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{{日本の寺院 |
{{日本の寺院 |
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|名称 = 清閑寺 |
|名称 = 清閑寺 |
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|画像 = [[ファイル:Seikan-ji Temple 01.JPG|thumb|清閑寺本堂(2015年12月撮影)]] |
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|画像 = {{画像募集中|cat=京都市}} |
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|所在地 = 京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3 |
|所在地 = [[京都府]][[京都市]][[東山区]]清閑寺歌ノ中山町3 |
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|位置 = |
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|山号 = 歌中山 |
|山号 = 歌中山 |
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|宗旨 = |
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|宗派 = [[真言宗智山派]] |
|宗派 = [[真言宗智山派]] |
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|寺格 = |
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|本尊 = [[十一面千手観音]] |
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|本尊 = [[千手観音|十一面千手観音]] |
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|創建年 = [[延暦]]21年([[802年]]) |
|創建年 = [[延暦]]21年([[802年]]) |
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|開 |
|開山 = |
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|開基 = 紹継 |
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|中興年 = [[長徳]]2年([[996年]])以前 |
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|中興 = 佐伯公行 |
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|正式名 = |
|正式名 = |
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|別称 = 歌の中山 |
|別称 = 歌の中山 |
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|札所等 = |
|札所等 = |
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|文化財 = |
|文化財 = |
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|公式HP = |
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|公式HP名 = |
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|地図 = Japan Kyoto city |
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|地図2 = |
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[[File:Seikan-ji Temple 02.JPG|thumb|鐘楼前の「大西郷月照王政復古謀議舊趾」と彫られた石碑]] |
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[[File:Tombs of Emperor Takakura and Emperor Rokujo.JPG|thumb|高倉天皇陵(左側)及び六條天皇陵(右側後方)]] |
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'''清閑寺'''(せいかんじ)は、[[京都市]][[東山区]]にある[[真言宗智山派]]の寺院。山号を歌中山。本尊は[[十一面千手観音]]、開基(創立者)は[[紹継]]。『[[平家物語]]』の悲恋で知られる[[高倉天皇]]と[[小督|小督局]]ゆかりの寺院である。 |
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'''清閑寺'''(せいかんじ、旧字体:淸閑寺)は、[[京都市]][[東山区]]にある[[真言宗智山派]]の[[寺院]]。[[山号]]は歌中山(うたのなかやま)。[[本尊]]は[[千手観音|十一面千手観音]]、[[開山 (仏教)|開基]](創立者)は紹継。『[[平家物語]]』の悲恋で知られる[[高倉天皇]]と[[小督|小督局]]ゆかりの寺院である。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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寺伝によると[[延暦]]21年([[802年]])に[[天台宗]]の寺として[[延暦寺|比叡山]]の紹継[[法師]]によって創建されたが後に荒廃<ref>『山州名跡志』卷之三、清閑寺</ref>。[[一条天皇|一條天皇]]の時代([[986年]] - [[1011年]])に[[播磨国|播磨守]]・佐伯公行<ref group="†">『伊呂波字類抄』では「[[伊予国|伊豫守]][[正四位]]下佐伯[[朝臣]]公行」と記されている。</ref>が[[鎮護国家]]の道場として[[法華堂|法華三昧堂]]、[[宝塔]]、山神堂などを建立し、[[菅原道真]]公御作の十一面千手観世音菩薩を本尊に安置して「清閑寺」と号した。なお、『[[色葉字類抄|伊呂波字類抄]]』、『[[拾芥抄]]』、『[[雍州府志]]』では佐伯公行の創建と記し<ref name="iroha">『伊呂波字類抄』長徳2年是歳 [{{国立国会図書館デジタルコレクション|3450170/486}} 『大日本史料』第二編之二]、875頁</ref><ref>[{{国立国会図書館デジタルコレクション|2544228/19}} 『拾芥抄』下 第九諸寺部]、[[洞院公賢]]編</ref><ref>[http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/image/PB/ritslib/lib/SB/SB4380/SB4380_22.jpg 『雍州府志』巻第四 寺院門上] [[立命館大学]]図書館・古典籍閲覧データベース</ref>、『[[後法興院記]]』では[[桓武天皇]]の建立とする<ref name="heibon">『京都・山城寺院神社大事典』、405頁</ref>。 |
