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「トマス・ハワード (第4代ノーフォーク公)」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族
[[File:Thomas-howard-4th-duke-of-norfolk-02.jpg|thumb|[[ハンス・イワース]]([[:en:Hans Eworth|en]])による第4代ノーフォーク公トマス・ハワードの肖像画]]
| 人名 = 第4代ノーフォーク公爵<br />トマス・ハワード
'''第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワード'''(''Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk'', [[1536年]][[3月10日]] - [[1572年]][[6月2日]])は、[[16世紀]]の[[イングランド]]の貴族である。父は[[ヘンリー・ハワード (サリー伯)|サリー伯ヘンリー・ハワード]]、母はフランシス・ヴィアー。祖父は[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|第3代ノーフォーク公トマス・ハワード]]。子に[[フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)|アランデル伯フィリップ・ハワード]]等。イングランド女王[[エリザベス1世]]の[[はとこ|又従弟]]に当たる。
| 各国語表記 = Thomas Howard<br />4th Duke of Norfolk
| 家名・爵位 = [[ノーフォーク公]][[ハワード家]]
| 画像 = ThomasHoward4HerzogvonNorfolk.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = [[ハンス・イワース]])による第4代ノーフォーク公トマス・ハワードの肖像画
| 続柄 =先代の孫
| 称号 = 第4代[[ノーフォーク公|ノーフォーク公爵]]、第3代[[サリー伯爵]]、第13代[[モウブレー男爵]]、第14代[[セグレイブ男爵]]、[[ガーター勲章]]ナイト(KG)、[[バス勲章]]ナイト(KB)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 = Your Grace(公爵閣下)
| 出生日 = [[1536年]][[3月10日]]
| 生地 =
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1536|3|10|1572|6|2}}
| 没地 = {{ENG927}}・[[ロンドン]]・[[ロンドン塔]]・[[タワー・ヒル|タワー・ヒル刑場]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = {{仮リンク|メアリー(旧姓フィッツアラン)|en|Mary FitzAlan}}、
| 配偶者2 = マーガレット(旧姓オードリー)、
| 配偶者3 = {{仮リンク|エリザベス・レイバーン|label=エリザベス(旧姓レイバーン)|en|Elizabeth Leyburne}}
| 子女 = 長男:[[フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)|第20代アランデル伯フィリップ]]<br />次男:[[トマス・ハワード (初代サフォーク伯爵)|初代サフォーク伯トマス]]<br />三男:{{仮リンク|ウィリアム・ハワード (1563-1640)|label=ウィリアム卿|en|Lord William Howard}}<br />長女:マーガレット
| 父親 = サリー伯[[ヘンリー・ハワード (サリー伯)|ヘンリー・ハワード]]
| 母親 = {{仮リンク|フランセス・ハワード (サリー伯爵夫人)|label=フランセス(旧姓ド・ヴィアー)|en|Frances Howard, Countess of Surrey}}
| 役職 =[[軍務伯]]([[1554年]]-[[1572年]])、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員([[1554年]]-[[1572年]])
}}
'''第4代[[ノーフォーク公|ノーフォーク公爵]]トマス・ハワード'''({{lang-en|Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[バス勲章|KB]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}}}、[[1536年]][[3月10日]] - [[1572年]][[6月2日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]の[[世襲貴族|貴族]]、[[廷臣]]。

ノーフォーク公爵家([[ハワード家]])の嫡男[[サリー伯爵]][[ヘンリー・ハワード (サリー伯)|ヘンリー・ハワード]]の長男であり、[[1554年]]に祖父の第3代ノーフォーク公爵[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の跡を継いで第4代ノーフォーク公爵となった。イングランド女王[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の[[はとこ|又従弟]]に当たる。3度の女子相続者との婚姻を通じて所領を拡大してイングランド最有力貴族となる。

明確に[[カトリック教会|カトリック]]とは公言していなかったが、カトリック的な貴族であり、[[スコットランド王国|スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]との結婚計画を進めたことでエリザベス女王に警戒されるようになり、[[1569年]]の{{仮リンク|北部諸侯の乱|en|Rising of the North}}の際に[[ロンドン塔]]に幽閉され、さらに[[1571年]]の{{仮リンク|リドルフィ陰謀事件|en|Ridolfi plot}}に関与したとされて[[1572年]]に[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で処刑された。

ノーフォーク公爵位は剥奪され、長男の[[フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)|フィリップ・ハワード]]は母方の爵位(第20代[[アランデル伯爵]])のみ継承した。[[1660年]]に至って玄孫にあたる第23代アランデル伯爵[[トマス・ハワード (第5代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]が第5代ノーフォーク公爵に復権している。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[1546年]]に父と祖父が逮捕、翌年[[ロンドン塔]]で父が処刑されるが、[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が死去したので祖父は辛うじて生き延びた。その後祖父は獄中の身ながら、[[1553年]]の[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]擁立に功績があったとして釈放、翌年トマスは他界した祖父の跡を継いだ。
[[1536年]][[3月10日]]、サリー伯爵[[ヘンリー・ハワード (サリー伯)|ヘンリー・ハワード]](第3代ノーフォーク公爵[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の嫡男)とその夫人{{仮リンク|フランセス・ハワード (サリー伯爵夫人)|label=フランセス|en|Frances Howard, Countess of Surrey}}(旧姓ド・ヴィアー。第15代[[オックスフォード伯爵]]{{仮リンク|ジョン・ド・ヴィアー (第15代オックスフォード伯)|label=ジョン・ド・ヴィアー|en|John de Vere, 15th Earl of Oxford}}の娘)の間の長男として生まれる<ref>{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10300.htm#i102995 |title=Henry Howard, Earl of Surrey|accessdate= 2014-10-03 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP DN">{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/norfolk1483.htm|title=Norfolk, Duke of (E, 1483)|accessdate=2016-06-18|last=Heraldic Media Limited|work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage]|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110823031400/http://www.cracroftspeerage.co.uk/Norfolk1483.htm|archivedate=2011-08-23|url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>

