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|文化財 = 楼門・鐘楼・木造千手観音立像ほか(重要文化財)<br />本堂(和歌山県指定文化財) |
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'''紀三井寺'''(きみいでら)は、[[和歌山県]][[和歌山市]]紀三井寺にある[[仏教]][[寺院]]。正式名は'''紀三井山金剛宝寺護国院'''。[[西国三十三所]]第2番札所。 |
'''紀三井寺'''(きみいでら)は、[[和歌山県]][[和歌山市]]紀三井寺にある[[仏教]][[寺院]]。正式名は'''紀三井山金剛宝寺護国院'''。[[西国三十三所]]第2番札所。救世観音宗総本山。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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寺号は詳しくは'''紀三井山金剛宝寺護国院'''と称し、宗教法人としての公称は「'''護国院'''」であるが、古くから「紀三井寺」の名で知られる<ref>楼門前の石柱には「紀三井山護国院」、本堂前の石柱には「紀三井寺」とある。「紀三井山金剛宝寺」「金剛宝寺護国院」ともいう。</ref>。宗派はもと[[真言宗]][[真言宗山階派|山階派]]に属したが、1948年に独立して |
寺号は詳しくは'''紀三井山金剛宝寺護国院'''と称し、宗教法人としての公称は「'''護国院'''」であるが、古くから「紀三井寺」の名で知られる<ref>楼門前の石柱には「紀三井山護国院」、本堂前の石柱には「紀三井寺」とある。「紀三井山金剛宝寺」「金剛宝寺護国院」ともいう。</ref>。宗派はもと[[真言宗]][[真言宗山階派|山階派]]に属したが、1948年に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内子院6ヶ寺および末寺14ヶ寺を包括する<ref name="Heibonsha_1997_222">[[#Heibon1997|平凡社[1997: 222]]]</ref>。本尊は[[十一面観音]]で、[[西国三十三所]]観音霊場の第2番札所である。 |
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寺域は[[紀ノ川]]河口平野の南部にある名草山(なくさやま、228.6メートル)の中腹にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収める<ref name="Heibonsha_1997_222"/>。山内に涌く三井水(吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、いずれも水源には[[慶安]]3年([[1650年]])の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。これらの水槽は[[徳川頼宣]]の命により設けられたものである<ref name="Heibonsha_1997_226">平凡社[1997: 226]</ref>。また、三井水は[[環境省]]選定の「[[名水百選]]」に選ばれている<ref>{{Cite web|url=https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=62|title=紀三井寺の三井水|publisher=環境省|accessdate=2015-03-21}}</ref>。境内は関西一の早咲き桜として知られており、観桜の名所として名高く、[[日本さくら名所100選]]にも選ばれている<ref>{{Cite web|url=http://www.sakuranokai.or.jp/information/local3/|title=近畿|publisher=[http://www.sakuranokai.or.jp/ 公益財団法人日本さくらの会]|accessdate=2015-03-21}} |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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===開創=== |
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伝承によれば、[[宝亀]]元年([[770年]])、[[唐]][[僧]]の為光が、日本各地を行脚していた時、[[名草山]]山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって名草山に登った為光は、そこで金色の[[千手観音]]を感得した。為光は自ら観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置したのが紀三井寺の始まりであるという。名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれるが、『[[紀伊続風土記]]』 |
伝承によれば、[[宝亀]]元年([[770年]])、[[唐]][[僧]]の為光が、日本各地を行脚していた時、[[名草山]]山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって名草山に登った為光は、そこで金色の[[千手観音]]を感得した。為光は自ら十一面観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置し、千手観音を秘仏として納めたたのが紀三井寺の始まりであるという。名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれるが、『[[紀伊続風土記]]』は付近の旧地名「毛見(けみ)」が転じたものと伝える<ref name="Heibonsha_1997_223">この段落、平凡社[1997: 223]による。</ref>。 |
