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「アポロ15号」の版間の差分

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| colspan="2" style="padding: 5px 0px; text-align: center; margin: 0 auto;" | [[ファイル:Apollo 15-insignia.png|120px]]
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! style="background-color: #e0ffff; text-align: left; width: 6em;" | ミッション
! style="background-color: #e0ffff; text-align: left; width: 6em;" | 計画
| style="background-color: #e0ffff;"| Apollo 15
| style="background-color: #e0ffff;"| Apollo 15
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! style="text-align: left;" | コールサイン
! style="text-align: left;" | 宇宙船名
| 司令機械船: エンデバー<br />月着陸船: ファルコン
| 司令機械船: エンデバー<br />月着陸船: ファルコン
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| style="background-color: #e0ffff;"| 3名
| style="background-color: #e0ffff;"| 3名
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! style="text-align: left;" | 打上げ
! style="text-align: left;" | 発射日時
| [[1971年]][[7月26日]]<br />13:34:00 ([[協定世界時|UTC]])<br />[[ケネディ宇宙センター]]39番A発射台
| [[1971年]][[7月26日]]<br />13:34:00 ([[協定世界時|UTC]])<br />[[ケネディ宇宙センター]]39番A発射台
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! style="background-color: #e0ffff; text-align: left;" | 標本採集量
! style="background-color: #e0ffff; text-align: left;" | 標本採集量
| style="background-color: #e0ffff;"| 77 kg
| style="background-color: #e0ffff;"| 77&nbsp;kg
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! style="text-align: left;" | 着水
! style="text-align: left;" | 着水日時
| 1971年[[8月7日]]<br />20:45:53 (UTC)<br />北緯26度13分 西経158度13分<br />
| 1971年[[8月7日]]<br />20:45:53 (UTC)<br />北緯26度13分 西経158度13分<br />
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| style="background-color: #e0ffff;" | 145時間12分41秒68
| style="background-color: #e0ffff;" | 145時間12分41秒68
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! style="text-align: left;" | 質量
! style="text-align: left;" | 宇宙船質量
| 司令機械船: 30,370 kg<br />月着陸船: 16,430 kg
| 司令機械船: 30,370&nbsp;kg<br />月着陸船: 16,430&nbsp;kg
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| colspan="2" style="text-align: center; padding: 4px 4px 0px 4px; border-top: #aaa 1px solid;" | [[ファイル:Apollo 15 crew.jpg|210px|]]
| colspan="2" style="text-align: center; padding: 4px 4px 0px 4px; border-top: #aaa 1px solid;" | [[ファイル:Apollo 15 crew.jpg|210px|]]
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|}
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'''アポロ15号'''(あぽろ15ごう、Apollo 15)は[[アポロ計画]]における第9番目の有人飛行ミッション、第4目の月着陸ミッションである。ミッション以前のアポロミッションに比べて科学調査より重視し、月面に長時間滞在することを目指た「Jミッション」の最初のあった。
'''アポロ15号'''は[[アメリカ合衆国]]の[[アポロ計画]]における4目の[[着陸]]飛行である。アメリカ[[有人宇宙飛行]]、これで8回連続で成功収めた。また[[LRV (月面車)|月面車]]を使用し、より長い期間[[月面]]に滞在して科学的探査に重点を置く、いわゆる[[アポロ計画飛行種別一覧|J計画]]がめてこ飛行行われた。


発射は[[1971年]][[7月26日]]、帰還は[[8月7日]]だった。[[NASA]]は15号を、それまでに行われた中で最も成功した有人宇宙飛行であったと表明した<ref>{{cite web |url=http://www.upi.com/Audio/Year_in_Review/Events-of-1971/Apollo-14-and-15/12295509436546-9/ |title=1971 Year in Review: Apollo 14 and 15 |work=UPI.com |publisher=[[United Press International]] |year=1971 |accessdate=July 19, 2013}}</ref>。
== 乗員 ==
*[[デイヴィッド・スコット]]([[ジェミニ8号]]、[[アポロ9号]]に搭乗、船長)
*[[アルフレッド・ウォーデン]](司令船操縦士)
*[[ジェームズ・アーウィン]](月着陸船操縦士)


着陸船「ファルコン」は、月面上[[雨の海]]の中の「Palus Putredinus(腐敗の沼地)」と呼ばれる地域にある[[ハドリー山]]に降り立った。[[デイヴィッド・スコット]](David Scott)船長と[[ジェームズ・アーウィン]](James Irwin)[[アポロ月着陸船|着陸船]]操縦士は月面で3日間を過ごし、18.5時間の[[宇宙遊泳|船外活動]]で77キログラム (170[[ポンド (質量)|ポンド]]) のサンプルを採集した。またこの飛行では初めて月面車が使用され、それまでの徒歩による探査よりもはるかに遠くまで着陸船から離れることを可能にした。一方で[[アポロ司令・機械船|司令船]]「エンデバー」の操縦士アルフレッド・ウォーデン(Alfred Worden)は月上空を周回しながら、[[アポロ司令・機械船|機械船]]の科学機器搭載区画(Science Instrument Module, SIM)に収納されている[[パノラマカメラ]]、[[ガンマ線]][[分光器|分光計]]、[[空中写真|地図作成用写真機]]、[[LIDAR|レーザー高度計]]、[[質量分析法#装置構成|質量分析器]]などを使用して月の表面とその環境に関する詳細な探査をし、さらに飛行の最終段階ではアポロ計画で初となる小型[[衛星]]の放出を行った。
=== 予備乗員 ===
*[[ディック・ゴードン]](船長)
*[[ヴァンス・ブランド]](司令船操縦士)
*[[ハリソン・シュミット]](月着陸船操縦士)


15号は当初の目的を完遂したものの、計画終了後にスコットたちが飛行を記念した切手をめぐってある人物と非公式に金銭的な取引をしていたことが明るみになり、彼らの名誉はいささか傷つくことになった。皮肉なことにこの飛行は初めて月面車を使用したことで後に[[記念切手]]が発行されたが、これは[[マーキュリー計画]]でアメリカ初の有人宇宙飛行が行われてからの10年間での数少ない例のひとつであった。
=== 支援乗員 ===
*[[ジョー・アレン]]
*[[ボブ・パーカー]]
*[[カール・ヘナイズ]]


== ミッション内容 ==
== 搭乗員 ==
{{Spaceflight crew
*'''質量:'''
|terminology = 飛行士
** '''打上げ時質量:''' 2,921,005 kg
|position1 = 船長
** '''司令機械船:''' 30,354 kg('''司令船:''' 5840 kg, '''機械船:''' 24,514 kg)
|crew1_up = [[デイヴィッド・スコット]](David Scott)
** '''月着陸船:''' 16,428 kg(再上昇時: 4,951 kg)
|flights1_up = 三
* '''地球軌道:''' 往路3周、復路約1周
|position2 = 司令船操縦士
** '''[[近地点]]:''' 169.5 km
|crew2_up = アルフレッド・ウォーデン(Alfred Worden)
** '''[[遠地点]]:''' 171.3 km
|flights2_up = 一
** '''[[軌道傾斜角]]:''' 29.679 度
|position3 = 月着陸船操縦士
** '''[[軌道周期]]:''' 87.84 分
|crew3_up = [[ジェームズ・アーウィン]](James Irwin)
*'''月軌道:''' 74周
|flights3_up = 一
}}


飛行士たちは3人とも[[アメリカ空軍|空軍]]の出身であり、また全員が[[ミシガン大学]]で[[名誉学位]]または[[修士]][[学位]]を授与されていた。スコットが名誉学位を授与されたのは1971年春で、発射の1ヶ月前のことだった。彼はかつてミシガン大学に在籍していたが、[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)| 陸軍士官学校]]からの招待を受けたために同大学を中退していた。飛行士たちは陸軍または[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)| 海軍兵学校]]で学業を行っていた。
=== 月着陸船ドッキング ===
*'''分離''': [[1971年]][[7月30日]]18時13分16秒 (UTC)
*'''ドッキング''': 1971年[[8月2日]]19時10分25秒 (UTC)


=== 船外活動 ===
=== 予備搭乗員 ===
{{Spaceflight crew
====船上待機====
|terminology = 飛行士
*'''スコット'''(月着陸船上部ハッチ部分で待機)
|position1 = 船長
*'''開始時刻''': 1971年[[7月31日]]00時16分49秒 (UTC)
|crew1_up = リチャード・ゴードン Jr.(Richard F. Gordon, Jr.)
*'''終了時刻''': 1971年7月31日00時49分56秒 (UTC)
|position2 = 司令船操縦士
*'''活動時間''': 33分07秒
|crew2_up = ヴァンス・ブランド(Vance D. Brand)
|position3 = 月着陸船操縦士
|crew3_up = [[ハリソン・シュミット]](Harrison Schmitt)
}}


シュミットは「グループ4」と呼ばれる、アポロ計画のために選出された科学者を中心とする[[宇宙飛行士]]のメンバーの一人であった。グループ4から[[月]]に行ったのは彼だけで、[[1972年]]の[[アポロ17号|17号]]で飛行した。
====EVA 1====
* '''スコット、アーウィン'''
*'''開始時刻''': 1971年7月31日13時12分17秒 (UTC)
*'''終了時刻''': 1971年7月31日19時45分59秒 (UTC)
*'''活動時間''': 6時間32分42秒


====EVA 2====
=== 支援飛行士 ===
* ゴードン・フラートン(C. Gordon Fullerton)
* '''スコット、アーウィン'''
* ジョセフ・アレン(Joseph P. Allen)
*'''開始時刻''': 1971年[[8月1日]]11時48分48秒 (UTC)
* ロバート・パーカー(Robert A. Parker)
*'''終了時刻''': 1971年8月1日19時01分02秒 (UTC)
* カール・ゴードン・ヘナイズ(Karl Gordon Henize)
*'''活動時間''': 7時間12分14秒


====EVA 3====
=== 飛行主任 ===
* ジェリー・グリフィン(Gerry Griffin)、金色チーム主任
* '''スコット、アーウィン'''
* ミルトン・ウィンドラー(Milton Windler)、栗色チーム主任
*'''開始時刻''': 1971年[[8月2日]]08時52分14秒 (UTC)
* グリン・ランネイ(Glynn Lunney)、黒チーム主任
*'''終了時刻''': 1971年8月2日13時42分04秒 (UTC)
* ジーン・クランツ(Gene Kranz)、白チーム主任
*'''活動時間''': 4時間49分50秒


====EVA 4====
== 諸数値 ==
* '''質量''':
* '''ウォーデン'''(地球帰還軌道上)
** 発射重量:2,945,816&nbsp;kg
*'''開始時刻''': 1971年[[8月5日]]15時31分12秒 (UTC)
** 宇宙船総重量:46,782&nbsp;kg
*'''終了時刻''': 1971年8月5日16時10分19秒 (UTC)
*** 司令・機械船重量:30,354&nbsp;kg、うち司令船5840&nbsp;kg、機械船24,523&nbsp;kg
*'''活動時間''': 39分07秒
*** 着陸船重量:16,428&nbsp;kg、上昇段の月面からの発射時重量4,951&nbsp;kg
* '''地球周回回数''':出発時3周、帰還時約1周
*'''月周回回数''':74周


=== 地球周回待機軌道 ===
==概要==
* '''[[近地点]]''':169.5&nbsp;km
* '''[[遠地点]]''':171.3&nbsp;km
* '''[[軌道傾斜角]]''':29.679度
* '''軌道周回時間''':87.84分


=== 司令・機械船と着陸船のドッキング ===
船長の[[デイヴィッド・スコット]]と月着陸船操縦士の[[ジェームズ・アーウィン]]は月面に3日間滞在し、月面船外活動で合計約18時間半を船外で過ごした。アポロ15号は[[月の海]]以外の場所に着陸した初めてのミッションで、[[雨の海]]地方の[[ハドレー谷]]の近く、''Palus Putredinus''(腐敗の沼)と呼ばれる地点に着陸した。二人の飛行士は初めて[[LRV (月面車)|月面車]]を使って付近を探査し、以前のアポロミッションよりもずっと遠くの場所まで移動することができた。彼らは合計77kgの月面試料を採集した。
* '''[[ドッキング]]切り離し''':1971年[[7月30日]] 18:13:16 UTC
* '''再ドッキング''':1971年[[8月2日]] 19:10:25 UTC


