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「甑島列島」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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[[File:Koshikishima Islands.png|thumb|300px|甑島列島地形図]]
'''甑島列島'''(こしきしまれっとう<ref name="nnp2014924">{{Cite news|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/kagoshima/article/115964|title=甑島は「こしきしま」 薩摩川内市が読み方変更 従来は「じま」、島民反発も|newspaper =[[西日本新聞]]|date=2014-9-24|accessdate=2014-9-24|archiveurl=https://archive.is/uFMOd|archivedate=2014-9-24}}</ref>)は、[[東シナ海]]にある[[列島]]。[[鹿児島県]][[薩摩川内市]]に属する。'''甑列島'''(こしきれっとう)ともいう。'''[[上甑島]]'''(かみこしきしま)、'''[[中甑島]]'''(なかこしきしま)、'''[[下甑島]]'''(しもこしきしま)の順で北東から南西に連なる有人島3島と多数の小規模な無人島からなる<ref name="nnp2014924"/><ref name="鹿の子百合の咲く島">三浦尚子「鹿の子百合の咲く島 : 里町における鹿の子百合栽培の変遷資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、54-58頁</ref>。中甑島北部にある「[[甑]]」([[蒸籠]])の形をした大岩を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては「古敷島」「小敷島」「子敷島」「古志岐島」などとも書いた<ref name="島嶼大事典221頁">日外アソシエーツ (1991)、221頁</ref><ref name="日本の島事典172頁">菅田編 (1995)、172頁</ref><ref name="どんな島">[http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1186033725484/index.html 甑島ってどんな島?] 薩摩川内市 2020年9月10日閲覧</ref><ref>[https://www.koshikisho.co.jp/application/files/6915/4942/8589/2019.4-9_.pdf こしき島] こしきツアーズ、2021年5月5日閲覧。</ref>。列島全体では人口5,576人、面積117.56&nbsp;[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]、海岸線延長183.3&nbsp;[[キロメートル|km]]である<ref name="離島統計年報2011">『離島統計年報 2011年版』日本離島センター(CD-ROM)</ref>。


従来、「こしき'''じ'''ま」という呼称であったが、薩摩川内市は[[国土地理院]]に変更を申請し、2014年8月に「こしき'''し'''ま」に呼称が変更された<ref name="nnp2014924"/>([[#名称]]参照)。
'''甑島列島'''(こしきじまれっとう)は、[[東シナ海]]にあり、[[鹿児島県]][[薩摩川内市]]に属する[[列島]]。'''甑列島'''(こしきれっとう)ともいう。'''[[上甑島]]'''(かみこしきじま)、'''中甑島'''(なかこしきじま)、'''[[下甑島]]'''(しもこしきじま)の有人島3島と多数の小規模な無人島からなる<ref name="鹿の子百合の咲く島">三浦 (2007)</ref>。中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした巨石を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては子敷島、古志岐島とも書いた<ref name="島嶼大事典221頁">日外アソシエーツ (1991)、221頁</ref><ref name="日本の島事典172頁">菅田正昭編(1995)、172頁</ref>。列島全体では人口5,576人、面積117.56km<sup>2</sup>、海岸線延長183.3kmである<ref name="離島統計年報2011">日本離島センター (2011)</ref>。

== 名称 ==
地名の由来は、海岸にある[[甑]](底に穴の開いた取手付きの食物を蒸すための土器)形の岩を御神体に甑島大明神として祭ったことからであるという。[[平安時代]]中期の文献である『[[和名抄]]』には「古之木之万(こしきしま)」と表記してある<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/pr/gaiyou/rekishi/bunka/yurai.html|title=地名の由来|publisher=鹿児島県|accessdate=2017-01-27}}</ref>。

「甑島」は従来「こしき'''じ'''ま」と呼称され<ref name="nnp2014924"/>、[[椋鳩十]]の児童文学「孤島の野犬」でも下甑島を「じま」と読ませている<ref name="nnp2014924"/>。また、教科書や地図でも従来「こしきじま」とルビ表記されていた<ref name="nnp2014924"/>。しかし、読みが混在しているとして平安時代の文献や、合併前の旧村の郷土誌を調査し、その結果に基づき2014年4月に薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしき'''し'''ま」に呼称が変更された<ref name="nnp2014924"/>。薩摩川内市では市民へ強制はしないとしているが、島民からの反発も報道されている<ref name="nnp2014924"/>。


== 地理 ==
== 地理 ==
[[ファイル:Koshikijima Map ja.png|thumb|220px|甑島列島の大字]]
[[File:Koshikishima Oaza Map ja.svg|thumb|220px|甑島列島の[[大字]]<br />(里地域:{{Color|#A3B3F4|■}}、上甑地域:{{Color|#CED7FC|■}}、鹿島地域:{{Color|#5BD6D6|■}}、下甑地域:{{Color|#28A3A3|■}})]]


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{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
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|-
! colspan=5| 各島の大字
! colspan=5| 各島の[[大字]]
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! !! [[里村 (鹿児島県)|里地域]] !! [[上甑村|上甑地域]] !! [[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島地域]] !! [[下甑村|下甑地域]]
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! [[上甑島]]
! [[上甑島]]
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甑島列島は[[鹿児島県]][[いちき串木野市]]の沖合約45kmにあり、列島全体の長さは38km、幅は10kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた<ref name=" UターンとIターン資料">高橋 (2007)</ref>。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、[[リアス式海岸]]と起伏に富んだ地形がある<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。北東から南西にかけて[[上甑島]]、中甑島、[[下甑島]]の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある<ref group="注">1964年発行の『離島の人文地理』では平良島と表記している。</ref><ref name="過疎化の進行と近年の変化">浮田 (1993)</ref><ref name="京都園芸">菊池立身「甑島の自然 -園芸植物と山草・野草」『京都園芸 第84集』京都園芸倶楽部、1989年、69-72頁</ref><ref name="日本の島事典173頁">菅田正昭編(1995)、173頁</ref>。面積は上甑島が44.14km<sup>2</sup>、中甑島が7.31km<sup>2</sup>、下甑島が66.12km<sup>2</sup>であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である<ref name="甑島地域離島振興計画">[http://www.pref.kagoshima.jp/ac07/documents/33648_20130816104500-1.pdf 甑島地域離島振興計画]鹿児島県</ref>。鹿児島県の離島の面積は[[奄美大島]]、[[屋久島]]、[[種子島]]、[[徳之島]]、[[沖永良部島]]、[[長島 (鹿児島県)|長島]]、[[加計呂麻島]]、下甑島、[[喜界島]]、上甑島の順となり、下甑島の面積は[[山手線]]の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423mの遠目木山<ref name="島嶼大事典161頁">日外アソシエーツ (1991)、161頁</ref>、中甑島が294mの木の口山<ref name="島嶼大事典361頁">日外アソシエーツ (1991)、361頁</ref>、下甑島が604mの尾岳<ref name="島嶼大事典268頁">日外アソシエーツ (1991)、268頁</ref>であり、尾岳の尾根には[[航空自衛隊]]の[[下甑島分屯基地]]がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に[[大陸間弾道ミサイル|大陸間弾道弾]]も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー([[J/FPS-5]])への更新工事が完了した。
甑島列島は[[いちき串木野市]]の沖合約45&nbsp;kmにあり、列島全体の長さは38&nbsp;km、幅は10&nbsp;kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた<ref name=" UターンとIターン資料">高橋さつき「『離島』里のUターンとIターン資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、59-62頁</ref>。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、[[リアス式海岸]]と起伏に富んだ地形がある<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。北東から南西にかけて[[上甑島]]、中甑島、[[下甑島]]の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある<ref group="注">1964年発行の『離島の人文地理』では平良島と表記している。</ref><ref name="過疎化の進行と近年の変化">浮田典良「鹿児島県甑島における過疎化の進行と近年の変化」『関西学院大学 人文論究』43巻3号、1993年、59-71頁</ref><ref name="京都園芸">菊池立身「甑島の自然 -園芸植物と山草・野草」『京都園芸 第84集』京都園芸倶楽部、1989年、69-72頁</ref><ref name="日本の島事典173頁">菅田編(1995)、173頁</ref>。面積は上甑島が44.14&nbsp;km<sup>2</sup>、中甑島が7.31&nbsp;km<sup>2</sup>、下甑島が66.12&nbsp;km<sup>2</sup>であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である<ref name="甑島地域離島振興計画">[http://www.pref.kagoshima.jp/ac07/documents/33648_20130816104500-1.pdf 甑島地域離島振興計画] 鹿児島県{{リンク切れ|date=2020-9}}</ref>。鹿児島県の離島の面積は[[奄美大島]]、[[屋久島]]、[[種子島]]、[[徳之島]]、[[沖永良部島]]、[[長島 (鹿児島県)|長島]]、[[加計呂麻島]]、下甑島、[[喜界島]]、上甑島の順となり、下甑島の面積は[[山手線]]の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423&nbsp;[[メートル|m]]の遠目木山<ref name="島嶼大事典161頁">日外アソシエーツ (1991)、161頁</ref>、中甑島が294&nbsp;mの木の口山<ref name="島嶼大事典361頁">日外アソシエーツ (1991)、361頁</ref>、下甑島が604&nbsp;mの尾岳<ref name="島嶼大事典268頁">日外アソシエーツ (1991)、268頁</ref>であり、尾岳の尾根には[[航空自衛隊]]の[[下甑島分屯基地]]がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に[[大陸間弾道ミサイル|大陸間弾道弾]]も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー([[J/FPS-5]])への更新工事が完了した。


甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない<ref name="離島の人文地理10頁">藤岡 (1964) 10頁</ref>。[[上甑島]]と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、[[下甑島]]は400-500m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の[[陸繋砂州]](トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだ[[リアス式海岸]]の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。甑島列島の平均気温は18.5度と温暖であり、本土の同緯度地域(阿久根市)よりもやや気温が高い<ref name="離島の人文地理6-7頁">藤岡 (1964) 6-7頁</ref>。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け<ref name="甑島地域離島振興計画"/>、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい<ref name="離島の人文地理6-7頁"/>。降水量は年2,500mmほどであり、本土(鹿児島市)よりもやや多い<ref name="離島の人文地理6-7頁"/>
甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない<ref name="離島の人文地理10頁">藤岡 (1964) 10頁</ref>。[[上甑島]]と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、[[下甑島]]は400 - 500&nbsp;m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の[[陸繋砂州]](トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだ[[リアス式海岸]]の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。


=== おもな島 ===
=== おもな島 ===
[[File:Napoleon rock.JPG|thumb|[[ナポレオン岩]]]]
; 有人島
; 有人島
* [[上甑島]](かみこしきま)
* [[上甑島]](かみこしきま)
* 中甑島(なかこしきま)
* 中甑島(なかこしきま)
* [[下甑島]](しもこしきま)
* [[下甑島]](しもこしきま)


; 無人島
; 無人島
* 筒島 (かせとう)
* 野島
* 野島
* 犬島
* 近島
* 近島
* 双子島
* 双子島
* 沖の島
* 沖の島
* 筒島 (かせとう)
* 松島
* 弁慶島
* 弁慶島
* 由良島

上甑島北東部、遠見山の東部に野島、近島、双子島、沖の島、筒島、松島が固まっており、中甑島の南に弁慶島がある。下甑島の地峡部西側に由良島があり、下甑島西岸には松島や[[ナポレオン岩]](チュウ瀬)などもある。

=== 気候 ===
甑島列島<ref group="注">甑島列島には上甑島の中甑に気象庁の地域気象観測所がある。</ref>の年平均気温は18.4度と温暖であり、東京(15.8度)や大阪(17.1度)を1.3-2.6度上回っている。川内など本土の同緯度地域に比べても1度ほど高く、夏期の平均気温に大きな差はないが、冬期の平均気温には顕著な差がある。年降水量は2,430&nbsp;[[ミリメートル|mm]]であり、本土の同緯度地域や鹿児島市とほぼ等しく、東京(1,598&nbsp;mm)や大阪(1,338&nbsp;mm)の1.5-1.8倍の降水がある。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け<ref name="甑島地域離島振興計画"/>、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい<ref name="離島の人文地理6-7頁">藤岡 (1964) 6-7頁</ref>。

{{Weather box
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|Jan record high C = 22.0
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|source 1 = 気象庁<ref>[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_amd_ym.php?prec_no=88&block_no=0879&year=&month=&day=&view= 中甑 平年値(年・月ごとの値)] 気象庁</ref>
|date=1991年-2020年
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|Feb precipitation days=10.3
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|source 1=[https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php Japan Meteorological Agency ]|source 2=[[気象庁]]<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php?prec_no=88&block_no=0880&year=&month=&day=&view= |title=川内 過去の気象データ検索 |accessdate=2024-03-25 |publisher=気象庁}}</ref>}}


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 古代・中世 ===
=== 古代・中世 ===
2008年(平成20年)、[[下甑島]]の[[鹿町藺牟田]](いむた)ある[[中生代]][[白亜紀]]後期の地層から恐竜の歯や肋骨の化石が発見された<ref name="甑島振興だよりNo.12">「甑島振興だよりNo.12」薩摩川内市2010年3月</ref>。詳細分類は不明だが、3m以上の[[肉食恐竜]]のものみられており、恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてである。藺牟田にある地層からは[[翼竜]]や[[ワニ]]など爬虫類の化石も発見されている<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。[[上甑島]]の[[里町里|里]]遺跡は、[[縄文土器]]が出土した甑島列島唯一の縄文式遺跡である<ref name="離島の人文地理55頁">藤岡 (1964) 55頁</ref>。上甑島の里遺跡、[[上甑町江石|江石]]遺跡、[[上甑町桑之浦|桑之浦]]遺跡、下甑島の[[下甑町手打|手打]]遺跡、[[下甑町片野浦|片野浦]]遺跡は弥生式遺跡であり、[[弥生土器]]、[[土師器]]、[[須恵器]]などが出土している<ref name="離島の人文地理55頁"/>。
甑島島には、約8000万年前の[[白亜紀]]の地層が残っている。日本国内では初めて[[ケラトプス類]]の化石が発見され、アジア全域でも貴重発見れている。恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてであり、藺牟田にある地層からは[[翼竜]]や[[ワニ]]など爬虫類の化石も発見されている<ref name="甑島振興だよりNo.12">「甑島振興だよりNo.12」薩摩川内市、2010年3月</ref>。[[上甑島]]の[[里町里|里]]遺跡は、甑島列島唯一の[[縄文土器]]が出土した遺跡である<ref name="離島の人文地理55頁">藤岡 (1964) 55頁</ref>。上甑島の里遺跡、[[上甑町江石|江石]]遺跡、[[上甑町桑之浦|桑之浦]]遺跡、下甑島の[[下甑町手打|手打]]遺跡、[[下甑町片野浦|片野浦]]遺跡からは[[弥生土器]]、[[土師器]]、[[須恵器]]などが出土している<ref name="離島の人文地理55頁"/>。


上甑島の桑之浦には[[神功皇后]]の[[三韓征伐]]に関する伝説が残る<ref name="離島の人文地理3頁">藤岡 (1964) 3頁</ref>。[[奈良時代]]には薩摩[[隼人]]族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される<ref name="の人文地理3頁"/><ref name="島嶼大事典221頁"/>。[[平安時代]]初期に編纂された『[[続日本紀]]』には[[遣唐使]]船が甑島に停泊したことが記され中期に編纂された『[[和名抄]]』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する<ref name="離島の人文地理3頁"/>。甑島列島の各地に[[平家の落人]]伝説が残っている<ref name="離島の人文地理3頁"/>。[[鎌倉時代]]中期から370年間、13代に渡って[[小川#日本の氏族|小川氏]]が統治を行ない<ref name="甑島の内侍舞とその周辺">吉川 (2009)、79-93頁</ref><ref name="島嶼大事典161頁"/>、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された<ref name="離島の人文地理3頁"/>。里には[[承久の乱]]で功績を挙げた[[小川季直]]が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の[[日置郡]]田布施(現[[南さつま市]])に移封されて甑島の統治から離れた<ref name="日本の島事典172-173頁">菅田正昭編(1995)、172-173頁</ref>。
上甑島の桑之浦には[[神功皇后]]の[[三韓征伐]]に関する伝説が残る<ref name="離島の人文地理3頁">藤岡 (1964) 3頁</ref>。[[奈良時代]]には薩摩[[隼人]]族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される<ref name="島嶼大事典221頁"/><ref name="の人文地理3頁"/>。[[平安時代]]初期に編纂された『[[続日本紀]]』が「甑島」という名の初出であり<ref name="どんな島"/>、[[遣唐使]]船が甑島に停泊したことが記された<ref name="離島の人文地理3頁"/>。平安中期に編纂された『[[和名抄]]』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する<ref name="離島の人文地理3頁"/>。甑島列島の各地に[[平家の落人]]伝説が残っている<ref name="離島の人文地理3頁"/>。[[鎌倉時代]]中期、[[承久の乱]]の軍功により[[日奉氏]]の子孫・[[小川秀能]]が甑島を賜り、その子である[[小川秀直]]が下向し島を統治する。以後370年間、13代に渡って[[小川#人物名|小川氏]]が統治を行ない<ref name="島嶼大事典161頁"/><ref name="甑島の内侍舞とその周辺">松原武実「甑島の内侍舞とその周辺」 吉川周平『京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告 民俗芸能における神楽の諸相』京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター、2009、79-93頁</ref>、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された<ref name="離島の人文地理3頁"/>。里には[[承久の乱]]で功績を挙げた小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の[[日置郡]]田布施(現[[南さつま市]])に移封されて甑島の統治から離れた<ref name="日本の島事典172-173頁">菅田編 (1995)、172-173頁</ref>。


=== 近世・近代 ===
=== 近世・近代 ===
[[江戸時代]]には[[島津藩]]の直轄地となって[[地頭]](領主)が派遣され里・[[上甑町中甑|中甑]]・手打に地頭仮屋が置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ<ref name="日本の島100 178-179頁">山と渓谷社 (2006)、178-179頁</ref>、薩摩藩の[[南蛮貿易]]の中継基地にもなった<ref name="日本島図鑑306頁">加藤 (2013)、306頁</ref>。甑島列島は[[天草]]や[[長崎]]と同じく[[キリシタン]]文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた[[島原の乱]]の残党35人が処刑されて殉教した<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。1780年代の[[天明の大飢饉]]の際には、下甑島の百姓が出水(現在の[[出水市]])に、郷士が串良(現在の[[肝属郡]][[串良町]])に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁">菅田正昭編(1995)、173-174頁</ref>。江戸時代には薩摩藩が[[浄土真宗]]を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1871年(明治4年)には[[鹿児島県]]に所属<ref name="日本の島事典172頁"/>。1889年(明治22年)に[[町村制]]が施行されると、上甑島7村と中甑島1村が[[甑島郡]][[上甑村]](かみこしきむら)となり、役場は中甑に置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。1891年(明治24年)には山地によって隔てられている里が上甑村から分離して[[里村]](さとむら)となり、上甑島・中甑島はそれから1世紀以上も2村体制が続いた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/><ref name="日本の島事典172-173頁"/>。下甑島も6村が合併して[[下甑村]](しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)、やはり地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]](かしまむら)となった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている<ref name="鹿児島大百科辞典224頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、224頁</ref>。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、上甑島からは[[種子島]]に33戸、本土の薩摩郡[[高江村]](現[[薩摩川内市]])に6戸が移住し<ref name="日本の島事典172-173頁"/>、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1896年(明治29年)には甑島郡が[[薩摩郡]]に編入。1901年(明治34年)には上甑島に本土からの海底電信が到達し、[[九州商船]]によって串木野航路が開かれた<ref name="鹿児島大百科辞典255頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、255頁</ref>。
[[江戸時代]]には[[薩摩藩|島津藩]]の直轄地となり、島津藩が採用した[[外城制]]の枠組みの中で[[地頭]](領主)が派遣された。里・[[上甑町中甑|中甑]]・手打に地頭仮屋が置かれ、ひとつの集落の中に士族の居住地である麓、農民の居住地である在、漁民の居住地である浜が置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/><ref name="離島生活の研究804頁">日本民俗学会編『離島生活の研究』国書刊行会、1975年、804頁</ref>。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ<ref name="日本の島100 178-179頁">『地図帳 日本の島100』山と渓谷社2006、178-179頁</ref>、薩摩藩の[[南蛮貿易]]の中継基地にもなった<ref name="日本島図鑑306頁">加藤庸二『原色日本島図鑑 – 日本の島443-有人島全収録-』新星出版社、2013年(改定第2版)、306頁</ref>。甑島列島は[[天草諸島]]や[[長崎県|長崎]]と同じく[[キリシタン]]文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた[[島原の乱]]の残党35人が処刑されて殉教した<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。1780年代の[[天明の大飢饉]]の際には、下甑島の百姓が出水(現[[出水市]])に、郷士48戸が[[笠野原台地]](現[[鹿屋市]]など)に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁">菅田編 (1995)、173-174頁</ref><ref name="地図で読む百年">千葉昭彦「不毛の台地が近代的農業地域に 鹿屋市笠野原」『地図で読む百年 九州』[[平岡昭利]]編、古今書院、1997年、163-168頁</ref>。江戸時代には薩摩藩が[[浄土真宗]]を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1871年(明治4年)には[[鹿児島県]]に所属<ref name="日本の島事典172頁"/>。1889年(明治22年)に[[町村制]]が施行されると、上甑島7村と中甑島1村が[[甑島郡]][[上甑村]](かみこしきむら)となり、役場は中甑に置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。1891年(明治24年)には山地によって隔てられている里が上甑村から分離して[[里村 (鹿児島県)|里村]](さとむら)となり、上甑島・中甑島はそれから1世紀以上も2村体制が続いた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/><ref name="日本の島事典172-173頁"/>。下甑島も6村が合併して[[下甑村]](しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)、やはり地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]](かしまむら)となった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている<ref name="鹿児島大百科辞典224頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、224頁</ref>。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、上甑島からは[[種子島]]に33戸、本土の薩摩郡[[高江村]](現[[薩摩川内市]])に6戸が移住し<ref name="日本の島事典172-173頁"/>、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1896年(明治29年)には甑島郡が[[薩摩郡]]に編入。1901年(明治34年)には上甑島に本土からの海底電信が到達し、[[九州商船]]によって串木野航路が開かれた<ref name="鹿児島大百科辞典255頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、255頁</ref>。


