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「竈門神社」の版間の差分

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{{神社|
{{神社
名称=竈門神社|
|名称 = 竈門神社
画像=[[画像:Kamado-jinjya-keidai.JPG|250px]]|
|画像 = [[File:Kamado shrine 01.JPG|280px]]<br />拝殿
所在地=福岡県太宰府市大字内山字御供屋谷883|
|所在地 = 上宮:[[宝満山]]頂上<br />下宮:[[福岡県]][[太宰府市]]大字内山字御供屋谷883
|位置 = 上宮<br />{{ウィキ座標2段度分秒|33|32|23.31|N|130|34|8.53|E|region:JP-10_type:landmark|display=inline,title|name=竈門神社 上宮}}<br />下宮<br />{{ウィキ座標2段度分秒|33|31|43.93|N|130|33|8.68|E|region:JP-10_type:landmark|display=inline,title|name=竈門神社 下宮}}
祭神=玉依姫命<br/>神功皇后<br/>応神天皇|
|祭神 = [[タマヨリビメ|玉依姫命]]<br />[[神功皇后]]<br />[[応神天皇]]
社格=式内社(名神大)・官幣小社・別表神社|
|神体 =
創建=天智天皇3年(664年)|
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br />旧[[官幣小社]]<br />[[別表神社]]
例祭=[[11月15日]]}}
|創建 = (伝)[[天武天皇]]2年([[673年]])<!--天智天皇年間ではない:創建節参照-->

|本殿 =
'''竈門神社'''(かまどじんじゃ)は[[福岡県]][[太宰府市]]の[[宝満山]]麓にある[[神社]]である。別称'''宝満宮'''。[[式内社]]で、旧[[社格]]は官幣小社。現在は縁結びの神様として知られる。
|別名 = 宝満宮・竈門宮
|札所等 =
|例祭 = [[11月15日]]
|神事 =
}}
{{座標一覧}}
[[File:Kamado-jinja torii-1.JPG|thumb|200px|right|一の鳥居]]
'''竈門神社'''(かまどじんじゃ)は、[[福岡県]][[太宰府市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣小社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。別称を「'''宝満宮'''」「竈門宮」とも<ref name="地名">『福岡県の地名』竈門神社項。</ref>。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[太宰府市]]東北に立つ[[宝満山]]に所在する神社で、社殿は次の2ヶ所に形成されている。
[[タマヨリビメ|玉依姫命]](たまよりひめ)を主祭神とし、相殿に[[神功皇后]]・[[応神天皇]]を祀る。[[大宰府]]の背後の[[宝満山]]にあり、宝満山の麓に下宮、山頂(830m)に上宮がある。八合目に中宮があったが、現存せず跡地が残っている。


* '''[[#宝満山中(上宮・中宮跡)|上宮]]''' - 宝満山山頂(標高829.6メートル)。
[[天智天皇]]3年([[664年]])に大宰府が設置されたとき、[[鬼門]] (北東)に当たる竈門山(宝満山)の麓で鬼門除けの祭祀が行われ、[[白鳳]]4年([[673年]])、その地に社殿が造られたと伝えられる。『[[延喜式]]』では[[名神大社]]に列し、[[九州]]の総[[鎮守神|鎮守]]とされた。[[天智天皇]]12年([[673年]])、[[心蓮]](しんれん)という僧が山中で修行中に玉依姫が現れたとされることにより、朝廷によって社殿(上宮)が建てられた。
* '''[[#山麓(下宮)|下宮]]''' - 宝満山山麓。


かつては山腹に中宮があったが、明治に廃絶している。宝満山は[[大宰府]]の[[鬼門]](東北)の位置にあることから、当社は大宰府鎮護の神として崇敬された。[[平安時代]]以降は[[神仏習合]]が進み、一体となった[[神宮寺]]の大山寺(だいせんじ、竈門山寺・有智山寺とも)は、西国の[[天台宗]]寺院では代表的な存在であった<ref name="角川"/>。また、宝満山においては[[英彦山]]とともに[[修験道]]の有数の道場が形成されていた。明治期にこれらの仏教施設は廃されたが、現在も宝満山に対する信仰・縁むすび信仰とともに崇拝されている神社である。
[[平安時代]]には[[唐]]に留学する[[最澄]]や[[円仁]]が渡航の安全を祈り、[[空海]]等にも縁のある信仰の山である。[[英彦山]]との関係で[[修験道]]の道場となり、竈門山寺、宝満大菩薩と称した。竈門山寺は古代・中世にわたって九州の代表的な寺院で、山麓には堂や坊が建てられたが、室町時代以降の戦乱で衰退した。[[明治]]の[[神仏分離]]・[[廃仏毀釈]]により、仏教色の強い竈門山寺は建物のほぼ全てが破壊され、わずかに残った一つの社殿が村社竈門神社とされた。山中に石仏や堂跡が残る。その後、祭神が[[神武天皇]]の母神の玉依姫命であり、かつての式内社、九州総鎮守であることなどから、明治28年([[1895年]])、官幣小社に昇格した。現在の社殿は[[昭和]]6年([[1931年]])に造営されたものである。


文化財としては、当社社地を含む宝満山一体が国の[[史跡]]に指定されている。また、木造狛犬や宝満山山岳信仰関係資料が福岡県の文化財に指定されている。
福岡県を中心として当社に対する信仰(宝満信仰)があり、各地に[[勧請]]が行われている。