=== 船外活動 ===
一方、[[月周回軌道]]上の司令船操縦士[[アルフレッド・ウォーデン]]は科学実験装置モジュール (SIM) を用いて月面の調査を行ない、パノラマカメラや[[ガンマ線]][[分光計]]、マッピングカメラ、レーザー[[高度計]]、[[質量分析器]]などを用いて月面環境を詳細に調べた。ミッションの最後には月を周回する孫衛星の打ち上げも行なった。
* '''''スコット''''' – 立哨船外活動 (司令船とのドッキングトンネルから顔を出し、月面を観察する船外活動)
* '''立哨開始''':[[7月31日]] 00:16:49 UTC
* '''立哨終了''':7月31日 00:49:56 UTC
* '''時間''':33分07秒


* '''''スコットおよびアーウィン''''' – 第1回船外活動
三人の宇宙飛行士たち全員が[[ミシガン大学]]の学位を持っていた。
* '''第1回船外活動開始''':7月31日 13:12:17 UTC
* '''第1回船外活動終了''':7月31日 19:45:59 UTC
* '''時間''':6時間32分42秒


* '''''スコットおよびアーウィン''''' – 第2回船外活動
==ミッションのハイライト==
* '''第2回船外活動開始''':[[8月1日]] 11:48:48 UTC
* '''第2回船外活動終了''':8月1日 19:01:02 UTC
* '''時間''':7時間12分14秒


* '''''スコットおよびアーウィン''''' – 第3回船外活動
===障害事象===
* '''第3回船外活動開始''':8月2日 08:52:14 UTC
* '''第3回船外活動終了''':8月2日 13:42:04 UTC
* '''時間''':4時間49分50秒


* '''''ウォーデン''''' (アーウィンが立哨し) 地球に中継する第4回船外活動
打上げ時の第1段分離の直後、第1段に搭載されていた装置が機能を喪失した。調査の結果、これは第2段エンジンの排気が第1段を直撃して電気回路が焼けたために起こったことが判明した。このような事象はこれ以前には発生した例がなかった。この原因は逆推進ロケットの装填数を8個から4個に減らしたためであることが後に分かった。分離時に実際に第1段と第2段が不自然なほど接近していたことが分かっており、これは第1段に搭載されている[[F-1エンジン]]の推力の減衰が遅かったことと逆推進ロケットのうちの一つが正常に働かなかったことによって双方の衝突を引き起こしたものと考えられた。これ以降の飛行では逆推進ロケットは開発当初の装填数に戻された。
* '''第4回船外活動開始''':[[8月5日]] 15:31:12 UTC
* '''第4回船外活動終了''':8月5日 16:10:19 UTC
* '''時間''':0時間39分07秒


===計画訓練===
== 計画訓練 ==
[[ファイル:Apollo 15 commander Dave Scott geology training.jpg|thumb|250px|1971年3月19日、ニューメキシコで地質学の実地訓練を受けデイヴィッド・スコット船長]]
[[Image:Apollo 15 commander Dave Scott geology training.jpg|thumb|250px|[[ニューメキシコ]][[地質学]]的探査の訓練をるスコット船長。1971年[[3月19日]]]]
スコット船長らは、[[アポロ12号]]では予備搭乗員を務めていた。彼らは全員[[アメリカ空軍|空軍]]出身であり、全員が[[アメリカ海軍|海軍]]出身だった本搭乗員たちとはライバル心を発揮したが、同時に良い協力関係にあった。


15号は当初は12号、[[アポロ13号|13号]]、[[アポロ14号|14号]]と同様に[[アポロ計画飛行種別一覧|H計画]]として飛行する予定だったが、NASAは[[1970年]][[9月2日]]、アポロ計画を17号までで終了することを発表した。このため15号は計画の効果を最大限に高めるべく、[[アポロ計画飛行種別一覧|J計画]]として飛行することとなった。
アポロ15号の乗員は過去に[[アポロ12号]]の予備乗員だったメンバーである。12号の正乗員が全員[[アメリカ海軍|海軍]]の出身者であった一方、予備乗員は全員が[[アメリカ空軍|空軍]]の出身で、両者の間には友好的ながらも競争意識があった。


これにより15号の訓練も、いくつかの点で変更が加えられることになった。その中の1つが[[地質学]]的探査の訓練であった。地質学の探査はそれ以前にも行われていたが、15号は初めてこの点に最も高い優先度を置く飛行となった。スコットとアーウィンは、[[カリフォルニア工科大学]]の地質学者で特に[[先カンブリア時代]]の専門家であるレオン・シルバー(Leon Silver)と共に訓練をすることになった。シルバーは宇宙飛行士のハリソン・シュミットから、NASAが以前に雇っていた講師の代わりをやらないかと打診されていた。彼は[[年代測定]]法、中でも[[ウラン]]が[[鉛]]に[[崩壊系列|崩壊]]する過程を計測することで石の年代を特定する手法の改善で、1950年代に大きな貢献をしていたのである。
当初の計画ではアポロ15号は12号、[[アポロ13号|13号]]、[[アポロ14号|14号]]と同様の「Hミッション」となる予定だった。しかしアポロ13号ミッション終了後の[[1970年]][[9月2日]]に NASA は、当初予定での15号と19号のミッションを中止すると発表した。これに伴って残りのミッションでの成果を最大限に得るため、新たにアポロ15号は科学調査主体の「Jミッション」として飛行することになり、月面車を使用した初ミッションという栄誉を得ることとなった。


当初シルバーは、本搭乗員と予備搭乗員たちを[[アリゾナ]]や[[ニューメキシコ]]の様々な学問的研究用地に連れて行き、普通の地質学の授業のような訓練をするつもりだったが、発射が近づくにつれてその訓練はより現実に近いものになっていった。飛行士たちは船外活動で使用する[[生命維持装置]]の模型を背負い、テントにいるCAPCOM(宇宙船連絡員)たちと[[ウォーキートーキー]]で会話した(CAPCOMは宇宙船との交信を担当する管制官で、同僚の宇宙飛行士が務める。また通常は、飛行士たちとの会話は彼らしかすることができない)。さらにCAPCOMには、飛行士たちの発言を地質学という彼らにとって不案内な分野での表現に翻訳するための補助として、地質学者のグループが伴っていた。
計画変更に伴って15号チームの訓練に生じた変更点の大きな一つは[[地質学]]の訓練であった。これ以前の飛行でも乗員は野外地質学の訓練を受けていたが、15号では初めてこの訓練が優先的に行なわれることになった。スコットとアーウィンは[[先カンブリア時代]]を専門とする[[カリフォルニア工科大学]]の地質学者[[リー・シルバー]]から訓練を受けた。シルバーは後に[[アポロ17号]]に搭乗する地質学者[[ハリソン・シュミット]]が、それまで NASA が任用していた地質学の講師に代えて推薦した人物だった。シルバーは数々の業績の中で特に、[[1950年代]]後半に、岩石中の[[ウラン]]の[[同位体]]が[[鉛]]に[[放射性崩壊|崩壊]]する現象を用いて岩石の[[年代測定]]を行なう手法の重要な改良を行なった仕事で知られていた。


ハドリー山への着陸は1970年9月に決定した。着陸地点の選考委員会は、候補地をハドリー裂溝とマリウス(Marius)[[クレーター]]の2つに絞っていた。マリウスの近くには、おそらくは[[溶岩円頂丘|溶岩ドーム]]と思われる低い小丘が数多くあった。スコット船長は最終的な決定権こそなかったものの、候補地の選定には大きな発言権を持っていた。彼にとってはハドリー山を選択した理由は明確で、「探検するには最高の場所」だったからであった。
最初シルバーは普通の野外地質学の講義と同様に、15号の正乗員と予備乗員を様々な地質学的特徴のある場所に連れて行った。しかし打上げが近づくにつれてこういった野外調査は次第に現実的なものになった。乗員達は月面で使用するバックパックの模型を背負い、テントにいる交信担当管制官と[[トランシーバー]]で通信を行なった(ミッションの間は通常、宇宙船交信担当官 (Capsule Communicator; CapCom) が乗員との会話を行なう唯一の係となる)。ミッションの本番では地質学者のグループが交信担当官となり、宇宙飛行士の説明を頼りに調査地域の状態を把握することになる。


一方で司令船操縦士のウォーデンは違う訓練を積んでいた。彼は[[エジプト]]生まれの地質学者ファルー・エルバズ(Farouk El-Baz)と行動を共にし、司令船が月を周回する状況を模して飛行機で訓練地の上空を飛び、空から眼下を通り過ぎる月面の地形を観測することにおいて高い技術を習得した。
15号でハドレー谷付近に着陸するという決定は1970年9月になされた。着陸地点選定委員会は着陸地点をハドレー谷と[[マリウス]]・クレーターの2ヶ所に絞っていた。これらの近くには火山性のものと思われる低いドーム状の地形が点在していたためである。アポロミッションではミッションの船長の意向が最終決定ではないものの常に強い影響力を持っていた。15号のデイヴィッド・スコットの選択は明快で、ハドレー谷を詳細に探査することを希望した。


== 計画の焦点 ==
司令船操縦士のアルフレッド・ウォーデンも地質学の訓練を受けたが、彼の訓練はやや異なるものだった。彼はエジプト人の[[ファールーク・エル=バズ]]とともに飛行機で様々な地域を飛行し、[[月周回軌道上]]の司令機械船から見た時に月面の地表が流れていく速度を想定した訓練を受けた。この訓練によって彼は眼下を通り過ぎる物体の観察にかなり熟練した。
=== 発射から月遷移軌道まで ===
[[File:Apollo 15 launch.jpg|thumb|right|15号の発射。1971年7月26日]]
15号は1971年7月26日午前9時34分 ([[東部標準時|米東部標準時]])、[[フロリダ州]][[ケープ・カナベラル]]の[[ケネディ宇宙センター]]から発射された。打ち上げの途中で[[サターンV|サターン5型ロケット]]第1段[[S-IC]]の[[ロケットエンジン]]は、1段目が切り離されたあとも4秒間にわたって噴射を続けた。このとき第2段[[S-II]]の排気ガスはS-ICの遠隔操作の機器を直撃していたので、まかり間違えば第1段と第2段が衝突して打ち上げが中止されるところであった。このような不具合はあったものの、第3段[[S-IVB]]と宇宙船は無事に[[地球周回軌道]]に到達した。発射から2時間後、S-IVBのエンジンが再点火され15号は地球周回軌道を離れ月への[[ホーマン遷移軌道|遷移軌道]]へと投入された<ref name=alfj>{{cite web |url=http://history.nasa.gov/ap15fj/ |title=Apollo 15 Flight Journal |last1=Woods |first1=W. David |last2=O'Brien |first2=Frank |work=Apollo 15 Flight Journal |publisher=NASA |accessdate=July 14, 2011 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110720232257/http://history.nasa.gov/ap15fj/ |archivedate=July 20, 2011 <!--DASHBot-->|deadurl=no}}</ref>。


発射から2日後、宇宙船は[[月の裏|月の裏側]]を通過した。そこで機械船の推進エンジン(Service Propulsion System, SPS)が6分間にわたって噴射され、宇宙船は第1段階の[[月周回軌道]]に投入された。[[近点・遠点|近月点]]を通過したとき、着陸船をハドリー山に降下させるための適正な軌道に修正すべくSPSエンジンが再度点火された<ref name=alfj/>。
===ハードウェア===


=== 着陸 ===
アポロ15号で初めて使用された[[月面車]]は[[ボーイング]]社が受注して1969年5月に開発された(ボーイングは[[サターンVロケット]]の第2段 ([[S-II]]) の開発企業でもあった)。月面車は格納時には 1.5m &times; 0.5m のサイズに折り畳むことができた。無負荷時の重量は 209kg で飛行士2名と装置類を搭載した場合の重量は 700kg であった。各車輪は独立駆動で、電動モータにより各 1/4 [[馬力]] (200W) の出力を発生した。車の操縦はどちらの飛行士も可能なようになっていたが、通常は船長が操縦した。移動速度は約 10-12km/h で、これにより飛行士は初めて着陸地点から遠く離れた場所まで移動し、なおかつ十分な時間を科学調査に費やすことができるようになった。
15号は7月30日に月周回軌道に到達した。初日のほとんどは、その後に控えている着陸船降下の準備に費やされた。準備が完了すると司令・機械船との切り離しが試みられたが、ハッチの気密構造に不具合が生じたため切り離しは成功しなかった。司令船操縦士のウォーデンがハッチを再度密封すると、今度は無事に司令・機械船から離れはじめた。スコットとアーウィンが降下の準備を続ける一方でウォーデンは司令船に残り、上空からの月面観測を行うために高度を上げ、数日後の同僚たちの帰還に備えた<ref name=astronautix>{{cite web |last=Wade |first=Mark |title=Apollo 15 |url=http://www.astronautix.com/flights/apollo15.htm |publisher=[[Encyclopedia Astronautica]] |accessdate=July 14, 2011}}</ref><ref group=ALSJ name=landing>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a15/a15.landing.html |title=Landing at Hadley |year=1996 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 15 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=July 14, 2011}}</ref>。