[[1542年]]に祖父ノーフォーク公の姪にあたる王妃[[キャサリン・ハワード]]が姦通で処刑され、祖父も徐々に国王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の信任を失っていき、ついに[[1546年]][[8月3日]]に至って[[ロンドン塔]]へ幽閉された。父サリー伯も自分の紋章に独断で王室の紋章を加えたとされて[[1547年]][[1月21日]]に反逆罪で処刑された。祖父もロンドン塔で処刑を待つ身だったが、処刑日直前にヘンリー8世が崩御したため、処刑中止となった<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.30-31</ref>。

[[1553年]]7月の[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]の[[崩御]]後、初代[[ノーサンバーランド公爵|ノーサンバランド公]][[ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)|ジョン・ダドリー]]が[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー王女]](後のメアリー1世)を無視して[[ジェーン・グレイ]]を女王に擁立しようとしたが、この際に祖父はメアリーを自分の所領にかくまったため、その功績でメアリー1世即位後の8月にノーフォーク公爵位に復権を果たした<ref name="森(1987)32">[[#森(1987)|森(1987)]] p.32</ref>。

=== メアリーの宮廷の廷臣として ===
彼も1553年9月に名誉を回復させ、[[バス勲章|バス騎士団]]ナイト(KB)に叙される。さらに[[1554年]]7月から8月にかけて女王メアリーの夫である[[フェリペ2世 (スペイン王)|フィリップ王]]([[スペイン]]皇太子。後のスペイン王フェリペ2世)の寝室侍従長(First Gentleman of the Bedchamber)を務めた<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP DN" />。

1554年8月25日には祖父が死去し<ref name="CP DN" />、18歳にして第4代ノーフォーク公爵位を継承することになった<ref name="森(1987)34">[[#森(1987)|森(1987)]] p.34</ref>。

第19代[[アランデル伯爵]][[ヘンリー・フィッツアラン (第19代アランデル伯)|ヘンリー・フィッツアラン]]の娘{{仮リンク|メアリー・フィッツアラン|en|Mary FitzAlan}}、初代オードリー男爵{{仮リンク|トマス・オードリー (ウォルデンの初代オードリー男爵)|label=トマス・オードリー|en|Thomas Audley, 1st Baron Audley of Walden}}の娘マーガレット、第4代デイカー男爵{{仮リンク|トマス・デイカー (第4代デイカー男爵)|label=トマス・デイカー|en|Thomas Dacre, 4th Baron Dacre}}の未亡人{{仮リンク|エリザベス・レイバーン|label=エリザベス|en|Elizabeth Leyburne}}の3人と順次結婚したが、いずれにも先立たれた。しかし、彼女達は女子相続人でもあった為、ノーフォーク公とその子孫が領土を継承することになり、ノーフォーク公爵家はイングランド北部を本拠に全イングランドでも最有力の貴族となった<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.34-36</ref>。

=== エリザベスの宮廷の廷臣として ===
[[1559年]]1月の[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]の戴冠式はノーフォーク公が[[軍務伯]]([[紋章院]]総裁)として取り仕切った<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.36-37</ref>。エリザベス女王の母[[アン・ブーリン]]の母は第2代ノーフォーク公爵[[トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の娘であり、したがってノーフォーク公とエリザベス女王は[[はとこ]]の関係にあたる<ref name="森(1987)37">[[#森(1987)|森(1987)]] p.37</ref>。

1559年から[[1560年]]にかけてのスコットランド出兵では北部長官を務め、スコットランド侵攻部隊の指揮を執った<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.280-281</ref>。

1559年[[4月23日]]、女王の[[寵臣]][[ロバート・ダドリー (初代レスター伯)|ロバート・ダドリー]](後の初代[[レスター伯|レスター伯爵]])とともに[[ガーター勲章|ガーター騎士団(勲章)]]ナイト(KG)に叙される。しかしノーフォーク公は成り上がり者のダドリーと同等の扱いであることに不満があったという<ref name="石井(2009)301">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.301</ref>。[[1562年]][[10月20日]]には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)となったが、この時もレスター伯爵と同時就任だった<ref name="石井(2009)322">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.322</ref>。女王が仲裁を通じて絶対権力者として君臨し続けるため、意図的に対立している者同士を同時昇進させて対立を煽ったものと見られる<ref name="石井(2009)322" />。

=== スコットランド女王メアリーとの結婚計画 ===
[[File:MaryQOSmin1.jpg|180px|thumb|スコットランド前女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]]]
[[1568年]]5月に[[カトリック教会|カトリック]]の[[スコットランド王国|スコットランド]]前女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]([[プロテスタント]]貴族たちに王位を追われていた)がスコットランドを脱出してイングランドへ亡命し、エリザベスに援助を乞うたが、そのままイングランドで軟禁状態に置かれる事件があった<ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.91-94</ref>。また同年12月には[[ネーデルラント17州|ネーデルラント]]でプロテスタント反乱の鎮圧に当たる[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]への軍資金を乗せたスペイン船がイングランドに漂着するも拿捕される事件があった<ref name="石井(2009)337">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.337</ref>。

こうした政治情勢から宮廷内ではレスター伯爵を中心に宰相[[ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)|ウィリアム・セシル]]を排除しようという動きが活発化し、第7代[[ノーサンバランド伯|ノーサンバランド伯爵]][[トマス・パーシー (第7代ノーサンバランド伯)|トマス・パーシー]]や第6代[[ウェストモーランド伯爵]][[チャールズ・ネヴィル (第6代ウェストモーランド伯)|チャールズ・ネヴィル]]らカトリック北部諸侯の間ではメアリーをイングランド王位に付ける計画が推進されるようになった。メアリーもその計画に前向きであり、彼女は自分とノーフォーク公の結婚計画を積極的に推進し、北部諸侯(彼らは結婚計画にはあまり乗り気ではなかった)の同意を得た<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.348-350/354</ref>。

ノーフォーク公は自分はカトリックではないと主張していたが、最終的にはメアリーと結婚する決意を固めた<ref>[[#青木(2000)|青木(2000)]] p.98</ref>。ただしノーフォーク公にとってこの結婚計画は大逆のためではなくイングランドの国益を考えてのことであった。エリザベスがメアリーをスコットランド女王に復位させた時、イングランド貴族が夫になっている方がスコットランドとイングランドの関係が好転させやすいし、またメアリーをカトリックの陰謀から引き離すことができるからである。しかしエリザベスがそのように捉える保証はなく、エリザベスが自分への[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]と認定した場合はノーフォーク公以下推進者は全員処刑されてしまうので、ノーフォーク公にとってもこの計画は博打だった<ref name="石井(2009)352">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.352</ref>。

