「プッリャ州」の版間の差分
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|nome= プッリャ州 |
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|zona= イタリア南部 |
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'''プッリャ州'''({{lang-it |
'''プッリャ州'''(プッリャしゅう、{{lang-it|'''Puglia'''}})は、[[イタリア|イタリア共和国]]南部にある[[イタリアの地方行政区画#州|州]]。州都は[[バーリ]]。 |
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しばしばブーツに喩えられるイタリアの「[[かかと]]」に当たる地域で、南東に[[サレント半島]]が突き出している。東は[[アドリア海]]を隔てて[[ギリシャ]]・[[バルカン半島]]と向き合い、南は[[ターラント湾]]に面している。肥沃な平原が広がる地形で、古くから穀倉地帯として知られた。古代には[[古代ギリシア人|ギリシア人]]が植民都市を築き、次いで[[ローマ人]]がこの地を征服して[[アッピア街道]]を延伸した。以後、[[東ローマ帝国]]、[[ノルマン人]]・[[フランス人]]・[[スペイン人]]([[シチリア王国]]・[[ナポリ王国]])など、さまざまな民族や国家の支配を受けた。[[ターラント]]や[[ブリンディジ]]などの港湾都市は古代以来の歴史を有する。 |
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== 名称 == |
== 名称 == |
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この州名のカナ転記にはいくつかの表記揺れが存在する。{{lang|it|Puglia}} の標準[[イタリア語]]での発音は {{IPA-it|'puʎʎa|}} であるが、促音を加えて「'''プッリャ'''」と表記されるほか、「'''プーリア'''」、「'''プーリャ'''」などとも表記される。 |
この州名のカナ転記にはいくつかの表記揺れが存在する。{{lang|it|Puglia}} の標準[[イタリア語]]での発音は {{IPA-it|'puʎʎa|}} であるが、促音を加えて「'''プッリャ'''」と表記されるほか、「'''プーリア'''<ref>{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000146.000044084.html|title=在日イタリア商工会議所主催ICCJ Gala Dinner&Concert2024 今年のテーマ「Puglia」南イタリア・プーリア州に決定!|publisher=在日イタリア商工会議所|date=2024-12-06|accessdate=2024-12-19}}</ref>」、{{要出典範囲|date=2024年12月18日 (水) 18:32 (UTC)|「'''プーリャ'''」}}などとも表記される。 |
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古代には'''アプーリア'''({{lang-grc|Ἀπουλία}} |
古代には、現在の州域の北部・中部が'''アプーリア'''({{lang-grc|Ἀπουλία}})、'''アプリア'''({{lang-la|Apulia}})の名で呼ばれていた。{{lang-en|Apulia}}、{{lang-de|Apulien}} など、ヨーロッパの言語ではこれをもとにした呼び方がされることがある。 |
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== 地理 == |
== 地理 == |
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=== 位置・広がり === |
=== 位置・広がり === |
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[[イタリア半島]]の南東部に位置する州で、東に[[アドリア海]]・[[オトラント海峡]]、南に[[イオニア海]]・[[ターラント湾]]に面する。州都[[バーリ]]は州中央部のアドリア海沿岸に位置し、[[ナポリ]]から東北東へ約220km、アルバニアの首都[[ティラナ]]から西へ約248km、[[ペスカーラ]]から南東へ266km、ギリシャの[[ヨアニナ]]から北西へ約374km、イタリアの首都[[ローマ]]から東南東へ約374kmの距離にある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.benricho.org/map_straightdistance/|title=2点間の直線距離を測る|accessdate=2014-06-08}}</ref>。 |
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[[イタリア半島]]の南東端に位置し、イタリア共和国の最東端([[オトラント]])を有する州である。州南部の[[サレント半島]]は[[アドリア海]]を隔てて東に[[アルバニア]]と向かい合っており、最も狭い場所の幅は約75kmほどの[[オトラント海峡]]である。州の南部は[[タラント湾]]([[イオニア海]]の一部)に面している。 |
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州域はアドリア海に沿って北西 - 南東に細長く、北西に[[モリーゼ州]]、西に[[カンパニア州]]、南西に[[バジリカータ州]]と隣接する。面積は1万9358km²で、イタリア全国では第7位、[[南イタリア|イタリア南部]](離島部のシチリア州は含まない)では最も広い面積を持つ州である。 |
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州都バーリは州中央部の北東海岸(アドリア海沿岸)に位置し、[[ナポリ]]から東北東へ約221km、アルバニアの首都[[ティラナ]]から西へ約249km、[[ペスカーラ]]から南東へ266km、ギリシャの[[ヨアニナ]]から北西へ約374km、イタリアの首都[[ローマ]]から東南東へ約378kmの距離にある。 |
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州南東部の[[サレント半島]]は、[[アドリア海]]の入口にあたる[[オトラント海峡]]を隔てて、東に[[アルバニア]]・[[ギリシャ]]と向かい合っている。オトラント海峡の最も狭い場所の幅は75kmほどである。[[オトラント]]郊外の{{仮リンク|パラシャ岬|it|Punta Palascìa}}(オトラント岬)は、イタリア共和国の最東端である。 |
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隣接する州は以下の通り。 |
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*南西 - [[バジリカータ州]] |
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*西 - [[カンパニア州]] |
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*北西 - [[モリーゼ州]] |
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=== 主要な都市 === |
=== 主要な都市 === |
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人口8万人以上のコムーネは以下の通り。人口は |
