「ヨーゼフ・シュトラウス」の版間の差分
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{{Portal クラシック音楽}} |
{{Portal クラシック音楽}} |
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'''ヨーゼフ・シュトラウス'''('''Josef |
'''ヨーゼフ・シュトラウス'''({{Lang-de|'''Josef Strauss'''}}、[[1827年]][[8月20日]] - [[1870年]][[7月22日]])は、[[オーストリア]]の[[作曲家]]・[[指揮者]]。 |
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『[[ラデツキー行進曲]]』で知られる[[ヨハン・シュトラウス1世]]の次男で、ワルツ王[[ヨハン・シュトラウス2世]]の弟にあたる。弟に[[エドゥアルト・シュトラウス1世]]が、甥に[[ヨハン・シュトラウス3世]]がいる([[シュトラウス家]]も参照)。 |
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最初は工業技術者の道を歩んでいたが、兄の代役として作曲家としてデビューしたのを機に、音楽家の道へ。一般的には兄の栄光に隠れがちな存在だが、音楽的能力は優るとも劣らず(ヨハンは兄弟の中でヨーゼフが一番才能があると語っている)、43年の短い生涯の間に220曲以上の作品を残す。 |
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== 概要 == |
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ヨーゼフの作品には兄ヨハンのような華やかさはないが、よりデリケートで詩情にあふれたものである。その作風からヨーゼフは『舞曲のシューベルト』と呼ばれている。『ディナミーデン』がリヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』のオックス・ワルツとして用いられたり、『[[天体の音楽]]』と『わが人生は愛と喜び』がそれぞれドイツ映画『[[会議は踊る]]』のテーマ音楽と第二主題歌として用いられたり、後世への影響も大きい。ポルカではやや作風を異にし、機知とユーモアに富んだ楽しいものが多い。 |
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工学技師の道を歩んでいたが、病に倒れた兄ヨハン2世の代役として指揮を務めたことを契機に音楽家としてデビューした。[[1853年]]に音楽家となってから[[1870年]]に没するまでの約17年間で280曲以上の作品を残し{{#tag:ref|[[作品番号]]のない作品や、兄弟の[[コラボレーション|合作]]などを合わせれば300曲を超える。|group=注釈}}、また500曲以上の編曲も手がけたとされる<ref name="ケンプ(1987) p.79"> ケンプ(1987) p.79</ref>{{sfn|若宮|2014|p=76}}。比較的長寿であったヨハン2世やエドゥアルト1世とは違い、42歳11ヶ月の若さで世を去った。 |
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兄の陰に隠れがちな存在だったがその音楽的能力は兄に優るとも劣らず、ヨハン2世をして「私はただ人気があるだけだ。ヨーゼフのほうが才能に恵まれている<ref name="ケンプ(1987) p.75"> ケンプ(1987) p.75</ref>」と言わしめたほどである。[[ロマン派音楽|初期ロマン派音楽]]、とりわけ[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]の作品に大きな影響を受け、その詩情豊かで深みのある作風から「'''ワルツのシューベルト'''」と呼ばれた。ポルカではやや作風を異にし、『[[鍛冶屋のポルカ]]』のように機知とユーモアに富んだ楽しいものが多い。[[ポルカ・マズルカ]]の分野では兄以上に高く評価されることも多く{{#tag:ref|ケンプ「ポルカ・マズルカというのは、ポルカのステップと、マズルカの四分の三拍子とを結び付けたもので、ヨゼフ・シュトラウスのペンを通して完璧な表現を発見したと言ってもよかろう<ref name="ケンプ(1987) p.76"/>」、[[保柳健]]「ポルカ・マズルカに関してはまさにヨーゼフの独壇場で、45曲余りも作曲して数の上でも兄ヨハン2世をしのいでいるばかりでなく、今日演奏される曲も多い<ref>CD『ヨーゼフ・シュトラウス ポルカ集 / [[ボスコフスキー|ヴィリー・ボスコフスキー]]&[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]]』解説書</ref>」|group=注釈}}、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]が自身のピアノ演奏を録音したことで知られる『[[とんぼ (ヨーゼフ・シュトラウスの曲)|とんぼ]]』などがある。 |
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== 代表作 == |
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===ワルツ=== |
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*『愛の真珠』(Perlen der Liebe)Op.39 |
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*『ウィーンの子供たち』(Wiener Kinder)Op.61 |
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*『調子のいい男』(Flattergeister)Op.62 |
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*『剣と琴』(Schwert und Leyer)Op. 71 |
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*『オーストリアの村つばめ』(Dorfschwalben aus Österreich) Op. 164 |
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*:鳥の声を模する笛が使われる |
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*『ディナミーデン』(Dynamiden) Op. 173 |
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*『トランスアクツィオン』(Transaktionen) Op. 184 |
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*『ドイツの挨拶』(Deutsche Grusse)Op.191 |
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*『[[うわごと (ワルツ)|うわごと]]』(Delireien) Op. 212 |
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*『マリアの調べ』(Marien-Klange)Op.214 |
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*『[[天体の音楽]]』(Sphärenklänge) Op.235 |
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*:最も著名な作品 |
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*『水彩画』(Aquarellen) Op. 258 |
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*『わが人生は愛と喜び』(Mein Lebenslauf ist Lieb' und Lust) Op. 263 |
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*『女性の真価』(Frauenwurde)Op.277 |
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*『ルドルフの調べ』(Rudolfs-Klange)Op.283 |
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『[[ディナミーデン]]』の旋律の一部が[[リヒャルト・シュトラウス]]のオペラ『[[ばらの騎士]]』の「オックス男爵のワルツ」に採り入れられたり、『[[天体の音楽]]』と『[[わが人生は愛と喜び]]』がそれぞれドイツ映画『[[会議は踊る]]』のテーマ音楽と主題歌のメロディとして用いられたりと、後世への影響も大きい。 |
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===ポルカ=== |
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*ポルカ・シュネル『楽しきキャンプ』(Lust-Lager)Op.19 |
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*ポルカ・フランセーズ『水車』(Moulinet) Op. 57 |
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*:風車という場合も |
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*ポルカ・シュネル『昼と夜』(Tag und Nacht)Op.93 |
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*ポルカ・マズルカ『燃える恋』(Brennede Liebe)Op.129 |
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*ポルカ・シュネル『休暇旅行にて』(Auf Ferienreisen) Op. 133 |
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*ポルカ・マズルカ『おしゃべり女』(Die Schwätzerin) Op. 144 |
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*ポルカ・シュネル『ルドルフスハイムの人々』(Rudolfscheimer) Op. 152 |
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*ポルカ・マズルカ『女心』(Frauenherz) Op. 166 |
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*ポルカ・シュネル『スポーツ・ポルカ』(Sport-Polka)Op.170 |
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*ポルカ・フランセーズ『5月の喜び』(Mailust)Op.182 |
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*ポルカ・マズルカ『とんぼ』(Die Libelle) Op. 204 |
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*ポルカ・シュネル『大急ぎで』(Im Fluge)Op.230 |
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*ポルカ・シュネル『短いことづて』(Eingesendet) Op. 240 |
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*ポルカ・シュネル『おしゃべりなかわいい口』(Plappermäulchen) Op. 245 |
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*ポルカ・シュネル『スケート』(Eislauf)Op.261 |
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*ポルカ・フランセーズ『[[鍛冶屋のポルカ]]』(Feuerfest) Op. 269 |
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*ポルカ・シュネル『[[憂いもなく]]』(Ohne Sorgen) Op. 271 |
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*:途中楽団員の笑い声が入る |
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*ポルカ・フランセーズ『芸術家の挨拶』(Kunstler-Gruss)Op.274 |