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[[延暦]]21年([[802年]])に[[天台宗]]の寺として[[紹継]]法師によって創建され、当時は[[清水寺]]と並ぶほどの大寺院だったが、[[応仁の乱]]で焼失した。[[慶長]]年間([[1596年]] - [[1615年]])、[[性盛]]によって再興され、[[真言宗]]となった。 |
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[[長徳]]2年([[996年]])に一條天皇により御願寺([[勅願寺]])に列せられ<ref name="iroha"/>、清閑寺法華堂の名の下、天台宗の寺院として維持されていたが、[[鎌倉時代]]後期には後の[[東寺]]二ノ長者・道我[[僧正]]<ref group="†">『[[徒然草]]』の作者・[[吉田兼好]]の歌友で『徒然草』第160段に「清閑寺僧正」として登場する。</ref>、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[東寺長者]]21世・[[賢俊]]僧正が[[住職|住持]]しており、この頃までに天台宗から[[真言宗]]に[[宗旨替え|転じた]]とされる<ref group="†">『京都・山城寺院神社大事典』によると、性盛による復興と同時に真言宗へ改宗したとされる。</ref>。最盛期の寺域は東西5[[町 (単位)|町]]・南北6町と広く<ref name="heibon"/><ref group="†">[[メートル法]]表記に換算すると東西約545m、南北約654mに相当。</ref>、[[清水寺]]と並ぶほどの大寺院だった。[[法相宗]][[興福寺]]派(南都)の清水寺と天台宗(北嶺)の[[末寺]]だった清閑寺とは[[寺社領|寺領]]の境界争い([[境相論]])による衝突が生じており、『皇帝紀抄』[[建暦]]3年([[1213年]])[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]條、『[[吾妻鏡]]』同年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]條には、清閑寺領内に清水寺が[[仏堂|堂宇]]を建立したため、延暦寺の[[衆徒]]百余人が清水寺を焼き払うため[[長楽寺 (京都市)|長楽寺]]に集会した旨の記述があり<ref>「[{{国立国会図書館デジタルコレクション|1879433/195}} 皇帝紀抄]」『[[群書類従]]』第貳輯、経済雑誌社、381頁</ref><ref>『[{{国立国会図書館デジタルコレクション|1920991/52}} 吾妻鏡]』卷二十 『吾妻鏡 吉川本』中卷、国書刊行会、90頁</ref>、翌[[建保]]2年([[1214年]])[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]の裁定により、その地を清水寺の[[所領]]とする代わりに同年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]に清水寺の前執行・法橋快玄が[[還俗]]させられて[[佐渡国]]に[[流罪|配流]]されている<ref>「[{{国立国会図書館デジタルコレクション|936491/170}} 仁和寺御日次記]」『[[群書類従#続群書類従|続群書類従]]』第29輯下 雑部、続群書類従完成会、333頁</ref>。なお東山区には「清閑寺」を冠する町名(旧[[愛宕郡]]清閑寺村)が幾つか存在するが、地名は清閑寺に由来し、かつては全村が清閑寺の[[境内|境内地]]だったが、[[中世]]、寺運の衰退により分轄されている<ref>『角川地名大辞典 26京都』上巻、828頁</ref>。 |
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高倉天皇の寵愛を受けた小督局は、[[平清盛]]の怒りに触れ、この寺で出家させられた。境内にあった茶室「郭公亭」は、[[幕末]]に[[西郷隆盛]]と清水寺成就院住職の[[月照]]上人が密談した場所。 |
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南北朝時代の[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])[[6月8日 (旧暦)|6月8日]]、[[足利尊氏]]が清閑寺執行及び衆徒に対して[[新田義貞]]の軍勢を誅伐するため、京都の東の入口である久々目路([[渋谷街道]])と阿弥陀峯(阿弥陀ヶ峰)を[[警固]]するよう命じるなど<ref>『室町家御内書案』建武3年6月8日條 [{{国立国会図書館デジタルコレクション|782841/287}} 『大日本史料』第六編之三]、513頁</ref>、かなりの勢力を誇っていた。尊氏自身も[[観応]]2年([[1351年]])[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]に当寺で[[天下泰平]]武運長久を祈願し<ref>『伊勢家書』觀應2年1月16日條</ref>、[[文和]]4年([[1355年]])[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]と[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]の両日、遊びに訪れている<ref>『賢俊僧正日記』文和4年2月18日條、同4月26日條</ref>。[[室町時代]]には当寺の[[塔頭]]である法華堂、大勝院、南地院が[[醍醐寺]]に属したほか<ref>『醍醐寺文書』「醍醐寺方管領諸門跡等目録」応永6年3月22日條</ref>、[[三宝院]]僧正山荘も寺領内に存在した<ref name="nichibun">『[http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/08.html 中古京師内外地図]』([[国際日本文化研究センター]]所蔵地図データベース)</ref>。[[東山 (京都府)|東山]]山中に威容を誇った清閑寺も、[[応仁の乱]]で[[伽藍]]を焼失・破却されて荒廃したが<ref>『[[碧山日録]]』應仁2年8月7日條 [{{国立国会図書館デジタルコレクション|3450584/24}} 『大日本史料』第八編之二]、7頁</ref>、[[慶長]]年間([[1596年]] - [[1615年]])に[[根来寺]]の性盛法師(後の[[長谷寺]]2世化主)により再興されて[[本堂]]が再建され、[[享保]]15年([[1730年]])には[[鐘楼]]が再建されている。なお、[[江戸時代]]は因幡堂[[平等寺 (京都市下京区)|平等寺]]の兼帯寺だった<ref>『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』第8巻、200頁</ref>。 |
