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「フランクフルト・アム・マイン」の版間の差分

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{| cellpadding="2" style="float: right; width: 307px; background: #e3e3e3; margin-left: 1em; border-spacing: 1px;"
{{redirect|フランクフルト}}
! 紋章
{{世界の市
! 地図
|正式名称 = フランクフルト・アム・マイン
|- style="background: #ffffff; text-align: center;"
|公用語名称 = Frankfurt am Main
| style="width: 145px;" | [[File:Wappen Frankfurt am Main.svg|140px]]
|愛称 =
| style="width: 145px;" | [[File:Karte frankfurt am main in deutschland.png|140px]]
|標語 = Stark im Recht!(正義にあって強く)
|-
|画像 = Skyline Frankfurt am Main.jpg
! colspan="2" | 基本情報
|画像サイズ指定 = 300px
|- style="background: #ffffff;"
|画像の見出し = フランクフルト・アム・マインの夜景
| [[連邦州]]: || [[ヘッセン州]]
|市旗 =
|- style="background: #ffffff;"
|市章 = Wappen-frankfurt.png
| 行政管区: || [[ダルムシュタット行政管区]]
|位置図 = Karte frankfurt am main in deutschland.png
|- style="background: #ffffff;"
|位置図サイズ指定 = 200px
| 郡: || 郡独立市
|位置図の見出し = フランクフルトの位置
|- style="background: #ffffff;"
|位置図2 =
| [[緯度]][[経度]]: || {{ウィキ座標度分|50|06|38|N|08|40|56|E|改行=yes}}
|位置図サイズ指定2 =
|- style="background: #ffffff;"
|位置図の見出し2 =
| 標高: || 海抜 112 m
|緯度度 = 50 |緯度分 = 7 |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) = N
|- style="background: #ffffff;"
|経度度 = 8 |経度分 = 41 |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) = E
| 面積: || 248.31 km²
|成立区分 =
|- style="background: #ffffff;"
|成立日 =
| 人口: || {{PopSet|GER-HE|06412000}}<ref name="Pop">{{Population GER-HE|06412000|SOURCE}}</ref>
|成立区分1 =
|- style="background: #ffffff;"
|成立日1 =
| 人口密度: || {{formatnum:{{#expr:{{Population GER-HE| 06412000}}/248.31 round 0}}}} 人/km²
|成立区分2 =
|- style="background: #ffffff;"
|成立日2 =
| 郵便番号: || 60308 - 60599, 65929 - 65936
|旧名 =
|- style="background: #ffffff;"
|創設者 =
| 市外局番: || 069, 06101, 06109
|下位区分名 = {{DEU}}
|- style="background: #ffffff;"
|下位区分種類1 = 州
| ナンバープレート: || F
|下位区分名1 = [[ヘッセン州]]
|- style="background: #ffffff;"
|下位区分種類2 = 行政管区
| 自治体コード: || 06 4 12 000
|下位区分名2 = [[ダルムシュタット行政管区]]
|- style="background: #ffffff;"
|下位区分種類3 =
| 行政庁舎の住所: || Römerberg 23<br />60311 Frankfurt am Main
|下位区分名3 =
|- style="background: #ffffff;"
|下位区分種類4 =
| ウェブサイト: || [http://www.frankfurt.de/ www.frankfurt.de]
|下位区分名4 =
|- style="background: #ffffff;"
|規模 = 市
| 首長: || ペーター・フェルトマン (Peter Feldmann)
|最高行政執行者称号 = 市長
|-
|最高行政執行者名 = [[ペトラ・ロト]]
! colspan="2" | 州内の位置
|最高行政執行者所属党派 = [[ドイツキリスト教民主同盟]]
|- style="background: #ffffff;"
|総面積(平方キロ) = 248
| align="center" colspan="2" | [[File:Hesse F.svg|280px]]
|総面積(平方マイル) =
|}
|陸上面積(平方キロ) =
[[File:Ffm-skyline008.jpg|rght|300px|thumb|「マインハッタン」とも呼ばれるフランクフルト・アム・マインのスカイライン]]
|陸上面積(平方マイル) =
'''フランクフルト・アム・マイン''' (Frankfurt am Main) は、[[ドイツ連邦共和国]][[ヘッセン州]]に属す郡独立市である。人口 69万人を超えるヘッセン州最大の街であり(2012年6月30日現在)<ref>[http://www.statistik-hessen.de/themenauswahl/bevoelkerung-gebiet/regionaldaten/bevoelkerung-der-hessischen-gemeinden/index.html 市町村別人口]、ヘッセン州統計局(2013年2月28日 閲覧)</ref>、[[ベルリン]]、[[ハンブルク]]、[[ミュンヘン]]、[[ケルン]]に次ぐドイツで5番目に大きな街である。狭義の人口密集地域であるフランクフルト/ライン=マイン地域の人口は約 220万人(2010年12月現在)<ref>[http://ftp.planungsverband.de/RV_Regionales_Monitoring_2011.pdf "Regionales Monitoring 2011 Daten und Fakten – Regionalverband FrankfurtRheinMain"] (PDF, 25.1 MB)(2013年2月28日 閲覧)</ref>、広義のライン=マイン大都市圏の総人口は 550万人である。
|水面面積(平方キロ) =

