コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「池田敬子」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
+image
m 外部リンクの修正 http:// -> https:// (www.hiroshimapeacemedia.jp) (Botによる編集)
 
(43人の利用者による、間の72版が非表示)
1行目: 1行目:
{{別人|池田桂子}}
{{MedalTableTop|Keiko Tanaka-Ikeda 1964.jpg|250px}}
{{Infobox 体操選手
{{MedalCountry|{{JPN}}}}
| 氏名 = 池田敬子
{{MedalSport|女子 [[体操競技]]}}
| 画像 = Keiko Tanaka (Ikeda) 01.jpg
{{MedalCompetition|[[オリンピック体操競技|オリンピック]]}}
| 画像サイズ =
{{MedalBronze|[[前東京オリンピック|1964 東京]]|団体総合}}
| 画像説明 = 1956年
| フルネーム =
| 愛称 =
| 国籍 = {{JPN}}
| 旧国籍 =
| 種目 = 女子[[体操競技]]
| 得意種目 =
| 生年月日 = {{生年月日|1933|11|11}}
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1933|11|11|2023|5|13}}
| 生誕地 =[[広島県]][[豊田郡]][[鷺浦村]]<br />(現:[[三原市]]鷺浦町)
| 故郷 =
| 居住地 =
|
| 身長 = 154cm
| 体重 = 54kg
| 実績 =
| 代表 =
| 所属 =
| 練習場 =
| 学歴 =[[広島県立三原高等学校]]<br />[[日本体育大学]]
| コーチ =
| 補助 =
| 元コーチ =
| 振付師 =
| 使用曲 =
| 技名 =
| 引退 =
|show-medals=
|medaltemplates=
{{MedalCompetition|[[オリンピックの体操競技|オリンピック]]}}
{{MedalBronze|[[1964年東京オリンピックの体操競技|1964 東京]]|団体総合}}
{{MedalCompetition|[[世界体操競技選手権|世界選手権]]}}
{{MedalCompetition|[[世界体操競技選手権|世界選手権]]}}
{{MedalGold|[[1954年世界体操競技選手権|1954]]|平均台}}
{{MedalGold|[[1954年世界体操競技選手権|1954 ローマ]]|平均台}}
{{MedalBronze|[[1958年世界体操競技選手権|1958 モスクワ]]|平均台}}
{{MedalBronze|[[1958年世界体操競技選手権|1958 モスクワ]]|ゆか}}
{{MedalBronze|[[1962年世界体操競技選手権|1962 プラハ]]|団体総合}}
{{MedalBronze|[[1962年世界体操競技選手権|1962 プラハ]]|平均台}}
{{MedalBronze|[[1966年世界体操競技選手権|1966 ドルトムント]]|団体総合}}
{{MedalBronze|[[1966年世界体操競技選手権|1966 ドルトムント]]|団体総合}}
{{MedalBronze|[[1966年世界体操競技選手権|1966 ドルトムント]]|個人総合}}
{{MedalBronze|[[1966年世界体操競技選手権|1966 ドルトムント]]|個人総合}}
{{MedalSilver|[[1966年世界体操競技選手権|1966 ドルトムント]]|段違い平行棒}}
{{MedalSilver|[[1966年世界体操競技選手権|1966 ドルトムント]]|段違い平行棒}}
}}
{{MedalBottom}}
'''池田 敬子'''(いけだ けいこ、旧姓 : 田中、[[1933年]][[11月11日]] - [[2023年]][[5月13日]])は、元女子[[体操競技]]選手で、指導者、教育者。[[広島県]][[豊田郡]][[鷺浦村]](現:[[三原市]]鷺浦町)出身。息子は教師。
[[File:Keiko Tanaka (Ikeda) 01.jpg|thumb|200px|池田敬子]]
'''池田 敬子'''('''いけだ けいこ'''、旧姓・'''田中''':[[1933年]][[11月11日]] - )は、元女子[[体操競技]]選手で、指導者、教育者。体操ニッポンの先駆者と言える。[[広島県]][[豊田郡]]鷺浦村(現:[[三原市]]鷺浦町)出身。


== 略歴 ==
== 人物 ==
[[1956年メルボルンオリンピック|メルボルン五輪]]・[[1960年ローマオリンピック|ローマ五輪]]・[[1964年東京オリンピック|東京五輪]]体操女子代表<ref name="chugoku20110225">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-02-25|url=https://web.archive.org/web/20130602171301/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110225.html|title=<1> プラス思考 体操ニッポンの先駆者|accessdate=2015-11-15}}</ref>。[[1954年世界体操競技選手権]]で日本女子体操界初の金メダリストとなり<ref name="chugoku20110225" />、「ローマの恋人」と呼ばれた<ref name="chugoku20110302" />。東京五輪団体銅メダリスト。体操ニッポンの先駆者と言える<ref name="chugoku20110225" />。いわゆる「ママさん選手」の先駆けとなった人物<ref name="going20141012">{{Cite episode| title= 池田敬子さん| url= https://web.archive.org/web/20231031173943/http://datazoo.jp/w/池田敬子/20413469| series=Going!Sports&News | serieslink=Going!Sports&News | network= 日本テレビ放送網| airdate= 2014-10-12| accessdate=2015-11-15 }}</ref>。指導者としても名を残し、五輪代表選手を育てている。日本女子体操界初の[[国際体操殿堂]]入り<ref name="chugoku20150706">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2015-07-06|url=https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=46626|title=戦後70年 戦争とアスリート 広島 <5> 体操 池田敬子(1933年~) 日本女子唯一の世界選手権|accessdate=2015-11-15}}</ref>。2012年、瑞宝中綬章受章<ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/24aki/meibo_jokun/zuiho-chujusho.pdf|title=平成24年秋の叙勲 瑞宝中綬章受章者|format=PDF|accessdate=2023-02-10|publisher=[[内閣府]]|date =2012-11|page=2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130120020419/http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/24aki/meibo_jokun/zuiho-chujusho.pdf|archivedate=2013-01-22|url-status=dead|url-status-date=2023-02}}</ref><ref>『官報』号外240号、平成24年11月5日</ref>。

