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「大鷹 (空母)」の版間の差分

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{{Infobox 艦艇
<div class="thumb tright">
|名称 = 春日丸 / 大鷹
{| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff"
|colspan="2" align="center"|[[Image:Japanese aircraft carrier Taiyō cropped.JPG|300px|]]
|画像 = Japanese aircraft carrier Taiyō cropped.JPG
|画像説明 = 大鷹(1943年9月30日、横須賀)<ref>[[#海軍艦艇史3]]p.162</ref>
|-
|運用者 = {{navy|Empire of Japan}}
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴
|建造所 = [[三菱重工業]][[長崎造船所]](客船建造)<ref name="中川1994" /><br />[[佐世保海軍工廠]](空母改造)<ref name="中川1994" />
|-
|計画 =
|起工||[[1940年]][[1月6日]]
|発注 =
|-
|起工 = [[1940年]](昭和15年)[[1月6日]]<ref name="中川1994">中川努「主要艦艇艦歴表」[[#日本海軍全艦艇史]]資料篇p.7</ref>
|進水||[[1940年]][[9月19日]]「春日丸」として進水
|進水 = 1940年[[9月19日]]春日丸として進水<ref name="中川1994" />
|-
|就役||[[1941年]][[9月5日]]特設航空母艦として竣工
|竣工 = [[1941年]](昭和16年)[[9月5日]]特設航空母艦として竣工<ref name="中川1994" />
|就役 = [[1942年]](昭和17年)[[8月31日]]航空母艦籍に編入、大鷹に改名<ref name="S17達244号" />
|-
|退役 =
|その後||[[1942年]][[8月31日]]航空母艦籍に編入「大鷹」に改名
|除籍 = [[1944年]](昭和19年)[[10月10日]]<ref name="S19内令1165号" />
|-
|沈没||[[1944年]][[8月18日]]
|最後 = 1944年[[8月18日]]沈没<ref name="中川1994" />
|母港 = 佐世保<ref name="S16内令471号" />
|-
|建造費 =
|除籍:||[[1944年]][[10月1日]]
|改名 = 春日丸 → 大鷹<ref name="S17達244号" />
|-
|要目注記 = 特記無きは計画
!colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元
|種別 = 特設航空母艦<ref name="S16内令471号" /> → [[航空母艦]]<ref name="S17内令1614">[[#内令昭和17年8月(3)]]p.45「内令第千六百十四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎  軍艦、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、大鷹、雲鷹」ヲ加フ」</ref>
|-
|クラス = [[大鷹型航空母艦|大鷹型]]
|[[排水量]]||基準:17,830t 公試:20,000t
|基準排水量 = 17,830[[トン|英トン]]<ref name="Ippan-p4">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.4</ref>
|-
|公試排水量 = 20,000トン<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621">[[#船舶]]621頁</ref>
|全長||180.24m
|満載排水量 = 21,262.80トン<ref name="Ippan-p57">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.57</ref>
|-
|全長 = 180.24m<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621"/>
|水線幅||22.5m
|水線長 = 約173.70m<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621"/>
|-
|垂線間長 = 168.00m<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621"/>
|全幅||
|全幅 = 23.70m<ref name="Ippan-p4" />
|-
|水線幅 = 22.50m<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621"/>
|吃水||8.00m (公試状態)
|吃水 = 公試平均 8.00m<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621"/><br />満載平均 8.26m<ref name="Ippan-p4" />
|-
|飛行甲板||長さ:162.0m x 幅:23.5m
|深さ = 23.50m(飛行甲板まで)<ref name="Ippan-p4" />
|飛行甲板 = 長さ:162.0m x 幅:23.5m<ref name="海軍造船技術概要p296">[[#海軍造船技術概要]]p.296</ref><ref group="注釈">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.4によると計画では幅23.7m</ref><!-- <br />(飛行甲板延長無し) --><br />エレベーター(13x12m)2基<ref name="senpaku621"/><ref name="Ippan-p46">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.46</ref>
|-
|推進 = 2軸 x 140[[rpm (単位)|rpm]]<ref name="Ippan-p35">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.35</ref>、直径5.000m<ref name="海軍造船技術概要p1678">[[#海軍造船技術概要]]p.1678</ref>
|主缶||三菱式水管缶4基
|主機 = 三菱ツェリー式(高低圧<ref>[[#昭和造船史1]]pp.780-781</ref>)タービン2基<ref name="senpaku621"/><ref>[[#日本航空母艦史]]p.64</ref>
|-
|出力 = 25,200[[馬力|hp]]<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621"/>
|主機||三菱ツェリー式タービン2基2軸 25,200hp
|ボイラー = 三菱式水管缶4基<ref name="Ippan-p35" /><ref name="senpaku621"/><br />補助缶2基<ref name="Ippan-p35" />
|-
|速力 = 計画 21.0[[ノット]]<ref name="Ippan-p4" /><ref name="速力・航続距離" group="注釈">[[#海軍造船技術概要]]p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。</ref><br />1944年5月調査 21.63ノット<ref name="あ号作戦前後調査表B">「あ号作戦前後の対空兵装強化と戦訓改正」表B あ号作戦直前に空母の最大速力、航続距離、満載重油搭載量(昭和19年5月調査)、[[#日本空母物語]]p.417</ref>
|速力||21.0[[ノット]]
|燃料 = 計画 2,250トン<ref name="Ippan-p4" /><br />1944年5月調査 2,273トン<ref name="あ号作戦前後調査表B" />
|-
|航続距離 = 計画 8,500[[カイリ]] / 18ノット<ref name="Ippan-p4" /><ref name="senpaku621"/><ref name="速力・航続距離" group="注釈" /><br />1944年5月調査 8,538カイリ / 18ノット<ref name="あ号作戦前後調査表B" />
|航続距離||18ktで8,500浬
|乗員 = 定員 747名(1941年4月26日)<ref name="senpaku621"/><ref>[[#内令昭和16年4月(5)]](C12070150500)画像39、内令第四百三十九號 特設艦船部隊定員令中左ノ通改正セラル 昭和十六年四月二十六日 海軍大臣及川古志郎 特設航空母艦定員表ヲ別表ノ如ク改ム(別表二葉添)。同画像42、特設航空母艦定員表 其ノ二 春日丸級、(詳細略)計 士官37人、特務士官25人、准士官31人、下士官187人、兵467人。[[#内令昭和16年4月(6)]](C12070156500)画像1、画像4も同一内容</ref>
|-
|搭載量 = 九一式魚雷 36本<ref name="Ippan-p12">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12</ref><br />爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個<ref name="Ippan-p31">「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.31</ref><br />飛行機用軽質油 190トン<ref name="Ippan-p57" />
|乗員||747名
|兵装 = '''竣工時'''(春日丸)<ref name="田村2007p180">[[#田村2007]]p.180。「『官房機密第七一六二号』(一七・六・一〇)「特設航空母艦春日丸に二五ミリ機銃装備の件訓令」は、(中略)「記 佐世保工廠をして主題の件左記に依り施行せしむべし。一、工事要領 (イ)現装備の一三ミリ四連装機銃二基を二五ミリ二連装機銃二基と換装すると共に之に関連する工事 (ロ)三番、四番一二センチ高角砲装備予定位置(砲架装備)に二五ミリ三連装機銃各一基を仮装備すると共に之に関連する工事(以下略)」</ref><br />[[四五口径十年式十二糎高角砲|12cm単装高角砲]]4基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm連装機銃]]2基<br />[[九三式十三粍機銃|13mm4連装機銃]]2基<br />'''最終時'''<ref name="艦船要目概要一覧表">[[#田村2004]]p.115、「『艦船要目概要一覧表』(艦政本部総務部総務課総務第二課調査 一九年七月一日)には、大鷹と雲鷹の要目の概要が記載されている。(以下略)」</ref><br />12cm単装高角砲4基<br />25mm3連装機銃8基<br />同連装機銃2基<br />同単装機銃20挺<br />九五式爆雷8個
|-
|搭載艇 = 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻<ref name="Ippan-p46" />
|兵装<br />(竣工時)||12cm単装高角砲4基<br />25mm連装機銃2基<br/>13mm4連装機銃2基
|搭載機 = 計画(常用+補用)<ref name="senpaku621"/><ref name="海軍造船技術概要p296" /><br />[[零式艦上戦闘機]] 9+2機<br />[[九七式艦上攻撃機]] 14+2機<br />合計23+4機
|-
|レーダー = 最終時:[[21号電探]]1基<ref name="艦船要目概要一覧表" />、[[13号電探]]2基(推定)<ref>[[#田村2004]]p.116</ref>
|搭載機<br />(常用+補用)||[[艦上戦闘機]] 9+2機<br />[[艦上攻撃機]] 14+2機<br /> 合計23+4機
|ソナー = 最終時:水中聴音機1基<ref name="艦船要目概要一覧表" />
|-
|その他 = [[バラスト]]搭載量<ref name="senpaku621"/><br/>固定バラスト:1,600t<br/>真水:1,055t<br/>重油:1,200t
|}
|備考 =
</div>
}}
'''大鷹'''(たいよう)は、旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[航空母艦]]。[[大鷹型航空母艦]]の一番艦。
'''大鷹'''(たいよう)は、[[大日本帝国海軍]]の[[航空母艦]]<ref name="S17達244号">[[#達昭和17年8月]]p.39「達第二百四十四號 特設航空母艦春日丸及八幡丸ヲ帝国艦艇籍ニ編入シ左ノ通命名セラル|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦 大鷹(タイヨウ) (特設航空母艦 春日丸)|軍艦 雲鷹(ウンヨウ) (特設航空母艦 八幡丸)」</ref>。


== 建造 ==
== 概要 ==
[[軍艦]](ぐんかん)'''大鷹'''(たいよう)は、日本海軍の航空母艦<ref name="空母29隻324大鷹">[[#空母二十九隻]]324頁「大鷹(たいよう)」</ref>。[[大鷹型航空母艦]]の[[ネームシップ|1番艦]]<ref>[[#編制(昭和19年1月31日現在)]]p.4「艦艇類別等級別表|軍艦|航空母艦|大鷹型|大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹」</ref>。[[日本郵船]]の新田丸級貨客船三番船'''春日丸'''(かすがまる)を、建造中に空母へ改造した艦艇である<ref name="特設入門55">[[#大内、特設|特設艦船入門]]55-60頁「特設航空母艦」</ref><ref name="氷川丸時代149">[[#氷川丸時代|氷川丸とその時代]]149-151頁「『優秀船建造助成施設』と大型客船の建造」</ref>。
「大鷹」の前身である「春日丸」は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で[[日本郵船]]が建造した[[豪華客船]]「新田丸」級三姉妹船の第3船であった。新田丸級三姉妹船([[冲鷹 (空母)|新田丸]]、[[雲鷹 (空母)|八幡丸]]、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれ'''N'''ittamaru, '''Y'''awatamaru, '''K'''asugamaruと命名されている。建造費用は[[優秀船舶建造助成施設]]による補助を受けていた。
[[1941年]](昭和16年)8月末に特設航空母艦として完成<ref name="特設入門64">[[#大内、特設|特設艦船入門]]64-69頁「(ロ)「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」」</ref>。本艦は[[太平洋戦争]]緒戦から中盤にかけて航空機輸送任務に従事した<ref name="護衛入門247大鷹">[[#護衛空母入門]]247-249頁「大鷹」</ref>。


同任務従事中の1942年(昭和17年)8月31日附で軍艦籍に編入され<ref name="空母29隻324大鷹"/>、特設航空母艦春日丸から[[航空母艦]]大鷹に改名<ref name="S17達244号"/><ref name="特設入門64"/>および類別変更された<ref name="S17内令1614"/><ref name="S1705呉鎮日誌(4)25">[[#S17-05呉鎮日誌(4)]]p.25「十三日一四五〇軍務局長|十四日〇六二八 GF参謀長(呉鎭参謀長)(春日丸艦長)(八幡丸艦長)(佐鎭参謀長)|軍務機密第一五〇番電 一、八月三十一日附 春日丸ヲ大鷹(タイヨウ) 八幡丸ヲ雲鷹(ウンヨウ)ト命名、艦艇籍ニ編入セラル(現所管ノ儘)/二、右兩艦ノ命名式ハ所属長官所定ニ依リ適宜實施ノコトニ定メラル|無電」</ref>。
[[1940年]](昭和15年)1月6日に[[三菱重工業長崎造船所]]で起工、9月19日に進水した。同年11月1日には長崎造船所で戦艦「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」の進水において、艤装岸壁に向かう「武蔵」を春日丸の船体で隠し日本海軍期待の秘密兵器「軍艦武蔵」の存在への防諜に貢献した<ref>内藤初穂『戦艦大和へのレイクイエム』156頁</ref>。
1943年(昭和18年)9月24日、大鷹は米潜水艦[[カブリラ (潜水艦)|カブリラ]]の雷撃で大破<ref name="空母29隻324大鷹"/>。1944年(昭和19年)4月まで修理を実施した<ref name="空母29隻324大鷹"/>。修理完了後は[[海上護衛総司令部]]の指揮下に入り船団護衛任務に従事する<ref name="護衛入門247大鷹"/><ref>[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]195-197頁「海護総部隊に、航空隊と空母が」</ref>。[[ヒ71船団]]護衛中の同年[[8月18日]]夜<ref name="雨倉護衛230">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]230-231頁「「大鷹」被雷沈没」</ref>、[[ルソン島]]西方で米潜水艦[[ラッシャー (潜水艦)|ラッシャー]]の魚雷攻撃により撃沈された<ref name="空母29隻324大鷹"/><ref name="護衛入門247大鷹"/>。


== 特徴 ==
建造中であった[[日本郵船]]の客船・春日丸を[[1941年]](昭和16年)5月に海軍が徴用して佐世保海軍工廠へ回航、航空母艦としての改装工事が行われた。日米開戦前の1941年([[昭和]]16年)9月5日に竣工した。
大鷹(たいよう)の前身である春日丸(かすがまる)は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻([[神鷹 (空母)|シャルンホルスト]]、[[:de:Gneisenau (Schiff, 1935)|グナイゼナウ]]、[[:de:Potsdam (Schiff, 1935)|ポツダム]])に対抗しつつ<ref name="氷川丸時代149" />、1940年(昭和15年)開催予定の[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]を見込んで、[[日本郵船]]が建造した[[豪華客船]]新田丸級三姉妹船の第3船であった<ref>[[#日本空母物語]]105、298頁</ref><ref name="特設入門192">[[#大内、特設|特設艦船入門]]192-197頁「(ロ)「大鷹」級特設航空母艦(大鷹、雲鷹、冲鷹)の活躍」</ref>。
{{Main|新田丸級貨客船}}
新田丸級三姉妹船([[冲鷹 (空母)|新田丸]]、[[雲鷹 (空母)|八幡丸]]、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれ'''N'''ittamaru, '''Y'''awatamaru, '''K'''asugamaruと命名されている<ref name="氷川丸時代149" /><ref>[[#空母機動部隊(丸2010)]]235頁</ref>。建造費用は[[優秀船舶建造助成施設]]による補助を受けていた<ref name="特設入門55"/><ref name="特設入門192"/>。また3隻とも三菱長崎造船所で建造され、新田丸(起工1938年5月9日、進水1939年5月20日、竣工1940年3月23日)、八幡丸(1938年12月14日、進水1939年10月31日、竣工1940年7月31日)、春日丸(起工1940年1月6日)の順番で建造された<ref>[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]76頁「各艦の概況(1)大鷹型」</ref><ref name="福井著11特設68表5">[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]68頁「第5表 特設航空母艦予定船舶(昭和16年12月現在)」</ref>。予想される日米の艦隊決戦に際して、春日丸級特設航空母艦は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた<ref name="特設入門55"/><ref>[[#日本空母物語]]299頁</ref>。


== 戦歴等 ==
=== 設計 ===
艦橋は前方の遊歩甲板上に設置され、[[煙突]]は艦体中央部右舷側に寄せられた<ref name="senpaku616">[[#船舶]]616頁</ref>。
1941年9月25日には[[第一航空艦隊]][[第四航空戦隊]]に編入され、南方へ航空機と搭乗員、物資の輸送作戦に従事した。この時点で[[特設艦船|特設空母]]「春日丸」は[[九六式艦上戦闘機]]と[[九六式艦上爆撃機]]を固有艦載機として搭載していた<ref>坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)37頁</ref>。本艦の艦載機は旧式ながら哨戒任務で活躍している。


大鷹型は小型のうえに速度も遅く、用途は限られており<ref name="特設入門64"/><ref name="空母29隻278">[[#空母二十九隻]]278-279頁「東西奔走の運び屋空母」</ref>、さらに日本海軍は終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかったため、連合国軍の[[軽空母]]や[[護衛空母]]と比較して、本型の航空機運用能力は非常に見劣りするものになってしまった<ref name="特設入門192"/><ref name="日本空母物語312">[[#日本空母物語]]312頁『(4)わが商船改造空母の問題点』</ref>。特に、大戦中盤以降に登場した比較的大型の新型機([[天山 (航空機)|天山]]、[[彗星 (航空機)|彗星]]、[[流星 (航空機)|流星]]、[[彩雲 (航空機)|彩雲]])をカタパルトのない本型が実戦で運用するのは困難であった<ref name="日本空母物語312" /><ref>[[#護衛空母入門]]184-187頁「日本の場合」</ref>。ただし、合成風速12m/秒(約23ノット)が得られる場合は3機の天山が同時発艦可能であった。また大鷹では実戦使用される事は無かったが、1943年にはブースターロケットの開発に成功しており、この場合は12機の天山が同時発艦出来るようになっていた<ref>[[#空母機動部隊]]P148</ref>。艦載機昇降用の[[エレベーター]]は、前部と後部に2基を搭載した<ref name="senpaku621"/>。[[格納庫]]は、[[秩父丸]]型貨客船の改装計画では開放式とされたが、薄鋼板を支柱の外に張り、さらに防火幕が設置された<ref name="senpaku616"/>。
1942年8月31日「大鷹」と命名され正規の航空母艦となった。艦容に変化はない。以後、太平洋戦争前半は輸送任務に使用される。1942年9月28日から[[マーシャル諸島]]方面への輸送に従事中、[[チューク諸島|トラック]]付近で米潜水艦に雷撃される。1本が艦底を通過し、1本が軽質油庫付近に命中したが不発だった。ところが、[[竜骨 (船)|竜骨]]を損傷したため「大鷹」は速力6ノットしか出せず、応急修理後に内地へ向かった。10月7日に呉に入港。同時に戦闘機隊も解散した<ref>坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)44頁</ref>。
1942年11月1日より1943年5月の間にトラックへ6回、マニラ、シンガポールへの輸送に従事し佐世保に帰港。
1943年7月23日より、トラックへの輸送に3回従事し、9月24日横須賀へ帰港中、父島の北東200海里で米潜の雷撃を受け航行不能。冲鷹に曳航されて横須賀に入港。1944年4月まで修理。


=== 兵装 ===
修理後、[[海上護衛総司令部|海上護衛総隊]]に編入された。<!--(海鷹のヒ57船団が先行している)日本海軍として最初の船団護衛空母として、-->門司とシンガポールを結ぶ[[ヒ船団]]の護衛に使用されることとなり、4月19日に対潜哨戒用として[[第九三一海軍航空隊|第931航空隊]]所属の[[九七式艦上攻撃機]]12機が搭載された。5月3日、最初の護衛航海としてヒ61船団(輸送船11隻・護衛艦9隻)を守って門司を出港、輸送船1隻小破の損害のみで5月18日にシンガポールに送り届けた。折り返し、ヒ62船団(輸送船8隻・護衛艦6隻)を護衛して5月23日出航、6月8日に無傷で門司へ到着した<ref>[[防衛研究所|防衛庁防衛研修所]]戦史室 『海上護衛戦』 朝雲新聞社〈[[戦史叢書]]〉、1971年、379-380頁。</ref>。その後、航空機輸送任務でヒ69船団に加入して7月13日出航、マニラへ[[第一航空艦隊]]再建用の機材を輸送。荷揚げ後、[[ヒ68船団]]に合流して8月3日に日本へ帰還した。
砲熕兵装の計画は12cm単装高角砲6門、25mm連装機銃4基8挺だったが、春日丸としての竣工時は12cm単装高角砲4門、25mm連装機銃2基、13mm4連装機銃2基だった<ref name="田村2007p180" />。高角砲用のスポンソンは6基分用意されたが、兵器不足のため高角砲2門は後日装備となり<ref name="福井著11特設77" />、中央の左右1門ずつは、搭載されなかった<ref name="田村2007p180" />。
1942年(昭和17年)6月10日付の官房機密第7162号で13mm4連装機銃を25mm連装機銃に交換し、3番、4番高角砲の搭載予定位置に25mm3連装機銃を仮装備をする訓令が出され、実際の工事は同年7月と推定される<ref name="田村2007p180" />。同年6月24日付の官房機密第7868号で九五式爆雷8個、手動投下台1組装備の訓令が出され、この工事は訓令直後の6月26日から7月1日の間に呉で行われたと思われる<ref>[[#田村2007]]pp.184-185。「『官房機密第七八六八号』(一七・六・二四)「特設艦船爆雷兵装新設の件訓令」「佐世保工廠をして主題の件左記に依り施行せしむべし。一、施行船名 特設航空母艦 春日丸(以下略)。二、工事要領 爆雷八個を搭載し左の工事を施工するもとのす。(以下省略)」</ref>。
同年8月21日付の官房機密第10468号で艦首と艦尾にそれぞれ25mm3連装機銃2基と射撃指揮装置1基ずつを装備する訓令が出され、この工事は翌1943年(昭和18年)5月29日から7月15日まで佐世保海軍工廠で修理を行った時に装備したと推定される<ref>[[#田村2007]]p.182。「『官房機密第一〇四六八号』(一七・八・二一)「特設航空母艦春日丸に機銃装備の件訓令」「佐世保工廠をして主題の件 左記に依り施行せしむべし。一、工事要領 艦首錨甲板および艦尾短艇甲板上に「フラット」を設け、その上にそれぞれ二五ミリ三連装機銃二基および機銃射撃装置一基を装備するとともにこれに関連する工事を施工するものとし詳細に関しては海軍艦政本部長をして佐世保海軍工廠に通牒せしむ。(以下省略)」</ref>。
最終時の兵装は、1944年7月1日付「艦船要目概要一覧表」によると12cm単装高角砲4門、25mm3連装機銃8基、同連装2基、同単装20基、九五式爆雷x8、水中聴音機x1、21号電探x1だという<ref name="艦船要目概要一覧表" /><ref group="注釈">[[#日本空母物語]]p.417の「表A あ号作戦直前の空母対空兵装(昭和19年5月現在)」の大鷹の項は、12cm単装高角砲6門、25mm3連装機銃6基、同連装機銃4基、21号電探1基となっている。</ref>。


