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「永井隆 (医学博士)」の版間の差分

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{{Baptism
'''永井 隆'''(ながい たかし、[[1908年]]([[明治]]41年)[[2月3日]] - [[1951年]]([[昭和]]26年)[[5月1日]])は医学博士。『[[長崎の鐘]]』『[[この子を残して]]』の著書がある。
| 名前 = 永井隆
| 教会 = カトリック教会
| 洗礼名 = パウロ三木
| 受洗日 = 1934年6月
}}
'''永井 隆'''(ながい たかし、[[1908年]]〈[[明治]]41年〉[[2月3日]] - [[1951年]]〈[[昭和]]26年〉[[5月1日]])は、[[日本]]の医学博士、随筆家。『[[長崎の鐘]]』や『[[この子を残して]]』等の著書がある。


==生涯==
== 生涯 ==
===明治===
=== 生い立ち ===
*'''[[1908年]](明治41年)2月3日''' - [[島根県]][[松江市]]にて、医師であった父寛母ツネの長男(5人兄弟)として誕生。祖父文隆より1字を授かり'''隆'''と命名される
[[1908年]](明治41年)[[2月3日]]、[[島根県]][[松江市]]にて、医師であった父ツネの長男(5人きょうだい)として誕生。お産の時、頭が大きくて産道に引っかかったままだったので、医者が胎児を切って外に出そうとしたが、母が強く反対して医者が帰ってから何時間かしてようやく生まれた{{Sfn|片岡|pp=10-11}}。[[漢方医]]であった祖父文隆より1字を授かり'''隆'''と命名{{Sfn|片岡|p=14}}。同年秋には父の医院開業のため、一家で[[飯石郡]][[飯石村]](現・[[雲南市]]三刀屋町)に移り住んだ{{Sfn|片岡|p=14}}
**父の医院開業のため[[飯石郡]]飯石村(現・[[雲南市]][[三刀屋町]])に移り住み、幼少青年期をすごす。
===昭和(戦前)===
*[[1928年]]([[昭和]]3年)4月 - (旧制)[[島根県立松江北高等学校|島根県立松江中学校]]を経て、[[長崎医科大学 (旧制)|長崎医科大学]](現:[[長崎大学]][[医学部]])に入学。('''20歳''')
**大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから長崎医大[[バスケットボール|篭球]]部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会3等、西日本選手権制覇などに貢献。
*[[1931年]](昭和6年)
**[[浦上天主堂]]近くの森山家に下宿。森山家の一人娘の緑([[洗礼名]]:マリア)は後に妻となる人物。森山家は[[カトリック教会|カトリック]]であったことから、カトリックに興味を持ち始めたと言われている。('''23歳''')
*[[1932年]](昭和7年)
**3月 - 大学の卒業式では答辞を読むことになっていたが、直前に急性[[中耳炎]]になり、耳が不自由になる。そのため、内科医の道を断たれ、放射線科を専攻することとなる。(24歳)
**4月 - 大学卒業後、[[助手 (教育)|助手]]として[[放射線]]医学教室にとどまり、[[放射線療法|放射線物理療法]]の研究に取り組む。
*[[1933年]](昭和8年)[[2月1日]] - 幹部候補生として広島[[歩兵連隊]]に入隊し、[[満州事変]]に[[出征]]する。('''25歳''')
*[[1934年]](昭和9年)
**[[2月1日]] - 出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。
**6月 - [[洗礼]]を受け、カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。無料診断・無料奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。('''26歳''')
**8月 - 森山緑と結婚。緑との間に一男二女(長女は原爆投下前に夭折)をもうけた。
*[[1937年]](昭和12年)- 長崎医科大学(現[[長崎大学]][[医学部]])の[[講師 (教育)|講師]]に就任。[[日支事変]]に[[第5師団 (日本軍)|第5師団]][[衛生兵|衛生隊]]隊長として出征。(29歳)
*[[1940年]](昭和15年)- 長崎医科大学[[助教授]]・物理的療法科部長に就任。('''32歳''')
* [[1944年]](昭和19年)[[3月3日]] -『尿石の微細構造』で医学[[博士号]]を授与。('''36歳''')
* [[1945年]](昭和20年)
** 6月 - 長年の放射線研究による被曝で[[白血病]]と診断され、余命3年の宣告を受ける。('''37歳''')
***この時[[白血球]]数10万8000、[[赤血球]]数300万であった。(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)
** '''[[8月9日]]''' - '''長崎市に[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾]]が投下'''。[[爆心地]]から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。
** [[8月10日]] - 帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬する。
** [[8月12日]] - 救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。
===昭和(戦後)===
*1945年(昭和20年)
**[[9月10日]]頃 - [[昏睡]]状態に陥る。直前、[[辞世の句]]として一句。「光りつつ 秋空高く 消えにけり」
**[[9月20日]] - 傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。その後出血が奇蹟的に止まった。本人によると、本河内の[[ルルド]]の水を飲み、[[マキシミリアノ・コルベ]]神父(かつて診察したことがあった<ref>永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)90-91頁</ref>)の取次ぎを願えという声が聞こえたようなので、それに従ったという<ref>永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)37頁</ref>。
**[[10月15日]] -「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成し、長崎医大に提出。
*[[1946年]](昭和21年)
**[[1月28日]] 長崎医科大学[[教授]]に就任。
**7月 - [[長崎駅 (長崎県)|長崎駅]]近くで倒れる。以来、病床に伏すこととなる。('''38歳''')
**[[11月17日]] - 長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行う。
*[[1948年]](昭和23年)[[画像:如己堂.JPG|right|250px|thumb|永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)]]
**荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。
**3月 - 浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「[[如己堂]](にょこどう)」と名付ける。
**8月 - 大学を休職し、療養に専念。ニュース映画「[[日本ニュース]]」の取材に、「ろうそくがもう切れかけてるようなもんですけれどね、最後までやっぱり光になって、ばーっと光ることができると思います」と語る<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001310135_00000&seg_number=008 日本ニュース戦後編第135号|NHK戦争証言アーカイブス]</ref>('''40歳''')
**[[10月18日]] - 来日中の[[ヘレン・ケラー]]が見舞いに訪れる。
*[[1949年]](昭和24年)
**[[5月27日]] - [[昭和天皇]]に謁見する。('''41歳''')
**[[5月30日]] - [[ローマ教皇]]特使としてギルロイ[[枢機卿]]が見舞いに訪れる。
**[[8月1日]] - 長崎市長から表彰を受ける。
**[[9月30日]] - 長崎医科大学[[教授]]を退官。
**[[12月3日]] - 長崎市[[名誉市民]]の称号を受ける。
*[[1950年]](昭和25年)
**[[5月14日]] - ローマ教皇特使としてフルステンベルク[[大司教]]が見舞いに訪れ、[[ロザリオ]]を下賜される。('''42歳''')
*'''[[1951年]](昭和26年)'''
**[[2月3日]] - 白血球数が39万を超える。
**[[4月25日]] - 右肩内出血により執筆不能となる。
**'''[[5月1日]]''' - [[長崎大学病院|長崎大学付属病院]]に緊急入院。'''21時50分、死去'''。('''43歳''')。
**[[5月2日]] - 遺体解剖(医学解剖に[[献体]]する)。
**[[5月3日]] - 教会葬が執り行われる。
**[[5月14日]] - 長崎市公葬が執り行われ、長崎市坂本町にある国際外人墓地に葬られる。


[[1920年]](大正9年)飯石小学校を優等で卒業して郡長賞をもらったが、[[島根県立松江北高等学校|島根県立松江中学校]]は補欠の3番目でようやく入学を認められた{{Sfn|片岡|p=19}}。県立松江中学校では5年生の時に級長となり、当時摂政宮であった[[昭和天皇]]を全校生徒の先頭に立って迎えた{{Sfn|片岡|p=29}}。運動は苦手で、運動会の徒競走はいつもビリから2番目だったと回想している{{Sfn|片岡|p=26}}。
==放射線の影響に対する実験==
永井は、『ロザリオの鎖』で原爆の残留放射能に対する実験を行ったことを以下のように記している。


[[1925年]](大正14年)、松江中学校を卒業して[[松江高等学校 (旧制)|松江高等学校]]理科乙類に入学。当時高校の[[ドイツ語]]教師であった[[フリッツ・カルシュ]]からドイツ語を学んだ<ref>[http://okudani.dokodemo-museum.com/504 カルシュ先生の想いで 投稿日:2009年2月10日(火)、奥谷タイムトンネル]</ref>。高校を卒業するころには[[唯物論者]]となっていたが{{Sfn|パウロ・アロイジウス・グリン|1991|p=28}}、後の1947年(昭和22年)12月に高校の恩師である松原武夫宛のはがきによれば、キリスト教徒である彼から初めて[[キリスト|イエス・キリスト]]について話を聞いている<ref>[http://www.shimane-u.ac.jp/docs/2011121200048/ 永井隆博士が旧制松江高校時代の恩師にあてた直筆ハガキを展示 2011年12月12日、島根大学]</ref>。高校では3年間弓の稽古をしたが、上達せずに辞めている{{Sfn|片岡|p=25}}。
私らは屋敷跡の石垣を利用し、とりあえず丸太とトタンで一坪ほどの小屋を作り、そこに住んで再建にかかりました。爆心地の残留原子放射線の人体に及ぼす影響を知ろうというのが私の目的でした。大人ばかりでなく小児についても精密な連続観察をするため誠一も妹のカヤノもその小屋にいっしょに六か月住んでみました。爆心地の残留放射能は時日の経過と共にすみやかに減衰し、二か月以後は人体の健康を損なわぬ程度になることやら、ここに来住して一か月ほどたつと放射線の刺激によって軽い白血球増加症が起こることやら、いろいろの事実がわかりました。この自家実験にもとづき、私は避難民に、爆心地居住は衛生上危なくないからすみやかに帰って来て再建を始めるように広く呼びかけました。こうして私ら父子は市民としての医学徒の義務の一部を果たしました<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000924/files/54870_48035.html ロザリオの鎖 永井隆、青空文庫]</ref>。