=== 現代 ===
=== 現代 ===
[[国勢調査]]が始まった1920年(大正9年)から1940年代まで甑島列島の人口は2万人強で推移し、1950年(昭和25年)には24,744人とピークに達した。1950年から1980年(昭和55年)の人口減少が著しく、いずれの集落でも1/2から1/3に減少しており、この期間中に1/4以下となった集落も存在する<ref name="地域と歴史134頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 134頁</ref>。[[奄美大島]]の[[瀬戸内町]]や[[宇検村]]と並んで、甑島列島は鹿児島県の離島の中で特に過疎化が著しい地域であ<ref name="地域と歴史134頁"/>。[[高度成長期]]における県外転出者は昭和30年代初めは近隣熊本県が多か、そ後は約半数が近畿地方に転出しており、大阪府兵庫県の2府県で45%弱を占めた<ref name="地域と歴史126頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 126頁</ref>。1951年(昭和26年)に九州を襲った[[ルース台風]]では甑島列島も大きな被害受け里では護岸が900m渡っ破られたほか、500もの住居が潮水に呑まれた<ref name="離島の人文理37頁">藤岡 (1964) 37頁</ref>。
[[国勢調査]]が始まった1920年(大正9年)から1940年代まで甑島列島の人口は2万人強で推移し、1950年(昭和25年)には24,744人とピークに達した。しかし、1950年から1980年(昭和55年)の人口減少が著しく、いずれの集落でも1/2から1/3に減少しており、この期間中に1/4以下となった集落も存在する<ref name="地域と歴史134頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 134頁</ref>。[[奄美大島]]の[[瀬戸内町]]や[[宇検村]]と並んで、甑島列島は鹿児島県の離島の中で特に過疎化が著しい地域であ<ref name="地域と歴史134頁"/>、全国離島の中でももとも人口減少激しい島つだった<ref name="地域特性319頁">板倉ほか (1980)、319頁</ref>。1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)の間、鹿児島県の本土人口が20%以上減少した自治体なかったが、甑島列島の4村はいずれ20%以上の減少率記録し鹿島村は43.3%という極め高い減少を見た<ref name="二宮日本誌364頁">日本地誌研究所 (1975)、364頁</ref>。


九州の主要な離島([[壱岐]]、[[対馬]]、[[五島列島]]、[[種子島]]、[[屋久島]])と比較した際、1954年(昭和29年)時点での第一次産業人口率は6島中1位、[[農業機械]]不使用農家率は6島中1位、面積あたりの道路長は6島中5位であり、古くから本土との距離の割に離島的性格の強い地域だった<ref name="日本地理新大系330頁">渡辺 (1954)、330頁</ref>。1972年(昭和47年)時点での甑島列島内(中甑管内)の電話加入数は約800であり、鹿児島県でもっとも加入者が少ない管内だったが、人口100人当たりの電話普及率は7.0-9.9であり、鹿児島県平均12.6よりは少ないが、本土の[[垂水市|垂水]]管内や[[枕崎市|枕崎]]管内などを上回っていた<ref name="二宮日本地誌347頁">日本地誌研究所 (1975)、347頁</ref>。
里村は上甑島の東側半分を占め、単独で村を構成する大字[[里町里|里]]に人家が集中していた。上甑村は上甑島の西側半分と中甑島の全域を占め、役場がある[[上甑町中甑|中甑]]に加えて、[[上甑町中野|中野]]、[[上甑町江石|江石]]、[[上甑町小島|小島]]、[[上甑町瀬上|瀬上]]、[[上甑町桑之浦|桑之浦]](いずれも上甑島)、[[上甑町平良|平良]](中甑島)の計7つの大字に人家が分散していた。鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]が単独で村を構成していた。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、[[下甑町手打|手打]]、[[下甑町片野浦|片野浦]]、[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]、[[下甑町青瀬|青瀬]]、[[下甑町長浜|長浜]]などの集落に人家が分散していた。甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、それぞれの町が[[薩摩川内市]]の大字となった。合併後は「従前の村名を町名とし、従前の大字名を冠したものをもって大字とし」たため、薩摩郡里村里が薩摩川内市里町里、薩摩郡下甑村手打が薩摩川内市下甑町手打などという表記をされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。

1951年(昭和26年)に九州を襲った[[ルース台風]]では甑島列島も大きな被害を受け、里では護岸が900&nbsp;mに渡って破られたほか、500もの住居が潮水に呑まれた<ref name="離島の人文地理37頁">藤岡 (1964) 37頁</ref>。1960年代には、現職の下甑村議会議員2人が辞職して島を去ったことが全国に波紋を投げかけた<ref name="ワイドカラー日本111頁">『ワイドカラー日本 南九州』世界文化社、1971年、111頁</ref>。このうちのひとりは農業を主業とする村議会副議長であり、村の最高所得者のひとりだったが、離島後に大阪府堺市の工場に就職した<ref name="ワイドカラー日本111頁"/>。昭和30年代初めは近隣の熊本県への県外転出者が多かったが、その後は約半数が近畿地方に転出しており、大阪府と兵庫県の2府県で45%弱を占めた<ref name="地域と歴史126頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 126頁</ref>。

里村は上甑島の東側半分を占め、単独で村を構成する大字[[里町里|里]]に人家が集中していた。上甑村は上甑島の西側半分と中甑島の全域を占め、役場がある[[上甑町中甑|中甑]]に加えて、[[上甑町中野|中野]]、[[上甑町江石|江石]]、[[上甑町小島|小島]]、[[上甑町瀬上|瀬上]]、[[上甑町桑之浦|桑之浦]](いずれも上甑島)、[[上甑町平良|平良]](中甑島)の計7つの大字に人家が分散していた。鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]が単独で村を構成していた。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、[[下甑町手打|手打]]、[[下甑町片野浦|片野浦]]、[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]、[[下甑町青瀬|青瀬]]、[[下甑町長浜|長浜]]などの集落に人家が分散していた。簡易裁判所、電報電話局、鹿児島県土木事務所の出張所、鹿児島県農業改良普及所の支所など、甑島列島における公的機関の多くは上甑島中甑に置かれていた<ref name="地域特性318頁">板倉ほか (1980)、318頁</ref>。距離的にもっとも近い本土の自治体は川内市だったが、川内市には規模の大きい港がないために甑島との交流は薄かった<ref name="ワイドカラー日本110頁">『ワイドカラー日本 南九州』世界文化社、1971年、110頁</ref>。しかし、甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、それぞれの村は[[薩摩川内市]]の一部となった。市町村合併時に甑島にある大字は「従前の村名を町名とし、従前の大字名に冠したものをもって大字とする」としたため、大字名がそれぞれ改称され、薩摩郡上甑村大字中甑が薩摩川内市上甑町中甑、薩摩郡下甑村大字手打が薩摩川内市下甑町手打などという表記をされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/><ref>平成16年鹿児島県告示第1735号(字の名称の変更、平成16年10月12日付鹿児島県公報第第2026号の2所収、{{ws|[[:s:字の名称の変更 (平成16年鹿児島県告示第1735号)|原文]]}})</ref>。


=== 行政区画の変遷 ===
=== 行政区画の変遷 ===
{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
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| 郡 || 明治22年以前 || 明治22年 || 明治23年-明治45年 || 大正1年-大正15年 || 昭和1年-昭和64年 || 平成1年-現在
| 郡 || 明治22年以前 || 明治22年-明治23年 || 明治24年-昭和23年 || 昭和24年-平成15年 || 平成16年-現在
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| rowspan=14| [[薩摩郡]]<ref group="注">明治29年以前は[[甑島郡]]</ref> || 里村 || rowspan=8| 明治22年合併<br>[[上甑村]] || 明治24年一部分離<br>[[里村]] || 里村 || 里村 || rowspan=14| 平成16年[[川内市]]ほかと合併<br>'''[[薩摩川内市]]'''
| rowspan=14| [[薩摩郡]]<ref group="注">明治29年以前は[[甑島郡]]である。</ref> || 里村 || rowspan=8| 明治22年合併<br>[[上甑村]] || 明治24年一部分離<br>[[里村 (鹿児島県)|里村]] || 里村 || rowspan=14| 平成16年[[川内市]]ほかと合併<br>'''[[薩摩川内市]]'''
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| 中甑村 || rowspan=7| 明治24年一部分離<br>上甑村 || rowspan=7| 上甑村 || rowspan=7| 上甑村
| 中甑村 || rowspan=7| 明治24年一部分離<br>上甑村 || rowspan=7| 上甑村
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| 中野村
| 中野村
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| 平良村
| 平良村
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| 藺牟田村 || rowspan=6| 明治22年合併<br>[[下甑村]] || rowspan=6| 下甑村 || 昭和24年一部分離<br>[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]] || 鹿島村
| 藺牟田村 || rowspan=6| 明治22年合併<br>[[下甑村]] || rowspan=6| 下甑村 || 昭和24年一部分離<br>[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]]
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| 手打村 || rowspan=5| 昭和24年一部分離<br>下甑村 || rowspan=5| 下甑村
| 手打村 || rowspan=5| 昭和24年一部分離<br>下甑村
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| 片野浦村
| 片野浦村
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|}
|}


=== 人口の変遷 ===
=== 人口の変遷 ===
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人口の1/50に換算したグラフを使用しています。(m01=50人、m100=人口5,000人)
人口の1/50に換算したグラフを使用しています。(m01=50人、m100=人口5,000人)
-->
-->
: 出典 : 国勢調査
: 出典 : 国勢調査
: [[画像:m10.png]]里地域 [[画像:g10.png]]上甑地域 [[画像:r10.png]]下甑地域 [[画像:b10.png]]鹿島地域
: {{Bar10|m}}里地域 {{Bar10|g}}上甑地域 {{Bar10|r}}下甑地域 {{Bar10|b}}鹿島地域
: いずれの自治体も、2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となった。
: いずれの自治体も、2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となった。


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| 1920年(大正9年)
| 1920年(大正9年)
|| {{Bar50|m}}{{Bar10|m}}{{Bar100|g}}{{Bar10|g}}{{Bar100|r}}{{Bar100|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}} || 20,061人
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| 1930年(昭和5年)
| 1930年(昭和5年)
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|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] || 21,435人
|-
|-
| 1940年(昭和15年)
| 1940年(昭和15年)
|| {{Bar50|m}}{{Bar5|m}}{{Bar1|m}}{{Bar1|m}}{{Bar1|m}}{{Bar100|g}}{{Bar10|g}}{{Bar10|g}}{{Bar1|g}}{{Bar100|r}}{{Bar100|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar5|r}}{{Bar1|r}} || 20,815人
|| [[画像:m50.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]] || 20,815人
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| 1950年(昭和25年)
| 1950年(昭和25年)
|| {{Bar50|m}}{{Bar10|m}}{{Bar10|m}}{{Bar5|m}}{{Bar1|m}}{{Bar1|m}}{{Bar100|g}}{{Bar10|g}}{{Bar10|g}}{{Bar10|g}}{{Bar10|g}}{{Bar5|g}}{{Bar100|r}}{{Bar100|r}}{{Bar10|r}}{{Bar50|b}}{{Bar50|b}} || 24,744人
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:b50.png]][[画像:b50.png]] || 24,744人
|-
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| 1960年(昭和35年)
| 1960年(昭和35年)
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| 1970年(昭和45年)
| 1970年(昭和45年)
|| {{Bar10|m}}{{Bar10|m}}{{Bar10|m}}{{Bar10|m}}{{Bar1|m}}{{Bar1|m}}{{Bar1|m}}{{Bar50|g}}{{Bar10|g}}{{Bar5|g}}{{Bar1|g}}{{Bar1|g}}{{Bar1|g}}{{Bar50|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar5|r}}{{Bar1|r}}{{Bar1|r}}{{Bar10|b}}{{Bar10|b}}{{Bar5|b}} || 11,750人
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| 1980年(昭和55年)
| 1980年(昭和55年)
|| {{Bar10|m}}{{Bar10|m}}{{Bar10|m}}{{Bar5|m}}{{Bar1|m}}{{Bar1|m}}{{Bar1|m}}{{Bar50|g}}{{Bar1|g}}{{Bar1|g}}{{Bar1|g}}{{Bar1|g}}{{Bar50|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar5|r}}{{Bar10|b}}{{Bar10|b}} || 9,428人
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|-
|-
| 1990年(平成2年)
| 1990年(平成2年)
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|| [[画像:m01.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b10.png]] || 6,268人
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|-
| 2000年(平成12年)
| 2000年(平成12年)
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|| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:r50.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]] || 5,860人
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|-
| 2010年(平成22年)
| 2010年(平成22年)
|| {{Bar10|m}}{{Bar10|m}}{{Bar5|m}}{{Bar10|g}}{{Bar10|g}}{{Bar10|g}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar10|r}}{{Bar5|r}}{{Bar5|b}}{{Bar1|b}}{{Bar1|b}}{{Bar1|b}}{{Bar1|b}} || 5,576人
|| [[画像:m01.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]] || 5,576人
|}
|}
<!--
基データは以下の通りです。
立項初版ではこの中から10年刻みで表を作成しました。
{|class="wikitable"
|-
| 1920年(大正9年)
|| 里村3,009人、上甑村5,517人、下甑村11,535人、鹿島村存在せず、合計20,061人
|-
| 1925年(大正14年)
|| 里村3,017人、上甑村5,509人、下甑村11,745人、鹿島村存在せず
|-
| 1930年(昭和5年)
|| 里村3,174人、上甑村5,878人、下甑村12,383人、鹿島村存在せず、合計21,435人
|-
| 1935年(昭和10年)
|| 里村3,029人、上甑村5,652人、下甑村12,152人、鹿島村存在せず
|-
| 1940年(昭和15年)
|| 里村2,928人、上甑村6,053人、下甑村11,834人、鹿島村存在せず、合計20,815人
|-
| 1945年(昭和20年)
|| 里村3,678人、上甑村7,155人、下甑村13,670人、鹿島村存在せず、合計24,504人
|-
| 1950年(昭和25年)
|| 里村3,870人、上甑村7,296人、下甑村10,546人、鹿島村3,032人、合計24,744人
|-
| 1955年(昭和30年)
|| 里村3,692人、上甑村7,009人、下甑村9,918人、鹿島村3,010人
|-
| 1960年(昭和35年)
|| 里村3,357人、上甑村6,091人、下甑村8,237人、鹿島村2,811人、合計20,496人
|-
| 1965年(昭和40年)
|| 里村2,834人、上甑村4,730人、下甑村6,483人、鹿島村2,254人
|-
| 1970年(昭和45年)
|| 里村2,183人、上甑村3,426人、下甑村4,864人、鹿島村1,277人、合計11,750人
|-
| 1975年(昭和50年)
|| 里村1,926人、上甑村2,877人、下甑村4,176人、鹿島村1,023人
|-
| 1980年(昭和55年)
|| 里村1,920人、上甑村2,728人、下甑村3,752人、鹿島村1,028人、合計9,428人
|-
| 1985年(昭和60年)
|| 里村1,967人、上甑村2,651人、下甑村3,577人、鹿島村1,072人
|-
| 1990年(平成2年)
|| 里村1,753人、上甑村2,315人、下甑村3,247人、鹿島村1,033人、合計6,268人
|-
| 1995年(平成7年)
|| 里村1,676人、上甑村2,234人、下甑村3,017人、鹿島村999人
|-
| 2000年(平成12年)
|| 里村1,517人、上甑村2,008人、下甑村2,803人、鹿島村892人、合計7,220人
|-
| 2005年(平成17年)
|| 里地域1,405人、上甑地域1,692人、下甑地域2,545人、鹿島地域564人 ※2004年に合併して薩摩川内市の一部に
|-
| 2010年(平成22年)
|| 里地域1,260人、上甑地域1,536人、下甑地域2,289人、鹿島地域491人、合計5,576人
|}
-->


== 交通 ==
== 交通 ==
=== 列島外部との交通 ===
=== 列島外部との交通 ===
[[File:Ferry New Koshiki.jpg|thumb|right|200px|フェリーニューこしき]]
[[ファイル:Ferry New Koshiki.jpg|thumb|right|200px|[[フェリーニューこしき]]]]


==== 交通の歴史 ====
==== 交通の歴史 ====
甑島列島は[[琉球諸島]]から[[天草]]・[[長崎]]・[[朝鮮半島]]・[[日本海]]に向かう船の通り道にあり、琉球とのつながりが深い<ref name="鹿児島島嶼の列島性">長嶋 (2011)</ref>。戦前までは鹿児島本土よりも天草(特に南端の[[牛深市|牛深]])や長崎などとのつながりの方が強い時代があった。1901年(明治34年)には[[九州商船]]が本土と甑島列島の間に航路を開き、長崎-天草(西と牛深)-[[里町里|里]]-[[下甑町手打|手打]]を結んでいたが、1928年(昭和3年)にはこの航路が廃止され、[[いちき串木野市|串木野]]と甑島を結ぶ航路が開かれた<ref name="離島の人文地理154頁">藤岡 (1964) 154頁</ref>。1951年(昭和26年)には[[阿久根市|阿久根]]と甑島を結ぶ航路が2日に1便就航し、1952年(昭和27年)からは毎日就航に変更された<ref name="離島の人文地理154頁"/>。地理学者の[[藤岡謙二郎]]らが調査した1964年(昭和39年)時点では、[[串木野港]]と中甑港を結ぶ航路には200トン船が、[[阿久根港]]と里港を結ぶ航路には75トン船が運航されていた<ref name="離島の人文地理2頁">藤岡 (1964) 2頁</ref>。いずれも一日一便であり、東岸伝いに[[下甑島]]の主要港まで航行していた。阿久根港・里港間の33kmを約2時間で結んでいたが、台風の前後には欠航が相次いだという。九州商船の他には、1956年(昭和31年)から保健船が週2便運航され、平良・中甑間には[[]](はしけ)が一日数便運航されていた<ref name="離島の人文地理154頁"/>。2002年(平成14年)までは串木野から長崎に大型フェリーが運行され、甑島列島-串木野-長崎は経済的なつながりが続いていた<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。
甑島列島は[[琉球諸島]]から[[天草諸島|天草]]・[[長崎港|長崎]]・[[朝鮮半島]]・[[日本海]]に向かう船の通り道にあり、琉球とのつながりが深い<ref name="鹿児島島嶼の列島性">長嶋俊介「鹿児島島嶼の列島性 -連続的地域特性の現地確認(社会=生活環境・島嶼経営領域)-」『南太平洋海域調査研究報告』52巻、2011年、37-46頁</ref>。また、戦前までは鹿児島本土よりも天草(特に南端の[[牛深市|牛深]])や長崎などとのつながりの方が強い時代があった。1901年(明治34年)には[[九州商船]]が本土と甑島列島の間に航路を開き、長崎-天草(西と牛深)-[[里町里|里]]-[[下甑町手打|手打]]を結んでいたが、1928年(昭和3年)にはこの航路が廃止され、[[いちき串木野市|串木野]]と甑島を結ぶ航路が開かれた<ref name="離島の人文地理154頁">藤岡 (1964) 154頁</ref>。1951年(昭和26年)には[[阿久根市|阿久根]]と甑島を結ぶ航路が2日に1便就航し、1952年(昭和27年)からは毎日就航に変更された<ref name="離島の人文地理154頁"/>。地理学者の[[藤岡謙二郎]]らが調査した1964年(昭和39年)時点では、[[串木野港]]と中甑港を結ぶ航路には200トン船が、[[阿久根港]]と里港を結ぶ航路には75トン船が運航されていた<ref name="離島の人文地理2頁">藤岡 (1964) 2頁</ref>。1971年(昭和46年)時点では串木野港との間に200トン船が、阿久根港との間に278トン船が運航されており<ref name="ワイドカラー日本110頁"/><ref group="注">日本地誌研究所 (1975)、346頁によると、1972年11月時点での串木野港-甑島間の就航船は402トン船、阿久根港-川内港-甑島間の就航船は195トン船であるとしているが、トン数が逆であると思われる。</ref>、1980年(昭和55年)時点では串木野港との間に200トン船が、阿久根港(川内港経由)との間に400トン船が運航されていた<ref name="地域特性317頁">板倉ほか (1980)、317頁</ref>。いずれも一日一便であり、東岸伝いに里、中、鹿、手打などを巡り、各港では[[艀]](はしけ、小型船)で客と荷を積み下ろした<ref name="ワイドカラー日本110頁"/>。1971年時点運賃は里までが270円、手打までが480円だっ<ref name="ワイドカラー日本110頁"/>。阿久根港・里港間の33&nbsp;kmを約2時間で結んでいたが、台風の前後には欠航が相次いだという。九州商船の他には、1956年(昭和31年)から保健船が週2便運航され、平良・中甑間には艀が一日数便運航されていた<ref name="離島の人文地理154頁"/>。2002年(平成14年)までは串木野から長崎に大型フェリーが運行され、甑島列島-串木野-長崎は経済的なつながりが続いていた<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。