== 社名について ==
[[File:Homan zan 01.JPG|thumb|200px|right|[[宝満山]]の山容]]
当社は[[大宰府]]東北方の[[宝満山]](ほうまんざん、標高829.6メートル)に鎮座するが、この宝満山は古くは「御笠山(みかさやま)」「竈門山(かまどやま)」と称されていた<ref name="宝満山">『福岡県の地名』宝満山項。</ref>。うち「御笠山」の山名は古いもので、山の容姿に由来するといわれる<ref name="神々"/>。古くは[[神体山]]として信仰されたともいわれる<ref name="角川"/>。

もう1つの山名「竈門山」は、[[筑前国]]の[[歌枕]]としても多く詠み込まれている<ref name="地名"/>。当社社伝である[[鎌倉時代]]後期の『竈門宝満大菩薩記』では、元は「仏頭山」「御笠山」と称されていたが、[[神功皇后]]の出産の時にこの山に竈門を立てたことに由来すると伝える<ref name="宝満山"/>。一方『筑前国続風土記』では、山の形が[[かまど]](竈)に似ており、煮炊きの様子を示すかのように雲霧が絶えないことに由来するとする<ref name="宝満山"/>。そのほか、大宰府鎮護のため[[かまど神|カマド神]]を祀ったとする説<ref name="神々"/>、九合目付近の「竈門岩」に由来するという説がある<ref name="神々"/>。

現在の「宝満山」の山名は、神仏習合に伴って祭神を「宝満大菩薩」と称したことによるとされる<ref name="由緒書"/>。その初見は13世紀末頃の古文書まで下る<ref name="由緒書"/>。

== 祭神 ==
'''主祭神'''
* '''[[タマヨリビメ|玉依姫命]]''' (たまよりひめのみこと)<ref>祭神の記載は神社由緒書による。</ref>

'''相殿神'''
* [[神功皇后]] (じんぐうこうごう)
* [[応神天皇]] (おうじんてんのう) - 第15代。神功皇后皇子。

祭神のうち、[[タマヨリビメ|玉依姫命]]は元々の祭神で、[[神功皇后]]・[[応神天皇]]はのちに合祀されたという<ref name="地名"/>。『筥崎宮縁起』等では当宮を[[八幡神]]の伯母(応神天皇の伯母、神功皇后の姉)と見なしており、遅くとも[[12世紀]]初頭には八幡神(神功皇后・応神天皇)と関係があったと見られている<ref name="地名"/>。竈門神が八幡神の系譜に組み込まれた背景には、大宰府と古くから関わる当社の政治的色彩が指摘される<ref name="神々"/>。

神名は中世には「宝満大菩薩」、近世には「宝満明神」とも称された<ref name="国史">『国史大辞典』竈門神社項。</ref>。

== 歴史 ==
=== 創建 ===
[[File:Dazaifu (government) seiden.JPG|thumb|200px|right|[[大宰府|大宰府正殿跡]](都府楼跡)]]
社伝では、[[天智天皇]]の代([[668年]]-[[672年]])に[[大宰府]]が現在地に遷された際、[[鬼門]](東北)に位置する[[宝満山]]に大宰府鎮護のため[[八百万]]の神々を祀ったのが神祭の始まりという<ref name="由緒書"/><ref name="神々">『日本の神々』竈門神社項。</ref>。次いで[[天武天皇]]2年([[673年]])、心蓮(しんれん)上人が山中での修行していると[[タマヨリビメ|玉依姫命]]が現れたため、心蓮が朝廷に奏聞し山頂に上宮が建てられたという<ref name="由緒書"/><ref name="神々"/>。神社側では、この時をもって当社の創建としている<ref name="由緒書"/>。

これらの社伝の真偽は明らかではないが<ref name="神々"/>、下宮礎石群の調査から創建は[[8世紀]]後半には遡るとされる<ref name="地名"/>。また上宮付近からは、[[9世紀]]から中世にまで至る、多くの[[土師器]]・[[皇朝十二銭|皇朝銭]]等の祭祀遺物が検出されており、大宰府・[[遣唐使]]との関連が指摘される<ref name="由緒書"/><ref name="神々"/>。

上記のように、歴史上の当社は大宰府と深い関係を持ちつつ展開する<ref name="神々"/>。一方で、玉依姫命の[[水分神|水分の神]]としての性格から、御笠川・宝満川の水源の神として自然発生的に玉依姫命が祀られていたと推測し、その後に政治的な神格が与えられたと見る説もある<ref name="神々"/>。

=== 概史 ===
==== 奈良時代から平安時代 ====
当社に関係する最初の確実な史料は、[[延暦]]22年([[803年]])<ref group="原" name="延暦22">『叡山大師伝』延暦22年(803年)閏10月23日条。『扶桑略記』『金玉掌中抄』等にも見える。</ref>の竈門山寺(かまどさんじ:当社の[[神宮寺]])に関する記載である<ref name="地名"/>。この記事に見えるように、当社は[[奈良時代]]にはすでに[[神仏習合]]の状態であったとされる<ref name="神々"/>。