=== 長崎医科大学 ===
==思想==
[[1928年]]([[昭和]]3年)3月、松江高校を優等で卒業し、[[長崎医科大学 (旧制)|長崎医科大学]](現・[[長崎大学]][[医学部]])に入学{{Sfn|片岡|p=33}}。大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと当時としては大柄な体格{{Sfn|片岡|p=21}}{{Efn2|[[文部科学省]]学校保健統計調査 / 年次統計によれば、1927年度の17歳の平均身長160.7cm、平均体重52.5kg(参考:2018年度平均身長170.6cm、平均体重62.4kg)。}}であったことから長崎医大[[バスケットボール|篭球]]部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、[[明治神宮]]で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献{{Sfn|片岡|p=30}}。この部活動で[[上海市|上海]]や[[杭州市|杭州]]にも遠征している{{Sfn|片岡|p=26}}。また、同大学の[[アララギ]]支社に入って、歌会にも参加した{{Sfn|片岡|p=50}}。
===長崎原爆投下の永井による宗教的解釈===
*[[カトリック教会|カトリック]]教徒でもあった永井は、原爆投下を「神の御摂理」と解釈し、さらに、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭([[ホロコースト]])」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと説いていたことが、[[高橋眞司]]・元[[長崎大学]][[教育学部]]教授が提起した[[浦上燔祭説]]の中で論評されている。
*[[ホロコースト]]の古い記録は、[[フラウィウス・ヨセフス]]・ベン・マタティア著「[[ユダヤ戦記]]」の中に、以下のように残っており、[[神学]]研究者や研究熱心なクリスチャンの間で知られていた。
**「イエスの[[福音]]書の流布とほぼ同年代に当たる紀元後[[70年]]8月([[ユダヤ暦]]第6月8日、9日、10日)、[[エルサレム神殿]]に立て篭もった何千人もの[[ユダヤ人]]が、[[ローマ軍]]とマタティア・[[ハスモン王朝]]の母系子孫である[[アグリッパ2世|アグリッパⅡ世]]の同盟軍によって、大量焼死(ホロコースト)させられた。」


高校以来唯物論者であったが、母が1931年(昭和6年)3月29日に[[脳溢血]]で急逝したのを機に[[霊魂]]があると信じるようになる{{Sfn|片岡|p=42}}。その後、[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]の『パンセ』を愛読し、カトリックに惹きつけられていった{{Sfn|片岡|pp=42-43}}。[[カトリック浦上教会|浦上天主堂]]近くで牛の売買を営んでいた[[カトリック教会|カトリック]]の森山家に下宿し、後に妻となる一人娘の緑([[洗礼名]]:マリア)に出会った。森山家の先祖は[[隠れキリシタン]]で信者を指導し、[[教会暦]]を伝承する[[帳方]]であった。
===原子力の利用===
[[1945年]]8月~10月の救護活動をまとめた『原子爆弾救護報告書』の末尾で、永井は原子力の利用に対して肯定的な考えを述べている。


[[1932年]](昭和7年)5月、大学の卒業式で総代として答辞を読むことになっていたが、卒業式の5日前のクラス会の帰りに雨に濡れてそのまま寝たために急性[[中耳炎]]にかかり{{Sfn|片岡|p=59}}、命を落とすか障害者になるかという重症に陥った{{Sfn|片岡|p=60}}。この間、カトリック信者の老婆が世話をしたが、永井がうわごとで「天主の御母聖マリア、われらのために祈りたまえ」というのを聞いて「きっと信者になる」と思ったという{{Sfn|片岡|p=60}}。
すべては終った。祖国は敗れた。吾大学は消滅し吾教室は烏有に帰した。余等亦夫々傷き倒れた。住むべき家は焼け、着る物も失われ、家族は死傷した。今更何 を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献出来る如く更に一層の研究を 進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数犠牲者の霊も 亦慰められるであろう<ref>[http://abomb.med.nagasaki-u.ac.jp/abcenter/nagai/index.html 原子爆弾救護報告書:永井隆. 原子爆弾救護報告書:永井 隆]</ref>。


2ヶ月後にようやく健康を取り戻したが、右耳が不自由になったため、当初志望していた内科を諦めて物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻することとなった{{Sfn|片岡|p=61}}。1932年(昭和7年)11月8日に助教授に就任した[[末次逸馬]]<ref>[http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/radiolgy/outline/index.html 長崎大学放射線医学教室の沿革 長崎大学病院 放射線科]</ref>の下で[[助手 (教育)|助手]]として[[放射線療法|放射線物理療法]]の研究に取り組んだ。
また、原子力が利用される時代に関して以下のような構想を描いている。


[[1933年]](昭和8年)[[2月1日]]、幹部候補生として広島[[歩兵第11連隊|歩兵連隊]]に入隊し、短期[[軍医]]として[[満州事変]]に従軍{{Sfn|片岡|p=62}}。この間、緑から送られた[[公教要理]]を読んでカトリックの教えに対する理解を深めた{{Sfn|パウロ・アロイジウス・グリン|1991|pp=133-134}}。
*稲の大敵二百十日の大風は[…]太平洋の真ん中で大きな原子爆発を起こして気圧の変動を作り、それによって大風の進路を変えて、日本列島からそらしてしまえばいい<ref name="18頁">永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)18頁</ref>


[[1934年]](昭和9年)[[2月1日]]、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。浦上天主堂の[[守山松三郎]]神父を訪れる。同年6月に[[洗礼]]を受け、洗礼名を[[日本二十六聖人]]の1人である[[パウロ三木]]に因んで'''パウロ'''とした{{Sfn|パウロ・アロイジウス・グリン|1991|pp=156-157}}。同年8月に森山緑と結婚。洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である{{仮リンク|聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会|en|Society of Saint Vincent de Paul}}(ヴィンセンシオ会)に入会{{Sfn|片岡|pp=63-64}}。無料診断・無料奉仕活動などを行い、このころに培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。
*そのころ(原子時代)には魚を獲るのにも、針で釣ったり網ですくったりはしないで、音波や超音波、あるいは電波、電流、原子爆発という物理的漁業が盛んになっている<ref name="18頁">永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)18頁</ref>


[[1935年]](昭和10年)2月、急性[[咽頭炎]]に蛋白刺激療法を試そうとして雑菌を注射した後に[[アナフィラキシー]]症状を起こして危篤となった。そのため、[[病者の塗油|終油の秘蹟]]を受けた。大学の景浦内科部長の手により助けられたが、それ以来[[喘息]]が持病となった{{Sfn|片岡|pp=63-64}}。
*飛行機、汽船、汽車、自動車。そんな交通機関はみんな原子力で動くから、とても速く、型も大きくなり、数も増し、世界中の物資は余った所から足らない所へすぐに廻されるし、人も自由に簡単に旅行出来て、地球が、一つの家みたいになる<ref name="19頁">永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)19頁</ref>
*山林も畑も学校も町もある文化施設の整った大船が、太平洋に浮かんで、原子力で好きな所へ移って行く<ref name="19頁">永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)19頁</ref>
*町や村の近くの山の中に原子力採取場があって、ここで大量の熱が得られ、熱伝導線を通じて工場や各家庭に送られる<ref name="19頁">永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)19頁</ref>
*また原子力を利用した発電機から得た電気であらゆる部門の電化が実現し、家庭生活は能率が上がり、主婦が家事に朝から晩まで立ち働かねばならぬ現在とはすっかり様子が変わる<ref name="19頁">永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)19頁</ref>
*原子薬品の利用で難病もすみやかに治る<ref>永井隆『原子野録音』(聖母の騎士社)20頁</ref>


=== 日中戦争 ===
==死後==
[[1937年]](昭和12年)、長崎医科大学の[[講師 (教育)|講師]]に就任。長女の郁子が生まれる。同年7月の[[日中戦争]]勃発後まもなく[[第5師団 (日本軍)|第5師団]][[衛生兵|衛生隊]]隊長・軍医中尉として出征{{Sfn|片岡|p=119}}。河北・河中・河南で計72回の戦闘に従軍した{{Sfn|片岡|p=156}}。現地では日本軍のみならず、[[中国人]]への医療にも従事し、現地の知事から感謝の印として対幅の書を贈られた{{Sfn|片岡|pp=142-143}}。また、現地でも長崎のヴィンセンシオ会から必要な物資を送ってもらい、現地の聖ヴィンセンシオ会を通じて分配した{{Sfn|片岡|p=156}}。
*[[1952年]](昭和27年) 長崎市に市立永井隆記念館が開館。[[1998年]](平成10年)からは長男の誠一が館長を務めた。
*次女の茅乃は作家として「娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り」を刊行している。
*[[1991年]](平成3年)には、永井隆の故郷、島根県雲南市で「永井隆平和賞」が創設され、「平和を願い、人々を愛する心」を育て、やさしく夢のある21世紀の世界をつくるために、全国から「愛」と「平和」をテーマにした作文・小論文を毎年募集している。


