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「ゴローニン事件」の版間の差分

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'''ゴローニン事件'''(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記するは、日本の[[江戸時代]]にあたる[[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年)、[[ロシア]]の軍艦ディアナ号艦長の[[ヴァーシリー・ゴローニン|ゴローニン]]({{lang-ru|Василий Михайлович Головнин}}, ''Vasilii Mikhailovich Golovnin'', ヴァシリー・ミハイロヴィゴロニンが日本に抑留さた事件
'''ゴローニン事件'''(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記)は、[[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年)、[[千島列島]]を測量中であった[[ロシア]]の軍艦[[ディアナ号]]艦長の[[ヴァーシリー・ゴローニン|ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン]]({{lang-ru|Василий Михайлович Головнин}}, ''Vasilii Mikhailovich Golovnin'')らが、[[国後島]]で[[松前奉行]]配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長の{{仮ンク|ピョトルリコルド|ru|Рикорд, Пётр Иванович}}と、彼に[[拿捕]]そして[[カムャツカ]]へ連行された[[高田屋嘉兵衛]]の尽力により、事件解決が図られた。ゴロニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記(原題:{{lang-ru|Записки флота капитана Головнина о его приключениях в плену у японцев в 1811, 1812 и 1813 годах}})』より広く知ら
※日付は和暦。


== 経緯 ==
== 事件までの経緯 ==
東方へ領土を拡張していた[[ロシア帝国]]は、[[18世紀]]に入ると[[オホーツク]]や[[ペトロパブロフスク・カムチャツキー|ペトロパブロフスク]]を拠点に、千島[[アイヌ]]への[[キリスト教]]布教や毛皮税(ヤサーク)の徴収を行い、[[得撫島]]に移民団を送るなど千島列島へ進出するようになった。一方、日本も[[松前藩]]が[[1754年]]([[宝暦]]4年)に、国後[[場所請負制|場所]]を設置しアイヌとの交易を開始した<ref>[[#新版・北海道の歴史|新版・北海道の歴史 上巻]] p.288</ref>。そして[[1759年]]([[宝暦]]9年)に、松前藩士が[[厚岸]]で、[[択捉島]]および国後島のアイヌから、北千島に赤衣を着た外国人が番所を構えて居住しているという報告を受け、日本側もロシア人の千島列島への進出を認識するようになった<ref>{{Cite web |url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-02/shishi_03-02-05-00-01~02.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 pp.381-382 |publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2015-04-04}}</ref>。
[[ロシア帝国]]の東方拡張により[[18世紀]]には日露両国は隣国同士となり、[[蝦夷地]]を中心に両国は接触していた。日本との通商を求めるロシアに対し、日本の[[江戸幕府]]は[[鎖国]]政策を堅持していたが、[[江戸時代]]中期には北方探査を始めた。[[1792年]]([[寛政]]4年)には[[アダム・ラクスマン]]が日本人漂流民の[[大黒屋光太夫]]らを伴い来日した。


[[1778年]]([[安永]]7年)、[[イルクーツク]]商人のシャバリンが蝦夷地のノッカマップ(現在の[[根室市]])に上陸し交易を求めた。応対した松前藩士が来年返答すると伝え、翌[[1779年]](安永8年)、厚岸に来航。松前藩は幕府に報告せず独断で、交易は長崎のみであり、蝦夷地に来ても無駄であることを伝え引き取らせた{{sfn |渡辺京二|2010| pp=84-86}}。一方、日本側も老中・[[田沼意次]]の時代に幕府が蝦夷地探検隊を派遣、[[1786年]]([[天明]]6年)に[[最上徳内]]が幕吏として初めて[[択捉島]]へ渡り、同島北東端のシャルシャムでロシア人と遭遇する{{sfn |渡辺京二|2010| pp=145-148}}など両国の接触が増えていった。
[[露米会社]]を設立した[[ニコライ・レザノフ]]は日本人漂流民の[[津太夫]]一行を返還し、通商を求めるために来日し、[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年)9月に[[長崎]]へ来航。その後半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌[[1805年]](文化2年)3月に長崎奉行所において[[遠山景晋]]が対応し、通商を拒絶される。レザノフは漂流民を返還して長崎を去るが、[[1807年]](文化4年)、{{仮リンク|ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・フヴォストフ|ru|Хвостов, Николай Александрович|label=ニコライ・フヴォストフ}}らロシア軍人2名を雇い[[択捉島]]や[[樺太]]に上陸し、略奪や放火など襲撃を行わせる([[文化露寇]])。幕府は東北諸藩に臨戦態勢を整えさせて[[蝦夷地]]沿岸の警備を強化、北方探査も行う。ロシアではフヴォストフらは処罰されるが、日本の報復を恐れて日露関係は緊張した。[[1808年]](文化5年)には[[長崎市|長崎]]で[[フェートン号事件]]も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。


[[1792年]]([[寛政]]4年)、[[アダム・ラクスマン]]が神昌丸漂流民の[[大黒屋光太夫]]らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航。ラクスマンは[[江戸]]での通商交渉を求めたが謝絶され、代わりに[[長崎]]入港を認める「信牌」を渡され帰国した<ref>{{Cite web |url=http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-02/shishi_03-02-05-00-05.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 pp.386-397 |publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2015-04-04}}</ref>。
[[1811年]](文化8年)、[[松前奉行支配調役]][[奈佐瀬左衛門]]は測量のため[[千島列島]]へ訪れていた[[ディアナ号]]を[[国後島]]で拿捕し、艦長ゴローニン海軍中佐ら8名を捕らえ抑留した。ゴローニンらを人質に取り、ディアナ号に対し砲撃する日本側に対し、副艦長の{{仮リンク|ピョートル・リコルド|ru|Рикорд, Пётр Иванович}}はロシアへ帰還し、日本人漂流民を使者、交換材料として連れて翌[[1812年]](文化9年)に再び来日、8月には国後島においてゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、日本側はゴローニンらを処刑したと偽り拒絶する。


