「第78回全国高等学校野球選手権大会決勝」の版間の差分
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{{Infobox baseball game |
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{{出典の明記|date=2011年7月}} |
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| game = [[第78回全国高等学校野球選手権大会]]決勝 |
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{{大言壮語|date=2014年9月}} |
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| visitor = 松山商業 |
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'''第78回全国高等学校野球選手権大会決勝'''(だい78かいぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんたいかいけっしょう)は、[[1996年]][[8月21日]]に[[阪神甲子園球場]]において[[愛媛県]]代表[[愛媛県立松山商業高等学校|松山商業高校]]と[[熊本県]]代表[[熊本県立熊本工業高等学校|熊本工業高校]]との間で行われた[[第78回全国高等学校野球選手権大会]]の[[全国高等学校野球選手権歴代優勝校|決勝戦]]。[[延長戦|延長]]11回の熱戦となり、延長10回裏に[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]負けの大ピンチを救った「[[奇跡]]のバックホーム」が生まれた。 |
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| home = 熊本工業 |
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| 開催日時 = {{start date and age|1996|08|21}} |
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| 開催球場 = [[阪神甲子園球場]] |
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| 開催地 = {{JPN}} [[兵庫県]][[西宮市]] |
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| ビジター監督 = [[澤田勝彦]] |
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| ホーム監督 = [[田中久幸]] |
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| 審判員 = |
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| 観客数 = 48,000人 |
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| 試合時間 = 3時間5分 |
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'''第78回全国高等学校野球選手権大会決勝'''(だい78かいぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんたいかいけっしょう)は、[[1996年]][[8月21日]]に[[阪神甲子園球場]]において[[全国高等学校野球選手権熊本大会|熊本代表]]・[[熊本県立熊本工業高等学校|熊本工業高校]]と[[全国高等学校野球選手権愛媛大会|愛媛代表]]・[[愛媛県立松山商業高等学校|松山商業高校]]との間で行われた[[第78回全国高等学校野球選手権大会]]の[[全国高等学校野球選手権歴代優勝校|決勝戦]]である。[[延長戦|延長]]11回の、3時間を超える熱戦となり、延長10回裏に松山商の[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]負けの大ピンチを救った、いわゆる「'''[[#奇跡のバックホーム|奇跡のバックホーム]]'''」は、球史に残る名場面として語り継がれている<ref name="asahi140629">「(あの夏から:上)逃した本塁、今つかむ 奇跡のバックホーム 高校野球」、朝日新聞 西部朝刊、2014年6月29日、39頁。</ref>。 |
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== |
== 試合前評価 == |
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決勝戦は熊本工対松山商と古豪公立校同士の対決となった<ref name="mainichi960821">「[96夏甲子園]21日優勝戦 古豪対決、決戦の水曜日」、毎日新聞 大阪朝刊、1996年8月21日、22頁。</ref>。熊本工は、[[川上哲治]]が[[エース (野球)|エース]]だった[[第23回全国中等学校優勝野球大会|第23回]]以来、59年ぶり3回目の夏の大会決勝進出で、熊本県勢初の夏の優勝を目指した<ref name="kumamoto960821">「第78回全国高校野球選手権大会=決勝戦見どころ 打線上昇の松山商 食い止めるか熊本工投手陣 甲子園」、熊本日日新聞 朝刊、1996年8月21日。</ref>。松山商は[[水口栄二]]、[[佐野慈紀|佐野重樹]]らを擁した[[第68回全国高等学校野球選手権大会|第68回]]以来10年ぶり8回目の決勝進出<ref name="mainichi960821" />。決勝で熊本代表と愛媛代表が戦うのは初めてであり、熊本工と松山商の対戦も初めてであった<ref name="kumamoto060811">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(11)=熊本工・園村淳一投手 2回から必死に投げた」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月11日。</ref><ref>津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、165頁。</ref>。この年の[[第68回選抜高等学校野球大会|春の大会]]では[[鹿児島実業高等学校|鹿児島実]]が優勝しており、熊本工には史上初の九州勢による春夏連覇もかかっていた<ref>「[夏の高校野球]熊本工、「九州春夏連覇」に挑戦 重圧無縁のナイン」、毎日新聞 西部朝刊、1996年8月21日。</ref>。 |
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決勝戦は古豪同士の対戦になり、「大会史上に残る劇的な決勝戦」<ref>http://www2.asahi.com/koshien/game/1996/400/8187/</ref>と評される名勝負になった。 |
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決勝戦は、投攻守のいずれも松山商が優位に立つと見られた<ref name="mainichi960821-2">「第78回全国高校野球<第14日>優勝戦展望 総合力で松山商、接戦なら熊本工」、毎日新聞 東京朝刊、1996年8月21日、15頁。</ref>。主将で三番の今井康剛、6打点を上げている四番・渡部真一郎、打率4割5分5厘の五番・石丸裕次郎のクリーンアップトリオを中心に打線が好調な松山商を、熊本工の左腕・園村淳一がどう抑えるかが注目された<ref name="kumamoto960821" />。 |
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ともに背番号10をつけた熊本工・園村淳一投手、松山商・新田浩貴投手が先発。エースナンバーを持つ熊本工・村山幸一投手、松山商・渡部真一郎投手は[[リリーフ]]として登板というのが今大会での両校に多く見られた投手起用であった。今大会2本塁打と打撃の好調な松山商・渡部は、これまでの新田投手先発時の各試合と同様、この試合でもはじめ4番・ライトに入った。 |
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=== 熊本工 === |
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1回表、松山商は1死後、星加逸人三塁手、今井康剛一塁手の連続安打で1、2塁とし、渡部の右翼線への二塁打で1点を先制した。つづく石丸裕次郎捕手の内野ゴロの間に本塁を狙った三塁走者今井はアウトとなるが、石丸は出塁。このあと制球の乱れた熊本工・園村投手から3連続四球による[[四死球#押し出し|押し出し]]でさらに2点を奪う。 |
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{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center; font-size:small; width:20em; white-space:nowrap; margin:10px;" |
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!colspan="3"|熊本工の今大会 |
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|- |
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!1回戦 |
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|colspan="2"|なし |
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|- |
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!2回戦 |
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|12 - 4||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権山梨大会|山梨]]・[[山梨学院中学高等学校|山梨学院大付]] |
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|- |
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!3回戦 |
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|5 - 1||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権香川大会|香川]]・[[香川県立高松商業高等学校|高松商]] |
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|- |
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!準々決勝 |
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|7 - 6||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権長崎大会|長崎]]・[[長崎県立波佐見高等学校|波佐見]] |
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|- |
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!準決勝 |
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|3 - 2||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権群馬大会|群馬]]・[[群馬県立前橋工業高等学校|前橋工]] |
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|} |
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[[全国高等学校野球選手権大会|選手権大会]]の出場は4年ぶり14度目、[[選抜高等学校野球大会|選抜大会]]も18回の出場を数える古豪である<ref name="nikkan960729">「高校野球 熊本予選 決勝 熊本工、4年ぶり14度目の優勝」、日刊スポーツ、1996年7月29日、13頁。</ref>。[[OB・OG|OB]]には川上哲治、[[吉原正喜]]、[[伊東勤]]、[[緒方耕一]]、[[前田智徳]]、[[荒木雅博]](同年春に卒業)など、多くのプロ野球選手がいる。 |
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1回裏、熊本工は三者凡退。 |
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監督の田中久幸は熊本工、[[芝浦工業大学硬式野球部|芝浦工大]]、[[日産自動車硬式野球部|日産自動車]]で[[二塁手]]、三番、主将を務めた<ref name="kumamoto060812">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(12)=熊本工・田中久幸監督 就任1年目で準優勝」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月12日。</ref>。1973年の[[第44回都市対抗野球大会]]では主将として準優勝、1984年の[[第55回都市対抗野球大会]]では監督として日産自動車を初の優勝に導いている<ref name="kumamoto060812" />。同年の[[IBAFワールドカップ|世界選手権]]では全日本の監督を務め、ベスト4に輝いている<ref>津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、159頁。</ref>。長男は熊本工OBで後に[[阪神タイガース]]へ入団した[[田中秀太]]である<ref name="kumamoto060812" />。1995年8月、熊本工創立百周年(1999年)に併せ、監督に就任した<ref name="kumamoto060812" />。ただし、秋の[[九州地区高等学校野球大会|熊本県大会]]では1回戦で負け、「熊工史上最弱のチーム」と呼ばれた<ref name="kumamoto060822">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(18)=熊本工・野田謙信遊撃手、父親・野田賢治さん 準優勝の経験生かせるか」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月22日。</ref>が、翌年は全国大会決勝まで上がってきた。 |
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2回表、松山商三者凡退。2回以降立ち直った左腕・園村は松山商打線を8回まで2安打に抑える。 |
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[[全国高等学校野球選手権熊本大会|熊本大会]]では伝統の強力打線で準々決勝まで全て[[コールドゲーム|コールド勝ち]]であり、全試合二桁安打、平均得点10.4だった<ref name="asahi960804-2">「第78回全国高校野球 49代表の横顔 九州・沖縄」、朝日新聞 東京朝刊、1996年8月4日、27頁。</ref>。投手は風邪で体調を崩した園村淳一の代わりに村山幸一が活躍し、5勝のうち4勝を挙げた<ref name="kumamoto060819">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(17)=熊本工・村山幸一投手、社の危機も辞める気なし 井健太郎外野手、たぶん“打倒熊工”」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月19日。</ref>。 |
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2回裏、熊本工は1死後、それぞれヒットと一塁エラーで古閑伸吾右翼手と澤村幸明左翼手が出塁して1、2塁とし、境秀之捕手のヒットで1点を返す。なおも1、3塁と追加点のチャンスだったが、次の星子崇三塁手は[[併殺]]打に倒れる。 |
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甲子園では2回戦から登場。エース村山が不調だったため、3年生で背番号10の園村が、4試合のうち準々決勝を除く3試合で先発した<ref name="mainichi960821-2" /><ref>「熊本工7-6波佐見 第78回全国高校野球・準々決勝」、朝日新聞 東京朝刊、1996年8月20日、15頁。</ref>。準々決勝、準決勝ではチームで合計5失策を記録し、守備に不安を残していた<ref name="mainichi960821-2" />。 |
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3回表、松山商、四球と石丸の[[犠牲バント|送りバント]]で1死2塁とするも無得点。 |
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=== 松山商 === |
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3回裏、熊本工三者凡退。3回から7回まで熊本工も松山商の2年生・新田に2安打に抑えられ、引き締まった投手戦となる。 |
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{| class="wikitable" style="float:right; text-align:center; font-size:small; width:20em; white-space:nowrap; margin:10px;" |
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!colspan="3"|松山商の今大会 |
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|- |
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!1回戦 |
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|8 - 0||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権長野大会|長野]]・[[東海大学付属第三高等学校|東海大三]] |
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|- |
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!2回戦 |
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|6 - 5||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権西東京大会|西東京]]・[[東海大学菅生高等学校・中等部|東海大菅生]] |
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|- |
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!3回戦 |
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|8 - 2||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権徳島大会|徳島]]・[[徳島県立新野高等学校|新野]] |