==記念==
=== 帰国後 ===
[[1940年]](昭和15年)2月に日本に帰国{{Sfn|片岡|p=156}}。功績により功五級金鵄勲章を受章{{Sfn|片岡|p=156}}。同年4月に長崎医科大学[[助教授]]・物理的療法科部長に就任し{{Sfn|片岡|p=360}}、[[1944年]](昭和19年)[[3月3日]]、『尿石の微細構造』で医学[[博士号]]を授与された。
*[[2003年]] (平成15年)4月1日には、永井の精神の継承及び国内外のヒバクシャ(被ばく者)を対象とした医療を提供する拠点として、永井隆記念国際ヒバクシャ医療センターが長崎大学病院に設立された<ref>[http://www.hibakusha.jp/ 永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター]</ref>。


戦時中は[[結核]]の[[X線]]検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、[[1945年]](昭和20年)6月には[[被曝]](散乱放射線被曝)による[[白血病]]と診断され、余命3年の宣告を受けた。この時[[白血球]]数10万8000、[[赤血球]]数300万(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)であり、発病は[[1940年]](昭和15年)と推定された{{Sfn|片岡|p=83}}。
==著書==
永井の脱稿した年と著作の発行年は必ずしも一致しない(没後に発行されたものも含まれる)。


この頃は「この戦争は是非勝たなければいけない。日本国のために、陛下のために。」と口癖のように言い、地域の婦人部の[[竹槍]]を指導したり、[[肝試し]]と称して血の付いたガーゼを暗くした部屋に散らし、骸骨を置いたりして地域の婦人部屋の端から出口まで通らせることもした<ref name="私の被爆体験―永井隆博士とともに">[http://www-sdc.med.nagasaki-u.ac.jp/abcenter/ab60th/data/02hisamatsu_S.pdf「私の被爆体験―永井隆博士とともに」附属病院 永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター 名誉センター長 故久松シソノ先生]</ref>。
* 長崎の鐘(1946年8月)
* 原子野録音(1947年~1951年 「聖母の騎士」誌上にて連載)
* 亡びぬものを(1948年1月)
* ロザリオの鎖(1948年3月)
* この子を残して(1948年4月)
* 生命の河(1948年8月)
* 花咲く丘(1949年4月)
* いとし子よ(1949年10月)
* 乙女峠(1951年4月)
* 如己堂随筆(1957年12月)
* 村医(1978年4月)
* 平和塔(1979年11月)
* 長崎の花 上・中・下(1950年 日刊東京タイムス誌上にて連載)


=== 被爆および救護活動 ===
==関連施設==
[[1945年]](昭和20年)[[8月9日]]、長崎市に[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾]]が投下され、[[爆心地]]から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。
* 如己堂、永井隆記念館 (長崎県長崎市)

* 浦上天主堂 (長崎県長崎市) - 著書「長崎の鐘」の舞台。
{{quotation|(永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった<ref name="私の被爆体験―永井隆博士とともに">[http://www-sdc.med.nagasaki-u.ac.jp/abcenter/ab60th/data/02hisamatsu_S.pdf「私の被爆体験―永井隆博士とともに」附属病院 永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター 名誉センター長 故久松シソノ先生]</ref>。}}
* 永井隆博士記念館 (島根県雲南市)

3日目の[[8月11日]]、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅{{Sfn|片岡|p=172}}。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した{{Sfn|片岡|p=173}}。[[8月12日]]、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護にあたった{{Sfn|片岡|p=174}}。

[[9月10日]]ごろ、[[昏睡]]状態に陥る。直前、[[辞世の句]]として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。[[9月20日]]、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。[[マリア会]]の田川神父に告解をして終油の秘蹟を受けた。その後、出血が奇跡的に止まった。本人によると、本河内の[[ルルド]]の水を飲み、「神父(かつて診察したことがあった{{Sfn|永井隆|1989|pp=90-91}})の取次ぎを願え」という声が聞こえたようなので、それに従ったという。

[[10月15日]]、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出{{Sfn|片岡|p=189}}。その後25年間所在が不明だったが、[[長崎放送]]の田川裕記者によって1970年(昭和45年)に発見された<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/news/kennai-bohimei/2012/12/25084324.shtml 県内・墓碑銘(2012年12月25日更新) 長崎新聞]</ref>。

[[1946年]](昭和21年)[[1月28日]]、長崎医科大学[[教授]]に就任したが、同年7月には[[長崎駅]]近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった。[[11月17日]]、長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。

=== 如己堂 ===
[[画像:如己堂.JPG|right|250px|thumb|永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)]]
1948年(昭和23年)には荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行うための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「[[如己堂]](にょこどう)」と名付けた。8月、大学を休職し療養に専念。ニュース映画「[[日本ニュース]]」の取材に、「ろうそくがもう切れかけてるようなもんですけれどね、最後までやっぱり光になって、ばーっと光ることができると思います。」と語る<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001310135_00000&chapter=008 日本ニュース戦後編第135号|NHK戦争証言アーカイブス]</ref>。

[[10月18日]]、来日中の[[ヘレン・ケラー]]が見舞いに訪れる。予告なしの不意な訪問であった{{Sfn|片岡|p=243}}。[[1949年]](昭和24年)[[5月27日]]、長崎を巡幸した[[昭和天皇]]の訪問を受ける。永井は著書『いとし子よ』に天皇が口にした励ましを「何というありがたいお言葉だろう」と記したが、天皇は翌年永井に([[湯川秀樹]]とともに)銀杯を授ける政府からの裁可書に対して「私はこんな宣伝屋はいやだが、そして湯川博士にもわるいと思ふが、裁可せぬ訳には行かぬと思ふが」と述べていたことが[[田島道治]](当時[[宮内庁]]長官)の「拝謁記」に記されていたり、侍従の[[入江相政]]が長崎での面会について「二人の子供を御引合せしたりして少し宣伝が過ぎるやうだ」と日記に記していたことが今日では判明している<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASSCZ1S4VSCZUTIL031M.html|title=側近が記した昭和 第6回 被爆した医師を天皇が批判 専門家「罪の意識を刺激したと考えても」|newspaper=朝日新聞|date=2024-12-10|accessdate=2024-12-11|author=北野隆一}}</ref>。[[5月30日]]、浦上公民館で日本に運ばれていた[[フランシスコ・ザビエル]]の聖腕に接吻し、[[教皇|ローマ教皇]]特使としてギルロイ[[枢機卿]]の見舞を受けた{{Sfn|片岡|p=246}}。当初は聖腕と特使が如己堂に来ることになっていたが、永井はそれを辞退して公民館まで出向いた{{Sfn|片岡|p=246}}。

[[8月1日]]、長崎市長から表彰を受ける。[[9月30日]]、長崎医科大学教授を退官。[[12月3日]]、長崎市[[名誉市民]]の称号を受ける。

[[1950年]](昭和25年)[[5月14日]]、ローマ教皇特使として[[大司教]]の{{仮リンク|フルステンベルク|nl|Maximilien de Furstenberg|en|Maximilien de Furstenberg}}が見舞いに訪れ、[[ロザリオ]]を下賜される。[[11月29日]]、永井が[[ルハンの聖母]]像を欲しがっているのを知った[[アルゼンチン]]大統領夫人[[エヴァ・ペロン]]により、長崎市に送られたルハンの聖母像が長崎に到着{{Sfn|片岡|pp=309-310}}。聖母像は大小2体で、大きいものはペロン夫人から長崎市、小さいものは[[日系ブラジル人|ブラジル在留日本人]]から永井個人に贈られた{{Sfn|片岡|p=311}}。

=== 死去 ===
[[1951年]](昭和26年)2月には白血球数が39万を超えて危険な状態となる{{Sfn|片岡|p=339}}。[[4月1日]]に[[浦上四番崩れ]]で[[石見国]][[津和野藩]](現・[[島根県]][[鹿足郡]][[津和野町]])に配流された[[キリシタン]]・[[守山甚三郎]]等を中心とした『乙女峠』の原稿を書き始め、[[4月22日]]に脱稿した。この原稿は誤字があまりにも多かったため、永井本人が驚く程であった{{Sfn|片岡|p=341}}。3日後の[[4月25日]]には右肩内出血により執筆不能となり、これが[[絶筆]]となった。

死ぬ前に医学生に白血病の最終段階を見せて、病気への知識を深めるのに役立てたいという永井の希望により、[[5月1日]]に[[長崎大学病院|長崎大学付属病院]]に緊急入院。この日まで入院を伸ばしたのはイタリア医師会から送られた聖母像を待つためであった{{Sfn|片岡|p=342}}。当初は容態が意外に良かったので、家族は夕の祈りの後に一度家に引き上げた{{Sfn|片岡|p=349}}。午後9時40分になって目まいを訴え、一時意識不明になった後で午後9時50分に意識を取り戻し、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、駆けつけた息子の誠一から[[十字架]]を受け取ると「祈ってください」と叫んだ直後に息を引き取った{{Sfn|片岡|pp=349-350}}。享年43。

遺言により、翌日[[5月2日]]の午後1時半から5時半まで松岡、林教授により遺体解剖が行われ{{Sfn|片岡|p=356}}、死因が白血病による[[心不全]]であると判明した{{Sfn|片岡|p=351}}。[[脾臓]]は3410g(正常値:94g)、[[肝臓]]は5035g(正常値:1400g)[[腎臓]]は左350g、右355g(正常値:左右140g)と肥大しており{{Sfn|片岡|p=356}}、[[心臓]]は白血病による筋肉組織の破壊が既に始まっていた。[[腹水]]は3100ccもあった{{Sfn|片岡|p=357}}。