人口8万人以上のコムーネは以下の通り。人口は2012年1月1日現在<ref name="demo.istat" />。 |
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*[[バーリ]] ([[バーリ県]]) - |
*[[バーリ]] ([[バーリ県]]) - 315,408人 |
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*[[ターラント]] ([[ターラント県]]) - |
*[[ターラント]] ([[ターラント県]]) - 199,936人 |
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*[[フォッジャ]] ([[フォッジャ県]]) - |
*[[フォッジャ]] ([[フォッジャ県]]) - 147,045人 |
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*[[アンドリア]] ([[バルレッタ=アンドリア=トラーニ県]]) - 100, |
*[[アンドリア]] ([[バルレッタ=アンドリア=トラーニ県]]) - 100,133人 |
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*[[レッ |
*[[バルレッタ]] (バルレッタ=アンドリア=トラーニ県) - 94,322人 |
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*[[ |
*[[レッチェ]] ([[レッチェ県]]) - 89,615人 |
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*[[ブリンディジ]] ([[ブリンディジ県]]) - |
*[[ブリンディジ]] ([[ブリンディジ県]]) - 88,734人 |
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=== 地勢・気候 === |
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[[File:Territori pugliesi.JPG|thumb|250px|(図1)プッリャ州の特徴的な地勢<ref group="注釈">左上から左へガルガーノ(オレンジ)、タヴォリエーレ・デッレ・プーリエ(プッリャ台地=ピンク)、スバッペンニーノ・ダウノ(ダウニア山地=緑)。中央はテッラ・ディ・バーリ(ムルジア=水色)、ヴァッレ・ディトリア(イトリア谷=黄緑)、その内陸がアルコ・イオニコ・タランティーノ地方(紺色)、最南部はサレント半島。</ref>。]] |
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かつて古代ギリシアからの移民が植民都市を築き、ローマ時代にはギリシア人が多数を占めたため[[マグナ・グラエキア]]と呼ばれた地方の一部にあたる。[[6世紀]]から[[11世紀]]後半までの大半が[[東ローマ帝国]]領であったため、[[東方正教会]][[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]に帰属した時期があったが、現在は[[ローマ・カトリック]]の信徒がほとんどである。対岸の[[アルバニア]]からの[[アルバニア人]]移民が多い。また[[サレント半島]]内のグレチア・サレンティーナ(Grecìa Salentina)と呼ばれる一帯を中心に[[ギリシャ人|ギリシャ系]]の住民もいる。<!--く、アルバニア正教会の修道院も所在する。 未確認--> |
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[[File:Altimetria Puglia.svg|thumb|200px|(図2)プッリャ州の地形の割合。右下の小さいグラフはイタリア全土の割合。]] |
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州の地形の特徴は、山岳がほとんどないことである。州面積中で山岳地形が占める割合はわずか1.5%で、これはイタリアの州の中で最も小さい(図2参照)。州の面積約1万9000km²のほとんどは、平野もしくは丘陵によって占められている。 |
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州北部([[フォッジャ県]]周辺)のアドリア海に突き出した地域は'''ガルガーノ'''{{enlink|Gargano||it}}と呼ばれる。州の最高地点であるカルヴォ山{{enlink|Monte Calvo (Gargano)||it}}(1,065 m)もガルガーノにある。アペニン山脈から連なる山地'''スバッペンニーノ・ダウノ'''(ダウニア山地){{enlink|Subappennino Dauno||it}}も、ガルガーノと並んで、州ではわずかな山岳地形である。 |
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ガルガーノ地方とダウニア山地の間に、'''タヴォリエーレ・デッレ・プーリエ'''(プッリャ台地){{enlink|Tavoliere delle Puglie||it}}が広がっている(図1のピンクの部分)。面積約4000km²に及ぶこの地域は、イタリア有数の穀倉地帯である。 |
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州中部には'''ムルジェ'''(ムルジア){{enlink|Murgia}}と呼ばれるカルスト台地が広がっており、この地方は'''テッラ・ディ・バーリ'''{{enlink|Terra di Bari (geografia)||it}}とも呼ばれる。南接するのは'''ヴァッレ・ディトリア'''(イトリア谷){{enlink|Valle d'Itria||it}}と呼ばれる幅が狭く開いた谷である。 |
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州南部の'''[[サレント半島]]'''も大部分は平野が占めている。半島南端部には丘陵地帯セッレ・サレンティーネ{{enlink|Serre salentine||it}}がある。ターラント湾北岸の[[ターラント]]市周辺は'''アルコ・イオニコ・タランティーノ'''地方{{enlink|Arco ionico tarantino||it}}と呼ばれる。 |
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プッリャ州は非常に雨の少ない気候であり、目立った川はほとんどない。雨水は石灰岩質の台地に浸透して地下水となり、海岸線近くで湧出する。石灰岩質の地形は多くの鍾乳洞をつくりだしており、[[カステッラーナ・グロッテ]](バーリ県)は鍾乳洞で有名である。 |
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|File:Monte Calvo Gargano.jpg|カルヴォ山 |
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|File:Gargano0001.jpg|ガルガーノの海岸 |
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|File:Murge Castel del Monte.jpg|ムルジェ台地([[カステル・デル・モンテ]]付近) |
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|File:Valle d'Itria Locorotondo.jpg|イトリアの谷(ヴァッレ・ディトリア) |