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===中世から近世=== |
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[[真言宗山階派]][[勧修寺]]の[[末寺]]であったが、[[昭和]]23年([[1948年]])[[3月20日]]、救世観音宗を開創して本山より独立した。<!--12か寺の総本山として栄えている。--> |
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紀三井寺の中世の寺領と記録について、『紀伊続風土記』は次のように伝える。 |
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{{Quotation|〔前略〕合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す。|紀伊続風土記<ref name="Heibonsha_1997_224">平凡社[1997: 224]</ref>}} |
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このため、中世の紀三井寺について詳しいことは分からないが、各種の資料から断片的に見出される記述からは、[[日前神宮・國懸神宮|日前國懸社]]と深い関係にあると見られていたことが分かる。[[嘉禎]]4年([[1238年]])の日前宮文書によれば、毛見郷は日前宮領に属し、名草山を「三井之神山」と称しているほか、日前國懸社神主家57代国造紀俊文の詠歌にも名草山の名が見える。また、[[応永]]年間([[1394年]]~[[1428年]])には、日前國懸社の祭礼に警固を兵士を送ったという。その他、[[興国寺 (由良町)|興国寺]]の[[開山]]たる[[心地覚心|法燈国師覚心]]が招かれて、紀三井寺の南に、紀三井寺僧妙蓮のために建立された報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと興国寺の記録にある<ref name="Heibonsha_1997_223"/>。 |
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前出の通り、中世紀三井寺の寺領は49[[町 (単位)|町]]を算したが、紀州攻めの際に没収されて失われた。[[慶長]]6年([[1601年]])、[[浅野幸長]]は紀三井寺村内の13[[石 (単位)|石]]を寄進した。次いで、[[紀州徳川家 ]]初代の[[徳川頼宣]]は8石や燈明料を寄進したほか、境内の[[地子]]を免じ、[[正保]]4年([[1647年]])には境内における殺生を禁じた<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。 |
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[[室町時代]]には[[西国三十三所]]ないし熊野参詣の隆盛により、多くの参詣者が訪れるようになった。中世の紀三井寺は多くの僧侶・子院が一体混然として一山を形成する一山寺院であって<ref>[[#Yoshii1984|吉井[1984: 54]]]</ref>、妻帯僧が寺僧となり、本堂脇には造営・修造のための勧進を担う穀屋(今日の穀屋寺)<ref>穀屋寺は山門外にあるが、これは近世に本坊護国院との争論の結果である(吉井[1984: 67-68])。</ref>があったという。寺僧の中からは、法用を勤める法橋として年老14名が充てられ、これを当寺の詠歌の詠み手でもある[[花山天皇|花山院]]<ref name="Goeika">ご詠歌については次のウェブサイトを参照。{{Cite web|url=http://www.kimiidera.com/history/rekishi3.html|title=紀三井寺の詠歌|publisher=紀三井寺|accessdate=2015-04-05}}</ref>の永宣旨によって許可されたというが、その永宣旨は伝来しない<ref name="Heibonsha_1997_223"/>。穀屋は[[尼|比丘尼]]寺であって、観音御影や牛玉宝印の木版を所持し、参詣者に配札していた。 |
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穀屋寺には複数の勧進関連の文書が伝来する。[[文安]]6年([[1449年]])の勧進状は、[[嘉吉]]元年([[1441年]])に何らかの壊滅的打撃(おそらく南朝残党と守護畠山氏の衝突による兵火)があったことを示唆する内容が記され、諸堂を再建したものの、未成の多宝塔復興のための勧進となったことが分かる。また、[[大永]]2年([[1522年]])の勧進状で堂舎修理のための勧進を仰いでおり、堂塔の再興修復が穀屋によって担われてきたことが分かる<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。また、[[元禄]]11年([[1698年]])の「穀屋寺移転ニ付口上書」には、穀屋比丘尼の春古は秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉に臨み山内安堵の証文を得て、焼討を回避した([[天正]]13年〈[[1585年]]〉)<ref>吉井[1984: 65]</ref>ことを伝え、このように積極的な活動を示した穀屋は、他の諸寺社にも見られるように堂舎の再興修復を通じて、それまで以上に大きな役割を果たし、寺内における地位を高めていた<ref>吉井[1984: 65-66]</ref>。 |
