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「シャー・ジャハーン」の版間の差分

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| 各国語表記 = Shah Jahan
| 各国語表記 = Shah Jahan
| 君主号 = ムガル帝国第5代皇帝
| 君主号 = ムガル帝国第5代皇帝
| 画像 = Portrait of the emperor Shajahan, enthroned..jpg
| 画像 = Shah Jahan of Mughal empire.jpg
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| 画像説明 = シャー・ジャハーン
| 画像説明 = シャー・ジャハーン
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| 死亡日 = [[1666年]][[2月1日]]
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'''シャー・ジャハーン'''('''{{lang-fa|شهابالدین محمد شاه جهان}}''' Shehābo'd-Dīn Moḥammad Shāh Jahān, [[1592年]][[1月5日]] - [[1666年]][[1月22日]])は、[[ムガル帝国]]の第5代皇帝(在位:[[1628年]] - [[1658年]])。第4代皇帝[[ジャハーンギール]]の第3皇子。[[・マハル]]の建造者としても有名な人物である
'''シャー・ジャハーン'''('''{{lang-fa|شهابالدین محمد شاه جهان}}''' Shehābo'd-Dīn Moḥammad Shāh Jahān, [[1592年]][[1月5日]] - [[1666年]][[1月22日]])は、[[ムガル帝国]]の第5代君主(在位:[[1628年]] - [[1658年]])。第4代君主[[ジャハーンギール]]の三男母は[[ビルキ・マカーニー]]。


[[1612年]]、ペルシア系の大貴族[[アーサフ・ハーン]]の娘[[ムムターズ・マハル]]と結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。
[[1612年]]、ペルシア系の大貴族[[アーサフ・ハーン]]の娘[[ムムターズ・マハル]]と結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。


[[1628年]]はじめに[[アーグラ]]で即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では[[1636年]]に[[アフマドナガル]]にあった{{仮リンク|デカン・スルターン朝 |en|Deccan sultanates|label=デカン・スルターン朝}}のひとつ{{仮リンク|アフマドナガル王国|en|Ahmadnagar Sultanate}}を打倒・併合し、南イで領土を拡大した。だが、[[アフガニスタン]]では[[サファヴィー朝]]と衝突して[[カンダハール]]を獲得することができなかった。
[[1628年]]はじめに[[アーグラ]]で即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では[[1636年]]に[[アフマドナガル]]にあった{{仮リンク|デカン・スルターン朝 |en|Deccan sultanates|label=デカン・スルターン朝}}のひとつ{{仮リンク|アフマドナガル王国|en|Ahmadnagar Sultanate}}を打倒・併合し、デカ地方で領土を拡大した。だが、[[アフガニスタン]]では[[サファヴィー朝]]と衝突して[[ムガル・サファヴィー戦争]]を起こしたが、[[カンダハール]]を獲得することができなかった。


シャー・ジャハーンの時代は[[インド・イスラーム文化]]の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーンはまた、妃[[ムムターズ・マハル]]の墓廟である[[タージ・マハル]]の建造者としても有名な人物である。当時、[[ヨーロッパ]]から訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」(the Magnificent)として称えた。
1657年に皇位継承争いが起こり、1658年に結局勝利した[[アウラングゼーブ]]が皇位を継承し、シャー・ジャハーンは[[アーグラ城塞]]に幽閉され、亡き愛妃の眠る[[タージ・マハル]]を眺めながら、1666年に74歳で死去した。


ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227</ref>。シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、[[1657年]]に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227</ref>。
なお、彼はいくらかのヨーロッパの研究者には娘 {{仮リンク|ジャハーナーラー・ベーグム|en|Jahanara Begum Sahib}} と[[近親相姦|近親姦]]の関係にあったのではとも言われるが、噂以上のものではない。多くの研究者は、ムムターズ・マハルが死んで以来嘆いていた父を長女として励まし続け、政治顧問も務めたという説を支持している。ジャハーナーラーは、兄弟の内で長男[[ダーラー・シコー]]を支持しており、アウラングゼーブ・アーラムギルに対しては冷淡だった。

シャー・ジャハーンは長男[[ダーラー・シコー]]を後継者としていたが、次男のベンガル太守[[シャー・シュジャー]]、三男のデカン太守[[アウラングゼーブ]]、四男のグジャラート太守[[ムラード・バフシュ]]はこれを認めていなかった。結局、1658年に勝利した[[アウラングゼーブ]]が皇位を継承し、シャー・ジャハーンは[[アーグラ城塞]]に幽閉され、亡き愛妃の眠る[[タージ・マハル]]を眺めながら、1666年に74歳で死去した。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 即位前後 ===
===誕生・宮廷の対立 ===
[[File:Equestrian Portrait of the Emperor Shah Jahan from the Kevorkian Album.jpg|thumb|right|250px|シャー・ジャハーン]]
[[File:'Abid. Jahangir Receives Prince Khurram, Ajmer, April 1616 Folio 192v from the Windsor Padshahnama, ca. 1635-36 The Royal Library, Windsor Castle.jpg|thumb|[[ジャハーンギール]]とフッラム]]
[[1592年]][[1月5日]]、シャー・ジャハーンことフッラムは、ムガル帝国の皇帝[[ジャハーンギール]]と[[ラージプート]]の王妃[[ジョーダー・バーイー]](ジャガト・ゴサイン)との間に生まれた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p217</ref>。
[[1592年]][[1月5日]]、シャー・ジャハーンことフッラムは、ムガル帝国の皇帝[[ジャハーンギール]](当時は皇帝ではなく、名前もサリーム)と[[ラージプート]]の王妃[[ジョーダー・バーイー]](ジャガト・ゴイン)との間に生まれた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.217</ref><ref>[http://www.royalark.net/India4/delhi6.htm Delhi 6]</ref>。母はマールワール王国の君主[[ウダイ・シング (マールワール王)|ウダイ・シング]]の娘


フッラムは6歳の時、祖父[[アクバル]]の命により生母から引き離され、アクバルの妃の一人[[ルカイヤ・スルターン・ベーグム]]によって養育された。これはアクバルがフッラムの素質を見抜いたからとされ、ルカイヤは君主にとって必要な責務などを教え込んだ。
また、[[1610年]]ごろから、ジャハーンギールが病気の発作を起こしはじめ、[[1612年]]以降はその妃[[ヌール・ジャハーン]]が実権を握り、事実上の皇帝というところとなり、宮廷には緊張が走っていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215</ref>。フッラムもまた、ジャハーンギール死後の後継者となるべく、ほかの3人の兄弟と争わなければならなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215</ref>。


その後、1605年に皇帝アクバルが死亡し、父サリームがジャハーンギールとして皇帝となった。
とはいえ、祖父アクバルの治世以来、ムガル帝国は[[デカン地方]]に介入するようになっており、フッラムは若年にしてデカンへの遠征にも派遣され、宮廷を離れることもしばしばだった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215</ref>。


[[1610年]]以降、ジャハーンギールが病気の発作を起こしはじめ、政治はフッラム、宰相の[[イティマード・ウッダウラ]]、皇帝の妃の[[ヌール・ジャハーン]]、その弟[[アーサフ・ハーン]]が担当する形となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.214</ref>。彼ら4人はジャハーンギールに対して大きな影響力を持った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.214</ref>。
デカン地方には、アフマドナガル王国がアクバル時代の攻撃で弱体化して存続していたが、同国の宰相で武将[[マリク・アンバル]]が王国の復興に尽力していた。マリク・アンバルはムガル帝国に抵抗し続け、その圧迫が強まると、[[1610年]]に首都を[[パランダ]]から[[ダウラターバード]]に移し、[[カドキー]](カルキー)を補助的な拠点とし、王国の領土回復を試みた。


[[1612年]][[5月]]、フッラムはアーサフ・ハーンの娘アルジュマンド・バーヌー・ベーグムと結婚した。彼女には宮廷の光を意味する「[[ムムターズ・マハル]]」の称号が与えられた。2人は仲睦まじく、どこへ行くときも一緒であった。彼らの間には14人の子が生まれ、息子は[[ダーラー・シコー]]、[[シャー・シュジャー (ムガル皇子)|シャー・シュジャー]]、[[アウラングゼーブ]]、[[ムラード・バフシュ]]、娘は[[ジャハーナーラー・ベーグム]]、[[ラウシャナーラー・ベーグム]]、[[ガウハーラーラー・ベーグム]]が成人した。
これに対し、[[1616年]]にジャハーンギールはフッラムをデカンに派遣し、[[1617年]]にマリク・アンバルと領土分割の協定を結び、150万[[ルピー]]の賠償金を受け取った。


同年以降、ジャハーンギールの妃[[ヌール・ジャハーン]]が実権を握り、事実上の皇帝というところとなり、宮廷には緊張が走っていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215</ref>。フッラムもまた、ジャハーンギール死後の後継者となるべく、ほかの3人の兄弟[[フスロー]]、[[パルヴィーズ (ムガル皇子)|パルヴィーズ]]、[[シャフリヤール (ムガル皇子)|シャフリヤール]]と争わなければならなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215</ref>。皇族以外の有力者では、ヌール・ジャハーン、アーサフ・ハーン、[[マハーバト・ハーン]]がそれぞれ加わった。
しかし、フッラムの帰還後、マリク・アンバルは軍を再組織し、[[ビジャープル王国]]や[[ゴールコンダ王国]]などの支援も得て、[[1620年]]にこの協定を破り、再びムガル帝国との戦争を行いはじめた。


のため、フッラムは再びデカンに派遣されることとなったが盲目の兄[[フスロー]]引き渡さなければ出陣ないと言い張り、結局兄を伴て出陣した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215</ref>。
祖父アクバル治世以来、ムガル帝国は[[デカン地方]]に介入するようになっていたため、フッラムは若年にしてデカンへの遠征派遣され、宮廷ることもしばしばだった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215</ref>。


===デカン地方への遠征と父帝への反乱===
[[1621年]]、フッラムはビジャープル王国とゴールコンダ王国に勝利し、300万ルピーにも上る賠償金を得て(これらの大半を支払ったのはゴールコンダ王国だった)、大いに名声を獲得した。そして、それに乗じて、[[1622年]][[1月26日]]に牢獄に閉じ込めていた兄フスローを殺害した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215</ref>。
[[File:Shah Jehan with Angel musicians.jpg|thumb|right|250px|シャー・ジャハーン]]
デカン地方には、アフマドナガル王国がアクバル時代の攻撃で弱体化して存続していたが、同国の宰相で武将[[マリク・アンバル]]が王国の復興に尽力していた。マリク・アンバルはムガル帝国に抵抗し続け、その圧迫が強まると、[[1610年]]に首都を[[パランダー]]から[[ダウラターバード]]に移し、[[カドキー]](カルキー)を補助的な拠点とし、王国の領土回復を試みた。


これに対し、[[1616年]]にフッラムは5万の兵とともにデカンに派遣された。[[1617年]]に彼はマリク・アンバルと領土分割の協定を結び、アフマドナガルの城塞を引き渡され、150万[[ルピー]]の賠償金を受け取った<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.169</ref>。
だが、同年、[[サファヴィー朝]]が[[カンダハール]]を占領すると、弟[[シャフリヤール]]にその奪還の命令が下され、同時にフッラムの領地の地代の一部が彼に与えられることになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215</ref>。フッラムはこれに対して反乱を起こしたが、1623年に帝国の派遣した武将[[マハーバト・ハーン]]の軍に敗れ、デカンにとどまることを要求された。


しかし、フッラムの帰還後、マリク・アンバルは軍を再組織し、[[ビジャープル王国]]や[[ゴールコンダ王国]]などの支援も得て、[[1619年]]にこの協定を破って再びムガル帝国との戦争を行いはじめた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.169</ref>。マリク・アンバルは兵力を6万にまでに回復し、帝国軍と戦って地方単位で領土を奪還し、王国の全領土の回復に成功した。このため、フッラムは再びデカンに派遣されることとなったが、病状の悪化しつつある父の跡目をめぐる争いに気を取られ、アーグラへの帰還を焦っていた。マリク・アンバルもまた負け戦になることを悟ったため、賠償金を再び払った上で自らの領土を返却し、フッラムはアーグラへと帰還した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.170</ref>。
===即位===
[[File:Payag, Shah Jahan on Horseback, Folio from the Shah Jahan Album ca. 1630, Metmuseum.jpg|thumb|right|200px|シャー・ジャハーン]]
その間、[[1626年]][[10月18日]]に兄[[パルヴィーズ]]が死亡し、皇位継承者はフッラムとシャフリヤールの二人となり、翌[[1627年]][[10月28日]]に皇帝ジャハーンギールが[[カシミール]]から[[パンジャーブ]]の[[ラホール]]へ向かう途中死亡した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p216</ref>。


フッラムフリヤールの後継者争いが始まったが、アーサフ・ハーンはフッラムの支持を表明し(マハーバト・ハーも支持した)、姉のヌール・ジャンを幽閉し、フスローの息子[[ダーワ・バフシュ]]を傀儡の皇としシャフヤールの破り、彼捕らえた<ref>ロビンソン『ムガル歴代誌』、p216</ref>。
1620年、マリク・アンバルビジャー王国同盟して抵抗に反抗すると、フッラムはデカ地方に遠征した。ビジャー王国は途中で国に寝返りク・アンバに対抗するため援助代償に臣従申し出た<ref>『ムガル帝国の興亡』、p.170</ref>。


1621年、フッラムはデカン地方への出陣を命じられたが、彼は盲目の兄フスローを引き渡さなければ出陣しないと言い張り、結局兄を伴って出陣した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.171</ref>。フッラムはビジャープル王国と[[ゴールコンダ王国]]に勝利し、200万ルピーにも上る賠償金を得て(これらの大半を支払ったのはゴールコンダ王国だった)、大いに名声を獲得した。そして、彼はそれに乗じて、[[1622年]][[1月26日]]に牢獄に閉じ込めていた兄フスローを殺害した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215</ref>。
その後、デカンにいたフッラムにもこの知らせが届き、彼はアーサフ・ハーンにダーワル・バフシュらほかの皇子らの捕縛を命じ、デカンからアーグラに戻った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p216</ref>。


