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「ルドルフ1世 (ドイツ王)」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
[[Image:Rudolf von habsburg.png|right|100px|ルドルフ1世]]
| 人名 = ルドルフ1世
'''ルドルフ1世'''('''Rudolf I.'''または'''Rudolf von Habsburg''', [[1218年]][[5月1日]] - [[1291年]][[7月15日]]、在位:[[1273年]] - [[1291年]])は、[[ハプスブルク家]]における最初の[[神聖ローマ帝国]]君主([[ローマ王|ドイツ王]])。
| 各国語表記 = Rudolf I.
| 君主号 = [[ローマ王]]
| 画像 = Minnigerode-rudolf.JPG
| 画像サイズ =
| 画像説明 = ルドルフ1世
| 在位 = [[1273年]] - [[1291年]]
| 戴冠日 = [[1273年]][[8月24日]]
| 別号 = ハプスブルク伯<br>[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]]
| 全名 =
| 出生日 = [[1218年]][[5月1日]]
| 生地 = {{HRR}}<br />[[アルザス地方]]、リンブルク城
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1218|5|1|1291|7|15}}
| 没地 = {{HRR}}<br />[[プファルツ地方]]、[[ゲルマースハイム]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 = {{HRR}}<br />[[帝国自由都市]][[シュパイアー]]、[[シュパイアー大聖堂]]
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 = [[ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク]](アンナ)
| 配偶者2 = [[イザベル・ド・ブルゴーニュ|イザベラ・フォン・ブルグント]]
| 配偶者3 =
| 配偶者4 =
| 配偶者5 =
| 子女 = [[#家族|後述]]
| 王家 = [[ハプスブルク家]]
| 王朝 = [[ハプスブルク朝]]
| 父親 = ハプスブルク伯{{仮リンク|アルブレヒト4世 (ハプスブルク伯)|label=アルブレヒト4世|en|Albert IV, Count of Habsburg}}
| 母親 = ハイルヴィヒ・フォン・キーブルク
| 宗教 =
| サイン =
}}
[[File:Rudolph I of Austria.jpg|thumb|ルドルフ1世(16世紀)]]
'''ルドルフ1世'''(Rudolf I.、Rudolf von Habsburg、[[1218年]][[5月1日]] - [[1291年]][[7月15日]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Rudolf-I-king-of-Germany Rudolf I king of Germany] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>)は[[神聖ローマ帝国]]の[[ローマ王]](ドイツ王、在位:[[1273年]] - 1291年)<ref group="注釈">ローマ王は帝位の前提となった王号で現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。また[[イタリア王国 (中世)|イタリア]]と[[アルル王国|ブルグント]]への宗主権を備える。</ref>。[[ハプスブルク家]]最初の帝国君主として知られるが、[[神聖ローマ皇帝|正式な皇帝]]として戴冠するためのイタリア遠征は実施していない。元はハプスブルク伯ルドルフ4世。[[大空位時代]]の中で[[選帝侯]]たちはルドルフを御し易い人物と考えて[[1273年]]の国王選挙で選出したが、ルドルフは諸侯の思惑に反してハプスブルク家の富と権力を増やし帝国に地盤を作り上げ、結果として大空位時代は終結する<ref name="horupu">ピーターズ「ルードルフ1世」『世界伝記大事典 世界編』12巻、214-215頁</ref><ref>江村『ハプスブルク家』、20,22-23頁</ref><ref name="yamauchi">[[山内進]]「苦闘する神聖ローマ帝国」『ドイツ史』収録([[木村靖二]]編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2001年8月)、72頁</ref>。ただし彼の代ではまだ帝位獲得と王位世襲はできず、大空位時代を含めて200年にわたって非世襲の状態が続く。


ルドルフの採った外交政策と軍事政策は成功を収め、混乱の続いていた帝国に20年近い平和をもたらした<ref name="horupu"/>。ルドルフ1世のローマ王選出によりハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れ<ref>江村『ハプスブルク家』、20頁</ref>、ハプスブルク家はヨーロッパ最高峰の皇帝家へと発展していく<ref>踊『図説 スイスの歴史』、22頁</ref>。[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]に勝利してオーストリアを獲得した後、ルドルフはその中心都市[[ウィーン]]に一門の拠点を移し、[[20世紀]]に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地とされる<ref name="horupu"/>。
当時のハプスブルク家は現在の[[スイス]](当時神聖ローマ帝国に属していた)に所領を持つ伯爵家で、[[ドイツ]]においてさほど有力な諸侯ではなかった。[[ホーエンシュタウフェン朝]]の皇帝に忠実であったこと、父ハプスブルク伯[[アルブレヒト4世 (ハプスブルク伯)|アルブレヒト4世]]の母アグネス・フォン・シュタウフェンがホーエンシュタウフェン家傍系の出身であったこと、そして強力な皇帝の出現を嫌うドイツ諸侯の思惑により、[[大空位時代]]の後、帝国君主である[[ローマ王|ドイツ王]]に最初に選出されたのが、ハプスブルク伯ルドルフ(3世)であった。


== 生涯 ==
即位してルドルフ1世となると、彼は真っ先に皇帝権力の強化と地盤固めに専念した。ドイツ諸侯と婚姻策をとって連携をはかったのである。また、当時神聖ローマ帝国において最も有力で、[[選帝侯]]の一人でもあった[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル2世]]は、ルドルフ1世を軽んじて臣従を拒んだが、ルドルフ1世は[[1278年]]の[[マルヒフェルトの戦い]]でオタカル2世を敗死させ、[[オーストリア]]その他の所領を奪取した。その後、ルドルフ1世はオーストリアに本拠地を移し、皇帝権力の強化とハプスブルク家発展の基礎を作り出した。
=== ローマ王選出前 ===
1218年5月1日<ref name="sehara9">瀬原『スイス独立史研究』、9頁</ref>にハプスブルク伯{{仮リンク|アルブレヒト4世 (ハプスブルク伯)|label=アルブレヒト4世|en|Albert IV, Count of Habsburg}}(1188年 - 1239年)と{{仮リンク|キーブルク家|en|House of Kyburg}}ウルリヒ3世の娘ハイルヴィヒ(1260年没)の間に生まれる。[[アルザス]]北部のリムブルク・バイ・ザスバッハでルドルフが誕生した伝承が残るが、伝承の真偽については疑問が持たれている<ref>瀬原『スイス独立史研究』、28頁</ref>。ハプスブルク家に信頼を置く[[神聖ローマ皇帝|ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が、ルドルフの名付け親となった<ref name="sehara9"/>。


