「ハンガリー」の版間の差分
Bernstein~jawiki (会話 | 投稿記録) m tokajが地名ですが、これはトカイと発音し、所有のiが付く場合(tokaji=トカイ)との発音の違いはありません。 |
m ドイツ語呼称をコメントアウト、日本における「マジャール」表記の起源について、マジャルをハンガリーに置換、など。ノート参照。 |
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正式名称は |
正式名称はハンガリー語で ''Magyar Köztársaság''(マジャル・ケスタールシャシャーグ<!--/日本語訳:マジャル共和国-->)。通称 ''Magyarország''(マジャロルサーグ)。 |
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ドイツ語の表記は ''Republik Ungarn''(レプブリーク・ウンガルン)、通称 '' Ungarn''('''ウンガルン''')。 |
<!-- ドイツ語の表記は ''Republik Ungarn''(レプブリーク・ウンガルン)、通称 '' Ungarn''('''ウンガルン''')。 --> |
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公式の英語表記は ''Republic of Hungary''、通称 ''Hungary''。 |
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日本語の表記は '''ハンガリー共和国'''、通称 '''ハンガリー'''。 |
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自称国名の「マジャル」は、[[ハンガリー人]]の自称民族名[[マジャル人|マジャル]]と同じである。 |
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ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指す''Magyar'' は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、これはおそらく英語の発音に基いた表記である。[http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=magyar&kind=ej goo辞書] |
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ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、''Magyar'' の語は全て短母音なので、ハンガリー語の発音に倣うならば「'''マジャル'''」という表記がもっとも近くなる。 |
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歴史上では、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。 |
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== 歴史 == |
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ハンガリーの国土は[[ハンガリー平原]]と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。 |
ハンガリーの国土は[[ハンガリー平原]]と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。 |
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古代には[[パンノニア]]と呼ばれたこの地域は、[[古代ローマ|ローマ]]の属州イリュリクム、[[ローマ帝国]]の属州パンノニアを経て[[ゲルマン人]]の激しい侵入を受け、[[5世紀]]には[[フン族|フン]]、[[6世紀]]には[[アヴァール]]が東方からやってきて定着した。[[8世紀]]にはアヴァールを倒した[[フランク王国]]の支配下に移るが、[[9世紀]]には東方から新たにやってきた遊牧民[[ |
古代には[[パンノニア]]と呼ばれたこの地域は、[[古代ローマ|ローマ]]の属州イリュリクム、[[ローマ帝国]]の属州パンノニアを経て[[ゲルマン人]]の激しい侵入を受け、[[5世紀]]には[[フン族|フン]]、[[6世紀]]には[[アヴァール]]が東方からやってきて定着した。[[8世紀]]にはアヴァールを倒した[[フランク王国]]の支配下に移るが、[[9世紀]]には東方から新たにやってきた遊牧民[[ハンガリー人]]に征服された。 |
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[[10世紀]]末に即位したハンガリー人の君主[[イシュトヴァーン1世]]は、西暦[[1000年]]に[[キリスト教]]に改宗し、[[西ヨーロッパ]]の[[カトリック]]諸王国の一員である[[ハンガリー王国]]を建国した。ハンガリー王国はやがて[[トランシルヴァニア]]、[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]、[[ダルマチア]]などを広く支配する大国に発展する。[[13世紀]]には[[モンゴル帝国]]軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の[[14世紀]]から[[15世紀]]頃には特に周辺の諸王国とも[[同君連合]]を結んで[[中央ヨーロッパ]]の強国となった。 |