==== 現在の航路 ====
==== 現在の航路 ====
{{seealso|甑島商船}}

; 串木野-甑島列島
; 串木野-甑島列島
本土から甑島列島までの主要な交通手段は、[[甑島商船]]が[[いちき串木野市]]の[[串木野港|串木野新港]]から運航している高速船とフェリーである。「高速船シーホーク」と「フェリーニューこしき」は、一あたりそれぞれ往復2便が運航されており、高速船は上甑島の里港まで約50分、フェリーは約75分である。いずれも起点は串木野新港であり、終点は下甑島の長浜港であるが、便によって立ち寄り先が異なり、下甑島の鹿島港などに立ち寄る場合がある。2013年(平成25年)7月1日時点で自動車航送を含まない料金は、高速船が3,610円(串木野-長浜)、フェリーが2,330円(串木野-長浜)である。高速船とフェリー以外では、五色産業が貨物フェリーと高速チャーター船を運航している。
: 本土から甑島列島までの主要な交通手段は、[[甑島商船]]が[[いちき串木野市]]の[[串木野港|串木野新港]]から運航しているフェリーである。「[[フェリーニューこしき]]が12往復運航されており、上甑島の里港までの所要時間は約75分である。いずれも起点は串木野新港、終点は下甑島の長浜港である。ほか、五色産業が貨物フェリーと高速チャーター船を運航している。
: 串木野新港と[[九州旅客鉄道|JR]][[鹿児島本線]][[串木野駅]]間には、船の発着時間に合わせたバスが運行されており、所要時間は約12分である。串木野駅から[[鹿児島中央駅]]までは在来線で約35分である。串木野新港と[[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]]間にも船の発着時間に合わせた直行バスが運行されており、所要時間は約34分である。川内駅から[[博多駅]]までは[[九州新幹線]]で最速71分であり、川内駅から[[鹿児島空港]]まではバスで約70分である。串木野新港から[[鹿児島インターチェンジ]]までは自動車([[南九州西回り自動車道|南九州道]]経由)で約35分である。

串木野新港と[[JR九州|JR]][[鹿児島本線]][[串木野駅]]間には、船の発着時間に合わせたバスが運行されており、所要時間は約12分である。串木野駅から鹿児島駅までは在来線で約35分である。串木野新港と[[川内駅]]間にも船の発着時間に合わせた直行バスが運行されており、所要時間は約34分である。川内駅から[[博多駅]]までは[[九州新幹線]]で最速71分であり、川内駅から[[鹿児島空港]]まではバスで約70分である。串木野新港から鹿児島インターチェンジまでは自動車で約40分であり、[[九州縦貫自動車道]]や[[南九州西回り自動車道]]などを経由する。


; 薩摩川内-甑島列島
; 川内-甑島列島
老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航予定である<ref name="47news">[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 名称は「高速船 甑島」 14年春就航の川内甑島航路 ] 47news、2013年1月13日</ref>。[[新幹線800系電車]]「つばめ」など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている[[水戸岡鋭治]]がデザインを担当した<ref name="47news"/>。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側寄港地は甑島列島が属する[[薩摩川内市]][[川内港]]に移設される予定である。川内港と薩摩川内市街地はやや離れているため、[[JR九州|JR]][[鹿児島本線]][[川内駅]]と川内港の間にシャトルバスが運行される予定である。
: 老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航している<ref name="47news">[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 名称は「高速船 甑島」14年春就航の川内甑島航路] 47news、2013年1月13日{{リンク切れ|date=2020-9}}</ref>。九州新幹線[[新幹線800系電車|800系]]など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている[[水戸岡鋭治]]がデザインを担当した<ref name="47news"/>。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側寄港地は甑島列島が属する薩摩川内市の川内港に移設された。上甑島の里港までの所要時間は約50分である。川内港と薩摩川内市街地はやや離れているため、JR川内駅と川内港の間にシャトルバスが運行されている。


=== 列島内部の交通 ===
=== 列島内部の交通 ===
[[File:Koshiki Ohashi Bridge from Torinosuyama View Point 3.jpg|thumb|[[甑大橋]]は2020年(令和2年)に完成した。]]
1950年(昭和25年)時点での陸上交通の大部分が徒歩であり、自転車でさえもほとんどみられなかった<ref name="離島の人文地理153頁">藤岡 (1964) 153頁</ref>。1961年(昭和36年)時点での陸上交通の主流は自転車であり、甑島列島全体で616台の自転車が存在したが、この頃にはまだ自動車はほとんどみられず、トラック・乗用車合わせて10数台があるのみだった<ref name="離島の人文地理153頁"/>。
島内では助八古道や樫の木児道などの山道が利用されていた<ref name="5e6726a0002">[http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1581043375065/html/common/other/5e6726a0002.pdf 第2次甑島ツーリズムビジョン(素案)] 薩摩川内市、2021年5月5日閲覧。</ref>。1950年(昭和25年)時点での陸上交通の大部分が徒歩であり、自転車でさえもほとんどみられなかった<ref name="離島の人文地理153頁">藤岡 (1964) 153頁</ref>。


1959年(昭和34年)10月時点でも各集落を結ぶ車道はなく、上甑島にはジープが1台、下甑島には小型三輪車が1台のみが存在<ref name="日本地理風俗大系223頁"/>。この頃には陸上交通の主流が自転車となり、1961年(昭和36年)時点で甑島列島全体に616台の自転車が存在した<ref name="離島の人文地理153頁"/>。1965年(昭和40年)には里と中甑の間に初めてバスが通じた<ref name="離島生活の研究803頁">日本民俗学会 (1975)、803頁</ref>。全国的に自動車の普及が進んだ1971年(昭和46年)においても、「現代離れした地区」として鹿島村(自動車は7台のみ)が引き合いに出されるなど、甑島列島において自動車の普及は大きく遅れた<ref name="二宮日本地誌344頁">日本地誌研究所 (1975)、344頁</ref>。
現在では上甑島・下甑島のいずれでもレンタカー、タクシー、レンタサイクルが利用可能である。薩摩川内市は公用車として3台の電気自動車(EV)を甑島に導入している<ref name="373news.com">[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 甑島で8月から導入 小型電気自動車を公開 薩摩川内市] 373news.com、2013年7月23日</ref><ref name="日本ユニシス">[http://www.unisys.co.jp/news/nr_130801_smartoasis.html 薩摩川内市「EV導入実証事業」を甑島(こしきしま)で開始] 日本ユニシス、2013年8月1日</ref><ref name="Sankei Biz">[http://www.sankeibiz.jp/business/news/130805/bsa1308050600001-n1.htm 甑島でEVレンタカー実証 日本ユニシスと鹿児島県薩摩川内市] Sankei Biz、2013年8月5日</ref>。2013年(平成25年)8月には1人乗りEV「コムス」(トヨタ車体製、原動機付自転車扱い)を20台導入し、「甑島電気自動車レンタカー導入実証事業」として観光客へのEVの貸し出しも行なっている<ref name="373news.com"/><ref name="日本ユニシス"/><ref name="Sankei Biz"/>。


甑島列島には、鹿児島県道348号から352号までの5本の県道が通っており、国道は通っていない。[[鹿児島県道348号桑之浦里港線|県道348号桑ノ浦里港線]]は上甑島西端の桑ノ浦と里を結ぶ路線であり、中甑を通ってZ字型に東西を結んでいる。[[鹿児島県道352号瀬上里線|県道352号瀬上里線]]は瀬上と里を結ぶ路線であり、348号の短絡線として長目の浜近くを通っている。[[鹿児島県道351号鹿島上甑線|県道351号鹿島上甑線]]は下甑島の藺牟田と上甑島の中甑を結ぶ路線であり、藺牟田瀬戸によって分断されていたが、2020年(令和2年)8月に[[甑大橋]]が完成して一本の道となった<ref name="minaminihon-20200830">{{Cite news|和書|author=田畑沙織|title=甑大橋開通 3島陸続き|date=2020-08-30|newspaper=[[南日本新聞]]|issue=|edition=|page= 1}}</ref>。[[鹿児島県道349号手打藺牟田港線|県道349号手打藺牟田港線]]は下甑島の南北端を結ぶ路線であり、[[鹿児島県道350号長浜手打港線|県道350号長浜手打港線]]は長浜から西岸の瀬々野浦を経由して手打に至る路線だが、瀬々野浦南側の一部が完成していない。
==== 甑島コミュニティバス ====
[[上甑島]]と中甑島では「甑ふれあいバス」(里・上甑地域コミュニティバス)、[[下甑島]]では「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス([[薩摩川内市甑島コミュニティバス]])が[[南国交通]]によって運行されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。基本的にどの路線も定期船の発車時刻に合わせたダイヤが組まれており、一日あたり4-7便が運行されている。


現在では、上甑島・下甑島のいずれでもレンタカー、タクシー、レンタサイクルが利用可能である。薩摩川内市は公用車として3台の電気自動車(EV)を甑島に導入している<ref name="373news.com">[https://web.archive.org/web/20130928215108/http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 甑島で8月から導入 小型電気自動車を公開 薩摩川内市] 373news.com、2013年7月23日</ref><ref name="日本ユニシス">[http://www.unisys.co.jp/news/nr_130801_smartoasis.html 薩摩川内市「EV導入実証事業」を甑島(こしきしま)で開始] 日本ユニシス、2013年8月1日</ref><ref name="Sankei Biz">[https://web.archive.org/web/20131004215127/http://www.sankeibiz.jp/business/news/130805/bsa1308050600001-n1.htm 甑島でEVレンタカー実証 日本ユニシスと鹿児島県薩摩川内市] Sankei Biz、2013年8月5日</ref>。2013年(平成25年)8月には1人乗りEV「コムス」(トヨタ車体製、[[ミニカー (車両)|ミニカー]]扱い<ref group="注">[[道路運送車両法]]上では第1種原動機付自転車であるが[[ミニカー (車両)|ミニカー]]であるため運転には普通自動車免許が必要</ref>)を20台導入し、「甑島電気自動車レンタカー導入実証事業」として観光客へのEVの貸し出しも行なっている<ref name="373news.com"/><ref name="日本ユニシス"/><ref name="Sankei Biz"/>。観光遊覧船「かのこ」が運航されている。
甑ふれあいバスは里線、浦内・桑之浦線、平良線、江石線の4路線に分かれており、すべての路線が中甑にある南国交通の営業所を始発としている。里線は[[上甑町中甑|中甑]]- [[上甑町中野|中野]]-[[里町里|里]]を結び、浦内・桑之浦線は中甑-[[上甑町小島|小島]]-[[上甑町瀬上|瀬上]]- [[上甑町桑之浦|桑之浦]]を結び、平良線は中甑-[[上甑町平良|平良]]を結び、江石線は中甑-[[上甑町江石|江石]]を結んでいる。江石線の上り便(中甑行き)は[[デマンドバス|デマンド運行]]となり、事前の予約が必要である。江石線の下り便(江石行き)は条件付き運行となり、中甑港で乗客がいる場合のみ江石まで運行する。


なお、島内の助八古道や樫の木児道などの山道を再整備した古道トレッキングも実施されている<ref name="5e6726a0002" />。
甑かのこゆりバスは手打・長浜線、手打・片野浦線、長浜・瀬々野浦線、長浜・鹿島線の4路線に分かれており、2路線ずつが長浜港と手打港をターミナルとしている。手打・長浜線は[[下甑町手打|手打]]-[[下甑町青瀬|青瀬]]-[[下甑町長浜|長浜]]を結び、手打・片野浦線は手打-[[下甑町片野浦|片野浦]]を結び、長浜・瀬々野浦線は長浜-[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]を結び、長浜・鹿島線は長浜-[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]を結んでいる。手打・片野浦線の上り便(手打行き)はデマンド運行となり、事前の予約が必要である。手打・片野浦線の下り便(片野浦行き)は条件付き運行となり、手打トンネルで乗客がいる場合のみ片野浦まで運行する。

==== 甑島コミュニティバス ====
{{main|薩摩川内市甑島コミュニティバス}}

[[上甑島]]と中甑島では「甑ふれあいバス」(里・上甑地域コミュニティバス)、[[下甑島]]では「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス([[薩摩川内市甑島コミュニティバス]])が[[南国交通]]によって運行されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。基本的にどの路線も定期船の発車時刻に合わせたダイヤが組まれており、一日あたり4-7便が運行されている。


==== 列島内の架橋 ====
==== 列島内の架橋 ====
[[File:Kanoko Bridge.jpg|thumb|平良島と中甑島を結ぶ鹿の子大橋]]
上甑島の南には無人島の平良島を挟んで中甑島があり、1994年(平成6年)に開通した甑大明神橋(上甑島-平良島)と鹿の子大橋(平良島-中甑島)の2本の橋が架かっている。中甑島と下甑島は最狭部で1.3kmほどであり、2006年(平成18年)から藺牟田(いむた)瀬戸架橋事業が進行中である<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。中甑島の南側半分には人家がなく、車が通行可能な道路もないが、この事業では中甑島の[[上甑町平良|平良]]から下甑島の[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]まで自動車道路を整備し、海峡を1,533mのPC連続橋桁橋でつなぐ。上甑島の里港と下甑島の長浜港は一日2往復のフェリーで約115分かかっているが、24時間通行可能な藺牟田瀬戸架橋が完成すると自動車で約50分に短縮されるという。中央部の橋梁の中央径165mは、PC連続橋桁橋としては日本国内最大級である。総事業費は220億円であり、完成予定は2017年(平成29年)である。
上甑島の南には無人島の平良島を挟んで中甑島があり、1993年(平成5年)に開通した[[甑大明神橋]](上甑島 - 平良島)と鹿の子大橋(平良島 - 中甑島)の2本の橋が架かっている。中甑島と下甑島の間は最狭部で1.3&nbsp;kmほどであり、2020年(令和2年)に開通した全長1,533&nbsp;mの[[甑大橋]]で結ばれている<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20200601/k00/00m/040/043000c|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200601024547/https://mainichi.jp/articles/20200601/k00/00m/040/043000c|title=「甑大橋」8月29日開通 中甑島と下甑島結び甑3島つながる 鹿児島|newspaper=毎日新聞|publisher=毎日新聞社|date=2020-06-01|accessdate=2020-06-01|archivedate=2020-06-01}}</ref>。


平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている<ref name="離島の人文地理1頁">藤岡(1964) 1頁</ref>。甑大明神橋・鹿の子大橋の架橋前も、干潮時には上甑島と平良島、平良島と中甑島が陸続きになったという<ref name="島嶼大事典361頁"/>。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には[[下甑町長浜|長浜]]・[[下甑町青瀬|青瀬]]と[[下甑町手打|手打]]をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。
平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている<ref name="離島の人文地理1頁">藤岡(1964) 1頁</ref>。甑大明神橋・鹿の子大橋の架橋前も、干潮時には上甑島と平良島、平良島と中甑島が陸続きになったという<ref name="島嶼大事典361頁"/>。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には[[下甑町長浜|長浜]]・[[下甑町青瀬|青瀬]]と[[下甑町手打|手打]]をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。


== 自然・地形・地質 ==
==== 観光遊覧船 ====
甑島列島の地形は[[天草諸島|天草]]や[[長島 (鹿児島県)|長島]]の延長にあり、地質的にも両島と同じく中生層の砂岩・頁岩・花崗岩が卓越している<ref name="日本地理風俗大系223頁">日本地理風俗大系編集委員会 (1960)、223頁</ref>。1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され<ref>[https://www.pref.kagoshima.jp/ad04/kurashi-kankyo/kankyo/sizenkouen/kennai/koshiki.html 甑島県立自然公園] 鹿児島県 2020年9月10日閲覧</ref>、2009年(平成21年)には[[下甑島]]の鹿島断崖が[[日本の地質百選]]に選出された<ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref name="ジオサイト地質百選Ⅱ">「Number 81 甑島」全国地質調査業協会連合会『日本列島ジオサイト地質百選Ⅱ』オーム社、162-163頁</ref>。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西-南東方向に発達した断層が露頭している<ref name="日本の地質構造100選">「No.016 甑島の鹿の子断層」日本地質学会構造地質部会『日本の地質構造100選』朝倉書店、26-27頁</ref>。
水中展望船「きんしゅう」、観光船「かのこ」、観光船「おとひめ」の3つの観光遊覧船が運航されている。「きんしゅう」は上甑島の里港を出港し、里集落沖合の海中を泳ぐ魚を水中から展望する。沖合には出ずに引き返して里港に戻る。


=== 生態系 ===
2011年に運航を開始した「かのこ」は西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも上甑島の中甑港を出港する。西海岸コースは甑大明神橋をくぐって島の東岸に出た後、下甑島の西岸に沿って南下し、鹿島断崖、山から海に滝が流れ落ちる内川内海岸、海食崖が垂直にそびえ立つコシ瀬、数百トンの巨石が崖に腰かけている壁立断崖、ナポレオンの横顔に似た奇石ナポレオン岩などを間近に見る。ナポレオン岩を過ぎてから180度向きを変えてルートを引き返し、中甑島と下甑島の海峡を東進して中甑島の東岸に出て、北上して中甑港に着く。東海岸コースは中甑港を出港して南下し、中甑島東南端にある小島(弁慶島)との間をすり抜けて下甑島の東岸を進む。下甑島の地峡部付近で引き返し、来たルートをそのまま引き返して中甑港に着く。
海岸には[[ウミガメ]]が上陸する。


また、周辺海域は[[カツオクジラ]]や[[マッコウクジラ]]などの鯨類の回遊海域になっており、[[野間半島]]の[[笠沙町]]では[[ホエールウォッチング]]が行われていた時期も存在する<ref>木白俊哉, 「[http://id.nii.ac.jp/1342/00000920/ 西部北太平洋、特に南西部日本沿岸におけるニタリクジラの資源生態学的研究]」 東京海洋大学 博士論文, 乙第20号, 2012年, {{naid|500000560728}}</ref><ref>環境省. [https://www.env.go.jp/nature/biodic/kaiyo-hozen/kaiiki/engan/21901.html 甑島列島] - 生物多様性の観点から重要度の高い海域</ref><ref>{{Cite web|author=|date=2020-03-15|title=マッコウクジラ 謎が多いオスの生態|url=https://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=610410835137660001|website=[[長崎新聞]]|access-date=2024-01-07}}</ref>。昭和23年(1948年)までは、[[シロナガスクジラ]]や[[ナガスクジラ]]や[[イワシクジラ]]や[[マッコウクジラ]]などの大型種を対象とした捕鯨も行われていた<ref>[http://agriknowledge.affrc.go.jp/RN/2010832299.pdf 甑島の捕鯨]</ref>。
「おとひめ」にも西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも下甑島の手打港を出港する。西海岸コースは下甑島の南端を時計回りに回って西岸に向かい、ローソク岩、鷹の巣、ナポレオン岩、壁立、コシ瀬などを間近に見る。下甑島中央部の金山海岸を過ぎたあたりで180度向きを変え、北ルートを引き返して手打港に着く。東海岸コースは手打港から下甑島の東岸を北上し、青瀬集落や長浜集落に接近した後、下甑島中央部の尾山の鼻を過ぎたあたりで180度向きを変えて引き返す。