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秀吉の紀州攻めの翌年、[[天正]]14年に本願坊が創建され、のちに[[明暦]]年間([[1655年]]~[[1658年]])に護国院と改称した。のちに本坊となる護国院はそれ自体が本願勢力であり<ref>大高康正『参詣曼荼羅の研究』(2012、岩田書院 ISBN 978-4-87294-765-6)p.217</ref>、初代の本願に任じられた良純房は、吉原村の出身で姓は林氏であったと伝えられる<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。近世における徳川政権の寺院政策は、当初、それに先立つ[[織田信長|信長]]・秀吉のそれと同じく、武装解除と中世以来の寺領没収、および新たな[[朱印地・黒印地|朱印領]]の賦与であったが、のちに[[寛文]]5年([[1665年]])の[[諸宗寺院法度]]において一山寺院に対する統一した政策が出され、その一環として寺内秩序や勧進活動への制限が行われたことにより、本願勢力は地歩を後退させられることになった<ref>吉井[1984: 66-67]</ref>。紀三井寺では、[[宝永]]2年([[1705年]])に穀屋坊が山麓の楼門外に移転させられ<ref name="Heibonsha_1997_224"/>、[[宝暦]]3年([[1735年]])には紀三井寺と本末関係が結ばれて、かつては寺内の子院であった穀屋はいち末寺に格下げされた<ref>吉井[1984: 68]</ref>。 |
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== 御詠歌 == |
== 御詠歌 == |
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JR[[紀三井寺駅]]から徒歩10分ほどのところに境内入口の楼門が建つ。そこから231段の急な石段を上りきったところが境内の中心部で、正面に六角堂、右手に2002年建立の新仏殿、左手には本堂、鐘楼、大師堂などが建つ。本堂脇の石段をさらに上ったところには多宝塔、開山堂がある。 |
JR[[紀三井寺駅]]から徒歩10分ほどのところに境内入口の楼門が建つ。そこから231段の急な石段を上りきったところが境内の中心部で、正面に六角堂、右手に2002年建立の新仏殿、左手には本堂、鐘楼、大師堂などが建つ。本堂脇の石段をさらに上ったところには多宝塔、開山堂がある。 |
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===本堂=== |
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[[江戸時代]]、[[宝暦]]9年([[1759年]])の建立。観音堂とも称す。入母屋造本瓦葺き、柱間は正面側面とも五間で、千鳥破風を付し、正面には唐破風形・三間の向拝を設ける。虹梁形の貫を用い、頭貫に木鼻を付し、台輪を乗せ、組物は三手先詰組とするなど、細部には禅宗様が用いられている。秘仏本尊の[[十一面観音]]像、[[千手観音]]像などは、現在は裏手の大光明殿に移されている。高欄の擬宝珠金具は寛政元年(1789年)奉納のもの。西国三十三所札所として多くの巡礼者を迎え入れられるよう、外陣を開放とする<ref name="Wakayama_Pref">{{Cite web|url=http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/cgi/search.cgi?action=view_id&view_id=25|title=護国院(紀三井寺)本堂/1棟|work=[http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunkazai/ わかやま文化財ガイド]|publisher=和歌山県|accessdate=2015-03-18}}</ref>。和歌山県指定有形文化財(建造物、[[1974年]]〈[[昭和]]49年〉4月9日指定)。 |
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===大光明殿=== |
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[[ファイル:Kimiidera Wakayama11n4272.jpg|thumb|220px|大光明殿]] |
[[ファイル:Kimiidera Wakayama11n4272.jpg|thumb|220px|大光明殿]] |
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本堂の裏手に棟続きに建つ耐震耐火の収蔵庫(原則非公開)で、昭和58年(1983年)に完成した。殿内中央の厨子内には向かって左に十一面観音像、右に千手観音像が安置される。紀三井寺の本尊とされるのは十一面観音像だが、千手観音像も本尊と同様に崇敬されている。両像とも50年に一度開扉の秘仏である<ref>2008年から2010年にかけて、[[花山天皇|花山法皇]]の一千年忌を記念して西国三十三所の全札所寺院の結縁開帳が実施されるのにあわせて、これらの像も特別開扉された。開扉期間は2008年10月10日 - 10月20日、2009年10月10日 - 10月20日、及び2010年3月1日 - 3月10日。</ref>。厨子外の向かって右には[[梵天]]像と本尊とは別の十一面観音像、左には[[帝釈天]]像と[[毘沙門天]]像を安置する(毘沙門天像を除く5体は重要文化財)。 |