|水面面積(平方マイル) =
フランクフルトは[[中世]]からドイツで最も重要な中心都市の一つであった。[[794年]]に初めて文献に記録され、中世盛期からは[[帝国自由都市]]であった。1806年まで[[神聖ローマ皇帝]]の選挙が行われる街であり、1562年からは[[戴冠式]]もこの街で挙行された。また、1816年から[[ドイツ連邦]]の議会がフランクフルト自由都市で開催され、1848年/49年に初めて自由選挙で選出された議会もこの街に置かれた。[[普墺戦争]]の結果、[[プロイセン王国|プロイセン]]に併合され、フランクフルトは1866年に都市国家としての独立権を喪失した。1875年にフランクフルトの人口は初めて 10万人を、1928年には初めて 50万人を超えた。
|水面面積比率 =

|市街地面積(平方キロ) =
現在のフランクフルトは国際金融センターであり、経済的側面から[[世界都市]]の一つに数えられている<ref>[http://www.lboro.ac.uk/gawc/world2010t.html "The World According to GaWC 2010"](2013年2月28日 閲覧)</ref>。[[欧州中央銀行]]、[[ドイツ連邦銀行]]、[[フランクフルト証券取引所]]、[[ドイツ銀行]]、[[コメルツ銀行]]、{{仮リンク|KfW銀行|en|KfW}}(ドイツ復興金融公庫銀行)、{{仮リンク|DZ銀行|en|DZ Bank}}、{{仮リンク|ヘッセン=テューリンゲン州立銀行|en|Helaba}}(ヘラバ)が、この街に存在する最も重要な金融機関である。{{仮リンク|メッセ・フランクフルト|en|Messe Frankfurt}}は、世界最大の[[見本市]]会場の一つである。さらにフランクフルトは重要な工業およびサービス産業都市でもある。
|市街地面積(平方マイル) =

|都市圏面積(平方キロ) =
フランクフルトは、ヨーロッパの中央に位置することからヨーロッパ交通の最も重要な中継点の一つである。[[フランクフルト国際空港]]は世界最大級の空港であり、[[フランクフルト中央駅]]は鉄道交通の中心的な乗り継ぎ駅となっており、フランクフルト・ジャンクションは最も交通量の多いジャンクションの一つである<ref>[http://ebn24.de/index.php?id=34285 "Wirtschaftsstandort Frankfurt am Main Band 3"](2013年2月28日 閲覧)</ref>。さらにフランクフルトの German Commercial Internet Exchange (DE-CIX) は、データ転送量において、世界最大の[[インターネット]]中継点である。
|都市圏面積(平方マイル) =

|標高(メートル) = 112
特筆すべきは、この街のスカイラインである。ヨーロッパで最も高いクラスのオフィスビルが林立するそれは、しばしば[[マンハッタン]]をもじって「マインハッタン」と称される。
|標高(フィート) =

|人口の時点 = 2011年12月31日
== 地名 ==
|人口に関する備考 =
[[File:Die Frankenfurt.jpg|right|200px|thumb|フランクフルトの伝説]]
|総人口 = 691,518
ドームヒューゲルの入植地の名前は、[[794年]]に初めて文献に記録された際、''Franconofurd'',<ref>Engelbert Mühlbacher unter Mitwirkung von Alfons Dopsch, Johann Lechner und Michael Tangl (Hrsg.): Diplomata 4: Die Urkunden Pippins, Karlmanns und Karls des Großen (Pippini, Carlomanni, Caroli Magni Diplomata). Berlin 1906, pp. 236–238([[モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ]]、[http://www.dmgh.de/de/fs1/object/display/bsb00000358_00247.html?sortIndex=030:020:0001:010:00:00 デジタル版] 2013年3月1日 閲覧)</ref> または ''Francorum vadus''<ref>Adolf Hofmeister et al. (Hrsg.) Scriptores (in Folio) 30,2: Supplementa tomorum I-XV. Leipzig 1934, p. 736(モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ、[http://www.dmgh.de/de/fs1/object/display/bsb00000883_00022.html?sortIndex=010:050:0030:010:02:00 デジタル版] 2013年3月1日 閲覧)</ref> と[[古高ドイツ語]]および[[ラテン語]]で記述されている。どちらも[[フランク人]]の徒渉地を意味する。おそらく、現在のアルテ・ブリュッケのやや上流側の川底に岩があり浅瀬になっていたために、通常の水位の状態であれば、現在よりはかなり川幅があったと思われる[[マイン川]]を歩いて渡ることができた。この徒渉地は、[[ローマ時代]]になると戦略的意味はなかったが、[[マインツ]]から[[ゲルマニア]]領内を通る街道は、マイン川河口域の湿地を迂回してドームヒューゲルを通っていた。
|人口密度(平方キロ当たり) = 2,785