[[露米会社]]を設立した[[ニコライ・レザノフ]]は、若宮丸漂流民の[[津太夫]]一行を送還するとともに通商を求めるため、皇帝・[[アレクサンドル1世]]の親書およびラクスマンが入手した信牌を所持した使節として、[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年)9月に[[長崎]]へ来航した。しかし、半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌[[1805年]](文化2年)3月に[[長崎奉行]]所で目付・[[遠山景晋]]から通商を拒絶された。レザノフは漂流民を引渡して長崎を去ったが、ロシアに帰国した後、武力を用いれば日本は開国すると考え、皇帝に上奏{{sfn |渡辺京二|2010| p=254}}するとともに、部下の{{仮リンク|ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・フヴォストフ|ru|Хвостов, Николай Александрович|label=ニコライ・フヴォストフ}}らに日本への武力行使を命令した{{sfn |渡辺京二|2010| p=256}}。レザノフはフヴォストフに計画を変更して、[[亜庭湾]]の偵察を行いアメリカに向かえ、という命令を残して[[サンクトペテルブルグ]]へ向かったが、先の命令は撤回されていないと考えたフヴォストフは[[1806年]](文化3年)から[[1807年]](文化4年)にかけて、[[択捉島]]や[[樺太]]、[[利尻島]]で略奪や放火などを行った{{sfn |渡辺京二|2010| p=257-258,263-270}}。
リコルドは報復措置として国後島沖で日本船の観世丸を拿捕。乗り合わせていた[[廻船]]商人の[[高田屋嘉兵衛]]らを抑留した。翌[[1813年]](文化10年)9月、ゴローニンは高田屋嘉兵衛と捕虜交換により解放され、ロシアへ帰国した。この一連の事件解決には高田屋嘉兵衛の交渉があったといわれている。
{{Main|文化露寇}}
幕府は、1806年1月にロシアの漂着船は食糧等を支給して速やかに帰帆させる「ロシア船撫恤令」を出していた{{sfn |横山伊徳|2013| pp=146-147}}が、フボォストフの襲撃を受けて東北諸藩に出兵を命じ[[蝦夷地]]沿岸の警備を強化するとともに、1807年12月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視するという「ロシア船打払令」を出した。また、[[1808年]](文化5年)には[[長崎市|長崎]]で[[フェートン号事件]]も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。そうした状況下で発生したのがゴローニン事件であった。


== ゴローニンの捕縛 ==
帰国したゴローニンは『日本幽囚記』を執筆し、各国語に翻訳される。その後も、幕府による[[異国船打払令]]が出されるなかロシア船は漂流民返還のために来航し、[[幕末]]には[[1853年]]([[嘉永]]6年)に[[プチャーチン]]が通商条約締結のため、長崎、[[下田]]へ来航する。
[[file:GolovninB&W.jpg|thumb|right|ゴローニン]]
<!--(出典の記述がないためコメントアウトします。記述が事実ならば出典を提示してコメントをはずしてください)== エピソード ==
[[File:Petr Rikord.jpeg|thumb|200px|right|老年のリコルド]]
* {{要出典範囲|この時、ゴローニンたちを尋問した幕府の役人の中に[[間宮林蔵]]がいた。間宮は測量器の使い方などをゴローニンに問い詰めたが、知らん振りでとぼけられたという。ゴローニンは間宮に対して敵意を感じて警戒したらしい。|2008年3月4日 (火) 14:19 (UTC)}}
[[1811年]](文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していた[[スループ]]船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍少佐{{Refnest|group="注釈"|ゴローニン率いるディアナ号はロシア帝国東方の未探索地域の調査任務のため、1807年に[[クロンシュタット]]を出港、1809年にカムチャツカに到着後、1810年には北アメリカ西岸の航海を行っていた{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=17}}。}}は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端{{Refnest|group="注釈"|このときゴローニンは、択捉島とは別の島に上陸したと思っていた{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=38}}。}}に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の[[振別郡|振別]](ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した{{sfn |ゴロウニン|1984a| pp=38-43}}。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった[[根室海峡]]に関心を持ち、同海峡を通過して北上し[[オホーツク]]へ向かう計画であった{{sfn |ゴロウニン|1984a| pp=29-30}}ゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=62}}。そして5月27日、[[泊村 (北海道根室振興局)|泊]]湾に入り湾内の測量を始めた。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の[[南部藩]]兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り{{sfn |ゴロウニン|1984a| pp=66-67}}、日本側と接触した。
-->


6月3日、海岸で武装した日本側の役人と面会、日本側から陣屋に赴くよう要請される{{sfn |ゴロウニン|1984a| pp=74-82}}。6月4日、ゴローニン、ムール少尉、フレブニコフ航海士、水夫4名(シーモノフ、マカロフ、シカーエフ、ワシリーエフ)と千島アイヌのアレキセイ{{Refnest|group="注釈"|石坂が連れていたアイヌのうちの1人{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=54}}。}}は陣屋を訪問{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=83}}。食事の接待を受けた後、補給して良いか松前奉行の許可を得るまで人質を残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=87}}。この「騙し討ち」を見て、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになった{{sfn |ゴロウニン|1985| p=192}}。
== 資料文献 ==