一方「竈門神」については、[[承和 (日本)|承和]]7年([[840年]])<ref group="原" name="承和7"/>に従五位上の[[神階]]が叙された記事が初見で、神階はその後[[嘉祥]]3年([[850年]])<ref group="原" name="嘉祥3"/>に正五位上(従五位上?)、[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])<ref group="原" name="貞観元"/>に従四位下、[[元慶]]3年([[879年]])<ref group="原" name="元慶3"/>に従四位上、[[寛平]]8年([[896年]])<ref group="原" name="寛平8"/>に正四位上に上った<ref name="地名"/>。

また、承和9年([[842年]])<ref group="原" name="承和9">『続日本後紀』承和9年(842年)7月3日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。</ref>には奉幣の記事が見えるほか<ref name="地名"/>、[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では、[[筑前国]][[御笠郡]]に「竃門神社 名神大」と記載され、[[名神大社]]に列している<ref name="地名"/>。なお、社名の訓みは一般に「カマト」と付されるが、「カマカト」と付す写本もある<ref name="地名"/>。

社殿に関しては、[[長治]]2年([[1105年]])の焼亡の記事に始まり、御占・遷宮の記事を経て、[[久寿]]2年([[1155年]])に再度焼亡とそれに伴う訴えの記事が見える<ref name="地名"/>。社司は、[[天元]]2年([[979年]])の段階では大宮司が一山の貫主を担っていたが、11世紀末頃には神仏一体となっており、大山寺[[別当]]が当社含め一山を取り仕切っていたと見られている。長治2年(1105年)には、当社神宮寺の大山寺の別当職を巡り、[[延暦寺]]と[[石清水八幡宮]]が争いを見せている<ref name="地名"/>。

[[嘉承]]元年([[1106年]])<ref group="原" name="嘉承元"/>には当社は正一位の極位に達し、この頃には最も宝満山の勢いがあったといわれる<ref name="神々"/>。当時について、当社を「九国総鎮守」と記す伝も見える<ref name="国史"/>。また[[八幡神]]関係の文書には竈門神を八幡神(応神天皇)の伯母とする記載が見え、大宰府と関わる当社の政治的影響力がその背景として指摘される<ref name="神々"/>。

==== 鎌倉時代以後 ====
([[鎌倉時代]]からの動向は、[[#神宮寺|神宮寺節]]も参照)

平安時代以後の当社は、神仏一体となって営まれた<ref name="角川"/>。[[室町時代]]からは「宝満宮」という名称も見られるようになる<ref name="地名"/>。その後は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の戦乱に巻き込まれ、勢力は大きく衰退した<ref name="地名"/>。

その後、筑前国を治めた[[小早川氏]]によって[[天正]]15年([[1587年]])から修験道の道場として再興され、[[慶長]]2年([[1597年]])には神殿・拝殿・講堂・行者堂・末社等が再建されたという<ref name="地名"/>。

代わって慶長5年([[1600年]])に入国した[[黒田長政]]からの崇敬も篤く、寄進も受けたが、[[寛永]]18年([[1641年]])に火災によってほとんどの建物を焼亡した<ref name="地名"/>。[[慶安]]3年([[1650年]])、[[福岡藩]]2代藩主・[[黒田忠之]]によって神殿・拝殿・講堂・神楽堂・鐘楼・行者堂が再建された<ref name="地名"/>。[[江戸時代]]、社領は50石を数えていた<ref name="地名"/>。

[[明治]]に入り、[[神仏分離]]によって仏教色は一掃された<ref name="角川">『角川日本地名大辞典』竈門神社項。</ref>。明治5年([[1872年]])、[[近代社格制度]]では[[村社]]に列したが、明治28年([[1895年]])に[[官幣小社]]に昇格した<ref name="由緒書"/><ref name="神々"/>。戦後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列している。

=== 神階 ===
「竃門神」に対する[[神階]]奉叙の記録。
* [[六国史]]
** [[承和 (日本)|承和]]7年([[840年]])4月21日、従五位下から従五位上 (『[[続日本後紀]]』)<ref group="原" name="承和7">『続日本後紀』承和7年(840年)4月21日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。</ref>
** [[嘉祥]]3年([[850年]])10月7日、正五位上 (『[[日本文徳天皇実録]]』)<ref group="原" name="嘉祥3">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)10月7日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。</ref>
**: <small>従五位上の誤りか<ref>{{PDFlink|[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/graph/58.pdf 筑前国神階グラフ]}}(神道・神社史料集成)</ref>。</small>
** [[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])1月27日、正五位下から従四位下 (『[[日本三代実録]]』)<ref group="原" name="貞観元">『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。</ref>
** [[元慶]]3年([[879年]])6月8日、従四位下から従四位上 (『日本三代実録』)<ref group="原" name="元慶3">『日本三代実録』元慶3年(879年)6月8日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。</ref>
* 六国史以後
** [[寛平]]8年([[896年]])9月4日、従四位上から正四位上 (『[[日本紀略]]』)<ref group="原" name="寛平8">『日本紀略』寛平8年(896年)9月4日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。</ref>
** [[嘉承]]元年([[1106年]])11月3日、従一位から正一位 (『[[中右記]]』)<ref group="原" name="嘉承元">『中右記』嘉承元年(1106年)11月3日条。</ref>