だが、同年に[[サファヴィー朝]]が[[カンダハール]]を占領すると、弟シャフリヤールにその奪還遠征の命令が下され、同時にフッラムの領地の地代の一部が彼に与えられることになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215</ref>。フッラムはこれに対して父帝に反乱を起こし、アーグラに向かって出陣した。ジャハーンギールはこの反乱を知ると、「フッラムは自分の息子」ではないと名で言い放った<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.174</ref>。フッラムはアーグラにまで進まなかったものの、ファテープル・シークリーにまでは進軍した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.174</ref>。
こうして、[[1628年]][[1月23日]]、フッラムはシャフリヤール、ダーワル・バフシュとその弟[[グルシャースプ]]、叔父[[ダーニヤール]]の息子2人ら5人を[[デリー]]で処刑した。


たが、フッラムは帝国の武将[[マハーバト・ハーン]]の軍に敗れ、その後は皇帝軍の攻撃に苦しめられた。かつての敵であるマリク・アンバルに援助を得ることに成功したが、依然としてその立場は難しく、[[1626年]]にフッラムは降伏した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215</ref>。このとき、彼は皇帝に豪奢な贈り物をしたが、皇帝が決定した条件も飲まされ、デカンにとどまることを要求されたばかりか、二人の息子[[ダーラー・シコー]]と[[アウラングゼーブ]]を宮廷に人質として送った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.171</ref>。
そして、同月[[1月24日|24日]]、フッラムは「世界の皇帝」を意味する「シャー・ジャハーン」を名乗り、[[2月14日]]に[[アーグラ]]で帝位を宣した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p216</ref>。


===父帝の死と即位===
=== 内外における統治 ===
[[File:Shah Jahan.jpg|thumb|[[ダルバール]]中のシャー・ジャハーン]]
[[File:Shahjahan Enthroned with Mahabat Khan and a Shaykh.jpg|thumb|right|230px|シャー・ジャハーンの即位式]]
同年にマハーバト・ハーンは[[クーデター]]により、ジャハーンギールとヌール・ジャハーンの身柄を手中に収めた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175</ref>。だが、非情になることが出来ず、そればかりか逆にヌール・ジャハーンの軍門に下ってしまった。
[[File:Shah Jahan op de pauwentroon.jpg|thumb|right|200px|孔雀の玉座に座るシャー・ジャハーン]]

その間、同年[[10月18日]]に兄パルヴィーズが死亡し、皇位継承者はフッラムとシャフリヤールの二人となった<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p216</ref>。その頃、フッラムはサファヴィー朝の君主[[アッバース1世]]のもとに亡命しようとイランへと向かっていたが、デカン地方に戻っていたが、パルヴィーズの死がその時もたらされた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175</ref>。

フッラムとマハーバト・ハーンとの間に次の権力闘争が生じたが、マハーバト・ハーンは結果的にフッラムの側に付いた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175</ref>。ヌール・ジャハーンはこれを機に2人を排除使用したが、同年[[10月28日]]に皇帝ジャハーンギールが[[カシミール]]から[[パンジャーブ]]の[[ラホール]]へ向かう途中死亡し、継承争いも終盤を迎えた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175</ref>。

フッラムとシャフリヤールはそれぞれ父ジャハーンギールの死に目に居合わせておらず、
居合わせたのはヌール・ジャハーンとアーサフ・ハーンだけであった<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175</ref>。アーサフ・ハーンはフッラムの支持を表明してヌール・ジャハーンを幽閉し、フッラムの到着までの時間を稼ぐため、傀儡の皇帝としてダーワル・バフシュ(フスローの息子)を擁立した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.176</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216</ref>。その後、アーサフ・ハーンはラホールで帝位を宣していたシャフリヤールの軍勢を破り、反乱だとして彼を逮捕した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.176</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p216</ref>。

その後、デカンにいたフッラムにもこの知らせが届き、彼はアーサフ・ハーンにダーワル・バフシュらほかの皇子らの捕縛を命じ、デカンからアーグラに戻った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216</ref>。

そして、 [[1628年]] [[1月24日]]、フッラムはアーグラに入城し、「世界の皇帝」を意味する「シャー・ジャハーン」を名乗った。[[2月2日]]、フッラムはシャフリヤール、ダーワル・バフシュとその弟[[グルシャースプ]]、叔父[[ダーニヤール]]の息子といった皇族の男子5人を[[ラホール]]で処刑した<ref>[http://www.royalark.net/India4/delhi6.htm Delhi 6]</ref>。

[[2月14日]]、シャー・ジャハーンは[[アーグラ]]で即位式を挙げ、帝位を宣した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216</ref>。その即位式は豪華さではかつての皇帝に比肩する者はなく、ヨーロッパの人々はオスマン帝国の皇帝になぞらえて、シャー・ジャハーンを「壮麗王」と称した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185</ref>。
なお、妃のムムターズ・マハルと長女のジャハーナラー・ベーグムをはじめ、皇子や王女にはシャー・ジャハーンの好感度に応じて黄金や現金などの贈り物が送られた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185</ref>。

シャー・ジャハーンは即位に際して尽力した者の功績に報いた。アーサフ・ハーンは宰相に任命し、国政を委ねられた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185</ref>。マハーバト・ハーンには「最高のハーン」を意味する「ハーン・ハーナーン」の称号を与えた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190</ref>。

=== 国内における統治 ===
[[File:Shah Jahan I of India.jpg|thumb|right|200px|シャー・ジャハーン]]
シャー・ジャハーンの治世は、祖父や父の代からのムガル帝国の最盛期とされるが、アクバル以来の帝国の宗教寛容政策が変わり、[[ヒンドゥー教徒]]など異教徒の迫害が見られた。
シャー・ジャハーンの治世は、祖父や父の代からのムガル帝国の最盛期とされるが、アクバル以来の帝国の宗教寛容政策が変わり、[[ヒンドゥー教徒]]など異教徒の迫害が見られた。
というのは、17世紀前半のムガル帝国では、[[ムスリム]]の間で[[イスラーム復興運動]]が強まり、ウラマーは厳格なシャリーアの適用を求めるようになったからである<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。

シャー・ジャハーンはヒンドゥー寺院やキリスト教の教会の建築や改修に関して、一定の制限を設けた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218</ref>。1632年にシャー・ジャハーンは新しく建てられたヒンドゥー寺院の破壊と旧寺院の補修を禁じる命令を出し、そのため[[ヴァーラーナシー]]では76の[[ヒンドゥー]]寺院が破壊された。

また、ベンガル方面の[[チッタゴン]]や[[フーグリー]]にいた[[キリスト教徒]]のポルトガル人との関係は、彼らが盗みや略奪を働いたりしたため悪化の一途をた度っていた。シャー・ジャハーンは父や祖父の寛容主義を受け継いでいたとはいえ、彼らを甘やかすつもりはなかった。

同年に皇妃ムムターズ・マハルのハーレムにいた2人の女奴隷がポルトガル人の海賊に連れ去られる事件が起きたため、両者の関係が一層悪化した。シャー・ジャハーンはフーグリーにあるポルトガルの商業区を破壊させ、300人に昇るキリスト教徒が捕虜となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218</ref>。
彼らはアーグラに連行されたのち、イスラーム教の改宗を迫られ、改宗を拒んだものは殺害させた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.192</ref>。

シャー・ジャハーンの怒りは尋常ではなく、当時のイギリスの旅行家は捕虜たちのその後に関して、「綺麗な女や娘はへハーレムに閉じ込められ、老女やその他の者はアミールに下げ渡された」と記している<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.192</ref>。シャー・ジャハーンはまたこの事件を機に、ラホールに存在したキリスト教の教会も取り壊させた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、pp.192-193</ref>。

シャー・ジャハーン自身もイスラーム教の祭日を祝い、[[メッカ]]と[[メディナ]]に使節団を9回派遣したものの、上記以外に彼の治世はほとんど宗教対立が見られなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219</ref>。

===ハーン・ジャハーン・ローディーの反乱===
[[File:'Abid. The Death of Khan Jahan Lodi. Page from the Windsor Padshahnama, fol. 94v, Date ca. 1633, The Royal Library, Windsor Castle.jpg|thumb|right|200px|[[ハーン・ジャハーン・ローディー]]の最期]]
1629年、シャー・ジャハーンが即位した翌年にアフガン人貴族[[ハーン・ジャハーン・ローディー]]が反乱を起こした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218</ref>。ハーン・ジャハーンはジャハーンギールの寵臣であったが、武人として不名誉を犯したのち、デカン総督なっていた。

ハーン・ジャハーンは皇位継承争いの際にシャー・ジャハーンの側に付くことを断り、即位後に宮廷に赴くのに遅参し、宮廷からは疑いの目で見られていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。また、ハーン・ジャハーンは任地で疑わしい行い(アフマドナガル王国との偽りの協定の取り決め、およびそれによる領土喪失)があったとして、帝都に召喚を掛けられていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218</ref>。


結局、同年[[10月]]にハーン・ジャハーンは自身の家族や部下2千人、ハーレムを連れて帝都を脱出し、反乱軍となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190</ref><ref>[http://historyofpashtuns.blogspot.jp/2014/11/death-of-khan-jahan-lodhi.html Death of Khan Jahan Lodhi]</ref>。シャー・ジャハーンは追討軍を送ったが、ハーン・ジャハーンは追討軍を引き離し、アフマドナガル王国の首都ダウラターバードにたどり着いた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190</ref>。
というのは、17世紀前半のムガル帝国では、[[ムスリム]]の間で[[イスラーム復興運動]]が強まり、ウラマーは厳格なシャリーアの適用を求めるようになったからである<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219</ref>。


ハーン・ジャハーンの亡命はアフマドナガル王国の君主らに歓迎され、彼は軍司令官の一人になった。ハーン・ジャハーンは他のアフガン人貴族も加わることを期待していたが、貴族らはシャー・ジャハーンの威厳に敬意を払い、誰も味方しなかった。ハーン・ジャハーンはアフマドナガル王国からも離れ、パンジャーブに移ったが、[[1631年]][[2月]]にそこで捕えられた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218</ref><ref>[http://historyofpashtuns.blogspot.jp/2014/11/death-of-khan-jahan-lodhi.html Death of Khan Jahan Lodhi]</ref>。
1632年、シャー・ジャハーンは新しく建てられたヒンドゥー寺院の破壊と旧寺院の補修を禁じる命令を出し、そのため[[ヴァーラーナシー]]では76の[[ヒンドゥー]]寺院が破壊された。


シャー・ジャハーン自身もイスラーム教の祭日を祝い、[[メッカ]][[メディナ]]使節団を9回派遣したものの、彼治世はほんど宗教対立が見られなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219</ref>。
・ジャハーンは反乱軍とも虐殺され、間なく彼とそ息子首がシャー・ジャハーンに届けられた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。慣例に従い、その首はアーグラの城門にさらされた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190</ref>。


===デカン地方における領土の拡大===
[[File:Shah Jahan watches the assault on Daulatabad Fort in 1633.jpg|thumb|[[ダウラターバード]]攻撃を見るシャー・ジャハーン]]
シャー・ジャハーンの治世、ムガル帝国の勢力はデカンに広がり、帝国の版図はインド内では拡大した。
シャー・ジャハーンの治世、ムガル帝国の勢力はデカンに広がり、帝国の版図はインド内では拡大した。


シャー・ジャハーンはデカン地方で細々と存続していたアフマドナガル王国に対して、親征を開始した。デカン地方は彼の皇子時代に数度の遠征を行った地であり、よく知っていた地であった。シャー・ジャハーンはハーンデーシュの[[ブルハーンプル]]に滞在していたが、1632年2月にハーン・ジャハーン・ローディーが討伐されると、アフマドナガル王国への遠征を開始した。
デカン地方では、[[1633年]][[6月]]にアフマドナガル王国を事実上滅ぼして、その間の [[5月]]にはビジャープル王国とゴールコンダ王国に帝国の宗主権を認めさせ、皇帝の名を刻んだ硬貨を鋳造、使用させた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p218</ref>。


また、アフマドナガル王国の旧領の分割を行い、北半をムガル帝国に併合し、ビジャプル王国南半をゴールコンダ王国はその一部を併合した([[1630年]]ガル帝国がデカンに領土を広げた結果、両王国は[[1565年]]の[[ターリコータの戦い]]以降、衰退てい[[南イン]]の[[ヴィジャヤナガル王国]]さらに攻撃するようになり[[1649年]]にヴィジャヤナガル王国はビジャル王国に滅ぼされ<ref>ロビンソン『ムガル歴代誌』、p218</ref>。
[[1633年]][[4月17日]]ムガル帝国の軍はアフマドナガル王国の首都ダウラターバ包囲、[[6月4日]]の総攻撃で落としアフマドナガル王国は事実上滅亡した。アフマドナガル王国を滅ぼしたのちジャープル王国とゴールコンダ王国への攻撃移った<ref>『ムガル帝国の興亡』、p.195</ref>。


ビジャープル王国はムガル帝国との和平に応じるか応じないかで別れ、陰謀と暗殺が渦巻き、内紛状態に陥っていた。ビジャープル王国の君主はなかなか和平に応じようとしなかったため、帝国軍は3方向から攻撃を行い、ビジャープル王国に壊滅的な打撃を与えた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.195</ref>。
しかし、北西方面では、デカンとは違い帝国の領土拡大は厳しく、領土は減少する結果となった。
ゴールコンダ王国はビジャープル王国が壊滅したことで孤立の色を深め、帝国の要求をのまざるを得なかった<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.196</ref>。


[[1636年]][[5月]]にはビジャープル王国とゴールコンダ王国に帝国の[[宗主権]]を認めさせ、皇帝の名を刻んだ硬貨を鋳造し使用させ、金曜礼拝も皇帝の名で唱えさせた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219</ref><ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.196</ref>。また、アフマドナガル王国の旧領の分割を行い、北半をムガル帝国に併合し、ビジャープル王国は南半を、ゴールコンダ王国はその一部を併合した。
ムガル帝国とサファヴィー朝の係争地であるアフガニスタンの主要都市カンダハールは、1622年以来サファヴィー朝の領土であったが、[[1637年]]サファヴィー朝のカンダハール長官がムガル帝国側につき、カンダハールは帝国領となった。