21号電探は「軍艦大鷹戦時日誌」(昭和17年10月)に10月17日から27日の間に呉で装備したと書かれている<ref name="田村2004p112">[[#田村2004]]p.112</ref>。乗員からの聞き取りでは電探の台にはローラーが付いていて、飛行機発着の無い夜間にだけ格納庫から前部エレベーターで飛行甲板に上げて使用していたという<ref name="田村2004p112" />。
8月8日、3度目の護衛航海として[[駆逐艦]]3隻、[[海防艦]]9隻とともに、[[タンカー]]、[[陸軍特殊船]]、貨物船などからなる重要船団「[[ヒ71船団]]」を護衛して、8月17日台湾の馬公より[[フィリピン]][[マニラ湾]]へ20日午後5時到着の予定で出撃。しかし、当初より船団は3隻の米潜水艦よりの追跡を受けており、8月18日早朝より雷撃を受けて脱落し[[高雄]]へ帰港する輸送船が複数出た。8月18日午後10時ごろ、本艦は、ルソン島東方にて[[アメリカ海軍]]の[[ガトー級潜水艦]]「[[ラッシャー (潜水艦)|ラッシャー]]」(''USS Rasher, SS-269'')の雷撃により、魚雷1本が命中し沈没した。なおラッシャーは18本の魚雷を「ヒ71船団」に発射したが、命中したのは「大鷹」への一本のみであった。ヒ71船団の輸送船「能登丸」二等運転士として[[船橋]]にいた宇野公一によれば、「大鷹」は輸送船団の中央後方にいて、速力12ノット程度で航行していたという<ref>[[#特攻船団]]145-146頁</ref>。「大鷹」は被雷から10分程度で沈没、動転したヒ71船団は統制のとれないまま思い思いの方向に四散し<ref>[[#特攻船団]]150頁</ref>、壊滅した<ref>[[#特攻船団]]156-157頁</ref>。


== 歴史 ==
現時、「大鷹」の[[慰霊碑]]が長崎県佐世保市の旧海軍墓地[[東公園 (佐世保市)|東公園]]にある。
=== 春日丸 ===
[[1940年]](昭和15年)[[1月6日]]、[[三菱重工業長崎造船所]]で起工<ref name="福井著11特設68表5" />。仮称艦名「第1003番艦」<ref>[[#戦史叢書31海軍軍戦備1]]p.625</ref><ref name="丸写真4巻91大鷹型">[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]91-94頁「◇大鷹型◇」</ref>。商船用の装備を取り外したのち、[[9月19日]]に進水した<ref>[[#日本空母物語]]308頁『(2)大鷹(旧春日丸)』</ref><ref>[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]111頁(春日丸進水式写真)</ref>。
同年[[11月1日]]、長崎造船所における[[大和型戦艦]]2番艦[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]の進水において、艤装岸壁に向かう武蔵を春日丸の船体で隠し、日本海軍期待の秘密兵器「軍艦武蔵」の存在への防諜に貢献した<ref>内藤初穂『戦艦大和へのレイクイエム』156頁</ref><ref name="木俣空母76">[[#木俣空母]]76-77頁「春日丸の飛行機輸送(昭和十六年十二月)」</ref>。なお、同月には第1003番艦のまま改装工事が始まったとする文献もある<ref name="senpaku616"/>。


[[1941年]](昭和16年)5月1日、日本海軍は春日丸を[[特設航空母艦]]に定め<ref name="丸写真4大鷹">[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]107-108頁「航空母艦(祥鳳・瑞鳳・千歳・千代田・信濃・伊吹・大鷹・雲鷹・冲鷹・神鷹・海鷹)行動年表 ◇大鷹◇」</ref>、同日附で[[佐世保鎮守府]]所管となった<ref name="S16内令471号">[[#内令昭和16年5月(1)]]p.8「内令第四百七十一號 汽船 春日丸 右特設航空母艦トシ佐世保鎮守府所管ト定メラル|昭和十六年五月一日 海軍大臣 及川古志郎」</ref>。
==歴代艦長==
同時に、空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]副長・[[赤城 (空母)|赤城]]副長や各航空隊司令等を歴任し、同年3月25日まで航空機運搬船「小牧丸」艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072080500|昭和16年3月25日(発令3月25日付)海軍辞令公報(部内限)第605号 p.49}}</ref>だった[[石井芸江]]大佐(後日、空母[[隼鷹 (空母)|橿原丸〈隼鷹〉]]初代艦長、[[冲鷹 (空母)|冲鷹]]初代艦長、[[神鷹 (空母)|神鷹]]艦長等を歴任、神鷹の沈没時に戦死)を春日丸艦長に任命した<ref name="jirei631">{{アジア歴史資料センター|C13072081000|昭和16年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第631号 p.1}}</ref>。
<small>※脚注なき限り『艦長たちの軍艦史』75-76頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。</small>
===艤装員長===
#石井芸江 [[大佐]]:1941年5月1日 -
#高次貫一 大佐:1941年8月11日 -


船殻工事の大半と艤装工事の約3割を長崎造船所で実施後<ref name="senpaku616"/>、佐世保海軍工廠へ回航し航空母艦としての改装工事が行われた<ref name="福井著11特設77">[[#福井著作11|日本特設艦船物語]]77-78頁「◇大鷹(旧名:春日丸)」</ref>(八幡丸、新田丸は呉工廠で改造)<ref name="丸写真4巻91大鷹型"/><ref>[[#日本空母物語]]307頁</ref>。遊歩甲板上の構造物は取り付け済だったため、これを撤去して格納庫を設置する<ref name="senpaku616"/>など、基本的に客船に戻すのは難しいほどの改造を行った<ref name="丸写真4巻91大鷹型"/><ref name="特設入門64"/>。工程数は約2,000万で、このうち約2万が船殻工事、約9万5,000が艤装工事だった<ref name="senpaku616"/>。しかし三姉妹艦においてはもっとも簡単な工事であり、木造部分も多く残されるなど商船としての構造や艤装が残されていた<ref>[[#日本空母物語]]309頁</ref>。春日丸について「徴用船をこんなに改造して、後で解傭のとき(空母状態から客船に戻す作業)は大変であろう」と心配した者もいたという<ref name="senpaku616"/><ref name="福井著11特設77" />。
===艦長===

#高次貫一 大佐:1941年9月5日 -
また本艦は商船として完成する前に空母へ改造されたので、空母として三姉妹艦中最初に完成<ref>[[#日本空母物語]]105頁</ref>。このため貨客船としては1番船の新田丸が[[ネームシップ]]であるが空母としては春日丸がネームシップとなり、'''春日丸級特設航空母艦'''と呼称された<ref>[[#内令昭和16年4月(5)]]pp.39-40「内令第四百四十號 特設艦船部隊特修兵配置表中左ノ通改正ス 昭和十六年四月二十六日 海軍大臣 及川古志郎 特設航空母艦ノ欄ヲ左ノ如ク改ム |特設航空母艦||飛鷹、隼鷹|春日丸級|(略)」</ref>。なお春日丸級特設空母のエレベーター6基(各艦2基×3隻)は、もともと浅間丸級貨客船([[浅間丸]]、[[龍田丸]]、[[秩父丸|秩父丸〈改名後、鎌倉丸〉]])を空母に改造するために製造されたものだった<ref name="福井著11特設77" /><ref>[[#日本空母物語]]296頁</ref>。
#篠田太郎八 大佐:1942年10月24日 -

#松田尊睦 大佐:1943年5月29日 -
{{Main|南方作戦}}
#(兼)松野俊郎 大佐:1943年11月17日 - (本務:横須賀海軍港務部長<ref name="jirei19431118">昭和18年11月18日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1264号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072094500 で閲覧可能。</ref><ref name="jirei19440215">昭和19年2月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1324号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072095800 で閲覧可能。</ref>)
1941年(昭和16年)8月11日、春日丸艦長は石井大佐から[[高次貫一]]大佐(当時、[[岩国海軍航空隊]]司令)に交代する<ref name="jirei688">{{アジア歴史資料センター|C13072081700|昭和16年8月11日(発令8月11日付)海軍辞令公報(部内限)第688号 pp.22,24}}</ref>。9月5日、竣工<ref name="福井著11特設68表5" /><ref name="senpaku616"/>。9月1日、司令官を[[原忠一]]少将とする<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072081900|昭和16年9月1日付 海軍辞令公報(部内限)第701号 pp.1-2}}</ref>[[第五航空戦隊]](空母2隻([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、春日丸)、[[吹雪型駆逐艦]]17番艦[[朧 (吹雪型駆逐艦)|朧]]<ref name="支那事変10回朧">[[#支那事変第10回功績(朧)]]p.1「自9月1日至11月20日|聯合艦隊第五航空戦隊ニ属シ艦隊諸訓練ニ従事シツヽ対事変待機」</ref>)が新編された。
#別府明朋 大佐<ref name="jirei19440215" /><ref name="jirei19440320">昭和19年3月20日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1382号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C13072096800 で閲覧可能。</ref>:1944年2月15日<ref name="jirei19440215" /> - 1944年3月20日<ref name="jirei19440320" />
原司令官は旗艦に春日丸を指定した<ref name="海軍公報(部内限)3888号18">{{アジア歴史資料センター|C12070397300|昭和16年9月3日(水)海軍公報(部内限)第3888号 p.18}}「○旗艦指定 第五航空戦隊司令官ハ九月一日旗艦ヲ春日丸ニ指定セ」</ref>。だが、本艦が五航戦として本格的に活動する機会はなかった。
#杉野修一 大佐:1944年3月20日 -
9月10日、原司令官は第五航空戦隊旗艦を春日丸から翔鶴に変更する<ref name="海軍公報(部内限)3897号14">{{アジア歴史資料センター|C12070397400|昭和16年9月13日(土)海軍公報(部内限)第3897号 p.41}}「○旗艦變更 第五航空戦隊司令官ハ九月十日旗艦ヲ翔鶴ニ變更セリ/支那方面艦隊司令長官ハ九月十一日旗艦ヲ飛鳥ニ變更セリ」</ref>。

春日丸は9月25日附で[[第一航空艦隊]]・[[第四航空戦隊]](司令官[[角田覚治]]少将:空母〈[[龍驤 (空母)|龍驤]]〉、第3駆逐隊〈[[汐風 (駆逐艦)|汐風]]、[[帆風 (駆逐艦)|帆風]]〉)に編入された<ref name="senpaku616"/><ref name="丸写真4大鷹"/>。10月、鹿児島に入港して空母龍驤と合同したのち、春日丸は[[台湾]]~[[佐世保市|佐世保]]間の訓練航海に従事した<ref name="木俣空母76" />。
アメリカとの戦争が勃発しなければ、昭和17年度の戦時編制において春日丸以下特設航空母艦群は第六航空戦隊(特設空母3、第31駆逐隊〈[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]、[[高波 (駆逐艦)|高波]]、[[大波 (駆逐艦)|大波]]〉)と第七航空戦隊(空母[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]・特設空母2、第25駆逐隊〈[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]、[[照月 (駆逐艦)|照月]]、[[初月 (駆逐艦)|初月]]〉)を編成予定だった<ref>[[#昭和17年度帝国海軍戦時編制]]p.5「第六航空戰隊|《第三十一驅逐隊》|特設航空母艦三|横須賀 呉 佐世保」</ref><ref>[[#昭和17年度帝国海軍戦時編制]]p.5『第七航空戰隊|鳳翔、《第二十五驅逐隊》|特設航空母艦二|横須賀 佐世保』</ref><ref>[[#昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他]]p.1「佐世保|第二十五驅逐隊|《秋月》《照月》《初月》|第七航空戰隊」-「舞鶴|第三十一驅逐隊|《長波》《巻波》《高波》《大波》|第六航空戰隊」</ref>。

[[太平洋戦争]]開戦時、[[特設艦船|特設空母]]春日丸は[[九六式艦上戦闘機]]と[[九六式艦上爆撃機]]を固有艦載機として搭載していた<ref>坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)37頁</ref>。本艦の艦載機は旧式ながら哨戒任務で活躍している。南方作戦〜蘭印作戦において同方面に投入された航空機運用艦は、第十一航空戦隊([[千歳 (空母)|千歳]]、[[瑞穂 (水上機母艦)|瑞穂]])などの水上機母艦が主力であり、当初から参加していた空母は四航戦(龍驤、春日丸)だけだった。龍驤は[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン方面攻略作戦]]に参加し<ref name="護衛入門247大鷹"/>、春日丸は[[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]<ref>[[#丸写真第4巻|写真日本の軍艦第4巻]]110-111頁(大鷹写真解説)</ref>の[[九六式艦上戦闘機]]13機を搭載して[[パラオ]]へ輸送<ref name="木俣空母76" />。これが最初の航空機輸送任務となった<ref name="特設入門192"/>。
12月12日、佐世保に帰投<ref name="木俣空母76" />。12月22日、空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]([[剣埼型潜水母艦]]改造空母)が第四航空戦隊に編入される<ref>[[#祥鳳日誌(1)]]p.3「昭和十六年十二月二十二日改造完了祥鳳ト命名サル同日聯合艦隊ニ編入(第一航空艦隊第四航空戦隊所属)以来横須賀方面ニアリテ整備作業単独訓練ニ従事中」</ref>。一方、春日丸は[[連合艦隊]]附属となった<ref name="木俣空母136">[[#木俣空母]]136頁</ref>。12月31日、呉鎮守府所属となる<ref name="丸写真4大鷹"/><ref name="木俣空母76" />。瀬戸内海では第十二連合航空隊(母艦航空隊搭乗員)の発着艦訓練に従事した<ref name="木俣空母133">[[#木俣空母]]133-134頁「春日丸の飛行機輸送(四〜五月)」</ref>。

1942年(昭和17年)2月25日から3月12日までトラック泊地への[[零式艦上戦闘機]]輸送任務に従事した<ref name="木俣空母133" />。つづいて[[マーシャル諸島]]および[[ソロモン諸島]]防備強化のため、零戦および基地機材と人員を輸送する<ref name="木俣空母133" />。4月3日、横須賀を出発<ref name="木俣空母133" />。[[ロイ=ナムル島]](ルオット島)で零戦12機を降ろし<ref>[[#叢書38|中部太平洋方面海軍作戦(1)]]582頁『敵潜水艦の蠢動激化』</ref>、続いて[[クェゼリン環礁]]に向かう<ref name="木俣空母133" />。5月3日、入港直前にアメリカ潜水艦[[ガトー (潜水艦)|ガトー]] (''USS Gato, SS-212'') <ref name="空母29隻278"/>が春日丸に対して魚雷を5本発射したが、速力の測定ミスで命中しなかった<ref>[[#SS-212, USS GATO, Part 1]]p.11</ref><ref name="c">[[#木俣空母]]p.134</ref><ref>[[#S17-05横鎮日誌(2)]]p.9「3日1230春日丸船長|午前11時22分クエゼリン入口(ミルー島ノ330度750米)ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃(五射線キョーサ)ヲ受ケタルモ回避被害ナシ」</ref>。1本は命中寸前であった<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.7「(ロ)敵潜水艦後方発射管ヨリスル斜進発射ニ依ル魚雷ニ対シ特ニ警戒ノ要アリト認ム 本艦四月末「ルオット」沖ニテ受ケタル雷撃ノ発射雷数ハ5本ニシテ始メ左右舷2本宛通過シタル後1本ノ魚雷ハ本艦ノ直極メテ近ク斜ニ通過セリ(略)」</ref>。ガトーは護衛艦や[[一式陸上攻撃機]](哨戒機)に反撃されたが、退避に成功している<ref name="木俣空母133" />。
5月8日、[[ジャルート環礁]](ヤルート環礁)に第十四航空隊(飛行艇部隊)の整備員を移送する<ref name="木俣空母133" />。マーシャル諸島への輸送を終えると、南下して[[ブカ島]]([[ブーゲンビル州]])に進出した<ref name="木俣空母133" />。なお春日丸の零戦空輸について[[坂井三郎]]の回想によれば、ラバウルより零戦搭乗員20名(台南航空隊所属)が[[九七式飛行艇]]に搭乗して春日丸の傍に着水した<ref name="木俣空母133" />。乗艦すると零戦に乗り込み、春日丸より発艦してラバウル基地に移動したという<ref name="木俣空母133" />。5月16日、約1ヶ月半におよぶ航海を終えて横須賀に帰投した<ref name="木俣空母133" />。

[[ウォッチタワー作戦|連合軍のツラギ、ガダルカナル来攻]]により、連合艦隊司令長官[[山本五十六]]は8月17日に戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」でトラックへ向けて柱島から出発し、それに「春日丸」と第七駆逐隊が同行した<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』83ページ</ref>。
8月20日、機関送風機軸の故障により「春日丸」は最大発揮速力20ノットに低下、折しも海上は無風状態で、着艦しようとした2機の戦闘機が着艦に失敗して損傷した<ref>[[#戦藻録(1968)]]168頁</ref>。27日、「春日丸」と護衛の駆逐艦「[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]」は搭載機の一部を[[マロエラップ環礁]]・[[タロア島]](当初は[[ロイ=ナムル島|ルオット島]])へ陸揚げするよう下令され、「大和」、駆逐艦「漣」、「潮」と分離した<ref>[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]140頁「ラバウルへの戦闘機の増派と哨戒要領の一部改定」</ref><ref>[[#戦藻録(1968)]]176頁</ref>。
8月29日に[[タロア島]]([[マロエラップ環礁]])に到着すると艦爆4機、戦闘機2機を搭乗員や整備員と共に揚陸し、それからラバウル方面へ派遣される一空の戦闘機10機を載せてラバウルへ向かった<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』141ページ</ref>。

=== 大鷹 ===
==== 佐世保鎮守府所属 ====
ラバウル方面へ航海中の1942年(昭和17年)8月31日、特設航空母艦2隻(春日丸、八幡丸)は、それぞれ軍艦'''大鷹(タイヨウ)'''および軍艦[[雲鷹 (空母)|雲鷹(ウンヨウ)]]と改名された<ref name="S17達244号" /><ref name="公報限4182">{{アジア歴史資料センター|C12070422300|昭和17年8月31日(月)海軍公報(部内限)第4182号 p.43}}「○官房機密第一〇九四六號 本年八月三十一日現在左記上欄各艦ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用セズシテ下欄ノ相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 記|特設航空母艦 春日丸|航空母艦 大鷹|同 八幡丸|同 雲鷹」</ref><ref name="木俣空母339">[[#木俣空母]]339-341頁「大鷹・雲鷹」</ref>。2隻は同日附で正式に[[航空母艦]]となった<ref name="S17内令1614"/>。
大鷹は佐世保鎮守府籍に所属<ref name="S1705呉鎮日誌(4)25"/><ref>[[#内令昭和17年8月(4)]]pp.12-13「内令第千六百二十四號 汽船 八幡丸 右特設航空母艦トシ呉鎮守府所管ト定メラレタル處之ヲ解カレル|汽船 春日丸 右特設航空母艦トシ佐世保鎮守府所管ト定メラレタル處之ヲ解カレル|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎」〜「内令第千六百二十五號 軍艦 雲鷹 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル|軍艦 大鷹 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|驅逐艦 照月 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|驅逐艦 高波 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル(中略)|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎」</ref>。艦容に変化はない<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070422700|昭和17年9月10日(木)海軍公報(部内限)第4191号 pp.12-13}}「○書類發送先 特設航空母艦春日丸宛書類ハ自今軍艦大鷹ニテ處理可致ニ付呉郵便局氣付ニテ送付相成度(軍艦大鷹)」</ref>。
9月2日、ラバウルに到着して航空機輸送任務を終えた<ref>[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]142頁「飛行艇のラバウル派遣解除と一式陸攻の派遣」</ref>。大鷹はラバウルに入泊した唯一の日本空母となった<ref name="木俣空母339" />。つづいてラバウル方面に進出することになった第二十一航空戦隊と第二十三航空戦隊の内の戦闘機と艦爆の輸送に従事した<ref>『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』163ページ</ref>。9月13日に[[ミンダナオ島]]・[[ダバオ]]を出発、17日[[カビエン]]沖合で航空隊を発艦、22日ダバオ〜25日カビエン沖合で発艦、これで輸送任務を終了し、{{要出典|date=2022年7月|第7駆逐隊の護衛下で}}<!--出典に護衛の記述はない-->トラック泊地に向かった<ref>[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]163頁「南西方面部隊からの航空兵力の転用」</ref>。
一旦、内地帰投の予定となる<ref>[[#S17-09横鎮日誌(4)]]p.28「二十八日〇九四五聯合艦隊参謀長|二十八日二〇三五横鎭参謀長、五艦隊、大海参一、二各部長、二航戰|聯合艦隊機密第二八〇九四五五五番電 發 聯合艦隊参謀長 當方面ニ對スル第三艦隊、第十一航空艦隊零戰艦爆ノ輸送ハ左ニ依ラレ度/一、大鷹便(十月四日横須賀着)航本機密第二四一一〇〇番電ニ依ル艦爆九機(十一航艦隊行零戰)成ルベク多數/二、雲鷹便(十月八日頃横須賀着)十一航空艦隊行零戰/三、第二航戰便第一航戰零戰約一〇機」</ref>。なお本艦航海中、大鷹の搭載機は大幅に減らされることになった<ref>[[#S17-09横鎮日誌(3)]]p.2「大海一、二部長|各鎭参謀長、三艦隊、一艦隊、二艦隊、聯合艦隊、十一空艦隊八艦隊各参謀長|發 大海一、二部長/一、三艦隊ニ對スル補充左ノ通手配中 (一)機械(雲鷹ニ依リ)艦爆約一〇、艦攻約二〇外ニ航本既報ノ中ヨリ艦戰一〇以上 計四〇機以上/(二)搭乗員組(括弧外ハ翔鶴、内ハ瑞鶴)戰四(二) 爆六(三) 攻四(五)外ニ基地隊ニ殘留中ノモノヲ送致ス/二、第三艦隊ニ對スル補充 筑城、鹿屋空等ノ爲十五日附大鷹ハ艦爆4/1ノミトシ雲鷹ハ飛行機搭載ヲ削除ノコトニ手續中/三、大鷹ノ殘リ艦爆ハ二空ニ艦戰ハ適時内地ニ送致アリ度」</ref>。