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*十一面観音立像 - 像高161.5センチメートル<ref>像高は久野健編『仏像巡礼事典』新訂版(山川出版社、1994)による。以下も同じ。</ref>。当寺の秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。頭部のプロポーションが大きく、素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。 |
*十一面観音立像 - 像高161.5センチメートル<ref>像高は久野健編『仏像巡礼事典』新訂版(山川出版社、1994)による。以下も同じ。</ref>。当寺の秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。頭部のプロポーションが大きく、素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。 |
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*千手観音立像 - 像高183.0センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。千手観音の彫像は42手をもって千手とみなすのが通例だが、本像は奈良・[[唐招提寺]]像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像である。 |
*千手観音立像 - 像高183.0センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。千手観音の彫像は42手をもって千手とみなすのが通例だが、本像は奈良・[[唐招提寺]]像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像である。 |
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*十一面観音立像 - 像高156.7センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥落。大光明殿内の向かって右端に安置。衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像である。 |
*十一面観音立像 - 像高156.7センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥落。大光明殿内の向かって右端に安置。衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像である。 |
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===仏殿=== |
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[[ファイル:Kimiidera Wakayama06n3200.jpg|thumb|220px|仏殿]] |
[[ファイル:Kimiidera Wakayama06n3200.jpg|thumb|220px|仏殿]] |
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鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿で、建物全体の形は[[五輪塔]]に擬している。2000年に起工し、2002年に竣工。高さ25メートル。内部には高さ12メートルの木造千手観音立像(寺では「大千手十一面観世音菩薩像」と呼ぶ)を安置する。この観音像は仏師[[松本明慶]]の工房の作品で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げたものである。耐震性を考慮して、内部には鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定している。寺では、寄木の立像としては日本一のものであるとしている。像は2002年から制作を開始し、2007年に完成、2008年5月21日に入仏落慶供養が行われた。 |
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===その他の建物=== |
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* [[楼門]]([[重要文化財]]) - 参道正面、境内への入口に建つ楼門 |
* [[楼門]]([[重要文化財]]) - 参道正面、境内への入口に建つ楼門。[[室町時代]]中期の建立、三間一層入母屋造。寺伝では[[永正]]6年([[1509年]])の建立という<ref name="Heibonsha_1997_225">平凡社[1997: 225]</ref>。 |
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* [[鐘楼]](重要文化財) - [[安土桃山時代]]の建築。寺伝では[[天正]]16年([[1588年]])の建立という。 |