エリザベス女王にいつ、どのような形で結婚計画を上奏するか思案しているうちに噂が宮廷中に広まり、[[1569年]]9月頃には宮廷内の緊張が高まった。計画から手を引いたレスター伯爵の告白を聞いた女王は「ノーフォーク公爵とメアリーが結婚すれば、私は4か月以内にロンドン塔送りとなるであろう」と激怒した。女王の召還を受けたノーフォーク公は、やむなく計画の一部始終を女王に上奏したが、女王から凄まじい叱責を受けた。これにより宮廷に居づらくなったノーフォーク公は1569年9月16日に女王の許可を得ることなく独断で宮廷を退去し、ロンドンの屋敷に引きこもり、病気を理由にして参内を拒否するようになった<ref name="石井(2009)356">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.356</ref>。

=== ロンドン塔に投獄 ===
[[File:Thomas Howard 4th Duke of Norfolk 1565.jpg|180px|thumb|1565年に描かれたノーフォーク公の肖像画]]
1569年9月23日にノーフォーク公がノーフォークの居城{{仮リンク|ケニングホール|en|Kenninghall}}へ移ったことで、女王は反乱準備と疑い、防衛向きの[[ウィンザー城]]へ移った<ref name="石井(2009)356">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.356</ref>。

しかしノーフォーク公に反乱の意思はなく、彼はウェストモーランド伯に使者を送って反乱を思いとどまるよう説得にあたっていた。もともと結婚計画に関心がなかったカトリック北部諸侯はこれを無視し、11月にも「{{仮リンク|北部諸侯の乱|en|Rising of the North}}」を起こしたが、急造の烏合の衆だったので政府軍がやってくる前に解散してしまい、蜂起は失敗に終わった。一方ノーフォーク公の方は9月30日にウィンザー城へ向かい、女王の慈悲を乞おうとしたが、逮捕されてロンドンの屋敷で謹慎処分となった。12月には北部諸侯と自分が無関係である旨の誓約書を書いたが、結局1570年1月にロンドン塔に投獄された<ref name="石井(2009)356">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.356</ref>。

エリザベスはノーフォーク公を処刑すると鼻息を荒くしたが、セシルからメアリーとの結婚を計画しただけで処刑にはできないと説得された<ref name="石井(2009)357">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.357</ref>。

1570年6月、今後二度とメアリーに近づかないという誓約書を書き、8月に至ってロンドン塔から釈放され、ロンドンの屋敷で謹慎生活に入った。しかしこの後もノーフォーク公はメアリーとの接触を続けた<ref name="石井(2009)362">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.362</ref>。

=== リドルフィ陰謀事件===
北部諸侯の乱鎮圧に激怒したローマ教皇は[[1570年]]2月にエリザベスを「王位僭称者、悪魔の召使」と認定し破門した<ref name="石井(2009)360">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.360</ref>。

[[1571年]]1月には教皇に忠実な[[フィレンツェ]]の銀行家{{仮リンク|ロベルト・ディ・リドルフィ|en|Roberto di Ridolfi}}がイングランドへやって来てメアリーと接触した。メアリーはリドルフィを仲介役にスペイン王やローマ教皇の援助を取り付けて、自分が王位に就くことを期待するようになり、ノーフォーク公にもその計画を伝えた。リドルフィは3月にもノーフォーク公の下を訪れ、スペイン王やローマ教皇に援助を求める手紙を書くよう迫ったが、ノーフォーク公はこれを拒否している。だがリドルフィは自分で手紙を書いてスペイン大使館に提出し、「ノーフォーク公は署名をしなかったが、趣旨には賛同している」旨を報告した。そしてリドルフィはメアリーとノーフォーク公の使者としてスペインへ向かった。リドルフィの報告を受けたスペイン王フェリペ2世もイングランド侵攻に前向きになった<ref name="石井(2009)363">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.363</ref>。

だが、リドルフィとスペインの動きはセシルや[[フランシス・ウォルシンガム]]らエリザベス近臣たちに逐一掴まれていた。彼らは関係者に対して行った拷問や通報などからノーフォーク公の関与を確信した。1571年9月7日にノーフォーク公は逮捕され、厳しい取り調べを受けた。その中でノーフォーク公は自分はリドルフィの活動に関与していないことを主張した<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.366-368</ref>。そのうえでノーフォーク公は次のような上奏文を書いて女王の慈悲を乞うた<ref name="石井(2009)369">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.369</ref>。

{{Quotation|私は我が身を振り返り、素晴らしき陛下の臣下としての義務をなんと大きく逸脱したことかと恥じ入っております。陛下の御慈悲を期待したり、望む立場にないと痛感しております。私は御慈悲に値しない人間であります。しかし陛下が慈愛にあふれ哀れみ深い方であられ、御即位以来、御繁栄がいや増す治世において、御慈悲をふんだんに下されてきたのを鑑み、後悔と悲しみに満ちる胸を抱えながらも、意を決して震える手で筆を持ち、つまらぬ我が身を低くし、服従を誓います。こうする以外に私の心が安らぐ道はありません。我が罪、我が不服従をお赦しくださいますよう。聖書にはこう書かれています。扉を叩け、されば開かれん。陛下の足元に膝まづき、我が身、我が子、我が持つ全てを投げ出しひれ伏し、陛下の高貴な御慈悲におすがりいたします。}}

=== 裁判と処刑 ===
[[1572年]][[1月15日]]、ノーフォーク公は[[ウェストミンスター宮殿]]の[[星室庁裁判所]]にかけられ、「勅許を得ずにメアリーと結婚しようとした」「外国軍を招き入れて反乱を起こそうとした」「リドルフィの陰謀に加担し、大逆者たちにお金をばらまいた」とされて[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]で起訴された<ref name="石井(2009)371">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.371</ref>。

この裁判は有罪判決ありきの「見せしめ裁判」の色が強く、公平な裁判ではなかった。ノーフォーク公は[[弁護士]]を付けることが許されず、訴状の写しさえ見せてもらえなかった。ノーフォーク公の有罪を立証する証人たちがつぎつぎと証言台に立ったが、突っ込んだ尋問が行われることもなかった<ref name="ヒバ(1998)下77">[[#ヒバ(1998)下|ヒバート(1997)]] 下巻 p.77</ref>。ノーフォーク公は全ての起訴事実について無罪を主張したものの、結局26人の陪審員の全会一致で有罪判決を受けた<ref name="石井(2009)371">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.371</ref>。