ストットとアーウィンはただちにハドリー山に向けて降下を始めた。降下開始から数分後、着陸船ファルコンがピッチオーバー(姿勢を徐々に垂直状態にすること)して着陸地点へのアプローチに入ったとき、ファルコンはまだ目標地点から6キロメートルも東にいたため、スコットは急遽飛行経路を変更した。7月30日 22時16分29秒(UTC)、15号はハドリー山に到着した。着陸地点は、当初の目標からわずか数百メートルしか離れていなかった。[[アポロ11号]]では、[[ニール・アームストロング|アームストロング]]船長らは着陸直後は興奮して眠れなかったためただちに船外活動を開始したが、15号では翌日に備えて休息することを選択した。彼らはこの後、それ以前のどの飛行よりも長い時間月面に滞在し、3回にわたって船外活動をしなければならなかったため、睡眠のリズムを崩したくなかったのである。ただし就寝する前、スコットは船内を減圧して上部にあるドッキング用ハッチを開き、そこから顔を出して周囲の写真撮影をした(立哨船外活動)<ref name=astronautix/><ref group=ALSJ name=landing/><ref group=ALSJ name=seva>{{cite web |title=Stand-Up EVA |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a15/a15.seva.html |year=1996 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 15 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=July 14, 2011}}</ref>。
アポロ15号を打ち上げたサターンVロケットは SA-510 と呼ばれ、同型機で10機目の実飛行機体だった。15号の司令機械船は CSM-112 で、[[ジェームズ・クック|キャプテン・クック]]の南太平洋探検の第一回航海の帆船[[エンデバー (帆船)|エンデバー号]]にちなんで、コールサインはエンデバー (Endeavour) と命名された。月着陸船は LM-10 でコールサインは空軍学校のマスコットにちなんでファルコン (Falcon) と命名された。当初の計画に基づくHミッションでのアポロ15号には CSM-111 と LM-9 が使用される予定だった。この CSM-111 司令機械船は[[アポロ・ソユーズテスト計画]]で使用され、月着陸船 LM-9 は未使用のまま現在は[[ケネディ宇宙センター]]に展示されている。


=== 月面 ===
アポロ計画のロケットの[[ペイロード]]が重量化するにつれて、ロケットの打上げ軌道やサターンV自身にも変更が加えられるようになった。ロケットはより南寄りの方角([[方位角]] 80-100 度)へ打ち出されるようになり、地球周回軌道は高度166kmまで引き下げられた。これら二点の変更により、従来より 500kg 余計に打ち上げられるようになった。ロケットの[[推進剤]]の余裕分も削減され、第1段 ([[S-IC]]) の逆推進ロケットも8個から4個に減らされた。第1段の5基のエンジンのうち先に燃焼停止する中央の1基と分離直前まで燃焼する外側の4基の両方ともに燃焼時間が延長された。また第2段 ([[S-II]]) にも[[ポゴ振動]]を抑えるための改良が加えられた。
[[File:Apollo 15 flag, rover, LM, Irwin.jpg|thumb|right|[[星条旗]]の前で敬礼するアーウィン飛行士。1971年8月1日]]
[[File:Lunar Olivine Basalt 15555 from Apollo 15 in National Museum of Natural History.jpg|thumb|15号が採集した[[カンラン石]][[玄武岩]]]]
彼らが就寝している間、[[ヒューストン]]の管制センターでは[[酸素]]がゆっくりとだが、確実に漏れていることをずっと検知していた。宇宙船に搭載されているコンピューターから遠隔測定でデータを読み出すことは、その夜は電力節約のために限度があり、管制センターは飛行士たちを起こさなければ正確な原因を特定することができなかった。結局スコットとアーウィンは予定よりも1時間早く起こされ、酸素漏れの原因は尿浄化装置のバルブの1つが「開」になっていたからであることを突き止めた。問題解決後、飛行士たちは船外活動の準備を始めた<ref group=ALSJ name=eva1wake>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a15/a15.eva1wake.html |title=Wake-up for EVA-1 |year=1996 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 15 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=July 18, 2011}}</ref>。


4時間後、スコットとアーウィンは史上7番目と8番目に月面に降り立った人間となった。2人は着陸船の格納庫から月面車を取り出すと、最初の船外活動の目的地であるハドリー裂溝の縁にあるエルボー(Elbow)[[クレーター]]へと向かった。着陸船に戻ると、「アポロ月面実験装置群(Apollo Lunar Surface Experiments Package, ALSEP)」を展開した。第1回船外活動は、およそ6時間半で終了した<ref name=astronautix/><ref name=summaryalsj group=ALSJ>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a15/a15.summary.html |title=Mountains of the Moon |last=Jones |first=Eric M. |year=1995 |work=Apollo 15 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |type=Essay |accessdate=June 28, 2011}}</ref>。
月着陸船では燃料と酸化剤のタンクが下降ステージ・上昇ステージともに大きくなり、下降ステージのエンジンスカートも延長された。また電力供給を増やすためにバッテリーと[[太陽電池]]が追加された。これらの変更によって月着陸船の重量は約 16,330 kg となり、従来より 1,800 kg 増加した。


2日目の目標地点はモンス・ハドレイ・デルタ(Mons Hadley Delta)と呼ばれる小山で、両名はそこで[[アペニン山脈 (月)|アペニン山脈]]周辺にあるクレーターで石を採集した。またこのとき彼らはアポロ計画で後に最も有名になる、サンプル番号15415番、通称「[[ジェネシス・ロック|創世記の石]] (ジェネシス・ロック)」を発見した。着陸船に戻ってからも、スコットは前日苦労したALSEP設置場所での[[ボーリング]]作業に取り組んだ。[[土質力学]]的実験を行った後、2人は月面に[[星条旗]]を立て着陸船に帰還した。第2回船外活動は7時間12分で終了した<ref name=astronautix/><ref name=summaryalsj group=ALSJ/>。
さらに15号から宇宙飛行士も新型の[[宇宙服]]を着るようになった。これ以前のアポロの飛行では、月へ向かわなかった飛行も含めて船長と月着陸船操縦士は生命維持装置と水冷装備、通信ケーブルの3つのコネクタがそれぞれ2列に並んで付いている宇宙服を着ていた。アポロ15号では A7L-B と呼ばれる新しい宇宙服が採用され、これにはこれらのコネクタが三角形に配置されていた。このコネクタの配置変更と、着用[[ジッパー]]の位置変更(旧型では上下に動かすタイプだったのを右肩から左の臀部へ斜めに配置した)によって、宇宙服のウエストに新たにジョイントを付けることが可能になり、これによって飛行士は体を完全に折り曲げたり月面車に座ったりすることができるようになった。またバックパックも長時間の月面歩行用に改良された。司令船操縦士は以前は5個のコネクタが付いた宇宙服を着用していたが、15号からは地球への帰還軌道上で機械船からフィルムカートリッジを回収する軌道上船外活動が予定されたため、水冷用コネクタを省略したコネクタ3個の新型宇宙服を着ることになった。


最後となる第3日目の船外活動では、再びハドレー裂溝の縁を探索した。今回は着陸地点のすぐ北西にある場所が目標だった。着陸船のそばに戻ると、スコットはテレビカメラの前で実験を披露した。同じ[[重力場]]の中にある物は、([[空気抵抗]]がなければ) [[質量]]の大小に関わらず同じ速度で落下するという[[ガリレオ]]の法則を実証しようとしたのである。スコットは両手に羽根とハンマーを持ち、同時に手を離した。空気抵抗を受けない月面上では、両者はガリレオの法則どおり同時に月面に落下した。その後スコットは月面車を着陸船から離れた場所に移動させた。このあと管制官が地上からの遠隔操作で月面車に搭載されているテレビカメラを動かし、着陸船が離陸する場面を撮影するというのである。さらに彼は、[[Fallen Astronaut|宇宙飛行士慰霊碑]]を月面に置いた。その表面には、1971年当時までに命を落とした[[ソ連]]と[[アメリカ]]の宇宙飛行士たちの名前が刻まれていた。第3回船外活動は4時間50分で終了した<ref name=astronautix/><ref name=summaryalsj group=ALSJ/>。
[[ファイル:Apollo 15 SIM bay.jpg|thumb|アポロ15号機械船の SIM ベイ (NASA)]]


船外活動の総計時間は18.5時間で、採集したサンプルは合計で約77キログラム(170ポンド)であった<ref name=summaryalsj group=ALSJ/>。
ケネディ宇宙センターの技術者は科学実験装置モジュール (SIM) ベイについて多くの問題を抱えていた。SIM ベイは15号で初めて搭載されたが、開発当初から問題に直面した。問題は、これらの装置が[[無重量状態|無重力]]環境で使用するように設計されているにもかかわらず、地上の1[[重力加速度|G]]環境でテストせざるを得ないところにあった。質量分析器やガンマ線分光計など、7.5m のブームを伸ばす機器の試験では、宇宙環境を模擬するガイドレールを用いたテストしか行なえず、このような条件ではうまく動作しなかった。ガンマ線分光計のテストを行なった際にはテスト場所の半径16km以内にある全てのエンジンを停止させなければならなかった。


=== 地球への帰還 ===
全ての装備がサターンVロケットに取り付けられると、ロケットは39A発射台へと移動した。1971年6月下旬から7月初旬にかけて、ロケットと移動式整備塔には少なくとも4回の[[落雷]]があったがいずれも小規模な被害で済んだ。
[[File:Apollo 15 descends to splashdown.jpg|thumb|right|パラシュート2本のみを開いて太平洋に着水する15号。1971年8月7日]]
着陸から2日と18時間後、ファルコンの上昇段は月面から離陸し、軌道上で待機するウォーデンが乗る司令・機械船との[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]と再ドッキングを行った。採集したサンプルや様々な物品を司令船に移し替えた後、着陸船は切り離され[[地震]]観測のため故意に月面に衝突させられた。三飛行士はその後も月周回軌道上からさらなる月面の観測を行い、小型衛星を放出した。すべての任務が完了すると、軌道から脱出するためSPSエンジンを点火した<ref name=alfj/>。


翌日、地球からの帰路で、ウォーデンは深宇宙での船外活動を行った。この種の活動が行われるのは史上初めてのことで、目的は機械船のSIM(科学機器搭載区画)に収納されていた露光フィルムを回収することであった。この日の終わりに彼らはアポロ計画における宇宙最長滞在記録を樹立し、アポロ計画で最も長く宇宙にいた飛行士たちとなった<ref name=wordeneva>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/ap15fj/23day11_worden_eva.htm |title=Day 11: Worden's EVA Day |last1=Woods |first1=W. David |last2=O'Brien |first2=Frank |work=Apollo 15 Flight Journal |publisher=NASA |accessdate=July 14, 2011| archiveurl= http://web.archive.org/web/20110629043034/http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/ap15fj/23day11_worden_eva.htm| archivedate=June 29, 2011 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref>。
===打上げ===
[[ファイル:Apollo 15 launch.ogg]]
アポロ15号は[[1971年]][[7月26日]]午前9時34分00秒([[EDT]])に打ち上げられてから月に到達するまで4日間を要した。地球周回軌道に約2時間滞在した後、サターンVの第3段 ([[S-IVB]]) に再点火されて月へと向かった。


翌8月7日、機械船が切り離され司令船は[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]した。着水の際、3本の[[パラシュート]]のうち1本が開かなかったが、着水に必要なのは2本だけであったため問題はなかった(1本は予備として用意されていた)。12日と7時間11分53秒にわたる任務を完了し、飛行士たちは北太平洋上で回収船[[オキナワ (強襲揚陸艦)|オキナワ]]に収容された<ref name=alfj/><ref name=astronautix/>。
司令機械船の下部に格納されている月着陸船を引き出す作業中、制御パネルに機械船推進系のバルブが開いており、エンジンが点火している旨を表すランプが点灯した。しばらくしてエンジンの冗長バルブを制御するスイッチの一つがショートしているのが見つかり、これに対処するための対策が講じられた。スコットとアーウィンが月着陸船を最初に点検した際には、テープメータのガラスカバーが割れているのが見つかり、ガラスの破片を吸い込まないように掃除しなければならなかった。