|人口密度(平方マイル当たり) =
[[ローマ人]]が撤退した後、[[260年]]頃にドームヒューゲルは[[アレマン人]]に占領された。[[530年]]頃フランク人がアレマン人に替わってマイン川下流域の覇権を掌握した。おそらく新しい領主は、この徒渉地を重要な交易路として利用した。このため、交易相手はこの徒渉地を「フランケンフルト」と呼んだ<ref>Elsbet Orth, Frankfurt am Main im Früh- und Hochmittelalter. In: Frankfurter Historische Kommission (Hrsg.): Frankfurt am Main – Die Geschichte der Stadt in neun Beiträgen. Jan Thorbecke Verlag, Sigmaringen 1991, ISBN 3-7995-4158-6, p. 11.</ref>。
|市街地人口 = 2,895,000

|市街地人口密度(平方キロ) =
年代記作者の{{仮リンク|ティートマール・フォン・メルゼブルク|de|Thietmar von Merseburg}}は、1014年から1017年に、[[カール大帝]]によるこの街の創設に関する現在まで知られている伝説を記述している<ref> Robert Holtzmann (Hrsg.): Scriptores rerum Germanicarum, Nova series 9: Die Chronik des Bischofs Thietmar von Merseburg und ihre Korveier Überarbeitung (Thietmari Merseburgensis episcopi Chronicon) Berlin 1935, p. 490(モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ、[http://www.dmgh.de/de/fs1/object/display/bsb00000689_00545.html?sortIndex=010:060:0009:010:00:00 デジタル版] 2013年3月2日 閲覧)</ref>。それは、[[ザクセン戦争 (カール大帝)|ザクセン戦争]]と関連している。
|市街地人口密度(平方マイル) =

|都市圏人口 = 5,600,000
{{quote|「信頼できる人々から聞いたことを今から私が物語ろう。[[ピピン3世|ピピン王]]の王子カール大帝の治世に、あなたがたの先祖と我々の祖先(ザクセン人)との間で戦争が起こった。この戦いでフランク人は我々の祖先によって打ち負かされた。彼らが不案内な徒渉地を通ってマイン川を渡らねばならなくなった時、彼らの前を一頭の雌シカが川を渡り、神の温情をもって渡るべき道を示した。彼らはシカに続いて川を渡り、陽気な気分で安全な岸にたどり着いた。これ以後、この村はフランクフルトと呼ばれるようになった。」|ティートマール・フォン・メルゼブルク|『年代記』VII, 75}}
|都市圏人口密度(平方キロ) =

|都市圏人口密度(平方マイル) =
実際には、カール大帝は[[ザクセン人|ザクセン族]]とマイン地域で戦ったことはない。また、勝利した王によって捕らえられたザクセン族の定住地であるとする誤ったフランクフルト=ザクセンハウゼンの名前の成立史についても、単なる伝説である。これらは、おそらく[[794年]]に北ドイツで蜂起したザクセン族鎮圧のための遠征直前に立ち寄った史実が、口承によって様々な話と混じり合った事に由来すると思われる。
|等時帯 =

|協定世界時との時差 =
フランクフルトの名前と創設に関する他の伝説は、現在ではあまり知られていない。それは特に[[近世]]初期にフランクフルトの重要性を神秘的に高めるために利用された話である。[[人文主義者]]の[[ヨハンネス・トリテミウス]]は、15世紀にフランクフルトの同意語として「ヘレノポリス」という地名を用いた。この地名は、18世紀まで他の人文主義者によって時折使われていた。この地名の由来は明らかではない。ヘレノポリスは、[[プリアモス]]の息子で[[イリオス|トロイア]]から逃走した[[ヘレノス]]がこの地を居と定め創設した街であるという。別の著者は、[[コンスタンティヌス1世|コンスタンティン大帝]]の母[[聖ヘレナ|ヘレナ]]に由来するとも記述している。
|夏時間の等時帯 =

