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「ピーテル・ブリューゲル」の版間の差分

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'''ピーテル・ブリューゲル'''(''Pieter Bruegel de Oude'', 1525/30年 - [[1569年]][[9月9日]])は、[[16世紀]]の[[ブラバント公国]] (現在の[[ベルギー]])の[[画家]]。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。
'''ピーテル・ブリューゲル'''({{Lang|fr|Pieter Bruegel de Oude}}, [[1525年]]-[[1530年]]頃生 - [[1569年]][[9月9日]])は、[[16世紀]]の[[フランドル]]([[ブラバント公国]] 現在の[[ベルギー]]の[[画家]]。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。


[[ピーテル・ブリューゲル (子)|同名の長男]]と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。
== 人物 ==
『農民の踊り』、『子どもの遊戯』、『[[雪中の狩人]]』などの[[風俗画]]で有名な画家であるが、生年は([[1525年]]から[[1530年]]の間と推定されているが)不明である。生地についても[[ブラバント公国]]の[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]とする説もあるが、確かなことはわかっていない。<ref>[http://www.montgomerycollege.edu/~bevans/pieter%20brugel%20grove%20bio.pdf Grove Art Online]</ref>


== 生涯 ==
同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。
ブリューゲルの生涯に関する資料は極めて少なく、ほとんど[[1604年]]の[[カレル・ヴァン・マンデル]]による伝記しかない。しかし、この伝記は逸話的な要素が多く、必ずしも正確とはいえない。また、ブリューゲル自身は何も文章を残していない<ref name="OAO1">Oxford Art Online (p. 1)。</ref>。


=== 前半生(-1551年) ===
[[ピーテル・ブリューゲル (子)|同名の長男]]は地獄の絵を描いたということで「地獄のブリューゲル」と通称される画家で、父の模作を多く作った。二男の[[ヤン・ブリューゲル (父)|ヤン]]は[[静物画]]、特に花の絵を得意として「花のブリューゲル」と通称されている。ブリューゲル一族は他にも多くの画家を輩出している。もっとも、父ブリューゲルが没した時、長男は5歳、二男は1歳であって、父から直接絵画の手ほどきを受けたわけではない。
ブリューゲルの生年・生地ははっきり分かっていない。マンデルの伝記によれば、[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]近くのブリューゲル (Breughel) という村で生まれたという。しかし、フランドル地方にはブリューゲルという名前の村が3つあるが、いずれもブレダからは離れている。ブリューゲルと同時代に[[アントウェルペン]]に住んだイタリア人Guicciardiniは、ブリューゲルをブレダ出身としている。マンデルは、ブリューゲルが農民を数多く描いたことから彼自身も農民出身だと考えたようだが、むしろ、[[人文主義者]]とも交流を持つ、教育を受けた都市生活者であったと考えられ、後者の方が正確である可能性が高い。ただ、彼の先祖はブリューゲルという名前の村出身であった可能性がある<ref>Oxford Art Online (pp.1-2)。 </ref>。


[[1551年]]、[[アントウェルペン]]の画家組合(ギルド)である[[聖ルカ組合]]に"Peeter Brueghels"という名前で加入が登録されているのが最初の記録である。組合に新規加入するのは通常21歳から26歳の間であったことから、逆算して、1525年ないし1530年頃に生まれたものと推定されている<ref>Hagen (2007: 15)。</ref>。
== 来歴 ==
''(以下の記述中の「ブリューゲル」はもっぱら父親のピーテル・ブリューゲルを指す)''


マンデルによれば、ブリューゲルはアントウェルペンで{{仮リンク|ピーテル・クック・ファン・アールスト|en|Pieter Coecke van Aelst}}から絵を習ったという。クックは当時最も尊敬を集めた画家の一人であり、神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に仕えた宮廷画家であるとともに、彫刻、建築、[[タペストリー]]や[[ステンドグラス]]のデザインも手がけていた。また、ブリューゲルに影響を与えたことが確実なもう一人の人物は{{仮リンク|ブラウンシュヴァイク・モノグラミスト|en|Brunswick Monogrammist}}({{仮リンク|ヤン・ファン・アムステル|en|Jan van Amstel}}と同一人物と比定されている)である。ファン・アムステルはピーテル・クックの義兄であり、ブリューゲルに風景画、人物画双方における影響を与えた<ref name="OAO2">Oxford Art Online (p.2)。</ref>。
ブリューゲルの名が、[[アントウェルペン]]の[[聖ルカ組合]](画家組合)の一員として登場するのは[[1551年]]のことである。前述のとおり、それ以前のブリューゲルの経歴については、生年も含めてはっきりわかっていない。


マンデルによれば、ブリューゲルはピーテル・クックのアトリエを去ってから、アントウェルペンの版画業者{{仮リンク|ヒエロニムス・コック|en|Hieronymus Cock}}の下で働くようになった。また、遅くとも[[1550年]]9月から、[[1551年]]10月までは、アントウェルペンを離れ、[[メヘレン]]のClaude Doriziのアトリエで[[:en:Pieter Balten|Pieter Balten]]とともに手袋製造業者のギルドのために[[祭壇画]]を制作している<ref name="OAO2" />。
1551年をあまり隔たらない時期にイタリアへ行き、[[1555年]]頃までにはアントウェルペンに戻っている。ブリューゲルの絵画はイタリア的というよりは北方的であるが、イタリア旅行の影響は、その後の作品の風景表現などに部分的に見られ、代表作『雪中の狩人』の風景には、イタリアへの往復で目にした[[アルプス山脈|アルプス]]の風景が反映していると考えられている。