13世紀半ばのフリードリヒ2世と[[教皇|ローマ教皇]]の抗争においては、ルドルフは父アルブレヒトと同じく皇帝派(ギベリン)に与し、ハプスブルク分家のラウフェンブルク家と戦った。[[1240年]]に父アルブレヒトが没した後、ルドルフは家督の継承から数年の間にラウフェンブルク家から土地を奪取していき、勢力を拡大する<ref name="wee36">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、36頁</ref>。勢力拡大の過程では、母方の伯父であるキーブルク伯ヴェルナーに土地を要求して争った。[[バーゼル]]に夜襲をかけた際に女子修道院に放火し、そのために教会から[[破門]]を宣告されが数年で破門を解かれ、伯父ヴェルナーとも和解した。[[1250年]]にフリードリヒ2世が没した後、ルドルフは彼の遺児であるローマ王[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]に仕える<ref name="kikuchi137">菊池『神聖ローマ帝国』、137頁</ref>。
[[1279年]]からは対外政策を重視し、歴代皇帝の権力を失墜させる原因となった[[イタリア政策]]を取りやめ、ハプスブルク家の皇位世襲化を目指したが、前者は当時の[[教皇|ローマ教皇]]がフランス派であったために、後者は皇帝権力の強化を嫌うドイツ諸侯のために、いずれも果たせないまま病没した。帝国君主ではあったが、ローマ教皇から戴冠を受けることがなかったため、正式には皇帝に即位できずに終わった。しかし、ルドルフ1世の治世に神聖ローマ帝国は[[大空位時代]]の混乱を脱し、またハプスブルク家の発展の基礎が作り出された。

[[1253年]]、ルドルフは[[シュヴァーベン]]のホーエンベルク伯の娘ゲルトルートと結婚する<ref>江村『ハプスブルク家史話』、37頁</ref>。

[[1264年]]に母方の実家であるキーブルク家の男子が断絶すると、ルドルフは母方の従兄ハルトマンの娘アンナの後見人となる。ルドルフはアンナをラウフェンブルク家のエーベルハルトに嫁がせ、[[1273年]]にエーベルハルト夫妻から中央スイス各地の支配地、[[ツーク]]などの都市を購入し、親の代に分裂したハプスブルクの支配地を再統一した<ref>森田「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』、44頁</ref>。しかし、契約文書の中に購入地として記載されていない[[オプヴァルデン準州|オプヴァルデン]]が簒奪された形でルドルフの手に渡り、買収金も全額支払われなかったため、ラウフェンブルク家には大きな不満が残る<ref>瀬原『スイス独立史研究』、76頁</ref>。

本拠地のアルザス、分家から買い戻したスイスの領地からの収入により、ルドルフは世俗諸侯中で[[選帝侯]]に次ぐ資力を有するようになった<ref>瀬原『スイス独立史研究』、41頁</ref>。ハプスブルク家はスイス最大の封建領主となるが、帝国全土では[[シュヴァーベン]]地方を除いて無名に近い存在だった<ref name="morita-m">森田『物語スイスの歴史』、51-53頁</ref>

=== ローマ王選出 ===
13世紀半ばからの皇帝フリードリヒ2世と教皇庁の抗争は、中欧における帝国の権威を衰退させていた<ref name="horupu"/>。教皇庁の軍事力を支える帝国の混乱は教会が所有する土地の治安の悪化をもたらしていた<ref name="kikuchi134">菊池『神聖ローマ帝国』、134頁</ref>。[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]][[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル1世]]は甥の[[フランス君主一覧|フランス王]][[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]を皇帝に推薦しており<ref>瀬原『スイス独立史研究』、3頁</ref>、強化されつつあるフランス王権がローマ王・皇帝をも兼ねる可能性が生まれていた<ref name="kikuchi134"/>。[[1272年]]に皇帝候補に挙げられていた名ばかりのローマ王コーンウォール伯[[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]が没すると、教皇[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]は[[選帝侯]]たちに神聖ローマ帝国の君主の決定を強く求めた<ref name="kikuchi134"/>。

国王選挙の主導権を握る[[マインツ大司教]]ヴェルナー・フォン・エップシュタイン、[[ライン宮中伯]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ]]を通して選挙を進める[[ニュルンベルク城伯]][[フリードリヒ3世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ]]の2名はルドルフをローマ皇帝に推薦した<ref name="kikuchi137"/><ref name="tue152">ツェルナー『オーストリア史』、152頁</ref>。<!-- 菊池『神聖ローマ帝国』ではニュルンベルク城伯ハインリッヒ -->ルドルフは選帝侯の誰とも私闘状態(フェーデ)になく、世俗諸侯からは凡庸な同輩と見なされていた<ref name="wee39">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、39頁</ref>。選挙当時50歳を超えていたルドルフは当時としてはすでに老齢であり、選帝侯たちはルドルフの統治は短期間で終わると考えていた<ref name="morita-m"/><ref name="wee39"/>。また、ヴェルナーとフリードリヒは、皇帝フリードリヒ2世が没した後もホーエンシュタウフェン家を支持し続けるルドルフの義理堅さを評価していた<ref name="kikuchi137"/>。

国王選挙の当時、ルドルフは[[バーゼル司教]]ハインリヒと土地・権限を巡って争っており、バーゼル市に包囲を敷いていた<ref name="wee39"/>。1273年9月20日<ref name="kikuchi138">菊池『神聖ローマ帝国』、138頁</ref>、ルドルフの陣営を訪れたニュルンベルク城伯からローマ皇帝への選出を知らされ、思いがけない知らせにルドルフは驚愕した<ref name="wee39"/><ref name="kikuchi138"/><ref>江村『ハプスブルク家』、23頁</ref>。すぐさまバーゼル司教と講和を結んで包囲を解き、選帝侯会議が行われている[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]に向かった<ref name="kikuchi138"/>。ルドルフは[[アーヘン]]で戴冠を受け、その後封土の授与を行った。即位に際してルドルフはグレゴリウス10世に即位の承認を求める嘆願書を提出し、グレゴリウス10世から認可を受けた<ref name="wee40">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、40頁</ref>。ルドルフは帝国人民と教会の両方から即位を認められた大義を得、[[1275年]]に[[ローザンヌ]]でグレゴリウス10世と会談を行った<ref name="wee40"/>。また、ルドルフの即位に伴い、王妃となった妻のゲルトルートはアンナと呼ばれるようになった<ref>江村『ハプスブルク家史話』、38-39頁</ref>。

しかし、選帝侯のうちプシェミスル家のボヘミア王オタカル2世のみはルドルフのローマ王選出に反対し、ルドルフを「貧乏伯」と貶した<ref name="emura24">江村『ハプスブルク家』、24頁</ref><ref>ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、39,41頁</ref><ref name="tue152"/><ref>瀬原『スイス独立史研究』、4頁</ref>。オタカル2世もローマ王の候補に挙がっていたが、他の選帝侯たちは野心的なオタカルを警戒していた<ref name="emura24"/><ref>瀬原『スイス独立史研究』、3-4頁</ref>。