9月28日<ref>[[#S1709護衛対潜|昭和17年9月、経過概要(護衛対潜)]]p.8「9月28日」</ref>、大鷹はトラックの南水道南方で米潜水艦の発射した魚雷1本(2本とも)を被雷した<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.5「1325右舷2本左舷ニ1本ノ雷跡ヲ認メ続イテ右185番ビーム水線下ニ1本命中、機械停止、防水ヲ下令ス 位置{{coor dm|7|46|N|151|46|E|}}(南水道入口ヨリ189度17.4浬)」</ref><ref name="空母29隻298">[[#空母二十九隻]]298-299頁(大鷹飛行長の回想)</ref>。命中箇所は右舷前部<ref name="S1709横鎮(4)35">[[#S17-09横鎮日誌(4)]]p.35「聯合艦隊参謀長|横鎭参謀長 艦本總務部長|發 聯合艦隊参謀長 大鷹及漣(十月八日頃横須賀着)ニ對シ左ノ特急工事トシテ至急實施ノコトニ取計ハレ度 何レモ入渠ノ要アリ/一、大鷹右舷前部魚雷命中ニ依ル被害(一八六番ビーム附近水線下長サ約一米)船体及揮發油庫/二、漣右舷推進器換装翼端折損|無電」</ref>。
この潜水艦は[[タンバー級潜水艦|タンバー級]]の[[トラウト (SS-202)|トラウト]](''USS Trout, SS-202'') である<ref name="木俣空母344">[[#木俣空母]]344-345頁</ref>。
トラック泊地では[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長と[[海上護衛隊#第二海上護衛隊|第二海上護衛隊]]の将校が「近来潜水艦に依る被害少くなれるは結構なり」と会談した直後の襲撃と被雷であった<ref name="戦藻録196">[[#戦藻録(1968)]]196頁</ref>。大鷹は羅針儀の故障により、附近を航行していた漣に水路嚮導を依頼する<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.5「1340転輪羅針儀故障ノ為附近航行中ノ駆逐艦漣ニ水路嚮導ヲ依頼ス」</ref>。機関科勤務者を中心に死傷者13名(戦死3、重傷3、軽傷7)を出し<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]pp.10-11「9月28日軍艦大鷹死傷者調査表 昭和17年9月28日」</ref>、速力16ノット(戦闘詳報では14ノット)で入泊した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)180">[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]180頁「第二航空戦隊のトラック進出と米軍と誤認された「瑞鳳」」</ref>。第四工作部([[明石 (工作艦)|明石]])が応急修理をおこなった<ref name="戦藻録196" /><ref name="木俣空母344" />。宇垣連合艦隊参謀長は、[[横須賀鎮守府]]に損傷2隻(大鷹、漣)の特急修理を要請した<ref name="S1709横鎮(4)35"/><ref>[[#S17-09横鎮日誌(6)]]p.7「三〇|(天候略)|(補給略)|一、大鷹及漣ニ對シ修理特急工事トシテ至急實施入渠ノ通報アリ」</ref>。

10月1日、[[九六式艦上戦闘機]]3機、[[九六式艦上爆撃機]]5機を収容する<ref>[[#S1709大鷹詳報(2)]]p.2「17.10.1|竹島飛行場ヨリ九六艦戦3機九六艦爆5機収容」</ref>。
10月4日、駆逐艦2隻([[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]])と共にトラックを出発、13日に[[第三十一号型哨戒艇|哨戒艇]][[夕顔 (駆逐艦)|46号]]に護衛され([[豊後水道]]通過時)<ref>[[#S17-07呉防備戦隊(4)]]p.13「(チ)十月十三日大鷹入泊哨46 133°45′N31°ヨリ沖ノ島迄直接護衛」</ref><ref>[[#S17-07呉防備戦隊(4)]]p.52「一三(天候略)一、一〇三〇哨46大鷹護衛任務終了佐伯着|一、大鷹豊後水道入泊掩護 哨46ハE133°45′N31°0′ヨリ沖ノ島迄直接護衛ニ從事/二、盤谷丸昨日ニ仝ジ」</ref>、14日に呉着<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.28「4日|一.駆逐艦曙漣警戒呉ニ向ケ出港 二.警戒航行|一.1045大鷹機密第040705番電(大鷹時津風漣)行動予定GF参謀長横鎮参謀長宛報告」、p.29「損傷箇所修理ノタメ4日トラック発呉ニ回航14日呉着」</ref>。前部ガソリンタンクの損傷により気化燃料が漏れ出し、[[マリアナ沖海戦]]における空母[[大鳳 (空母)|大鳳]]のように爆沈しかねない情況下での航海だったという<ref name="空母29隻298"/><ref name="木俣空母344" />。呉到着と共に時津風は指揮下を離れた<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.29「8日|0850(略)大鷹内地帰着後時津風本艦警戒任務解除ノ命令受領」</ref>。内地帰投後、大鷹の戦闘機隊は解散した(大鷹飛行長[[五十嵐周正]]少佐は呉鎮守府附)<ref>[[#母艦航空隊]]58-59頁「最初で最後の大鷹戦闘機隊解散」</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072087400|昭和17年10月26日(発令10月21日付)海軍辞令公報(部内限)第971号 p.20五十嵐免職}}</ref>。

10月22日、吹雪型駆逐艦[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]](第一水雷戦隊・第6駆逐隊所属)が大鷹艦長の指揮下に入る<ref name="S1708一水戦(3)行動表">[[#S17-08一水戦日誌(3)]]pp.54-55「四、参考 麾下艦船部隊ノ行動」</ref><ref>[[#S17-08一水戦日誌(3)]]p.56「備考(略)三、響十月二十二日附聯合艦隊機密第二二一八四〇八九番電ニ依リ大鷹艦長ノ命ヲ受ケシメラル」</ref>。響は第6駆逐隊の僚艦3隻([[暁 (吹雪型駆逐艦)|暁]]、[[雷 (吹雪型駆逐艦)|雷]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]])と分離し<ref>[[#S18-03一水戦日誌(3)]]pp.6-7「備考(略)四月一五日聯合艦隊電令作第五二三號ニ依リ六駆(響欠)ヲ北方部隊ヨリ除キ内南洋部隊ニ編入サル」</ref>、大鷹艦長の指揮下で行動することになった<ref name="S1708一水戦(3)行動表"/><ref>[[#S17-11一水戦日誌(1)]]pp.38-39「四、参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」</ref><ref>[[#S17-12一水戦日誌(2)]]pp.31-33「四、参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」</ref>。
10月24日附で大鷹艦長は、高次貫一大佐から[[篠田太郎八]]大佐に交代した(篠田は10月1日まで特設水上機母艦[[神川丸 (特設水上機母艦)|神川丸]]艦長。後任の神川丸艦長は[[松田尊睦]]大佐)<ref name="jirei971">{{アジア歴史資料センター|C13072087400|昭和17年10月26日(発令10月24日付)海軍辞令公報(部内限)第971号 p.21高次免職・篠田補職}}</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072087200|昭和17年10月1日(発令10月1日付)海軍辞令公報(部内限)第955号 p.7}}</ref>。
10月28日、大鷹は呉を出発<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.20「第252航空隊基地進出協力ノタメ横須賀回航28日呉発29日横須賀着」</ref><ref>[[#S17-09呉鎮日誌(3)]]p.10「廿七日 大鷹横須賀ニ向ケ二十八日一七〇〇沖ノ島通過ノ豫定呉防戰及佐伯空ヲシテ之ガ出撃掩護竝ニ對潜直衛ニ任ゼシム(電令作第五九號)」</ref>。駆逐艦2隻([[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]〈第6駆逐隊〉、[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]〈第7駆逐隊〉)等に護衛され<ref>[[#S17-07呉防備戦隊(4)]]pp.43-44「二十七日一六四五呉鎮長官(宛略)呉鎮機密第二七一六 四五四一番電 電令作第五九號 一.大鷹横須賀ニ向フ二十八日一七〇〇沖ノ島ヲ通過尓後響、漣ヲ伴ヒ針路概ネ一〇五度速力二〇節ノ予定(以下略)」</ref><ref>[[#S17-09呉鎮日誌(3)]]p.63「廿七日二二〇〇呉防戰司令官|廿八日〇三一五特務艦隊指揮官(鳩)夏島艇長 驅潜三六艇長(呉鎭参謀長)(外)|呉防戰機密第七〇九番電 電令作第九四號 一、大鷹二十八日一七〇〇沖ノ島ヲ通過爾後 響、漣ヲ伴ヒ針路一〇五度速力二十節ニテ横須賀ニ向フ(以下略)」</ref>、横須賀に向かった<ref name="木俣空母344" />。
大鷹は11月1日に横須賀を出発、6日にトラックへ到着した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)180" />。以後も航空機輸送任務に従事する<ref name="空母29隻278"/>。[[ガダルカナル島の戦い]]が激化するにつれて航空機の消耗は増える一方であり、大鷹型航空母艦は内地と前線を幾度も往復、航空機輸送任務に奔走した<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215">[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]215-217頁「航空母艦による航空機輸送」</ref><ref>[[#神風電探戦記]]27-28頁「ああ艦内生活」</ref>。

1943年(昭和18年)2月上旬から8月中旬まで、空母3隻(大鷹、雲鷹、冲鷹)は横須賀・トラック・フィリピン・スラバヤ方面の陸海軍機輸送任務に従事した<ref>[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]294頁「航空母艦による航空機の輸送」</ref>。双発夜間戦闘機[[月光 (航空機)|月光]]のラバウル進出にも協力している<ref name="特設入門192"/>。また海軍機だけでなく、陸軍機の輸送も行った。3月上旬、日本陸軍の[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]部隊(飛行第六十八戦隊)のラバウル進出が決定する<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)322">[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]322頁「三式戦闘機(陸軍)の輸送」</ref>。三式戦闘機を搭載した空母2隻(大鷹、冲鷹)は重巡[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、駆逐艦4隻(漣、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]、[[親潮 (駆逐艦)|親潮]])に護衛されて4月4日に横須賀を出発<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)322" /><ref name="木俣空母390">[[#木俣空母]]490-494頁「飛燕の輸送(四月)」</ref>。4月8日夜、アメリカ潜水艦[[タニー (潜水艦)|タニー]](''USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282'') は空母部隊を発見<ref name="木俣空母390" />。距離800mの大鷹に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが、早爆した<ref name="木俣空母390" />。魚雷命中と誤認したタニーは冲鷹に対し魚雷6本を発射するが、同じく早爆に終わった<ref name="木俣空母390" />。10日、トラック泊地に到着して任務を終える<ref>[[#S1801二水戦日誌(5)]]p.6「4月4日-同10日|親潮、黒潮|冲鷹、大鷹|横須賀→「トラック」」</ref>。だが三式戦部隊はトラックからラバウルへの空輸において、液冷エンジンの故障・航空機による航法誘導の失敗により、不時着機や行方不明機を多数出してしまった<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)322" />。

4月16日、空母2隻(大鷹、冲鷹)は駆逐艦3隻([[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[有明 (初春型駆逐艦)|有明]]、響)に護衛されてトラックを出発<ref>[[#S18-04十一水戦日誌(1)]]p.11「十五日二一一八大鷹艦長(宛略)大鷹 冲鷹 二十七駆 響 行動豫定ノ電 十六日〇六〇〇「トラツク」発二十一日一一四五横須賀着|無電」</ref><ref>[[#S17-12四水戦日誌(6)]]pp.53-54「一六(天候略)一、五月雨〇六二五トラツク着/二、27dg(時雨、有明)〇六〇〇横須賀ニ向ケトラック発/三、夕暮〇八〇〇トラック出撃|(略)二、27dg(時雨、有明)大鷹冲鷹護衛ニ任ジ横須賀ニ囘航ス(GF電令作第五三〇號AdB信令作第二一八號)」</ref>。21日、横須賀に帰投した<ref>[[#S17-12四水戦日誌(6)]]p.7「27dg(白露欠)(中略)十六日大鷹及冲鷹護衛ニ任ジ「トラツク」出撃二十一日横須賀着二十五日雲鷹及冲鷹護衛ニ任ジ横須賀発三十日「トラツク」着任務ヲ終了ス」</ref><ref>[[#S17-12四水戦日誌(6)]]p.46「四 参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動」</ref>。
前年10月より大鷹の指揮下にあった響<ref>[[#S18-03一水戦日誌(1)]]pp.33-35「四、参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動」</ref><ref>[[#S18-03一水戦日誌(3)]]pp.8-9「(ハ)配備」</ref>(第6駆逐隊は4月15日附で[[第四艦隊 (日本海軍)|内南洋部隊]]編入)<ref>[[#S18-03一水戦日誌(3)]]p.7「備考(略)四月十五日 聯合艦隊電令作第五二三號ニ依リ六駆(響欠)ヲ北方部隊ヨリ除キ内南洋部隊ニ編入サル」</ref><ref>[[#S18-04十一水戦日誌(1)]]p.18「(ロ)第六駆逐隊(響缺)ハ上中旬北方部隊ニ在リテ北太平洋作戰ニ從事 十五日内南洋部隊ニ編入セラレタルモ爾後横須賀ニ在リテ修理竝ニ整備ニ從事セリ」</ref>は、4月21日より主力部隊に編入<ref>[[#S18-04十一水戦日誌(1)]]p.17「四.参考(一)麾下艦船ノ行動」</ref><ref>[[#S18-04十一水戦日誌(1)]]p.18「(ハ)響ハ上中旬前進部隊ニ在リテ護衛任務ニ從事二十一日主力部隊ニ編入セラレ爾後内海西部ニ於テ當隊ニ合同訓練ニ從事セリ」</ref>。その後、5月中旬より[[キスカ島撤退作戦]]従事のため[[第五艦隊 (日本海軍)|北方部隊(第五艦隊)]]に編入され、別行動となった<ref>[[#S18-03一水戦日誌(4)]]p.8「備考(略)五月十五日 5F機密第一五一五四三番電(HPB電令作第三一二號)ニ依ル軍隊区分ニ依リ1sd(欠初春)2dg(五月雨)長波 響ヲ以テ水雷部隊ヲ編成(但シ響、長波、2dg(五月雨)ハ幌筵進出時ヲ以テ水雷部隊ニ編入)/十七日 GF機密第一四二二三一番電(GF電令作第五五號)ニ依リ響ハ十七日附北方部隊ニ編入」</ref><ref>[[#S18-04十一水戦日誌(1)]]p.44「四、参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」</ref>。

5月、大鷹はフィリピンおよびシンガポールやスラバヤ等、東南アジア方面の輸送作戦に従事<ref name="丸写真4大鷹"/><ref>[[#木俣空母]]495-496頁「大鷹マニラへ(五月)」</ref>。
5月29日、大鷹艦長は篠原大佐から、[[松田尊睦]]大佐(松田は4月26日まで神川丸艦長)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072090700|昭和18年4月26日(発令4月26日付)海軍辞令公報(部内限)第1102号 p.50}}</ref>に交代する<ref name="jirei1130">{{アジア歴史資料センター|C13072091300|昭和18年6月1日(発令5月29日付)海軍辞令公報(部内限)第1130号 p.17}}</ref>。
7月23日より、トラックへの輸送に3回従事した。
8月4日、大鷹は駆逐艦2隻([[舞風 (駆逐艦)|舞風]]、[[大波 (駆逐艦)|大波]])と共にトラックを出港<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.3「本艦ハGF電令作第627号ノ任務ヲ終了シGF電令作第642号ニ依ル次期軍事機材輸送任務ノ為横須賀回航ヲ要シ便乗者431名托送品零戦3艦攻3水戦1発動機5其ノ他ヲ搭載ノ上4日0415「トラック」港出港9日1700横須賀着ノ予定ヲ以テ同地ニ向フ」</ref>。舞風(第4駆逐隊)は4日夕刻に分離したため、護衛艦は夕雲型駆逐艦[[大波 (駆逐艦)|大波]](駆逐艦長[[吉川潔]]中佐)1隻となった<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]pp.78-79「四(天候略)31dg(大波)〇四一五「トラック」発(中略)31dg(大波)大鷹警戒トシテ「トラック」発」</ref><ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.3「4日1745舞風分離迄左右130度1500米ニ駆逐艦各1ヲ配ス舞風分離後大波本艦艦尾1000米ニ占位シ昼夜間共艦内哨戒第三配備之字運動A法(時隔5分)ヲ実施ス」</ref>。
[[8月6日]]13時、対空訓練のため大鷹は[[之字運動]]をやめ速力18ノットで直進していた<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.2「本艦6日1300ヨリ高角砲機銃教練射撃開始ノ予定ヲ以テ之字運動ヲ止メ針路40度18節ニテ直進ス、警戒駆逐艦大波ハ大鷹ノ後方約1500米ヲ続行ス」</ref>。この時、アメリカ潜水艦[[パイク (SS-173)|パイク]](''USS Pike, SS-173'') が大鷹に向けて魚雷6本を発射した。右舷に雷跡4本を認めた大鷹は左舷に転舵<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.7「6日1320大鷹艦長|発大鷹艦長6日1300{{coor dm|21|32|N|153|20|E|}}ニテ近巨離ニ潜望鏡発見雷撃四ヲ受ケタルモ回避シ被害ナシ大波制圧中」</ref>。すると大鷹の右舷中央部(煙突附近)に魚雷1本が命中したが不発だった<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.9「同日1050大鷹艦長|大波|魚雷1本本艦右舷中部ニ撃角20度ニテ觸衝セシモ爆発セズ頭部切断沈没セリ」</ref>。負傷者2名。不発魚雷は水線下5mに窪みを生じさせた<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.13「(ハ)船体 横須賀入港後調査ノ結果 水線下約5米ニテ104番ビーム前方63糎ニ経約45糎深3.5糎ノ円形凹部ヲ発見、円形凹部ハ魚雷頭部ニテ三日月型凹部ハ頭部脱落後再ビ気室前端ニテ衝撃セツモノト認ム両者共変形セルノミニテ支障ナシ」</ref>。潜望鏡に向けて高角砲と機銃を発砲、後方の大波も制圧に加わったが<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.5「大鷹ノ射撃ニ依リ大波ノ前方1500米ニ潜望鏡ヲ認メ直ニ之ガ攻撃ニ移ル」</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]pp.80-81「六(天候略)(中略)31dg(大波)大鷹護衛中一三〇〇N21°23′E153°20′ニ於テ大鷹雷撃(四本)ヲ受ク被害ナシ 大波攻撃制圧中(以下略)」</ref>、パイクは損傷なく離脱して行った。8月9日、2隻(大鷹、大波)は横須賀へ到着した<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]pp.4-5「(ロ)麾下艦隊ノ作戰概要(略)(二)第三十一驅逐隊 大波 AdB(十五日以降YB)ニ編入八月四日「トラツク」發ノ大鷹ヲ護衛九日横須賀着同十日同發十二日舞鶴着爾後同地ニ於テ九月上旬完了豫定ニテ修理ニ從事中」</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.81「九(天候略)(略)31dg(大波)横須賀着|31dg(大波)大鷹警戒任務終了 横須賀着(以下略)」</ref>。

8月17日、主力部隊(戦艦3隻〈[[大和 (戦艦)|大和]]、[[長門 (戦艦)|長門]]、[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]〉、空母〈大鷹〉<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.51「一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)」</ref>、巡洋艦3隻〈[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]、[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]、[[能代 (軽巡洋艦)|能代]]〉、駆逐艦部隊〈[[涼風 (駆逐艦)|涼風]]、[[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[若月 (駆逐艦)|若月]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[初風 (駆逐艦)|初風]]〉)として呉を出撃し、23日[[チューク諸島|トラック]]へ進出<ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.4「(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着」</ref><ref>[[#S1806二水戦日誌(2)]]p.60「二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)10dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五」</ref>。一度日本本土へもどったのち、9月7日に空母2隻(大鷹、冲鷹)は駆逐艦3隻([[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]])に護衛されて横須賀を出発<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]]p.25「四日一五〇八沖鷹(宛略)冲鷹大鷹浦風風雲五月雨左ニ依リ「トラツク」ニ向ケ七日〇五〇〇横須賀發(略)」</ref>。11日に到着した<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]]p.9「(6)五月雨 前月ニ引續キ横須賀ニテ修理整備ニ従事中七日冲鷹大鷹ヲ護衛横須賀發十一日「トラツク」着…」</ref>。

9月21日、3隻(大鷹、冲鷹、島風)はトラック泊地を出発<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.19「(ロ)(略)次期軍事機材輸送任務ノ為横須賀回航ヲ要シ便乗者840名托送品零戦6其ノ他若干ヲ搭載ノ上21日0400「トラック」港出港…」</ref><ref name="木俣空母529">[[#木俣空母]]529-531頁</ref>。[[9月24日]]、艦隊は島風型駆逐艦[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]を先頭に、島風-冲鷹-大鷹という速力20ノットの[[単縦陣]]で航行していた<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.18「(二)我軍ノ兵力配備及行動 横須賀回航ノ途次島風冲鷹本艦ノ順ニテ単縦陣ニテ之字運動A法(時隔五分)ヲ実施基準針路320度速力20節ニテ航行中ナリ」</ref>。悪天候の中、父島の北東200浬{{coor dm|28|2|N|145|59|E|}}で輸送艦隊は敵潜に襲撃される<ref>[[#叢書62|中部太平洋方面海軍作戦(2)]]403-404頁「「大鷹」被雷航行不能」</ref><ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.24「(三)天候及戦場ノ状況 天候曇雨量9風向北東風速10米波浪4驟雨屡々来襲シ水平線附近特ニ視界不良ナリ本艦ノ北緯28度2分東経145度59分」</ref>。
午前7時前後、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦[[カブリラ (潜水艦)|カブリラ]] (''USS Cabrilla, SS/AGSS-288'')は魚雷6本を発射<ref name="木俣空母529" />。日本側はカブリラに気付いておらず、大鷹が右舷500mに多数の雷跡を認めてから15秒後、すくなくとも魚雷3本が右舷側三ヶ所(艦尾〈起爆〉、前部火薬庫〈不発〉、爆弾庫〈不発〉)に命中した<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]pp.20-21「0658|射点右110度400乃至500米ヨリ将ニ開進セントスル雷跡多数ヲ発見直ニ取舵一杯前進一杯ヲ令シタルモ約15秒後1本艦尾ニ命中爆発1本前部火薬庫(不爆)1本爆弾庫(頭部脱落不爆)ニ命中、2本前方1本後方通過防水ヲ令ス、高角砲機銃ヲ以テ攻撃ス、当時潜望鏡ヲ認メタル者ナシ」</ref><ref>[[#木俣空母]]530頁(大鷹被雷図では5本命中としている)」</ref>。
前部弾薬庫にも1本が命中していたが、不発であった<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.25「行動圖 註 艦底通過ト報告セルモノハ入渠調査ノ結果前部弾薬庫右舷ニ命中不爆ナリシ事判明ス」</ref>。一方、艦尾附近に命中した魚雷は[[スクリュー]]と舵取機室を破壊、機械も停止して本艦は航行不能となる<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.24「五.我ガ兵力ノ現状 大鷹船体 右10番「ビーム」附近ニ大破孔ヲ生ジ舵取機室大破シ操舵不能右舷主機械ハ推進軸屈曲左舷機械ハ電源切断ニヨリ強圧ポンプ停止セル為焼損停止運転不能」</ref><ref name="木俣空母529" />。被雷による死傷者は、戦死9名、重軽傷者24名と報告されている<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]pp.30-31「25日0612大鷹艦長|(被害詳報)発大鷹艦長(略)戦死者4名行方不明5名重傷3名軽傷21名」</ref>。衝撃で海に投げ出された本艦乗組員のうち、2名は大鷹救助艇に、8名は島風に収容された<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.22「1010|本艦2名島風8名溺者救助」</ref>。島風は敵潜撃沈を報告しているがカブリラは沈んでいなかった<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]]p.9「(5)島風 一日ヨリ五日迄内海西部ニ於テ研究發射及電探射撃實施十日呉在泊修理整備十一日呉發十二日横須賀着十五日摩耶鳥海ヲ護衛横須賀發二十日「トラツク」着二十一日GF電令作第七二〇號ニ依リ冲鷹大鷹ヲ護衛「トラツク」發二十四日N二八度〇分E一四〇度一〇分ニ於テ大鷹敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能同敵潜ニ對シ爆雷攻撃ヲ爲ス(効果確實)二十六日横須賀着爾後横須賀ニ在リテ待機整備」</ref><ref>[[#S1809護衛対潜|昭和18年9月、経過概要(護衛対潜)]]p.6「9月24日」</ref>。
対するカブリラも島風の反撃と悪天候により空母2隻(大鷹、冲鷹)にとどめをさすことが出来ず、また連絡を受けたアメリカ潜水艦[[ジャック (潜水艦)|ジャック]] (''USS Jack, SS-259'')も大鷹を狙うが捕捉に失敗した<ref name="木俣空母529" />。一方、航行不能になった大鷹は、冲鷹が曳航することになった<ref>[[#空母機動部隊(丸2010)]]239頁(阿土は沖鷹運用長として曳航作業を担当)</ref>。午後2時すぎ、2隻(沖鷹、大鷹)は速力11ノット程で横須賀へ向かった<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.23「1515|冲鷹320度ニ定針速力16節(實速9.2節)爾後曳航實速力11.2節」</ref>。なお駆逐艦[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]](第7駆逐隊)も救援に向かったが会合点に艦隊を発見できず、25日13時に相手の位置を尋ねている<ref>[[#S1709大鷹詳報(3)]]p.30「1256漣艦長|本艦1200ノ位置北緯29度16分東経145度34分針路340度速力20節1100予定会合点ニ於テ貴艦ヲ発見スルヲ得ズ貴艦1200ノ位置針路速力知ラサレ度」</ref>。また横須賀に停泊していた駆逐艦[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]](第27駆逐隊)も25日に大鷹救援のため出動、護衛部隊に加わった<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]]p.95「25日|白露大鷹部隊合同ノ為横須賀発2000合同護衛ニ就ク」</ref>。26日16時30分、5隻(大鷹、冲鷹、島風、漣、白露)は横須賀に到着<ref>[[#S1806二水戦日誌(3)]]p.80「26日1630冲鷹|冲鷹大鷹島風漣横須賀着(略)」、p.95「26日|島風白露冲鷹大鷹護衛任務終了横須賀着」</ref>。ドックにて調査したところ、大鷹右舷への不発魚雷命中痕跡は5ヶ所にのぼり、さらに左舷にも命中時期不明の不発魚雷命中痕跡がいくつかあったという<ref>[[#日本空母物語]]310頁</ref>。