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[[File:Tavoliere delle Puglie e Gargano visti da Ascoli Satriano.jpg|thumb|800px|center|タヴォリエーレ・デッレ・プーリエ]] |
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== 歴史 == |
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=== 考古時代からギリシア人の時代 === |
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[[File:APULIA ANTICHI VASI GRECI.JPG|thumb|250px|プッリャから出土した古代ギリシア陶器。紀元前4世紀頃]] |
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プッリャはイタリアの中でも考古遺跡の多い州のひとつである。最初にこの地に定住したのは[[イリュリア人]]たちで、メサピ人{{enlink|Messapii}}としても知られる。その後、[[ミケーネ文明|ミケーネ人]]がこの地に移住した。[[紀元前8世紀]]には[[古代ギリシア人]]が、のちに[[マグナ・グラエキア]]と呼ばれることになる地域のうち、現在の[[ターラント]]や[[サレント]]に移り住んだ。[[紀元前5世紀]]から[[紀元前4世紀]]にかけて、タラス(現在のターラント)を中心とするギリシア人たちはアプリア式陶器{{enlink|Apulian vase painting}}を生み出した。 |
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古代には、現在のプッリャ州の北部のみがアプーリアと呼ばれた。州南部の半島はカラブリアの名で知られた(カラブリアの名称は、現在は[[カラブリア州|イタリア半島西南端の地方]]の名称となっている)。 |
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=== ローマ時代 === |
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紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、[[共和政ローマ]]の[[ローマ人]]たちは、[[サムニウム]]人との[[サムニウム戦争]]や、[[エピロス|エペイロス]]の[[ピュロス]]王との戦争([[ピュロス戦争]]、この戦争の故事が[[ピュロスの勝利]]である)を経てこの地域を征服した。ローマ人たちにとってこの地は重要な土地となった。[[第二次ポエニ戦争]]中の[[紀元前216年]]、ローマが[[カルタゴ]]の[[ハンニバル]]に大敗を喫した[[カンナエの戦い]]が行われたのもこの土地(現在の[[バルレッタ]]郊外)である。カルタゴ軍が引き揚げた後、ローマ人はブリンディシやターラントの港を占領し、この地域への支配を回復した。 |
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[[紀元前201年]]、ハンニバルに勝利した[[スキピオ・アフリカヌス]]の退役兵たちの入植のため、[[サムニウム]]とアプリアの土地が割かれた<ref>[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』31.4</ref>。また、[[紀元前194年]]にはシポントゥム(現{{仮リンク|シポント|en|Siponto}})にも入植が行われた<ref>リウィウス『ローマ建国史』34.45</ref>。 |
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<!--Nagleの出典はここから-->[[紀元前130年]]頃、おそらく[[グラックス兄弟]]の{{仮リンク|センプロニウス諸法|de|Leges Semproniae}}によってプッリャ台地が区画整理され、入植が行われたことが航空写真や発掘調査によって確認でき、[[オリーブ]]やブドウなどの栽培が盛んであったと推測されている。[[ストラボン]]はハンニバル戦争によってこの地は荒廃したと記しているが<ref>ストラボン『[[地理誌]]』6.3.11</ref>、発掘調査ではその影響は軽微であったことがうかがわれ、区画整理と同じ頃にアッピア街道がブリンディシやターラントまで延長されたと考えられている。[[紀元前91年]]からの[[同盟市戦争]]では[[アスコリ・サトリアーノ|アスクルム]]などで反乱が起った<!--ここまで-->{{Sfn|Nagle|p=377}}。 |
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[[帝政ローマ|帝政]]期、[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]の第2行政区「アプリア・エト・カラブリア」{{enlink|Regio II Apulia et Calabria||it}}に編成された。肥沃なアプリアは穀物や油の生産地であり、生産物は東方領土への輸出品となった。 |
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=== 中世初期 === |
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ローマ帝国の崩壊後、この地域は[[ゴート人]]([[東ゴート王国]])、ついで[[ランゴバルド人]]([[ランゴバルド王国]])によって支配された。6世紀以降は[[東ローマ帝国]]の支配下に入った。バーリにはカテパノー{{enlink|Katepano}}の称号を持つ総督が置かれ、南イタリアを管轄するカテパナート{{enlink|Catepanato d'Italia||it}}の首府となった。現在のフォッジャ県一帯がカピタナータ地方(Capitanata)と呼ばれるのはこれに由来する。 |
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800年以降、イスラム教徒の存在が大きくなるが、プッリャ一帯は依然として東ローマ帝国の領域にとどまっていた。主にこの地を治めていたのはランゴバルド人で、これは11世紀に[[ノルマン人]]がこの地を征服するまで続いた。 |
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=== ノルマン人による征服とシチリア王国 === |
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[[ファイル:Castel del Monte - Andria.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[カステル・デル・モンテ]]]] |
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南イタリアを征服したノルマン人の[[ロベルト・イル・グイスカルド]]は、1059年にプッリャ公となった。ノルマン人たちは11世紀末に[[シチリア]]を征服し、シチリア島と南イタリアを支配する[[シチリア王国]]を築いたが、ノルマン人勢力の中心地は本土の[[メルフィ]]([[バジリカータ州]][[ポテンツァ県]])からシチリア島の[[パレルモ]]に移り、プッリャは一地方となった([[ノルマン人による南イタリア征服]]参照)。 |