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*ポルカ・シュネル『騎手』(Jockey) Op. 278 |
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*ポルカ・フランセーズ『上機嫌』(Heiterer Muth)Op.281 |
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*ポルカ・マズルカ『モダンな女』(Die Emanzipierte)Op.282 |
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*『[[ピチカート・ポルカ]]』(兄ヨハンとの共作) |
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== 生涯 == |
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===カドリーユ=== |
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=== 前半生 === |
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*『青ひげカドリーユ』Op.206 |
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==== 誕生 ==== |
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*『射撃のカドリーユ』(兄ヨハン、弟エドゥアルトとの共作) |
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[[File:Johan Strauss padre.jpg|thumb|right|160px|『[[ラデツキー行進曲]]』で知られる父の[[ヨハン・シュトラウス1世]]]] |
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[[1827年]][[8月20日]]、音楽家[[ヨハン・シュトラウス1世]]とその妻[[マリア・アンナ・シュトレイム|マリア・アンナ]]のあいだに次男として誕生。出生地は[[ウィーン]]郊外マリアドルフ{{#tag:ref|現在のマリアヒルファー通り65番地。|group=注釈}}の「市民住宅69号」<ref name="ケンプ(1987) p.75"/>。家族や友人のあいだでは「ペピ(Pepi)」という愛称で呼ばれた<ref name="増田(2003) p.145"> 増田(2003) p.145</ref>。ヨーゼフには生まれつき脳に故障があり、その影響が[[脊椎]]に現れたため、とくに精神的・身体的障害はなかったものの虚弱体質だった<ref name="増田(2003) p.145"/>。このハンディが影響したのか、陽気で明朗な性格の兄ヨハン2世とは違って、控えめで神経質な性格の持ち主に育った<ref name="増田(2003) p.145"/>。 |
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兄とヨーゼフは母によってピアノのレッスンを受けさせられ{{sfn|若宮|2012|p=54}}、ABCよりも早く二分音符を五線譜に書き付け、その意味を理解できるようになったという。父が高名な音楽家であったことから、兄弟の遊びの多くは自然と音楽的なものになった。自宅には父の仕事部屋があり、そこからはリハーサルの音が漏れていた。ヨーゼフは兄とともにそれを注意深く聴きとって、ピアノで[[連弾]]して楽しんでいた<ref name="加藤(2003) p.75">[[#加藤(2003)|加藤(2003)]] p.75</ref>。のちに兄のヨハン2世は「二人ともピアノがバリバリ弾けたと本心から言える<ref name="ケンプ(1987) p.47"> ケンプ(1987) p.47</ref>」「よく二人していろんな家庭に招待され、父の曲を[[暗譜]]で弾いては拍手を浴びた<ref name="ケンプ(1987) p.47"/>」などと回想している。 |
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===行進曲=== |
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*『アンドラーシ行進曲』Op.268 |
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父は息子たちのピアノに全く関心がなかったが、あるとき楽譜出版業者の[[トビアス・ハスリンガー]]から兄弟のピアノの腕前について教えられて驚愕した<ref name="加藤(2003) p.75"/>。ヨーゼフは兄とともに父のいる部屋に呼ばれてピアノを弾くように言われたが、そこにあった[[アップライトピアノ]](当時がそれが普通だった)を見てヨーゼフは「こんなピアノじゃ弾けない」と弁明した<ref name="ケンプ(1987) p.47"/>。父はこのヨーゼフの言葉に驚き、それならばと自分の部屋から[[グランドピアノ]]を持って来させた。その後は兄曰く「二人は父のスタイルで弾いたり、いろんな奏法をこなしてみせたりした<ref name="ケンプ(1987) p.48"> ケンプ(1987) p.48</ref>」。なお、二人はその後「お前たち、誰にもひけをとらないぞ」と父に褒められ、フード付きの上等なマントを褒美として与えられたという<ref name="ケンプ(1987) p.48"/><ref name="加藤(2003) p.75"/>。 |
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{{commons|Category:Josef Strauss}} |
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==== 工学技師の道へ ==== |
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[[File:Technische Universitaet Wien-DSC1103w.jpg|thumb|right|210px|ヨーゼフの通った総合技術専門学校(現在の[[ウィーン工科大学]])]] |
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父ヨハン1世の影響を強く受けて音楽家となった兄[[ヨハン・シュトラウス2世]]とは違って、ヨーゼフには音楽家になろうという意志は全くなかった。名門高校{{仮リンク|ショッテン・ギムナジウム|de|Schottengymnasium}}卒業後はウィーンの総合技術専門学校(現在の[[ウィーン工科大学]])の技術科で機械工学、製図、数学を学んだ<ref name="加藤(2003) p.111">[[#加藤(2003)|加藤(2003)]] p.111</ref>{{sfn|若宮|2012|p=54}}。出席率は対して良くなかったが、最終試験では「一級」の評価を得た<ref name="ケンプ(1987) p.76"> ケンプ(1987) p.76</ref>。 |
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[[1848年革命]]が勃発すると、ヨーゼフは革命側に立って武器を手にして戦った<ref name="加藤(2003) p.111"/>。同年12月23日、父はヨーゼフに軍人になるよう命令したが、「私は人を殺すことを学びたくない。人間として人類に、市民として国家に役立ちたい」として拒絶した<ref name="ケンプ(1987) p.77"> ケンプ(1987) p.77</ref><ref name="加藤(2003) p.112">[[#加藤(2003)|加藤(2003)]] p.112</ref>。父は翌年に死んだため、ヨーゼフは軍人になることを強制されずに済んだ。その後の数年間、ヨーゼフは技師としてのキャリアを順調に積んでいった<ref name="ケンプ(1987) p.77"/>。 |
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*1851年 - 現場監督としてドナウ川支流の石のダムと水門の建設を管理{{#tag:ref|ただし、恋人カロリーネと離れて暮らすのが嫌で、3ヶ月ほどでウィーンに帰ってしまった<ref name="増田(2003) p.147"/>。|group=注釈}} |
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*1852年 - 『数学、工学、幾何学、物理学における実例、公式、表、テスト集』を出版 |
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*1853年 - 同僚とともに[[清掃車|路面清掃車]]の計画書をウィーン市議会に提出 |
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とりわけ自動車に回転するブラシをつけるという路面清掃車の計画は、当初は「実際的でない」として却下されたが、のちに採用され、今日のシステムの前身として評価されている<ref name="ケンプ(1987) p.78"> ケンプ(1987) p.78</ref>。なお、実現はしなかったが、ヨーゼフはさらに雪かき機の設計も提出する意思を示していた<ref name="ケンプ(1987) p.78"/>。 |
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この頃にもヨーゼフは趣味として歌曲やピアノ曲を作曲しており、そうした作品はもっぱら仲間内で演奏された{{sfn|若宮|2012|p=53}}。[[フランツ・マイラー]]によると、ヨーゼフは「素晴らしいピアニストならびに歌手として、仲間内でその種の作品をよく作曲していた」という{{sfn|若宮|2012|p=55}}。{{仮リンク|オットー・ブルサッティ|de|Otto Brusatti}}によれば、作曲年代が判明しているヨーゼフの最古の曲は、[[1849年]]に作曲された『演奏会大ギャロップ』である{{sfn|若宮|2012|p=58}}。ヨーゼフ自らテキストを書き、舞台装置を考え、登場人物や衣裳、背景のスケッチもいろいろ描いた『ローバー』という五幕の劇もある<ref name="ケンプ(1987) p.76"/>。 |
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==== 「最初で最後」 ==== |
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[[File:Café Sperl Wien.jpg|thumb|right|210px|ヨーゼフが指揮者デビューを飾った「{{仮リンク|カフェ・シュペール|label=シュペール|de|Café Sperl}}」]] |
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1849年、父ヨハン1世が死去すると「ヨハン・シュトラウス」はただ一人になり、それまで親子に自然と分散されていたウィーン中の仕事が兄ヨハン2世に集中するようになった。兄は連日連夜の演奏会と作曲活動で身が持たず、しばしば再起不能かと思われるほどの重病に倒れた<ref>[[#小宮(2000)|小宮(2000)]] p.101-102</ref>。 |
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医者たちはヨハン2世に長期の静養を取らねばならないと口々に診断した。母アンナはヨハン2世の代役として(少なくとも一時期は)ヨーゼフにシュトラウス楽団を指揮してもらわなければならないと考えるようになり<ref name="増田(2003) p.147"> 増田(2003) p.147</ref>、ヨハン2世もこれに同調した<ref name="加藤(2003) p.112"/>。 |
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物静かな性格のヨーゼフは、自分が兄のように華やかな世界で生きていけるとは思えず猛反対したが、結局は「シュトラウス家のため」と迫る母と兄の説得に折れた<ref name="ケンプ(1987) p.74"> ケンプ(1987) p.74</ref>。[[1853年]]7月23日、ヨーゼフは療養中の兄に代わって「{{仮リンク|カフェ・シュペール|de|Café Sperl}}」で指揮のデビューを飾ることになった。当日、ヨーゼフは恋人で未来の妻であるカロリーネ・ヨーゼファ・プルックマイヤーに宛ててこう手紙を書いている。 |
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{{cquote|Das Unvermeidliche ist geschehe. Ich spiele zum ersten Male beim "Spelrl": Ich bedaure vom ganzen Herzen, das dies so plötzlich geschehen<ref name="増田(2003) p.147"/>―― |