|夏時間の協定世界時との時差 =
トリテミウスの神話は、フランクフルトの名前の由来も明らかにしている。それによれば、紀元130年頃 Hogier 公 Francus が古いヘレノポリスの街を再興し、自らの名前にちなんで Frankenfurt と名付けたという<ref>Barbara Dölemeyer: Helenopolis – Frankfurt am Main in Mythos und Chronik (16.–18. Jahrhundert). In: Bernhard Kirchgässner, Hans-Peter Becht (Hrsg.): Städtische Mythen. Band 28 der Reihe Stadt in der Geschichte der Veröffentlichungen des Südwestdeutschen Arbeitskreises für Stadtgeschichtsforschung, Jan-Thorbecke-Verlag, Ostfildern 2003, ISBN 3-7995-6428-4, pp. 75–90. ([http://www.stadtgeschichtsforschung.de/Downloads/Tagungsberichte/Bericht%20ueber%20die%2038.pdf "Tagungsbericht"], PDF 2013年3月2日 閲覧)</ref>。
|郵便番号の区分 = 郵号

|郵便番号 = 60311 - 60598(かつては6000)<br/>65929 - 65936(かつては6230)
元来の名前 Franconofurd は中世に Frankenfort または Frankinfort、近世に Franckfort および Franckfurth と変化した。そして遅くとも19世紀の初めには、Frankfurt という表記が確定した。名前に添えられた「アム・マイン」は、最も古くは14世紀から、しばしば付けられるようになった<ref>たとえば、15世紀半ばに作成された[[金印勅書]]の表記は "Frankinfurd uf den Meyn" となっている。Näheres zur Namensgebung in Der Name Frankfurt. In: Wolfgang Klötzer: Keine liebere Stadt als Frankfurt. Studien zur Frankfurter Geschichte 45. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main, ISBN 3-7829-0509-1, pp. 10–15.</ref>。日常的には、[[フランクフルト・アン・デア・オーダー|フランクフルト (オーダー)]]と混同する恐れがない限りは、「フランクフルト」と短縮される。また、Frankfurt/Main あるいは Frankfurt a. M. 表記方法もしばしば見られ、鉄道関係では Frankfurt (Main) という表記も残っている。さらに Ffm や FFM といった略号も用いられる。
|市外局番 = 069、06109

|ナンバープレート = F
== 地理 ==
|ISOコード =
[[File:BergerWarte.jpg|right|140px|thumb|フランクフルト市内の最高地点に立つベルガー・ヴァルテ]]
|公式ウェブサイト =
=== 位置 ===
|備考 =
フランクフルト・アム・マイン市は、南西ドイツの[[タウヌス山地]]南東麓マイン川下流の両岸に位置し、ドイツで最も重要な経済圏を形成している。市域の約 1/3 がフランクフルト緑地帯景観保護地域に指定されている。これには、ドイツ最大の都市林であるフランクフルター・シュタットヴァルト(フランクフルトの市の森)が含まれる。市域は東西 23.4 km、南北 23.3 km の広がりを持つ。

自然構造物で最も高い地点は、[[オッフェンバッハ=ゼックバッハ|ゼックバッハ]]市区ベルガー・リュッケンのベルガー・ヴァルテ(直訳すると「山の監視所」)のある位置で、[[海抜]] 212.6 m である。一方最低地点は、[[オッフェンバッハ=ジントリンゲン|ジントリンゲン]]市区のマイン川の河原で、海抜 88 m である。本市は、[[バーゼル]]からライン=マイン地域にいたる[[ライン地溝帯|オーバーライン地溝]]の北端にあたる。

現在の市域の地理上の重心、すなわち地理的中心点は、ボッケンハイム区のフランクフルト西駅付近で、歴史的市街地の外側にある<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/detail.php?id=3024 "Frankfurt am Main: Stadtvermessungsamt"](フランクフルト市測量局、2013年3月2日 閲覧)</ref>。

=== 隣接する郡と市町村 ===
フランクフルトは、西は[[マイン=タウヌス郡]]([[ハッタースハイム・アム・マイン]]、[[クリフテル]]、[[ホーフハイム・アム・タウヌス]]、[[ケルクハイム (タウヌス)]]、[[リーダーバッハ・アム・タウヌス]]、[[ズルツバッハ (タウヌス)]]、[[シュヴァルバッハ・アム・タウスヌ]]、[[エシュボルン]])、北西は[[ホーホタウヌス郡]]([[シュタインバッハ (タウヌス)]]、[[オーバーウルゼル (タウヌス)]]、[[バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ]])、北は[[ヴェッテラウ郡]]([[カルベン (ドイツ)|カルベン]]、[[バート・フィルベル]])、北東は[[マイン=キンツィヒ郡]]([[ニーダードルフェルデン]]、[[マインタール]])、南東は[[オッフェンバッハ・アム・マイン]]、南は[[オッフェンバッハ郡]]([[ノイ=イーゼンブルク]])、南西は[[グロース=ゲーラウ郡]]([[メルフェルデン=ヴァルドルフ]]、[[リュッセルスハイム]]、[[ラウンハイム]]、[[ケルスターバッハ]])と境を接している。