女王はノーフォーク公の死刑執行命令書署名に際して動揺を見せた。1572年2月9日に死刑執行命令書に署名したが、その日の夜に取り消し、さらに署名・取り消しを三度も繰り返した<ref name="石井(2009)371">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.371</ref>。宰相の初代[[エクセター侯爵|バーリー男爵]]ウィリアム・セシルがウォルシンガムに送った手紙によれば「陛下のお気持ちは様々に揺れ動いている。ある時は自分が危ない立場にあるという話をされて、正義は行われねばならないと結論する。しかし別の時にはノーフォーク公が自分に近い血縁だの、身分がとりわけ高いだのと話される」という状態であったという<ref>[[#ヒバ(1998)下|ヒバート(1997)]] 下巻 p.79-80</ref>。

しかしこの時期には[[イギリスの議会|議会]]が召集されていた。[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]は[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]から出た、しかも「カトリック」の大逆者を許す気はなかった(庶民院は[[ピューリタン]]が多く、従来よりカトリック弾圧強化を要求していた)。そのためノーフォーク公とメアリーの処刑を求める意見が庶民院の大勢だった。女王は(この段階では)メアリーの処刑には応じなかったが、代わりにノーフォーク公の処刑には応じ、ついに彼の死刑執行命令書に署名した<ref name="ヒバ(1998)下81">[[#ヒバ(1998)下|ヒバート(1997)]] 下巻 p.81</ref>。

これによりノーフォーク公は、1572年[[6月2日]]にロンドン塔の[[タワー・ヒル|タワー・ヒル刑場]]の断頭台において斬首された。36年の生涯だった<ref name="森(1987)39">[[#森(1987)|森(1987)]] p.39</ref>。ノーフォーク公は最期の言葉として女王陛下への忠誠を宣言するとともに「自分は宗教という物がどんな物であるか分かっているのでカトリック教徒であったことはない」「人がこの場所で死を迎えることは好ましいことではないが、女王陛下の御代でそうなるのは自分が最初で最後になれば嬉しい」と語った<ref name="ヒバ(1998)下82">[[#ヒバ(1998)下|ヒバート(1997)]] 下巻 p.82</ref>。

彼の死後、ノーフォーク公爵位と公爵領は剥奪され、彼の長男である[[フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)|フィリップ・ハワード]]は母方の爵位(第20代[[アランデル伯爵]])の継承のみ認められた。その後ノーフォーク公爵位は3代88年にも渡って失われていたが、[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の治世下の[[1660年]]に玄孫にあたる時の当主第23代アランデル伯爵[[トマス・ハワード (第5代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]がノーフォーク公爵位の復権を勅許され、第5代ノーフォーク公爵となった<ref>[[#森(1987)|森(1987)]] p.39-40</ref>。
{{-}}
== 人物・評価 ==
[[File:Unknown man, formerly known as Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk from NPG.jpg|180px|thumb|ノーフォーク公の肖像画]]
彼は当時イングランドでただ一人の[[公爵]]であり、貴族の筆頭だった<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.300/303</ref>。

{{仮リンク|クリストファー・ヒバート|en|Christopher Hibbert}}は「うわべはプロテスタントだが、カトリック的心情を強く持った男」「優柔不断でありながら、誇り高い野心家」「人間としての芯は決して強くなく、知的な能力・才能にも乏しかった」と評価している<ref name="ヒバ(1998)下50">[[#ヒバ(1998)下|ヒバート(1997)]] 下巻 p.50</ref>。

[[石井美樹子]]は「公爵はメアリーとの結婚問題で女王の勘気に触れた後、まるで意思を失った人間のようになり、周囲の陰謀家たちの危うい行動を黙認し、巻き込まれたのであろう。公爵がエリザベス女王への忠誠を断固たる態度で示していたら、リドルフィにつけ込まれることも、[[ブリュッセル]]、[[ローマ]]、[[マドリード]]で彼の名前が飛び交うこともなかったはずである」と論じている<ref>[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.368-369</ref>。

豪胆な人物であったらしく、「やさ男からは程遠く、踊ったり恋を囁いたりするのは不得手だが、敵を見れば決して逃げない」という寸評が残っている<ref name="石井(2009)351">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.351</ref>。

映画『[[エリザベス (映画)|エリザベス]]』の監督[[シェーカル・カプール]]は同映画のコメンタリーの中で公爵は[[フランシス・ウォルシンガム|ウォルシンガム]]や[[ウィリアム・セシル|セシル]]など中産階級出身者を成り上がり者と見下しており、彼らを甘く見ていたことが命取りになったと述べている<ref>シェカール・カプール監督『エリザベス[DVD]』(2012年)</ref>。
{{-}}
== 栄典 ==
=== 爵位 ===
[[1553年]]に高祖父[[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]]が剥奪されていた以下の爵位を回復<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url= http://thepeerage.com/p10300.htm#i102999 |title=Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk|accessdate= 2016-06-18 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref>。
*'''第13代[[モウブレー男爵]]''' <small>(13th Baron Mowbray)</small>
*:([[1283年]]の{{仮リンク|議会招集令状|en|Writ of summons}}による[[イングランド貴族]]爵位)
*'''第14代[[セグレイヴ男爵]]''' <small>(14th Baron Segrave)</small>
*:([[1295年]]の議会招集令状によるイングランド貴族爵位)

[[1554年]][[8月25日]]の祖父[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]の死去により以下の爵位を継承した<ref name="thepeerage.com" />。
*'''第4代[[ノーフォーク公爵]]''' (4th Duke of Norfolk)
*:([[1483年]][[6月28日]]の[[勅許状]]によるイングランド貴族爵位)
*'''第3代[[サリー伯爵]]'''(3rd Earl of Surrey)
*:(1483年6月28日の勅許状によるイングランド貴族爵位)

=== 勲章 ===
*[[1553年]]、[[バス勲章|バス騎士団(勲章)]]ナイト(KB)<ref name="thepeerage.com" /><ref name="CP DN" />
*[[1559年]][[4月23日]]:[[ガーター勲章|ガーター騎士団(勲章)]]ナイト(KG)<ref name="石井(2009)301" />