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(日本語訳)避けられない事態が起こりました。きょう私は初めて”シュペール”で演奏します。こんなことになってしまうなんて、心の底から残念でなりません……<ref name="増田(2003) p.147"/><ref name="ケンプ(1987) p.74"/>。}} |
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ヨーゼフはやがて指揮活動だけでなく、兄に代わって新しいワルツを作曲せねばならない状況に陥った。ヨハン2世は、年に一度のハーナルス教会祭の際に演奏するためのワルツの作曲を引き受けていたが<ref name="増田(2003) p.148"> 増田(2003) p.148</ref>、その依頼をほったらかして長期の静養に入ってしまった。そうこうしているうちに8月29日の演奏予定日が迫ってきたため、やむなくヨーゼフが作曲を手掛けることになった<ref name="増田(2003) p.148"/>。こうして作曲されたのが、ワルツ『'''最初で最後'''』(作品1)である。 |
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『最初で最後』というその曲名からも、当時のヨーゼフの胸中を容易に察することができるが、この『最初で最後』が「卓抜で、独創的、メロディアスなリズム」と新聞に評され、かえってヨーゼフへの人々の期待を高めてしまった<ref name="加藤(2003) p.112"/>。このワルツは6回もアンコールされ、翌日の多くの新聞は「これがヨーゼフ・シュトラウスの最後の作品にならないように望む」などと結んだ<ref name="増田(2003) p.148"/>。 |
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=== 音楽家生活 === |
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==== 音楽家への転身を決意 ==== |
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[[File:Josef Strass.jpg|thumb|right|160px|ヨーゼフ(時期不明)]] |
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9月中旬には兄ヨハン2世がウィーンに戻ってきたため、眼病と頭痛に悩まされていたヨーゼフはただちに臨時指揮者を退いたが<ref name="増田(2003) p.148"/>、翌[[1854年]]6月初旬にヨハン2世は再び体調を崩して静養に出掛けた{{sfn|若宮|2012|p=66}}。そのため、またもやヨーゼフが兄の代理としてシュトラウス楽団の指揮やいくつかの作曲を手掛けることになった{{sfn|若宮|2012|p=66}}。 |
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この頃のヨーゼフは自分の将来について悩み、恋人のカロリーネに「私はどうしたらいいのか困っています」という手紙を送っている。やがてヨーゼフは不本意ながらも音楽家となる決意を固め、1854年7月にワルツ『'''最後の後の最初'''』(作品12)を発表した<ref name="増田(2003) p.148"/>。それまでの作品は『最初で最後』のように兄の代理としてやむなく作曲したものであったが、このワルツでヨーゼフは音楽の世界に留まり続けることを表明したのである。この年、正式に技師を辞めた{{sfn|若宮|2012|p=54}}。 |
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音楽家に転身することを決意したヨーゼフは、音楽理論と作曲法と[[ヴァイオリン]]演奏を徹底的に学び始めた<ref name="加藤(2003) p.112"/>。ヴァイオリンの師は兄と同じく、父の楽団で第一奏者だったフランツ・アモンであった<ref name="加藤(2003) p.112"/>。[[1857年]]3月16日<ref name="ケンプ(1987) p.79"/>、ヨーゼフは2年間の正規の音楽教育を修了し<ref name="加藤(2003) p.142">[[#加藤(2003)|加藤(2003)]] p.142</ref>、和声学の教授[[フランツ・ドレシャル]]から次のような免状を与えられた。 |
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{{cquote|本日行われた通奏低音と作曲の原理についての試験を、最優秀な成績で合格した<ref name="エンドラー(1999) p.103"> エンドラー(1999) p.103</ref>。彼の音楽の実地での最大の能力を保証する<ref name="ケンプ(1987) p.79"/>。}} |
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この時期の作品としては、現在でもよく演奏されるポルカ・フランセーズ『[[小さな水車]]』(作品57)や、発表後たちまちウィーンの小唄に変えられて大流行したというワルツ『調子のいい男』(作品62)などがある<ref name="増田(2003) p.149"/>。なお、[[1858年]]6月15日には『理想』というワルツを初演して新聞に「傑作」と称えられたが、この曲は原稿が紛失したために出版できなかった<ref name="増田(2003) p.149"/>。 |
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==== ロマン派音楽への傾倒 ==== |
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[[File:Strauss Josef Luckhardt.png|thumb|right|160px|ヨーゼフ(時期不明)]] |
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ヨーゼフは古典音楽の大讃美者であり、[[フランツ・シューベルト|シューベルト]]を始めとする[[ロマン派音楽]]に傾倒した。[[1855年]]、兄ヨハン2世に宛てた書簡のなかでヨーゼフは「私の人生は3/4拍子だけには留まらないでしょう{{sfn|若宮|2012|p=58}}」と書いた。「3/4拍子」とはすなわちワルツであり、純粋なダンス音楽の作曲家のみで終わるつもりはないことを宣言したのである{{sfn|若宮|2012|p=58}}。古典音楽を積極的に吸収しつつ、ヨーゼフは「交響楽的ワルツ」という新しい境地を開こうとした<ref name="増田(2003) p.149"/>。 |
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1857年6月8日、ヨーゼフは交際していたカロリーネと結婚した<ref name="増田(2003) p.149"> 増田(2003) p.149</ref>。その際に彼女に捧げたワルツ『[[愛の真珠]]』(作品39)をヨーゼフは「コンサート・ワルツ」と定義づけた。しかしこのワルツはヨーゼフの期待ほどは評価されず、「ランナーのスタイルに傾いている」と新聞に評された<ref name="増田(2003) p.149"/>。ウィーン市民は、兄のヨハン2世をヨハン1世の後継者として、そして弟のヨーゼフを[[ヨーゼフ・ランナー]]の後継者として捉えていた<ref name="増田(2003) p.148"/>。しかし、当のヨーゼフ自身は、ランナーの後継者以上の評価を得たいと考えていたのである。 |
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[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]や[[フランツ・リスト|リスト]]をあまり評価しない批評家たちには良く思われなかったが<ref>エンドラー(1999) p.122</ref>、ヨーゼフはワーグナー、リスト、[[ロベルト・シューマン|シューマン]]、そしてシューベルトの作品を自身の演奏会のレパートリーに加えた。ワーグナーの作品のウィーン初演はヨーゼフに任され<ref>エンドラー(1999) p.104</ref>、[[1860年]]初夏には早くもワーグナーの楽劇『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』の一部をウィーンで演奏している<ref name="エンドラー(1999) p.123"> エンドラー(1999) p.123</ref>。その後ヨーゼフは、当時のウィーンでは演奏が難しいとされていた[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]の作品も、まるでワーグナーの作品とは方向性や見解の相違がまったくないかのように演奏し始めた<ref name="エンドラー(1999) p.123"/>。こうした音楽的姿勢からヨーゼフは、同時代のドイツの作曲家[[ペーター・コルネリウス]]から「教養のある音楽家」と評された<ref name="増田(2003) p.149"/>。 |
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[[1864年]]9月、ワルツ『[[オーストリアの村つばめ]]』(作品164)とポルカ・マズルカ『[[女心 (ヨーゼフ・シュトラウスの曲)|女心]]』(作品166)を初演した<ref name="増田(2003) p.151"/>。ワルツ『[[ウィーンの森の物語]]』に先立つこと4年、当時はまだ兄ヨハン2世もこの詩的なワルツの域には達していなかった<ref name="増田(2003) p.151"/>。同年10月、[[プロイセン王国]]領[[ヴロツワフ]]の興行主が、オーケストラを編成して3000席のホールで演奏して欲しいと申し出てきたため、この契約に署名した<ref name="増田(2003) p.151"> 増田(2003) p.151</ref>。ヨーゼフは母と兄のいるウィーンから離れた場所で独自の活動ができることに気を良くしたが、期待に反してヴロツワフでの活動は惨めなものだった。ヨーゼフの手紙によると、オーケストラはあまりにも貧弱で、ヨーゼフのレパートリーでこのオーケストラが演奏できる曲にはかなりの制限があったという<ref name="増田(2003) p.151"/>。 |
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傷心のうちにウィーンに戻ったヨーゼフは、ますます熱心に古典ロマン派音楽を学んだ。シューベルト、シューマンらに加えて、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]や[[エクトル・ベルリオーズ|ベルリオーズ]]なども加わり、これらの楽風を採り入れた曲を書こうとした。その代表格がワルツ『[[ディナミーデン]]』(作品173)である<ref name="増田(2003) p.151"/>。[[1865年]]、ヨーゼフは作曲中に突如として意識を失った<ref name="増田(2003) p.152"> 増田(2003) p.152</ref>。休養をとって回復した後、ヨーゼフはさらにシューベルトに傾倒し、オーケストラのレパートリーに『[[弦楽四重奏曲第13番 (シューベルト)|ロザムンデ]]』を加えるなどした<ref name="増田(2003) p.152"/>。この時期の作品にワルツ『[[トランスアクツィオン]]』(作品184)がある。 |
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==== 円熟期 ==== |
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[[File:Josef Strauss by Hans Schliessmann-28.jpg|thumb|right|210px|指揮するヨーゼフ(1869年)]] |
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かつて父ヨハン1世がランナーと「ワルツ合戦」を繰り広げたように、ヨーゼフも兄ヨハン2世と激しく競った<ref name="増田(2003) p.154"> 増田(2003) p.154</ref>。しかしヨーゼフはもはや「ランナーの後継者」ではなく「'''ワルツのシューベルト'''」と看做されるようになっていた。なお、[[1867年]]にヨーゼフがワルツ『[[うわごと]]』(作品212)を発表した際、ヨハン2世はヨーゼフに兜を脱ぎ、次のように言ったという。 |
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{{cquote|ペピのほうが才能がある。私はただ人気があるだけだ<ref name="増田(2003) p.154"/>。}} |
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作曲に関しては兄も認める才能の持ち主だったヨーゼフだが、一般的な注目度では父と同じ「ヨハン・シュトラウス」という名を受け継いでいる兄に劣った。兄弟の作品はしばしばシュトラウスという名前でひとくくりにされ、ヨーゼフの作品であるにも関わらず楽譜の表紙に「ヨハン・シュトラウス」と印字されることさえあった<ref>[[#小宮(2000)|小宮(2000)]] p.106</ref>。 |