三原市名誉市民、日本体操協会功労賞、[[横浜文化賞]]。最終学歴は[[日本体育大学]]卒。同大学で教授から名誉教授、副学長を務めた。

夫は元体操選手で日本体育大学や[[国士舘大学]]で指導した池田睦彦。2人の息子がおり、長男は[[慶應義塾普通部]]教諭の池田啓彦。

[[2023年]][[5月13日]]、[[神奈川県]][[川崎市]]内の介護施設で脳腫瘍により、死去<ref>{{Cite web|和書|publisher=読売新聞|date=2023-05-13|url=https://www.yomiuri.co.jp/sports/etc/20230513-OYT1T50208/|title=「日本体操史上最も活躍の女子選手」池田敬子さん死去、89歳…世界選手権で初の金|accessdate=2023-05-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.47news.jp/9318865.html|title=【速報】体操東京五輪銅メダルの池田敬子さん死去|accessdate=2023-05-13|publisher=共同通信}}</ref>。{{没年齢|1933|11|11|2023|5|13}}。叙[[従五位]]<ref>『官報』第1000号、令和5年6月16日</ref>。

== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[瀬戸内海]]三原湾に浮かぶ[[佐木島]]の生まれ<ref name="chugoku20110226">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-02-26|url=https://web.archive.org/web/20130602145909/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110226.html|title=<2> 佐木島 親分肌のスポーツ少女|accessdate=2015-11-15}}</ref>。実家は向田浜の「浜旦那」つまり[[塩田]]の地主・経営者で、比較的裕福な家庭に育つ<ref name="chugoku20110226" />。おおらかな父と、厳格な母・祖母に育てられる<ref name="chugoku20110226" />。2人兄弟で、兄は元広島県議会議員の田中信一<ref name="chugoku20110226" />。
[[瀬戸内海]]の[[因島]]の西に浮かぶ[[佐木島]]の生まれ。[[広島原爆|原爆]]で父を亡くす。

幼いころから山や川で遊び、水泳、バレーボール、ソフトボール、いろんなスポーツをする。
幼いころから山や川で遊んだ「おてんば娘」として育ち、水泳・バレーボール・ソフトボールと、いろんなスポーツをする<ref name="chugoku20110226" />。当時島にあった向田小学校、鷺浦中学校で学ぶ<ref name="chugoku20110226" />。中学では9人制バレーボールのエース、陸上短距離と水泳で県大会に出場していた<ref name="chugoku20110226" />。

これらスポーツと平行して、10歳小学4年生(1943年)から三原市内にあった[[バレエ]]教室に通い始め高校まで続けていた<ref name="chugoku20110226" />。当時そのバレエの先生からジャンプ力を褒められている<ref name="chugoku20110226" />。この経験が後の体操競技での下地となっていった<ref name="chugoku20110226" />。

敬子の幼少期は[[第二次世界大戦]]の最中であるが、佐木島、三原市中心部ともに[[空襲]]の被害にあっていない<ref>{{Cite web|和書|publisher=三原市|url=https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/30/rekisi.html|title=歴史と沿革|accessdate=2015-11-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=鷺浦コミュニティセンター|url=http://sagisima.web.fc2.com/rekisi/00-rekisi/rekisi.html|title=さぎしまの歴史|accessdate=2015-11-15}}</ref>。ただ1945年[[広島市への原子爆弾投下]]により叔父は被爆死、その翌日から父親は叔父を探しに広島に入ったため[[被爆|入市被爆]]し、同年冬に父親も亡くなっている<ref name="chugoku20150706" />。


=== 体操との出会い ===
=== 体操との出会い ===
1949年、[[広島県立三原高等学校]]に入学すると、当初はテニス部に入る<ref name="chugoku20110301">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-01|url=https://web.archive.org/web/20130602165648/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110301.html|title=<3> 三原高 運命的出合い 才能開花|accessdate=2015-11-15}}</ref>。部活の最中に遊びで鉄棒をやっていたところ、体操部顧問にスカウトされ体操部へ編入する<ref name="chugoku20110301" />。幼いころにサーカスの道具だと思っていたものは、[[平均台]]や[[段違い平行棒]]だとこの時に知ることになる<ref name="chugoku20110301" />。入部してすぐ平均台の上でジャンプやターンをこなし、周囲を驚かせた<ref name="chugoku20110301" />。体操競技にのめり込み、小学生の頃から続けたバレエを辞め体操を続けた<ref name="chugoku20110301" />。家族は体操を知らず、祖母の前で宙返りを決めると「女の子が大股開くとは何事じゃ」と怒られた、と回想している<ref name="chugoku20110301" />。
[[広島県立三原高等学校|三原高校]]で本格的に体操を始め、[[1952年]]、[[日本体育大学]]の女子1期生として入学。


体操部入部3ヶ月後、県大会で優勝<ref name="chugoku20110301" />。[[第4回国民体育大会|東京国体]]に出場し6位入賞<ref name="chugoku20110301" />。この結果を地元紙[[中国新聞]]がとりあげたことにより、地元佐木島は大騒ぎとなった<ref name="chugoku20110301" />。
[[1954年]]、大学2年・19歳の時、日本の女子体操競技初の海外遠征、監督もコーチもなし、男子チームのお供の形として参加したローマ[[世界体操競技選手権]]で日本女子体操史上唯一の[[金メダル]]を[[平均台]]で獲得、華やかで美しいジャンプとターンで世界の体操ファンを魅了、「'''ローマの恋人'''」と呼ばれた。


バレエの経験を活かした演技はそれまでの体操界のものとは違うためになかなか受け入れられなかったが、“広島に凄い選手が出現した”と話題になった<ref name="chugoku20110301" />。
以降、女子のリーダーとして体操ニッポンの黄金時代をリード。日体大に教員として残り[[1956年]][[メルボルンオリンピック]]大会で[[ゆか]]4位、団体6位、[[1958年]]モスクワ世界選手権、ゆかで[[銅メダル]]、[[1960年]][[ローマオリンピック]]で個人総合6位、[[段違い平行棒]]・平均台5位、団体4位。[[1962年]][[プラハ]]世界選手権、平均台銅メダル。


