ショプロン
ショプロン Sopron | |||||
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位置 | |||||
ショプロンの位置 | |||||
位置 | |||||
座標 : 北緯47度41分 東経16度36分 / 北緯47.683度 東経16.600度 | |||||
行政 | |||||
国 | ハンガリー | ||||
県 | ジェール・モション・ショプロン県 | ||||
市 | ショプロン | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 169.06 km2 | ||||
人口 | |||||
人口 | (2022年現在) | ||||
市域 | 61,233人 | ||||
人口密度 | 362人/km2 | ||||
備考 | [1] | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) | ||||
夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) | ||||
公式ウェブサイト : http://www.sopron.hu/ |
ショプロン(ハンガリー語: Sopron, ドイツ語: Ödenburg, ラテン語: Scarbantia)は、ハンガリーのジェール・モション・ショプロン県にある町。ハンガリーの北西端に位置し、オーストリア領ブルゲンラント州に接している。ドイツ語名はエーデンブルク。ハンガリー王国時代はショプロン県の県都。町の東に中欧で2番目に大きいステップ湖[2]であるノイジードル湖が位置する。
歴史
[編集]古代・中世
[編集]ローマ帝国時代にはすでに町が存在しており、スカルバンティア Scarbantia という名称であった。ローマ帝国時代の広場は、現在の市中心部の広場へと継承されている。民族移動時代には一時、廃墟となったと考えられている。ハンガリー領となり、9世紀から11世紀にかけてローマ帝国時代の城壁を修復し、シュプルン(Suprun)の名称であった。
1273年にボヘミア王・オタカル2世が町を支配し町の子供たちを人質として連行していったが、ハンガリーのラースロー4世が到着したとき、町はハンガリーに忠誠を誓いハンガリー軍を受け入れた。
16世紀にハンガリーの大部分はオスマン帝国領となったが、町はオスマン帝国領とはならなかった。そのため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大した。1676年に町は大火に見舞われたが、その後復興に際してはバロック様式建造物が多く建造された。
近世以降
[編集]近世ではオーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国領であったが、第一次世界大戦後のサン=ジェルマン条約およびトリアノン条約により、町の帰属は住民投票で決められることとなった。1921年12月14日に行われた住民投票において65%がハンガリーに投票した。これによりハンガリー領となり投票日の12月14日は町の記念日となった。なお、この住民投票の対象となった地域は、ショプロン周辺を除いて新生オーストリア共和国への帰属を選択したため、同地域はハンガリーから飛び抜けてオーストリアに食い込むような形となった。
第二次世界大戦中は収容所が町に設置されている。1945年4月1日にはソ連赤軍の侵攻を受けた。冷戦中は東西陣営の境界の町であった。1989年には冷戦終結の一つのきっかけとなる汎ヨーロッパ・ピクニックがこの町で起きた。200名以上の東ドイツ市民がここより西側へ亡命した。
現在のショプロンはワインの生産地として栄えている。古い町並みが残ることから多くの観光客も受け入れている。また、16世紀以来のユダヤ人コミュニティがあったために、旧市街には古いシナゴーグなどが残されている。
ピクニック大会
[編集]1989年8月、旧東ドイツ国民が『ピクニック』と称して隣国のオーストリアに大量越境した。当時東ドイツから同じ東側陣営のハンガリーへの旅行は許されていた。旧西ドイツ国民は、チェコスロバキアを経由してハンガリーとオーストリアとの国境であるショプロンに東ドイツ市民を集めて、中立国オーストリア経由で西ドイツへ脱出させた。一部人々は切断した鉄条網を持って越境した。
ピクニックを装った亡命に手を焼いた東ドイツは、市民たちの不満を和らげるため、その後西ドイツへの旅行を認めることになった。11月9日、東ドイツ当局の記者会見で、西側への旅行は認めるが許可が必要と発表。それを西ドイツのテレビ局が東側が国境を開放したと伝え、その情報が一気に流された。東ベルリン市民は西側のテレビを見ていたからである。そして騒ぎが始まった。
テレビを見て真に受けた東ベルリン市民が、東西ベルリンの検問所に続々と集結し始めた。警備兵は何も知らされていないので止めようが無く、群衆事故を防ぐ為なし崩し的にゲートを解放した。これを受けて東ベルリン市民は西ベルリンになだれ込み、ベルリンの壁は崩壊した。東西冷戦終結上、特記される都市である。
区
[編集]- バルフ Balf/Wolfs (998人) - 南東端。フェルテー湖を抱え、隣町のフェルテーラーコシュから入れるハーバーがある
- バルフフュルデー Balffürdő/Wolfsbad
- ブレンベルクバーニャ Brennbergbánya/Brennberg (604人) - 西部の鉱山
- エルデイイシュコラ Erdeiiskola (141人) - 西隣
- ゲルベハロム Görbehalom/Bodenriegel (204人) - 西部
- オーヘルメシュ Óhermes (26人) - 西端
- オーヘルメシュアクナ Óhermesakna
- ウーイヘルメシュ Újhermes
- ショプロンケーヒダ Sopronkőhida/Stein am Brückl (1312人) - 北端
- トーマロム Tómalom/Teichmühle (467人) - 北部
- ウーイヘルメシュ Újhermes (118人)
建築物
[編集]有名な出身者、ゆかりの人物
[編集]- シュティングル・ヴィンツェ・フェレンツ Stingl Vince Ferenc - ヘレンド創業者。ショプロン出身
- トート・ミハーイ Mihály Tóth - サッカー選手
- ベネデク・ラヨシュ - 軍人
- ルートヴィヒ・フォン・ベネデク Ludwig von Benedek - 軍人
- マチェイ・カミェンスキ Maciej Kamieński - ポーランド人の作曲家
- マーレル・マルギット - 心理学者
- フランツ・リスト - ピアニスト、作曲家
- オットー・フェルディナンド・フォン・トラウン - 貴族
姉妹都市
[編集]脚注
[編集]- ^ “Detailed Gazetteer of Hungary”. 2024年6月8日閲覧。
- ^ Lake Neusiedl: monitoring water quality with satellite imagery - eurisy
外部リンク
[編集]- 公式サイト
- Sopron Chat
- Sopron nyitólapja
- West-Hungarian University (University of Sopron)
- CyberPress - An informative magazine about Sopron's public life
- ImageTownsIndex - Virtual Tour of Sopron
- Link collection