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これに不満を抱いていたヨーゼフは兄と並び立つ存在であろうとし、生来病弱な体であったにもかかわらず、無理を押して精力的な作曲活動を行った。例えば、1867年にヨーゼフが発表した作品数は、『マリアの調べ』(作品214)ほか25曲という驚異的な数字であった<ref name="加藤(2003) p.159">[[#加藤(2003)|加藤(2003)]] p.159</ref>。同年のシュトラウス兄弟の新曲は、兄ヨハンが6曲、弟[[エドゥアルト・シュトラウス1世|エドゥアルト]]が8曲であり、ヨーゼフが突出して多い<ref name="加藤(2003) p.159"/>。[[1868年]]、ヨーゼフはワルツ『[[天体の音楽]]』(作品235)を発表。この時期のヨーゼフはストレス解消のために[[レオポルトシュタット]]のカフェで毎日のように夜明けまでカード遊びをし、[[葉巻]]を日に20本も吸っていたという<ref name="増田(2003) p.155"> 増田(2003) p.155</ref>。この頃、過労のせいでヨーゼフは再び倒れた<ref name="増田(2003) p.155"/>。 |
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[[1869年]]2月1日、ヨーゼフはワルツ『[[水彩画 (ワルツ)|水彩画]]』(作品258)を初演した。それから6日後の2月7日にはワルツ『[[わが人生は愛と喜び]]』(作品263)を初演し、大喝采を浴びた。3月13日には『[[鍛冶屋のポルカ]]』(作品269)を発表。立て続けに傑作を生み出すヨーゼフは、明らかに当時の兄にとって最大の音楽的なライバルであったが、それにもかかわらず聴衆の反応は兄とは違うものであることが多かった<ref name="エンドラー(1999) p.123"/>。兄とともにロシアの[[パヴロフスク]]へ出かけた際にヨーゼフは、異常なほどの人気者である兄と比較されることを心配している。 |
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{{cquote|私のここでの立場は容易なものではない。先入主(=兄)にたいして戦わねばなりません<ref name="ケンプ(1987) p.126"> ケンプ(1987) p.126</ref>。 |
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(ウィーンに残してきた妻カロリーネ宛ての手紙、1869年4月16日付{{#tag:ref|[[ユリウス暦|ロシア暦]]。[[グレゴリオ暦]]では4月26日。|group=注釈}})}} |
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ちなみに、有名な『[[ピツィカート・ポルカ]]』(作品番号なし)は、このロシア演奏旅行のときに兄と合作したものである。翌[[1870年]]2月17日には『[[ジョッキー・ポルカ]]』(作品278)を初演。4月4日にはワルツ『[[宵の明星の軌道]]』(作品279)を初演し、これもまた聴衆の大喝采を得た。兄の名声には及ばぬものの作曲家として絶頂にあったヨーゼフだったが、それは死の前の最後の輝きともいえるものだった。 |
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==== 死去 ==== |
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[[File:Zentralfriedhof Josef Strauß.JPG|thumb|right|210px|[[ウィーン中央墓地]]のヨーゼフの墓。母アンナとの共同墓で、父ヨハン1世の墓の向かい正面に位置する。はじめマルクス墓地に埋葬されたが、のちに改葬された]] |
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1869年10月10日、パヴロフスクの鉄道会社は変化を求めて「1870年以降は他の音楽家と契約する」とシュトラウス兄弟に通告した。他の音楽家とは、プロイセンの[[ベンヤミン・ビルゼ]]であった<ref name="ケンプ(1987) p.127"> ケンプ(1987) p.127</ref>。そのためヨーゼフはビルゼが[[ワルシャワ]]で空席にしてきたポストを狙い、1870年5月15日から9月15日までの契約を取り付けた<ref name="ケンプ(1987) p.127"/>。 |
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ワルシャワでの仕事は、諸々の問題に悩まされることになった。習慣の違いから楽譜や楽器の到着は遅れ、予約していた宿泊施設も使えなかった<ref name="ケンプ(1987) p.129"> ケンプ(1987) p.129</ref>。大勢の楽員も[[エージェント]]の手落ちでやって来ず、開始予定日二日後の5月17日、ヨーゼフは兄に宛ててこう書いた。 |
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{{cquote|ぼくは憂鬱です。いつ始まるかの見込みも立ちません。この手紙が兄さんの手に届く頃、破局は最高潮に達しているでしょう……<ref name="ケンプ(1987) p.129"/>。}} |
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弟エドゥアルトが援助してくれたおかげで、ヨーゼフは5月22日にようやく最初の演奏会を開くことができた<ref name="ケンプ(1987) p.129"/>。しかしそれからわずか10日後の6月1日、「スイスの谷」のコンサートホールでの指揮のさなか<ref name="加藤(2003) p.160">[[#加藤(2003)|加藤(2003)]] p.160</ref>、突如として指揮台の上で倒れ、意識を回復しないまま宿舎に連れ戻された<ref name="ケンプ(1987) p.129"/>。6月5日にウィーンからワルシャワに急行した妻カロリーネが見たときのヨーゼフは、のちに弟エドゥアルトが書いているように「手足は麻痺し、口もろくにきけなかった」という<ref name="ケンプ(1987) p.129"/>。ヨーゼフを診察したポーランドの医者は、[[脳卒中]]の兆候があり、[[脳腫瘍]]が破裂した可能性があると診断した<ref name="ケンプ(1987) p.129"/>。ヨーゼフは小康を保ったのち、6月15日に再発作を起こした<ref name="増田(2003) p.158"> 増田(2003) p.158</ref>。ワルシャワでの契約がまだ残っていたため、ヨハン2世が急遽ワルシャワに赴いて指揮することになった<ref name="渡辺(1989) p.327">[[#渡辺(1989)|渡辺(1989)]] p.327</ref>。 |
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7月17日、カロリーネは異国で倒れた夫をウィーンに連れ帰る決心をする<ref name="ケンプ(1987) p.130"/>。この時ヨーゼフの意識ははっきりしていたという<ref name="増田(2003) p.158"/>。7月22日午後1時30分<ref name="増田(2003) p.158"/>、ヨーゼフはシュトラウス家の自宅「雄鹿館」で息を引き取った。カロリーネが遺体解剖を拒絶したため、具体的な死因は分かっていない<ref name="ケンプ(1987) p.130"> ケンプ(1987) p.130</ref><ref name="増田(2003) p.158"/>。酔っ払いのロシア人兵士たちから受けた傷がもとで死んだという事実無根の噂がヨーロッパ中に広まり、公式に否定されたが多くの人々に信じられた<ref name="増田(2003) p.158"/>。親交があった[[フィリップ・ファールバッハ2世]]によって、のちに『[[ヨーゼフ・シュトラウスの想い出]](Erinnerung an Josef Strauß)』という亡きヨーゼフを偲ぶワルツが作曲された。 |
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10月18日の追悼式では、代表作である『オーストリアの村つばめ』と『女心』が兄の指揮のもとで演奏された<ref>[http://www5f.biglobe.ne.jp/~strauss/nyconcert/ny15.pdf ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2015曲目解説]〈オーストリアの村つばめ〉より</ref>。ヨーゼフの死の5か月前である2月23日には母アンナも世を去っており{{#tag:ref|このときヨーゼフは母のベッドで失神したと伝わる<ref name="増田(2003) p.157"> 増田(2003) p.157</ref>。|group=注釈}}、ごく短期間に母と長弟を失ったヨハン2世は一時的に創作意欲を失ってしまった。ヨーゼフは[[オペラ]]、[[交響曲]]、[[歌曲]]の作曲も目指していたが、その夢が叶うことはなかった<ref name="加藤(2003) p.160">[[#加藤(2003)|加藤(2003)]] p.160</ref>。『{{仮リンク|モルゲン・ポスト|de|Morgen-Post}}』誌は、死亡記事のなかで次のように書いた。 |
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{{cquote|ヨーゼフは彼の人生の最大の野心、[[グランド・オペラ]]の作曲を果たさないうちに死んだ<ref name="ケンプ(1987) p.131"> ケンプ(1987) p.131</ref>。}} |
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なお、ヨーゼフは1969年に「違う種類の作曲に転向中」と語っており、また妻カロリーネや同名の娘カロリーネがともに、ヨーゼフが書いたと思われる[[オペレッタ]]について書いているが、そのオペレッタはヨーゼフが死ぬと謎のように消えた<ref name="ケンプ(1987) p.131"/>。 |
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=== 死後 === |
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[[File:Strauss-Reiterer Frühlingsluft-12.jpg|thumb|right|210px|オペレッタ『{{仮リンク|春の空気|de|Frühlingsluft}}』]] |
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残されたヨーゼフの妻子は、その後もシュトラウス家と楽団の練習場がある「雄鹿館」の一室で生活を続けた{{sfn|若宮|2012|p=55}}。ヨーゼフの死後、このような噂が広まった。ヨハン2世は残されたヨーゼフの妻子に対して生活援助を行ったが、その見返りとして弟の遺した手稿をすべて譲り受けた<ref name="小宮(2000) p.108">[[#小宮(2000)|小宮(2000)]] p.108</ref>。ヨハン2世は弟の未発表の曲を盗作しようともくろみ、生活援助という名目でヨーゼフの未亡人に近づいた<ref name="小宮(2000) p.108"/>。そして未亡人と肉体関係を結んで手稿を手に入れて<ref name="小宮(2000) p.108"/>、その遺稿をもとにして作り上げたのがオペレッタ『[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]』である、と<ref name="渡辺(1989) p.326">[[#渡辺(1989)|渡辺(1989)]] p.326</ref>。特に最後の『こうもり』が盗作だという噂の出どころは、どうやら末弟のエドゥアルトであるらしい<ref name="渡辺(1989) p.326"/>。 |
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ヨーゼフは多作の人であったにも関わらず、その書斎から遺作がほとんど見つからなかったこと、ヨハン2世が未亡人となったカロリーネに多額の金額を贈っていることが噂の根拠とされた<ref name="渡辺(1989) p.326"/>。実際のところヨハン2世は、ワルシャワでヨーゼフに代わって指揮をしたことによって受け取った多額の報酬を、そのままカロリーネに贈っただけである<ref name="渡辺(1989) p.327"/>。また、遺言執行人としてヨーゼフの書斎を調べたヨハン2世によって発見されたものは、すべて世に発表されたものだったという<ref name="渡辺(1989) p.327"/>。 |