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|- |
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!準々決勝 |
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|5 - 2||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権鹿児島大会|鹿児島]]・[[鹿児島実業高等学校|鹿児島実]] |
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|- |
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!準決勝 |
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|5 - 2||align="left"|vs. [[全国高等学校野球選手権福井大会|福井]]・[[福井県立福井商業高等学校|福井商]] |
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|} |
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[[全国高等学校野球選手権大会|選手権大会]]の出場は2年連続25度目、[[選抜高等学校野球大会|選抜大会]]も含めて3季連続の出場だった<ref name="asahi960804-1">「第78回全国高校野球 49代表の横顔 中国・四国」、朝日新聞 東京朝刊、1996年8月4日、27頁。</ref>。春2度、夏4度の優勝を誇り、特に夏に強いことから「夏将軍」の異名を取っている<ref name="asahi960804-1" />。ただし[[第18回全国中等学校優勝野球大会|第18回]]、[[第48回全国高等学校野球選手権大会|48回]]、[[第68回全国高等学校野球選手権大会|68回]]と「8」のつく大会では準優勝に終わるというジンクスもあった<ref>「決勝で伝統校対決 松山商と熊本工(96夏・甲子園)」、朝日新聞 大阪朝刊、1996年8月21日、27頁。</ref>。[[OB・OG|OB]]には[[藤本定義]] 、[[景浦將]]、[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]、[[谷岡潔]]など、多くのプロ野球選手がいる。 |
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4回表、松山商、1死後連続四球で1、2塁とするも無得点。 |
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監督の[[澤田勝彦]]は松山商在学当時控え捕手であり、同期に[[西本聖]]がいた<ref name="kumamoto060815">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(13)=松山商・澤田勝彦監督 「補欠を恥じるな」と26年」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月15日。</ref>が、甲子園に出場したことはなかった<ref name="nikkan140226">「伝説甲子園 松山商奇跡のバックホーム」、日刊スポーツ 大阪日刊、2014年2月26日。</ref>。1980年に松山商のコーチとなり、春1回、夏3回甲子園に出場<ref name="nikkan140226" />。1988年9月1日、監督に就任した<ref name="nikkan140226" />。3季連続出場は松山商として初めてだったが、過去2季はいずれも初戦敗退だった<ref name="kumamoto060815" />。 |
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4回裏、熊本工、2死後四球と澤村のヒットで1、2塁とするも無得点。 |
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[[全国高等学校野球選手権愛媛大会|愛媛大会]]では、高校通算75本塁打の“伊予のドカベン”こと今井康剛<ref name="kumamoto060818">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(16)=松山商・今井康剛一塁手、重かった深紅の優勝旗 吉見宏明二塁手、熊工進学も考えた」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月18日。</ref>と四番の渡部真一郎を中心とし、チーム打率3割9分の強力打線に加え、伝統の[[バント]]を交ぜる攻撃を見せた<ref name="asahi960804-1" /><ref>「◎第78回全国高校野球・松山商の戦力(中)攻撃力」、愛媛新聞 朝刊、1996年8月3日</ref>。春の選抜大会まで弱かった投手陣は、新田浩貴と渡部の二本柱に地力が付き、県大会準決勝([[岩村明憲]]を擁していた[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東]]との対戦)を除き大崩れしなかった<ref>「◎第78回全国高校野球・松山商の戦力(上)投手力」、愛媛新聞 朝刊、1996年8月2日</ref>。県大会では失策3と堅実な守備力も見せた<ref>「◎第78回全国高校野球・松山商の戦力(下)総合・守備力」、愛媛新聞 朝刊、1996年8月2日</ref>。 |
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5回表、松山商、渡部のヒットと石丸の送りバントで1死2塁とするも無得点。 |
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甲子園でも決勝まででチーム[[打率]]は3割1分3厘<ref name="kumamoto960821" />で、1回戦から3回戦まで二桁安打を記録<ref name="ehimezadan">「◎松山商、優勝 松山商の戦い振り返る 記者座談会」、愛媛新聞 朝刊、1996年8月22日。</ref>。準々決勝で春夏連覇を狙った鹿児島実の[[下窪陽介]]、準決勝で[[福井県立福井商業高等学校|福井商]]の亀谷洋平といった好投手を攻略してきた<ref name="kumamoto960821" />。守備の方も、準決勝で外野フライからの併殺2を記録するなど、伝統の「松山商の守り」ならではのそつの無さを見せた<ref name="ehimezadan" />。投手は1回戦、3回戦、準々決勝は新田が、2回戦と準決勝は渡部が先発した。 |
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5回裏、熊本工、無死から星子が右中間を破る長打を放つが、久米孝幸中堅手から送球を受けた松山商守備陣の見事な中継により三塁寸前でタッチアウト。3人で攻撃終了。 |
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== 試合 == |
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6回表、松山商、無死から新田がレフトへの二塁打で出塁するが、強攻策が奏効せず無得点。 |
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=== 試合経過 === |
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先攻松山商(三塁側)、後攻熊本工(一塁側)で13時00分試合開始、観衆48,000人<ref name="nikkan960822-1">「第78回 高校野球 決勝 松山商-熊本工 試合結果(テーブル)松山商優勝」、日刊スポーツ、1996年8月22日、6頁。</ref>。NHKテレビの実況は[[高山典久]]アナウンサーで解説は[[高校野球解説者一覧#退任した解説者|原田富士雄]] <ref name="NHK150820" />、同時中継の[[NHKラジオ第1放送]]では[[佐塚元章]]アナウンサーが実況<ref name="satuka" />、[[高校野球解説者一覧#退任した解説者|福島敦彦]]が解説を担当した。一方、民放[[朝日放送テレビ|朝日放送]]は実況を[[中邨雄二]]アナウンサーが、[[尾藤公]]と[[山下智茂]]が解説をそれぞれ担当した。試合経過は以下である<ref>「やった、松山商優勝 熊本工下し、27年ぶり5度目」、愛媛新聞 号外。</ref>。 |
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{| class="wikitable" |
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6回裏、熊本工三者凡退。 |
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!style="white-space:nowrap"|回!! style="white-space:nowrap" |得点 !!内容 |
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!1回表 |
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|style="text-align:center"|松 '''3''' - 0 熊||①吉見セーフティーバントを狙うも三塁ゴロ。②星加左前安打。③今井右前安打。④渡部右翼線二塁打で星加生還(1点目)、なお二、三塁。⑤石丸一塁ゴロで今井本塁刺殺、二死一、二塁。⑥向井四球で満塁。⑦久米、⑧新田連続四球で2つの押し出し(2,3点目)。⑨深堀三振。 |
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|- |
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!1回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 0 熊||①野田右飛。②坂田三振。③本多二塁ゴロ。 |
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|- |
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!2回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 0 熊||①吉見三塁ゴロ。②星加右飛。③今井捕邪飛。 |
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|- |
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!2回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - '''1''' 熊||④西本三振。⑤古閑左前安打。⑥澤村一塁失で一、二塁。⑦境中前打で古閑生還(1点目)、なお一、二塁。⑧星子二塁ゴロで併殺。 |
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|- |
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!3回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||④渡部四球。⑤石丸投前犠打で一死二塁。⑥向井中飛。⑦久米投ゴロ。 |
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|- |
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!3回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||⑨園村二塁ゴロ。①野田二塁ゴロ。②坂田中飛。 |
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|- |
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!4回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||⑧新田遊撃ゴロ。⑨深堀、①吉見連続四球。②星加の三塁ゴロで二死二、三塁。③今井投ゴロ。 |
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|- |
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!4回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||③本多三振。④西本二塁ゴロ。⑤古閑四球。⑥澤村遊撃への内野安打。⑦境左飛。 |
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|- |
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!5回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||④渡部三塁内野安打。⑤石丸投前犠打。⑥向井中飛。⑦久米投前ゴロ。 |
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|- |
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!5回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||⑧星子右中間へ長打も、三塁憤死(記録は二塁打)。⑨園村一塁ゴロ。①野田右飛。 |
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|- |
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!6回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||⑧新田左越え二塁打。⑨深堀二塁ゴロも二走の新田三塁に進めず。①吉見三振。②星加一塁ゴロ。 |
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|- |
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!6回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||②坂田三塁ゴロ。③本多投直。④西本左飛。 |
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|- |
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!7回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||③今井右飛。④渡部三振。⑤石丸二塁ゴロ。 |
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|- |
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!7回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||⑤古閑三振。⑥澤村遊撃ゴロ。⑦境二塁ゴロ。 |
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|- |
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!8回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 1 熊||⑥向井右飛。⑦久米三塁ゴロ。⑧新田中飛。 |
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|- |
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!8回裏 |
|||
|style="text-align:center"|松 3 - '''2''' 熊||⑧星子左前安打。⑨園村捕前犠打。①野田四球、捕逸で二走の星子三進。②坂田中犠飛で星子生還(2点目)。③本多一直。 |
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|- |
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!9回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 2 熊||⑨深堀中前二塁打。①吉見投前犠打、深堀三進。②星加遊撃ゴロ、深堀三塁進めず。③今井一塁ゴロ。 |
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|- |
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!9回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - '''3''' 熊||④西本三振。⑤古閑に代わった代打松村三振。⑥澤村左翼スタンドに起死回生の同点ソロ本塁打(3点目)。⑦境遊撃ゴロ。9回決着つかず、延長戦へ突入。 |
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|- |
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!10回表 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 3 熊||代打の松村に代わり井が右翼の守備へ。④渡部一直。⑤石丸右飛。⑥向井右前打。⑦久米三振。 |
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|- |
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!10回裏 |
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|style="text-align:center"|松 3 - 3 熊||⑧星子左中間二塁打。松山商は、新田から右翼手の渡部に投手交代。新田は右翼に就く。⑨園村三塁前犠打、星子三進。松山商は、①野田、②坂田連続敬遠で満塁策を取り、右翼手を新田から矢野に代える。③本多右飛、'''三走の星子タッチアップを狙うもタッチアウト'''。 |
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|- |
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!11回表 |
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|style="text-align:center"|松 '''6'''- 3 熊||⑧守備から入った矢野中前への二塁打。⑨深堀三塁前犠打、矢野三進。①吉見四球。②星加一塁前にスクイズ(記録は内野安打)を決め矢野生還(4点目)。③今井右越え二塁打、吉見と星加が生還(5,6点目)。ここで、熊本工は投手を園村から村山にスイッチ。④渡部左飛。⑤石丸三振。 |
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|- |
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!11回裏 |
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|style="text-align:center"|松 6 - 3 熊||④西本一塁失。⑤守備から入った井に代わり代打木下一塁ゴロで一死二塁。⑥澤村左飛。⑦境三振で3アウト、試合終了。松山商が優勝を果たした。 |
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|} |
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=== スコア === |