=== 地質学 ===
フランクフルトの市域は、大部分がウンターマイネベーネ(マイン川下流域盆地)西部に属す。市の東部はハーナウ=ゼーリゲンシュタット盆地、最北部はヴェッテラウである<ref>[http://atlas.umwelt.hessen.de/servlet/Frame/atlas/geologie/geo/struktur_txt.htm "Umweltstlas Hessen"](2013年3月2日 閲覧)</ref>。地質学的には、本市の市域内には[[鮮新世]]後期から[[更新世]]に形成された[[マイン川]]と[[ニッダ川]]の4つの[[段丘]]が見られる。最も高い段丘は、タウヌス山地の岩石で構成されており、市内ではベルガー・リュッケンでのみ見られる。高さ 170 m から 120 m の上の段丘には、市北部から北東部の市区が存在している。ここから北西はニッダ川へ、南はボルンハイマー・ハングやレーダーベルク付近を急斜面で下る。ザクセンハウゼン南のミュールベルクやザクセンホイザー・ベルクもこの段丘にあたる。中央の段丘は 100 m から 115 m の高さにある。これは、市域内ではたとえばケルスターバッハ川の川岸や、[[フランクフルト=ヘーヒスト|ヘーヒスト]]旧市街の断崖状の川岸がこれにあたる。高さ 95 m から 90 m の下の段丘は、[[完新世]]になって形成された。これは、マイン川の両岸に沿っている。ここには、街の歴史の出発点となったドームヒューゲル(聖堂の丘)やカルメリッターヒューゲル(カルメル会の丘)がある。ボッケンハイム区(バザルト通り)やシュタットヴァルトといった市内の限られた場所に、[[中新世]]のフォーゲルスベルク[[玄武岩]]でできた下の地層を見ることができる。この層の厚さは 14 m 程度である。

=== 気候 ===
最も古い気温の測定値は1695年12月のもので、アヒレス・アウグストゥス・フォン・レルスナーの年代記に記録されている。1826年以後は、異なる測候所での継続的な測定値が存在している<ref>[http://www.stadtgeschichte-ffm.de/aktuelles/newsletter_archiv/newsletter_05/newsletter_05_6.html "Institut fur Stadtgeschichte", Aktuelles, Newsletter 5](2013年3月2日 閲覧)</ref>。現在フランクフルトには、[[ドイツ気象庁]]の測候所が多くある。これには、[[フランクフルト国際空港]]の測候所も含まれており、その測定記録は1949年にまで遡る。

フランクフルトおよびライン=マイン地域は、ドイツで最も温暖な気候に属するオーバーライン地溝の北端に位置する。年間平均気温は 9.7 ℃(1961年から1990年の長期平均値)で、ドイツの他の大都市([[ベルリン]] 8.9 ℃、[[ハンブルク]] 9.0 ℃、[[ミュンヘン]] 7.6℃)よりも高い値である。

このためフランクフルトの気候は総じて穏やかである。11月から1月までの時期には平均1から2時間しか晴天にならない。冬の時期における1日の最高気温の平均値は、1月で約 3.8 ℃、夜間の最低気温は、平均 -1.1 ℃(1971年から2000年の統計値)である。雪は1月に平均7日間降る。積雪が 10 cm を超えることは滅多になく、ほとんどはすぐに消える。しかし市の北西部のタウヌス山地だけはしばしば雪が積もる。

夏の最高気温は 25 ℃(30 ℃を超える日は平均年間10日である)と暖かい。にわか雨や突然の豪雨でやや変わりやすいものの、毎日7時間から8時間の日照が得られる時期である。夏は、特に市内中心部では蒸し暑くなる。

最も気温が高い月は7月から8月で平均気温は 17.1 ℃から 19.4 ℃、最も寒いのは12月から2月で平均気温は 1.6 ℃から 2.7 ℃である。観測史上最低気温は1929年1月の -21.6 ℃、最高気温は 2003年8月の 39.2 ℃であった。

1971年から2000年までの平均気温は 0.4 ℃高い 10.1℃、年間降水量は平均 611 mm であった。市内中心部では、環境の違いにより気温はフルクハーフェン区(空港付近)よりも約 0.6 ℃高いが、降水量はタウヌス山地の陰になるため周辺よりも少ない。

