「アナスタシア・ニコラエヴナ」の版間の差分
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{{otheruses|ロシア皇女|モンテネグロ王女|アナスタシア・ニコラエヴナ (1868-1935)}} |
{{otheruses|ロシア皇女|モンテネグロ王女|アナスタシア・ニコラエヴナ (1868-1935)}} |
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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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[[Image:Grand_Duchess_Anastasia_Nikolaevna.jpg|thumb|250px|right|アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ]] |
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| 人名 = アナスタシア・ニコラエヴナ |
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'''アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ'''('''<span lang="ru">Анастаси́я Никола́евна Рома́нова</span>''', Anastasia Nikolaevna Romanova, [[1901年]][[6月18日]] - [[1918年]][[7月17日]])は、[[ロシア帝国]][[ロマノフ朝]]の皇族。ロシア帝国最後の皇帝[[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の第四皇女。[[ロシア大公女]]。[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]で成立した[[ロシア臨時政府|臨時政府]]によって家族と共に監禁された。[[十月革命]]で権力を掌握した[[ウラジーミル・レーニン]]率いる[[ボリシェヴィキ]]の命を受けた[[チェーカー]]([[秘密警察]])によって翌1918年7月17日に[[超法規的殺害]](裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、[[エカテリンブルク]]の[[イパチェフ館]]において家族・従者と共にわずか17歳の若さで銃殺された。[[2001年]]、家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに[[正教会]]で[[聖人]]([[新致命者]])。[[日本正教会]]での表記は'''アナスタシヤ'''。 |
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| 各国語表記 = {{Lang|ru|Анастаси́я Никола́евна}} |
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| 家名・爵位 = [[ロマノフ家|ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]] |
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| 画像 = Grand_Duchess_Anastasia_Nikolaevna.jpg |
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| 画像サイズ = 250px |
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| 画像説明 = アナスタシア・ニコラエヴナ(1914年頃) |
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| 続柄 = |
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| 称号 = |
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| 全名 = アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ |
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| 身位 = [[ロシア大公女・大公妃一覧|ロシア大公女]] |
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| 敬称 = |
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1901|6|18|no}} |
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| 生地 = {{RUS1883}}<br />[[サンクトペテルブルク]] |
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| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1901|6|18|1918|7|17}} |
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| 没地 = {{RUS1917}}<br />[[エカテリンブルク]]、[[イパチェフ館]] |
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| 埋葬日 = 1998年7月17日 |
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| 埋葬地 = {{RUS}}<br />サンクトペテルブルク、[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトロパヴロフスキー大聖堂]] |
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| 子女 = |
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| 父親 = [[ニコライ2世]] |
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| 母親 = [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]] |
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| 役職 = |
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| 宗教 = [[ロシア正教会]] |
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| サイン = Anasig-1-.gif |
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}} |
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'''アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ'''('''{{翻字併記|ru|Анастаси́я Никола́евна Рома́нова|Anastasia Nikolaevna Romanova}}'''、[[1901年]][[6月18日]] - [[1918年]][[7月17日]])は、最後の[[ロシア皇帝]][[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の第四皇女。[[ロシア大公女]]。[[1917年]]の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]で成立した[[ロシア臨時政府|臨時政府]]によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日に[[エカテリンブルク]]の[[イパチェフ館]]において[[ヤコフ・ユロフスキー]]が指揮する銃殺隊によって[[超法規的殺害]](裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。[[2000年]]に家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに[[ロシア正教会]]で[[聖人]]([[新致命者]])。 |
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== 人物 == |
== 人物 == |
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[[File:Anastasia1904.jpg|thumb|170px|left|1904年]] |
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アナスタシアが生まれた時、[[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の子供が4人続けて女児であったためにロシアの民衆が「もう皇太子が授かる望みはないかもしれない」と憂いたと言われている<ref>{{Cite book|author=[[ジェイムズ・B・ラヴェル]](著)、[[広瀬順弘]](訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=[[角川文庫]]|page=43|isbn=978-4042778011}}</ref>。 |
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[[File:Grand_Duchess_Anastasia_standing_on_chair.jpg|thumb|150px|left|1906年]] |
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[[File:Watercolor by Anastasia Nikolaevna of Russia.gif|thumb|150px|right|4歳の時にアナスタシアが描いた絵]][[File:Anastasiaknitting.jpg|thumb|200px|left|1908年頃。母親の部屋で編み物をするアナスタシア]] |
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[[Image:Grand_Duchess_Anastasia_standing_on_chair.jpg|thumb|150px|left|1906年]] |
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[[File: |
[[File:Letter by Anastasia Nikolaevna of Russia.jpg|thumb|150px|right|1910年にアナスタシアがいとこ[[ルイス・マウントバッテン]]に宛てて送った手紙]] |
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[[File:OTMAA 1910 formal.jpg|thumb|350px|right|1910年頃。左からタチアナ、アナスタシア、アレクセイ、マリア、オリガ]] |
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4姉妹の中で最も小柄だったが、明るく活発、ひょうきんな性格で、彼女の前ではどんなに気難しい人も笑顔になったという。家族からは「道化者」 「反逆児」などというあだ名で呼ばれていた。 |
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[[File:Anastasia.jpg|thumb|200px|left|1910年]] |
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[[ニコライ2世]]と[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ皇后]]の4人娘はいつも仲良しで、末娘アナスタシア皇女は特に一番年の近い姉の[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア皇女]]と仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。2人の姉の[[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ皇女]]と[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ皇女]]も2人で1つの寝室を共用しており、彼女らが'''ビッグ・ペア'''と呼ばれていたのに対し、下の2人は'''リトル・ペア'''と呼ばれていた<ref name="Tsar89">{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|publisher=Little Brown and Company|page=88-89|language=英語|isbn=0-316-50787-3}}</ref>。4人は'''[[OTMA]]'''というサインを結束の象徴として使用していた<ref name="Tsar89" />。また、アナスタシアは[[第六感]]のようなものを使って弟の[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ皇太子]]とも話さずとも意思を疎通出来ていたようで、非常に仲が良かった。彼のビュッフェテーブルから食べ物を盗んだりするなど、いつもふざけた態度で接して弟を楽しませていた<ref>{{Cite web|url=http://www.alexanderpalace.org/palace/gds.html|title=The Grand Duchesses — OTMA|publisher= Alexanderpalace.org|language=英語|accessdate=2014年1月24日}}</ref>。 |
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アナスタシアが生まれた時、ニコライ2世とアレクサンドラの子供が4人続けて女児であったためにロシアの民衆が「もう皇太子が授かる望みはないかもしれない」と憂いたと言われている<ref>{{Cite book|author=[[ジェイムズ・B・ラヴェル]](著)、[[広瀬順弘]](訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=[[角川文庫]]|page=43|isbn=978-4042778011}}</ref>。皇位継承者のために息子の誕生を望んでいた彼女の両親や親戚も女の子だったことにがっかりした。ニコライ2世は自分の気持ちを落ち着かせるためにアレクサンドラと初対面の新生児アナスタシアと会う前に長い散歩に出掛けた<ref>{{Cite book|author=Robert K. Massie|title=Nicholas and Alexandra|publisher=Dell publishing company|page=153|language=英語|isbn=0-440-16358-7}}</ref>。彼女の名前の[[ロシア語]]の意味の一つは「鎖の破壊者」または「刑務所を開く人」である。ニコライ2世は彼女の誕生を記念して前年の冬に[[モスクワ]]と[[サンクトペテルブルク]]で発生した暴動に参加したために投獄されていた学生達を許し、彼らに対する[[恩赦]]を実施した<ref name="Donahue">{{Cite web|author=James Donahue|url=http://perdurabo10.tripod.com/warehousef/id88.html|title=The Strange Anastasia Mystery|publisher=The Mind of James Donahue|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。もう一つの意味は「復活」。彼女の死後に生存の噂が広く伝えられることになった<ref name="Donahue" />。 |
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末娘のアナスタシアは皇帝の子女の中で最も注目度が低く、姉達は美しく成長するようにつれ、マスコミや貴族の間で騒がれるようになっていったが、アナスタシアはたまにそのやんちゃぶりが笑いを誘うか、顰蹙を買うほかはほとんど注目されなかった。両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、[[ロシア革命]]を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の成長過程を極めて断片的にしか捉えていない。ただ、証人達は異口同音に「アナスタシアはおしゃまな娘だった」と語っている。アナスタシアの遊び友達であった[[グレブ・ボトキン]](ニコライ2世一家と一緒に殺害された[[エフゲニー・ボトキン]]の息子)は「他人を魅了する独特の資質を持っていた」と語り、続けて「それは彼女の美貌に由来するものではなかった。というのはアナスタシアは姉達ほど美人ではなかったからだ。背は低く、顔立ちも整ってはいなかった。鼻は長めで、口がかなり大きかった。顎は小さく、平板で、下唇から下の丸みがほとんどないと言ってよかった。しかし、彼女の瞳は―いつも楽しげにキラキラ輝いている明るい青い瞳は―実に美しかった。その眼は父親譲りだった。初めて皇帝に謁見した後で、その眼の美しさについて語らなかった人は私は会ったことがない」と述べている。また、最初は姉達のように背筋を伸ばして生真面目でしとやかな令嬢のように相手に思わせるが、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考えており、数分後に決まってそれを実行に移すという彼女の印象を3冊の本と何百もの手紙の中に書き記している<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=56-57}}</ref>。[[フランス語]]の家庭教師を務めた[[ピエール・ジリヤール]]は「とにかくやんちゃでひょうきんだった。強烈なユーモアの持ち主で、彼女のウィットはしばしば相手の痛いところをぐさりと突いた。いわゆる手に負えない子供だったが、この欠点は年齢とともに直っていった。他には、極めて怠惰なところがあった―もっともそれは才能に恵まれた子供に特有の怠惰さだったが。フランス語の発音は抜群だった。[[喜劇]]の場面を演じさせても才能が光っていた。大変快活な子で、彼女の陽気さが他の人間に伝染したものだ」と語っている<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=59}}</ref>。 |
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[[英語]]で最も正確には「Grand Princess」と訳されたアナスタシアとその姉達の[[身位]]の呼称「Imperial Highness」はただの[[殿下]]に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他の[[ヨーロッパ]]の王女よりも順位が高いことを意味し、最も広く使用される[[ロシア大公女・大公妃一覧|ロシア大公女]]のロシア語から英語への訳となった<ref>{{Cite book|author=Charlotte Zeepvat|title=The Camera and the Tsars: A Romanov Family Album|publisher=Sutton Publishing|page=14|language=英語|isbn=0-7509-3049-7}}</ref>。 |
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[[Image:AlexandraAnastasia1908.jpg|thumb|250px|left|1908年]] |
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[[File:OTMAA 1910 formal.jpg|thumb|400px|right|1910年頃。左からタチアナ、アナスタシア、アレクセイ、マリア、オリガ]] |
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[[1905年]]からニコライ2世は妻子を[[ツァールスコエ・セロー]]にある離宮[[アレクサンドロフスキー宮殿]]に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=50}}</ref>。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方をする人が多かった<ref>{{Cite book|author=[[植田樹]]|title=最後のロシア皇帝|publisher=[[ちくま新書]]|page=91|isbn=978-4480057679}}</ref>。 |
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エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱で、[[外反母趾]]に悩み、また背中の筋肉も弱く年中患っていた。週2回のマッサージ治療を嫌がって、よく戸棚の中に隠れていたという。母語の[[ロシア語]]の他、家族間での会話は[[英語]]で行われていたため英語に堪能で、フランス語の発音は4皇女の中で最も良かったが、[[ドイツ語]]は苦手で家庭教師泣かせだったという。数学も大の苦手だった。趣味は父親譲りの写真撮影で、彼女が撮った写真を集めた写真集も出版されている。[[Image:MariaAnastasiahospital.jpg|thumb|220px|left|1915年。姉のマリアと戦傷兵のための病院を訪問(右がアナスタシア)]] |