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7回表、松山商三者凡退。 |
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7回裏、熊本工三者凡退。 |
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8回表、松山商三者凡退。 |
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8回裏、熊本工はこの回先頭の星子がヒット、園村の送りバントで1死2塁とした。続く野田謙信遊撃手は四球[[捕逸|パスポール]]で1死1、3塁となり、坂田光由二塁手のセンターフライのあと[[タッグアップ]]で星子が生還、1点差に迫る。星子はこのあとの[[イニング]]でもう一度タッグアップを試みることになる。 |
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9回表、松山商は深堀祐輔遊撃手の二塁打と吉見宏明二塁手の送りバントで1死3塁とするも後続を打ち取られ無得点。 |
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== 同点ホームランから延長戦へ == |
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9回裏、2-3と1点差を追う熊本工は西本洋介中堅手が三振、代打の2年生・松村晃も三振を喫し、あと1アウトで敗戦となる土壇場のピンチに立たされた。ここで1年生の澤村が初球を叩いてレフトポール際へ起死回生のホームランを放ち、3-3の同点とした。喜びを爆発させた澤村がベースを回る間、打たれた新田はマウンドに膝をつきしゃがみこんだ。この澤村の走塁について松山商・星加三塁手は、三塁を踏んでいないと繰り返し[[アピールプレイ|アピール]]。このアピールは認められず、次の打者・境が遊撃ゴロに打ち取られ延長戦へ突入した。 |
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延長10回表、熊本工は井健太郎右翼手が守備に入る。松山商は渡部が一塁ライナー、石丸がライトフライで2死となり、向井良介左翼手がライト前ヒットで出塁するが、久米が三振で無得点。 |
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== 奇跡のバックホーム == |
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10回裏、熊本工は無死から星子が二塁打を放ち、松山商は投手を疲労の目立つ新田からエース渡部へ交代、新田はライトに回った。熊本工は園村による送りバントで1死3塁とした。ここで松山商は次打者・野田を[[故意四球|敬遠]]。さらに次の坂田も敬遠した。不安の残る新田の外野守備などを考慮した満塁策だった。しかし守備に配慮するのであれば本来は園村を敬遠して無死1、2塁とすべきところであり、園村の送りバントが決まったとき熊本工の[[田中久幸]]監督は「これで勝った」と思ったという。ここで松山商・[[澤田勝彦]]監督はライトを新田から[[矢野勝嗣]]に交代させた。矢野は正右翼手だったが、エースナンバーを付けている渡部がライトで先発出場することが多く、事実上控え選手に近い存在となっていた。 |
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1死満塁で打席に立った本多大介一塁手は、渡部投手が投じた初球を振り抜きライト方向へ大きな飛球を放った。打った瞬間、[[日本放送協会|NHK]]で[[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]の実況を担当していた[[高山典久]]アナウンサー<!--(ノート参照)-->が「いったー! これは文句なし!」と言ったほどの大飛球であった。しかし、風で押し戻された打球が矢野右翼手の頭上を越えることはなく、矢野はいったん定位置よりかなり下がったあと少し前進して捕球し2死とした。だがそれでも犠牲フライには十分な飛距離があり、熊本工の三塁走者・星子はタッチアップを敢行(9回裏の星加三塁手による再三のアピールプレーが念頭にあったため、スタートがやや慎重になったともいわれている)。矢野右翼手は捕球後すかさずバックホームした。松山商の石丸捕手をはじめナインは、それまで矢野が練習で強肩を持て余し悪送球で失敗するところを何度も見てきていたため、送球した瞬間、「ああ、またいつもの悪送球だ」としか思わなかったという。また投げた矢野自身も、送球の瞬間はボールが山なりになってしまったため「だめかと思った」という。 |
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ところが、甲子園球場特有の強い浜風に後押しされた矢野右翼手の返球は、わずかに三塁側に逸れたものの約80メートルもの距離をノーバウンドで飛んで行き、石丸捕手のミットに直接収まった。その姿勢のまま石丸は本塁目前の三塁走者・星子に触球、セーフ説が出るほどの微妙なタイミングであったが[[田中美一]]球審は「アウト」を宣告、[[併殺|ダブルプレー]]で熊本工は3アウトとなり絶好のサヨナラ勝ちの機会を逃した。このプレーで球場は松山商側の歓声と熊本工側の悲鳴で割れるような轟音に包まれた。本塁付近がよく見えていなかった矢野は、「[[伊予国|伊予]]の[[ドカベン]]」と呼ばれた巨漢の今井一塁手が飛び跳ねるのを見て結果を知り、笑顔で[[ガッツポーズ]]を掲げながらベンチへ戻っていった。観客席はしばらくの間拍手が鳴りやまなかった。観戦者の中には、目の前で繰り広げられたあまりにも劇的な展開に、このプレーで試合終了と錯覚してしまった者すらいた<ref>[http://1st.geocities.jp/dogyamanet/col/columnsyubi.htm 守備の活躍にヒーローインタビューを]</ref>。 |
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直後の11回表、先頭打者・矢野は初球を引っぱりレフト方向へ鋭い当たりを飛ばした。これを熊本工・澤村左翼手が後逸、打った矢野は二塁に達した(記録は二塁打)。松山商は続く2年生・深堀の送りバントで1死3塁とした。ここで熊本工はバントの上手い吉見を敬遠。1死1、3塁で打席に立った星加は初球を[[バント#セーフティーバント|セーフティースクイズ]]。これが成功して勝ち越しの4点目を挙げた。さらに今井の右翼線への二塁打で2点を追加、この回合計3得点を加えた。熊本工は投手を村山に交代、渡部をレフトフライ、石丸を三振に仕留めた。 |
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11回裏、熊本工は無死から西本が一塁強襲によるエラーで出塁、代打木下智博の一塁ゴロの間に二塁に進んだ。続く澤村は9回に続きまたもレフト方向に打球を打ち上げたが飛距離がなくキャッチアウト、最後の打者・境が三振となり6-3で松山商が勝利した。3時間5分の激闘を制した松山商は、[[第51回全国高等学校野球選手権大会決勝|三沢高校との延長18回引き分け再試合]]以来27年ぶり5回目の全国制覇を果たした。 |
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延長18回を戦った松山商の元投手で[[朝日新聞]]記者としてこの試合を取材中だった[[井上明]]も、このバックホームには身震いさえしたという。松山商絶体絶命の状況をひっくり返した矢野右翼手のバックホームは、[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]決勝という最も注目度の高い試合で、サヨナラ負けが懸かった場面での、交代直後の選手が成し遂げたスーパープレーだったこと、さらにタッチアップには十分な深さがあったこと、そしてバックホームの捕球位置もタイミングもほんの僅かずれていればセーフだったことから「奇跡のバックホーム」と称されている。{{要出典範囲|date=2014年8月|当時[[中日ドラゴンズ]]の中軸打者だった[[アロンゾ・パウエル]]は、このプレーで「日本の高校野球のファンになった」とコメントしている}}。 |
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NHKテレビの解説は[[高校野球解説者一覧#退任した解説者|原田富士雄]]。実況の高山アナウンサーは、「奇跡のバックホーム」のリプレイの際に興奮のあまり「満塁ですからこれはタッチはいらないんですよね、[[フォースプレイ]]です」と、ルールを勘違いして伝えてしまい、その後放送内で自ら訂正した。また、同時中継の[[NHKラジオ第1放送]]では[[佐塚元章]]アナウンサーが実況を担当していた。 |
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== スコア == |
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|RSP=新田、渡部 |
|RSP=新田(9回0/3)、渡部(2回) |
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|HSP=園村、村山 |
|HSP=園村(10回1/3)、村山(0回2/3) |
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|HomeHR=澤村(9回・ソロ) |
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|PU=田中 |
|PU=田中 |
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|BU=桂 |
|BU=桂・伊東・濱田 |
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|Note1=(延長11回) |
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|Note2=試合時間:3時間5分 |
|Note2=試合時間:3時間5分 |
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}} |
}} |
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== 出場選手 == |
=== 出場選手 === |
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{{野球打順一覧 |
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|チームa=松山商 |
|チームa=松山商 |
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|打順a1=1|守備a1=[二]|選手a1=吉見宏明(3年) |
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|打順a2=2|守備a2=[三]|選手a2=星加逸人(3年) |
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107行目: | 226行目: | ||
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== |
== 試合展開 == |
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=== 9回表までの攻防 === |
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{{独自研究|section=1|date=2014年9月}} |
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松山商は熊本工の先発園村の立ち上がりを攻め、三連続長短打で1点先取。さらに三連続四球による[[押し出し (野球)|押し出し]]で2点を追加した。園村はその後立ち直り、松山商打線を9回表まで0点に押さえる。 |
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この大会でベスト4に勝ち上がった松山商、熊本工、[[福井県立福井商業高等学校|福井商]]、[[群馬県立前橋工業高等学校|前橋工]]はすべて公立校であった。この年を最後にベスト4の公立校独占も、公立校同士による決勝戦の例もない。また[[第89回全国高等学校野球選手権大会|2007年]]に[[佐賀県立佐賀北高等学校|佐賀北]]が優勝するまで、実に11年間夏の甲子園における公立校の優勝がなかった。 |
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熊本工は松山商の先発新田から2回に境の[[適時打]]で1点、8回に坂田の[[犠牲フライ|犠飛]]で1点を返して小刻みに追撃した。 |
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=== 9回裏、起死回生同点ホームラン === |
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9回裏、2-3と1点差を追う熊本工は四番の西本が見逃し[[三振]]、古閑に代わって[[代打]]の2年生・松村も空振り三振を喫し、土壇場のピンチに立たされた。ここで熊本工唯一の1年生である澤村が打席に立つ<ref name="asahi960822">「女神も迷った、奇跡2度 松山商VS.熊本工 全国高校野球・決勝」、朝日新聞 東京朝刊、1996年8月22日、31頁。</ref>。松山商の[[捕手]]・石丸は[[ストライクゾーン|外角]]低めの[[スライダー (球種)|スライダー]]で[[ボール (判定)|ボール]]になる球を要求するも、新田は首を振った<ref name="kumamoto060805">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(8)=熊本工・澤村幸明左翼手(上) 起死回生 同点ホームラン」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月5日。</ref>。それを見た[[監督]]の澤田や[[右翼手|右翼]]を守っていた渡部は直球で勝負するつもりなのだと思っていたが、当の新田はスライダーのコントロールが効かなくなっていたことから、ボールにするためには直球しかないと判断したのである<ref name="kumamoto060810">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(10)=松山商・新田浩貴投手 はずすつもりの直球が…」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月10日。</ref>。 |
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しかし投じた125球目、ボールにするはずの直球は内角高めに入ってしまい、初球から直球を狙っていた澤村はバットを振り抜いた<ref name="kumamoto060805" />。打球はライナー気味に[[左翼手|左翼]]ポール際に飛び込み、起死回生の同点[[本塁打|ホームラン]]となった<ref name="kumamoto060805" />。新田はぼう然と[[マウンド]]にひざまずき、その周りを澤村は跳ねるように走った<ref name="asahi960822" />。座り込んだままの新田を、主将で一塁手の今井が抱え上げた<ref name="kumamoto060810" />。今井はこの試合でも何度もマウンドへ行って新田を激励し、内野陣に声を掛けている<ref name="kumamoto060818" />。 |
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ホームイン後、三塁手の星加は、澤村が三塁を踏んでいないと、三塁塁審に繰り返し[[アピールプレイ|アピール]]したが認められなかった<ref name="ninomiya3">{{Cite web|和書|author=二宮清純|date=2014-08-17|url= http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=5595|title=二宮清純「ノンフィクション・シアター・傑作選」 : 奇跡のバックホーム<後編>|accessdate=2015-05-27}}(『スポーツ名勝負物語』(講談社現代新書, 2007)に掲載)</ref>。次打者の境は遊撃ゴロに終わり、試合は延長戦に突入。しかし試合の流れは熊本工側へ一気に傾いていた<ref name="ehime960822-1" />。 |
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=== 奇跡のバックホーム === |
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延長10回表、熊本工は井が右翼に入る。松山商は渡部が一塁ライナー、石丸が右翼フライ。向井が右翼前ヒットで出塁するが、久米が見逃し三振で無得点。得点どころか、得点圏にランナーを進めることさえできずに攻守交代となった。 |
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10回裏、熊本工の攻撃開始前、松山商ベンチで監督の澤田は既に疲れを見せていた新田に声をかけたが新田の「行けます」の一言で続投を決意した<ref name="ninomiya2">{{Cite web|和書|author=二宮清純|date=2014-08-03|url= http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=5594|title=二宮清純「ノンフィクション・シアター・傑作選」 : 奇跡のバックホーム<中編>|accessdate=2015-05-27}}(『スポーツ名勝負物語』(講談社現代新書, 2007)に掲載)</ref>。しかし熊本工の先頭打者・星子がフルカウントから左中間を破る[[二塁打]]を放つと、澤田は新田を右翼の渡部と交代させた<ref name="kumamoto060726">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(2)=松山商・矢野右翼手(上) 浜風に乗った祈りの返球」、熊本日日新聞 朝刊、2006年7月26日。</ref>。続く園村が送りバントを成功させて一死三塁となる。ここで澤田は過去に同じサヨナラの場面で2回負けた苦い思い出{{Refnest|group="注釈"|1つ目は1992年の[[第64回選抜高等学校野球大会|センバツ]]1回戦、対[[三重中学校・高等学校|三重]]戦で延長14回裏一死三塁の場面で勝負してヒットを打たれ、3-4でサヨナラ負けしたこと。2つ目は1993年の[[全国高等学校野球選手権愛媛大会|夏の愛媛県大会]]準決勝、対[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東]]で延長12回、一死一、三塁から犠牲フライを打たれて0-1でサヨナラ負けしたこと<ref name="kumamoto060729" />。}}があることから、[[満塁]]策を決断する<ref name="kumamoto060729">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(4)=松山商・澤田勝彦監督 迷いのはざまで決断」、熊本日日新聞 朝刊、2006年7月29日。</ref>。松山商は1969年夏の[[第51回全国高等学校野球選手権大会決勝|第51回決勝]]、対[[青森県立三沢高等学校|三沢高校]]戦で延長15回裏の一死二、三塁、16回裏の一死一、三塁のピンチをいずれも満塁策で切り抜け、延長18回引き分けに持ち込んだことがあった<ref name="kumamoto060729" />。タイムを取ってマウンドに集まっていた内野陣の選手たちのところに、伝令の吉田が満塁策の作戦を伝えに行き、その後に渡部は野田と坂田を[[故意四球|敬遠]]して一死満塁とし、打席に3番の本多を迎えた。ヒット・ホームランはもちろん、犠牲フライやスクイズバントでも1点入ればそこで試合終了。たとえ内野ゴロでも、飛び方によってはバックホームが間に合わずサヨナラとなるおそれがある。さらに、投手にとってはバッテリーエラーやボークだけでなく四死球さえできない状況である。松山商としては、まさに1つのミスも許されない状況であった。 |