*『ゴロヴニン 日本幽囚記』 [[井上満]]訳 [[岩波文庫]]全3巻、初版1943~46年、復刊1997年ほか。<br> 戦前の訳書で「[[菜の花の沖]]」は、この訳書を参照している。
ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した{{sfn |ゴロウニン|1985|pp=186-192}}。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告しゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ出発した{{sfn |ゴロウニン|1985| pp=194-195}}。途中、イルクーツク県知事{{仮リンク|トレスキン|ru|Трескин, Николай Иванович}}を訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、[[1812年ロシア戦役|ヨーロッパ情勢の緊迫化]]のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは文化露寇の際に捕虜となりロシアに連行されていた[[中川五郎治|良左衛門]]を連れてオホーツクへ戻った{{sfn |ゴロウニン|1985| pp=196-198}}。
*『ゴロウニン 日本俘虜実記  ''<span lang="ru">Василий Михайлович Головнин</span>'' 』 全2巻、徳力真太郎訳、[[講談社学術文庫]]、1984年。<br> 訳者は[[樺太]]での抑留経験がある、品切中。

*『続日本俘虜実記 <small>ロシア士官の見た徳川日本</small>』 同訳、[[講談社]]学術文庫、1985年。リコルドによるあとがきを記す、品切中。
== 抑留生活 ==
*『ゴロウニン [[南千島]]探検始末記』 徳力真太郎訳、同時代社、1994年。幕府側に捕らえられるまでの記録、品切中。
国後島からディアナ号が去ると、ゴローニンらは縄で縛られたまま徒歩で陸路を護送され、7月2日、[[箱館]]に到着。そこで箱館詰吟味役・大島栄次郎の予備尋問を受けた後、8月25日に[[松前]]に移され監禁された{{sfn |渡辺京二|2010| p=296-300}}。

8月27日から松前奉行・[[荒尾成章]]の取り調べが行われた。荒尾は、フボォストフの襲撃がロシア政府の命令に基づくものではなく、ゴローニンもフボォストフとは関係ないという主張を受け入れ、ゴローニンらを釈放するよう11月江戸に上申したが、幕閣は釈放を拒否した{{sfn |渡辺京二|2010| p=305-306}}。

=== 脱走 ===
[[1812年]](文化9年)春、監視付の散歩が許されるようになり{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=311}}、また牢獄から城下の武家屋敷への転居が行われた{{sfn |ゴロウニン|1984a| pp=312-313}}が、このまま解放される見込みがないと懸念したゴローニンらは、脱獄して小舟を奪い、カムチャツカか沿海州方面へ向かうことを密かに企てた。当初はムールやアレクセイも賛同したが、ムールは翻意。3月25日にムールとアレクセイを除く6名が脱走{{sfn |ゴロウニン|1984b| p=28}}。松前から徒歩で北に向かって山中を逃げたが、4月4日、木ノ子村(現在の[[上ノ国町]])で飢えて疲労困憊となっているところを村人に発見され捕まった{{sfn |ゴロウニン|1984b| p=64}}。松前に護送され、奉行の尋問を受けた後、[[徳山大神宮]]の奥にあるバッコ沢(現在の松前町字神内)の牢獄に入れられた{{sfn |ゴロウニン|1984b| pp=68-79}}<ref>{{cite web|url=http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/hc/h22gaiyou.oshima/bakkosawaroya.pdf |title=『松前町バッコ沢牢屋跡遺跡 |publisher=北海道教育委員会 |accessdate=2015-03-28 }}</ref>。

=== 通訳教育、間宮林蔵の来訪 ===
幕府はゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、[[上原熊次郎]]{{Refnest|group="注釈"|アイヌ語通詞。アイヌ語辞典『蝦夷方言藻汐草』を編纂した。}}、[[村上貞助]](むらかみ・ていすけ){{Refnest|group="注釈"|松前奉行支配調役下役。別名・秦貞廉。間宮林蔵の師・[[村上島之允]](秦億丸)の養子。林蔵の『北蝦夷図説』『東韃地方紀行』を編纂した{{sfn |渡辺京二|2010| p=306-307}}。}}、[[馬場貞由]]、[[足立信頭]]らがロシア語を学んだ{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=258}}{{sfn |ゴロウニン|1984b| p=153}}。

そのほか学者などが獄中のゴローニンらを訪問しているが、その中に[[間宮林蔵]]もいた。林蔵は、[[壊血病]]予防の薬として[[レモン]]や[[みかん]]、薬草を手土産に、[[六分儀]]や天体観測儀、作図用具などを持ち込んで、その使用方法を教えるよう求めた。また、林蔵は毎日、朝から晩まで通っては鍋や酒を振る舞い、自分の探検や文化露寇の際の武勇談{{Refnest|group="注釈"|林蔵は択捉島の[[紗那郡|紗那]]でフヴォストフの襲撃を受けている。}}を自慢して、ゴローニンに「彼の虚栄心は大変なもの」と評された{{sfn |ゴロウニン|1984a| pp=303-308}}。なお林蔵はロシア人を疑っており、ゴローニンらをスパイであると奉行に進言し江戸に報告書を送っていたと、ゴローニンは記している{{sfn |ゴロウニン|1984b| p=14}}。

== 高田屋嘉兵衛の拿捕 ==
[[File:高田屋嘉兵衛像.jpg|thumb|200px|高田屋嘉兵衛像(函館市)。リコルドに渡す説諭書を携えている。]]
オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、良左衛門や1810年(文化7年)にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島へ向かった{{sfn |ゴロウニン|1985| pp=199-200}}。8月3日に泊に到着、国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑したと偽り拒絶した<ref>{{cite web|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-03/shishi_03-03-08-00-03~04.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 pp.472-473 |publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2015-03-12 }}</ref>。リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕<ref>{{cite web|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-03/shishi_03-03-08-00-05.htm |title=『函館市史』通説編第1巻 pp.473-476 |publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2015-03-12 }}</ref>。乗船していた嘉兵衛と水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治、前日ディアナ号に捕まっていたアイヌ・シトカの計6名をペトロパブロフスクへ連行した<ref name=hakodate1-476>{{cite web|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-03/shishi_03-03-08-00-06~08.htm|title=函館市史通説編第1編 pp.476-477|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2015-03-05}}</ref>。

ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ{{sfn |須藤隆仙|1989| pp=158-159}}。嘉兵衛らの行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた{{sfn |須藤隆仙|1989| pp=164-165}}。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流している{{Refnest|group="注釈"|アメリカ人の商人・ドベリの記録に嘉兵衛と会った話が書かれている{{sfn |生田美智子|2012| pp=188-190,319-324}}。}}。しかし翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛は[[キリスト教]]の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら[[仏教]]、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った{{sfn |須藤隆仙|1989| pp=165-167}}。その後、嘉兵衛は精神不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドは、このときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の懇請を受けて自ら日露交渉に赴くこととした{{sfn |ゴロウニン|1985| pp=243-244}}。

== 事件解決 ==
[[File:Nichiro_yukou.jpg|thumb|200px|right|日露友好の碑(函館市)。1999年にゴローニンとリコルドの子孫が来日し高田屋嘉兵衛の子孫と再会したのを記念して建立された。]]
幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフボォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させ{{Refnest|group="注釈"|説諭書には彼が書いた書状が添えられていた{{sfn |ゴロウニン|1984b| pp=143-145}}。}}、ロシア船の来航に備えた{{sfn |横山伊徳|2013| p=190-192}}。

[[1813年]](文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した{{sfn |渡辺京二|2010| pp=326-329}}。

ディアナ号国後島到着の知らせを受けた松前奉行は、吟味役・[[高橋重賢]]、柑本兵五郎を国後島に送った。二人はシーモノフとアレクセイを連れて国後島に向かい、6月19日に到着。高橋は嘉兵衛に事情を聞いた後、リコルドと直接会談はせず嘉兵衛を介して、ゴローニン解放の条件として公式の釈明書を提出することを要求した<ref name=hakodate1-476 />。

日本側の要求を承諾したリコルドは、6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発<ref name=hakodate1-476 />。一方、高橋と嘉兵衛らは6月29日に国後島を出発、7月19日に松前に着いた高橋は松前奉行・[[服部貞勝]]に交渉内容を報告{{sfn |須藤隆仙|1989| p=187}}。そして8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された<ref>[[#通航一覧|通航一覧]]第八 p.73</ref>。

リコルドはオホーツクに入港すると、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手。そして、若宮丸の漂流民でロシアに帰化していた通訳の[[善六|キセリョフ善六]]と歓喜丸漂流民の[[久蔵]]を乗せて、7月28日にオホーツクを出港した{{sfn |ゴロウニン|1985| p=278}}。20日後には蝦夷地を肉眼で確認できる位置まで南下し、8月28日に[[内浦湾]]に接近した。しかし暴風雨に遭遇、リコルドは一旦[[ハワイ諸島]]に避難することも検討したが、暴風雨がおさまったため、9月11日に絵鞆(現在の[[室蘭市]])に入港した{{sfn |ゴロウニン|1985| p=282}}<ref>{{cite web|url=http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-03/shishi_03-03-08-00-09~10.htm|title=函館市史通説編第1編 pp.478-479|publisher=函館市中央図書館 |accessdate=2015-03-11}}</ref>。そこで[[水先案内人|水先案内]]のため待機していた嘉兵衛の手下・平蔵がディアナ号に乗り込み、9月16日夜に[[箱館]]に到着した。入港直後には嘉兵衛が小舟に乗ってディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った{{sfn |ゴロウニン|1985| pp=286-287}}。

9月18日朝、嘉兵衛がディアナ号を訪問、リコルドはオホーツク長官の釈明書を手渡した{{sfn |ゴロウニン|1985| p=294}}。

9月19日正午、リコルドと士官2人、水兵10人、善六が上陸、沖の口番所で高橋重賢らと会見し、イルクーツク県知事の釈明書を手渡した{{sfn |ゴロウニン|1985| pp=303-305}}。なお、この会談で善六はリコルドの最初の挨拶を翻訳したが、以後の通訳は日本側の通訳・村上貞助が行った{{sfn |ゴロウニン|1985| p=306}}。松前奉行はロシア側の釈明{{Refnest|group="注釈"|イルクーツク県知事の釈明書はフヴォストフの行為が全て明らかになっていない時点で書かれたもので内容不十分であったため、日本側はオホーツク長官の釈明書を正式な回答とみなした{{sfn |ゴロウニン|1984b| pp=225-226}}。}}を受け入れ、9月26日にゴローニンらを解放し久蔵を引き取ったが、通商開始については拒絶した<ref>{{Cite web|url = http://www.lib-hkd.jp/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-03/shishi_03-03-08-00-12~13.htm|title = 函館市史通説編第1巻 pp.481-482|publisher = [[函館市中央図書館]] |accessdate = 2015-03-08 }}</ref>。

任務を終えたディアナ号は9月29日に箱館を出港し{{sfn |ゴロウニン|1985| p=325}}、10月23日にペトロパブロフスクに帰着した{{sfn |ゴロウニン|1985| pp=325-326}}。

== その後 ==
ペトロパブロフスクに帰還したゴローニンは、同年の冬にリコルドとともにサンクトペテルブルクへ出発した{{sfn |ゴロウニン|1984b| p=255}}。[[1814年]]夏にサンクトペテルブルクに到着、両名とも海軍中佐に昇進し、年間1,500ルーブルの終身年金を与えられた{{sfn |ゴロウニン|1984b| pp=256-257}}。