[[File:Grave of Takashi Nagai in Sakamoto international Cemetery.jpg|thumb|坂本国際墓地にある永井隆博士の墓]]
[[5月3日]]に先ず浦上天主堂で[[山口愛次郎]]司教司式による死者ミサが捧げられた。同日に長崎市は市公葬を行うことを決め、[[5月14日]]9時から浦上天主堂で市公葬が執り行われて2万人が参列した{{Sfn|片岡|p=357}}。[[田川務]]長崎市長が総理大臣の[[吉田茂]]等300通の弔電を1時間半にわたって読み上げた。正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると全市の寺院、工場、船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、市民は1分間の黙祷を捧げた{{Sfn|片岡|p=358}}。その後、亡骸は[[坂本国際墓地|長崎市坂本町にある国際外人墓地]]に「長崎市名誉市民永井隆之墓」として緑夫人と共に葬られた{{Sfn|碑は訴える|p=131}}{{Sfn|中井俊已|2007}}。

==== 弔祭次第 ====
# [[ミサ]] - 山口愛次郎司教
# 赦祷式

天主堂広場では以下の次第で一般[[告別式]](市公葬)が執り行われ、終了後は[[葬送]]行列をなし墓地まで進んだ。

# 市長祭文
# 弔辞、弔文、[[弔電]]披露
# [[聖水]]徹水 - [[遺族]]および市長
# [[黙祷]] - [[正午]]のサイレンを合図にした
# 白ばらの歌[[レクイエム|合唱]] - [[純心中学校・純心女子高等学校|純心学生]]
# 市長挨拶

== 受賞歴など ==
*1940年(昭和15年)に[[金鵄勲章]]、[[旭日章]][[内閣総理大臣|臣]][[教皇|皇]]

== 思想 ==
*[[カトリック教会|カトリック]]教徒でもあった永井は、原爆投下を「神の御摂理」と解釈し、さらに、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭([[ホロコースト]])」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと説いていたことが、元[[長崎大学]][[教育学部]]教授の[[高橋眞司]]が提起した[[浦上燔祭説]]の中で論評されている。
*ホロコーストの古い記録は、[[フラウィウス・ヨセフス|フラウィウス・ヨセフス・ベン・マタティア]]著『[[ユダヤ戦記]]』の中に、以下のように残っており、[[神学]]研究者や研究熱心なクリスチャンの間で知られていた。
**「イエスの[[福音]]書の流布とほぼ同年代に当たる紀元後[[70年]]8月([[ユダヤ暦]]第6月8日、9日、10日)、[[エルサレム神殿]]に立て篭もった何千人もの[[ユダヤ人]]が、[[ローマ軍]]とマタティア・[[ハスモン王朝]]の母系子孫である[[アグリッパ2世]]の同盟軍によって、大量焼死(ホロコースト)させられた。」

*『[[#CITEREF永井隆1948c|生命の河―原子病の話]]』では、[[ヒトラー]]がドイツ民族の血の純潔を保つと言い出したために、原子力の利用法を考えていた科学者のほとんどがアメリカに集まり、原子爆弾が案外早く出来上がって、日本も戦争にとびこんで、長崎市民の血を求められたと書いている{{Sfn|永井隆|2008|pp=215-216}}。
<!--
=== 放射線の影響への態度 ===
{{quotation|あれほど恐れられた残存放射能もひと雨ごとに洗い流され、今ではほとんど証明できない。田畑の作物もむしろできがよくなった。生まれ出る子供に不具者がありはしないかと、心配されていたが丈夫な赤ちゃんがつぎつぎと産声をあげた。お嫁さんの妊娠率も悪くなく祝福された女の人がよく私の家の前を通る。もう何の心配もいらない{{Sfn|永井隆|1948a}}。}}
{{quotation|私らは屋敷跡の石垣を利用し、とりあえず丸太とトタンで一坪ほどの小屋を作り、そこに住んで再建にかかりました。爆心地の残留原子放射線の人体におよぼす影響を知ろうというのが私の目的でした。大人ばかりでなく小児についても精密な連続観察をするため誠一も妹のカヤノもその小屋にいっしょに六か月住んでみました。爆心地の残留放射能は時日の経過と共にすみやかに減衰し、二か月以後は人体の健康を損なわぬ程度になることやら、ここに来住して一か月ほどたつと放射線の刺激によって軽い白血球増加症が起こることやら、いろいろの事実がわかりました。この自家実験にもとづき、私は避難民に、爆心地居住は衛生上危なくないからすみやかに帰って来て再建を始めるように広く呼びかけました。こうして私ら父子は市民としての医学徒の義務の一部を果たしました{{Sfn|永井隆|1948a}}。}}-->

=== 原子力について ===
[[1945年]]8月-10月の救護活動をまとめた『原子爆弾救護報告書』の結語で、永井は原子力の利用に対して肯定的な考えを述べている。

{{quotation|すべては終った。祖国は敗れた。吾大学は消滅し吾教室は烏有に帰した。余等亦夫々傷き倒れた。住むべき家は焼け、着る物も失われ、家族は死傷した。今更何を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献出来る如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数犠牲者の霊も亦慰められるであろう<ref>[http://abomb.med.nagasaki-u.ac.jp/abcenter/nagai/index.html 原子爆弾救護報告書:永井隆. 原子爆弾救護報告書:永井 隆]</ref>。}}

また、『聖母の騎士』1947年2月号には原子力が利用される時代を以下のように描いている。

{{quotation|
*稲の大敵二百十日の大風は(中略)太平洋の真ん中で大きな原子爆発を起こして気圧の変動を作り、それによって大風の進路を変えて、日本列島からそらしてしまえばいい{{Sfn|永井隆|1989|p=18}}
*そのころには魚を獲るのにも、針で釣ったり網ですくったりはしないで、音波や超音波、あるいは電波、電流、原子爆発という物理的漁業が盛んになっている{{Sfn|永井隆|1989|p=18}}
*飛行機、汽船、汽車、自動車。そんな交通機関はみんな原子力で動くから、とても速く、型も大きくなり、数も増し、世界中の物資は余った所から足らない所へすぐに廻されるし、人も自由に簡単に旅行出来て、地球が、一つの家みたいになる{{Sfn|永井隆|1989|p=19}}
*山林も畑も学校も町もある文化施設の整った大船が、太平洋に浮かんで、原子力で好きな所へ移って行く{{Sfn|永井隆|1989|p=19}}
*町や村の近くの山の中に原子力採取場があって、ここで大量の熱が得られ、熱伝導線を通じて工場や各家庭に送られる{{Sfn|永井隆|1989|p=19}}
*また原子力を利用した発電機から得た電気であらゆる部門の電化が実現し、家庭生活は能率が上がり、主婦が家事に朝から晩まで立ち働かねばならぬ現在とはすっかり様子が変わる{{Sfn|永井隆|1989|p=19}}
*原子薬品の利用で難病もすみやかに治る{{Sfn|永井隆|1989|p=20}}}}

原子力委員会委員長を務めた[[藤家洋一]]は、2004年の講演で『原子爆弾救護報告書』の結びを「祖国は敗れた。大学は灰燼に帰した。しかし原爆の理屈(核分裂反応)はこれから使わねばいけない。この原子力のエネルギーが人類の文化の発展に貢献するようになった時、初めて原爆被害者は心の安らぎを覚えるであろう」と話し、原子力の本質を見事に捉えていると評価した<ref>[http://www.ns-fuji-ie.jp/Fujii_e_HP/F_pdf_data/J_discussion/J_D_09.pdf L 特別講演 「原子力利用の現状と見通し」]</ref>。

[[福島第一原子力発電所事故]]後に[[福島県放射線健康リスク管理アドバイザー]]を務めた、[[長崎大学]]・[[福島県立医科大学]]副学長の[[山下俊一]]はその著作『放射線リスクコミュニケーション』に「原子力の問題が出たときには、昭和20年の10月に書かれた永井隆の原爆救護報告書の最後の一文を述べるようにしています(中略)原子力という科学の光、力を利用してより良い世界を作って行くべきだ、ということを彼はその当時既に書いているのです」と書き<ref>[http://shimazono.spinavi.net/?p=390 放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(8) ――[[山下俊一]]氏はリスコミをどう理解してきたのか? [[島薗進]]・宗教学とその周辺]</ref>、『原子力文化』2012年1月号の作家[[森福都]]との対談では、それを「わが祖国は敗れた。すべてが灰燼に帰した。しかし、この禍を転じてわが国は原子力の平和利用によって、亡くなった方々に対し罪をあがなわなくてはいけない。その結果、わが国はきっと復興する」と言い換えている<ref>[http://www.jaero.or.jp/data/03syuppan/genshiryokubunka2011/taidan/0106.htm 原子力文化 2012年1月号 新春対談 福島のいま、そして明日-地域住民参加型の健康管理が必要に-]</ref>。

[[日本エネルギー会議]]発起人で工学者の[[澤田哲生]]は「原爆=原発ではない。両者を区分けするのが人間の叡智であり、それを実現するのがエンジニアリングです。そこに永井隆博士の願いがありました」<ref>[enercon.jp/pdf/008_sawada_denkijouho.pdf 澤田哲生 脱原発較調にぶれてはならない原子力研究 - 電気情報2011年11月号- 日本エネルギー会議]</ref>と語っている。

永井は原子力の平和利用に期待をかけたが、一方で原子力より先の学問があるという考えを持っていた。

{{quotation|このたびの戦争で、原子学をはじめ、たくさんの進歩がありましたが、同時に世界中で死者二千二百六万、傷者三千四百四十万、財産損害三千三百億ドル。全参加国の戦費一兆一千百六十九億一千百四十六万三千八十四ドル、という損害が出ています。これだけの人の命と、お金とを平和文化の方へ使ったら、原子力よりもっと先の学問が、すでにわたくしたちの手の中に入っていたでしょう{{Sfn|永井隆|1950}}。}}

=== 平和 ===
永井は『いとし子よ』の中で[[日本国憲法]]についてふれ、自分の子供に戦争放棄の条項を守ってほしいと書いている。

{{quotation|私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。

これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)……愛されるものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。

敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ{{Sfn|永井隆|1995|pp=207-209}}。}}

== 家族 ==
妻・緑は純心高等女学校で家庭科の教員をしていた。

永井夫妻は1男3女、長男・誠一(まこと)、長女・郁子(いくこ)、次女・茅乃(かやの)と三女・笹乃(ささの)の子供をもうけたが、長女と三女はいずれも夭折した。

長男・誠一は時事通信に入社(記者)し定年退職まで同社に勤務、退社後となる[[1998年]](平成10年)5月から長崎市立永井隆記念館館長を務め、父の伝記『永井隆』{{Sfn|永井誠一|2000}}も著したが、[[2001年]][[4月4日]]に[[肺炎]]で亡くなった<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2001/kiji/04/0601.html 永井隆博士の長男、記念館館長 永井誠一氏が死去, ナガサキ・ピースサイト 2001/04/06]</ref>。

次女・茅乃は作家として「娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り」を刊行している。晩年には信者として[[カトリック枚方教会]]の売店で受付をするかたわら<ref>[http://www5.ocn.ne.jp/~cahirakt/news/08/0202/index.htm 筒井茅乃さんを偲ぶ、カトリック枚方教会]</ref>、父のことに関する活動にも関わっていたが、[[2008年]][[2月2日]]の永井隆生誕百周年前日に肝細胞がんで亡くなった<ref>[https://web.archive.org/web/20130420132521/http://www.47news.jp/CN/200802/CN2008020201000445.html 筒井茅乃さんが死去 父・永井博士の遺志継承 47NEWS]</ref>。茅乃は純心女子高等学校の卒業生でもある。

== 記念 ==
[[1950年]](昭和25年)に永井が私財で作った子供のための図書室『うちらの本箱』を前身とした長崎市立永井図書館が[[1952年]](昭和27年)に完成し、[[1969年]]には市立永井隆記念館と改称<ref>[http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/abm/insti/nagai/#history 永井隆記念館]</ref>。[[1970年]]<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/peace/2010/kiji/08/0405.html 韓国「如己愛人賞」受けた中高生が追悼行事参加へ 8日に来崎 2010年8月4日 長崎新聞]</ref>

*[https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564287592498176 『輝やく港』(未発表作) : 作品と原稿(1), 小西 哲郎 長崎外国語大学]
*[https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845762569192320 『輝やく港』(未発表作) : 作品と原稿(2), 小西 哲郎 長崎外国語大学]

== 著作物 ==
主なもの
=== 著作 ===
* {{Cite book|和書|author=永井隆|title=ロザリオの鎖|publisher=ロマンス社|date=1948-06|year=1948a|id={{NDL|46027804}}|ncid=BN11461248|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|author=永井隆|title=ロザリオの鎖 増補6版|publisher=ロマンス社|date=1949|year=1949a|doi=10.11501/1130219|ref=harv}}
** {{青空文庫|000924|54870|新字新仮名|ロザリオの鎖}}
* {{Cite book|和書|author=永井隆|title=この子を残して|publisher=大日本雄辯会講談社|date=1948-09|year=1948b|id={{NDL|48007982}}|doi=10.11501/1155671|ncid=BN05055038|ref=harv}}
** {{青空文庫|000924|49192|新字新仮名|この子を残して}}
** 再刊は、秋津書舎版([[七つ森書館]] (発売)、2005年8月、ISBN 4822805069 )、日本ブックエース版(2010年、ISBN 4284800760)など複数ある。
* {{Cite book|和書|author=永井隆|title=生命の河―原子病の話|publisher=日比谷出版社|date=1948-11|year=1948c|id={{NDL|48007047}}|ncid=BA46558107|ref=harv}}
:: 再刊は、以下ののものなど複数ある。
::*{{Cite book|和書|author=永井隆|title=生命の河―原子病の話|series=アルバ文庫|publisher=サンパウロ|date=2008|isbn=4805648228|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=永井隆|title=長崎の鐘|publisher=日比谷出版社|date=1949-01-30|year=1949b|id={{NDL|46028574}}|doi=10.11501/1131126|ncid=BN0505483X|ref=harv}}
** {{青空文庫|000924|50659|新字新仮名|長崎の鐘}}
** 再刊は、日本ブックエース版(2010年、ISBN 9784284800778)、[[勉誠出版]]版(2018年、ISBN 9784585912347)など複数ある。
* {{Cite book|和書|author=永井隆|title=いとし子よ|publisher=大日本雄辯会講談社|date=1949|year=1949c|id={{NDL| 49006958}}|ncid=BN05054953|ref=harv}}
:: 再刊は、以下のものなど複数ある。
::*{{Cite book|和書|author=永井隆|title=いとし子よ|series=アルバ文庫|publisher=サンパウロ|date=1995|isbn=4805604484|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=永井隆|title=八月十五日に思う|journal=小学五年生|publisher=小学館|issue=1950年8月号|date=1950-08|id={{NDL|00011242}}|doi=10.11501/1741344|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=永井隆|title=原子野録音|publisher=聖母の騎士社|series=聖母文庫|date=1989-08|isbn=4882160455|id={{NDL|91030057}}|ref=harv}}

==== 全集 ====
* 『永井隆全集』(全1巻)[[講談社]]、1971年。{{NDL|75017300}}、{{DOI|10.11501/12541382}}、{{OCLC|703774476}}。
* 『永井隆全集』(1巻~3巻)[[聖パウロ修道会#日本での活動|サンパウロ]]、2003年7月。{{NCID|BA63781909}}、1巻 ISBN 9784805664100、2巻 ISBN 4805664118 3巻 ISBN 4805664126。
** 『永井隆全集 第四巻―書画集―』(最終巻)サンパウロ、2023年8月。ISBN 4805664134、{{NDL|23871386}}、[https://www.sanpaolo.jp/18422 永井隆全集 第四巻―書画集― | 聖パウロ修道会 サンパウロ 公式サイト]

==== 編著 ====
* {{Cite book|和書|title=原子雲の下に生きて―長崎の子供らの手記|editor=永井隆|publisher=[[大日本雄弁会講談社]]|date=1949|year=1949d|id={{NDL|49005942}}|doi=10.11501/1705235|ref=harv}}
** 再刊;中央出版社版(1977年8月、ISBN 4805628014)、サンパウロ版(アルバ文庫、1995年8月、ISBN 9784805628102)
* {{Cite book|和書|title=私達は長崎にいた―原爆生存者の叫び|others=永井隆 編著|publisher=大日本雄弁会講談社|date=1952|id={{NDL|53001245}}|doi=10.11501/1660094|ncid=BA3297905X|ref=harv}}
** 再刊;中央出版社版(1978年6月、ISBN 4805697032、{{NCID|BN05605864}})、サンパウロ版(アルバ文庫、1997年2月、ISBN 4805697253)など。

==== 翻訳 ====
* {{仮リンク|ブルース・マーシャル|en|Bruce Marshall (writer)}}著『世界と肉体とスミス神父』[[プルダン・モンフェット]](Purdent Monfette)・永井隆(共訳)[[主婦之友社]]、1947年、{{NDL|46032365}}、{{NCID|BA48095145}}。
** 再刊;[[聖母の騎士社]](2014年3月1日、ISBN 4882163535)
* {{仮リンク|フランシス・クレメント・ケリー|en|Francis Kelley}}著『野鼠―フアンタジイ』プルダン・モンフェット・永井隆(共訳)、[[ドン・ボスコ社]]、1949年7月、{{NDL|20400568}}、{{NCID|BA87384878}}

== 映画・ドラマ==
*1950年(昭和25年)、[[大庭秀雄]]監督による『[[長崎の鐘#映画|長崎の鐘]]』が公開された。
*1983年(昭和58年)、[[木下惠介]]監督による『[[この子を残して#映画|この子を残して]]』が公開された。
*2012年(平成25年)、[[イギリス]]のメジャー・オーク・エンターテイメントは、永井の生涯を題材とした『All That Remains:The Story of Takashi Nagai(残りしもの:永井隆の物語)』を製作、2016年に公開された<ref>[http://www.majoroakentertainment.com/allthatremains.html allthatremains - Major Oak Entertainment]</ref>。ロンドン在住の俳優、レオ芦澤、ユナ・シン、メグ久保田、[[梶岡潤一]]らが出演している。

== 演じた人物 ==
* [[若原雅夫]] - [[長崎の鐘]]、[[松竹]]、[[1950年]]
* [[加藤剛]] - [[この子を残して]]、松竹、[[1983年]]
* [[吉岡秀隆]] - [[エール (テレビドラマ)|エール]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[2020年]]、役名は永田武

== 関連施設 ==
* 如己堂、永井隆記念館(長崎県長崎市)
* 浦上天主堂(長崎県長崎市) - 著書「長崎の鐘」の舞台。
* 永井隆博士記念館(島根県雲南市)
* [[長崎市立山里小学校]] あの子らの碑
* [[長崎市立山里小学校]] あの子らの碑