[[横浜船渠]]([[三菱重工業株式会社横浜造船所]])における大鷹の修理は、長期間に及んだ<ref>[[#S1811海護総司令部(1)]]p.33「(一月)一一(略)大鷹横濱第一船渠ニ入渠」</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(2)]]p.48「(四月)一九(略)大鷹修理完成一四〇〇呉ニ向ケ横須賀發(略)」</ref>。この時に、飛行甲板を前方へ10m延長(長さ172m)したが<ref name="福井著11特設77" /><ref name="senpaku616"/>、それでも龍鳳(潜水母艦大鯨改造空母)より13mも短く、低速という事もあって改造効果は薄かったとみられる<ref name="木俣空母529" />。
一方、田村俊夫は乗員からの聞き取り調査を行い、飛行甲板の延長は無かったとしている<ref>[[#田村2004]]pp.114-115</ref>。
11月17日、松田(大鷹艦長)は軽巡洋艦[[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]艦長へ転任となった<ref name="jirei1264">{{アジア歴史資料センター|C13072094500|昭和18年11月18日(発令11月17日付)海軍辞令公報(部内限)第1264号 p.16}}</ref>。横須賀海軍港務部部長[[松野俊郎]]大佐が、大鷹艦長の職務を兼務する<ref name="jirei1264" />。

==== 海上護衛総司令部 ====
[[1943年]](昭和18年)[[11月15日]]、日本海軍は海上交通保護および対潜掃蕩を主任務とする[[海上護衛総司令部]]を設置した<ref>[[#S1811海護総司令部(1)]]pp.2-3「(ロ)我軍ノ情況(一)海上交通保護及對潜作戰強化ノ爲昭和十八年十一月十五日附東京ニ解呪護衛總司令部設置セラレ第一、第二海上護衛隊ヲ直属シ海上交通保護及對潜作戰ニ關シ各鎮守府各警備府(海南警備府ヲ除)司令長官ヲ指揮スルコトトナリ同日海軍大學校ニ将旗ヲ掲揚セリ」</ref><ref>[[#叢書46海上護衛戦]]301-303頁「海上護衛総司令部の設置」</ref>。
主要職員は、司令長官[[及川古志郎]]海軍大将、参謀長[[島本久五郎]]少将、首席参謀[[後藤光太郎]]大佐、作戦参謀[[大井篤]]中佐等<ref>[[#S1811海護総司令部(1)]]p.7「(一)司令部(イ)主要職員氏名」</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072094400|昭和18年11月17日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1263号 pp.41-43}}</ref>。
[[12月15日]]、海上護衛総司令部麾下に[[第九〇一海軍航空隊]]が編制される<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]307-308頁「第九〇一海軍航空隊の編成」</ref>。同日附で空母3隻(雲鷹、海鷹、大鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入<ref>[[#S1811海護総司令部(1)]]p.19「一五(略)雲鷹海鷹大鷹 第九〇一海軍航空隊ヲ當司令部部隊附属部隊ニ編入セラル」</ref>、12月20日には空母[[神鷹 (空母)|神鷹]](ドイツ客船シャルンホルスト改造空母)も編入された<ref name="叢書四六309">[[#叢書46海上護衛戦]]309-311頁「護衛空母の海上護衛総司令部部隊編入」</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(1)]]p.21「二〇(略)神鷹、附属部隊ニ編入セラル/駆逐艦芙蓉船團護衛中本日〇九一五北緯一四-一一六度東経一一九-五八ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没」</ref>。だが大鷹は入渠修理中で、また対潜哨戒機の能力も不足かつ練度不充分であり直ちに海上護衛任務に就くことは出来なかった<ref name="空母29隻281">[[#空母二十九隻]]281-282頁「護衛空母への新たなる転身」</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(1)]]p.21「(十二月)二一(略)大鷹横濱船渠會社ニ於テ損傷修理」</ref>。大井篤(作戦参謀)は、「(本型空母の使用方法について)楽しそうに研究していた護衛総司令部の参謀たちは、これには、スッカリ幻滅の悲哀を感じざるを得なかった」と回想している<ref name="大井海護178" />。また、大井は大鷹型を「不渡り手形」「栄養不良児」と表現している<ref name="大井海護178">[[#海上護衛戦(角川)]]178-179頁</ref>。

1944年(昭和19年)2月1日、日本海軍は護衛空母の飛行機隊の訓練・整備を担当する部隊として<ref>[[#叢書46海上護衛戦]]312-313頁「第九三一海軍航空隊の発足」</ref>、[[第九三一海軍航空隊]](司令[[大塚秀治]]中佐)を編成する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072095600|昭和19年2月1日(発令2月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1310号 p.6}}</ref><ref name="木俣海防68">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]68-71頁「護送空母と海防艦」</ref>。
2月15日、大鷹艦長は松野大佐から、[[別府明朋]]大佐(当時、空母[[千代田 (空母)|千代田]]艦長)に交代<ref name="jirei1324">{{アジア歴史資料センター|C13072095800|昭和19年2月15日(発令2月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1324号 p.11}}</ref>。
3月20日、日本海軍は駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]初代艦長・第11駆逐隊司令・軽巡[[球磨 (軽巡洋艦)|球磨]]の艦長(沈没時)等を歴任した[[杉野修一]]大佐を大鷹艦長に任命する<ref name="jirei1382">{{アジア歴史資料センター|C13072096800|昭和19年3月20日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1382号 p.20}}</ref>。
4月2日、修理完了<ref name="空母29隻283">[[#空母二十九隻]]283-285頁「ヒ船団の守護神となって」</ref>。大鷹は[[海上護衛総司令部|海上護衛総隊]]として本格的に行動することになった<ref name="木俣空母686">[[#木俣空母]]686-688頁「大鷹の護送作戦」</ref><ref name="叢書四六378"> [[#叢書46海上護衛戦]]378頁「護衛空母による護衛」</ref>。門司とシンガポールを結ぶ[[ヒ船団]]の護衛に使用されることとなり、4月19日に対潜哨戒用として[[第九三一海軍航空隊|第931航空隊]]所属の[[九七式艦上攻撃機]]12機を搭載した<ref name="叢書四六379">[[#叢書46海上護衛戦]]379-380頁「大鷹(旧春日丸)」</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(2)]]p.38「(八)九三一空第四飛行機隊(艦攻一二機基幹)ヲ以テ大鷹飛行機隊ヲ編成シ大鷹艦長ノ指揮下ニ入ル」</ref>。

5月3日、本艦最初の護衛航海として'''ヒ61船団'''(指揮官[[佐藤勉 (軍人)|佐藤勉]]第八護衛船団司令官、輸送船11隻・護衛艦9隻〈空母〔大鷹〕、海防艦〔[[佐渡 (海防艦)|佐渡]]、[[倉橋 (海防艦)|倉橋]]、[[第五号海防艦|海防艦五号]]、[[第七号海防艦|七号]]、[[第十七号海防艦|十七号]]〕<ref name="木俣海防68"/><ref name="雨倉護衛229">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]229頁</ref>、駆逐艦3隻〔[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[朝顔 (駆逐艦)|朝顔]]〕〉)を編成し、門司を出港<ref name="叢書四六379" /><ref name="空母29隻283"/><ref>[[#S1904第1海上護衛隊(2)]]pp.15-17「(四)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ二)」</ref><ref name="S1905別表2">[[#S1904第1海上護衛隊(2)]]p.27「別表第二 船団護衛状況(馬來直行航路)昭和十九年五月 第一海上護衛隊司令部」</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.11「三(略)「ヒ六一」船團(旗艦佐渡)大鷹等〇四〇〇 六連發」</ref>。
5月6日、仁栄丸が機関故障を起こし海防艦2隻に護衛されて高雄市(台湾)に引き返した<ref name="叢書四六599">[[#叢書46海上護衛戦]]599-600頁「十一 ヒ六一(往航)六二(復航)船団 細谷大佐」</ref>。
5月7日朝<ref name="木俣空母686" />、油槽船1隻(あかね丸)が米潜水艦に雷撃されて小破する<ref name="叢書四六379" /><ref name="雨倉護衛229" />。米潜水艦[[ホー (潜水艦)|ホー]](''USS Hoe, SS-258'')によるものであった。5月9日、ヒ61船団は速力11ノットに落とし<ref name="叢書四六599" />、マニラに寄港<ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.13『九(略)竹船團部隊一七〇〇「ハルマヘラ」着/「ヒ六一」船團二一〇〇「マニラ」着』</ref><ref>[[#S1905日栄丸(1)]]p.3「五月九日二〇五五マニラ着」</ref>。
同地で5隻(電、響、建川丸、日栄丸、あずさ丸)を分離<ref name="木俣空母686" /><ref name="空母29隻283"/>、大鷹は残る船団を護衛して5月18日にシンガポールに送り届けた(5月14日、電は米潜水艦[[ボーンフィッシュ (潜水艦)|ボーンフィッシュ]]の雷撃で沈没した。)<ref name="木俣空母686" /><ref name="叢書四六379" /><ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.14「一四(略)驅逐艦電 日榮丸船團(ヒ六一船團ニ加入五月三日門司發十日一六三〇右船團ヨリ分離マニラ發)護衛中十四日一四二〇北緯五度三分東経一一九度三六分ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没」</ref>。

折り返し、'''ヒ62船団'''(輸送船8隻・護衛艦6隻〈大鷹、佐渡、倉橋、五号、七号、十三号〉)として、シンガポールを5月23日に出航した<ref name="S1905別表2" /><ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.16「二三(略)「ヒ六二」船團(旗艦佐渡)〇七三〇昭南發」</ref>。マニラに立ち寄り<ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.32「一(略)「ヒ六二」船團(旗艦佐渡大鷹倉橋海防艦五號七號十三號)部隊〇四〇〇マニラ發」</ref>、6月7日六連着<ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.33「七(略)「ヒ六二」船團部隊〇七三〇 六連着」</ref>、8日に無傷で門司へ到着した<ref name="叢書四六379" /><ref name="S1906海上護衛(1)18">[[#S1906第1海上護衛隊(1)]]pp.18-20「(四)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ二)」</ref>。大鷹の初めての船団護衛は、概ね成功に終わった<ref name="木俣空母686" /><ref name="特設入門198">[[#大内、特設|特設艦船入門]]198-200頁</ref>。ヒ61-62船団運航指揮官の細谷大佐は、大鷹の護衛について「大鷹ガ護衛ニツキ昼間ハ少クトモ楽ナリ、大鷹ノ活動ハ献身的ナリ」と高く評価した<ref name="叢書四六599" />。

その後、呉海軍工廠に回航され修理に従事した<ref>[[#S1906第1海上護衛隊(1)]]p.8「(1)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇 大鷹|自六月十日至六月三十日|呉海軍工廠|舵取機修理舵軸空所修理」</ref><ref name="S1906海上護衛(1)18" />。

{{Main|ヒ68船団}}
7月9日、修理完了<ref>[[#S1906第1海上護衛隊(2)]]p.8「(ハ)入渠修理工事実施ノタメ行動セザリシ艦艇 大鷹|自七月一日至七月九日|呉海軍工廠|船体・兵器・機関ノ整備」</ref>。
空母3隻(大鷹、海鷹、神鷹)は航空機輸送任務にともない'''ヒ69船団'''(旗艦[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]])に加入<ref>[[#S1904船団護衛(2)]]p.21「別紙第一(其ノ一)」</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.53「一三(略)「ヒ六九」船團(第五護衛船團司令官香椎神鷹其他)一六〇〇六連發/大鷹海鷹輸送任務ヲ帯ビ「マニラ」迄右船團ト同行」</ref>。7月13日に出航しマニラへ[[第一航空艦隊]]再建用の機材(合計124機)を輸送する<ref name="木俣空母689">[[#木俣空母]]689-692頁「第一航空艦隊への飛行機輸送(七月)」</ref>。7月20日、ヒ69船団はマニラ到着<ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.55「二〇(略)「ヒ六九」船團二一〇〇「マニラ」着/「ヒ六八」船團一三〇〇「マニラ」着」</ref>。荷揚げ後、大鷹はシンガポール発の'''[[ヒ68船団]]'''に合流、内地に帰投することになった<ref>[[#S1906聖川丸(2)]]p.66「(三)船團航行隊形」</ref><ref>[[#S1906聖川丸(2)]]pp.17-18「二三日二〇〇一第八護衛船団司令官(宛略)(略)一.護衛艦平戸(旗艦)倉橋草垣御蔵鵯海十一海二十以上七隻/二.加入船A船摩耶丸(VKQ)便乗者一〇七名大鳥山丸(GSP)航揮 第二日南丸(ETT)航揮 辰馬丸(CBT)便乗者二〇〇名 日正丸(IPN)便乗者一一〇名俘虜一五五〇名 東山丸(FAM)便乗者一一名 香椎丸(HOT) 安藝丸(GMR) 東邦丸(BAU)重油石油 B船 厳島丸(YQL) 東亜丸(BAU)航揮重油 神鳳丸シュウオウ丸(WET)航揮海特 聖川丸(NZL)便乗者三五〇名ボーキサイト重油 '''大鷹''' 以上十四隻」</ref>。
7月23日、ヒ68船団はマニラを出発<ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.55「二三(略)「ヒ六八」船團〇六〇〇門司ニ向ケ「マニラ」發」</ref>、7月30日、六連着<ref>[[#S1811海護総司令部(3)]]p.57「三〇(略)「ヒ六八」船團部隊〇七三〇 六連着」</ref><ref>[[#S1908第1海上護衛隊(1)]]pp.27-29「(四)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ三)」</ref>。だがヒ68船団は米軍潜水艦複数隻([[アングラー (潜水艦)|アングラー]]、[[フラッシャー (潜水艦)|フラッシャー]]、[[クレヴァル (潜水艦)|クレヴァル]])の襲撃により、沈没3隻(大鳥山丸<ref>[[#S1907護衛対潜|昭和19年7月、経過概要(護衛対潜)]]p.8「7月28日」</ref>、安芸丸<ref>[[#S19.07.21-07.31経過概要]]p.20「安藝丸(A貨客11409t空船)「ルソン」島NWニ於テ被害ヲ受ク|菲蘭 陸|詳細不明」</ref>、東山丸<ref>[[#S19.07.21-07.31経過概要]]p.19「東山丸(C貨8600t部隊110名乗船)ハ「ルソン」島NWニテ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク7月26日|菲蘭 民|炎上」</ref>)、[[聖川丸 (特設水上機母艦)|聖川丸]]損傷という被害を出した。
8月2日、海上護衛司令長官[[及川古志郎]]大将は軍令部総長へ転任、後任は[[野村直邦]]海軍大将となる(海上護衛司令長官と横須賀鎮守府司令長官の兼務)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072100500|昭和19年8月9日(発令8月2日付)海軍辞令公報(甲)第1558号 pp.1,4-5}}</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(4)]]p.11「三(略)及川司令長官軍令部總長ニ親補セラレ野村直邦大将海上護衛司令長官ニ親補セラル」</ref>。

{{Main|ヒ71船団}}
[[8月8日]]、大鷹は門司および六連を出撃<ref name="木俣空母694">[[#木俣空母]]694-698頁</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(4)]]p.13「八(略)ヒ七一船團二〇隻平戸(六ES旗艦)大鷹倉橋御蔵海一一藤波夕凪昭南〇六〇〇 六連發|海防艦昭南第一海上護衛隊ニ編入」</ref>、[[駆逐艦]]3隻([[藤波 (駆逐艦)|藤波]]、[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]、〈馬公で途中合流の[[朝風 (2代神風型駆逐艦)|朝風]]〉)と[[海防艦]]複数隻([[平戸 (海防艦)|平戸]]、[[倉橋 (海防艦)|倉橋]]、[[御蔵 (海防艦)|御蔵]]、[[昭南 (海防艦)|昭南]]、[[第十一号海防艦]]、〈馬公で途中合流の[[佐渡 (海防艦)|佐渡]]、[[松輪 (海防艦)|松輪]]、[[日振 (海防艦)|日振]]、[[択捉 (海防艦)|択捉]]〉)<ref name="木俣海防68"/><ref name="木俣海防71">[[#木俣海防|日本海防艦戦史]]71-73頁「海防艦三隻、同時に喪失」</ref>とともに、[[タンカー]]4隻([[速吸 (給油艦)|速吸]]、帝洋丸、永洋丸、あづさ丸)、[[陸軍特種船]]、貨物船多数、給糧艦[[伊良湖 (給糧艦)|伊良湖]]などからなる重要船団'''ヒ71船団'''(指揮官:第六護衛船団司令官[[梶岡定道]]少将)を護衛していた<ref name="叢書四六384">[[#叢書46海上護衛戦]]384頁「ヒ七一船団の被害」</ref><ref name="空母29隻286">[[#空母二十九隻]]286-287頁「夜の海にひそむ米潜の恐怖」</ref>。
ヒ71船団の重要目的の一つは、[[ルソン島]]配備予定の[[第26師団 (日本軍)|第26師団]]の海上輸送であった<ref name="叢書四一131">[[#叢書41|戦史叢書41巻]]131-132頁「第二十六師団船団」</ref>。陸軍将兵の合計は約37,600名に達した<ref name="叢書四一131" />。
しかし、船団は当初より米潜水艦3隻([[レッドフィッシュ (潜水艦)|レッドフィッシュ]]、[[ピクーダ (潜水艦)|ピクーダ]]、[[スペードフィッシュ (潜水艦)|スペードフィッシュ]])の追跡を受けていた<ref name="木俣空母694" />。
[[8月18日]]朝、永洋丸が被雷し<ref name="雨倉護衛230" />、駆逐艦夕凪に護衛されて高雄市に引き返した<ref name="叢書四六384" /><ref name="S1908護衛対潜ヒ71">[[#S1908護衛対潜|昭和19年8月、経過概要(護衛対潜)]]pp.3-4「8月18日」</ref>。ヒ71船団は南下を続けるが、フィリピン西岸に到達する頃には悪天候に悩まされる<ref name="叢書四六384" /><ref name="雨倉護衛231">[[#雨倉コンボイ|海軍護衛艦物語]]231-232頁「護衛空母陣、壊滅!」</ref>。

同日午後10時28分(戦闘詳報記録10時25分)<ref name="雨倉護衛231" />、大鷹はルソン島東方にてアメリカ潜水艦[[ラッシャー (潜水艦)|ラッシャー]](''USS Rasher, SS-269'')の雷撃を受けた<ref>[[#野元、航母(2013)]]305-306頁「レーダー像から姿を消す(大鷹VSラシャ―)」</ref>。
[[レーダー]]で船団を捕捉していたラッシャーは、相手が空母とは気付かぬまま浮上状態で艦尾発射管より魚雷2本を発射<ref name="木俣空母694" />。魚雷1本が大鷹の右舷後部に命中し、艦底部ガソリンタンクの爆発により300mもの火柱があがった<ref>[[#木俣空母]]696頁『大鷹の被雷図』</ref>。続いて火災が大鷹の弾薬庫を誘爆させ、やがて左舷側のタンクも爆発し(大鷹艦長の報告によれば午後10時40分に左舷重油庫に魚雷1本命中)<ref name="雨倉護衛231" />、搭載していた九七艦攻12機ごと沈没した<ref name="木俣空母694" />。沈没地点記録{{coor dm|18|12|N|120|22|E|}}<ref name="叢書四六379" /><ref>[[#S1908第1海上護衛隊(1)]]p.6「(ハ)大鷹ヒ七一船団(八月一七日馬公発「マニラ」行)ヲ護衛一八日夜呂栄距岸三浬ヲ南下中二二二五北緯一八度一二分東経一二〇度二二分ニ於テ敵潜水艦ノ攻撃ヲ受ケ沈没セリ」</ref><ref>[[#S1811海護総司令部(4)]]p.15「一八(略)大鷹ヒ七一船團護衛中二二二八北緯一八度一〇分東經一二〇度二二分ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ沈没」</ref>。

ヒ71船団の輸送船能登丸の二等運転士として[[船橋 (船)|船橋]]にいた宇野公一によれば、大鷹は輸送船団の中央後方にいて、速力12ノット程度で航行していたという<ref>[[#特攻船団]]145-146頁</ref>。大鷹の大爆発と沈没はヒ71船団を動転させた<ref>[[#海上護衛戦(角川)]]320頁</ref>。ヒ71船団は統制のとれないまま思い思いの方向に四散し<ref>[[#特攻船団]]150頁、156-157頁</ref>、大損害を受けた<ref name="雨倉護衛230" /><ref name="特設入門198"/>。大鷹を含め艦船多数(大鷹、[[帝亜丸]]<ref>[[#氷川丸時代|氷川丸とその時代]]277-279頁「暗き海の記憶(帝亜丸)」</ref>、速吸、帝洋丸、東亜丸、玉津丸)が沈没し<ref name="雨倉護衛230" /><ref name="S1908護衛対潜ヒ71"/>、損傷艦も続出した<ref>[[#S19.08.11-08.20経過概要]]p.10「船團名(ヒ71)」</ref><ref>[[#S1908第1海上護衛隊(1)]]p.45「別表第二 船団護衛状況(馬來直航々路 昭和十九年八月 第一海上護衛隊司令部」</ref>。[[大井篤]]海上護衛総隊参謀は「たった一夜でまことに惨愴たる被害であった」と回想している<ref>[[#海上護衛戦(角川)]]321頁</ref>。