== 機器 ==
打上げから4日目に彼らは[[月周回軌道]]に入り、月面降下の準備に入った。
=== 宇宙船 ===
15号の司令・機械船は、CSM-112と呼ばれるモデルを使用していた。船名は「エンデバー」で、由来は[[イギリス]]の[[帆船]][[エンデバー (帆船)|エンデバー号]]であった。また着陸船LM-10は[[空軍士官学校 (アメリカ合衆国)|空軍士官学校]]を象徴する鳥にちなんで「ファルコン ([[ハヤブサ]])」と名づけられた。もし15号がH計画として飛行していれば司令・機械船にはCSM-111が、着陸船にはLM-9が使用されることになっていた。CSM-111は[[1975年]]に[[アポロ・ソユーズテスト計画]]で使用されたが、LM-9は結局使われることはなく、現在{{いつ|date=2014年9月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->はケネディ宇宙センターの来訪者施設に展示されている。[[Image:Apollo 15 SIM bay.jpg|thumb|15号の科学機器搭載区画(SIM)]]


再突入後、3本あるパラシュートのうちの1本が展開した後にもつれてしまったが、安全に着水するには2本あれば十分だった。エンデバーは無事に帰還し、すべての任務は成功裏に終了した。
===月周回軌道での作業===


司令船のSIMが宇宙で使用されるのは今回が初めてのことであり、ケネディ宇宙センターの技術者たちは最初の時点から多くの問題を抱えていた。その最大の原因は、SIMは[[無重量状態|無重力]]の状態で使用するように設計されているにもかかわらず、整備や試験は地上の1[[重力加速度|G]]の状況下で行わざるを得ないという事実にあった。たとえばガンマ線分光計や質量分析器は長さ7.5メートルの支持棒の先に取りつけられており、試験の際にはレールの上を移動させて無重力状態を再現しようとしたのだが、あまりうまくはいかなかった。すべての機器を宇宙船に収めようとすると、今度はデータの[[ストリーム (プログラミング)|ストリーミング]]が同期しないという問題が発生したため、技術者らは設計の変更と最終的な試験を行うことを望んだ。またガンマ線分光計の試験をする際には、半径10[[マイル]](16キロメートル)以内にいるすべての車のエンジンを停止させなければならなかった。
スコットとアーウィンが月面で3日間にわたって探査を行なう間、ウォーデンは多忙な観測スケジュールをこなした。アポロ15号は SIM ベイを搭載した初めてのミッションで、このモジュールにはパノラマカメラ、ガンマ線分光器、マッピングカメラ、レーザー高度計、質量分析器などが含まれていた。ウォーデンはカメラのシャッターやレンズを操作したり、様々な機器のスイッチを入れたり切ったりしなければならなかった。地球への帰還途中には、ウォーデンは船外活動を行なってカメラからフィルムカセットを回収した。


着陸船については、上昇段と下降段の両方で[[燃料]]と[[酸化剤]]のタンクの容量が増やされ、また下降段の[[ロケットエンジン]]の[[ロケットエンジンノズル|ノズル]]が延長された。さらに[[太陽電池]]を追加したことにより、電力が増強された。これらの改造により、着陸船の装重量はそれまでよりも4,000ポンド (1,800キログラム) 増えて36,000ポンド(16,000キログラム)になった。
===月面での作業===
[[ファイル:Apollo 15 flag, rover, LM, Irwin.jpg|thumb|250px|星条旗に敬礼するジェームズ・アーウィン]]
[[ファイル:Apollo 15 Genesis Rock.jpg|thumb|left|アポロ15号で採集されたジェネシス・ロック]]


司令船エンデバーは、現在{{いつ|date=2014年9月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->は[[オハイオ州]][[デイトン (オハイオ州) |デイトン]]の[[ライト・パターソン空軍基地]]にある[[国立アメリカ空軍博物館]]に展示されている。
アポロ15号は月面で3回の船外活動を行なった初めてのミッションだった。月面の[http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/lunar_sites.html 北緯26度08分、東経3度38分]に着陸した後、スコットは月着陸船の上部ハッチを開けて着陸地点付近の観察を行なった。第1回の船外活動で飛行士二人は月面車に乗ってハドレー・デルタ山の麓に向かった。その後月着陸船に戻ると、二人はアポロ月面実験パッケージ (ALSEP) の展開を始めた。スコットは熱流実験のために月面にドリルで穴を掘る作業に非常に苦労し、作業を終えるために翌日も穴を掘りに来なくてはならなかった。


=== 月面車 ===
第2回の船外活動でスコットとアーウィンは再びハドレー・デルタ山の麓へ向かったが、この時は山の斜面を上った。ここで彼らは[[ジェネシス・ロック]]と呼ばれる非常に古い岩石を発見した。着陸船に戻ってからスコットは熱流実験用の穴を掘り終え、再び苦労して穴を掘ってコアサンプルを採取した。ここでも彼は翌日まで作業を持ち越さざるを得なかった。
月面車の製作は[[ボーイング]]が担当し、1969年5月から開発が続けられた。5[[フィート]]×20[[インチ]](1.5×0.5メートル)に折り畳むことが可能で、着陸船にはその状態で収納されている。[[乾燥重量]]は460ポンド(209キログラム)、飛行士と機器を搭載したときの重量は1,500ポンド(700キログラム)である。各車輪は[[電動機|電気モーター]]により独立して駆動し、それぞれが¼[[馬力]](200[[ワット|W]])を発揮する。運転は両飛行士ともできることになっているが、実際には常に船長が運転する。最高速度は時速6から8マイル(10~12&キロメートル)で、これにより初めて飛行士は着陸船から遠く離れた場所に移動し、科学実験のための十分な時間を持つことが可能になった<ref name=presskit>{{cite web |url=https://mira.hq.nasa.gov/history/ws/hdmshrc/all/main/DDD/17978.PDF | title=Apollo 15 Press Kit |date=July 15, 1971 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |format=PDF |id=Release No: 71-119K |accessdate=July 14, 2011| archiveurl=http://web.archive.org/web/20110721080114/https://mira.hq.nasa.gov/history/ws/hdmshrc/all/main/DDD/17978.PDF| archivedate=July 21, 2011 <!--DASHBot-->| deadurl=no}}</ref>。


=== 小型衛星 ===
コアサンプルの採取に手間取ったため、北部地域への縦断は中止し、飛行士達はハドレー谷の縁まで遠征した。月着陸船に戻った後、スコットは[[ハヤブサ]]の羽と自分の地質調査用ハンマーとを月面に落とす実験を行い、重力場の下では物体が落下する割合は質量によらないことを示した。
[[Image:Apollo 15 Subsatellite.jpg|thumb|right|小型衛星展開の概念図]]
小型衛星PFS-1は、SIMから月周回軌道に放出された。主な目的は[[プラズマ]]、[[宇宙線]]および月の[[磁場]]環境を調査し、[[月の重力場]]の地図を作成することであった。特にプラズマ、エネルギー粒子の強度、ベクトル磁場の測定には重点を置き、衛星の速度を高精度で追跡することを容易にした。衛星に課せられた基本的な要求は、月周回軌道上のどこからでも磁場や宇宙線のデータが得られることであった<ref name=presskit/>。月は地球から38万キロメートル([[地球半径]]の60倍)の距離をほぼ円形の軌道を描いて周回しているため、衛星は惑星間空間から様々な領域に至るまでの地球の[[磁気圏]]を巡ることができた。PFS-1は1971年[[8月4日]]から[[1973年]]1月までデータを送り続けた。


後年、多数の月周回衛星の軌道を調査した結果、科学者たちは月周回低軌道は不安定なものであることを発見するに至った。PFS-1は幸運なことに、4種類ある月の凍結軌道の近くに放出された。当時の技術者たちは全く知らなかったことなのだが、この軌道上では衛星は半永久的に月を周回し続けることができた<ref name=nasa20061106>{{cite web |title=Bizarre Lunar Orbits |url=http://science.nasa.gov/science-news/science-at-nasa/2006/06nov_loworbit/ |last=Bell |first=Trudy E. |date=November 6, 2006 |editor-last=Phillips |editor-first=Tony |work=Science@NASA |publisher=NASA |accessdate=December 9, 2012 |quote=''月の重力の偏り(mascon)は、ほとんどの低周回衛星の軌道を不安定なものにしている。…50から60マイル上空を周回する衛星は、masconの影響により前後左右に引っ張られる。その正確な方向や引っ張りの強さは衛星の軌道によって異なる。搭載されているロケットで定期的に軌道を修正しなければ、低軌道 (約60マイル、100キロメートル以下) に放出されたほとんどの衛星は最終的には月面に激突することになる。…衛星が半永久的に月を周回し続けることができる「凍結軌道」はいくつかあって、軌道傾斜角が27度、50度、76度、86度のときに発生する—最後のものはほとんど月の極の近くを通ることになる。比較的長期間月を周回した15号の小型衛星PFS-1の軌道は28度で、凍結軌道の一つに近いものだったが、16号のPFS-2はわずか11度だった。''}}</ref>
アポロ15号の月面車には以下のように記された銘板が取り付けられていた。


衛星放出は月軌道での飛行士たちの最後の任務で、地球帰還のためのエンジン噴射の1時間前に行われた。[[アポロ16号]]でも、実質的に全く同一の衛星が放出された。
:MANS FIRST WHEELS ON THE MOON, DELIVERED BY FALCON, JULY 30, 1971


=== 発射機 ===
これにアポロ15号の飛行士のサインが添えられていた。
15号を打ち上げたSA-510は10回目に発射されたサターン5型ロケットで、[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]を拡張するため飛行軌道やロケット本体にいくつかの改良がなされていた。まず発射方向はこれまでよりも南寄り([[方位角]]80~100度)に向けられ、[[宇宙待機軌道|待機軌道]]の高度も166キロメートル(90[[海里]])に下げられた。これらの変更によりペイロードは1,100ポンド(500 キログラム)増加した。また予備燃料も減らされ、さらに第1段S-ICを第2段S-IIから引き離すための[[逆噴射]]ロケットの数も8本から4本にされた。ただし逆噴射ロケットと、第1段F-1の中央エンジンの燃焼時間は延長された(詳細については[[サターンV#S-IC(第一段)飛行手順|サターン5型ロケット]]を参照のこと)。またS-IIについても、[[ロケットエンジン#Pogo振動|pogo振動]]を抑えるための改良がなされた<ref name=presskit/>。


すべての機器が組み込まれた後、サターン5型ロケットは39A発射台に搬送された。1971年の6月下旬から7月上旬にかけて発射台の整備塔は少なくとも4回にわたって[[雷]]の直撃を受けたが、損傷はわずかなものだった。
===地球への帰還===
[[ファイル:ShimadaK2008-Apollo15 Command Module Endeavour at Museum of the US Air ForceP-ICT2563.jpg|thumb|240px|[[国立アメリカ空軍博物館]]に展示されている[[コマンドモジュール]]「エンデバー」]]
月着陸船ファルコンの上昇ステージは月面を離れ、司令機械船エンデバーとの[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]及び[[ドッキング]]を行なった。月面の試料と観測機器を司令船に移した後、ファルコンは投棄された。ファルコンのエンジンが噴射され、月面に衝突させられた。月面を離れる間は合衆国空軍の[[軍歌]]である "Wild Blue Yonder" が流された。


=== 宇宙服 ===
アポロ15号はこの後もう1日月軌道上に滞在し、ウォーデンによる観測が続けられた。孫衛星を放出した後、彼らは機械船のエンジンに点火して地球へ帰還する軌道に乗った。翌日、ウォーデンは船外活動を行い、SIM ベイのカメラからフィルムカセットを回収した。
15号以前の宇宙服では、生命維持(酸素の供給および[[二酸化炭素]]の除去)・冷却水・通信ケーブルの3系統をまとめたコードが2本並行して繋がれていた。このタイプのものは月に行かなかった飛行も含めて、すべてのアポロ計画で船長と着陸船操縦士が着用していたが、15号ではA7LBという新方式の[[宇宙服]]が採用された。A7LBではコードの接合部が三角形になり、着脱用の[[ファスナー]]が右肩から左尻にかけて斜めに配置され(これまでは上下に配置されていた)、腰部が屈伸するようになった。これによって飛行士は身をかがめたり月面車の席に座ったりすることが可能になり、さらに生命維持装置も長期間の月面活動ができるように改良された。一方で司令船操縦士はそれまでは接合部が3つあるタイプのものを使用していたが、15号では冷却水の接合部がない、それ以前の月面活動で使われていた旧タイプのものを着用した。これは司令船操縦士が深宇宙での船外活動をして、SIMからフィルムの回収作業をするためであった<ref name=presskit/>。