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|2}}
{{Notelist2}}


==参考資料==
=== 出典 ===
{{Reflist|18em}}

== 参考資料 ==
* 長崎市永井隆記念館資料
* 長崎市永井隆記念館資料
* {{Cite book |和書|author=片岡弥吉|authorlink=片岡弥吉 |title=永井隆の生涯 |date=1952-04 |publisher=中央出版社 |id={{NDL|52011011}}|ncid=BA35467203 |ref=harv }}
* 永井隆『この子を残して』([[講談社]]→[[七つ森書館]])
**改訂版;{{Cite book |和書|author=片岡弥吉 |title=永井隆の生涯 |date=1961年4月25日 |publisher=サンパウロ |isbn=4805664002 |ref={{SfnRef|片岡}} }}新版1985年。
* {{Cite book |和書|author=長崎国際文化会館 |date=1986-3 |title=碑は訴える 被爆40周年記念|publisher=長崎市|page=176 |ref = {{Harvid|碑は訴える}} }}
* {{Cite book|和書|author=パウロ・アロイジウス・グリン|title=長崎の歌|tranrator=聖心女子大同窓会グループ|editor=[[大和幸子]]|publisher=マリスト会|date=1991|id={{NDL|93011639}}|ref=harv}}
** 原著;{{Cite book|author=Paul Aloisius Glynn|title=A song for Nagasaki|publisher=Marist Fathers Books|date=1989|isbn=0731635914}}
** 著者;パウロ・アロイジウス・グリン(Paul Aloisius Glynn)([https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00467246 Glynn, Paul, 1928- ] - Web NDL Authorities 参照)
* {{Cite book|和書|author=永井誠一|authorlink=永井誠一|title=永井隆―長崎の原爆に直撃された放射線専門医師|date=2000-05-01|publisher=サンパウロ|isbn=480566407X|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=中井俊已|authorlink=中井俊已|title=永井隆―平和を祈り愛に生きた医師|date=2007-06-25|publisher=童心社|isbn=4494022381|ref=harv}}


=== 動画・音声 ===
==外部リンク==
*[http://www.tomoshibi.or.jp/info/vtr/v6.html 永井 隆 信仰への旅路、心のともしび]
*[http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/abm/insti/nagai/nagai_s/nagae01.html 己の如く人を愛した人(長崎市公式ウェブサイト)]
*[https://www.youtube.com/watch?v=qvNnZ5YnjrM 筒井 茅乃(旧姓長井、表記ママ)氏による被爆者証言]
*[http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/peace/japanese/abm/insti/nagai/index.html   永井隆博士記念館(長崎県長崎市)]
*[http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/20000807_01.html 長崎の鐘は鳴り続ける 初回放送日:2000年8月7日 2000年度芸術祭優秀賞]
*[http://www.city.unnan.shimane.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_oid=icityv2::Contents::2295&WIT_template=AC020000 永井隆博士記念館(島根県雲南市)]
*[http://www.nhk.or.jp/peace/library/program/19500809.html 朝の訪問 永井隆 初回放送日:1950年8月9日(NHK平和アーカイブス)]
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person924.html 永井 隆:作家別作品リスト]([[青空文庫]])

* [http://www.nashim.org/ 長崎・ヒバクシャ医療国際協力会]
== 関連項目 ==
* [http://www.youtube.com/watch?v=qvNnZ5YnjrM 筒井茅乃(旧姓長井)氏による被爆者証言]
{{Div col}}
* [[満洲事変]]
* [[日中戦争]]
* [[マキシミリアノ・コルベ]]
* [[秋月辰一郎]]
* [[山下俊一]]
* [[被爆者]]
* [[角尾晋]] - 被爆死した長崎医大学長。
* [[蜂谷道彦]] - [[広島逓信病院]]院長として救護活動にあたり、被爆者の白血球減少について報告を行った。
* [[都築正男]] - [[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京帝国大学医学部]]教授で[[原爆症]]研究の先駆者。
* [[小倉豊文]] - 被爆死した妻への私信の形を取った広島原爆の体験記『絶後の記録』の著者。
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== 外部リンク ==
{{Wikiquote|永井隆}}
{{Wikiquote|永井隆}}
* [https://nagaitakashi.nagasakipeace.jp/japanese/ 永井隆博士記念館(長崎県長崎市)]
* {{青空文庫著作者|924|永井 隆}}
* [http://www.nashim.org/ 長崎・ヒバクシャ医療国際協力会]
* {{IMDb title|2629110|All That Remains}}
* {{kotobank}}


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永井 隆
1946年
生誕 1908年2月3日
日本の旗 日本 島根県松江市
死没 (1951-05-01) 1951年5月1日(43歳没)
日本の旗 日本 長崎県長崎市
国籍 日本の旗 日本
研究機関 長崎医科大学
出身校 長崎医科大学
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示
永井隆
教会 カトリック教会
洗礼名 パウロ三木
受洗日 1934年6月
テンプレートを表示

永井 隆(ながい たかし、1908年明治41年〉2月3日 - 1951年昭和26年〉5月1日)は、日本の医学博士、随筆家。『長崎の鐘』や『この子を残して』等の著書がある。

生涯

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生い立ち

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1908年(明治41年)2月3日島根県松江市にて、医師であった父・寛と母・ツネの長男(5人きょうだい)として誕生。お産の時、頭が大きくて産道に引っかかったままだったので、医者が胎児を切って外に出そうとしたが、母が強く反対して医者が帰ってから何時間かしてようやく生まれた[1]漢方医であった祖父文隆より1字を授かりと命名[2]。同年秋には父の医院開業のため、一家で飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)に移り住んだ[2]

1920年(大正9年)飯石小学校を優等で卒業して郡長賞をもらったが、島根県立松江中学校は補欠の3番目でようやく入学を認められた[3]。県立松江中学校では5年生の時に級長となり、当時摂政宮であった昭和天皇を全校生徒の先頭に立って迎えた[4]。運動は苦手で、運動会の徒競走はいつもビリから2番目だったと回想している[5]

1925年(大正14年)、松江中学校を卒業して松江高等学校理科乙類に入学。当時高校のドイツ語教師であったフリッツ・カルシュからドイツ語を学んだ[6]。高校を卒業するころには唯物論者となっていたが[7]、後の1947年(昭和22年)12月に高校の恩師である松原武夫宛のはがきによれば、キリスト教徒である彼から初めてイエス・キリストについて話を聞いている[8]。高校では3年間弓の稽古をしたが、上達せずに辞めている[9]

長崎医科大学

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1928年昭和3年)3月、松江高校を優等で卒業し、長崎医科大学(現・長崎大学医学部)に入学[10]。大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと当時としては大柄な体格[11][注 1]であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会で3等、西日本選手権制覇などに貢献[12]。この部活動で上海杭州にも遠征している[5]。また、同大学のアララギ支社に入って、歌会にも参加した[13]

高校以来唯物論者であったが、母が1931年(昭和6年)3月29日に脳溢血で急逝したのを機に霊魂があると信じるようになる[14]。その後、パスカルの『パンセ』を愛読し、カトリックに惹きつけられていった[15]浦上天主堂近くで牛の売買を営んでいたカトリックの森山家に下宿し、後に妻となる一人娘の緑(洗礼名:マリア)に出会った。森山家の先祖は隠れキリシタンで信者を指導し、教会暦を伝承する帳方であった。

1932年(昭和7年)5月、大学の卒業式で総代として答辞を読むことになっていたが、卒業式の5日前のクラス会の帰りに雨に濡れてそのまま寝たために急性中耳炎にかかり[16]、命を落とすか障害者になるかという重症に陥った[17]。この間、カトリック信者の老婆が世話をしたが、永井がうわごとで「天主の御母聖マリア、われらのために祈りたまえ」というのを聞いて「きっと信者になる」と思ったという[17]

2ヶ月後にようやく健康を取り戻したが、右耳が不自由になったため、当初志望していた内科を諦めて物理的療法科(レントゲン科)に入り、放射線医学を専攻することとなった[18]。1932年(昭和7年)11月8日に助教授に就任した末次逸馬[19]の下で助手として放射線物理療法の研究に取り組んだ。

1933年(昭和8年)2月1日、幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、短期軍医として満州事変に従軍[20]。この間、緑から送られた公教要理を読んでカトリックの教えに対する理解を深めた[21]

1934年(昭和9年)2月1日、出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。浦上天主堂の守山松三郎神父を訪れる。同年6月に洗礼を受け、洗礼名を日本二十六聖人の1人であるパウロ三木に因んでパウロとした[22]。同年8月に森山緑と結婚。洗礼後まもなく妻の仲介によりカトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会英語版(ヴィンセンシオ会)に入会[23]。無料診断・無料奉仕活動などを行い、このころに培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。

1935年(昭和10年)2月、急性咽頭炎に蛋白刺激療法を試そうとして雑菌を注射した後にアナフィラキシー症状を起こして危篤となった。そのため、終油の秘蹟を受けた。大学の景浦内科部長の手により助けられたが、それ以来喘息が持病となった[23]

日中戦争

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1937年(昭和12年)、長崎医科大学の講師に就任。長女の郁子が生まれる。同年7月の日中戦争勃発後まもなく第5師団衛生隊隊長・軍医中尉として出征[24]。河北・河中・河南で計72回の戦闘に従軍した[25]。現地では日本軍のみならず、中国人への医療にも従事し、現地の知事から感謝の印として対幅の書を贈られた[26]。また、現地でも長崎のヴィンセンシオ会から必要な物資を送ってもらい、現地の聖ヴィンセンシオ会を通じて分配した[25]

帰国後

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1940年(昭和15年)2月に日本に帰国[25]。功績により功五級金鵄勲章を受章[25]。同年4月に長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任し[27]1944年(昭和19年)3月3日、『尿石の微細構造』で医学博士号を授与された。

戦時中は結核X線検診に従事したが、フィルム不足で透視による診断を続けたため、1945年(昭和20年)6月には被曝(散乱放射線被曝)による白血病と診断され、余命3年の宣告を受けた。この時白血球数10万8000、赤血球数300万(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)であり、発病は1940年(昭和15年)と推定された[28]

この頃は「この戦争は是非勝たなければいけない。日本国のために、陛下のために。」と口癖のように言い、地域の婦人部の竹槍を指導したり、肝試しと称して血の付いたガーゼを暗くした部屋に散らし、骸骨を置いたりして地域の婦人部屋の端から出口まで通らせることもした[29]