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旧境内の山腹には六条天皇[[清閑寺陵]]、高倉天皇[[後清閑寺陵]]がある。 |
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[[明治維新]]後の[[明治]]4年([[1871年]])、[[上知令|社寺領上知令]](明治4年1月5日[[太政官布告・太政官達|太政官布告]])によって寺領の大部分が上地として官有地に編入され、寺運は著しく衰退したが、[[昭和]]初期に[[境内]]の整備が行われて現在に至る。 |
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=== 年表 === |
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* [[延暦]]21年([[802年]]) - [[延暦寺|比叡山]]の紹継法師により創建(異説あり) |
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* [[一条天皇|一條天皇]]の時代([[986年]] - [[1011年]]) - 播磨守・佐伯公行により再建 |
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* [[長徳]]2年([[996年]]) - 一條天皇の勅願寺となる |
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* [[大治 (日本)|大治4年]]([[1129年]]) - [[10月14日 (旧暦)|10月14日]]、清閑寺炎上<ref>[{{国立国会図書館デジタルコレクション|991104/46}} 『百錬抄』卷第六](『[[国史大系]]』第拾四卷)、経済雑誌社、76頁</ref>、その後再建される |
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* [[安元]]2年([[1176年]]) - 六條院([[六条天皇|六條上皇]])崩御、清閑寺内に葬られる |
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* [[治承]]5年([[1181年]]) - 高倉院([[高倉天皇|高倉上皇]])崩御、清閑寺内に葬られる |
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* [[建永]]元年([[1206年]]) - 堂宇を修造・改築<ref>『全国寺院名鑑 近畿篇』、[[全日本仏教会]]寺院名鑑刊行会、114-115頁</ref> |
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* [[建暦]]3年([[1213年]]) - 清水寺の法師が清閑寺領内に堂宇を建てたことから[[境相論]]が起こる |
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* [[応仁]]2年([[1468年]]) - [[8月7日 (旧暦)|8月7日]]、[[応仁の乱]]で[[西軍]]が清閑寺を破却して清水山に布陣する |
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* [[慶長]]年間([[1596年]] - [[1615年]]) - [[根来寺]]の性盛法師により[[本堂]]再建 |
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* [[享保]]15年([[1730年]]) - [[鐘楼]]再建 |
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* [[明治]]34年([[1901年]]) - [[鎮守神|鎮守社]]の山王神社が清閑寺から独立、移転 |
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== 境内 == |
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高倉天皇の寵愛を受けた小督局は、[[平清盛]]の怒りに触れ、この寺で[[出家]]させられた。境内には小督局を供養する[[宝篋印塔]]があるほか、高倉天皇陵内にも小督局の墓と伝える宝篋印塔が存在する。鐘楼の上方にあった[[茶室]]「郭公亭」は、[[幕末]]の[[安政]]5年([[1858年]])に[[西郷隆盛]]と清水寺成就院[[住職]]の[[月照]][[上人]]が密談した場所だった。昭和初期には改修も行われたが、腐食による老朽化が進んだため、[[平成]]3年([[1991年]])7月に解体された。鐘楼前には「大西郷月照[[王政復古 (日本)|王政復古]]謀議舊趾」と彫られた[[石碑]]が建っている。 |
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また、前庭には巨石の一部が露出しており、ここから[[扇子|扇]]を開いたように京都市街が眺望でき、扇の要の位置に当たることから「要石」と呼ばれている。現在は石垣に囲われて四隅に[[御幣]]が立てられており、「誓いを立てると願いが叶う」とされる信仰の対象になっている。 |
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<gallery> |
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File:Seikan-ji Temple kaname-ishi-01.JPG|thumb|境内にある要石 |
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File:Seikan-ji Temple kaname-ishi-02.JPG|thumb|要石から京都市街を望む |
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</gallery> |
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== 歌中山 == |