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このとき、渡部に代わって右翼の守備に就いていた新田は守備の交代を望んでいた<ref name="kumamoto060729" />。新田は甲子園の三回戦で一度右翼を守っただけで県大会では一度も守っていなかった上、一度も右翼守備の練習をしたことがなかった<ref name="kumamoto060729" />。澤田監督も右翼の守備交代について、27年前の決勝(前述の三沢高戦)のように延長が長引いた場合に備えて新田を交代させずにおくか、この場を確実に凌ぐことを優先して守備固めをすべきかで迷っており、結果的に左打者のロングヒッターである本多なら右翼へ打球が飛ぶ確率は低くない<ref name="ninomiya1">{{Cite web|和書|author=二宮清純 |date=2014-07-20 |url=http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin/article.php?storyid=5593 |title=二宮清純「ノンフィクション・シアター・傑作選」 : 奇跡のバックホーム<前編> |accessdate=2015-05-27}}(『スポーツ名勝負物語』(講談社現代新書, 2007)に掲載)</ref>と判断、さらにこの時、何処からともなく『今を逃れなかったら後はないんだぞ』という声が聞こえたこともあり<ref>吉本誠『甲子園100の言葉』彩図社、平成23年8月22日発行、74頁。</ref> <ref>澤田自身、この声の正体はよく分からないという。ただこの時監督の手には、お守り代わりとしていた亡くなった父の遺骨が握りしめられていたという。</ref>、投手の渡部が第一球を投げようとしているところでタイムを取り、右翼守備の交代を決断した<ref name="nikkan140226" />。 |
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新田に代わる守備固めに起用された矢野勝嗣(まさつぐ)は背番号9を付けた正右翼手で春の甲子園でも先発出場していたが、その後に新田と渡部の先発二本柱が確立し、新田が先発の時は渡部が右翼に入る起用法をとっていたことから甲子園でも[[スターティングメンバー|スタメン]]出場は渡部が先発した2試合のみと控えに甘んじていた<ref name="nikkan960822-2">「第78回 高校野球 決勝 松山商、優勝 好守備で古豪対決制す」、日刊スポーツ、1996年8月22日、7頁。</ref>。加えて打撃不振に陥っており<ref name="asahi960822" />、スタメン出場した準決勝では三打席目で代打を出されていた<ref>「一球のこわさ 「奇跡の返球」(背番号のうた:5)」、朝日新聞 大阪朝刊、1997年7月9日、28頁。</ref>。それでも矢野は腐らず、一塁コーチャーとしてチームを支えていた<ref>津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、170頁。</ref>。澤田は右翼へ向かう矢野に「信じてるぞ」と声をかけた<ref name="nikkan960822-2" />。突然の交代となった矢野は、グラブを慌てて探してベンチを飛び出し、右翼へと着いたあと右肩を回して返球に備えた。 |
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プレーが再開され、スクイズも考えられる状況で打席に立った本多は初球の高めのスライダーを振り抜いた<ref name="kumamoto060802">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(6)=熊本工・本多大介一塁手 もっと野球やりたかった」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月2日。</ref>。「代わったところに打球は飛ぶ」の格言を体現するかのように<ref>津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、172頁。</ref>、右翼に大きなあたりが飛んでいった。投手の渡部は、打たれた瞬間にホームランだとサヨナラ負けを覚悟し<ref name="ninomiya1" />、[[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]の実況の高山典久アナウンサーが「行ったー!これは文句なし!」と思わず言ったほどの大飛球であった<ref name="fuji110905" />。 |
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だが、甲子園特有の、ライトからホーム方向に吹く強い[[阪神甲子園球場#浜風|浜風]]に打球が押し戻されて失速し、スタンドまでは届かず右翼線際へのフライとなった。背走していた矢野は打球を一瞬見失いかけるも前進して捕球<ref name="kumamoto060725">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(1)=奇跡のバックホーム 「サヨナラ」のはずが…」、熊本日日新聞 朝刊、2006年7月25日。</ref>、それと同時に三塁走者の星子は[[タッグアップ|タッチアップ]]し、サヨナラ勝ちを確信する状況でも全力でホームへ走った。この一連のプレーで熊本工の田中監督は「[[犠牲フライ]]には十分な飛距離だ、勝った」と思い、一方の松山商の澤田監督も「あ、終わったな」と思ったといい<ref name="kumamoto060725" />、打った本多自身も犠牲フライだと手応えを感じた一撃であった<ref name="nikkan960822-2" />。一方、矢野は二塁手の吉見や一塁手の今井の[[カットマン]]に返球していたのでは万が一にも間に合わないと判断し、前進して捕球した勢いそのままに力任せにバックホームするも、二塁手と一塁手の頭上を大きく越える山なり送球となってしまった<ref name="ninomiya1" />。一塁塁審の桂は、とんでもなく高い返球に「これで終わった」と思い<ref name="kumamoto060803">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(7)=松山商・石丸裕次郎捕手 一塁塁審・桂等さん 絶妙な位置でジャッジ」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月3日。</ref>、松山商の捕手・石丸も、普段の練習で矢野が幾度となく大暴投を繰り返していたことを思い返し「またやったか」と星子のタッチアップ成功を覚悟した<ref name="ninomiya1" />。送球は三塁側に少し逸れたため石丸はホームベースから離れ、送球のライン上、三塁ファールラインの上に移動していった。 |
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しかし、距離にして80mを超える<ref name="kumamoto060729" />矢野の返球は甲子園の浜風に乗り、石丸の捕球体勢を見てその前をかすめるように右足からのストレートスライディングを敢行した星子の目の前を通過し、石丸のミットへダイレクトで収まる。それとほぼ同時にミットと星子の頭部が接触した。星子はスライディング後に両手を広げて「セーフ」を、石丸はボールの入ったミットを高く差し上げ「タッチアウト」をそれぞれ球審にアピール<ref name="kumamoto060725" />、一塁側ファールグラウンドで見ていた[[田中美一]]球審はアウトを宣告<ref name="kumamoto060725" />。このタッチプレーが行われた瞬間に、星子の右足がホームベースに届いていなかった写真が撮影されている。少しでも返球がずれていたらタッチできずにセーフとなっていたであろう、奇跡に近いピンポイントの返球であった<ref>星子のスライディング体勢でベースに届かず、送球と捕球が星子の体に妨げられず、かつ星子の体にぶつかるという条件を満たした箇所での捕球だったからこそであり、送球が逸れたことも幸運であった。</ref><ref name="ehime960822-1">「◎[スコアボード]10回裏の松山商美技 強肩買った起用ズバリ」、愛媛新聞 朝刊、1996年8月22日。</ref><ref name="kumamoto060823">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(19完)=取材を終えて 愛媛県との差は何なのか」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月23日。</ref>。[[併殺|ダブルプレー]]で熊本工は3アウトとなり、絶好のサヨナラ勝ちの機会を逃した。星子は信じられないような表情を浮かべ<ref name="ninomiya3" />、犠牲フライを確信し一塁手前でバンザイをしていた本多は、そのまま呆然と立ち尽くした<ref name="asahi020703">「奇跡のバックホーム(白球の記憶:1) 高校野球 /熊本」、朝日新聞 西部地方版/熊本、2002年7月3日、29頁。</ref>。あの深い位置からの返球でなぜアウトになったのかと、球場は興奮とどよめきに包まれた<ref name="satuka">{{Cite web|和書|author=佐塚元章|authorlink=佐塚元章|date=2014-08-17|url=http://www.nhk.or.jp/r1-blog/200/62461.html|title=ラジオ放送のとりもつ縁 1996夏 奇跡のバックホーム|accessdate=2015-05-27}}</ref>。実況中継の解説者の面々も驚きを隠せず、NHK総合テレビの解説の原田は「私自身も今これね、両手に鳥肌が立ってるんですよね」、NHKラジオ第1放送では解説の福島が「もう、とにかくあれはダイレクトで、自分が1人で放る以外に殺せない(アウトにできない)ですね。それが、ストライクが来ましたよ」、テレビ朝日系列の中継(当時の[[朝日放送テレビ|朝日放送]]が制作)では「これは本当に、奇跡と言うほかにありませんね」と解説されたほどであった。あまりに奇跡的なプレーを目の当たりにした興奮で、NHKのテレビ中継では「満塁ですから、これタッチ要らないんですよね。[[フォースプレイ|フォースプレー]]です」{{Refnest|group="注釈"|打者に進む義務が生じる[[ゴロ]]などでは、各走者に進塁の義務があるためフォースプレーであるが、フライの[[タッグアップ|タッチアップ]]時には打者は既にアウトとなっているため、各走者に進塁の義務が生じないことから、タッチプレーが必要である。ただし、この後にこの発言は訂正されている。|/ref}}と、朝日放送では「ちょうどキャッチャーのね、ホームプレートのまん真ん中に来ましたね」と誤った実況解説をしてしまうほどであった。 |
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バックホームした当人の矢野は、クロスプレーの状況が一塁手の今井と重なってはっきりと見えなかったものの、今井が踊るように喜んでいるのを見てアウトと知り、飛び跳ねるようにベンチに引き揚げてきた<ref name="kumamoto060725" />。そんな矢野を、澤田はベンチで強く抱きしめた<ref>津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、175頁。</ref>。 |
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ちなみに、朝日放送制作のテレビ中継で実況を担当した[[中邨雄二]]アナウンサーは、「奇跡」という表現を一切交えずに一連のプレーを伝えていた。中邨は、スポーツアナウンサーとしての大先輩に当たる[[植草貞夫]]が同局で勤務していた時期に、高校野球をはじめスポーツ中継での実況経験が豊富な植草から「『奇跡』なんて簡単に起こるものではない。『奇跡の』や『世紀の』といった派手な表現を本当に使っていいのかを、きちんと吟味できないと一流のアナウンサーとは言えない」と教わっていた。本人が[[朝日放送テレビ]]の定年(60歳)を間近に控えた2022年の初頭に語ったところによれば、「試合後から報道などで『奇跡のバックホーム』と呼ばれるようになってからは、実況で『奇跡』と言わなかったことを何年も後悔していた。このような葛藤を2012年頃に(野球中継の実況から既に退いていた)植草へ打ち明けたところ、『「奇跡」という言葉を使わなかった君の判断は正しいと思う』と言われたので心が晴れた」とのことである<ref name="backhome">[https://digital.asahi.com/article_search/detail.html?keyword=%E4%B8%AD%E9%82%A8%E9%9B%84%E4%BA%8C&FormRadioSelect=&searchcategory=2&from=&to=&MN=default&inf=&sup=&page=1&idx=1&s_idx=1&kijiid=A1001220220203E004204-002&iref=pc_articletab_article&version=4072132896 (実況アナの番外リポート)中邨雄二アナウンサー 一瞬を切り取る表現、これからも] (『[[朝日新聞]]』関西版夕刊[[2022年]][[2月3日]]付記事)</ref>。 |
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=== 奇跡の完結 === |
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延長11回表の松山商の攻撃は、奇跡の好返球を見せた矢野から始まった。園村の初球の[[カーブ (球種)|カーブ]]を矢野は左翼へはじき返した。ライナー性の打球はスタンドの白い服と重なり、それによって左翼手・澤村は打球を後逸し二塁打となった<ref name="ninomiya3" />。続く深堀が送りバントを決めて一死三塁、ここで田中はスクイズを警戒しバントの名手である吉見を敬遠する。一死一、三塁で田中は伝令を出し、追い込んで打たせて[[併殺]]にとるか、スクイズを外す作戦を伝える<ref name="ninomiya3" />。しかし、初球は見送るとの田中の読みと異なり、星加は澤田のサイン通り初球から一塁側へプッシュ気味の[[バント#セーフティーバント|セーフティースクイズ]]を決めて矢野がホームインし、勝ち越しの4点目を奪った<ref name="ninomiya3" />。スクイズバントの際、ボールを捕った一塁手の本多がバックホームするか一瞬迷ってから一塁へ送球したため、星加も一塁セーフ(記録は[[内野安打]])で一、二塁となり、ここで熊本工が最も警戒していた3番の今井がバッターボックスに入る。今まで田中の指示通りの投球でヒット1本に押さえていた園村だったが、スクイズを決められたことで緊張の糸が切れており、3球目の甘いカーブを右翼フェンス直撃の二塁打とされ<ref name="nikkan960822-3">「第78回 高校野球 決勝 松山商、優勝 熊本工、9回同点アーチも及ばず」、日刊スポーツ、1996年8月22日、6頁。</ref>、走者一掃を許し6-3と大きく離された<ref name="ninomiya3" />。 |
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11回裏、熊本工は無死から西本が一塁強襲による[[失策]]で出塁、守備から入った井の代打木下の一塁ゴロの間に二塁に進んだ。続く澤村は9回に続きまたも左翼方向に打球を打ち上げたが平凡なフライに終わり、最後の打者・境は三振、6-3で松山商が勝利した。3時間5分の激闘を制した松山商は、[[第51回全国高等学校野球選手権大会決勝|三沢高校との延長18回引き分け再試合]]以来27年ぶり5回目の全国制覇を果たした<ref name="ehime960822-2">「◎懸命の祈り届いた 満員スタンド夢心地 松山商V」、愛媛新聞 朝刊、2006年8月22日。</ref>。松山商は、[[選抜高等学校野球大会|春]]・[[全国高等学校野球選手権大会|夏]]を通じ「[[大正]]」「[[昭和]]」「[[平成]]」の3つの[[元号]]で優勝を達成した唯一の高校となっている<ref name="fuji110905">{{Cite news |title=松山商、記憶に残る“奇跡のバックホーム”|newspaper=夕刊フジ |date=2011-09-05|author= |url= https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110905/bbl1109050601000-n1.htm |accessdate=2015-06-02}}</ref>。 |
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== 試合の評価 == |
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この伝統校同士の激闘<ref name="asahi960822" />は、高校野球の歴史に残る「平成の名勝負」と呼ばれた<ref name="kumamoto060823" /><ref name="asahi110805">「あの夏のキセキ 語り継がれるプレーの主役たち 全国高校野球選手権大会」、朝日新聞 東京朝刊、2011年8月5日、18頁。</ref>。特に矢野の返球は「'''奇跡のバックホーム'''」と呼ばれ、球史に残る名場面として語り継がれている<ref name="asahi140629" /><ref name="nikkan140226" /><ref name="asahi110805" /><ref>「<よみがえる 名選手 名勝負>第78回選手権(1996年) 松山商・矢野〓奇跡のバックホーム〓 熊本工との決勝戦で危機一髪救う」、デイリースポーツ、2009年4月15日、11頁。</ref><ref name="houchi060505">「[野球王国]愛媛編(上)語り継がれる奇跡のバックホームと1枚の写真=中四国」、スポーツ報知、2006年5月5日、20頁。</ref><ref name="asahi020703" />。負けた田中監督も「高校生であんな返球は見たことがない」と驚嘆するほどだった<ref name="nishinihon960822" />。 |
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27年前、延長18回を戦った松山商の元投手で[[朝日新聞]]記者としてこの試合を取材中だった[[井上明]]も、このバックホームには身震いしたと語った<ref name="sankei960822-1">「第78回全国高校野球決勝 名勝負再び 松山商 返球“ストライク”甲子園総立ち」、産経新聞 東京朝刊、1996年8月22日、27頁。</ref><ref name="fuji110905" />。当時[[中日ドラゴンズ]]の中軸打者だった[[アロンゾ・パウエル]]は、「今まで見た中で最高のプレー」と語っている<ref name="sankei960822-2">「【第78回全国高校野球】最終日 マンモススタンド」、産経新聞 東京朝刊、1996年8月22日、22頁。</ref>。ただし、矢野と同じ右翼手である[[福留孝介]]はこのバックホームについて暴投に過ぎないと分析している<ref>「【高校野球100周年 激闘の記憶】松山商・矢野勝嗣さん「奇跡のバックホーム」」、サンケイスポーツ、2015年7月28日。</ref>。 |
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矢野のバックホームが大きく取り上げられる傾向にあるが、9回裏二死からの1年生・澤村による同点ホームランや<ref name="kumamoto060805" />、犠牲フライ直前のライトの矢野への交代、そして11回表は、矢野の打球が澤村の前に飛ぶという奇跡の応酬であったことから<ref name="nishinihon960822" />、その流れも含めて試合自体が「奇跡」とも言える内容であり<ref name="NHK150820">{{Cite web|和書|date=2015-08-20|url= http://www1.nhk.or.jp/sports/koukouyakyu100/columns/technical-17/|title=高校野球100年のものがたり 中継技術・撮影スペシャル座談会「奇跡のバックホームを語る」前編| publisher=NHK |accessdate=2015-10-15}}</ref>、[[西日本スポーツ]]はこの試合の翌日の8月22日付の新聞に「奇跡合戦」と見出しをつけたほどであった<ref>{{Cite web|和書|title=伝説の甲子園決勝 「奇跡のバックホーム」の陰でヒーローになり損ねた1年生:「おっ!」でつながる地元密着のスポーツ応援メディア 西スポWEB otto! |url=https://nishispo.nishinippon.co.jp/article/785241 |website=「おっ!」でつながる地元密着のスポーツ応援メディア 西スポWEB otto! |access-date=2023-05-17 |language=ja |first=The Nishinippon |last=Shimbun}}</ref>。 |