=== イタリア旅行(1551年頃-1554年頃) ===
初期には先輩画家[[ヒエロニムス・ボス]]の影響の強い、寓話を題材にした絵画が多い。版画の下絵を主に描き、油彩に専念するようになるのは[[1560年]]前後からである。今日知られるブリューゲルの代表作は、この頃から、没年の[[1569年]]までの10年足らずの間に描かれている。1560年代初めには『反逆天使の墜落』、『死の勝利』などの、ボスの作品を思わせる怪奇なものもあるが、後に農民の生活を主題とするようになった。[[1563年]]にはアントウェルペンから[[ブリュッセル]]へ移り、結婚するが、1569年幼い息子2人(後に画家となる)を残し、30代末〜40代前半で没した。
1551年にアントウェルペンの画家組合に加入してからほどなく、ブリューゲルはイタリアに発った。[[リヨン]]を経て[[モン・スニ峠]]を越える路程で、画家[[マールテン・ド・フォス]]も一緒だったと思われる。ブリューゲルは[[ローマ]]滞在には飽きたらず、1552年、南イタリアの[[カラブリア州]]まで赴いたことが、同年[[トルコ]]の攻撃で焼けた[[レッジョ・ディ・カラブリア]]の街を描いた素描から推測される。レッジョから、さらに[[メッシーナ]]まで行ったことも、彼の版画から推測される。ブリューゲルの「死の勝利」は[[シチリア島]]・[[パレルモ]]のPalazzo Sclafaniにあるフレスコ画に基づいたものであるとして、彼がパレルモまで足を延ばしたという説もある。ブリューゲルの最初期の作品である「イタリア風回廊のある山の風景」(1552年)と「背景に山のある渓谷」(同年)は、南イタリアで描かれたものである可能性がある。「ナポリ湾の戦い」の油絵も、南イタリアへの旅を裏付ける<ref name="OAO2" />。


[[1553年]]までに、ローマに戻ったと思われる。[[:en:Joris Hoefnagel|Joris Hoefnagel]]による2枚のエッチングに、「ピーテル・ブリューゲル画、ローマ、1553年 (Petrus Bruegel Fecit Romae Ao 1553)」という銘が入っている。また、ローマの「リパ・グランデの港」の素描も残っている。さらに、ローマの啓蒙家{{仮リンク|ジュリオ・クローヴィオ|en|Giulio Clovio}}の収蔵品目録に「半分を自分が、半分をピーテル・ブリューゲルが描いた[[細密画]]」、その他ブリューゲルの「バベルの塔」、[[ガッシュ]]水彩画「リヨンの眺め」等数点の作品が記載されていることも、ローマ滞在の証拠である<ref name="OAO3">Oxford Art Online (p.3)。</ref>。
== 農民画家ブリューゲル ==
ブリューゲルは農民たちの生活を多く題材にしたことから、「農民画家ブリューゲル」とも呼ばれた。


ブリューゲルは、遅くとも[[1554年]]には北方に戻っている。その時の道のりについては、モン・スニ峠、スイス、リヨンを通ったのか、これより東の[[ミュンヘン]]を通るルートだったのか、争いがある。マンデルは、「ブリューゲルはアルプスで全ての山々と岩々を飲み込み、帰ってから、それをキャンバスとパネルの上に吐き出した」と書いている<ref name="OAO3" />。
画家自身、[[人文主義者]]とも交流のある教養人であり、この時代の絵画題材は農民を「無学で愚かな者」の象徴として描写されたものが多かったため、以前はブリューゲルの絵画もその例にならっただけであるとの説を採り、絵の中にキリスト教的な寓意を読み取ろうとする見方が多かった。


=== アントウェルペン(1554年頃-1562年) ===
これに対し、[[森洋子 (美術史家)|森洋子]]や[[阿部謹也]]は、農作業に向かう娘たちの初々しい表情や、結婚式に集まる人々の歓喜の様子といった、彼らの生活の隅々にまで入り込み、「人間」としての農民たちの生き生きとして細を極める描写は、農民たちの側に立って、その心の奥まで知り尽くした者でなければ到底描け得ないものであり、こういった画一的な見方は当てはまらないとしている。
ブリューゲルは、[[1555年]]までにはアントウェルペンに戻っている。1555年、ヒエロニムス・コックが「大風景画」と呼ばれる12枚の版画を出版していることから分かる。ブリューゲルの油絵で日付の付されたものは、[[1557年]]が最初である<ref name="OAO3" />。


当時のアントウェルペンは、アジアへのアフリカ航路、アメリカへの大西洋航路の開拓などにより、[[地中海]]沿岸都市に代わり大航海の一大拠点となるとともに、絹・香辛料をもたらす[[中東]]、穀物を産する[[バルト海]]、[[羊毛]]を産する[[イギリス]]を結ぶ南北貿易でも栄え、ヨーロッパの中で成長著しい都市であった。芸術も盛んであり、1560年には360人の画家がいたと言われる(1569年時点でアントウェルペンの人口は約89,000人)<ref>Hagen (2007: 15)。</ref>。
実際、ブリューゲルの作品は、驚くほど細かい細部まで丹念に描きこまれ、歴史資料、風俗史資料としても貴重な、多くの視覚情報を含んでいる。『子どもの遊戯』などはこの作品に登場する「遊び」の解説だけで1冊の本が出ているほど、興味の尽きない作品であるが、こういった例はブリューゲルの作品には珍しいことではない。ブリューゲルのこれらの技法は、[[ヒエロニムス・ボス]]からの影響が濃いとの見方もある。