== 境内 ==
== 境内 ==
社殿は[[宝満山]]山頂の'''上宮'''、山麓の'''下宮'''からなる。古くからの信仰の場であるとして、当社社地を含め宝満山は国の史跡に指定されている<ref name="史跡">[http://www.city.dazaifu.lg.jp/bunka_t/houmanzan_sitei.html 宝満山の国史跡指定について](太宰府市ホームページ)。</ref>。かつては中腹に中宮も存在した<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。
*春は[[サクラ]]、[[シャクナゲ]]、初夏は[[アジサイ|ヤマアジサイ]]、秋は[[紅葉]]が美しい


== 周辺情報 ==
=== 山麓(下宮) ===
[[File:Kamado-jinja geku honden.JPG|thumb|200px|right|下宮本殿]]
*宝満山登山([[九州自然歩道]])
下宮は山麓に鎮座する。主要社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる。
*[[有智山城]]跡
*九州登山情報センター・山の図書館
*九州温泉村・都久志の湯
*有智山荘
*太宰府梅林アスレチックスポーツ公園


境内には南北七間・東西四間の礎石建物跡があり、竈門山廃寺の中枢施設と見られている<ref name="地名"/>。当地からは8世紀から12世紀の古瓦が出土している<ref name="神々"/>。
== 交通 ==

*コミュニティーバス[[まほろば号]]終点「内山」下車直ぐ
そのほか、北方の太宰府市北谷には境外遥拝所がある<ref name="神々"/>({{ウィキ座標|33|32|22.57|N|130|33|4.43|E|region:JP-40_type:landmark|位置|name=境外遥拝所:宝満宮}})。
*有料駐車場あり

*[[福岡県道578号内山三条線]]
<gallery>
*[[福岡県道35号筑紫野古賀線]]
File:Kamado-jinja geku shamusho.JPG|下宮社務所
File:Kamado-jinja torii-3.JPG|三の鳥居<!--境内から外に向かって配列-->
File:Kamado-jinja torii-2.JPG|二の鳥居
</gallery>

=== 宝満山中(上宮・中宮跡) ===
[[File:Kamado Shrine 02.JPG|thumb|200px|right|上宮社殿]]
上宮は宝満山山頂(標高829.6メートル)に鎮座する。山頂付近には、心蓮上人を埋葬したとされる墓や、祭神・玉依姫命の墓所と伝える法城窟(ほうじょうくつ)がある<ref name="由緒書"/>。

また山腹には中宮跡が残る。かつて中宮には講堂・神楽堂・役行者堂・鐘楼等が備えられていたとされるが、明治の廃仏毀釈に伴い廃絶した<ref name="角川"/>。

そのほか、山中には多くの坊跡や仏教遺跡が残り、神仏習合時代の面影を残している<ref name="由緒書"/>。

== 摂末社 ==
* 五穀神社
* 須佐神社
* 夢想権之助社
*: 祭神は[[夢想権之助]]。夢想権之助は、宝満山で修行したのち、[[宮本武蔵]]と戦って勝ったと伝えられる<ref name="由緒書"/>。

== 祭事 ==
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">年間祭事一覧</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
* 歳旦祭、作だめし神事 (1月1日)<ref>祭事の記載は神社由緒書による。</ref>
* 愛嶽神社祭 (1月4日)
* 式部稲荷神社初午祭 (3月旧暦初午)
* 縁結び大祭 (4月中旬)
* 宝満山峰入り (5月中旬)
* 宝満山護摩焚き (5月下旬)
* 大祓式 (6月30日)
* 夏祭り、茅の輪神事、およど (7月中旬)
* 山開き (夏休み最初の日曜)
* 七夕祭り
* お注連上げ
* 例祭 (11月15日)
* 新嘗祭(新穀感謝祭)、大麻頒布祭 (11月23日)
* 大祓式、除夜祭 (12月31日)
* 月次祭 (毎月1日・15日)、祝祭日祭 (各祝祭日)
</div>
</div>

== 文化財 ==
当社関連文化財の一覧。
=== 国の史跡 ===
* 宝満山 - 当社社地を含む周辺一帯。平成25年10月17日指定<ref name="史跡"/>。

=== 福岡県指定文化財 ===
* 有形文化財
** 木造狛犬(彫刻)
**: 昭和53年([[1978年]])に拝殿床下から発見された<ref name="狛犬"/>。阿形・吽形一対でクス材の一木造であり、像高は90センチメートル<ref name="狛犬"/>。[[15世紀]]後半の作とされる<ref name="狛犬"/>。太宰府天満宮所蔵。昭和57年4月1日指定<ref name="狛犬">[http://www.city.dazaifu.lg.jp/bunka_t/choukoku.html 有形文化財>木造狛犬](太宰府市ホームページ)。</ref>。
* 有形民俗文化財
** 宝満山山岳信仰関係資料
**: 当社が所蔵する、神事・仏事用具、神札・護符、奉納・祈願品、絵画資料、記録類、計307点<ref name="信仰"/>。古代から続く宝満山信仰に関する貴重資料と評価される<ref name="信仰"/>。うち、梵字文神鏡は[[寛永]]18年([[1641年]])の[[福岡藩]]二代藩主・[[黒田忠之]]による奉納で、「竈門神社三神」を表す宝満宮・聖母宮・八幡宮の銅鏡である(宝満宮神鏡は1853年に焼失)<ref name="信仰"/>。聖母宮・八幡宮神鏡はいずれも直径45センチメートル弱、厚さ0.7センチメートル<ref name="信仰"/>。昭和37年2月20日指定、平成23年3月18日追加指定・名称変更<ref name="信仰">[http://www.city.dazaifu.lg.jp/bunka_t/yuukeiminzokubunkaazi.html 有形民俗文化財>宝満山山岳信仰関係資料](太宰府市ホームページ)。</ref>。