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熊本工の四番だった西本は後に、九回裏にホームランを打たれた新田を今井がまだ負けていないと抱き起こしたシーンと、延長十回裏に本塁死して倒れ込んだ星子を傍にいた西本を含めだれも手を貸そうとしなかったシーンを比べ、これが松山商と熊本工の違いだったと反省している<ref name="kumamoto060817">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(15)=熊本工・坂田光由二塁手、通信教育で教員免許 西本洋介中堅手、今だから分かる」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月17日。</ref>。 |
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『週刊甲子園の夏』([[朝日新聞出版]])の読者アンケートで選ばれた「読者が選ぶ夢のナイン」にて [[松井秀喜]]らプロに進んだ名だたる選手に混じり、矢野勝嗣は外野手で選ばれている(プロ未経験では他に[[小沢章一]]([[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早実]])、[[藤井進]]([[山口県立宇部商業高等学校|宇部商]])が選ばれた)<ref>『週刊甲子園の夏』第18号、2008年10月21日発売、朝日新聞出版、2008年。</ref>。 |
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2015年、[[造幣局 (日本)|造幣局]]は全国高等学校野球選手権大会100年周年を記念して、「全国高等学校野球選手権大会100周年貨幣セット」の通信販売を行ったが、ケースには年表などとともに名場面の一つとして「奇跡のバックホーム」の写真が掲載されている<ref>{{Cite news |title=高校野球の貨幣セット販売 造幣局、100年を記念|newspaper=共同通信 |date=2015-06-22|author= |url=http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015062201001945.html|accessdate=2015-06-28}}</ref>。 |
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[[スポーツニッポン]]の公式サイト「スポニチアネックス」で2015年に募集された「私が選ぶ甲子園名勝負!」では、総数2993票中129票を獲得し、第6位となった<ref>{{Cite news |title=【高校野球100年】ファンが選ぶ甲子園名勝負 ベスト20発表|newspaper=スポーツニッポン|date=2015-07-31|author= |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/07/31/kiji/K20150731010844080.html|accessdate=2015-08-20}}</ref>。『[[Sports Graphic Number]]』で2015年に実施されたアンケート「夏の甲子園 記憶に残る名勝負ベスト100」では第5位にランクインした<ref name="number883">「“奇跡のバックホーム”20年目の物語」、『[[Sports Graphic Number]]』883号(8月20日号)、第36巻第17号、[[文藝春秋]]、2015年7月30日発売、40-41頁。</ref>。 |
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== 奇跡の舞台裏 == |
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=== 矢野勝嗣 === |
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「奇跡のバックホーム」の主役である矢野勝嗣は、松山商一の強肩ではあったがミスが多く返球もバラバラだった<ref name="kumamoto060727">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(3)=松山商・矢野右翼手(下) 不器用な男の固い意思」、熊本日日新聞 朝刊、2006年7月27日。</ref>。真面目で練習量はチーム一だったが不器用で本番に弱く、積極性に欠ける選手であり<ref name="kumamoto060727" /><ref>津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、169頁。</ref>、当時の松山商が守備練習の最後に行っていた守備順にノックを受けて返球する「ノーエラーノック」でも、矢野は常日頃からミスを頻発しており、それによってノックが最初からやり直しになったり全員が走らされたりといったことが続いたことから澤田には怒鳴られ、同級生のチームメイトからは部を辞めてほしいとまで言われることもあったという<ref name="kumamoto060727" />。松山商の外野手のホーム返球は、中継かワンバウンドが決まりであったが、矢野はダイレクトになるミスが多かった<ref name="kumamoto060727" />。ただし澤田はこの年の6月に、サヨナラの場面では定位置より後ろからはダイレクトに投げるケースもあると外野手に教えていた。澤田本人は忘れていたが矢野自身は覚えており、澤田は真面目な矢野らしい話だと語っている<ref name="kumamoto060727" /><ref>津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、174頁。</ref>。 |
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矢野は、10回裏の「奇跡のバックホーム」と、11回表の初球の二塁打と、たった2球で高校野球生活のすべてを出し切ったとも言え<ref name="DVD6-2">「[インタビュー バックホームのそれまでと、それから] 矢野勝嗣」、DVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』、ベースボール・マガジン社、2014年12月2日発行・発売、6-9頁。</ref>、矢野は高校卒業後「最後に出てきて、いいところだけ持っていった」と当時のチームメイトにからかわれるようになる<ref name="fuji110905" /><ref name="satuka" />。矢野はテレビ局の取材でこのときのバックホームの再現を試みるも、1球もホームに届かなかった<ref name="satuka" />。 |
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矢野は[[松山大学]]に進み、3年生でレギュラーとなる<ref name="kumamoto060726" />。4年生で主将となり、2000年の[[全日本大学野球選手権大会|大学野球選手権]]に出場している<ref>{{Cite web|和書|date= |url= https://www.matsuyama-u.ac.jp/uploaded/attachment/1160.pdf|title=OB・OGインタビューFile.09矢野勝嗣|format=PDF |publisher=愛媛大学 |accessdate=2015-06-05}}</ref>。卒業後、[[愛媛朝日テレビ]]に入社した<ref name="kumamoto060726" />。 |
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矢野自身は、活躍できたのは決勝の最後だけであり、失敗が多く消極的な人間なのに、どれだけすごい奴なんだと周囲からみられてそのギャップに悩んだ時期もあったという<ref name="DVD6-2" />。しかし年を重ねるにつれあの経験を一生背負っていこうと前向きになり、当時の話も積極的にできるようになったという<ref>「(原点 高校野球がくれたもの:3)愛媛朝日テレビ勤務・矢野勝嗣さん/愛媛県」、朝日新聞 大阪地方版/愛媛、2008年7月1日、26頁。</ref>。矢野は[[愛媛朝日テレビ]]で長く営業職(主に東京支社営業部)を務めた後、2014年に報道制作局へ異動。2015年4月からは『[[スーパーJチャンネルえひめ]]』でスポーツキャスターを務めていた<ref>「15年後の捕球/高校野球連載第7回「あの球児は今」」、日刊スポーツ 東京日刊、2015年5月19日。</ref>。2016年春より営業職に戻る<!--https://8card.net/p/34002745103-->。 |
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=== 星子崇 === |
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10回裏の三塁走者であった星子崇は秋の新チームでは4番だったが、バントのサインに応じないなどの理由で春から徐々に打順が下がり、夏の大会では8番まで落ちていた<ref name="number883" />。甲子園5試合で14打数8安打、打率5割7分1厘。決勝戦でも4打数3安打であり、8回裏では坂田の犠飛でタッチアップからホームインしている。星子は50mを5秒9で走るチームで一、二を争う俊足を誇る選手であった<ref name="nishinihon960822">「全国高校野球最終日=熊工、燃焼の壮絶戦、沢村が九回同点弾」、西日本新聞 朝刊、1996年8月22日、19頁。</ref>。星子のタッチアップは慎重過ぎるぐらい慎重に見えた{{Refnest|group="注釈"|9回裏の澤村のホームラン後、星加がサードベースを踏んでいないとアピールしたことが原因ではないかと、スポーツライターの二宮清純は推測している<ref name="ninomiya3" />。}}という意見もある<ref name="ninomiya3" />が、星子自身はちょっと早いくらいのスタートだったと語っている<ref name="kumamoto060801">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(5)=熊本工・星子三塁手 「アウトの人」克服に3年」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月1日。</ref>。 |
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捕手の石丸は、星子が回り込まず真っ直ぐに走ってきたことに疑問を抱いていたが<ref name="DVD6-14">「証言・激闘の記憶|石丸裕次郎」、DVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』、ベースボール・マガジン社、2014年12月2日発行・発売、14-15頁。</ref>、星子は、右翼へ上がった打球は浜風に押し戻されるであろうということ、また反対に右翼からの返球は浜風によって通常より伸びるであろうということを意識していたため、最短距離で走るという選択肢をとっていたのであった<ref name="sponichi150708">{{Cite news |title=96年夏「奇跡のバックホーム」明暗を分けた2人の現在|newspaper=スポーツニッポン|date=2015-07-31|author=吉仲博幸|url= https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/07/08/kiji/K20150708010692150.html|accessdate=2015-08-20}}</ref><ref name="number883" />。熊本日日新聞が後にテレビ録画でチェックしたところによると、タッチアップから石丸のミットと接触するまでが約3.5秒であり、普通の選手の4秒前後より早いタイムであった<ref name="kumamoto060801" />。 |
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星子の同級生はタッチアウトについて何も聞いてこなかったが、大人たちから「走りながらピースしてなかった?」「力を抜いて走った」などと冗談交じりで話しかけられることに耐えられず、取材は全て断った<ref name="asahi140629" /><ref name="yomiuri140813">「[熱闘の系譜 高校スポーツ50年](6)熊工の悲劇 今に生きる(連載)」、読売新聞 西部朝刊、2014年8月13日、28頁。</ref>。 |
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=== 石丸裕次郎 === |
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捕手の石丸は後に、「新聞や写真集に僕が大きく載ったのは矢野のおかげです。どこのカメラマンも熊工のサヨナラ勝ちのシーンを狙ってましたよね。一番すごいことをやったのは矢野なのに、ライトまで距離が遠過ぎてだれも撮ってないですよね」と語っている<ref name="kumamoto060803" />。2014年に発売されたDVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』([[ベースボール・マガジン社]])でも、表紙は石丸がボールの入ったミットを高く差し上げ、星子が両手を広げて「セーフ」とアピールしている場面である。帰ってきた球を受けてアピールしただけと謙遜する石丸は、「日々の努力は報われるものなんだと、矢野のプレーであらためて思った」と語っている<ref name="DVD6-14" />。 |
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=== 澤村幸明 === |
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九回裏に起死回生の同点ホームランを打った澤村幸明は、熊本工では[[緒方耕一]]以来12年ぶりの1年生レギュラーであり、将来はプロへ行く選手と地元で注目されていた<ref name="DVD6-1">「[1球、1点、1勝への思いは、今も]沢村幸明」、DVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』、ベースボール・マガジン社、2014年12月2日発行・発売、10-13頁。</ref>。県大会ではチャンスに強く、打率5割2分9厘で11打点、三振0である<ref>「熊本工業高甲子園特集=伝統の強力打線健在」、熊本日日新聞 朝刊、1996年8月6日。</ref>。準決勝でも前橋工の斉藤義典から2点タイムリーを打っていた。澤村は9回裏の打席に向かうとき、ベンチの3年生に「初球から狙っていいですか」と尋ね、「行け行け、ホームラン狙え」と激励されたが、当の澤村はそのことを後に記者に尋ねられても覚えていなかった<ref name="kumamoto060808" />。 |
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11回表の矢野の打球の後逸については、捕れるはずの打球が捕れなかった、中途半端なプレーをしたとその後も悔やんでいる<ref name="DVD6-1" />。 |
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澤村は後に「[[松坂世代]]」と呼ばれる選手達と同じ1980年度生まれであり、一番初めに頭角を現した選手である<ref name="DVD6-1" />。澤村本人も周囲も再び甲子園の土を踏むものと思っていたが、結果的にこれが最初で最後の甲子園となった<ref name="DVD6-1" />。 |
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=== 田中美一 === |
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1996年頃、本塁でジャッジする時は送球の延長線上(この場合三塁側)に入るのが基本だった。しかし球審の[[田中美一]]は、右翼手からの返球がバットに当たることを回避するために本多のバットを拾いに行った後、星子がタッチアップの準備をしているのを見て延長線上に向かうのは間に合わないと判断し、そのまま一塁側に残ったため、タッチプレーをベストポジションで判断することができた<ref name="DVD6">「[検証 奇跡の背景にあったもの]球審・田中美一氏のもう一つの「奇跡」」、DVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』、ベースボール・マガジン社、2014年12月2日発行・発売、16-17頁</ref>。 |
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一塁塁審だった桂等は試合後、田中になぜ三塁側でなく一塁側に居たのかを尋ねると、田中は本多の打球に引き寄せられるよう、無意識に一塁側へ行った、だからタッチプレーが見えたと答えた<ref name="kumamoto060803" />。 |
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田中の薫陶を受けた審判員の桑原和彦は、近くでジャッジするためにはプレーを読む力が必要で、これは田中の努力と感性に他ならないと語っている<ref name="DVD6" />。 |
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中矢信行・愛媛県高野連審判長(2006年次)は、並の審判なら捕手の背中へ回って外側から見るところを、田中は外野からの送球を背中に背負う格好で内側からプレーをジャッジした、お手本の審判であると語った<ref name="houchi060505" />。 |
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田中はこの判定について「最高のジャッジが出来た」と語り、アウトの言い方が厳しいという妻からの問いかけには、審判は選手に全身で伝えないといけないと反論している{{Refnest|group="注釈"|「奇跡のバックホーム」について、1つのプレーに対し「アウト、アウト」と2度アウト宣告してしまったことをのちに審判として悔やんだ<ref>宇和上正<!--元松山商高校長-->「甲子園で活躍 田中球審悼む」、愛媛新聞 朝刊、2012年2月29日、22面</ref>というが、桑原和彦はそのような話を聞いたことがないと語っている<ref name="DVD6" />。}}<ref name="asahi020703" />。「あの判定は生涯最高のジャッジだった」という遺言が、棺の中に収められたという<ref name="number883" />。 |
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このジャッジについて熊本工のファンからは[[誤審]]ではないかという声もあったが、1996年8月22日付の[[スポーツ報知]]1面には、捕手・石丸が三塁走者・星子にタッチした時、星子の[[スパイクシューズ|スパイク]]が[[ホームプレート]]10cm前にあった写真が掲載された<ref name="houchi060505" />。 |
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熊本工の主将だった野田謙信は後に、「100人が100人セーフだと思うタイミングなのにアウトというのは、よほどの確信があったはずです。すばらしいジャッジですよ」と語った<ref>「[コラム・記者席から]奇跡の上にあった奇跡。」、DVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』、[[ベースボール・マガジン社]]、2014年12月2日発行・発売、26-27頁。</ref>。 |