一方、嘉兵衛は外国に渡航した者として罪人扱いとなった。リコルドを迎えるため松前から箱館に戻った9月15日から[[称名寺]]に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されなかったが、体調不良のため自宅療養を願い出て、10月1日からは自宅で謹慎した。そして翌年3月3日、松前奉行所に呼び出され、出国したのはロシア船に拿捕されたためであり、帰国したことから無罪となった。そして5月にはゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金5両を下賜された{{sfn |須藤隆仙|1989| pp=198-199}}。

=== 幻の国境画定交渉 ===
リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、日本側の姿勢を判断するに交渉は容易ではなく、箱館での越冬を余儀なくされ、レザノフの二の舞になる懸念があることから、ゴローニンと相談し日本側への打診を中止した{{sfn |ゴロウニン|1984b| pp=229-230}}。ただし、箱館を去る際、日本側の役人に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年6-7月{{Refnest|group="注釈"|ユリウス暦での日付であり、和暦では5-6月となる。}}に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した<ref>[[#通航一覧|通航一覧]]第八 pp.111-116</ref>。

幕府は国交樹立は拒否し、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとした。そして、択捉島までを日本領、シモシリ島([[新知島]])までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て<ref>[[#通航一覧|通航一覧]]第八 pp.119-121</ref>、1814年春、高橋重賢を択捉島に送った。しかし、高橋が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった<ref>[[#通航一覧|通航一覧]]第八 pp.127-128</ref>。このため国境画定は幕末の[[プチャーチン]]来航まで持ち越されることとなった。

== 日本幽囚記 ==
ゴローニンは帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を執筆し、[[1816年]]に官費で出版された。三部構成で、第1部・第2部が日本における捕囚生活の記録、第3部が日本および日本人に関する論評である。

幕末に[[ロシア正教会]]の司祭として来日した[[ニコライ (日本大主教)|ニコライ・カサートキン]]が同書を読んで日本への関心を高めたと伝えられている<ref>{{Cite web|url = http://www.orthodoxjapan.jp/raikou.html|title = 聖ニコライの渡来|publisher = 日本正教会|accessdate = 2015-03-30 }}</ref>。そして同書は各国語に翻訳され、日本に関する最も信頼のおける史料として評価された{{sfn |ゴロウニン|1984a| p=7}}。日本でも[[ドイツ語]]版を重訳した[[オランダ語]]版(第1部・第2部のみ)が[[1821年]]に[[オランダ商館]]長により江戸にもたらされ{{Refnest|group="注釈"|商館長がゴローニン事件に詳しいのを馬場が問いただして本書の存在を知り、借用して書写した{{sfn |和田春樹|1991| p=72}}。}}、翌年から馬場貞由(翻訳中に死去)、[[杉田立卿]]{{Refnest|group="注釈"|[[杉田玄白]]の次男、[[杉田成卿]]の父<ref>{{cite web|url = https://kotobank.jp/word/杉田立卿-83524 |title = 杉田立卿とは|publisher = コトバンク |accessdate = 2015-03-23 }}</ref>。}}、[[青地林宗]]が翻訳、[[高橋景保]]が校訂し、[[1825年]]([[文政]]8年)に『遭厄日本記事』として出版された<ref>{{cite web|url=http://ndl.go.jp/nichiran/s2/s2_2.html#h5_22|title = 遭厄日本紀事|publisher = [[国立国会図書館]]|accessdate = 2015-03-15}}</ref>。同書は[[淡路島]]に帰っていた高田屋嘉兵衛も入手し読んでいたことが判明している{{sfn |生田美智子|2012| pp=327-328}}。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}

=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
*{{cite book|和書|author=ゴロウニン|others=徳力真太郎・訳|year=1984a|title=日本俘虜実記|volume=上巻|publisher=講談社|series=講談社学術文庫634|isbn=4-06-158634-3 |ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=ゴロウニン|others=徳力真太郎・訳|year=1984b|title=日本俘虜実記|volume=下巻|publisher=講談社|series=講談社学術文庫635|isbn=4-06-158635-1|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=ゴロウニン|others=徳力真太郎・訳|year=1985|title=ロシア士官の見た徳川日本|publisher=講談社|series=講談社学術文庫676|isbn=4-06-158676-9|ref=harv}}
:リコルド『日本沿岸航海及び対日折衝記』を所収。

*『ゴロヴニン 日本幽囚記』 [[井上満]]訳 [[岩波文庫]]全3巻、初版1943~46年、復刊1997年ほか。戦前の訳書で「[[菜の花の沖]]」は、この訳書を参照している。
*『ゴロウニン [[南千島]]探検始末記』 徳力真太郎訳、同時代社、1994年。幕府側に捕らえられるまでの記録。

* 『函館市史』函館市
* {{Cite book|和書|author= |others=|editor=[[林復斎]]・編 |year=1940|title=通航一覧 7-8|publisher=泰山社 |id={{NDLJP|1047957}}|ref=通航一覧 }}
*{{Cite book|和書|author = 須藤隆仙|year = 1989|title = 高田屋嘉兵衛|publisher = [[国書刊行会]]|ref = harv}}
*{{cite book|和書|author=生田美智子|year=2012|title=高田屋嘉兵衛|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4-623-06311-6|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=横山伊徳|year=2013|title=開国前夜の世界 | series = 日本近世の歴史 5|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-06433-0|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=[[渡辺京二]]|year=2010|title=黒船前夜|publisher=洋泉社|isbn=978-4-86248-506-9|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=和田春樹|year=1991|title=開国-日露国境交渉 | series = NHKブックス 620|publisher=日本放送出版協会|isbn=4-14-001620-5|ref=harv}}
*{{cite book|和書|author=長沼孝ほか|year=2011|title=新版・北海道の歴史|volume=上巻|publisher=北海道新聞社|isbn=978-4-89453-626-5|ref=新版・北海道の歴史}}


