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益山性旭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
益山 性旭
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県宝塚市
生年月日 (1954-08-26) 1954年8月26日(70歳)
身長
体重
182 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1976年 ドラフト1位
初出場 1977年6月8日
最終出場 1985年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

益山 性旭(ますやま せいきょく、1954年8月26日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

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高校進学時は地元・報徳学園からも声がかかったが試合に出ることを優先して大阪福島商へ進学[1]。3年時、1972年のドラフト会議大洋ホエールズから4位指名されるものの、プロ野球出身である当時の萱原稔監督に「何年かすれば新人の契約金、年俸上限規定が変わるはず」と説得されると[1]、これを拒否して帝京大学に進学。首都大学野球リーグでは優勝に届かず、1974年春季リーグの2位が最高成績。リーグ通算78試合登板、29勝31敗、防御率1.65、450奪三振。通算13完封はリーグタイ記録。

1976年のドラフト会議阪神タイガースに1位指名され入団。「首都大学リーグ屈指の左腕」というふれこみで、カーブやフォークボールを武器に、1977年オープン戦では王貞治を三振にとるなど期待される。8月12日には中日ドラゴンズとの対戦で初先発、同年は3勝を記録した。1978年も16試合に先発し、7月2日広島戦(甲子園)では、9回1死まであわやノーヒットノーランの投球を見せた。高橋慶彦にタイムリー三塁打を打たれたものの、1安打2失点でプロ初完投勝利を果たす。しかしその後は制球難もあり低迷、1982年には再び先発陣に喰い込み3勝を挙げるが、翌年以降は登板機会がなく、1984年に一度は打撃投手となる。しかし左投手が不足していたというチーム事情もあり、1985年に現役復帰し8試合に中継ぎとして登板、同年限りで引退した。その後は大阪十三でスナック「パウゼ堀口」を経営した後、2003年からは焼き鳥屋「本陣」を経営。

詳細情報

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年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1977 阪神 28 6 0 0 0 3 3 0 -- .500 320 77.2 63 13 36 0 0 65 0 0 37 35 4.04 1.27
1978 45 16 1 0 0 1 10 0 -- .091 488 109.2 110 19 54 6 2 67 1 1 68 66 5.40 1.50
1979 34 9 0 0 0 1 5 1 -- .167 333 78.0 75 18 38 3 0 51 0 0 51 41 4.73 1.45
1980 4 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 16 3.0 5 0 1 0 0 2 0 0 4 3 9.00 2.00
1981 19 7 1 0 0 3 3 0 -- .500 213 52.0 44 4 18 1 1 30 1 0 20 17 2.94 1.19
1982 29 16 1 0 0 3 6 0 -- .333 373 85.1 90 11 35 2 2 45 3 2 47 45 4.76 1.46
1985 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 39 8.1 12 3 2 0 0 2 0 0 6 6 6.48 1.68
通算:7年 167 54 3 0 0 11 27 1 -- .289 1782 414.0 399 68 184 12 5 262 5 3 233 213 4.63 1.41
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

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  • 21 (1977年 - 1983年)
  • 95 (1984年)
  • 39 (1985年)

脚注

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  1. ^ a b ベースボールマガジン 2017年1月号 「運命のドラフト」 ベースボールマガジン社

関連項目

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外部リンク

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