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しかし、15世紀後半から[[オスマン帝国]]の強い圧力を受けるようになり、[[1526年]]に[[モハーチの戦い]]に敗れて国王[[ラヨシュ2世]]が戦死した。[[1541年]]に[[ブダ]]が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1を[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア]]によって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。 |
しかし、15世紀後半から[[オスマン帝国]]の強い圧力を受けるようになり、[[1526年]]に[[モハーチの戦い]]に敗れて国王[[ラヨシュ2世]]が戦死した。[[1541年]]に[[ブダ]]が陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1を[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア]]によって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。 |
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オスマン帝国の軍事的後退とともに[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]において[[コッシュート・ラヨシュ]]が指導した独立運動こそ[[ロシア]]軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、[[1867年]]に[[アウスグライヒ]](和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合する[[オーストリア・ハンガリー帝国]]となった。 |
オスマン帝国の軍事的後退とともに[[1699年]]の[[カルロヴィッツ条約]]でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]において[[コッシュート・ラヨシュ]]が指導した独立運動こそ[[ロシア]]軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、[[1867年]]に[[アウスグライヒ]](和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合する[[オーストリア・ハンガリー帝国]]となった。 |
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オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは[[資本主義]]経済が発展し、[[ナショナリズム]]が高揚したが、[[第一次世界大戦]]で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の[[1920年]]に結ばれた[[トリアノン条約]]によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人 |
オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは[[資本主義]]経済が発展し、[[ナショナリズム]]が高揚したが、[[第一次世界大戦]]で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の[[1920年]]に結ばれた[[トリアノン条約]]によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。 |
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戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[摂政]]として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。[[第二次世界大戦]]では失地回復を目指して[[枢軸国]]側について敗戦、[[ソビエト連邦]]に占領された。 |
戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、[[ホルティ・ミクローシュ]]が[[摂政]]として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。[[第二次世界大戦]]では失地回復を目指して[[枢軸国]]側について敗戦、[[ソビエト連邦]]に占領された。 |
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ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな[[文化]]をもった様々な[[民族]]が居住していることが[[19世紀]]以来よく知られている。 |