=== ボヘミア王国との戦い ===
[[Image:Schnorr von Carolsfeld - Die Schlacht Rudolfs von Habsburg gegen Ottokar von Böhmen.jpg|thumb|200px|right|マルヒフェルトの戦い]]
ルドルフのローマ王としての最初の任務は、東方で勢力を拡大するオタカル2世に勝利を収めることであった<ref name="horupu"/><ref name="wee40"/>。[[1246年]]に[[オーストリア公国]]を支配していた[[バーベンベルク家]]の男子が断絶した後、オタカルはバーベンベルク家の公女[[マルガレーテ・フォン・バーベンベルク|マルガレーテ]]と結婚し、婚資としてバーベンベルク家の領土を獲得した。1261年にオタカルはマルガレーテと離婚するが、離婚の後も旧バーベンベルク領と領地から上がる収入を確保する権限を保持していた<ref name="wee40"/><ref name="kikuchi140">菊池『神聖ローマ帝国』、140頁</ref>。このオタカルの旧バーベンベルク家領の獲得を、ルドルフは不当なものと見なした<ref>薩摩「ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』、54頁</ref>。

1274年11月にルドルフは[[ニュルンベルク]]で帝国会議を開催し、諸侯に不当に獲得した神聖ローマ帝国の財産の返還を呼びかけ、国王と諸侯の教義を経た再授与を試みた<ref>池谷「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、293-294頁</ref>。オタカルにも出頭を求めるが、オタカルは会議の場に姿を現さなかった<ref name="satsuma-m">薩摩『物語 チェコの歴史』、49-50頁</ref>。ルドルフはオタカルの帝国会議への参加の拒否、封土(レーン)授与の申請の怠りを咎め、1274年11月に彼に[[帝国アハト刑|帝国追放令]]を出した<ref name="tue152"/>。

[[アウクスブルク]]で開かれた帝国会議にもオタカルは出席せず、{{仮リンク|ゼッカウ|de|Seckau}}司教を弁明の使者として派遣した。会議の場でゼッカウ司教が[[ラテン語]]による弁明を述べ始めたとき、ルドルフは「場にいる大勢の人間が理解できない」ラテン語での弁明を止めさせた<ref>ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、41頁</ref>。反教皇の感情を持ち、これまで外国人がローマ王に立候補していた状況に不満を抱く者が多い帝国諸侯を、ドイツ語とラテン語を対比させる手法でまとめ上げ、反オタカルの意思を一体化させた<ref name="wee42">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、42頁</ref>。オーストリアの貴族と高位聖職者も次第にルドルフを支持し始め、民衆の間にもルドルフに対する好意が浸透していった<ref name="tue152"/>。[[1276年]]6月<ref name="tue152"/>、ルドルフは出頭に応じなかったオタカルに重帝国追放令を出し、オタカルがボヘミア王に即位した後に獲得した領地の没収を宣告した<ref name="satsuma-m"/>。同1276年にルドルフは諸侯を率いてウィーンの包囲に向かい、同年11月にオタカルは降伏した。

オタカルを下したルドルフはオーストリアに[[ラント平和令]]を公布し、貴族たちに厚い待遇を提示して懐柔を図った<ref name="tue153">ツェルナー『オーストリア史』、153頁</ref>。都市や修道院に対しても寛大な態度を取り、オタカルに厚遇された勢力を味方に引き入れることに努めた<ref name="tue153"/>。一方、オタカルへの帝国追放令が取り消されると、オタカルはルドルフとの再戦に向けて軍備を整え、[[ニーダーバイエルン]]のハインリヒらオタカルの支持者もルドルフに反抗した。オタカルはハプスブルク家とプシェミスル家の婚姻の計画を破棄し、家臣と同盟国を集めてウィーンに向けて進軍した。1278年8月26日に[[マルヒフェルトの戦い]]でルドルフはボヘミア軍を迎撃して勝利を収め、オタカルを戦死させる<ref name="satsuma-m"/><ref name="kikuchi140"/>。さらにルドルフはボヘミア・モラヴィアに進軍するが、戦況が膠着し、両軍は和平を結んだ。この時、ハプスブルク家とプシェミスル家は両家の和解を促すために合同結婚式を執り行い、ルドルフの息子[[ルドルフ2世 (オーストリア公)|ルドルフ]]はオタカルの娘アグネス(アネシュカ)と、ルドルフの娘[[グタ・ハブスブルスカー|グタ]](ユッタ)はオタカルの子[[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴェンツェル]]と結婚した<ref>ツェルナー『オーストリア史』、154頁</ref>。

=== オーストリアの獲得 ===
ボヘミアとの戦争を終えたルドルフは、フリードリヒ2世時代に悪化した帝国と教皇庁との関係の修復を試みる。前の皇帝たちが採ったイタリアへの積極的な介入は行わず、家領の確保に努めた<ref name="kikuchi141">菊池『神聖ローマ帝国』、141頁</ref>。[[1279年]]に帝国がイタリアに有していた権利の多くを放棄し、行政の権限と行使者をローマ教会の権威に服させた<ref name="horupu"/>。同年に[[ロマーニャ]]地方を教皇に寄進した。ロマーニャの寄進によってシチリア王国に対する教皇庁との同盟が成立し、ルドルフが有するローマ王位の世襲化も検討された<ref>池谷「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、295頁</ref>。

1281年にアルブレヒトをオーストリアの領邦摂政に任命するが、オーストリアの貴族たちはアルブレヒトの政策に恐怖を抱いたため、上級領邦貴族(ラントヘル)にアルブレヒトの補佐を任せた<ref name="tue155">ツェルナー『オーストリア史』、155頁</ref>。1282年12月にルドルフは諸侯と交渉し、プシェミスル家からオーストリア、[[シュタイアーマルク公国|シュタイアーマルク公]]、[[ケルンテン公国|ケルンテン]]を没収した。ケルンテンはチロル伯[[マインハルト (ケルンテン公)|マインハルト]]に与え、入念な手続きを経てオーストリアとシュタイアーマルクを長子[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト]]と次子ルドルフに封土(レーン)として与えた。また、[[ヘプ|エーガー]]と[[エーガー川|エーガーラント]]は帝国の直属領に編入される。

最初アルブレヒトとルドルフがオーストリアの共同統治を行っていたが、[[1283年]]6月1日のラインフェルデンの契約によってアルブレヒトが単独のオーストリア領邦君主となった<ref name="tue155"/><ref name="kikuchi141"/>。ルドルフのドイツ王の権限を利用して一門の利益を増やす家領政策によってハプスブルク家はスイスからオーストリアに支配地を広げた<ref name="yamauchi"/>。一族が本拠としていた[[アールガウ州|アールガウ]]の[[ハービヒツブルク城]]から、{{仮リンク|ブルック (スイス)|de|Brugg|label=ブルック}}を経てウィーンに本拠地を移した<ref name="odori23">踊『図説 スイスの歴史』、23頁</ref>。