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死後33年が経った[[1903年]]、ヨーゼフの曲ばかりを構成して作られたオペレッタ『{{仮リンク|春の空気|de|Frühlingsluft}}』が登場した<ref name="エンドラー(1999) p.126"> エンドラー(1999) p.126</ref>。これ以降、『女の気持ち』、『ウィーンの森の燕』、『美人の娘』、『白い旗』、『人生を楽しもう』、『ワルツの夢』、『シュトラウス家の息子たち』など、ヨーゼフおよび兄ヨハン2世の曲を使ったオペレッタが続々と登場した<ref name="エンドラー(1999) p.126"/>。これらの作品には「ヨーゼフ・シュトラウスのモチーフに基づいて」や「今は亡きヨーゼフ・シュトラウスの音楽」といったサブタイトルが付けられている<ref name="エンドラー(1999) p.126"/>。 |
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妻カロリーネは、夫の遺品として楽団とは関係のないヨーゼフの楽譜(ピアノ譜など)を保有し続けた{{sfn|若宮|2012|p=55}}。[[1907年]]10月22日にエドゥアルトが楽団所有の楽譜を焼却処分した際にも、このような理由でヨーゼフのいくらかの手稿は燃やされずに済み、現在まで受け継がれている{{sfn|若宮|2012|p=55}}。エドゥアルトは馬車7台分の楽譜を焼却したとされ{{sfn|若宮|2014|p=85}}、これによってシュトラウス家の作品は出版されたものばかりが残っている状況であり、ヨーゼフの手稿は限られた一次資料として貴重なものとなっている。 |
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== 家族 == |
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*妻 カロリーネ・ヨーゼファ・プルックマイヤー(Caroline Josepha Pruckmayer、1831年 - 1900年) |
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*娘 カロリーネ・アンナ・シュトラウス(Karoline Anna Strauss、1858年 - 1919年) |
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なお、妻のカロリーネは、かつて兄ヨハン2世の恋人だった<ref name="エンドラー(1999) p.106"> エンドラー(1999) p.106</ref>。ちなみにヨハン2世はロシア・パヴロフスクの地から、義妹となったウィーンのカロリーネにこんな手紙を送ったことがある。 |
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{{cquote|この瞬間、君にキスしてもらいたい気持ちでいっぱいなんだ……。これまでにない厚かましさでこれからは君を悩ませるつもりだからね。男の子が欲しいのだろ?リーナ、そういうことならいくらでも協力するので、そのときは君を愛している義理の兄ジャン(ヨハンの愛称)のことはお忘れなく。どうかこの最後の言葉は他人にもらさないように<ref name="エンドラー(1999) p.106"/>。}} |
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== 作品 == |
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{{main|ヨーゼフ・シュトラウスの楽曲一覧}} |
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=== ワルツ === |
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特に著名な「七大ワルツ」は太字で表記。 |
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*『[[最初で最後 (ワルツ)|最初で最後]]』(Die Ersten und Letzten) op.1 |
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*『子守歌』(Wiegenlieder) op.18 |
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*『五月のバラ』(Mai-Rosen) op.34 |
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*『[[愛の真珠]]』(Perlen der Liebe) op.39 |
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*『調子のいい男』(Flattergeister) op.62 |
|||
*『'''[[オーストリアの村つばめ]]'''』(Dorfschwalben aus Österreich) op.164 |
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*『'''[[ディナミーデン]]'''』(Dynamiden) op.173 |
|||
*『'''[[トランスアクツィオン]]'''』(Transaktionen) op.184 |
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*『[[ドイツの挨拶]]』(Deutsche Grusse) op.191 |
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*『'''[[うわごと]]'''』(Delirien) op.212 |
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*『マリアの調べ』(Marien-Klänge) op.214 |
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*『学生の夢』(Studententräume) op.222 |
|||
*『秋のバラ』(Herbstrosen) op.232 |
|||
*『'''[[天体の音楽]]'''』(Sphärenklänge) op.235 |
|||
*『真面目とユーモア』(Ernst und Humor) op.254 |
|||
*『'''[[水彩画 (ワルツ)|水彩画]]'''』(Aquarellen) op.258 |
|||
*『'''[[わが人生は愛と喜び]]'''』(Mein Lebenslauf ist Lieb' und Lust) op.263 |
|||
*『[[女の面目]]』(Frauenwürde) op.277 |
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*『[[宵の明星の軌道]]』(Hesperus-Bahnen) op.279 |
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=== ポルカ === |
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*ポルカ・フランセーズ『[[小さな水車]]』(Moulinet) op.57 |
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*ポルカ・フランセーズ『[[ラクセンブルク・ポルカ]]』(Laxenburger) op.60 |
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*ポルカ・シュネル『スブレット』(Die Soubrette) op.109 |
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*ポルカ・シュネル『[[休暇旅行で]]』(Auf Ferienreisen) op.133 |
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*ポルカ・シュネル『ルドルフスハイムの人々』(Rudolfsheimer) op.152 |
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*ポルカ・フランセーズ『[[糸を紡ぐ女]]』(Die Spinnerin) op.192 |
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*ポルカ・フランセーズ『ウィーンの生活』(Wiener Leben) op.218 |
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*ポルカ・シュネル『[[大急ぎで]]』(Im Fluge) op.230 |
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*ポルカ・シュネル『[[短いことづて]]』(Eingesendet) op.240 |
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*ポルカ・シュネル『[[おしゃべりなかわいい口]]』(Plappermäulchen) op.245 |
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*ポルカ・シュネル『スケート』(Eislauf) op.261 |
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*ポルカ・フランセーズ『[[鍛冶屋のポルカ]]』(Feuerfest) op.269 |
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*ポルカ・シュネル『[[憂いもなく]]』(Ohne Sorgen) op.271 |
|||
*ポルカ・フランセーズ『芸術家の挨拶』(Kunstler-Gruss) op.274 |
|||
*ポルカ・シュネル『[[騎手 (ヨーゼフ・シュトラウスの曲)|騎手]]』(Jockey) op.278 |
|||
*ポルカ・フランセーズ『[[上機嫌 (ヨーゼフ・シュトラウスの曲)|上機嫌]]』(Heiterer Muth) op.281 |
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*『[[ピツィカート・ポルカ]]』(Pizzicato-Polka) |
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*:兄ヨハン2世との共作、作品番号なし |
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=== ポルカ・マズルカ === |
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*『[[燃える恋]]』(Brennede Liebe) op.129 |
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*『[[おしゃべり女]]』(Die Schwätzerin) op.144 |
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*『[[女心 (ヨーゼフ・シュトラウスの曲)|女心]]』(Frauenherz) op.166 |
|||
*『[[とんぼ (ヨーゼフ・シュトラウスの曲)|とんぼ]]』(Die Libelle) op.204 |
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*『腕を組んで』(Arm in Arm) op.215 |
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*『[[遠方から]]』(Aus der Ferne) op.270 |
|||
*『[[モダンな女]]』(Die Emanzipierte) op.282 |
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=== 行進曲 === |
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*『[[日本行進曲 (ヨーゼフ・シュトラウス)|日本行進曲]]』(Japanesischer Marsch) |
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=== その他 === |
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==== ピアノ曲 ==== |
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*『演奏会用大ギャロップ』(Grand Galoppe du concert) |
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*『カプリス』(Capprice{{#tag:ref|フランス語では正しくは「Caprice」と綴るが、ここではヨーゼフの自筆譜の表記に従う{{sfn|若宮|2012|p=55}}。|group=注釈}}) |
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*『主題と変奏』(Thême variée) |
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*『演奏会用大行進曲』(Grand marche du concert) |