ブリューゲルは、[[アブラハム・オルテリウス]]や出版業者[[クリストフ・プランタン]]など、オランダの著名な人文学者たちと親交を持っていた。1559年から、彼は[[ブラックレター]]体の"brueghel"からローマ大文字の"BRVEGEL"に変えているが、Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な書き方を採用したものと考えられる<ref name="OAO3" />。
「股の間から景色を覗いて農村風景のスケッチをとる習慣があり、その姿勢の最中に死んだ」という民間伝承が残されており、阿部謹也は「それこそまさに“逆立ちした世界”を描き、農民との間に生きたブリューゲルにふさわしい最期だ」と評している。

[[1562年]]の作品「2匹の猿」には、後景にアントウェルペンの港町が描き込まれている<ref>Hagen (2007: 22)。</ref>。
<gallery>
ファイル:Pieter Bruegel the Elder - Big Fish Eat Little Fish, 1556 - Google Art Project.jpg|「大きな魚が小さな魚を食う」1557年。版画。
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 095.jpg|「2匹の猿」1562年。
</gallery>

=== ブリュッセル(1563年-1569年) ===
[[1563年]]、ブリューゲルは、マリア・クック(1545年生? - 1578年没)と結婚した。マリアは、ピーテル・クックと、啓蒙家で水彩画家のMayken Verhulstとの間の末娘である。ブリューゲルは、結婚と同時に[[ブリュッセル]]に移り住んだ。彼の主要作品の多くはブリュッセル時代に制作された。マリアとの間には、長男[[ピーテル・ブリューゲル (子)|ピーテル・ブリューゲル]]、次男[[ヤン・ブリューゲル (父)|ヤン・ブリューゲル]]と娘1人が生まれた<ref name="OAO3" />。

[[1567年]]8月、スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]から派遣された第3代[[アルバ公]][[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド]]がブリュッセルに入市し、[[プロテスタント]](新教徒)に対する激しい弾圧を行った。ブリューゲルはこの事態を間近で見ることとなった。

マンデルによれば、ブリューゲルは、死の直前、妻に、「余りに直截的・風刺的な」素描を焼き捨てさせたという。マンデルは、「後悔の念からか、妻が迫害されたり何らかの形で責任を問われたりすることを恐れたためか」と記している。この記述をめぐって、ブリューゲルの政治的・宗教的立場が、例えば[[再洗礼派]]のように、微妙なものであったのではないかという推測が行われてきた。ブリューゲルは、メヘレン大司教[[アントワーヌ・ド・グランヴェル]]から尊崇を受けており、フェリペ2世に仕えたアブラハム・オルテリウスとも親友であった一方、哲学的には{{仮リンク|新ストア主義|en|Neostoicism}}に近く、[[デジデリウス・エラスムス]]や[[トマス・モア]]、[[:en:Dirck Volckertszoon Coornhert|Dirck Volckertszoon Coornhert]]の著作にも親しんでいたと思われる。ただ、特定の党派に属するものではなかった可能性が高い<ref>Oxford Art Online (pp. 3-4)。</ref>。

1569年、30代末-40代前半で没した。


== 作品 ==
== 作品 ==
=== 概観 ===
[[ベルギー王立美術館]]所蔵の『イカロスの墜落のある風景』は長い間ブリューゲル作とされてきたが、現在では無名の画家がブリューゲルのオリジナルを模写したものであると考えられている。<ref>Says the Museum: "On doute que l'exécution soit de Pieter I Bruegel mais la conception lui est par contre attribuée avec certitude" - It is doubtful the execution is by Breugel the Elder, but the composition can be said with certainty to be his" {{cite web |url=http://www.fine-arts-museum.be/fabritiusweb/FullBBBody.csp?SearchMethod=Find_1&Profile=Default&OpacLanguage=fre&RequestId=352686_1&RecordNumber=0CSPCHD=000100030001318j79f5000821052062 | title= Description détaillée|accessdate=3 September 2011 |language =French|author=[[ベルギー王立美術館|Royal Museums of Fine Arts of Belgium]]}}</ref><ref>{{cite journal |title=Bruegel's "Fall of Icarus": Ovid or Solomon? |first1=Lyckle|last1= de Vries|journal= Simiolus: Netherlands Quarterly for the History of Art|volume= 30|issue=1/2|year=2003|pages=4–18 |publisher=Stichting voor Nederlandse Kunsthistorische Publicaties |doi=10.2307/3780948 |jstor=3780948}}</ref>
{{See also|ピーテル・ブリューゲルの作品一覧}}
ブリューゲルの油絵は40点ほどが知られている。そのうち12点が[[ウィーン]]の[[美術史美術館]]に収蔵されているが、これはネーデルラント総督[[エルンスト・フォン・エスターライヒ (1553-1595)|エルンスト・フォン・エスターライヒ]](1594年)及びその兄である神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]が収集したものであり、[[ハプスブルク家]]コレクションに属していた。上記の約40点以外に、現存しない作品や、複写でしか残っていない作品がある<ref name="OAO4">Oxford Art Online (p. 4)。</ref>。