=== 晩年 ===
オーストリアでは、アルブレヒトとシュヴァーベン地方出身の家臣団が敷く強圧的な統治が現地の人間の怨嗟の的になっていた<ref>ツェルナー『オーストリア史』、156-157頁</ref>。[[1287年]]、ウィーンでアルブレヒトの統治に対する反乱が発生する。[[1290年]]にハンガリー王[[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]が没した後、ルドルフはハンガリーへの介入を試み、ハンガリー王位を長子アルブレヒトに与えた。しかし、ハンガリーの貴族・聖職者によって擁立されたハンガリー王[[アンドラーシュ3世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ3世]]は[[ザルツブルク大司教]]コンラートと同盟してオーストリアに進軍し、アルブレヒトの軍を打ち破った<ref>ツェルナー『オーストリア史』、157-158頁</ref>。また、国庫から帝国諸侯と都市の争いの仲裁に必要な資産が欠乏しつつあり、[[ブルゴーニュ地域圏|ブルゴーニュ]]地方を巡るフランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]との対立が、帝国の安定を脅かしていた<ref name="horupu"/>。

選帝侯たちは成長したハプスブルク家、アルブレヒトの性格と素質を恐れ、アルブレヒトのローマ王選出を拒否した<ref>江村『ハプスブルク家』、28,30頁</ref><ref>ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、49-50頁</ref>。1291年7月15日、ルドルフは[[シュパイアー]]市に向かう途上、[[ゲルマースハイム]]で没した<ref>ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、50頁</ref>。選帝侯たちは王権が制限された連邦制国家の存続を望んでおり、ルドルフの死後に勢力を拡大するハプスブルク家からローマ王位を没収し、[[ナッサウ家]]の[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]をローマ王として選出した<ref>菊池『神聖ローマ帝国』、141-142頁</ref>。

== 人物像 ==
[[Image:Franz Pforr 002.jpg|thumb|200px|right|[[フランツ・プフォル]]が描いた『ルドルフと司祭』]]
ルドルフ1世は長身で細見の肩幅が広い、小さな頭の人物と伝えられている<ref name="wee36"/>。髪は薄く、特徴のある大きな鷲鼻の持ち主だった<ref name="wee36"/><ref>菊池『神聖ローマ帝国』、139頁</ref>。

ハプスブルク家の歴史家たちは、ルドルフの体力、気力、知恵を称賛した<ref name="wee36"/>。だが、歴史家が記す温厚かつ謙虚なルドルフの態度は、かえって彼が老獪・陰険な人物という印象を抱かせることもある<ref name="wee42"/>。[[カール大帝]]との同一性を喧伝するために寛大さが強調される一方で、機転の速さ、冷静な判断を示す記録も多く残されている<ref name="wee38">ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、38頁</ref>。王位に就いたルドルフは施政の方針でも寛容性を前面に出し、当時諸侯の間で頻発していた私闘を禁じて帝国の治安の回復を図った<ref name="emura-s6">江村『ハプスブルク家史話』、6頁</ref>。

鷹狩に出たルドルフが道中で出会った司祭を助け、司祭からルドルフの信仰心と器量を聞かされたマインツ大司教がルドルフをローマ王に選出したという有名な伝承は、没後の比較的早い時期に成立した<ref name="morita-m"/>。アーヘンでの封土の授与の際に儀式に必要な王笏が見つからず、儀式を妨害しようとする人間まで現れたが、ルドルフは祭壇の磔刑にされたキリスト像を手に取り、「神聖な式典にふさわしい」ものとして王笏の代用とする機知と信仰心を示した伝承が残る<ref>江村『ハプスブルク家』、25-26頁</ref>。戴冠式の時、空に十字型の茜色の雲が浮かんでいた、ルドルフの信仰心を強調する伝説も存在する<ref name="emura-s6"/>。

== スイスとの関係 ==
ローマ皇帝フリードリヒ2世がハプスブルク家に[[ウーリ州|ウーリ]]の帝国代官職を与えて以来、ハプスブルク家はスイスの都市と敵対したが、ある時は都市間の抗争の仲裁者も務めた<ref>踊『図説 スイスの歴史』、22,30頁</ref>。ルドルフ1世のスイス統治は、中世スイス国家の形成に深く影響を及ぼした<ref name="odori23"/>。

市民と司教の抗争が起きる[[ストラスブール|シュトラスブルク]](ストラスブール)においてルドルフは市民側を支持し、[[1259年]]に母ハイルヴィヒの土地の返還を拒否したシュトラスブルク司教を市から追放した。ローマ王選出直前に、ルドルフはラウフェンブルク=ハプスブルク家から土地を購入したことで、東は[[ザンクト・ガレン]]、西は[[アーラウ]]、北は[[ライン川]]北岸、南はウーリに広がる支配領域が形成され、スイス北部に塊状の支配地を現出した<ref name="sehara11">瀬原『スイス独立史研究』、11頁</ref>。そして、ルドルフはこれまでにハプスブルクが所有していた[[アルザス]]の領地と北スイスの支配地を結ぶ要所であるバーゼルの制圧を図った<ref name="sehara11"/>。1264年に教皇派(ゲルフ)のハインリヒ・フォン・ノイエンブルクがバーゼル司教となり、ルドルフはバーゼル市と衝突した。ルドルフのローマ王選出直後に結んだ和平によってバーゼルの独立は維持され、アルザスとスイスにまたがるハプスブルク領邦国家の成立は中断した<ref name="sehara11"/>。

ローマ王に選出されたルドルフは、これまで敵対していたスイス都市共同体に自由と自治を保証する「保護者」に立場が変わる<ref name="morita45">森田「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』、45頁</ref>。ウーリに自由と自治を認める「帝国自由」の特許状を承認したが、[[シュヴィーツ州|シュヴィーツ]]には特許状を認めなかった。ルドルフはローマ王在位中にオーストリア獲得に注力しており、スイスでは積極的な抑圧策を敷かなかった<ref name="morita45"/><ref name="sehara84">瀬原『スイス独立史研究』、84頁</ref>。だが、[[ルツェルン]]、ツーク、[[グラールス]]などのスイスから[[アルプス山脈]]を越えて平野部に出るための要地を購入し、
スイス都市に包囲を敷いていた<ref name="morita45"/>。1280年代末からスイスに積極的な介入を行い、独立性を高めていたウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの森林三州と対立する<ref name="sehara84"/>。

1291年にルドルフ死去の報告がスイスに届くと、1291年8月にウーリ、シュヴィーツ、[[ウンターヴァルデン]]([[ニトヴァルデン準州|ニトヴァルデン]])の代表者がリュートリで密かに会合し、[[永久盟約|盟約者同盟]]を結んだ伝承が残る<ref>瀬原『スイス独立史研究』、80頁</ref>。