== 神宮寺 ==
当社には、かつて[[神宮寺]]として'''大山寺'''(だいせんじ)があった<ref name="角川"/>。宗派は[[天台宗]]。

当寺は、西国の天台宗寺院を代表する存在であった<ref name="地名"/>。寺名は、'''竈門山寺'''(かまどさんじ)・'''内山寺'''(うちやまじ)・'''有智山寺'''(うちやまじ)とも記される<ref name="角川"/>。ただし、これらが同一の寺を指すかは確実ではない<ref name="地名"/>。

神宮寺に関する史料では、延暦22年([[803年]])<ref group="原" name="延暦22"/>の記事が最古である<ref name="角川"/>。下宮にある礎石群から、8世紀後半にはかなりの規模を誇っていたと見られている<ref name="角川"/>。史料によると、その延暦22年(803年)には[[最澄]]が[[唐|入唐]]の折に竈門山寺において、入唐4船のため[[薬師仏]]4躯を彫ったという<ref name="神々"/>。また承和14年([[847年]])には唐から帰国した[[円仁]]が神前で読誦し、[[仁寿]]2年([[852年]])には[[円珍]]が読誦している<ref name="地名"/>。[[承平 (日本)|承平]]3年([[933年]])には、沙弥証覚によって延暦寺の「六所宝塔」のうちの1つが建てられた<ref name="地名"/>。

当寺は[[平安時代]]中期、[[文治]]4年([[1188年]])までには竈門神社と一体となり、宮寺として活動していた<ref name="地名"/><ref name="角川"/>。その後、大山寺は平安時代後期の[[11世紀]]末には一時[[石清水八幡宮]]の末寺となったが、12世紀初頭に[[比叡山]][[延暦寺]]の末寺となった<ref name="角川"/>。このため、当寺の訴えは中央の京都にも及んでいる<ref name="地名"/>。竈門宮に正一位が授けられた[[嘉承]]元年([[1106年]])頃には数多くの僧坊を擁し、竈門神とともに最盛期をなした<ref name="神々"/>。平安末期の『[[梁塵秘抄]]』では、筑紫の霊験所の1つとして「竈門の本山」と歌われている<ref name="地名"/>。

宝満山は[[鎌倉時代]]末期から[[室町時代]]に[[修験道|修験化]]し、彦山([[英彦山]])を[[胎蔵界]]・宝満山を[[金剛界]]とした峰中修行が形成された<ref name="地名"/><ref name="神々"/>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に入ると、付近に有智山城・宝満城等が築かれた関係で戦乱に巻き込まれ、寺勢は衰退していった<ref name="角川"/>。[[弘治]]3年([[1557年]])には[[大友宗麟]]による検地・堂社破壊によって社勢・寺勢は衰退し、盛時には370坊あった僧坊も近世初頭には25坊にまで減少したと伝えられる<ref name="地名"/>。

その後、近世に小早川氏・黒田氏によって山伏の修験道場として再興された<ref name="地名"/>。しかし、[[寛永]]18年([[1641年]])の火災で多くの堂社を焼失したこともあり、江戸時代中期以前に周辺の僧坊のほとんどは廃絶<ref name="地名"/>、残った仏教施設も明治の廃仏毀釈で一掃された<ref name="角川"/>。

== 現地情報 ==
'''所在地'''
* 上宮:[[福岡県]][[太宰府市]]北谷 - [[宝満山]]頂上。
* 下宮:福岡県太宰府市大字内山字御供屋谷883

'''交通アクセス(下宮まで)'''
* バス:コミュニティーバス「[[まほろば号]]」で終点「内山」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
* 車:[[福岡県道578号内山三条線]]
** 有料駐車場あり

'''周辺'''
* 有智山城跡
* 宝満城跡
<!--* 宝満山登山([[九州自然歩道]])
* 九州登山情報センター・山の図書館
* 九州温泉村・都久志の湯
* 有智山荘
* 太宰府梅林アスレチックスポーツ公園--><!--ただの観光案内により除く-->

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''原典''':記載事項の一次史料を紹介(出典扱いではない)。<!--一次史料に基づく記載は原則禁止されているため-->
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'''出典'''
{{reflist}}

== 参考文献 ==
* 神社由緒書「宝満宮竈門神社略記」
* 『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』([[吉川弘文館]])竈門神社項、竈門宮事件項
* 『日本歴史地名体系 福岡県の地名』([[平凡社]]、2004年)太宰府市 宝満山項・竈門神社項
* 『[[角川日本地名大辞典]] 40 福岡県』([[角川書店]]、1988年)竈門神社項、宝満山項
* 森弘子「竈門神社」([[谷川健一]] 編『日本の神々 -神社と聖地- 1 九州』([[白水社]]、1984年))


== 関連図書 ==
== 関連図書 ==
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、21頁
* 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、21頁
* 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、101-102頁
* 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』[[東京堂出版]]、1979年、101-102頁