8月30日、杉野修一大佐は大鷹艦長の任を解かれた<ref name="jirei1588">{{アジア歴史資料センター|C13072100900|昭和19年9月8日(発令8月30日付)海軍辞令公報(甲)第1588号 p.4}}</ref>。10月10日、大鷹は軍艦籍<ref name="S19内令1165号">[[#内令(秘)昭和19年10月(2)]]pp.36-37「内令第一一六五號 呉鎮守府在籍 軍艦 白鷹|佐世保鎮守府在籍 軍艦 大鷹|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 長良、軍艦 名取|右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝風、驅逐艦 五月雨|呉鎮守府在籍 驅逐艦 敷波|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 夕凪|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 松|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和十九年十月十日 海軍大臣」</ref>、大鷹型航空母艦<ref>[[#内令(秘)昭和19年10月(2)]]p.35「内令第一一五九號 艦艇類別等級別表中次ノ通改正ス 昭和十九年十月十日 海軍大臣|軍艦、巡洋艦二等長良型ノ項中「長良、」「、名取」ヲ、同航空母艦大鷹型ノ項中「大鷹、」ヲ、同敷設艦ノ部中「、白鷹」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、朝風」「、夕凪」ヲ、同初雪型ノ項中「、敷波」ヲ、同白露型ノ項中「、五月雨」ヲ、同松型ノ項中「松、」ヲ削ル(以下略)」</ref>のそれぞれから除籍された。

現在、大鷹の[[慰霊碑]]が長崎県佐世保市の旧海軍墓地[[東公園 (佐世保市)|東公園]]にある。

== 年表 ==
* [[1940年]](昭和15年)
** [[1月16日]] - 客船春日丸として起工。
** [[9月19日]] - 進水。
* 1941年(昭和16年)
** [[5月1日]] - 徴用され特設航空母艦となる<ref name="丸写真4大鷹"/>。佐世保鎮守府所管<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[8月31日]] - 竣工<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[9月1日]] - [[第五航空戦隊]]旗艦に指定される<ref name="海軍公報(部内限)3888号18"/>。9月10日、五航戦旗艦を翔鶴に変更<ref name="海軍公報(部内限)3897号14"/>。
** [[9月25日]] - [[第四航空戦隊]]編入<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[10月4日]] - 佐世保出発、九州方面で行動<ref name="丸写真4大鷹"/>。22日、鹿児島発<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[10月26日]] - [[高雄市]]([[台湾]])到着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[11月7日]] - 高雄発、11月10日佐世保着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[11月13日]] - 連合艦隊附属<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[11月26日]] - 佐世保発、12月1日に高雄着<ref name="丸写真4大鷹"/>。2日出発、パラオ方面輸送、12日に徳山着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[12月31日]] - 呉鎮守府部隊編入<ref name="丸写真4大鷹"/>。
* 1942年(昭和17年)
** [[2月20日]] - 呉出発、22日に横須賀到着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[2月25日]] - 横須賀発、トラック泊地への零戦輸送に従事<ref name="木俣空母133" />。
** [[3月12日]] - 呉に帰投<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[3月31日]] - 呉を出発、横須賀回航、4月1日着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[4月3日]] - 横須賀出発、マーシャル諸島への航空機輸送任務に従事<ref name="木俣空母133" />。
** [[4月11日]] - ラバウル入港、翌日出発<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[5月3日]] - 米潜水艦ガトーから雷撃されるが命中せず。
** [[5月16日]] - 内地帰投<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[8月17日]] - 戦艦大和、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と内地を出撃<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[8月27日]] - 大和と分離、曙と共にタロア島へ。
** [[8月31日]] - 大鷹に改名<ref name="丸写真4大鷹"/>。これ以降、南方方面への航空機輸送任務に就く。
** [[9月2日]] - ラバウル着。
** [[9月4日]] - トラック着、すぐにパラオ方面へ進出<ref>[[#戦藻録(1968)]]183頁</ref>。
** [[9月12日]] - [[ダバオ]](フィリピン、[[ミンダナオ島]])着<ref name="丸写真4大鷹"/>。翌日出発、17日に[[カビエン]]着、同日発<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[9月21日]] - ダバオ着、翌日出発<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[9月28日]] - 第7駆逐隊と共にトラック泊地着、だが寸前に米潜水艦([[トラウト (SS-202)|トラウト]])から雷撃され魚雷1本命中<ref>[[#S17.09.17-09.28経過概要]]p.17「9月28日」</ref>。
** [[10月4日]] - 時津風・漣とトラック発、14日呉着<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.19「損傷箇所修理ノタメ4日トラック発呉ニ回航14日呉着」</ref>。16日〜26日呉第四船渠で修理<ref>[[#S1709大鷹詳報(1)]]p.19「10月16日損傷箇所修理ノタメ呉工廠第四船渠ニ入渠26日修理完了出渠」</ref>。
** [[10月28日]] - 呉を出発<ref>[[#S17-07呉防備戦隊(4)]]p.16「(ツ)十月二十八日大鷹出撃」</ref>、横須賀回航<ref>[[#S17-09呉鎮日誌(3)]]p.62「廿七日一六四五呉鎭司令長官(宛略)呉鎭機密第二七一六四五番電 電令作第五九號 一、大鷹横須賀ニ向ケ二十八日一七〇〇沖ノ島通過爾後 響、漣ヲ伴ヒ針路概ネ一〇五度速力二十節ノ豫定(以下略)」</ref>。
** [[11月1日]] - 横須賀発。6日トラック着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。カビエン冲経由16日横須賀着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。
** 11月19日 - 横須賀発。25日トラック着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。
** 11月26日 - トラック発。12月5日横須賀着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。
** 12月15日 - 横須賀発。12月21日トラック着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。
** 12月22日 - トラック発、カビエン経由で12月31日に横須賀着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。
* 1943年(昭和18年)
** 2月1日 - 横須賀発。2月7日トラック着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。
** 2月11日 - 雲鷹と共にトラック発。2月17日横須賀着<ref name="叢書中部太平洋海軍(2)215" />。
** 2月24日 - 雲鷹と共に横須賀発、3月2日トラック着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** 3月6日 - 雲鷹と共にトラック発、3月12日横須賀着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** 4月4日 - 冲鷹、鳥海、護衛駆逐艦(響、漣、黒潮、親潮)と共に横須賀発<ref>[[#S1801二水戦日誌(4)]]p.34「大鷹艦長/一.大鷹、冲鷹、響、漣、黒潮、親潮ヲ率ヰ4月3日「トラック」ニ向ケ横須賀発ノ予定 二.黒磯、親潮ハ出撃準備完成ノ後燃料満載4月1日迄ニ横須賀ニ回航スベシ」</ref><ref>[[#S18-04十一水戦日誌(1)]]p.7「二日一三三四大鷹艦長(宛略)大鷹、冲鷹、響、漣、黒汐、親汐ヲ率ヰ四月三日「トラツク」ニ向ケ横須賀發|無電」</ref>。4月10日、トラック着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** 4月16日 - 冲鷹他と共にトラック発<ref>[[#S1801二水戦日誌(5)]]p.30「AdB指揮官|4月14日1447対潜掃蕩隊|掃蕩隊(略)4月16日0600「トラック」発予定ノ大鷹冲鷹(護衛艦時雨有明)ノ護衛ニ協力(礁外300浬附近迄)シツツ敵銭掃討ニ任ズベシ」</ref>。21日、横須賀着<ref>[[#S17-12四水戦日誌(6)]]p.55「二一(天候略)一、27dg(時雨、有明)〇八三〇横須賀着(以下略)」</ref>。
** 5月1日 - 横須賀発、5月6日マニラ着<ref name="丸写真4大鷹"/>。5月8日マニラ発、5月13日スラバヤ着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** 5月16日 - スラバヤ発、5月18日昭南(シンガポール)着<ref name="丸写真4大鷹"/>。5月21日昭南発、5月25日馬公着<ref name="丸写真4大鷹"/>。5月27日馬公発、5月29日佐世保着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** 7月15日 - 佐世保発、17日横須賀到着<ref name="丸写真4大鷹"/>。7月23日、横須賀発。7月28日トラック着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** 8月4日 - 大波とトラック発。8月6日米潜水艦パイクから雷撃されるが不発、8月9日横須賀着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** 9月24日 - 冲鷹、島風と横須賀回航中、米潜水艦(カブリラ)から雷撃され大破、冲鷹に曳航されて退避<ref>[[#S18.09.14-09.30経過概要]]p.18「9月24日」</ref>。26日横須賀着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
* 1944年(昭和19年)
** [[4月19日]] - 横須賀出発、22日呉到着<ref name="丸写真4大鷹"/>。
** [[4月29日]] - 海上護衛部隊に編入<ref name="叢書四六378" /><ref>[[#S1904第1海上護衛隊(1)]]p.4「(イ)我軍ノ状況」</ref>。
** [[8月18日]] - ヒ71船団の護衛任務中に米潜水艦(ラッシャー)の雷撃で沈没<ref>[[#S19.08.11-08.20経過概要]]p.9「ヒ71船團」</ref>。
** [[10月10日]] - 除籍<ref name="S19内令1165号"/>。

==艦長==
;艤装員長
#石井芸江 [[大佐]]:1941年5月1日<ref name="jirei631" /> - 1941年8月11日<ref name="jirei688" />
#高次貫一 大佐:1941年8月11日<ref name="jirei688" /> - 1942年8月31日<ref name="公報限4182" />

;艦長
#高次貫一 大佐:1942年8月31日<ref name="公報限4182" /> - 1942年10月24日<ref name="jirei971" />
#篠田太郎八 大佐:1942年10月24日<ref name="jirei971" /> - 1943年5月29日<ref name="jirei1130" />
#松田尊睦 大佐:1943年5月29日<ref name="jirei1130" /> - 1943年11月17日<ref name="jirei1264" />
#(兼)松野俊郎 大佐:1943年11月17日<ref name="jirei1264" /> - 1944年2月15日<ref name="jirei1324" />(本職:横須賀海軍港務部長)
#別府明朋 大佐:1944年2月15日<ref name="jirei1324" /> - 1944年3月20日<ref name="jirei1382" />
#杉野修一 大佐:1944年3月20日<ref name="jirei1382" /> - 1944年8月30日<ref name="jirei1588" />


== 同型艦 ==
== 同型艦 ==
* [[雲鷹 (空母)|雲鷹]]
* [[雲鷹 (空母)|雲鷹]]
* [[冲鷹 (空母)|冲鷹]]
* [[冲鷹 (空母)|冲鷹]]
* [[神鷹 (空母)|神鷹]]
* [[海鷹 (空母)|海鷹]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references/>
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* <!-- アメクラ2009 -->{{Cite book|和書|author=雨倉孝之|authorlink=雨倉孝之|coauthors=|year=2009|month=2|origyear=|title=海軍護衛艦物語|chapter= |publisher=光人社|series=|isbn=978-4-7698-1417-7|ref=雨倉コンボイ}}
* 雑誌「丸」編集部、写真|日本の軍艦 第4巻 空母Ⅱ、光人社、1989年
*{{Cite book|和書|author=[[宇野公一]]|coauthors=|year=1977|title=雷跡!!右30度 {{small|特攻団戦記}}|publisher=成山堂書店|isbn=|ref=特攻船団}}
* <!-- イイオ -->{{Cite book|和書|author=飯尾憲人|year=1983|month=7|title=艦と人 {{small|海軍造官八百名の死闘}}|publisher=集英社|isbn=4-08-772441-7|ref=艦と人}}
* <!-- ウガキ -->{{Cite book|和書|author=宇垣纏|authorlink=宇垣纏|coauthors=成瀬恭発行人|year=1968||month=1|title=戦藻録 {{small|明治百年史叢書}}|publisher=原書房|isbn=|ref=戦藻録(1968)}}
* 長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
* <!-- ウノ -->{{Cite book|和書|author=宇野公一|authorlink=宇野公一|coauthors=|year=1977|title=雷跡!!右30度 {{small|特攻船団戦記}}|publisher=成山堂書店|isbn=|ref=特攻船団}}
* モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年
* <!-- オオイ2014 -->{{Cite book|和書|author=大井篤|authorlink=大井篤|coauthors=|year=2014|month=5|origyear=1953|title=海上護衛戦|chapter=第6章 崩れ去る夏の陣(昭和19年6月から同年8月まで)|publisher=角川文庫|isbn=978-4-04-101598-8|ref=海上護衛戦(角川)}}
* 雑誌「歴史群像」太平洋戦史シリーズ Vol.64 『睦月型駆逐艦』、学習研究社 2008年、ISBN 978-4-05-605091-2
* <!-- オオウチ2005 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2005|month=4|title=護衛空母入門 {{small|その誕生と運用メカニズム}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2451-3|ref=護衛空母入門}}
*海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
* <!-- オオウチ2008 -->{{Cite book|和書|author=大内建二|authorlink=|year=2008|month=4|title=特設艦船入門 {{small|海軍を支えた戦時改装船徹底研究}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2565-4|ref=大内、特設}}
*外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
* <!-- オカムラ -->{{Cite book|和書|author={{smaller|神鷹とシャルンホルストを偲ぶ会}}岡村信幸|coauthors=|year=1999|month=12|origyear=|chapter=|title=日の丸ドイツ船|publisher=岩波ブックサービスセンター|isbn=|ref=日の丸ドイツ船}}
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* <!-- サンケイ -->{{Cite book|和書|volume=|title=空母機動部隊|publisher=サンケイ出版|date=1984-07|isbn= 4-383-02325-8|ref=空母機動部隊 日米、太平洋の航空決戦}}
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* <!--センパク-->{{Cite journal|和書|author=船舶編集部|title=應召した日の丸船隊〔4〕太平洋戦争と舊海軍特設艦船について|journal=船舶|volume=24|issue=11|publisher=天然社|date=1951-11|pages=616-622|naid= |url=https://zousen-shiryoukan.jasnaoe.or.jp/wp/wp-content/uploads/item/senpaku/senpaku-vol24-11.pdf|ref=船舶}}
* <!-- ソトヤマ -->外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
* <!-- タカハシ -->{{Cite book|和書|author=高橋定ほか|coauthors=|year=2013|month=1|origyear=|title=母艦航空隊 {{smaller|体験で綴る空母機動部隊の一挙一動と海空戦の真相!}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1538-9|ref=母艦航空隊}}
**{{small|当時「大鷹」戦闘機隊・海軍一飛曹}}[[谷水竹雄]]『御紋章なき空母「大鷹戦闘機隊」初陣記 {{small|商船改造軽空母の最初にして最後の戦闘機隊として乗り組んだ五十日}}』
* <!-- タムラ2004 -->{{Cite journal|和書|author=田村俊夫|title=空母「雲鷹」(八幡丸)、「大鷹」(春日丸)の兵装を検証する|date=2004-05|publisher=学習研究社|journal=帝国海軍 真実の艦艇史|volume=〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ Vol.45|issue=|naid=|pages=107-116|ref=田村2004}} ISBN 4-05-603412-5
* <!-- タムラ2007 -->{{Cite journal|和書|author=田村俊夫|title=43号・45号・51号の補遺と訂正|date=2007-01|publisher=学習研究社|journal=帝国海軍 艦載兵装の変遷|volume=〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ Vol.57|issue=|naid=|pages=180-189|ref=田村2007}} ISBN 4-05-604599-2
* <!--ニホ-->{{Cite book|和書|volume=明治百年史叢書 第207巻|title=昭和造船史(第1巻)|editor=(社)日本造船学会|edition=第3版|publisher=原書房|date=1981|origdate=1977-10|isbn=4-562-00302-2|ref=昭和造船史1}}
* <!-- ノモト2013 -->{{Cite book|和書|author=野元為輝ほか|coauthors=|year=2013||month=06|title=航空母艦物語 {{small|体験で綴る日本空母の興亡と変遷!}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1544-0|ref=野元、航母(2013)}}
**{{small|戦史研究家}}大浜啓一『青い目の見た軽空母七隻の最後 {{small|海中深くひそむ米潜水艦と鷹型空母の息づまる対決}}』
* <!-- ハセガワ -->長谷川藤一、軍艦メカニズム図鑑-日本の航空母艦、グランプリ出版、1997年
* <!--フクイ1982-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|date=1982-04|title=海軍艦艇史 3 航空母艦、水上機母艦、水雷・潜水母艦|publisher=KKベストセラーズ|isbn=4-584-17023-1|ref=海軍艦艇史3}}
* <!--フクイ1994-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|date=1994|title=写真 日本海軍全艦艇史|publisher=ベストセラーズ|isbn=4-584-17054-1|ref=日本海軍全艦艇史}}<!-- 上巻、下巻、資料篇 -->
* <!-- フクイ1996 -->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|year=1996|month=8|title=<small>福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第七巻</small> 日本空母物語|publisher=[[光人社]]|isbn=4-7698-0655-8|ref=日本空母物語}}
*<!--フクイ2001-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|editor=阿部安雄・戸高一成/編集委員|year=2001|month=4|title={{small|福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記}} 日本特設艦船物語|chapter=第三章 特設航空母艦|volume=第11巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0998-0|ref=福井著作11}}
* <!--ホウエイチョウ38 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=[[戦史叢書]] 中部太平洋方面海軍作戦<1> {{small|昭和17年5月まで}}|volume=第38巻|year=1970|month=10|publisher=[[朝雲新聞社]]|ref=叢書38}}
* <!--ホウエイチョウ41 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 捷号陸軍作戦(1) {{small|レイテ決戦}}|volume=第41巻|year=1970|month=12|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書41}}
* <!-- ボウエイショウ46 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 海上護衛戦|volume=第46巻|year=1971|month=5|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref=叢書46海上護衛戦}}
* <!--ホウエイチョウ62 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2) {{small|昭和十七年六月以降}}|volume=第62巻|year=1973|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書62}}
* <!--マキノ-->{{Cite book|和書|editor1=牧野茂|editor1-link=牧野茂 (軍人)|editor2=福井静夫|editor2-link=福井静夫|date=1987-05|title=海軍造船技術概要|publisher=今日の話題社|isbn=4-87565-205-4|ref=海軍造船技術概要}}
* <!--マル-->{{Cite book|和書|title=<small>写真</small>日本の軍艦 第4巻 <small>空母II</small>|editor=雑誌『丸』編集部|editor-link=丸 (雑誌)|publisher=光人社|date=1989-10|isbn=4-7698-0454-7|ref=丸写真第4巻}}
* <!-- マル -->{{Cite book|和書|author=雑誌「丸」編集部|coauthors=|year=2010||month=7|chapter=|title=空母機動部隊 {{small|私は非情の海空戦をこう戦った!}}|publisher=光人社|isbn=|ref=空母機動部隊(丸2010)}}
**{{small|元「冲鷹」運用長・海軍中尉}}阿土拓司『改造空母「沖鷹」八丈島沖合に消ゆ {{small|むかし豪華客船「新田丸」}}』
* <!-- マル -->{{Cite book|和書|author=「丸」編集部|chapter=憤怒をこめて絶望の海を渡れ {{small|"不死鳥"の異名をとった駆逐艦「響」激闘一代記 - 宮川正}}|title={{small|駆逐艦戦記}} 駆逐艦「神風」電探戦記|publisher=光人社NF文庫|year=2011|month=7|origyear=1990|ISBN=978-4-7698-2696-5|ref=神風電探戦記}}
* <!-- モデルアート -->モデルアート臨時増刊、艦船模型スペシャルNo.18-商船改造空母、モデルアート社、2005年
* <!-- ヨコイ -->{{Cite book|和書|author=横井俊之ほか|coauthors=|year=2016||month=2|title=空母二十九隻 {{small|日本空母の興亡変遷と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1611-9|ref=空母二十九隻}}
**{{smaller|元三十五突撃隊・海軍二等兵曹・艦艇研究家}}正岡勝直『鷹型ミニ空母五隻が辿った薄幸の生涯 {{smaller|客船改造の大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹の船団護衛と潜水艦との戦い}}』
**{{smaller|戦史研究家}}塚田享、{{smaller|戦史研究家}}丹羽年雄、{{smaller|元「海鷹」甲板士官・海軍中尉}}徳富敬太郎、{{smaller|元「大鷹」飛行長・海軍少佐}}五十嵐周正『悲運の護衛輸送空母たちの航跡』/『特設空母「大鷹」の思い出 {{smaller|五十嵐周正}}』
**{{smaller|戦史研究家}}伊達久『日本海軍航空母艦戦歴一覧 {{smaller|伊吹および雲龍型未成艦をふくむ空母二十九隻の太平洋戦争}}』
* <!-- ユウセン -->{{Cite book|和書|author=郵船OB氷川丸研究会|coauthors=|year=2008|month=2|title=氷川丸とその時代|publisher=海文堂出版株式会社|isbn=978-4-303-63445-2|ref=氷川丸時代}}
* <!-- レキシグンゾウ -->雑誌「歴史群像」太平洋戦史シリーズ Vol.64 『睦月型駆逐艦』、学習研究社 2008年、ISBN 978-4-05-605091-2
* 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」

* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C13072024200|title=昭和19年1月31日現在10版 内令提要追録第14号原稿(防衛省防衛研究所)巻3/第13類艦船(1)|ref=編制(昭和19年1月31日現在)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121196200|title=昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度帝国海軍戦時編制/附表|ref=昭和17年度帝国海軍戦時編制}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14121196500|title=昭和17年度 帝国海軍戦時編制(内示案) 昭和16.9.12/ 昭和17年度戦時駆逐隊・潜水隊・水雷隊・掃海隊・驅潛隊・通信隊・航空隊編制予定表 昭和17年度警備隊・防備隊附属艦艇及防備機関編制予定表 昭和17年度戦時艦船飛行機搭載予定表/第1表~第9表|ref=昭和17年度帝国海軍戦時編制・駆逐隊他}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14120978900|title=支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/7駆隊機密第27号の22 第7駆逐隊支那事変第10回功績概見表|ref=支那事変第10回功績(7駆)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C14120991500|title=支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/漣機密第5号の2 駆逐艦漣支那事変第10回功績概見表|ref=支那事変第10回功績(漣)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08051772000|title=昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書|ref=戦隊行動調書}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030126000|title=昭和18年4月1日~昭和18年11月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)|ref=S18-04十一水戦日誌(1)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030141100|title=昭和19年6月1日~昭和19年7月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)|ref=S1906第1海上護衛隊(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030141400|title=昭和19年8月1日~昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)|ref=S1908第1海上護衛隊(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030708100|title=昭和19年4月~昭和19年8月14日 船団護衛任務報告(2)|ref=S1904船団護衛(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030685100|title=昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1905日栄丸(1)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030649400|title=昭和19年6月1日~昭和19年12月31日 聖川丸戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1906聖川丸(2)}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120657300|title=昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和17年9月|ref=S1709護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120658500|title=昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年9月|ref=S1809護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120658700|title=昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年11月|ref=S1811護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120659600|title=昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年5月|ref=S1905護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120659700|title=昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年6月|ref=S1906護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120659800|title=昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年7月|ref=S1907護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120659900|title=昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年8月|ref=S1908護衛対潜}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120633600|title=昭和17.7.1~昭和17.9.28 太平洋戦争経過概要 その3/17年9月17日~17年9月28日|ref=S17.09.17-09.28経過概要}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120637100|title=昭和18.8.15~昭和18.12.31 太平洋戦争経過概要 その6/18年9月14日~18年9月30日|ref=S18.09.14-09.30経過概要}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120644000|title=昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要 その9/19年7月21日~19年7月31日|ref=S19.07.21-07.31経過概要}}
**{{Cite book|和書|id=Ref.C16120644700|title=昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要 その9/19年8月11日~19年8月20日|ref=S19.08.11-08.20経過概要}}