== 家族 ==
== 家族 ==
[[1253年]]に[[ホーエンツォレルン家|ツォレルン家]]のホーエンベルク伯([[:de:Hohenberg (schwäbisches Adelsgeschlecht)|de]])ブルクハルト5世の娘[[ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク|ゲルトルート]](1225年 - 1281年)と結婚し、多くの子をもうけた。ゲルトルートの死後、[[1284年]]に[[カペー家]]の[[ブルゴーニュ公]][[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]の娘[[イザベル・ド・ブルゴーニュ|イザベラ]]ことエリザベート(1270年 - 1323年)と結婚した。2人の間の子はおらず、イザベラはルドルフの死後ピエール・ド・シャンブリーと再婚した。婚姻外交はハプスブルク家の発展の原動力とも言え、ルドルフも婚姻を通じての外交関係の構築を展開した<ref name="emura-s8">江村『ハプスブルク家史話』、8頁</ref>。ゲルトルートとの間に生まれた子のうち2人をボヘミアのプシェミスル家の人間と結婚させ、ボヘミアへの影響力を強化した<ref name="emura-s8"/>。帝国諸侯の元にはマティルデとアグネスを嫁がせ、さらには[[イングランド王国]]とナポリ王国との婚姻関係の構築も計画していた<ref>江村『ハプスブルク家史話』、9頁</ref>。
[[1245年]]にホーエンベルク伯ブルクハルト5世の娘ゲルトルートと結婚し、9子をもうけた。
* [[マティルデ・フォン・ハプスブルク|マティルデ]](1251/53年頃 - 1304年) - [[バイエルン大公|上バイエルン公]]兼[[ライン宮中伯]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]と結婚。バイエルン公[[ルドルフ1世 (バイエルン公)|ルドルフ1世]]と皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の母。
* [[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]](1255年 - 1308年) - ドイツ王、オーストリア公、シュタイアーマルク公。
* [[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]](1255年 - 1308年) - ローマ王、オーストリア公、シュタイアーマルク公。
* ハルトマン(1263年 - 1281年)
* [[ルドル2世 (オーストリア公)|ルドルフ2世]](1270年 - 1290年) - オーストリア公、シュヴァーベン公[[・パリツィ]]の父
* [[カタリーナ・ォン・ハプスブルク (1256-1282)|カタリーナ]](1256年 - 1282年) - 下バイエルン公[[オット3世 (バイエル公)|オット3世]]と結婚
* アグネス(1257年頃 - 1322年) - 1273年、[[ザクセン=ヴィッテンベルク]]公[[アルブレヒト2世 (ザクセン=ヴィッテンベルク公)|アルブレヒト2世]]と結婚。
* マティルダ(1251/53年頃 - 1304年) - [[バイエルン大公|上バイエルン公]]兼[[ライン宮中伯]][[ルートヴィヒ2世 (バイエルン公)|ルートヴィヒ2世]]と結婚。[[ルドルフ1世 (バイエルン公)|ルドルフ1世]]と皇帝[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の母。
* カタリーナ(1256年 - 1282年) - 下バイエルン公[[オットー3世 (バイエルン公)|オットー3世]]と結婚。
* アグネス(1257年頃 - 1322年) - [[ザクセン=ヴィッテンベルク]]公[[アルブレヒト2世 (ザクセン=ヴィッテンベルク公)|アルブレヒト2世]]と結婚。
* ヘートヴィヒ(? - 1285/86年) - 1279年、[[ブランデンブルク辺境伯]][[オットー6世 (ブランデンブルク辺境伯)|オットー6世]]と結婚。
* ヘートヴィヒ(? - 1285/86年) - 1279年、[[ブランデンブルク辺境伯]][[オットー6世 (ブランデンブルク辺境伯)|オットー6世]]と結婚。
* クレメンィア(1262年頃 - 1293年) - [[ナポリ王国|ナポリ王]][[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]の息子[[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]]と結婚。
* [[クレメンィア・フォン・ハプスブルク|クレメンティア]](1262年頃 - 1293年) - [[ナポリ王国|ナポリ王]][[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]の息子[[カルロ・マルテッロ・ダンジョ|カルロ・マルテッロ]]と結婚。
* ハルトマン(1263年 - 1281年) - ハプスブルクおよびキーブルク伯、エルザス辺境伯。
* [[グタ・ハブスブルスカー|ユーディトまたはユッタ]](1271年 - 1297年) - [[ボヘミア]]王及び[[ポーランド王国|ポーランド王]][[ヴァーツラフ2世]]と結婚。
* [[ルドルフ2世 (オーストリア公)|ルドルフ2世]](1270年 - 1290年) - オーストリア公、シュヴァーベン公。[[ヨーハン・パリツィーダ]]の父。
* [[グタ・ハブスブルスカー|ユーディトまたはユッタ]](1271年 - 1297年) - [[ボヘミア]]王及び[[ポーランド王国|ポーランド王]][[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]と結婚。
* カール(1276年 - 1276年)

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references/>


== 参考文献 ==
[[1284年]]に[[ブルゴーニュ公]][[ユーグ4世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ4世]]の娘イザベラと結婚した。2人の間の子はいない。
* 池谷文夫「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録([[木村靖二]]、[[成瀬治]]、[[山田欣吾]]編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
* 江村洋『ハプスブルク家』(講談社現代新書, 講談社, 1990年8月)
* 江村洋『ハプスブルク家史話』(東洋書林, 2004年7月)
* 踊共二『図説 スイスの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年8月)
* 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)
* [[薩摩秀登]]「ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
* 薩摩秀登『物語 チェコの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2006年3月)
* 瀬原義生『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, ミネルヴァ書房, 2009年11月)
* 森田安一「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年4月)
* 森田安一『物語スイスの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2000年7月)
* エドワード.M.ピーターズ「ルードルフ1世」『世界伝記大事典 世界編』12巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1981年6月)
* エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月)
* アンドリュー・ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』(瀬原義生訳, 文理閣, 2009年7月)
==関連項目==
*[[シンボリルドルフ]] - 日本の競走馬。馬名の由来はルドルフ1世に因み、日本競馬史上初の無敗でのクラシック三冠を含めてGⅠ7勝を記録。その強さから「七冠馬」の他、ルドルフ1世に肖って「'''皇帝'''」とも称された。


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ルドルフ1世
Rudolf I.
ローマ王
ルドルフ1世
在位 1273年 - 1291年
戴冠式 1273年8月24日
別号 ハプスブルク伯
オーストリア公