== 関連項目 ==
* [[夢想権之助]]


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* [http://www.dazaifutenmangu.or.jp/kamado/index.htm 太宰府天満宮>竈門神社]
* [http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/45.html 西都 太宰府>竈門神社]
* [http://kamadojinja.or.jp/ 竈門神社](公式サイト)
* [http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/45.html 竈門神社]、[http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/46.html 竈門神社上宮](九州国立博物館「西都 太宰府」)
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/580101.html 竃門神社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)


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2014年1月26日 (日) 16:21時点における版

竈門神社

拝殿
所在地 上宮:宝満山頂上
下宮:福岡県太宰府市大字内山字御供屋谷883
位置 上宮
北緯33度32分23.31秒 東経130度34分8.53秒 / 北緯33.5398083度 東経130.5690361度 / 33.5398083; 130.5690361 (竈門神社 上宮)座標: 北緯33度32分23.31秒 東経130度34分8.53秒 / 北緯33.5398083度 東経130.5690361度 / 33.5398083; 130.5690361 (竈門神社 上宮)
下宮
北緯33度31分43.93秒 東経130度33分8.68秒 / 北緯33.5288694度 東経130.5524111度 / 33.5288694; 130.5524111 (竈門神社 下宮)座標: 北緯33度31分43.93秒 東経130度33分8.68秒 / 北緯33.5288694度 東経130.5524111度 / 33.5288694; 130.5524111 (竈門神社 下宮){{#coordinates:}}: 各ページで primary のタグは複数指定できません
主祭神 玉依姫命
神功皇后
応神天皇
社格 式内社名神大
官幣小社
別表神社
創建 (伝)天武天皇2年(673年
別名 宝満宮・竈門宮
例祭 11月15日
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一の鳥居

竈門神社(かまどじんじゃ)は、福岡県太宰府市にある神社式内社名神大社)。旧社格官幣小社で、現在は神社本庁別表神社。別称を「宝満宮」「竈門宮」とも[1]

概要

太宰府市東北に立つ宝満山に所在する神社で、社殿は次の2ヶ所に形成されている。

  • 上宮 - 宝満山山頂(標高829.6メートル)。
  • 下宮 - 宝満山山麓。

かつては山腹に中宮があったが、明治に廃絶している。宝満山は大宰府鬼門(東北)の位置にあることから、当社は大宰府鎮護の神として崇敬された。平安時代以降は神仏習合が進み、一体となった神宮寺の大山寺(だいせんじ、竈門山寺・有智山寺とも)は、西国の天台宗寺院では代表的な存在であった[2]。また、宝満山においては英彦山とともに修験道の有数の道場が形成されていた。明治期にこれらの仏教施設は廃されたが、現在も宝満山に対する信仰・縁むすび信仰とともに崇拝されている神社である。

文化財としては、当社社地を含む宝満山一体が国の史跡に指定されている。また、木造狛犬や宝満山山岳信仰関係資料が福岡県の文化財に指定されている。

社名について

宝満山の山容

当社は大宰府東北方の宝満山(ほうまんざん、標高829.6メートル)に鎮座するが、この宝満山は古くは「御笠山(みかさやま)」「竈門山(かまどやま)」と称されていた[3]。うち「御笠山」の山名は古いもので、山の容姿に由来するといわれる[4]。古くは神体山として信仰されたともいわれる[2]

もう1つの山名「竈門山」は、筑前国歌枕としても多く詠み込まれている[1]。当社社伝である鎌倉時代後期の『竈門宝満大菩薩記』では、元は「仏頭山」「御笠山」と称されていたが、神功皇后の出産の時にこの山に竈門を立てたことに由来すると伝える[3]。一方『筑前国続風土記』では、山の形がかまど(竈)に似ており、煮炊きの様子を示すかのように雲霧が絶えないことに由来するとする[3]。そのほか、大宰府鎮護のためカマド神を祀ったとする説[4]、九合目付近の「竈門岩」に由来するという説がある[4]

現在の「宝満山」の山名は、神仏習合に伴って祭神を「宝満大菩薩」と称したことによるとされる[5]。その初見は13世紀末頃の古文書まで下る[5]

祭神

主祭神

相殿神

  • 神功皇后 (じんぐうこうごう)
  • 応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代。神功皇后皇子。

祭神のうち、玉依姫命は元々の祭神で、神功皇后応神天皇はのちに合祀されたという[1]。『筥崎宮縁起』等では当宮を八幡神の伯母(応神天皇の伯母、神功皇后の姉)と見なしており、遅くとも12世紀初頭には八幡神(神功皇后・応神天皇)と関係があったと見られている[1]。竈門神が八幡神の系譜に組み込まれた背景には、大宰府と古くから関わる当社の政治的色彩が指摘される[4]

神名は中世には「宝満大菩薩」、近世には「宝満明神」とも称された[7]

歴史

創建

大宰府正殿跡(都府楼跡)

社伝では、天智天皇の代(668年-672年)に大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山に大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが神祭の始まりという[5][4]。次いで天武天皇2年(673年)、心蓮(しんれん)上人が山中での修行していると玉依姫命が現れたため、心蓮が朝廷に奏聞し山頂に上宮が建てられたという[5][4]。神社側では、この時をもって当社の創建としている[5]