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ハンガリー共和国の国民の95%以上は[[ |
ハンガリー共和国の国民の95%以上は[[ハンガリー人]]である。ハンガリー人は[[フィン・ウゴル語族]]の[[ハンガリー語]]を[[母語]]とし、[[ウラル山脈]]の方面から移ってきた[[歴史]]をもつため、[[日本]]には「[[アジア]]系民族」と紹介されることもある。その文法構造のため、ハンガリー国民の人名は正式に表記した際に[[姓]]が名の前につく、[[ヨーロッパ]]で唯一の国民である。 |
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ハンガリー人は旧[[ハンガリー王国]]領に広まって居住していたため、[[セルビア・モンテネグロ]]の[[ヴォイヴォディナ]]、[[クロアチア]]北部、[[スロバキア]]南部、[[ルーマニア]]の[[トランシルヴァニア]]などにもかなりのハンガリー人[[人口]]が残る。また、ハンガリー人の中には[[モルダヴィア]]の[[チャーンゴー]]、トランシルヴァニアの[[セーケイ人|セーケイ]]や、ハンガリー共和国領内の[[ヤース]]、[[マチョー]]、[[クマン人|クン]]、[[パローツ]]などの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人が[[アラン人]]の末裔、クン人が[[クマン人]]の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。 |
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その他の民族では、[[ロマ]](ジプシー)と[[ドイツ人]]がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は[[東方植民地運動]]の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、[[トランシルヴァニア]]のサース人([[ザクセン人]])や[[スロヴァキア]]の[[ツィプス・ドイツ人]]のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。 |
その他の民族では、[[ロマ]](ジプシー)と[[ドイツ人]]がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は[[東方植民地運動]]の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、[[トランシルヴァニア]]のサース人([[ザクセン人]])や[[スロヴァキア]]の[[ツィプス・ドイツ人]]のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。 |
2006年3月21日 (火) 01:58時点における版
ハンガリー共和国(―きょうわこく)、通称ハンガリーは、東ヨーロッパの国。オーストリア、スロバキア、ウクライナ、ルーマニア、セルビア・モンテネグロ、クロアチア、スロベニアに囲まれた内陸国で、ドナウ川などのヨーロッパの有名な川が通っている。
- ハンガリー共和国
- Magyar Köztársaság
-
ハンガリーの国章 (国旗) (国章) - 国の標語:なし
- 国歌:神よハンガリーを祝福し賜え
-
公用語 ハンガリー語 首都 ブダペスト 最大の都市 ブダペスト 独立
- 日付オーストリア・ハンガリー帝国から
1918年10月31日通貨 フォリント(HUF) 時間帯 UTC+1 (DST:+2) ISO 3166-1 不明 ccTLD HU 国際電話番号 36
国名
正式名称はハンガリー語で Magyar Köztársaság(マジャル・ケスタールシャシャーグ)。通称 Magyarország(マジャロルサーグ)。
公式の英語表記は Republic of Hungary、通称 Hungary。
日本語の表記は ハンガリー共和国、通称 ハンガリー。
ハンガリー語において、ハンガリー人もしくはハンガリーを指すMagyar は日本では「マジャール」と表記されることが多いが、これはおそらく英語の発音に基いた表記である。goo辞書
ハンガリー語は母音の長短をはっきり区別する特性をもち、Magyar の語は全て短母音なので、ハンガリー語の発音に倣うならば「マジャル」という表記がもっとも近くなる。
歴史上では、ハンガリー王国は多民族国家であり、今日のハンガリー人のみで構成されていたわけではなかった。そのため、その他の民族とハンガリー民族を特に区別する際に「マジャル人」という表現が用いられることがある。
国際的に用いられる、「ハンガリー」「ウンガルン」と言った呼称は、ラテン語で「フン人のガリア」を意味したという説と、ハンガリー人の故地であるウラル山脈方面で活動しハンガリー人にも文化的影響を与えた遊牧民オノグルの名が訛ったという説があり、後者の説が有力視されている。文献によっては、前者の説を誤りと断定している。
歴史
詳細はハンガリーの歴史を参照
ハンガリーの国土はハンガリー平原と言われる広大な平原を中心としており、古来より様々な民族が侵入し、定着してきた。
古代にはパンノニアと呼ばれたこの地域は、ローマの属州イリュリクム、ローマ帝国の属州パンノニアを経てゲルマン人の激しい侵入を受け、5世紀にはフン、6世紀にはアヴァールが東方からやってきて定着した。8世紀にはアヴァールを倒したフランク王国の支配下に移るが、9世紀には東方から新たにやってきた遊牧民ハンガリー人に征服された。