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1194年、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]がシチリア王位を奪った。12世紀から13世紀にかけ、プッリャにはしばしばホーエンシュタウフェン家の皇帝たちがその居を置いている。特に著名なのは、[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]](フェデリーコ。ハインリヒ6世の子)である。フリードリヒ2世は1240年から1250年にかけて、[[アンドリア]]郊外に[[カステル・デル・モンテ]]を築いた。 |
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フリードリヒ2世の後継者である[[マンフレーディ]]は、1266年にアンジュー家([[アンジュー=シチリア家]])のシャルル・ダンジューに敗死し、シャルルがシチリア王となった([[カルロ1世 (シチリア王)|カルロ1世]])。1282年の[[シチリアの晩祷]]によりシチリア王国が分裂すると、プッリャはカルロ1世が保った大陸側の王国([[ナポリ王国]])の領土に含まれた。 |
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11世紀から13世紀に建てられたプッリャの特徴的な建築物には、古代ギリシャ様式、ビザンツ様式、ノルマン様式、ピサ様式の影響が見られる。 |
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=== スペイン・フランスによる支配 === |
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1442年、[[アラゴン王国|アラゴン王]]・シチリア王[[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]([[トラスタマラ家]]出身)はナポリ王国を征服し、プッリャを含むナポリ王国領を「[[アラゴン連合王国]]」の一部(のちに[[スペイン]]となる)に組み込んだ。プッリャ地域はバローニ(Baroni)と呼ばれる有力領主たちが統治を行った。この時代、沿岸地域はオスマン帝国とヴェネツィア共和国によってしばしば占領されており、とくに1480年のオスマン帝国によるオトラント侵攻{{enlink|Ottoman invasion of Otranto}}が著名である。 |
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南イタリアを支配したスペインの王朝は、トラスタマラ家から[[スペイン・ハプスブルク朝]]を経て、1700年に[[スペイン・ブルボン朝]]に移行する。[[スペイン継承戦争]]中の1707年、オーストリアがナポリを支配するが、[[ポーランド継承戦争]]中の1734年、[[ビトント]]の戦い{{enlink|Battle of Bitonto}}でスペイン軍はオーストリア軍を打ち破って南イタリアの支配を回復し、スペイン・ブルボン家のパルマ公カルロ(のちのスペイン王[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]])がナポリ・シチリア両王国の王に即位した(ナポリ王としてはカルロ7世)。 |
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=== 近現代 === |
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1806年、[[ナポレオン・ボナパルト]]はナポリ王国を征服し、当初は[[ジョゼフ・ボナパルト]]を、次いで妹婿の[[ジョアシャン・ミュラ]]をナポリ王とした。フランスによるナポリ王国支配は1815年まで続くが、この間に封建制の打破と法制度改革が進められた。 |
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[[ウィーン会議]]の結果、スペイン・ブルボン家の下でシチリア王国とナポリ王国が正式に統合されて[[両シチリア王国]]が発足するが、両シチリア王国は旧制度への復帰を図った。1820年にスペインで[[スペイン立憲革命|立憲革命]]が発生すると、これが波及する形で両シチリア王国領でもブルボン家支配からの解放と立憲制への復帰を求める運動が高まった。[[1861年]]、[[両シチリア王国]]が廃止され、[[イタリア王国]]のもとに統一された([[イタリア統一運動]]参照)。社会改革や農業改革は19世紀からゆっくりと進展し、20世紀中盤に加速した。 |
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== 行政区画 == |
== 行政区画 == |
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プッリャ州は以下の6県からなる。 |
プッリャ州は以下の6県からなる。 |
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左端の数字はISTATコード、アルファベット2文字は[[イタリア共和国の県名略記号|県名略記号]]を示す。人口は |
左端の数字はISTATコード、アルファベット2文字は[[イタリア共和国の県名略記号|県名略記号]]を示す。人口は2012年1月1日現在<ref name="demo.istat" />。面積の単位はkm²。 |
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== 社会 == |
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=== 宗教 === |
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かつて古代ギリシアからの移民が植民都市を築き、ローマ時代にはギリシア人が多数を占めたため[[マグナ・グラエキア]]と呼ばれた地方の一部にあたる。[[6世紀]]から[[11世紀]]後半までの大半が[[東ローマ帝国]]領であったため、[[東方正教会]][[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]に帰属した時期があったが、現在は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の信徒がほとんどである。 |
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対岸の[[アルバニア]]からの[[アルバニア人]]移民が多い。また[[サレント半島]]内の[[グレチア・サレンティーナ]] (Grecìa Salentina) と呼ばれる一帯を中心に[[ギリシャ人|ギリシャ系]]の住民もいる。<!--く、アルバニア正教会の修道院も所在する。 未確認--> |
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== 文化 == |
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=== 言語 === |
=== 言語 === |
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[[File:Dialetti Puglia.png|thumb|right|400px|プッリャ州の方言]] |