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*『メランコリエ』(Melancholie) |
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*『ラプソディー』(Rhapsodie) |
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*『セレナーデ』(Serenade) |
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*『夕べの鐘』(Abendläuten) |
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==== ファンタジー ==== |
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*『幻想的なアレグロ』(Allegro fantastique) |
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*オーケストラのための幻想小品『心の痛み (愛の苦しみ)』(Peine du coeur) |
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== 脚注== |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{reflist|group=注釈}} |
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=== 出典 === |
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<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|3}}</div> |
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== 参考文献 == |
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{{commonscat|Josef Strauss}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[音楽之友社]]|date=1959|title=名曲解説全集 第三巻 管弦楽曲(上)|publisher=[[音楽之友社]]}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[小川昂]]|date=1975年11月|title=洋楽索引――作曲者と原題と訳題を引き出すための|publisher=[[東京音楽社]]|ref=小川(1975)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[小川昂]]|date=1981年2月|title=洋楽索引(下巻)――作曲者と原題と訳題を引き出すための|publisher=[[東京音楽社]]|ref=小川(1981)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[吉崎道夫]]|date=1978|title=クラシック音楽案内|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=|ref=吉崎(1978)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[神保璟一郎]]|date=1983年11月10日|title=クラシック音楽鑑賞辞典|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-158620-3|ref=神保(1983)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[井上和男]]|date=1985年|title=クラシック音楽作品名辞典|publisher=[[三省堂]]|isbn=|ref=井上(1985)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=ピーター・ケンプ|translator=[[木村英二]]|date=1987年10月|title=シュトラウス・ファミリー――ある音楽王朝の肖像|publisher=音楽之友社|isbn=4276-224241|ref=ケンプ(1987)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[渡辺護]]|date=1989年2月20日|title=ウィーン音楽文化史(上)|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=4-276-11062-9|ref=渡辺(1989)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[志鳥栄八郎]]|date=1996年10月10日|title=クラシック一日一曲――作曲家・作品・演奏家で綴る三六六日|publisher=[[音楽之友社]]|isbn=4-276-21018-6|ref=志鳥(1996)}} |
|||
*[[増田芳雄]][https://tezukayama.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=611&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=21 「ウィーンのオペッレター 1.ヨハン・シュトラウスの“こうもり"(DieFledermaus)について」](『人間環境科学』第7巻、1998年) |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[フランツ・エンドラー ]]|translator=[[喜多尾道冬]]、[[新井裕]]|date=1999年11月 |title=ヨハン・シュトラウス――初めて明かされたワルツ王の栄光と波瀾の生涯|publisher=音楽之友社|isbn=9784-27622-4254|ref=エンドラー(1999)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[小宮正安]]|date=2000年12月10日|title=ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン|series=[[中公新書]]|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=4-12-101567-3|ref=小宮(2000)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[加藤雅彦]]|date=2003年12月20日|title=ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産|series=[[NHKブックス]]|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=4-14-001985-9|ref=加藤2003}} |
|||
*増田芳雄「ヨーゼフ・シュトラウス――ワルツのシューベルト」([[帝塚山大学]]『人間環境科学』第12巻、2003年) |
|||
*{{Cite journal|和書|journal=[[帝京大学]]文学部教育学科紀要|title=ヨーゼフ・シュトラウスによる初期ピアノ曲の記譜法|volume=|issue=第37号|pages=53-67|author=[[若宮由美]]|publisher=|date=2012-03|id=|url=https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/kyoiku37-07.pdf|ref={{sfnRef|若宮|2012}}}} |
|||
*{{Cite journal|和書|journal=[[埼玉学園大学]]紀要(人間学部篇)|title=ヨーゼフ・シュトラウスの<ロメオとジュリエット>―グノーのオペラに基づくポプリ|volume=|issue=第14号|pages=75-87|author=[[若宮由美]]|publisher=|date=2014-12|id=|url=http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol14/human/07_wakamiya.pdf|ref={{sfnRef|若宮|2014}}}} |
|||
*{{Cite journal|和書|journal=[[埼玉学園大学]]紀要(人間学部篇)|title=アーベルトのオペラ≪アストルガ≫とヨーゼフ・シュトラウスのポプリ|volume=|issue=第15号|pages=151-163|author=[[若宮由美]]|publisher=|date=2015-12|id=|url=http://id.nii.ac.jp/1354/00000163/|ref={{sfnRef|若宮|2015}}}} |
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{{Normdaten}} |
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{{DEFAULTSORT:しゆとらうす よおせふ}} |
{{DEFAULTSORT:しゆとらうす よおせふ}} |
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2016年9月25日 (日) 15:13時点における版
ヨーゼフ・シュトラウス Josef Strauss | |
---|---|
基本情報 | |
別名 | ワルツのシューベルト |
生誕 | 1827年8月20日 |
出身地 | オーストリア帝国、ウィーン |
死没 |
1870年7月22日(42歳没) オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン |
ジャンル |
ウィンナ・ワルツ ポルカ 行進曲など |
職業 | 作曲家、指揮者 |
活動期間 | 1853年 - 1870年 |
ヨーゼフ・シュトラウス(ドイツ語: Josef Strauss、1827年8月20日 - 1870年7月22日)は、オーストリアの作曲家・指揮者。
『ラデツキー行進曲』で知られるヨハン・シュトラウス1世の次男で、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世の弟にあたる。弟にエドゥアルト・シュトラウス1世が、甥にヨハン・シュトラウス3世がいる(シュトラウス家も参照)。
概要
工学技師の道を歩んでいたが、病に倒れた兄ヨハン2世の代役として指揮を務めたことを契機に音楽家としてデビューした。1853年に音楽家となってから1870年に没するまでの約17年間で280曲以上の作品を残し[注釈 1]、また500曲以上の編曲も手がけたとされる[1][2]。比較的長寿であったヨハン2世やエドゥアルト1世とは違い、42歳11ヶ月の若さで世を去った。
兄の陰に隠れがちな存在だったがその音楽的能力は兄に優るとも劣らず、ヨハン2世をして「私はただ人気があるだけだ。ヨーゼフのほうが才能に恵まれている[3]」と言わしめたほどである。初期ロマン派音楽、とりわけシューベルトの作品に大きな影響を受け、その詩情豊かで深みのある作風から「ワルツのシューベルト」と呼ばれた。ポルカではやや作風を異にし、『鍛冶屋のポルカ』のように機知とユーモアに富んだ楽しいものが多い。ポルカ・マズルカの分野では兄以上に高く評価されることも多く[注釈 2]、ブラームスが自身のピアノ演奏を録音したことで知られる『とんぼ』などがある。
『ディナミーデン』の旋律の一部がリヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』の「オックス男爵のワルツ」に採り入れられたり、『天体の音楽』と『わが人生は愛と喜び』がそれぞれドイツ映画『会議は踊る』のテーマ音楽と主題歌のメロディとして用いられたりと、後世への影響も大きい。
生涯
前半生
誕生
1827年8月20日、音楽家ヨハン・シュトラウス1世とその妻マリア・アンナのあいだに次男として誕生。出生地はウィーン郊外マリアドルフ[注釈 3]の「市民住宅69号」[3]。家族や友人のあいだでは「ペピ(Pepi)」という愛称で呼ばれた[6]。ヨーゼフには生まれつき脳に故障があり、その影響が脊椎に現れたため、とくに精神的・身体的障害はなかったものの虚弱体質だった[6]。このハンディが影響したのか、陽気で明朗な性格の兄ヨハン2世とは違って、控えめで神経質な性格の持ち主に育った[6]。
兄とヨーゼフは母によってピアノのレッスンを受けさせられ[7]、ABCよりも早く二分音符を五線譜に書き付け、その意味を理解できるようになったという。父が高名な音楽家であったことから、兄弟の遊びの多くは自然と音楽的なものになった。自宅には父の仕事部屋があり、そこからはリハーサルの音が漏れていた。ヨーゼフは兄とともにそれを注意深く聴きとって、ピアノで連弾して楽しんでいた[8]。のちに兄のヨハン2世は「二人ともピアノがバリバリ弾けたと本心から言える[9]」「よく二人していろんな家庭に招待され、父の曲を暗譜で弾いては拍手を浴びた[9]」などと回想している。
