ネクシヤル
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ネクシヤル Nekusiyar | |
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ムガル帝国対立皇帝 | |
ネクシヤル | |
在位 | 1719年5月19日 - 8月13日 |
戴冠式 | 1719年5月19日 |
別号 | パードシャー |
全名 | ムハンマド・ネクシヤル |
出生 |
1679年10月6日以前 |
死去 |
1723年4月12日 デリー、サリームガル城 |
埋葬 | デリー、クトゥブッディーン・バフティヤール・カーキー廟 |
王朝 | ムガル朝(ティムール朝) |
父親 | アクバル |
母親 | サリーマ・バーヌー・ベーグム |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
ネクシヤル(ヒンディー語:नेकुसियार, Nekusiyar, 1679年10月6日以前 - 1723年4月12日)は、北インド、ムガル帝国の対立君主(在位:1719年)。シャー・ネクシヤル(Shah Nekusiyar)とも呼ばれる。父は第6代君主アウラングゼーブの四男アクバル。
生涯
[編集]1679年10月6日、ムガル帝国の皇子アクバルとその妃サリーマ・バーヌー・ベーグムとの間に生まれた[1]。
1681年、父アクバルが祖父である皇帝アウラングゼーブに反乱を起こし、マラーター王国へと逃げたため、ネクシヤルはアーグラ城に幽閉された[1]。以来、40年近く幽閉生活が続いた。
1719年5月19日、ネクシヤルはアーグラの知事ビールバルによって長い幽閉生活を解かれ、対立皇帝として擁立された[1]。理由はデリーで皇帝ラフィー・ウッダラジャートを擁するサイイド兄弟に対抗するためであった。
だが、8月13日にアーグラはデリーの軍勢に占領され、ビールバルの政権は崩壊し、ネクシヤルは捕えられてしまい、デリーのサリームガル城に幽閉されることとなった[1]。
1723年4月12日、ネクシヤルはサリームガル城で幽閉されたまま死亡した[1]。
家族
[編集]后妃・子女なし