== 事件を扱った文学 ==
== 事件を扱った文学 ==
*『[[菜の花の沖]]』([[司馬遼太郎]]、初出1979年~1982年、文春文庫全6巻)
*『[[菜の花の沖]]』([[司馬遼太郎]]、初出1979年-1982年、文春文庫全6巻)
*『[[間宮林蔵]]』([[吉村昭]]、初出1981年~1982年、[[講談社文庫]])
*『[[間宮林蔵 (小説)|間宮林蔵]]』([[吉村昭]]、初出1981年-1982年、[[講談社文庫]])
*『サハリン島占領日記1853-54』 ({{仮リンク|ニコライ・ワシーリエヴィッチ・ブッセ|ru|Буссе, Николай Васильевич|label=ニコライ・ブッセ}} 、東洋文庫)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[ヴァーシリー・ゴローニン]]
*[[日露関係史]]
*[[日露関係史]]
*[[明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧]]
*[[明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧]]

== 外部リンク ==
*[http://www.asobube.com/database.cgi?dbnum=93&dbkonum=0 ゴロウニン幽閉の地] - 北海道松前藩観光奉行


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2015年4月9日 (木) 09:07時点における版

ロシアの切手

ゴローニン事件(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記)は、1811年文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンロシア語: Василий Михайлович Головнин, Vasilii Mikhailovich Golovnin)らが、国後島松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドロシア語版と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記(原題:ロシア語: Записки флота капитана Головнина о его приключениях в плену у японцев в 1811, 1812 и 1813 годах)』により広く知られる。 ※日付は和暦。

事件までの経緯

東方へ領土を拡張していたロシア帝国は、18世紀に入るとオホーツクペトロパブロフスクを拠点に、千島アイヌへのキリスト教布教や毛皮税(ヤサーク)の徴収を行い、得撫島に移民団を送るなど千島列島へ進出するようになった。一方、日本も松前藩1754年宝暦4年)に、国後場所を設置しアイヌとの交易を開始した[1]。そして1759年宝暦9年)に、松前藩士が厚岸で、択捉島および国後島のアイヌから、北千島に赤衣を着た外国人が番所を構えて居住しているという報告を受け、日本側もロシア人の千島列島への進出を認識するようになった[2]

1778年安永7年)、イルクーツク商人のシャバリンが蝦夷地のノッカマップ(現在の根室市)に上陸し交易を求めた。応対した松前藩士が来年返答すると伝え、翌1779年(安永8年)、厚岸に来航。松前藩は幕府に報告せず独断で、交易は長崎のみであり、蝦夷地に来ても無駄であることを伝え引き取らせた[3]。一方、日本側も老中・田沼意次の時代に幕府が蝦夷地探検隊を派遣、1786年天明6年)に最上徳内が幕吏として初めて択捉島へ渡り、同島北東端のシャルシャムでロシア人と遭遇する[4]など両国の接触が増えていった。

1792年寛政4年)、アダム・ラクスマンが神昌丸漂流民の大黒屋光太夫らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航。ラクスマンは江戸での通商交渉を求めたが謝絶され、代わりに長崎入港を認める「信牌」を渡され帰国した[5]

露米会社を設立したニコライ・レザノフは、若宮丸漂流民の津太夫一行を送還するとともに通商を求めるため、皇帝・アレクサンドル1世の親書およびラクスマンが入手した信牌を所持した使節として、1804年文化元年)9月に長崎へ来航した。しかし、半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌1805年(文化2年)3月に長崎奉行所で目付・遠山景晋から通商を拒絶された。レザノフは漂流民を引渡して長崎を去ったが、ロシアに帰国した後、武力を用いれば日本は開国すると考え、皇帝に上奏[6]するとともに、部下のニコライ・フヴォストフロシア語版らに日本への武力行使を命令した[7]。レザノフはフヴォストフに計画を変更して、亜庭湾の偵察を行いアメリカに向かえ、という命令を残してサンクトペテルブルグへ向かったが、先の命令は撤回されていないと考えたフヴォストフは1806年(文化3年)から1807年(文化4年)にかけて、択捉島樺太利尻島で略奪や放火などを行った[8]

幕府は、1806年1月にロシアの漂着船は食糧等を支給して速やかに帰帆させる「ロシア船撫恤令」を出していた[9]が、フボォストフの襲撃を受けて東北諸藩に出兵を命じ蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、1807年12月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視するという「ロシア船打払令」を出した。また、1808年(文化5年)には長崎フェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。そうした状況下で発生したのがゴローニン事件であった。

ゴローニンの捕縛

ゴローニン
老年のリコルド

1811年(文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍少佐[注釈 1]は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端[注釈 2]に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した[12]。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かう計画であった[13]ゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった[14]。そして5月27日、湾に入り湾内の測量を始めた。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り[15]、日本側と接触した。

6月3日、海岸で武装した日本側の役人と面会、日本側から陣屋に赴くよう要請される[16]。6月4日、ゴローニン、ムール少尉、フレブニコフ航海士、水夫4名(シーモノフ、マカロフ、シカーエフ、ワシリーエフ)と千島アイヌのアレキセイ[注釈 3]は陣屋を訪問[18]。食事の接待を受けた後、補給して良いか松前奉行の許可を得るまで人質を残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された[19]。この「騙し討ち」を見て、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになった[20]

ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した[21]。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告しゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ出発した[22]。途中、イルクーツク県知事トレスキンロシア語版を訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは文化露寇の際に捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門を連れてオホーツクへ戻った[23]

抑留生活

国後島からディアナ号が去ると、ゴローニンらは縄で縛られたまま徒歩で陸路を護送され、7月2日、箱館に到着。そこで箱館詰吟味役・大島栄次郎の予備尋問を受けた後、8月25日に松前に移され監禁された[24]