甑島列島は熱帯性の木生シダである[[ヘゴ]]の自生北限地のひとつであり、「ヘゴ自生北限地帯」の名称で国の[[天然記念物]]に指定されている。
== 自然・地形・地質 ==

甑島列島には約8000万年前の[[白亜紀]]の地層が残っている。日本国内では初めて[[ケラトプス]]の化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され<ref>[https://www.pref.kagoshima.jp/ad04/kurashi-kankyo/kankyo/sizenkouen/kennai/koshiki.html 甑島県立自然公園]鹿児島県</ref>、2009年(平成21年)には[[下甑島]]の鹿島断崖が[[日本の地質百選]]に選出された<ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref name="ジオサイト地質百選Ⅱ">「Number 81 甑島」全国地質調査業協会連合会『日本列島ジオサイト地質百選Ⅱ』オーム社、162-163頁</ref>。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西-南東方向に発達した断層が露頭している<ref name="日本の地質構造100選">「No.016 甑島の鹿の子断層」日本地質学会構造地質部会『日本の地質構造100選』朝倉書店、26-27頁</ref>。海岸には[[ウミガメ]]が上陸する。甑島列島は熱帯性の木生シダである[[ヘゴ]]の自生北限地のひとつであり、[[カラスバト]]の自生地とともに1952年(昭和27年)に国指定天然記念物に指定された<ref name="島嶼大事典161頁"/><ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref group="注">『自然紀行 日本の天然記念物』講談社、308頁によると、ヘゴの自生北限地は東京都[[八丈町]]([[八丈島]])、長崎県[[五島市]]([[福江島]]、鹿児島県肝属郡[[南大隅町]]・[[肝付町]]([[大隅半島]])、川辺郡[[南さつま市]]([[薩摩半島]])、宮崎県[[日南市]]に加えて甑島列島である。</ref>。
列島に生息する[[カラスバト]]は種として天然記念物の指定を受けている<ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref name="島嶼大事典161頁"/><ref group="注">『自然紀行 日本の天然記念物』講談社、308頁によると、ヘゴの自生北限地は東京都[[八丈町]]([[八丈島]])、長崎県[[五島市]]([[福江島]]、鹿児島県肝属郡[[南大隅町]]・[[肝付町]]([[大隅半島]])、川辺郡[[南さつま市]]([[薩摩半島]])、宮崎県[[日南市]]に加えて甑島列島である。</ref>。

2016年3月には、[[下甑島]]にて「[[アシカ]]」が撮影され、絶滅種に指定されている[[ニホンアシカ]]の可能性も指摘されたが、この個体が野生由来なのか飼育個体が逃げ出したのか、ニホンアシカだったのか否かなど大部分の実情が不明になっている<ref>藤崎優祐, 2016年5月16日, 『甑島でアシカ目撃』, [[南日本新聞]]</ref>。


=== カノコユリの自生地 ===
=== カノコユリの自生地 ===
[[File:W kanokoyuri4082.jpg|thumb|right|200px|甑島列島に自生するカノコユリ]]
[[ファイル:Lilium speciosum.jpg|thumb|right|200px|甑島列島に自生するカノコユリ]]


薩摩川内市市花[[カノコユリ]]であり、甑島列島はカノコユリの日本唯一の自生地とされている<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせるが、本来、湿気に弱いはずのカノコユリがなぜ高温多湿の甑島列島に自生するのかは解明されていない<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。
里村、上甑村、鹿島村(シロカノコユリ)、下甑村の4村すべてが[[カノコユリ]]を村花としており、2004年に誕生した薩摩川内市もカノコユリを市花に制定した<ref name="薩摩川内市市花">[http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1110507556171/ 薩摩川内市木・市花・市鳥・市魚が制定されました] 薩摩川内市</ref>。カノコユリは九州の西海岸や四国に生育しているとされるが<ref name="佐世保市">[http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/www/contents/1014971542222/html/common/other/47bec891003.pdf カノコユリ【鹿子百合】] 佐世保市</ref>、甑島列島日本唯一の自生地とされることもある<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせるが、本来、湿気に弱いはずのカノコユリがなぜ高温多湿の甑島列島に自生するのかは解明されていない<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。


[[天明の飢饉]]の際、島民はカノコユリの鱗茎を食糧とした<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[江戸時代]]には[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]が球根を日本から持ち出してヨーロッパで知られるようになり、[[明治時代]]には煮て乾かした球根が菓子原料として中国に輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[大正時代]]には球根がアメリカに輸出され、クリスマス用の生花に用いられた<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。1929年(昭和4年)が球根生産のピークのひとつであり、野掘り(野生)と畑掘りが半分ずつで67万球・39万円の売り上げがあった<ref name="京都園芸"/>。[[太平洋戦争]]後には海外で観賞用花としての需要が高まり、1964年(昭和39年)をピークとして甑島列島で栽培された球根が高値で輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。干した[[甘藷]]の相場が41kg1000円だった時代に、カノコユリは1kg100円の高値で取引されたという<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[高度成長期]]には良質なユリを生み出すための品種改良が行なわれたが、1969年(昭和44年)以降には海外での需要が減少。その後は日本国内中心に出荷していたが、1980年代には一般ユリ・系統ユリ(品種改良した球根)ともに国内向けの出荷を終了し<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>、現在では鹿の子百合生産振興協議会が細々と出荷しているのみである<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。
[[江戸時代]]には[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]が球根を日本から持ち出してヨーロッパで知られるようになり、[[明治時代]]には煮て乾かした球根が菓子原料として中国に輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/><ref name="離島生活の研究832頁">日本民俗学会 (1975)、832頁</ref>。自生していたカノコユリの栽培に着手したのは1873年(明治6年)、初めて輸出したのは1894年(明治27年)であるとされる<ref name="ワイドカラー日本110頁"/>。[[大正時代]]には球根がアメリカに輸出され、[[クリスマス]]や[[復活祭]]用の生花に用いられた<ref name="鹿の子百合の咲く島"/><ref name="日本地理風俗大系224頁">日本地理風俗大系編集委員会 (1960)、224頁</ref>。1929年(昭和4年)が球根生産のピークのひとつであり、野掘り(野生)と畑掘りが半分ずつで67万球・39万円の売り上げがあった<ref name="京都園芸"/>。カノコユリは救荒作物でもあり、[[天明の飢饉]]や[[太平洋戦争]]中には鱗茎を掘って食べたという<ref name="鹿の子百合の咲く島"/><ref name="離島生活の研究808頁">日本民俗学会 (1975)、808頁</ref><ref name="日本の民俗49頁">村田 (1975)、49頁</ref>。戦後には海外で観賞用花としての需要が高まり、1964年(昭和39年)をピークとして甑島列島で栽培された球根が高値で輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。1960年(昭和35年)には甑島列島全体で177トン・1290万円のユリ根を輸出していた<ref name="離島生活の研究832頁"/>。干した[[サツマイモ|甘藷]]の相場が41kg1000円だった時代に、カノコユリは1kg100円の高値で取引されたという<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[高度成長期]]には良質なユリを生み出すための品種改良が行なわれたが、1969年(昭和44年)以降には海外での需要が減少。その後は日本国内中心に出荷していたが、1980年代には一般ユリ・系統ユリ(品種改良した球根)ともに国内向けの出荷を終了し<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>、現在では鹿の子百合生産振興協議会が細々と出荷しているのみである<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。


=== 里集落の陸繋砂州===
=== 里集落の陸繋砂州===
[[File:Sato Shoal.jpg|thumb|right|200px|里集落の陸繋砂州{{国土航空写真}}]]
[[File:Sato Tombolo from viewspot.jpg|thumb|里集落の陸繋砂州]]


上甑島北端にある遠見山はかつて独立した島だったが、流砂によって上甑島本島と陸続きとなり、沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れたのが[[陸繋砂州]](トンボロ)である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。その上に形成された里集落は、陸繋砂州上にある集落としては日本国内最大規模であり<ref name="南の島大図鑑">加藤庸『ニッポン南の島大図鑑』阪急コミュニケーションズ、24-25頁</ref>、[[函館市|函館]](北海道)や[[串本町|串本]](和歌山県)と並んで日本三大トンボロに数えられることもある<ref name="かごしま よかとこ旅">『かごしま よかとこ旅』トライ社、2010年、219頁</ref>。砂州の全長は約1,400m、全幅は最狭部で250m、標高2.3m<ref>[http://www.koshikijima.net/sato/index.html 薩摩川内市里町(旧薩摩郡里村)]甑島観光協会</ref>であり、半島のように突き出た遠見山と島の南側をつないでいる<ref name="離島の人文地理24頁">藤岡 (1964) 、24頁</ref>。この砂州は10cm×5cmほどの礫で構成されており、一般的な砂丘や砂嘴にみられる細砂礫が少ないが、西岸は西之浜海水浴場となっている<ref name="離島の人文地理25頁">藤岡 (1964) 、25頁</ref>。先史時代の遺跡や藩政時代の士族居住地は山麓に形成され、真水に恵まれない沿岸部には被支配者層が居住した<ref name="離島の人文地理25頁"/>。
上甑島北端にある遠見山はかつて独立した島だったが、流砂によって上甑島本島と陸続きとなり、沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れたのが[[陸繋砂州]](トンボロ)である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。その上に形成された里集落は、陸繋砂州上にある集落としては日本国内最大規模であり<ref name="南の島大図鑑">加藤庸『ニッポン南の島大図鑑』阪急コミュニケーションズ、24-25頁</ref>、[[函館市|函館]](北海道)や[[串本町|串本]](和歌山県)と並んで日本三大トンボロに数えられることもある<ref name="かごしま よかとこ旅">『かごしま よかとこ旅』トライ社、2010年、219頁</ref>。砂州の全長は約1,400&nbsp;m、全幅は最狭部で250&nbsp;m、標高2.3&nbsp;m<ref>[http://www.koshikijima.net/sato/index.html 薩摩川内市里町(旧薩摩郡里村)] 甑島観光協会</ref>であり、半島のように突き出た遠見山と島の南側をつないでいる<ref name="離島の人文地理24頁">藤岡 (1964) 、24頁</ref>。この砂州は10&nbsp;[[センチメートル|cm]]×5&nbsp;cmほどの礫で構成されており、一般的な砂丘や砂嘴にみられる細砂礫が少ないが、西岸は西之浜海水浴場となっている<ref name="離島の人文地理25頁">藤岡 (1964) 、25頁</ref>。先史時代の遺跡や藩政時代の士族居住地は山麓に形成され、真水に恵まれない沿岸部には被支配者層が居住した<ref name="離島の人文地理25頁"/>。


下甑島の手打でも、手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている<ref name="離島の人文地理29頁">藤岡 (1964) 29頁</ref>。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)([[ルース台風]])には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる<ref name="離島の人文地理29頁"/>。
下甑島の手打でも、手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている<ref name="離島の人文地理29頁">藤岡 (1964) 29頁</ref>。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)([[ルース台風]])には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる<ref name="離島の人文地理29頁"/>。


=== 長目の浜(甑四湖) ===
=== 長目の浜(甑四湖) ===
[[File:Kamikoshiki Island Nagame-no-hama 2013-08B.JPG|thumb|right|200px|長目の浜の湖沼群]]
[[ファイル:Kamikoshiki Island Nagame-no-hama 2013-08B.JPG|thumb|長目の浜の湖沼群]]

{{seealso|なまこ池}}


上甑島には長目の浜と呼ばれる、大小3つの池が[[砂州]]によって海と隔てられた景勝地がある<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。北から[[なまこ池]](海鼠池)、貝池、鍬崎(かざき)池であり、似たような地形で隣接しながらも、それぞれ塩分濃度や成層状態が異なっており<ref name="湖水環境">久保ほか (1999)</ref>、1934年(昭和9年)調査ではなまこ池の塩分濃度は25.25%、貝池は17.2%、鍬崎池は淡水、須口池は33.3%だった<ref name="離島人文地理27頁">藤岡 (1964) 27頁</ref>。また、直接海通じているけではなく、礫洲を通じて湖水・海水の交換が行なわれるため水位の変化は日本の他の汽水湖沼と比べ極めて小さい<ref name="湖水環境"/>。水位の変化なまこ池で最23cm貝池で最大4cmであり、水位変化の周期は2湖で同じである<ref name="湖水環境"/>なまこ池と貝池は細い水路でつながっているが、貝池の方がなまこ池よりも水が高いため常に貝池からなまこ池に池水が流出している<ref name="湖水環境"/>。これらの池は数千年前まで海岸線が入り組んだ入江だったが崖の崩壊で崩れ落ちた岩石が堆積し、海下で細長い洲となった。浜は10cm×5cm×厚さ3-4cm程度の礫がみ重なった礫浜であり<ref name="離島人文地理27頁"/>、やがて海面が降下して砂州が地上に現れ、現在の長目の浜が形成された。第2代薩摩藩主の[[島津光久]]が景観を「眺めの浜」と称えたことが名称の由来である<ref name="島嶼大事典161頁"/><ref name="日本事典172-173"/>。
上甑島には長目の浜と呼ばれる、大小3つの池が[[砂州]]によって海と隔てられた景勝地がある<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。北から[[なまこ池]](海鼠池)、貝池、鍬崎(かざき)池<ref name="nhk_sp"/>であり、似たような地形で隣接しながらも、それぞれ塩分濃度や成層状態が異なっている<ref name="湖水環境">久保尚子・沢井祐紀・鹿島薫「鹿児島県上甑島に分布する沿岸性汽水湖沼群の湖水環境」『汽水域研究』6巻、1999年、261-271頁</ref>。長目浜からやや東側に離れて[[ウナギ]]やボラが生息している須口池があり、上述の3甑四と呼ばれる。甑四湖はいずれも離島にある湖沼とては規模がきく面積0.56&nbsp;km<sup>2</sup>なまこ池は日本第3位、面積0.16&nbsp;km<sup>2</sup>の貝池と鍬崎池は5位、面積0.10&nbsp;km須口池は8位である<ref name="SHIMADAS553頁">日本センター (1998)、553</ref>。


2015年(平成27年)3月には、それぞれの特徴を有する「このような砂州上に発達した植物群落は全国的にも少なく、性質の異なった三つの潟湖群とともに学術上貴重である」として、長目の浜と、海鼠池、貝池、鍬崎池の3湖沼、砂州上の植物群落が、「甑島長目の浜及び潟湖群の植物群落」の名称で、国の天然記念物に指定された<ref>天然記念物を指定する件(平成27年文部科学省告示第40号、{{ws|[[:s:天然記念物に指定する件 (平成27年文部科学省告示第40号)|原文]]}})</ref><ref>[http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1426033856758/index.html 「甑島長目の浜及び潟湖群の植物群落」の国天然記念物の指定告示について] - 薩摩川内市公式サイト、2015年3月16日閲覧。</ref>。
なまこ池は最大水深24mの汽水池であり、湖水面は海の干満に3-4時間遅れて上下する。[[薩摩藩]]の時代に[[大村湾]]からの搬送中に入れられたとされる[[海鼠]]が名称の由来であり、現在も繁殖している。湖岸には[[アコヤガイ]]が密生しており、[[ボラ]]、[[キス]]、[[シマイサキ科|シマイサキ]]などの魚介類が生息する。貝池は最大水深11mの汽水池である。上部は流れ込んだ雨水で低濃度の塩水となり、下部は春から夏に侵入した海水が停滞して高濃度の塩水となっている([[部分循環湖]])。下部の海水層は多量の[[硫化水素]]を含んでおり、特別な微生物しか生息できない。水深約5mにある上部と下部の境目には、バルト海沿岸の湖と貝池のみでしか確認されていないクロマチウムという光合成硫黄細菌が濃密に分布し<ref name="SHIMADAS1022頁">日本離島センター (1998)、1022頁</ref>、20cmの厚さの赤紫色の帯が広がっている<ref name="湖水環境"/><ref name="ジオサイト地質百選Ⅱ"/><ref>[http://science.shinshu-u.ac.jp/~fukushima/koshikijima.htm 鹿児島県薩摩郡上甑村海鼠池、貝池、鍬崎池]信州大学理学部物質循環学科環境地球化学研究室</ref>。長目の浜からやや東側に離れて、[[ウナギ]]やボラが生息している須口池があり、上述の3つの池と合わせて甑四湖と呼ばれる。甑四湖はいずれも、離島にある湖沼としては規模が大きく、面積0.56km<sup>2</sup>のなまこ池は日本第3位、面積0.16km<sup>2</sup>の貝池と鍬崎池は5位、面積0.10kmの須口池は8位である<ref name="SHIMADAS553頁">日本離島センター (1998)、553頁</ref>。


=== 武家屋敷跡の玉石垣 ===
=== 武家屋敷跡の玉石垣 ===
[[File:Teuchi Fumoto Street.jpg|thumb|手打の武家屋敷通り]]
下甑島の手打と上甑島の里には、小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、大きさの等しい玉石垣(丸石の石垣)が特徴である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。手打の武家屋敷通りには御仮屋門や異国船を取り締まった津口番所跡などがある。2009年には里町にある武家屋敷跡の玉石垣が、日本の有人離島にある優れた景観を選定する「[[島の宝100景]]」([[国土交通省]])に選出された<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。「玉石の石垣が残る『たましいの島』」という短評が付いている。
下甑島の手打と上甑島の里には、小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、大きさの等しい玉石垣(丸石の石垣)が特徴である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。海岸に近い屋敷は玉石垣を築くほかに、道路面から屋敷地面を下げて風を防いでいることが多い<ref name="離島生活の研究808-809頁">日本民俗学会 (1975)、808-809頁</ref>。下げ幅は50&nbsp;cm以下から1.5&nbsp;mほどまで様々であり、屋敷地面が下げられた家の石垣は屋敷内部から見ると2 - 3&nbsp;mほどにもなる<ref name="離島生活の研究808-809頁"/>。手打の武家屋敷通りには御仮屋門や異国船を取り締まった津口番所跡などがある。2009年には里町里にある武家屋敷跡の玉石垣が、日本の有人離島にある優れた景観を選定する「[[島の宝100景]]」([[国土交通省]])に選出された<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。「玉石の石垣が残る『たましいの島』」という短評が付いている。


== 経済 ==
== 経済 ==
2010年(平成22年)の[[国勢調査]]による甑島列島の産業分類別就業者数は、[[第一次産業]]が12.3%、[[第二次産業]]が19.4%、[[第三次産業]]が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。就業者数・総生産額ともに、平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占め、甑島列島の基幹産業は農林水産業である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。
2010年(平成22年)の[[国勢調査]]による甑島列島の産業分類別就業者数は、[[第一次産業]]が12.3%、[[第二次産業]]が19.4%、[[第三次産業]]が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。就業者数・総生産額ともに、日本全体の平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占め、甑島列島の基幹産業は農林水産業である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。


=== 水産業 ===
=== 水産業 ===
[[ファイル:Kibinago sashimi by jetalone in Kagoshima.jpg|thumb|名物であるキビナゴの刺身]]
甑島列島周辺海域は[[アジ]]、[[サバ]]、[[ブリ]]などの回遊魚に加え、[[キビナゴ]]、[[バショウカジキ]]、[[アワビ]]などの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[江戸時代]]には[[イワシ]]や[[カツオ]]漁が盛んであり、薩摩[[干鰯]]の主要産地だったほか<ref name="離島の人文地理178頁">藤岡 (1964) 178頁</ref>、甑島産のカツオは[[土佐]]産に次ぐ質の高さとされた<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。[[明治時代]]にはカツオ漁業が行き詰ったことから[[サンゴ]]採取が好況に沸いたが、すぐに採りつくして[[大正時代]]には急速に衰えた<ref name="離島の人文地理179頁">藤岡 (1964) 179頁</ref>。大正時代にはブリの定置網漁業が盛んとなり、戦後には巾着網漁業が活況を呈した<ref name="離島の人文地理179-180頁">藤岡 (1964) 179-180頁</ref>。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、鹿児島県最古の歴史を持つ定置網漁業や、[[カンパチ]]と[[マグロ]]の養殖漁業も行なっている<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは一年中漁獲されるが、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期であり、[[里町里|里]]が漁獲の中心となる<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは冷凍加工品としても出荷されているが、多くは鮮魚として、いちき串木野市または阿久根市の卸売市場を経由して主に鹿児島市内に出荷されている<ref name="地域発展モデル"/>。
甑島列島周辺海域は[[アジ]]、[[サバ]]、[[ブリ]]などの回遊魚に加え、[[キビナゴ]]、[[バショウカジキ]]、[[アワビ]]などの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[江戸時代]]には[[イワシ]]や[[カツオ]]漁が盛んであり、薩摩[[干鰯]]の主要産地だったほか<ref name="離島の人文地理178頁">藤岡 (1964) 178頁</ref>、甑島産のカツオは[[土佐]]産に次ぐ質の高さとされた<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。[[明治|明治時代]]にはカツオ漁業が行き詰ったことから[[サンゴ]]採取が好況に沸いたが、すぐに採りつくして[[大正|大正時代]]には急速に衰えた<ref name="離島の人文地理179頁">藤岡 (1964) 179頁</ref>。大正時代にはブリの定置網漁業が盛んとなり、戦後には巾着網漁業が活況を呈した<ref name="離島の人文地理179-180頁">藤岡 (1964) 179-180頁</ref>。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、鹿児島県最古の歴史を持つ定置網漁業や、[[カンパチ]]と[[マグロ]]の養殖漁業も行なっている<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは一年中漁獲されるが、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期であり、[[里町里|里]]が漁獲の中心となる<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは冷凍加工品としても出荷されているが、多くは鮮魚として、いちき串木野市または阿久根市の卸売市場を経由して主に鹿児島市内に出荷されている<ref name="地域発展モデル"/>。