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[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア皇太后]]を筆頭とする[[ロマノフ家]]の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた。派手好きのマリア皇太后と彼女の長女(ニコライ2世の妹)[[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア大公女]]は華やかな帝都サンクトペテルブルクにとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。三男[[ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ|ゲオルギー大公]]、四男[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル大公]](次男[[アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ|アレクサンドル大公]]は生後1年未満に死亡)に至ってはほとんど、一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格の次女[[オリガ・アレクサンドロヴナ|オリガ大公女]]のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=55}}</ref>。 |
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ニコライ2世の質素な生活スタイルの影響を受けてアナスタシアと彼女の姉達は厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで硬いベッドで眠り、朝に冷たい風呂に入った<ref>{{Cite book|author=Robert K. Massie|title=Nicholas and Alexandra|page=132}}</ref>。[[刺繍]]や[[編み物]]を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた<ref>{{Cite book|author=Charlotte Zeepvat|title=The Camera and the Tsars: A Romanov Family Album|page=153}}</ref>。 |
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末娘のアナスタシアは皇帝の子女の中で最も注目度が低く、姉達は美しく成長するようにつれ、[[マスメディア]]や[[貴族]]の間で騒がれるようになっていったが、アナスタシアはたまにそのやんちゃぶりが笑いを誘うか、顰蹙を買う他はほとんど注目されなかった。両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、[[ロシア革命]]を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の成長過程を極めて断片的にしか捉えていない<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=56}}</ref>。 |
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ただ、証人達は異口同音に「アナスタシアはおしゃまな娘だった」と語っている。アナスタシアの遊び友達であった[[グレブ・ボトキン]](ニコライ2世一家と一緒に殺害された皇室[[主治医]]、[[エフゲニー・ボトキン]]の息子)は「他人を魅了する独特の資質を持っていた」と語り、続けて「それは彼女の美貌に由来するものでは無かった。というのはアナスタシアは姉達ほど美人では無かったからだ。背は低く、顔立ちも整ってはいなかった。鼻は長めで、口がかなり大きかった。顎は小さく、平板で、下唇から下の丸みがほとんど無いと言ってよかった。しかし、彼女の瞳は―いつも楽しげにキラキラ輝いている明るい青い瞳は―実に美しかった。その眼は父親譲りだった。初めて皇帝に謁見した後で、その眼の美しさについて語らなかった人は私は会ったことが無い」と述べている。また、最初は姉達のように背筋を伸ばして生真面目でしとやかな令嬢のように相手に思わせるが、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考えており、数分後に決まってそれを実行に移すという彼女の印象を3冊の本と何百もの手紙の中に書き記している<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=56-57}}</ref>。[[フランス語]]の[[家庭教師]]を務めた{{仮リンク|ピエール・ジリヤール|en|Pierre Gilliard}}は「とにかくやんちゃでひょうきんだった。強烈なユーモアの持ち主で、彼女のウィットはしばしば相手の痛いところをぐさりと突いた。いわゆる手に負えない子供だったが、この欠点は年齢とともに直っていった。他には、極めて怠惰なところがあった―もっともそれは才能に恵まれた子供に特有の怠惰さだったが。フランス語の発音は抜群だった。[[喜劇]]の場面を演じさせても才能が光っていた。大変快活な子で、彼女の陽気さが他の人間に伝染したものだ」と語っている<ref name="ラヴェル59">{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=59}}</ref>。アナスタシアは幼い頃は木に登ると降りることを拒否した<ref>{{Cite book|author=Robert K. Massie|title=Nicholas and Alexandra|page=133}}</ref>。[[ポーランド]]にある皇室私有地で家族で[[雪合戦]]をして遊んでいる時に一度、アナスタシアが中に石を入れた雪だるまを投げて姉タチアナの顔面に直撃させたこともあった<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|publisher=Random House|page=166|language=英語|isbn=0-394-58048-6}}</ref>。遊び友達を蹴ったり引っ掻いたりするアナスタシアを彼女の遠縁のいとこに当たる[[ニーナ・ゲオルギエヴナ|ニーナ・ゲオルギエヴナ公女]]は「邪悪だと思われるぐらいに扱いにくかった」と振り返っている<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|publisher=Wiley; 1 edition|page=50|language=英語|isbn=0-471-20768-3}}</ref>。「私が名付け親になってあげた愛しい娘」とアナスタシアを可愛がった叔母のオリガ大公女も「アナスタシアは手に余るお転婆だった。・・・ほんの幼い頃から悪さばかりしていて、他の人間をいたずらの対象にしか思っていなかった。・・・とにかく元気が有り余っていた」と評している<ref name="ラヴェル59" />。サンクトペテルブルクの[[歌劇場|オペラハウス]]に招待された[[アメリカ合衆国]]のベストセラー[[作家]]で[[外交官]]の妻でもある{{仮リンク|ハリー・アーミニー・リーブズ|en|Hallie Erminie Rives}}は「白い手袋をはめたまま銀色の箱に入った[[チョコレート]]を食べていたので、手袋が気の毒なぐらい汚れてしまった」とその時の当時10歳だったアナスタシアの様子を描写している<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=62}}</ref>。しかし、4人娘の養育を担当した{{仮リンク|マーガレッタ・イーガー|en|Margaretta Eagar}}にはそんなアナスタシアがニコライ2世の大のお気に入りだったように見え、彼が末娘の自然な愛情表現に感銘を受けていたとコメントした<ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Romanov Sisters: The Lost Lives of the Daughters of Nicholas and Alexandra|publisher=St. Martin's Press|page=94|language=英語|isbn=978-1250020208}}</ref>。 |
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エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱だった。痛みを伴う[[外反母趾]]に悩んでいた<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|publisher=Little Brown and Company|page=106}}</ref>。また、背中の筋肉も弱く、週2回のマッサージ治療が施されたが、それを嫌がってよくベッドの下や戸棚の中に隠れていた<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|publisher=Doubleday|page=327|language=英語|isbn=0-385-48673-1}}</ref>。趣味は両親譲りの写真撮影で、いつも箱型カメラを離さなかったと言われている<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=58}}</ref>。[[日本]]でも彼女が撮った写真を集めた写真集「ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム―その生活の記録」(ISBN 978-1250020208)が出版された。 |
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== ラスプーチンとの繋がり == |
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[[File:Inside Anastasia smoking.jpg|thumb|300px|left|1916年。父のニコライ2世に勧められて喫煙するアナスタシア]] |
[[File:Inside Anastasia smoking.jpg|thumb|300px|left|1916年。父のニコライ2世に勧められて喫煙するアナスタシア]] |
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[[File:Anastasiahat1914.jpg|thumb|200px|right|1914年頃]] |
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[[File:Григорий Распутин (1914-1916)b.jpg|thumb|200px|right|[[グリゴリー・ラスプーチン]]]] |
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[[Image:Anamashtat1917.jpg|thumb|250px|left|1917年。抑留地にて(左からアナスタシア、マリア、タチアナ)]] |
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[[File:MariaAnastasiahospital.jpg|thumb|250px|right|1915年頃。マリア(左)とともに負傷兵を見舞うために病院を訪れたアナスタシア]] |
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マリアの叔母のオリガ大公女は[[グリゴリー・ラスプーチン]]とニコライ2世の子供達との関係について「すべての子供達が彼を好きなように見えた」「完全に彼に打ち解けていた」と振り返っている<ref>{{Cite book|author=Robert K. Massie|title=Nicholas and Alexandra|page=139-140}}</ref>。 |
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[[Image:RomanovsatTobolsk.jpg|thumb|300px|right|1917年冬。抑留地にて(左からオリガ、ニコライ2世、アナスタシア、タチアナ)]] |
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[[Image:AnastasiaRus.jpg|thumb|400px|left|1918年5月。[[トボリスク]]から[[エカテリンブルク]]へ向かう船にて。既知の最後の写真]] |
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ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになったため、保育室に勤務するソフィア・イヴァーノーヴナ・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情も入れたが、最終的にはアレクサンドラによって彼女は解雇された<ref>{{Cite book|author=[[エドワード・ラジンスキー]]|title=The Rasputin File|publisher=Doubleday|page=139|language=英語|isbn=0-385-48909-9}}</ref>。解雇されたチュッチェヴァはロマノフ家の他の人間にニコライ2世一家の話をした<ref>{{Cite book|author=Robert K. Massie|title=Nicholas and Alexandra|page=208}}</ref>。ラスプーチンが子供達の部屋を訪れた話については全ての報告で完全に潔白とされ、一家は憤慨した。チュッチェヴァはニコライ2世の妹(アナスタシアの叔母)のクセニア大公女には、ラスプーチンが寝る用意をしている皇女達のところまで行って彼女達と会話をして抱き締めたり撫でたりしているという話をした。また、ラスプーチンの話を彼女にしないように子供達が教えられていたことや保育室スタッフには彼の訪問を隠すように注意されていたという話もした。彼女の話を聞いたクセニアは[[1910年]]3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=330}}</ref>。 |
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[[Image:Forensic rec. Romanov 05.jpg|thumb|250px|left|1994年。[[復顔|複顔術]]によって生前の姿に顔面が再建された]] |
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4皇女は仲が良く、'''[[OTMA]]'''([[オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|オリガ]]、[[タチアナ・ニコラエヴナ|タチアナ]]、[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア]]、アナスタシア)のサインを結束の象徴として使っていた。特に年の近いマリアとは仲が良く、いつも一緒で、お揃いのドレスを着、寝室を共用していた。年齢が近かった事もあり、弟の[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ]]の面倒をよく見ていた。 |
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1910年春には皇室の[[ガヴァネス|女家庭教師]]マリア・イヴァン・ヴィシュニャコヴァがラスプーチンにレイプされたと主張した。ヴィシュニャコヴァは皇后が暴行の報告を信じようとせず、彼女から「''ラスプーチンの行いは全て神聖なるものです''」と言われたと述べた<ref>{{Cite web|author=Vladimir Moss|url=http://www.romanitas.ru/eng/The%20Mystery%20of%20Redemption.htm|title=The Mystery of Redemption|publisher=St. Michael's Press|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。ヴィシュニャコヴァはラスプーチンを告発したが、彼女は[[1913年]]にアレクサンドラによって解雇された<ref>{{Cite book|author=エドワード・ラジンスキー|title=The Rasputin File|page=129-130}}</ref>。 |
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ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の娘達をも誘惑したという噂が世間に広まった<ref>{{Cite book|author=Hugo Mager|title=Elizabeth: Grand Duchess of Russia|publisher=Caroll and Graf Publishers|page=257|language=英語|isbn=0-7867-0678-3}}</ref>。ラスプーチンはアレクサンドラや4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を公開していた。アナスタシアも「親愛なる、大切な、唯一の友人」「私はまたあなたにお会いしたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。あなたが訪問するであろう時にはいつもママに聞きます。・・・とても優しくしてくれるので、いつも親愛なるあなたのことを考えています」と書いた手紙をラスプーチンに送った<ref>{{Cite web|author=|url=http://www.curiouschapbooks.com/Catalog_of_Curious_Chapbooks/Victoria_s_Dark_Secrets/VDS-6/body_vds-6.html|title=Victoria's Dark Secrets Chapter6 ANASTASIA|publisher=AlexanderPalace.org|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。このためにラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の皇女、[[女官]]([[侍女]])の{{仮リンク|アンナ・ヴィルボヴァ|en|Anna Vyrubova}}のヌードが背景に描かれたポルノ漫画まで登場した<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|page=115}}</ref>。スキャンダルが広まった後、ニコライ2世はしばらくサンクトペテルブルクを離れるようにラスプーチンに対して命じ、ラスプーチンは[[パレスチナ]]への[[巡礼]]の旅に出た<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|page=116}}</ref>。こうした噂にも関わらず、ラスプーチンと皇室の交流は[[1916年]]12月17日([[グレゴリオ暦]]で[[12月29日]])に彼が暗殺されるまで続いた。アレクサンドラは暗殺の11日前にニコライ2世に宛てた手紙で「私達の友人は''彼女らは年齢の割に困難な道筋を経験し、魂が大いに発達している''と言って私達の女の子にとても満足しています」と書いている<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=489}}</ref>。 |
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A・A・モルドヴィノフは[[回想録|回顧録]]の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人の皇女がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=507}}</ref>。ラスプーチンはアナスタシアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名した[[イコン]]で埋葬された。アナスタシアも12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に[[礼拝堂]]を建設することを計画した<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=511}}</ref>。 |
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2年後の皇帝一家殺害を指揮した[[ヤコフ・ユロフスキー]]は皇女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の[[祈り]]の言葉を添えた魔除けの[[ロケットペンダント]]を首にかけていたと証言している<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=90}}</ref>。 |
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== 第一次世界大戦中の奉仕活動 == |
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[[第一次世界大戦]]中にアナスタシアは直ぐ上の姉のマリアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。二人は彼女達の母親や2人の姉のように[[赤十字社|赤十字]]の[[看護師]]になるにはまだ若過ぎたので、負傷兵らと一緒に[[チェッカー]]や[[ビリヤード]]で遊び、彼らの士気を高めようと努力した。この病院で治療を受けた負傷兵フェリックス・ダッセルはアナスタシアが「[[リス]]のような笑顔」を持ち、早歩きしていたことを思い起こした<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Anastasia: The Riddle of Anna Anderson|publisher=Back Bay Books|page=187|language=英語|isbn=0-316-50717-2}}</ref>。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=71}}</ref>。 |