被爆および救護活動

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1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことであった。

(永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これが原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるまでになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった[29]

3日目の8月11日、学長代理として指揮をとっていた古屋野教授の許可を得て帰宅[30]。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬した[31]8月12日、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に行き、そこに救護本部を設置して被爆者の救護にあたった[32]

9月10日ごろ、昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として「光りつつ 秋空高く 消えにけり」を詠じた。9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散。マリア会の田川神父に告解をして終油の秘蹟を受けた。その後、出血が奇跡的に止まった。本人によると、本河内のルルドの水を飲み、「神父(かつて診察したことがあった[33])の取次ぎを願え」という声が聞こえたようなので、それに従ったという。

10月15日、三山救護所で救護活動の合間に「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を執筆し、長崎医大に提出[34]。その後25年間所在が不明だったが、長崎放送の田川裕記者によって1970年(昭和45年)に発見された[35]

1946年(昭和21年)1月28日、長崎医科大学教授に就任したが、同年7月には長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなった。11月17日、長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行った。

如己堂

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永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)

1948年(昭和23年)には荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月、浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行うための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けた。8月、大学を休職し療養に専念。ニュース映画「日本ニュース」の取材に、「ろうそくがもう切れかけてるようなもんですけれどね、最後までやっぱり光になって、ばーっと光ることができると思います。」と語る[36]

10月18日、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。予告なしの不意な訪問であった[37]1949年(昭和24年)5月27日、長崎を巡幸した昭和天皇の訪問を受ける。永井は著書『いとし子よ』に天皇が口にした励ましを「何というありがたいお言葉だろう」と記したが、天皇は翌年永井に(湯川秀樹とともに)銀杯を授ける政府からの裁可書に対して「私はこんな宣伝屋はいやだが、そして湯川博士にもわるいと思ふが、裁可せぬ訳には行かぬと思ふが」と述べていたことが田島道治(当時宮内庁長官)の「拝謁記」に記されていたり、侍従の入江相政が長崎での面会について「二人の子供を御引合せしたりして少し宣伝が過ぎるやうだ」と日記に記していたことが今日では判明している[38]5月30日、浦上公民館で日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿の見舞を受けた[39]。当初は聖腕と特使が如己堂に来ることになっていたが、永井はそれを辞退して公民館まで出向いた[39]

8月1日、長崎市長から表彰を受ける。9月30日、長崎医科大学教授を退官。12月3日、長崎市名誉市民の称号を受ける。

1950年(昭和25年)5月14日、ローマ教皇特使として大司教フルステンベルクオランダ語版英語版が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。11月29日、永井がルハンの聖母像を欲しがっているのを知ったアルゼンチン大統領夫人エヴァ・ペロンにより、長崎市に送られたルハンの聖母像が長崎に到着[40]。聖母像は大小2体で、大きいものはペロン夫人から長崎市、小さいものはブラジル在留日本人から永井個人に贈られた[41]

死去

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1951年(昭和26年)2月には白血球数が39万を超えて危険な状態となる[42]4月1日浦上四番崩れ石見国津和野藩(現・島根県鹿足郡津和野町)に配流されたキリシタン守山甚三郎等を中心とした『乙女峠』の原稿を書き始め、4月22日に脱稿した。この原稿は誤字があまりにも多かったため、永井本人が驚く程であった[43]。3日後の4月25日には右肩内出血により執筆不能となり、これが絶筆となった。

死ぬ前に医学生に白血病の最終段階を見せて、病気への知識を深めるのに役立てたいという永井の希望により、5月1日長崎大学付属病院に緊急入院。この日まで入院を伸ばしたのはイタリア医師会から送られた聖母像を待つためであった[44]。当初は容態が意外に良かったので、家族は夕の祈りの後に一度家に引き上げた[45]。午後9時40分になって目まいを訴え、一時意識不明になった後で午後9時50分に意識を取り戻し、「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、駆けつけた息子の誠一から十字架を受け取ると「祈ってください」と叫んだ直後に息を引き取った[46]。享年43。

遺言により、翌日5月2日の午後1時半から5時半まで松岡、林教授により遺体解剖が行われ[47]、死因が白血病による心不全であると判明した[48]脾臓は3410g(正常値:94g)、肝臓は5035g(正常値:1400g)腎臓は左350g、右355g(正常値:左右140g)と肥大しており[47]心臓は白血病による筋肉組織の破壊が既に始まっていた。腹水は3100ccもあった[49]

坂本国際墓地にある永井隆博士の墓

5月3日に先ず浦上天主堂で山口愛次郎司教司式による死者ミサが捧げられた。同日に長崎市は市公葬を行うことを決め、5月14日9時から浦上天主堂で市公葬が執り行われて2万人が参列した[49]田川務長崎市長が総理大臣の吉田茂等300通の弔電を1時間半にわたって読み上げた。正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると全市の寺院、工場、船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、市民は1分間の黙祷を捧げた[50]。その後、亡骸は長崎市坂本町にある国際外人墓地に「長崎市名誉市民永井隆之墓」として緑夫人と共に葬られた[51][52]

弔祭次第

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  1. ミサ - 山口愛次郎司教
  2. 赦祷式

天主堂広場では以下の次第で一般告別式(市公葬)が執り行われ、終了後は葬送行列をなし墓地まで進んだ。

  1. 市長祭文
  2. 弔辞、弔文、弔電披露
  3. 聖水徹水 - 遺族および市長
  4. 黙祷 - 正午のサイレンを合図にした
  5. 白ばらの歌合唱 - 純心学生
  6. 市長挨拶

受賞歴など

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思想

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  • 生命の河―原子病の話』では、ヒトラーがドイツ民族の血の純潔を保つと言い出したために、原子力の利用法を考えていた科学者のほとんどがアメリカに集まり、原子爆弾が案外早く出来上がって、日本も戦争にとびこんで、長崎市民の血を求められたと書いている[53]

原子力について

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1945年8月-10月の救護活動をまとめた『原子爆弾救護報告書』の結語で、永井は原子力の利用に対して肯定的な考えを述べている。

すべては終った。祖国は敗れた。吾大学は消滅し吾教室は烏有に帰した。余等亦夫々傷き倒れた。住むべき家は焼け、着る物も失われ、家族は死傷した。今更何を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献出来る如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数犠牲者の霊も亦慰められるであろう[54]

また、『聖母の騎士』1947年2月号には原子力が利用される時代を以下のように描いている。

  • 稲の大敵二百十日の大風は(中略)太平洋の真ん中で大きな原子爆発を起こして気圧の変動を作り、それによって大風の進路を変えて、日本列島からそらしてしまえばいい[55]
  • そのころには魚を獲るのにも、針で釣ったり網ですくったりはしないで、音波や超音波、あるいは電波、電流、原子爆発という物理的漁業が盛んになっている[55]
  • 飛行機、汽船、汽車、自動車。そんな交通機関はみんな原子力で動くから、とても速く、型も大きくなり、数も増し、世界中の物資は余った所から足らない所へすぐに廻されるし、人も自由に簡単に旅行出来て、地球が、一つの家みたいになる[56]
  • 山林も畑も学校も町もある文化施設の整った大船が、太平洋に浮かんで、原子力で好きな所へ移って行く[56]
  • 町や村の近くの山の中に原子力採取場があって、ここで大量の熱が得られ、熱伝導線を通じて工場や各家庭に送られる[56]
  • また原子力を利用した発電機から得た電気であらゆる部門の電化が実現し、家庭生活は能率が上がり、主婦が家事に朝から晩まで立ち働かねばならぬ現在とはすっかり様子が変わる[56]
  • 原子薬品の利用で難病もすみやかに治る[57]

原子力委員会委員長を務めた藤家洋一は、2004年の講演で『原子爆弾救護報告書』の結びを「祖国は敗れた。大学は灰燼に帰した。しかし原爆の理屈(核分裂反応)はこれから使わねばいけない。この原子力のエネルギーが人類の文化の発展に貢献するようになった時、初めて原爆被害者は心の安らぎを覚えるであろう」と話し、原子力の本質を見事に捉えていると評価した[58]

福島第一原子力発電所事故後に福島県放射線健康リスク管理アドバイザーを務めた、長崎大学福島県立医科大学副学長の山下俊一はその著作『放射線リスクコミュニケーション』に「原子力の問題が出たときには、昭和20年の10月に書かれた永井隆の原爆救護報告書の最後の一文を述べるようにしています(中略)原子力という科学の光、力を利用してより良い世界を作って行くべきだ、ということを彼はその当時既に書いているのです」と書き[59]、『原子力文化』2012年1月号の作家森福都との対談では、それを「わが祖国は敗れた。すべてが灰燼に帰した。しかし、この禍を転じてわが国は原子力の平和利用によって、亡くなった方々に対し罪をあがなわなくてはいけない。その結果、わが国はきっと復興する」と言い換えている[60]

日本エネルギー会議発起人で工学者の澤田哲生は「原爆=原発ではない。両者を区分けするのが人間の叡智であり、それを実現するのがエンジニアリングです。そこに永井隆博士の願いがありました」[61]と語っている。

永井は原子力の平和利用に期待をかけたが、一方で原子力より先の学問があるという考えを持っていた。

このたびの戦争で、原子学をはじめ、たくさんの進歩がありましたが、同時に世界中で死者二千二百六万、傷者三千四百四十万、財産損害三千三百億ドル。全参加国の戦費一兆一千百六十九億一千百四十六万三千八十四ドル、という損害が出ています。これだけの人の命と、お金とを平和文化の方へ使ったら、原子力よりもっと先の学問が、すでにわたくしたちの手の中に入っていたでしょう[62]

平和

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永井は『いとし子よ』の中で日本国憲法についてふれ、自分の子供に戦争放棄の条項を守ってほしいと書いている。

私たち日本国民は、憲法において戦争をしないことに決めた。(中略)憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。

これこそ、戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない。そしてその叫びが、いかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。

そのときこそ、……誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ! たとい卑怯者とさげすまされ、裏切者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!