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清閑寺の山号にも使われている「歌中山(歌の中山)」は、現在は清水寺の[[音羽の滝]]から南へ向かい、清閑寺に至る山路を指している。地名は清閑寺の真燕僧都が門前で美女を見かけ、俗念を起こして清水までの道程を尋ねたところ、美女が「見るにだにまよふ心のはかなくてまことの道をいかでしるべき」と歌を返して姿を消し、詠まれた場所が当地であったという寺伝による<ref>『角川地名大辞典 26京都』上巻、213頁</ref>。なお、『[[源平盛衰記]]』巻二「額打論附山僧焼清水寺並会稽山事」に「清閑寺、歌中山まで責寄たり」とあり、古くから使われている地名だが、『山州名跡志』では不詳と記し、清閑寺山(清水山南稜)或いはその西側の妙龍寺(法華寺)とされる。また、[[平安時代]]から応仁の乱頃までの京都を描いた『中古[[京師]]内外地圖』([[森幸安]]作図)では、清水山と山路を挟んだ西側の山を「歌中山」と記している<ref name="nichibun"/>。 |
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清閑寺山を含む周囲一帯は「[[古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法]]」(古都保存法:昭和41年[[法律]]第1号)による歴史的風土特別保存地域に指定され、山林は高台寺山国有林となっている。なお、[[六条天皇|六條天皇]]陵・高倉天皇陵の兆域は、[[国有財産]]たる[[皇室財産|皇室用財産]]([[天皇陵|陵墓]])として[[宮内庁書陵部]]が管理している。 |
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== 天皇陵 == |
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[[File:Tombs of Emperor Rokujo.JPG|200px|thumb|六條天皇清閑寺陵(2016年4月)]] |
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[[File:Tombs of Emperor Rokujo 1920s.jpg|200px|thumb|六條天皇清閑寺陵(1921年以前)]] |
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清閑寺の旧境内である清水山南稜・清閑寺山<ref group="†">清水山、清閑寺山ともに東山三十六峰の一つに数えられる。</ref>の中腹に六條天皇清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)、高倉天皇後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)がある。両陵の兆域面積は9889.44[[平方メートル|m²]]<ref name="ryoubo">『陵墓地形図集成』「六條天皇清閑寺陵・高倉天皇後清閑寺陵之圖」</ref>、周囲215[[間]](約390.9[[メートル|m]])、手前が高倉天皇後清閑寺陵、後方上段が六條天皇清閑寺陵。両陵共に[[土塀]]に囲われて正面に[[檜皮葺]]平唐門を有しており<ref>『聖光録』、73頁</ref>、陵内を望む事はできない。兆域は南南西方向に開けた[[長方形]]状の[[谷|谷間]]に位置するので、拝所も含めて両陵とも南南西を正面としている。また、兆域全体は[[金網]]状の[[柵|フェンス]]で囲われている。 |
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=== 清閑寺陵 === |
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山腹に4箇所ある平坦地の最上段(標高160m付近)に位置しており、[[宮内庁]]による公式形式は円丘。『聖光録』には南面の[[円墳]]と記す。拝所(標高137m付近)東側の石段を上り、高倉天皇陵脇の[[参道]]を通り、更に3つの石段を上った部分が平坦地(東西26m、南北16m、左下を欠いた長方形状)になっており<ref name="ryoubo"/>、直径7mの円丘を中央に、間口12m、奥行10m余の南南西に面する方形に土塀を巡らし、石段の突き当たりに位置する南面中央に平唐門が設けられている<ref name="国史14">『国史大辞典』第14巻、800-801頁</ref>。 |
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[[安元]]2年([[1176年]])[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]、六條院(六條[[太上天皇|上皇]])が清閑寺境内にあった邦綱卿東山亭([[中納言]][[藤原邦綱]]の邸宅<ref group="†">小松谷[[正林寺 (京都市)|正林寺]]の東、現在の東山区清閑寺池田町付近に在ったとされる。</ref>)で[[崩御]]すると、同22日に清閑寺小堂に葬られた<ref>[{{国立国会図書館デジタルコレクション|932104/286}} 『史料綜覧』巻三]、[[東京大学史料編纂所|東京帝國大學文學部史料編纂掛]]編、564-565頁</ref>。後に小堂は失われて所在も不明となり、[[江戸幕府]]の[[元禄]]・[[享保]]の諸陵調書でも、清閑寺境内に高倉天皇陵所はあるが、六條天皇陵所は不明とした<ref name="国史14"/>。 |
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[[谷森善臣]]が著した『山陵考』には「清閑寺の山の高倉院御陵の北後三壇許上のかた[[竹林]]のうちに、北南六十丈許西東百八十丈許の間平坦なる地あり」「土人法華堂とよふ」と記され、高倉天皇陵の北側後方・三段上の竹林内に地元民が「法華堂」と通称する平坦地があり、この山麓に代々住む猟師から、その竹薮で長さ5・6[[寸]]の腐食した[[和釘|鉄釘]]と[[瓦|屋根瓦]]の破片、[[ろうそく|蝋]]の塊を掘り出したと聞いた谷森は、この場所が「法華堂」旧趾で六條院を[[土葬]]した[[仏堂|御堂]]跡と推定した。[[天皇陵#文久の修陵|文久の修陵]]では当所を考定して修補を行い、竹薮に覆われた平坦地<ref>『文久山陵図』「山陵図」六条帝清閑寺陵「荒蕪」図</ref>を切り開き、中央に小さく方形区画が造られて山陵本体に擬され、冂の字状に土塀を設けて南側に[[鳥居]]を築いた。また、竹薮に覆われた南斜面は階段状に整地されて参道が造られ、一段下の平坦地も切り開かれて拝所が設けられた<ref>『文久山陵図』「山陵図」六条帝清閑寺陵「成功」図</ref>。修陵期間は[[文久]]3年([[1863年]])9月から12月の4ヶ月間、費用は878[[両]]とされる<ref name="山陵302">『文久山陵図』、302頁</ref>。 |