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== ロシア革命と監禁 == |
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[[File:Anamashtat1917.jpg|thumb|250px|right|1917年春。マリア(手前)、タチアナ(奥)と]] |
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[[File:RomanovsatTobolsk.jpg|thumb|300px|right|1917年冬にトボリスクにて。左からオリガ、ニコライ2世、アナスタシア、タチアナ]] |
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[[File:Anastasia Nikolaevna in captivity at Tobolsk.jpg|thumb|300px|right|1918年春にトボリスクにて]] |
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[[1917年]]2月23日(グレゴリオ暦で[[3月8日]])に首都[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]において[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が勃発した。この前日にニコライ2世が最高司令官の職務を果たすべく[[マヒリョウ|モギリョフ]]にある[[司令部|軍総司令部]]([[スタフカ]])に向かうために首都を離れたばかりだった<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=167-168}}</ref>。新たに成立した[[ロシア臨時政府|臨時政府]]代表から[[退位]]を迫られたニコライ2世は3月2日(グレゴリオ暦で[[3月15日]])に「つい先程まで、私は帝位を息子のアレクセイ皇太子に譲るつもりでいた。しかし、私は病弱な自分の息子と別れることは出来ないと悟った」と述べ、息子では無く弟のミハイル大公に皇位を譲る決断をした<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=181-182}}</ref>。ところが、ミハイル大公は臨時政府左派の[[アレクサンドル・ケレンスキー]]から「帝位に就けばロシアを救うどころか滅ぼすことになる。[[専制政治|専制]]に対する国民の不満は高まっている。そうなれば、あなたの生命は保証出来ない」と言われるなど脅されたために即位を辞退せざるを得なくなり、他の人物に譲位もしなかったために[[ロマノフ朝]]は滅亡した<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=185}}</ref>。 |
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ニコライ2世は身柄を拘束された形で同年3月9日にツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿に戻り、既に[[軟禁|自宅軟禁]]に置かれていた妻や子供達と再会した<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=189}}</ref>。[[ボリシェヴィキ]]が接近した時、ケレンスキーを首班とする臨時政府はニコライ2世一家を既に[[シベリア]]の[[トボリスク]]に移送していた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=57-59}}</ref>。ボリシェヴィキがロシアの大部分の支配権を掌握した後、アナスタシアと彼女の家族は[[エカテリンブルク]]にある「特別目的の家」と呼ばれた[[イパチェフ館]]に送り込まれた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=78-102}}</ref>。 |
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トボリスクに移された当初は従者達は隣の別の建物に居住していたが、[[十月革命]]によって権力が臨時政府から[[ソビエト]]に移行すると従者達は隣の建物から追い出されてニコライ2世一家と一緒の旧知事公邸に押し込められ、食料の配給も減らされた<ref name="植田198">{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=198}}</ref>。4人の皇女達は二月革命勃発直後に[[麻疹|はしか]]に罹り、その際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった<ref name="植田198" />。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニア大公女に頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラは親友のアンナ・ヴィルボヴァらには熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた皇女達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている<ref name="植田198" />。 |
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トボリスクでの捕われの身の不安や不確実性はアナスタシアと彼女の家族を苦しませた。1917年冬にアナスタシアは「さようなら」「私達のことを忘れないで下さい」と友人に宛てた手紙に書いた<ref name="Riddle14">{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Anastasia: The Riddle of Anna Anderson|page=14}}</ref>。また、[[ロバート・ブラウニング]]作の若くして亡くなった少女についての物悲しい詩『''Evelyn Hope''』を題材に「''When she died she was only sixteen years old.Ther(e) was a man who loved her without having seen her but (k)new her very well. And she he(a)rd of him also. He never could tell her that he loved her, and now she was dead. But still he thought that when he and she will live [their] next life whenever it will be that・・・''(''彼女は亡くなった時、まだ16歳だった。彼女を見たことは無かったが、彼女についてとてもよく知り、愛した男がいた。そして彼女もまた彼について聞いていた。彼は彼女に愛していると伝えられず、そして今彼女は亡くなった。それでもやはり彼は二人が[[来世]]を生きる時のことを考えていた。・・・'')」とスペルミスの目立つ英語で書いた手紙を彼女の英語の家庭教師に宛てて送った<ref name="Riddle14" />。 |
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エカテリンブルクに到着したアレクサンドラが彼女とニコライ2世、マリアが到着後に検査されて物品が没収されたことを伝え、警告する手紙を送ってからはトボリスクに残ったアナスタシアと彼女の姉のオリガとタチアナは検査をパスする目的で自分の衣服に宝石を縫い付けた。彼女達の母親は予め決めておいた宝石の{{仮リンク|コードワード|en|Code word}}、「医薬品」と「セドネフの持ち物」の語を使用して伝えた。アレクサンドラ専属の[[メイド]]、[[アンナ・デミドヴァ]]がピエール・ジリヤールの妻、シューラ夫人に宛てた手紙の中で指示が出された<ref>{{Cite book|author=Robert Wilton|title=Last Days of the Romanovs|publisher=Kessinger Publishing|page=30|language=英語|isbn=978-1164412809}}</ref>。 |
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グレブ・ボトキンはトボリスクでは一家が監禁されている建物の中に入ることは許されなかったが、水彩の動物画を何枚も描き、人に頼んでアナスタシアに届けてもらった。まもなく一家が他の地へ移送される事を知ったボトキンはトボリスク総督官舎の敷地の周りを歩き、窓辺にアナスタシアが独りで立っているのを発見して手を振った。彼女も笑顔で手を振って応えたという。これが彼がアナスタシアを見た最後となった<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|page=76}}</ref>。 |
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アナスタシアは人生の最後の数ヶ月で気晴らしの方法を見付けた。[[1918年]]春に彼女は家族の他のメンバーと一緒に両親や他の人々を楽しませるために芝居を行った。家庭教師の{{仮リンク|チャールズ・シドニー・ギブス|en|Charles Sydney Gibbes}}によると、誰もが彼女の演技に大笑いしたという<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra|publisher=Little Brown and Company|page=177}}</ref>。エカテリンブルクに先に移った姉のマリアに宛てた1918年5月7日の手紙では自身の悲しみや弟アレクセイの病状の悪化の心配にも関わらず「''私達が[[ブランコ]]で遊び、大笑いしながら着地した時、とても気持ちが良かったんです! 本当に! 私は昨日、そのことについて姉達に何度も話したので彼女達はうんざりしていましたが、私はまだその話をし続けることが出来ます。私達が経験した素晴らしい時間! 誰もが単純に喜び叫ぶことでしょう! ''」と書いて喜びの瞬間を表現した<ref>{{Cite book|author=Andrei Maylunas, Sergei Mironenko|title=A Lifelong Passion: Nicholas and Alexandra: Their Own Story|page=619}}</ref>。 |
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クラウディア・ビットナーは回顧録の中で |
トボリスク滞在時のアナスタシアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている<ref>{{Cite web|url=http://otmacamera.tumblr.com/post/75404811529/romanovrussiatoday-anastasia-nikolaevna-apart|title=OTMA's Camera - Tumblr|publisher=Otmacamera.tumblr.com|language=英語|accessdate=2014年4月24日}}</ref>。 |
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{{cquote|''アナスタシア・ニコラエヴナは皆と違い、やや無骨で粗かった。彼女は完全に不真面目でした。勉強に取り組んだり、予習しようとはしませんでした。彼女はいつもマリア・ニコラエヴナと一緒でした。どちらも、まったくもって科学の授業で遅れを取っていました。彼女達は作文を書くことが出来なかったし、自分の考えを表現することに完全に不慣れでした。・・・アナスタシア・ニコラエヴナは基本的に子供っぽかったので、彼女は幼い女の子のように扱われました。'' |
{{cquote|''アナスタシア・ニコラエヴナは皆と違い、やや無骨で粗かった。彼女は完全に不真面目でした。勉強に取り組んだり、予習しようとはしませんでした。彼女はいつもマリア・ニコラエヴナと一緒でした。どちらも、まったくもって[[科学]]の授業で遅れを取っていました。彼女達は作文を書くことが出来なかったし、自分の考えを表現することに完全に不慣れでした。・・・アナスタシア・ニコラエヴナは基本的に子供っぽかったので、彼女は幼い女の子のように扱われました。'' |
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== イパチェフ館での生活 == |
== イパチェフ館での生活 == |
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[[File:AnastasiaRus.jpg|thumb|350px|right|1918年5月。トボリスクからエカテリンブルクへ向かう船にて。既知の最後の写真]] |
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[[1918年]]5月にアナスタシアとオリガ、タチアナ、アレクセイらはエカテリンブルク市内にある[[イパチェフ館]]に監禁されている両親達に合流した。イパチェフ館で警護兵を務めたアレクサンダー・ストレコチンはアナスタシアの性格について一番年の近い姉のマリア同様に親しみやすく、「人なつっこくて非常にお茶目だった」と振り返っている。別の警護兵は「小悪魔!彼女はいらずら好きで、たまにしか疲れないように思えた。生き生きとして、[[サーカス]]をしているかのように、犬と喜劇の[[パントマイム]]を行うのが好きだった」と述べている<ref>{{Cite book|author=[[グレッグ・キング]]|title=The fate of the Romanovs|publisher=Wiley; 1 edition|page=250|language=英語|isbn=978-0471727972}}</ref>。しかし、上記とは別の警護兵は最年少の皇女を「[[テロリズム|テロリスト]]」と呼び、彼女の挑発的な発言が時折、緊張を引き起こしていると不満を述べた<ref>{{Cite book|author=グレッグ・キング|title=The fate of the Romanovs|publisher=Wiley; 1 edition|page=251|language=英語}}</ref>。 |
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1918年5月にアナスタシアとオリガ、タチアナ、アレクセイらはエカテリンブルク市内にあるイパチェフ館に監禁されている両親達に合流した。イパチェフ館で警護兵を務めたアレクサンドル・ストレコチンはアナスタシアの性格について一番年の近い姉のマリア同様に親しみやすく、「人なつっこくて非常にお茶目だった」と振り返っている。別の警護兵は「小悪魔だ! 彼女はいたずら好きで、たまにしか疲れないように思えた。生き生きとして、[[サーカス]]をしているかのように、犬と喜劇の[[パントマイム]]を行うのが好きだった」と述べている<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|publisher=Wiley; 1 edition|page=250|language=英語|isbn=978-0471727972}}</ref>。しかし、上記とは別の警護兵は最年少の皇女を「[[テロリズム|テロリスト]]」と呼び、彼女の挑発的な発言が時折、緊張を引き起こしていると不満を述べた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=251}}</ref>。 |
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アナスタシアと彼女の姉妹はイパチェフ館で洗濯の仕方を学び、パンを作る[[調理師|料理人]]の[[イヴァン・ハリトーノフ]]の手伝いをした。 |
アナスタシアと彼女の姉妹はイパチェフ館で洗濯の仕方を学び、パンを作る[[調理師|料理人]]の[[イヴァン・ハリトーノフ]]の手伝いをした<ref>{{Cite web|url=http://3rm.info/print:page,1,10701-carskie-slugi-evgenij-lukashevskij.html|title=Царские слуги. Евгений Лукашевский|publisher=Москва - Третий Рим|language=ロシア語|accessdate=2014年3月25日}}</ref>。 |
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監視下のイパチェフ館で迎えた夏は一家を暗く沈む気持ちにさせてしまった。外の景色を眺め、新鮮な空気を吸おうとしたアナスタシアは白ペンキで塗られ、密閉された館の窓にかなり動揺していたという<ref>{{Cite book|author= |
厳重な監視下のイパチェフ館で迎えた夏は一家を暗く沈む気持ちにさせてしまった。外の景色を眺め、新鮮な空気を吸おうとしたアナスタシアは白ペンキで塗られ、密閉された館の窓にかなり動揺していたという<ref>{{Cite book|author=Robert Wilton|title=The Last Days of the Romanovs|publisher=Kessinger Publishing|page=407|language=英語|isbn=978-1164042839}}</ref>。 |
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7月14日 |
7月14日(日曜日)、[[ミサ]]のためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの[[司祭]]は死者のための祈りの時にアナスタシアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している。劇的な変化に気付いた司祭は「何か恐ろしいことがそこで起こっている」と語った<ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg|publisher=St. Martin's Griffin; Reprint edition|page=162-163|language=英語|isbn=978-0312603472}}</ref>。 |
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ところが、7月15日のアナスタシアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。アナスタシアは新任の警護隊長 |
ところが、7月15日のアナスタシアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。アナスタシアは新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーが背を向けて部屋を去った時に舌を突き出した<ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg|page=172}}</ref>。 |
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7月16日夜、反ボリシェヴィキ勢力の[[白軍]]がいよいよエカテリンブルク近くまで迫ったために早々と夜間外出禁止令が出された<ref>{{Cite book|author=[[アンソニー・サマーズ]](著)、[[トム・マンゴールド]](著)、[[高橋正]](訳)|title=ロマノフ家の最期|publisher=[[中央公論社]]|page=45|isbn=978-4122014473}}</ref>。 |
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== 殺害 == |
== 殺害 == |
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[[File:Ipatyev house basement.jpg|thumb|300px|right|皇帝一家殺害現場]] |
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{{main|{{仮リンク|ロシア皇室の銃殺|ru|Расстрел царской семьи}}}} |
{{main|{{仮リンク|ロシア皇室の銃殺|ru|Расстрел царской семьи}}}} |
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イ |
ニコライ2世一家とその従者らは1918年7月16日の夜に眠りに付いたが、翌17日午前1時半過ぎに起こされ、エカテリンブルク市内の情勢が不穏なので、全員イパチェフ館の地下2階に降りるように言われた。アナスタシアは一家の3匹の飼い犬のうちの一匹、[[スパニエル]]のジェミーを腕に抱いていた<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=82-84}}</ref>。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左横に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右横に立ち、アナスタシアと彼女の姉妹は使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。その後に一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、警護隊長ユロフスキーが殺害を実行することを発表した。アナスタシアと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた<ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg|page=184-189}}</ref>。 |