[[1952年]]、“体操の神様”[[竹本正男]]に憧れ[[日本体育大学]]に入学<ref name="chugoku20110302">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-02|url=https://web.archive.org/web/20130602193920/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110302.html|title=<4> 日体大 「ローマの恋人」が快挙|accessdate=2015-11-15}}</ref>。この年から日体大は女子を入れたためいわゆる女子1期生となり、授業内容は男子と同じだった<ref name="chugoku20110302" />。体操部も同様に男子と一緒に練習し、[[つり輪]]などの男子種目もこなしていた<ref name="chugoku20110302" />。高校までのバレエで培われた表現力と、大学での身体能力強化により、体操選手として花開くことになる<ref name="chugoku20110302" />。1953年、[[全日本体操競技選手権大会]]初優勝。
=== 結婚、そしてママさん体操選手として ===
この間結婚し[[1964年]][[前東京オリンピック|東京オリンピック]]の前年([[1963年]])、29歳で出産。協会に体操選手が出産とは何事かと怒鳴られたが「子供は何億の(精子の)中から生まれる。自分たちだって、そうして生まれてきたんじゃないの。」と反撥し、合宿で[[浴衣]]を裂いて[[オムツ]]を作り川で洗濯したり、跳び箱の一番上の段を逆さにして揺りかごにして育児をしながら練習した。<ref>2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック~第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」</ref>日本はオリンピック団体6位、4位と成績が上がって東京では3位以内が絶対条件の[[プレッシャー]]の中、女子選手で唯一三大会連続出場して銅メダルを獲得した。更に[[1966年]][[ドルトムント]]世界選手権で個人総合3位銅メダル、平行棒で銀メダル。この間、[[全日本体操競技選手権大会|全日本選手権個人総合]]で5連覇を含む優勝10回<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20100509-627754.html 鶴見虹子が女王の意地見せ5連覇/体操 - スポーツニュース]</ref>(いずれも史上最多)。


=== 「ローマの恋人」 ===
当時ママさん体操選手は世界でもほとんどいなかったが、最後の世界選手権([[ドルトムント]])は個人総合銅メダルを取り、他国の選手と並んで表彰台に立った。33歳になっても日本ではジュニアが育っていないことを痛感し、正式に引退を表明する前にジュニア育成のクラブを作った。36歳で引退するまで、赤の長袖[[レオタード]]に白のエレガンスシューズ姿で現役選手として大会に参加し頑張りぬいた。
[[1954年]]、大学2年・19歳の時、日本男子体操チームのお供の形で初めて海外遠征した<ref name="chugoku20110302" />。これは日本の女子体操競技初の海外遠征であった<ref name="chugoku20110302" />。そして男子チームと共にローマ[[1954年世界体操競技選手権|世界体操競技選手権]]に出場、[[平均台]]で日本女子体操史上初の[[金メダル]]を獲得した(この大会では[[竹本正男]]も日本男子体操史上初の金メダルを獲得。なお女子史上2人目は2017年大会の床で[[村上茉愛]]が獲得するまで63年要した)<ref name="chugoku20110302" />。華やかで美しいジャンプとターンで世界の体操ファンを魅了、現地では「ローマの恋人」と持て囃された<ref name="chugoku20110302" />。時は戦後復興の最中、人々は敬子の活躍に希望を見出し熱狂し、帰国後の羽田空港にはマスコミが殺到した<ref name="chugoku20150706" />。故郷の佐木島では提灯行列、実家では[[餅まき]]が行われるなどお祭り騒ぎとなった<ref name="chugoku20110302" />。


世界選手権でのメダルにより敬子は一躍日本女子体操界のリーダーとなり、体操ニッポンの黄金時代をリードしていった<ref name="chugoku20110303">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-02|url=https://web.archive.org/web/20130602170441/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110303.html|title=<5> 初の五輪 国際大会の難しさ痛感|accessdate=2015-11-15}}</ref>。
=== 引退、その後 ===
その後は指導者として人一倍精力的な活動を続け、[[1975年]]、全日本ジュニア体操クラブ協議会設立に奔走、女性唯一の役員(副理事長、のち専務理事)、[[1978年]]、全日本ジュニア体操競技大会、[[1989年]]、国際ジュニア体操競技大会を開催。全日本ジュニア体操クラブ連盟理事長、日本体操協会副会長、[[日本放送協会|NHK]]経営委員、[[テレビ朝日]]番組審査委員、[[2008年]]、オリンピック・パラリンピック([[横浜市|横浜]])策定部会長など多くの役職を歴任。母校日体大の名誉教授、副学長を務めて[[2003年]]退職。[[2002年]]、日本体操女子で初めて国際体操殿堂([[:en:International Gymnastics Hall of Fame|International Gymnastics Hall of Fame]])入りした。現在、[[花園大学]]客員教授。


1956年、日体大を卒業、そのまま助手として大学に留まった<ref name="chugoku20110303" />。昼間は教員として授業、夕方から体操部で指導、夜になり空いた時間に自分の練習をした<ref name="chugoku20110303" />。
[[2009年]]、自らの自伝「人生、逆立ち・宙返り」を執筆。[[小学館]]から発行した。


[[1956年メルボルンオリンピック]]で五輪初出場、[[ゆか]]4位、個人総合で13位、団体6位に終わる<ref name="chugoku20110303" />。日本選手団の裏方の仕事もこなしていた<ref name="chugoku20110303" />。当時の日本体操界は団体戦を重視していたこともあり、個人成績は意識していなかったと回想している<ref name="chugoku20110303" />。そして当時のオーストラリアは戦後10年経ったとはいえ反日感情が残っていたと回想している<ref name="chugoku20150706" />。
体操クラブでは[[岡崎聡子]]、[[野沢咲子]]らを育てている。日本体育大学でも助手、助教授、教授として多くの学生選手を育て上げた。[[1980年]]頃から郷里・広島県内でも「ジャンピング体操スクール」を立ち上げ指導してきたが[[2007年]]11月、[[中国地方]]で初めての民営の体操専用体育館を[[鈴峯女子短期大学|鈴峰学園]]の敷地内に建設した<ref>[http://www.l-co.co.jp/times/log/07/071109/49.html 体操競技専用体育館11日に開館 元五輪代表池田敬子さんが新築]</ref>。三原市[[名誉市民]]<ref>[http://www.city.mihara.hiroshima.jp/shisei/meiyo/05.html 三原市名誉市民・池田敬子]</ref>。


[[1958年]][[1958年世界体操競技選手権|モスクワ世界選手権]]、ゆかで[[銅メダル]]を獲得する<ref name="chugoku20110303" />。この大会で日本選手団に集団食中毒が発生したが、敬子は一人ピンピンしていた<ref name="chugoku20110303" />。
== 主な戦歴 ==