== 家族 ==
[[File:Hans Eworth called Mary Fitzalan Duchess of Norfolk.jpg|180px|thumb|最初の妻{{仮リンク|メアリー・フィッツアラン|en|Mary FitzAlan}}]]
[[1555年]]に第19代[[アランデル伯爵]][[ヘンリー・フィッツアラン (第19代アランデル伯)|ヘンリー・フィッツアラン]]の娘{{仮リンク|メアリー・フィッツアラン|en|Mary FitzAlan}}と結婚した。彼女との間に長男[[フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)|フィリップ]](後の第20代アランデル伯爵)を儲けたが、[[1557年]]にメアリーは他界した<ref name="森(1987)35">[[#森(1987)|森(1987)]] p.35</ref><ref name="thepeerage.com" />。

ついで[[1558年]]に初代オードリー男爵{{仮リンク|トマス・オードリー (ウォルデンの初代オードリー男爵)|label=トマス・オードリー|en|Thomas Audley, 1st Baron Audley of Walden}}の娘マーガレットと結婚し、彼女との間に長女マーガレット(第2代ドーセット伯爵{{仮リンク|ロバート・サックヴィル (第2代ドーセット伯爵)|label=ロバート・サックヴィル|en|Robert Sackville, 2nd Earl of Dorset}}と結婚)、次男[[トマス・ハワード (初代サフォーク伯爵)|トマス]](後の初代[[サフォーク伯|サフォーク伯爵]])、三男{{仮リンク|ウィリアム・ハワード (1563-1640)|label=ウィリアム|en|Lord William Howard}}を儲けている。三男ウィリアムの系統は後に[[カーライル伯爵]]位を得ている。マーガレットとは[[1563年]]に死別した<ref name="thepeerage.com" />。

[[1566年]]には第4代デイカー男爵{{仮リンク|トマス・デイカー (第4代デイカー男爵)|label=トマス・デイカー|en|Thomas Dacre, 4th Baron Dacre}}の未亡人{{仮リンク|エリザベス・レイバーン|label=エリザベス|en|Elizabeth Leyburne}}と結婚したが、彼女との間の子供は誕生せぬまま、1567年に死別した<ref name="thepeerage.com" />。


なお三人の妻の死は全て出産が原因である<ref name="石井(2009)398">[[#石井(2009)|石井(2009)]] p.398</ref>。
3回結婚したが、いずれにも先立たれた。しかし、夫人達は女子相続人でもあった為、トマスとその子孫が領土を継承、北イングランド随一の貴族にのし上がって行った。
{{-}}


== ノーフォーク公を演じた人物 ==
ところが、[[1569年]]に北イングランドのカトリック派貴族が反乱を起こした([[北部諸侯の乱]])。トマスは直前に彼等と繋がっていたとして逮捕され、ロンドン塔に投獄された。また、前年イングランドへ亡命していた[[スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]との内通疑惑も持たれ、処刑はなかなか実行されなかったが、[[1572年]]に処刑された。
*[[クリストファー・エクルストン]](1998年イギリス映画『[[エリザベス (映画)|エリザベス]]』)
*[[ケヴィン・マクキッド]](2005年イギリス・テレビ『{{仮リンク|ザ・バージン・クイーン (テレビ)|label=ザ・バージン・クイーン|en|The Virgin Queen (TV serial)}}』)


== 脚注 ==
ノーフォーク公爵位は剥奪、長男の[[フィリップ・ハワード (第20代アランデル伯爵)|フィリップ]]は母(父の最初の妻メアリー・フィッツアラン)の家系のアランデル伯しか受け継げなかった。ハワード家のノーフォーク公復権は[[1660年]]まで88年もかかる事になる。また2番目の妻との間の2人の息子のうち、次男[[トマス・ハワード (初代サフォーク伯爵)|トマス]]はサフォーク伯となり、三男ウィリアムの系統ものちにカーライル伯爵位を獲得した。
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
{{Commonscat|Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk}}
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*{{Cite book|和書|author=青木道彦|authorlink=青木道彦|year=2000|title=エリザベス一世 大英帝国の幕開け|series=講談社現代新書1486|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4120040290|ref=青木(2000)}}
{{先代次代|[[ノーフォーク公]]|第4代: 1554年-1572年|[[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]|[[トマス・ハワード (第5代ノーフォーク公)|トマス・ハワード]]}}
*{{Cite book|和書|author=石井美樹子|authorlink=石井美樹子|year=2009|title=エリザベス 華麗なる孤独|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120040290|ref=石井(2009)}}
*{{Cite book|和書|year=1987|title=英国の貴族 遅れてきた公爵||author=森護|authorlink=森護|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240979|ref=森(1987)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|クリストファー・ヒバート|en|Christopher Hibbert}}|translator=[[山本史郎]]|year=1998|title=女王エリザベス〈下〉大国への道|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562031474|ref=ヒバ(1998)下}}
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{{s-off}}
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| before = [[トマス・ハワード (第3代ノーフォーク公)|第3代ノーフォーク公爵]]
| after = [[ジョージ・タルボット (第6代シュルーズベリー伯爵)|第6代シュルーズベリー伯爵]]
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| years = [[1559年]] - [[1572年]]
| after = 不明}}
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|-
{{s-non| reason= 停止<br /><small>(最後の受爵者)<br />([[ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公)|ジョン・ハワード]])</small>}}
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[[Category:1572年没]]
[[Category:1572年没]]

2024年7月10日 (水) 06:34時点における最新版

第4代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
Thomas Howard
4th Duke of Norfolk
ノーフォーク公ハワード家
ハンス・イワース)による第4代ノーフォーク公トマス・ハワードの肖像画
続柄 先代の孫