10世紀末に即位したハンガリー人の君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、西ヨーロッパのカトリック諸王国の一員であるハンガリー王国を建国した。ハンガリー王国はやがてトランシルヴァニア、ヴォイヴォディナ、クロアチア、ダルマチアなどを広く支配する大国に発展する。13世紀にはモンゴル帝国軍の襲来を受け大きな被害を受けたが、その後の14世紀から15世紀頃には特に周辺の諸王国とも同君連合を結んで中央ヨーロッパの強国となった。
しかし、15世紀後半からオスマン帝国の強い圧力を受けるようになり、1526年にモハーチの戦いに敗れて国王ラヨシュ2世が戦死した。1541年にブダが陥落し、その結果、東南部と中部の3分の2をオスマン帝国、北西部の3分の1をハプスブルク家のオーストリアによって分割支配され、両帝国のぶつかりあう最前線となった。
オスマン帝国の軍事的後退とともに1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーおよびハンガリー王国領のクロアチアやトランシルヴァニアはオーストリアに割譲されたが、ハンガリーにとっては支配者がハプスブルク家に変わっただけであり、たびたび独立を求める運動が繰り返された。1848年の3月革命においてコッシュート・ラヨシュが指導した独立運動こそロシア軍の介入により失敗したが、オーストリア側は民族独立運動を抑えるためにハンガリー人との妥協を決断し、1867年にアウスグライヒ(和協)が結ばれた。これによりハプスブルク家がオーストリア帝国とハンガリー王国で二重君主として君臨し、両国は外交などを除いて別々の政府を持って連合するオーストリア・ハンガリー帝国となった。
オーストリア・ハンガリーのもとハンガリーでは資本主義経済が発展し、ナショナリズムが高揚したが、第一次世界大戦で敗戦国となり、オーストリアと分離された。戦後の1920年に結ばれたトリアノン条約によりハンガリーはトランシルヴァニアなど二重帝国時代の王国領のうちの面積で72%、人口で64%を失い、ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残された。
戦間期のハンガリー王国では、ハプスブルク家に代わる国王が選出されないまま、ホルティ・ミクローシュが摂政として君臨したが、領土を失った反動から次第に右傾化した。第二次世界大戦では失地回復を目指して枢軸国側について敗戦、ソビエト連邦に占領された。
戦後のハンガリーはソ連の影響下のもと共産主義国ハンガリー人民共和国として再出発し、冷戦体制の中で東側の共産圏に属した。しかしソ連に対する反発も根強く、1956年にはハンガリー動乱が起こるが、ソ連に鎮圧されてしまった。
1980年代末になると冷戦終結の機運とともに共産党(社会主義者労働党)独裁の限界が明らかとなり、1989年にハンガリーは一党独裁を放棄して平和裏に体制を転換、憲法を改正して国名をハンガリー共和国とし、ハンガリーの民主化が進められた。同年5月、ハンガリーは西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網「鉄のカーテン」を撤去し、国境を開放した。これによりハンガリー国内に西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリー国内に殺到、汎ヨーロッパ・ピクニックを引き起こし、冷戦を終結させる大きな引き金となった。
1990年代のハンガリーはヨーロッパ社会の復帰を目指して改革開放を進め、1999年に北大西洋条約機構(NATO)、2004年に欧州連合(EU)に加盟した。
政治
ハンガリーは議院内閣制を取り、大統領は任期5年で議会によって選ばれるが、首相を任命するなど、儀礼的な職務を遂行するのみの象徴的な元首である。実権は首相にあり、自ら閣僚を選んで行政を行う。
立法府の議会(Országgyűlés)は一院制、民選で、任期は4年、定員は386人である。議会は国家の最高権威機関であり、全ての法は議会の承認を経なければ成立しない。
地方行政区分
ハンガリーは40の地方行政区分に区分される。うち19は郡とも県とも訳されるメジェ(megye)で、20はメジェと同格の市という行政単位(正確には都市郡; megyei város)で、のこりのひとつは首都(főváros)のブダペシュト(ブダペストのハンガリー語による発音)である。
- ヴァシュ県 (ソンバトヘイ)
- ヴェスプレーム県 (ヴェスプレーム)
- コマーロム・エステルゴム県 (タタバーニャ)
- サボルチ・サトマール・ベレグ県 (ニーレジハーザ)
- ザラ県 (ザラエゲルセグ)
- ジェール・モション・ショプロン県 (ジェール)
- ショモジ県 (カポシュヴァール)
- チョングラード県 (セゲド)
- トルナ県 (セクサールド)
- ノーグラード県 (シャルゴータールヤーン)
- ハイドゥー・ビハル県(デブレツェン)
- バーチ・キシュクン県(ケチケメート)
- バラニャ県(ぺーチ)
- フェイェール県(セーケシュフェヘールヴァール)
- ベーケーシュ県(ベーケーシュチャバ)
- ヘヴェシュ県(エゲル)
- ペシュト県(ブダペシュト)
- ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県(ミシュコルツ)
- ヤース・ナチクン・ソルノク県(ソルノク)
旧ハンガリー王国の領土(大ハンガリー)に含まれた地域については、ハンガリー王国の歴史的地域を参照。
地理