*{{Cite book|title=SS-212, USS GATO, Part 1|url=https://issuu.com/hnsa/docs/ss-212_gato_part1|format=issuu|publisher=Historic Naval Ships Association|ref=SS-212, USS GATO, Part 1}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]]
* [[航空母艦]]
* [[浅間丸]]

== 外部リンク ==
* {{Cite web|和書|url= http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00460/mokuji.htm |title= 戦前日本の最優秀客船 新田丸 |work= 成果物情報 |publisher= 日本財団図書館 |accessdate= 2015-1-5 }}


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[[Category:日本の航空母艦]]
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春日丸 / 大鷹
大鷹(1943年9月30日、横須賀)[1]
大鷹(1943年9月30日、横須賀)[1]
基本情報
建造所 三菱重工業長崎造船所(客船建造)[2]
佐世保海軍工廠(空母改造)[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 特設航空母艦[3]航空母艦[4]
級名 大鷹型
母港 佐世保[3]
艦歴
起工 1940年(昭和15年)1月6日[2]
進水 1940年9月19日春日丸として進水[2]
竣工 1941年(昭和16年)9月5日特設航空母艦として竣工[2]
就役 1942年(昭和17年)8月31日航空母艦籍に編入、大鷹に改名[5]
最期 1944年8月18日沈没[2]
除籍 1944年(昭和19年)10月10日[6]
改名 春日丸 → 大鷹[5]
要目(特記無きは計画)
基準排水量 17,830英トン[7]
公試排水量 20,000トン[7][8]
満載排水量 21,262.80トン[9]
全長 180.24m[7][8]
水線長 約173.70m[7][8]
垂線間長 168.00m[7][8]
最大幅 23.70m[7]
水線幅 22.50m[7][8]
深さ 23.50m(飛行甲板まで)[7]
飛行甲板 長さ:162.0m x 幅:23.5m[10][注釈 1]
エレベーター(13x12m)2基[8][11]
吃水 公試平均 8.00m[7][8]
満載平均 8.26m[7]
ボイラー 三菱式水管缶4基[12][8]
補助缶2基[12]
主機 三菱ツェリー式(高低圧[13])タービン2基[8][14]
推進 2軸 x 140rpm[12]、直径5.000m[15]
出力 25,200hp[7][8]
速力 計画 21.0ノット[7][注釈 2]
1944年5月調査 21.63ノット[16]
燃料 計画 2,250トン[7]
1944年5月調査 2,273トン[16]
航続距離 計画 8,500カイリ / 18ノット[7][8][注釈 2]
1944年5月調査 8,538カイリ / 18ノット[16]
乗員 定員 747名(1941年4月26日)[8][17]
搭載能力 九一式魚雷 36本[18]
爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個[19]
飛行機用軽質油 190トン[9]
兵装 竣工時(春日丸)[20]
12cm単装高角砲4基
25mm連装機銃2基
13mm4連装機銃2基
最終時[21]
12cm単装高角砲4基
25mm3連装機銃8基
同連装機銃2基
同単装機銃20挺
九五式爆雷8個
搭載艇 12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻[11]
搭載機 計画(常用+補用)[8][10]
零式艦上戦闘機 9+2機
九七式艦上攻撃機 14+2機
合計23+4機
レーダー 最終時:21号電探1基[21]13号電探2基(推定)[22]
ソナー 最終時:水中聴音機1基[21]
その他 バラスト搭載量[8]
固定バラスト:1,600t
真水:1,055t
重油:1,200t
テンプレートを表示

大鷹(たいよう)は、大日本帝国海軍航空母艦[5]

概要

[編集]

軍艦(ぐんかん)大鷹(たいよう)は、日本海軍の航空母艦[23]大鷹型航空母艦1番艦[24]日本郵船の新田丸級貨客船三番船春日丸(かすがまる)を、建造中に空母へ改造した艦艇である[25][26]1941年(昭和16年)8月末に特設航空母艦として完成[27]。本艦は太平洋戦争緒戦から中盤にかけて航空機輸送任務に従事した[28]

同任務従事中の1942年(昭和17年)8月31日附で軍艦籍に編入され[23]、特設航空母艦春日丸から航空母艦大鷹に改名[5][27]および類別変更された[4][29]。 1943年(昭和18年)9月24日、大鷹は米潜水艦カブリラの雷撃で大破[23]。1944年(昭和19年)4月まで修理を実施した[23]。修理完了後は海上護衛総司令部の指揮下に入り船団護衛任務に従事する[28][30]ヒ71船団護衛中の同年8月18日[31]ルソン島西方で米潜水艦ラッシャーの魚雷攻撃により撃沈された[23][28]

特徴

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大鷹(たいよう)の前身である春日丸(かすがまる)は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的で、またドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルストグナイゼナウポツダム)に対抗しつつ[26]、1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで、日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第3船であった[32][33]

新田丸級三姉妹船(新田丸八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり、日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている[26][34]。建造費用は優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた[25][33]。また3隻とも三菱長崎造船所で建造され、新田丸(起工1938年5月9日、進水1939年5月20日、竣工1940年3月23日)、八幡丸(1938年12月14日、進水1939年10月31日、竣工1940年7月31日)、春日丸(起工1940年1月6日)の順番で建造された[35][36]。予想される日米の艦隊決戦に際して、春日丸級特設航空母艦は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた[25][37]

設計

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艦橋は前方の遊歩甲板上に設置され、煙突は艦体中央部右舷側に寄せられた[38]

大鷹型は小型のうえに速度も遅く、用途は限られており[27][39]、さらに日本海軍は終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかったため、連合国軍の軽空母護衛空母と比較して、本型の航空機運用能力は非常に見劣りするものになってしまった[33][40]。特に、大戦中盤以降に登場した比較的大型の新型機(天山彗星流星彩雲)をカタパルトのない本型が実戦で運用するのは困難であった[40][41]。ただし、合成風速12m/秒(約23ノット)が得られる場合は3機の天山が同時発艦可能であった。また大鷹では実戦使用される事は無かったが、1943年にはブースターロケットの開発に成功しており、この場合は12機の天山が同時発艦出来るようになっていた[42]。艦載機昇降用のエレベーターは、前部と後部に2基を搭載した[8]格納庫は、秩父丸型貨客船の改装計画では開放式とされたが、薄鋼板を支柱の外に張り、さらに防火幕が設置された[38]

兵装

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砲熕兵装の計画は12cm単装高角砲6門、25mm連装機銃4基8挺だったが、春日丸としての竣工時は12cm単装高角砲4門、25mm連装機銃2基、13mm4連装機銃2基だった[20]。高角砲用のスポンソンは6基分用意されたが、兵器不足のため高角砲2門は後日装備となり[43]、中央の左右1門ずつは、搭載されなかった[20]。 1942年(昭和17年)6月10日付の官房機密第7162号で13mm4連装機銃を25mm連装機銃に交換し、3番、4番高角砲の搭載予定位置に25mm3連装機銃を仮装備をする訓令が出され、実際の工事は同年7月と推定される[20]。同年6月24日付の官房機密第7868号で九五式爆雷8個、手動投下台1組装備の訓令が出され、この工事は訓令直後の6月26日から7月1日の間に呉で行われたと思われる[44]。 同年8月21日付の官房機密第10468号で艦首と艦尾にそれぞれ25mm3連装機銃2基と射撃指揮装置1基ずつを装備する訓令が出され、この工事は翌1943年(昭和18年)5月29日から7月15日まで佐世保海軍工廠で修理を行った時に装備したと推定される[45]。 最終時の兵装は、1944年7月1日付「艦船要目概要一覧表」によると12cm単装高角砲4門、25mm3連装機銃8基、同連装2基、同単装20基、九五式爆雷x8、水中聴音機x1、21号電探x1だという[21][注釈 3]

21号電探は「軍艦大鷹戦時日誌」(昭和17年10月)に10月17日から27日の間に呉で装備したと書かれている[46]。乗員からの聞き取りでは電探の台にはローラーが付いていて、飛行機発着の無い夜間にだけ格納庫から前部エレベーターで飛行甲板に上げて使用していたという[46]

歴史

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春日丸

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1940年(昭和15年)1月6日三菱重工業長崎造船所で起工[36]。仮称艦名「第1003番艦」[47][48]。商船用の装備を取り外したのち、9月19日に進水した[49][50]。 同年11月1日、長崎造船所における大和型戦艦2番艦武蔵の進水において、艤装岸壁に向かう武蔵を春日丸の船体で隠し、日本海軍期待の秘密兵器「軍艦武蔵」の存在への防諜に貢献した[51][52]。なお、同月には第1003番艦のまま改装工事が始まったとする文献もある[38]

1941年(昭和16年)5月1日、日本海軍は春日丸を特設航空母艦に定め[53]、同日附で佐世保鎮守府所管となった[3]。 同時に、空母鳳翔副長・赤城副長や各航空隊司令等を歴任し、同年3月25日まで航空機運搬船「小牧丸」艦長[54]だった石井芸江大佐(後日、空母橿原丸〈隼鷹〉初代艦長、冲鷹初代艦長、神鷹艦長等を歴任、神鷹の沈没時に戦死)を春日丸艦長に任命した[55]

船殻工事の大半と艤装工事の約3割を長崎造船所で実施後[38]、佐世保海軍工廠へ回航し航空母艦としての改装工事が行われた[43](八幡丸、新田丸は呉工廠で改造)[48][56]。遊歩甲板上の構造物は取り付け済だったため、これを撤去して格納庫を設置する[38]など、基本的に客船に戻すのは難しいほどの改造を行った[48][27]。工程数は約2,000万で、このうち約2万が船殻工事、約9万5,000が艤装工事だった[38]。しかし三姉妹艦においてはもっとも簡単な工事であり、木造部分も多く残されるなど商船としての構造や艤装が残されていた[57]。春日丸について「徴用船をこんなに改造して、後で解傭のとき(空母状態から客船に戻す作業)は大変であろう」と心配した者もいたという[38][43]

また本艦は商船として完成する前に空母へ改造されたので、空母として三姉妹艦中最初に完成[58]。このため貨客船としては1番船の新田丸がネームシップであるが空母としては春日丸がネームシップとなり、春日丸級特設航空母艦と呼称された[59]。なお春日丸級特設空母のエレベーター6基(各艦2基×3隻)は、もともと浅間丸級貨客船(浅間丸龍田丸秩父丸〈改名後、鎌倉丸〉)を空母に改造するために製造されたものだった[43][60]

1941年(昭和16年)8月11日、春日丸艦長は石井大佐から高次貫一大佐(当時、岩国海軍航空隊司令)に交代する[61]。9月5日、竣工[36][38]。9月1日、司令官を原忠一少将とする[62]第五航空戦隊(空母2隻(翔鶴、春日丸)、吹雪型駆逐艦17番艦[63])が新編された。 原司令官は旗艦に春日丸を指定した[64]。だが、本艦が五航戦として本格的に活動する機会はなかった。 9月10日、原司令官は第五航空戦隊旗艦を春日丸から翔鶴に変更する[65]

春日丸は9月25日附で第一航空艦隊第四航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母〈龍驤〉、第3駆逐隊〈汐風帆風〉)に編入された[38][53]。10月、鹿児島に入港して空母龍驤と合同したのち、春日丸は台湾佐世保間の訓練航海に従事した[52]。 アメリカとの戦争が勃発しなければ、昭和17年度の戦時編制において春日丸以下特設航空母艦群は第六航空戦隊(特設空母3、第31駆逐隊〈長波巻波高波大波〉)と第七航空戦隊(空母鳳翔・特設空母2、第25駆逐隊〈秋月照月初月〉)を編成予定だった[66][67][68]

太平洋戦争開戦時、特設空母春日丸は九六式艦上戦闘機九六式艦上爆撃機を固有艦載機として搭載していた[69]。本艦の艦載機は旧式ながら哨戒任務で活躍している。南方作戦〜蘭印作戦において同方面に投入された航空機運用艦は、第十一航空戦隊(千歳瑞穂)などの水上機母艦が主力であり、当初から参加していた空母は四航戦(龍驤、春日丸)だけだった。龍驤はフィリピン方面攻略作戦に参加し[28]、春日丸は第十一航空艦隊[70]九六式艦上戦闘機13機を搭載してパラオへ輸送[52]。これが最初の航空機輸送任務となった[33]。 12月12日、佐世保に帰投[52]。12月22日、空母祥鳳剣埼型潜水母艦改造空母)が第四航空戦隊に編入される[71]。一方、春日丸は連合艦隊附属となった[72]。12月31日、呉鎮守府所属となる[53][52]。瀬戸内海では第十二連合航空隊(母艦航空隊搭乗員)の発着艦訓練に従事した[73]

1942年(昭和17年)2月25日から3月12日までトラック泊地への零式艦上戦闘機輸送任務に従事した[73]。つづいてマーシャル諸島およびソロモン諸島防備強化のため、零戦および基地機材と人員を輸送する[73]。4月3日、横須賀を出発[73]ロイ=ナムル島(ルオット島)で零戦12機を降ろし[74]、続いてクェゼリン環礁に向かう[73]。5月3日、入港直前にアメリカ潜水艦ガトー (USS Gato, SS-212) [39]が春日丸に対して魚雷を5本発射したが、速力の測定ミスで命中しなかった[75][76][77]。1本は命中寸前であった[78]。ガトーは護衛艦や一式陸上攻撃機(哨戒機)に反撃されたが、退避に成功している[73]。 5月8日、ジャルート環礁(ヤルート環礁)に第十四航空隊(飛行艇部隊)の整備員を移送する[73]。マーシャル諸島への輸送を終えると、南下してブカ島ブーゲンビル州)に進出した[73]。なお春日丸の零戦空輸について坂井三郎の回想によれば、ラバウルより零戦搭乗員20名(台南航空隊所属)が九七式飛行艇に搭乗して春日丸の傍に着水した[73]。乗艦すると零戦に乗り込み、春日丸より発艦してラバウル基地に移動したという[73]。5月16日、約1ヶ月半におよぶ航海を終えて横須賀に帰投した[73]

連合軍のツラギ、ガダルカナル来攻により、連合艦隊司令長官山本五十六は8月17日に戦艦「大和」でトラックへ向けて柱島から出発し、それに「春日丸」と第七駆逐隊が同行した[79]。 8月20日、機関送風機軸の故障により「春日丸」は最大発揮速力20ノットに低下、折しも海上は無風状態で、着艦しようとした2機の戦闘機が着艦に失敗して損傷した[80]。27日、「春日丸」と護衛の駆逐艦「」は搭載機の一部をマロエラップ環礁タロア島(当初はルオット島)へ陸揚げするよう下令され、「大和」、駆逐艦「漣」、「潮」と分離した[81][82]。 8月29日にタロア島マロエラップ環礁)に到着すると艦爆4機、戦闘機2機を搭乗員や整備員と共に揚陸し、それからラバウル方面へ派遣される一空の戦闘機10機を載せてラバウルへ向かった[83]

大鷹

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佐世保鎮守府所属

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ラバウル方面へ航海中の1942年(昭和17年)8月31日、特設航空母艦2隻(春日丸、八幡丸)は、それぞれ軍艦大鷹(タイヨウ)および軍艦雲鷹(ウンヨウ)と改名された[5][84][85]。2隻は同日附で正式に航空母艦となった[4]。 大鷹は佐世保鎮守府籍に所属[29][86]。艦容に変化はない[87]。 9月2日、ラバウルに到着して航空機輸送任務を終えた[88]。大鷹はラバウルに入泊した唯一の日本空母となった[85]。つづいてラバウル方面に進出することになった第二十一航空戦隊と第二十三航空戦隊の内の戦闘機と艦爆の輸送に従事した[89]。9月13日にミンダナオ島ダバオを出発、17日カビエン沖合で航空隊を発艦、22日ダバオ〜25日カビエン沖合で発艦、これで輸送任務を終了し、第7駆逐隊の護衛下で[要出典]トラック泊地に向かった[90]。 一旦、内地帰投の予定となる[91]。なお本艦航海中、大鷹の搭載機は大幅に減らされることになった[92]

9月28日[93]、大鷹はトラックの南水道南方で米潜水艦の発射した魚雷1本(2本とも)を被雷した[94][95]。命中箇所は右舷前部[96]。 この潜水艦はタンバー級トラウト(USS Trout, SS-202) である[97]。 トラック泊地では宇垣纏連合艦隊参謀長と第二海上護衛隊の将校が「近来潜水艦に依る被害少くなれるは結構なり」と会談した直後の襲撃と被雷であった[98]。大鷹は羅針儀の故障により、附近を航行していた漣に水路嚮導を依頼する[99]。機関科勤務者を中心に死傷者13名(戦死3、重傷3、軽傷7)を出し[100]、速力16ノット(戦闘詳報では14ノット)で入泊した[101]。第四工作部(明石)が応急修理をおこなった[98][97]。宇垣連合艦隊参謀長は、横須賀鎮守府に損傷2隻(大鷹、漣)の特急修理を要請した[96][102]

10月1日、九六式艦上戦闘機3機、九六式艦上爆撃機5機を収容する[103]。 10月4日、駆逐艦2隻(時津風)と共にトラックを出発、13日に哨戒艇46号に護衛され(豊後水道通過時)[104][105]、14日に呉着[106]。前部ガソリンタンクの損傷により気化燃料が漏れ出し、マリアナ沖海戦における空母大鳳のように爆沈しかねない情況下での航海だったという[95][97]。呉到着と共に時津風は指揮下を離れた[107]。内地帰投後、大鷹の戦闘機隊は解散した(大鷹飛行長五十嵐周正少佐は呉鎮守府附)[108][109]

10月22日、吹雪型駆逐艦(第一水雷戦隊・第6駆逐隊所属)が大鷹艦長の指揮下に入る[110][111]。響は第6駆逐隊の僚艦3隻()と分離し[112]、大鷹艦長の指揮下で行動することになった[110][113][114]。 10月24日附で大鷹艦長は、高次貫一大佐から篠田太郎八大佐に交代した(篠田は10月1日まで特設水上機母艦神川丸艦長。後任の神川丸艦長は松田尊睦大佐)[115][116]。 10月28日、大鷹は呉を出発[117][118]。駆逐艦2隻(〈第6駆逐隊〉、〈第7駆逐隊〉)等に護衛され[119][120]、横須賀に向かった[97]。 大鷹は11月1日に横須賀を出発、6日にトラックへ到着した[101]。以後も航空機輸送任務に従事する[39]ガダルカナル島の戦いが激化するにつれて航空機の消耗は増える一方であり、大鷹型航空母艦は内地と前線を幾度も往復、航空機輸送任務に奔走した[121][122]

1943年(昭和18年)2月上旬から8月中旬まで、空母3隻(大鷹、雲鷹、冲鷹)は横須賀・トラック・フィリピン・スラバヤ方面の陸海軍機輸送任務に従事した[123]。双発夜間戦闘機月光のラバウル進出にも協力している[33]。また海軍機だけでなく、陸軍機の輸送も行った。3月上旬、日本陸軍の三式戦闘機「飛燕」部隊(飛行第六十八戦隊)のラバウル進出が決定する[124]。三式戦闘機を搭載した空母2隻(大鷹、冲鷹)は重巡鳥海、駆逐艦4隻(漣、黒潮親潮)に護衛されて4月4日に横須賀を出発[124][125]。4月8日夜、アメリカ潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282) は空母部隊を発見[125]。距離800mの大鷹に対し艦尾発射管より魚雷4本を発射したが、早爆した[125]。魚雷命中と誤認したタニーは冲鷹に対し魚雷6本を発射するが、同じく早爆に終わった[125]。10日、トラック泊地に到着して任務を終える[126]。だが三式戦部隊はトラックからラバウルへの空輸において、液冷エンジンの故障・航空機による航法誘導の失敗により、不時着機や行方不明機を多数出してしまった[124]

4月16日、空母2隻(大鷹、冲鷹)は駆逐艦3隻(時雨有明、響)に護衛されてトラックを出発[127][128]。21日、横須賀に帰投した[129][130]。 前年10月より大鷹の指揮下にあった響[131][132](第6駆逐隊は4月15日附で内南洋部隊編入)[133][134]は、4月21日より主力部隊に編入[135][136]。その後、5月中旬よりキスカ島撤退作戦従事のため北方部隊(第五艦隊)に編入され、別行動となった[137][138]

5月、大鷹はフィリピンおよびシンガポールやスラバヤ等、東南アジア方面の輸送作戦に従事[53][139]。 5月29日、大鷹艦長は篠原大佐から、松田尊睦大佐(松田は4月26日まで神川丸艦長)[140]に交代する[141]。 7月23日より、トラックへの輸送に3回従事した。 8月4日、大鷹は駆逐艦2隻(舞風大波)と共にトラックを出港[142]。舞風(第4駆逐隊)は4日夕刻に分離したため、護衛艦は夕雲型駆逐艦大波(駆逐艦長吉川潔中佐)1隻となった[143][144]8月6日13時、対空訓練のため大鷹は之字運動をやめ速力18ノットで直進していた[145]。この時、アメリカ潜水艦パイク(USS Pike, SS-173) が大鷹に向けて魚雷6本を発射した。右舷に雷跡4本を認めた大鷹は左舷に転舵[146]。すると大鷹の右舷中央部(煙突附近)に魚雷1本が命中したが不発だった[147]。負傷者2名。不発魚雷は水線下5mに窪みを生じさせた[148]。潜望鏡に向けて高角砲と機銃を発砲、後方の大波も制圧に加わったが[149][150]、パイクは損傷なく離脱して行った。8月9日、2隻(大鷹、大波)は横須賀へ到着した[151][152]

8月17日、主力部隊(戦艦3隻〈大和長門扶桑〉、空母〈大鷹〉[153]、巡洋艦3隻〈愛宕高雄能代〉、駆逐艦部隊〈涼風海風秋雲夕雲若月天津風初風〉)として呉を出撃し、23日トラックへ進出[154][155]。一度日本本土へもどったのち、9月7日に空母2隻(大鷹、冲鷹)は駆逐艦3隻(浦風風雲五月雨)に護衛されて横須賀を出発[156]。11日に到着した[157]