[[1630年]]代、ムガル帝国がデカンに領土を広げた結果、両王国は[[1565年]]の[[ターリコータの戦い]]の敗北によって衰退していた[[南インド]]の[[ヴィジャヤナガル王国]]をさらに攻撃するようになり、[[1649年]]にヴィジャヤナガル王国はビジャープル王国に滅ぼされた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。
また、[[中央アジア]]の[[ブハラ・ハン国]]では、[[1598年]]に[[シャイバーニー朝]]の[[アブドゥッラー2世]]が死亡したのち、内乱が起き、[[1599年]]には新たに[[ジャーン朝]]が成立した。ムガル帝国はジャーン朝と最初は友好関係にあったが、シャー・ジャハーンの治世になると、ジャーン朝は帝国領アフガニスタンの[[カーブル]]を攻撃するようになった。


一方、ビジャープル王国とゴールコンダ王国が事実上の属国となったことでデカン地方は平定されたに等しく、シャー・ジャハーンはアーグラへと帰還した。この一連の遠征により、帝国の領土はデカン地方に大きく広がった。
[[1646年]]、シャー・ジャハーンは[[バルフ]]と[[バダフシャーン]]に出兵し、両地域を占領したが、ウズベク人の抵抗も強く、1647年に撤退を余儀なくされた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219</ref>。


===北西方面・サファヴィー朝との争い===
この混乱に乗じ、サファヴィー朝の軍が帝国領アフガニスタンに侵攻し、[[1649年]]にカンダハールを占領した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219</ref>。その後、同年から[[1656年]]にかけて、ムガル帝国はカンダハール奪回のためにサファヴィー朝と何度も戦ったが、カンダハールの奪回はできず、二度とこの地が帝国領となることはなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219</ref>。
[[File: Shahjahan receives Ali Mardan Khan in durbar.jpg|thumb|right|シャー・ジャハーンと[[アリー・マルダーン・ハーン]]]]
しかし、北西方面ではデカンとは違い帝国の領土拡大は厳しく、領土は減少する結果となった。シャー・ジャハーンは祖先の夢でもあったサマルカンド奪還を成し遂げようとしたことに起因していた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。


また、[[中央アジア]]の[[ブハラ・ハーン国]]では、[[1598年]]に[[シャイバーニー朝]]の[[アブドゥッラー・ハーン2世]]が死亡したのち内乱が起き、[[1599年]]には新たに[[ジャーン朝]]が成立した。ムガル帝国はジャーン朝と最初は友好関係にあったが、シャー・ジャハーンの治世になると、ジャーン朝は帝国領アフガニスタンの[[カーブル]]を攻撃するようになった。
シャー・ジャハーンの治世、北西方面ではアフガニスタンのカンダハールを失うなど領土は縮小したが、デカンにおいてはその領土を拡大したため、彼の時代に帝国の歳入はアクバル時代の2倍となった(これに関しては農業生産の向上も上げられる)。


シャー・ジャハーンは[[1646年]]に息子[[ムラード・バフシュ]]に指揮権を託して[[バルフ]]と[[バダフシャーン]]に出兵し、両地域を占領した。だが、[[ウズベク人]]の抵抗も強く、1647年に撤退を余儀なくされ、カーブルの北方数キロメートルにのみしか領土を広げられなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。
===皇位継承戦争とアウラングゼーブの即位===
[[File:Shah Jahan.PNG|thumb|right|250px|シャー・ジャハーン]]
[[File:The Battle of Samugarh.jpg|thumb|right|250px|サムーガルの戦い]]
[[1631年]]の妃ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227</ref>。一説には、長女の[[ジャハーナーラー・ベーグム]]とも関係を持つようになったといわれる。


一方、ムガル帝国とサファヴィー朝の係争地である[[アフガニスタン]]の主要都市[[カンダハール]]は、1622年以来サファヴィー朝の領土であった。だが、[[1637年]]にサファヴィー朝のカンダハール長官[[アリー・マルダーン・ハーン]]がムガル帝国側につき、カンダハールは帝国領となった<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.197</ref>。
シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、[[1657年]][[9月]]に精力増強剤の影響で病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227</ref>。


サファヴィー朝は上記のウズベクとの争いによる混乱を見て、帝国領アフガニスタンに侵攻し、[[1649年]]にカンダハールを占領した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに奪還を命じたが、同年と1652年の2度にわたる攻撃にもカンダハールは耐え、作戦は失敗に終わった。
シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シュコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守[[シャー・シュジャー]]、三男のデカン太守[[アウラングゼーブ]]、四男のグジャラート太守[[ムラード・バフシュ]]はこれを認めていなかった。


シャー・シュジャーはほかの兄弟より先に行動し、父帝の病気に見込みがないと考えて帝位を宣しその名を刻んだ硬貨を鋳造し、デリへと進軍した。ムラーバフュも帝位し、[[スラト]]城塞得た略奪品により財を得て彼もデリーへかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p228</ref>。
翌[[1653年]]にシャー・ジャカンダハール奪回のため息子ダーラー・シコー派遣た。だがカンダハ奪回はきず二度この地が帝国領となることはなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。


===拡大した帝国とその統治===
アウラングゼーブはほかの兄弟より慎重で、自分の優位が決まるまで動かず、弟のムラード・バフシュに自分がこの皇位継承戦争に勝利すれば、パンジャーブ、カシミール、[[シンド]]、アフガニスタンを与えると約束して同盟した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p229</ref>。
[[File:Shah Jahan.jpg|thumb|[[ダルバール]]中のシャー・ジャハーン]]
シャー・ジャハーンの治世、北西方面ではアフガニスタンのカンダハールを失うなど領土は縮小したが、デカンにおいてはその領土を拡大した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。また、北の[[ガルワール地方]]と[[バルーチスターン地方]]を支配し、北東には数次の遠征を行ってブラフマプトラ川下流域まで制圧、[[アッサム地方]]の[[アーホーム王国]]が臣従したのもこの頃である<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219</ref>。


シャー・ジャハーンの治世、東はアッサムから西はアフガニスタン北部、北はチベット高原の南端、南はデカン高原中央部にまで領土を広がり、皇帝は臣下とともにこれらを支配した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。このため、シャー・ジャハーンの時代に帝国の歳入はアクバル時代の2倍となった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。ただし、これに関しては領土の拡大のみならず、農業生産の向上も上げられる<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。
シャー・ジャハーンも回復したが遅く、[[1658年]][[2月]]にダーラー・シュコーがシャー・シュジャーの軍を破り、同月アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は皇帝の派遣した軍を破った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p229</ref>。


帝国の領土拡大は貴族の数にも反映され、1640年代になると貴族の数はアクバル時代の2倍、443人の上った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。そのうち73人の最高位の貴族が帝国の歳入37%を管理し、シャー・ジャハーンの4人の息子は8.2%を管理していた。また、帝国上層部の貴族20%がヒンドゥー教徒で、73人がラージプート、10人がマラーターの人物であった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。マラーターが帝国の貴族層に加わっていたっということは、デカン地方で帝国の領土を拡張したことに成功したということであった、と歴史家フランシス・ロビンソンは述べている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。
シャー・ジャハーンはダーラー・シュコーとともに行動したが、[[5月29日]]にアウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は、ダーラー・シュコーの軍50000をアーグラ付近サムーガルで破った([[サムーガルの戦い]])<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p230</ref>。


皇帝と貴族の関係においては、シャー・ジャハーンはディーニ・イラーヒーの宗教を尊重したが、それに基づく「皇帝の信者」という考え方に終止符が打たれ、新たに「皇帝の子孫」という考え方が広まった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。帝国の貴族らは息子が生まれると、皇帝に贈り物を送り、その息子の名をつけるように頼んだ<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。そうしたなかで、貴族らは皇帝への忠誠心のみならず、武勲、ペルシア式の礼儀作法、教養人の必要とする美術の知識にも重点を置いた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。
ダーラーはラホールへと逃げ、[[6月8日]]にアーグラ城にいた皇帝シャー・ジャハーンは捕虜にされてしまい、アウラングゼーブは国庫を支配下に置いた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p230</ref>。


シャー・ジャハーンの治世には、莫大な資金が軍事行動や建設事業などにつぎ込まれたが、それでも治世の初めから蓄えられた準備金が9500万ルピーあった。そのうち、半分は硬貨、半分は宝石であった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220</ref>。
同月12日、アウラングゼーブはムラード・バフシュを裏切り捕らえ、弟の軍を自分の軍に加えた(その後、ムラード・バフシュは[[グワーリオール城塞]]に幽閉され、[[1661年]]に脱出計画が発覚して殺害された)<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p230</ref>。


===インド・イスラーム文化の保護者として===
そして、父帝シャー・ジャハーンを廃したのち、[[7月31日]]にアウラングゼーブはデリーで即位式を挙行し、「世界を奪った者」を意味する「アーラムギール」を名乗り帝位を宣した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227</ref>。
[[File:Shah Jahan op de pauwentroon.jpg|thumb|right|200px|[[孔雀の玉座]]に座るシャー・ジャハーン]]
シャー・ジャハーンの時代、[[インド・イスラーム文化]]は黄金期を迎え、特に建築分野ではその華が咲いた。シャー・ジャハーンは自分の権威を表現するため、帝国の財源を多数の建築や美術につぎ込んだ。


その一つに、1628年に彼が即位に際して作成を命じた「孔雀の玉座」があり、その材料に860万ルピー分の宝石と140万ルピー分の金が使用され、7年の歳月をかけて1635年に完成した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.221</ref>。王座の表面には[[ダイヤモンド]]、[[ルビー]]、[[サファイア]]、[[エメラルド]]などの宝石が惜しまなく使われ、その天蓋の中央にはサファヴィー朝のアッバース1世からジャハーンギールに送られた特大のルビーが使用されていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.221-224</ref>。歴史家イナーヤト・ハーンはこのルビーについて、[[ティムール]]、[[シャー・ルフ]]、[[ウルグ・ベグ]]、[[シャー・アッバース]]の名と共に、アクバル、ジャハーンギール、そして自身の名も刻まれていた、と語っている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.224</ref>。
1658年[[8月30日]]、アウラングゼーブはダーラー・シュコーをデリーで処刑し、さらにその遺体をデリー市中で引き回したのち、シャー・ジャハーンのもとにその首を送りつけた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227</ref>。


また、同じ1635年にシャー・ジャハーンは宮廷のムガル絵画の画家に命じて、自らの業績のついての押絵入りの史書「[[パードシャー・ナーマ]]」を作成している。この作品の一巻は現存しており、現在はイギリスの[[ウィンザー城王立図書館]]に収蔵されている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.224</ref>。だが、この作品にはシャー・ジャハーンが熱中したことや興味を抱いたことは記されておらず、押絵は勝利した戦いや宮廷儀式をただただ描いているだけである<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.224</ref>。
イタリア人旅行家[[ニコラエ・マヌッチ]]は、シャー・ジャハーンが愛する息子、ダーラー・シュコーの首を見たときの衝撃を物語っている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p234より引用</ref>。

さらに、シャー・ジャハーンはラホールやアーグラでは満足がいかず、1639年4月からデリーに新区域であるシャー・ジャハーナーバード(現オールドデリー)の建設を着工した。皇帝の居城である[[デリー城]](レッド・フォート)や市街地が建設され、1648年4月にシャー・ジャハーンは完成したこの新都には入城した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.225</ref>。この新都の城内には57000人の人が住み、城壁の外は2590ヘクタールの市街地で、およそ40万人の市民が暮らしたとされる。ただし、シャー・ジャハーン自身はデリーとアーグラを行き来していた。

[[ファイル:Taj Mahal, Agra, India edit3.jpg|250px|thumb|right|[[タージ・マハル]]]]
シャー・ジャハーンは愛妃ムムターズ・マハルと非常に仲睦まじく、常に活動を共にしていた。彼らは14人の子供をもうけ、そのうち7人が成人した。だが、[[1630年]][[6月]]に愛妃ムムターズ・マハルが[[産褥熱]]で死亡し、シャー・ジャハーンはかつてない悲しみに襲われた<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190</ref>。

シャー・ジャハーンの顎鬚は20本ほどしか白髪がなかったが、すぐに真っ白になり、死後一週間のうちは国事行為を執り行わなかった<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.191</ref>。宮廷の歴史家サイード・ムハンマド・ラティーフが「憂鬱に沈んですっかり変わり果てた」と伝えるように、シャー・ジャハーンはそれ以降華美な服ではなく白い服を着用し続け、楽曲なども遠ざけ続けたという<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190</ref>。また、情熱的に精力を政治にもあまり関心を持たなくなった<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.191</ref>。

2年後の[[1632年]]以降、シャー・ジャハーンはムムターズ・マハルの死を悼むために壮麗な墓廟[[タージ・マハル]]の建設事業に取りかかる。実に20年前後の歳月をかけ、[[1654年]]ごろ完成した。この墓廟はビジャープル王国の[[イブラーヒーム・アーディル・シャー2世]]の墓廟「[[イブラーヒーム・ラウザ]]」が参考にされたと言われ、東方イスラーム世界全域の職人が集まって設計に携わり、巨費と膨大な労力が注ぎ込まれた。タージ・マハルは巨大で、一辺57メートル四方の土台の上に58メートルの高さの中央ドームと42メートルの[[ミナレット]]4本が立ち、それらすべての外壁が象嵌彫刻の施された白大理石で覆われ、まさにシャー・ジャハーンの権威の象徴だった。

一説にはタージ・マハルは現存する白大理石のものに加えて黒大理石の廟が[[ヤムナー川]]をはさんで建てられ、その二つを大理石の橋でつないだ壮観な廟となる予定であったともいわれている。だが、白い廟ができ上がった後にシャー・ジャハーン自身が病気になり、後述の帝位継承争いの末に第3皇子のアウラングゼーブによって幽閉されてしまったために、黒い廟はでき上がらなかった。