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明治28年([[1895年]])10月、清閑寺陵の修理起工のため、奉告[[勅使]]として[[掌典職|掌典]]・[[岩倉具綱]]を参向させて起工奉告祭が行われた<ref>[{{国立国会図書館デジタルコレクション|2946959/1}} 『官報』第3684号]「授爵敍任及辭令」、1895年10月8日</ref>。陵内の再修理では円丘の陵墓を修造、鳥居を木製から石造に変更し、土塀も方形に改修して南面に平唐門を設け、明治29年([[1896年]])12月に竣工、修理竣工奉告勅使として掌典・粟津職綱を参向させて竣工奉告祭が行われた<ref>[{{国立国会図書館デジタルコレクション|2947322/3}} 『官報』第4040号]「敍任及辭令」、1896年12月15日</ref>。 |
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なお、津久井清影(平塚瓢斎)が著した『首註陵墓一隅抄』では「或云今称<sub>二</sub>高倉帝<sup>ノ</sup>陵<sup>ト</sup><sub>一</sub>所即小堂<sup>ノ</sup>跡<sup>ニメ</sup>而此帝<sup>ノ</sup>陵也」と現在の高倉天皇陵が小堂の跡で六條天皇陵であると記している<ref>『[{{国立国会図書館デジタルコレクション|2538751/31}} 首註陵墓一隅抄]』、津久井清影編</ref>。 |
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=== 後清閑寺陵 === |
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[[File:Tombs of Emperor Takakura.JPG|200px|thumb|高倉天皇後清閑寺陵(2016年4月)]] |
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[[File:Tombs of Emperor Takakura 1920s.jpg|200px|thumb|高倉天皇後清閑寺陵(1921年以前)]] |
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山腹に4箇所ある平坦地の最下段(標高145m付近)に位置しており、宮内庁による公式形式は方丘。拝所(標高137m付近)から47段ある[[階段|石段]]を上った部分が平坦地(東西24m、南北21m)になっており<ref name="ryoubo"/>、間口20m、奥行15mの南南西に面する方形に土塀を巡らし、石段の突き当たりに位置する南側に平唐門が設けられている<ref>『国史大辞典』第9巻、17頁</ref>。現陵は陵域の中央西寄りにあり、一辺4.5m、高さ0.5mの方形の土壇で、法華堂の基壇の一部の遺構である可能性が高いとされる<ref>『文久山陵図』「図86 高倉帝 清閑寺陵」、230頁</ref>。『聖光録』には、高倉院陵は高さ2[[尺]](約60[[センチメートル|cm]])、2間半(約4.5m)四方、上方に[[カシ|樫]]の大樹があり、陵側の宝篋印塔は小督の墓と謂うと記している。 |
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[[治承]]5年([[1181年]])[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]、高倉院(高倉[[太上天皇|上皇]])が[[六波羅館|六波羅池殿]]で[[崩御]]した際、[[遺詔]]により<ref>『[{{国立国会図書館デジタルコレクション|2544840/23}} 源平盛衰記]』巻第二十五「小督局事」、[[寛永]]年間版</ref>同日夜に清閑寺の小堂へ遷されて[[殯]]が行われ<ref>「[{{国立国会図書館デジタルコレクション|1879433/183}} 皇帝紀抄]」『群書類従』第貳輯、経済雑誌社、356頁</ref><ref>『[{{国立国会図書館デジタルコレクション|2570062/4}} 平家物語]』卷第六「新院崩御」、[[元和 (日本)|元和]]頃</ref>、東山山麓の火葬所で[[火葬]]された後、法華堂に葬られた。文献には高倉院法華堂、清閑寺法華堂等とも記され、高倉院法華堂には所領が与えられ、供僧を任命して守陵祭祀を行わせていた。後に法華堂は失われたが、寺僧による祭祀は継続されており、元禄の諸陵探索でも所在が明白で、[[幕末]]は[[北白川宮|聖護院宮]]の管理下にあった。 |
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かつては[[柵|木柵]]で囲われて東側に土塀と[[棟門]]が設けられ、[[参道]]は清閑寺寄りに山道が設けられていた<ref>『文久山陵図』「山陵図」高倉帝清閑寺陵「荒蕪」図</ref><ref group="†">参道は清閑寺の[[山門]]脇に現存するが、一般の立ち入りは不可。</ref>。[[天皇陵#文久の修陵|文久の修陵]]で、基壇の周囲に石柵を設けて南に石門を配し、元の柵を撤去して土塀で囲われた。また、竹林だった南斜面が切り開かれ、新たに石段と参道が設けられている<ref>『文久山陵図』「山陵図」高倉帝清閑寺陵「成功」図</ref>。修陵期間は文久3年(1863年)9月から12月の4ヶ月間、費用は772両とされる<ref name="山陵302"/>。明治29年(1896年)12月、六條天皇清閑寺陵と区別して現陵号が設定された。 |
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== 鎮守社 == |
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『山州名跡志』では、清閑寺が当初は天台宗に属していたので[[鎮守神|鎮守社]]として山王神社が山門内に[[分霊|勧請]]されていたと記す。『京都御役所向大概覚書』の「[[氏神#氏子|氏子]]境」には「南ハ[[妙法院]]御門跡領山限、北ハ清閑寺領限、東ハ[[山科区|山科]][[花山|花山村]]限、西ハ[[方広寺|大仏]]境内渋谷町限」とあり、清閑寺村全域の[[産土神]]だったとする<ref>『京都・山城寺院神社大事典』、406頁</ref>。[[明治]]34年([[1901年]])に清閑寺から独立し、[[渋谷街道]]沿いの現在地(京都市東山区清閑寺池田町)へ遷座している。旧[[社格]]([[近代社格制度]])は村社。 |
|||
== 周辺 == |
== 周辺 == |
||
*[[清水寺]] |
* [[清水寺]] |
||
* [[豊国神社 (京都市)|豊国廟]] |
|||
* [[東海道]]([[国道1号]][[五条バイパス]]) |
|||
* [[東山ドライブウェイ]] |
|||
* [[花山トンネル|花山隧道]] |
|||
* [[本願寺文化興隆財団|東本願寺東山浄苑]] |
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== アクセス == |
|||
* [[京阪バス]]([[京阪バス山科営業所#四条山科醍醐線・五条坂経由|四条山科醍醐線・五条坂経由]])「清閑寺山ノ内町」[[バス停留所]]下車、徒歩約5分 |
|||