* [[鐘楼]](重要文化財) - [[安土桃山時代]]の建築、重層袴腰入母屋造。寺伝では[[天正]]16年([[1588年]])の建立という。[[天明]]元年([[1781年]])に加修、[[1937年]](昭和12年)に大修理を行った。旧鐘は[[文禄・慶長の役]]の折に没収されて[[筑後]]に移されたが現存しない<ref name="Heibonsha_1997_224"/>。 |
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* [[多宝塔]](重要文化財)- [[室町時代]]の建築。 |
* [[多宝塔]](重要文化財)- [[室町時代]]の建築、三間二層多宝塔造。[[文安]]6年([[1449年]])の勧進縁起が伝来することから同時期の建立と推定される。四天柱内の内陣に[[五智如来]]坐像を安置する<ref name="Heibonsha_1997_225"/>。[[和様]]を基調としつつ、唐戸、花頭窓などを用いている。 |
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*六角堂 |
*六角堂 |
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[[ファイル:Kimiidera Wakayama23n3200.jpg|thumb|220px|三井水]] |
[[ファイル:Kimiidera Wakayama23n3200.jpg|thumb|220px|三井水]] |
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紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水である。'''紀三井寺の三井水'''として([[1985年]]〈昭和60年〉選定)<ref>{{Cite web |
紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水である。'''紀三井寺の三井水'''として([[1985年]]〈昭和60年〉選定)<ref>{{Cite web |
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|url=https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=62 |
|url=https://www2.env.go.jp/water-pub/mizu-site/meisui/data/index.asp?info=62 |
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* 木造十一面観音立像 |
* 木造十一面観音立像 |
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* 木造梵天・帝釈天立像 |
* 木造梵天・帝釈天立像 |
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重要文化財の仏像はいずれも[[平安時代]]中期~後期の作品である。 |
重要文化財の仏像はいずれも[[平安時代]]中期~後期の作品である。 |
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* 護国院本堂 1棟 - 和歌山県指定有形文化財(建造物)。[[1974年]]([[昭和]]49年)4月9日指定<ref name="Wakayama_Pref"/>。詳細は[[#本堂|前述]]。 |
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===和歌山市指定文化財=== |
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* [[紀三井寺参詣曼荼羅|穀屋寺紙本着色 紀三井寺縁起絵図]] 1幅 - 絵画。[[1969年]](昭和44年)12月11日指定<ref name="Wakayama_City">以下、和歌山市指定文化財について次のウェブサイトを参照。{{Cite web|url=http://www.city.wakayama.wakayama.jp/menu_1/gyousei/bunshin/bunkazai/index.html|title=和歌山市指定文化財一覧|publisher=和歌山市教育委員会|accessdate=2015-03-18}}</ref>。 |
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* 紀三井寺遍照院の木彫釈迦如来 1躯 - 彫刻。1969年(昭和44年)12月11日指定。 |
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* 紀三井寺の三井水 3箇所 - 名勝。[[1967年]](昭和42年)2月14日指定。 |
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* 紀三井寺の樟樹 1本 - 天然記念物。1967年(昭和42年)2月14日指定。 |
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* 紀三井寺の応同樹 1本 - 天然記念物。1969年(昭和44年)12月11日指定。 |
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== 脚注 == |
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==参考文献== |