また、素描及び版画も多く残っている。1907年には、104点の素描がブリューゲルのものとされていたが、その後の研究で他の画家によるものであることが判明したものが多く、現在でも真偽に争いがあるものも多い。しかし、例えば1556年-1558年にコックが出版したエッチングの下絵はブリューゲルのものであり、「第2のボス」との名声を確立することになった<ref>Oxford Art Online (pp. 9-10)。</ref>。
== 代表作 ==

=== 初期(1553年-1560年) ===
最も早期の作品は、1553年頃の「使徒に出現するキリストのある風景」であり、その中の人物はマールテン・ド・フォスが描いたものである可能性もある。また、「イカロスの墜落」の最初のバージョンも若い時に描かれたと思われる<ref name="OAO4" />。[[ベルギー王立美術館]]所蔵の「イカロスの墜落のある風景」は、長い間ブリューゲル作とされてきたが、現在では無名の画家がブリューゲルのオリジナルを模写したものであると考えられている<ref>{{cite web |url=http://www.fine-arts-museum.be/fabritiusweb/FullBBBody.csp?SearchMethod=Find_1&Profile=Default&OpacLanguage=fre&RequestId=352686_1&RecordNumber=0CSPCHD=000100030001318j79f5000821052062 | title= Description détaillée|accessdate=3 September 2011 |language =French|author=[[ベルギー王立美術館]]}}</ref><ref>{{Cite journal |title=Bruegel's "Fall of Icarus": Ovid or Solomon? |first1=Lyckle|last1= de Vries|journal= Simiolus: Netherlands Quarterly for the History of Art|volume= 30|issue=1/2|year=2003|pages=4–18 |publisher=Stichting voor Nederlandse Kunsthistorische Publicaties |doi=10.2307/3780948 |jstor=3780948}}</ref>。

「[[ネーデルラントの諺]]」(1559年)は、初めてブリューゲルらしさが発揮された作品である。これと「[[子供の遊戯]]」(1560年)、「[[謝肉祭と四旬節の喧嘩]]」(1559年)は、併せて初期の3大作品といえる<ref>Oxford Art Online (pp. 4-5)。</ref>。
<gallery>
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画像:Pieter_Bruegel_the_Elder_-_The_Dutch_Proverbs_-_Google_Art_Project.jpg|ネーデルラントの諺(1559年、[[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]所蔵)
ファイル:Pieter_Bruegel_the_Elder_-_The_Dutch_Proverbs_-_Google_Art_Project.jpg|ネーデルラントの諺」1559年、[[ベルリン美術館]]
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 066.jpg|謝肉祭と四旬節の喧嘩(1559年、[[美術史美術館]]所蔵)
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 066.jpg|謝肉祭と四旬節の喧嘩」1559年、[[美術史美術館]]
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 041b.jpg|子供の遊戯(1560年頃、美術史美術館所蔵)
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 041b.jpg|「[[子供の遊戯]]」1560年頃、美術史美術館
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 023.jpg|[[悪女フリート]](1562年、[[マイヤーファンデアベルヒ美術館]]所蔵)
画像:Pieter Bruegel the Elder - The Fall of the Rebel Angels - Google Art Project.jpg|叛逆天使の墜落(1563年、ブリュッセル王立美術館所蔵)
画像:Pieter Bruegel the Elder - The Tower of Babel (Vienna) - Google Art Project - edited.jpg|[[バベルの塔]](1563年、美術史美術館所蔵)
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 106b.jpg|雪の中の狩人(1565年、美術史美術館所蔵)
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 037.jpg|怠け者の天国(1567年、[[アルテ・ピナコテーク]]所蔵)
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 011.jpg|農家の婚礼(1568年、美術史美術館所蔵)
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 014.jpg|農民の踊り(1568年、美術史美術館所蔵)
画像:Pieter Bruegel d. Ä. 024.jpg|足なえ達(1568年、[[ルーヴル美術館]]所蔵)
</gallery>
</gallery>


=== 中期(1561年-1564年) ===
== 家系図 ==
1562年には、「[[叛逆天使の墜落]]」、「[[悪女フリート]]」を制作している。また「[[死の勝利]]」も日付が付されていないが主題の類似性からして同時期に制作されたものと推定される。この3作品は、[[ヒエロニムス・ボス]]風の絵画を希望したパトロンの注文に応じて制作されたものであろうと指摘されている。「叛逆天使の墜落」では、天使たちが天上から落ちながら怪物に姿を変えられているところが描かれており、ボスの作品に着想を得たものと考えられる<ref>Oxford Art Online (p. 5)。</ref>。

1562年には他に「2匹の猿」、「[[サウルの自害]]」を制作しているが、続く1563年に「エジプトへの逃避途上の風景」と「[[バベルの塔 (ブリューゲル)|バベルの塔]]」(第1バージョン)という傑作を生んでいる<ref>Oxford Art Online (p. 6)。</ref>。1564年には、大判の「[[ゴルゴタの丘への行進]]」を制作している<ref name="OAO7">Oxford Art Online (p. 7)。</ref>。
<gallery>
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 023.jpg|「[[悪女フリート]]」1562年、[[マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館]]。
ファイル:Pieter Bruegel the Elder - The Fall of the Rebel Angels - Google Art Project.jpg|「叛逆天使の墜落」1562年、[[ベルギー王立美術館]]。
ファイル:Thetriumphofdeath 3051x2161.jpg|「死の勝利」1562年頃、[[プラド美術館]]。
ファイル:Pieter Bruegel the Elder - The Tower of Babel (Vienna) - Google Art Project.jpg|「バベルの塔」1563年、美術史美術館。
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=== 後期(1565年-1569年) ===
晩年は、ブリューゲルが、それまでの風景、人物の描き方、構図における経験を結集させた時期である。約40点の油絵のうち、約30点が晩年6年間のブリュッセル時代に制作されたものである。[[1565年]]には、有名な連作月暦画のほか、宗教的主題の冬の風景画、「洗礼者ヨハネの説教」、「農家の婚礼の踊り」、「鳥の罠のある冬の風景」などを制作した<ref name="OAO7" />。