8月27日から松前奉行・荒尾成章の取り調べが行われた。荒尾は、フボォストフの襲撃がロシア政府の命令に基づくものではなく、ゴローニンもフボォストフとは関係ないという主張を受け入れ、ゴローニンらを釈放するよう11月江戸に上申したが、幕閣は釈放を拒否した[25]

脱走

1812年(文化9年)春、監視付の散歩が許されるようになり[26]、また牢獄から城下の武家屋敷への転居が行われた[27]が、このまま解放される見込みがないと懸念したゴローニンらは、脱獄して小舟を奪い、カムチャツカか沿海州方面へ向かうことを密かに企てた。当初はムールやアレクセイも賛同したが、ムールは翻意。3月25日にムールとアレクセイを除く6名が脱走[28]。松前から徒歩で北に向かって山中を逃げたが、4月4日、木ノ子村(現在の上ノ国町)で飢えて疲労困憊となっているところを村人に発見され捕まった[29]。松前に護送され、奉行の尋問を受けた後、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢(現在の松前町字神内)の牢獄に入れられた[30][31]

通訳教育、間宮林蔵の来訪

幕府はゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、上原熊次郎[注釈 4]村上貞助(むらかみ・ていすけ)[注釈 5]馬場貞由足立信頭らがロシア語を学んだ[33][34]

そのほか学者などが獄中のゴローニンらを訪問しているが、その中に間宮林蔵もいた。林蔵は、壊血病予防の薬としてレモンみかん、薬草を手土産に、六分儀や天体観測儀、作図用具などを持ち込んで、その使用方法を教えるよう求めた。また、林蔵は毎日、朝から晩まで通っては鍋や酒を振る舞い、自分の探検や文化露寇の際の武勇談[注釈 6]を自慢して、ゴローニンに「彼の虚栄心は大変なもの」と評された[35]。なお林蔵はロシア人を疑っており、ゴローニンらをスパイであると奉行に進言し江戸に報告書を送っていたと、ゴローニンは記している[36]

高田屋嘉兵衛の拿捕

ファイル:高田屋嘉兵衛像.jpg
高田屋嘉兵衛像(函館市)。リコルドに渡す説諭書を携えている。

オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、良左衛門や1810年(文化7年)にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島へ向かった[37]。8月3日に泊に到着、国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑したと偽り拒絶した[38]。リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕[39]。乗船していた嘉兵衛と水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治、前日ディアナ号に捕まっていたアイヌ・シトカの計6名をペトロパブロフスクへ連行した[40]

ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ[41]。嘉兵衛らの行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた[42]。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流している[注釈 7]。しかし翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛はキリスト教の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った[44]。その後、嘉兵衛は精神不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドは、このときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の懇請を受けて自ら日露交渉に赴くこととした[45]

事件解決

日露友好の碑(函館市)。1999年にゴローニンとリコルドの子孫が来日し高田屋嘉兵衛の子孫と再会したのを記念して建立された。

幕府は、嘉兵衛の拿捕後、これ以上ロシアとの紛争が拡大しないよう方針転換し、ロシアがフボォストフの襲撃は皇帝の命令に基づくものではないことを公的に証明すればゴローニンを釈放することとした。これをロシア側へ伝える説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」を作成し、ゴローニンに翻訳させ[注釈 8]、ロシア船の来航に備えた[47]

1813年(文化10年)5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。5月26日に泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、それまでの経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、上述の「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した[48]

ディアナ号国後島到着の知らせを受けた松前奉行は、吟味役・高橋重賢、柑本兵五郎を国後島に送った。二人はシーモノフとアレクセイを連れて国後島に向かい、6月19日に到着。高橋は嘉兵衛に事情を聞いた後、リコルドと直接会談はせず嘉兵衛を介して、ゴローニン解放の条件として公式の釈明書を提出することを要求した[40]

日本側の要求を承諾したリコルドは、6月24日、釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発[40]。一方、高橋と嘉兵衛らは6月29日に国後島を出発、7月19日に松前に着いた高橋は松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告[49]。そして8月13日にゴローニンらは牢から出され、引渡地である箱館へ移送された[50]

リコルドはオホーツクに入港すると、イルクーツク県知事トレスキンとオホーツク長官ミニツキーの釈明書を入手。そして、若宮丸の漂流民でロシアに帰化していた通訳のキセリョフ善六と歓喜丸漂流民の久蔵を乗せて、7月28日にオホーツクを出港した[51]。20日後には蝦夷地を肉眼で確認できる位置まで南下し、8月28日に内浦湾に接近した。しかし暴風雨に遭遇、リコルドは一旦ハワイ諸島に避難することも検討したが、暴風雨がおさまったため、9月11日に絵鞆(現在の室蘭市)に入港した[52][53]。そこで水先案内のため待機していた嘉兵衛の手下・平蔵がディアナ号に乗り込み、9月16日夜に箱館に到着した。入港直後には嘉兵衛が小舟に乗ってディアナ号を訪問し、リコルドとの再会を喜び合った[54]

9月18日朝、嘉兵衛がディアナ号を訪問、リコルドはオホーツク長官の釈明書を手渡した[55]

9月19日正午、リコルドと士官2人、水兵10人、善六が上陸、沖の口番所で高橋重賢らと会見し、イルクーツク県知事の釈明書を手渡した[56]。なお、この会談で善六はリコルドの最初の挨拶を翻訳したが、以後の通訳は日本側の通訳・村上貞助が行った[57]。松前奉行はロシア側の釈明[注釈 9]を受け入れ、9月26日にゴローニンらを解放し久蔵を引き取ったが、通商開始については拒絶した[59]