* 1953年(昭和28年)体操全日本選手権大会 優勝
=== 結婚、出産、東京五輪 ===
* 1954年(昭和29年)体操ローマ世界選手権大会 平均台金メダルほか
1958年、[[国士舘大学]]教員であった池田睦彦と結婚、以降「池田」姓を名乗るようになる<ref name="chugoku20110304">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-04|url=https://web.archive.org/web/20130602160416/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110304.html|title=<5> 初の五輪 国際大会の難しさ痛感|accessdate=2015-11-15}}</ref>。睦彦とは縁談により知り合い、体操を続けるという条件での結婚だった<ref name="chugoku20110304" /><ref name="datazoo20110928">{{Cite episode| title= 世界のスーパーウーマン大集合!美しくてカッコイイ女になる方法教えます!2時間スペシャル| url= https://web.archive.org/web/20160304125459/http://datazoo.jp/w/読売新聞/8188369| series=ザ・ベストハウス123 | serieslink=ザ・ベストハウス123 | network=フジテレビ| airdate= 2011-09-28| accessdate=2015-11-15 }}</ref>。敬子は周囲の雑音を無視し、家事もこなしながら日体大教員として、そして体操を続ける<ref name="chugoku20110304" />。
* 1956年(昭和31年)メルボルンオリンピック 体操徒手4位入賞ほか

* 1958年(昭和33年)体操モスクワ世界選手権大会 徒手銅メダルほか
[[1960年ローマオリンピック]]に出場<ref name="chugoku20110305">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-05|url=https://web.archive.org/web/20130602151852/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110305.html|title=<7> ローマ五輪 大技成功も悲願届かず|accessdate=2015-11-15}}</ref>。試合会場は天井から砂が落ちてくるほど古く、環境に四苦八苦したと回想している<ref name="chugoku20110305" />。この大会の段違い平行棒で、女子の選手としては世界で初めてとなる「フルターン」を決めているが得点は伸びず、これに怒る観客が続出した<ref name="chugoku20110305" />。個人総合6位、段違い平行棒・平均台5位、団体4位。次の五輪は地元開催の[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]、4位に終わった女子体操は次の五輪でのメダル獲得を期待される<ref name="chugoku20110309">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-09|url=https://web.archive.org/web/20130602183250/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110309.html|title=<9> 東京五輪 決意の大技 悲願を成就|accessdate=2015-11-15}}</ref>。
* 1960年(昭和35年)ローマオリンピック 体操女子個人総合6位ほか

* 1962年(昭和37年)体操プラハ世界選手権大会 団体銅メダルほか
1961年、長男を生む<ref name="chugoku20110308">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-08|url=https://web.archive.org/web/20130602181810/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110308.html|title=<8> 出産 育児もこなし現役続行|accessdate=2015-11-15}}</ref>。出産4ヶ月後に出場した全日本選手権で5連覇を達成した<ref name="datazoo20110928" /><ref name="spnavi20110424">{{Cite web|和書|publisher=スポーツナビ|date=2011-04-24|url=http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201104240002-spnavi|title=内村が大差をつけて4連覇、鶴見は史上初の6連覇を達成|accessdate=2015-11-15}}</ref>。なおこの記録は2011年に[[鶴見虹子]]が6連覇を達成するまで日本記録であった<ref name="spnavi20110424" />。翌1962年[[1962年世界体操競技選手権|プラハ世界選手権]]に出場し、平均台で銅メダルを獲得した<ref name="chugoku20110308" />。東京五輪に向けて周囲の期待は俄然高まった<ref name="datazoo20110928" />。ただ敬子がプラハから帰ってくると、1歳になった長男は母親の顔を忘れており、ショックだったと回想している<ref name="chugoku20110308" />。
* 1964年(昭和39年)東京オリンピック 体操女子個人総合6位ほか

* 1966年(昭和41年)体操ドルトムント世界選手権大会 個人総合銅メダルほか
1963年、次男を生む<ref name="chugoku20110308" />。翌年に東京五輪を控えて国民が期待していた中でのことだった<ref name="going20141012" />。[[日本体操協会]]は「五輪があるのに出産とは何事か」と怒り、敬子は「産みます。五輪でも勝ちます」と返すと、協会「そんなことできるわけない」、敬子「こいつ、いまに見てろよ」と闘志を燃やした<ref name="chugoku20110308" />。妊娠7ヶ月まで妊婦姿になっても練習に励み、産後1週間で練習に戻っている<ref name="datazoo20110928" /><ref name="chugoku20110308" />。当時はママさん選手に対するサポート体制は整っておらず、合宿には息子2人を連れて行き自分で育児をこなした<ref name="chugoku20110308" /><ref name="going20141012" />。乳の出も悪くなり、さらに五輪1ヶ月前に右ふくらはぎ肉離れの大怪我を負ってしまった<ref name="chugoku20110309" />。
* 1978年(昭和53年)日本体育大学教授に就任

* 1997年(平成9年)日本体操協会副会長に就任
1964年、東京五輪<ref name="chugoku20110309" />。女子団体では[[オリンピックのソビエト連邦選手団|ソビエト連邦]]と[[オリンピックのチェコスロバキア選手団|チェコスロバキア]]が実力的に抜けていて、3位を日本と[[オリンピックの東西統一ドイツ選手団|統一ドイツ]]と争う状況だった<ref name="chugoku20110309" />。その大一番、最初の種目となった平均台で「片足前方宙返り」を決めチーム最高の9.70点を叩きだし、[[東京体育館]]の興奮は最高潮となった<ref name="chugoku20110309" />。ドイツはその後の演技でミスを連発し、結果日本女子体操界悲願の3位に入り[[銅メダル]]を獲得した<ref name="chugoku20110309" />。

=== 現役晩年 ===
東京五輪が行われた1964年で31歳になっていたが、五輪後も体操女子界のリーダーとして活躍した<ref name="chugoku20110310">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-10|url=https://web.archive.org/web/20130602181155/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110310.html|title=<10> 円熟期 金字塔達成 全日本V10|accessdate=2015-11-15}}</ref>。五輪後の目標として、“女王”[[ラリサ・ラチニナ]]を倒すことに定めた<ref name="chugoku20110310" />。

[[1966年]]、[[1966年世界体操競技選手権|ドルトムント世界選手権]]に出場。個人総合3位銅メダル、平行棒で銀メダルと、ラチニナを上回る結果を残し悲願を達成した<ref name="chugoku20110310" />。ただ敬子にとって、この大会は結果よりも転換期となる大会にあった。個人総合は24歳の[[ベラ・チャスラフスカ]]と17歳の[[ナタリア・クチンスカヤ]]と33歳だった敬子に比べ一回り若い選手たちが上位に入り、ラチニナが実は自分のことよりもソ連の次世代の若い選手のために試合に出ていたこと、と他国の体操界では若返りが進んでいたが、日本はまだ敬子が前に出ていた状況だったため、以降次世代の育成を意識しだすようになる<ref name="chugoku20110310" /><ref name="chugoku20110312">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-12|url=https://web.archive.org/web/20130602155502/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110312.html|title=<12> 指導者 ジュニアの育成に奔走|accessdate=2015-11-15}}</ref>。結局、この大会は敬子にとって最後の国際大会となった<ref name="chugoku20110310" />。