===重病と皇位継承戦争の勃発===
[[ファイル:Shah jahan moguln.JPG|right|200px|right|thumb|晩年のシャー・ジャハーン]]
[[1657年]]9月、シャー・ジャハーンはデリーで重病となり、一週間以上生死の境をさまよった<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218</ref>。その理由はムムターズ・マハルの死後、事実上一夫一妻婚の状態から解放され、好色にふけるようになってしまった。多数の側室と臣下の妻と関係を持ち、年に一度は女性の品定めをする市を開いた。20年以上にわたりこのような生活を続けていたさなか、シャー・ジャハーンは催淫剤の服用によって体を壊したのであった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.227</ref>。

シャー・ジャハーンはダーラー・シコーが付き添って看病したため、なんとか回復することに成功した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218</ref>。回復後、シャー・ジャハーンはデリーからアーグラへと移り、ダーラー・シコーに帝位を譲ろうとしたものの、ダーラー・シコーは固辞した<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218</ref>。一方、その重病は死病だという話が各地に伝わり、シャー・ジャハーン存命にも関わらず、4人の皇子による皇位継承戦争が幕を開けたのである<ref>クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218</ref>。

シャー・ジャハーンの長男ダーラー・シコーは帝国の皇太子であった。有能な学者でもあり、ヒンドゥー教とイスラーム教との共通点を見つけ、[[スーフィー]]や[[イエズス会]]士とも面会するなど宗教寛容の立場をとった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。ダーラー・シュコーはヒンドゥー教とイスラーム教の本質は同じだとし、ヒンドゥー教の聖典ヴェーダの一部ウパニシャッドをペルシア語に翻訳し、6冊の著書があった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。また、文化に興味をもち、ムガル絵画やヒンドゥスターン音楽の保護者でもあった。シャー・ジャハーンはダーラー・シコーを最も愛し、ほかの息子を地方に送ったのとは違い、彼を自分の側から離そうとしなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。

シャー・ジャハーンの三男アウラングゼーブはデカン総督を務めていた。彼はダーラー・シコーとは対立する思想を持ち、イスラーム教スンナ派の熱烈な支持者で、信仰心にあつかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。アウラングゼーブはダーラー・シコーが帝国からイスラーム教を排斥しようとしているのではないかと恐れていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。また、アウラングゼーブは父がダーラー・シコーを偏愛していることに強い不満を抱いていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。

シャー・ジャハーンの次男シャー・シュジャーは[[ベンガル太守]]を務め、四男ムラード・バフシュは[[グジャラート]]太守を務めていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。彼らは有能な人物ではあったが、前者は昼も夜も遊びほうけており、後者は武勇に優れてはいたものの判断力を欠き、快楽を追い続ける人間であった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。

また、シャー・ジャハーンの2人の皇女もそれぞれ帝位継承候補に加担し、陰ながら争いに参加した。ジャハーナーラー・ベーグムはダーラー・シコーに味方し、ラウシャナーラー・ベーグムはアウラングゼーブに味方した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。

===止められぬ争い===
[[File:Shah Jahan accepts a falcon from Dara Shikoh.jpg|thumb|right|230px |シャー・ジャハーンと[[ダーラー・シコー]]]]
[[File:Emperor Aurangzeb on horseback.jpg|thumb|right|200px|[[アウラングゼーブ]]]]
シャー・シュジャーはほかの兄弟より先に行動し、父帝の病気に回復の見込みがないと考えて11月に帝位を宣し、その名を刻んだ硬貨を鋳造し、デリーへと進軍した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.61</ref>。ムラード・バフシュも帝位を宣し、[[スーラト]]の城塞で得た略奪品により財を得て、彼もデリーへと向かった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228</ref>。

アウラングゼーブはほかの兄弟より慎重で、自分の優位が決まるまで動かなかった。頃合いを見て、弟のムラード・バフシュに自分がこの皇位継承戦争に勝利すれば、パンジャーブ、カシミール、[[シンド]]、アフガニスタンを与えると約束して同盟した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.229</ref>。

シャー・ジャハーンもこのころに回復したが遅く、[[1658年]][[2月]]にダーラー・シュコーの息子[[スライマーン・シコー]]がシャー・シュジャーの軍を破った。同月アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は皇帝の派遣した軍を破った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p229</ref>。

だが、シャー・ジャハーンはスライマーン・シコーにつき従ったジャイ・シングに対して、
絶体絶命に陥らぬ限り戦端を開かないことを命じていた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.60</ref>。それはシャー・ジャハーンの病気の結末を見届け、アウラングゼーブとムラード・バフシュの不首尾を見定めた暁のために戦力を温存しておくように命令していた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.60</ref>。

[[1658年]][[4月15日]]、ダーラー・シコーの軍はアウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍と[[ウッジャイン]]近郊の[[ナルマダー川]]を挟んで戦闘を行った([[ダルマートプルの戦い]])<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.65-66</ref>。戦闘は最初の方はジャスワント・シングの奮闘により、ダーラー・シコー軍の方が優勢だったが、ムラード・バフシュの勇猛さに怯えたカーシム・ハーンが逃げ出すこととなり、ジャスワント・シングも大勢の部下が死亡したことで撤退せざるを得なかった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.66</ref>。

ダーラー・シコーはこれに怒り狂い、激しく激怒した彼はアウラングゼーブの[[ミール・ジュムラー]]が兵力や大砲、軍資金を提供したとして、人質であるその息子[[ムハンマド・アミール・ハーン]]を殺してやりたいとまで言った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.70</ref>。だが、シャー・ジャハーンがなだめようとしたため、これは実行されなかった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.70</ref>。

シャー・ジャハーンはダーラー・シコーの軍が負け、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍がアーグラに進軍していることを知ると、国の戦力をすべてダーラー・シコーに任せることに同意せざるを得ず、武将ら全員には彼に従うように命じた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.71</ref>。ダーラー・シコーの軍はアウラングゼーブの軍のように長距離の移動による疲労もなく、大砲の数もはるかに多かったが、彼に有利な予想をする者はいなかった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.72</ref>。

なぜなら、ダーラー・シコーは軍を指揮する能力に欠き、軍人らには不人気であり、彼の軍勢において最も強力な武将[[ジャイ・シング]]はスライマーン・シコーとともにアーグラに向かって行軍中であったからだ<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.72</ref>。ダーラー・シコーの側近のみならずシャー・ジャハーンまでもが、息子スライマーン・シコーの軍が合流するまで時間稼ぎをし、危険な戦いは避けた方がよいのではないか、と忠告した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.73</ref>。

また、シャー・ジャハーンは自ら出陣することも提案したが、ダーラー・シコーはこれも拒否した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.73</ref>。ダーラー・シコーはアーグラを出る前にシャー・ジャハーンに会い、シャー・ジャハーンは目に涙を浮かべながら、厳しい口調でこう言った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.76より引用</ref>。

{{Cquote3|
「それではダーラー、何事も自分で決めたとおりに運びたいなら、行くがよい。神の祝福がお前がお前の上にあるように。だが、この短い言葉だけはよく覚えておけ。もし、戦いに負けたら、二度と私の前に出てこないように気を付けるのだ」
}}

===サムーガルの戦いとアウラングゼーブの即位===
[[File:The Battle of Samugarh.jpg|thumb|right|300px|[[サムーガルの戦い]]]]
こうして、[[6月8日]]にダーラー・シコーの軍アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍とアーグラ付近サムーガルで激突した([[サムーガルの戦い]])<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p230</ref>。シャー・ジャハーンは戦いが始まる3,4日前までずっと、彼にスライマーン・シコーが到着するまで待ち、その間に陣地を築く有利な場所を選ぶように手紙で伝えていた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.77</ref>。

だが、ダーラー・シコーは緒戦では有利だったものの、武将の一人に騙され、結果的に軍は壊走し、アウラングゼーブとムラード・バフシュの勝利に終わった。ダーラー・シコーはシャー・ジャハーンに会おうとアーグラに向かったが、父の厳しい言葉を思い出して、会おうとはしなかった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91</ref>。ダーラー・シコーは父に使いを出す気もなく、姉ジャハーナーラー・ベーグムに何度か使いをだし、アーグラから逃げた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91</ref>。

シャー・ジャハーンはダーラー・シコーを見捨てず、一人の信頼できる宦官を使者に、スライマーン・シコーと合流することを助言し、希望を捨てないよう諭させた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91</ref>。そればかりかデリーに行くように言い、デリーにある王宮の厩舎には1000頭ほどの馬がいるので、そこの司令官に象と軍資金を用意させるよう命じるとさえ言った<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91</ref>。

だが、シャー・ジャハーンの予想に反し、スライマーン・シコーの軍勢は自壊したため、ダーラー・シコーがスライマーン・シコーと合流することはなかった。ダーラー・シコーはラホールへ、スライマーン・シコーは[[シュリーナガル]]へと向かい、それぞれ勢力を立て直そうとした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.95</ref>。

サムーガルの戦いから数日後、アウラングゼーブとムラード・バフシュはアーグラ市内に入城した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.95</ref>。アウラングゼーブはシャー・ジャハーンに使者を送り情愛と服従の意を伝え、自分はただ父の指図を仰ぐためにここにいるのだとした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.95</ref>。シャー・ジャハーンは自分の想像以上に物事が進行しているのを危惧し、またアウラングゼーブが帝位に対してただならぬ野心を持っていることも知っていたので、この言葉を真にうけなかった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.95-96</ref>。

シャー・ジャハーンはまた、アウラングゼーブに対して自身のところに挨拶に来るように
命じていたが、アウラングゼーブはその日が来ると翌日に、一日一日と予定を伸ばした<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97</ref>。アウラングゼーブはシャー・ジャハーンのそばにはジャハーナーラー・ベーグムがそばにいて、その指示通りに動いていると考えており、逆に自身が捕えれるのではないかと警戒していた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97</ref>。

このように膠着状態が続く中、アウラングゼーブはシャー・ジャハーンに面会するとして、代理として長男[[スルターン (ムガル皇子)|スルターン]]をアーグラ城に送った<ref>[http://www.royalark.net/India4/delhi6.htm Delhi 6]</ref><ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97</ref>。スルターンは番兵をはじめ城にいる者たちを容赦なく追い立て、その大勢の部下がなだれ込み城壁を占拠した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97</ref>。シャー・ジャハーンはスルターンの本心を探るため、「もしお前が私に忠誠心を持ち、私に仕えるならお前を王にしよう、」と王冠とコーランにかけて約束した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.98</ref>。だが、スルターンにそのような勇気もなく、また自身の方が監禁されるのではないかと恐れたためシャー・ジャハーンには会わず、父アウラングゼーブの命で来たのだと伝えた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.100</ref>。

[[6月22日]]、アウラングゼーブが任命したアーグラ城の司令官[[イティバール・ハーン]]
はシャー・ジャハーンをジャハーナーラー・ベーグムらの女性とともに城の奥に幽閉し、多くの門を囲いによって塞いだ<ref>[http://www.royalark.net/India4/delhi6.htm Delhi 6]</ref><ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101</ref>。また。シャー・ジャハーンは誰とも文通を行えぬようにし、許可なしに居室から出ることも禁じられた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101</ref>。

アウラングゼーブは父に短い手紙を書き、「シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに大層情愛を感じていると言うが、ダーラー・シコーにルピー金貨を積んだ2頭の象を送ってい体勢を立て直させようとしている。(略)この兄こそが不幸の原因であり、始めから父に会いに行っただろうし、よい息子に期待できる孝行を父に尽くしただろう」と述べた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101</ref>。フランソワ・ベルニエによると、シャー・ジャハーンがルピー金貨を積んだ2頭の象を送ったのはダーラー・シコーが退去したその夜のことで、アウラングゼーブはシャー・ジャハーンがダーラー・シコーに宛てた手紙を何通か差し押さえたと述べている<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101</ref>。

アウラングゼーブはこうしてシャー・ジャハーンを捕虜にし、貴族らを味方に付け、城内の国庫と大量の爆薬を得た。アウラングゼーブはシャーイスタ・ハーンにアーグラを任せ、ムラード・バフシュとともにダーラー・シコー追討のためにアーグラから出発した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.104</ref>。

その後、アウラングゼーブはムラード・バフシュともに歩調を合わせてデリーに向けて進軍していたが、ある夜[[マトゥラー]]で宴会を開いた<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.104-105</ref>。アウラングゼーブは裏切って、酒によって寝ていたムラード・バフシュを捕らえ、弟の軍を自分の軍に加えた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.230</ref>。

そして、[[7月31日]]にアウラングゼーブはデリーで即位式を挙行し、帝位を宣した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.227</ref>。彼は「世界を奪った者」を意味する「アーラムギール」を名乗ったが、これは「シャー・ジャハーン」の意味が「世界の皇帝」であっったことに関係していると考えられる。

===ダーラー・シコーの処刑と晩年===
[[File: Shah Jahan in old age.jpg|right|200px|thumb|晩年のシャー・ジャハーン]]
[[File:The Passing of Shah Jahan.jpg|right|200px|thumb|シャー・ジャハーンの死]]
ダーラー・シコーはラホールやムルターン、グジャラートを転々とし、1659年3月にアウラングゼーブにアジメールで敗れたのち、イランのサファヴィー朝へ亡命しようとした。だが、6月にダーラー・シコーは裏切りにあって捕えられ、息子シピフル・シコーとともにデリーへ送られた<ref>[http://www.royalark.net/India4/delhi6.htm Delhi 6]</ref><ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.142</ref>。

9月、アウラングゼーブはダーラー・シコーとシピフル・シコーの処遇に関して皇族・貴族らと議論した<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.145-146</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.233 </ref>。ダーラー・シコーはイスラーム教に背教したとして多くの貴族が処刑に賛成し、特にラウシャナーラー・ベーグムはその死刑に強固に賛成した。その結果、ダーラー・シコーは処刑、シピフル・シコーは死一等を免じてグワーリヤル城に幽閉となった<ref>ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.147</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.233 </ref>。