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* {{Cite book ja-jp|editor=平凡社|year=1997|title=大和・紀伊寺院神社大事典|publisher=平凡社|isbn=4582134025|ref=Heibon1997}} |
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*{{Cite journal ja-jp|author=吉井 敏幸|title=近世初期一山寺院の寺僧集団|year=1984|journal=日本史研究|serial=266|pages=45-72|publisher=日本史研究会|naid=40002929775|ref=Yoshii1984}} |
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== 関連項目 == |
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[[Category:西国三十三所]] |
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[[Category:和歌山市]] |
[[Category:和歌山市]] |
2015年4月5日 (日) 06:51時点における版
紀三井寺 | |
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伽藍 | |
所在地 | 和歌山県和歌山市紀三井寺1201 |
位置 | 北緯34度11分6.6秒 東経135度11分24.09秒 / 北緯34.185167度 東経135.1900250度座標: 北緯34度11分6.6秒 東経135度11分24.09秒 / 北緯34.185167度 東経135.1900250度 |
山号 | 紀三井山 |
宗旨 | 救世観音宗 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 十一面観音 |
創建年 | 伝・宝亀元年(770年) |
開基 | 伝・為光上人 |
正式名 | 紀三井山金剛宝寺護国院 |
札所等 |
西国三十三所第2番 日本名水百選 日本さくら名所100選 |
文化財 |
楼門・鐘楼・木造千手観音立像ほか(重要文化財) 本堂(和歌山県指定文化財) |
法人番号 | 6170005000386 |
紀三井寺(きみいでら)は、和歌山県和歌山市紀三井寺にある仏教寺院。正式名は紀三井山金剛宝寺護国院。西国三十三所第2番札所。救世観音宗総本山。
概要
寺号は詳しくは紀三井山金剛宝寺護国院と称し、宗教法人としての公称は「護国院」であるが、古くから「紀三井寺」の名で知られる[1]。宗派はもと真言宗山階派に属したが、1948年に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内子院6ヶ寺および末寺14ヶ寺を包括する[2]。本尊は十一面観音で、西国三十三所観音霊場の第2番札所である。
寺域は紀ノ川河口平野の南部にある名草山(なくさやま、228.6メートル)の中腹にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収める[2]。山内に涌く三井水(吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、いずれも水源には慶安3年(1650年)の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。これらの水槽は徳川頼宣の命により設けられたものである[3]。また、三井水は環境省選定の「名水百選」に選ばれている[4]。境内は関西一の早咲き桜として知られており、観桜の名所として名高く、日本さくら名所100選にも選ばれている[5]。
歴史
開創
伝承によれば、宝亀元年(770年)、唐僧の為光が、日本各地を行脚していた時、名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって名草山に登った為光は、そこで金色の千手観音を感得した。為光は自ら十一面観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置し、千手観音を秘仏として納めたたのが紀三井寺の始まりであるという。名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれるが、『紀伊続風土記』は付近の旧地名「毛見(けみ)」が転じたものと伝える[6]。
中世から近世
紀三井寺の中世の寺領と記録について、『紀伊続風土記』は次のように伝える。
〔前略〕合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す。 — 紀伊続風土記[7]
このため、中世の紀三井寺について詳しいことは分からないが、各種の資料から断片的に見出される記述からは、日前國懸社と深い関係にあると見られていたことが分かる。嘉禎4年(1238年)の日前宮文書によれば、毛見郷は日前宮領に属し、名草山を「三井之神山」と称しているほか、日前國懸社神主家57代国造紀俊文の詠歌にも名草山の名が見える。また、応永年間(1394年~1428年)には、日前國懸社の祭礼に警固を兵士を送ったという。その他、興国寺の開山たる法燈国師覚心が招かれて、紀三井寺の南に、紀三井寺僧妙蓮のために建立された報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと興国寺の記録にある[6]。
前出の通り、中世紀三井寺の寺領は49町を算したが、紀州攻めの際に没収されて失われた。慶長6年(1601年)、浅野幸長は紀三井寺村内の13石を寄進した。次いで、紀州徳川家 初代の徳川頼宣は8石や燈明料を寄進したほか、境内の地子を免じ、正保4年(1647年)には境内における殺生を禁じた[7]。