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最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人のイヴァン・ハリトーノフ、[[フットマン]]の[[アレクセイ・トルップ]]が殺害され、主治医のエフゲニー・ボトキンとメイドのアンナ・デミドヴァが負傷した。その数分後に銃殺隊が銃撃を再開してボトキンが殺害された。殺害実行者の一人が足が不自由なために椅子に座っていた弟のアレクセイを銃剣で繰り返し刺殺しようと試みるが、衣服に縫い付けてあった宝石が彼を保護していたために失敗し、別の兵士が頭部に向けて発射した弾丸によって殺害された。その後に姉のオリガとタチアナはそれぞれ頭部に向けて発射された一発の弾丸によって殺害された<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=303}}</ref><ref>{{Cite book|author=Helen Rappaport|title=The Last Days of the Romanovs: Tragedy at Ekaterinburg|page=190}}</ref>。 |
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まだ生き残っていたアナスタシア、マリア、デミドヴァは部屋の窓近くの床に倒れていた。殺害実行者の一人、{{仮リンク|ピーター・エルマコフ|en|Peter Ermakov|label=ピーター・エルマコフ}}は銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃って殺害したと主張している。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。部屋の外へ移動させようとする時にマリアとアナスタシアは生きている兆候を見せた。一方は起き上がって腕を頭の上まで伸ばして叫び、他方は口から血を流しながらうめいて身体を少し動かした。前者は意識を失っていたマリアで、後者はアナスタシアだと見られている。保管されているエルマコフの供述書には書かれていないが、彼は妻に銃剣でアナスタシアを絶命させたと話している。また、ユロフスキーは少なくとも1人が悲鳴を上げ、ライフル銃の台尻部分で後頭部に打撃を加えたと書いている。しかし、マリアの後頭部には暴力の痕跡は残っておらず、アナスタシアの遺体はバラバラに切断されて焼却されているために死の原因の究明は不可能となっている<ref>{{Cite book|author=グレッグ・キング|title=The fate of the Romanovs|publisher=Wiley; 1 edition|page=353-367|language=英語}}</ref>。この場面を語る多くの報告がアナスタシアが一番最後に死亡したとしている<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=87}}</ref>。 |
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まだ生き残っていたアナスタシア、マリア、デミドヴァは部屋の窓近くの床に倒れていた。殺害実行者の一人、{{仮リンク|ピョートル・エルマコフ|en|Peter Ermakov}}は銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃って殺害したと主張している。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。部屋の外へ移動させようとする時にマリアとアナスタシアは生きている兆候を見せた。一方は起き上がって腕を頭の上まで伸ばして叫び、他方は口から血を流しながらうめいて身体を少し動かした。前者は意識を失っていたマリアで、後者はアナスタシアだと見られている。保管されているエルマコフの供述書には書かれていないが、彼は妻に銃剣でアナスタシアを絶命させたと話している。また、ユロフスキーは少なくとも1人が悲鳴を上げ、ライフル銃の台尻部分で後頭部に打撃を加えたと書いている。しかし、マリアの後頭部には暴力の痕跡は残っておらず、アナスタシアの遺体はバラバラに切断されて焼却されているために死の原因の究明は不可能となっている<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=353-367}}</ref>。この場面を語る多くの報告がアナスタシアが一番最後に死亡したとしている<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=87}}</ref>。 |
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== 列聖 == |
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[[1981年]]に[[在外ロシア正教会]]から[[新致命者]]に[[列聖]]された。その後、[[2000年]]に[[ロシア正教会]]もアナスタシアを列聖した。 |
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== アナスタシア伝説 == |
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== 遺骨 == |
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[[File:Nicholas II and children with Cossacks of the Guard, cropped.jpg|thumb|400px|left|1916年頃。左からアナスタシア、オリガ、ニコライ2世、アレクセイ、タチアナ、マリア。後ろに[[コサック]]が並んでいる]] |
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[[2007年]]8月に[[エカテリンブルク]]近郊でマリアとアレクセイのものと思われる遺骨が発見された。この2人は遺体をバラバラに切断され、焼却されたという残酷な事実も明らかになった。 |
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[[File:838519023 tonnel-1-.jpg|thumb|150px|left|[[アンナ・アンダーソン]]]] |
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警護兵の何人かの証言は皇帝一家に同情的な警護兵が生存者を救出する可能性があったことを示している。銃殺隊員達は緊張と興奮を鎮めるために[[ウォッカ]]を飲んでいたし、隊長のユロフスキーでさえ眼前に横たわる遺体の数を数え間違えたほどであった<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=92}}</ref>。ユロフスキーは殺害に関わった警護兵達に彼のオフィスに来て、殺害後に一家から盗んだ物品を返却するように要求した。犠牲者の遺体の大部分がトラック内、地下、家の廊下に放置された時、大体の時間のスパンは伝えられていた。一家に同情的で殺害に参加していなかった何人かの警護兵は地下室に居残っていた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=314}}</ref>。 |
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アナスタシア生存説は20世紀の最も有名な謎の一つであった。数多くの女性が自分がアナスタシアであると主張し、他の家族が殺害された状況でどのように生き延びたかに関して様々な物語を提供した。[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]当局がその後何年も「ニコライ2世は処刑されたが、他の家族は安全な場所に護送された」という[[偽情報]]({{仮リンク|ソ連のプロパガンダ|en|Propaganda in the Soviet Union}})を提供し続けたこともこうした噂の広まりを助長した<ref>{{Cite book|author=Greg King, Penny Wilson|title=The Resurrection of the Romanovs: Anastasia, Anna Anderson, and the World's Greatest Royal Mystery|publisher=Hoboken: John Wiley & Sons|page=67|language=英語|isbn=978-0470444986}}</ref><ref>{{Cite book|author= Helen Mingray, John Klier|title=The Quest for Anastasia: Solving the Mystery of the Lost Romanovs|publisher=London: Smith Gryphon|page=70-71、82-84|language=英語|isbn=}}</ref><ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|publisher=Random House|page=144-145}}</ref>。 |
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一家殺害後に出現した{{仮リンク|ロマノフ家の詐称者|en|Romanov impostors}}は全員合わせて200人以上もいたと言われている<ref>{{Cite web|url=http://www.romanov-memorial.com/pretenders.htm|title=- The Pretenders -|publisher=Romanov-memorial.com|language=英語|accessdate=2014年6月25日}}</ref>。この中で最も知られている[[アンナ・アンダーソン]]は[[1920年]]2月に[[ヴァイマル共和政|ドイツ国]]の[[ベルリン]]で自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察が残した公式記録である<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=102}}</ref>。 |
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この時に処刑されたのはニコライ2世とアレクセイのみで、妻と娘達は後に別の場所で殺されたという説、また後述のように生存していたという説もある。これらの説は、政府が「反革命勢力が皇帝の座にあった残忍な人殺し(ニコライ2世)を奪還しようという恐ろしい企みを企てているので、[[ボリシェヴィキ]]ウラル当局の決定により皇帝は処刑されたが、家族は安全な場所にいる」という嘘の公式発表をした事から生じた。 |
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{{cquote|''1920年2月18日、ベルリン。身元不明の娘による自殺未遂事件。昨日、午後9時、20歳前後の娘が自殺の意思を持って、ベントラー橋から{{仮リンク|ラントヴェール運河|en|Landwehr Canal}}に飛び込んだ。娘は巡査部長に助け上げられ、ルツォウ通りのエリーザベト病院に収容された。所持品の中には身分証明書や貴重品に関する物は皆無で、娘は自分の身元についても、自殺未遂の動機についても口を閉ざして語ろうとしない。'' |
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自殺未遂から2年後、アンダーソンは保護してくれたクライスト男爵夫妻に自分がアナスタシアであると話した。エカテリンブルクの惨劇時に銃弾を受けて意識を失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家に同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられ、チャイコフスキーの一家とともにロシアから[[ルーマニア王国]]へ向けて脱出する途中に彼の子供を身篭った。チャイコフスキーは[[ブカレスト]]の市街戦で戦死し、アンダーソンが産んだ男の子は[[孤児院]]に預けられたという<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=262}}</ref>。しかし、ルーマニア王妃[[マリア (ルーマニア王妃)|マリア]]が後援して実施された調査ではブカレストで当時市街戦があったという記録は無く、彼女の息子アレクシスへの[[洗礼]]についてもすべての[[神父]]を探したが、その記録に該当する人物は見付からなかった<ref>{{Cite book|author=[[桐生操]]|title=皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって|publisher=[[新人物往来社]]|page=159|isbn=978-4404018120}}</ref>。[[1925年]]7月17日、かつてアナスタシアのフランス語家庭教師を務めたピエール・ジリヤールの妻シューラ夫人がアンダーソンを訪れたが、そばの人に彼女は誰なのか聞かれて「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ大公女と勘違いしていたという<ref>{{Cite book|author=桐生操|title=皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって|page=161}}</ref>。 |
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ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院にかつて入院していたフェリックス・ダッセルはマリアとアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問をいくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルがマリアとアナスタシアは毎日病院を訪れ、時にはアレクセイも連れ立って来たと言った時には、アンダーソンはこれを姉妹は1週間に2回か3回しか行けず、アレクセイを連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘した<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=303}}</ref>。[[1958年]]5月23日、[[ハンブルク]]における法廷の供述で、クライスト男爵夫人がアンダーソンと対面する何年も前にダッセルが男爵家を訪れてツァールスコエ・セローの病院での話を語っていたことを証言した<ref>{{Cite book|author=桐生操|title=皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって|page=171-172}}</ref>。 |
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== 伝説 == |
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[[アンナ・アンダーソン]]らが、自分がアナスタシアであると主張したことにより、アナスタシアが生存しているとの噂が広まり、そこから「アナスタシア伝説」が生まれた。またこれをもとに[[ハリウッド]]で2度の映画化がなされている。この伝説を下敷きにした物語も多く、日本でも[[夢野久作]]が『[[死後の恋]]』を著している。 |
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また、第一次世界大戦中の1916年に当時の[[エルンスト・ルートヴィヒ (ヘッセン大公)|ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ]](アレクサンドラの兄)が単独講和を話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿を訪れたことがアンダーソンによって初めて公に暴露された。ドイツとロシアが敵国同士であったためにこの情報は極秘とされており、大公本人も訪問したことを否定した<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=288-290}}</ref>。アンダーソンを支持する証言が30年近く経過した後から次々に寄せられたが、その中の一つが戦時中のヘッセン大公の訪問について知っている亡命者にこれまで7人も出会ったという、アンダーソンが関係者から情報を入手している可能性が少なからずあったことを示唆するものでもあった<ref>{{Cite book|author=桐生操|title=皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって|page=172-174}}</ref>。 |
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1984年にアンダーソンは亡くなり火葬されたが、1994年に本人のものとされる切除された小腸の標本が発見された。同年に行われたDNA鑑定では血縁がないと結論されているが、一部の論者は、その標本の出所や保存された理由、証拠が提出された状況に不審な点があるとして、それが本人のものではない可能性を訴えている。 |
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アナスタシアの幼少時からアレクサンドロフスキー宮殿に長期間滞在して彼女をよく知っていた{{仮リンク|リリー・デーン|en|Lili Dehn}}は40年の空白があったにも関わらず、[[1957年]]に1週間毎日数時間ずつアンダーソンと会い、宮中の些細な出来事についても詳しく知っていたことに驚き、声や話し方がアナスタシアそのものであると感じ、本物だと確信したことを正式に確認している<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=304-305}}</ref>。 |
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== 関連作品 == |
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;書籍 |
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*Hugh Brewster『ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム - その生活の記録』(リブリオ出版、1996年) |
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アナスタシアとして認知してもらい、一家の遺産を相続するためにアンダーソンの支持者が長年続けた法廷闘争は[[1970年]][[2月17日]]に終焉を迎えた。[[西ドイツ]]の[[最高裁判所]]はアナスタシアであることを証明するのに十分な証拠を提供していないということで訴えを退けた。この裁判に明確な決着を付けず、独自の判断も示さなかった<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=397}}</ref>。 |
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*ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)『アナスタシア 消えた皇女』([[角川書店]]、1998年) |
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*[[桐生操]]『皇女アナスタシアは生きていたか』([[新人物往来社]]、1991年) |
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*[[柘植久慶]]『皇女アナスタシアの真実 』([[小学館]]、1998年)、『傭兵見聞録』([[集英社]] 、1991年) |
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アンダーソンは[[1984年]][[2月12日]]に[[肺炎]]で亡くなり、[[火葬]]にされた<ref>{{Cite book|author=ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)|title=アナスタシア―消えた皇女|publisher=角川文庫|page=453-455}}</ref>。死後10年が経過した[[1994年]]に彼女が生前に手術した際に摘出した[[腸]]の一部組織の標本を使用して[[DNA型鑑定|DNA鑑定]]が実施された。ところが、[[科学者]]達が[[ミトコンドリアDNA]]を比較した結果、アレクサンドラの親戚である[[フィリップ (エディンバラ公)|エジンバラ公フィリップ]]のものとは遺伝的な繋がりが認められなかった<ref>{{Cite book|author=植田樹|title=最後のロシア皇帝|page=39-40}}</ref>。一方で、[[ポーランド]]生まれの工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカ(アンナ・アンダーソンが登場する直前に失踪)の甥とはミトコンドリアDNAが一致したことが明らかにされた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|publisher=Random House|page=194-229}}</ref>。 |
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*[[小川洋子]]『貴婦人Aの蘇生』([[朝日新聞社]]、2002年) |
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*[[島田荘司]]『ロシア幽霊軍艦事件』([[原書房]]、2001年) |