その翌日、ダーラー・シコーはデリーで処刑され、さらにその遺体をデリー市中で引き回したのち、シャー・ジャハーンのもとにその首を送りつけた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.233-234</ref>。イタリア人旅行家[[ニコラエ・マヌッチ]]は、シャー・ジャハーンが愛する息子ダーラー・シュコーの首を見たときの衝撃を物語っている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234より引用</ref>。


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141行目: 274行目:
}}
}}


他の息子らもまた同様の運命をたどった。シャー・シュジャーは1659年1月に敗北したのち、[[ビルマ]]の[[アラカン王国]]へと逃げたが、[[1661年]]2月に王国の乗っ取りに失敗したためジャングルで殺害された。ムラード・バフシュはグワーリヤル城に幽閉されたのち、[[1661年]]に脱出計画が発覚したため、アウラングゼーブの命により処刑された。
===晩年と死===
[[File:The Passing of Shah Jahan.jpg|right|200px||thumb|シャー・ジャハーンの死]]
1658年以降、廃帝シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉され、タージ・マハルの見える部屋から見続ける生活を送ることとなった。


一人生き残った廃帝シャー・ジャハーンは、1658年以降アーグラ城に幽閉され、タージ・マハルの見える部屋から見続ける生活を送ることとなった。
幽閉以降、シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに一度も面会しなかったが、手紙のやりとりはしており、それは廃位後も続いた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p234</ref>。だが、その内容はやはり父帝のダーラー・シュコーに対する偏愛への不満で、父帝が兄を溺愛したのに、自分を愛さなかったと、横柄な口調の不平書きだった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p234</ref>。


また、シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに個人宝石を取上げられたりしたため彼の所持するヴァイオリンの修理、まともな上履きを手入れる程度の金にも苦労するほど不自由な生活られ<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p234</ref>
[[1652年]]以降、シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに一度も面会していなかったが、手紙ており、それは廃位後も続い<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』p.234</ref>。だが、アウラグゼーブ手紙内容ははりダーラー・シコーする偏愛への不満で、父帝が兄を溺愛したのに愛さなかったとった内容の、横柄な口調の不平書きだった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234</ref>


しかし、シャー・ジャハーンは、長女ジャハーナーー・ベームといった王室女性たちに囲ま孤独晩年過ごことはかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p234</ref>
また、シャー・ジャハーンは、アウゼーブに個人宝石を取り上げらたりしたため彼の所持するヴァイオリンの修理や、まとも上履き手に入れる程度の金にも苦労るほどの、不自由生活を強いられ<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234</ref>


[[1666年]][[2月1日]]、シャー・ジャハーンは死亡し、その遺体は愛妃の眠るタマハル埋葬された<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p234</ref>。とはいえ、シャー・ジャハーンは死の間際、長女のジャハーナーラー・ベーグムに説得され、アウラングゼーブ許す書面に署名ている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p234</ref>
しかし、シャー・ジャハーンは長女ジャハーナーラー・ベーグムといった王室の女性たち囲まて、孤独な晩年を過ごすことはなかった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234</ref>。特に長女のジャハーナーラー・ベーグムは親身なって世話をし続けた


[[1666年]][[2月1日]]、シャー・ジャハーンは皇位継承戦争時の病が再発したことにより死亡した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234</ref>。とはいえ、シャー・ジャハーンは死の間際、長女のジャハーナーラー・ベーグムに説得され、アウラングゼーブを許す書面に署名している<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234</ref>。
== インド・イスラーム文化の保護者 ==
[[ファイル:Taj Mahal, Agra, India edit3.jpg|thumb|right|タージ・マハル]]
シャー・ジャハーンの時代は[[インド・イスラーム文化]]の最盛期であった。14人の子供をもうけて愛妃ムムターズ・マハルが[[1630年]]に37歳で死去すると(原因は一説に[[産褥熱]])、シャー・ジャハーンはこれをいたく悲しみ、2年後の[[1632年]]以降にムムターズ・マハルの廟墓[[タージ・マハル]]の建設事業に取りかかる。実に20年前後の歳月をかけ、[[1653年]]ごろ完成したとされる。


シャー・ジャハーンの遺体は慣習に従い、王宮の壁が破られたのち、その破れ目から川の船に移された。そして、その遺体は川を渡って愛妃の眠るタージ・マハルに運ばれ、ムムターズ・マハルの遺体の横に安置された<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234</ref>。
一説にはタージ・マハルは、現存する白大理石のものに加えて黒大理石の廟が[[ヤムナー川]]をはさんで建てられ、その二つを大理石の橋でつないだ壮観な廟となる予定であったともいわれている。


==家族==
この説によると、白い廟ができ上がった後にシャー・ジャハーン自身が病気になり、さらに4人の皇子の間での帝位継承争いの末に第3皇子のアウラングゼーブによって[[アーグラ城塞|アーグラ城]]に幽閉されてしまったために、黒い廟はでき上がらなかった。
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===父母===
*[[ジャハーンギール]]
*[[ビルキース・マカーニー]]


===后妃===
現在タージ・マハルは発掘調査中であり、この調査の結果によって、現存するタージ・マハルにまつわる様々なラブ・ロマンスが事実であるのか解明されるであろう。
====正室====
*カンダーハーリー・ベーグム
*[[ムムターズ・マハル]](アルジュマンド・バーヌー・ベーグム)
*氏名不詳(イティハード・ハーンの娘)
*ハーシナ・ベーグム
*ムーティー・ベーグム
*クードシヤ・ベーグム
計6人。


====側室====
タージ・マハル自体はとてもすばらしく美しい建物であるが、その建設には多くの民衆が働かされていた。したがって、シャー・ジャハーン自身は、広い支持が得られなかったようである。
*シルヒンディー・マハル
*アクバラーバーディー・マハル
*ファテープリー・マハル
*マンバーヴァティー・バーイー([[パルヴィーズ]]の未亡人、[[スール・シング]]の娘)
*リーラーヴァティー・バーイー
*ジャマール・ハーンの元妻
*ナワーブ・バーイー
計7人。
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===息子===
*[[ダーラー・シコー]]
*[[シャー・シュジャー (ムガル皇子)|シャー・シュジャー]]
*[[アウラングゼーブ]]
*ジャハーン・アフルーズ
*アフマド・バフシュ
*氏名不詳
*[[ムラード・バフシュ]]
*ルトフッラー
*ダウラト・アフザル
計9人。

===娘===
*ハムザ・バーヌー・ベーグム
*パルヒズ・バーヌー・ベーグム
*フールンニサー・ベーグム
*[[ジャハーナーラー・ベーグム]]
*氏名不詳
*[[ラウシャナーラー・ベーグム]]
*ソライヤ・バーヌー・ベーグム
*氏名不詳
*フスナーラー・ベーグム
*[[ガウハーラーラー・ベーグム]]
*プルハーナーラー・ベーグム
*ナザーラーラー・ベーグム
計11人
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==ギャラリー==
{{Gallery| align = center
| width = 175 | lines=3
|File:Emperor Shah Jahan (reigned 1628-1658) LACMA AC1994.59.2.jpg|シャー・ジャハーン
|File: Shahjahan on globe, mid 17th century.jpg |
|File:Cha Jehan the Great Mogul.jpg|
| File:Mughal Emperor Shahjahan - Google Art Project.jpg |
|File: Indian - Single Leaf of a Portrait of Shah Jahan - Walters W700 - Detail.jpg|
|File: Chitarman. Shah Jahan on a Terrace, Holding a Pendant Set With His Portrait, Folio from the Shah Jahan Album 1630-50 Metmuseum.jpg|
|File: Portrait of the emperor Shajahan, enthroned..jpg|即位したシャー・ジャハーン
|File: The emperor Shahjahan riding, with the Aftabi or sunshade held over his head.jpg |馬に乗るシャー・ジャハーン
|File: Shah Jahan riding a horse.jpg|
|File: Shah Jahan Riding Stallion.jpg|
|File: Equestrian Portrait of the Emperor Shah Jahan from the Kevorkian Album.jpg|
|File: Emperor Shah Jahan on Horseback.jpg|
|File:Meister der Jahângîr-Memoiren 001.jpg|シャー・ジャハーンとジャハーンギール
|File: Jahangir and Prince Khurram after a hunt..jpg |狩りの後のジャハーンギールとシャー・ジャハーン
|File: The Maharana of Mewar submitting to Prince Khurram.jpg|[[アマル・シング]]の服従を受け入れるフッラム
|File: Shah-Jahan hunting lions at Burhanpur (July 1630).jpg|[[ブルハーンプル]]で狩りをするシャー・ジャハーン
|File:Shah Jahan with his son Dara Shikoh, from album made for Shah Jahan, ca. 1620.jpg|シャー・ジャハーンと少年時代のダーラー・シコー
|File: Govardhan. Shah Jahan and Dara Shikoh ca. 1638. Victoria and Albert Museum.jpg|シャー・ジャハーンとダーラー・シコー
|File: Emperor Shah Jahan and Mumtaz Mahal.jpg|シャー・ジャハーンと[[ムムターズ・マハル]]
|File: Shah Jahan and Mumtaz Mahal.jpg|
|File:Bichitr. Akbar Hands His Imperial Crown to Shah Jahan. A page from Minto Album. 1631г. Chester Beatty Library, Dublin.jpg|シャー・ジャハーン(左)、ジャハーンギール(右)、アクバル(中央)
|File:Emperor Shah Jahan, 1628.jpg|シャー・ジャハーンと3人の息子、アーサフ・ハーン
|File:Bhavanidas. Darbar scene with four sons and two grandsons of Shah Jahan. 1700-1710, San Diego Museum of Art..jpg|シャー・ジャハーンと4人の息子、2人の孫
|File: Bichitr - Padshahnama plate 10 - Shah-Jahan receives his three eldest sons and Asaf Khan during his accession ... - Google Art Project.jpg|シャー・ジャハーンと3人の息子
|File: Shah Jahan Receives the Persian Ambassador Muhammad 'Ali Beg. ca. 1633, Folio from the Windsor Padshahnama, The Royal Library, Windsor Castle.jpg|イランの使者と面会するシャー・ジャハーン
|File:Shah Jahan 0338.JPG|シャー・ジャハーンのカメオ
|File:Cameo Shah Djahan CdM Paris Bab366.jpg|
|File:Rosette, Titles of Sha Jahan.jpg|シャー・ジャハーンの紋章
}}


==脚注==
==脚注==
{{Reflist}}
{{Reflist|3}}


== 参考文献==
== 参考文献==
*{{Cite|和書|author =フランシス・ロビンソン|authorlink = フランシス・ロビンソン| translator=月森左知| title =ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)|publisher =創元社| series = | volume = | edition =| date =2009年| pages =| url =| doi =| id =| isbn =978-4422215204| ncid =}}
*フランソワ・ベルニエ『ムガル帝国史』
*{{Cite|和書|author =フランソワ・ベルニエ|authorlink=フランソワ・ベルニエ|translator=関美奈子|title =ムガル帝国誌(一)|publisher =岩波書店|date =2001年|isbn =}}
*小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年
*{{Cite|和書|author =アンドレ・クロー|authorlink =アンドレ・クロー| translator=杉村裕史|title =ムガル帝国の興亡|publisher =法政大学出版局|series =|volume = |edition =| date =2001年| isbn =}}
*バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ著、河野肇訳 『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』 創士社、2009年
*{{Cite|和書|author = S・スブラフマニヤム|authorlink =| translator=三田昌彦、太田信宏|title =接続された歴史 インドとヨーロッパ|publisher =名古屋大学出版会| date =2009年| isbn =}}
*フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌』 創元社、2009年
*{{Cite|和書|author =サティーシュ・チャンドラ|authorlink=サティーシュ・チャンドラ|translator=小名康之、長島弘|title =中世インドの歴史|publisher =山川出版社|date =2001年|isbn =}}


==関連項目==
== 外部リンク ==
*[[ムガル帝国]]
{{Commons|Category:Shah Jahan}}
*[[タージ・マハル]]
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/unesco/13_agra/agra.htm ユネスコ世界遺産 ・アーグラ城 (日本語)]
*[[孔雀の玉座]]
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/unesco/15_tajmahal/taj.htm ユネスコ世界遺産 ・タージ・マハル廟 (日本語)]


== 外部リンク ==
{{ムガル皇帝|第5代:1628年 - 1658年}}
{{Commonscat-inline|Shah Jahan I}}


{{ムガル帝国皇帝|第5代:1628年 - 1658年}}
{{DEFAULTSORT:しやあしやはあん}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しやしやはん}}
[[Category:ムガル帝国の君主]]
[[Category:ムガル帝国の君主]]
[[Category:1592年生]]
[[Category:1592年生]]

2015年1月22日 (木) 11:47時点における版

シャー・ジャハーン
Shah Jahan
ムガル帝国第5代皇帝
シャー・ジャハーン
在位 1628年 - 1658年
戴冠式 1658年2月14日
別号 パードシャー

全名 シハーブッディーン・ムハンマド・フッラム(シャー・ジャハーン)
出生 1592年1月5日
ラホール
死去 1666年2月1日
アーグラアーグラ城
埋葬 タージ・マハル
配偶者 ムムターズ・マハル
  ほか
子女 ダーラー・シコー
シャー・シュジャー
アウラングゼーブ
ムラード・バフシュ
ジャハーナーラー・ベーグム
ラウシャナーラー・ベーグム
ガウハーラーラー・ベーグム
ほか
王朝 ムガル朝ティムール朝
父親 ジャハーンギール
母親 ビルキース・マカーニー
宗教 イスラーム教スンナ派
テンプレートを表示

シャー・ジャハーンペルシア語: شهابالدین محمد شاه جهان Shehābo'd-Dīn Moḥammad Shāh Jahān, 1592年1月5日 - 1666年1月22日)は、ムガル帝国の第5代君主(在位:1628年 - 1658年)。第4代君主ジャハーンギールの三男。母はビルキース・マカーニー

1612年、ペルシア系の大貴族アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚した。晩年の父とは対立し、デカンに退いていた。

1628年はじめにアーグラで即位したシャー・ジャハーンは、内政面ではムガル帝国の最安定期を演出した。外部では1636年アフマドナガルにあったデカン・スルターン朝のひとつアフマドナガル王国を打倒・併合し、デカン地方で領土を拡大した。だが、アフガニスタンではサファヴィー朝と衝突してムガル・サファヴィー戦争を起こしたが、カンダハールを獲得することができなかった。