任務を終えたディアナ号は9月29日に箱館を出港し[60]、10月23日にペトロパブロフスクに帰着した[61]

その後

ペトロパブロフスクに帰還したゴローニンは、同年の冬にリコルドとともにサンクトペテルブルクへ出発した[62]1814年夏にサンクトペテルブルクに到着、両名とも海軍中佐に昇進し、年間1,500ルーブルの終身年金を与えられた[63]

一方、嘉兵衛は外国に渡航した者として罪人扱いとなった。リコルドを迎えるため松前から箱館に戻った9月15日から称名寺に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されなかったが、体調不良のため自宅療養を願い出て、10月1日からは自宅で謹慎した。そして翌年3月3日、松前奉行所に呼び出され、出国したのはロシア船に拿捕されたためであり、帰国したことから無罪となった。そして5月にはゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金5両を下賜された[64]

幻の国境画定交渉

リコルドは、イルクーツク県知事から国境画定と国交樹立の命令を受けていたが、日本側の姿勢を判断するに交渉は容易ではなく、箱館での越冬を余儀なくされ、レザノフの二の舞になる懸念があることから、ゴローニンと相談し日本側への打診を中止した[65]。ただし、箱館を去る際、日本側の役人に、国境画定と国交樹立を希望し、翌年6-7月[注釈 10]に択捉島で交渉したい旨の文書を手渡した[66]

幕府は国交樹立は拒否し、国境画定に関してのみ交渉に応ずることとした。そして、択捉島までを日本領、シモシリ島(新知島)までをロシア領として、得撫島を含む中間の島は中立地帯として住居を建てないとする案を立て[67]、1814年春、高橋重賢を択捉島に送った。しかし、高橋が6月8日に到着した時には、ロシア船は去った後であった[68]。このため国境画定は幕末のプチャーチン来航まで持ち越されることとなった。

日本幽囚記

ゴローニンは帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を執筆し、1816年に官費で出版された。三部構成で、第1部・第2部が日本における捕囚生活の記録、第3部が日本および日本人に関する論評である。

幕末にロシア正教会の司祭として来日したニコライ・カサートキンが同書を読んで日本への関心を高めたと伝えられている[69]。そして同書は各国語に翻訳され、日本に関する最も信頼のおける史料として評価された[70]。日本でもドイツ語版を重訳したオランダ語版(第1部・第2部のみ)が1821年オランダ商館長により江戸にもたらされ[注釈 11]、翌年から馬場貞由(翻訳中に死去)、杉田立卿[注釈 12]青地林宗が翻訳、高橋景保が校訂し、1825年文政8年)に『遭厄日本記事』として出版された[73]。同書は淡路島に帰っていた高田屋嘉兵衛も入手し読んでいたことが判明している[74]

脚注

注釈

  1. ^ ゴローニン率いるディアナ号はロシア帝国東方の未探索地域の調査任務のため、1807年にクロンシュタットを出港、1809年にカムチャツカに到着後、1810年には北アメリカ西岸の航海を行っていた[10]
  2. ^ このときゴローニンは、択捉島とは別の島に上陸したと思っていた[11]
  3. ^ 石坂が連れていたアイヌのうちの1人[17]
  4. ^ アイヌ語通詞。アイヌ語辞典『蝦夷方言藻汐草』を編纂した。
  5. ^ 松前奉行支配調役下役。別名・秦貞廉。間宮林蔵の師・村上島之允(秦億丸)の養子。林蔵の『北蝦夷図説』『東韃地方紀行』を編纂した[32]
  6. ^ 林蔵は択捉島の紗那でフヴォストフの襲撃を受けている。
  7. ^ アメリカ人の商人・ドベリの記録に嘉兵衛と会った話が書かれている[43]
  8. ^ 説諭書には彼が書いた書状が添えられていた[46]
  9. ^ イルクーツク県知事の釈明書はフヴォストフの行為が全て明らかになっていない時点で書かれたもので内容不十分であったため、日本側はオホーツク長官の釈明書を正式な回答とみなした[58]
  10. ^ ユリウス暦での日付であり、和暦では5-6月となる。
  11. ^ 商館長がゴローニン事件に詳しいのを馬場が問いただして本書の存在を知り、借用して書写した[71]
  12. ^ 杉田玄白の次男、杉田成卿の父[72]

出典

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  2. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp.381-382”. 函館市中央図書館. 2015年4月4日閲覧。
  3. ^ 渡辺京二 2010, pp. 84–86.
  4. ^ 渡辺京二 2010, pp. 145–148.
  5. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp.386-397”. 函館市中央図書館. 2015年4月4日閲覧。
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  74. ^ 生田美智子 2012, pp. 327–328.

参考文献

  • ゴロウニン『日本俘虜実記』 上巻、徳力真太郎・訳、講談社〈講談社学術文庫634〉、1984a。ISBN 4-06-158634-3 
  • ゴロウニン『日本俘虜実記』 下巻、徳力真太郎・訳、講談社〈講談社学術文庫635〉、1984b。ISBN 4-06-158635-1 
  • ゴロウニン『ロシア士官の見た徳川日本』徳力真太郎・訳、講談社〈講談社学術文庫676〉、1985年。ISBN 4-06-158676-9 
リコルド『日本沿岸航海及び対日折衝記』を所収。
  • 『ゴロヴニン 日本幽囚記』 井上満訳 岩波文庫全3巻、初版1943~46年、復刊1997年ほか。戦前の訳書で「菜の花の沖」は、この訳書を参照している。
  • 『ゴロウニン 南千島探検始末記』 徳力真太郎訳、同時代社、1994年。幕府側に捕らえられるまでの記録。

事件を扱った文学

関連項目

外部リンク