室町時代には西国三十三所ないし熊野参詣の隆盛により、多くの参詣者が訪れるようになった。中世の紀三井寺は多くの僧侶・子院が一体混然として一山を形成する一山寺院であって[8]、妻帯僧が寺僧となり、本堂脇には造営・修造のための勧進を担う穀屋(今日の穀屋寺)[9]があったという。寺僧の中からは、法用を勤める法橋として年老14名が充てられ、これを当寺の詠歌の詠み手でもある花山院[10]の永宣旨によって許可されたというが、その永宣旨は伝来しない[6]。穀屋は比丘尼寺であって、観音御影や牛玉宝印の木版を所持し、参詣者に配札していた。
穀屋寺には複数の勧進関連の文書が伝来する。文安6年(1449年)の勧進状は、嘉吉元年(1441年)に何らかの壊滅的打撃(おそらく南朝残党と守護畠山氏の衝突による兵火)があったことを示唆する内容が記され、諸堂を再建したものの、未成の多宝塔復興のための勧進となったことが分かる。また、大永2年(1522年)の勧進状で堂舎修理のための勧進を仰いでおり、堂塔の再興修復が穀屋によって担われてきたことが分かる[7]。また、元禄11年(1698年)の「穀屋寺移転ニ付口上書」には、穀屋比丘尼の春古は秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉に臨み山内安堵の証文を得て、焼討を回避した(天正13年〈1585年〉)[11]ことを伝え、このように積極的な活動を示した穀屋は、他の諸寺社にも見られるように堂舎の再興修復を通じて、それまで以上に大きな役割を果たし、寺内における地位を高めていた[12]。
秀吉の紀州攻めの翌年、天正14年に本願坊が創建され、のちに明暦年間(1655年~1658年)に護国院と改称した。のちに本坊となる護国院はそれ自体が本願勢力であり[13]、初代の本願に任じられた良純房は、吉原村の出身で姓は林氏であったと伝えられる[7]。近世における徳川政権の寺院政策は、当初、それに先立つ信長・秀吉のそれと同じく、武装解除と中世以来の寺領没収、および新たな朱印領の賦与であったが、のちに寛文5年(1665年)の諸宗寺院法度において一山寺院に対する統一した政策が出され、その一環として寺内秩序や勧進活動への制限が行われたことにより、本願勢力は地歩を後退させられることになった[14]。紀三井寺では、宝永2年(1705年)に穀屋坊が山麓の楼門外に移転させられ[7]、宝暦3年(1735年)には紀三井寺と本末関係が結ばれて、かつては寺内の子院であった穀屋はいち末寺に格下げされた[15]。
御詠歌
- ふるさとを
- はるばるここに
- 紀三井寺
- 花の都も
- 近くなるらん
伽藍
JR紀三井寺駅から徒歩10分ほどのところに境内入口の楼門が建つ。そこから231段の急な石段を上りきったところが境内の中心部で、正面に六角堂、右手に2002年建立の新仏殿、左手には本堂、鐘楼、大師堂などが建つ。本堂脇の石段をさらに上ったところには多宝塔、開山堂がある。
本堂
江戸時代、宝暦9年(1759年)の建立。観音堂とも称す。入母屋造本瓦葺き、柱間は正面側面とも五間で、千鳥破風を付し、正面には唐破風形・三間の向拝を設ける。虹梁形の貫を用い、頭貫に木鼻を付し、台輪を乗せ、組物は三手先詰組とするなど、細部には禅宗様が用いられている。秘仏本尊の十一面観音像、千手観音像などは、現在は裏手の大光明殿に移されている。高欄の擬宝珠金具は寛政元年(1789年)奉納のもの。西国三十三所札所として多くの巡礼者を迎え入れられるよう、外陣を開放とする[16]。和歌山県指定有形文化財(建造物、1974年〈昭和49年〉4月9日指定)。
大光明殿
本堂の裏手に棟続きに建つ耐震耐火の収蔵庫(原則非公開)で、昭和58年(1983年)に完成した。殿内中央の厨子内には向かって左に十一面観音像、右に千手観音像が安置される。紀三井寺の本尊とされるのは十一面観音像だが、千手観音像も本尊と同様に崇敬されている。両像とも50年に一度開扉の秘仏である[17]。厨子外の向かって右には梵天像と本尊とは別の十一面観音像、左には帝釈天像と毘沙門天像を安置する(毘沙門天像を除く5体は重要文化財)。
- 十一面観音立像 - 像高161.5センチメートル[18]。当寺の秘仏本尊。一木造、素地仕上げ。頭部のプロポーションが大きく、素朴な彫法の像で、平安時代、10世紀頃の作と推定される。
- 千手観音立像 - 像高183.0センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊とともに安置される秘仏で、一木造、素地仕上げとする。千手観音の彫像は42手をもって千手とみなすのが通例だが、本像は奈良・唐招提寺像などと同様、大手42本の他に多数の小手を表す「真数千手」像である。
- 梵天・帝釈天立像 - 像高163.9及び161.2センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。本尊の両脇に安置され、「梵天・帝釈天」と称されているが、条帛(じょうはく)、天衣、裳を着けた像容は菩薩像のそれであり、本来観音菩薩像として造られた可能性が高い。梵天像は彫法が素朴で、彩色はほとんど剥落し、頭上には円筒形の冠があるのに対し、帝釈天像は衣文の彫技が細かく、彩色がよく残るなど、両像の作風には明らかな相違があり、元来一具ではなかったとみられる。
- 十一面観音立像 - 像高156.7センチメートル。平安時代、10 - 11世紀の作。一木造、彩色はほとんど剥落。大光明殿内の向かって右端に安置。衣文の彫りが簡略で、素朴な作風の像である。
仏殿