シャー・ジャハーンの時代はインド・イスラーム文化の最盛期であり、美術や建築などの華が咲いた。シャー・ジャハーンはまた、妃ムムターズ・マハルの墓廟であるタージ・マハルの建造者としても有名な人物である。当時、ヨーロッパから訪れた旅行者はシャー・ジャハーンを「壮麗王」(the Magnificent)として称えた。

ムムターズ・マハルの死後、シャー・ジャハーンは側室を増やし、多数の家臣の妻と関係を持つようになった[1]。シャー・ジャハーンは、20年以上にわたりこのような生活を続けたため、1657年に重病となった。そして、その病状に回復の見込みがないとわかると、その4人の息子の間が帝位をめぐり激しく争うこととなった[2]

シャー・ジャハーンは長男ダーラー・シコーを後継者としていたが、次男のベンガル太守シャー・シュジャー、三男のデカン太守アウラングゼーブ、四男のグジャラート太守ムラード・バフシュはこれを認めていなかった。結局、1658年に勝利したアウラングゼーブが皇位を継承し、シャー・ジャハーンはアーグラ城塞に幽閉され、亡き愛妃の眠るタージ・マハルを眺めながら、1666年に74歳で死去した。

生涯

誕生・宮廷の対立

ジャハーンギールとフッラム

1592年1月5日、シャー・ジャハーンことフッラムは、ムガル帝国の皇帝ジャハーンギール(当時は皇帝ではなく、名前もサリーム)とラージプートの王妃ジョーダー・バーイー(ジャガト・ゴーサーイン)との間に生まれた[3][4]。母はマールワール王国の君主ウダイ・シングの娘。

フッラムは6歳の時、祖父アクバルの命により生母から引き離され、アクバルの妃の一人ルカイヤ・スルターン・ベーグムによって養育された。これはアクバルがフッラムの素質を見抜いたからとされ、ルカイヤは君主にとって必要な責務などを教え込んだ。

その後、1605年に皇帝アクバルが死亡し、父サリームがジャハーンギールとして皇帝となった。

1610年以降、ジャハーンギールが病気の発作を起こしはじめ、政治はフッラム、宰相のイティマード・ウッダウラ、皇帝の妃のヌール・ジャハーン、その弟アーサフ・ハーンが担当する形となった[5]。彼ら4人はジャハーンギールに対して大きな影響力を持った[6]

1612年5月、フッラムはアーサフ・ハーンの娘アルジュマンド・バーヌー・ベーグムと結婚した。彼女には宮廷の光を意味する「ムムターズ・マハル」の称号が与えられた。2人は仲睦まじく、どこへ行くときも一緒であった。彼らの間には14人の子が生まれ、息子はダーラー・シコーシャー・シュジャーアウラングゼーブムラード・バフシュ、娘はジャハーナーラー・ベーグムラウシャナーラー・ベーグムガウハーラーラー・ベーグムが成人した。

同年以降、ジャハーンギールの妃ヌール・ジャハーンが実権を握り、事実上の皇帝というところとなり、宮廷には緊張が走っていた[7]。フッラムもまた、ジャハーンギール死後の後継者となるべく、ほかの3人の兄弟フスローパルヴィーズシャフリヤールと争わなければならなかった[8]。皇族以外の有力者では、ヌール・ジャハーン、アーサフ・ハーン、マハーバト・ハーンがそれぞれ加わった。

祖父アクバルの治世以来、ムガル帝国はデカン地方に介入するようになっていたため、フッラムは若年にしてデカンへの遠征にも派遣され、宮廷を離れることもしばしばだった[9]

デカン地方への遠征と父帝への反乱

シャー・ジャハーン

デカン地方には、アフマドナガル王国がアクバル時代の攻撃で弱体化して存続していたが、同国の宰相で武将マリク・アンバルが王国の復興に尽力していた。マリク・アンバルはムガル帝国に抵抗し続け、その圧迫が強まると、1610年に首都をパランダーからダウラターバードに移し、カドキー(カルキー)を補助的な拠点とし、王国の領土回復を試みた。

これに対し、1616年にフッラムは5万の兵とともにデカンに派遣された。1617年に彼はマリク・アンバルと領土分割の協定を結び、アフマドナガルの城塞を引き渡され、150万ルピーの賠償金を受け取った[10]

しかし、フッラムの帰還後、マリク・アンバルは軍を再組織し、ビジャープル王国ゴールコンダ王国などの支援も得て、1619年にこの協定を破って再びムガル帝国との戦争を行いはじめた[11]。マリク・アンバルは兵力を6万にまでに回復し、帝国軍と戦って地方単位で領土を奪還し、王国の全領土の回復に成功した。このため、フッラムは再びデカンに派遣されることとなったが、病状の悪化しつつある父の跡目をめぐる争いに気を取られ、アーグラへの帰還を焦っていた。マリク・アンバルもまた負け戦になることを悟ったため、賠償金を再び払った上で自らの領土を返却し、フッラムはアーグラへと帰還した[12]

1620年、マリク・アンバルとビジャープル王国が同盟して抵抗に反抗すると、フッラムはデカン地方に遠征した。ビジャープル王国は途中で帝国に寝返り、マリク・アンバルに対抗するための援助を代償に臣従を申し出た[13]

1621年、フッラムはデカン地方への出陣を命じられたが、彼は盲目の兄フスローを引き渡さなければ出陣しないと言い張り、結局兄を伴って出陣した[14][15]。フッラムはビジャープル王国とゴールコンダ王国に勝利し、200万ルピーにも上る賠償金を得て(これらの大半を支払ったのはゴールコンダ王国だった)、大いに名声を獲得した。そして、彼はそれに乗じて、1622年1月26日に牢獄に閉じ込めていた兄フスローを殺害した[16]

だが、同年にサファヴィー朝カンダハールを占領すると、弟シャフリヤールにその奪還遠征の命令が下され、同時にフッラムの領地の地代の一部が彼に与えられることになった[17]。フッラムはこれに対して父帝に反乱を起こし、アーグラに向かって出陣した。ジャハーンギールはこの反乱を知ると、「フッラムは自分の息子」ではないと名で言い放った[18]。フッラムはアーグラにまで進まなかったものの、ファテープル・シークリーにまでは進軍した[19]

たが、フッラムは帝国の武将マハーバト・ハーンの軍に敗れ、その後は皇帝軍の攻撃に苦しめられた。かつての敵であるマリク・アンバルに援助を得ることに成功したが、依然としてその立場は難しく、1626年にフッラムは降伏した[20]。このとき、彼は皇帝に豪奢な贈り物をしたが、皇帝が決定した条件も飲まされ、デカンにとどまることを要求されたばかりか、二人の息子ダーラー・シコーアウラングゼーブを宮廷に人質として送った[21][22]

父帝の死と即位

シャー・ジャハーンの即位式

同年にマハーバト・ハーンはクーデターにより、ジャハーンギールとヌール・ジャハーンの身柄を手中に収めた[23]。だが、非情になることが出来ず、そればかりか逆にヌール・ジャハーンの軍門に下ってしまった。

その間、同年10月18日に兄パルヴィーズが死亡し、皇位継承者はフッラムとシャフリヤールの二人となった[24][25]。その頃、フッラムはサファヴィー朝の君主アッバース1世のもとに亡命しようとイランへと向かっていたが、デカン地方に戻っていたが、パルヴィーズの死がその時もたらされた[26]

フッラムとマハーバト・ハーンとの間に次の権力闘争が生じたが、マハーバト・ハーンは結果的にフッラムの側に付いた[27][28]。ヌール・ジャハーンはこれを機に2人を排除使用したが、同年10月28日に皇帝ジャハーンギールがカシミールからパンジャーブラホールへ向かう途中死亡し、継承争いも終盤を迎えた[29][30]

フッラムとシャフリヤールはそれぞれ父ジャハーンギールの死に目に居合わせておらず、 居合わせたのはヌール・ジャハーンとアーサフ・ハーンだけであった[31]。アーサフ・ハーンはフッラムの支持を表明してヌール・ジャハーンを幽閉し、フッラムの到着までの時間を稼ぐため、傀儡の皇帝としてダーワル・バフシュ(フスローの息子)を擁立した[32][33]。その後、アーサフ・ハーンはラホールで帝位を宣していたシャフリヤールの軍勢を破り、反乱だとして彼を逮捕した[34][35]

その後、デカンにいたフッラムにもこの知らせが届き、彼はアーサフ・ハーンにダーワル・バフシュらほかの皇子らの捕縛を命じ、デカンからアーグラに戻った[36]

そして、 1628年 1月24日、フッラムはアーグラに入城し、「世界の皇帝」を意味する「シャー・ジャハーン」を名乗った。2月2日、フッラムはシャフリヤール、ダーワル・バフシュとその弟グルシャースプ、叔父ダーニヤールの息子といった皇族の男子5人をラホールで処刑した[37]

2月14日、シャー・ジャハーンはアーグラで即位式を挙げ、帝位を宣した[38]。その即位式は豪華さではかつての皇帝に比肩する者はなく、ヨーロッパの人々はオスマン帝国の皇帝になぞらえて、シャー・ジャハーンを「壮麗王」と称した[39]。 なお、妃のムムターズ・マハルと長女のジャハーナラー・ベーグムをはじめ、皇子や王女にはシャー・ジャハーンの好感度に応じて黄金や現金などの贈り物が送られた[40]

シャー・ジャハーンは即位に際して尽力した者の功績に報いた。アーサフ・ハーンは宰相に任命し、国政を委ねられた[41]。マハーバト・ハーンには「最高のハーン」を意味する「ハーン・ハーナーン」の称号を与えた[42][43]

国内における統治

シャー・ジャハーン

シャー・ジャハーンの治世は、祖父や父の代からのムガル帝国の最盛期とされるが、アクバル以来の帝国の宗教寛容政策が変わり、ヒンドゥー教徒など異教徒の迫害が見られた。 というのは、17世紀前半のムガル帝国では、ムスリムの間でイスラーム復興運動が強まり、ウラマーは厳格なシャリーアの適用を求めるようになったからである[44]

シャー・ジャハーンはヒンドゥー寺院やキリスト教の教会の建築や改修に関して、一定の制限を設けた[45]。1632年にシャー・ジャハーンは新しく建てられたヒンドゥー寺院の破壊と旧寺院の補修を禁じる命令を出し、そのためヴァーラーナシーでは76のヒンドゥー寺院が破壊された。

また、ベンガル方面のチッタゴンフーグリーにいたキリスト教徒のポルトガル人との関係は、彼らが盗みや略奪を働いたりしたため悪化の一途をた度っていた。シャー・ジャハーンは父や祖父の寛容主義を受け継いでいたとはいえ、彼らを甘やかすつもりはなかった。

同年に皇妃ムムターズ・マハルのハーレムにいた2人の女奴隷がポルトガル人の海賊に連れ去られる事件が起きたため、両者の関係が一層悪化した。シャー・ジャハーンはフーグリーにあるポルトガルの商業区を破壊させ、300人に昇るキリスト教徒が捕虜となった[46]。 彼らはアーグラに連行されたのち、イスラーム教の改宗を迫られ、改宗を拒んだものは殺害させた[47]

シャー・ジャハーンの怒りは尋常ではなく、当時のイギリスの旅行家は捕虜たちのその後に関して、「綺麗な女や娘はへハーレムに閉じ込められ、老女やその他の者はアミールに下げ渡された」と記している[48]。シャー・ジャハーンはまたこの事件を機に、ラホールに存在したキリスト教の教会も取り壊させた[49]

シャー・ジャハーン自身もイスラーム教の祭日を祝い、メッカメディナに使節団を9回派遣したものの、上記以外に彼の治世はほとんど宗教対立が見られなかった[50]

ハーン・ジャハーン・ローディーの反乱

ハーン・ジャハーン・ローディーの最期

1629年、シャー・ジャハーンが即位した翌年にアフガン人貴族ハーン・ジャハーン・ローディーが反乱を起こした[51]。ハーン・ジャハーンはジャハーンギールの寵臣であったが、武人として不名誉を犯したのち、デカン総督なっていた。

ハーン・ジャハーンは皇位継承争いの際にシャー・ジャハーンの側に付くことを断り、即位後に宮廷に赴くのに遅参し、宮廷からは疑いの目で見られていた[52]。また、ハーン・ジャハーンは任地で疑わしい行い(アフマドナガル王国との偽りの協定の取り決め、およびそれによる領土喪失)があったとして、帝都に召喚を掛けられていた[53]

結局、同年10月にハーン・ジャハーンは自身の家族や部下2千人、ハーレムを連れて帝都を脱出し、反乱軍となった[54][55][56]。シャー・ジャハーンは追討軍を送ったが、ハーン・ジャハーンは追討軍を引き離し、アフマドナガル王国の首都ダウラターバードにたどり着いた[57]

ハーン・ジャハーンの亡命はアフマドナガル王国の君主らに歓迎され、彼は軍司令官の一人になった。ハーン・ジャハーンは他のアフガン人貴族も加わることを期待していたが、貴族らはシャー・ジャハーンの威厳に敬意を払い、誰も味方しなかった。ハーン・ジャハーンはアフマドナガル王国からも離れ、パンジャーブに移ったが、1631年2月にそこで捕えられた[58][59]

ハーン・ジャハーンは反乱軍とともに虐殺され、間もなく彼とその息子の首がシャー・ジャハーンのもとに届けられた[60][61]。慣例に従い、その首はアーグラの城門にさらされた[62]

デカン地方における領土の拡大

ダウラターバード攻撃を見るシャー・ジャハーン

シャー・ジャハーンの治世、ムガル帝国の勢力はデカンに広がり、帝国の版図はインド内では拡大した。

シャー・ジャハーンはデカン地方で細々と存続していたアフマドナガル王国に対して、親征を開始した。デカン地方は彼の皇子時代に数度の遠征を行った地であり、よく知っていた地であった。シャー・ジャハーンはハーンデーシュのブルハーンプルに滞在していたが、1632年2月にハーン・ジャハーン・ローディーが討伐されると、アフマドナガル王国への遠征を開始した。