== 醜聞 ==
ミッション第12日目は特に予定はなく、地上のミッション管制室は記者会見を開いて飛行士達がニュースメディアからの質問に答えた。13日目と最終日には彼らは[[大気圏再突入]]の準備に入った。地球降下時には[[パラシュート]]の一つが開かず、司令船は2個のパラシュートで着水した。
[[File:Apollo 15 Space Suit David Scott.jpg|thumb|国立航空宇宙博物館に展示されているスコットの宇宙服]]
[[File:RobbinsMedallionApollo15ByPhilKonstantin.jpg|thumb|15号のロビンスメダル(Robbins Medallion)]]
計画終了後、飛行士たちとNASAの名誉は、スコットがある[[ドイツ]]人の[[切手]]収集家と交わした金銭的なやりとりが明るみに出たことによって汚されることとなった<ref>{{cite news |title=Apollo's most controversial mission |first=Thom |last=Patterson |url=http://lightyears.blogs.cnn.com/2011/07/27/apollos-most-controversial-mission/ |work=Light Years |publisher=[[CNN]] |type=Blog |date=July 27, 2011 |accessdate=July 27, 2011}}</ref>。彼はウォルター・アイアーマン(H. Walter Eiermann)という人物から、記念切手を密かに月まで持って行くように持ちかけられていた。アイアーマンはNASAの職員や宇宙飛行士のグループと、多くの専門的かつ社会的なつながりを持っている人物だった。スコットは依頼に応え、非公認の[[初日カバー]]398枚を宇宙服に潜ませ、月面での休憩時間中に封筒に貼りつけ、さらに自らの署名までしていたのである(当初は400枚を持って行くはずだったが、封をする際に2枚が破損してしまったため破棄されていた)。アイアーマンはこのうちの100枚を受け取り、飛行士たちにそれぞれ7,000[[ドル]]を銀行預金の形で支払うことを約束した。さらにアポロ計画が終了するまでは決してこの切手のことを宣伝したり他者に売却したりすることはないとも誓ったのだが、その後この100枚はアイアーマンからヘルマン・ジーガー(Hermann Sieger)という業者に渡され、彼がドイツ国内でこれを1,500ドルで売買し始めたことによって問題が発覚した。この事実が明るみに出たとき、NASAはただちに残りの298枚を飛行士から没収した。さらにスコットらもアイアーマンから金銭的な報酬を受け取らないことに決めたが、宇宙飛行士たちの倫理観については各方面から疑問の声が投げかけられた。15号に限らず、飛行士が私的に物品を宇宙に持って行き、後に「おみやげ」という形で金銭的な報酬を受け取るという行為は、以前から慣習化していたことがこの事件で明らかになったからである。後にアーウィンは著書の中で、「自分は子供の大学の学費を払うためにこの取引に応じたのだ」と述べた<ref>[[#Irwin & Emerson|Irwin & Emerson 1973]]</ref>{{Page needed|date=July 2011}}。


また15号については、もう一つ論議を呼ぶ事件が飛行終了後に起こった。スコットらはポール・ヴァン・ヘイドンク(Paul Van Hoeydonck)という[[ベルギー]]人の[[彫刻家]]に、[[宇宙開発]]の促進のために命を失ったアメリカとソビエトの宇宙飛行士たちを追悼するための小像を作るように依頼していた。宇宙飛行士慰霊碑と呼ばれたこの像は、第3回船外活動終了の際、米ソの14名の飛行士の名を刻んだ銘板とともに月面車の横に置かれた。だがこの時点では知られていなかったことなのだが、ソ連が史上初めて選出した20名の宇宙飛行士のうち、2名は15号の飛行よりも前にすでに死亡していたのである。ヴァレンティン・ボンダレンコ(Valentin Bondarenko)は[[1961年]]3月に鉄道事故で、グリゴリー・ネリュボフ(Grigori Nelyubov)も[[1966年]]2月に鉄道事故で命を落としていた(ネリュボフの死因は公式には事故とされているが、実際には泥酔状態で列車に轢かれたもので自殺と見られている。ソ連は宇宙飛行士のイメージが傷つくことを恐れたため、長らく自殺の事実を隠蔽し事故で死亡したことにしていた)<ref name="Apollo Lunar Surface Journal">Apollo Lunar Surface Journal</ref>。従って、この2名の名は月面に置かれた銘板には書かれていなかった。慰霊碑はテレビカメラが消されている間に月面に置かれた。スコットがこの間何をやっていたのかは、アーウィンしか知らないことであった。またスコットは管制官に対しては月面車の周囲で清掃作業を行っていると報告していたので、地球でも彼の行動を知る由もなかった。飛行士らはヘイドンクに対し、この小像の複製は作らないということで同意していたのだが、飛行終了後に彼らが記者会見でこの追悼行為のことを明らかにすると、[[国立航空宇宙博物館]]が展示用の小像の複製を作ってほしいと依頼してきた。さらにはヘイドンクも同意を破って複製を作り、広告を出したりしたのだが、NASAからの圧力で販売は取り下げた。後にNASAが15号の最終報告書をまとめたとき、この非公認の小像については何もコメントしていなかった。
[[コマンドモジュール]]の実物は[[国立アメリカ空軍博物館]]で見ることができる。


==論争==
==計画の記章==
15号の飛行士は3名とも現役のアメリカ空軍の軍人であったため、全員が海軍軍人だった12号が航海中の帆船をテーマにしていたのと同じように、記章も空軍をモチーフにしている。円形の記章の中では、鳥を表す赤と白と青の線が月面のハドリー裂溝の上空を飛行している。そのすぐ後ろには、15を表す[[ローマ数字]]のXVが、クレーターの線で書かれている。全体は青と赤の線で囲まれ、その間の白い帯の中には飛行士たちの名前が記されている。スコットは[[エミリオ・プッチ]] (Emilio Pucci) というファッションデザイナーにこの記章の制作を依頼した。プッチの案では当初は形態は四角だったが、飛行士らの意見により円形に改められ、さらに色も青と緑だったのを愛国的な赤と白と青に変更された。ウォーデンによればそれぞれの鳥も各飛行士を表しているそうで、いちばん上にある白は司令船操縦士である彼に、青はスコットに、赤はアーウィンに対応しているとのことである。飛行番号は、NASAは[[算用数字]]で表すべきだと強く主張していたが、記章ではローマ数字で表された<ref>[[#Worden & French|Worden & French 2011]], pp. 144–145</ref>。
{{main|:en:Apollo 15 postage stamp incident|Fallen Astronaut}}
[[Image:Apollo 15 Flown Cover.jpg|月に持っていったカバーの実物|right|thumb]]
アポロ15号ミッションが大成功のうちに完了した後、乗員達が H・ウォルター・アイアーマンというアメリカ人とある取り決めをしていたことで彼らの評判にはいささか傷が付いた。アイアーマンは NASA の職員や宇宙飛行士の団体と数多くの専門的・社会的接触を持っていた人物だった。スコットは398通の非公式な[[初日カバー]]を自分の宇宙服の中に入れて月面に持ち込んでいた。アイアーマンは各々の飛行士との間で、月から持ち帰ってサインした初日カバー100通に対する報酬として預金口座の形で7,000ドルずつを支払う約束をしていた。彼は飛行士達に、アポロ計画が終了するまではこの初日カバーを宣伝したり販売することはない、と話していた。


== 宇宙からの痕跡の確認 ==
スコットは月面に持参した初日カバーのうち100通をドイツの[[シュトゥットガルト]]のアイアーマン宛に送った。アイアーマンはこのカバーをドイツの[[ロルヒ]]から[[切手]]販売業者のヘルマン・E・ジーガーに転送した。ジーガーは以前にアイアーマンと接触してこの取引を持ちかけた人物だった。ジーガーはこの初日カバーをドイツ国内で約1,500ドルの値段で売り始めた。スコットはこの知らせを聞いてアイアーマンと連絡を取り、販売をやめるよう依頼した。また飛行士3人はアイアーマンから一切金銭を受け取らないことにした。これにより、残り298通のカバーの所有権は NASA が管理することになった。
15号が着陸する際、下降段の排気ガスによって月面に形成された円形の痕跡は、[[2008年]]に[[日本]]の月探査衛星[[かぐや]]が撮影した画像の比較分析によって確認された。この画像は15号の司令船から撮影されたものともよく一致し、アポロ計画が終了して以来、月面に残された痕跡を宇宙から撮影した初めての例となった<ref>{{cite press release |title=The 'halo' area around Apollo 15 landing site observed by Terrain Camera on SELENE(KAGUYA) |date=May 20, 2008 |publisher=[[JAXA]] |location=Chōfu, Tokyo |url=http://www.jaxa.jp/press/2008/05/20080520_kaguya_e.html |accessdate=July 19, 2013}}</ref>。


== 映像 ==
彼ら3人の飛行士は公式に懲戒処分を受け、彼らの軍人としての勤務評定でも「良識の欠如」が見られるとして評価が変更された。
<gallery caption="Apollo 15">
Image:Apollo 15 Lunar Rover training.ogg |'''月面車操縦訓練''' - 地上で月面車の操縦訓練をするスコットとアーウィン(2.57 [[Megabyte|MB]], [[ogg]]/[[Theora]] format)
Image:Apollo 15 launch.ogg |'''15号の発射''' - 発射30秒前から40秒後まで(1.29 MB, ogg/Theora format)
image:Apollo 15 TandD.ogg |'''着陸船とのドッキング''' - 着陸船ファルコンとドッキングする司令船エンデバー(3.03 MB, ogg/Theora format)
image:Apollo 15 CSM moving away from LM.ogg |'''着陸船から離れる司令船''' - 切り離し後、ファルコンから撮影されるエンデバー(3.05 MB, ogg/Theora format)
image:Apollo 15 landing on the Moon.ogg |'''月面着陸''' - 着陸船操縦士の位置から見たハドレー山への着陸。高度5,000フィート(1,500m)から撮影開始(5.47 MB, ogg/Theora format)
image:Apollo 15 lunar rover EVA2.ogg |'''月面車からの映像''' - 走行中の月面車から撮影した16mmフィルムの映像(3.26 MB, ogg/Theora format)
image:Apollo 15 feather and hammer drop.ogg|'''ハンマーと羽根の落下実験''' - ガリレオの理論が正しいことを実証するスコット(1.38 MB, ogg/Theora format)
image: Apollo 15 liftoff from the Moon.ogg |'''月面からの離陸''' – 月面車のカメラで撮影した離陸の場面(2.31 MB, ogg/Theora format)
image:Apollo 15 liftoff from inside LM.ogg |'''月面からの離陸''' - 着陸船操縦士の位置から見た月面からの離陸(1.18 MB, ogg/Theora format)
image: Apollo 15 Worden EVA.ogg |'''船外活動をするウォーデン''' – SIMからフィルムのカセットを回収するために船外活動をするウォーデン(2.81 MB, ogg/Theora format)
image: Apollo 15 splashdown.ogg |'''着水''' - 15号の着水(3.67 MB, ogg/Theora format)
Image:Cylcotron beam experiment at LBNL for apollo space program eye flash investigations.jpg|15号の飛行士たちが月に向かう途中で目撃した閃光の原因を調査するために、[[ローレンス・バークレー国立研究所]]で行われた[[加速器]]からの高エネルギー粒子を使用しての実験。この現象を追究する実験は、15、16、17号およびスカイラブの船内でも行われた。閃光実験機器(閃光の数を数えている研究員が頭部につけている箱)は、16、17号の飛行中にも使用された<ref>{{cite web |url=http://ares.jsc.nasa.gov/HumanExplore/Exploration/EXLibrary/docs/ApolloCat/Part2/ALFMED.htm |title=Experiment: Light Flashes Experiment Package (Apollo light flash moving emulsion detector) |work=[[Astromaterials Research and Exploration Science Directorate]] |publisher=NASA |accessdate=July 17, 2013}}</ref>。
</gallery>