出生 1218年5月1日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
アルザス地方、リンブルク城
死去 (1291-07-15) 1291年7月15日(73歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ地方ゲルマースハイム
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
帝国自由都市シュパイアーシュパイアー大聖堂
配偶者 ゲルトルート・フォン・ホーエンベルク(アンナ)
  イザベラ・フォン・ブルグント
子女 後述
家名 ハプスブルク家
王朝 ハプスブルク朝
父親 ハプスブルク伯アルブレヒト4世英語版
母親 ハイルヴィヒ・フォン・キーブルク
テンプレートを表示
ルドルフ1世(16世紀)

ルドルフ1世(Rudolf I.、Rudolf von Habsburg、1218年5月1日 - 1291年7月15日[1])は神聖ローマ帝国ローマ王(ドイツ王、在位:1273年 - 1291年)[注釈 1]ハプスブルク家最初の帝国君主として知られるが、正式な皇帝として戴冠するためのイタリア遠征は実施していない。元はハプスブルク伯ルドルフ4世。大空位時代の中で選帝侯たちはルドルフを御し易い人物と考えて1273年の国王選挙で選出したが、ルドルフは諸侯の思惑に反してハプスブルク家の富と権力を増やし帝国に地盤を作り上げ、結果として大空位時代は終結する[2][3][4]。ただし彼の代ではまだ帝位獲得と王位世襲はできず、大空位時代を含めて200年にわたって非世襲の状態が続く。

ルドルフの採った外交政策と軍事政策は成功を収め、混乱の続いていた帝国に20年近い平和をもたらした[2]。ルドルフ1世のローマ王選出によりハプスブルク家の名前が初めて歴史の表舞台に現れ[5]、ハプスブルク家はヨーロッパ最高峰の皇帝家へと発展していく[6]ボヘミアオタカル2世に勝利してオーストリアを獲得した後、ルドルフはその中心都市ウィーンに一門の拠点を移し、20世紀に至るまでウィーンはハプスブルク家の本拠地とされる[2]

生涯

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ローマ王選出前

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1218年5月1日[7]にハプスブルク伯アルブレヒト4世英語版(1188年 - 1239年)とキーブルク家英語版ウルリヒ3世の娘ハイルヴィヒ(1260年没)の間に生まれる。アルザス北部のリムブルク・バイ・ザスバッハでルドルフが誕生した伝承が残るが、伝承の真偽については疑問が持たれている[8]。ハプスブルク家に信頼を置くローマ皇帝フリードリヒ2世が、ルドルフの名付け親となった[7]

13世紀半ばのフリードリヒ2世とローマ教皇の抗争においては、ルドルフは父アルブレヒトと同じく皇帝派(ギベリン)に与し、ハプスブルク分家のラウフェンブルク家と戦った。1240年に父アルブレヒトが没した後、ルドルフは家督の継承から数年の間にラウフェンブルク家から土地を奪取していき、勢力を拡大する[9]。勢力拡大の過程では、母方の伯父であるキーブルク伯ヴェルナーに土地を要求して争った。バーゼルに夜襲をかけた際に女子修道院に放火し、そのために教会から破門を宣告されが数年で破門を解かれ、伯父ヴェルナーとも和解した。1250年にフリードリヒ2世が没した後、ルドルフは彼の遺児であるローマ王コンラート4世に仕える[10]

1253年、ルドルフはシュヴァーベンのホーエンベルク伯の娘ゲルトルートと結婚する[11]

1264年に母方の実家であるキーブルク家の男子が断絶すると、ルドルフは母方の従兄ハルトマンの娘アンナの後見人となる。ルドルフはアンナをラウフェンブルク家のエーベルハルトに嫁がせ、1273年にエーベルハルト夫妻から中央スイス各地の支配地、ツークなどの都市を購入し、親の代に分裂したハプスブルクの支配地を再統一した[12]。しかし、契約文書の中に購入地として記載されていないオプヴァルデンが簒奪された形でルドルフの手に渡り、買収金も全額支払われなかったため、ラウフェンブルク家には大きな不満が残る[13]

本拠地のアルザス、分家から買い戻したスイスの領地からの収入により、ルドルフは世俗諸侯中で選帝侯に次ぐ資力を有するようになった[14]。ハプスブルク家はスイス最大の封建領主となるが、帝国全土ではシュヴァーベン地方を除いて無名に近い存在だった[15]

ローマ王選出

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13世紀半ばからの皇帝フリードリヒ2世と教皇庁の抗争は、中欧における帝国の権威を衰退させていた[2]。教皇庁の軍事力を支える帝国の混乱は教会が所有する土地の治安の悪化をもたらしていた[16]シチリア王シャルル1世は甥のフランス王フィリップ3世を皇帝に推薦しており[17]、強化されつつあるフランス王権がローマ王・皇帝をも兼ねる可能性が生まれていた[16]1272年に皇帝候補に挙げられていた名ばかりのローマ王コーンウォール伯リチャードが没すると、教皇グレゴリウス10世選帝侯たちに神聖ローマ帝国の君主の決定を強く求めた[16]

国王選挙の主導権を握るマインツ大司教ヴェルナー・フォン・エップシュタイン、ライン宮中伯ルートヴィヒを通して選挙を進めるニュルンベルク城伯フリードリヒの2名はルドルフをローマ皇帝に推薦した[10][18]。ルドルフは選帝侯の誰とも私闘状態(フェーデ)になく、世俗諸侯からは凡庸な同輩と見なされていた[19]。選挙当時50歳を超えていたルドルフは当時としてはすでに老齢であり、選帝侯たちはルドルフの統治は短期間で終わると考えていた[15][19]。また、ヴェルナーとフリードリヒは、皇帝フリードリヒ2世が没した後もホーエンシュタウフェン家を支持し続けるルドルフの義理堅さを評価していた[10]

国王選挙の当時、ルドルフはバーゼル司教ハインリヒと土地・権限を巡って争っており、バーゼル市に包囲を敷いていた[19]。1273年9月20日[20]、ルドルフの陣営を訪れたニュルンベルク城伯からローマ皇帝への選出を知らされ、思いがけない知らせにルドルフは驚愕した[19][20][21]。すぐさまバーゼル司教と講和を結んで包囲を解き、選帝侯会議が行われているフランクフルトに向かった[20]。ルドルフはアーヘンで戴冠を受け、その後封土の授与を行った。即位に際してルドルフはグレゴリウス10世に即位の承認を求める嘆願書を提出し、グレゴリウス10世から認可を受けた[22]。ルドルフは帝国人民と教会の両方から即位を認められた大義を得、1275年ローザンヌでグレゴリウス10世と会談を行った[22]。また、ルドルフの即位に伴い、王妃となった妻のゲルトルートはアンナと呼ばれるようになった[23]

しかし、選帝侯のうちプシェミスル家のボヘミア王オタカル2世のみはルドルフのローマ王選出に反対し、ルドルフを「貧乏伯」と貶した[24][25][18][26]。オタカル2世もローマ王の候補に挙がっていたが、他の選帝侯たちは野心的なオタカルを警戒していた[24][27]