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田中は奇跡と実力のギャップに悩む矢野に、あのプレーは間違いなくアウトだから自信を持ちなさいと連絡し、矢野はそれで楽になったと述べている<ref name="number883" />。 |
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== プロまたは社会人野球に進んだ主な選手 == |
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=== 松山商 === |
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* [[吉見宏明]]は[[立正大学硬式野球部|立正大学]]進学後、[[三菱ふそう川崎硬式野球部|三菱ふそう川崎]]に2年間在籍。プロの夢を捨てきれず退社し、米独立リーグチームと契約する寸前、[[中華職業棒球大聯盟|台湾プロ野球]]の[[統一セブンイレブン・ライオンズ|統一ライオンズ]]の外国人枠に選ばれ、1年間レギュラーとしてプレーし<ref name="kumamoto060818" />、同リーグのベストナイン([[中華職業棒球大聯盟個人タイトル獲得者一覧#ベストナイン(最佳九人・最佳十人)|最佳十人]])にも選出された。 |
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* 渡部真一郎は[[駒澤大学硬式野球部|駒澤大学]]へ進むも限界を感じて退部し、そのまま市民球団・[[松山フェニックス]]に入団して四番を務めた<ref name="kumamoto060816">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(14)=松山商・渡部真一郎右翼手 星加逸人三塁手 ノンプロの4番と主将」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月16日。</ref>。 |
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* 星加逸人は[[NTT四国硬式野球部|NTT四国]]へ入社するも廃部となったため、松山フェニックスに入団し、2005年秋からは主将を務めた<ref name="kumamoto060816" />。 |
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* 控え投手としてベンチ入りしていた[[西山道隆]]は2005年に[[四国アイランドリーグplus|四国アイランドリーグ]]の[[愛媛マンダリンパイレーツ]]に入団し、2006年に[[福岡ソフトバンクホークス]]に[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]として入団した。2006年5月23日には[[支配下選手登録]]され、26日には育成選手出身として初めて一軍登録されている。 |
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* 石丸裕次郎(駒沢大 - [[東芝野球部|東芝]])<ref name="kumamoto060803" /> |
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* 新田浩貴(東芝)<ref name="kumamoto060810" />2003年に引退後、建設会社勤務<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/TokyoSports_1475241/?p=3 96年夏甲子園決勝・松山商VS熊本工の奇跡のバックホーム 新田浩貴が語った23年目の真実 東スポWeb]</ref>。 |
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* 久米孝幸([[三菱重工広島硬式野球部|三菱重工広島]])<ref>[http://www.mhihiroshima-bbc.mhi.co.jp/record/record_13.html 三菱重工広島硬式野球部後援会]</ref>。 |
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* 深堀祐輔(明治大 - [[東海理化硬式野球部|東海理化]]<ref>GRANDSLAM No18 小学館</ref>)大学では熊本工の遊撃手で主将・野田の1年後輩であった。 |
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=== 熊本工 === |
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松山商は52名、熊本工は62名と、数多くのプロ野球選手を輩出している。50名以上のプロ選手を輩出した高校は7校あるが、公立校はこの2校だけである。松山商は、[[選抜高等学校野球大会|春]]・[[全国高等学校野球選手権大会|夏]]を通じ「[[大正]]」「[[昭和]]」「[[平成]]」全ての[[年号]]で優勝を達成した唯一の高校になっている。優勝7回、準優勝4回、ベスト4入り6回を数える。一方の熊本工は準優勝3回、ベスト4は5回あるが優勝は1回もない。夏の大会での熊本県勢の優勝もまだない。 |
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* 澤村幸明はその後[[法政大学]]へ進み、[[法政大学野球部|野球部]]でショートとセカンドを守り、3年春からレギュラー、4年秋にセカンドでベストナインに選ばれた<ref name="kumamoto060808">「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(9)=熊本工・澤村幸明左翼手(下)プロの夢あきらめない」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月8日。</ref>。澤村はプロを目指していたが、打撃・守備・足のいずれもがまあまあで飛びぬけたものが無かったからか、大学卒業前に監督から「おまえはプロはない」と言われた<ref name="DVD6-1" />。卒業後は[[日本通運]]へ入社。[[日本通運硬式野球部|同社野球部]]では在籍した13年間全てで[[都市対抗野球大会]]に出場(自チーム11回・補強選手2回)、同大会10年連続出場や社会人ベストナインのタイトル獲得など社会人野球を代表する選手として活躍し、2015年限りで現役を退いた<ref name="DVD6-1" /><ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/01/24/kiji/K20160124011911270.html 「熊工の沢村」鮮烈な記憶から20年、現役に別れ そして新たな希望]スポニチアネックス 2016年1月24日付 2016年1月26日閲覧</ref>。2020年より監督に就任<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201911250000485.html 日本通運監督に沢村幸明氏が就任 熊本工時代に準V]日刊スポーツ 2019年11月25日付</ref>。 |
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* 本多大介は[[青山学院大学硬式野球部|青山学院大学]]に進み、レギュラーにはなれなかったが、3年の時に[[全日本大学野球選手権大会]]で優勝している(この時のエースは[[石川雅規]])。卒業後、[[JR九州硬式野球部|JR九州]]に進んだ<ref name="kumamoto060802" />。 |
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* 野田謙信は[[明治大学硬式野球部|明治大学]]で4年春にセカンドでベストナイン、[[トヨタ自動車硬式野球部|トヨタ自動車]]に進むも怪我で退部、退社<ref name="kumamoto060822" />。熊本の実家へ帰った後、2006年に[[熊本朝日放送]]の解説者としてデビューしている<ref name="kumamoto060822" />。2006年秋からは熊本工で後輩の指導に当たり<ref>「センバツ8強進出の熊本工 初制覇の夢後輩に託す 96年準V野田さん プロ断念、昨秋から指導」、西日本新聞 夕刊、2007年3月29日、12頁。</ref>、その後[[開新高等学校|開新高]]野球部の監督となっている<ref name="kumamoto140806" />。 |
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* 坂田光由は境秀之、松山商・向井良介とともに[[東洋大学硬式野球部|東洋大]]へ進むも身体を壊したため学生コーチに転身、卒業後の2002年から[[鈴鹿大学|鈴鹿国際大学]]野球部のコーチを務めた<ref name="kumamoto060817" />。2012年1月、野球部の新監督に就任する<ref>「坂田新監督目標語る 鈴国大野球部 「全国ベスト8以上を」」、中日新聞 朝刊、2011年12月21日、14頁。</ref>。 |
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* 園村淳一([[Honda硬式野球部|本田技研]])<ref name="kumamoto060811" /> |
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* 西本洋介([[新日本製鐵八幡硬式野球部|新日鐵八幡]])<ref name="kumamoto060817" /> |
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* 星子崇は卒業後、[[パナソニック|松下電器]]の[[パナソニック野球部|野球部]]に在籍するも怪我で2年後に退部し、そのまま退社<ref name="kumamoto060801" />。熊本へ戻って職を転々とした後に夜の世界に足を踏み入れると、当時のプレーを覚えている人たちのお陰で人脈が広がり、バーなどの経営に乗り出す<ref name="asahi140629" /><ref name="yomiuri140813" />。ただし「アウトの星子」と言われるのが嫌で接客は他人に任せ、野球関係の付き合いは絶っていた<ref name="kumamoto140806">「取材前線=“タッチアップ”から18年 写真部」、熊本日日新聞 朝刊、2014年8月6日。</ref>。2013年12月、当時経営していたバーに、熊本へ旅行に来て知人から店のことを知った矢野勝嗣が訪れた。高校時代以来の再会に酒は進むも、矢野の「あの話、おれたちに一生ついて回るよな」というつぶやきを聞き、星子は「名刺を渡さなくても覚えてもらえる。お前のおかげで商売できてるんだ」と語った<ref name="asahi140629" />。星子は2014年5月、[[熊本市]]でスポーツバー「たっちあっぷ」を開店した。自らがカウンターに立って話をするバーでは当時の決勝のシーンがテレビに映しだされ、壁には星子が着ていた熊本工のユニホームと、矢野が送ってくれた松山商のユニホームが額に入って飾られている<ref name="asahi140629" /><ref name="yomiuri140813" /><ref name="sponichi150708" />。星子は2015年現在、熊本工野球部の青年部OB会長を務めている<ref name="number883" />。 |
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* 古閑伸吾([[ニコニコ堂|ニコニコドー]] - [[住友金属野球団|住友金属]] - [[日本製鉄鹿島硬式野球部|住友金属鹿島]] - 鹿島レインボーズ)<ref>[http://sp.mainichi.jp/m/f/baseball/2013toshitaikou/news.html?cid=20150514ddlk08050069000c 第86回都市対抗野球 : 県大会チーム紹介/下/茨城] 毎日新聞、2015年5月14日。</ref>。 |
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== その後 == |
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数日後に行われた第41回[[全国高等学校軟式野球選手権大会]]で松山商[[軟式野球]]部が準優勝し、硬式・軟式双方の快挙に同校をはじめ野球ファンの多い地元は沸き立った。 |
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同年、第41回[[全国高等学校軟式野球選手権大会]]では松山商[[軟式野球]]部が勝ち進むも、8月30日に行われた決勝では[[中京高等学校 (岐阜県)|中京商]]に破れ、史上初の硬式野球部と同時制覇はならなかった<ref>「◎松山商、決勝で涙 全国高校軟式野球選手権最終日」、愛媛新聞 朝刊、1996年8月31日。</ref>。 |
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翌年の[[第79回全国高等学校野球選手権大会]]では、両校とも前年に活躍した選手を中心とした布陣で臨んだが、松山商は県予選1回戦敗退、熊本工も県予選2回戦敗退という結果に終わった。 |
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松山商は創立百周年記念の一環として、2001年6月17日に熊本工との招待試合を[[松山中央公園野球場|坊っちゃんスタジアム]]で行った。[[ダブルヘッダー]]で、第一試合は4対2、第二試合は5対2で松山商が勝った<ref>「96年夏。奇跡のバックホームV 名勝負再び 松山商×熊本工 坊っちゃんスタジアム、3000人楽しむ」、愛媛新聞 朝刊、2001年6月18日。</ref>。 |
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松山商の澤田勝彦監督は、延長18回の井上と同じ中学の出身(5学年下)で松山商に進学、控え捕手として同級生[[西本聖]]の球を受けている。西本の兄・[[西本明和|明和]]と澤田の兄は[[第48回全国高等学校野球選手権大会]]の準優勝バッテリーであり<ref>『[http://mainichi.jp/feature/news/20111128ddm013070054000c.html 学校と私:「目標は甲子園、目的は人間形成」学ぶ=沢田勝彦さん]』 毎日新聞 2011年11月28日</ref>、また澤田が在学中の松山商は、入学直後の西本を擁して春季四国大会で優勝したため活躍が大いに期待されたが、結局甲子園出場はならなかった。 |
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2015年7月13日、愛媛朝日テレビ開局20周年特番として、熊本朝日放送との共同制作による『高校野球100年 甲子園 奇跡のバックホーム〜今 明かされる20年目の真実〜』が両局で放送された<ref>{{Cite episode |title=高校野球100年 甲子園 奇跡のバックホーム〜今 明かされる20年目の真実〜|network=[[愛媛朝日テレビ]] |airdate=2015-07-13 |url=http://eat.jp/kiseki/}}</ref><ref>「「奇跡のバックホーム」克明に 愛媛・熊本朝日共同制作 高校野球100年特番 96年 松山商―熊本工戦検証」、愛媛新聞 朝刊、2015年7月9日。</ref>。 |
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熊本工の田中久幸監督は、[[日産自動車硬式野球部|日産自動車]]時代に選手として[[都市対抗野球大会|都市対抗野球]]準優勝(1973年)、監督として優勝(1984年)、日本代表監督として[[IBAFワールドカップ|世界選手権]]4位(1984年)と、出場校の監督の中で際立った実績を残していた。元[[阪神タイガース]]の[[田中秀太]]の父でもある。2006年、澤田監督が退任を表明した10日後の9月29日に病没した。 |
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2016年11月26日、熊本市の[[藤崎台県営野球場]]で[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]復興支援イベントを兼ねた「熊本工対松山商OB戦」が行われた。試合は9対8で熊本工の勝利。試合後、エキシビジョンとして熊本工・本多のライトへの飛球を松山商・矢野が捕球、そして三塁走者・星子がタッチアップという「奇跡のバックホーム」を再現したが、今回は星子が生還を果たした<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/11/27/kiji/K20161127013798660.html あれから20年…「奇跡のバックホーム」再現は生還 両軍集結] - スポーツニッポン、2016年11月27日</ref>。 |
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この試合で球審を務めた田中美一は、[[高校野球審判員|高校野球]]、[[東京六大学野球連盟|東京六大学野球]]、都市対抗野球で長年審判を務めたほか、[[日本野球連盟]]役員を歴任、1995年には[[国際野球連盟]]から表彰を受けている。「奇跡のバックホーム」については、1つのプレーに対し「アウト、アウト」と2度アウト宣告してしまったことをのちに審判として悔やんだという。[[2012年]][[2月23日]]、[[心不全]]のため病没。 |
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2023年11月25日、松山市の坊ちゃんスタジアムで松山商側が企画し、子どもたちの野球振興を兼ねた再々試合が行われた。試合は8-7で熊本工OBが勝利した。試合後には「奇跡のバックホーム」を再現するセレモニーが行われ、松山商の矢野が熊本工の星子をアウトにし7年前の熊本での借りを返した。 |
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「奇跡のバックホーム」を演じた矢野勝嗣は、その後も「たった1球で美味しいところを全部持っていった」と当時のチームメイトにからかわれるという。のちに矢野はテレビ局の取材で、このときのバックホームと同じ想定で40球ほど遠投を行ったことがあるが、1球もキャッチャー役のミットに収まらなかった。矢野はその後[[松山大学]]に進学し、野球部キャプテンとして2000年の[[全日本大学野球選手権大会|大学野球選手権]]に出場<ref>[http://www.matsuyama-u.ac.jp/creation/146/creation146/no5.pdf OB・OGインタビュー (株)愛媛朝日テレビ 矢野勝嗣氏 - 松山大学]</ref>。卒業後は松山にある[[愛媛朝日テレビ]]に入社した。同社の東京支社に勤務していた[[2010年]]には同試合をNHKラジオで実況していた佐塚元章アナと対談し、当時を振り返った様子が佐塚の投稿したNHKラジオの公式ブログ内で紹介された<ref>2010年10月14日付ブログ 『[http://www.nhk.or.jp/r1-blog/200/62461.html R1 blog 「ラジオ放送のとりもつ縁 1996夏 奇跡のバックホーム」]』</ref>。 |
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2024年に行われた[[第106回全国高等学校野球選手権大会]]の準決勝第一試合9回2死において、[[関東第一高等学校|関東一高]]の中堅手・飛田が捕手・熊谷への好返球を見せ、[[神村学園初等部・中等部・高等部|神村学園]]の二塁走者をアウトにし、関東一高が初の決勝進出を果たしている。奇しくも「奇跡のバックホーム」と同じ8月21日の事であった。<ref>{{Cite web |title=関東第一 令和版「奇跡のバックホーム」で初決勝!奇しくも…あの“伝説”96年松山商と同じ「8・21」 - スポニチ Sponichi Annex 野球 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/08/21/kiji/20240821s00001002111000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |access-date=2024-08-23 |language=ja}}</ref> |