連作月暦画は、1565年に1年がかりで完成され、当初、アントウェルペンの商人{{仮リンク|ニコラース・ヨンゲリンク|de|Nicolaes Jonghelinck}}の室内を飾ったと思われる。1566年、ヨンゲリンクによって、他のブリューゲルの作品や[[アルブレヒト・デューラー]]、[[:en:Frans Floris|Frans Floris]]の絵とともに、16,000ギルダーの借金の担保に供された。この担保は没収され、[[1594年]]、市が連作月暦画をエルンスト・フォン・エスターライヒ総督に献上した。6枚の月暦画があったと考えられ、そのうち「暗い日」(早春)、「干し草の収穫」(夏)、「穀物の収穫」(秋)、「牛群の帰り」(晩秋)、「[[雪中の狩人]]」(冬)という5枚が現存している。春を描いたと思われる6枚目は失われている<ref>Oxford Art Online (pp. 7-8)。</ref>。

「農民の婚宴」(1568年頃)と「農民の踊り」(1568年頃)は、画面前景に大きく人物らが描かれた構図であり、寓意的意図があるというよりは、伝統的な結婚式の様子を描いたものと考えられる。この2作品はスタイル、内容ともに似ており、対で描かれたものではないかと考えられてきた<ref>Oxford Art Online (pp. 7-9)。</ref>。一方、後期には、「怠け者の天国」、「足なえたち」、「盲人の寓話」のような寓意的作品も描かれている。「盲人の寓話」(1568年)は、[[マタイによる福音書]]15:14の「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」という言葉に基づいた作品であり、人類の精神的盲目性を象徴している。「農夫と鳥の巣取り」(1568年)は謎の多い絵で、その意味は解明されていない。絞首台の上のカササギ(1568年)も様々な解釈がされてきた。

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ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 106b.jpg|「[[雪中の狩人]]」1565年、美術史美術館。
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 037.jpg|「怠け者の天国」1567年、[[アルテ・ピナコテーク]]。
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 011.jpg|「農民の婚宴」1568年、美術史美術館。
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 014.jpg|「農民の踊り」1568年、美術史美術館。
ファイル:Pieter Bruegel d. Ä. 024.jpg|「足なえ達」1568年、[[ルーヴル美術館]]。
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== 評価 ==
ブリューゲルは農民たちの生活を多く題材にしたことから、「農民画家ブリューゲル」とも呼ばれた。

画家自身、[[人文主義者]]とも交流のある教養人であり、この時代の絵画題材は農民を「無学で愚かな者」の象徴として描写されたものが多かったため、以前はブリューゲルの絵画もその例にならっただけであるとの説を採り、絵の中にキリスト教的な寓意を読み取ろうとする見方が多かった。

これに対し、[[森洋子 (美術史家)|森洋子]]や[[阿部謹也]]は、農作業に向かう娘たちの初々しい表情や、結婚式に集まる人々の歓喜の様子といった、彼らの生活の隅々にまで入り込み、「人間」としての農民たちの生き生きとして細を極める描写は、農民たちの側に立って、その心の奥まで知り尽くした者でなければ到底描け得ないものであり、こういった画一的な見方は当てはまらないとしている。

実際、ブリューゲルの作品は、驚くほど細かい細部まで丹念に描き込まれ、歴史資料、風俗史資料としても貴重な、多くの視覚情報を含んでいる。『子供の遊戯』などはこの作品に登場する「遊び」の解説だけで1冊の本が出ているほど、興味の尽きない作品であるが、こういった例はブリューゲルの作品には珍しいことではない。ブリューゲルのこれらの技法は、ヒエロニムス・ボスからの影響が濃いとの見方もある。

「股の間から景色を覗いて農村風景のスケッチをとる習慣があり、その姿勢の最中に死んだ」という民間伝承が残されており、阿部謹也は「それこそまさに“逆立ちした世界”を描き、農民との間に生きたブリューゲルにふさわしい最期だ」と評している。

== 後裔 ==
同名の長男[[ピーテル・ブリューゲル (子)|ピーテル・ブリューゲル]]は地獄の絵を描いたということで「地獄のブリューゲル」と通称される画家で、父の模作を多く作った。二男の[[ヤン・ブリューゲル (父)|ヤン]]は[[静物画]]、特に花の絵を得意として「花のブリューゲル」と通称されている。ブリューゲル一族は他にも多くの画家を輩出している。もっとも、父ブリューゲルが没した時、長男は5歳、二男は1歳であって、父から直接絵画の手ほどきを受けたわけではない。

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== 参照 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite book |author=Rainer & Rose-Marie Hagen |title=Bruegel |publisher=Taschen |year=2007 |id=ISBN 978-0681406018}}
* {{Cite web |url=http://www.montgomerycollege.edu/~bevans/pieter%20brugel%20grove%20bio.pdf |title=Pieter Bruegel I |publisher=Oxford Art Online |format=PDF |accessdate=2013-05-04 }}