称号 第4代ノーフォーク公爵、第3代サリー伯爵、第13代モウブレー男爵、第14代セグレイブ男爵ガーター勲章ナイト(KG)、バス勲章ナイト(KB)、枢密顧問官(PC)
敬称 Your Grace(公爵閣下)
出生 1536年3月10日
死去 (1572-06-02) 1572年6月2日(36歳没)
イングランド王国の旗 イングランド王国ロンドンロンドン塔タワー・ヒル刑場
配偶者 メアリー(旧姓フィッツアラン)英語版
  マーガレット(旧姓オードリー)、
  エリザベス(旧姓レイバーン)英語版
子女 長男:第20代アランデル伯フィリップ
次男:初代サフォーク伯トマス
三男:ウィリアム卿英語版
長女:マーガレット
父親 サリー伯ヘンリー・ハワード
母親 フランセス(旧姓ド・ヴィアー)英語版
役職 軍務伯(1554年-1572年)、貴族院議員(1554年-1572年)
テンプレートを表示

第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワード英語: Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk, KG, KB, PC1536年3月10日 - 1572年6月2日)は、イングランド貴族廷臣

ノーフォーク公爵家(ハワード家)の嫡男サリー伯爵ヘンリー・ハワードの長男であり、1554年に祖父の第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの跡を継いで第4代ノーフォーク公爵となった。イングランド女王エリザベス1世又従弟に当たる。3度の女子相続者との婚姻を通じて所領を拡大してイングランド最有力貴族となる。

明確にカトリックとは公言していなかったが、カトリック的な貴族であり、スコットランド女王メアリーとの結婚計画を進めたことでエリザベス女王に警戒されるようになり、1569年北部諸侯の乱英語版の際にロンドン塔に幽閉され、さらに1571年リドルフィ陰謀事件英語版に関与したとされて1572年大逆罪で処刑された。

ノーフォーク公爵位は剥奪され、長男のフィリップ・ハワードは母方の爵位(第20代アランデル伯爵)のみ継承した。1660年に至って玄孫にあたる第23代アランデル伯爵トマス・ハワードが第5代ノーフォーク公爵に復権している。

生涯

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生い立ち

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1536年3月10日、サリー伯爵ヘンリー・ハワード(第3代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの嫡男)とその夫人フランセス英語版(旧姓ド・ヴィアー。第15代オックスフォード伯爵ジョン・ド・ヴィアー英語版の娘)の間の長男として生まれる[1][2]

1542年に祖父ノーフォーク公の姪にあたる王妃キャサリン・ハワードが姦通で処刑され、祖父も徐々に国王ヘンリー8世の信任を失っていき、ついに1546年8月3日に至ってロンドン塔へ幽閉された。父サリー伯も自分の紋章に独断で王室の紋章を加えたとされて1547年1月21日に反逆罪で処刑された。祖父もロンドン塔で処刑を待つ身だったが、処刑日直前にヘンリー8世が崩御したため、処刑中止となった[3]

1553年7月のエドワード6世崩御後、初代ノーサンバランド公ジョン・ダドリーメアリー王女(後のメアリー1世)を無視してジェーン・グレイを女王に擁立しようとしたが、この際に祖父はメアリーを自分の所領にかくまったため、その功績でメアリー1世即位後の8月にノーフォーク公爵位に復権を果たした[4]

メアリーの宮廷の廷臣として

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彼も1553年9月に名誉を回復させ、バス騎士団ナイト(KB)に叙される。さらに1554年7月から8月にかけて女王メアリーの夫であるフィリップ王スペイン皇太子。後のスペイン王フェリペ2世)の寝室侍従長(First Gentleman of the Bedchamber)を務めた[5][2]

1554年8月25日には祖父が死去し[2]、18歳にして第4代ノーフォーク公爵位を継承することになった[6]

第19代アランデル伯爵ヘンリー・フィッツアランの娘メアリー・フィッツアラン英語版、初代オードリー男爵トマス・オードリー英語版の娘マーガレット、第4代デイカー男爵トマス・デイカー英語版の未亡人エリザベス英語版の3人と順次結婚したが、いずれにも先立たれた。しかし、彼女達は女子相続人でもあった為、ノーフォーク公とその子孫が領土を継承することになり、ノーフォーク公爵家はイングランド北部を本拠に全イングランドでも最有力の貴族となった[7]

エリザベスの宮廷の廷臣として

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1559年1月のエリザベス1世の戴冠式はノーフォーク公が軍務伯紋章院総裁)として取り仕切った[8]。エリザベス女王の母アン・ブーリンの母は第2代ノーフォーク公爵トマス・ハワードの娘であり、したがってノーフォーク公とエリザベス女王ははとこの関係にあたる[9]

1559年から1560年にかけてのスコットランド出兵では北部長官を務め、スコットランド侵攻部隊の指揮を執った[10]

1559年4月23日、女王の寵臣ロバート・ダドリー(後の初代レスター伯爵)とともにガーター騎士団(勲章)ナイト(KG)に叙される。しかしノーフォーク公は成り上がり者のダドリーと同等の扱いであることに不満があったという[11]1562年10月20日には枢密顧問官(PC)となったが、この時もレスター伯爵と同時就任だった[12]。女王が仲裁を通じて絶対権力者として君臨し続けるため、意図的に対立している者同士を同時昇進させて対立を煽ったものと見られる[12]

スコットランド女王メアリーとの結婚計画

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スコットランド前女王メアリー

1568年5月にカトリックスコットランド前女王メアリープロテスタント貴族たちに王位を追われていた)がスコットランドを脱出してイングランドへ亡命し、エリザベスに援助を乞うたが、そのままイングランドで軟禁状態に置かれる事件があった[13]。また同年12月にはネーデルラントでプロテスタント反乱の鎮圧に当たるアルバ公への軍資金を乗せたスペイン船がイングランドに漂着するも拿捕される事件があった[14]

こうした政治情勢から宮廷内ではレスター伯爵を中心に宰相ウィリアム・セシルを排除しようという動きが活発化し、第7代ノーサンバランド伯爵トマス・パーシーや第6代ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィルらカトリック北部諸侯の間ではメアリーをイングランド王位に付ける計画が推進されるようになった。メアリーもその計画に前向きであり、彼女は自分とノーフォーク公の結婚計画を積極的に推進し、北部諸侯(彼らは結婚計画にはあまり乗り気ではなかった)の同意を得た[15]

ノーフォーク公は自分はカトリックではないと主張していたが、最終的にはメアリーと結婚する決意を固めた[16]。ただしノーフォーク公にとってこの結婚計画は大逆のためではなくイングランドの国益を考えてのことであった。エリザベスがメアリーをスコットランド女王に復位させた時、イングランド貴族が夫になっている方がスコットランドとイングランドの関係が好転させやすいし、またメアリーをカトリックの陰謀から引き離すことができるからである。しかしエリザベスがそのように捉える保証はなく、エリザベスが自分への大逆罪と認定した場合はノーフォーク公以下推進者は全員処刑されてしまうので、ノーフォーク公にとってもこの計画は博打だった[17]