9月21日、3隻(大鷹、冲鷹、島風)はトラック泊地を出発[158][159]9月24日、艦隊は島風型駆逐艦島風を先頭に、島風-冲鷹-大鷹という速力20ノットの単縦陣で航行していた[160]。悪天候の中、父島の北東200浬北緯28度2分 東経145度59分 / 北緯28.033度 東経145.983度 / 28.033; 145.983で輸送艦隊は敵潜に襲撃される[161][162]。 午前7時前後、暗号解読により待ち伏せていたアメリカ潜水艦カブリラ (USS Cabrilla, SS/AGSS-288)は魚雷6本を発射[159]。日本側はカブリラに気付いておらず、大鷹が右舷500mに多数の雷跡を認めてから15秒後、すくなくとも魚雷3本が右舷側三ヶ所(艦尾〈起爆〉、前部火薬庫〈不発〉、爆弾庫〈不発〉)に命中した[163][164]。 前部弾薬庫にも1本が命中していたが、不発であった[165]。一方、艦尾附近に命中した魚雷はスクリューと舵取機室を破壊、機械も停止して本艦は航行不能となる[166][159]。被雷による死傷者は、戦死9名、重軽傷者24名と報告されている[167]。衝撃で海に投げ出された本艦乗組員のうち、2名は大鷹救助艇に、8名は島風に収容された[168]。島風は敵潜撃沈を報告しているがカブリラは沈んでいなかった[169][170]。 対するカブリラも島風の反撃と悪天候により空母2隻(大鷹、冲鷹)にとどめをさすことが出来ず、また連絡を受けたアメリカ潜水艦ジャック (USS Jack, SS-259)も大鷹を狙うが捕捉に失敗した[159]。一方、航行不能になった大鷹は、冲鷹が曳航することになった[171]。午後2時すぎ、2隻(沖鷹、大鷹)は速力11ノット程で横須賀へ向かった[172]。なお駆逐艦(第7駆逐隊)も救援に向かったが会合点に艦隊を発見できず、25日13時に相手の位置を尋ねている[173]。また横須賀に停泊していた駆逐艦白露(第27駆逐隊)も25日に大鷹救援のため出動、護衛部隊に加わった[174]。26日16時30分、5隻(大鷹、冲鷹、島風、漣、白露)は横須賀に到着[175]。ドックにて調査したところ、大鷹右舷への不発魚雷命中痕跡は5ヶ所にのぼり、さらに左舷にも命中時期不明の不発魚雷命中痕跡がいくつかあったという[176]

横浜船渠三菱重工業株式会社横浜造船所)における大鷹の修理は、長期間に及んだ[177][178]。この時に、飛行甲板を前方へ10m延長(長さ172m)したが[43][38]、それでも龍鳳(潜水母艦大鯨改造空母)より13mも短く、低速という事もあって改造効果は薄かったとみられる[159]。 一方、田村俊夫は乗員からの聞き取り調査を行い、飛行甲板の延長は無かったとしている[179]。 11月17日、松田(大鷹艦長)は軽巡洋艦阿賀野艦長へ転任となった[180]。横須賀海軍港務部部長松野俊郎大佐が、大鷹艦長の職務を兼務する[180]

海上護衛総司令部

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1943年(昭和18年)11月15日、日本海軍は海上交通保護および対潜掃蕩を主任務とする海上護衛総司令部を設置した[181][182]。 主要職員は、司令長官及川古志郎海軍大将、参謀長島本久五郎少将、首席参謀後藤光太郎大佐、作戦参謀大井篤中佐等[183][184]12月15日、海上護衛総司令部麾下に第九〇一海軍航空隊が編制される[185]。同日附で空母3隻(雲鷹、海鷹、大鷹)は海上護衛総司令部部隊に編入[186]、12月20日には空母神鷹(ドイツ客船シャルンホルスト改造空母)も編入された[187][188]。だが大鷹は入渠修理中で、また対潜哨戒機の能力も不足かつ練度不充分であり直ちに海上護衛任務に就くことは出来なかった[189][190]。大井篤(作戦参謀)は、「(本型空母の使用方法について)楽しそうに研究していた護衛総司令部の参謀たちは、これには、スッカリ幻滅の悲哀を感じざるを得なかった」と回想している[191]。また、大井は大鷹型を「不渡り手形」「栄養不良児」と表現している[191]

1944年(昭和19年)2月1日、日本海軍は護衛空母の飛行機隊の訓練・整備を担当する部隊として[192]第九三一海軍航空隊(司令大塚秀治中佐)を編成する[193][194]。 2月15日、大鷹艦長は松野大佐から、別府明朋大佐(当時、空母千代田艦長)に交代[195]。 3月20日、日本海軍は駆逐艦時雨初代艦長・第11駆逐隊司令・軽巡球磨の艦長(沈没時)等を歴任した杉野修一大佐を大鷹艦長に任命する[196]。 4月2日、修理完了[197]。大鷹は海上護衛総隊として本格的に行動することになった[198][199]。門司とシンガポールを結ぶヒ船団の護衛に使用されることとなり、4月19日に対潜哨戒用として第931航空隊所属の九七式艦上攻撃機12機を搭載した[200][201]

5月3日、本艦最初の護衛航海としてヒ61船団(指揮官佐藤勉第八護衛船団司令官、輸送船11隻・護衛艦9隻〈空母〔大鷹〕、海防艦〔佐渡倉橋海防艦五号七号十七号[194][202]、駆逐艦3隻〔朝顔〕〉)を編成し、門司を出港[200][197][203][204][205]。 5月6日、仁栄丸が機関故障を起こし海防艦2隻に護衛されて高雄市(台湾)に引き返した[206]。 5月7日朝[198]、油槽船1隻(あかね丸)が米潜水艦に雷撃されて小破する[200][202]。米潜水艦ホー(USS Hoe, SS-258)によるものであった。5月9日、ヒ61船団は速力11ノットに落とし[206]、マニラに寄港[207][208]。 同地で5隻(電、響、建川丸、日栄丸、あずさ丸)を分離[198][197]、大鷹は残る船団を護衛して5月18日にシンガポールに送り届けた(5月14日、電は米潜水艦ボーンフィッシュの雷撃で沈没した。)[198][200][209]

折り返し、ヒ62船団(輸送船8隻・護衛艦6隻〈大鷹、佐渡、倉橋、五号、七号、十三号〉)として、シンガポールを5月23日に出航した[204][210]。マニラに立ち寄り[211]、6月7日六連着[212]、8日に無傷で門司へ到着した[200][213]。大鷹の初めての船団護衛は、概ね成功に終わった[198][214]。ヒ61-62船団運航指揮官の細谷大佐は、大鷹の護衛について「大鷹ガ護衛ニツキ昼間ハ少クトモ楽ナリ、大鷹ノ活動ハ献身的ナリ」と高く評価した[206]

その後、呉海軍工廠に回航され修理に従事した[215][213]

7月9日、修理完了[216]。 空母3隻(大鷹、海鷹、神鷹)は航空機輸送任務にともないヒ69船団(旗艦香椎)に加入[217][218]。7月13日に出航しマニラへ第一航空艦隊再建用の機材(合計124機)を輸送する[219]。7月20日、ヒ69船団はマニラ到着[220]。荷揚げ後、大鷹はシンガポール発のヒ68船団に合流、内地に帰投することになった[221][222]。 7月23日、ヒ68船団はマニラを出発[223]、7月30日、六連着[224][225]。だがヒ68船団は米軍潜水艦複数隻(アングラーフラッシャークレヴァル)の襲撃により、沈没3隻(大鳥山丸[226]、安芸丸[227]、東山丸[228])、聖川丸損傷という被害を出した。 8月2日、海上護衛司令長官及川古志郎大将は軍令部総長へ転任、後任は野村直邦海軍大将となる(海上護衛司令長官と横須賀鎮守府司令長官の兼務)[229][230]

8月8日、大鷹は門司および六連を出撃[231][232]駆逐艦3隻(藤波夕凪、〈馬公で途中合流の朝風〉)と海防艦複数隻(平戸倉橋御蔵昭南第十一号海防艦、〈馬公で途中合流の佐渡松輪日振択捉〉)[194][233]とともに、タンカー4隻(速吸、帝洋丸、永洋丸、あづさ丸)、陸軍特種船、貨物船多数、給糧艦伊良湖などからなる重要船団ヒ71船団(指揮官:第六護衛船団司令官梶岡定道少将)を護衛していた[234][235]。 ヒ71船団の重要目的の一つは、ルソン島配備予定の第26師団の海上輸送であった[236]。陸軍将兵の合計は約37,600名に達した[236]。 しかし、船団は当初より米潜水艦3隻(レッドフィッシュピクーダスペードフィッシュ)の追跡を受けていた[231]8月18日朝、永洋丸が被雷し[31]、駆逐艦夕凪に護衛されて高雄市に引き返した[234][237]。ヒ71船団は南下を続けるが、フィリピン西岸に到達する頃には悪天候に悩まされる[234][238]

同日午後10時28分(戦闘詳報記録10時25分)[238]、大鷹はルソン島東方にてアメリカ潜水艦ラッシャーUSS Rasher, SS-269)の雷撃を受けた[239]レーダーで船団を捕捉していたラッシャーは、相手が空母とは気付かぬまま浮上状態で艦尾発射管より魚雷2本を発射[231]。魚雷1本が大鷹の右舷後部に命中し、艦底部ガソリンタンクの爆発により300mもの火柱があがった[240]。続いて火災が大鷹の弾薬庫を誘爆させ、やがて左舷側のタンクも爆発し(大鷹艦長の報告によれば午後10時40分に左舷重油庫に魚雷1本命中)[238]、搭載していた九七艦攻12機ごと沈没した[231]。沈没地点記録北緯18度12分 東経120度22分 / 北緯18.200度 東経120.367度 / 18.200; 120.367[200][241][242]

ヒ71船団の輸送船能登丸の二等運転士として船橋にいた宇野公一によれば、大鷹は輸送船団の中央後方にいて、速力12ノット程度で航行していたという[243]。大鷹の大爆発と沈没はヒ71船団を動転させた[244]。ヒ71船団は統制のとれないまま思い思いの方向に四散し[245]、大損害を受けた[31][214]。大鷹を含め艦船多数(大鷹、帝亜丸[246]、速吸、帝洋丸、東亜丸、玉津丸)が沈没し[31][237]、損傷艦も続出した[247][248]大井篤海上護衛総隊参謀は「たった一夜でまことに惨愴たる被害であった」と回想している[249]

8月30日、杉野修一大佐は大鷹艦長の任を解かれた[250]。10月10日、大鷹は軍艦籍[6]、大鷹型航空母艦[251]のそれぞれから除籍された。

現在、大鷹の慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。

年表

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  • 1940年(昭和15年)
  • 1941年(昭和16年)
  • 1942年(昭和17年)
    • 2月20日 - 呉出発、22日に横須賀到着[53]
    • 2月25日 - 横須賀発、トラック泊地への零戦輸送に従事[73]
    • 3月12日 - 呉に帰投[53]
    • 3月31日 - 呉を出発、横須賀回航、4月1日着[53]
    • 4月3日 - 横須賀出発、マーシャル諸島への航空機輸送任務に従事[73]
    • 4月11日 - ラバウル入港、翌日出発[53]
    • 5月3日 - 米潜水艦ガトーから雷撃されるが命中せず。
    • 5月16日 - 内地帰投[53]
    • 8月17日 - 戦艦大和、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と内地を出撃[53]
    • 8月27日 - 大和と分離、曙と共にタロア島へ。
    • 8月31日 - 大鷹に改名[53]。これ以降、南方方面への航空機輸送任務に就く。
    • 9月2日 - ラバウル着。
    • 9月4日 - トラック着、すぐにパラオ方面へ進出[252]
    • 9月12日 - ダバオ(フィリピン、ミンダナオ島)着[53]。翌日出発、17日にカビエン着、同日発[53]
    • 9月21日 - ダバオ着、翌日出発[53]
    • 9月28日 - 第7駆逐隊と共にトラック泊地着、だが寸前に米潜水艦(トラウト)から雷撃され魚雷1本命中[253]
    • 10月4日 - 時津風・漣とトラック発、14日呉着[254]。16日〜26日呉第四船渠で修理[255]
    • 10月28日 - 呉を出発[256]、横須賀回航[257]
    • 11月1日 - 横須賀発。6日トラック着[121]。カビエン冲経由16日横須賀着[121]
    • 11月19日 - 横須賀発。25日トラック着[121]
    • 11月26日 - トラック発。12月5日横須賀着[121]
    • 12月15日 - 横須賀発。12月21日トラック着[121]
    • 12月22日 - トラック発、カビエン経由で12月31日に横須賀着[121]
  • 1943年(昭和18年)
    • 2月1日 - 横須賀発。2月7日トラック着[121]
    • 2月11日 - 雲鷹と共にトラック発。2月17日横須賀着[121]
    • 2月24日 - 雲鷹と共に横須賀発、3月2日トラック着[53]
    • 3月6日 - 雲鷹と共にトラック発、3月12日横須賀着[53]
    • 4月4日 - 冲鷹、鳥海、護衛駆逐艦(響、漣、黒潮、親潮)と共に横須賀発[258][259]。4月10日、トラック着[53]
    • 4月16日 - 冲鷹他と共にトラック発[260]。21日、横須賀着[261]
    • 5月1日 - 横須賀発、5月6日マニラ着[53]。5月8日マニラ発、5月13日スラバヤ着[53]
    • 5月16日 - スラバヤ発、5月18日昭南(シンガポール)着[53]。5月21日昭南発、5月25日馬公着[53]。5月27日馬公発、5月29日佐世保着[53]
    • 7月15日 - 佐世保発、17日横須賀到着[53]。7月23日、横須賀発。7月28日トラック着[53]
    • 8月4日 - 大波とトラック発。8月6日米潜水艦パイクから雷撃されるが不発、8月9日横須賀着[53]
    • 9月24日 - 冲鷹、島風と横須賀回航中、米潜水艦(カブリラ)から雷撃され大破、冲鷹に曳航されて退避[262]。26日横須賀着[53]
  • 1944年(昭和19年)

艦長

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艤装員長
  1. 石井芸江 大佐:1941年5月1日[55] - 1941年8月11日[61]
  2. 高次貫一 大佐:1941年8月11日[61] - 1942年8月31日[84]
艦長
  1. 高次貫一 大佐:1942年8月31日[84] - 1942年10月24日[115]
  2. 篠田太郎八 大佐:1942年10月24日[115] - 1943年5月29日[141]
  3. 松田尊睦 大佐:1943年5月29日[141] - 1943年11月17日[180]
  4. (兼)松野俊郎 大佐:1943年11月17日[180] - 1944年2月15日[195](本職:横須賀海軍港務部長)
  5. 別府明朋 大佐:1944年2月15日[195] - 1944年3月20日[196]
  6. 杉野修一 大佐:1944年3月20日[196] - 1944年8月30日[250]

同型艦

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脚注

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注釈

[編集]
  1. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.4によると計画では幅23.7m
  2. ^ a b #海軍造船技術概要p.275では、速力22ノット、航続距離は18ノットで8,000カイリとしている。
  3. ^ #日本空母物語p.417の「表A あ号作戦直前の空母対空兵装(昭和19年5月現在)」の大鷹の項は、12cm単装高角砲6門、25mm3連装機銃6基、同連装機銃4基、21号電探1基となっている。