甑島は九州で唯一[[海洋深層水]]が取水されている場所であり、水深375mからくみ上げた海水で塩や[[にがり]]などの製造が行なわれている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。上甑島の浦内湾は[[リアス式海岸]]をなし、1950年(昭和25年)から[[真珠]]の養殖を行なっている<ref name="鹿児島大百科辞典107頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、107頁</ref>。母貝には長崎県の[[大村湾]]から購入した[[アコヤガイ]]を使用している<ref name="離島の人文地理185頁">藤岡 (1964) 185頁</ref>。
上甑島の浦内湾は[[リアス式海岸]]をなし、1950年(昭和25年)から[[真珠]]の養殖を行なっている<ref name="鹿児島大百科辞典107頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、107頁</ref>。母貝には長崎県の[[大村湾]]から購入した[[アコヤガイ]]を使用している<ref name="離島の人文地理185頁">藤岡 (1964) 185頁</ref>。2000年代前半には日本各地に海洋深層水利用施設が建設されており、2003年(平成15年)には下甑島でも民間企業が海洋深層水の取水を開始した。比較的規模が小さいが、沖縄を除く九州で唯一[[海洋深層水]]が取水されている場所であり、沖合4&nbsp;km・水深375&nbsp;mの地点から400トン/日を汲み上げている<ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref>『水産年間2013』水産社、2013年、230-234頁</ref><ref group="注">2012年時点で日本には20か所の海洋深層水利用施設があり、うち13か所は取水量が1,000トン/日を上回っている。20施設中14施設が2000年から2005年に取水を開始した施設である。</ref>。


=== 農林業 ===
=== 農林業 ===
急峻な地形のため耕地は少なく点在しているが、[[水稲]]、[[サツマイモ]](主に焼酎用)、[[ソラマメ]]、[[パッションフルーツ]]などが生産されており、肉用牛が放牧されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。森林面積における天然広葉樹林の割合が84%を占め、155ヘクタールの椿林を含む<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。特用林産物としてはシイタケ、椿の実、木炭などが生産されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。
急峻な地形のため耕地は少なく点在しているが、[[水稲]]、[[サツマイモ]](主に焼酎用)、[[ソラマメ]]、[[パッションフルーツ]]などが生産されており、肉用牛が放牧されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。森林面積における天然広葉樹林の割合が84%を占め、155ヘクタールの椿林を含む<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。特用林産物としてはシイタケ、椿の実、木炭などが生産されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。甑島列島には共有地が多いという特徴があり、山林や原野は{{いつ範囲|date=2015年7月|1980年(昭和45年)}}においてもその大部分が共有地だった<ref name="地域特性324頁">板倉ほか (1980)、324頁</ref>。上甑島の江石では田畑でさえも大部分が共有地であり、田は5年ごと、畑は10年ごとに耕作者の割替が行なわれてきたが、1975年(昭和40年)を最後に総体的な割替は行なわれていない<ref name="地域特性324頁"/>。


=== 観光業 ===
=== 観光業 ===
2009年(平成21年)の上甑島への観光客は約21,400人、中甑島への観光客は約1,700人、下甑島への観光客は約14,100人であり、観光客は上甑島がもっとも多い<ref name="離島統計年報2011"/>。全体の観光客数は約37,200人であり、うち列島内での宿泊者数は約34,600人と93%を占める<ref name="離島統計年報2011"/>。2010年の甑島列島全体への入込客数は44,870人であり、薩摩川内市全体の約2%程度である<ref name="地域発展モデル">田中 (2012)</ref>。薩摩川内市全体の入込客数は右肩上がりであるが、甑島列島への入込客数は年によってばらつきがあり、2006年(平成18年)は31,528人、2008年は55,224人だった<ref name="地域発展モデル"/>。列島内にはキャンプ場、海水浴場、ダイビング場などの観光施設が整備されており、その他にも甑大明神マラソン大会、こしき島[[アクアスロン]]大会、甑島イカ釣り大会、竜宮文化フェスタなどのイベントが開催されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。里にある[[甑島風力発電所]]は観光名所のひとつとなっており、1990年(平成2年)に日本で初めて実用化された[[風力発電所]]である<ref name="日本の島事典172-173頁"/><ref name="SHIMADAS1020頁">日本離島センター (1998)、1020頁</ref>。
2009年(平成21年)の上甑島への観光客は約21,400人、中甑島への観光客は約1,700人、下甑島への観光客は約14,100人であり、観光客は上甑島がもっとも多い<ref name="離島統計年報2011"/>。全体の観光客数は約37,200人であり、うち列島内での宿泊者数は約34,600人と93%を占める<ref name="離島統計年報2011"/>。2010年の甑島列島全体への入込客数は44,870人であり、薩摩川内市全体の約2%程度である<ref name="地域発展モデル">田中史朗「離島における水産業を核とした地域発展モデル -鹿児島県甑島列島を事例として-」『鹿児島県立短期大学紀要 人文・社会科学篇』63巻、2012年、71-87頁</ref>。薩摩川内市全体の入込客数は右肩上がりであるが、甑島列島への入込客数は年によってばらつきがあり、2006年(平成18年)は31,528人、2008年は55,224人だった<ref name="地域発展モデル"/>。列島内にはキャンプ場、海水浴場、ダイビング場などの観光施設が整備されており、その他にも甑大明神マラソン大会、こしき島[[アクアスロン]]大会、甑島イカ釣り大会、竜宮文化フェスタなどのイベントが開催されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。里にある[[甑島風力発電所]]は1990年(平成2年)に日本で初めて実用化された風力発電所であり、観光名所のひとつとなっている<ref name="日本の島事典172-173頁"/><ref name="SHIMADAS1020頁">日本離島センター (1998)、1020頁</ref>。2015年には集落や港湾部を除くほぼ列島全体が「甑島国定公園」に指定されている


== 教育 ==
== 教育 ==
[[File:Kamikoshiki Island Sato School 2013-08.JPG|thumb|right|200px|里小中学校]]
[[ファイル:Kamikoshiki Island Sato School 2013-08.JPG|thumb|right|200px|里小中学校]]


; いずれも薩摩川内市立
; いずれも薩摩川内市立
308行目: 581行目:
| 長浜 || 長浜小学校 || 1880年開校
| 長浜 || 長浜小学校 || 1880年開校
|-
|-
! rowspan=6| 閉校した学校
! rowspan=8| 閉校した学校
| 中学校
| 中学校
| 下甑島 || 鹿島 || [[薩摩川内市立鹿島中学校|鹿島中学校]]
| 下甑島 || 鹿島 || [[薩摩川内市立鹿島中学校|鹿島中学校]]
| 2012年3月末
| 2012年3月末
|-
| rowspan=7| 小学校
| rowspan=3| 上甑島
| 桑之浦 || 宇佐小学校 || 1968年閉校
|-
| 江石 || 江石小学校 || 1969年閉校
|-
|-
| rowspan=5| 小学校
| 上甑島
| 瀬上 || 浦内小学校 || 1903年開校、2008年3月末閉校
| 瀬上 || 浦内小学校 || 1903年開校、2008年3月末閉校
|-
|-
328行目: 605行目:
|}
|}


2013年(平成25年)時点で甑島列島には薩摩川内市立中学校が4校、市立小学校が5校所在するが、いずれの学校も児童生徒数不足に悩まされている。2013年5月1日時点の各小中学校の児童生徒数は、[[薩摩川内市立里中学校|里中学校]]が17人、[[薩摩川内市立上甑中学校|上甑中学校]]が16人、[[薩摩川内市立海陽中学校|海陽中学校]]が18人、[[薩摩川内市立海星中学校|海星中学校]]が26人、里小学校が64人、中津小学校が41人、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。甑島列島内に高校はなく、中学校卒業生の多くは本土に引っ越して本土の高校に進学する<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。[[高度成長期]]に子どもの高校進学を機に一家揃って島外に移住する挙家離村多くみられが、1975年(昭和50年)以降には挙家離村はほとんどみられない<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。高度成長期の中学卒業生の就職先は、大阪府と兵庫県で6割を占めていた<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。
2013年(平成25年)時点で甑島列島には薩摩川内市立中学校が4校、市立小学校が5校所在するが、いずれの学校も僅少な児童生徒数に悩まされている。2013年5月1日時点の各小中学校の児童生徒数は、[[薩摩川内市立里中学校|里中学校]]が17人、[[薩摩川内市立上甑中学校|上甑中学校]]が16人、[[薩摩川内市立海陽中学校|海陽中学校]]が18人、[[薩摩川内市立海星中学校|海星中学校]]が26人、里小学校が64人、中津小学校が41人、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。
=== 中学卒業後の進路 ===
甑島列島内に全日制高校や通信制高校の[[学習センター (高等学校通信教育)|学習センター]]はなく、列島内の高校受験生は、学区の制約なく県内の全ての県立高校へ進学できるため、中学校卒業生の多くは九州本土など転出して、島外の高校に進学する<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。1960年(昭和35年)頃からは子どもの高校進学を機に島外に移住する挙家離村多くみられ、主に農業従事者特に阪神地域、次いで名古屋や京浜地域に一家揃って移住した<ref name="地域特性320頁"/>。漁業従事者や公務員などの安定した職を持っている人の離村は少なく、1975年(昭和50年)以降には挙家離村はほとんどみられない<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。高度成長期の中学卒業生の就職先は、大阪府と兵庫県で6割を占めていた<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。


=== 学校の統廃合 ===
=== 学校の統廃合 ===
2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。上甑島の[[上甑町瀬上|瀬上]]には1903年(明治36年)に開校した浦内小学校があったが、2008年(平成20年)に[[上甑町中甑|中甑]]の中津小学校に統合され、106年(卒業生2,065人)の幕を閉じた。中甑島の[[上甑町平良|平良]]には1879年開校の平良小学校と平良中学校があったが、2001年(平成13年)には平良中学校が閉校となって上甑中学校に編入した。平良小学校の児童数は1950年(昭和25年)には226人を数えたが、2010年(平成22年)には7人となり、2011年(平成23年)に閉校となって中津小学校に統合された<ref name="教育基本方針">[http://www.satsumasendai.jp/www/contents/1297297422084/files/152-06-07.pdf 薩摩川内市立小・中学校の再編等に関する基本方針]薩摩川内市</ref>。現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで通っている。上甑島にある2つの中学校、里中学校と上甑中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討され、下甑島にある2つの中学校、海陽中学校と海星中学校も同様である<ref name="教育基本方針"/>。2012年(平成24年)には下甑島の鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった<ref name="教育基本方針"/>。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される予定である<ref name="教育基本方針"/>。下甑島では2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された<ref name="教育基本方針"/>。
上甑島にはかつて小学校が5校あったが、1968年(昭和43年)に桑之浦の宇佐小学校が、1969年(昭和44年)に江石の江石小学校が閉校となっている<ref name="地域特性320頁">板倉ほか (1980)、320頁</ref>。2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。上甑島の[[上甑町瀬上|瀬上]]には1903年(明治36年)に開校した浦内小学校があったが、2008年(平成20年)に[[上甑町中甑|中甑]]の中津小学校に統合され、106年(卒業生2,065人)の幕を閉じた。中甑島の[[上甑町平良|平良]]には1879年開校の平良小学校と平良中学校があったが、2001年(平成13年)には平良中学校が閉校となって上甑中学校に編入した。平良小学校の児童数は1950年(昭和25年)には226人を数えたが、2010年(平成22年)には7人となり、2011年(平成23年)に閉校となって中津小学校に統合された<ref name="教育基本方針">[http://www.satsumasendai.jp/www/contents/1297297422084/files/152-06-07.pdf 薩摩川内市立小・中学校の再編等に関する基本方針] 薩摩川内市</ref>。現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで通っている。上甑島にある2つの中学校、里中学校と上甑中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討され、下甑島にある2つの中学校、海陽中学校と海星中学校も同様である<ref name="教育基本方針"/>。2012年(平成24年)には下甑島の鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった<ref name="教育基本方針"/>。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される予定である<ref name="教育基本方針"/>。下甑島では2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された<ref name="教育基本方針"/>。


=== 山村留学制度 ===
=== 山村留学制度 ===
薩摩川内市は下甑島で[[山村留学]]制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている留学生は里親の下で暮らし、長期休暇のみ実家帰省しいたが、近では家族そろっての留学(移住)も増えているという。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。愛称は下甑島が[[ウミネコ]]の繁殖南限地であることに由来する<ref name="鹿児島大百科辞典107頁"/>。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった<ref name="教育基本方針"/>。愛称は瀬々野浦集落北部にある奇岩「ナポレオン岩」に由来する。
薩摩川内市は下甑島で[[山村留学]]制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている<ref>[https://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1562651603396/index.html ウミネコ留学制度つい] 薩摩川内市 20209月10日閲覧</ref>。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。愛称は下甑島が[[ウミネコ]]の繁殖南限地であることに由来する<ref name="鹿児島大百科辞典107頁"/>。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった<ref name="教育基本方針"/>。愛称は瀬々野浦集落北部にある奇岩「[[ナポレオン岩]]」に由来する。

=== 大学教育 ===
2008年(平成20年)度から、甑島列島を高等教育機関の学外活動の場として提供する「こしきアイランドキャンパス事業」を進めている<ref name="アイランドキャンパス2012">[http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1364448832861/index.html こしきアイランドキャンパスを行いました。(2012年)] 薩摩川内市</ref>。2010年度には[[京都造形芸術大学]]、[[東京造形大学]]、[[鹿児島純心女子大学]]、[[鹿児島大学]]、[[熊本大学]]の5大学が文化交流・伝統食文化研究・化石発掘などを実施し、2011年度には熊本大学、[[宮崎大学]]、[[九州産業大学]]、鹿児島純心女子大学の4大学計6団体が<ref>[http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1235614836551/ こしきアイランドキャンパスを行いました。(2011年)] 薩摩川内市</ref>、2012年度には熊本大学、[[九州情報大学]]、宮崎大学、[[鹿屋体育大学]]、[[鹿児島国際大学]]、九州産業大学の6大学<ref name="アイランドキャンパス2012"/>が甑島列島で学外活動を行なった。


== 文化 ==
== 文化 ==
鹿島村離島住民生活センター(旧藺牟田漁業組合)は国の[[登録有形文化財]]に登録されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[鹿島町藺牟田|鹿島地域]]は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである<ref name="SHIMADAS1028頁">日本離島センター (1998)、1028頁</ref>。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島地域は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた<ref name="SHIMADAS1028頁"/><ref>[http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1246493221712/index.html 鹿島地域交通死亡事故ゼロ22000日] 薩摩川内市 2020年9月6日閲覧</ref>。
2008年(平成20年)度から、甑島列島を高等教育機関の学外活動の場として提供する「こしきアイランドキャンパス事業」を進めている。2010年度には[[京都造形芸術大学]]、[[東京造形大学]]、[[鹿児島純心女子大学]]、[[鹿児島大学]]、[[熊本大学]]の5大学が文化交流・伝統食文化研究・化石発掘などを実施し、2011年度には熊本大学、[[宮崎大学]]、[[九州産業大学]]、鹿児島純心女子大学の4大学計6団体が、2012年度には熊本大学、[[九州情報大学]]、宮崎大学、[[鹿屋体育大学]]、[[鹿児島国際大学]]、九州産業大学の6大学が甑島列島で学外活動を行なった。

鹿島村離島住民生活センターは国の登録有形文化財に指定されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[鹿島町藺牟田|鹿島町]]は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである<ref name="SHIMADAS1028頁">日本離島センター (1998)、1028頁</ref>。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島町は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた<ref name="SHIMADAS1028頁"/>。下甑町の歴史民俗資料館には、世界で一枚だけしかないビーダナシ([[フヨウ]]の織物)などが展示されている<ref name="SHIMADAS1029頁">日本離島センター (1998)、1029頁</ref><ref>[http://www.kagoshima-it.go.jp/pdf/shido_jirei/jirei_kagaku_21.pdf ビーダナシ(芙蓉布)の復元]鹿児島県工業技術センター</ref>。


=== 上甑島の内侍舞 ===
=== 上甑島の内侍舞 ===
上甑島・中甑島の8集落には[[内侍舞]](ないしまい)が伝承されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。中学生女子が舞妓となり、11月に里の八幡神社で行なわれる内侍舞は鹿児島県指定民俗文化財となっている<ref name="SHIMADAS1021頁">日本離島センター (1998)、1021頁</ref>。現在でも内侍舞が伝承されている地域は、鹿児島県では上甑島・中甑島と[[十島村]]([[トカラ列島]])だけとされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。地元では内侍舞という言い方はせず、「メシジョウ」「マチジョウ」などと呼んでいる<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。
上甑島・中甑島の8集落には[[内侍舞]](ないしまい)が伝承されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。中学生女子が舞妓となり、11月に里の八幡神社で行なわれる内侍舞は鹿児島県指定無形民俗文化財となっている<ref name="SHIMADAS1021頁">日本離島センター (1998)、1021頁</ref>。現在でも内侍舞が伝承されている地域は、鹿児島県では上甑島・中甑島と[[十島村]]([[トカラ列島]])だけとされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。地元では内侍舞という言い方はせず、「メシジョウ」「マチジョウ」などと呼んでいる<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。


=== 下甑島のトシドン ===
=== 下甑島のトシドン ===
[[ファイル:Mask_of_Toshidon.jpg|thumb|トシドンの仮面]]
下甑島には秋田県の[[ナマハゲ]]に似た「[[トシドン]]」という伝統的な民俗行事がある<ref name="甑島振興だよりNo.12"/><ref name="島嶼大事典268頁"/>。大みそかの夜、地元の若者がトシドンという怪物に扮し、首なし馬に乗って家々を回る。子どもたちの素行や行儀を戒めて諭し、褒美として子どもに歳餅を与えて去ってゆく。[[シュロ]]の木の皮などで作った衣服をまとっており、[[ポリネシア]]の島々の祭礼を思わせる<ref name="日本の島100 199頁">山と渓谷社 (2006)、199頁</ref>。1977年(昭和52年)には国の[[重要無形民俗文化財]]の指定を受け、2009年(平成21年)には「甑島のトシドン」として[[国連教育科学文化機関]](UNESCO)の[[無形文化遺産]]に登録された<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。
{{Main|トシドン}}

下甑島には[[トシドン]]という伝統的な民俗行事がある<ref name="島嶼大事典268頁"/><ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。かつては上甑島・中甑島・下甑島のそれぞれでトシドンが行なわれていたが、今も伝承されているのは下甑島のみである<ref name="祭礼行事・鹿児島県52頁">高橋ほか (1998)、52頁</ref>。かつては種子島と屋久島でもトシドンを行なっており、種子島のトシドンは甑島からの移住者がもたらしたとされる<ref name="祭礼行事・鹿児島県53頁">高橋ほか (1998)、53頁</ref><ref name="祭礼行事・鹿児島県60-61頁">高橋ほか (1998)、60-61頁</ref>。

1977年(昭和52年)には国の[[重要無形民俗文化財]]の指定を受け、2009年(平成21年)、[[国連教育科学文化機関]](UNESCO)の[[無形文化遺産]]の新制度第1号のひとつとして「甑島のトシドン」が登録された。後に日本が「男鹿のナマハゲ」を無形文化遺産に登録しようとした際、「甑島のトシドンに形式的にも象徴的にも類似している」と指摘されて事務局に却下され、トシドンの登録名を「正月の来訪神行事」と変更してナマハゲを追加するなどといった案が検討された<ref name="無形文化遺産178頁">国末憲人『ユネスコ「無形文化遺産」』平凡社、2012年、178頁</ref>。