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{{仮リンク|ユージニア・スミス|en|Eugenia Smith}}は[[1963年]]10月にアメリカで『''Autobiography of HIH Anastasia Nicholaevna of Russia''』を出版して自身がアナスタシアであることを主張して注目を浴びた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|publisher=Random House|page=157}}</ref>。[[ポリグラフ]]の専門家や元[[中央情報局|CIA]]のエージェントが彼女を[[嘘発見器]]で調べたところ、アナスタシア本人であると結論付けられた<ref>{{Cite book|author=Guy Richards|title=The hunt for the Czar|publisher=Doubleday|page=152-161|language=英語|asin=B0006CA7HI}}</ref>。 |
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*[[麻耶雄嵩]]『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』([[講談社]]、1993年) |
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*[[ダンカン・カイル]]『革命の夜に来た男』(早川書房、1986年) |
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{{仮リンク|ナデジュダ・ヴァシリイェヴァ|en|Nadezhda Vasilyeva}}は1920年に身分証明書を偽造して[[中華民国]]に旅行しようと企み、ボリシェヴィキ当局によって逮捕された。自身がアナスタシアであることを主張して[[イギリスの君主|イギリス国王]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]に助けを求める手紙を書き、[[大使館]]経由で送ろうとしたが、失敗した。その後は監獄と精神病院を転々として[[1971年]]に亡くなった。[[カザン]]の病院長は「彼女は自分がアナスタシアだという主張を除けば、完全に正気だった」と述べている<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|publisher=Random House|page=145-149}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.sovsekretno.ru/articles/id/804|title=Принцесса из Казанской психушки|publisher=Совершенно секретно|language=ロシア語|accessdate=2014年6月17日}}</ref>。 |
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この他にはロシア皇室の衛兵を務めていたピョートル・ザミアトキンという人物が他の家族の殺害後にアナスタシアと彼女の弟アレクセイを[[ブルガリア]]の小さな村に避難させたと語った。ザミアトキンによるとアナスタシアは{{仮リンク|エレオノーラ・クルーガー|en|Eleonora Kruger}}という名で生活し、[[1954年]]に亡くなった<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=314}}</ref>。また、アナスタシアとその姉マリアであると主張する2人の若い女性が[[1919年]]に[[ウラル山脈]]において司祭によって発見され、[[1964年]]に亡くなるまで2人は[[修道士|修道女]]として生き、アナスタシア・ニコラエヴナとマリア・ニコラエヴナの名で埋葬された<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|page=148}}</ref>。 |
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1918年8月初め、[[ペルミ]]に投獄されていた[[エレナ・ペトロヴナ]](アナスタシアの遠いいとこにあたる[[イオアン・コンスタンチノヴィチ|イオアン・コンスタンチノヴィチ公]]の妻)のもとに警護兵がアナスタシアと名乗る少女を連れて来て、本当に皇帝の娘なのかどうか尋ねた。ペトロヴナがその少女を知らないと答えると、警護兵は少女をどこかへ連れ去ったという<ref name="Riddle44">{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Anastasia: The Riddle of Anna Anderson|page=44}}</ref>。1918年9月にペルミ北西の鉄道駅、第37引込線で逃亡を試みた若い女性が再び捕らえられたことも報告されている。目撃者はマクシム・グリゴリエフ、タチアナ・シトニコフ、フョードル・シトニコフ(タチアナ・シトニコフの息子)、イヴァン・クークリン、マトリョーナ・クークリナ、ヴァシリー・リャボフ、ウスチニア・ヴァランキナ、パーヴェル・ウトキン(事件後に女性を診察した医師)の8人である<ref>{{Cite book|author=Michael Occleshaw|title=The Romanov Conspiracies: The Romanovs and the House of Windsor|publisher=London: Orion Publishing Group Ltd|page=46|language=英語|isbn=1-85592-518-4}}</ref>。白軍調査官はこのうちはっきり娘の顔を見たと証言した4人に別個に皇帝一家の写真類を見せたが、いずれも目撃した娘に似ている女性としてアナスタシアを指差したという<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=469}}</ref>。また、ウトキン医師は[[チェーカー]]のペルミ支部で診察した女性の名前を聞いたところ「私は陛下の娘のアナスタシアです」と答えたことを白軍調査官に語っている。ウトキンは名前の[[アルファベット]]の中からどれか一文字を使ったらいいだろうという指示で[[処方箋]]に「N」という文字を書き込んだ。のちに白軍調査官はこの処方箋を支部近くにある薬局では無く、支部からは少し不便な場所にある地方評議会の薬局で発見した<ref>{{Cite book|author=Michael Occleshaw|title=The Romanov Conspiracies: The Romanovs and the House of Windsor|page=47}}</ref><ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=466-467}}</ref>。この他にも1918年7月17日の一家殺害事件の後の数ヶ月間にアナスタシアと彼女の3人の姉、母親アレクサンドラと見られる女性5人をペルミで目撃したという証言が何例も報告されているが、近年ではそれらの証言は単なる噂に過ぎないものとして、あまり重要視されなくなっている<ref name="Riddle44" />。 |
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アナスタシアの生存の噂はボリシェヴィキの兵士やチェーカーが逃走した彼女を見付けるために家や[[鉄道]]を捜索していたというほぼ同時期の複数証言によって潤色がなされた<ref>{{Cite book|author=Peter Kurth|title=Anastasia: The Riddle of Anna Anderson|page=44}}</ref>。1919年春にアナスタシアと見られる皇女の1人が逃走したという新しい証言がしきりに出てくるのを白軍の調査官が発見している<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=456}}</ref>。 |
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[[ブレスト=リトフスク条約]]の調印に尽力した在露ドイツ大使{{仮リンク|ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハ|de|Wilhelm von Mirbach-Harff}}は「皇帝の運命はロシア人自身が決めることだ。我々の関心は当面、ロシア領内にいるドイツの(血を引く)皇女達の安全にある」との見解を表明していた<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=379}}</ref>。1918年8月29日にロシア側が皇帝の家族を取引材料として監獄に囚われの身となっていたドイツの革命指導者[[カール・リープクネヒト]]の釈放を求めていることも注目すべき点である。ところが、それから一ヶ月も経たぬうちにロシア側はこの問題を避けるようになっていき、実は一家全員揃って7月にエカテリンブルクで殺害されていたのだと見られるようになった<ref>{{Cite book|author=アンソニー・サマーズ(著)、トム・マンゴールド(著)、高橋正(訳)|title=ロマノフ家の最期|page=407-410}}</ref>。 |
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== 遺骨の発見 == |
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[[File:Forensic rec. Romanov 05.jpg|thumb|200px|left|1994年。[[復顔|複顔術]]によって生前の姿に顔面が再建された]] |
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[[1991年]]にニコライ2世一家とその使用人のものであると見られる遺骨がエカテリンブルク近郊の森の中で大量に発掘された<ref name="analiz">{{Cite web|url=http://www.romanovy.narod.ru/sravn.htm|title=Сравнительный анализ документов следствия 1918 — 1924 гг. с данными советских источников|publisher=данными советских источников|language=ロシア語|accessdate=2014年6月17日|archiveurl=http://www.webcitation.org/6JLslUiEw|archivedate=2013年9月3日}}</ref>。埋葬地は[[1979年]]夏に発見されていたが、当時はまだ[[共産主義]]体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められた<ref name="analiz" />。しかし、発掘された遺骨は9体のみで2人の遺骨が欠落していたため、欠落している大公女の遺骨がマリアかアナスタシアかでアメリカとロシアの科学者の間で[[ジレンマ]]があった。アメリカの[[法医学|法医学博士]]{{仮リンク|ウィリアム・R・メイプルズ|en|William R. Maples}}がアレクセイとアナスタシアの遺骨は欠落していたと主張したのに対し、ロシアの科学者達はこれに異議を唱え、欠落していたのはマリアの遺骨だと主張した。彼らはコンピュータプログラムを用いて最年少の大公女の写真と犠牲者の頭蓋骨を比較し、その一つがアナスタシアのものだと特定したが、アメリカの科学者は骨の一部が欠けていたために頭蓋骨の高さと幅を推定したこの分析法が不正確であることを発見した<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The Romanovs: The Final Chapter|page=67}}</ref>。ロシアの法医学専門家は大公女の頭蓋骨のいずれもがマリアの特徴であった前歯の間の隙間を有していなかったと述べた<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=251}}</ref>。 |
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ミトコンドリアDNAを比較した結果、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの親戚のエジンバラ公フィリップに遺伝的な繋がりがあることが確認された。ヤコフ・ユロフスキーは提出した報告書の中で、2体の遺骨は埋葬地から除去され、別の場所で焼却されたと述べている<ref>{{Cite book|author=エドワード・ラジンスキー|title=The Rasputin File|page=430-443}}</ref>。 |
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[[2007年]][[8月23日]]に、ロシアの[[考古学|考古学者]]はユロフスキーが残した資料に記載された埋葬地と一致するように思われたエカテリンブルク近郊の場所で2体の焼かれた部分的な骨格の発見を発表した。考古学者は10歳から13歳ぐらいまでの年齢の少年と18歳から23歳ぐらいまでの年齢の若い女性のものであったと述べた。アナスタシアは殺害当時17歳1ヶ月、マリアは19歳1ヶ月であり、唯一発見されていなかった皇女の遺体はマリアのものと推測された。遺骨と一緒に「[[硫酸]]の容器の破片、釘、木箱から金属片及び様々な口径の弾丸」が発見され、遺骨探索には[[金属探知機]]が使用された<ref>{{Cite web|url=http://www.theguardian.com/world/2007/aug/24/russia|title=Remains of tsar's heir may have been found|publisher=theguardian.com|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。[[2008年]][[4月30日]]にロシアの法医学者はDNA鑑定によってこの2体の遺骨がアレクセイ皇子と彼の姉の皇女のいずれかであることが証明されたと発表した<ref>{{Cite web|url=http://web.archive.org/web/20080501043005/http://news.yahoo.com/s/ap/20080430/ap_on_re_eu/russia_czar_s_family|title=DNA confirms IDs of czar's children, ending mystery|publisher=Yahoo.com|language=英語|accessdate=2014年6月17日}}</ref>。この結果、皇帝の家族全員が殺害されており、生き残っていなかったことがDNA鑑定で確認されている。 |
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DNA鑑定はアレクサンドラ、アレクセイ、アレクセイの4人の姉のうちの1人が[[血友病]]の因子を保有していたことも明らかにした。アメリカの科学者はその1人はマリアだと推定したが、ロシアの科学者はその1人をアナスタシアと推定した<ref>{{Cite web|url=http://news.sciencemag.org/biology/2009/10/case-closed-famous-royals-suffered-hemophilia|title=Case Closed: Famous Royals Suffered From Hemophilia|publisher=Science|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。 |
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== 列聖と再評価 == |
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{{main|{{仮リンク|ロマノフ家の列聖|en|Canonization of the Romanovs}}}} |
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7月17日の他の殺人被害者と同じく[[1981年]]に[[在外ロシア正教会]]によって[[列聖]]された<ref>{{Cite book|author=Greg King|title=The fate of the Romanovs|page=65、495}}</ref>。その19年後の[[2000年]]には[[ロシア正教会]]もアナスタシアと彼女の他の6人の家族を{{仮リンク|パッション・ベアラ|en|Passion bearer}}として列聖した<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/2000/08/15/world/nicholas-ii-and-family-canonized-for-passion.html|title=Nicholas II And Family Canonized For 'Passion'|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|language=英語|accessdate=2014年6月14日}}</ref>。 |
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[[1998年]]7月17日にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨はサンクトペテルブルクの[[首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 (サンクトペテルブルク)|ペトル・パウェル大聖堂]]に埋葬された<ref>{{cite web|url=http://www.romanovfundforrussia.org/family/funeral.html|title=17 July 1998: The funeral of Tsar Nicholas II|publisher=Romanovfundforrussia.org|accessdate=2014年3月24日|language=英語|archiveurl=http://web.archive.org/web/20061229180236/http://www.romanovfundforrussia.org/family/funeral.html|archivedate=2006年12月29日}}</ref>。 |
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[[2009年]][[10月16日]]に{{仮リンク|ロシア連邦検察庁|ru|Прокуратура Российской Федерации}}はニコライ2世一家を含めたボリシェヴィキによる[[赤色テロ]]の犠牲者52名の名誉の回復を発表した<ref>{{Cite web|url=http://www.imperialhouse.ru/rus/extra/vin1/1431.html|title=Генеральная прокуратура РФ удовлетворила заявление Главы Российского Императорского Дома о реабилитации репрессированных верных служителей Царской Семьи и других Членов Дома Романовых|publisher=Официальный сайт Российского Императорского Дома|language=ロシア語|accessdate=2014年3月25日}}</ref>。 |
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== 大衆文化への影響 == |
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[[File:IngridBergmanportrait.jpg|right|thumb|200px|1956年公開の映画『''[[追想 (1956年の映画)|追想]]''』主演女優の[[イングリッド・バーグマン]]。この映画で自身2度目の[[アカデミー主演女優賞]]を受賞した]] |
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アナスタシアが実は生存しているという伝説を下敷きにしてアメリカを中心に数十の本や映画が制作された<ref>{{Cite web|author=Greg King|url=http://www.kingandwilson.com/filmography/tableofcontents.htm|title=Table of Contents|publisher=The Romanovs in Film|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。最古の作品は[[1928年]]公開の映画『''Clothes Make the Woman''』。[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド映画]]の中でアナスタシアの役を演じる主役の女性は彼女を以前救出したロシアの兵士によって本物のアナスタシアであることを認められた<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/movies/movie/87459/Clothes-Make-the-Woman/overview|title=Clothes Make the Woman (1928)|publisher= The New York Times|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。 |