エリザベス女王にいつ、どのような形で結婚計画を上奏するか思案しているうちに噂が宮廷中に広まり、1569年9月頃には宮廷内の緊張が高まった。計画から手を引いたレスター伯爵の告白を聞いた女王は「ノーフォーク公爵とメアリーが結婚すれば、私は4か月以内にロンドン塔送りとなるであろう」と激怒した。女王の召還を受けたノーフォーク公は、やむなく計画の一部始終を女王に上奏したが、女王から凄まじい叱責を受けた。これにより宮廷に居づらくなったノーフォーク公は1569年9月16日に女王の許可を得ることなく独断で宮廷を退去し、ロンドンの屋敷に引きこもり、病気を理由にして参内を拒否するようになった[18]

ロンドン塔に投獄

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1565年に描かれたノーフォーク公の肖像画

1569年9月23日にノーフォーク公がノーフォークの居城ケニングホール英語版へ移ったことで、女王は反乱準備と疑い、防衛向きのウィンザー城へ移った[18]

しかしノーフォーク公に反乱の意思はなく、彼はウェストモーランド伯に使者を送って反乱を思いとどまるよう説得にあたっていた。もともと結婚計画に関心がなかったカトリック北部諸侯はこれを無視し、11月にも「北部諸侯の乱英語版」を起こしたが、急造の烏合の衆だったので政府軍がやってくる前に解散してしまい、蜂起は失敗に終わった。一方ノーフォーク公の方は9月30日にウィンザー城へ向かい、女王の慈悲を乞おうとしたが、逮捕されてロンドンの屋敷で謹慎処分となった。12月には北部諸侯と自分が無関係である旨の誓約書を書いたが、結局1570年1月にロンドン塔に投獄された[18]

エリザベスはノーフォーク公を処刑すると鼻息を荒くしたが、セシルからメアリーとの結婚を計画しただけで処刑にはできないと説得された[19]

1570年6月、今後二度とメアリーに近づかないという誓約書を書き、8月に至ってロンドン塔から釈放され、ロンドンの屋敷で謹慎生活に入った。しかしこの後もノーフォーク公はメアリーとの接触を続けた[20]

リドルフィ陰謀事件

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北部諸侯の乱鎮圧に激怒したローマ教皇は1570年2月にエリザベスを「王位僭称者、悪魔の召使」と認定し破門した[21]

1571年1月には教皇に忠実なフィレンツェの銀行家ロベルト・ディ・リドルフィ英語版がイングランドへやって来てメアリーと接触した。メアリーはリドルフィを仲介役にスペイン王やローマ教皇の援助を取り付けて、自分が王位に就くことを期待するようになり、ノーフォーク公にもその計画を伝えた。リドルフィは3月にもノーフォーク公の下を訪れ、スペイン王やローマ教皇に援助を求める手紙を書くよう迫ったが、ノーフォーク公はこれを拒否している。だがリドルフィは自分で手紙を書いてスペイン大使館に提出し、「ノーフォーク公は署名をしなかったが、趣旨には賛同している」旨を報告した。そしてリドルフィはメアリーとノーフォーク公の使者としてスペインへ向かった。リドルフィの報告を受けたスペイン王フェリペ2世もイングランド侵攻に前向きになった[22]

だが、リドルフィとスペインの動きはセシルやフランシス・ウォルシンガムらエリザベス近臣たちに逐一掴まれていた。彼らは関係者に対して行った拷問や通報などからノーフォーク公の関与を確信した。1571年9月7日にノーフォーク公は逮捕され、厳しい取り調べを受けた。その中でノーフォーク公は自分はリドルフィの活動に関与していないことを主張した[23]。そのうえでノーフォーク公は次のような上奏文を書いて女王の慈悲を乞うた[24]

私は我が身を振り返り、素晴らしき陛下の臣下としての義務をなんと大きく逸脱したことかと恥じ入っております。陛下の御慈悲を期待したり、望む立場にないと痛感しております。私は御慈悲に値しない人間であります。しかし陛下が慈愛にあふれ哀れみ深い方であられ、御即位以来、御繁栄がいや増す治世において、御慈悲をふんだんに下されてきたのを鑑み、後悔と悲しみに満ちる胸を抱えながらも、意を決して震える手で筆を持ち、つまらぬ我が身を低くし、服従を誓います。こうする以外に私の心が安らぐ道はありません。我が罪、我が不服従をお赦しくださいますよう。聖書にはこう書かれています。扉を叩け、されば開かれん。陛下の足元に膝まづき、我が身、我が子、我が持つ全てを投げ出しひれ伏し、陛下の高貴な御慈悲におすがりいたします。

裁判と処刑

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1572年1月15日、ノーフォーク公はウェストミンスター宮殿星室庁裁判所にかけられ、「勅許を得ずにメアリーと結婚しようとした」「外国軍を招き入れて反乱を起こそうとした」「リドルフィの陰謀に加担し、大逆者たちにお金をばらまいた」とされて大逆罪で起訴された[25]

この裁判は有罪判決ありきの「見せしめ裁判」の色が強く、公平な裁判ではなかった。ノーフォーク公は弁護士を付けることが許されず、訴状の写しさえ見せてもらえなかった。ノーフォーク公の有罪を立証する証人たちがつぎつぎと証言台に立ったが、突っ込んだ尋問が行われることもなかった[26]。ノーフォーク公は全ての起訴事実について無罪を主張したものの、結局26人の陪審員の全会一致で有罪判決を受けた[25]

女王はノーフォーク公の死刑執行命令書署名に際して動揺を見せた。1572年2月9日に死刑執行命令書に署名したが、その日の夜に取り消し、さらに署名・取り消しを三度も繰り返した[25]。宰相の初代バーリー男爵ウィリアム・セシルがウォルシンガムに送った手紙によれば「陛下のお気持ちは様々に揺れ動いている。ある時は自分が危ない立場にあるという話をされて、正義は行われねばならないと結論する。しかし別の時にはノーフォーク公が自分に近い血縁だの、身分がとりわけ高いだのと話される」という状態であったという[27]