=== 瀬々野浦のビーダナシ ===
甑島では[[フヨウ]]の幹の皮を糸にして織った衣服(ビーダナシ)が日本で唯一確認されており、甑島の中でも下甑村の瀬々野浦でのみ確認されている<ref name="南九州の伝統文化Ⅱ362頁">下野 (2005)、362頁</ref><ref name="SHIMADAS1029頁">日本離島センター (1998)、1029頁</ref><ref name="鹿児島県工業技術センター">[http://www.kagoshima-it.go.jp/pdf/shido_jirei/jirei_kagaku_21.pdf ビーダナシ(芙蓉布)の復元] 鹿児島県工業技術センター</ref>。フヨウを表すビーと袖・袂付き長着を表すタナシを組み合わせてビーダナシと呼ぶ<ref name="南九州の伝統文化Ⅱ95-96頁">下野 (2005)、95-96頁</ref>。軽くて涼しいために重宝がられ、裕福な家が晴れ着として着用したようである<ref name="南九州の伝統文化Ⅱ98頁">下野 (2005)、98頁</ref>。現存するビーダナシは下甑の歴史民俗資料館に展示されている4着のみであり、いずれも江戸時代か明治時代に織られたものである<ref name="南九州の伝統文化Ⅱ98頁"/>。フヨウで編んだ紐や綱は南西諸島や九州の島嶼部や伊豆諸島などでも見られ、かつては中国大陸でも甑島同様にフヨウで衣類を編んだという<ref name="南九州の伝統文化Ⅱ106頁">下野 (2005)、106頁</ref>。生糸・木綿・麻・葛で編んだ布は甑島の他の集落でも見られるが、瀬々野浦には生糸・木綿・麻・葛・[[イチビ]]・[[アカメガシワ]]・フヨウの7種類の材料から作った繊維が存在した<ref name="南九州の伝統文化Ⅱ123頁">下野 (2005)、123頁</ref>。独自の文化が瀬々野浦にのみ存在した背景としては、昭和30年代頃までは陸路での訪問が難しい孤立集落だったこと、民具や無形文化の伝承に熱心な集落だったことなどが挙げられる<ref name="南九州の伝統文化Ⅱ123頁"/>。


=== 作品の舞台 ===
=== 作品の舞台 ===
[[ファイル:Shimokoshiki-Teuchi Clinic.jpg|thumb|漫画「[[Dr.コトー診療所]]」の主人公のモデルとなった[[瀬戸上健二郎]]が勤務していた下甑手打診療所]]
[[堀田善衛]]の『鬼無鬼島』のモデルは下甑島である。[[椋鳩十]]が書いた児童文学「孤島の野犬」は下甑島の野犬が主人公であり、手打にはこの作品に因んだ銅像が建てられている<ref>[http://satsumasendai.gr.jp/spotlist/%E5%AD%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E9%87%8E%E7%8A%AC%E5%83%8F/ 孤島の野犬像]薩摩川内 観光物産サイト こころ</ref>。映画「[[釣りバカ日誌]]9」では下甑島がロケ地となった<ref name="鹿児島県観光サイト">[http://www.kagoshima-kankou.com/travel/2008/03/post-41.html 鹿島・下甑 甑島の旅]鹿児島県観光サイト</ref>。浜ちゃんの上司が結婚式を挙げたのは手打地区の民家であり、ラストシーンでは主人公ふたりが手打海岸でキス釣りをした。下甑島は[[森進一]]の母親の出身地であり、1999年(平成11年)には「[[おふくろさん]]」の歌碑が手打に建立された<ref>[http://www.jvcmusic.co.jp/mori/joho/bn.html 『おふくろさん』歌碑除幕式と記念コンサート行われる]森進一公式ウェブサイト</ref>。[[山田貴敏]]が描いた漫画「[[Dr.コトー診療所]]」の舞台である「古志木島」は下甑島がモデルであり<ref name="鹿児島県観光サイト"/>、30年間も離島医療に携わってきた手打診療所の瀬戸上健二郎医師が主人公のモデルだが、テレビドラマのロケは沖縄県の[[与那国島]]で行なわれた。下甑島の奇岩「ナポレオン岩」はDr.コトー診療所や[[ゆでたまご]]の「[[キン肉マン2世]]」などの漫画に登場する。
==== 小説 ====
*[[堀田善衛]]の怪奇小説『鬼無鬼島』は下甑島の[[クロ宗]]を題材としている。
*[[椋鳩十]]の児童文学『孤島の野犬』は下甑島の野犬([[甑山犬]])が主人公である。[[下甑町手打|手打]]にはこの作品に因んだ銅像が建てられている<ref>[http://satsumasendai.gr.jp/spotlist/%E5%AD%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E9%87%8E%E7%8A%AC%E5%83%8F/ 孤島の野犬像] 薩摩川内 観光物産サイト こころ 2020年9月6日閲覧</ref>。

==== 映像 ====
*映画「[[釣りバカ日誌]]9」では下甑島がロケ地となり、手打地区の民家や手打海岸が登場する<ref name="鹿児島県観光サイト">[http://www.kagoshima-kankou.com/travel/2008/03/post-41.html 鹿島・下甑 甑島の旅] 鹿児島県観光サイト{{リンク切れ|date=2020-9}}</ref>。
*[[山田貴敏]]の漫画「[[Dr.コトー診療所]]」の舞台「古志木島」は下甑島がモデルであり<ref name="鹿児島県観光サイト"/>、主人公のモデルは手打診療所の[[瀬戸上健二郎]]医師である<ref>[https://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY201103080309.html 気づけば33年 今日も行く] 朝日新聞、2011年3月8日、2020年9月6日閲覧</ref>。テレビドラマ版のモデルは「八重山列島の架空の島」に変更され、ロケは沖縄県の[[与那国島]]で行なわれた。
*映画「大綱引の恋」では上甑󠄀島、下甑󠄀島がロケ地となり、里港ターミナルや里麓武家屋敷跡、こしきの宿、前の平展望所、薩摩川内市下甑瀬々野浦出張診療所が登場する<ref>{{Cite web|和書|title=映画「大綱引の恋」の薩摩川内ロケ地を巡ろう - 薩摩川内市観光情報|url=https://satsumasendai.gr.jp/56211/|website=こころ {{!}} 薩摩川内観光物産ガイド|accessdate=2020-11-30|language=ja|last=薩摩川内市}}</ref>。

==== そのほか ====
*下甑島は[[森進一]]の母親の出身地であり、1999年(平成11年)には手打に「[[おふくろさん]]」の歌碑が建立された<ref>[https://www.jvcmusic.co.jp/mori/joho/bn.html 『おふくろさん』歌碑除幕式と記念コンサート行われる] 森進一公式ウェブサイト 2020年9月6日閲覧</ref>。
*下甑島の奇岩「[[ナポレオン岩]]」はDr.コトー診療所や[[ゆでたまご]]の「[[キン肉マン2世]]」などの漫画に登場する。

==== ドキュメンタリー ====
* [[NHK特集]]「不思議の島 湖沼群を潜る 〜東シナ海・甑島〜」(1984年9月2日、[[NHK総合テレビジョン|NHK]])<ref name="nhk_sp">{{Cite web2 |url=https://www.nhk.jp/p/ts/DN23LL75QJ/episode/te/VJ4L8L1YMV/ |title=不思議の島 湖沼群を潜る 〜東シナ海・甑島〜 |date=2023-06-26 |publisher=NHK |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230625092903/https://www.nhk.jp/p/ts/DN23LL75QJ/episode/te/VJ4L8L1YMV/ |
df=ja |url-status=dead |archivedate=2023-06-25 |accessdate=2023-06-25}}</ref>


== 関連人物 ==
== 関連人物 ==
* [[梶原景季]] <ref name="SHIMADAS1023頁">日本離島センター (1998)、1023頁</ref> - 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。播磨を経て甑島に上陸したとされる。
* [[梶原景季]] <ref name="SHIMADAS1023頁">日本離島センター (1998)、1023頁</ref> - 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。播磨を経て甑島に上陸したとされる。
* [[楠木正行]] <ref name="SHIMADAS1023頁"/> - 南北朝時代の武将。中甑で死没したとされる。
* [[楠木正行]] <ref name="SHIMADAS1023頁"/> - 南北朝時代の武将。中甑で死没したとされる。
* [[町春草]] <ref name="SHIMADAS1031頁">日本離島センター (1998)、1031頁</ref> – 女流書家。1922年下甑村長浜生まれ。
* [[町春草]] <ref name="SHIMADAS1031頁">日本離島センター (1998)、1031頁</ref>– 女流書家。1922年下甑村長浜生まれ。
* [[本田成親]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/> - 数学者、文筆家。1942年神奈川県横浜市生まれ、里村育ち。
* [[本田成親]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/> - 数学者、文筆家。1942年神奈川県横浜市生まれ、里村育ち。
* [[斉藤きみ子]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/> – 児童文学作家。1949年里村生まれ、大阪育ち。
* [[斉藤きみ子]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/>– 児童文学作家。1949年里村生まれ、大阪育ち。
* [[小倉一郎]] <ref name="SHIMADAS1031頁"/> – 俳優。1951年下甑村生まれ、東京都新宿区育ち。
* [[小倉一郎]] <ref name="SHIMADAS1031頁"/>– 俳優。1951年下甑村生まれ、東京都新宿区育ち。
* [[石原登]]<ref>[[第22回衆議院議員総選挙]]</ref>– 衆議院議員。第22回衆議院議員総選挙で当選。里に詩の石碑がある。
* [[是枝伸彦]]<ref>[https://web.archive.org/web/20151023085600/https://www.sankeibiz.jp/business/news/150902/bsg1509020500003-n1.htm 【トップの素顔】是枝伸彦(1)生かされ、一業を成す (1/3ページ)] SankeiBiz2015.9.2 05:00</ref>– [[ミロク情報サービス]]創業者・会長、元[[テレコムサービス協会]]会長。1937年下甑村生まれ。


== ギャラリー ==
== ギャラリー ==
=== 風景 ===
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File:Kamikoshiki Island Suguchi Pond and Sato Village 2013-08.JPG|須口池と陸繋砂州(上甑島/里)
ファイル:Kamikoshiki Island Suguchi Pond and Sato Village 2013-08.JPG|須口池と陸繋砂州(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Nishinohama Beach 2013-08.JPG|西之浜海水浴場(上甑島/里)
ファイル:Kamikoshiki Island Nishinohama Beach 2013-08.JPG|西之浜海水浴場(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Namako Pond 2013-08.JPG|なまこ池(上甑島/中甑)
ファイル:Kamikoshiki Island Namako Pond 2013-08.JPG|なまこ池(上甑島/中甑)
File:Kamikoshiki Island Namako Pond Aerial photo.png|長目の浜の空中写真{{国土航空写真}}
ファイル:Kamikoshiki Island Namako Pond Aerial photo.png|長目の浜の空中写真{{国土航空写真}}
ファイル:Koshikijima Kashima Fishing Port.jpg|藺牟田集落(下甑島/鹿島)
File:Kamikoshiki Island Koshikijima-kan Hotel 2013-08.JPG|ホテル「甑島館」(上甑島/里)
ファイル:Kagoshima prefectural road 349 at Nagahama.jpg|長浜集落(下甑島/長浜)
File:Kamikoshiki Island Sato Branch Office 2013-08.JPG|薩摩川内市役所里支所]](上甑島/里)
ファイル:Koshikijima Aose Beach.jpg|青瀬海岸(下甑島/青瀬)
File:Kamikoshiki Island Fureai Bus 2013-08A.JPG|甑ふれあいバス(上甑島)
ファイル:Koshikijima Teuchi Beach.jpg|手打海岸(下甑島/手打)
File:Kibinago sashimi by jetalone in Kagoshima.jpg|名物であるキビナゴの刺身
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=== 行政施設 ===
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ファイル:Satsumasendai City Hall Koshikijima Branch Office.jpg|薩摩川内市役所甑島振興局(上甑島/中甑)
ファイル:Satsumasendai City Hall Koshikijima Branch Office Shimokoshiki Service Center.jpg|薩摩川内市役所甑島振興局下甑支所(下甑島/手打)
ファイル:Kamikoshiki Island Sato Branch Office 2013-08.JPG|薩摩川内市役所甑島振興局里市民サービスセンター(上甑島/里)
ファイル:Satsumasendai City Hall Koshikijima Branch Office Kashima Service Center.jpg|薩摩川内市役所甑島振興局鹿島市民サービスセンター(下甑島/鹿島)
ファイル:Koshikijima Summary Court 2023.jpg|甑島簡易裁判所(上甑島/中甑)
ファイル:Koshikijima Executive Police Station.jpg|[[薩摩川内警察署]]甑島幹部派出所(上甑島/中甑)
ファイル:Kagoshima prefecture Koshikijima Branch Office.jpg|鹿児島県甑島庁舎(上甑島/中甑)
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</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Notelist2|2}}
<references group="注"/>


=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|25em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
; 書籍
; 書籍
* 『甑島調査報告』鹿児島縣農地部農業協同組合課、1949年
* 『甑島調査報告』鹿児島縣農地部農業協同組合課、1949年
* 藤岡謙二郎編『離島の人文地理 – 鹿児島県甑島学術調査報告 - 』大明堂、1964年
* 『甑島・長島有形民俗資料調査報告書』鹿児島県明治百年記念館建設調査室、1970年
* 『甑島・長島有形民俗資料調査報告書』鹿児島県明治百年記念館建設調査室、1970年
* 『研究報告No.182 甑島経済社会の現況と課題』九州経済調査協会、1978年
* 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年
* 田島康弘「甑島における過疎化と転出者の集団形成」『鹿児島の地域と歴史』鹿児島大学教育学部社会科教室、1983年
* 『島嶼大事典』日外アソシエーツ、1991年
* 『島嶼大事典』日外アソシエーツ、1991年
* 菅田正昭編『日本の島事典』三交社、1995年
* 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
* 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
* 板倉勝高・浮田典良『日本の町と村 – 地域特性のとらえ方』古今書院、1980年
* 『地図帳 日本の島100』山と渓谷社、2006年
* 九州経済調査協会『研究報告No.182 甑島経済社会の現況と課題』九州経済調査協会、1978年
* 松原武実「甑島の内侍舞とその周辺」 吉川周平『京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告 民俗芸能における神楽の諸相』京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター、2009年
* [[下野敏見]]『南九州の伝統文化 Ⅱ民具と民俗、研究』南方新社、2005年
* 『離島統計年報 2011年版』日本離島センター(CD-ROM)
* 加藤庸ニ原色日本島図鑑 – 日本の島443-有人島全収録-新星出版社、2013(改定第2版)
* 菅田正昭編『日本の島事典三交社、1995
* 高橋秀雄・向山勝貞編『祭礼行事・鹿児島県』おうふう、1998年

* 田島康弘「甑島における過疎化と転出者の集団形成」『鹿児島の地域と歴史』鹿児島大学教育学部社会科教室、1983年
; 雑誌論文
* 日本地誌研究所『日本地誌 第21巻 大分県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県』二宮書店、1975年
* 田中史朗「離島における水産業を核とした地域発展モデル -鹿児島県甑島列島を事例として-」『鹿児島県立短期大学紀要 人文・社会科学篇』63巻、2012年、71-87頁
* 日本地理風俗大系編集委員会『日本地理風俗大系 12 九州地方(下)』誠文堂新光社、1960年
* 長嶋俊介「鹿児島島嶼の列島性 -連続的地域特性の現地確認(社会=生活環境・島嶼経営領域)-」『南太平洋海域調査研究報告』52巻、2011年、37-46頁
* 日本民俗学会編『離島生活の研究』国書刊行会、1975年
* 高橋さつき「『離島』里のUターンとIターン資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、59-62頁
* 藤岡謙二郎編『離島の人文地理 – 鹿児島県甑島学術調査報告 - 』大明堂、1964年
* 三浦尚子「鹿の子百合の咲く島 : 里町における鹿の子百合栽培の変遷資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、54-58頁
* 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年
* 久保尚子・沢井祐紀・鹿島薫「鹿児島県上甑島に分布する沿岸性汽水湖沼群の湖水環境」『汽水域研究』6巻、1999年、261-271頁
* 村田熙『日本の民俗 鹿児島』第一法規出版、1975年
* 浮田典良「鹿児島県甑島における過疎化の進行と近年の変化」『関西学院大学 人文論究』43巻3号、1993年、59-71頁
* 渡辺光『日本地理新大系 第5巻 地誌』河出書房、1954年


; 映像資料
; 映像資料
* 記録映画「甑島のトシドン」民俗文化映像研究所、1979年
* 記録映画「甑島のトシドン」民俗文化映像研究所、1979年
* NHK特集名作100選「[http://www.youtube.com/watch?v=lGNX-CXGgoo NHK特集 不思議の島 湖沼群を潜る 東シナ海・甑島]」1984年9月2日放送
* NHK特集名作100選「[https://www.youtube.com/watch?v=lGNX-CXGgoo NHK特集 不思議の島 湖沼群を潜る 東シナ海・甑島]」1984年9月2日放送


== 関連書籍 ==
== 関連書籍 ==
409行目: 726行目:
* 荒木博之『昔話研究資料叢書5 甑島の昔話 – 鹿児島県薩摩郡上甑島・下甑島』三弥井書店、1975年
* 荒木博之『昔話研究資料叢書5 甑島の昔話 – 鹿児島県薩摩郡上甑島・下甑島』三弥井書店、1975年
* 橋口実昭 写真集『甑島列島』南方新社、1998年
* 橋口実昭 写真集『甑島列島』南方新社、1998年

==関連項目==
*[[万里ヶ島]] - 甑島列島周辺にあったとされる伝承上の島。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
414行目: 734行目:


* [http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html 薩摩川内市]
* [http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html 薩摩川内市]
* [http://www.koshikijima.net/index.html 甑島観光協会]
* [http://www.pref.kagoshima.jp/pr/shima/gaiyo/koshiki/index.html かごしまの島々の紹介 甑島列島] 鹿児島県公式ウェブサイト
* [https://koshiki-tours.co.jp/ こしきツアーズ] 甑島観光案内
* [http://www.pref.kagoshima.jp/pr/shima/gaiyo/koshiki/index.html かごしまの島々の紹介 甑島列島]鹿児島県公式ウェブサイト
* {{Kotobank}}
* [http://imagic.qee.jp/sima4/kagosima/kosikijima.html 日本の島へ行こう 甑島列島]

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2024年10月4日 (金) 04:48時点における最新版

甑島列島
甑島列島。NASAによる撮影。
地理
場所 東シナ海
座標 北緯31度45分24秒 東経129度47分17秒 / 北緯31.75667度 東経129.78806度 / 31.75667; 129.78806座標: 北緯31度45分24秒 東経129度47分17秒 / 北緯31.75667度 東経129.78806度 / 31.75667; 129.78806
主要な島 上甑島中甑島下甑島
面積 117.56 km2 (45.39 sq mi)[1]
長さ 38 km (23.6 mi)[2]
最高標高 604 m (1982 ft)[2]
最高峰 尾岳
行政
都道府県 鹿児島県の旗 鹿児島県
市町村 薩摩川内市旗 薩摩川内市
人口統計
人口 5576(2011年時点)[1]
人口密度 47.4 /km2 (122.8 /sq mi)[1]
言語 日本語
追加情報
時間帯
テンプレートを表示
甑島列島地形図

甑島列島(こしきしまれっとう[3])は、東シナ海にある列島鹿児島県薩摩川内市に属する。甑列島(こしきれっとう)ともいう。上甑島(かみこしきしま)、中甑島(なかこしきしま)、下甑島(しもこしきしま)の順で北東から南西に連なる有人島3島と多数の小規模な無人島からなる[3][4]。中甑島北部にある「」(蒸籠)の形をした大岩を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては「古敷島」「小敷島」「子敷島」「古志岐島」などとも書いた[5][6][7][8]。列島全体では人口5,576人、面積117.56 km2、海岸線延長183.3 kmである[1]

従来、「こしきま」という呼称であったが、薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしきま」に呼称が変更された[3]#名称参照)。

名称

[編集]

地名の由来は、海岸にある(底に穴の開いた取手付きの食物を蒸すための土器)形の岩を御神体に甑島大明神として祭ったことからであるという。平安時代中期の文献である『和名抄』には「古之木之万(こしきしま)」と表記してある[9]

「甑島」は従来「こしきま」と呼称され[3]椋鳩十の児童文学「孤島の野犬」でも下甑島を「じま」と読ませている[3]。また、教科書や地図でも従来「こしきじま」とルビ表記されていた[3]。しかし、読みが混在しているとして平安時代の文献や、合併前の旧村の郷土誌を調査し、その結果に基づき2014年4月に薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしきま」に呼称が変更された[3]。薩摩川内市では市民へ強制はしないとしているが、島民からの反発も報道されている[3]

地理

[編集]
甑島列島の大字
(里地域:、上甑地域:、鹿島地域:、下甑地域:)
各島の大字
里地域 上甑地域 鹿島地域 下甑地域
上甑島 中甑中野江石小島瀬上桑之浦
中甑島 平良
下甑島 藺牟田 手打片野浦瀬々野浦青瀬長浜