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最も有名なのが主役のアンナ・コレフ役を[[イングリッド・バーグマン]]が演じた[[1956年]]公開の映画『''Anastasia''』(邦題:『''[[追想 (1956年の映画)|追想]]''』)である。架空のパヴロヴィッチ・ボーニン将軍役を[[ユル・ブリンナー]]、父方の祖母であるマリア皇太后役を[[ヘレン・ヘイズ]]が演じた。[[セーヌ川]]に身を投げて自殺しようとして救助された記憶喪失の女性コレフをボーニン将軍ら4人はアナスタシアに仕立ててマリア皇太后を騙すことで、ニコライ2世がアナスタシアのために[[イングランド銀行]]に預けていた多額の信託金を獲得しようと企む。ところが彼女と対面したマリア皇太后は妙な咳から本物のアナスタシアであることに気付くことになる<ref>{{Cite web|url=http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=5962|title=追想(1956)|publisher=Kinenote.com|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。[[1997年]]にはこの作品の[[リメイク]]として[[アニメーション映画|アニメ映画]]『''Anastasia''』(邦題:『''[[アナスタシア (映画)|アナスタシア]]''』)も公開され、アナスタシアの声は[[メグ・ライアン]]が担当した<ref>{{Cite web|url=http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=30782|title=アナスタシア|publisher=Kinenote.com|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。 |
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[[1986年]]にはピーター・カースによって3年前に出版された本『''The Riddle of Anna Anderson''』が原作となった『''Anastasia: The Mystery of Anna''』(邦題:『''[[アナスタシア/光・ゆらめいて]]''』)が二部構成の[[テレビ映画]]として放送された。82歳で亡くなるまでアナスタシアであることを主張し続けたアンナ・アンダーソンの人生を詳述しており、1918年のエカテリンブルクの一家虐殺事件からの脱出劇も具体的に取り上げられている。大人のアンナ・アンダーソン役は[[エイミー・アーヴィング]]が演じた<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/movies/movie/2170/Anastasia-The-Mystery-of-Anna/overview|title=Anastasia: The Mystery of Anna (1986)|publisher= The New York Times|language=英語|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。 |
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[[2004年]]発売の[[PlayStation 2]]用[[コンピュータRPG|RPG]]ゲーム『''[[シャドウハーツII]]''』ではメインキャラクターの1人としてアナスタシアが登場した<ref>{{Cite web|url=http://www.shadowhearts.net/sh2/characters.html|title=登場人物|publisher=シャドウハーツII公式サイト|accessdate=2014年6月24日}}</ref>。 |
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== 系譜 == |
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|1= 1. '''ロシア大公女アナスタシア・ニコラエヴナ''' |
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|2= 2. [[ニコライ2世|ロシア皇帝ニコライ2世]] |
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|3= 3. [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|ヘッセン大公女アリックス]] |
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|4= 4. [[アレクサンドル3世|ロシア皇帝アレクサンドル3世]] |
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|5= 5. [[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|デンマーク王女ダウマー]] |
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|6= 6. [[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)|ヘッセン大公ルートヴィヒ4世]] |
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|7= 7. [[アリス (ヘッセン大公妃)|イギリス王女アリス]] |
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|8= 8. [[アレクサンドル2世|ロシア皇帝アレクサンドル2世]] |
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|9= 9. [[マリア・アレクサンドロヴナ (ロシア皇后)|ヘッセン大公女マリー]] |
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|10= 10. [[クリスチャン9世 (デンマーク王)|デンマーク国王クリスチャン9世]] |
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|11= 11. [[ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル|ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ]] |
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|12= 12. [[カール・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|ヘッセン大公子カール]] |
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|13= 13. [[エリーザベト・フォン・プロイセン (1815-1885)|プロイセン王女エリーザベト]] |
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|14= 14. [[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート]] |
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|15= 15. [[ヴィクトリア (イギリス女王)|イギリス女王ヴィクトリア]] |
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|16= 16. [[ニコライ1世|ロシア皇帝ニコライ1世]] |
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|17= 17. [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|プロイセン王女シャルロッテ]] |
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|18= 18. [[ルートヴィヒ2世 (ヘッセン大公)|ヘッセン大公ルートヴィヒ2世]] |
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|19= 19. [[ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデン|バーデン大公女ヴィルヘルミーネ]] |
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|20= 20. [[フリードリヒ・ヴィルヘルム (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム]] |
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|21= 21. [[ルイーゼ・カロリーネ・フォン・ヘッセン=カッセル|ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ・カロリーネ]] |
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|22= 22. [[ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム|ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム]] |
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|23= 23. [[ルイーセ・シャロデ・ア・ダンマーク|デンマーク王女ルイーゼ・シャルロッテ]] |
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|24= 24. [[ルートヴィヒ2世 (ヘッセン大公)|ヘッセン大公ルートヴィヒ2世]] (= 18) |
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|25= 25. [[ヴィルヘルミーネ・フォン・バーデン|バーデン大公女ヴィルヘルミーネ]] (= 19) |
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|26= 26. [[ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1783-1851)|プロイセン王子ヴィルヘルム]] |
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|27= 27. [[マリアンネ・フォン・ヘッセン=ホンブルク|ヘッセン=ホンブルク方伯女マリアンヌ]] |
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|28= 28. [[エルンスト1世 (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世]] |
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|29= 29. [[ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ルイーゼ]] |
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|30= 30. [[エドワード・オーガスタス (ケント公)|ケント・ストラサーン公エドワード]] |
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|31= 31. [[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド|ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ヴィクトリア]] |
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== 関連作品 == |
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; 書籍 |
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* Hugh Brewster『ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム - その生活の記録』(リブリオ出版、1996年) (ISBN 978-4897844725) |
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* ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)『アナスタシア 消えた皇女』([[角川書店]]、1979年・1998年) (ISBN 978-4042778011) |
|||
* [[桐生操]]『皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって』([[新人物往来社]]、1991年) (ISBN 978-4404018120) |
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* [[柘植久慶]]『皇女アナスタシアの真実』([[小学館]]、1998年) (ISBN 978-4094026016) |
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* ロバート・K. マッシー(著)、 今泉 菊雄(訳)『ロマノフ王家の終焉―ロシア最後の皇帝ニコライ二世とアナスタシア皇女をめぐる物語』([[鳥影社]]、1999年) (ISBN 978-4886294333) |
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* [[小川洋子]]『貴婦人Aの蘇生』([[朝日新聞社]]、2002年) (ISBN 978-4022643551) |
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* [[島田荘司]]『ロシア幽霊軍艦事件』([[原書房]]、2001年) (ISBN 978-4041682081) |
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* [[麻耶雄嵩]]『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』([[講談社]]、1993年)(ISBN 978-4062632973) |
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* [[ダンカン・カイル]]『革命の夜に来た男』(早川書房、1986年) (ISBN 978-4150404048) |
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;映画 |
; 映画 |
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*[[追想 (1956年の映画)|追想]](原題:''Anastasia''、1956年) |
* [[追想 (1956年の映画)|追想]](原題:''Anastasia''、1956年) |
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*[[アナスタシア |
* [[アナスタシア/光・ゆらめいて]](1986年) |
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* [[アナスタシア (映画)|アナスタシア]](1997年) |
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;アニメ |
; アニメ |
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*[[ルパン三世 ロシアより愛をこめて]] - ヒロインはアナスタシアの子孫。 |
* [[ルパン三世 ロシアより愛をこめて]] - ヒロインはアナスタシアの子孫。 |
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;ゲーム |
; ゲーム |
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*[[シャドウハーツII]](2004年) |
* [[シャドウハーツII]](2004年) |
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;漫画 |
; 漫画 |
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* [[武本サブロー]]・[[さいとうたかおプロ]]:『[[北の密使]]』([[リイド社]]、1985年) - アナスタシアの一つ上の姉である第三皇女[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア]]が妹(第四皇女。代わりにアナスタシアは第三皇女)という史実と異なる設定になっている(ミスか意図的な物かは不明)。史実での人相(アナスタシア:まだ幼い平凡な容姿、マリア:10代半ば前後の長髪の美少女)や性格(アナスタシア:病弱で弱弱しい、マリア:闊達)も、作品中のアナスタシアとマリアとで全て逆となっており、作中冒頭で登場している(実際に撮影された写真画像を基にした)ロマノフ一家撮影写真カット絵でも、マリアの方の顔部分クローズアップがアナスタシアの顔として紹介されている。 |
* [[武本サブロー]]・[[さいとうたかおプロ]]:『[[北の密使]]』([[リイド社]]、1985年) - アナスタシアの一つ上の姉である第三皇女[[マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)|マリア]]が妹(第四皇女。代わりにアナスタシアは第三皇女)という史実と異なる設定になっている(ミスか意図的な物かは不明)。史実での人相(アナスタシア:まだ幼い平凡な容姿、マリア:10代半ば前後の長髪の美少女)や性格(アナスタシア:病弱で弱弱しい、マリア:闊達)も、作品中のアナスタシアとマリアとで全て逆となっており、作中冒頭で登場している(実際に撮影された写真画像を基にした)ロマノフ一家撮影写真カット絵でも、マリアの方の顔部分クローズアップがアナスタシアの顔として紹介されている。 |
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* さいとうたかおプロ:『[[ゴルゴ13]]』単行本 第81巻収録(文庫サイズ版 第68巻収録)第277話「すべて人民のもの」([[小学館]]、1988年) - 主人公の出自とロマノフ王家の繋がりの疑惑を描いた作品。3年前に同じくさいとうたかおプロが発表した「北の密使」と設定に幾つかの共通(アナスタシアが日本軍特務機関の手引きでシベリア方向へ逃亡、逃亡に同行・護衛する日本軍兵士と恋に落ちる等)が見られるが、アナスタシア以外の登場人物の名前は両作品別個で、作品世界は繋がっていない。 |
* さいとうたかおプロ:『[[ゴルゴ13]]』単行本 第81巻収録(文庫サイズ版 第68巻収録)第277話「すべて人民のもの」([[小学館]]、1988年) - 主人公の出自とロマノフ王家の繋がりの疑惑を描いた作品。3年前に同じくさいとうたかおプロが発表した「北の密使」と設定に幾つかの共通(アナスタシアが日本軍特務機関の手引きでシベリア方向へ逃亡、逃亡に同行・護衛する日本軍兵士と恋に落ちる等)が見られるが、アナスタシア以外の登場人物の名前は両作品別個で、作品世界は繋がっていない。 |
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* [[アンナ・アンダーソン]]…アナスタシアに生涯成り済ましたポーランド系アメリカ人女性 |
* [[アンナ・アンダーソン]]…アナスタシアに生涯成り済ましたポーランド系アメリカ人女性 |
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2014年7月23日 (水) 15:34時点における版
アナスタシア・ニコラエヴナ Анастаси́я Никола́евна | |
---|---|
ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 | |
アナスタシア・ニコラエヴナ(1914年頃) | |
全名 | アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ |
身位 | ロシア大公女 |
出生 |
1901年6月18日 ロシア帝国 サンクトペテルブルク |
死去 |
1918年7月17日(17歳没) ロシア共和国 エカテリンブルク、イパチェフ館 |
埋葬 |
1998年7月17日 ロシア サンクトペテルブルク、ペトロパヴロフスキー大聖堂 |
父親 | ニコライ2世 |
母親 | アレクサンドラ・フョードロヴナ |
宗教 | ロシア正教会 |
サイン |
アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ(ロシア語: Анастаси́я Никола́евна Рома́нова, ラテン文字転写: Anastasia Nikolaevna Romanova、1901年6月18日 - 1918年7月17日)は、最後のロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の第四皇女。ロシア大公女。1917年の二月革命で成立した臨時政府によって家族とともに監禁された。翌1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館においてヤコフ・ユロフスキーが指揮する銃殺隊によって超法規的殺害(裁判手続きを踏まない殺人)が実行され、家族・従者とともにわずか17歳の若さで銃殺された。2000年に家族や他のロシア革命時の犠牲者とともにロシア正教会で聖人(新致命者)。
人物
ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の4人娘はいつも仲良しで、末娘アナスタシア皇女は特に一番年の近い姉のマリア皇女と仲が良く、多くの時間を過ごし、1つの寝室を共用していた。2人の姉のオリガ皇女とタチアナ皇女も2人で1つの寝室を共用しており、彼女らがビッグ・ペアと呼ばれていたのに対し、下の2人はリトル・ペアと呼ばれていた[1]。4人はOTMAというサインを結束の象徴として使用していた[1]。また、アナスタシアは第六感のようなものを使って弟のアレクセイ皇太子とも話さずとも意思を疎通出来ていたようで、非常に仲が良かった。彼のビュッフェテーブルから食べ物を盗んだりするなど、いつもふざけた態度で接して弟を楽しませていた[2]。