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2006年の[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]の統計によれば、6歳以上の住民の家庭内での会話における言語状況は以下の通り<ref>{{cite web|url=http://www.istat.it/salastampa/comunicati/non_calendario/20070420_00/testointegrale.pdf#page=5|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|title=La lingua italiana, i dialetti e le lingue stranieri|language=イタリア語|format=pdf|page=5|accessdate=2012-12-10}}</ref>。イタリア語({{lang|it|Italiano}})、地方言語({{lang|it|Dialetto}})、他の言語({{lang|it|Altra lingua}})についてのデータで、左列が全国平均、右列がプッリャ州の数値である。 |
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[[File:Neapolitan language.jpg|thumb|200px|ナポリ語の方言分布]] |
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[[File:Dialetti italiani meridionali estremi.jpg|thumb|200px|シチリア語の方言分布]] |
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[[File:GrikoSpeakingCommunitiesTodayV4.png|thumb|200px|グリコ語が話される地域]] |
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2006年の[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]の統計によれば、6歳以上の住民の家庭内での会話における言語状況は以下の通り<ref>{{cite web|url=http://www.istat.it/salastampa/comunicati/non_calendario/20070420_00/testointegrale.pdf#page=5|author=[[国立統計研究所 (イタリア)|国立統計研究所(ISTAT)]]|title=La lingua italiana, i dialetti e le lingue stranieri|language=イタリア語|format=pdf|page=5|accessdate=2012-12-10}}</ref>。[[イタリア語]]({{lang|it|Italiano}})、地方言語({{lang|it|Dialetto}})、他の言語({{lang|it|Altra lingua}})についてのデータで、左列が全国平均、右列がプッリャ州の数値である。 |
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1861年のイタリア統一以来、プッリャ州ではイタリア語が公用語として用いられている。しかし、この地域の長く複雑な歴史を背景として、さまざまな地方言語{{enlink|Dialetti della Puglia||it}}が話されている。 |
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「[[エスノローグ]]」ではイタリア語の方言として「プッリャ方言」を掲げつつ、標準的なイタリア語との隔たりが大きいもののひとつとしている<ref name="ethnologue">{{cite web|url=http://www.ethnologue.com/show_country.asp?name=IT|title=Languages of Italy|publisher=ethnologue|accessdate=2013-09-05}}</ref>。北部と中部の方言は[[ナポリ語]]の変種、南部の方言は[[シチリア語]]の変種とも分類され、こうした言語状況はプッリャ州の西にある[[カラブリア州]]と類似しているとみなされている。 |
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このほかプッリャ州では、ギリシャ語系のグリコ語、アルバニア語系のアルバレシュ語、フランコプロヴァンス語系のファエート語など、いくつかの少数言語が話されている。 |
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;プッリャ方言(ナポリ語系) |
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:北部と中部で話されるプッリャ語(プッリャ方言)は、[[ナポリ語]]の方言(言語変種)にも分類される(右図参照)。プッリャ方言は、北部のフォッジャ方言(ダウニア方言){{enlink|Dialetto foggiano||it}}、中部のバーリ方言{{enlink|Dialetto apulo-barese||it}}に大きく分類される。 |
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;サレント方言(シチリア語系) |
|||
:南部の[[サレント半島]]では、サレント語{{enlink|Salentino dialect}}が話されており、[[シチリア語]]の方言にも分類される。 |
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;ターラント方言 |
|||
:[[ターラント]]市周辺では[[タラント語]]が話されている。プッリャ方言圏とサレント方言圏の境界付近にあたり、分類については長らく議論の対象となっている。 |
|||
;グリコ語(ギリシャ語系) |
|||
:[[サレント半島]]南部([[レッチェ県]])のいくつかの村([[カリメーラ]]、[[ステルナティーア]]、[[ツォッリーノ]]<ref name="ethnologue" />など)では、[[ギリシャ語]]の変種である{{仮リンク|グリコ語|en|Griko language}}を話す{{仮リンク|グリコ人|en|Griko people}}が暮らしている。グリコ語が話される地域は[[グレチア・サレンティーナ]](サレントのギリシャ)と呼ばれる。同様のグリコ語話者コミュニティは[[カラブリア州]]南部にも存在する。彼らは、かつてイタリア半島南部にあった大きなギリシャ人コミュニティ([[マグナ・グラエキア]]や[[東ローマ帝国]]領の名残り)の生き残りである。 |
|||
:ユネスコの「[[危機に瀕する言語]]のレッドブック」{{enlink|Red Book of Endangered Languages}}によれば、サレントのグリコ語の話者は2万人で、[[危機に瀕する言語]](vulnerable から critically endangered(絶滅寸前)までの4段階のうち、3段階目(深刻な方から2番目)の Severely endangered としている<ref>{{cite web|url=http://www.unesco.org/culture/languages-atlas/en/atlasmap/language-id-1614.html|title=Griko (Salento)|work=UNESCO Interactive Atlas of the World’s Languages in Danger|publisher=UNESCO|accessdate=2013-09-05}}</ref>。 |
|||
;ファエート語(フランコプロヴァンス語系) |
|||
:[[フォッジャ県]]の2つの町([[ファエート]]と[[チェッレ・ディ・サン・ヴィート]])では、[[アルピタン語]](フランコプロヴァンス語)の一種であるファエート語(Faetar)が話されている。 |
|||