父は息子たちのピアノに全く関心がなかったが、あるとき楽譜出版業者のトビアス・ハスリンガーから兄弟のピアノの腕前について教えられて驚愕した[8]。ヨーゼフは兄とともに父のいる部屋に呼ばれてピアノを弾くように言われたが、そこにあったアップライトピアノ(当時がそれが普通だった)を見てヨーゼフは「こんなピアノじゃ弾けない」と弁明した[9]。父はこのヨーゼフの言葉に驚き、それならばと自分の部屋からグランドピアノを持って来させた。その後は兄曰く「二人は父のスタイルで弾いたり、いろんな奏法をこなしてみせたりした[10]」。なお、二人はその後「お前たち、誰にもひけをとらないぞ」と父に褒められ、フード付きの上等なマントを褒美として与えられたという[10][8]。
工学技師の道へ
父ヨハン1世の影響を強く受けて音楽家となった兄ヨハン・シュトラウス2世とは違って、ヨーゼフには音楽家になろうという意志は全くなかった。名門高校ショッテン・ギムナジウム卒業後はウィーンの総合技術専門学校(現在のウィーン工科大学)の技術科で機械工学、製図、数学を学んだ[11][7]。出席率は対して良くなかったが、最終試験では「一級」の評価を得た[4]。
1848年革命が勃発すると、ヨーゼフは革命側に立って武器を手にして戦った[11]。同年12月23日、父はヨーゼフに軍人になるよう命令したが、「私は人を殺すことを学びたくない。人間として人類に、市民として国家に役立ちたい」として拒絶した[12][13]。父は翌年に死んだため、ヨーゼフは軍人になることを強制されずに済んだ。その後の数年間、ヨーゼフは技師としてのキャリアを順調に積んでいった[12]。
- 1851年 - 現場監督としてドナウ川支流の石のダムと水門の建設を管理[注釈 4]
- 1852年 - 『数学、工学、幾何学、物理学における実例、公式、表、テスト集』を出版
- 1853年 - 同僚とともに路面清掃車の計画書をウィーン市議会に提出
とりわけ自動車に回転するブラシをつけるという路面清掃車の計画は、当初は「実際的でない」として却下されたが、のちに採用され、今日のシステムの前身として評価されている[15]。なお、実現はしなかったが、ヨーゼフはさらに雪かき機の設計も提出する意思を示していた[15]。
この頃にもヨーゼフは趣味として歌曲やピアノ曲を作曲しており、そうした作品はもっぱら仲間内で演奏された[16]。フランツ・マイラーによると、ヨーゼフは「素晴らしいピアニストならびに歌手として、仲間内でその種の作品をよく作曲していた」という[17]。オットー・ブルサッティによれば、作曲年代が判明しているヨーゼフの最古の曲は、1849年に作曲された『演奏会大ギャロップ』である[18]。ヨーゼフ自らテキストを書き、舞台装置を考え、登場人物や衣裳、背景のスケッチもいろいろ描いた『ローバー』という五幕の劇もある[4]。
「最初で最後」
1849年、父ヨハン1世が死去すると「ヨハン・シュトラウス」はただ一人になり、それまで親子に自然と分散されていたウィーン中の仕事が兄ヨハン2世に集中するようになった。兄は連日連夜の演奏会と作曲活動で身が持たず、しばしば再起不能かと思われるほどの重病に倒れた[19]。
医者たちはヨハン2世に長期の静養を取らねばならないと口々に診断した。母アンナはヨハン2世の代役として(少なくとも一時期は)ヨーゼフにシュトラウス楽団を指揮してもらわなければならないと考えるようになり[14]、ヨハン2世もこれに同調した[13]。
物静かな性格のヨーゼフは、自分が兄のように華やかな世界で生きていけるとは思えず猛反対したが、結局は「シュトラウス家のため」と迫る母と兄の説得に折れた[20]。1853年7月23日、ヨーゼフは療養中の兄に代わって「カフェ・シュペール」で指揮のデビューを飾ることになった。当日、ヨーゼフは恋人で未来の妻であるカロリーネ・ヨーゼファ・プルックマイヤーに宛ててこう手紙を書いている。
「 | Das Unvermeidliche ist geschehe. Ich spiele zum ersten Male beim "Spelrl": Ich bedaure vom ganzen Herzen, das dies so plötzlich geschehen[14]――
(日本語訳)避けられない事態が起こりました。きょう私は初めて”シュペール”で演奏します。こんなことになってしまうなんて、心の底から残念でなりません……[14][20]。 |
」 |
ヨーゼフはやがて指揮活動だけでなく、兄に代わって新しいワルツを作曲せねばならない状況に陥った。ヨハン2世は、年に一度のハーナルス教会祭の際に演奏するためのワルツの作曲を引き受けていたが[21]、その依頼をほったらかして長期の静養に入ってしまった。そうこうしているうちに8月29日の演奏予定日が迫ってきたため、やむなくヨーゼフが作曲を手掛けることになった[21]。こうして作曲されたのが、ワルツ『最初で最後』(作品1)である。
『最初で最後』というその曲名からも、当時のヨーゼフの胸中を容易に察することができるが、この『最初で最後』が「卓抜で、独創的、メロディアスなリズム」と新聞に評され、かえってヨーゼフへの人々の期待を高めてしまった[13]。このワルツは6回もアンコールされ、翌日の多くの新聞は「これがヨーゼフ・シュトラウスの最後の作品にならないように望む」などと結んだ[21]。
音楽家生活
音楽家への転身を決意
9月中旬には兄ヨハン2世がウィーンに戻ってきたため、眼病と頭痛に悩まされていたヨーゼフはただちに臨時指揮者を退いたが[21]、翌1854年6月初旬にヨハン2世は再び体調を崩して静養に出掛けた[22]。そのため、またもやヨーゼフが兄の代理としてシュトラウス楽団の指揮やいくつかの作曲を手掛けることになった[22]。
この頃のヨーゼフは自分の将来について悩み、恋人のカロリーネに「私はどうしたらいいのか困っています」という手紙を送っている。やがてヨーゼフは不本意ながらも音楽家となる決意を固め、1854年7月にワルツ『最後の後の最初』(作品12)を発表した[21]。それまでの作品は『最初で最後』のように兄の代理としてやむなく作曲したものであったが、このワルツでヨーゼフは音楽の世界に留まり続けることを表明したのである。この年、正式に技師を辞めた[7]。
音楽家に転身することを決意したヨーゼフは、音楽理論と作曲法とヴァイオリン演奏を徹底的に学び始めた[13]。ヴァイオリンの師は兄と同じく、父の楽団で第一奏者だったフランツ・アモンであった[13]。1857年3月16日[1]、ヨーゼフは2年間の正規の音楽教育を修了し[23]、和声学の教授フランツ・ドレシャルから次のような免状を与えられた。
「 | 本日行われた通奏低音と作曲の原理についての試験を、最優秀な成績で合格した[24]。彼の音楽の実地での最大の能力を保証する[1]。 | 」 |
この時期の作品としては、現在でもよく演奏されるポルカ・フランセーズ『小さな水車』(作品57)や、発表後たちまちウィーンの小唄に変えられて大流行したというワルツ『調子のいい男』(作品62)などがある[25]。なお、1858年6月15日には『理想』というワルツを初演して新聞に「傑作」と称えられたが、この曲は原稿が紛失したために出版できなかった[25]。
ロマン派音楽への傾倒
ヨーゼフは古典音楽の大讃美者であり、シューベルトを始めとするロマン派音楽に傾倒した。1855年、兄ヨハン2世に宛てた書簡のなかでヨーゼフは「私の人生は3/4拍子だけには留まらないでしょう[18]」と書いた。「3/4拍子」とはすなわちワルツであり、純粋なダンス音楽の作曲家のみで終わるつもりはないことを宣言したのである[18]。古典音楽を積極的に吸収しつつ、ヨーゼフは「交響楽的ワルツ」という新しい境地を開こうとした[25]。
1857年6月8日、ヨーゼフは交際していたカロリーネと結婚した[25]。その際に彼女に捧げたワルツ『愛の真珠』(作品39)をヨーゼフは「コンサート・ワルツ」と定義づけた。しかしこのワルツはヨーゼフの期待ほどは評価されず、「ランナーのスタイルに傾いている」と新聞に評された[25]。ウィーン市民は、兄のヨハン2世をヨハン1世の後継者として、そして弟のヨーゼフをヨーゼフ・ランナーの後継者として捉えていた[21]。しかし、当のヨーゼフ自身は、ランナーの後継者以上の評価を得たいと考えていたのである。
ワーグナーやリストをあまり評価しない批評家たちには良く思われなかったが[26]、ヨーゼフはワーグナー、リスト、シューマン、そしてシューベルトの作品を自身の演奏会のレパートリーに加えた。ワーグナーの作品のウィーン初演はヨーゼフに任され[27]、1860年初夏には早くもワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の一部をウィーンで演奏している[28]。その後ヨーゼフは、当時のウィーンでは演奏が難しいとされていたヴェルディの作品も、まるでワーグナーの作品とは方向性や見解の相違がまったくないかのように演奏し始めた[28]。こうした音楽的姿勢からヨーゼフは、同時代のドイツの作曲家ペーター・コルネリウスから「教養のある音楽家」と評された[25]。
1864年9月、ワルツ『オーストリアの村つばめ』(作品164)とポルカ・マズルカ『女心』(作品166)を初演した[29]。ワルツ『ウィーンの森の物語』に先立つこと4年、当時はまだ兄ヨハン2世もこの詩的なワルツの域には達していなかった[29]。同年10月、プロイセン王国領ヴロツワフの興行主が、オーケストラを編成して3000席のホールで演奏して欲しいと申し出てきたため、この契約に署名した[29]。ヨーゼフは母と兄のいるウィーンから離れた場所で独自の活動ができることに気を良くしたが、期待に反してヴロツワフでの活動は惨めなものだった。ヨーゼフの手紙によると、オーケストラはあまりにも貧弱で、ヨーゼフのレパートリーでこのオーケストラが演奏できる曲にはかなりの制限があったという[29]。
傷心のうちにウィーンに戻ったヨーゼフは、ますます熱心に古典ロマン派音楽を学んだ。シューベルト、シューマンらに加えて、ベートーヴェンやベルリオーズなども加わり、これらの楽風を採り入れた曲を書こうとした。その代表格がワルツ『ディナミーデン』(作品173)である[29]。1865年、ヨーゼフは作曲中に突如として意識を失った[30]。休養をとって回復した後、ヨーゼフはさらにシューベルトに傾倒し、オーケストラのレパートリーに『ロザムンデ』を加えるなどした[30]。この時期の作品にワルツ『トランスアクツィオン』(作品184)がある。
円熟期
かつて父ヨハン1世がランナーと「ワルツ合戦」を繰り広げたように、ヨーゼフも兄ヨハン2世と激しく競った[31]。しかしヨーゼフはもはや「ランナーの後継者」ではなく「ワルツのシューベルト」と看做されるようになっていた。なお、1867年にヨーゼフがワルツ『うわごと』(作品212)を発表した際、ヨハン2世はヨーゼフに兜を脱ぎ、次のように言ったという。
「 | ペピのほうが才能がある。私はただ人気があるだけだ[31]。 | 」 |
作曲に関しては兄も認める才能の持ち主だったヨーゼフだが、一般的な注目度では父と同じ「ヨハン・シュトラウス」という名を受け継いでいる兄に劣った。兄弟の作品はしばしばシュトラウスという名前でひとくくりにされ、ヨーゼフの作品であるにも関わらず楽譜の表紙に「ヨハン・シュトラウス」と印字されることさえあった[32]。
これに不満を抱いていたヨーゼフは兄と並び立つ存在であろうとし、生来病弱な体であったにもかかわらず、無理を押して精力的な作曲活動を行った。例えば、1867年にヨーゼフが発表した作品数は、『マリアの調べ』(作品214)ほか25曲という驚異的な数字であった[33]。同年のシュトラウス兄弟の新曲は、兄ヨハンが6曲、弟エドゥアルトが8曲であり、ヨーゼフが突出して多い[33]。1868年、ヨーゼフはワルツ『天体の音楽』(作品235)を発表。この時期のヨーゼフはストレス解消のためにレオポルトシュタットのカフェで毎日のように夜明けまでカード遊びをし、葉巻を日に20本も吸っていたという[34]。この頃、過労のせいでヨーゼフは再び倒れた[34]。
1869年2月1日、ヨーゼフはワルツ『水彩画』(作品258)を初演した。それから6日後の2月7日にはワルツ『わが人生は愛と喜び』(作品263)を初演し、大喝采を浴びた。3月13日には『鍛冶屋のポルカ』(作品269)を発表。立て続けに傑作を生み出すヨーゼフは、明らかに当時の兄にとって最大の音楽的なライバルであったが、それにもかかわらず聴衆の反応は兄とは違うものであることが多かった[28]。兄とともにロシアのパヴロフスクへ出かけた際にヨーゼフは、異常なほどの人気者である兄と比較されることを心配している。
「 | 私のここでの立場は容易なものではない。先入主(=兄)にたいして戦わねばなりません[35]。
(ウィーンに残してきた妻カロリーネ宛ての手紙、1869年4月16日付[注釈 5]) |
」 |
ちなみに、有名な『ピツィカート・ポルカ』(作品番号なし)は、このロシア演奏旅行のときに兄と合作したものである。翌1870年2月17日には『ジョッキー・ポルカ』(作品278)を初演。4月4日にはワルツ『宵の明星の軌道』(作品279)を初演し、これもまた聴衆の大喝采を得た。兄の名声には及ばぬものの作曲家として絶頂にあったヨーゼフだったが、それは死の前の最後の輝きともいえるものだった。
死去
1869年10月10日、パヴロフスクの鉄道会社は変化を求めて「1870年以降は他の音楽家と契約する」とシュトラウス兄弟に通告した。他の音楽家とは、プロイセンのベンヤミン・ビルゼであった[36]。そのためヨーゼフはビルゼがワルシャワで空席にしてきたポストを狙い、1870年5月15日から9月15日までの契約を取り付けた[36]。