(中略)……愛されるものは滅ぼされないのだよ。愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。

いとし子よ。

敵も愛しなさい。愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。愛されたら、滅ぼされない。愛の世界に敵はない。敵がなければ戦争も起らないのだよ[63]

家族

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妻・緑は純心高等女学校で家庭科の教員をしていた。

永井夫妻は1男3女、長男・誠一(まこと)、長女・郁子(いくこ)、次女・茅乃(かやの)と三女・笹乃(ささの)の子供をもうけたが、長女と三女はいずれも夭折した。

長男・誠一は時事通信に入社(記者)し定年退職まで同社に勤務、退社後となる1998年(平成10年)5月から長崎市立永井隆記念館館長を務め、父の伝記『永井隆』[64]も著したが、2001年4月4日肺炎で亡くなった[65]

次女・茅乃は作家として「娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り」を刊行している。晩年には信者としてカトリック枚方教会の売店で受付をするかたわら[66]、父のことに関する活動にも関わっていたが、2008年2月2日の永井隆生誕百周年前日に肝細胞がんで亡くなった[67]。茅乃は純心女子高等学校の卒業生でもある。

記念

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1950年(昭和25年)に永井が私財で作った子供のための図書室『うちらの本箱』を前身とした長崎市立永井図書館が1952年(昭和27年)に完成し、1969年には市立永井隆記念館と改称[68]1970年[69]

著作物

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主なもの

著作

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  • 永井隆『ロザリオの鎖』ロマンス社、1948年6月。 NCID BN11461248全国書誌番号:46027804 
  • 永井隆『この子を残して』大日本雄辯会講談社、1948年9月。doi:10.11501/1155671NCID BN05055038全国書誌番号:48007982 
  • 永井隆『生命の河―原子病の話』日比谷出版社、1948年11月。 NCID BA46558107全国書誌番号:48007047 
再刊は、以下ののものなど複数ある。
  • 永井隆『生命の河―原子病の話』サンパウロ〈アルバ文庫〉、2008年。ISBN 4805648228 
再刊は、以下のものなど複数ある。
  • 永井隆『いとし子よ』サンパウロ〈アルバ文庫〉、1995年。ISBN 4805604484 

全集

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編著

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翻訳

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映画・ドラマ

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  • 1950年(昭和25年)、大庭秀雄監督による『長崎の鐘』が公開された。
  • 1983年(昭和58年)、木下惠介監督による『この子を残して』が公開された。
  • 2012年(平成25年)、イギリスのメジャー・オーク・エンターテイメントは、永井の生涯を題材とした『All That Remains:The Story of Takashi Nagai(残りしもの:永井隆の物語)』を製作、2016年に公開された[70]。ロンドン在住の俳優、レオ芦澤、ユナ・シン、メグ久保田、梶岡潤一らが出演している。

演じた人物

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関連施設

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  • 如己堂、永井隆記念館(長崎県長崎市)
  • 浦上天主堂(長崎県長崎市) - 著書「長崎の鐘」の舞台。
  • 永井隆博士記念館(島根県雲南市)
  • 長崎市立山里小学校 あの子らの碑

脚注

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注釈

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  1. ^ 文部科学省学校保健統計調査 / 年次統計によれば、1927年度の17歳の平均身長160.7cm、平均体重52.5kg(参考:2018年度平均身長170.6cm、平均体重62.4kg)。

出典

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  1. ^ 片岡, pp. 10–11.
  2. ^ a b 片岡, p. 14.
  3. ^ 片岡, p. 19.
  4. ^ 片岡, p. 29.
  5. ^ a b 片岡, p. 26.
  6. ^ カルシュ先生の想いで 投稿日:2009年2月10日(火)、奥谷タイムトンネル
  7. ^ パウロ・アロイジウス・グリン 1991, p. 28.
  8. ^ 永井隆博士が旧制松江高校時代の恩師にあてた直筆ハガキを展示 2011年12月12日、島根大学
  9. ^ 片岡, p. 25.
  10. ^ 片岡, p. 33.
  11. ^ 片岡, p. 21.
  12. ^ 片岡, p. 30.
  13. ^ 片岡, p. 50.
  14. ^ 片岡, p. 42.
  15. ^ 片岡, pp. 42–43.
  16. ^ 片岡, p. 59.
  17. ^ a b 片岡, p. 60.
  18. ^ 片岡, p. 61.
  19. ^ 長崎大学放射線医学教室の沿革 長崎大学病院 放射線科
  20. ^ 片岡, p. 62.
  21. ^ パウロ・アロイジウス・グリン 1991, pp. 133–134.
  22. ^ パウロ・アロイジウス・グリン 1991, pp. 156–157.
  23. ^ a b 片岡, pp. 63–64.
  24. ^ 片岡, p. 119.
  25. ^ a b c d 片岡, p. 156.
  26. ^ 片岡, pp. 142–143.
  27. ^ 片岡, p. 360.
  28. ^ 片岡, p. 83.
  29. ^ a b 永井隆記念国際ヒバクシャ医療センター 名誉センター長 故久松シソノ先生
  30. ^ 片岡, p. 172.
  31. ^ 片岡, p. 173.
  32. ^ 片岡, p. 174.
  33. ^ 永井隆 1989, pp. 90–91.
  34. ^ 片岡, p. 189.
  35. ^ 県内・墓碑銘(2012年12月25日更新) 長崎新聞
  36. ^ 日本ニュース戦後編第135号|NHK戦争証言アーカイブス
  37. ^ 片岡, p. 243.
  38. ^ 北野隆一 (2024年12月10日). “側近が記した昭和 第6回 被爆した医師を天皇が批判 専門家「罪の意識を刺激したと考えても」”. 朝日新聞. https://www.asahi.com/articles/ASSCZ1S4VSCZUTIL031M.html 2024年12月11日閲覧。 
  39. ^ a b 片岡, p. 246.
  40. ^ 片岡, pp. 309–310.
  41. ^ 片岡, p. 311.
  42. ^ 片岡, p. 339.
  43. ^ 片岡, p. 341.
  44. ^ 片岡, p. 342.
  45. ^ 片岡, p. 349.
  46. ^ 片岡, pp. 349–350.
  47. ^ a b 片岡, p. 356.
  48. ^ 片岡, p. 351.
  49. ^ a b 片岡, p. 357.
  50. ^ 片岡, p. 358.
  51. ^ 碑は訴える, p. 131.
  52. ^ 中井俊已 2007.
  53. ^ 永井隆 2008, pp. 215–216.
  54. ^ 原子爆弾救護報告書:永井隆. 原子爆弾救護報告書:永井 隆
  55. ^ a b 永井隆 1989, p. 18.
  56. ^ a b c d 永井隆 1989, p. 19.
  57. ^ 永井隆 1989, p. 20.
  58. ^ L 特別講演 「原子力利用の現状と見通し」
  59. ^ 放射線のリスク・コミュニケーションと合意形成はなぜうまくいかないのか?(8) ――山下俊一氏はリスコミをどう理解してきたのか? 島薗進・宗教学とその周辺
  60. ^ 原子力文化 2012年1月号 新春対談 福島のいま、そして明日-地域住民参加型の健康管理が必要に-
  61. ^ [enercon.jp/pdf/008_sawada_denkijouho.pdf 澤田哲生 脱原発較調にぶれてはならない原子力研究 - 電気情報2011年11月号- 日本エネルギー会議]
  62. ^ 永井隆 1950.
  63. ^ 永井隆 1995, pp. 207–209.
  64. ^ 永井誠一 2000.
  65. ^ 永井隆博士の長男、記念館館長 永井誠一氏が死去, ナガサキ・ピースサイト 2001/04/06
  66. ^ 筒井茅乃さんを偲ぶ、カトリック枚方教会
  67. ^ 筒井茅乃さんが死去 父・永井博士の遺志継承 47NEWS
  68. ^ 永井隆記念館
  69. ^ 韓国「如己愛人賞」受けた中高生が追悼行事参加へ 8日に来崎 2010年8月4日 長崎新聞
  70. ^ allthatremains - Major Oak Entertainment

参考資料

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  • 長崎市永井隆記念館資料
  • 片岡弥吉『永井隆の生涯』中央出版社、1952年4月。 NCID BA35467203全国書誌番号:52011011 
    • 改訂版;片岡弥吉『永井隆の生涯』サンパウロ、1961年4月25日。ISBN 4805664002 新版1985年。
  • 長崎国際文化会館『碑は訴える 被爆40周年記念』長崎市、1986年3月、176頁。 
  • パウロ・アロイジウス・グリン 著、大和幸子 編『長崎の歌』マリスト会、1991年。全国書誌番号:93011639 
    • 原著;Paul Aloisius Glynn (1989). A song for Nagasaki. Marist Fathers Books. ISBN 0731635914 
    • 著者;パウロ・アロイジウス・グリン(Paul Aloisius Glynn)(Glynn, Paul, 1928- - Web NDL Authorities 参照)
  • 永井誠一『永井隆―長崎の原爆に直撃された放射線専門医師』サンパウロ、2000年5月1日。ISBN 480566407X 
  • 中井俊已『永井隆―平和を祈り愛に生きた医師』童心社、2007年6月25日。ISBN 4494022381 

動画・音声

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関連項目

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外部リンク

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