これらの社伝の真偽は明らかではないが[4]、下宮礎石群の調査から創建は8世紀後半には遡るとされる[1]。また上宮付近からは、9世紀から中世にまで至る、多くの土師器皇朝銭等の祭祀遺物が検出されており、大宰府・遣唐使との関連が指摘される[5][4]

上記のように、歴史上の当社は大宰府と深い関係を持ちつつ展開する[4]。一方で、玉依姫命の水分の神としての性格から、御笠川・宝満川の水源の神として自然発生的に玉依姫命が祀られていたと推測し、その後に政治的な神格が与えられたと見る説もある[4]

概史

奈良時代から平安時代

当社に関係する最初の確実な史料は、延暦22年(803年[原 1]の竈門山寺(かまどさんじ:当社の神宮寺)に関する記載である[1]。この記事に見えるように、当社は奈良時代にはすでに神仏習合の状態であったとされる[4]

一方「竈門神」については、承和7年(840年[原 2]に従五位上の神階が叙された記事が初見で、神階はその後嘉祥3年(850年[原 3]に正五位上(従五位上?)、貞観元年(859年[原 4]に従四位下、元慶3年(879年[原 5]に従四位上、寛平8年(896年[原 6]に正四位上に上った[1]

また、承和9年(842年[原 7]には奉幣の記事が見えるほか[1]延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では、筑前国御笠郡に「竃門神社 名神大」と記載され、名神大社に列している[1]。なお、社名の訓みは一般に「カマト」と付されるが、「カマカト」と付す写本もある[1]

社殿に関しては、長治2年(1105年)の焼亡の記事に始まり、御占・遷宮の記事を経て、久寿2年(1155年)に再度焼亡とそれに伴う訴えの記事が見える[1]。社司は、天元2年(979年)の段階では大宮司が一山の貫主を担っていたが、11世紀末頃には神仏一体となっており、大山寺別当が当社含め一山を取り仕切っていたと見られている。長治2年(1105年)には、当社神宮寺の大山寺の別当職を巡り、延暦寺石清水八幡宮が争いを見せている[1]

嘉承元年(1106年[原 8]には当社は正一位の極位に達し、この頃には最も宝満山の勢いがあったといわれる[4]。当時について、当社を「九国総鎮守」と記す伝も見える[7]。また八幡神関係の文書には竈門神を八幡神(応神天皇)の伯母とする記載が見え、大宰府と関わる当社の政治的影響力がその背景として指摘される[4]

鎌倉時代以後

鎌倉時代からの動向は、神宮寺節も参照)

平安時代以後の当社は、神仏一体となって営まれた[2]室町時代からは「宝満宮」という名称も見られるようになる[1]。その後は戦国時代の戦乱に巻き込まれ、勢力は大きく衰退した[1]

その後、筑前国を治めた小早川氏によって天正15年(1587年)から修験道の道場として再興され、慶長2年(1597年)には神殿・拝殿・講堂・行者堂・末社等が再建されたという[1]

代わって慶長5年(1600年)に入国した黒田長政からの崇敬も篤く、寄進も受けたが、寛永18年(1641年)に火災によってほとんどの建物を焼亡した[1]慶安3年(1650年)、福岡藩2代藩主・黒田忠之によって神殿・拝殿・講堂・神楽堂・鐘楼・行者堂が再建された[1]江戸時代、社領は50石を数えていた[1]

明治に入り、神仏分離によって仏教色は一掃された[2]。明治5年(1872年)、近代社格制度では村社に列したが、明治28年(1895年)に官幣小社に昇格した[5][4]。戦後は神社本庁別表神社に列している。

神階

「竃門神」に対する神階奉叙の記録。

境内

社殿は宝満山山頂の上宮、山麓の下宮からなる。古くからの信仰の場であるとして、当社社地を含め宝満山は国の史跡に指定されている[9]。かつては中腹に中宮も存在した[5]

山麓(下宮)

下宮本殿

下宮は山麓に鎮座する。主要社殿は本殿・幣殿・拝殿からなる。

境内には南北七間・東西四間の礎石建物跡があり、竈門山廃寺の中枢施設と見られている[1]。当地からは8世紀から12世紀の古瓦が出土している[4]

そのほか、北方の太宰府市北谷には境外遥拝所がある[4]北緯33度32分22.57秒 東経130度33分4.43秒)。

宝満山中(上宮・中宮跡)

上宮社殿

上宮は宝満山山頂(標高829.6メートル)に鎮座する。山頂付近には、心蓮上人を埋葬したとされる墓や、祭神・玉依姫命の墓所と伝える法城窟(ほうじょうくつ)がある[5]

また山腹には中宮跡が残る。かつて中宮には講堂・神楽堂・役行者堂・鐘楼等が備えられていたとされるが、明治の廃仏毀釈に伴い廃絶した[2]

そのほか、山中には多くの坊跡や仏教遺跡が残り、神仏習合時代の面影を残している[5]

摂末社

  • 五穀神社
  • 須佐神社
  • 夢想権之助社
    祭神は夢想権之助。夢想権之助は、宝満山で修行したのち、宮本武蔵と戦って勝ったと伝えられる[5]

祭事

文化財

当社関連文化財の一覧。

国の史跡

  • 宝満山 - 当社社地を含む周辺一帯。平成25年10月17日指定[9]