ワルシャワでの仕事は、諸々の問題に悩まされることになった。習慣の違いから楽譜や楽器の到着は遅れ、予約していた宿泊施設も使えなかった[37]。大勢の楽員もエージェントの手落ちでやって来ず、開始予定日二日後の5月17日、ヨーゼフは兄に宛ててこう書いた。
「 | ぼくは憂鬱です。いつ始まるかの見込みも立ちません。この手紙が兄さんの手に届く頃、破局は最高潮に達しているでしょう……[37]。 | 」 |
弟エドゥアルトが援助してくれたおかげで、ヨーゼフは5月22日にようやく最初の演奏会を開くことができた[37]。しかしそれからわずか10日後の6月1日、「スイスの谷」のコンサートホールでの指揮のさなか[38]、突如として指揮台の上で倒れ、意識を回復しないまま宿舎に連れ戻された[37]。6月5日にウィーンからワルシャワに急行した妻カロリーネが見たときのヨーゼフは、のちに弟エドゥアルトが書いているように「手足は麻痺し、口もろくにきけなかった」という[37]。ヨーゼフを診察したポーランドの医者は、脳卒中の兆候があり、脳腫瘍が破裂した可能性があると診断した[37]。ヨーゼフは小康を保ったのち、6月15日に再発作を起こした[39]。ワルシャワでの契約がまだ残っていたため、ヨハン2世が急遽ワルシャワに赴いて指揮することになった[40]。
7月17日、カロリーネは異国で倒れた夫をウィーンに連れ帰る決心をする[41]。この時ヨーゼフの意識ははっきりしていたという[39]。7月22日午後1時30分[39]、ヨーゼフはシュトラウス家の自宅「雄鹿館」で息を引き取った。カロリーネが遺体解剖を拒絶したため、具体的な死因は分かっていない[41][39]。酔っ払いのロシア人兵士たちから受けた傷がもとで死んだという事実無根の噂がヨーロッパ中に広まり、公式に否定されたが多くの人々に信じられた[39]。親交があったフィリップ・ファールバッハ2世によって、のちに『ヨーゼフ・シュトラウスの想い出(Erinnerung an Josef Strauß)』という亡きヨーゼフを偲ぶワルツが作曲された。
10月18日の追悼式では、代表作である『オーストリアの村つばめ』と『女心』が兄の指揮のもとで演奏された[42]。ヨーゼフの死の5か月前である2月23日には母アンナも世を去っており[注釈 6]、ごく短期間に母と長弟を失ったヨハン2世は一時的に創作意欲を失ってしまった。ヨーゼフはオペラ、交響曲、歌曲の作曲も目指していたが、その夢が叶うことはなかった[38]。『モルゲン・ポスト』誌は、死亡記事のなかで次のように書いた。
「 | ヨーゼフは彼の人生の最大の野心、グランド・オペラの作曲を果たさないうちに死んだ[44]。 | 」 |
なお、ヨーゼフは1969年に「違う種類の作曲に転向中」と語っており、また妻カロリーネや同名の娘カロリーネがともに、ヨーゼフが書いたと思われるオペレッタについて書いているが、そのオペレッタはヨーゼフが死ぬと謎のように消えた[44]。
死後
残されたヨーゼフの妻子は、その後もシュトラウス家と楽団の練習場がある「雄鹿館」の一室で生活を続けた[17]。ヨーゼフの死後、このような噂が広まった。ヨハン2世は残されたヨーゼフの妻子に対して生活援助を行ったが、その見返りとして弟の遺した手稿をすべて譲り受けた[45]。ヨハン2世は弟の未発表の曲を盗作しようともくろみ、生活援助という名目でヨーゼフの未亡人に近づいた[45]。そして未亡人と肉体関係を結んで手稿を手に入れて[45]、その遺稿をもとにして作り上げたのがオペレッタ『こうもり』である、と[46]。特に最後の『こうもり』が盗作だという噂の出どころは、どうやら末弟のエドゥアルトであるらしい[46]。
ヨーゼフは多作の人であったにも関わらず、その書斎から遺作がほとんど見つからなかったこと、ヨハン2世が未亡人となったカロリーネに多額の金額を贈っていることが噂の根拠とされた[46]。実際のところヨハン2世は、ワルシャワでヨーゼフに代わって指揮をしたことによって受け取った多額の報酬を、そのままカロリーネに贈っただけである[40]。また、遺言執行人としてヨーゼフの書斎を調べたヨハン2世によって発見されたものは、すべて世に発表されたものだったという[40]。
死後33年が経った1903年、ヨーゼフの曲ばかりを構成して作られたオペレッタ『春の空気』が登場した[47]。これ以降、『女の気持ち』、『ウィーンの森の燕』、『美人の娘』、『白い旗』、『人生を楽しもう』、『ワルツの夢』、『シュトラウス家の息子たち』など、ヨーゼフおよび兄ヨハン2世の曲を使ったオペレッタが続々と登場した[47]。これらの作品には「ヨーゼフ・シュトラウスのモチーフに基づいて」や「今は亡きヨーゼフ・シュトラウスの音楽」といったサブタイトルが付けられている[47]。
妻カロリーネは、夫の遺品として楽団とは関係のないヨーゼフの楽譜(ピアノ譜など)を保有し続けた[17]。1907年10月22日にエドゥアルトが楽団所有の楽譜を焼却処分した際にも、このような理由でヨーゼフのいくらかの手稿は燃やされずに済み、現在まで受け継がれている[17]。エドゥアルトは馬車7台分の楽譜を焼却したとされ[48]、これによってシュトラウス家の作品は出版されたものばかりが残っている状況であり、ヨーゼフの手稿は限られた一次資料として貴重なものとなっている。
家族
- 妻 カロリーネ・ヨーゼファ・プルックマイヤー(Caroline Josepha Pruckmayer、1831年 - 1900年)
- 娘 カロリーネ・アンナ・シュトラウス(Karoline Anna Strauss、1858年 - 1919年)
なお、妻のカロリーネは、かつて兄ヨハン2世の恋人だった[49]。ちなみにヨハン2世はロシア・パヴロフスクの地から、義妹となったウィーンのカロリーネにこんな手紙を送ったことがある。
「 | この瞬間、君にキスしてもらいたい気持ちでいっぱいなんだ……。これまでにない厚かましさでこれからは君を悩ませるつもりだからね。男の子が欲しいのだろ?リーナ、そういうことならいくらでも協力するので、そのときは君を愛している義理の兄ジャン(ヨハンの愛称)のことはお忘れなく。どうかこの最後の言葉は他人にもらさないように[49]。 | 」 |
作品
ワルツ
特に著名な「七大ワルツ」は太字で表記。
- 『最初で最後』(Die Ersten und Letzten) op.1
- 『子守歌』(Wiegenlieder) op.18
- 『五月のバラ』(Mai-Rosen) op.34
- 『愛の真珠』(Perlen der Liebe) op.39
- 『調子のいい男』(Flattergeister) op.62
- 『オーストリアの村つばめ』(Dorfschwalben aus Österreich) op.164
- 『ディナミーデン』(Dynamiden) op.173
- 『トランスアクツィオン』(Transaktionen) op.184
- 『ドイツの挨拶』(Deutsche Grusse) op.191
- 『うわごと』(Delirien) op.212
- 『マリアの調べ』(Marien-Klänge) op.214
- 『学生の夢』(Studententräume) op.222
- 『秋のバラ』(Herbstrosen) op.232
- 『天体の音楽』(Sphärenklänge) op.235
- 『真面目とユーモア』(Ernst und Humor) op.254
- 『水彩画』(Aquarellen) op.258
- 『わが人生は愛と喜び』(Mein Lebenslauf ist Lieb' und Lust) op.263
- 『女の面目』(Frauenwürde) op.277
- 『宵の明星の軌道』(Hesperus-Bahnen) op.279
ポルカ
- ポルカ・フランセーズ『小さな水車』(Moulinet) op.57
- ポルカ・フランセーズ『ラクセンブルク・ポルカ』(Laxenburger) op.60
- ポルカ・シュネル『スブレット』(Die Soubrette) op.109
- ポルカ・シュネル『休暇旅行で』(Auf Ferienreisen) op.133
- ポルカ・シュネル『ルドルフスハイムの人々』(Rudolfsheimer) op.152
- ポルカ・フランセーズ『糸を紡ぐ女』(Die Spinnerin) op.192
- ポルカ・フランセーズ『ウィーンの生活』(Wiener Leben) op.218
- ポルカ・シュネル『大急ぎで』(Im Fluge) op.230
- ポルカ・シュネル『短いことづて』(Eingesendet) op.240
- ポルカ・シュネル『おしゃべりなかわいい口』(Plappermäulchen) op.245
- ポルカ・シュネル『スケート』(Eislauf) op.261
- ポルカ・フランセーズ『鍛冶屋のポルカ』(Feuerfest) op.269
- ポルカ・シュネル『憂いもなく』(Ohne Sorgen) op.271
- ポルカ・フランセーズ『芸術家の挨拶』(Kunstler-Gruss) op.274
- ポルカ・シュネル『騎手』(Jockey) op.278
- ポルカ・フランセーズ『上機嫌』(Heiterer Muth) op.281
- 『ピツィカート・ポルカ』(Pizzicato-Polka)
- 兄ヨハン2世との共作、作品番号なし
ポルカ・マズルカ
- 『燃える恋』(Brennede Liebe) op.129
- 『おしゃべり女』(Die Schwätzerin) op.144
- 『女心』(Frauenherz) op.166
- 『とんぼ』(Die Libelle) op.204
- 『腕を組んで』(Arm in Arm) op.215
- 『遠方から』(Aus der Ferne) op.270
- 『モダンな女』(Die Emanzipierte) op.282
行進曲
- 『日本行進曲』(Japanesischer Marsch)
その他
ピアノ曲
- 『演奏会用大ギャロップ』(Grand Galoppe du concert)
- 『カプリス』(Capprice[注釈 7])
- 『主題と変奏』(Thême variée)
- 『演奏会用大行進曲』(Grand marche du concert)
- 『メランコリエ』(Melancholie)
- 『ラプソディー』(Rhapsodie)
- 『セレナーデ』(Serenade)
- 『夕べの鐘』(Abendläuten)
ファンタジー
- 『幻想的なアレグロ』(Allegro fantastique)
- オーケストラのための幻想小品『心の痛み (愛の苦しみ)』(Peine du coeur)
脚注
注釈
- ^ 作品番号のない作品や、兄弟の合作などを合わせれば300曲を超える。
- ^ ケンプ「ポルカ・マズルカというのは、ポルカのステップと、マズルカの四分の三拍子とを結び付けたもので、ヨゼフ・シュトラウスのペンを通して完璧な表現を発見したと言ってもよかろう[4]」、保柳健「ポルカ・マズルカに関してはまさにヨーゼフの独壇場で、45曲余りも作曲して数の上でも兄ヨハン2世をしのいでいるばかりでなく、今日演奏される曲も多い[5]」
- ^ 現在のマリアヒルファー通り65番地。
- ^ ただし、恋人カロリーネと離れて暮らすのが嫌で、3ヶ月ほどでウィーンに帰ってしまった[14]。
- ^ ロシア暦。グレゴリオ暦では4月26日。
- ^ このときヨーゼフは母のベッドで失神したと伝わる[43]。
- ^ フランス語では正しくは「Caprice」と綴るが、ここではヨーゼフの自筆譜の表記に従う[17]。
出典
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参考文献
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- 神保璟一郎『クラシック音楽鑑賞辞典』講談社、1983年11月10日。ISBN 4-06-158620-3。
- 井上和男『クラシック音楽作品名辞典』三省堂、1985年。
- ピーター・ケンプ 著、木村英二 訳『シュトラウス・ファミリー――ある音楽王朝の肖像』音楽之友社、1987年10月。ISBN 4276-224241。
- 渡辺護『ウィーン音楽文化史(上)』音楽之友社、1989年2月20日。ISBN 4-276-11062-9。
- 志鳥栄八郎『クラシック一日一曲――作曲家・作品・演奏家で綴る三六六日』音楽之友社、1996年10月10日。ISBN 4-276-21018-6。
- 増田芳雄「ウィーンのオペッレター 1.ヨハン・シュトラウスの“こうもり"(DieFledermaus)について」(『人間環境科学』第7巻、1998年)
- フランツ・エンドラー 著、喜多尾道冬、新井裕 訳『ヨハン・シュトラウス――初めて明かされたワルツ王の栄光と波瀾の生涯』音楽之友社、1999年11月。ISBN 9784-27622-4254。
- 小宮正安『ヨハン・シュトラウス ワルツ王と落日のウィーン』中央公論新社〈中公新書〉、2000年12月10日。ISBN 4-12-101567-3。
- 加藤雅彦『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2003年12月20日。ISBN 4-14-001985-9。
- 増田芳雄「ヨーゼフ・シュトラウス――ワルツのシューベルト」(帝塚山大学『人間環境科学』第12巻、2003年)
- 若宮由美「ヨーゼフ・シュトラウスによる初期ピアノ曲の記譜法」『帝京大学文学部教育学科紀要』第37号、2012年3月、53-67頁。
- 若宮由美「ヨーゼフ・シュトラウスの<ロメオとジュリエット>―グノーのオペラに基づくポプリ」『埼玉学園大学紀要(人間学部篇)』第14号、2014年12月、75-87頁。
- 若宮由美「アーベルトのオペラ≪アストルガ≫とヨーゼフ・シュトラウスのポプリ」『埼玉学園大学紀要(人間学部篇)』第15号、2015年12月、151-163頁。