アナスタシアが生まれた時、ニコライ2世とアレクサンドラの子供が4人続けて女児であったためにロシアの民衆が「もう皇太子が授かる望みはないかもしれない」と憂いたと言われている[3]。皇位継承者のために息子の誕生を望んでいた彼女の両親や親戚も女の子だったことにがっかりした。ニコライ2世は自分の気持ちを落ち着かせるためにアレクサンドラと初対面の新生児アナスタシアと会う前に長い散歩に出掛けた[4]。彼女の名前のロシア語の意味の一つは「鎖の破壊者」または「刑務所を開く人」である。ニコライ2世は彼女の誕生を記念して前年の冬にモスクワとサンクトペテルブルクで発生した暴動に参加したために投獄されていた学生達を許し、彼らに対する恩赦を実施した[5]。もう一つの意味は「復活」。彼女の死後に生存の噂が広く伝えられることになった[5]。
英語で最も正確には「Grand Princess」と訳されたアナスタシアとその姉達の身位の呼称「Imperial Highness」はただの殿下に過ぎない「Royal Highnesses」と訳された他のヨーロッパの王女よりも順位が高いことを意味し、最も広く使用されるロシア大公女のロシア語から英語への訳となった[6]。
1905年からニコライ2世は妻子をツァールスコエ・セローにある離宮アレクサンドロフスキー宮殿に常住させるようになり、5人の子供達は外界とほとんど途絶してこの宮殿内でアレクサンドラに溺愛されて育った[7]。早朝から午後8時頃までは執務室で公務に励み、その後の時間は家族との団欒に当てることを日課としていたニコライ2世についても「国事に専念せずに家族の団欒を好んだ」という批判的な見方をする人が多かった[8]。
マリア皇太后を筆頭とするロマノフ家の親戚はアレクサンドラの生活スタイルや子供の育て方を認めようとせず、長年一家との交際を避けていた。アレクサンドラの方もマリア皇太后の社交好きの生活スタイルを軽蔑していた。派手好きのマリア皇太后と彼女の長女(ニコライ2世の妹)クセニア大公女は華やかな帝都サンクトペテルブルクにとどまることを好み、離宮には滅多に顔を出さなかった。三男ゲオルギー大公、四男ミハイル大公(次男アレクサンドル大公は生後1年未満に死亡)に至ってはほとんど、一度も離宮を訪れなかった。控えめな性格の次女オリガ大公女のみが唯一アレクサンドラに同情的で、一家と親しい付き合いをしていた[9]。
ニコライ2世の質素な生活スタイルの影響を受けてアナスタシアと彼女の姉達は厳しく育てられ、病気の時以外は枕無しで硬いベッドで眠り、朝に冷たい風呂に入った[10]。刺繍や編み物を教わり、チャリティーバザーに出品するための作品を準備することが求められた[11]。
末娘のアナスタシアは皇帝の子女の中で最も注目度が低く、姉達は美しく成長するようにつれ、マスメディアや貴族の間で騒がれるようになっていったが、アナスタシアはたまにそのやんちゃぶりが笑いを誘うか、顰蹙を買う他はほとんど注目されなかった。両親や姉弟ほどは詳細に公式記録を取られず、ロシア革命を生き延びた人々の証言も、宮中での彼女の成長過程を極めて断片的にしか捉えていない[12]。
ただ、証人達は異口同音に「アナスタシアはおしゃまな娘だった」と語っている。アナスタシアの遊び友達であったグレブ・ボトキン(ニコライ2世一家と一緒に殺害された皇室主治医、エフゲニー・ボトキンの息子)は「他人を魅了する独特の資質を持っていた」と語り、続けて「それは彼女の美貌に由来するものでは無かった。というのはアナスタシアは姉達ほど美人では無かったからだ。背は低く、顔立ちも整ってはいなかった。鼻は長めで、口がかなり大きかった。顎は小さく、平板で、下唇から下の丸みがほとんど無いと言ってよかった。しかし、彼女の瞳は―いつも楽しげにキラキラ輝いている明るい青い瞳は―実に美しかった。その眼は父親譲りだった。初めて皇帝に謁見した後で、その眼の美しさについて語らなかった人は私は会ったことが無い」と述べている。また、最初は姉達のように背筋を伸ばして生真面目でしとやかな令嬢のように相手に思わせるが、頭の中ではいたずらの方法を一生懸命考えており、数分後に決まってそれを実行に移すという彼女の印象を3冊の本と何百もの手紙の中に書き記している[13]。フランス語の家庭教師を務めたピエール・ジリヤールは「とにかくやんちゃでひょうきんだった。強烈なユーモアの持ち主で、彼女のウィットはしばしば相手の痛いところをぐさりと突いた。いわゆる手に負えない子供だったが、この欠点は年齢とともに直っていった。他には、極めて怠惰なところがあった―もっともそれは才能に恵まれた子供に特有の怠惰さだったが。フランス語の発音は抜群だった。喜劇の場面を演じさせても才能が光っていた。大変快活な子で、彼女の陽気さが他の人間に伝染したものだ」と語っている[14]。アナスタシアは幼い頃は木に登ると降りることを拒否した[15]。ポーランドにある皇室私有地で家族で雪合戦をして遊んでいる時に一度、アナスタシアが中に石を入れた雪だるまを投げて姉タチアナの顔面に直撃させたこともあった[16]。遊び友達を蹴ったり引っ掻いたりするアナスタシアを彼女の遠縁のいとこに当たるニーナ・ゲオルギエヴナ公女は「邪悪だと思われるぐらいに扱いにくかった」と振り返っている[17]。「私が名付け親になってあげた愛しい娘」とアナスタシアを可愛がった叔母のオリガ大公女も「アナスタシアは手に余るお転婆だった。・・・ほんの幼い頃から悪さばかりしていて、他の人間をいたずらの対象にしか思っていなかった。・・・とにかく元気が有り余っていた」と評している[14]。サンクトペテルブルクのオペラハウスに招待されたアメリカ合衆国のベストセラー作家で外交官の妻でもあるハリー・アーミニー・リーブズは「白い手袋をはめたまま銀色の箱に入ったチョコレートを食べていたので、手袋が気の毒なぐらい汚れてしまった」とその時の当時10歳だったアナスタシアの様子を描写している[18]。しかし、4人娘の養育を担当したマーガレッタ・イーガーにはそんなアナスタシアがニコライ2世の大のお気に入りだったように見え、彼が末娘の自然な愛情表現に感銘を受けていたとコメントした[19]。
エネルギーに満ちた性格に反し、アナスタシアは病弱だった。痛みを伴う外反母趾に悩んでいた[20]。また、背中の筋肉も弱く、週2回のマッサージ治療が施されたが、それを嫌がってよくベッドの下や戸棚の中に隠れていた[21]。趣味は両親譲りの写真撮影で、いつも箱型カメラを離さなかったと言われている[22]。日本でも彼女が撮った写真を集めた写真集「ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム―その生活の記録」(ISBN 978-1250020208)が出版された。
ラスプーチンとの繋がり
マリアの叔母のオリガ大公女はグリゴリー・ラスプーチンとニコライ2世の子供達との関係について「すべての子供達が彼を好きなように見えた」「完全に彼に打ち解けていた」と振り返っている[23]。
ラスプーチンはある時から子供達の「保育室」への出入りも認められるようになったため、保育室に勤務するソフィア・イヴァーノーヴナ・チュッチェヴァは出入りを禁止しようとして苦情も入れたが、最終的にはアレクサンドラによって彼女は解雇された[24]。解雇されたチュッチェヴァはロマノフ家の他の人間にニコライ2世一家の話をした[25]。ラスプーチンが子供達の部屋を訪れた話については全ての報告で完全に潔白とされ、一家は憤慨した。チュッチェヴァはニコライ2世の妹(アナスタシアの叔母)のクセニア大公女には、ラスプーチンが寝る用意をしている皇女達のところまで行って彼女達と会話をして抱き締めたり撫でたりしているという話をした。また、ラスプーチンの話を彼女にしないように子供達が教えられていたことや保育室スタッフには彼の訪問を隠すように注意されていたという話もした。彼女の話を聞いたクセニアは1910年3月15日に、ラスプーチンに対するアレクサンドラと彼女の子供達の態度について「非常に信じられないし、理解を通り越している」と書いている[26]。
1910年春には皇室の女家庭教師マリア・イヴァン・ヴィシュニャコヴァがラスプーチンにレイプされたと主張した。ヴィシュニャコヴァは皇后が暴行の報告を信じようとせず、彼女から「ラスプーチンの行いは全て神聖なるものです」と言われたと述べた[27]。ヴィシュニャコヴァはラスプーチンを告発したが、彼女は1913年にアレクサンドラによって解雇された[28]。
ラスプーチンはアレクサンドラのみならず、4人の娘達をも誘惑したという噂が世間に広まった[29]。ラスプーチンはアレクサンドラや4人の娘達が彼に向けて書いた熱烈な手紙を公開していた。アナスタシアも「親愛なる、大切な、唯一の友人」「私はまたあなたにお会いしたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。あなたが訪問するであろう時にはいつもママに聞きます。・・・とても優しくしてくれるので、いつも親愛なるあなたのことを考えています」と書いた手紙をラスプーチンに送った[30]。このためにラスプーチンとの性的関係を持っているかのように示唆する皇后、4人の皇女、女官(侍女)のアンナ・ヴィルボヴァのヌードが背景に描かれたポルノ漫画まで登場した[31]。スキャンダルが広まった後、ニコライ2世はしばらくサンクトペテルブルクを離れるようにラスプーチンに対して命じ、ラスプーチンはパレスチナへの巡礼の旅に出た[32]。こうした噂にも関わらず、ラスプーチンと皇室の交流は1916年12月17日(グレゴリオ暦で12月29日)に彼が暗殺されるまで続いた。アレクサンドラは暗殺の11日前にニコライ2世に宛てた手紙で「私達の友人は彼女らは年齢の割に困難な道筋を経験し、魂が大いに発達していると言って私達の女の子にとても満足しています」と書いている[33]。
A・A・モルドヴィノフは回顧録の中で、ラスプーチンが暗殺されたニュースを知らされた夜に4人の皇女がいずれかのベッドルームのソファーの上に密接に身を寄せ合って座り、ひどく動揺していたことを報告している。暗いムードにあったことを振り返り、モルドヴィノフには彼女達が迫り来る政治的混乱を感知していたかのように思えたという[34]。ラスプーチンはアナスタシアと彼女の姉妹、その母親が裏面に署名したイコンで埋葬された。アナスタシアも12月21日のラスプーチンの葬儀に参列し、一家は彼が埋葬された場所に礼拝堂を建設することを計画した[35]。
2年後の皇帝一家殺害を指揮したヤコフ・ユロフスキーは皇女が4人とも殺害された時にラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを首にかけていたと証言している[36]。
第一次世界大戦中の奉仕活動
第一次世界大戦中にアナスタシアは直ぐ上の姉のマリアと一緒に、ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院を訪問し、負傷兵を見舞った。二人は彼女達の母親や2人の姉のように赤十字の看護師になるにはまだ若過ぎたので、負傷兵らと一緒にチェッカーやビリヤードで遊び、彼らの士気を高めようと努力した。この病院で治療を受けた負傷兵フェリックス・ダッセルはアナスタシアが「リスのような笑顔」を持ち、早歩きしていたことを思い起こした[37]。マリアとアナスタシアはここでの奉仕活動がたいへん自慢で、負傷兵の写真を撮影したり、負傷兵の話し相手になったりした[38]。
ロシア革命と監禁
1917年2月23日(グレゴリオ暦で3月8日)に首都ペトログラードにおいて二月革命が勃発した。この前日にニコライ2世が最高司令官の職務を果たすべくモギリョフにある軍総司令部(スタフカ)に向かうために首都を離れたばかりだった[39]。新たに成立した臨時政府代表から退位を迫られたニコライ2世は3月2日(グレゴリオ暦で3月15日)に「つい先程まで、私は帝位を息子のアレクセイ皇太子に譲るつもりでいた。しかし、私は病弱な自分の息子と別れることは出来ないと悟った」と述べ、息子では無く弟のミハイル大公に皇位を譲る決断をした[40]。ところが、ミハイル大公は臨時政府左派のアレクサンドル・ケレンスキーから「帝位に就けばロシアを救うどころか滅ぼすことになる。専制に対する国民の不満は高まっている。そうなれば、あなたの生命は保証出来ない」と言われるなど脅されたために即位を辞退せざるを得なくなり、他の人物に譲位もしなかったためにロマノフ朝は滅亡した[41]。
ニコライ2世は身柄を拘束された形で同年3月9日にツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿に戻り、既に自宅軟禁に置かれていた妻や子供達と再会した[42]。ボリシェヴィキが接近した時、ケレンスキーを首班とする臨時政府はニコライ2世一家を既にシベリアのトボリスクに移送していた[43]。ボリシェヴィキがロシアの大部分の支配権を掌握した後、アナスタシアと彼女の家族はエカテリンブルクにある「特別目的の家」と呼ばれたイパチェフ館に送り込まれた[44]。
トボリスクに移された当初は従者達は隣の別の建物に居住していたが、十月革命によって権力が臨時政府からソビエトに移行すると従者達は隣の建物から追い出されてニコライ2世一家と一緒の旧知事公邸に押し込められ、食料の配給も減らされた[45]。4人の皇女達は二月革命勃発直後にはしかに罹り、その際に髪の毛を全部剃ってしまったためにまだ短い髪のままだった[45]。ニコライ2世は母親のマリア皇太后や妹のクセニア大公女に頻繁に手紙を書いたが、アレクサンドラは親友のアンナ・ヴィルボヴァらには熱心な信仰に関する思いを書き連ねていた手紙を送っていたものの、マリア皇太后には一通も手紙を送らなかった。母親に感化されていた皇女達も祖母には一通も手紙を送らなかったと言われている[45]。
トボリスクでの捕われの身の不安や不確実性はアナスタシアと彼女の家族を苦しませた。1917年冬にアナスタシアは「さようなら」「私達のことを忘れないで下さい」と友人に宛てた手紙に書いた[46]。また、ロバート・ブラウニング作の若くして亡くなった少女についての物悲しい詩『Evelyn Hope』を題材に「When she died she was only sixteen years old.Ther(e) was a man who loved her without having seen her but (k)new her very well. And she he(a)rd of him also. He never could tell her that he loved her, and now she was dead. But still he thought that when he and she will live [their] next life whenever it will be that・・・(彼女は亡くなった時、まだ16歳だった。彼女を見たことは無かったが、彼女についてとてもよく知り、愛した男がいた。そして彼女もまた彼について聞いていた。彼は彼女に愛していると伝えられず、そして今彼女は亡くなった。それでもやはり彼は二人が来世を生きる時のことを考えていた。・・・)」とスペルミスの目立つ英語で書いた手紙を彼女の英語の家庭教師に宛てて送った[46]。
エカテリンブルクに到着したアレクサンドラが彼女とニコライ2世、マリアが到着後に検査されて物品が没収されたことを伝え、警告する手紙を送ってからはトボリスクに残ったアナスタシアと彼女の姉のオリガとタチアナは検査をパスする目的で自分の衣服に宝石を縫い付けた。彼女達の母親は予め決めておいた宝石のコードワード、「医薬品」と「セドネフの持ち物」の語を使用して伝えた。アレクサンドラ専属のメイド、アンナ・デミドヴァがピエール・ジリヤールの妻、シューラ夫人に宛てた手紙の中で指示が出された[47]。
グレブ・ボトキンはトボリスクでは一家が監禁されている建物の中に入ることは許されなかったが、水彩の動物画を何枚も描き、人に頼んでアナスタシアに届けてもらった。まもなく一家が他の地へ移送される事を知ったボトキンはトボリスク総督官舎の敷地の周りを歩き、窓辺にアナスタシアが独りで立っているのを発見して手を振った。彼女も笑顔で手を振って応えたという。これが彼がアナスタシアを見た最後となった[48]。
アナスタシアは人生の最後の数ヶ月で気晴らしの方法を見付けた。1918年春に彼女は家族の他のメンバーと一緒に両親や他の人々を楽しませるために芝居を行った。家庭教師のチャールズ・シドニー・ギブスによると、誰もが彼女の演技に大笑いしたという[49]。エカテリンブルクに先に移った姉のマリアに宛てた1918年5月7日の手紙では自身の悲しみや弟アレクセイの病状の悪化の心配にも関わらず「私達がブランコで遊び、大笑いしながら着地した時、とても気持ちが良かったんです! 本当に! 私は昨日、そのことについて姉達に何度も話したので彼女達はうんざりしていましたが、私はまだその話をし続けることが出来ます。私達が経験した素晴らしい時間! 誰もが単純に喜び叫ぶことでしょう! 」と書いて喜びの瞬間を表現した[50]。
トボリスク滞在時のアナスタシアの様子を記憶しているクラウディア・ビットナーは回顧録の中で次のように述べている[51]。
「 | アナスタシア・ニコラエヴナは皆と違い、やや無骨で粗かった。彼女は完全に不真面目でした。勉強に取り組んだり、予習しようとはしませんでした。彼女はいつもマリア・ニコラエヴナと一緒でした。どちらも、まったくもって科学の授業で遅れを取っていました。彼女達は作文を書くことが出来なかったし、自分の考えを表現することに完全に不慣れでした。・・・アナスタシア・ニコラエヴナは基本的に子供っぽかったので、彼女は幼い女の子のように扱われました。 | 」 |
イパチェフ館での生活
1918年5月にアナスタシアとオリガ、タチアナ、アレクセイらはエカテリンブルク市内にあるイパチェフ館に監禁されている両親達に合流した。イパチェフ館で警護兵を務めたアレクサンドル・ストレコチンはアナスタシアの性格について一番年の近い姉のマリア同様に親しみやすく、「人なつっこくて非常にお茶目だった」と振り返っている。別の警護兵は「小悪魔だ! 彼女はいたずら好きで、たまにしか疲れないように思えた。生き生きとして、サーカスをしているかのように、犬と喜劇のパントマイムを行うのが好きだった」と述べている[52]。しかし、上記とは別の警護兵は最年少の皇女を「テロリスト」と呼び、彼女の挑発的な発言が時折、緊張を引き起こしていると不満を述べた[53]。
アナスタシアと彼女の姉妹はイパチェフ館で洗濯の仕方を学び、パンを作る料理人のイヴァン・ハリトーノフの手伝いをした[54]。
厳重な監視下のイパチェフ館で迎えた夏は一家を暗く沈む気持ちにさせてしまった。外の景色を眺め、新鮮な空気を吸おうとしたアナスタシアは白ペンキで塗られ、密閉された館の窓にかなり動揺していたという[55]。
7月14日(日曜日)、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にアナスタシアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している。劇的な変化に気付いた司祭は「何か恐ろしいことがそこで起こっている」と語った[56]。
ところが、7月15日のアナスタシアと彼女の姉妹は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。アナスタシアは新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーが背を向けて部屋を去った時に舌を突き出した[57]。
7月16日夜、反ボリシェヴィキ勢力の白軍がいよいよエカテリンブルク近くまで迫ったために早々と夜間外出禁止令が出された[58]。
殺害
ニコライ2世一家とその従者らは1918年7月16日の夜に眠りに付いたが、翌17日午前1時半過ぎに起こされ、エカテリンブルク市内の情勢が不穏なので、全員イパチェフ館の地下2階に降りるように言われた。アナスタシアは一家の3匹の飼い犬のうちの一匹、スパニエルのジェミーを腕に抱いていた[59]。自分とアレクセイのための椅子を求めていたアレクサンドラは彼女の息子の左横に座っていた。ニコライ2世はアレクセイの後ろに立っていた。ボトキン医師がニコライ2世の右横に立ち、アナスタシアと彼女の姉妹は使用人達と一緒にアレクサンドラの後ろに立っていた。その後に一家らは約30分、支度に時間を掛ける事を許された。銃殺隊が入室し、警護隊長ユロフスキーが殺害を実行することを発表した。アナスタシアと彼女の家族はしばらく言葉にならない叫び声を上げていた[60]。
最初の銃の一斉射撃によってニコライ2世、アレクサンドラ、料理人のイヴァン・ハリトーノフ、フットマンのアレクセイ・トルップが殺害され、主治医のエフゲニー・ボトキンとメイドのアンナ・デミドヴァが負傷した。その数分後に銃殺隊が銃撃を再開してボトキンが殺害された。殺害実行者の一人が足が不自由なために椅子に座っていた弟のアレクセイを銃剣で繰り返し刺殺しようと試みるが、衣服に縫い付けてあった宝石が彼を保護していたために失敗し、別の兵士が頭部に向けて発射した弾丸によって殺害された。その後に姉のオリガとタチアナはそれぞれ頭部に向けて発射された一発の弾丸によって殺害された[61][62]。
まだ生き残っていたアナスタシア、マリア、デミドヴァは部屋の窓近くの床に倒れていた。殺害実行者の一人、ピョートル・エルマコフは銃剣でマリアを刺してみたが、服に縫い付けてあった宝石によって保護され、最終的に銃で頭部を撃って殺害したと主張している。しかし、ほぼ確実にマリアの頭蓋骨には銃弾の傷跡が見られない。部屋の外へ移動させようとする時にマリアとアナスタシアは生きている兆候を見せた。一方は起き上がって腕を頭の上まで伸ばして叫び、他方は口から血を流しながらうめいて身体を少し動かした。前者は意識を失っていたマリアで、後者はアナスタシアだと見られている。保管されているエルマコフの供述書には書かれていないが、彼は妻に銃剣でアナスタシアを絶命させたと話している。また、ユロフスキーは少なくとも1人が悲鳴を上げ、ライフル銃の台尻部分で後頭部に打撃を加えたと書いている。しかし、マリアの後頭部には暴力の痕跡は残っておらず、アナスタシアの遺体はバラバラに切断されて焼却されているために死の原因の究明は不可能となっている[63]。この場面を語る多くの報告がアナスタシアが一番最後に死亡したとしている[64]。
アナスタシア伝説
警護兵の何人かの証言は皇帝一家に同情的な警護兵が生存者を救出する可能性があったことを示している。銃殺隊員達は緊張と興奮を鎮めるためにウォッカを飲んでいたし、隊長のユロフスキーでさえ眼前に横たわる遺体の数を数え間違えたほどであった[65]。ユロフスキーは殺害に関わった警護兵達に彼のオフィスに来て、殺害後に一家から盗んだ物品を返却するように要求した。犠牲者の遺体の大部分がトラック内、地下、家の廊下に放置された時、大体の時間のスパンは伝えられていた。一家に同情的で殺害に参加していなかった何人かの警護兵は地下室に居残っていた[66]。 アナスタシア生存説は20世紀の最も有名な謎の一つであった。数多くの女性が自分がアナスタシアであると主張し、他の家族が殺害された状況でどのように生き延びたかに関して様々な物語を提供した。ソ連共産党当局がその後何年も「ニコライ2世は処刑されたが、他の家族は安全な場所に護送された」という偽情報(ソ連のプロパガンダ)を提供し続けたこともこうした噂の広まりを助長した[67][68][69]。
一家殺害後に出現したロマノフ家の詐称者は全員合わせて200人以上もいたと言われている[70]。この中で最も知られているアンナ・アンダーソンは1920年2月にドイツ国のベルリンで自殺しようとしていたところを発見された。以下は当時取り調べた警察が残した公式記録である[71]。