ボヘミア王国との戦い

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マルヒフェルトの戦い

ルドルフのローマ王としての最初の任務は、東方で勢力を拡大するオタカル2世に勝利を収めることであった[2][22]1246年オーストリア公国を支配していたバーベンベルク家の男子が断絶した後、オタカルはバーベンベルク家の公女マルガレーテと結婚し、婚資としてバーベンベルク家の領土を獲得した。1261年にオタカルはマルガレーテと離婚するが、離婚の後も旧バーベンベルク領と領地から上がる収入を確保する権限を保持していた[22][28]。このオタカルの旧バーベンベルク家領の獲得を、ルドルフは不当なものと見なした[29]

1274年11月にルドルフはニュルンベルクで帝国会議を開催し、諸侯に不当に獲得した神聖ローマ帝国の財産の返還を呼びかけ、国王と諸侯の教義を経た再授与を試みた[30]。オタカルにも出頭を求めるが、オタカルは会議の場に姿を現さなかった[31]。ルドルフはオタカルの帝国会議への参加の拒否、封土(レーン)授与の申請の怠りを咎め、1274年11月に彼に帝国追放令を出した[18]

アウクスブルクで開かれた帝国会議にもオタカルは出席せず、ゼッカウドイツ語版司教を弁明の使者として派遣した。会議の場でゼッカウ司教がラテン語による弁明を述べ始めたとき、ルドルフは「場にいる大勢の人間が理解できない」ラテン語での弁明を止めさせた[32]。反教皇の感情を持ち、これまで外国人がローマ王に立候補していた状況に不満を抱く者が多い帝国諸侯を、ドイツ語とラテン語を対比させる手法でまとめ上げ、反オタカルの意思を一体化させた[33]。オーストリアの貴族と高位聖職者も次第にルドルフを支持し始め、民衆の間にもルドルフに対する好意が浸透していった[18]1276年6月[18]、ルドルフは出頭に応じなかったオタカルに重帝国追放令を出し、オタカルがボヘミア王に即位した後に獲得した領地の没収を宣告した[31]。同1276年にルドルフは諸侯を率いてウィーンの包囲に向かい、同年11月にオタカルは降伏した。

オタカルを下したルドルフはオーストリアにラント平和令を公布し、貴族たちに厚い待遇を提示して懐柔を図った[34]。都市や修道院に対しても寛大な態度を取り、オタカルに厚遇された勢力を味方に引き入れることに努めた[34]。一方、オタカルへの帝国追放令が取り消されると、オタカルはルドルフとの再戦に向けて軍備を整え、ニーダーバイエルンのハインリヒらオタカルの支持者もルドルフに反抗した。オタカルはハプスブルク家とプシェミスル家の婚姻の計画を破棄し、家臣と同盟国を集めてウィーンに向けて進軍した。1278年8月26日にマルヒフェルトの戦いでルドルフはボヘミア軍を迎撃して勝利を収め、オタカルを戦死させる[31][28]。さらにルドルフはボヘミア・モラヴィアに進軍するが、戦況が膠着し、両軍は和平を結んだ。この時、ハプスブルク家とプシェミスル家は両家の和解を促すために合同結婚式を執り行い、ルドルフの息子ルドルフはオタカルの娘アグネス(アネシュカ)と、ルドルフの娘グタ(ユッタ)はオタカルの子ヴェンツェルと結婚した[35]

オーストリアの獲得

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ボヘミアとの戦争を終えたルドルフは、フリードリヒ2世時代に悪化した帝国と教皇庁との関係の修復を試みる。前の皇帝たちが採ったイタリアへの積極的な介入は行わず、家領の確保に努めた[36]1279年に帝国がイタリアに有していた権利の多くを放棄し、行政の権限と行使者をローマ教会の権威に服させた[2]。同年にロマーニャ地方を教皇に寄進した。ロマーニャの寄進によってシチリア王国に対する教皇庁との同盟が成立し、ルドルフが有するローマ王位の世襲化も検討された[37]

1281年にアルブレヒトをオーストリアの領邦摂政に任命するが、オーストリアの貴族たちはアルブレヒトの政策に恐怖を抱いたため、上級領邦貴族(ラントヘル)にアルブレヒトの補佐を任せた[38]。1282年12月にルドルフは諸侯と交渉し、プシェミスル家からオーストリア、シュタイアーマルク公ケルンテンを没収した。ケルンテンはチロル伯マインハルトに与え、入念な手続きを経てオーストリアとシュタイアーマルクを長子アルブレヒトと次子ルドルフに封土(レーン)として与えた。また、エーガーエーガーラントは帝国の直属領に編入される。

最初アルブレヒトとルドルフがオーストリアの共同統治を行っていたが、1283年6月1日のラインフェルデンの契約によってアルブレヒトが単独のオーストリア領邦君主となった[38][36]。ルドルフのドイツ王の権限を利用して一門の利益を増やす家領政策によってハプスブルク家はスイスからオーストリアに支配地を広げた[4]。一族が本拠としていたアールガウハービヒツブルク城から、ブルックドイツ語版を経てウィーンに本拠地を移した[39]

晩年

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オーストリアでは、アルブレヒトとシュヴァーベン地方出身の家臣団が敷く強圧的な統治が現地の人間の怨嗟の的になっていた[40]1287年、ウィーンでアルブレヒトの統治に対する反乱が発生する。1290年にハンガリー王ラースロー4世が没した後、ルドルフはハンガリーへの介入を試み、ハンガリー王位を長子アルブレヒトに与えた。しかし、ハンガリーの貴族・聖職者によって擁立されたハンガリー王アンドラーシュ3世ザルツブルク大司教コンラートと同盟してオーストリアに進軍し、アルブレヒトの軍を打ち破った[41]。また、国庫から帝国諸侯と都市の争いの仲裁に必要な資産が欠乏しつつあり、ブルゴーニュ地方を巡るフランス王フィリップ4世との対立が、帝国の安定を脅かしていた[2]

選帝侯たちは成長したハプスブルク家、アルブレヒトの性格と素質を恐れ、アルブレヒトのローマ王選出を拒否した[42][43]。1291年7月15日、ルドルフはシュパイアー市に向かう途上、ゲルマースハイムで没した[44]。選帝侯たちは王権が制限された連邦制国家の存続を望んでおり、ルドルフの死後に勢力を拡大するハプスブルク家からローマ王位を没収し、ナッサウ家アドルフをローマ王として選出した[45]

人物像

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フランツ・プフォルが描いた『ルドルフと司祭』

ルドルフ1世は長身で細見の肩幅が広い、小さな頭の人物と伝えられている[9]。髪は薄く、特徴のある大きな鷲鼻の持ち主だった[9][46]