風向きは主に西風である。1971年から2000年の統計で最も降水量が多いのは 7月で 65 mm、最も少ないのは 2月で 37 mm であった<ref>[http://www.klimadiagramme.de/Deutschland/frankfurt2.html "Das Klima in Frankfurt (Main)"](2013年3月2日 閲覧)</ref>。

{{Weather box
|location = フランクフルト
|metric first = Y
|single line = Y
|Jan high C = 4.0
|Feb high C = 5.6
|Mar high C = 10.4
|Apr high C = 14.5
|May high C = 19.5
|Jun high C = 22.3
|Jul high C = 24.8
|Aug high C = 24.8
|Sep high C = 20.1
|Oct high C = 14.0
|Nov high C = 7.7
|Dec high C = 5.0
|year high C = 14.4
|Jan low C = -1.3
|Feb low C = -1.2
|Mar low C = 1.9
|Apr low C = 4.1
|May low C = 8.4
|Jun low C = 11.7
|Jul low C = 13.7
|Aug low C = 13.4
|Sep low C = 10.1
|Oct low C = 6.0
|Nov low C = 2.1
|Dec low C = 0.0
|year low C = 5.8
|Jan precipitation mm = 42.5
|Feb precipitation mm = 37.1
|Mar precipitation mm = 47.6
|Apr precipitation mm = 42.8
|May precipitation mm = 60.2
|Jun precipitation mm = 60.6
|Jul precipitation mm = 64.9
|Aug precipitation mm = 52.9
|Sep precipitation mm = 50.0
|Oct precipitation mm = 54.6
|Nov precipitation mm = 51.8
|Dec precipitation mm = 55.7
|year precipitation mm = 520.7
|Jan rain days = 9.8
|Feb rain days = 7.1
|Mar rain days = 9.3
|Apr rain days = 8.5
|May rain days = 9.8
|Jun rain days = 10.3
|Jul rain days = 9.3
|Aug rain days = 7.8
|Sep rain days = 8.1
|Oct rain days = 9.3
|Nov rain days = 9.7
|Dec rain days = 9.9
|year rain days = 108.9
|source 1 = 平均気温 – ドイツ気象庁 (DWD) <ref>[http://worldweather.wmo.int/016/c00057.htm "World Weather Information Service - Frankfurt"](2013年3月2日 閲覧)</ref>
}}
}}


=== 市の構成 ===
'''フランクフルト・アム・マイン'''(Frankfurt am Main)、通称'''フランクフルト'''は、[[ヘッセン州]]の最大都市かつ[[ドイツ]][[w:List of cities in Germany with more than 100,000 inhabitants|第5]]の都市であり、2011年時点で人口は695,624人<ref name="city_pop">Amt für Statistik, Frankfurt am Main, ''[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/33_Einwohner_3Quartal2011.pdf Einwohnerstand und Einwohnerbewegung in Frankfurt am Main &ndash; Drittes Quartal 2011]''</ref>である。2010年時点における[[w:Largest urban areas of the European Union|都市的地域]]の人口は推計で2,300,000人<ref name="urban_area_pop">{{en icon}} {{cite web| url=http://www.demographia.com/db-worldua.pdf| title=World Urban Areas| first=Wendell Cox Consultancy (Demographia)| accessdate=2007-09-20|format=PDF}}</ref>である。人口5,600,000人<ref>[[Organization for Economic Cooperation and Development]], ''[http://books.google.com/books?id=kBsfY-Pe2Q4C Competitive Cities in the Global Economy]'', OECD Territorial Reviews, (OECD Publishing, 2006), Table 1.1</ref>を有する[[w:Frankfurt Rhine-Main|フランクフルト・ライン・マイン大都市圏]]の中核都市及び[[w:Metropolitan regions in Germany|ドイツ第2の大都市圏]]である。国土地理院によれば、[[欧州連合の拡大|2007年における欧州連合の拡大]]以降、欧州連合の地理的な中心点はフランクフルトの東45km地点にある。
フランクフルト・アム・マイン市は、46のシュタットタイル(市区)に分割されるが、市区の番号は 47 まである(23は技術的な理由から欠番となっているのだが、プラウンハイム区に充てられることもある)。これらはさらに 121 のシュタットベツィルク(市街区)、448のヴァールベツィルク(選挙区)、6,130のブロックで構成されている<ref> Dr. Michael Wolfsteiner: [http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/gliederung_des_frankfurter_stadtgebiets_fsb_1_2008.pdf "Die Gliederung des Frankfurter Stadtgebiets – von der Adresse bis zur Stadtgrenze"] (PDF, 527 kB)、(2013年3月2日 閲覧)</ref>。