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[[四国アイランドリーグ]]出身で初のプロ野球 ([[日本プロ野球#日本野球機構(NPB)|NPB]]) 選手となった[[西山道隆]]は、このとき松山商の2年生で、控え投手としてベンチ入りしていたが出場機会はなかった。 |
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== 注釈 == |
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* [[二宮清純]]『スポーツ名勝負物語』[[講談社現代新書]] 1997年 ISBN 978-4061493810 |
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* 矢崎良一『甲子園 歴史を変えた9試合』[[小学館]] 2007年 ISBN 978-4093877176 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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2024年12月1日 (日) 13:51時点における最新版
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開催日時 | 1996年8月21日 | ||||||
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開催球場 | 阪神甲子園球場 | ||||||
開催地 | 日本 兵庫県西宮市 | ||||||
監督 | |||||||
観客数 | 48,000人 | ||||||
試合時間 | 3時間5分 |
第78回全国高等学校野球選手権大会決勝(だい78かいぜんこくこうとうがっこうやきゅうせんしゅけんたいかいけっしょう)は、1996年8月21日に阪神甲子園球場において熊本代表・熊本工業高校と愛媛代表・松山商業高校との間で行われた第78回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦である。延長11回の、3時間を超える熱戦となり、延長10回裏に松山商のサヨナラ負けの大ピンチを救った、いわゆる「奇跡のバックホーム」は、球史に残る名場面として語り継がれている[1]。
試合前評価
[編集]決勝戦は熊本工対松山商と古豪公立校同士の対決となった[2]。熊本工は、川上哲治がエースだった第23回以来、59年ぶり3回目の夏の大会決勝進出で、熊本県勢初の夏の優勝を目指した[3]。松山商は水口栄二、佐野重樹らを擁した第68回以来10年ぶり8回目の決勝進出[2]。決勝で熊本代表と愛媛代表が戦うのは初めてであり、熊本工と松山商の対戦も初めてであった[4][5]。この年の春の大会では鹿児島実が優勝しており、熊本工には史上初の九州勢による春夏連覇もかかっていた[6]。
決勝戦は、投攻守のいずれも松山商が優位に立つと見られた[7]。主将で三番の今井康剛、6打点を上げている四番・渡部真一郎、打率4割5分5厘の五番・石丸裕次郎のクリーンアップトリオを中心に打線が好調な松山商を、熊本工の左腕・園村淳一がどう抑えるかが注目された[3]。
熊本工
[編集]熊本工の今大会 | ||
---|---|---|
1回戦 | なし | |
2回戦 | 12 - 4 | vs. 山梨・山梨学院大付 |
3回戦 | 5 - 1 | vs. 香川・高松商 |
準々決勝 | 7 - 6 | vs. 長崎・波佐見 |
準決勝 | 3 - 2 | vs. 群馬・前橋工 |
選手権大会の出場は4年ぶり14度目、選抜大会も18回の出場を数える古豪である[8]。OBには川上哲治、吉原正喜、伊東勤、緒方耕一、前田智徳、荒木雅博(同年春に卒業)など、多くのプロ野球選手がいる。
監督の田中久幸は熊本工、芝浦工大、日産自動車で二塁手、三番、主将を務めた[9]。1973年の第44回都市対抗野球大会では主将として準優勝、1984年の第55回都市対抗野球大会では監督として日産自動車を初の優勝に導いている[9]。同年の世界選手権では全日本の監督を務め、ベスト4に輝いている[10]。長男は熊本工OBで後に阪神タイガースへ入団した田中秀太である[9]。1995年8月、熊本工創立百周年(1999年)に併せ、監督に就任した[9]。ただし、秋の熊本県大会では1回戦で負け、「熊工史上最弱のチーム」と呼ばれた[11]が、翌年は全国大会決勝まで上がってきた。
熊本大会では伝統の強力打線で準々決勝まで全てコールド勝ちであり、全試合二桁安打、平均得点10.4だった[12]。投手は風邪で体調を崩した園村淳一の代わりに村山幸一が活躍し、5勝のうち4勝を挙げた[13]。
甲子園では2回戦から登場。エース村山が不調だったため、3年生で背番号10の園村が、4試合のうち準々決勝を除く3試合で先発した[7][14]。準々決勝、準決勝ではチームで合計5失策を記録し、守備に不安を残していた[7]。
松山商
[編集]松山商の今大会 | ||
---|---|---|
1回戦 | 8 - 0 | vs. 長野・東海大三 |
2回戦 | 6 - 5 | vs. 西東京・東海大菅生 |
3回戦 | 8 - 2 | vs. 徳島・新野 |
準々決勝 | 5 - 2 | vs. 鹿児島・鹿児島実 |
準決勝 | 5 - 2 | vs. 福井・福井商 |
選手権大会の出場は2年連続25度目、選抜大会も含めて3季連続の出場だった[15]。春2度、夏4度の優勝を誇り、特に夏に強いことから「夏将軍」の異名を取っている[15]。ただし第18回、48回、68回と「8」のつく大会では準優勝に終わるというジンクスもあった[16]。OBには藤本定義 、景浦將、千葉茂、谷岡潔など、多くのプロ野球選手がいる。
監督の澤田勝彦は松山商在学当時控え捕手であり、同期に西本聖がいた[17]が、甲子園に出場したことはなかった[18]。1980年に松山商のコーチとなり、春1回、夏3回甲子園に出場[18]。1988年9月1日、監督に就任した[18]。3季連続出場は松山商として初めてだったが、過去2季はいずれも初戦敗退だった[17]。
愛媛大会では、高校通算75本塁打の“伊予のドカベン”こと今井康剛[19]と四番の渡部真一郎を中心とし、チーム打率3割9分の強力打線に加え、伝統のバントを交ぜる攻撃を見せた[15][20]。春の選抜大会まで弱かった投手陣は、新田浩貴と渡部の二本柱に地力が付き、県大会準決勝(岩村明憲を擁していた宇和島東との対戦)を除き大崩れしなかった[21]。県大会では失策3と堅実な守備力も見せた[22]。
甲子園でも決勝まででチーム打率は3割1分3厘[3]で、1回戦から3回戦まで二桁安打を記録[23]。準々決勝で春夏連覇を狙った鹿児島実の下窪陽介、準決勝で福井商の亀谷洋平といった好投手を攻略してきた[3]。守備の方も、準決勝で外野フライからの併殺2を記録するなど、伝統の「松山商の守り」ならではのそつの無さを見せた[23]。投手は1回戦、3回戦、準々決勝は新田が、2回戦と準決勝は渡部が先発した。
試合
[編集]試合経過
[編集]先攻松山商(三塁側)、後攻熊本工(一塁側)で13時00分試合開始、観衆48,000人[24]。NHKテレビの実況は高山典久アナウンサーで解説は原田富士雄 [25]、同時中継のNHKラジオ第1放送では佐塚元章アナウンサーが実況[26]、福島敦彦が解説を担当した。一方、民放朝日放送は実況を中邨雄二アナウンサーが、尾藤公と山下智茂が解説をそれぞれ担当した。試合経過は以下である[27]。
回 | 得点 | 内容 |
---|---|---|
1回表 | 松 3 - 0 熊 | ①吉見セーフティーバントを狙うも三塁ゴロ。②星加左前安打。③今井右前安打。④渡部右翼線二塁打で星加生還(1点目)、なお二、三塁。⑤石丸一塁ゴロで今井本塁刺殺、二死一、二塁。⑥向井四球で満塁。⑦久米、⑧新田連続四球で2つの押し出し(2,3点目)。⑨深堀三振。 |
1回裏 | 松 3 - 0 熊 | ①野田右飛。②坂田三振。③本多二塁ゴロ。 |
2回表 | 松 3 - 0 熊 | ①吉見三塁ゴロ。②星加右飛。③今井捕邪飛。 |
2回裏 | 松 3 - 1 熊 | ④西本三振。⑤古閑左前安打。⑥澤村一塁失で一、二塁。⑦境中前打で古閑生還(1点目)、なお一、二塁。⑧星子二塁ゴロで併殺。 |
3回表 | 松 3 - 1 熊 | ④渡部四球。⑤石丸投前犠打で一死二塁。⑥向井中飛。⑦久米投ゴロ。 |
3回裏 | 松 3 - 1 熊 | ⑨園村二塁ゴロ。①野田二塁ゴロ。②坂田中飛。 |
4回表 | 松 3 - 1 熊 | ⑧新田遊撃ゴロ。⑨深堀、①吉見連続四球。②星加の三塁ゴロで二死二、三塁。③今井投ゴロ。 |
4回裏 | 松 3 - 1 熊 | ③本多三振。④西本二塁ゴロ。⑤古閑四球。⑥澤村遊撃への内野安打。⑦境左飛。 |
5回表 | 松 3 - 1 熊 | ④渡部三塁内野安打。⑤石丸投前犠打。⑥向井中飛。⑦久米投前ゴロ。 |
5回裏 | 松 3 - 1 熊 | ⑧星子右中間へ長打も、三塁憤死(記録は二塁打)。⑨園村一塁ゴロ。①野田右飛。 |
6回表 | 松 3 - 1 熊 | ⑧新田左越え二塁打。⑨深堀二塁ゴロも二走の新田三塁に進めず。①吉見三振。②星加一塁ゴロ。 |
6回裏 | 松 3 - 1 熊 | ②坂田三塁ゴロ。③本多投直。④西本左飛。 |
7回表 | 松 3 - 1 熊 | ③今井右飛。④渡部三振。⑤石丸二塁ゴロ。 |
7回裏 | 松 3 - 1 熊 | ⑤古閑三振。⑥澤村遊撃ゴロ。⑦境二塁ゴロ。 |
8回表 | 松 3 - 1 熊 | ⑥向井右飛。⑦久米三塁ゴロ。⑧新田中飛。 |
8回裏 | 松 3 - 2 熊 | ⑧星子左前安打。⑨園村捕前犠打。①野田四球、捕逸で二走の星子三進。②坂田中犠飛で星子生還(2点目)。③本多一直。 |
9回表 | 松 3 - 2 熊 | ⑨深堀中前二塁打。①吉見投前犠打、深堀三進。②星加遊撃ゴロ、深堀三塁進めず。③今井一塁ゴロ。 |
9回裏 | 松 3 - 3 熊 | ④西本三振。⑤古閑に代わった代打松村三振。⑥澤村左翼スタンドに起死回生の同点ソロ本塁打(3点目)。⑦境遊撃ゴロ。9回決着つかず、延長戦へ突入。 |
10回表 | 松 3 - 3 熊 | 代打の松村に代わり井が右翼の守備へ。④渡部一直。⑤石丸右飛。⑥向井右前打。⑦久米三振。 |
10回裏 | 松 3 - 3 熊 | ⑧星子左中間二塁打。松山商は、新田から右翼手の渡部に投手交代。新田は右翼に就く。⑨園村三塁前犠打、星子三進。松山商は、①野田、②坂田連続敬遠で満塁策を取り、右翼手を新田から矢野に代える。③本多右飛、三走の星子タッチアップを狙うもタッチアウト。 |
11回表 | 松 6- 3 熊 | ⑧守備から入った矢野中前への二塁打。⑨深堀三塁前犠打、矢野三進。①吉見四球。②星加一塁前にスクイズ(記録は内野安打)を決め矢野生還(4点目)。③今井右越え二塁打、吉見と星加が生還(5,6点目)。ここで、熊本工は投手を園村から村山にスイッチ。④渡部左飛。⑤石丸三振。 |
11回裏 | 松 6 - 3 熊 | ④西本一塁失。⑤守備から入った井に代わり代打木下一塁ゴロで一死二塁。⑥澤村左飛。⑦境三振で3アウト、試合終了。松山商が優勝を果たした。 |
スコア
[編集]出場選手
[編集]
|
|
試合展開
[編集]9回表までの攻防
[編集]松山商は熊本工の先発園村の立ち上がりを攻め、三連続長短打で1点先取。さらに三連続四球による押し出しで2点を追加した。園村はその後立ち直り、松山商打線を9回表まで0点に押さえる。
熊本工は松山商の先発新田から2回に境の適時打で1点、8回に坂田の犠飛で1点を返して小刻みに追撃した。
9回裏、起死回生同点ホームラン
[編集]9回裏、2-3と1点差を追う熊本工は四番の西本が見逃し三振、古閑に代わって代打の2年生・松村も空振り三振を喫し、土壇場のピンチに立たされた。ここで熊本工唯一の1年生である澤村が打席に立つ[28]。松山商の捕手・石丸は外角低めのスライダーでボールになる球を要求するも、新田は首を振った[29]。それを見た監督の澤田や右翼を守っていた渡部は直球で勝負するつもりなのだと思っていたが、当の新田はスライダーのコントロールが効かなくなっていたことから、ボールにするためには直球しかないと判断したのである[30]。
しかし投じた125球目、ボールにするはずの直球は内角高めに入ってしまい、初球から直球を狙っていた澤村はバットを振り抜いた[29]。打球はライナー気味に左翼ポール際に飛び込み、起死回生の同点ホームランとなった[29]。新田はぼう然とマウンドにひざまずき、その周りを澤村は跳ねるように走った[28]。座り込んだままの新田を、主将で一塁手の今井が抱え上げた[30]。今井はこの試合でも何度もマウンドへ行って新田を激励し、内野陣に声を掛けている[19]。
ホームイン後、三塁手の星加は、澤村が三塁を踏んでいないと、三塁塁審に繰り返しアピールしたが認められなかった[31]。次打者の境は遊撃ゴロに終わり、試合は延長戦に突入。しかし試合の流れは熊本工側へ一気に傾いていた[32]。
奇跡のバックホーム
[編集]延長10回表、熊本工は井が右翼に入る。松山商は渡部が一塁ライナー、石丸が右翼フライ。向井が右翼前ヒットで出塁するが、久米が見逃し三振で無得点。得点どころか、得点圏にランナーを進めることさえできずに攻守交代となった。
10回裏、熊本工の攻撃開始前、松山商ベンチで監督の澤田は既に疲れを見せていた新田に声をかけたが新田の「行けます」の一言で続投を決意した[33]。しかし熊本工の先頭打者・星子がフルカウントから左中間を破る二塁打を放つと、澤田は新田を右翼の渡部と交代させた[34]。続く園村が送りバントを成功させて一死三塁となる。ここで澤田は過去に同じサヨナラの場面で2回負けた苦い思い出[注釈 1]があることから、満塁策を決断する[35]。松山商は1969年夏の第51回決勝、対三沢高校戦で延長15回裏の一死二、三塁、16回裏の一死一、三塁のピンチをいずれも満塁策で切り抜け、延長18回引き分けに持ち込んだことがあった[35]。タイムを取ってマウンドに集まっていた内野陣の選手たちのところに、伝令の吉田が満塁策の作戦を伝えに行き、その後に渡部は野田と坂田を敬遠して一死満塁とし、打席に3番の本多を迎えた。ヒット・ホームランはもちろん、犠牲フライやスクイズバントでも1点入ればそこで試合終了。たとえ内野ゴロでも、飛び方によってはバックホームが間に合わずサヨナラとなるおそれがある。さらに、投手にとってはバッテリーエラーやボークだけでなく四死球さえできない状況である。松山商としては、まさに1つのミスも許されない状況であった。
このとき、渡部に代わって右翼の守備に就いていた新田は守備の交代を望んでいた[35]。新田は甲子園の三回戦で一度右翼を守っただけで県大会では一度も守っていなかった上、一度も右翼守備の練習をしたことがなかった[35]。澤田監督も右翼の守備交代について、27年前の決勝(前述の三沢高戦)のように延長が長引いた場合に備えて新田を交代させずにおくか、この場を確実に凌ぐことを優先して守備固めをすべきかで迷っており、結果的に左打者のロングヒッターである本多なら右翼へ打球が飛ぶ確率は低くない[36]と判断、さらにこの時、何処からともなく『今を逃れなかったら後はないんだぞ』という声が聞こえたこともあり[37] [38]、投手の渡部が第一球を投げようとしているところでタイムを取り、右翼守備の交代を決断した[18]。
新田に代わる守備固めに起用された矢野勝嗣(まさつぐ)は背番号9を付けた正右翼手で春の甲子園でも先発出場していたが、その後に新田と渡部の先発二本柱が確立し、新田が先発の時は渡部が右翼に入る起用法をとっていたことから甲子園でもスタメン出場は渡部が先発した2試合のみと控えに甘んじていた[39]。加えて打撃不振に陥っており[28]、スタメン出場した準決勝では三打席目で代打を出されていた[40]。それでも矢野は腐らず、一塁コーチャーとしてチームを支えていた[41]。澤田は右翼へ向かう矢野に「信じてるぞ」と声をかけた[39]。突然の交代となった矢野は、グラブを慌てて探してベンチを飛び出し、右翼へと着いたあと右肩を回して返球に備えた。
プレーが再開され、スクイズも考えられる状況で打席に立った本多は初球の高めのスライダーを振り抜いた[42]。「代わったところに打球は飛ぶ」の格言を体現するかのように[43]、右翼に大きなあたりが飛んでいった。投手の渡部は、打たれた瞬間にホームランだとサヨナラ負けを覚悟し[36]、NHK総合テレビの実況の高山典久アナウンサーが「行ったー!これは文句なし!」と思わず言ったほどの大飛球であった[44]。
だが、甲子園特有の、ライトからホーム方向に吹く強い浜風に打球が押し戻されて失速し、スタンドまでは届かず右翼線際へのフライとなった。背走していた矢野は打球を一瞬見失いかけるも前進して捕球[45]、それと同時に三塁走者の星子はタッチアップし、サヨナラ勝ちを確信する状況でも全力でホームへ走った。この一連のプレーで熊本工の田中監督は「犠牲フライには十分な飛距離だ、勝った」と思い、一方の松山商の澤田監督も「あ、終わったな」と思ったといい[45]、打った本多自身も犠牲フライだと手応えを感じた一撃であった[39]。一方、矢野は二塁手の吉見や一塁手の今井のカットマンに返球していたのでは万が一にも間に合わないと判断し、前進して捕球した勢いそのままに力任せにバックホームするも、二塁手と一塁手の頭上を大きく越える山なり送球となってしまった[36]。一塁塁審の桂は、とんでもなく高い返球に「これで終わった」と思い[46]、松山商の捕手・石丸も、普段の練習で矢野が幾度となく大暴投を繰り返していたことを思い返し「またやったか」と星子のタッチアップ成功を覚悟した[36]。送球は三塁側に少し逸れたため石丸はホームベースから離れ、送球のライン上、三塁ファールラインの上に移動していった。
しかし、距離にして80mを超える[35]矢野の返球は甲子園の浜風に乗り、石丸の捕球体勢を見てその前をかすめるように右足からのストレートスライディングを敢行した星子の目の前を通過し、石丸のミットへダイレクトで収まる。それとほぼ同時にミットと星子の頭部が接触した。星子はスライディング後に両手を広げて「セーフ」を、石丸はボールの入ったミットを高く差し上げ「タッチアウト」をそれぞれ球審にアピール[45]、一塁側ファールグラウンドで見ていた田中美一球審はアウトを宣告[45]。このタッチプレーが行われた瞬間に、星子の右足がホームベースに届いていなかった写真が撮影されている。少しでも返球がずれていたらタッチできずにセーフとなっていたであろう、奇跡に近いピンポイントの返球であった[47][32][48]。ダブルプレーで熊本工は3アウトとなり、絶好のサヨナラ勝ちの機会を逃した。星子は信じられないような表情を浮かべ[31]、犠牲フライを確信し一塁手前でバンザイをしていた本多は、そのまま呆然と立ち尽くした[49]。あの深い位置からの返球でなぜアウトになったのかと、球場は興奮とどよめきに包まれた[26]。実況中継の解説者の面々も驚きを隠せず、NHK総合テレビの解説の原田は「私自身も今これね、両手に鳥肌が立ってるんですよね」、NHKラジオ第1放送では解説の福島が「もう、とにかくあれはダイレクトで、自分が1人で放る以外に殺せない(アウトにできない)ですね。それが、ストライクが来ましたよ」、テレビ朝日系列の中継(当時の朝日放送が制作)では「これは本当に、奇跡と言うほかにありませんね」と解説されたほどであった。あまりに奇跡的なプレーを目の当たりにした興奮で、NHKのテレビ中継では「満塁ですから、これタッチ要らないんですよね。フォースプレーです」[注釈 2]と、朝日放送では「ちょうどキャッチャーのね、ホームプレートのまん真ん中に来ましたね」と誤った実況解説をしてしまうほどであった。
バックホームした当人の矢野は、クロスプレーの状況が一塁手の今井と重なってはっきりと見えなかったものの、今井が踊るように喜んでいるのを見てアウトと知り、飛び跳ねるようにベンチに引き揚げてきた[45]。そんな矢野を、澤田はベンチで強く抱きしめた[50]。
ちなみに、朝日放送制作のテレビ中継で実況を担当した中邨雄二アナウンサーは、「奇跡」という表現を一切交えずに一連のプレーを伝えていた。中邨は、スポーツアナウンサーとしての大先輩に当たる植草貞夫が同局で勤務していた時期に、高校野球をはじめスポーツ中継での実況経験が豊富な植草から「『奇跡』なんて簡単に起こるものではない。『奇跡の』や『世紀の』といった派手な表現を本当に使っていいのかを、きちんと吟味できないと一流のアナウンサーとは言えない」と教わっていた。本人が朝日放送テレビの定年(60歳)を間近に控えた2022年の初頭に語ったところによれば、「試合後から報道などで『奇跡のバックホーム』と呼ばれるようになってからは、実況で『奇跡』と言わなかったことを何年も後悔していた。このような葛藤を2012年頃に(野球中継の実況から既に退いていた)植草へ打ち明けたところ、『「奇跡」という言葉を使わなかった君の判断は正しいと思う』と言われたので心が晴れた」とのことである[51]。