:「危機に瀕する言語のレッドブック」によれば、ファエート語の話者は600人で、危機に瀕する言語のうち2段階目の Definitely endangered に位置付けられている<ref>{{cite web|url=http://www.unesco.org/culture/languages-atlas/en/atlasmap/language-id-351.html|title=Faetar|work=UNESCO Interactive Atlas of the World’s Languages in Danger|publisher=UNESCO|accessdate=2013-09-05}}</ref>。 |
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;アルバレシュ語(アルバニア語系) |
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2024年12月18日 (水) 18:32時点における最新版
- プッリャ州
- Regione Puglia
-
プッリャ州の州旗 プッリャ州の紋章 -
国 イタリア 地域 イタリア南部 州都 バーリ 面積 19,358 km² 人口 4,050,072 [1] 人 2012-01-01 人口密度 209.2 人/km2 県 バーリ、 バルレッタ=アンドリア=トラーニ、 ブリンディジ、 フォッジャ、 レッチェ、 ターラント コムーネ数 258 (一覧) 公式サイト [1]
プッリャ州(プッリャしゅう、イタリア語: Puglia)は、イタリア共和国南部にある州。州都はバーリ。
しばしばブーツに喩えられるイタリアの「かかと」に当たる地域で、南東にサレント半島が突き出している。東はアドリア海を隔ててギリシャ・バルカン半島と向き合い、南はターラント湾に面している。肥沃な平原が広がる地形で、古くから穀倉地帯として知られた。古代にはギリシア人が植民都市を築き、次いでローマ人がこの地を征服してアッピア街道を延伸した。以後、東ローマ帝国、ノルマン人・フランス人・スペイン人(シチリア王国・ナポリ王国)など、さまざまな民族や国家の支配を受けた。ターラントやブリンディジなどの港湾都市は古代以来の歴史を有する。
名称
[編集]この州名のカナ転記にはいくつかの表記揺れが存在する。Puglia の標準イタリア語での発音は ['puʎʎa] であるが、促音を加えて「プッリャ」と表記されるほか、「プーリア[2]」、「プーリャ」[要出典]などとも表記される。
古代には、現在の州域の北部・中部がアプーリア(古代ギリシア語: Ἀπουλία)、アプリア(ラテン語: Apulia)の名で呼ばれていた。英語: Apulia、ドイツ語: Apulien など、ヨーロッパの言語ではこれをもとにした呼び方がされることがある。
地理
[編集]位置・広がり
[編集]イタリア半島の南東部に位置する州で、東にアドリア海・オトラント海峡、南にイオニア海・ターラント湾に面する。州都バーリは州中央部のアドリア海沿岸に位置し、ナポリから東北東へ約220km、アルバニアの首都ティラナから西へ約248km、ペスカーラから南東へ266km、ギリシャのヨアニナから北西へ約374km、イタリアの首都ローマから東南東へ約374kmの距離にある[3]。
州域はアドリア海に沿って北西 - 南東に細長く、北西にモリーゼ州、西にカンパニア州、南西にバジリカータ州と隣接する。面積は1万9358km²で、イタリア全国では第7位、イタリア南部(離島部のシチリア州は含まない)では最も広い面積を持つ州である。
州南東部のサレント半島は、アドリア海の入口にあたるオトラント海峡を隔てて、東にアルバニア・ギリシャと向かい合っている。オトラント海峡の最も狭い場所の幅は75kmほどである。オトラント郊外のパラシャ岬(オトラント岬)は、イタリア共和国の最東端である。
主要な都市
[編集]人口8万人以上のコムーネは以下の通り。人口は2012年1月1日現在[1]。
- バーリ (バーリ県) - 315,408人
- ターラント (ターラント県) - 199,936人
- フォッジャ (フォッジャ県) - 147,045人
- アンドリア (バルレッタ=アンドリア=トラーニ県) - 100,133人
- バルレッタ (バルレッタ=アンドリア=トラーニ県) - 94,322人
- レッチェ (レッチェ県) - 89,615人
- ブリンディジ (ブリンディジ県) - 88,734人
地勢・気候
[編集]州の地形の特徴は、山岳がほとんどないことである。州面積中で山岳地形が占める割合はわずか1.5%で、これはイタリアの州の中で最も小さい(図2参照)。州の面積約1万9000km²のほとんどは、平野もしくは丘陵によって占められている。
州北部(フォッジャ県周辺)のアドリア海に突き出した地域はガルガーノ (it:Gargano) と呼ばれる。州の最高地点であるカルヴォ山 (it:Monte Calvo (Gargano)) (1,065 m)もガルガーノにある。アペニン山脈から連なる山地スバッペンニーノ・ダウノ(ダウニア山地) (it:Subappennino Dauno) も、ガルガーノと並んで、州ではわずかな山岳地形である。
ガルガーノ地方とダウニア山地の間に、タヴォリエーレ・デッレ・プーリエ(プッリャ台地) (it:Tavoliere delle Puglie) が広がっている(図1のピンクの部分)。面積約4000km²に及ぶこの地域は、イタリア有数の穀倉地帯である。
州中部にはムルジェ(ムルジア) (Murgia) と呼ばれるカルスト台地が広がっており、この地方はテッラ・ディ・バーリ (it:Terra di Bari (geografia)) とも呼ばれる。南接するのはヴァッレ・ディトリア(イトリア谷) (it:Valle d'Itria) と呼ばれる幅が狭く開いた谷である。
州南部のサレント半島も大部分は平野が占めている。半島南端部には丘陵地帯セッレ・サレンティーネ (it:Serre salentine) がある。ターラント湾北岸のターラント市周辺はアルコ・イオニコ・タランティーノ地方 (it:Arco ionico tarantino) と呼ばれる。
プッリャ州は非常に雨の少ない気候であり、目立った川はほとんどない。雨水は石灰岩質の台地に浸透して地下水となり、海岸線近くで湧出する。石灰岩質の地形は多くの鍾乳洞をつくりだしており、カステッラーナ・グロッテ(バーリ県)は鍾乳洞で有名である。
-
カルヴォ山
-
ガルガーノの海岸
-
ムルジェ台地(カステル・デル・モンテ付近)
-
イトリアの谷(ヴァッレ・ディトリア)
歴史
[編集]考古時代からギリシア人の時代
[編集]プッリャはイタリアの中でも考古遺跡の多い州のひとつである。最初にこの地に定住したのはイリュリア人たちで、メサピ人 (Messapii) としても知られる。その後、ミケーネ人がこの地に移住した。紀元前8世紀には古代ギリシア人が、のちにマグナ・グラエキアと呼ばれることになる地域のうち、現在のターラントやサレントに移り住んだ。紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて、タラス(現在のターラント)を中心とするギリシア人たちはアプリア式陶器 (Apulian vase painting) を生み出した。
古代には、現在のプッリャ州の北部のみがアプーリアと呼ばれた。州南部の半島はカラブリアの名で知られた(カラブリアの名称は、現在はイタリア半島西南端の地方の名称となっている)。
ローマ時代
[編集]紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、共和政ローマのローマ人たちは、サムニウム人とのサムニウム戦争や、エペイロスのピュロス王との戦争(ピュロス戦争、この戦争の故事がピュロスの勝利である)を経てこの地域を征服した。ローマ人たちにとってこの地は重要な土地となった。第二次ポエニ戦争中の紀元前216年、ローマがカルタゴのハンニバルに大敗を喫したカンナエの戦いが行われたのもこの土地(現在のバルレッタ郊外)である。カルタゴ軍が引き揚げた後、ローマ人はブリンディシやターラントの港を占領し、この地域への支配を回復した。