==外部リンク ==
==外部リンク ==
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* [http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/brueghel.html ピーテル・ブリューゲル](Salvastyle.com)
*[http://www.artcyclopedia.com/artists/bruegel_the_elder_pieter.html Pieter Bruegel de Oude]
*[http://www.dilbeekserfgoed.be/Bruegel%20Pieter.htm Openlucht Bruegelmuseum]


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2013年5月5日 (日) 21:58時点における版

ピーテル・ブリューゲル
Pieter Bruegel
死後に発表された肖像画(1582年)
生誕 1525年-1530年
死没 1569年9月9日
ブリュッセル
著名な実績 絵画
代表作 『農民の踊り』、『子供の遊戯』、『雪中の狩人
影響を受けた
芸術家
ヒエロニムス・ボス

ピーテル・ブリューゲルPieter Bruegel de Oude, 1525年-1530年頃生 - 1569年9月9日没)は、16世紀フランドルブラバント公国 。現在のベルギー)の画家。「ペーター」あるいは「ペーテル」と表記されることもある。

同名の長男と区別するため「ブリューゲル(父、または老)」と表記されることが多い。

生涯

ブリューゲルの生涯に関する資料は極めて少なく、ほとんど1604年カレル・ヴァン・マンデルによる伝記しかない。しかし、この伝記は逸話的な要素が多く、必ずしも正確とはいえない。また、ブリューゲル自身は何も文章を残していない[1]

前半生(-1551年)

ブリューゲルの生年・生地ははっきり分かっていない。マンデルの伝記によれば、ブレダ近くのブリューゲル (Breughel) という村で生まれたという。しかし、フランドル地方にはブリューゲルという名前の村が3つあるが、いずれもブレダからは離れている。ブリューゲルと同時代にアントウェルペンに住んだイタリア人Guicciardiniは、ブリューゲルをブレダ出身としている。マンデルは、ブリューゲルが農民を数多く描いたことから彼自身も農民出身だと考えたようだが、むしろ、人文主義者とも交流を持つ、教育を受けた都市生活者であったと考えられ、後者の方が正確である可能性が高い。ただ、彼の先祖はブリューゲルという名前の村出身であった可能性がある[2]

1551年アントウェルペンの画家組合(ギルド)である聖ルカ組合に"Peeter Brueghels"という名前で加入が登録されているのが最初の記録である。組合に新規加入するのは通常21歳から26歳の間であったことから、逆算して、1525年ないし1530年頃に生まれたものと推定されている[3]

マンデルによれば、ブリューゲルはアントウェルペンでピーテル・クック・ファン・アールストから絵を習ったという。クックは当時最も尊敬を集めた画家の一人であり、神聖ローマ皇帝カール5世に仕えた宮廷画家であるとともに、彫刻、建築、タペストリーステンドグラスのデザインも手がけていた。また、ブリューゲルに影響を与えたことが確実なもう一人の人物はブラウンシュヴァイク・モノグラミスト英語版ヤン・ファン・アムステル英語版と同一人物と比定されている)である。ファン・アムステルはピーテル・クックの義兄であり、ブリューゲルに風景画、人物画双方における影響を与えた[4]

マンデルによれば、ブリューゲルはピーテル・クックのアトリエを去ってから、アントウェルペンの版画業者ヒエロニムス・コックの下で働くようになった。また、遅くとも1550年9月から、1551年10月までは、アントウェルペンを離れ、メヘレンのClaude DoriziのアトリエでPieter Baltenとともに手袋製造業者のギルドのために祭壇画を制作している[4]

イタリア旅行(1551年頃-1554年頃)

1551年にアントウェルペンの画家組合に加入してからほどなく、ブリューゲルはイタリアに発った。リヨンを経てモン・スニ峠を越える路程で、画家マールテン・ド・フォスも一緒だったと思われる。ブリューゲルはローマ滞在には飽きたらず、1552年、南イタリアのカラブリア州まで赴いたことが、同年トルコの攻撃で焼けたレッジョ・ディ・カラブリアの街を描いた素描から推測される。レッジョから、さらにメッシーナまで行ったことも、彼の版画から推測される。ブリューゲルの「死の勝利」はシチリア島パレルモのPalazzo Sclafaniにあるフレスコ画に基づいたものであるとして、彼がパレルモまで足を延ばしたという説もある。ブリューゲルの最初期の作品である「イタリア風回廊のある山の風景」(1552年)と「背景に山のある渓谷」(同年)は、南イタリアで描かれたものである可能性がある。「ナポリ湾の戦い」の油絵も、南イタリアへの旅を裏付ける[4]

1553年までに、ローマに戻ったと思われる。Joris Hoefnagelによる2枚のエッチングに、「ピーテル・ブリューゲル画、ローマ、1553年 (Petrus Bruegel Fecit Romae Ao 1553)」という銘が入っている。また、ローマの「リパ・グランデの港」の素描も残っている。さらに、ローマの啓蒙家ジュリオ・クローヴィオの収蔵品目録に「半分を自分が、半分をピーテル・ブリューゲルが描いた細密画」、その他ブリューゲルの「バベルの塔」、ガッシュ水彩画「リヨンの眺め」等数点の作品が記載されていることも、ローマ滞在の証拠である[5]

ブリューゲルは、遅くとも1554年には北方に戻っている。その時の道のりについては、モン・スニ峠、スイス、リヨンを通ったのか、これより東のミュンヘンを通るルートだったのか、争いがある。マンデルは、「ブリューゲルはアルプスで全ての山々と岩々を飲み込み、帰ってから、それをキャンバスとパネルの上に吐き出した」と書いている[5]