1967年、全日本選手権で10度目の優勝を飾る<ref name="chugoku20110310" />。このV10は2015年現在でも史上最多記録である。ただ、この時から成績は振るわなくなっていった<ref name="chugoku20110310" />。[[1968年メキシコシティーオリンピック]]出場にも意欲を燃やしたが代表には落選した<ref name="chugoku20110311">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-11|url=https://web.archive.org/web/20130602183546/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110311.html|title=<11> 引退 ノーミスで競技人生幕|accessdate=2015-11-15}}</ref>。1968年メキシコ五輪後に行われた全日本選手権が公式戦最後の出場となった<ref name="chugoku20110310" />。

敬子は2011年のインタビューで、「周りが勝手に引退といってるだけで、自分でやめるとは言ってない。今でも現役で試合に出れる。」と語っている<ref name="chugoku20110310" />。

=== 指導者として ===
1966年ドルトムント世界選手権終了後、現役のまま指導者としてジュニア層育成を掲げ体操クラブ「池田健康教室」を開講した<ref name="chugoku20110312" />。のちに幅広い年齢層に門戸を広げ、またジュニア層育成ではのちに五輪に出場する[[岡崎聡子]]、[[野沢咲子]]らを育てている<ref name="chugoku20110312" />。1975年には故郷の広島に「ジャンピング体操スクール」を立ち上げている<ref name="chugoku20110315">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-15|url=https://web.archive.org/web/20130602172516/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110315.html|title=<13> 広島 普及活動 故郷に恩返し|accessdate=2015-11-15}}</ref>。

[[1975年]]、全日本ジュニア体操クラブ協議会設立に奔走<ref name="chugoku20110312" />、女性唯一の役員(副理事長、のち専務理事)、[[1978年]]、全日本ジュニア体操競技大会、[[1989年]]、国際ジュニア体操競技大会を開催。全日本ジュニア体操クラブ連盟理事長、日本体操協会副会長、[[日本放送協会|NHK]]経営委員、[[テレビ朝日]]番組審査委員、[[2008年]]、オリンピック・パラリンピック([[横浜市|横浜]])策定部会長など多くの役職を歴任。

また日本体育大学でも助手、助教授、教授として多くの学生選手を育て上げた<ref name="chugoku20110312" />。日体大での要職としては、スポーツ局長、副学長、名誉学長を務めて、[[2003年]]退職<ref name="chugoku20110316">{{Cite web|和書|publisher=中国新聞|date=2011-03-16|url=https://web.archive.org/web/20130602150135/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/ikite/ik110316.html|title=<14> 功績 貢献と人情の体操人生|accessdate=2015-11-15}}</ref>。

[[2002年]]、日本体操女子で初めて[[国際体操殿堂]]入りした<ref name="chugoku20110316" />。授賞式では、[[ケレティ・アーグネシュ]]とともにまだやれるとドレスのまま逆立ちをしてみせ拍手喝采を浴びた<ref name="shinchosha">{{Cite web|和書|publisher=新潮社|date=2014|url=http://www.shinchosha.co.jp/kangaeruhito/mailmag_html/615.html|title=考える人|accessdate=2015-11-15}}</ref>。同年[[新藤兼人]]と共に三原市[[名誉市民]]に賞与<ref name="chugoku20110316" />。

晩年には[[花園大学]]客員教授となり、体操教室も続けていた。

== 記録 ==
* 五輪
** 1964年東京五輪 - 団体銅
* 世界選手権
** 1954年ローマ - 平均台金
** 1958年モスクワ - 平均台銅、ゆか銅
** 1962年プラハ - 平均台銅、団体銅
** 1966年ドルトムント - 段違い平行棒銀、個人総合銅、団体銅
* 全日本選手権
** 優勝10回 - 1953年、1955年、1957年、1958年、1959年、1960年、1961年、1964年、1965年、1967年
* NHK杯
** 優勝1回 - 1964年

== エピソード ==
* [[ベラ・チャスラフスカ]]は日本との関係が深いが、それを結びつけた関係者の一人。チャスラフスカは[[プラハの春]]を支持する“[[二千語宣言]]”に署名したことによりチェコスロバキア政府から政治的迫害をされていた。彼女を支援する一環として1977年日本で行われる[[国際ジュニア体操競技大会|国際女子ジュニア体操大会]]にゲストとして招待することを思いついた。池田は同郷で当時外相だった[[宮沢喜一]]に協力を仰ぎ、チェコスロバキア政府に彼女の出国許可を働きかけ、来日が実現した。以降も来日を続けている<ref name="chugoku20110316" /><ref name="shinchosha" />。
* [[1988年ソウルオリンピック]]の時、[[池谷幸雄]]・[[西川大輔]]の高校生コンビいわゆる「清風コンビ」の出場を推薦した人物の一人<ref name="chugoku20110312" />。
* [[2007年]]11月、[[鈴峯女子短期大学|鈴峰学園]]の敷地内に「池田敬子国際体操殿堂入り記念館」を建てる<ref name="chugoku20110315" />。これは[[中国地方]]で初めての民営の体操専用体育館で、工事費約7千万円をすべて池田の自費でまかない建設された<ref name="chugoku20110315" />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}

== 参考資料 ==
* [http://www.ighof.com/honorees/2002_Keiko_Ikeda.php KEIKO IKEDA] - 国際体操殿堂{{En icon}}
* [https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/1/meiyo.html 三原市名誉市民] - 三原市
* {{Olympedia}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[東京オリンピック日本選手団]]
* [[スポーツに関する日本初の一覧]]
* [[体操競技選手一覧]]
* [[オリンピックの体操競技・女子メダリスト一覧]]
* [[広島県出身の人物一覧]]
* [[日本体育大学の人物一覧]]
* [[1956年メルボルンオリンピックの日本選手団]]
* [[1960年ローマオリンピックの日本選手団]]
* [[1964年東京オリンピックの日本選手団]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Keiko Tanaka-Ikeda}}
* [http://www.ighof.com/honorees/2002_Keiko_Ikeda.php KEIKO IKEDA](国際体操殿堂){{En icon}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/jumpinggym2007/index.html|date=20160507203053 |title=ジャンピング体操スクール }}
* [http://www.mihara-kankou.com/history.html 三原の歴史・文化|広島県三原市観光情報サイト 郷土ゆかりの人たち]
* [http://www.shene.jp/spe20090923/index.html 女性のためのライフスタイル応援コミュニティサイト SHENE]
* [http://www.geocities.jp/jumpinggym2007/index.html ジャンピング体操スクールのホームページへようこそ!]