行政上、市は 16のオルツベツィルク(管区)に分けられ、それぞれに代表者としての地区長を有する地区議会がある。1970年代に合併した旧町村は、それぞれ合併前の領域がそれぞれの管区を形成している。
== 概要 ==
フランクフルト経済の主たる3本柱は、金融、交通及び見本市である。フランクフルトは[[金融]]や[[商業]]、[[文化]]、[[交通]]、[[教育]]、[[観光]]の国際的な中心地である。したがって、2010年の[[世界都市|GaWC]]ではアルファ、2011年の[[世界都市|世界の都市総合力ランキング]]では第10位、2012年の[[世界都市|世界の都市競争力ランキング]]では第11位、2012年の[[金融センター|国際金融センター発展指数]]では第7位の格付けを受けた。2011年、人事コンサルティング会社の[[マーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティング]]は毎年実施している世界中の都市の[[クオリティ・オブ・ライフ]]の調査において、フランクフルトを第7位に格付けした。<ref>{{cite web |url=http://www.mercer.com/referencecontent.htm?idContent=1173105#Top_50_cities:_Quality_of_living |title=Mercer's Survey 2011 |accessdate=29 November 2011 |publisher=[[Mercer (consulting firm)|Mercer]]}}</ref> [[エコノミスト]]の生活費調査においては、フランクフルトはドイツで最も生活費が掛かり、世界では第10位との評価を受けた。<ref>{{cite web |url=http://business.blogs.cnn.com/2012/02/15/worlds-most-expensive-place-to-live/?hpt=ieu_t4 |title=World's most expensive place to live is... |publisher=The Economist |accessdate=2012-12-9}}</ref>