== 大衆文化での表現 ==
この他にも、スコットについては2個の時計([[腕時計]]と[[ストップウオッチ]])に関して物議を醸す事態が起きた。彼は友人からの求めに応じて、これらの時計の評価をすることで時計メーカーと合意していた。スコットは、これらの時計は特に緊急時に手動でエンジンを操縦している際の時刻計測などで実際に役立つと考え、優先使用権の認可を受けないままこれらの時計をアポロ15号ミッションで使用した。
* 15号の飛行は[[1998年]]にアメリカの[[ケーブルテレビ]][[HBO]]で、「[[フロム・ジ・アース/人類、月に立つ]](原題:From the Earth to the Moon)」という題名でドラマ化された。
* [[PlayStation 3|プレイステーション3]]の[[レースシミュレーション|レースシミュレーションゲーム]]「[[ グランツーリスモ6]]」の中には月面車が登場する。


== 脚注 ==
[[Image:Fallen Astronaut.jpg|thumb|right|銘板の手前にある人型の像が[[Fallen Astronaut]]である]]
{{reflist|colwidth=30em}}
さらに別の問題がミッション終了後にも起きた。15号の飛行士達はベルギーの彫刻家{{仮リンク|ポール・ヘイドンク|en|Paul Van Hoeydonck}}と会い、宇宙探査の進展のためにこれまで命を落とした米ソの[[宇宙飛行士]]を追悼する小像の制作を依頼していた。この依頼を受けて、"[[Fallen Astronaut]]" という題名の小さなアルミニウム製彫刻が作られ、14名のアメリカとソ連の宇宙飛行士の名前が刻まれた銘板とともに月面に残された。15号の飛行士達はこの彫刻のレプリカを制作しないことでヘイドンクと合意していた。飛行後の記者会見でこの彫像について触れた後、国立航空宇宙博物館が飛行士達に、展示用の彫像のレプリカを作ることを打診した。飛行士達は、良識ある展示方法を取ること、宣伝をしないことを条件にこの打診に応じた。その後、このレプリカの制作がヘイドンクに依頼された。1972年5月になって、スコットはヘイドンクが博物館向けでないレプリカの制作・販売を計画していることを知った。販売の広告が出されはしたものの、NASAからの否定的な見解もあって、結局レプリカの販売は行われなかった。


=== アポロ月面ジャーナル ===
== ミッション・エンブレム ==
{{Reflist|group=ALSJ}}


== 外部リンク ==
アポロ15号の円形の[[ワッペン]]には月面のハドレー谷の上空を飛ぶ赤・白・青の鳥の姿が図案化されている。鳥の背景にはクレーターが "XV"(ローマ数字の15)を描くように並んでいる。この図案の周囲にはミッション名と3名の飛行士の名前が記されている。この3羽の鳥のモチーフを初めとする基本的アイデアはファッションデザイナーの[[エミリオ・プッチ]]の提案によるものである。当初は緑と青を用いたデザインだったが、飛行士達の意見によって米国のシンボルカラーである赤・白・青になった。

== LROから撮影されたアポロ15号の着陸地点 ==
月周回衛星[[LRO]]によってアポロ15号の着陸地点が撮影され、月着陸船や、月面を歩行した跡等が撮影され、2012年3月に公開された[[http://lroc.sese.asu.edu/news/index.php?/archives/527-Follow-the-Tracks.html#extended 写真はこちら]]。


== 参考文献 ==
*Chaikin, Andrew (1994). ''A Man On The Moon: The Voyages of the Apollo Astronauts''. Viking. ISBN 0670814466.
*Harland, David M. (1999). ''Exploring the Moon: The Apollo Expeditions''. Springer/Praxis Publishing. ISBN 1852330996.
*NASA Manned Spacecraft Center (1972). ''Apollo 15 Preliminary Science Report''. Scientific and Technical Office, NASA.
*Lattimer, Dick (1985). 'All We Did was Fly to the Moon. Whispering Eagle Press. ISBN 0961122803.

==外部リンク==
{{commons|Apollo 15}}
{{commons|Apollo 15}}
* [http://history.nasa.gov/ap15fj/ Apollo 15 Flight Journal]

*[http://history.nasa.gov/ap15fj/ Apollo 15 Flight Journal].
* [http://www.hq.nasa.gov/alsj/a15/a15.html Apollo 15 Lunar Surface Journal]
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* [http://history.nasa.gov/SP-4029/Apollo_15a_Summary.htm Apollo By The Numbers: A Statistical Reference by Richard W. Orloff (NASA)]
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* [http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4204/ch20-6.html Moonport: A History of Apollo Launch Facilities and Operations]
* [http://www.astronautix.com/flights/apollo15.htm Apollo 15] in the Encyclopedia Astronautica
*[http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4204/ch20-6.html Moonport: A History of Apollo Launch Facilities and Operations].
*[http://www.astronautix.com/flights/apollo15.htm Apollo 15] in the Encyclopedia Astronautica.
* [http://history.nasa.gov/apsr/apsr.htm Apollo Program Summary Report]
*[http://history.nasa.gov/apsr/apsr.htm Apollo Program Summary Report].
* [http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo15info.html NSSDC Apollo 15 page]
* NASAプレスリリース([[1972年]][[9月15日]])''[http://www.collectspace.com/resources/flown_a15_articlescarried.html Articles Carried on Manned Space Flights]''
*[http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo15info.html NSSDC Apollo 15 page].
* [http://www.archive.org/details/IntheMountainsOfTheMoonApollo15 In the Mountains of the Moon (Part 1) NASA film on the Apollo 15 mission downloadable at The Internet Archive]
*NASAプレスリリース ([[1972年]][[9月15日]]). ''[http://www.collectspace.com/resources/flown_a15_articlescarried.html Articles Carried on Manned Space Flights]''.
*[http://www.archive.org/details/IntheMountainsOfTheMoonApollo15 In the Mountains of the Moon (Part 1) NASA film on the Apollo 15 mission downloadable at The Internet Archive]
* [http://www.archive.org/details/InTheMountainsOfTheMoon In the Mountains of the Moon (Part 2) NASA film on the Apollo 15 mission downloadable at The Internet Archive]
*[http://www.archive.org/details/InTheMountainsOfTheMoon In the Mountains of the Moon (Part 2) NASA film on the Apollo 15 mission downloadable at The Internet Archive]


{{アポロ計画}}
{{アポロ計画}}

2014年9月17日 (水) 13:23時点における版

アポロ15号
計画名 Apollo 15
宇宙船名 司令機械船: エンデバー
月着陸船: ファルコン
乗員数 3名
発射日時 1971年7月26日
13:34:00 (UTC)
ケネディ宇宙センター39番A発射台
月面着陸 1971年7月30日
22:16:29 (UTC)
ハドレー谷(北緯26度07分55秒99 東経3度38分01秒90)
月面船外活動時間 LM上待機: 33分07秒
1回目: 6時間32分42秒
2回目: 7時間12分14秒
3回目: 4時間49分50秒
合計: 18時間34分46秒
司令船外活動時間 39分07秒
月面滞在時間 66時間54分53.9秒
標本採集量 77 kg
着水日時 1971年8月7日
20:45:53 (UTC)
北緯26度13分 西経158度13分
合計時間 12日07時間11分53秒
月周回数 74周
月周回時間 145時間12分41秒68
宇宙船質量 司令機械船: 30,370 kg
月着陸船: 16,430 kg
左から:デイヴィッド・スコットアルフレッド・ウォーデンジェームズ・アーウィン

アポロ15号アメリカ合衆国アポロ計画における4度目の月面着陸飛行である。アメリカの有人宇宙飛行は、これで8回連続で成功を収めた。また月面車を使用し、より長い期間月面に滞在して科学的探査に重点を置く、いわゆるJ計画が初めてこの飛行で行われた。

発射は1971年7月26日、帰還は8月7日だった。NASAは15号を、それまでに行われた中で最も成功した有人宇宙飛行であったと表明した[1]

着陸船「ファルコン」は、月面上雨の海の中の「Palus Putredinus(腐敗の沼地)」と呼ばれる地域にあるハドリー山に降り立った。デイヴィッド・スコット(David Scott)船長とジェームズ・アーウィン(James Irwin)着陸船操縦士は月面で3日間を過ごし、18.5時間の船外活動で77キログラム (170ポンド) のサンプルを採集した。またこの飛行では初めて月面車が使用され、それまでの徒歩による探査よりもはるかに遠くまで着陸船から離れることを可能にした。一方で司令船「エンデバー」の操縦士アルフレッド・ウォーデン(Alfred Worden)は月上空を周回しながら、機械船の科学機器搭載区画(Science Instrument Module, SIM)に収納されているパノラマカメラガンマ線分光計地図作成用写真機レーザー高度計質量分析器などを使用して月の表面とその環境に関する詳細な探査をし、さらに飛行の最終段階ではアポロ計画で初となる小型衛星の放出を行った。

15号は当初の目的を完遂したものの、計画終了後にスコットたちが飛行を記念した切手をめぐってある人物と非公式に金銭的な取引をしていたことが明るみになり、彼らの名誉はいささか傷つくことになった。皮肉なことにこの飛行は初めて月面車を使用したことで後に記念切手が発行されたが、これはマーキュリー計画でアメリカ初の有人宇宙飛行が行われてからの10年間での数少ない例のひとつであった。

搭乗員

地位 飛行士
船長 デイヴィッド・スコット(David Scott)
三回目の宇宙飛行
司令船操縦士 アルフレッド・ウォーデン(Alfred Worden)
一回目の宇宙飛行
月着陸船操縦士 ジェームズ・アーウィン(James Irwin)
一回目の宇宙飛行

飛行士たちは3人とも空軍の出身であり、また全員がミシガン大学名誉学位または修士学位を授与されていた。スコットが名誉学位を授与されたのは1971年春で、発射の1ヶ月前のことだった。彼はかつてミシガン大学に在籍していたが、 陸軍士官学校からの招待を受けたために同大学を中退していた。飛行士たちは陸軍または 海軍兵学校で学業を行っていた。

予備搭乗員

地位 飛行士
船長 リチャード・ゴードン Jr.(Richard F. Gordon, Jr.)
司令船操縦士 ヴァンス・ブランド(Vance D. Brand)
月着陸船操縦士 ハリソン・シュミット(Harrison Schmitt)

シュミットは「グループ4」と呼ばれる、アポロ計画のために選出された科学者を中心とする宇宙飛行士のメンバーの一人であった。グループ4からに行ったのは彼だけで、1972年17号で飛行した。

支援飛行士

  • ゴードン・フラートン(C. Gordon Fullerton)
  • ジョセフ・アレン(Joseph P. Allen)
  • ロバート・パーカー(Robert A. Parker)
  • カール・ゴードン・ヘナイズ(Karl Gordon Henize)

飛行主任

  • ジェリー・グリフィン(Gerry Griffin)、金色チーム主任
  • ミルトン・ウィンドラー(Milton Windler)、栗色チーム主任
  • グリン・ランネイ(Glynn Lunney)、黒チーム主任
  • ジーン・クランツ(Gene Kranz)、白チーム主任

諸数値

  • 質量
    • 発射重量:2,945,816 kg
    • 宇宙船総重量:46,782 kg
      • 司令・機械船重量:30,354 kg、うち司令船5840 kg、機械船24,523 kg
      • 着陸船重量:16,428 kg、上昇段の月面からの発射時重量4,951 kg
  • 地球周回回数:出発時3周、帰還時約1周
  • 月周回回数:74周

地球周回待機軌道

司令・機械船と着陸船のドッキング

船外活動

  • スコット – 立哨船外活動 (司令船とのドッキングトンネルから顔を出し、月面を観察する船外活動)
  • 立哨開始7月31日 00:16:49 UTC
  • 立哨終了:7月31日 00:49:56 UTC
  • 時間:33分07秒
  • スコットおよびアーウィン – 第1回船外活動
  • 第1回船外活動開始:7月31日 13:12:17 UTC
  • 第1回船外活動終了:7月31日 19:45:59 UTC
  • 時間:6時間32分42秒
  • スコットおよびアーウィン – 第2回船外活動
  • 第2回船外活動開始8月1日 11:48:48 UTC
  • 第2回船外活動終了:8月1日 19:01:02 UTC
  • 時間:7時間12分14秒
  • スコットおよびアーウィン – 第3回船外活動
  • 第3回船外活動開始:8月2日 08:52:14 UTC
  • 第3回船外活動終了:8月2日 13:42:04 UTC
  • 時間:4時間49分50秒
  • ウォーデン (アーウィンが立哨し) 地球に中継する第4回船外活動
  • 第4回船外活動開始8月5日 15:31:12 UTC
  • 第4回船外活動終了:8月5日 16:10:19 UTC
  • 時間:0時間39分07秒