{{世界体操競技選手権金メダリスト女子平均台}}
{{全日本体操選手権女子個人総合優勝}}
{{全日本体操選手権女子個人総合優勝}}
{{NHK杯体操選手権女子個人総合優勝}}
{{NHK杯体操選手権女子個人総合優勝}}
{{Normdaten}}
{{Sportspeople-stub}}
{{Sportspeople-stub}}

{{DEFAULTSORT:いけた けいこ}}
{{DEFAULTSORT:いけた けいこ}}
[[Category:日本の体操競技選手]]
[[Category:国際体操殿堂]]
[[Category:日本の女子体操競技選手]]
[[Category:オリンピック体操日本代表選手]]
[[Category:オリンピック体操日本代表選手]]
[[Category:日本のオリンピック銅メダリスト]]
[[Category:日本のオリンピック銅メダリスト]]
[[Category:体操競技のオリンピックメダリスト]]
[[Category:日本体育大学の教員]]
[[Category:日本体育大学の教員]]
[[Category:花園大学の教員]]
[[Category:花園大学の教員]]
[[Category:NHK経営委員]]
[[Category:NHK経営委員]]
[[Category:従五位受位者]]
[[Category:瑞宝中綬章受章者]]
[[Category:日本体育大学出身の人物]]
[[Category:広島県出身の人物]]
[[Category:広島県出身の人物]]
[[Category:脳腫瘍で亡くなった人物]]
[[Category:1933年生]]
[[Category:1933年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:2023年没]]

2024年12月15日 (日) 20:41時点における最新版

池田敬子
1956年
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1933-11-11) 1933年11月11日
生誕地 広島県豊田郡鷺浦村
(現:三原市鷺浦町)
没年月日 (2023-05-13) 2023年5月13日(89歳没)
身長 154cm
体重 54kg
種目 女子体操競技
学歴 広島県立三原高等学校
日本体育大学
獲得メダル
オリンピック
1964 東京 団体総合
世界選手権
1954 ローマ 平均台
1958 モスクワ 平均台
1958 モスクワ ゆか
1962 プラハ 団体総合
1962 プラハ 平均台
1966 ドルトムント 団体総合
1966 ドルトムント 個人総合
1966 ドルトムント 段違い平行棒
テンプレートを表示

池田 敬子(いけだ けいこ、旧姓 : 田中、1933年11月11日 - 2023年5月13日)は、元女子体操競技選手で、指導者、教育者。広島県豊田郡鷺浦村(現:三原市鷺浦町)出身。息子は教師。

人物

[編集]

メルボルン五輪ローマ五輪東京五輪体操女子代表[1]1954年世界体操競技選手権で日本女子体操界初の金メダリストとなり[1]、「ローマの恋人」と呼ばれた[2]。東京五輪団体銅メダリスト。体操ニッポンの先駆者と言える[1]。いわゆる「ママさん選手」の先駆けとなった人物[3]。指導者としても名を残し、五輪代表選手を育てている。日本女子体操界初の国際体操殿堂入り[4]。2012年、瑞宝中綬章受章[5][6]

三原市名誉市民、日本体操協会功労賞、横浜文化賞。最終学歴は日本体育大学卒。同大学で教授から名誉教授、副学長を務めた。

夫は元体操選手で日本体育大学や国士舘大学で指導した池田睦彦。2人の息子がおり、長男は慶應義塾普通部教諭の池田啓彦。

2023年5月13日神奈川県川崎市内の介護施設で脳腫瘍により、死去[7][8]。89歳没。叙従五位[9]

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

瀬戸内海三原湾に浮かぶ佐木島の生まれ[10]。実家は向田浜の「浜旦那」つまり塩田の地主・経営者で、比較的裕福な家庭に育つ[10]。おおらかな父と、厳格な母・祖母に育てられる[10]。2人兄弟で、兄は元広島県議会議員の田中信一[10]

幼いころから山や川で遊んだ「おてんば娘」として育ち、水泳・バレーボール・ソフトボールと、いろんなスポーツをする[10]。当時島にあった向田小学校、鷺浦中学校で学ぶ[10]。中学では9人制バレーボールのエース、陸上短距離と水泳で県大会に出場していた[10]

これらスポーツと平行して、10歳小学4年生(1943年)から三原市内にあったバレエ教室に通い始め高校まで続けていた[10]。当時そのバレエの先生からジャンプ力を褒められている[10]。この経験が後の体操競技での下地となっていった[10]

敬子の幼少期は第二次世界大戦の最中であるが、佐木島、三原市中心部ともに空襲の被害にあっていない[11][12]。ただ1945年広島市への原子爆弾投下により叔父は被爆死、その翌日から父親は叔父を探しに広島に入ったため入市被爆し、同年冬に父親も亡くなっている[4]

体操との出会い

[編集]

1949年、広島県立三原高等学校に入学すると、当初はテニス部に入る[13]。部活の最中に遊びで鉄棒をやっていたところ、体操部顧問にスカウトされ体操部へ編入する[13]。幼いころにサーカスの道具だと思っていたものは、平均台段違い平行棒だとこの時に知ることになる[13]。入部してすぐ平均台の上でジャンプやターンをこなし、周囲を驚かせた[13]。体操競技にのめり込み、小学生の頃から続けたバレエを辞め体操を続けた[13]。家族は体操を知らず、祖母の前で宙返りを決めると「女の子が大股開くとは何事じゃ」と怒られた、と回想している[13]

体操部入部3ヶ月後、県大会で優勝[13]東京国体に出場し6位入賞[13]。この結果を地元紙中国新聞がとりあげたことにより、地元佐木島は大騒ぎとなった[13]

バレエの経験を活かした演技はそれまでの体操界のものとは違うためになかなか受け入れられなかったが、“広島に凄い選手が出現した”と話題になった[13]