1633年4月17日、ムガル帝国の軍はアフマドナガル王国の首都ダウラターバードは包囲、6月4日の総攻撃で落とし、アフマドナガル王国は事実上滅亡した。アフマドナガル王国を滅ぼしたのち、ビジャープル王国とゴールコンダ王国への攻撃に移った[63]

ビジャープル王国はムガル帝国との和平に応じるか応じないかで別れ、陰謀と暗殺が渦巻き、内紛状態に陥っていた。ビジャープル王国の君主はなかなか和平に応じようとしなかったため、帝国軍は3方向から攻撃を行い、ビジャープル王国に壊滅的な打撃を与えた[64]。 ゴールコンダ王国はビジャープル王国が壊滅したことで孤立の色を深め、帝国の要求をのまざるを得なかった[65]

1636年5月にはビジャープル王国とゴールコンダ王国に帝国の宗主権を認めさせ、皇帝の名を刻んだ硬貨を鋳造し使用させ、金曜礼拝も皇帝の名で唱えさせた[66][67]。また、アフマドナガル王国の旧領の分割を行い、北半をムガル帝国に併合し、ビジャープル王国は南半を、ゴールコンダ王国はその一部を併合した。

1630年代、ムガル帝国がデカンに領土を広げた結果、両王国は1565年ターリコータの戦いの敗北によって衰退していた南インドヴィジャヤナガル王国をさらに攻撃するようになり、1649年にヴィジャヤナガル王国はビジャープル王国に滅ぼされた[68]

一方、ビジャープル王国とゴールコンダ王国が事実上の属国となったことでデカン地方は平定されたに等しく、シャー・ジャハーンはアーグラへと帰還した。この一連の遠征により、帝国の領土はデカン地方に大きく広がった。

北西方面・サファヴィー朝との争い

シャー・ジャハーンとアリー・マルダーン・ハーン

しかし、北西方面ではデカンとは違い帝国の領土拡大は厳しく、領土は減少する結果となった。シャー・ジャハーンは祖先の夢でもあったサマルカンド奪還を成し遂げようとしたことに起因していた[69]

また、中央アジアブハラ・ハーン国では、1598年シャイバーニー朝アブドゥッラー・ハーン2世が死亡したのち内乱が起き、1599年には新たにジャーン朝が成立した。ムガル帝国はジャーン朝と最初は友好関係にあったが、シャー・ジャハーンの治世になると、ジャーン朝は帝国領アフガニスタンのカーブルを攻撃するようになった。

シャー・ジャハーンは1646年に息子ムラード・バフシュに指揮権を託してバルフバダフシャーンに出兵し、両地域を占領した。だが、ウズベク人の抵抗も強く、1647年に撤退を余儀なくされ、カーブルの北方数キロメートルにのみしか領土を広げられなかった[70]

一方、ムガル帝国とサファヴィー朝の係争地であるアフガニスタンの主要都市カンダハールは、1622年以来サファヴィー朝の領土であった。だが、1637年にサファヴィー朝のカンダハール長官アリー・マルダーン・ハーンがムガル帝国側につき、カンダハールは帝国領となった[71]

サファヴィー朝は上記のウズベクとの争いによる混乱を見て、帝国領アフガニスタンに侵攻し、1649年にカンダハールを占領した[72]。シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに奪還を命じたが、同年と1652年の2度にわたる攻撃にもカンダハールは耐え、作戦は失敗に終わった。

1653年にシャー・ジャハーンはカンダハール奪回のため、息子ダーラー・シコーを派遣した。だが、カンダハールの奪回はできず、二度とこの地が帝国領となることはなかった[73]

拡大した帝国とその統治

ダルバール中のシャー・ジャハーン

シャー・ジャハーンの治世、北西方面ではアフガニスタンのカンダハールを失うなど領土は縮小したが、デカンにおいてはその領土を拡大した[74]。また、北のガルワール地方バルーチスターン地方を支配し、北東には数次の遠征を行ってブラフマプトラ川下流域まで制圧、アッサム地方アーホーム王国が臣従したのもこの頃である[75]

シャー・ジャハーンの治世、東はアッサムから西はアフガニスタン北部、北はチベット高原の南端、南はデカン高原中央部にまで領土を広がり、皇帝は臣下とともにこれらを支配した[76]。このため、シャー・ジャハーンの時代に帝国の歳入はアクバル時代の2倍となった[77]。ただし、これに関しては領土の拡大のみならず、農業生産の向上も上げられる[78]

帝国の領土拡大は貴族の数にも反映され、1640年代になると貴族の数はアクバル時代の2倍、443人の上った[79]。そのうち73人の最高位の貴族が帝国の歳入37%を管理し、シャー・ジャハーンの4人の息子は8.2%を管理していた。また、帝国上層部の貴族20%がヒンドゥー教徒で、73人がラージプート、10人がマラーターの人物であった[80]。マラーターが帝国の貴族層に加わっていたっということは、デカン地方で帝国の領土を拡張したことに成功したということであった、と歴史家フランシス・ロビンソンは述べている[81]

皇帝と貴族の関係においては、シャー・ジャハーンはディーニ・イラーヒーの宗教を尊重したが、それに基づく「皇帝の信者」という考え方に終止符が打たれ、新たに「皇帝の子孫」という考え方が広まった[82]。帝国の貴族らは息子が生まれると、皇帝に贈り物を送り、その息子の名をつけるように頼んだ[83]。そうしたなかで、貴族らは皇帝への忠誠心のみならず、武勲、ペルシア式の礼儀作法、教養人の必要とする美術の知識にも重点を置いた[84]

シャー・ジャハーンの治世には、莫大な資金が軍事行動や建設事業などにつぎ込まれたが、それでも治世の初めから蓄えられた準備金が9500万ルピーあった。そのうち、半分は硬貨、半分は宝石であった[85]

インド・イスラーム文化の保護者として

孔雀の玉座に座るシャー・ジャハーン

シャー・ジャハーンの時代、インド・イスラーム文化は黄金期を迎え、特に建築分野ではその華が咲いた。シャー・ジャハーンは自分の権威を表現するため、帝国の財源を多数の建築や美術につぎ込んだ。

その一つに、1628年に彼が即位に際して作成を命じた「孔雀の玉座」があり、その材料に860万ルピー分の宝石と140万ルピー分の金が使用され、7年の歳月をかけて1635年に完成した[86]。王座の表面にはダイヤモンドルビーサファイアエメラルドなどの宝石が惜しまなく使われ、その天蓋の中央にはサファヴィー朝のアッバース1世からジャハーンギールに送られた特大のルビーが使用されていた[87]。歴史家イナーヤト・ハーンはこのルビーについて、ティムールシャー・ルフウルグ・ベグシャー・アッバースの名と共に、アクバル、ジャハーンギール、そして自身の名も刻まれていた、と語っている[88]

また、同じ1635年にシャー・ジャハーンは宮廷のムガル絵画の画家に命じて、自らの業績のついての押絵入りの史書「パードシャー・ナーマ」を作成している。この作品の一巻は現存しており、現在はイギリスのウィンザー城王立図書館に収蔵されている[89]。だが、この作品にはシャー・ジャハーンが熱中したことや興味を抱いたことは記されておらず、押絵は勝利した戦いや宮廷儀式をただただ描いているだけである[90]

さらに、シャー・ジャハーンはラホールやアーグラでは満足がいかず、1639年4月からデリーに新区域であるシャー・ジャハーナーバード(現オールドデリー)の建設を着工した。皇帝の居城であるデリー城(レッド・フォート)や市街地が建設され、1648年4月にシャー・ジャハーンは完成したこの新都には入城した[91]。この新都の城内には57000人の人が住み、城壁の外は2590ヘクタールの市街地で、およそ40万人の市民が暮らしたとされる。ただし、シャー・ジャハーン自身はデリーとアーグラを行き来していた。

タージ・マハル

シャー・ジャハーンは愛妃ムムターズ・マハルと非常に仲睦まじく、常に活動を共にしていた。彼らは14人の子供をもうけ、そのうち7人が成人した。だが、1630年6月に愛妃ムムターズ・マハルが産褥熱で死亡し、シャー・ジャハーンはかつてない悲しみに襲われた[92]

シャー・ジャハーンの顎鬚は20本ほどしか白髪がなかったが、すぐに真っ白になり、死後一週間のうちは国事行為を執り行わなかった[93]。宮廷の歴史家サイード・ムハンマド・ラティーフが「憂鬱に沈んですっかり変わり果てた」と伝えるように、シャー・ジャハーンはそれ以降華美な服ではなく白い服を着用し続け、楽曲なども遠ざけ続けたという[94]。また、情熱的に精力を政治にもあまり関心を持たなくなった[95]

2年後の1632年以降、シャー・ジャハーンはムムターズ・マハルの死を悼むために壮麗な墓廟タージ・マハルの建設事業に取りかかる。実に20年前後の歳月をかけ、1654年ごろ完成した。この墓廟はビジャープル王国のイブラーヒーム・アーディル・シャー2世の墓廟「イブラーヒーム・ラウザ」が参考にされたと言われ、東方イスラーム世界全域の職人が集まって設計に携わり、巨費と膨大な労力が注ぎ込まれた。タージ・マハルは巨大で、一辺57メートル四方の土台の上に58メートルの高さの中央ドームと42メートルのミナレット4本が立ち、それらすべての外壁が象嵌彫刻の施された白大理石で覆われ、まさにシャー・ジャハーンの権威の象徴だった。

一説にはタージ・マハルは現存する白大理石のものに加えて黒大理石の廟がヤムナー川をはさんで建てられ、その二つを大理石の橋でつないだ壮観な廟となる予定であったともいわれている。だが、白い廟ができ上がった後にシャー・ジャハーン自身が病気になり、後述の帝位継承争いの末に第3皇子のアウラングゼーブによって幽閉されてしまったために、黒い廟はでき上がらなかった。

重病と皇位継承戦争の勃発

晩年のシャー・ジャハーン

1657年9月、シャー・ジャハーンはデリーで重病となり、一週間以上生死の境をさまよった[96]。その理由はムムターズ・マハルの死後、事実上一夫一妻婚の状態から解放され、好色にふけるようになってしまった。多数の側室と臣下の妻と関係を持ち、年に一度は女性の品定めをする市を開いた。20年以上にわたりこのような生活を続けていたさなか、シャー・ジャハーンは催淫剤の服用によって体を壊したのであった[97]

シャー・ジャハーンはダーラー・シコーが付き添って看病したため、なんとか回復することに成功した[98]。回復後、シャー・ジャハーンはデリーからアーグラへと移り、ダーラー・シコーに帝位を譲ろうとしたものの、ダーラー・シコーは固辞した[99]。一方、その重病は死病だという話が各地に伝わり、シャー・ジャハーン存命にも関わらず、4人の皇子による皇位継承戦争が幕を開けたのである[100]

シャー・ジャハーンの長男ダーラー・シコーは帝国の皇太子であった。有能な学者でもあり、ヒンドゥー教とイスラーム教との共通点を見つけ、スーフィーイエズス会士とも面会するなど宗教寛容の立場をとった[101]。ダーラー・シュコーはヒンドゥー教とイスラーム教の本質は同じだとし、ヒンドゥー教の聖典ヴェーダの一部ウパニシャッドをペルシア語に翻訳し、6冊の著書があった[102]。また、文化に興味をもち、ムガル絵画やヒンドゥスターン音楽の保護者でもあった。シャー・ジャハーンはダーラー・シコーを最も愛し、ほかの息子を地方に送ったのとは違い、彼を自分の側から離そうとしなかった[103]

シャー・ジャハーンの三男アウラングゼーブはデカン総督を務めていた。彼はダーラー・シコーとは対立する思想を持ち、イスラーム教スンナ派の熱烈な支持者で、信仰心にあつかった[104]。アウラングゼーブはダーラー・シコーが帝国からイスラーム教を排斥しようとしているのではないかと恐れていた[105]。また、アウラングゼーブは父がダーラー・シコーを偏愛していることに強い不満を抱いていた[106]

シャー・ジャハーンの次男シャー・シュジャーはベンガル太守を務め、四男ムラード・バフシュはグジャラート太守を務めていた[107]。彼らは有能な人物ではあったが、前者は昼も夜も遊びほうけており、後者は武勇に優れてはいたものの判断力を欠き、快楽を追い続ける人間であった[108]

また、シャー・ジャハーンの2人の皇女もそれぞれ帝位継承候補に加担し、陰ながら争いに参加した。ジャハーナーラー・ベーグムはダーラー・シコーに味方し、ラウシャナーラー・ベーグムはアウラングゼーブに味方した[109]

止められぬ争い

シャー・ジャハーンとダーラー・シコー
アウラングゼーブ

シャー・シュジャーはほかの兄弟より先に行動し、父帝の病気に回復の見込みがないと考えて11月に帝位を宣し、その名を刻んだ硬貨を鋳造し、デリーへと進軍した[110]。ムラード・バフシュも帝位を宣し、スーラトの城塞で得た略奪品により財を得て、彼もデリーへと向かった[111]

アウラングゼーブはほかの兄弟より慎重で、自分の優位が決まるまで動かなかった。頃合いを見て、弟のムラード・バフシュに自分がこの皇位継承戦争に勝利すれば、パンジャーブ、カシミール、シンド、アフガニスタンを与えると約束して同盟した[112]

シャー・ジャハーンもこのころに回復したが遅く、1658年2月にダーラー・シュコーの息子スライマーン・シコーがシャー・シュジャーの軍を破った。同月アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍は皇帝の派遣した軍を破った[113]

だが、シャー・ジャハーンはスライマーン・シコーにつき従ったジャイ・シングに対して、 絶体絶命に陥らぬ限り戦端を開かないことを命じていた[114]。それはシャー・ジャハーンの病気の結末を見届け、アウラングゼーブとムラード・バフシュの不首尾を見定めた暁のために戦力を温存しておくように命令していた[115]