計画と訓練

ニューメキシコ地質学的探査の訓練をするスコット船長。1971年3月19日

スコット船長らは、アポロ12号では予備搭乗員を務めていた。彼らは全員空軍出身であり、全員が海軍出身だった本搭乗員たちとはライバル心を発揮したが、同時に良い協力関係にあった。

15号は当初は12号、13号14号と同様にH計画として飛行する予定だったが、NASAは1970年9月2日、アポロ計画を17号までで終了することを発表した。このため15号は計画の効果を最大限に高めるべく、J計画として飛行することとなった。

これにより15号の訓練も、いくつかの点で変更が加えられることになった。その中の1つが地質学的探査の訓練であった。地質学の探査はそれ以前にも行われていたが、15号は初めてこの点に最も高い優先度を置く飛行となった。スコットとアーウィンは、カリフォルニア工科大学の地質学者で特に先カンブリア時代の専門家であるレオン・シルバー(Leon Silver)と共に訓練をすることになった。シルバーは宇宙飛行士のハリソン・シュミットから、NASAが以前に雇っていた講師の代わりをやらないかと打診されていた。彼は年代測定法、中でもウラン崩壊する過程を計測することで石の年代を特定する手法の改善で、1950年代に大きな貢献をしていたのである。

当初シルバーは、本搭乗員と予備搭乗員たちをアリゾナニューメキシコの様々な学問的研究用地に連れて行き、普通の地質学の授業のような訓練をするつもりだったが、発射が近づくにつれてその訓練はより現実に近いものになっていった。飛行士たちは船外活動で使用する生命維持装置の模型を背負い、テントにいるCAPCOM(宇宙船連絡員)たちとウォーキートーキーで会話した(CAPCOMは宇宙船との交信を担当する管制官で、同僚の宇宙飛行士が務める。また通常は、飛行士たちとの会話は彼らしかすることができない)。さらにCAPCOMには、飛行士たちの発言を地質学という彼らにとって不案内な分野での表現に翻訳するための補助として、地質学者のグループが伴っていた。

ハドリー山への着陸は1970年9月に決定した。着陸地点の選考委員会は、候補地をハドリー裂溝とマリウス(Marius)クレーターの2つに絞っていた。マリウスの近くには、おそらくは溶岩ドームと思われる低い小丘が数多くあった。スコット船長は最終的な決定権こそなかったものの、候補地の選定には大きな発言権を持っていた。彼にとってはハドリー山を選択した理由は明確で、「探検するには最高の場所」だったからであった。

一方で司令船操縦士のウォーデンは違う訓練を積んでいた。彼はエジプト生まれの地質学者ファルー・エルバズ(Farouk El-Baz)と行動を共にし、司令船が月を周回する状況を模して飛行機で訓練地の上空を飛び、空から眼下を通り過ぎる月面の地形を観測することにおいて高い技術を習得した。

計画の焦点

発射から月遷移軌道まで

15号の発射。1971年7月26日

15号は1971年7月26日午前9時34分 (米東部標準時)、フロリダ州ケープ・カナベラルケネディ宇宙センターから発射された。打ち上げの途中でサターン5型ロケット第1段S-ICロケットエンジンは、1段目が切り離されたあとも4秒間にわたって噴射を続けた。このとき第2段S-IIの排気ガスはS-ICの遠隔操作の機器を直撃していたので、まかり間違えば第1段と第2段が衝突して打ち上げが中止されるところであった。このような不具合はあったものの、第3段S-IVBと宇宙船は無事に地球周回軌道に到達した。発射から2時間後、S-IVBのエンジンが再点火され15号は地球周回軌道を離れ月への遷移軌道へと投入された[2]

発射から2日後、宇宙船は月の裏側を通過した。そこで機械船の推進エンジン(Service Propulsion System, SPS)が6分間にわたって噴射され、宇宙船は第1段階の月周回軌道に投入された。近月点を通過したとき、着陸船をハドリー山に降下させるための適正な軌道に修正すべくSPSエンジンが再度点火された[2]

着陸

15号は7月30日に月周回軌道に到達した。初日のほとんどは、その後に控えている着陸船降下の準備に費やされた。準備が完了すると司令・機械船との切り離しが試みられたが、ハッチの気密構造に不具合が生じたため切り離しは成功しなかった。司令船操縦士のウォーデンがハッチを再度密封すると、今度は無事に司令・機械船から離れはじめた。スコットとアーウィンが降下の準備を続ける一方でウォーデンは司令船に残り、上空からの月面観測を行うために高度を上げ、数日後の同僚たちの帰還に備えた[3][ALSJ 1]

ストットとアーウィンはただちにハドリー山に向けて降下を始めた。降下開始から数分後、着陸船ファルコンがピッチオーバー(姿勢を徐々に垂直状態にすること)して着陸地点へのアプローチに入ったとき、ファルコンはまだ目標地点から6キロメートルも東にいたため、スコットは急遽飛行経路を変更した。7月30日 22時16分29秒(UTC)、15号はハドリー山に到着した。着陸地点は、当初の目標からわずか数百メートルしか離れていなかった。アポロ11号では、アームストロング船長らは着陸直後は興奮して眠れなかったためただちに船外活動を開始したが、15号では翌日に備えて休息することを選択した。彼らはこの後、それ以前のどの飛行よりも長い時間月面に滞在し、3回にわたって船外活動をしなければならなかったため、睡眠のリズムを崩したくなかったのである。ただし就寝する前、スコットは船内を減圧して上部にあるドッキング用ハッチを開き、そこから顔を出して周囲の写真撮影をした(立哨船外活動)[3][ALSJ 1][ALSJ 2]

月面

星条旗の前で敬礼するアーウィン飛行士。1971年8月1日
15号が採集したカンラン石玄武岩

彼らが就寝している間、ヒューストンの管制センターでは酸素がゆっくりとだが、確実に漏れていることをずっと検知していた。宇宙船に搭載されているコンピューターから遠隔測定でデータを読み出すことは、その夜は電力節約のために限度があり、管制センターは飛行士たちを起こさなければ正確な原因を特定することができなかった。結局スコットとアーウィンは予定よりも1時間早く起こされ、酸素漏れの原因は尿浄化装置のバルブの1つが「開」になっていたからであることを突き止めた。問題解決後、飛行士たちは船外活動の準備を始めた[ALSJ 3]

4時間後、スコットとアーウィンは史上7番目と8番目に月面に降り立った人間となった。2人は着陸船の格納庫から月面車を取り出すと、最初の船外活動の目的地であるハドリー裂溝の縁にあるエルボー(Elbow)クレーターへと向かった。着陸船に戻ると、「アポロ月面実験装置群(Apollo Lunar Surface Experiments Package, ALSEP)」を展開した。第1回船外活動は、およそ6時間半で終了した[3][ALSJ 4]

2日目の目標地点はモンス・ハドレイ・デルタ(Mons Hadley Delta)と呼ばれる小山で、両名はそこでアペニン山脈周辺にあるクレーターで石を採集した。またこのとき彼らはアポロ計画で後に最も有名になる、サンプル番号15415番、通称「創世記の石 (ジェネシス・ロック)」を発見した。着陸船に戻ってからも、スコットは前日苦労したALSEP設置場所でのボーリング作業に取り組んだ。土質力学的実験を行った後、2人は月面に星条旗を立て着陸船に帰還した。第2回船外活動は7時間12分で終了した[3][ALSJ 4]

最後となる第3日目の船外活動では、再びハドレー裂溝の縁を探索した。今回は着陸地点のすぐ北西にある場所が目標だった。着陸船のそばに戻ると、スコットはテレビカメラの前で実験を披露した。同じ重力場の中にある物は、(空気抵抗がなければ) 質量の大小に関わらず同じ速度で落下するというガリレオの法則を実証しようとしたのである。スコットは両手に羽根とハンマーを持ち、同時に手を離した。空気抵抗を受けない月面上では、両者はガリレオの法則どおり同時に月面に落下した。その後スコットは月面車を着陸船から離れた場所に移動させた。このあと管制官が地上からの遠隔操作で月面車に搭載されているテレビカメラを動かし、着陸船が離陸する場面を撮影するというのである。さらに彼は、宇宙飛行士慰霊碑を月面に置いた。その表面には、1971年当時までに命を落としたソ連アメリカの宇宙飛行士たちの名前が刻まれていた。第3回船外活動は4時間50分で終了した[3][ALSJ 4]

船外活動の総計時間は18.5時間で、採集したサンプルは合計で約77キログラム(170ポンド)であった[ALSJ 4]

地球への帰還

パラシュート2本のみを開いて太平洋に着水する15号。1971年8月7日

着陸から2日と18時間後、ファルコンの上昇段は月面から離陸し、軌道上で待機するウォーデンが乗る司令・機械船とのランデブーと再ドッキングを行った。採集したサンプルや様々な物品を司令船に移し替えた後、着陸船は切り離され地震観測のため故意に月面に衝突させられた。三飛行士はその後も月周回軌道上からさらなる月面の観測を行い、小型衛星を放出した。すべての任務が完了すると、軌道から脱出するためSPSエンジンを点火した[2]

翌日、地球からの帰路で、ウォーデンは深宇宙での船外活動を行った。この種の活動が行われるのは史上初めてのことで、目的は機械船のSIM(科学機器搭載区画)に収納されていた露光フィルムを回収することであった。この日の終わりに彼らはアポロ計画における宇宙最長滞在記録を樹立し、アポロ計画で最も長く宇宙にいた飛行士たちとなった[4]

翌8月7日、機械船が切り離され司令船は大気圏に再突入した。着水の際、3本のパラシュートのうち1本が開かなかったが、着水に必要なのは2本だけであったため問題はなかった(1本は予備として用意されていた)。12日と7時間11分53秒にわたる任務を完了し、飛行士たちは北太平洋上で回収船オキナワに収容された[2][3]

機器

宇宙船

15号の司令・機械船は、CSM-112と呼ばれるモデルを使用していた。船名は「エンデバー」で、由来はイギリス帆船エンデバー号であった。また着陸船LM-10は空軍士官学校を象徴する鳥にちなんで「ファルコン (ハヤブサ)」と名づけられた。もし15号がH計画として飛行していれば司令・機械船にはCSM-111が、着陸船にはLM-9が使用されることになっていた。CSM-111は1975年アポロ・ソユーズテスト計画で使用されたが、LM-9は結局使われることはなく、現在[いつ?]はケネディ宇宙センターの来訪者施設に展示されている。

15号の科学機器搭載区画(SIM)

再突入後、3本あるパラシュートのうちの1本が展開した後にもつれてしまったが、安全に着水するには2本あれば十分だった。エンデバーは無事に帰還し、すべての任務は成功裏に終了した。

司令船のSIMが宇宙で使用されるのは今回が初めてのことであり、ケネディ宇宙センターの技術者たちは最初の時点から多くの問題を抱えていた。その最大の原因は、SIMは無重力の状態で使用するように設計されているにもかかわらず、整備や試験は地上の1Gの状況下で行わざるを得ないという事実にあった。たとえばガンマ線分光計や質量分析器は長さ7.5メートルの支持棒の先に取りつけられており、試験の際にはレールの上を移動させて無重力状態を再現しようとしたのだが、あまりうまくはいかなかった。すべての機器を宇宙船に収めようとすると、今度はデータのストリーミングが同期しないという問題が発生したため、技術者らは設計の変更と最終的な試験を行うことを望んだ。またガンマ線分光計の試験をする際には、半径10マイル(16キロメートル)以内にいるすべての車のエンジンを停止させなければならなかった。

着陸船については、上昇段と下降段の両方で燃料酸化剤のタンクの容量が増やされ、また下降段のロケットエンジンノズルが延長された。さらに太陽電池を追加したことにより、電力が増強された。これらの改造により、着陸船の装重量はそれまでよりも4,000ポンド (1,800キログラム) 増えて36,000ポンド(16,000キログラム)になった。