ハプスブルク家の歴史家たちは、ルドルフの体力、気力、知恵を称賛した[9]。だが、歴史家が記す温厚かつ謙虚なルドルフの態度は、かえって彼が老獪・陰険な人物という印象を抱かせることもある[33]カール大帝との同一性を喧伝するために寛大さが強調される一方で、機転の速さ、冷静な判断を示す記録も多く残されている[47]。王位に就いたルドルフは施政の方針でも寛容性を前面に出し、当時諸侯の間で頻発していた私闘を禁じて帝国の治安の回復を図った[48]

鷹狩に出たルドルフが道中で出会った司祭を助け、司祭からルドルフの信仰心と器量を聞かされたマインツ大司教がルドルフをローマ王に選出したという有名な伝承は、没後の比較的早い時期に成立した[15]。アーヘンでの封土の授与の際に儀式に必要な王笏が見つからず、儀式を妨害しようとする人間まで現れたが、ルドルフは祭壇の磔刑にされたキリスト像を手に取り、「神聖な式典にふさわしい」ものとして王笏の代用とする機知と信仰心を示した伝承が残る[49]。戴冠式の時、空に十字型の茜色の雲が浮かんでいた、ルドルフの信仰心を強調する伝説も存在する[48]

スイスとの関係

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ローマ皇帝フリードリヒ2世がハプスブルク家にウーリの帝国代官職を与えて以来、ハプスブルク家はスイスの都市と敵対したが、ある時は都市間の抗争の仲裁者も務めた[50]。ルドルフ1世のスイス統治は、中世スイス国家の形成に深く影響を及ぼした[39]

市民と司教の抗争が起きるシュトラスブルク(ストラスブール)においてルドルフは市民側を支持し、1259年に母ハイルヴィヒの土地の返還を拒否したシュトラスブルク司教を市から追放した。ローマ王選出直前に、ルドルフはラウフェンブルク=ハプスブルク家から土地を購入したことで、東はザンクト・ガレン、西はアーラウ、北はライン川北岸、南はウーリに広がる支配領域が形成され、スイス北部に塊状の支配地を現出した[51]。そして、ルドルフはこれまでにハプスブルクが所有していたアルザスの領地と北スイスの支配地を結ぶ要所であるバーゼルの制圧を図った[51]。1264年に教皇派(ゲルフ)のハインリヒ・フォン・ノイエンブルクがバーゼル司教となり、ルドルフはバーゼル市と衝突した。ルドルフのローマ王選出直後に結んだ和平によってバーゼルの独立は維持され、アルザスとスイスにまたがるハプスブルク領邦国家の成立は中断した[51]

ローマ王に選出されたルドルフは、これまで敵対していたスイス都市共同体に自由と自治を保証する「保護者」に立場が変わる[52]。ウーリに自由と自治を認める「帝国自由」の特許状を承認したが、シュヴィーツには特許状を認めなかった。ルドルフはローマ王在位中にオーストリア獲得に注力しており、スイスでは積極的な抑圧策を敷かなかった[52][53]。だが、ルツェルン、ツーク、グラールスなどのスイスからアルプス山脈を越えて平野部に出るための要地を購入し、 スイス都市に包囲を敷いていた[52]。1280年代末からスイスに積極的な介入を行い、独立性を高めていたウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの森林三州と対立する[53]

1291年にルドルフ死去の報告がスイスに届くと、1291年8月にウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンニトヴァルデン)の代表者がリュートリで密かに会合し、盟約者同盟を結んだ伝承が残る[54]

家族

[編集]

1253年ツォレルン家のホーエンベルク伯(de)ブルクハルト5世の娘ゲルトルート(1225年 - 1281年)と結婚し、多くの子をもうけた。ゲルトルートの死後、1284年カペー家ブルゴーニュ公ユーグ4世の娘イザベラことエリザベート(1270年 - 1323年)と結婚した。2人の間の子はおらず、イザベラはルドルフの死後ピエール・ド・シャンブリーと再婚した。婚姻外交はハプスブルク家の発展の原動力とも言え、ルドルフも婚姻を通じての外交関係の構築を展開した[55]。ゲルトルートとの間に生まれた子のうち2人をボヘミアのプシェミスル家の人間と結婚させ、ボヘミアへの影響力を強化した[55]。帝国諸侯の元にはマティルデとアグネスを嫁がせ、さらにはイングランド王国とナポリ王国との婚姻関係の構築も計画していた[56]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ローマ王は帝位の前提となった王号で現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途上である。またイタリアブルグントへの宗主権を備える。

出典

[編集]
  1. ^ Rudolf I king of Germany Encyclopædia Britannica
  2. ^ a b c d e f g ピーターズ「ルードルフ1世」『世界伝記大事典 世界編』12巻、214-215頁
  3. ^ 江村『ハプスブルク家』、20,22-23頁
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  5. ^ 江村『ハプスブルク家』、20頁
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  37. ^ 池谷「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』、295頁
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  40. ^ ツェルナー『オーストリア史』、156-157頁
  41. ^ ツェルナー『オーストリア史』、157-158頁
  42. ^ 江村『ハプスブルク家』、28,30頁
  43. ^ ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、49-50頁
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  51. ^ a b c 瀬原『スイス独立史研究』、11頁
  52. ^ a b c 森田「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』、45頁
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  55. ^ a b 江村『ハプスブルク家史話』、8頁
  56. ^ 江村『ハプスブルク家史話』、9頁

参考文献

[編集]
  • 池谷文夫「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二成瀬治山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)
  • 江村洋『ハプスブルク家』(講談社現代新書, 講談社, 1990年8月)
  • 江村洋『ハプスブルク家史話』(東洋書林, 2004年7月)
  • 踊共二『図説 スイスの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年8月)
  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)
  • 薩摩秀登「ドナウ・ヨーロッパの形成」『ドナウ・ヨーロッパ史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1999年3月)
  • 薩摩秀登『物語 チェコの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2006年3月)
  • 瀬原義生『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, ミネルヴァ書房, 2009年11月)
  • 森田安一「盟約者団の形成と発展」『スイス・ベネルクス史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年4月)
  • 森田安一『物語スイスの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2000年7月)
  • エドワード.M.ピーターズ「ルードルフ1世」『世界伝記大事典 世界編』12巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1981年6月)
  • エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月)
  • アンドリュー・ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』(瀬原義生訳, 文理閣, 2009年7月)

関連項目

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  • シンボリルドルフ - 日本の競走馬。馬名の由来はルドルフ1世に因み、日本競馬史上初の無敗でのクラシック三冠を含めてGⅠ7勝を記録。その強さから「七冠馬」の他、ルドルフ1世に肖って「皇帝」とも称された。
先代
オタカル2世
オーストリア公
シュタイアーマルク公
1278年 - 1282年
次代
アルブレヒト1世
ルドルフ2世