1658年4月15日、ダーラー・シコーの軍はアウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍とウッジャイン近郊のナルマダー川を挟んで戦闘を行った(ダルマートプルの戦い[116]。戦闘は最初の方はジャスワント・シングの奮闘により、ダーラー・シコー軍の方が優勢だったが、ムラード・バフシュの勇猛さに怯えたカーシム・ハーンが逃げ出すこととなり、ジャスワント・シングも大勢の部下が死亡したことで撤退せざるを得なかった[117]

ダーラー・シコーはこれに怒り狂い、激しく激怒した彼はアウラングゼーブのミール・ジュムラーが兵力や大砲、軍資金を提供したとして、人質であるその息子ムハンマド・アミール・ハーンを殺してやりたいとまで言った[118]。だが、シャー・ジャハーンがなだめようとしたため、これは実行されなかった[119]

シャー・ジャハーンはダーラー・シコーの軍が負け、アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍がアーグラに進軍していることを知ると、国の戦力をすべてダーラー・シコーに任せることに同意せざるを得ず、武将ら全員には彼に従うように命じた[120]。ダーラー・シコーの軍はアウラングゼーブの軍のように長距離の移動による疲労もなく、大砲の数もはるかに多かったが、彼に有利な予想をする者はいなかった[121]

なぜなら、ダーラー・シコーは軍を指揮する能力に欠き、軍人らには不人気であり、彼の軍勢において最も強力な武将ジャイ・シングはスライマーン・シコーとともにアーグラに向かって行軍中であったからだ[122]。ダーラー・シコーの側近のみならずシャー・ジャハーンまでもが、息子スライマーン・シコーの軍が合流するまで時間稼ぎをし、危険な戦いは避けた方がよいのではないか、と忠告した[123]

また、シャー・ジャハーンは自ら出陣することも提案したが、ダーラー・シコーはこれも拒否した[124]。ダーラー・シコーはアーグラを出る前にシャー・ジャハーンに会い、シャー・ジャハーンは目に涙を浮かべながら、厳しい口調でこう言った[125]

「それではダーラー、何事も自分で決めたとおりに運びたいなら、行くがよい。神の祝福がお前がお前の上にあるように。だが、この短い言葉だけはよく覚えておけ。もし、戦いに負けたら、二度と私の前に出てこないように気を付けるのだ」

サムーガルの戦いとアウラングゼーブの即位

サムーガルの戦い

こうして、6月8日にダーラー・シコーの軍アウラングゼーブとムラード・バフシュの連合軍とアーグラ付近サムーガルで激突した(サムーガルの戦い[126]。シャー・ジャハーンは戦いが始まる3,4日前までずっと、彼にスライマーン・シコーが到着するまで待ち、その間に陣地を築く有利な場所を選ぶように手紙で伝えていた[127]

だが、ダーラー・シコーは緒戦では有利だったものの、武将の一人に騙され、結果的に軍は壊走し、アウラングゼーブとムラード・バフシュの勝利に終わった。ダーラー・シコーはシャー・ジャハーンに会おうとアーグラに向かったが、父の厳しい言葉を思い出して、会おうとはしなかった[128]。ダーラー・シコーは父に使いを出す気もなく、姉ジャハーナーラー・ベーグムに何度か使いをだし、アーグラから逃げた[129]

シャー・ジャハーンはダーラー・シコーを見捨てず、一人の信頼できる宦官を使者に、スライマーン・シコーと合流することを助言し、希望を捨てないよう諭させた[130]。そればかりかデリーに行くように言い、デリーにある王宮の厩舎には1000頭ほどの馬がいるので、そこの司令官に象と軍資金を用意させるよう命じるとさえ言った[131]

だが、シャー・ジャハーンの予想に反し、スライマーン・シコーの軍勢は自壊したため、ダーラー・シコーがスライマーン・シコーと合流することはなかった。ダーラー・シコーはラホールへ、スライマーン・シコーはシュリーナガルへと向かい、それぞれ勢力を立て直そうとした[132]

サムーガルの戦いから数日後、アウラングゼーブとムラード・バフシュはアーグラ市内に入城した[133]。アウラングゼーブはシャー・ジャハーンに使者を送り情愛と服従の意を伝え、自分はただ父の指図を仰ぐためにここにいるのだとした[134]。シャー・ジャハーンは自分の想像以上に物事が進行しているのを危惧し、またアウラングゼーブが帝位に対してただならぬ野心を持っていることも知っていたので、この言葉を真にうけなかった[135]

シャー・ジャハーンはまた、アウラングゼーブに対して自身のところに挨拶に来るように 命じていたが、アウラングゼーブはその日が来ると翌日に、一日一日と予定を伸ばした[136]。アウラングゼーブはシャー・ジャハーンのそばにはジャハーナーラー・ベーグムがそばにいて、その指示通りに動いていると考えており、逆に自身が捕えれるのではないかと警戒していた[137]

このように膠着状態が続く中、アウラングゼーブはシャー・ジャハーンに面会するとして、代理として長男スルターンをアーグラ城に送った[138][139]。スルターンは番兵をはじめ城にいる者たちを容赦なく追い立て、その大勢の部下がなだれ込み城壁を占拠した[140]。シャー・ジャハーンはスルターンの本心を探るため、「もしお前が私に忠誠心を持ち、私に仕えるならお前を王にしよう、」と王冠とコーランにかけて約束した[141]。だが、スルターンにそのような勇気もなく、また自身の方が監禁されるのではないかと恐れたためシャー・ジャハーンには会わず、父アウラングゼーブの命で来たのだと伝えた[142]

6月22日、アウラングゼーブが任命したアーグラ城の司令官イティバール・ハーン はシャー・ジャハーンをジャハーナーラー・ベーグムらの女性とともに城の奥に幽閉し、多くの門を囲いによって塞いだ[143][144]。また。シャー・ジャハーンは誰とも文通を行えぬようにし、許可なしに居室から出ることも禁じられた[145]

アウラングゼーブは父に短い手紙を書き、「シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに大層情愛を感じていると言うが、ダーラー・シコーにルピー金貨を積んだ2頭の象を送ってい体勢を立て直させようとしている。(略)この兄こそが不幸の原因であり、始めから父に会いに行っただろうし、よい息子に期待できる孝行を父に尽くしただろう」と述べた[146]。フランソワ・ベルニエによると、シャー・ジャハーンがルピー金貨を積んだ2頭の象を送ったのはダーラー・シコーが退去したその夜のことで、アウラングゼーブはシャー・ジャハーンがダーラー・シコーに宛てた手紙を何通か差し押さえたと述べている[147]

アウラングゼーブはこうしてシャー・ジャハーンを捕虜にし、貴族らを味方に付け、城内の国庫と大量の爆薬を得た。アウラングゼーブはシャーイスタ・ハーンにアーグラを任せ、ムラード・バフシュとともにダーラー・シコー追討のためにアーグラから出発した[148]

その後、アウラングゼーブはムラード・バフシュともに歩調を合わせてデリーに向けて進軍していたが、ある夜マトゥラーで宴会を開いた[149]。アウラングゼーブは裏切って、酒によって寝ていたムラード・バフシュを捕らえ、弟の軍を自分の軍に加えた[150]

そして、7月31日にアウラングゼーブはデリーで即位式を挙行し、帝位を宣した[151]。彼は「世界を奪った者」を意味する「アーラムギール」を名乗ったが、これは「シャー・ジャハーン」の意味が「世界の皇帝」であっったことに関係していると考えられる。

ダーラー・シコーの処刑と晩年

晩年のシャー・ジャハーン
シャー・ジャハーンの死

ダーラー・シコーはラホールやムルターン、グジャラートを転々とし、1659年3月にアウラングゼーブにアジメールで敗れたのち、イランのサファヴィー朝へ亡命しようとした。だが、6月にダーラー・シコーは裏切りにあって捕えられ、息子シピフル・シコーとともにデリーへ送られた[152][153]

9月、アウラングゼーブはダーラー・シコーとシピフル・シコーの処遇に関して皇族・貴族らと議論した[154][155]。ダーラー・シコーはイスラーム教に背教したとして多くの貴族が処刑に賛成し、特にラウシャナーラー・ベーグムはその死刑に強固に賛成した。その結果、ダーラー・シコーは処刑、シピフル・シコーは死一等を免じてグワーリヤル城に幽閉となった[156][157]

その翌日、ダーラー・シコーはデリーで処刑され、さらにその遺体をデリー市中で引き回したのち、シャー・ジャハーンのもとにその首を送りつけた[158]。イタリア人旅行家ニコラエ・マヌッチは、シャー・ジャハーンが愛する息子ダーラー・シュコーの首を見たときの衝撃を物語っている[159]

「(シャー・ジャハーンは)一度だけ叫びを発すると、前のめりに倒れこみ、顔を食卓に打ちつけた。その拍子に顔が金の食器にぶつかり、歯が何か折れてしまった。だが、皇帝は死んだように打ち伏せたままだった」

他の息子らもまた同様の運命をたどった。シャー・シュジャーは1659年1月に敗北したのち、ビルマアラカン王国へと逃げたが、1661年2月に王国の乗っ取りに失敗したためジャングルで殺害された。ムラード・バフシュはグワーリヤル城に幽閉されたのち、1661年に脱出計画が発覚したため、アウラングゼーブの命により処刑された。

一人生き残った廃帝シャー・ジャハーンは、1658年以降アーグラ城に幽閉され、タージ・マハルの見える部屋から見続ける生活を送ることとなった。

1652年以降、シャー・ジャハーンはアウラングゼーブに一度も面会していなかったが、手紙のやりとりはしており、それは廃位後も続いた[160]。だが、アウラングゼーブ手紙の内容はやはりダーラー・シコーに対する偏愛への不満で、父帝が兄を溺愛したのに自分を愛さなかったといった内容の、横柄な口調の不平書きだった[161]

また、シャー・ジャハーンは、アウラングゼーブに個人の宝石を取り上げられたりしたため、彼の所持するヴァイオリンの修理や、まともな上履きを手に入れる程度の金にも苦労するほどの、不自由な生活を強いられた。[162]

しかし、シャー・ジャハーンは長女ジャハーナーラー・ベーグムといった王室の女性たちに囲まれて、孤独な晩年を過ごすことはなかった[163]。特に長女のジャハーナーラー・ベーグムは親身になって世話をし続けた。

1666年2月1日、シャー・ジャハーンは皇位継承戦争時の病が再発したことにより死亡した[164]。とはいえ、シャー・ジャハーンは死の間際、長女のジャハーナーラー・ベーグムに説得され、アウラングゼーブを許す書面に署名している[165]

シャー・ジャハーンの遺体は慣習に従い、王宮の壁が破られたのち、その破れ目から川の船に移された。そして、その遺体は川を渡って愛妃の眠るタージ・マハルに運ばれ、ムムターズ・マハルの遺体の横に安置された[166]

家族

ギャラリー

脚注

  1. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227
  2. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.217
  4. ^ Delhi 6
  5. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.214
  6. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.214
  7. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  8. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  9. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  10. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.169
  11. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.169
  12. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.170
  13. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.170
  14. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  15. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.171
  16. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p215
  17. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  18. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.174
  19. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.174
  20. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  21. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.215
  22. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.171
  23. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175
  24. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175
  25. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p216
  26. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175
  27. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216
  28. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175
  29. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216
  30. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175
  31. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.175
  32. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.176
  33. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216
  34. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.176
  35. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p216
  36. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216
  37. ^ Delhi 6
  38. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.216
  39. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185
  40. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185
  41. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185
  42. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.185
  43. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190
  44. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  45. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218
  46. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218
  47. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.192
  48. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.192
  49. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、pp.192-193
  50. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219
  51. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218
  52. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  53. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218
  54. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218
  55. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190
  56. ^ Death of Khan Jahan Lodhi
  57. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190
  58. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.218
  59. ^ Death of Khan Jahan Lodhi
  60. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190
  61. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  62. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190
  63. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.195
  64. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.195
  65. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.196
  66. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p219
  67. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.196
  68. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  69. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  70. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  71. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.197
  72. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  73. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  74. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  75. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.219
  76. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  77. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  78. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  79. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  80. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  81. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  82. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  83. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  84. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  85. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.220
  86. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.221
  87. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.221-224
  88. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.224
  89. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.224
  90. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.224
  91. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.225
  92. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190
  93. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.191
  94. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.190
  95. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.191
  96. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218
  97. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.227
  98. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218
  99. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218
  100. ^ クロー『ムガル帝国の興亡』、p.218
  101. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  102. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  103. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  104. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  105. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  106. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  107. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  108. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  109. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  110. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.61
  111. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.228
  112. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.229
  113. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p229
  114. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.60
  115. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.60
  116. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.65-66
  117. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.66
  118. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.70
  119. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.70
  120. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.71
  121. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.72
  122. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.72
  123. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.73
  124. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.73
  125. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.76より引用
  126. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p230
  127. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.77
  128. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91
  129. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91
  130. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91
  131. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.91
  132. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.95
  133. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.95
  134. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.95
  135. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.95-96
  136. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97
  137. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97
  138. ^ Delhi 6
  139. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97
  140. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.97
  141. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.98
  142. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.100
  143. ^ Delhi 6
  144. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101
  145. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101
  146. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101
  147. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.101
  148. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.104
  149. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.104-105
  150. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.230
  151. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.227
  152. ^ Delhi 6
  153. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.142
  154. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、pp.145-146
  155. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.233
  156. ^ ベルニエ『ムガル帝国誌(一)』、p.147
  157. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.233
  158. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.233-234
  159. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234より引用
  160. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234
  161. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234
  162. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234
  163. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234
  164. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234
  165. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234
  166. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.234

参考文献

  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。ISBN 978-4422215204 
  • フランソワ・ベルニエ 著、関美奈子 訳『ムガル帝国誌(一)』岩波書店、2001年。 
  • アンドレ・クロー 著、杉村裕史 訳『ムガル帝国の興亡』法政大学出版局、2001年。 
  • S・スブラフマニヤム 著、三田昌彦、太田信宏 訳『接続された歴史 インドとヨーロッパ』名古屋大学出版会、2009年。 
  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 

関連項目

外部リンク

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