鉄筋コンクリート造3階建の新仏殿で、建物全体の形は五輪塔に擬している。2000年に起工し、2002年に竣工。高さ25メートル。内部には高さ12メートルの木造千手観音立像(寺では「大千手十一面観世音菩薩像」と呼ぶ)を安置する。この観音像は仏師松本明慶の工房の作品で、京都の工房で制作した寄木造の像を現地で組み上げたものである。耐震性を考慮して、内部には鉄製の心棒を立て、枠木で像を固定している。寺では、寄木の立像としては日本一のものであるとしている。像は2002年から制作を開始し、2007年に完成、2008年5月21日に入仏落慶供養が行われた。
その他の建物
- 楼門(重要文化財) - 参道正面、境内への入口に建つ楼門。室町時代中期の建立、三間一層入母屋造。寺伝では永正6年(1509年)の建立という[19]。
- 鐘楼(重要文化財) - 安土桃山時代の建築、重層袴腰入母屋造。寺伝では天正16年(1588年)の建立という。天明元年(1781年)に加修、1937年(昭和12年)に大修理を行った。旧鐘は文禄・慶長の役の折に没収されて筑後に移されたが現存しない[7]。
- 多宝塔(重要文化財)- 室町時代の建築、三間二層多宝塔造。文安6年(1449年)の勧進縁起が伝来することから同時期の建立と推定される。四天柱内の内陣に五智如来坐像を安置する[19]。和様を基調としつつ、唐戸、花頭窓などを用いている。
- 六角堂
三井水
紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水である。紀三井寺の三井水として(1985年〈昭和60年〉選定)[20]名水百選に定められている。清浄水は参道石段の途中右側にある小滝である。楊柳水はそこから小道を入った突き当たりにある井戸。吉祥水は境内からいったん楼門を出て右(北)へ数百メートル行ったところにある井戸である。楊柳水と吉祥水は荒廃していたのを20世紀末に復旧整備したものである。
文化財
重要文化財
- 楼門
- 鐘楼
- 多宝塔
- 木造千手観音立像 - 秘仏
- 木造十一面観音立像
- 木造十一面観音立像
- 木造梵天・帝釈天立像
重要文化財の仏像はいずれも平安時代中期~後期の作品である。
和歌山県指定文化財
和歌山市指定文化財
- 穀屋寺紙本着色 紀三井寺縁起絵図 1幅 - 絵画。1969年(昭和44年)12月11日指定[21]。
- 紀三井寺遍照院の木彫釈迦如来 1躯 - 彫刻。1969年(昭和44年)12月11日指定。
- 紀三井寺の三井水 3箇所 - 名勝。1967年(昭和42年)2月14日指定。
- 紀三井寺の樟樹 1本 - 天然記念物。1967年(昭和42年)2月14日指定。
- 紀三井寺の応同樹 1本 - 天然記念物。1969年(昭和44年)12月11日指定。
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楼門(重要文化財)
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六角堂
年中行事
- 1月18日 - 初観音
- 4月第1土曜 - 文塚(迷子郵便)供養
- 4月18日 - 春会式
- 7月7日 - 七夕祇園まつり
- 8月9日 - 千日詣
- 8月15日 - 灯篭供養
- 11月13日 - 開山忌
- 12月18日 - しまい観音
前後の札所
交通アクセス
- JR西日本 紀勢本線 紀三井寺駅から徒歩10分。南海和歌山市駅から和歌山バス紀三井寺行きなどで31分、JR西日本 和歌山電鐵 和歌山駅からは16分、紀三井寺下車。
- 国道42号の紀三井寺交差点で山側へ。阪和道からは和歌山ICより南下、または海南ICから42号へ出て北上。
周辺情報
脚注
- ^ 楼門前の石柱には「紀三井山護国院」、本堂前の石柱には「紀三井寺」とある。「紀三井山金剛宝寺」「金剛宝寺護国院」ともいう。
- ^ a b 平凡社[1997: 222]
- ^ 平凡社[1997: 226]
- ^ “紀三井寺の三井水”. 環境省. 2015年3月21日閲覧。
- ^ “近畿”. 公益財団法人日本さくらの会. 2015年3月21日閲覧。
- ^ a b c この段落、平凡社[1997: 223]による。
- ^ a b c d e f 平凡社[1997: 224]
- ^ 吉井[1984: 54]
- ^ 穀屋寺は山門外にあるが、これは近世に本坊護国院との争論の結果である(吉井[1984: 67-68])。
- ^ ご詠歌については次のウェブサイトを参照。“紀三井寺の詠歌”. 紀三井寺. 2015年4月5日閲覧。
- ^ 吉井[1984: 65]
- ^ 吉井[1984: 65-66]
- ^ 大高康正『参詣曼荼羅の研究』(2012、岩田書院 ISBN 978-4-87294-765-6)p.217
- ^ 吉井[1984: 66-67]
- ^ 吉井[1984: 68]
- ^ a b “護国院(紀三井寺)本堂/1棟”. わかやま文化財ガイド. 和歌山県. 2015年3月18日閲覧。
- ^ 2008年から2010年にかけて、花山法皇の一千年忌を記念して西国三十三所の全札所寺院の結縁開帳が実施されるのにあわせて、これらの像も特別開扉された。開扉期間は2008年10月10日 - 10月20日、2009年10月10日 - 10月20日、及び2010年3月1日 - 3月10日。
- ^ 像高は久野健編『仏像巡礼事典』新訂版(山川出版社、1994)による。以下も同じ。
- ^ a b 平凡社[1997: 225]
- ^ “紀三井寺の三井水”. 環境省. 2011年8月15日閲覧。
- ^ 以下、和歌山市指定文化財について次のウェブサイトを参照。“和歌山市指定文化財一覧”. 和歌山市教育委員会. 2015年3月18日閲覧。
参考文献
- 平凡社(編)、1997、『大和・紀伊寺院神社大事典』、平凡社 ISBN 4582134025
- 吉井 敏幸、1984、「近世初期一山寺院の寺僧集団」、『日本史研究』(266)、日本史研究会、NAID 40002929775 pp. 45-72