甑島列島はいちき串木野市の沖合約45 kmにあり、列島全体の長さは38 km、幅は10 kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた[10]。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、リアス式海岸と起伏に富んだ地形がある[4]。北東から南西にかけて上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある[注 1][11][12][13]。面積は上甑島が44.14 km2、中甑島が7.31 km2、下甑島が66.12 km2であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である[14]。鹿児島県の離島の面積は奄美大島屋久島種子島徳之島沖永良部島長島加計呂麻島、下甑島、喜界島、上甑島の順となり、下甑島の面積は山手線の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423 mの遠目木山[15]、中甑島が294 mの木の口山[16]、下甑島が604 mの尾岳[17]であり、尾岳の尾根には航空自衛隊下甑島分屯基地がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に大陸間弾道弾も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー(J/FPS-5)への更新工事が完了した。

甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない[18]上甑島と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、下甑島は400 - 500 m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の陸繋砂州(トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだリアス式海岸の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。

おもな島

[編集]
ナポレオン岩
有人島
  • 上甑島(かみこしきしま)
  • 中甑島(なかこしきしま)
  • 下甑島(しもこしきしま)
無人島
  • 野島
  • 近島
  • 双子島
  • 沖の島
  • 筒島 (かせとう)
  • 松島
  • 弁慶島
  • 由良島

上甑島北東部、遠見山の東部に野島、近島、双子島、沖の島、筒島、松島が固まっており、中甑島の南に弁慶島がある。下甑島の地峡部西側に由良島があり、下甑島西岸には松島やナポレオン岩(チュウ瀬)などもある。

気候

[編集]

甑島列島[注 2]の年平均気温は18.4度と温暖であり、東京(15.8度)や大阪(17.1度)を1.3-2.6度上回っている。川内など本土の同緯度地域に比べても1度ほど高く、夏期の平均気温に大きな差はないが、冬期の平均気温には顕著な差がある。年降水量は2,430 mmであり、本土の同緯度地域や鹿児島市とほぼ等しく、東京(1,598 mm)や大阪(1,338 mm)の1.5-1.8倍の降水がある。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け[14]、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい[19]

中甑の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 22.0
(71.6)
23.1
(73.6)
25.3
(77.5)
28.5
(83.3)
30.0
(86)
32.1
(89.8)
35.3
(95.5)
37.5
(99.5)
35.2
(95.4)
31.7
(89.1)
27.7
(81.9)
24.6
(76.3)
37.5
(99.5)
平均最高気温 °C°F 12.2
(54)
13.1
(55.6)
15.9
(60.6)
20.1
(68.2)
23.9
(75)
26.4
(79.5)
30.4
(86.7)
31.9
(89.4)
29.1
(84.4)
24.6
(76.3)
19.5
(67.1)
14.5
(58.1)
21.8
(71.2)
日平均気温 °C°F 9.4
(48.9)
10.0
(50)
12.5
(54.5)
16.2
(61.2)
19.9
(67.8)
23.1
(73.6)
27.0
(80.6)
28.0
(82.4)
25.4
(77.7)
21.0
(69.8)
16.2
(61.2)
11.5
(52.7)
18.4
(65.1)
平均最低気温 °C°F 6.4
(43.5)
6.6
(43.9)
8.9
(48)
12.4
(54.3)
16.1
(61)
20.2
(68.4)
24.4
(75.9)
25.0
(77)
22.3
(72.1)
17.7
(63.9)
12.8
(55)
8.4
(47.1)
15.1
(59.2)
最低気温記録 °C°F −1.5
(29.3)
−1.3
(29.7)
−0.1
(31.8)
3.4
(38.1)
8.6
(47.5)
12.4
(54.3)
17.2
(63)
19.5
(67.1)
13.9
(57)
8.4
(47.1)
4.4
(39.9)
−0.1
(31.8)
−1.5
(29.3)
降水量 mm (inch) 103.5
(4.075)
116.0
(4.567)
158.9
(6.256)
208.7
(8.217)
211.2
(8.315)
475.5
(18.72)
302.8
(11.921)
215.6
(8.488)
265.0
(10.433)
110.9
(4.366)
139.2
(5.48)
122.4
(4.819)
2,429.7
(95.657)
平均降水日数 (≥1.0 mm) 12.0 10.8 12.6 10.5 10.2 14.5 10.2 9.9 10.0 7.2 9.5 11.0 128.4
平均月間日照時間 87.0 106.3 154.0 180.3 185.2 124.4 186.6 226.7 189.0 187.6 138.8 103.1 1,868.6
出典:気象庁[20]
(参考)ほぼ同緯度の川内の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 22.1
(71.8)
24.6
(76.3)
25.8
(78.4)
29.1
(84.4)
31.9
(89.4)
34.1
(93.4)
36.2
(97.2)
37.2
(99)
35.4
(95.7)
32.9
(91.2)
28.0
(82.4)
24.5
(76.1)
37.2
(99)
平均最高気温 °C°F 11.8
(53.2)
13.3
(55.9)
16.5
(61.7)
21.0
(69.8)
25.0
(77)
27.3
(81.1)
31.3
(88.3)
32.5
(90.5)
29.9
(85.8)
25.3
(77.5)
19.8
(67.6)
14.2
(57.6)
22.3
(72.1)
日平均気温 °C°F 6.6
(43.9)
7.9
(46.2)
11.0
(51.8)
15.5
(59.9)
19.6
(67.3)
23.1
(73.6)
27.0
(80.6)
27.6
(81.7)
24.7
(76.5)
19.3
(66.7)
13.8
(56.8)
8.6
(47.5)
17.1
(62.8)
平均最低気温 °C°F 2.0
(35.6)
2.8
(37)
5.8
(42.4)
10.2
(50.4)
14.8
(58.6)
19.6
(67.3)
23.6
(74.5)
24.0
(75.2)
20.7
(69.3)
14.6
(58.3)
8.8
(47.8)
3.8
(38.8)
12.6
(54.7)
最低気温記録 °C°F −6.6
(20.1)
−7.5
(18.5)
−4.0
(24.8)
−1.7
(28.9)
5.4
(41.7)
10.6
(51.1)
16.8
(62.2)
17.1
(62.8)
8.8
(47.8)
2.7
(36.9)
−1.3
(29.7)
−4.9
(23.2)
−7.5
(18.5)
降水量 mm (inch) 85.0
(3.346)
114.0
(4.488)
156.5
(6.161)
179.2
(7.055)
208.6
(8.213)
506.5
(19.941)
334.0
(13.15)
239.5
(9.429)
231.4
(9.11)
95.2
(3.748)
110.7
(4.358)
105.3
(4.146)
2,368.8
(93.26)
平均降水日数 (≥1.0 mm) 10.4 10.3 12.6 10.6 9.8 15.6 11.9 11.4 10.4 7.6 9.2 10.4 129.5
平均月間日照時間 111.3 125.8 159.1 177.5 177.8 107.5 173.2 202.9 172.8 182.0 147.6 120.8 1,858.2
出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[21]

歴史

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古代・中世

[編集]

甑島列島には、約8000万年前の白亜紀の地層が残っている。日本国内では初めてケラトプス類の化石が発見され、アジア全域でも貴重な発見とされている。恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてであり、藺牟田にある地層からは翼竜ワニなど爬虫類の化石も発見されている[22]上甑島遺跡は、甑島列島唯一の縄文土器が出土した遺跡である[23]。上甑島の里遺跡、江石遺跡、桑之浦遺跡、下甑島の手打遺跡、片野浦遺跡からは弥生土器土師器須恵器などが出土している[23]

上甑島の桑之浦には神功皇后三韓征伐に関する伝説が残る[24]奈良時代には薩摩隼人族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される[5][24]平安時代初期に編纂された『続日本紀』が「甑島」という名の初出であり[7]遣唐使船が甑島に停泊したことが記された[24]。平安中期に編纂された『和名抄』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する[24]。甑島列島の各地に平家の落人伝説が残っている[24]鎌倉時代中期、承久の乱の軍功により日奉氏の子孫・小川秀能が甑島を賜り、その子である小川秀直が下向し島を統治する。以後370年間、13代に渡って小川氏が統治を行ない[15][25]、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された[24]。里には承久の乱で功績を挙げた小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の日置郡田布施(現南さつま市)に移封されて甑島の統治から離れた[26]

近世・近代

[編集]

江戸時代には島津藩の直轄地となり、島津藩が採用した外城制の枠組みの中で地頭(領主)が派遣された。里・中甑・手打には地頭仮屋が置かれ、ひとつの集落の中に士族の居住地である麓、農民の居住地である在、漁民の居住地である浜が置かれた[25][27]。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ[28]、薩摩藩の南蛮貿易の中継基地にもなった[29]。甑島列島は天草諸島長崎と同じくキリシタン文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた島原の乱の残党35人が処刑されて殉教した[30]。1780年代の天明の大飢饉の際には、下甑島の百姓が出水(現出水市)に、郷士48戸が笠野原台地(現鹿屋市など)に集団移住した[31][32]。江戸時代には薩摩藩が浄土真宗を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった[31]。1871年(明治4年)には鹿児島県に所属[6]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、上甑島7村と中甑島1村が甑島郡上甑村(かみこしきむら)となり、役場は中甑に置かれた[25]。1891年(明治24年)には山地によって隔てられている里が上甑村から分離して里村(さとむら)となり、上甑島・中甑島はそれから1世紀以上も2村体制が続いた[25][26]。下甑島も6村が合併して下甑村(しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)、やはり地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で鹿島村(かしまむら)となった[31]。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている[33]。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、上甑島からは種子島に33戸、本土の薩摩郡高江村(現薩摩川内市)に6戸が移住し[26]、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した[31]。1896年(明治29年)には甑島郡が薩摩郡に編入。1901年(明治34年)には上甑島に本土からの海底電信が到達し、九州商船によって串木野航路が開かれた[34]

現代

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国勢調査が始まった1920年(大正9年)から1940年代まで甑島列島の人口は2万人強で推移し、1950年(昭和25年)には24,744人とピークに達した。しかし、1950年から1980年(昭和55年)の人口減少が著しく、いずれの集落でも1/2から1/3に減少しており、この期間中に1/4以下となった集落も存在する[35]奄美大島瀬戸内町宇検村と並んで、甑島列島は鹿児島県の離島の中で特に過疎化が著しい地域であり[35]、全国の離島の中でももっとも人口減少が激しい島のひとつだった[36]。1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)の間に、鹿児島県の本土で人口が20%以上減少した自治体はなかったが、甑島列島の4村はいずれも20%以上の減少率を記録し、特に鹿島村は43.3%という極めて高い減少を見た[37]

九州の主要な離島(壱岐対馬五島列島種子島屋久島)と比較した際、1954年(昭和29年)時点での第一次産業人口率は6島中1位、農業機械不使用農家率は6島中1位、面積あたりの道路長は6島中5位であり、古くから本土との距離の割に離島的性格の強い地域だった[38]。1972年(昭和47年)時点での甑島列島内(中甑管内)の電話加入数は約800であり、鹿児島県でもっとも加入者が少ない管内だったが、人口100人当たりの電話普及率は7.0-9.9であり、鹿児島県平均12.6よりは少ないが、本土の垂水管内や枕崎管内などを上回っていた[39]

1951年(昭和26年)に九州を襲ったルース台風では甑島列島も大きな被害を受け、里では護岸が900 mに渡って破られたほか、500もの住居が潮水に呑まれた[40]。1960年代には、現職の下甑村議会議員2人が辞職して島を去ったことが全国に波紋を投げかけた[41]。このうちのひとりは農業を主業とする村議会副議長であり、村の最高所得者のひとりだったが、離島後に大阪府堺市の工場に就職した[41]。昭和30年代初めは近隣の熊本県への県外転出者が多かったが、その後は約半数が近畿地方に転出しており、大阪府と兵庫県の2府県で45%弱を占めた[42]

里村は上甑島の東側半分を占め、単独で村を構成する大字に人家が集中していた。上甑村は上甑島の西側半分と中甑島の全域を占め、役場がある中甑に加えて、中野江石小島瀬上桑之浦(いずれも上甑島)、平良(中甑島)の計7つの大字に人家が分散していた。鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字藺牟田が単独で村を構成していた。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、手打片野浦瀬々野浦青瀬長浜などの集落に人家が分散していた。簡易裁判所、電報電話局、鹿児島県土木事務所の出張所、鹿児島県農業改良普及所の支所など、甑島列島における公的機関の多くは上甑島中甑に置かれていた[43]。距離的にもっとも近い本土の自治体は川内市だったが、川内市には規模の大きい港がないために甑島との交流は薄かった[44]。しかし、甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、それぞれの村は薩摩川内市の一部となった。市町村合併時に甑島にある大字は「従前の村名を町名とし、従前の大字名に冠したものをもって大字とする」としたため、大字名がそれぞれ改称され、薩摩郡上甑村大字中甑が薩摩川内市上甑町中甑、薩摩郡下甑村大字手打が薩摩川内市下甑町手打などという表記をされている[25][45]

行政区画の変遷

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明治22年以前 明治22年-明治23年 明治24年-昭和23年 昭和24年-平成15年 平成16年-現在
薩摩郡[注 3] 里村 明治22年合併
上甑村
明治24年一部分離
里村
里村 平成16年川内市ほかと合併
薩摩川内市
中甑村 明治24年一部分離
上甑村
上甑村
中野村
江石村
小島村
瀬上村
桑之浦村
平良村
藺牟田村 明治22年合併
下甑村
下甑村 昭和24年一部分離
鹿島村
手打村 昭和24年一部分離
下甑村
片野浦村
瀬々野浦村
青瀬村
長浜村

人口の変遷

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出典 : 国勢調査
里地域 上甑地域 下甑地域 鹿島地域
いずれの自治体も、2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となった。
1920年(大正9年) 20,061人
1930年(昭和5年) 21,435人
1940年(昭和15年) 20,815人
1950年(昭和25年) 24,744人
1960年(昭和35年) 20,496人
1970年(昭和45年) 11,750人
1980年(昭和55年) 9,428人
1990年(平成2年) 8,348人
2000年(平成12年) 7,220人
2010年(平成22年) 5,576人

交通

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列島外部との交通

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フェリーニューこしき

交通の歴史

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甑島列島は琉球諸島から天草長崎朝鮮半島日本海に向かう船の通り道にあり、琉球とのつながりが深い[30]。また、戦前までは鹿児島本土よりも天草(特に南端の牛深)や長崎などとのつながりの方が強い時代があった。1901年(明治34年)には九州商船が本土と甑島列島の間に航路を開き、長崎-天草(西と牛深)--手打を結んでいたが、1928年(昭和3年)にはこの航路が廃止され、串木野と甑島を結ぶ航路が開かれた[46]。1951年(昭和26年)には阿久根と甑島を結ぶ航路が2日に1便就航し、1952年(昭和27年)からは毎日就航に変更された[46]。地理学者の藤岡謙二郎らが調査した1964年(昭和39年)時点では、串木野港と中甑港を結ぶ航路には200トン船が、阿久根港と里港を結ぶ航路には75トン船が運航されていた[47]。1971年(昭和46年)時点では串木野港との間に200トン船が、阿久根港との間に278トン船が運航されており[44][注 4]、1980年(昭和55年)時点では串木野港との間に200トン船が、阿久根港(川内港経由)との間に400トン船が運航されていた[48]。いずれも一日一便であり、東岸伝いに里、中甑、鹿島、手打などを巡り、各港では(はしけ、小型船)で客と荷を積み下ろした[44]。1971年時点の運賃は里までが270円、手打までが480円だった[44]。阿久根港・里港間の33 kmを約2時間で結んでいたが、台風の前後には欠航が相次いだという。九州商船の他には、1956年(昭和31年)から保健船が週2便運航され、平良・中甑間には艀が一日数便運航されていた[46]。2002年(平成14年)までは串木野から長崎に大型フェリーが運行され、甑島列島-串木野-長崎は経済的なつながりが続いていた[30]

現在の航路

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串木野-甑島列島
本土から甑島列島までの主要な交通手段は、甑島商船いちき串木野市串木野新港から運航しているフェリーである。「フェリーニューこしき」が1日2往復運航されており、上甑島の里港までの所要時間は約75分である。いずれも起点は串木野新港、終点は下甑島の長浜港である。このほか、五色産業が貨物フェリーと高速チャーター船を運航している。
串木野新港とJR鹿児島本線串木野駅間には、船の発着時間に合わせたバスが運行されており、所要時間は約12分である。串木野駅から鹿児島中央駅までは在来線で約35分である。串木野新港と川内駅間にも船の発着時間に合わせた直行バスが運行されており、所要時間は約34分である。川内駅から博多駅までは九州新幹線で最速71分であり、川内駅から鹿児島空港まではバスで約70分である。串木野新港から鹿児島インターチェンジまでは自動車(南九州道経由)で約35分である。
川内-甑島列島
老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航している[49]。九州新幹線800系など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている水戸岡鋭治がデザインを担当した[49]。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側寄港地は甑島列島が属する薩摩川内市の川内港に移設された。上甑島の里港までの所要時間は約50分である。川内港と薩摩川内市街地はやや離れているため、JR川内駅と川内港の間にシャトルバスが運行されている。

列島内部の交通

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甑大橋は2020年(令和2年)に完成した。

島内では助八古道や樫の木児道などの山道が利用されていた[50]。1950年(昭和25年)時点での陸上交通の大部分が徒歩であり、自転車でさえもほとんどみられなかった[51]

1959年(昭和34年)10月時点でも各集落を結ぶ車道はなく、上甑島にはジープが1台、下甑島には小型三輪車が1台のみが存在[52]。この頃には陸上交通の主流が自転車となり、1961年(昭和36年)時点で甑島列島全体に616台の自転車が存在した[51]。1965年(昭和40年)には里と中甑の間に初めてバスが通じた[53]。全国的に自動車の普及が進んだ1971年(昭和46年)においても、「現代離れした地区」として鹿島村(自動車は7台のみ)が引き合いに出されるなど、甑島列島において自動車の普及は大きく遅れた[54]

甑島列島には、鹿児島県道348号から352号までの5本の県道が通っており、国道は通っていない。県道348号桑ノ浦里港線は上甑島西端の桑ノ浦と里を結ぶ路線であり、中甑を通ってZ字型に東西を結んでいる。県道352号瀬上里線は瀬上と里を結ぶ路線であり、348号の短絡線として長目の浜近くを通っている。県道351号鹿島上甑線は下甑島の藺牟田と上甑島の中甑を結ぶ路線であり、藺牟田瀬戸によって分断されていたが、2020年(令和2年)8月に甑大橋が完成して一本の道となった[55]県道349号手打藺牟田港線は下甑島の南北端を結ぶ路線であり、県道350号長浜手打港線は長浜から西岸の瀬々野浦を経由して手打に至る路線だが、瀬々野浦南側の一部が完成していない。

現在では、上甑島・下甑島のいずれでもレンタカー、タクシー、レンタサイクルが利用可能である。薩摩川内市は公用車として3台の電気自動車(EV)を甑島に導入している[56][57][58]。2013年(平成25年)8月には1人乗りEV「コムス」(トヨタ車体製、ミニカー扱い[注 5])を20台導入し、「甑島電気自動車レンタカー導入実証事業」として観光客へのEVの貸し出しも行なっている[56][57][58]。観光遊覧船「かのこ」が運航されている。

なお、島内の助八古道や樫の木児道などの山道を再整備した古道トレッキングも実施されている[50]

甑島コミュニティバス

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上甑島と中甑島では「甑ふれあいバス」(里・上甑地域コミュニティバス)、下甑島では「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス(薩摩川内市甑島コミュニティバス)が南国交通によって運行されている[14]。基本的にどの路線も定期船の発車時刻に合わせたダイヤが組まれており、一日あたり4-7便が運行されている。

列島内の架橋

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平良島と中甑島を結ぶ鹿の子大橋

上甑島の南には無人島の平良島を挟んで中甑島があり、1993年(平成5年)に開通した甑大明神橋(上甑島 - 平良島)と鹿の子大橋(平良島 - 中甑島)の2本の橋が架かっている。中甑島と下甑島の間は最狭部で1.3 kmほどであり、2020年(令和2年)に開通した全長1,533 mの甑大橋で結ばれている[59]

平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている[60]。甑大明神橋・鹿の子大橋の架橋前も、干潮時には上甑島と平良島、平良島と中甑島が陸続きになったという[16]。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には長浜青瀬手打をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。

自然・地形・地質

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甑島列島の地形は天草長島の延長にあり、地質的にも両島と同じく中生層の砂岩・頁岩・花崗岩が卓越している[52]。1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され[61]、2009年(平成21年)には下甑島の鹿島断崖が日本の地質百選に選出された[14][62]。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西-南東方向に発達した断層が露頭している[63]