1952年、“体操の神様”竹本正男に憧れ日本体育大学に入学[2]。この年から日体大は女子を入れたためいわゆる女子1期生となり、授業内容は男子と同じだった[2]。体操部も同様に男子と一緒に練習し、つり輪などの男子種目もこなしていた[2]。高校までのバレエで培われた表現力と、大学での身体能力強化により、体操選手として花開くことになる[2]。1953年、全日本体操競技選手権大会初優勝。

「ローマの恋人」

[編集]

1954年、大学2年・19歳の時、日本男子体操チームのお供の形で初めて海外遠征した[2]。これは日本の女子体操競技初の海外遠征であった[2]。そして男子チームと共にローマ世界体操競技選手権に出場、平均台で日本女子体操史上初の金メダルを獲得した(この大会では竹本正男も日本男子体操史上初の金メダルを獲得。なお女子史上2人目は2017年大会の床で村上茉愛が獲得するまで63年要した)[2]。華やかで美しいジャンプとターンで世界の体操ファンを魅了、現地では「ローマの恋人」と持て囃された[2]。時は戦後復興の最中、人々は敬子の活躍に希望を見出し熱狂し、帰国後の羽田空港にはマスコミが殺到した[4]。故郷の佐木島では提灯行列、実家では餅まきが行われるなどお祭り騒ぎとなった[2]

世界選手権でのメダルにより敬子は一躍日本女子体操界のリーダーとなり、体操ニッポンの黄金時代をリードしていった[14]

1956年、日体大を卒業、そのまま助手として大学に留まった[14]。昼間は教員として授業、夕方から体操部で指導、夜になり空いた時間に自分の練習をした[14]

1956年メルボルンオリンピックで五輪初出場、ゆか4位、個人総合で13位、団体6位に終わる[14]。日本選手団の裏方の仕事もこなしていた[14]。当時の日本体操界は団体戦を重視していたこともあり、個人成績は意識していなかったと回想している[14]。そして当時のオーストラリアは戦後10年経ったとはいえ反日感情が残っていたと回想している[4]

1958年モスクワ世界選手権、ゆかで銅メダルを獲得する[14]。この大会で日本選手団に集団食中毒が発生したが、敬子は一人ピンピンしていた[14]

結婚、出産、東京五輪

[編集]

1958年、国士舘大学教員であった池田睦彦と結婚、以降「池田」姓を名乗るようになる[15]。睦彦とは縁談により知り合い、体操を続けるという条件での結婚だった[15][16]。敬子は周囲の雑音を無視し、家事もこなしながら日体大教員として、そして体操を続ける[15]

1960年ローマオリンピックに出場[17]。試合会場は天井から砂が落ちてくるほど古く、環境に四苦八苦したと回想している[17]。この大会の段違い平行棒で、女子の選手としては世界で初めてとなる「フルターン」を決めているが得点は伸びず、これに怒る観客が続出した[17]。個人総合6位、段違い平行棒・平均台5位、団体4位。次の五輪は地元開催の東京オリンピック、4位に終わった女子体操は次の五輪でのメダル獲得を期待される[18]

1961年、長男を生む[19]。出産4ヶ月後に出場した全日本選手権で5連覇を達成した[16][20]。なおこの記録は2011年に鶴見虹子が6連覇を達成するまで日本記録であった[20]。翌1962年プラハ世界選手権に出場し、平均台で銅メダルを獲得した[19]。東京五輪に向けて周囲の期待は俄然高まった[16]。ただ敬子がプラハから帰ってくると、1歳になった長男は母親の顔を忘れており、ショックだったと回想している[19]

1963年、次男を生む[19]。翌年に東京五輪を控えて国民が期待していた中でのことだった[3]日本体操協会は「五輪があるのに出産とは何事か」と怒り、敬子は「産みます。五輪でも勝ちます」と返すと、協会「そんなことできるわけない」、敬子「こいつ、いまに見てろよ」と闘志を燃やした[19]。妊娠7ヶ月まで妊婦姿になっても練習に励み、産後1週間で練習に戻っている[16][19]。当時はママさん選手に対するサポート体制は整っておらず、合宿には息子2人を連れて行き自分で育児をこなした[19][3]。乳の出も悪くなり、さらに五輪1ヶ月前に右ふくらはぎ肉離れの大怪我を負ってしまった[18]

1964年、東京五輪[18]。女子団体ではソビエト連邦チェコスロバキアが実力的に抜けていて、3位を日本と統一ドイツと争う状況だった[18]。その大一番、最初の種目となった平均台で「片足前方宙返り」を決めチーム最高の9.70点を叩きだし、東京体育館の興奮は最高潮となった[18]。ドイツはその後の演技でミスを連発し、結果日本女子体操界悲願の3位に入り銅メダルを獲得した[18]

現役晩年

[編集]

東京五輪が行われた1964年で31歳になっていたが、五輪後も体操女子界のリーダーとして活躍した[21]。五輪後の目標として、“女王”ラリサ・ラチニナを倒すことに定めた[21]

1966年ドルトムント世界選手権に出場。個人総合3位銅メダル、平行棒で銀メダルと、ラチニナを上回る結果を残し悲願を達成した[21]。ただ敬子にとって、この大会は結果よりも転換期となる大会にあった。個人総合は24歳のベラ・チャスラフスカと17歳のナタリア・クチンスカヤと33歳だった敬子に比べ一回り若い選手たちが上位に入り、ラチニナが実は自分のことよりもソ連の次世代の若い選手のために試合に出ていたこと、と他国の体操界では若返りが進んでいたが、日本はまだ敬子が前に出ていた状況だったため、以降次世代の育成を意識しだすようになる[21][22]。結局、この大会は敬子にとって最後の国際大会となった[21]

1967年、全日本選手権で10度目の優勝を飾る[21]。このV10は2015年現在でも史上最多記録である。ただ、この時から成績は振るわなくなっていった[21]1968年メキシコシティーオリンピック出場にも意欲を燃やしたが代表には落選した[23]。1968年メキシコ五輪後に行われた全日本選手権が公式戦最後の出場となった[21]

敬子は2011年のインタビューで、「周りが勝手に引退といってるだけで、自分でやめるとは言ってない。今でも現役で試合に出れる。」と語っている[21]

指導者として

[編集]

1966年ドルトムント世界選手権終了後、現役のまま指導者としてジュニア層育成を掲げ体操クラブ「池田健康教室」を開講した[22]。のちに幅広い年齢層に門戸を広げ、またジュニア層育成ではのちに五輪に出場する岡崎聡子野沢咲子らを育てている[22]。1975年には故郷の広島に「ジャンピング体操スクール」を立ち上げている[24]