福岡県指定文化財

  • 有形文化財
    • 木造狛犬(彫刻)
      昭和53年(1978年)に拝殿床下から発見された[11]。阿形・吽形一対でクス材の一木造であり、像高は90センチメートル[11]15世紀後半の作とされる[11]。太宰府天満宮所蔵。昭和57年4月1日指定[11]
  • 有形民俗文化財
    • 宝満山山岳信仰関係資料
      当社が所蔵する、神事・仏事用具、神札・護符、奉納・祈願品、絵画資料、記録類、計307点[12]。古代から続く宝満山信仰に関する貴重資料と評価される[12]。うち、梵字文神鏡は寛永18年(1641年)の福岡藩二代藩主・黒田忠之による奉納で、「竈門神社三神」を表す宝満宮・聖母宮・八幡宮の銅鏡である(宝満宮神鏡は1853年に焼失)[12]。聖母宮・八幡宮神鏡はいずれも直径45センチメートル弱、厚さ0.7センチメートル[12]。昭和37年2月20日指定、平成23年3月18日追加指定・名称変更[12]

神宮寺

当社には、かつて神宮寺として大山寺(だいせんじ)があった[2]。宗派は天台宗

当寺は、西国の天台宗寺院を代表する存在であった[1]。寺名は、竈門山寺(かまどさんじ)・内山寺(うちやまじ)・有智山寺(うちやまじ)とも記される[2]。ただし、これらが同一の寺を指すかは確実ではない[1]

神宮寺に関する史料では、延暦22年(803年[原 1]の記事が最古である[2]。下宮にある礎石群から、8世紀後半にはかなりの規模を誇っていたと見られている[2]。史料によると、その延暦22年(803年)には最澄入唐の折に竈門山寺において、入唐4船のため薬師仏4躯を彫ったという[4]。また承和14年(847年)には唐から帰国した円仁が神前で読誦し、仁寿2年(852年)には円珍が読誦している[1]承平3年(933年)には、沙弥証覚によって延暦寺の「六所宝塔」のうちの1つが建てられた[1]

当寺は平安時代中期、文治4年(1188年)までには竈門神社と一体となり、宮寺として活動していた[1][2]。その後、大山寺は平安時代後期の11世紀末には一時石清水八幡宮の末寺となったが、12世紀初頭に比叡山延暦寺の末寺となった[2]。このため、当寺の訴えは中央の京都にも及んでいる[1]。竈門宮に正一位が授けられた嘉承元年(1106年)頃には数多くの僧坊を擁し、竈門神とともに最盛期をなした[4]。平安末期の『梁塵秘抄』では、筑紫の霊験所の1つとして「竈門の本山」と歌われている[1]

宝満山は鎌倉時代末期から室町時代修験化し、彦山(英彦山)を胎蔵界・宝満山を金剛界とした峰中修行が形成された[1][4]南北朝時代に入ると、付近に有智山城・宝満城等が築かれた関係で戦乱に巻き込まれ、寺勢は衰退していった[2]弘治3年(1557年)には大友宗麟による検地・堂社破壊によって社勢・寺勢は衰退し、盛時には370坊あった僧坊も近世初頭には25坊にまで減少したと伝えられる[1]

その後、近世に小早川氏・黒田氏によって山伏の修験道場として再興された[1]。しかし、寛永18年(1641年)の火災で多くの堂社を焼失したこともあり、江戸時代中期以前に周辺の僧坊のほとんどは廃絶[1]、残った仏教施設も明治の廃仏毀釈で一掃された[2]

現地情報

所在地

交通アクセス(下宮まで)

周辺

  • 有智山城跡
  • 宝満城跡

脚注

原典:記載事項の一次史料を紹介(出典扱いではない)。

  1. ^ a b 『叡山大師伝』延暦22年(803年)閏10月23日条。『扶桑略記』『金玉掌中抄』等にも見える。
  2. ^ a b 『続日本後紀』承和7年(840年)4月21日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。
  3. ^ a b 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)10月7日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。
  4. ^ a b 『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。
  5. ^ a b 『日本三代実録』元慶3年(879年)6月8日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。
  6. ^ a b 『日本紀略』寛平8年(896年)9月4日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。
  7. ^ 『続日本後紀』承和9年(842年)7月3日条(國學院大學「神道・神社史料集成」参照)。
  8. ^ a b 『中右記』嘉承元年(1106年)11月3日条。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『福岡県の地名』竈門神社項。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『角川日本地名大辞典』竈門神社項。
  3. ^ a b c 『福岡県の地名』宝満山項。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本の神々』竈門神社項。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 神社由緒書。
  6. ^ 祭神の記載は神社由緒書による。
  7. ^ a b 『国史大辞典』竈門神社項。
  8. ^ 筑前国神階グラフ (PDF) (神道・神社史料集成)
  9. ^ a b 宝満山の国史跡指定について(太宰府市ホームページ)。
  10. ^ 祭事の記載は神社由緒書による。
  11. ^ a b c d 有形文化財>木造狛犬(太宰府市ホームページ)。
  12. ^ a b c d e 有形民俗文化財>宝満山山岳信仰関係資料(太宰府市ホームページ)。

参考文献

関連図書

  • 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、21頁
  • 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、101-102頁

関連項目

外部リンク