* 清水寺の南門通用口から「歌の中山」経由、徒歩約10分 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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== 参考文献 == |
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* 歌中山 清閑寺パンフレット |
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* 白慧(坂内直頼)撰 [{{国立国会図書館デジタルコレクション|952774/80}} 『山州名跡志』卷之三]、[[大日本地誌大系]]刊行會、[[1915年]]、36-38頁 |
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* [[東京大学史料編纂所]]編 『[[大日本史料]]』各編 |
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* 参陵奨励会編 [{{国立国会図書館デジタルコレクション|1112045/154}} 『聖光録』]、侑秀社、[[1940年]] |
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* [[吉田東伍]]著 『増補[[大日本地名辞書|大日本地名辭書]]』第2巻「上方」、[[冨山房]]、[[1980年]]、97-99頁 |
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* 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 『[[角川日本地名大辞典]] 26 京都府』上巻、[[角川書店]]、[[1982年]]、ISBN 4-04-001261-5、213、828頁 |
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* [[平凡社]]編 『京都・山城寺院神社大事典』、平凡社、[[1997年]]、ISBN 4-582-13401-7、405-406頁 |
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* [[宮内庁書陵部]]陵墓課編 『宮内庁書陵部 陵墓地形図集成』、[[学生社]]、[[1999年]]、ISBN 4-311-75027-7 |
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* [[外池昇]]編 『文久山陵図』、[[新人物往来社]]、[[2005年]]、ISBN 4-404-03225-0 |
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*[[清閑寺 |
* [[清閑寺家]] |
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* [[明王院 (足立区)]] - 本尊([[秘仏]])の[[不動明王|感得不動明王]]が清閑寺から伝えられている |
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* [[黒田清輝]] - 清閑寺住職・岩佐恩順等をモデルに、幻の代表作『昔語り』([[住友家]]所有・[[戦災]]で焼失)を制作 |
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* [[謡曲]]「[[融]]」 - [[世阿弥]]の代表作のひとつ。「歌の中山清閑寺」と謡われている |
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== 外部リンク == |
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* [http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000134 清閑寺] |
* [http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000134 京都観光Navi:清閑寺]、京都市産業観光局 観光MICE推進室 |
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* [http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/50/se.html 清閑寺(平安京都名所図会データベース)]、[[国際日本文化研究センター]] |
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2016年4月5日 (火) 16:45時点における版
清閑寺 | |
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所在地 | 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町3 |
位置 | 北緯34度59分23.2秒 東経135度47分18.4秒 / 北緯34.989778度 東経135.788444度座標: 北緯34度59分23.2秒 東経135度47分18.4秒 / 北緯34.989778度 東経135.788444度 |
山号 | 歌中山 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 十一面千手観音 |
創建年 | 延暦21年(802年) |
開基 | 紹継 |
中興年 | 長徳2年(996年)以前 |
中興 | 佐伯公行 |
別称 | 歌の中山 |
法人番号 | 6130005002188 |
清閑寺(せいかんじ、旧字体:淸閑寺)は、京都市東山区にある真言宗智山派の寺院。山号は歌中山(うたのなかやま)。本尊は十一面千手観音、開基(創立者)は紹継。『平家物語』の悲恋で知られる高倉天皇と小督局ゆかりの寺院である。
歴史
寺伝によると延暦21年(802年)に天台宗の寺として比叡山の紹継法師によって創建されたが後に荒廃[1]。一條天皇の時代(986年 - 1011年)に播磨守・佐伯公行[† 1]が鎮護国家の道場として法華三昧堂、宝塔、山神堂などを建立し、菅原道真公御作の十一面千手観世音菩薩を本尊に安置して「清閑寺」と号した。なお、『伊呂波字類抄』、『拾芥抄』、『雍州府志』では佐伯公行の創建と記し[2][3][4]、『後法興院記』では桓武天皇の建立とする[5]。