ハンガリーの国土はカルパティア山脈の麓に広がるカルパート盆地のうちの平野部をなす。ハンガリー平原と呼ばれる国土の中心部は中央を流れるドナウ川によってほぼ二分され、ティサ川などの大きな支流も流れている。国土の西部にはヨーロッパでも有数の大湖であるバラトン湖がある。トランシルヴァニア地方などのルーマニアとの国境係争地帯を持っている。
大陸性気候に属する気候は比較的穏やかで四季もあるが、緯度は比較的高く冬は冷え込む。地中海からの海洋性気候の影響を受け冬も湿潤で、曇りがちである。年間平均気温は10度前後。
経済
ハンガリーは1989年の体制転換以来、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めた。その結果、1997年以降年間4%以上の高成長を続けるとともに、2004年には経済の民間部門が国内総生産(GDP)の80%以上を占め、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほどである。2004年のEU加盟は、好調なハンガリー経済にとって追い風である。
しかしその一方でインフレーションと失業率が増加して貧富の差が広がり、社会問題となっている。
伝統的な産業ではアルコールが強い。特にワインはブルゲンラント、ショプロン、ヴィッラーニなど有名な産地を抱えて有名で、中でもトカイのトカイワインはワインの王と言われる。農業ではパプリカが名産品で、ハンガリー料理にもふんだんに使われる。ガチョウの飼育も盛んで、ハンガリー産のフォアグラはよく輸出されている。
ハンガリーの歴史的通貨単位;
国民
ハンガリーとその周辺は、独特の豊かな文化をもった様々な民族が居住していることが19世紀以来よく知られている。
ハンガリー共和国の国民の95%以上はハンガリー人である。ハンガリー人はフィン・ウゴル語族のハンガリー語を母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた歴史をもつため、日本には「アジア系民族」と紹介されることもある。その文法構造のため、ハンガリー国民の人名は正式に表記した際に姓が名の前につく、ヨーロッパで唯一の国民である。
ハンガリー人は旧ハンガリー王国領に広まって居住していたため、セルビア・モンテネグロのヴォイヴォディナ、クロアチア北部、スロバキア南部、ルーマニアのトランシルヴァニアなどにもかなりのハンガリー人人口が残る。また、ハンガリー人の中にはモルダヴィアのチャーンゴー、トランシルヴァニアのセーケイや、ハンガリー共和国領内のヤース、マチョー、クン、パローツなどの個性的な文化をもつサブ・グループが知られるが、ヤース人がアラン人の末裔、クン人がクマン人の末裔であることが知られるように、これらは様々な出自をもち、ハンガリー王国に移住してハンガリーに部分的に同化されていった人々である。
その他の民族では、ロマ(ジプシー)とドイツ人がある程度の数が知られる。ハンガリーのロマは個性的な民族文化で知られる。また、ドイツ人は東方植民地運動の一環としてハンガリー王国に移り住んできた人々の子孫で、トランシルヴァニアのサース人(ザクセン人)やスロヴァキアのツィプス・ドイツ人のようにハンガリー王国の中で独自の民族共同体を築いた人々もいる。
その他の民族では、ルテニア人(ウクライナ人)、チェコ人、クロアチア人、ルーマニア人などもいるが、いずれもごく少数である。第二次世界大戦以前には、ユダヤ人人口もかなりの数にのぼったが、アメリカ合衆国やイスラエルに移住していった人が多い。
言語的には、ハンガリー語が優勢で、少数民族のほとんどもハンガリー語を話し、ハンガリー語人口は98%にのぼる。
宗教はカトリック(67.5%)が多数を占め、カルヴァン派もかなりの数にのぼる(20%)。その他ルター派(5%)やユダヤ教(0.2%)も少数ながら存在する。
文化
ハンガリーは多様な民族性に支えられた豊かな文化で有名で、特にハンガリー人の地域ごとの各民族集団、ジプシー、ユダヤ人、ドイツ人などを担い手とする民族音楽は有名である(詳細はハンガリーの音楽を参照)。
また、リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)、コダーイ・ゾルターン、バルトーク・ベーラ(ベラ・バルトーク)など多数の著名なクラシック音楽の作曲家も輩出した。彼らの中には多様な民族音楽にインスピレーションを受けて作曲を行った音楽家も多い。
また、ハンガリー国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件ある。さらにオーストリアとにまたがって1件の文化遺産が、スロバキアとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。詳細は、ハンガリーの世界遺産を参照。
関連項目
外部リンク
公式
- ハンガリー政府公式サイト (ハンガリー語、英語、ドイツ語)
- ハンガリー大統領府公式サイト(ハンガリー語、英語)
その他
- Once upon a time in Hungary
- The coexistence of cultures(大ハンガリー、多文化の共存の写真ギャラリー)
- 踊り部
- Robert's Creations(by Robert Szlizs) - MIDI作品など。
- In the Land of Hagar - Beth haTphutzoth Museum
- DAS TAUSENDJÄHRIGE UNGARN UND DIE MILLENIUMS-AUSSTELLUNG(ドイツ語)
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