紀元前201年、ハンニバルに勝利したスキピオ・アフリカヌスの退役兵たちの入植のため、サムニウムとアプリアの土地が割かれた[4]。また、紀元前194年にはシポントゥム(現シポント)にも入植が行われた[5]。
紀元前130年頃、おそらくグラックス兄弟のセンプロニウス諸法によってプッリャ台地が区画整理され、入植が行われたことが航空写真や発掘調査によって確認でき、オリーブやブドウなどの栽培が盛んであったと推測されている。ストラボンはハンニバル戦争によってこの地は荒廃したと記しているが[6]、発掘調査ではその影響は軽微であったことがうかがわれ、区画整理と同じ頃にアッピア街道がブリンディシやターラントまで延長されたと考えられている。紀元前91年からの同盟市戦争ではアスクルムなどで反乱が起った[7]。
帝政期、イタリア本土の第2行政区「アプリア・エト・カラブリア」 (it:Regio II Apulia et Calabria) に編成された。肥沃なアプリアは穀物や油の生産地であり、生産物は東方領土への輸出品となった。
中世初期
[編集]ローマ帝国の崩壊後、この地域はゴート人(東ゴート王国)、ついでランゴバルド人(ランゴバルド王国)によって支配された。6世紀以降は東ローマ帝国の支配下に入った。バーリにはカテパノー (Katepano) の称号を持つ総督が置かれ、南イタリアを管轄するカテパナート (it:Catepanato d'Italia) の首府となった。現在のフォッジャ県一帯がカピタナータ地方(Capitanata)と呼ばれるのはこれに由来する。
800年以降、イスラム教徒の存在が大きくなるが、プッリャ一帯は依然として東ローマ帝国の領域にとどまっていた。主にこの地を治めていたのはランゴバルド人で、これは11世紀にノルマン人がこの地を征服するまで続いた。
ノルマン人による征服とシチリア王国
[編集]南イタリアを征服したノルマン人のロベルト・イル・グイスカルドは、1059年にプッリャ公となった。ノルマン人たちは11世紀末にシチリアを征服し、シチリア島と南イタリアを支配するシチリア王国を築いたが、ノルマン人勢力の中心地は本土のメルフィ(バジリカータ州ポテンツァ県)からシチリア島のパレルモに移り、プッリャは一地方となった(ノルマン人による南イタリア征服参照)。
1194年、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシチリア王位を奪った。12世紀から13世紀にかけ、プッリャにはしばしばホーエンシュタウフェン家の皇帝たちがその居を置いている。特に著名なのは、フリードリヒ2世(フェデリーコ。ハインリヒ6世の子)である。フリードリヒ2世は1240年から1250年にかけて、アンドリア郊外にカステル・デル・モンテを築いた。
フリードリヒ2世の後継者であるマンフレーディは、1266年にアンジュー家(アンジュー=シチリア家)のシャルル・ダンジューに敗死し、シャルルがシチリア王となった(カルロ1世)。1282年のシチリアの晩祷によりシチリア王国が分裂すると、プッリャはカルロ1世が保った大陸側の王国(ナポリ王国)の領土に含まれた。
11世紀から13世紀に建てられたプッリャの特徴的な建築物には、古代ギリシャ様式、ビザンツ様式、ノルマン様式、ピサ様式の影響が見られる。
スペイン・フランスによる支配
[編集]1442年、アラゴン王・シチリア王アルフォンソ5世(トラスタマラ家出身)はナポリ王国を征服し、プッリャを含むナポリ王国領を「アラゴン連合王国」の一部(のちにスペインとなる)に組み込んだ。プッリャ地域はバローニ(Baroni)と呼ばれる有力領主たちが統治を行った。この時代、沿岸地域はオスマン帝国とヴェネツィア共和国によってしばしば占領されており、とくに1480年のオスマン帝国によるオトラント侵攻 (Ottoman invasion of Otranto) が著名である。
南イタリアを支配したスペインの王朝は、トラスタマラ家からスペイン・ハプスブルク朝を経て、1700年にスペイン・ブルボン朝に移行する。スペイン継承戦争中の1707年、オーストリアがナポリを支配するが、ポーランド継承戦争中の1734年、ビトントの戦い (Battle of Bitonto) でスペイン軍はオーストリア軍を打ち破って南イタリアの支配を回復し、スペイン・ブルボン家のパルマ公カルロ(のちのスペイン王カルロス3世)がナポリ・シチリア両王国の王に即位した(ナポリ王としてはカルロ7世)。
近現代
[編集]1806年、ナポレオン・ボナパルトはナポリ王国を征服し、当初はジョゼフ・ボナパルトを、次いで妹婿のジョアシャン・ミュラをナポリ王とした。フランスによるナポリ王国支配は1815年まで続くが、この間に封建制の打破と法制度改革が進められた。
ウィーン会議の結果、スペイン・ブルボン家の下でシチリア王国とナポリ王国が正式に統合されて両シチリア王国が発足するが、両シチリア王国は旧制度への復帰を図った。1820年にスペインで立憲革命が発生すると、これが波及する形で両シチリア王国領でもブルボン家支配からの解放と立憲制への復帰を求める運動が高まった。1861年、両シチリア王国が廃止され、イタリア王国のもとに統一された(イタリア統一運動参照)。社会改革や農業改革は19世紀からゆっくりと進展し、20世紀中盤に加速した。
行政区画
[編集]プッリャ州は以下の6県からなる。
左端の数字はISTATコード、アルファベット2文字は県名略記号を示す。人口は2012年1月1日現在[1]。面積の単位はkm²。
県名 | 綴り | 県都 | 面積 | 人口 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
071 | FG | フォッジャ県 | Foggia | フォッジャ | 6,960 | 625,657 |
072 | BA | バーリ県 | Bari | バーリ | 3,821 | 1,246,742 |
073 | TA | ターラント県 | Taranto | ターラント | 2,437 | 584,229 |
074 | BR | ブリンディジ県 | Brindisi | ブリンディジ | 1,839 | 400,504 |
075 | LE | レッチェ県 | Lecce | レッチェ | 2,759 | 801,170 |
110 | BT | バルレッタ=アンドリア=トラーニ県 | Barletta-Andria-Trani | バルレッタ アンドリア トラーニ |
1,543 | 391,770 |
社会
[編集]宗教
[編集]かつて古代ギリシアからの移民が植民都市を築き、ローマ時代にはギリシア人が多数を占めたためマグナ・グラエキアと呼ばれた地方の一部にあたる。6世紀から11世紀後半までの大半が東ローマ帝国領であったため、東方正教会コンスタンディヌーポリ総主教庁に帰属した時期があったが、現在はローマ・カトリックの信徒がほとんどである。
対岸のアルバニアからのアルバニア人移民が多い。またサレント半島内のグレチア・サレンティーナ (Grecìa Salentina) と呼ばれる一帯を中心にギリシャ系の住民もいる。
文化
[編集]言語
[編集]2006年の国立統計研究所(ISTAT)の統計によれば、6歳以上の住民の家庭内での会話における言語状況は以下の通り[8]。イタリア語(Italiano)、地方言語(Dialetto)、他の言語(Altra lingua)についてのデータで、左列が全国平均、右列がプッリャ州の数値である。
家庭内の会話における使用言語 | 全国 | 州 |
---|---|---|
イタリア語のみ、あるいは主にイタリア語 | 45.5% | 33.0% |
地方言語のみ、あるいは主に地方言語 | 16.0% | 17.3% |
イタリア語と地方言語の双方 | 32.5% | 47.9% |
他の言語 | 5.1% | 0.9% |
1861年のイタリア統一以来、プッリャ州ではイタリア語が公用語として用いられている。しかし、この地域の長く複雑な歴史を背景として、さまざまな地方言語 (it:Dialetti della Puglia) が話されている。