アントウェルペン(1554年頃-1562年)

ブリューゲルは、1555年までにはアントウェルペンに戻っている。1555年、ヒエロニムス・コックが「大風景画」と呼ばれる12枚の版画を出版していることから分かる。ブリューゲルの油絵で日付の付されたものは、1557年が最初である[5]

当時のアントウェルペンは、アジアへのアフリカ航路、アメリカへの大西洋航路の開拓などにより、地中海沿岸都市に代わり大航海の一大拠点となるとともに、絹・香辛料をもたらす中東、穀物を産するバルト海羊毛を産するイギリスを結ぶ南北貿易でも栄え、ヨーロッパの中で成長著しい都市であった。芸術も盛んであり、1560年には360人の画家がいたと言われる(1569年時点でアントウェルペンの人口は約89,000人)[6]

ブリューゲルは、アブラハム・オルテリウスや出版業者クリストフ・プランタンなど、オランダの著名な人文学者たちと親交を持っていた。1559年から、彼はブラックレター体の"brueghel"からローマ大文字の"BRVEGEL"に変えているが、Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な書き方を採用したものと考えられる[5]

1562年の作品「2匹の猿」には、後景にアントウェルペンの港町が描き込まれている[7]

ブリュッセル(1563年-1569年)

1563年、ブリューゲルは、マリア・クック(1545年生? - 1578年没)と結婚した。マリアは、ピーテル・クックと、啓蒙家で水彩画家のMayken Verhulstとの間の末娘である。ブリューゲルは、結婚と同時にブリュッセルに移り住んだ。彼の主要作品の多くはブリュッセル時代に制作された。マリアとの間には、長男ピーテル・ブリューゲル、次男ヤン・ブリューゲルと娘1人が生まれた[5]

1567年8月、スペイン王フェリペ2世から派遣された第3代アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドがブリュッセルに入市し、プロテスタント(新教徒)に対する激しい弾圧を行った。ブリューゲルはこの事態を間近で見ることとなった。

マンデルによれば、ブリューゲルは、死の直前、妻に、「余りに直截的・風刺的な」素描を焼き捨てさせたという。マンデルは、「後悔の念からか、妻が迫害されたり何らかの形で責任を問われたりすることを恐れたためか」と記している。この記述をめぐって、ブリューゲルの政治的・宗教的立場が、例えば再洗礼派のように、微妙なものであったのではないかという推測が行われてきた。ブリューゲルは、メヘレン大司教アントワーヌ・ド・グランヴェルから尊崇を受けており、フェリペ2世に仕えたアブラハム・オルテリウスとも親友であった一方、哲学的には新ストア主義英語版に近く、デジデリウス・エラスムストマス・モアDirck Volckertszoon Coornhertの著作にも親しんでいたと思われる。ただ、特定の党派に属するものではなかった可能性が高い[8]

1569年、30代末-40代前半で没した。

作品

概観

ブリューゲルの油絵は40点ほどが知られている。そのうち12点がウィーン美術史美術館に収蔵されているが、これはネーデルラント総督エルンスト・フォン・エスターライヒ(1594年)及びその兄である神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が収集したものであり、ハプスブルク家コレクションに属していた。上記の約40点以外に、現存しない作品や、複写でしか残っていない作品がある[9]

また、素描及び版画も多く残っている。1907年には、104点の素描がブリューゲルのものとされていたが、その後の研究で他の画家によるものであることが判明したものが多く、現在でも真偽に争いがあるものも多い。しかし、例えば1556年-1558年にコックが出版したエッチングの下絵はブリューゲルのものであり、「第2のボス」との名声を確立することになった[10]

初期(1553年-1560年)

最も早期の作品は、1553年頃の「使徒に出現するキリストのある風景」であり、その中の人物はマールテン・ド・フォスが描いたものである可能性もある。また、「イカロスの墜落」の最初のバージョンも若い時に描かれたと思われる[9]ベルギー王立美術館所蔵の「イカロスの墜落のある風景」は、長い間ブリューゲル作とされてきたが、現在では無名の画家がブリューゲルのオリジナルを模写したものであると考えられている[11][12]

ネーデルラントの諺」(1559年)は、初めてブリューゲルらしさが発揮された作品である。これと「子供の遊戯」(1560年)、「謝肉祭と四旬節の喧嘩」(1559年)は、併せて初期の3大作品といえる[13]

中期(1561年-1564年)

1562年には、「叛逆天使の墜落」、「悪女フリート」を制作している。また「死の勝利」も日付が付されていないが主題の類似性からして同時期に制作されたものと推定される。この3作品は、ヒエロニムス・ボス風の絵画を希望したパトロンの注文に応じて制作されたものであろうと指摘されている。「叛逆天使の墜落」では、天使たちが天上から落ちながら怪物に姿を変えられているところが描かれており、ボスの作品に着想を得たものと考えられる[14]

1562年には他に「2匹の猿」、「サウルの自害」を制作しているが、続く1563年に「エジプトへの逃避途上の風景」と「バベルの塔」(第1バージョン)という傑作を生んでいる[15]。1564年には、大判の「ゴルゴタの丘への行進」を制作している[16]

後期(1565年-1569年)

晩年は、ブリューゲルが、それまでの風景、人物の描き方、構図における経験を結集させた時期である。約40点の油絵のうち、約30点が晩年6年間のブリュッセル時代に制作されたものである。1565年には、有名な連作月暦画のほか、宗教的主題の冬の風景画、「洗礼者ヨハネの説教」、「農家の婚礼の踊り」、「鳥の罠のある冬の風景」などを制作した[16]