1975年、全日本ジュニア体操クラブ協議会設立に奔走[22]、女性唯一の役員(副理事長、のち専務理事)、1978年、全日本ジュニア体操競技大会、1989年、国際ジュニア体操競技大会を開催。全日本ジュニア体操クラブ連盟理事長、日本体操協会副会長、NHK経営委員、テレビ朝日番組審査委員、2008年、オリンピック・パラリンピック(横浜)策定部会長など多くの役職を歴任。

また日本体育大学でも助手、助教授、教授として多くの学生選手を育て上げた[22]。日体大での要職としては、スポーツ局長、副学長、名誉学長を務めて、2003年退職[25]

2002年、日本体操女子で初めて国際体操殿堂入りした[25]。授賞式では、ケレティ・アーグネシュとともにまだやれるとドレスのまま逆立ちをしてみせ拍手喝采を浴びた[26]。同年新藤兼人と共に三原市名誉市民に賞与[25]

晩年には花園大学客員教授となり、体操教室も続けていた。

記録

[編集]
  • 五輪
    • 1964年東京五輪 - 団体銅
  • 世界選手権
    • 1954年ローマ - 平均台金
    • 1958年モスクワ - 平均台銅、ゆか銅
    • 1962年プラハ - 平均台銅、団体銅
    • 1966年ドルトムント - 段違い平行棒銀、個人総合銅、団体銅
  • 全日本選手権
    • 優勝10回 - 1953年、1955年、1957年、1958年、1959年、1960年、1961年、1964年、1965年、1967年
  • NHK杯
    • 優勝1回 - 1964年

エピソード

[編集]
  • ベラ・チャスラフスカは日本との関係が深いが、それを結びつけた関係者の一人。チャスラフスカはプラハの春を支持する“二千語宣言”に署名したことによりチェコスロバキア政府から政治的迫害をされていた。彼女を支援する一環として1977年日本で行われる国際女子ジュニア体操大会にゲストとして招待することを思いついた。池田は同郷で当時外相だった宮沢喜一に協力を仰ぎ、チェコスロバキア政府に彼女の出国許可を働きかけ、来日が実現した。以降も来日を続けている[25][26]
  • 1988年ソウルオリンピックの時、池谷幸雄西川大輔の高校生コンビいわゆる「清風コンビ」の出場を推薦した人物の一人[22]
  • 2007年11月、鈴峰学園の敷地内に「池田敬子国際体操殿堂入り記念館」を建てる[24]。これは中国地方で初めての民営の体操専用体育館で、工事費約7千万円をすべて池田の自費でまかない建設された[24]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c <1> プラス思考 体操ニッポンの先駆者”. 中国新聞 (2011年2月25日). 2015年11月15日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j <4> 日体大 「ローマの恋人」が快挙”. 中国新聞 (2011年3月2日). 2015年11月15日閲覧。
  3. ^ a b c "池田敬子さん". Going!Sports&News. 12 October 2014. 日本テレビ放送網. 2015年11月15日閲覧
  4. ^ a b c d 戦後70年 戦争とアスリート 広島 <5> 体操 池田敬子(1933年~) 日本女子唯一の世界選手権”. 中国新聞 (2015年7月6日). 2015年11月15日閲覧。
  5. ^ 平成24年秋の叙勲 瑞宝中綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 2 (2012年11月). 2013年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月10日閲覧。
  6. ^ 『官報』号外240号、平成24年11月5日
  7. ^ 「日本体操史上最も活躍の女子選手」池田敬子さん死去、89歳…世界選手権で初の金”. 読売新聞 (2023年5月13日). 2023年5月13日閲覧。
  8. ^ 【速報】体操東京五輪銅メダルの池田敬子さん死去”. 共同通信. 2023年5月13日閲覧。
  9. ^ 『官報』第1000号、令和5年6月16日
  10. ^ a b c d e f g h i j <2> 佐木島 親分肌のスポーツ少女”. 中国新聞 (2011年2月26日). 2015年11月15日閲覧。
  11. ^ 歴史と沿革”. 三原市. 2015年11月15日閲覧。
  12. ^ さぎしまの歴史”. 鷺浦コミュニティセンター. 2015年11月15日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j <3> 三原高 運命的出合い 才能開花”. 中国新聞 (2011年3月1日). 2015年11月15日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g h <5> 初の五輪 国際大会の難しさ痛感”. 中国新聞 (2011年3月2日). 2015年11月15日閲覧。
  15. ^ a b c <5> 初の五輪 国際大会の難しさ痛感”. 中国新聞 (2011年3月4日). 2015年11月15日閲覧。
  16. ^ a b c d "世界のスーパーウーマン大集合!美しくてカッコイイ女になる方法教えます!2時間スペシャル". ザ・ベストハウス123. 28 September 2011. フジテレビ. 2015年11月15日閲覧
  17. ^ a b c <7> ローマ五輪 大技成功も悲願届かず”. 中国新聞 (2011年3月5日). 2015年11月15日閲覧。
  18. ^ a b c d e f <9> 東京五輪 決意の大技 悲願を成就”. 中国新聞 (2011年3月9日). 2015年11月15日閲覧。
  19. ^ a b c d e f g <8> 出産 育児もこなし現役続行”. 中国新聞 (2011年3月8日). 2015年11月15日閲覧。
  20. ^ a b 内村が大差をつけて4連覇、鶴見は史上初の6連覇を達成”. スポーツナビ (2011年4月24日). 2015年11月15日閲覧。
  21. ^ a b c d e f g h i <10> 円熟期 金字塔達成 全日本V10”. 中国新聞 (2011年3月10日). 2015年11月15日閲覧。
  22. ^ a b c d e f <12> 指導者 ジュニアの育成に奔走”. 中国新聞 (2011年3月12日). 2015年11月15日閲覧。
  23. ^ <11> 引退 ノーミスで競技人生幕”. 中国新聞 (2011年3月11日). 2015年11月15日閲覧。
  24. ^ a b c <13> 広島 普及活動 故郷に恩返し”. 中国新聞 (2011年3月15日). 2015年11月15日閲覧。
  25. ^ a b c d <14> 功績 貢献と人情の体操人生”. 中国新聞 (2011年3月16日). 2015年11月15日閲覧。
  26. ^ a b 考える人”. 新潮社 (2014年). 2015年11月15日閲覧。

参考資料

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]