「エスノローグ」ではイタリア語の方言として「プッリャ方言」を掲げつつ、標準的なイタリア語との隔たりが大きいもののひとつとしている[9]。北部と中部の方言はナポリ語の変種、南部の方言はシチリア語の変種とも分類され、こうした言語状況はプッリャ州の西にあるカラブリア州と類似しているとみなされている。
このほかプッリャ州では、ギリシャ語系のグリコ語、アルバニア語系のアルバレシュ語、フランコプロヴァンス語系のファエート語など、いくつかの少数言語が話されている。
- プッリャ方言(ナポリ語系)
- 北部と中部で話されるプッリャ語(プッリャ方言)は、ナポリ語の方言(言語変種)にも分類される(右図参照)。プッリャ方言は、北部のフォッジャ方言(ダウニア方言) (it:Dialetto foggiano) 、中部のバーリ方言 (it:Dialetto apulo-barese) に大きく分類される。
- サレント方言(シチリア語系)
- 南部のサレント半島では、サレント語 (Salentino dialect) が話されており、シチリア語の方言にも分類される。
- グリコ語(ギリシャ語系)
- サレント半島南部(レッチェ県)のいくつかの村(カリメーラ、ステルナティーア、ツォッリーノ[9]など)では、ギリシャ語の変種であるグリコ語を話すグリコ人が暮らしている。グリコ語が話される地域はグレチア・サレンティーナ(サレントのギリシャ)と呼ばれる。同様のグリコ語話者コミュニティはカラブリア州南部にも存在する。彼らは、かつてイタリア半島南部にあった大きなギリシャ人コミュニティ(マグナ・グラエキアや東ローマ帝国領の名残り)の生き残りである。
- ユネスコの「危機に瀕する言語のレッドブック」 (Red Book of Endangered Languages) によれば、サレントのグリコ語の話者は2万人で、危機に瀕する言語(vulnerable から critically endangered(絶滅寸前)までの4段階のうち、3段階目(深刻な方から2番目)の Severely endangered としている[10]。
- ファエート語(フランコプロヴァンス語系)
- フォッジャ県の2つの町(ファエートとチェッレ・ディ・サン・ヴィート)では、アルピタン語(フランコプロヴァンス語)の一種であるファエート語(Faetar)が話されている。
- 「危機に瀕する言語のレッドブック」によれば、ファエート語の話者は600人で、危機に瀕する言語のうち2段階目の Definitely endangered に位置付けられている[11]。
- アルバレシュ語(アルバニア語系)
- アルバレシュ語はアルバニア語の変種で、南イタリアにはアルバレシュ語コミュニティが点在する。南イタリア全域におけるアルバレシュ語話者は、「危機に瀕する言語のレッドブック」[12]および「エスノローグ」[9]によれば、8万人ないし10万人。ユネスコは危機に瀕する言語(2段階目 definitely endangered)に指定している[12]。
食文化
[編集]観光
[編集]世界遺産
[編集]- アルベロベッロのトゥルッリ (バーリ県アルベロベッロ)
- カステル・デル・モンテ (バルレッタ=アンドリア=トラーニ県アンドリア)
- イタリアのロンゴバルド族:権勢の足跡 (568-774年) の一部
- サン・ミケーレの聖域 (フォッジャ県モンテ・サンタンジェロ)
スポーツ
[編集]サッカー
[編集]州内に本拠を置くプロサッカークラブとしては以下がある。所属リーグは2023-24シーズン現在。
- USレッチェ (レッチェ県レッチェ) - セリエA(1部リーグ)
- SSCバーリ (バーリ県バーリ) - セリエB(2部リーグ)
- SSバルレッタ・カルチョ (バルレッタ=アンドリア=トラーニ県バルレッタ) - セリエD(4部リーグ)
- フィデーリス・アンドリア (バルレッタ=アンドリア=トラーニ県アンドリア) - セリエD
- ASDマルティーナ・カルチョ1947 (ターラント県マルティーナ・フランカ) - セリエD
セリエDでは、バジリカータ州・カンパニア州・ラツィオ州のチームとともにジローネHに属する。プッリャ州の地方リーグとして、エッチェッレンツァ・プッリャ (it:Eccellenza Puglia) がある。
交通
[編集]空港
[編集]- バーリ国際空港 (バーリ県バーリ)
- ブリンディジ国際空港(ブリンディジ県ブリンディジ)
- フォッジャ空港 (Foggia "Gino Lisa" Airport) (フォッジャ県フォッジャ)
- ターラント=グロッターリエ空港 (Taranto-Grottaglie Airport) (ターラント県ターラント近郊、グロッターリエ)
鉄道
[編集]旧イタリア国鉄の路線にあたるフェッロヴィーエ・デッロ・スタート (FS) がある。他に地方鉄道であるスド・エスト鉄道や、アップロ・ルカーネ鉄道 (it:Appulo Lucane) がある。
人物
[編集]著名な出身人物
[編集]- ジョヴァンニ・メッセ - イタリア王国陸軍軍人(元帥)、政治家。ブリンディジ出身。
- ルドルフ・ヴァレンティノ - サイレント映画時代の映画俳優。カステッラネータ出身。
- アルド・モーロ - イタリア共和国首相。マーリエ出身。
- マイケル・フォーチュナティ - ポップシンガー。ヴィッラ・カステッリ出身。
- マルコ・マテラッツィ - サッカー選手。レッチェ出身。
関連項目
[編集]関連資料
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 左上から左へガルガーノ(オレンジ)、タヴォリエーレ・デッレ・プーリエ(プッリャ台地=ピンク)、スバッペンニーノ・ダウノ(ダウニア山地=緑)。中央はテッラ・ディ・バーリ(ムルジア=水色)、ヴァッレ・ディトリア(イトリア谷=黄緑)、その内陸がアルコ・イオニコ・タランティーノ地方(紺色)、最南部はサレント半島。
出典
[編集]- ^ a b c 国立統計研究所(ISTAT). “Total Resident Population on 1st January 2012 by sex and marital status” (英語). 2013年9月4日閲覧。
- ^ 『在日イタリア商工会議所主催ICCJ Gala Dinner&Concert2024 今年のテーマ「Puglia」南イタリア・プーリア州に決定!』(プレスリリース)在日イタリア商工会議所、2024年12月6日 。2024年12月19日閲覧。
- ^ “2点間の直線距離を測る”. 2014年6月8日閲覧。
- ^ リウィウス『ローマ建国史』31.4
- ^ リウィウス『ローマ建国史』34.45
- ^ ストラボン『地理誌』6.3.11
- ^ Nagle, p. 377.
- ^ 国立統計研究所(ISTAT). “La lingua italiana, i dialetti e le lingue stranieri” (pdf) (イタリア語). p. 5. 2012年12月10日閲覧。
- ^ a b c “Languages of Italy”. ethnologue. 2013年9月5日閲覧。
- ^ “Griko (Salento)”. UNESCO Interactive Atlas of the World’s Languages in Danger. UNESCO. 2013年9月5日閲覧。
- ^ “Faetar”. UNESCO Interactive Atlas of the World’s Languages in Danger. UNESCO. 2013年9月5日閲覧。
- ^ a b “Arbëresh”. UNESCO Interactive Atlas of the World’s Languages in Danger. UNESCO. 2013年9月5日閲覧。
参考文献
[編集]- D. Brendan Nagle (1973). An Allied View of the Social War. Archaeological Institute of America
外部リンク
[編集]モリーゼ州 | ||||
カンパニア州 | ||||
プッリャ州 | ||||
バジリカータ州 |