生態系

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海岸にはウミガメが上陸する。

また、周辺海域はカツオクジラマッコウクジラなどの鯨類の回遊海域になっており、野間半島笠沙町ではホエールウォッチングが行われていた時期も存在する[64][65][66]。昭和23年(1948年)までは、シロナガスクジラナガスクジライワシクジラマッコウクジラなどの大型種を対象とした捕鯨も行われていた[67]

甑島列島は熱帯性の木生シダであるヘゴの自生北限地のひとつであり、「ヘゴ自生北限地帯」の名称で国の天然記念物に指定されている。

列島に生息するカラスバトは種として天然記念物の指定を受けている[14][15][注 6]

2016年3月には、下甑島にて「アシカ」が撮影され、絶滅種に指定されているニホンアシカの可能性も指摘されたが、この個体が野生由来なのか飼育個体が逃げ出したのか、ニホンアシカだったのか否かなど大部分の実情が不明になっている[68]

カノコユリの自生地

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甑島列島に自生するカノコユリ

里村、上甑村、鹿島村(シロカノコユリ)、下甑村の4村すべてがカノコユリを村花としており、2004年に誕生した薩摩川内市もカノコユリを市花に制定した[69]。カノコユリは九州の西海岸や四国に生育しているとされるが[70]、甑島列島が日本唯一の自生地とされることもある[4]。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせるが、本来、湿気に弱いはずのカノコユリがなぜ高温多湿の甑島列島に自生するのかは解明されていない[4]

江戸時代にはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが球根を日本から持ち出してヨーロッパで知られるようになり、明治時代には煮て乾かした球根が菓子原料として中国に輸出された[4][71]。自生していたカノコユリの栽培に着手したのは1873年(明治6年)、初めて輸出したのは1894年(明治27年)であるとされる[44]大正時代には球根がアメリカに輸出され、クリスマス復活祭用の生花に用いられた[4][72]。1929年(昭和4年)が球根生産のピークのひとつであり、野掘り(野生)と畑掘りが半分ずつで67万球・39万円の売り上げがあった[12]。カノコユリは救荒作物でもあり、天明の飢饉太平洋戦争中には鱗茎を掘って食べたという[4][73][74]。戦後には海外で観賞用花としての需要が高まり、1964年(昭和39年)をピークとして甑島列島で栽培された球根が高値で輸出された[4]。1960年(昭和35年)には甑島列島全体で177トン・1290万円のユリ根を輸出していた[71]。干した甘藷の相場が41kg1000円だった時代に、カノコユリは1kg100円の高値で取引されたという[4]高度成長期には良質なユリを生み出すための品種改良が行なわれたが、1969年(昭和44年)以降には海外での需要が減少。その後は日本国内中心に出荷していたが、1980年代には一般ユリ・系統ユリ(品種改良した球根)ともに国内向けの出荷を終了し[4]、現在では鹿の子百合生産振興協議会が細々と出荷しているのみである[4]

里集落の陸繋砂州

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里集落の陸繋砂州

上甑島北端にある遠見山はかつて独立した島だったが、流砂によって上甑島本島と陸続きとなり、沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れたのが陸繋砂州(トンボロ)である[15]。その上に形成された里集落は、陸繋砂州上にある集落としては日本国内最大規模であり[75]函館(北海道)や串本(和歌山県)と並んで日本三大トンボロに数えられることもある[76]。砂州の全長は約1,400 m、全幅は最狭部で250 m、標高2.3 m[77]であり、半島のように突き出た遠見山と島の南側をつないでいる[78]。この砂州は10 cm×5 cmほどの礫で構成されており、一般的な砂丘や砂嘴にみられる細砂礫が少ないが、西岸は西之浜海水浴場となっている[79]。先史時代の遺跡や藩政時代の士族居住地は山麓に形成され、真水に恵まれない沿岸部には被支配者層が居住した[79]

下甑島の手打でも、手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている[80]。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)(ルース台風)には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる[80]

長目の浜(甑四湖)

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長目の浜の湖沼群

上甑島には長目の浜と呼ばれる、大小3つの池が砂州によって海と隔てられた景勝地がある[26]。北からなまこ池(海鼠池)、貝池、鍬崎(かざき)池[81]であり、似たような地形で隣接しながらも、それぞれ塩分濃度や成層状態が異なっている[82]。長目の浜からやや東側に離れて、ウナギやボラが生息している須口池があり、上述の3つの池と合わせて甑四湖と呼ばれる。甑四湖はいずれも、離島にある湖沼としては規模が大きく、面積0.56 km2のなまこ池は日本第3位、面積0.16 km2の貝池と鍬崎池は5位、面積0.10 kmの須口池は8位である[83]

2015年(平成27年)3月には、それぞれの特徴を有する「このような砂州上に発達した植物群落は全国的にも少なく、性質の異なった三つの潟湖群とともに学術上貴重である」として、長目の浜と、海鼠池、貝池、鍬崎池の3湖沼、砂州上の植物群落が、「甑島長目の浜及び潟湖群の植物群落」の名称で、国の天然記念物に指定された[84][85]

武家屋敷跡の玉石垣

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手打の武家屋敷通り

下甑島の手打と上甑島の里には、小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、大きさの等しい玉石垣(丸石の石垣)が特徴である[15]。海岸に近い屋敷は玉石垣を築くほかに、道路面から屋敷地面を下げて風を防いでいることが多い[86]。下げ幅は50 cm以下から1.5 mほどまで様々であり、屋敷地面が下げられた家の石垣は屋敷内部から見ると2 - 3 mほどにもなる[86]。手打の武家屋敷通りには御仮屋門や異国船を取り締まった津口番所跡などがある。2009年には里町里にある武家屋敷跡の玉石垣が、日本の有人離島にある優れた景観を選定する「島の宝100景」(国土交通省)に選出された[22]。「玉石の石垣が残る『たましいの島』」という短評が付いている。

経済

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2010年(平成22年)の国勢調査による甑島列島の産業分類別就業者数は、第一次産業が12.3%、第二次産業が19.4%、第三次産業が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である[14]。就業者数・総生産額ともに、日本全体の平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占め、甑島列島の基幹産業は農林水産業である[14]

水産業

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名物であるキビナゴの刺身

甑島列島周辺海域はアジサバブリなどの回遊魚に加え、キビナゴバショウカジキアワビなどの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている[14]江戸時代にはイワシカツオ漁が盛んであり、薩摩干鰯の主要産地だったほか[87]、甑島産のカツオは土佐産に次ぐ質の高さとされた[26]明治時代にはカツオ漁業が行き詰ったことからサンゴ採取が好況に沸いたが、すぐに採りつくして大正時代には急速に衰えた[88]。大正時代にはブリの定置網漁業が盛んとなり、戦後には巾着網漁業が活況を呈した[89]。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、鹿児島県最古の歴史を持つ定置網漁業や、カンパチマグロの養殖漁業も行なっている[90]。キビナゴは一年中漁獲されるが、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期であり、が漁獲の中心となる[90]。キビナゴは冷凍加工品としても出荷されているが、多くは鮮魚として、いちき串木野市または阿久根市の卸売市場を経由して主に鹿児島市内に出荷されている[90]

上甑島の浦内湾はリアス式海岸をなし、1950年(昭和25年)から真珠の養殖を行なっている[91]。母貝には長崎県の大村湾から購入したアコヤガイを使用している[92]。2000年代前半には日本各地に海洋深層水利用施設が建設されており、2003年(平成15年)には下甑島でも民間企業が海洋深層水の取水を開始した。比較的規模が小さいが、沖縄を除く九州で唯一海洋深層水が取水されている場所であり、沖合4 km・水深375 mの地点から400トン/日を汲み上げている[14][93][注 7]

農林業

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急峻な地形のため耕地は少なく点在しているが、水稲サツマイモ(主に焼酎用)、ソラマメパッションフルーツなどが生産されており、肉用牛が放牧されている[14]。森林面積における天然広葉樹林の割合が84%を占め、155ヘクタールの椿林を含む[14]。特用林産物としてはシイタケ、椿の実、木炭などが生産されている[14]。甑島列島には共有地が多いという特徴があり、山林や原野は1980年(昭和45年)[いつ?]においてもその大部分が共有地だった[94]。上甑島の江石では田畑でさえも大部分が共有地であり、田は5年ごと、畑は10年ごとに耕作者の割替が行なわれてきたが、1975年(昭和40年)を最後に総体的な割替は行なわれていない[94]

観光業

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2009年(平成21年)の上甑島への観光客は約21,400人、中甑島への観光客は約1,700人、下甑島への観光客は約14,100人であり、観光客は上甑島がもっとも多い[1]。全体の観光客数は約37,200人であり、うち列島内での宿泊者数は約34,600人と93%を占める[1]。2010年の甑島列島全体への入込客数は44,870人であり、薩摩川内市全体の約2%程度である[90]。薩摩川内市全体の入込客数は右肩上がりであるが、甑島列島への入込客数は年によってばらつきがあり、2006年(平成18年)は31,528人、2008年は55,224人だった[90]。列島内にはキャンプ場、海水浴場、ダイビング場などの観光施設が整備されており、その他にも甑大明神マラソン大会、こしき島アクアスロン大会、甑島イカ釣り大会、竜宮文化フェスタなどのイベントが開催されている[14]。里にある甑島風力発電所は1990年(平成2年)に日本で初めて実用化された風力発電所であり、観光名所のひとつとなっている[26][95]。2015年には集落や港湾部を除くほぼ列島全体が「甑島国定公園」に指定されている。

教育

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里小中学校
いずれも薩摩川内市立
区分 所在島 所在大字 学校名 開校/閉校年
現存する学校 中学校 上甑島 里中学校 1947年開校
中甑 上甑中学校 1947年開校
下甑島 手打 海陽中学校
長浜 海星中学校
小学校 上甑島 里小学校 1882年開校
中甑 中津小学校 1877年開校
下甑島 鹿島 鹿島小学校 1880年開校
手打 手打小学校 1874年開校
長浜 長浜小学校 1880年開校
閉校した学校 中学校 下甑島 鹿島 鹿島中学校 2012年3月末休校
小学校 上甑島 桑之浦 宇佐小学校 1968年閉校
江石 江石小学校 1969年閉校
瀬上 浦内小学校 1903年開校、2008年3月末閉校
中甑島 平良 平良小学校 1879年開校、2011年3月末閉校
下甑島 瀬々野浦 西山小学校 1879年開校、2013年3月末閉校
青瀬 青瀬小学校 1886年開校、2012年3月末閉校
片野浦 子岳小学校 1886年開校、2012年3月末閉校

2013年(平成25年)時点で甑島列島には薩摩川内市立中学校が4校、市立小学校が5校所在するが、いずれの学校も僅少な児童生徒数に悩まされている。2013年5月1日時点の各小中学校の児童生徒数は、里中学校が17人、上甑中学校が16人、海陽中学校が18人、海星中学校が26人、里小学校が64人、中津小学校が41人、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。

中学卒業後の進路

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甑島列島内に全日制高校や通信制高校の学習センターはなく、列島内の高校受験生は、学区の制約なく県内の全ての県立高校へ進学できるため、中学校卒業生の多くは九州本土などに転出して、島外の高校に進学する[11]。1960年(昭和35年)頃からは子どもの高校進学を機に島外に移住する挙家離村が多くみられ、主に農業従事者が特に阪神地域、次いで名古屋や京浜地域に一家揃って移住した[96]。漁業従事者や公務員などの安定した職を持っている人の離村は少なく、1975年(昭和50年)以降には挙家離村はほとんどみられない[11]。高度成長期の中学卒業生の就職先は、大阪府と兵庫県で6割を占めていた[11]

学校の統廃合

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上甑島にはかつて小学校が5校あったが、1968年(昭和43年)に桑之浦の宇佐小学校が、1969年(昭和44年)に江石の江石小学校が閉校となっている[96]。2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。上甑島の瀬上には1903年(明治36年)に開校した浦内小学校があったが、2008年(平成20年)に中甑の中津小学校に統合され、106年(卒業生2,065人)の幕を閉じた。中甑島の平良には1879年開校の平良小学校と平良中学校があったが、2001年(平成13年)には平良中学校が閉校となって上甑中学校に編入した。平良小学校の児童数は1950年(昭和25年)には226人を数えたが、2010年(平成22年)には7人となり、2011年(平成23年)に閉校となって中津小学校に統合された[97]。現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで通っている。上甑島にある2つの中学校、里中学校と上甑中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討され、下甑島にある2つの中学校、海陽中学校と海星中学校も同様である[97]。2012年(平成24年)には下甑島の鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった[97]。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される予定である[97]。下甑島では2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された[97]

山村留学制度

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薩摩川内市は下甑島で山村留学制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている[98]。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。愛称は下甑島がウミネコの繁殖南限地であることに由来する[91]。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった[97]。愛称は瀬々野浦集落北部にある奇岩「ナポレオン岩」に由来する。

大学教育

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2008年(平成20年)度から、甑島列島を高等教育機関の学外活動の場として提供する「こしきアイランドキャンパス事業」を進めている[99]。2010年度には京都造形芸術大学東京造形大学鹿児島純心女子大学鹿児島大学熊本大学の5大学が文化交流・伝統食文化研究・化石発掘などを実施し、2011年度には熊本大学、宮崎大学九州産業大学、鹿児島純心女子大学の4大学計6団体が[100]、2012年度には熊本大学、九州情報大学、宮崎大学、鹿屋体育大学鹿児島国際大学、九州産業大学の6大学[99]が甑島列島で学外活動を行なった。

文化

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鹿島村離島住民生活センター(旧藺牟田漁業組合)は国の登録有形文化財に登録されている[14]鹿島地域は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである[101]。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島地域は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた[101][102]

上甑島の内侍舞

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上甑島・中甑島の8集落には内侍舞(ないしまい)が伝承されている[14]。中学生女子が舞妓となり、11月に里の八幡神社で行なわれる内侍舞は鹿児島県指定無形民俗文化財となっている[103]。現在でも内侍舞が伝承されている地域は、鹿児島県では上甑島・中甑島と十島村トカラ列島)だけとされている[25]。地元では内侍舞という言い方はせず、「メシジョウ」「マチジョウ」などと呼んでいる[25]

下甑島のトシドン

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トシドンの仮面

下甑島にはトシドンという伝統的な民俗行事がある[17][22]。かつては上甑島・中甑島・下甑島のそれぞれでトシドンが行なわれていたが、今も伝承されているのは下甑島のみである[104]。かつては種子島と屋久島でもトシドンを行なっており、種子島のトシドンは甑島からの移住者がもたらしたとされる[105][106]

1977年(昭和52年)には国の重要無形民俗文化財の指定を受け、2009年(平成21年)、国連教育科学文化機関(UNESCO)の無形文化遺産の新制度第1号のひとつとして「甑島のトシドン」が登録された。後に日本が「男鹿のナマハゲ」を無形文化遺産に登録しようとした際、「甑島のトシドンに形式的にも象徴的にも類似している」と指摘されて事務局に却下され、トシドンの登録名を「正月の来訪神行事」と変更してナマハゲを追加するなどといった案が検討された[107]

瀬々野浦のビーダナシ

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甑島ではフヨウの幹の皮を糸にして織った衣服(ビーダナシ)が日本で唯一確認されており、甑島の中でも下甑村の瀬々野浦でのみ確認されている[108][109][110]。フヨウを表すビーと袖・袂付き長着を表すタナシを組み合わせてビーダナシと呼ぶ[111]。軽くて涼しいために重宝がられ、裕福な家が晴れ着として着用したようである[112]。現存するビーダナシは下甑の歴史民俗資料館に展示されている4着のみであり、いずれも江戸時代か明治時代に織られたものである[112]。フヨウで編んだ紐や綱は南西諸島や九州の島嶼部や伊豆諸島などでも見られ、かつては中国大陸でも甑島同様にフヨウで衣類を編んだという[113]。生糸・木綿・麻・葛で編んだ布は甑島の他の集落でも見られるが、瀬々野浦には生糸・木綿・麻・葛・イチビアカメガシワ・フヨウの7種類の材料から作った繊維が存在した[114]。独自の文化が瀬々野浦にのみ存在した背景としては、昭和30年代頃までは陸路での訪問が難しい孤立集落だったこと、民具や無形文化の伝承に熱心な集落だったことなどが挙げられる[114]

作品の舞台

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漫画「Dr.コトー診療所」の主人公のモデルとなった瀬戸上健二郎が勤務していた下甑手打診療所

小説 

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  • 堀田善衛の怪奇小説『鬼無鬼島』は下甑島のクロ宗を題材としている。
  • 椋鳩十の児童文学『孤島の野犬』は下甑島の野犬(甑山犬)が主人公である。手打にはこの作品に因んだ銅像が建てられている[115]

映像 

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  • 映画「釣りバカ日誌9」では下甑島がロケ地となり、手打地区の民家や手打海岸が登場する[116]
  • 山田貴敏の漫画「Dr.コトー診療所」の舞台「古志木島」は下甑島がモデルであり[116]、主人公のモデルは手打診療所の瀬戸上健二郎医師である[117]。テレビドラマ版のモデルは「八重山列島の架空の島」に変更され、ロケは沖縄県の与那国島で行なわれた。
  • 映画「大綱引の恋」では上甑󠄀島、下甑󠄀島がロケ地となり、里港ターミナルや里麓武家屋敷跡、こしきの宿、前の平展望所、薩摩川内市下甑瀬々野浦出張診療所が登場する[118]

そのほか 

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ドキュメンタリー

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  • NHK特集「不思議の島 湖沼群を潜る 〜東シナ海・甑島〜」(1984年9月2日、NHK[81]

関連人物

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ギャラリー

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風景

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行政施設

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脚注

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注釈

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  1. ^ 1964年発行の『離島の人文地理』では平良島と表記している。
  2. ^ 甑島列島には上甑島の中甑に気象庁の地域気象観測所がある。
  3. ^ 明治29年以前は甑島郡である。
  4. ^ 日本地誌研究所 (1975)、346頁によると、1972年11月時点での串木野港-甑島間の就航船は402トン船、阿久根港-川内港-甑島間の就航船は195トン船であるとしているが、トン数が逆であると思われる。
  5. ^ 道路運送車両法上では第1種原動機付自転車であるがミニカーであるため運転には普通自動車免許が必要
  6. ^ 『自然紀行 日本の天然記念物』講談社、308頁によると、ヘゴの自生北限地は東京都八丈町八丈島)、長崎県五島市福江島、鹿児島県肝属郡南大隅町肝付町大隅半島)、川辺郡南さつま市薩摩半島)、宮崎県日南市に加えて甑島列島である。
  7. ^ 2012年時点で日本には20か所の海洋深層水利用施設があり、うち13か所は取水量が1,000トン/日を上回っている。20施設中14施設が2000年から2005年に取水を開始した施設である。

出典

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参考文献

[編集]
書籍
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  • 『甑島・長島有形民俗資料調査報告書』鹿児島県明治百年記念館建設調査室、1970年
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  • 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
  • 板倉勝高・浮田典良『日本の町と村 – 地域特性のとらえ方』古今書院、1980年
  • 九州経済調査協会『研究報告No.182 甑島経済社会の現況と課題』九州経済調査協会、1978年
  • 下野敏見『南九州の伝統文化 Ⅱ民具と民俗、研究』南方新社、2005年
  • 菅田正昭編『日本の島事典』三交社、1995年
  • 高橋秀雄・向山勝貞編『祭礼行事・鹿児島県』おうふう、1998年
  • 田島康弘「甑島における過疎化と転出者の集団形成」『鹿児島の地域と歴史』鹿児島大学教育学部社会科教室、1983年
  • 日本地誌研究所『日本地誌 第21巻 大分県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県』二宮書店、1975年
  • 日本地理風俗大系編集委員会『日本地理風俗大系 12 九州地方(下)』誠文堂新光社、1960年
  • 日本民俗学会編『離島生活の研究』国書刊行会、1975年
  • 藤岡謙二郎編『離島の人文地理 – 鹿児島県甑島学術調査報告 - 』大明堂、1964年
  • 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年
  • 村田熙『日本の民俗 鹿児島』第一法規出版、1975年
  • 渡辺光『日本地理新大系 第5巻 地誌』河出書房、1954年
映像資料

関連書籍

[編集]
  • 柳田国男『日本昔話記録11 鹿児島県甑島昔話集』三省堂、1973年
  • 荒木博之『昔話研究資料叢書5 甑島の昔話 – 鹿児島県薩摩郡上甑島・下甑島』三弥井書店、1975年
  • 橋口実昭 写真集『甑島列島』南方新社、1998年

関連項目

[編集]
  • 万里ヶ島 - 甑島列島周辺にあったとされる伝承上の島。

外部リンク

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