しかしこの時期には議会が召集されていた。庶民院貴族院から出た、しかも「カトリック」の大逆者を許す気はなかった(庶民院はピューリタンが多く、従来よりカトリック弾圧強化を要求していた)。そのためノーフォーク公とメアリーの処刑を求める意見が庶民院の大勢だった。女王は(この段階では)メアリーの処刑には応じなかったが、代わりにノーフォーク公の処刑には応じ、ついに彼の死刑執行命令書に署名した[28]

これによりノーフォーク公は、1572年6月2日にロンドン塔のタワー・ヒル刑場の断頭台において斬首された。36年の生涯だった[29]。ノーフォーク公は最期の言葉として女王陛下への忠誠を宣言するとともに「自分は宗教という物がどんな物であるか分かっているのでカトリック教徒であったことはない」「人がこの場所で死を迎えることは好ましいことではないが、女王陛下の御代でそうなるのは自分が最初で最後になれば嬉しい」と語った[30]

彼の死後、ノーフォーク公爵位と公爵領は剥奪され、彼の長男であるフィリップ・ハワードは母方の爵位(第20代アランデル伯爵)の継承のみ認められた。その後ノーフォーク公爵位は3代88年にも渡って失われていたが、チャールズ2世の治世下の1660年に玄孫にあたる時の当主第23代アランデル伯爵トマス・ハワードがノーフォーク公爵位の復権を勅許され、第5代ノーフォーク公爵となった[31]

人物・評価

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ノーフォーク公の肖像画

彼は当時イングランドでただ一人の公爵であり、貴族の筆頭だった[32]

クリストファー・ヒバート英語版は「うわべはプロテスタントだが、カトリック的心情を強く持った男」「優柔不断でありながら、誇り高い野心家」「人間としての芯は決して強くなく、知的な能力・才能にも乏しかった」と評価している[33]

石井美樹子は「公爵はメアリーとの結婚問題で女王の勘気に触れた後、まるで意思を失った人間のようになり、周囲の陰謀家たちの危うい行動を黙認し、巻き込まれたのであろう。公爵がエリザベス女王への忠誠を断固たる態度で示していたら、リドルフィにつけ込まれることも、ブリュッセルローママドリードで彼の名前が飛び交うこともなかったはずである」と論じている[34]

豪胆な人物であったらしく、「やさ男からは程遠く、踊ったり恋を囁いたりするのは不得手だが、敵を見れば決して逃げない」という寸評が残っている[35]

映画『エリザベス』の監督シェーカル・カプールは同映画のコメンタリーの中で公爵はウォルシンガムセシルなど中産階級出身者を成り上がり者と見下しており、彼らを甘く見ていたことが命取りになったと述べている[36]

栄典

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爵位

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1553年に高祖父ジョン・ハワードが剥奪されていた以下の爵位を回復[5]

1554年8月25日の祖父トマス・ハワードの死去により以下の爵位を継承した[5]

勲章

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家族

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最初の妻メアリー・フィッツアラン英語版

1555年に第19代アランデル伯爵ヘンリー・フィッツアランの娘メアリー・フィッツアラン英語版と結婚した。彼女との間に長男フィリップ(後の第20代アランデル伯爵)を儲けたが、1557年にメアリーは他界した[37][5]

ついで1558年に初代オードリー男爵トマス・オードリー英語版の娘マーガレットと結婚し、彼女との間に長女マーガレット(第2代ドーセット伯爵ロバート・サックヴィル英語版と結婚)、次男トマス(後の初代サフォーク伯爵)、三男ウィリアム英語版を儲けている。三男ウィリアムの系統は後にカーライル伯爵位を得ている。マーガレットとは1563年に死別した[5]

1566年には第4代デイカー男爵トマス・デイカー英語版の未亡人エリザベス英語版と結婚したが、彼女との間の子供は誕生せぬまま、1567年に死別した[5]

なお三人の妻の死は全て出産が原因である[38]

ノーフォーク公を演じた人物

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ Lundy, Darryl. “Henry Howard, Earl of Surrey” (英語). thepeerage.com. 2014年10月3日閲覧。
  2. ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月18日閲覧。
  3. ^ 森(1987) p.30-31
  4. ^ 森(1987) p.32
  5. ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Thomas Howard, 4th Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2016年6月18日閲覧。
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  7. ^ 森(1987) p.34-36
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  9. ^ 森(1987) p.37
  10. ^ 石井(2009) p.280-281
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  27. ^ ヒバート(1997) 下巻 p.79-80
  28. ^ ヒバート(1997) 下巻 p.81
  29. ^ 森(1987) p.39
  30. ^ ヒバート(1997) 下巻 p.82
  31. ^ 森(1987) p.39-40
  32. ^ 石井(2009) p.300/303
  33. ^ ヒバート(1997) 下巻 p.50
  34. ^ 石井(2009) p.368-369
  35. ^ 石井(2009) p.351
  36. ^ シェカール・カプール監督『エリザベス[DVD]』(2012年)
  37. ^ 森(1987) p.35
  38. ^ 石井(2009) p.398

参考文献

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  • 青木道彦『エリザベス一世 大英帝国の幕開け』講談社〈講談社現代新書1486〉、2000年。ISBN 978-4120040290 
  • 石井美樹子『エリザベス 華麗なる孤独』中央公論新社、2009年。ISBN 978-4120040290 
  • 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979 
  • クリストファー・ヒバート英語版 著、山本史郎 訳『女王エリザベス〈下〉大国への道』原書房、1998年。ISBN 978-4562031474 
公職
先代
第3代ノーフォーク公爵
軍務伯
1554年 - 1572年
次代
第6代シュルーズベリー伯爵
先代
第3代サセックス伯爵英語版
ノーフォーク知事英語版
1559年 - 1572年
次代
不明
イングランドの爵位
先代
トマス・ハワード
第4代ノーフォーク公爵
1554年 - 1572年
剥奪
(復権した次の爵位継承者)
トマス・ハワード
第3代サリー伯爵
1554年 - 1572年
剥奪
(復権した次の爵位継承者)
トマス・ハワード
停止
(最後の受爵者)
ジョン・ハワード
第13代モウブレー男爵
第14代セグレイブ男爵

1554年 - 1572年