「 | 1920年2月18日、ベルリン。身元不明の娘による自殺未遂事件。昨日、午後9時、20歳前後の娘が自殺の意思を持って、ベントラー橋からラントヴェール運河に飛び込んだ。娘は巡査部長に助け上げられ、ルツォウ通りのエリーザベト病院に収容された。所持品の中には身分証明書や貴重品に関する物は皆無で、娘は自分の身元についても、自殺未遂の動機についても口を閉ざして語ろうとしない。 | 」 |
自殺未遂から2年後、アンダーソンは保護してくれたクライスト男爵夫妻に自分がアナスタシアであると話した。エカテリンブルクの惨劇時に銃弾を受けて意識を失っていたところを、まだ生きていることに気付いた一家に同情的なアレクサンドル・チャイコフスキーという名の警護兵によって助けられ、チャイコフスキーの一家とともにロシアからルーマニア王国へ向けて脱出する途中に彼の子供を身篭った。チャイコフスキーはブカレストの市街戦で戦死し、アンダーソンが産んだ男の子は孤児院に預けられたという[72]。しかし、ルーマニア王妃マリアが後援して実施された調査ではブカレストで当時市街戦があったという記録は無く、彼女の息子アレクシスへの洗礼についてもすべての神父を探したが、その記録に該当する人物は見付からなかった[73]。1925年7月17日、かつてアナスタシアのフランス語家庭教師を務めたピエール・ジリヤールの妻シューラ夫人がアンダーソンを訪れたが、そばの人に彼女は誰なのか聞かれて「父の一番下の妹です」と答え、同じ時期に訪問することが伝えられていたアナスタシアの叔母のオリガ大公女と勘違いしていたという[74]。
ツァールスコエ・セローの離宮の敷地内にある民間病院にかつて入院していたフェリックス・ダッセルはマリアとアナスタシアしか知り得ないような病院に関する誤った質問をいくつかぶつけたが、アンダーソンはこれを見事にクリアした。ダッセルがマリアとアナスタシアは毎日病院を訪れ、時にはアレクセイも連れ立って来たと言った時には、アンダーソンはこれを姉妹は1週間に2回か3回しか行けず、アレクセイを連れて行ったことは一度も無いと正しく指摘した[75]。1958年5月23日、ハンブルクにおける法廷の供述で、クライスト男爵夫人がアンダーソンと対面する何年も前にダッセルが男爵家を訪れてツァールスコエ・セローの病院での話を語っていたことを証言した[76]。
また、第一次世界大戦中の1916年に当時のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(アレクサンドラの兄)が単独講和を話し合うためにアレクサンドロフスキー宮殿を訪れたことがアンダーソンによって初めて公に暴露された。ドイツとロシアが敵国同士であったためにこの情報は極秘とされており、大公本人も訪問したことを否定した[77]。アンダーソンを支持する証言が30年近く経過した後から次々に寄せられたが、その中の一つが戦時中のヘッセン大公の訪問について知っている亡命者にこれまで7人も出会ったという、アンダーソンが関係者から情報を入手している可能性が少なからずあったことを示唆するものでもあった[78]。
アナスタシアの幼少時からアレクサンドロフスキー宮殿に長期間滞在して彼女をよく知っていたリリー・デーンは40年の空白があったにも関わらず、1957年に1週間毎日数時間ずつアンダーソンと会い、宮中の些細な出来事についても詳しく知っていたことに驚き、声や話し方がアナスタシアそのものであると感じ、本物だと確信したことを正式に確認している[79]。
アナスタシアとして認知してもらい、一家の遺産を相続するためにアンダーソンの支持者が長年続けた法廷闘争は1970年2月17日に終焉を迎えた。西ドイツの最高裁判所はアナスタシアであることを証明するのに十分な証拠を提供していないということで訴えを退けた。この裁判に明確な決着を付けず、独自の判断も示さなかった[80]。
アンダーソンは1984年2月12日に肺炎で亡くなり、火葬にされた[81]。死後10年が経過した1994年に彼女が生前に手術した際に摘出した腸の一部組織の標本を使用してDNA鑑定が実施された。ところが、科学者達がミトコンドリアDNAを比較した結果、アレクサンドラの親戚であるエジンバラ公フィリップのものとは遺伝的な繋がりが認められなかった[82]。一方で、ポーランド生まれの工場労働者フランツィスカ・シャンツコフスカ(アンナ・アンダーソンが登場する直前に失踪)の甥とはミトコンドリアDNAが一致したことが明らかにされた[83]。
ユージニア・スミスは1963年10月にアメリカで『Autobiography of HIH Anastasia Nicholaevna of Russia』を出版して自身がアナスタシアであることを主張して注目を浴びた[84]。ポリグラフの専門家や元CIAのエージェントが彼女を嘘発見器で調べたところ、アナスタシア本人であると結論付けられた[85]。
ナデジュダ・ヴァシリイェヴァは1920年に身分証明書を偽造して中華民国に旅行しようと企み、ボリシェヴィキ当局によって逮捕された。自身がアナスタシアであることを主張してイギリス国王ジョージ5世に助けを求める手紙を書き、大使館経由で送ろうとしたが、失敗した。その後は監獄と精神病院を転々として1971年に亡くなった。カザンの病院長は「彼女は自分がアナスタシアだという主張を除けば、完全に正気だった」と述べている[86][87]。
この他にはロシア皇室の衛兵を務めていたピョートル・ザミアトキンという人物が他の家族の殺害後にアナスタシアと彼女の弟アレクセイをブルガリアの小さな村に避難させたと語った。ザミアトキンによるとアナスタシアはエレオノーラ・クルーガーという名で生活し、1954年に亡くなった[88]。また、アナスタシアとその姉マリアであると主張する2人の若い女性が1919年にウラル山脈において司祭によって発見され、1964年に亡くなるまで2人は修道女として生き、アナスタシア・ニコラエヴナとマリア・ニコラエヴナの名で埋葬された[89]。
1918年8月初め、ペルミに投獄されていたエレナ・ペトロヴナ(アナスタシアの遠いいとこにあたるイオアン・コンスタンチノヴィチ公の妻)のもとに警護兵がアナスタシアと名乗る少女を連れて来て、本当に皇帝の娘なのかどうか尋ねた。ペトロヴナがその少女を知らないと答えると、警護兵は少女をどこかへ連れ去ったという[90]。1918年9月にペルミ北西の鉄道駅、第37引込線で逃亡を試みた若い女性が再び捕らえられたことも報告されている。目撃者はマクシム・グリゴリエフ、タチアナ・シトニコフ、フョードル・シトニコフ(タチアナ・シトニコフの息子)、イヴァン・クークリン、マトリョーナ・クークリナ、ヴァシリー・リャボフ、ウスチニア・ヴァランキナ、パーヴェル・ウトキン(事件後に女性を診察した医師)の8人である[91]。白軍調査官はこのうちはっきり娘の顔を見たと証言した4人に別個に皇帝一家の写真類を見せたが、いずれも目撃した娘に似ている女性としてアナスタシアを指差したという[92]。また、ウトキン医師はチェーカーのペルミ支部で診察した女性の名前を聞いたところ「私は陛下の娘のアナスタシアです」と答えたことを白軍調査官に語っている。ウトキンは名前のアルファベットの中からどれか一文字を使ったらいいだろうという指示で処方箋に「N」という文字を書き込んだ。のちに白軍調査官はこの処方箋を支部近くにある薬局では無く、支部からは少し不便な場所にある地方評議会の薬局で発見した[93][94]。この他にも1918年7月17日の一家殺害事件の後の数ヶ月間にアナスタシアと彼女の3人の姉、母親アレクサンドラと見られる女性5人をペルミで目撃したという証言が何例も報告されているが、近年ではそれらの証言は単なる噂に過ぎないものとして、あまり重要視されなくなっている[90]。
アナスタシアの生存の噂はボリシェヴィキの兵士やチェーカーが逃走した彼女を見付けるために家や鉄道を捜索していたというほぼ同時期の複数証言によって潤色がなされた[95]。1919年春にアナスタシアと見られる皇女の1人が逃走したという新しい証言がしきりに出てくるのを白軍の調査官が発見している[96]。
ブレスト=リトフスク条約の調印に尽力した在露ドイツ大使ヴィルヘルム・フォン・ミルバッハは「皇帝の運命はロシア人自身が決めることだ。我々の関心は当面、ロシア領内にいるドイツの(血を引く)皇女達の安全にある」との見解を表明していた[97]。1918年8月29日にロシア側が皇帝の家族を取引材料として監獄に囚われの身となっていたドイツの革命指導者カール・リープクネヒトの釈放を求めていることも注目すべき点である。ところが、それから一ヶ月も経たぬうちにロシア側はこの問題を避けるようになっていき、実は一家全員揃って7月にエカテリンブルクで殺害されていたのだと見られるようになった[98]。
遺骨の発見
1991年にニコライ2世一家とその使用人のものであると見られる遺骨がエカテリンブルク近郊の森の中で大量に発掘された[99]。埋葬地は1979年夏に発見されていたが、当時はまだ共産主義体制下であったためにその事実は公表されずに元の場所に再び埋められた[99]。しかし、発掘された遺骨は9体のみで2人の遺骨が欠落していたため、欠落している大公女の遺骨がマリアかアナスタシアかでアメリカとロシアの科学者の間でジレンマがあった。アメリカの法医学博士ウィリアム・R・メイプルズがアレクセイとアナスタシアの遺骨は欠落していたと主張したのに対し、ロシアの科学者達はこれに異議を唱え、欠落していたのはマリアの遺骨だと主張した。彼らはコンピュータプログラムを用いて最年少の大公女の写真と犠牲者の頭蓋骨を比較し、その一つがアナスタシアのものだと特定したが、アメリカの科学者は骨の一部が欠けていたために頭蓋骨の高さと幅を推定したこの分析法が不正確であることを発見した[100]。ロシアの法医学専門家は大公女の頭蓋骨のいずれもがマリアの特徴であった前歯の間の隙間を有していなかったと述べた[101]。
ミトコンドリアDNAを比較した結果、4体の女性の遺骨とアレクサンドラの親戚のエジンバラ公フィリップに遺伝的な繋がりがあることが確認された。ヤコフ・ユロフスキーは提出した報告書の中で、2体の遺骨は埋葬地から除去され、別の場所で焼却されたと述べている[102]。
2007年8月23日に、ロシアの考古学者はユロフスキーが残した資料に記載された埋葬地と一致するように思われたエカテリンブルク近郊の場所で2体の焼かれた部分的な骨格の発見を発表した。考古学者は10歳から13歳ぐらいまでの年齢の少年と18歳から23歳ぐらいまでの年齢の若い女性のものであったと述べた。アナスタシアは殺害当時17歳1ヶ月、マリアは19歳1ヶ月であり、唯一発見されていなかった皇女の遺体はマリアのものと推測された。遺骨と一緒に「硫酸の容器の破片、釘、木箱から金属片及び様々な口径の弾丸」が発見され、遺骨探索には金属探知機が使用された[103]。2008年4月30日にロシアの法医学者はDNA鑑定によってこの2体の遺骨がアレクセイ皇子と彼の姉の皇女のいずれかであることが証明されたと発表した[104]。この結果、皇帝の家族全員が殺害されており、生き残っていなかったことがDNA鑑定で確認されている。
DNA鑑定はアレクサンドラ、アレクセイ、アレクセイの4人の姉のうちの1人が血友病の因子を保有していたことも明らかにした。アメリカの科学者はその1人はマリアだと推定したが、ロシアの科学者はその1人をアナスタシアと推定した[105]。
列聖と再評価
7月17日の他の殺人被害者と同じく1981年に在外ロシア正教会によって列聖された[106]。その19年後の2000年にはロシア正教会もアナスタシアと彼女の他の6人の家族をパッション・ベアラとして列聖した[107]。
1998年7月17日にニコライ2世夫妻と大公女3人の遺骨はサンクトペテルブルクのペトル・パウェル大聖堂に埋葬された[108]。
2009年10月16日にロシア連邦検察庁はニコライ2世一家を含めたボリシェヴィキによる赤色テロの犠牲者52名の名誉の回復を発表した[109]。
大衆文化への影響
アナスタシアが実は生存しているという伝説を下敷きにしてアメリカを中心に数十の本や映画が制作された[110]。最古の作品は1928年公開の映画『Clothes Make the Woman』。ハリウッド映画の中でアナスタシアの役を演じる主役の女性は彼女を以前救出したロシアの兵士によって本物のアナスタシアであることを認められた[111]。
最も有名なのが主役のアンナ・コレフ役をイングリッド・バーグマンが演じた1956年公開の映画『Anastasia』(邦題:『追想』)である。架空のパヴロヴィッチ・ボーニン将軍役をユル・ブリンナー、父方の祖母であるマリア皇太后役をヘレン・ヘイズが演じた。セーヌ川に身を投げて自殺しようとして救助された記憶喪失の女性コレフをボーニン将軍ら4人はアナスタシアに仕立ててマリア皇太后を騙すことで、ニコライ2世がアナスタシアのためにイングランド銀行に預けていた多額の信託金を獲得しようと企む。ところが彼女と対面したマリア皇太后は妙な咳から本物のアナスタシアであることに気付くことになる[112]。1997年にはこの作品のリメイクとしてアニメ映画『Anastasia』(邦題:『アナスタシア』)も公開され、アナスタシアの声はメグ・ライアンが担当した[113]。
1986年にはピーター・カースによって3年前に出版された本『The Riddle of Anna Anderson』が原作となった『Anastasia: The Mystery of Anna』(邦題:『アナスタシア/光・ゆらめいて』)が二部構成のテレビ映画として放送された。82歳で亡くなるまでアナスタシアであることを主張し続けたアンナ・アンダーソンの人生を詳述しており、1918年のエカテリンブルクの一家虐殺事件からの脱出劇も具体的に取り上げられている。大人のアンナ・アンダーソン役はエイミー・アーヴィングが演じた[114]。
2004年発売のPlayStation 2用RPGゲーム『シャドウハーツII』ではメインキャラクターの1人としてアナスタシアが登場した[115]。
系譜
16. ロシア皇帝ニコライ1世 | ||||||||||||||||
8. ロシア皇帝アレクサンドル2世 | ||||||||||||||||
17. プロイセン王女シャルロッテ | ||||||||||||||||
4. ロシア皇帝アレクサンドル3世 | ||||||||||||||||
18. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世 | ||||||||||||||||
9. ヘッセン大公女マリー | ||||||||||||||||
19. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ | ||||||||||||||||
2. ロシア皇帝ニコライ2世 | ||||||||||||||||
20. シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム | ||||||||||||||||
10. デンマーク国王クリスチャン9世 | ||||||||||||||||
21. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ・カロリーネ | ||||||||||||||||
5. デンマーク王女ダウマー | ||||||||||||||||
22. ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム | ||||||||||||||||
11. ヘッセン=カッセル方伯女ルイーゼ | ||||||||||||||||
23. デンマーク王女ルイーゼ・シャルロッテ | ||||||||||||||||
1. ロシア大公女アナスタシア・ニコラエヴナ | ||||||||||||||||
24. ヘッセン大公ルートヴィヒ2世 (= 18) | ||||||||||||||||
12. ヘッセン大公子カール | ||||||||||||||||
25. バーデン大公女ヴィルヘルミーネ (= 19) | ||||||||||||||||
6. ヘッセン大公ルートヴィヒ4世 | ||||||||||||||||
26. プロイセン王子ヴィルヘルム | ||||||||||||||||
13. プロイセン王女エリーザベト | ||||||||||||||||
27. ヘッセン=ホンブルク方伯女マリアンヌ | ||||||||||||||||
3. ヘッセン大公女アリックス | ||||||||||||||||
28. ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世 | ||||||||||||||||
14. ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート | ||||||||||||||||
29. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ルイーゼ | ||||||||||||||||
7. イギリス王女アリス | ||||||||||||||||
30. ケント・ストラサーン公エドワード | ||||||||||||||||
15. イギリス女王ヴィクトリア | ||||||||||||||||
31. ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女ヴィクトリア | ||||||||||||||||
関連作品
- 書籍
- Hugh Brewster『ロマノフ朝最後の皇女 アナスタシアのアルバム - その生活の記録』(リブリオ出版、1996年) (ISBN 978-4897844725)
- ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳)『アナスタシア 消えた皇女』(角川書店、1979年・1998年) (ISBN 978-4042778011)
- 桐生操『皇女アナスタシアは生きていたか - 歴史の闇に葬られた5人の謎をめぐって』(新人物往来社、1991年) (ISBN 978-4404018120)
- 柘植久慶『皇女アナスタシアの真実』(小学館、1998年) (ISBN 978-4094026016)
- ロバート・K. マッシー(著)、 今泉 菊雄(訳)『ロマノフ王家の終焉―ロシア最後の皇帝ニコライ二世とアナスタシア皇女をめぐる物語』(鳥影社、1999年) (ISBN 978-4886294333)
- 小川洋子『貴婦人Aの蘇生』(朝日新聞社、2002年) (ISBN 978-4022643551)
- 島田荘司『ロシア幽霊軍艦事件』(原書房、2001年) (ISBN 978-4041682081)
- 麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』(講談社、1993年)(ISBN 978-4062632973)
- ダンカン・カイル『革命の夜に来た男』(早川書房、1986年) (ISBN 978-4150404048)
- 映画
- 追想(原題:Anastasia、1956年)
- アナスタシア/光・ゆらめいて(1986年)
- アナスタシア(1997年)
- アニメ
- ルパン三世 ロシアより愛をこめて - ヒロインはアナスタシアの子孫。
- ゲーム
- シャドウハーツII(2004年)
- 漫画
- 武本サブロー・さいとうたかおプロ:『北の密使』(リイド社、1985年) - アナスタシアの一つ上の姉である第三皇女マリアが妹(第四皇女。代わりにアナスタシアは第三皇女)という史実と異なる設定になっている(ミスか意図的な物かは不明)。史実での人相(アナスタシア:まだ幼い平凡な容姿、マリア:10代半ば前後の長髪の美少女)や性格(アナスタシア:病弱で弱弱しい、マリア:闊達)も、作品中のアナスタシアとマリアとで全て逆となっており、作中冒頭で登場している(実際に撮影された写真画像を基にした)ロマノフ一家撮影写真カット絵でも、マリアの方の顔部分クローズアップがアナスタシアの顔として紹介されている。
- さいとうたかおプロ:『ゴルゴ13』単行本 第81巻収録(文庫サイズ版 第68巻収録)第277話「すべて人民のもの」(小学館、1988年) - 主人公の出自とロマノフ王家の繋がりの疑惑を描いた作品。3年前に同じくさいとうたかおプロが発表した「北の密使」と設定に幾つかの共通(アナスタシアが日本軍特務機関の手引きでシベリア方向へ逃亡、逃亡に同行・護衛する日本軍兵士と恋に落ちる等)が見られるが、アナスタシア以外の登場人物の名前は両作品別個で、作品世界は繋がっていない。
- 杉浦茂:『ガンモドキー』
- 宇野比呂士:『天空の覇者Z』
- 平野耕太:『ドリフターズ』
脚注
- ^ a b Peter Kurth (英語). Tsar: The Lost World of Nicholas and Alexandra. Little Brown and Company. p. 88-89. ISBN 0-316-50787-3
- ^ “The Grand Duchesses — OTMA” (英語). Alexanderpalace.org. 2014年1月24日閲覧。
- ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 43. ISBN 978-4042778011
- ^ Robert K. Massie (英語). Nicholas and Alexandra. Dell publishing company. p. 153. ISBN 0-440-16358-7
- ^ a b James Donahue. “The Strange Anastasia Mystery” (英語). The Mind of James Donahue. 2014年6月24日閲覧。
- ^ Charlotte Zeepvat (英語). The Camera and the Tsars: A Romanov Family Album. Sutton Publishing. p. 14. ISBN 0-7509-3049-7
- ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 50
- ^ 植田樹. 最後のロシア皇帝. ちくま新書. p. 91. ISBN 978-4480057679
- ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. p. 55
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関連項目
- ニコライ2世…父
- アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)…母
- オリガ・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)…長姉
- タチアナ・ニコラエヴナ…次姉
- マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)…三姉
- アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)…弟
- アンナ・アンダーソン…アナスタシアに生涯成り済ましたポーランド系アメリカ人女性
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