長徳2年(996年)に一條天皇により御願寺(勅願寺)に列せられ[2]、清閑寺法華堂の名の下、天台宗の寺院として維持されていたが、鎌倉時代後期には後の東寺二ノ長者・道我僧正[† 2]、南北朝時代には東寺長者21世・賢俊僧正が住持しており、この頃までに天台宗から真言宗に転じたとされる[† 3]。最盛期の寺域は東西5町・南北6町と広く[5][† 4]、清水寺と並ぶほどの大寺院だった。法相宗興福寺派(南都)の清水寺と天台宗(北嶺)の末寺だった清閑寺とは寺領の境界争い(境相論)による衝突が生じており、『皇帝紀抄』建暦3年(1213年)8月3日條、『吾妻鏡』同年8月14日條には、清閑寺領内に清水寺が堂宇を建立したため、延暦寺の衆徒百余人が清水寺を焼き払うため長楽寺に集会した旨の記述があり[6][7]、翌建保2年(1214年)8月13日の裁定により、その地を清水寺の所領とする代わりに同年12月20日に清水寺の前執行・法橋快玄が還俗させられて佐渡国に配流されている[8]。なお東山区には「清閑寺」を冠する町名(旧愛宕郡清閑寺村)が幾つか存在するが、地名は清閑寺に由来し、かつては全村が清閑寺の境内地だったが、中世、寺運の衰退により分轄されている[9]。
南北朝時代の建武3年(1336年)6月8日、足利尊氏が清閑寺執行及び衆徒に対して新田義貞の軍勢を誅伐するため、京都の東の入口である久々目路(渋谷街道)と阿弥陀峯(阿弥陀ヶ峰)を警固するよう命じるなど[10]、かなりの勢力を誇っていた。尊氏自身も観応2年(1351年)1月16日に当寺で天下泰平武運長久を祈願し[11]、文和4年(1355年)2月18日と4月26日の両日、遊びに訪れている[12]。室町時代には当寺の塔頭である法華堂、大勝院、南地院が醍醐寺に属したほか[13]、三宝院僧正山荘も寺領内に存在した[14]。東山山中に威容を誇った清閑寺も、応仁の乱で伽藍を焼失・破却されて荒廃したが[15]、慶長年間(1596年 - 1615年)に根来寺の性盛法師(後の長谷寺2世化主)により再興されて本堂が再建され、享保15年(1730年)には鐘楼が再建されている。なお、江戸時代は因幡堂平等寺の兼帯寺だった[16]。
明治維新後の明治4年(1871年)、社寺領上知令(明治4年1月5日太政官布告)によって寺領の大部分が上地として官有地に編入され、寺運は著しく衰退したが、昭和初期に境内の整備が行われて現在に至る。
年表
- 延暦21年(802年) - 比叡山の紹継法師により創建(異説あり)
- 一條天皇の時代(986年 - 1011年) - 播磨守・佐伯公行により再建
- 長徳2年(996年) - 一條天皇の勅願寺となる
- 大治4年(1129年) - 10月14日、清閑寺炎上[17]、その後再建される
- 安元2年(1176年) - 六條院(六條上皇)崩御、清閑寺内に葬られる
- 治承5年(1181年) - 高倉院(高倉上皇)崩御、清閑寺内に葬られる
- 建永元年(1206年) - 堂宇を修造・改築[18]
- 建暦3年(1213年) - 清水寺の法師が清閑寺領内に堂宇を建てたことから境相論が起こる
- 応仁2年(1468年) - 8月7日、応仁の乱で西軍が清閑寺を破却して清水山に布陣する
- 慶長年間(1596年 - 1615年) - 根来寺の性盛法師により本堂再建
- 享保15年(1730年) - 鐘楼再建
- 明治34年(1901年) - 鎮守社の山王神社が清閑寺から独立、移転
境内
高倉天皇の寵愛を受けた小督局は、平清盛の怒りに触れ、この寺で出家させられた。境内には小督局を供養する宝篋印塔があるほか、高倉天皇陵内にも小督局の墓と伝える宝篋印塔が存在する。鐘楼の上方にあった茶室「郭公亭」は、幕末の安政5年(1858年)に西郷隆盛と清水寺成就院住職の月照上人が密談した場所だった。昭和初期には改修も行われたが、腐食による老朽化が進んだため、平成3年(1991年)7月に解体された。鐘楼前には「大西郷月照王政復古謀議舊趾」と彫られた石碑が建っている。
また、前庭には巨石の一部が露出しており、ここから扇を開いたように京都市街が眺望でき、扇の要の位置に当たることから「要石」と呼ばれている。現在は石垣に囲われて四隅に御幣が立てられており、「誓いを立てると願いが叶う」とされる信仰の対象になっている。
-
境内にある要石
-
要石から京都市街を望む
歌中山
清閑寺の山号にも使われている「歌中山(歌の中山)」は、現在は清水寺の音羽の滝から南へ向かい、清閑寺に至る山路を指している。地名は清閑寺の真燕僧都が門前で美女を見かけ、俗念を起こして清水までの道程を尋ねたところ、美女が「見るにだにまよふ心のはかなくてまことの道をいかでしるべき」と歌を返して姿を消し、詠まれた場所が当地であったという寺伝による[19]。なお、『源平盛衰記』巻二「額打論附山僧焼清水寺並会稽山事」に「清閑寺、歌中山まで責寄たり」とあり、古くから使われている地名だが、『山州名跡志』では不詳と記し、清閑寺山(清水山南稜)或いはその西側の妙龍寺(法華寺)とされる。また、平安時代から応仁の乱頃までの京都を描いた『中古京師内外地圖』(森幸安作図)では、清水山と山路を挟んだ西側の山を「歌中山」と記している[14]。
清閑寺山を含む周囲一帯は「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法:昭和41年法律第1号)による歴史的風土特別保存地域に指定され、山林は高台寺山国有林となっている。なお、六條天皇陵・高倉天皇陵の兆域は、国有財産たる皇室用財産(陵墓)として宮内庁書陵部が管理している。
天皇陵
清閑寺の旧境内である清水山南稜・清閑寺山[† 5]の中腹に六條天皇清閑寺陵(せいかんじのみささぎ)、高倉天皇後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)がある。両陵の兆域面積は9889.44m²[20]、周囲215間(約390.9m)、手前が高倉天皇後清閑寺陵、後方上段が六條天皇清閑寺陵。両陵共に土塀に囲われて正面に檜皮葺平唐門を有しており[21]、陵内を望む事はできない。兆域は南南西方向に開けた長方形状の谷間に位置するので、拝所も含めて両陵とも南南西を正面としている。また、兆域全体は金網状のフェンスで囲われている。
清閑寺陵
山腹に4箇所ある平坦地の最上段(標高160m付近)に位置しており、宮内庁による公式形式は円丘。『聖光録』には南面の円墳と記す。拝所(標高137m付近)東側の石段を上り、高倉天皇陵脇の参道を通り、更に3つの石段を上った部分が平坦地(東西26m、南北16m、左下を欠いた長方形状)になっており[20]、直径7mの円丘を中央に、間口12m、奥行10m余の南南西に面する方形に土塀を巡らし、石段の突き当たりに位置する南面中央に平唐門が設けられている[22]。
安元2年(1176年)7月17日、六條院(六條上皇)が清閑寺境内にあった邦綱卿東山亭(中納言藤原邦綱の邸宅[† 6])で崩御すると、同22日に清閑寺小堂に葬られた[23]。後に小堂は失われて所在も不明となり、江戸幕府の元禄・享保の諸陵調書でも、清閑寺境内に高倉天皇陵所はあるが、六條天皇陵所は不明とした[22]。
谷森善臣が著した『山陵考』には「清閑寺の山の高倉院御陵の北後三壇許上のかた竹林のうちに、北南六十丈許西東百八十丈許の間平坦なる地あり」「土人法華堂とよふ」と記され、高倉天皇陵の北側後方・三段上の竹林内に地元民が「法華堂」と通称する平坦地があり、この山麓に代々住む猟師から、その竹薮で長さ5・6寸の腐食した鉄釘と屋根瓦の破片、蝋の塊を掘り出したと聞いた谷森は、この場所が「法華堂」旧趾で六條院を土葬した御堂跡と推定した。文久の修陵では当所を考定して修補を行い、竹薮に覆われた平坦地[24]を切り開き、中央に小さく方形区画が造られて山陵本体に擬され、冂の字状に土塀を設けて南側に鳥居を築いた。また、竹薮に覆われた南斜面は階段状に整地されて参道が造られ、一段下の平坦地も切り開かれて拝所が設けられた[25]。修陵期間は文久3年(1863年)9月から12月の4ヶ月間、費用は878両とされる[26]。