連作月暦画は、1565年に1年がかりで完成され、当初、アントウェルペンの商人ニコラース・ヨンゲリンクドイツ語版の室内を飾ったと思われる。1566年、ヨンゲリンクによって、他のブリューゲルの作品やアルブレヒト・デューラーFrans Florisの絵とともに、16,000ギルダーの借金の担保に供された。この担保は没収され、1594年、市が連作月暦画をエルンスト・フォン・エスターライヒ総督に献上した。6枚の月暦画があったと考えられ、そのうち「暗い日」(早春)、「干し草の収穫」(夏)、「穀物の収穫」(秋)、「牛群の帰り」(晩秋)、「雪中の狩人」(冬)という5枚が現存している。春を描いたと思われる6枚目は失われている[17]

「農民の婚宴」(1568年頃)と「農民の踊り」(1568年頃)は、画面前景に大きく人物らが描かれた構図であり、寓意的意図があるというよりは、伝統的な結婚式の様子を描いたものと考えられる。この2作品はスタイル、内容ともに似ており、対で描かれたものではないかと考えられてきた[18]。一方、後期には、「怠け者の天国」、「足なえたち」、「盲人の寓話」のような寓意的作品も描かれている。「盲人の寓話」(1568年)は、マタイによる福音書15:14の「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」という言葉に基づいた作品であり、人類の精神的盲目性を象徴している。「農夫と鳥の巣取り」(1568年)は謎の多い絵で、その意味は解明されていない。絞首台の上のカササギ(1568年)も様々な解釈がされてきた。

評価

ブリューゲルは農民たちの生活を多く題材にしたことから、「農民画家ブリューゲル」とも呼ばれた。

画家自身、人文主義者とも交流のある教養人であり、この時代の絵画題材は農民を「無学で愚かな者」の象徴として描写されたものが多かったため、以前はブリューゲルの絵画もその例にならっただけであるとの説を採り、絵の中にキリスト教的な寓意を読み取ろうとする見方が多かった。

これに対し、森洋子阿部謹也は、農作業に向かう娘たちの初々しい表情や、結婚式に集まる人々の歓喜の様子といった、彼らの生活の隅々にまで入り込み、「人間」としての農民たちの生き生きとして細を極める描写は、農民たちの側に立って、その心の奥まで知り尽くした者でなければ到底描け得ないものであり、こういった画一的な見方は当てはまらないとしている。

実際、ブリューゲルの作品は、驚くほど細かい細部まで丹念に描き込まれ、歴史資料、風俗史資料としても貴重な、多くの視覚情報を含んでいる。『子供の遊戯』などはこの作品に登場する「遊び」の解説だけで1冊の本が出ているほど、興味の尽きない作品であるが、こういった例はブリューゲルの作品には珍しいことではない。ブリューゲルのこれらの技法は、ヒエロニムス・ボスからの影響が濃いとの見方もある。

「股の間から景色を覗いて農村風景のスケッチをとる習慣があり、その姿勢の最中に死んだ」という民間伝承が残されており、阿部謹也は「それこそまさに“逆立ちした世界”を描き、農民との間に生きたブリューゲルにふさわしい最期だ」と評している。

後裔

同名の長男ピーテル・ブリューゲルは地獄の絵を描いたということで「地獄のブリューゲル」と通称される画家で、父の模作を多く作った。二男のヤン静物画、特に花の絵を得意として「花のブリューゲル」と通称されている。ブリューゲル一族は他にも多くの画家を輩出している。もっとも、父ブリューゲルが没した時、長男は5歳、二男は1歳であって、父から直接絵画の手ほどきを受けたわけではない。

 
 
 
ピーテル・ブリューゲル(老)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ピーテル・ブリューゲル (子)
 
ヤン・ブリューゲル (父)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤン・ブリューゲル (子)
 
アンナ・ブリューゲル
 
ダフィット・テニールス (子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アブラハム・ブリューゲル

脚注

  1. ^ Oxford Art Online (p. 1)。
  2. ^ Oxford Art Online (pp.1-2)。
  3. ^ Hagen (2007: 15)。
  4. ^ a b c Oxford Art Online (p.2)。
  5. ^ a b c d e Oxford Art Online (p.3)。
  6. ^ Hagen (2007: 15)。
  7. ^ Hagen (2007: 22)。
  8. ^ Oxford Art Online (pp. 3-4)。
  9. ^ a b Oxford Art Online (p. 4)。
  10. ^ Oxford Art Online (pp. 9-10)。
  11. ^ ベルギー王立美術館. “Description détaillée” (French). 3 September 2011閲覧。
  12. ^ de Vries, Lyckle (2003). “Bruegel's "Fall of Icarus": Ovid or Solomon?”. Simiolus: Netherlands Quarterly for the History of Art (Stichting voor Nederlandse Kunsthistorische Publicaties) 30 (1/2): 4–18. doi:10.2307/3780948. JSTOR 3780948. 
  13. ^ Oxford Art Online (pp. 4-5)。
  14. ^ Oxford Art Online (p. 5)。
  15. ^ Oxford Art Online (p. 6)。
  16. ^ a b Oxford Art Online (p. 7)。
  17. ^ Oxford Art Online (pp. 7-8)。
  18. ^ Oxford Art Online (pp. 7-9)。

参考文献

外部リンク