出典

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  1. ^ #海軍艦艇史3p.162
  2. ^ a b c d e f 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.7
  3. ^ a b c #内令昭和16年5月(1)p.8「内令第四百七十一號 汽船 春日丸 右特設航空母艦トシ佐世保鎮守府所管ト定メラル|昭和十六年五月一日 海軍大臣 及川古志郎」
  4. ^ a b c #内令昭和17年8月(3)p.45「内令第千六百十四號 艦艇類別等級別表左ノ通改正ス 昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎  軍艦、航空母艦ノ項中「飛鷹」ノ下ニ「、大鷹、雲鷹」ヲ加フ」
  5. ^ a b c d e #達昭和17年8月p.39「達第二百四十四號 特設航空母艦春日丸及八幡丸ヲ帝国艦艇籍ニ編入シ左ノ通命名セラル|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦 大鷹(タイヨウ) (特設航空母艦 春日丸)|軍艦 雲鷹(ウンヨウ) (特設航空母艦 八幡丸)」
  6. ^ a b c #内令(秘)昭和19年10月(2)pp.36-37「内令第一一六五號 呉鎮守府在籍 軍艦 白鷹|佐世保鎮守府在籍 軍艦 大鷹|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 長良、軍艦 名取|右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 朝風、驅逐艦 五月雨|呉鎮守府在籍 驅逐艦 敷波|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 夕凪|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 松|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和十九年十月十日 海軍大臣」
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.4
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #船舶621頁
  9. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.57
  10. ^ a b #海軍造船技術概要p.296
  11. ^ a b 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.46
  12. ^ a b c 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.35
  13. ^ #昭和造船史1pp.780-781
  14. ^ #日本航空母艦史p.64
  15. ^ #海軍造船技術概要p.1678
  16. ^ a b c 「あ号作戦前後の対空兵装強化と戦訓改正」表B あ号作戦直前に空母の最大速力、航続距離、満載重油搭載量(昭和19年5月調査)、#日本空母物語p.417
  17. ^ #内令昭和16年4月(5)(C12070150500)画像39、内令第四百三十九號 特設艦船部隊定員令中左ノ通改正セラル 昭和十六年四月二十六日 海軍大臣及川古志郎 特設航空母艦定員表ヲ別表ノ如ク改ム(別表二葉添)。同画像42、特設航空母艦定員表 其ノ二 春日丸級、(詳細略)計 士官37人、特務士官25人、准士官31人、下士官187人、兵467人。#内令昭和16年4月(6)(C12070156500)画像1、画像4も同一内容
  18. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.12
  19. ^ 「航空母艦 一般計画要領書 附現状調査」 p.31
  20. ^ a b c d #田村2007p.180。「『官房機密第七一六二号』(一七・六・一〇)「特設航空母艦春日丸に二五ミリ機銃装備の件訓令」は、(中略)「記 佐世保工廠をして主題の件左記に依り施行せしむべし。一、工事要領 (イ)現装備の一三ミリ四連装機銃二基を二五ミリ二連装機銃二基と換装すると共に之に関連する工事 (ロ)三番、四番一二センチ高角砲装備予定位置(砲架装備)に二五ミリ三連装機銃各一基を仮装備すると共に之に関連する工事(以下略)」
  21. ^ a b c d #田村2004p.115、「『艦船要目概要一覧表』(艦政本部総務部総務課総務第二課調査 一九年七月一日)には、大鷹と雲鷹の要目の概要が記載されている。(以下略)」
  22. ^ #田村2004p.116
  23. ^ a b c d e #空母二十九隻324頁「大鷹(たいよう)」
  24. ^ #編制(昭和19年1月31日現在)p.4「艦艇類別等級別表|軍艦|航空母艦|大鷹型|大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、海鷹」
  25. ^ a b c 特設艦船入門55-60頁「特設航空母艦」
  26. ^ a b c 氷川丸とその時代149-151頁「『優秀船建造助成施設』と大型客船の建造」
  27. ^ a b c d 特設艦船入門64-69頁「(ロ)「大鷹」「雲鷹」「冲鷹」」
  28. ^ a b c d #護衛空母入門247-249頁「大鷹」
  29. ^ a b #S17-05呉鎮日誌(4)p.25「十三日一四五〇軍務局長|十四日〇六二八 GF参謀長(呉鎭参謀長)(春日丸艦長)(八幡丸艦長)(佐鎭参謀長)|軍務機密第一五〇番電 一、八月三十一日附 春日丸ヲ大鷹(タイヨウ) 八幡丸ヲ雲鷹(ウンヨウ)ト命名、艦艇籍ニ編入セラル(現所管ノ儘)/二、右兩艦ノ命名式ハ所属長官所定ニ依リ適宜實施ノコトニ定メラル|無電」
  30. ^ 海軍護衛艦物語195-197頁「海護総部隊に、航空隊と空母が」
  31. ^ a b c d 海軍護衛艦物語230-231頁「「大鷹」被雷沈没」
  32. ^ #日本空母物語105、298頁
  33. ^ a b c d e 特設艦船入門192-197頁「(ロ)「大鷹」級特設航空母艦(大鷹、雲鷹、冲鷹)の活躍」
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  43. ^ a b c d e 日本特設艦船物語77-78頁「◇大鷹(旧名:春日丸)」
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  45. ^ #田村2007p.182。「『官房機密第一〇四六八号』(一七・八・二一)「特設航空母艦春日丸に機銃装備の件訓令」「佐世保工廠をして主題の件 左記に依り施行せしむべし。一、工事要領 艦首錨甲板および艦尾短艇甲板上に「フラット」を設け、その上にそれぞれ二五ミリ三連装機銃二基および機銃射撃装置一基を装備するとともにこれに関連する工事を施工するものとし詳細に関しては海軍艦政本部長をして佐世保海軍工廠に通牒せしむ。(以下省略)」
  46. ^ a b #田村2004p.112
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  55. ^ a b 昭和16年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第631号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081000 
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  62. ^ 昭和16年9月1日付 海軍辞令公報(部内限)第701号 pp.1-2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 
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  65. ^ a b 昭和16年9月13日(土)海軍公報(部内限)第3897号 p.41」 アジア歴史資料センター Ref.C12070397400 「○旗艦變更 第五航空戦隊司令官ハ九月十日旗艦ヲ翔鶴ニ變更セリ/支那方面艦隊司令長官ハ九月十一日旗艦ヲ飛鳥ニ變更セリ」
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  72. ^ #木俣空母136頁
  73. ^ a b c d e f g h i j k l m #木俣空母133-134頁「春日丸の飛行機輸送(四〜五月)」
  74. ^ 中部太平洋方面海軍作戦(1)582頁『敵潜水艦の蠢動激化』
  75. ^ #SS-212, USS GATO, Part 1p.11
  76. ^ #木俣空母p.134
  77. ^ #S17-05横鎮日誌(2)p.9「3日1230春日丸船長|午前11時22分クエゼリン入口(ミルー島ノ330度750米)ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃(五射線キョーサ)ヲ受ケタルモ回避被害ナシ」
  78. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.7「(ロ)敵潜水艦後方発射管ヨリスル斜進発射ニ依ル魚雷ニ対シ特ニ警戒ノ要アリト認ム 本艦四月末「ルオット」沖ニテ受ケタル雷撃ノ発射雷数ハ5本ニシテ始メ左右舷2本宛通過シタル後1本ノ魚雷ハ本艦ノ直極メテ近ク斜ニ通過セリ(略)」
  79. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』83ページ
  80. ^ #戦藻録(1968)168頁
  81. ^ 中部太平洋方面海軍作戦(2)140頁「ラバウルへの戦闘機の増派と哨戒要領の一部改定」
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  83. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』141ページ
  84. ^ a b c 昭和17年8月31日(月)海軍公報(部内限)第4182号 p.43」 アジア歴史資料センター Ref.C12070422300 「○官房機密第一〇九四六號 本年八月三十一日現在左記上欄各艦ノ職名ヲ有スル者ハ特ニ發令セラルルモノノ外別ニ辭令ヲ用セズシテ下欄ノ相當職員ニ補命セラレタル義ト心得ベシ 昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 記|特設航空母艦 春日丸|航空母艦 大鷹|同 八幡丸|同 雲鷹」
  85. ^ a b #木俣空母339-341頁「大鷹・雲鷹」
  86. ^ #内令昭和17年8月(4)pp.12-13「内令第千六百二十四號 汽船 八幡丸 右特設航空母艦トシ呉鎮守府所管ト定メラレタル處之ヲ解カレル|汽船 春日丸 右特設航空母艦トシ佐世保鎮守府所管ト定メラレタル處之ヲ解カレル|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎」〜「内令第千六百二十五號 軍艦 雲鷹 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル|軍艦 大鷹 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|驅逐艦 照月 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル|驅逐艦 高波 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル(中略)|昭和十七年八月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎」
  87. ^ 昭和17年9月10日(木)海軍公報(部内限)第4191号 pp.12-13」 アジア歴史資料センター Ref.C12070422700 「○書類發送先 特設航空母艦春日丸宛書類ハ自今軍艦大鷹ニテ處理可致ニ付呉郵便局氣付ニテ送付相成度(軍艦大鷹)」
  88. ^ 中部太平洋方面海軍作戦(2)142頁「飛行艇のラバウル派遣解除と一式陸攻の派遣」
  89. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』163ページ
  90. ^ 中部太平洋方面海軍作戦(2)163頁「南西方面部隊からの航空兵力の転用」
  91. ^ #S17-09横鎮日誌(4)p.28「二十八日〇九四五聯合艦隊参謀長|二十八日二〇三五横鎭参謀長、五艦隊、大海参一、二各部長、二航戰|聯合艦隊機密第二八〇九四五五五番電 發 聯合艦隊参謀長 當方面ニ對スル第三艦隊、第十一航空艦隊零戰艦爆ノ輸送ハ左ニ依ラレ度/一、大鷹便(十月四日横須賀着)航本機密第二四一一〇〇番電ニ依ル艦爆九機(十一航艦隊行零戰)成ルベク多數/二、雲鷹便(十月八日頃横須賀着)十一航空艦隊行零戰/三、第二航戰便第一航戰零戰約一〇機」
  92. ^ #S17-09横鎮日誌(3)p.2「大海一、二部長|各鎭参謀長、三艦隊、一艦隊、二艦隊、聯合艦隊、十一空艦隊八艦隊各参謀長|發 大海一、二部長/一、三艦隊ニ對スル補充左ノ通手配中 (一)機械(雲鷹ニ依リ)艦爆約一〇、艦攻約二〇外ニ航本既報ノ中ヨリ艦戰一〇以上 計四〇機以上/(二)搭乗員組(括弧外ハ翔鶴、内ハ瑞鶴)戰四(二) 爆六(三) 攻四(五)外ニ基地隊ニ殘留中ノモノヲ送致ス/二、第三艦隊ニ對スル補充 筑城、鹿屋空等ノ爲十五日附大鷹ハ艦爆4/1ノミトシ雲鷹ハ飛行機搭載ヲ削除ノコトニ手續中/三、大鷹ノ殘リ艦爆ハ二空ニ艦戰ハ適時内地ニ送致アリ度」
  93. ^ 昭和17年9月、経過概要(護衛対潜)p.8「9月28日」
  94. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.5「1325右舷2本左舷ニ1本ノ雷跡ヲ認メ続イテ右185番ビーム水線下ニ1本命中、機械停止、防水ヲ下令ス 位置北緯7度46分 東経151度46分 / 北緯7.767度 東経151.767度 / 7.767; 151.767(南水道入口ヨリ189度17.4浬)」
  95. ^ a b #空母二十九隻298-299頁(大鷹飛行長の回想)
  96. ^ a b #S17-09横鎮日誌(4)p.35「聯合艦隊参謀長|横鎭参謀長 艦本總務部長|發 聯合艦隊参謀長 大鷹及漣(十月八日頃横須賀着)ニ對シ左ノ特急工事トシテ至急實施ノコトニ取計ハレ度 何レモ入渠ノ要アリ/一、大鷹右舷前部魚雷命中ニ依ル被害(一八六番ビーム附近水線下長サ約一米)船体及揮發油庫/二、漣右舷推進器換装翼端折損|無電」
  97. ^ a b c d #木俣空母344-345頁
  98. ^ a b #戦藻録(1968)196頁
  99. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.5「1340転輪羅針儀故障ノ為附近航行中ノ駆逐艦漣ニ水路嚮導ヲ依頼ス」
  100. ^ #S1709大鷹詳報(1)pp.10-11「9月28日軍艦大鷹死傷者調査表 昭和17年9月28日」
  101. ^ a b 中部太平洋方面海軍作戦(2)180頁「第二航空戦隊のトラック進出と米軍と誤認された「瑞鳳」」
  102. ^ #S17-09横鎮日誌(6)p.7「三〇|(天候略)|(補給略)|一、大鷹及漣ニ對シ修理特急工事トシテ至急實施入渠ノ通報アリ」
  103. ^ #S1709大鷹詳報(2)p.2「17.10.1|竹島飛行場ヨリ九六艦戦3機九六艦爆5機収容」
  104. ^ #S17-07呉防備戦隊(4)p.13「(チ)十月十三日大鷹入泊哨46 133°45′N31°ヨリ沖ノ島迄直接護衛」
  105. ^ #S17-07呉防備戦隊(4)p.52「一三(天候略)一、一〇三〇哨46大鷹護衛任務終了佐伯着|一、大鷹豊後水道入泊掩護 哨46ハE133°45′N31°0′ヨリ沖ノ島迄直接護衛ニ從事/二、盤谷丸昨日ニ仝ジ」
  106. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.28「4日|一.駆逐艦曙漣警戒呉ニ向ケ出港 二.警戒航行|一.1045大鷹機密第040705番電(大鷹時津風漣)行動予定GF参謀長横鎮参謀長宛報告」、p.29「損傷箇所修理ノタメ4日トラック発呉ニ回航14日呉着」
  107. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.29「8日|0850(略)大鷹内地帰着後時津風本艦警戒任務解除ノ命令受領」
  108. ^ #母艦航空隊58-59頁「最初で最後の大鷹戦闘機隊解散」
  109. ^ 昭和17年10月26日(発令10月21日付)海軍辞令公報(部内限)第971号 p.20五十嵐免職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087400 
  110. ^ a b #S17-08一水戦日誌(3)pp.54-55「四、参考 麾下艦船部隊ノ行動」
  111. ^ #S17-08一水戦日誌(3)p.56「備考(略)三、響十月二十二日附聯合艦隊機密第二二一八四〇八九番電ニ依リ大鷹艦長ノ命ヲ受ケシメラル」
  112. ^ #S18-03一水戦日誌(3)pp.6-7「備考(略)四月一五日聯合艦隊電令作第五二三號ニ依リ六駆(響欠)ヲ北方部隊ヨリ除キ内南洋部隊ニ編入サル」
  113. ^ #S17-11一水戦日誌(1)pp.38-39「四、参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」
  114. ^ #S17-12一水戦日誌(2)pp.31-33「四、参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」
  115. ^ a b c 昭和17年10月26日(発令10月24日付)海軍辞令公報(部内限)第971号 p.21高次免職・篠田補職」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087400 
  116. ^ 昭和17年10月1日(発令10月1日付)海軍辞令公報(部内限)第955号 p.7」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 
  117. ^ #S1709大鷹詳報(1)p.20「第252航空隊基地進出協力ノタメ横須賀回航28日呉発29日横須賀着」
  118. ^ #S17-09呉鎮日誌(3)p.10「廿七日 大鷹横須賀ニ向ケ二十八日一七〇〇沖ノ島通過ノ豫定呉防戰及佐伯空ヲシテ之ガ出撃掩護竝ニ對潜直衛ニ任ゼシム(電令作第五九號)」
  119. ^ #S17-07呉防備戦隊(4)pp.43-44「二十七日一六四五呉鎮長官(宛略)呉鎮機密第二七一六 四五四一番電 電令作第五九號 一.大鷹横須賀ニ向フ二十八日一七〇〇沖ノ島ヲ通過尓後響、漣ヲ伴ヒ針路概ネ一〇五度速力二〇節ノ予定(以下略)」
  120. ^ #S17-09呉鎮日誌(3)p.63「廿七日二二〇〇呉防戰司令官|廿八日〇三一五特務艦隊指揮官(鳩)夏島艇長 驅潜三六艇長(呉鎭参謀長)(外)|呉防戰機密第七〇九番電 電令作第九四號 一、大鷹二十八日一七〇〇沖ノ島ヲ通過爾後 響、漣ヲ伴ヒ針路一〇五度速力二十節ニテ横須賀ニ向フ(以下略)」
  121. ^ a b c d e f g h i 中部太平洋方面海軍作戦(2)215-217頁「航空母艦による航空機輸送」
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  126. ^ #S1801二水戦日誌(5)p.6「4月4日-同10日|親潮、黒潮|冲鷹、大鷹|横須賀→「トラック」」
  127. ^ #S18-04十一水戦日誌(1)p.11「十五日二一一八大鷹艦長(宛略)大鷹 冲鷹 二十七駆 響 行動豫定ノ電 十六日〇六〇〇「トラツク」発二十一日一一四五横須賀着|無電」
  128. ^ #S17-12四水戦日誌(6)pp.53-54「一六(天候略)一、五月雨〇六二五トラツク着/二、27dg(時雨、有明)〇六〇〇横須賀ニ向ケトラック発/三、夕暮〇八〇〇トラック出撃|(略)二、27dg(時雨、有明)大鷹冲鷹護衛ニ任ジ横須賀ニ囘航ス(GF電令作第五三〇號AdB信令作第二一八號)」
  129. ^ #S17-12四水戦日誌(6)p.7「27dg(白露欠)(中略)十六日大鷹及冲鷹護衛ニ任ジ「トラツク」出撃二十一日横須賀着二十五日雲鷹及冲鷹護衛ニ任ジ横須賀発三十日「トラツク」着任務ヲ終了ス」
  130. ^ #S17-12四水戦日誌(6)p.46「四 参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動」
  131. ^ #S18-03一水戦日誌(1)pp.33-35「四、参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動」
  132. ^ #S18-03一水戦日誌(3)pp.8-9「(ハ)配備」
  133. ^ #S18-03一水戦日誌(3)p.7「備考(略)四月十五日 聯合艦隊電令作第五二三號ニ依リ六駆(響欠)ヲ北方部隊ヨリ除キ内南洋部隊ニ編入サル」
  134. ^ #S18-04十一水戦日誌(1)p.18「(ロ)第六駆逐隊(響缺)ハ上中旬北方部隊ニ在リテ北太平洋作戰ニ從事 十五日内南洋部隊ニ編入セラレタルモ爾後横須賀ニ在リテ修理竝ニ整備ニ從事セリ」
  135. ^ #S18-04十一水戦日誌(1)p.17「四.参考(一)麾下艦船ノ行動」
  136. ^ #S18-04十一水戦日誌(1)p.18「(ハ)響ハ上中旬前進部隊ニ在リテ護衛任務ニ從事二十一日主力部隊ニ編入セラレ爾後内海西部ニ於テ當隊ニ合同訓練ニ從事セリ」
  137. ^ #S18-03一水戦日誌(4)p.8「備考(略)五月十五日 5F機密第一五一五四三番電(HPB電令作第三一二號)ニ依ル軍隊区分ニ依リ1sd(欠初春)2dg(五月雨)長波 響ヲ以テ水雷部隊ヲ編成(但シ響、長波、2dg(五月雨)ハ幌筵進出時ヲ以テ水雷部隊ニ編入)/十七日 GF機密第一四二二三一番電(GF電令作第五五號)ニ依リ響ハ十七日附北方部隊ニ編入」
  138. ^ #S18-04十一水戦日誌(1)p.44「四、参考(一)麾下艦船部隊ノ行動」
  139. ^ #木俣空母495-496頁「大鷹マニラへ(五月)」
  140. ^ 昭和18年4月26日(発令4月26日付)海軍辞令公報(部内限)第1102号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090700 
  141. ^ a b c 昭和18年6月1日(発令5月29日付)海軍辞令公報(部内限)第1130号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091300 
  142. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.3「本艦ハGF電令作第627号ノ任務ヲ終了シGF電令作第642号ニ依ル次期軍事機材輸送任務ノ為横須賀回航ヲ要シ便乗者431名托送品零戦3艦攻3水戦1発動機5其ノ他ヲ搭載ノ上4日0415「トラック」港出港9日1700横須賀着ノ予定ヲ以テ同地ニ向フ」
  143. ^ #S1806二水戦日誌(2)pp.78-79「四(天候略)31dg(大波)〇四一五「トラック」発(中略)31dg(大波)大鷹警戒トシテ「トラック」発」
  144. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.3「4日1745舞風分離迄左右130度1500米ニ駆逐艦各1ヲ配ス舞風分離後大波本艦艦尾1000米ニ占位シ昼夜間共艦内哨戒第三配備之字運動A法(時隔5分)ヲ実施ス」
  145. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.2「本艦6日1300ヨリ高角砲機銃教練射撃開始ノ予定ヲ以テ之字運動ヲ止メ針路40度18節ニテ直進ス、警戒駆逐艦大波ハ大鷹ノ後方約1500米ヲ続行ス」
  146. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.7「6日1320大鷹艦長|発大鷹艦長6日1300北緯21度32分 東経153度20分 / 北緯21.533度 東経153.333度 / 21.533; 153.333ニテ近巨離ニ潜望鏡発見雷撃四ヲ受ケタルモ回避シ被害ナシ大波制圧中」
  147. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.9「同日1050大鷹艦長|大波|魚雷1本本艦右舷中部ニ撃角20度ニテ觸衝セシモ爆発セズ頭部切断沈没セリ」
  148. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.13「(ハ)船体 横須賀入港後調査ノ結果 水線下約5米ニテ104番ビーム前方63糎ニ経約45糎深3.5糎ノ円形凹部ヲ発見、円形凹部ハ魚雷頭部ニテ三日月型凹部ハ頭部脱落後再ビ気室前端ニテ衝撃セツモノト認ム両者共変形セルノミニテ支障ナシ」
  149. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.5「大鷹ノ射撃ニ依リ大波ノ前方1500米ニ潜望鏡ヲ認メ直ニ之ガ攻撃ニ移ル」
  150. ^ #S1806二水戦日誌(2)pp.80-81「六(天候略)(中略)31dg(大波)大鷹護衛中一三〇〇N21°23′E153°20′ニ於テ大鷹雷撃(四本)ヲ受ク被害ナシ 大波攻撃制圧中(以下略)」
  151. ^ #S1806二水戦日誌(2)pp.4-5「(ロ)麾下艦隊ノ作戰概要(略)(二)第三十一驅逐隊 大波 AdB(十五日以降YB)ニ編入八月四日「トラツク」發ノ大鷹ヲ護衛九日横須賀着同十日同發十二日舞鶴着爾後同地ニ於テ九月上旬完了豫定ニテ修理ニ從事中」
  152. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.81「九(天候略)(略)31dg(大波)横須賀着|31dg(大波)大鷹警戒任務終了 横須賀着(以下略)」
  153. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.51「一七日〇六〇〇(長官)2F(宛略)2F機密第一六二三二一番電 「トラツク」回航ニ關スル機密AdB命令要旨 一.第二軍隊區分(主力部隊ト合同後)區分指揮官兵力ノ順 主隊直率4S(摩耶缺)大鷹警戒隊(司令官)2sd 2sd(能代)24dg(涼風海風)秋雲(以下略)」
  154. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.4「(三)2sd(能代)ハ十六日主力部隊(長官1F直率)ノ指揮下ニ入リ主力部隊ノ警戒隊(司令官2sd、2sd(能代)初風天津風)トナリ十六日呉出撃八島假泊(海風ト合同佐鎮五特、便乗者一部移載)十七日假泊發十八日一一〇〇(長官)2F直率部隊(24dg(涼風)ヲ含ム)ト合同(指揮官)YBノ麾下(YB警戒隊)トナリ二十三日「トラツク」着」
  155. ^ #S1806二水戦日誌(2)p.60「二三日一一五五(長官)1F(宛略)1F機密第二三一〇一九番電 大和長門扶桑愛宕高雄能代24dg(涼風海風)10dg(秋雲夕雲)天津風若月初風ヲ率ヒ「トラツク」着二三日〇七四五」
  156. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.25「四日一五〇八沖鷹(宛略)冲鷹大鷹浦風風雲五月雨左ニ依リ「トラツク」ニ向ケ七日〇五〇〇横須賀發(略)」
  157. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.9「(6)五月雨 前月ニ引續キ横須賀ニテ修理整備ニ従事中七日冲鷹大鷹ヲ護衛横須賀發十一日「トラツク」着…」
  158. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.19「(ロ)(略)次期軍事機材輸送任務ノ為横須賀回航ヲ要シ便乗者840名托送品零戦6其ノ他若干ヲ搭載ノ上21日0400「トラック」港出港…」
  159. ^ a b c d e #木俣空母529-531頁
  160. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.18「(二)我軍ノ兵力配備及行動 横須賀回航ノ途次島風冲鷹本艦ノ順ニテ単縦陣ニテ之字運動A法(時隔五分)ヲ実施基準針路320度速力20節ニテ航行中ナリ」
  161. ^ 中部太平洋方面海軍作戦(2)403-404頁「「大鷹」被雷航行不能」
  162. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.24「(三)天候及戦場ノ状況 天候曇雨量9風向北東風速10米波浪4驟雨屡々来襲シ水平線附近特ニ視界不良ナリ本艦ノ北緯28度2分東経145度59分」
  163. ^ #S1709大鷹詳報(3)pp.20-21「0658|射点右110度400乃至500米ヨリ将ニ開進セントスル雷跡多数ヲ発見直ニ取舵一杯前進一杯ヲ令シタルモ約15秒後1本艦尾ニ命中爆発1本前部火薬庫(不爆)1本爆弾庫(頭部脱落不爆)ニ命中、2本前方1本後方通過防水ヲ令ス、高角砲機銃ヲ以テ攻撃ス、当時潜望鏡ヲ認メタル者ナシ」
  164. ^ #木俣空母530頁(大鷹被雷図では5本命中としている)」
  165. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.25「行動圖 註 艦底通過ト報告セルモノハ入渠調査ノ結果前部弾薬庫右舷ニ命中不爆ナリシ事判明ス」
  166. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.24「五.我ガ兵力ノ現状 大鷹船体 右10番「ビーム」附近ニ大破孔ヲ生ジ舵取機室大破シ操舵不能右舷主機械ハ推進軸屈曲左舷機械ハ電源切断ニヨリ強圧ポンプ停止セル為焼損停止運転不能」
  167. ^ #S1709大鷹詳報(3)pp.30-31「25日0612大鷹艦長|(被害詳報)発大鷹艦長(略)戦死者4名行方不明5名重傷3名軽傷21名」
  168. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.22「1010|本艦2名島風8名溺者救助」
  169. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.9「(5)島風 一日ヨリ五日迄内海西部ニ於テ研究發射及電探射撃實施十日呉在泊修理整備十一日呉發十二日横須賀着十五日摩耶鳥海ヲ護衛横須賀發二十日「トラツク」着二十一日GF電令作第七二〇號ニ依リ冲鷹大鷹ヲ護衛「トラツク」發二十四日N二八度〇分E一四〇度一〇分ニ於テ大鷹敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能同敵潜ニ對シ爆雷攻撃ヲ爲ス(効果確實)二十六日横須賀着爾後横須賀ニ在リテ待機整備」
  170. ^ 昭和18年9月、経過概要(護衛対潜)p.6「9月24日」
  171. ^ #空母機動部隊(丸2010)239頁(阿土は沖鷹運用長として曳航作業を担当)
  172. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.23「1515|冲鷹320度ニ定針速力16節(實速9.2節)爾後曳航實速力11.2節」
  173. ^ #S1709大鷹詳報(3)p.30「1256漣艦長|本艦1200ノ位置北緯29度16分東経145度34分針路340度速力20節1100予定会合点ニ於テ貴艦ヲ発見スルヲ得ズ貴艦1200ノ位置針路速力知ラサレ度」
  174. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.95「25日|白露大鷹部隊合同ノ為横須賀発2000合同護衛ニ就ク」
  175. ^ #S1806二水戦日誌(3)p.80「26日1630冲鷹|冲鷹大鷹島風漣横須賀着(略)」、p.95「26日|島風白露冲鷹大鷹護衛任務終了横須賀着」
  176. ^ #日本空母物語310頁
  177. ^ #S1811海護総司令部(1)p.33「(一月)一一(略)大鷹横濱第一船渠ニ入渠」
  178. ^ #S1811海護総司令部(2)p.48「(四月)一九(略)大鷹修理完成一四〇〇呉ニ向ケ横須賀發(略)」
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  181. ^ #S1811海護総司令部(1)pp.2-3「(ロ)我軍ノ情況(一)海上交通保護及對潜作戰強化ノ爲昭和十八年十一月十五日附東京ニ解呪護衛總司令部設置セラレ第一、第二海上護衛隊ヲ直属シ海上交通保護及對潜作戰ニ關シ各鎮守府各警備府(海南警備府ヲ除)司令長官ヲ指揮スルコトトナリ同日海軍大學校ニ将旗ヲ掲揚セリ」
  182. ^ #叢書46海上護衛戦301-303頁「海上護衛総司令部の設置」
  183. ^ #S1811海護総司令部(1)p.7「(一)司令部(イ)主要職員氏名」
  184. ^ 昭和18年11月17日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1263号 pp.41-43」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094400 
  185. ^ #叢書46海上護衛戦307-308頁「第九〇一海軍航空隊の編成」
  186. ^ #S1811海護総司令部(1)p.19「一五(略)雲鷹海鷹大鷹 第九〇一海軍航空隊ヲ當司令部部隊附属部隊ニ編入セラル」
  187. ^ #叢書46海上護衛戦309-311頁「護衛空母の海上護衛総司令部部隊編入」
  188. ^ #S1811海護総司令部(1)p.21「二〇(略)神鷹、附属部隊ニ編入セラル/駆逐艦芙蓉船團護衛中本日〇九一五北緯一四-一一六度東経一一九-五八ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没」
  189. ^ #空母二十九隻281-282頁「護衛空母への新たなる転身」
  190. ^ #S1811海護総司令部(1)p.21「(十二月)二一(略)大鷹横濱船渠會社ニ於テ損傷修理」
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    • 『昭和18年6月14日~昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030101200。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(1)』。Ref.C08030137300。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(2)』。Ref.C08030137400。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(3)』。Ref.C08030137500。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(4)』。Ref.C08030137600。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030140600。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030140700。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年7月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030141000。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年7月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030141100。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030141400。 
    • 『昭和19年4月~昭和19年8月14日 船団護衛任務報告(2)』。Ref.C08030708100。 
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030685100。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年12月31日 聖川丸戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030649400。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和17年9月』。Ref.C16120657300。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年9月』。Ref.C16120658500。 
    • 『昭和16.12~18.12 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の1/昭和18年11月』。Ref.C16120658700。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年5月』。Ref.C16120659600。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年6月』。Ref.C16120659700。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年7月』。Ref.C16120659800。 
    • 『昭和19.1~昭和20.2 大東亜戦争経過概要(護衛対潜関係)其の2/昭和19年8月』。Ref.C16120659900。 
    • 『昭和17.7.1~昭和17.9.28 太平洋戦争経過概要 その3/17年9月17日~17年9月28日』。Ref.C16120633600。 
    • 『昭和18.8.15~昭和18.12.31 太平洋戦争経過概要 その6/18年9月14日~18年9月30日』。Ref.C16120637100。 
    • 『昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要 その9/19年7月21日~19年7月31日』。Ref.C16120644000。 
    • 『昭和19.7.1~昭和19.8.31 太平洋戦争経過概要 その9/19年8月11日~19年8月20日』。Ref.C16120644700。 

関連項目

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外部リンク

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