明治28年(1895年)10月、清閑寺陵の修理起工のため、奉告勅使として掌典・岩倉具綱を参向させて起工奉告祭が行われた[27]。陵内の再修理では円丘の陵墓を修造、鳥居を木製から石造に変更し、土塀も方形に改修して南面に平唐門を設け、明治29年(1896年)12月に竣工、修理竣工奉告勅使として掌典・粟津職綱を参向させて竣工奉告祭が行われた[28]。
なお、津久井清影(平塚瓢斎)が著した『首註陵墓一隅抄』では「或云今称二高倉帝ノ陵ト一所即小堂ノ跡ニメ而此帝ノ陵也」と現在の高倉天皇陵が小堂の跡で六條天皇陵であると記している[29]。
後清閑寺陵
山腹に4箇所ある平坦地の最下段(標高145m付近)に位置しており、宮内庁による公式形式は方丘。拝所(標高137m付近)から47段ある石段を上った部分が平坦地(東西24m、南北21m)になっており[20]、間口20m、奥行15mの南南西に面する方形に土塀を巡らし、石段の突き当たりに位置する南側に平唐門が設けられている[30]。現陵は陵域の中央西寄りにあり、一辺4.5m、高さ0.5mの方形の土壇で、法華堂の基壇の一部の遺構である可能性が高いとされる[31]。『聖光録』には、高倉院陵は高さ2尺(約60cm)、2間半(約4.5m)四方、上方に樫の大樹があり、陵側の宝篋印塔は小督の墓と謂うと記している。
治承5年(1181年)1月14日、高倉院(高倉上皇)が六波羅池殿で崩御した際、遺詔により[32]同日夜に清閑寺の小堂へ遷されて殯が行われ[33][34]、東山山麓の火葬所で火葬された後、法華堂に葬られた。文献には高倉院法華堂、清閑寺法華堂等とも記され、高倉院法華堂には所領が与えられ、供僧を任命して守陵祭祀を行わせていた。後に法華堂は失われたが、寺僧による祭祀は継続されており、元禄の諸陵探索でも所在が明白で、幕末は聖護院宮の管理下にあった。
かつては木柵で囲われて東側に土塀と棟門が設けられ、参道は清閑寺寄りに山道が設けられていた[35][† 7]。文久の修陵で、基壇の周囲に石柵を設けて南に石門を配し、元の柵を撤去して土塀で囲われた。また、竹林だった南斜面が切り開かれ、新たに石段と参道が設けられている[36]。修陵期間は文久3年(1863年)9月から12月の4ヶ月間、費用は772両とされる[26]。明治29年(1896年)12月、六條天皇清閑寺陵と区別して現陵号が設定された。
鎮守社
『山州名跡志』では、清閑寺が当初は天台宗に属していたので鎮守社として山王神社が山門内に勧請されていたと記す。『京都御役所向大概覚書』の「氏子境」には「南ハ妙法院御門跡領山限、北ハ清閑寺領限、東ハ山科花山村限、西ハ大仏境内渋谷町限」とあり、清閑寺村全域の産土神だったとする[37]。明治34年(1901年)に清閑寺から独立し、渋谷街道沿いの現在地(京都市東山区清閑寺池田町)へ遷座している。旧社格(近代社格制度)は村社。
周辺
アクセス
- 京阪バス(四条山科醍醐線・五条坂経由)「清閑寺山ノ内町」バス停留所下車、徒歩約5分
- 清水寺の南門通用口から「歌の中山」経由、徒歩約10分
脚注
注釈
出典
- ^ 『山州名跡志』卷之三、清閑寺
- ^ a b 『伊呂波字類抄』長徳2年是歳 『大日本史料』第二編之二、875頁
- ^ 『拾芥抄』下 第九諸寺部、洞院公賢編
- ^ 『雍州府志』巻第四 寺院門上 立命館大学図書館・古典籍閲覧データベース
- ^ a b 『京都・山城寺院神社大事典』、405頁
- ^ 「皇帝紀抄」『群書類従』第貳輯、経済雑誌社、381頁
- ^ 『吾妻鏡』卷二十 『吾妻鏡 吉川本』中卷、国書刊行会、90頁
- ^ 「仁和寺御日次記」『続群書類従』第29輯下 雑部、続群書類従完成会、333頁
- ^ 『角川地名大辞典 26京都』上巻、828頁
- ^ 『室町家御内書案』建武3年6月8日條 『大日本史料』第六編之三、513頁
- ^ 『伊勢家書』觀應2年1月16日條
- ^ 『賢俊僧正日記』文和4年2月18日條、同4月26日條
- ^ 『醍醐寺文書』「醍醐寺方管領諸門跡等目録」応永6年3月22日條
- ^ a b 『中古京師内外地図』(国際日本文化研究センター所蔵地図データベース)
- ^ 『碧山日録』應仁2年8月7日條 『大日本史料』第八編之二、7頁
- ^ 『国史大辞典』第8巻、200頁
- ^ 『百錬抄』卷第六(『国史大系』第拾四卷)、経済雑誌社、76頁
- ^ 『全国寺院名鑑 近畿篇』、全日本仏教会寺院名鑑刊行会、114-115頁
- ^ 『角川地名大辞典 26京都』上巻、213頁
- ^ a b c 『陵墓地形図集成』「六條天皇清閑寺陵・高倉天皇後清閑寺陵之圖」
- ^ 『聖光録』、73頁
- ^ a b 『国史大辞典』第14巻、800-801頁
- ^ 『史料綜覧』巻三、東京帝國大學文學部史料編纂掛編、564-565頁
- ^ 『文久山陵図』「山陵図」六条帝清閑寺陵「荒蕪」図
- ^ 『文久山陵図』「山陵図」六条帝清閑寺陵「成功」図
- ^ a b 『文久山陵図』、302頁
- ^ 『官報』第3684号「授爵敍任及辭令」、1895年10月8日
- ^ 『官報』第4040号「敍任及辭令」、1896年12月15日
- ^ 『首註陵墓一隅抄』、津久井清影編
- ^ 『国史大辞典』第9巻、17頁
- ^ 『文久山陵図』「図86 高倉帝 清閑寺陵」、230頁
- ^ 『源平盛衰記』巻第二十五「小督局事」、寛永年間版
- ^ 「皇帝紀抄」『群書類従』第貳輯、経済雑誌社、356頁
- ^ 『平家物語』卷第六「新院崩御」、元和頃
- ^ 『文久山陵図』「山陵図」高倉帝清閑寺陵「荒蕪」図
- ^ 『文久山陵図』「山陵図」高倉帝清閑寺陵「成功」図
- ^ 『京都・山城寺院神社大事典』、406頁
参考文献
- 歌中山 清閑寺パンフレット
- 白慧(坂内直頼)撰 『山州名跡志』卷之三、大日本地誌大系刊行會、1915年、36-38頁
- 東京大学史料編纂所編 『大日本史料』各編
- 参陵奨励会編 『聖光録』、侑秀社、1940年
- 吉田東伍著 『増補大日本地名辭書』第2巻「上方」、冨山房、1980年、97-99頁
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 26 京都府』上巻、角川書店、1982年、ISBN 4-04-001261-5、213、828頁
- 平凡社編 『京都・山城寺院神社大事典』、平凡社、1997年、ISBN 4-582-13401-7、405-406頁
- 宮内庁書陵部陵墓課編 『宮内庁書陵部 陵墓地形図集成』、学生社、1999年、ISBN 4-311-75027-7
- 外池昇編 『文久山陵図』、新人物往来社、2005年、ISBN 4-404-03225-0
関連項目
- 平家物語
- 清閑寺家
- 明王院 (足立区) - 本尊(秘仏)の感得不動明王が清閑寺から伝えられている
- 黒田清輝 - 清閑寺住職・岩佐恩順等をモデルに、幻の代表作『昔語り』(住友家所有・戦災で焼失)を制作
- 謡曲「融」 - 世阿弥の代表作のひとつ。「歌の中山清閑寺」と謡われている
外部リンク
- 京都観光Navi:清閑寺、京都市産業観光局 観光MICE推進室
- 清閑寺(平安京都名所図会データベース)、国際日本文化研究センター