司令船エンデバーは、現在[いつ?]オハイオ州デイトンライト・パターソン空軍基地にある国立アメリカ空軍博物館に展示されている。

月面車

月面車の製作はボーイングが担当し、1969年5月から開発が続けられた。5フィート×20インチ(1.5×0.5メートル)に折り畳むことが可能で、着陸船にはその状態で収納されている。乾燥重量は460ポンド(209キログラム)、飛行士と機器を搭載したときの重量は1,500ポンド(700キログラム)である。各車輪は電気モーターにより独立して駆動し、それぞれが¼馬力(200W)を発揮する。運転は両飛行士ともできることになっているが、実際には常に船長が運転する。最高速度は時速6から8マイル(10~12&キロメートル)で、これにより初めて飛行士は着陸船から遠く離れた場所に移動し、科学実験のための十分な時間を持つことが可能になった[5]

小型衛星

小型衛星展開の概念図

小型衛星PFS-1は、SIMから月周回軌道に放出された。主な目的はプラズマ宇宙線および月の磁場環境を調査し、月の重力場の地図を作成することであった。特にプラズマ、エネルギー粒子の強度、ベクトル磁場の測定には重点を置き、衛星の速度を高精度で追跡することを容易にした。衛星に課せられた基本的な要求は、月周回軌道上のどこからでも磁場や宇宙線のデータが得られることであった[5]。月は地球から38万キロメートル(地球半径の60倍)の距離をほぼ円形の軌道を描いて周回しているため、衛星は惑星間空間から様々な領域に至るまでの地球の磁気圏を巡ることができた。PFS-1は1971年8月4日から1973年1月までデータを送り続けた。

後年、多数の月周回衛星の軌道を調査した結果、科学者たちは月周回低軌道は不安定なものであることを発見するに至った。PFS-1は幸運なことに、4種類ある月の凍結軌道の近くに放出された。当時の技術者たちは全く知らなかったことなのだが、この軌道上では衛星は半永久的に月を周回し続けることができた[6]

衛星放出は月軌道での飛行士たちの最後の任務で、地球帰還のためのエンジン噴射の1時間前に行われた。アポロ16号でも、実質的に全く同一の衛星が放出された。

発射機

15号を打ち上げたSA-510は10回目に発射されたサターン5型ロケットで、ペイロードを拡張するため飛行軌道やロケット本体にいくつかの改良がなされていた。まず発射方向はこれまでよりも南寄り(方位角80~100度)に向けられ、待機軌道の高度も166キロメートル(90海里)に下げられた。これらの変更によりペイロードは1,100ポンド(500 キログラム)増加した。また予備燃料も減らされ、さらに第1段S-ICを第2段S-IIから引き離すための逆噴射ロケットの数も8本から4本にされた。ただし逆噴射ロケットと、第1段F-1の中央エンジンの燃焼時間は延長された(詳細についてはサターン5型ロケットを参照のこと)。またS-IIについても、pogo振動を抑えるための改良がなされた[5]

すべての機器が組み込まれた後、サターン5型ロケットは39A発射台に搬送された。1971年の6月下旬から7月上旬にかけて発射台の整備塔は少なくとも4回にわたっての直撃を受けたが、損傷はわずかなものだった。

宇宙服

15号以前の宇宙服では、生命維持(酸素の供給および二酸化炭素の除去)・冷却水・通信ケーブルの3系統をまとめたコードが2本並行して繋がれていた。このタイプのものは月に行かなかった飛行も含めて、すべてのアポロ計画で船長と着陸船操縦士が着用していたが、15号ではA7LBという新方式の宇宙服が採用された。A7LBではコードの接合部が三角形になり、着脱用のファスナーが右肩から左尻にかけて斜めに配置され(これまでは上下に配置されていた)、腰部が屈伸するようになった。これによって飛行士は身をかがめたり月面車の席に座ったりすることが可能になり、さらに生命維持装置も長期間の月面活動ができるように改良された。一方で司令船操縦士はそれまでは接合部が3つあるタイプのものを使用していたが、15号では冷却水の接合部がない、それ以前の月面活動で使われていた旧タイプのものを着用した。これは司令船操縦士が深宇宙での船外活動をして、SIMからフィルムの回収作業をするためであった[5]

醜聞

国立航空宇宙博物館に展示されているスコットの宇宙服
15号のロビンスメダル(Robbins Medallion)

計画終了後、飛行士たちとNASAの名誉は、スコットがあるドイツ人の切手収集家と交わした金銭的なやりとりが明るみに出たことによって汚されることとなった[7]。彼はウォルター・アイアーマン(H. Walter Eiermann)という人物から、記念切手を密かに月まで持って行くように持ちかけられていた。アイアーマンはNASAの職員や宇宙飛行士のグループと、多くの専門的かつ社会的なつながりを持っている人物だった。スコットは依頼に応え、非公認の初日カバー398枚を宇宙服に潜ませ、月面での休憩時間中に封筒に貼りつけ、さらに自らの署名までしていたのである(当初は400枚を持って行くはずだったが、封をする際に2枚が破損してしまったため破棄されていた)。アイアーマンはこのうちの100枚を受け取り、飛行士たちにそれぞれ7,000ドルを銀行預金の形で支払うことを約束した。さらにアポロ計画が終了するまでは決してこの切手のことを宣伝したり他者に売却したりすることはないとも誓ったのだが、その後この100枚はアイアーマンからヘルマン・ジーガー(Hermann Sieger)という業者に渡され、彼がドイツ国内でこれを1,500ドルで売買し始めたことによって問題が発覚した。この事実が明るみに出たとき、NASAはただちに残りの298枚を飛行士から没収した。さらにスコットらもアイアーマンから金銭的な報酬を受け取らないことに決めたが、宇宙飛行士たちの倫理観については各方面から疑問の声が投げかけられた。15号に限らず、飛行士が私的に物品を宇宙に持って行き、後に「おみやげ」という形で金銭的な報酬を受け取るという行為は、以前から慣習化していたことがこの事件で明らかになったからである。後にアーウィンは著書の中で、「自分は子供の大学の学費を払うためにこの取引に応じたのだ」と述べた[8][要ページ番号]

また15号については、もう一つ論議を呼ぶ事件が飛行終了後に起こった。スコットらはポール・ヴァン・ヘイドンク(Paul Van Hoeydonck)というベルギー人の彫刻家に、宇宙開発の促進のために命を失ったアメリカとソビエトの宇宙飛行士たちを追悼するための小像を作るように依頼していた。宇宙飛行士慰霊碑と呼ばれたこの像は、第3回船外活動終了の際、米ソの14名の飛行士の名を刻んだ銘板とともに月面車の横に置かれた。だがこの時点では知られていなかったことなのだが、ソ連が史上初めて選出した20名の宇宙飛行士のうち、2名は15号の飛行よりも前にすでに死亡していたのである。ヴァレンティン・ボンダレンコ(Valentin Bondarenko)は1961年3月に鉄道事故で、グリゴリー・ネリュボフ(Grigori Nelyubov)も1966年2月に鉄道事故で命を落としていた(ネリュボフの死因は公式には事故とされているが、実際には泥酔状態で列車に轢かれたもので自殺と見られている。ソ連は宇宙飛行士のイメージが傷つくことを恐れたため、長らく自殺の事実を隠蔽し事故で死亡したことにしていた)[9]。従って、この2名の名は月面に置かれた銘板には書かれていなかった。慰霊碑はテレビカメラが消されている間に月面に置かれた。スコットがこの間何をやっていたのかは、アーウィンしか知らないことであった。またスコットは管制官に対しては月面車の周囲で清掃作業を行っていると報告していたので、地球でも彼の行動を知る由もなかった。飛行士らはヘイドンクに対し、この小像の複製は作らないということで同意していたのだが、飛行終了後に彼らが記者会見でこの追悼行為のことを明らかにすると、国立航空宇宙博物館が展示用の小像の複製を作ってほしいと依頼してきた。さらにはヘイドンクも同意を破って複製を作り、広告を出したりしたのだが、NASAからの圧力で販売は取り下げた。後にNASAが15号の最終報告書をまとめたとき、この非公認の小像については何もコメントしていなかった。

計画の記章

15号の飛行士は3名とも現役のアメリカ空軍の軍人であったため、全員が海軍軍人だった12号が航海中の帆船をテーマにしていたのと同じように、記章も空軍をモチーフにしている。円形の記章の中では、鳥を表す赤と白と青の線が月面のハドリー裂溝の上空を飛行している。そのすぐ後ろには、15を表すローマ数字のXVが、クレーターの線で書かれている。全体は青と赤の線で囲まれ、その間の白い帯の中には飛行士たちの名前が記されている。スコットはエミリオ・プッチ (Emilio Pucci) というファッションデザイナーにこの記章の制作を依頼した。プッチの案では当初は形態は四角だったが、飛行士らの意見により円形に改められ、さらに色も青と緑だったのを愛国的な赤と白と青に変更された。ウォーデンによればそれぞれの鳥も各飛行士を表しているそうで、いちばん上にある白は司令船操縦士である彼に、青はスコットに、赤はアーウィンに対応しているとのことである。飛行番号は、NASAは算用数字で表すべきだと強く主張していたが、記章ではローマ数字で表された[10]

宇宙からの痕跡の確認

15号が着陸する際、下降段の排気ガスによって月面に形成された円形の痕跡は、2008年日本の月探査衛星かぐやが撮影した画像の比較分析によって確認された。この画像は15号の司令船から撮影されたものともよく一致し、アポロ計画が終了して以来、月面に残された痕跡を宇宙から撮影した初めての例となった[11]

映像

大衆文化での表現

脚注

  1. ^ 1971 Year in Review: Apollo 14 and 15”. UPI.com. United Press International (1971年). 2013年7月19日閲覧。
  2. ^ a b c d Apollo 15 Flight Journal”. Apollo 15 Flight Journal. NASA. 2011年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月14日閲覧。
  3. ^ a b c d e f Wade, Mark. “Apollo 15”. Encyclopedia Astronautica. 2011年7月14日閲覧。
  4. ^ Day 11: Worden's EVA Day”. Apollo 15 Flight Journal. NASA. 2011年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月14日閲覧。
  5. ^ a b c d Apollo 15 Press Kit” (PDF). Washington, D.C.: NASA (1971年7月15日). 2011年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月14日閲覧。
  6. ^ Bell, Trudy E. (2006年11月6日). “Bizarre Lunar Orbits”. Science@NASA. NASA. 2012年12月9日閲覧。 “月の重力の偏り(mascon)は、ほとんどの低周回衛星の軌道を不安定なものにしている。…50から60マイル上空を周回する衛星は、masconの影響により前後左右に引っ張られる。その正確な方向や引っ張りの強さは衛星の軌道によって異なる。搭載されているロケットで定期的に軌道を修正しなければ、低軌道 (約60マイル、100キロメートル以下) に放出されたほとんどの衛星は最終的には月面に激突することになる。…衛星が半永久的に月を周回し続けることができる「凍結軌道」はいくつかあって、軌道傾斜角が27度、50度、76度、86度のときに発生する—最後のものはほとんど月の極の近くを通ることになる。比較的長期間月を周回した15号の小型衛星PFS-1の軌道は28度で、凍結軌道の一つに近いものだったが、16号のPFS-2はわずか11度だった。
  7. ^ Patterson, Thom (2011年7月27日). “Apollo's most controversial mission”. Light Years (CNN). http://lightyears.blogs.cnn.com/2011/07/27/apollos-most-controversial-mission/ 2011年7月27日閲覧。 
  8. ^ Irwin & Emerson 1973
  9. ^ Apollo Lunar Surface Journal
  10. ^ Worden & French 2011, pp. 144–145
  11. ^ "The 'halo' area around Apollo 15 landing site observed by Terrain Camera on SELENE(KAGUYA)" (Press release). Chōfu, Tokyo: JAXA. 20 May 2008. 2013年7月19日閲覧
  12. ^ Experiment: Light Flashes Experiment Package (Apollo light flash moving emulsion detector)”. Astromaterials Research and Exploration Science Directorate. NASA. 2013年7月17日閲覧。

アポロ月面ジャーナル

  1. ^ a b Landing at Hadley”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA (1996年). 2011年7月14日閲覧。
  2. ^ Stand-Up EVA”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA (1996年). 2011年7月14日閲覧。
  3. ^ Wake-up for EVA-1”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA (1996年). 2011年7月18日閲覧。
  4. ^ a b c d Jones, Eric M. (1995年). “Mountains of the Moon”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA. 2011年6月28日閲覧。

外部リンク

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