奇跡の完結
[編集]延長11回表の松山商の攻撃は、奇跡の好返球を見せた矢野から始まった。園村の初球のカーブを矢野は左翼へはじき返した。ライナー性の打球はスタンドの白い服と重なり、それによって左翼手・澤村は打球を後逸し二塁打となった[31]。続く深堀が送りバントを決めて一死三塁、ここで田中はスクイズを警戒しバントの名手である吉見を敬遠する。一死一、三塁で田中は伝令を出し、追い込んで打たせて併殺にとるか、スクイズを外す作戦を伝える[31]。しかし、初球は見送るとの田中の読みと異なり、星加は澤田のサイン通り初球から一塁側へプッシュ気味のセーフティースクイズを決めて矢野がホームインし、勝ち越しの4点目を奪った[31]。スクイズバントの際、ボールを捕った一塁手の本多がバックホームするか一瞬迷ってから一塁へ送球したため、星加も一塁セーフ(記録は内野安打)で一、二塁となり、ここで熊本工が最も警戒していた3番の今井がバッターボックスに入る。今まで田中の指示通りの投球でヒット1本に押さえていた園村だったが、スクイズを決められたことで緊張の糸が切れており、3球目の甘いカーブを右翼フェンス直撃の二塁打とされ[52]、走者一掃を許し6-3と大きく離された[31]。
11回裏、熊本工は無死から西本が一塁強襲による失策で出塁、守備から入った井の代打木下の一塁ゴロの間に二塁に進んだ。続く澤村は9回に続きまたも左翼方向に打球を打ち上げたが平凡なフライに終わり、最後の打者・境は三振、6-3で松山商が勝利した。3時間5分の激闘を制した松山商は、三沢高校との延長18回引き分け再試合以来27年ぶり5回目の全国制覇を果たした[53]。松山商は、春・夏を通じ「大正」「昭和」「平成」の3つの元号で優勝を達成した唯一の高校となっている[44]。
試合の評価
[編集]この伝統校同士の激闘[28]は、高校野球の歴史に残る「平成の名勝負」と呼ばれた[48][54]。特に矢野の返球は「奇跡のバックホーム」と呼ばれ、球史に残る名場面として語り継がれている[1][18][54][55][56][49]。負けた田中監督も「高校生であんな返球は見たことがない」と驚嘆するほどだった[57]。
27年前、延長18回を戦った松山商の元投手で朝日新聞記者としてこの試合を取材中だった井上明も、このバックホームには身震いしたと語った[58][44]。当時中日ドラゴンズの中軸打者だったアロンゾ・パウエルは、「今まで見た中で最高のプレー」と語っている[59]。ただし、矢野と同じ右翼手である福留孝介はこのバックホームについて暴投に過ぎないと分析している[60]。
矢野のバックホームが大きく取り上げられる傾向にあるが、9回裏二死からの1年生・澤村による同点ホームランや[29]、犠牲フライ直前のライトの矢野への交代、そして11回表は、矢野の打球が澤村の前に飛ぶという奇跡の応酬であったことから[57]、その流れも含めて試合自体が「奇跡」とも言える内容であり[25]、西日本スポーツはこの試合の翌日の8月22日付の新聞に「奇跡合戦」と見出しをつけたほどであった[61]。
熊本工の四番だった西本は後に、九回裏にホームランを打たれた新田を今井がまだ負けていないと抱き起こしたシーンと、延長十回裏に本塁死して倒れ込んだ星子を傍にいた西本を含めだれも手を貸そうとしなかったシーンを比べ、これが松山商と熊本工の違いだったと反省している[62]。
『週刊甲子園の夏』(朝日新聞出版)の読者アンケートで選ばれた「読者が選ぶ夢のナイン」にて 松井秀喜らプロに進んだ名だたる選手に混じり、矢野勝嗣は外野手で選ばれている(プロ未経験では他に小沢章一(早実)、藤井進(宇部商)が選ばれた)[63]。
2015年、造幣局は全国高等学校野球選手権大会100年周年を記念して、「全国高等学校野球選手権大会100周年貨幣セット」の通信販売を行ったが、ケースには年表などとともに名場面の一つとして「奇跡のバックホーム」の写真が掲載されている[64]。
スポーツニッポンの公式サイト「スポニチアネックス」で2015年に募集された「私が選ぶ甲子園名勝負!」では、総数2993票中129票を獲得し、第6位となった[65]。『Sports Graphic Number』で2015年に実施されたアンケート「夏の甲子園 記憶に残る名勝負ベスト100」では第5位にランクインした[66]。
奇跡の舞台裏
[編集]矢野勝嗣
[編集]「奇跡のバックホーム」の主役である矢野勝嗣は、松山商一の強肩ではあったがミスが多く返球もバラバラだった[67]。真面目で練習量はチーム一だったが不器用で本番に弱く、積極性に欠ける選手であり[67][68]、当時の松山商が守備練習の最後に行っていた守備順にノックを受けて返球する「ノーエラーノック」でも、矢野は常日頃からミスを頻発しており、それによってノックが最初からやり直しになったり全員が走らされたりといったことが続いたことから澤田には怒鳴られ、同級生のチームメイトからは部を辞めてほしいとまで言われることもあったという[67]。松山商の外野手のホーム返球は、中継かワンバウンドが決まりであったが、矢野はダイレクトになるミスが多かった[67]。ただし澤田はこの年の6月に、サヨナラの場面では定位置より後ろからはダイレクトに投げるケースもあると外野手に教えていた。澤田本人は忘れていたが矢野自身は覚えており、澤田は真面目な矢野らしい話だと語っている[67][69]。
矢野は、10回裏の「奇跡のバックホーム」と、11回表の初球の二塁打と、たった2球で高校野球生活のすべてを出し切ったとも言え[70]、矢野は高校卒業後「最後に出てきて、いいところだけ持っていった」と当時のチームメイトにからかわれるようになる[44][26]。矢野はテレビ局の取材でこのときのバックホームの再現を試みるも、1球もホームに届かなかった[26]。
矢野は松山大学に進み、3年生でレギュラーとなる[34]。4年生で主将となり、2000年の大学野球選手権に出場している[71]。卒業後、愛媛朝日テレビに入社した[34]。
矢野自身は、活躍できたのは決勝の最後だけであり、失敗が多く消極的な人間なのに、どれだけすごい奴なんだと周囲からみられてそのギャップに悩んだ時期もあったという[70]。しかし年を重ねるにつれあの経験を一生背負っていこうと前向きになり、当時の話も積極的にできるようになったという[72]。矢野は愛媛朝日テレビで長く営業職(主に東京支社営業部)を務めた後、2014年に報道制作局へ異動。2015年4月からは『スーパーJチャンネルえひめ』でスポーツキャスターを務めていた[73]。2016年春より営業職に戻る。
星子崇
[編集]10回裏の三塁走者であった星子崇は秋の新チームでは4番だったが、バントのサインに応じないなどの理由で春から徐々に打順が下がり、夏の大会では8番まで落ちていた[66]。甲子園5試合で14打数8安打、打率5割7分1厘。決勝戦でも4打数3安打であり、8回裏では坂田の犠飛でタッチアップからホームインしている。星子は50mを5秒9で走るチームで一、二を争う俊足を誇る選手であった[57]。星子のタッチアップは慎重過ぎるぐらい慎重に見えた[注釈 3]という意見もある[31]が、星子自身はちょっと早いくらいのスタートだったと語っている[74]。
捕手の石丸は、星子が回り込まず真っ直ぐに走ってきたことに疑問を抱いていたが[75]、星子は、右翼へ上がった打球は浜風に押し戻されるであろうということ、また反対に右翼からの返球は浜風によって通常より伸びるであろうということを意識していたため、最短距離で走るという選択肢をとっていたのであった[76][66]。熊本日日新聞が後にテレビ録画でチェックしたところによると、タッチアップから石丸のミットと接触するまでが約3.5秒であり、普通の選手の4秒前後より早いタイムであった[74]。
星子の同級生はタッチアウトについて何も聞いてこなかったが、大人たちから「走りながらピースしてなかった?」「力を抜いて走った」などと冗談交じりで話しかけられることに耐えられず、取材は全て断った[1][77]。
石丸裕次郎
[編集]捕手の石丸は後に、「新聞や写真集に僕が大きく載ったのは矢野のおかげです。どこのカメラマンも熊工のサヨナラ勝ちのシーンを狙ってましたよね。一番すごいことをやったのは矢野なのに、ライトまで距離が遠過ぎてだれも撮ってないですよね」と語っている[46]。2014年に発売されたDVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』(ベースボール・マガジン社)でも、表紙は石丸がボールの入ったミットを高く差し上げ、星子が両手を広げて「セーフ」とアピールしている場面である。帰ってきた球を受けてアピールしただけと謙遜する石丸は、「日々の努力は報われるものなんだと、矢野のプレーであらためて思った」と語っている[75]。
澤村幸明
[編集]九回裏に起死回生の同点ホームランを打った澤村幸明は、熊本工では緒方耕一以来12年ぶりの1年生レギュラーであり、将来はプロへ行く選手と地元で注目されていた[78]。県大会ではチャンスに強く、打率5割2分9厘で11打点、三振0である[79]。準決勝でも前橋工の斉藤義典から2点タイムリーを打っていた。澤村は9回裏の打席に向かうとき、ベンチの3年生に「初球から狙っていいですか」と尋ね、「行け行け、ホームラン狙え」と激励されたが、当の澤村はそのことを後に記者に尋ねられても覚えていなかった[80]。
11回表の矢野の打球の後逸については、捕れるはずの打球が捕れなかった、中途半端なプレーをしたとその後も悔やんでいる[78]。
澤村は後に「松坂世代」と呼ばれる選手達と同じ1980年度生まれであり、一番初めに頭角を現した選手である[78]。澤村本人も周囲も再び甲子園の土を踏むものと思っていたが、結果的にこれが最初で最後の甲子園となった[78]。
田中美一
[編集]1996年頃、本塁でジャッジする時は送球の延長線上(この場合三塁側)に入るのが基本だった。しかし球審の田中美一は、右翼手からの返球がバットに当たることを回避するために本多のバットを拾いに行った後、星子がタッチアップの準備をしているのを見て延長線上に向かうのは間に合わないと判断し、そのまま一塁側に残ったため、タッチプレーをベストポジションで判断することができた[81]。
一塁塁審だった桂等は試合後、田中になぜ三塁側でなく一塁側に居たのかを尋ねると、田中は本多の打球に引き寄せられるよう、無意識に一塁側へ行った、だからタッチプレーが見えたと答えた[46]。
田中の薫陶を受けた審判員の桑原和彦は、近くでジャッジするためにはプレーを読む力が必要で、これは田中の努力と感性に他ならないと語っている[81]。
中矢信行・愛媛県高野連審判長(2006年次)は、並の審判なら捕手の背中へ回って外側から見るところを、田中は外野からの送球を背中に背負う格好で内側からプレーをジャッジした、お手本の審判であると語った[56]。
田中はこの判定について「最高のジャッジが出来た」と語り、アウトの言い方が厳しいという妻からの問いかけには、審判は選手に全身で伝えないといけないと反論している[注釈 4][49]。「あの判定は生涯最高のジャッジだった」という遺言が、棺の中に収められたという[66]。
このジャッジについて熊本工のファンからは誤審ではないかという声もあったが、1996年8月22日付のスポーツ報知1面には、捕手・石丸が三塁走者・星子にタッチした時、星子のスパイクがホームプレート10cm前にあった写真が掲載された[56]。
熊本工の主将だった野田謙信は後に、「100人が100人セーフだと思うタイミングなのにアウトというのは、よほどの確信があったはずです。すばらしいジャッジですよ」と語った[83]。
田中は奇跡と実力のギャップに悩む矢野に、あのプレーは間違いなくアウトだから自信を持ちなさいと連絡し、矢野はそれで楽になったと述べている[66]。
プロまたは社会人野球に進んだ主な選手
[編集]松山商
[編集]- 吉見宏明は立正大学進学後、三菱ふそう川崎に2年間在籍。プロの夢を捨てきれず退社し、米独立リーグチームと契約する寸前、台湾プロ野球の統一ライオンズの外国人枠に選ばれ、1年間レギュラーとしてプレーし[19]、同リーグのベストナイン(最佳十人)にも選出された。
- 渡部真一郎は駒澤大学へ進むも限界を感じて退部し、そのまま市民球団・松山フェニックスに入団して四番を務めた[84]。
- 星加逸人はNTT四国へ入社するも廃部となったため、松山フェニックスに入団し、2005年秋からは主将を務めた[84]。
- 控え投手としてベンチ入りしていた西山道隆は2005年に四国アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツに入団し、2006年に福岡ソフトバンクホークスに育成選手として入団した。2006年5月23日には支配下選手登録され、26日には育成選手出身として初めて一軍登録されている。
- 石丸裕次郎(駒沢大 - 東芝)[46]
- 新田浩貴(東芝)[30]2003年に引退後、建設会社勤務[85]。
- 久米孝幸(三菱重工広島)[86]。
- 深堀祐輔(明治大 - 東海理化[87])大学では熊本工の遊撃手で主将・野田の1年後輩であった。
熊本工
[編集]- 澤村幸明はその後法政大学へ進み、野球部でショートとセカンドを守り、3年春からレギュラー、4年秋にセカンドでベストナインに選ばれた[80]。澤村はプロを目指していたが、打撃・守備・足のいずれもがまあまあで飛びぬけたものが無かったからか、大学卒業前に監督から「おまえはプロはない」と言われた[78]。卒業後は日本通運へ入社。同社野球部では在籍した13年間全てで都市対抗野球大会に出場(自チーム11回・補強選手2回)、同大会10年連続出場や社会人ベストナインのタイトル獲得など社会人野球を代表する選手として活躍し、2015年限りで現役を退いた[78][88]。2020年より監督に就任[89]。
- 本多大介は青山学院大学に進み、レギュラーにはなれなかったが、3年の時に全日本大学野球選手権大会で優勝している(この時のエースは石川雅規)。卒業後、JR九州に進んだ[42]。
- 野田謙信は明治大学で4年春にセカンドでベストナイン、トヨタ自動車に進むも怪我で退部、退社[11]。熊本の実家へ帰った後、2006年に熊本朝日放送の解説者としてデビューしている[11]。2006年秋からは熊本工で後輩の指導に当たり[90]、その後開新高野球部の監督となっている[91]。
- 坂田光由は境秀之、松山商・向井良介とともに東洋大へ進むも身体を壊したため学生コーチに転身、卒業後の2002年から鈴鹿国際大学野球部のコーチを務めた[62]。2012年1月、野球部の新監督に就任する[92]。
- 園村淳一(本田技研)[4]
- 西本洋介(新日鐵八幡)[62]
- 星子崇は卒業後、松下電器の野球部に在籍するも怪我で2年後に退部し、そのまま退社[74]。熊本へ戻って職を転々とした後に夜の世界に足を踏み入れると、当時のプレーを覚えている人たちのお陰で人脈が広がり、バーなどの経営に乗り出す[1][77]。ただし「アウトの星子」と言われるのが嫌で接客は他人に任せ、野球関係の付き合いは絶っていた[91]。2013年12月、当時経営していたバーに、熊本へ旅行に来て知人から店のことを知った矢野勝嗣が訪れた。高校時代以来の再会に酒は進むも、矢野の「あの話、おれたちに一生ついて回るよな」というつぶやきを聞き、星子は「名刺を渡さなくても覚えてもらえる。お前のおかげで商売できてるんだ」と語った[1]。星子は2014年5月、熊本市でスポーツバー「たっちあっぷ」を開店した。自らがカウンターに立って話をするバーでは当時の決勝のシーンがテレビに映しだされ、壁には星子が着ていた熊本工のユニホームと、矢野が送ってくれた松山商のユニホームが額に入って飾られている[1][77][76]。星子は2015年現在、熊本工野球部の青年部OB会長を務めている[66]。
- 古閑伸吾(ニコニコドー - 住友金属 - 住友金属鹿島 - 鹿島レインボーズ)[93]。
その後
[編集]同年、第41回全国高等学校軟式野球選手権大会では松山商軟式野球部が勝ち進むも、8月30日に行われた決勝では中京商に破れ、史上初の硬式野球部と同時制覇はならなかった[94]。
翌年の第79回全国高等学校野球選手権大会では、両校とも前年に活躍した選手を中心とした布陣で臨んだが、松山商は県予選1回戦敗退、熊本工も県予選2回戦敗退という結果に終わった。
松山商は創立百周年記念の一環として、2001年6月17日に熊本工との招待試合を坊っちゃんスタジアムで行った。ダブルヘッダーで、第一試合は4対2、第二試合は5対2で松山商が勝った[95]。
2015年7月13日、愛媛朝日テレビ開局20周年特番として、熊本朝日放送との共同制作による『高校野球100年 甲子園 奇跡のバックホーム〜今 明かされる20年目の真実〜』が両局で放送された[96][97]。
2016年11月26日、熊本市の藤崎台県営野球場で熊本地震復興支援イベントを兼ねた「熊本工対松山商OB戦」が行われた。試合は9対8で熊本工の勝利。試合後、エキシビジョンとして熊本工・本多のライトへの飛球を松山商・矢野が捕球、そして三塁走者・星子がタッチアップという「奇跡のバックホーム」を再現したが、今回は星子が生還を果たした[98]。
2023年11月25日、松山市の坊ちゃんスタジアムで松山商側が企画し、子どもたちの野球振興を兼ねた再々試合が行われた。試合は8-7で熊本工OBが勝利した。試合後には「奇跡のバックホーム」を再現するセレモニーが行われ、松山商の矢野が熊本工の星子をアウトにし7年前の熊本での借りを返した。
2024年に行われた第106回全国高等学校野球選手権大会の準決勝第一試合9回2死において、関東一高の中堅手・飛田が捕手・熊谷への好返球を見せ、神村学園の二塁走者をアウトにし、関東一高が初の決勝進出を果たしている。奇しくも「奇跡のバックホーム」と同じ8月21日の事であった。[99]
注釈
[編集]- ^ 1つ目は1992年のセンバツ1回戦、対三重戦で延長14回裏一死三塁の場面で勝負してヒットを打たれ、3-4でサヨナラ負けしたこと。2つ目は1993年の夏の愛媛県大会準決勝、対宇和島東で延長12回、一死一、三塁から犠牲フライを打たれて0-1でサヨナラ負けしたこと[35]。
- ^ 打者に進む義務が生じるゴロなどでは、各走者に進塁の義務があるためフォースプレーであるが、フライのタッチアップ時には打者は既にアウトとなっているため、各走者に進塁の義務が生じないことから、タッチプレーが必要である。ただし、この後にこの発言は訂正されている。
- ^ 9回裏の澤村のホームラン後、星加がサードベースを踏んでいないとアピールしたことが原因ではないかと、スポーツライターの二宮清純は推測している[31]。
- ^ 「奇跡のバックホーム」について、1つのプレーに対し「アウト、アウト」と2度アウト宣告してしまったことをのちに審判として悔やんだ[82]というが、桑原和彦はそのような話を聞いたことがないと語っている[81]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 「(あの夏から:上)逃した本塁、今つかむ 奇跡のバックホーム 高校野球」、朝日新聞 西部朝刊、2014年6月29日、39頁。
- ^ a b 「[96夏甲子園]21日優勝戦 古豪対決、決戦の水曜日」、毎日新聞 大阪朝刊、1996年8月21日、22頁。
- ^ a b c d 「第78回全国高校野球選手権大会=決勝戦見どころ 打線上昇の松山商 食い止めるか熊本工投手陣 甲子園」、熊本日日新聞 朝刊、1996年8月21日。
- ^ a b 「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(11)=熊本工・園村淳一投手 2回から必死に投げた」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月11日。
- ^ 津川晋一「伝説のバックホーム 最後の公立校決戦-10年後の邂逅」、矢崎良一企画『甲子園 歴史を変えた9試合』、小学館、2007年4月4日発行、165頁。
- ^ 「[夏の高校野球]熊本工、「九州春夏連覇」に挑戦 重圧無縁のナイン」、毎日新聞 西部朝刊、1996年8月21日。
- ^ a b c 「第78回全国高校野球<第14日>優勝戦展望 総合力で松山商、接戦なら熊本工」、毎日新聞 東京朝刊、1996年8月21日、15頁。
- ^ 「高校野球 熊本予選 決勝 熊本工、4年ぶり14度目の優勝」、日刊スポーツ、1996年7月29日、13頁。
- ^ a b c d 「風を切る2つの白球、再現・熊本工VS松山商(12)=熊本工・田中久幸監督 就任1年目で準優勝」、熊本日日新聞 朝刊、2006年8月12日。
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は必須です。 (説明) - ^ 「「奇跡のバックホーム」克明に 愛媛・熊本朝日共同制作 高校野球100年特番 96年 松山商―熊本工戦検証」、愛媛新聞 朝刊、2015年7月9日。
- ^ あれから20年…「奇跡のバックホーム」再現は生還 両軍集結 - スポーツニッポン、2016年11月27日
- ^ “関東第一 令和版「奇跡のバックホーム」で初決勝!奇しくも…あの“伝説”96年松山商と同じ「8・21」 - スポニチ Sponichi Annex 野球”. スポニチ Sponichi Annex. 2024年8月23日閲覧。