。また、校舎側面のガラス防護用のネットも貼り直された。
2004年夏にグラウンドが全面人工芝となった。テニスコートは1面しかなく、茨木グラウンドの方にテニスコートがあるので、テニス部はここではあまり練習をしていない。茨木グラウンドはその名の通り茨木市にある運動場であり、部活動や生徒の親睦を深める為の球技大会などに使用される。野球場一つと球技を同時に2試合が出来る運動場があり、どちらにも観客席がある。また、野球場は高等学校野球秋季大会で使用されている。
かつて、学校内で合宿を行うことがあり、その宿舎として使用する国鉄20系客車の3段寝台車があったが[6]、解体されて今はない。この寝台車を使った合宿は、1980年代に全国版の新聞に取り上げられて記事になったこともある。
それぞれ1つだけある音楽室と美術室と家庭科室と視聴覚室と情報教室や体育館やグラウンドは高校と共用している。全ての教室の他に、体育館にも冷暖房機が付けられており、勉学に励みやすい環境を作っている。食堂のほかに自由に団欒できるカフェテリアがある。ただし、中学校及び高等学校を合わせた生徒数と比べると座席は少ない。
学校行事
履正社学園豊中中学校の修学旅行は、3ヵ年コースは北海道(23期生より富良野・それより前はキロロ)へのスキー合宿(2年次3月)、6ヵ年コースはカナダまたは沖縄の選択(3年次中盤)となっている。3ヵ年コースは高校受験のため、6ヵ年コースより先に修学旅行に行く。
部活動
社会科部や理科部、空手部などには合宿もある。鉄道研究会は、23年度に部に格上げされた。空手部は文化祭時に板割りなどの演舞を行う(現在は休部)。尚、本校では勉学中心のため部活動は盛んではなく、部活はあってないようなものである。 校内では同好会と呼ばれることが多く週に一度二時間だけ行われる。また、同好会はそれぞれ人数枠が決まっており、それに外れたものは強制的に自学自習同好会に入ることになっている。
高等学校硬式野球部
硬式野球部に所属できるのはⅢ類の生徒のみである。
- 1997年8月、第79回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に初出場。2回戦(初戦)で専大北上高校(岩手県)と対戦、1-2で惜しくも初戦敗退(最後の9回裏、2死2・3塁でサヨナラ勝ちの絶好機に、3塁走者が同点を狙いホームスチールの奇襲に出るも失敗、ゲームセット)。しかも大阪代表が岩手代表に敗れるのは1921年以来、76年ぶり。
- 2006年3月、第78回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)に初出場。1回戦で横浜高校(神奈川県)と対戦、0-1で又もわずか1点差で惜敗。
- 2008年3月、第80回選抜高等学校野球大会に2年ぶり2回目の出場。2回戦(初戦)で下関商業高校(山口県)に、延長10回の末3x-2でサヨナラ勝ちをおさめ、念願の甲子園大会初勝利を達成した。次の3回戦は聖望学園高校(埼玉県)と対戦、5-7で敗退。
- 2010年8月、第92回全国高等学校野球選手権大会に13年ぶり2回目の出場。2回戦(初戦)の天理高校(奈良県)に、4-1で夏の甲子園大会初勝利を挙げた(のちに東京ヤクルトスワローズからプロ入りする山田哲人が、ホームスチールを決めるなどの活躍が光った)。次の3回戦は聖光学院高校(福島県)と対戦、2-5で敗退。
- 2011年3月、第83回選抜高等学校野球大会に3年ぶり3回目の出場。1回戦で総合技術高校(広島県)に、4-0で完封勝利。2回戦は九州学院高校(熊本県)に、8-2で勝利。準々決勝戦は智弁和歌山高校(和歌山県)に、10-3で圧勝。次の準決勝戦は、同83回選抜大会で優勝した東海大相模高校(神奈川県)と対戦したが、2-16と大敗し甲子園大会初の決勝戦進出はならなかった。
- 2012年3月、第84回選抜高等学校野球大会に2年連続4回目の出場。1回戦で地球環境高校(長野県)に、5-2で勝利。次の2回戦は愛工大名電高校(愛知県)と対戦、2-9で敗退。
- 2013年3月、第85回記念選抜高等学校野球大会に3年連続5回目の出場。1回戦で岩国商業高校(山口県)と対戦、0-1でわずか1点差で惜敗。
- 2014年4月、第86回選抜高等学校野球大会に4年連続5回目の出場。決勝戦で龍谷大平安高校(京都府)と対戦。2-6で敗れて準優勝。
著名な出身者
- 大木実 - 俳優(前身の大阪福島商業学校)
- 久保昌三 - 上組社長・日本港運協会会長(前身の大阪福島商業高校)
- おぼん・こぼん - 漫才コンビ(前身の大阪福島商業高校)
- 益山性旭 - 元・プロ野球選手(阪神タイガース)(前身の大阪福島商業高校)
- 鍋屋道夫 - 元・プロ野球選手(前身の大阪福島商業高校)
- 岸田護 - プロ野球選手(オリックス・バファローズ)
- 岡田貴弘(T-岡田) - プロ野球選手(オリックス・バファローズ)
- 土井健大 - 元・プロ野球選手(読売ジャイアンツ)
- 山田哲人 - プロ野球選手(東京ヤクルトスワローズ)
- 坂本誠志郎 - プロ野球選手(阪神タイガース)
- 新村純平 - プロサッカー選手(KSグバルディア・コシャリン)
- 大原徹也 - 元・プロ野球選手(現・埼玉西武ライオンズなどに所属)(前身の大阪福島商業高校)
- 塚本将士 - プロゴルファー(前身の大阪福島商業高校)
- 岡本秀明 - バレーボール選手
- 河口正史(アメリカンフットボール、履正社学園豊中中学校出身)
- 松島庄汰(俳優、履正社学園豊中中学校出身)
- 前田悟(元バレーボール選手)
- 奥井諒 - プロサッカー選手(大宮アルディージャ)
合格実績水増し問題
- 進学実績が、1990年代後半より急激に数字の上では向上したが、学校が一部の優秀な生徒に、有名大学の入試を数多く受験させ、学校側が全額受験料を負担して合格実績を水増ししていたことが背景にある。このことについて学校側は、2007年(平成19年)7月23日付けの読売新聞上で、「経済的支援が必要な生徒への奨学金のようなもの。合格実績を上積みした認識はなく、今後も続ける」と説明。
系列校
脚注及び参照
- ^ コースガイド-白鴎大学足利中学校では、中高一貫教育コースと、進学教育コースに分けられ、「進学教育コース」では中学校卒業時に自由に高等学校を選択できる制度を採用するものの、白鴎大学足利高等学校への進学の道も開かれている。
- ^ 浜松修学舎中学校には、6ヵ年難関大学特別進学コースと3ヵ年難関高校独立進学コースに分かれている。
- ^ 霞南至健中学校のコース制の詳細については、進路指導(進路選択)-霞南至健中学校を参照すること。
- ^ 6ヶ年特進コース-履正社学園豊中中学校による。
- ^ 3ヶ年独立コース-履正社学園豊中中学校による。
- ^ 『鉄道ジャーナル』第21巻第5号、鉄道ジャーナル社、1987年4月、124頁。