人口が最も少ない市区はフルクハーフェン区、面積が一番狭い市区はアルトシュタット区である。最も大きな市区は面積、人口ともにザクセンハウゼン区であり、人口で見るとこれにノルトエント区、ボッケンハイム区が続く。
=== 金融 ===
{| class="wikitable" style="text-align: right;"
フランクフルトはドイツ[[金融]]でなおかつ[[大陸ヨーロッパ]]最大の金融センターである。[[欧州中央銀行]]や[[ドイツ連邦銀行]]、[[フランクフルト証券取引所]]、[[w:Messe Frankfurt|フランクフルト見本市]]、複数の大規模な商業銀行の所在地であり、[[ドイツ銀行]]や[[コメルツ銀行]]、[[w:DZ Bank|DZ Bank]]がこれに該当する。
|+ 2010年12月31日現在の46市区の人口
|- valign="top"
! No.<br /> !! 市区<br /> !! 管区 !! 面積 (km²)<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/JB2009_Kap07x.pdf ''Statistisches Jahrbuch Frankfurt am Main 2009''] (PDF-Datei; 359&nbsp;kB)(2013年3月2日 閲覧)</ref><br /> !! 人口(人)<ref name="Statistisches Jahrbuch 2011">[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/J2011K02x.pdf "Bevölkerung, Statistisches Jahrbuch 2011"] (PDF-Datei; 730&nbsp;kB), Stadt Frankfurt am Main(2013年3月2日 閲覧)</ref><br /> !! 外国人数<ref name="Statistisches Jahrbuch 2011" /><br /> !! 外国人比率 (%)<ref name="Statistisches Jahrbuch 2011" /><br />
|-
| align="center" | {{0}}1 || align="left" | アルトシュタット || align="left" | 01 インネンシュタット I || 0.51 || 3,569 || 1,201 || 33.7
|-
| align="center" | {{0}}2 || align="left" | インネンシュタット || align="left" | 01 インネンシュタット I || 1.52 || 6,558 || 2,433 || 37.1
|-
| align="center" | {{0}}3 || align="left" | バーンホーフスフィールテル || align="left" | 01 インネンシュタット I || 0.53 || 2,187 || 810 || 37.0
|-
| align="center" | {{0}}4 || align="left" | ヴェストエント南 || align="left" | 02 インネンシュタット II || 2.47 || 17,544 || 3,369 || 19.2
|-
| align="center" | {{0}}5 || align="left" | ヴェストエント北 || align="left" | 02 インネンシュタット II || 1.67 || 9,120 || 2,217 || 24.3
|-
| align="center" | {{0}}6 || align="left" | ノルトエント西 || align="left" | 03 インネンシュタット III || 3.07 || 29,086 || 5,048 || 17.4
|-
| align="center" | {{0}}7 || align="left" | ノルトエント東 || align="left" | 03 インネンシュタット III <ref group="表注"> 一部 インネンシュタットIV</ref> || 1.69 || 26,733 || 5,439 || 20.3
|-
| align="center" | {{0}}8 || align="left" | オストエント || align="left" | 04 インネンシュタット IV || 5.40 || 27,271 || 7,229 || 26.5
|-
| align="center" | {{0}}9 || align="left" | ボルンハイム || align="left" | 04 インネンシュタット IV || 2.66|| 27,613 || 6,279 || 22.7
|-
| align="center" | 10 || align="left" | グートロイトフィールテル || align="left" | 01 インネンシュタット I || 2.20 || 5,810 || 1,888 || 32.5
|-
| align="center" | 11 || align="left" | ガルス || align="left" | 01 インネンシュタット I || 4.22 || 27,358 || 11,215 || 41.0
|-
| align="center" | 12 || align="left" | ボッケンハイム || align="left" | 02 インネンシュタット II <ref group="表注"> 一部 ミッテ=ヴェスト </ref> || 8.04 || 35,529 || 9,091 || 25.6
|-
| align="center" | 13 || align="left" | ザクセンハウゼン北 || align="left" | 05 ジュート || 4.24 || 30,901 || 6,632 || 21.5
|-
| align="center" | 14 || align="left" | ザクセンハウゼン南 || align="left" | 05 ジュート || 34.91 || 26,680 || 4,935 || 18.5
|-
| align="center" | 15 || align="left" | フルクハーフェン || align="left" | 05 ジュート || 20.00 || colspan="3" align="center" | 人口はザクセンハウゼン南に合算されている
|-
| align="center" | 16 || align="left" | オーバーラート || align="left" | 05 ジュート || 2.74 || 13,040 || 3,264 || 25.0
|-
| align="center" | 17 || align="left" | ニーダーラート || align="left" | 05 ジュート || 2.93 || 23,310 || 6,831 || 29.3
|-
| align="center" | 18 || align="left" | シュヴァンハイム || align="left" | 06 ヴェスト <ref group="表注"> 一部 ジュート</ref> || 17.73 || 20,303 || 3,596 || 17.7
|-
| align="center" | 19 || align="left" | グリースハイム || align="left" | 06 ヴェスト || 4.90 || 22,944 || 8,163 || 35.6
|-
| align="center" | 20 || align="left" | レーデルハイム || align="left" | 07 ミッテ=ヴェスト || 5.15 || 17,850 || 4,767 || 26.7
|-
| align="center" | 21 || align="left" | ハウゼン || align="left" | 07 ミッテ=ヴェスト || 1.26 || 7,311 || 2,172 || 29.7
|-
| align="center" | 22<br /><small>(23)</small> || align="left" | プラウンハイム || align="left" | 07 ミッテ=ヴェスト <ref group="表注"> 一部 ノルト=ヴェスト</ref> || 4.55 || 15,845 || 3,269 || 20.6
|-
| align="center" | 24 || align="left" | ヘデルンハイム || align="left" | 08 ノルト=ヴェスト || 2.49 || 16,480 || 3,155 || 19.1
|-
| align="center" | 25 || align="left" | ニーダーウルゼル || align="left" | 08 ノルト=ヴェスト || 7.22 || 16,352 || 3,611 || 22.1
|-
| align="center" | 26 || align="left" | ギンハイム || align="left" | 09 ミッテ=ノルト || 2.73 || 16,636 || 4,048 || 24.3
|-
| align="center" | 27 || align="left" | ドルンブッシュ || align="left" | 09 ミッテ=ノルト || 2.38 || 18,677 || 3,535 || 18.9
|-
| align="center" | 28 || align="left" | エッシャースハイム || align="left" | 09 ミッテ=ノルト || 3.34 || 15,009 || 2,703 || 18.0
|-
| align="center" | 29 || align="left" | エッケンハイム || align="left" | 10 ノルト=オスト || 2.23 || 14,371 || 3,686 || 25.6
|-
| align="center" | 30 || align="left" | プロインゲスハイム || align="left" | 10 ノルト=オスト || 3.74 || 14,022 || 3,563 || 25.4
|-
| align="center" | 31 || align="left" | ボナーメス || align="left" | 10 ノルト=オスト || 1.24 || 6,394 || 1,339 || 20.9
|-
| align="center" | 32 || align="left" | ベルカースハイム || align="left" | 10 ノルト=オスト || 3.18 || 3,435 || 586 || 17.1
|-
| align="center" | 33 || align="left" | リーダーヴァルト || align="left" | 11 オスト || 1.04 || 4,935 || 1,137 || 23.0
|-
| align="center" | 34 || align="left" | ゼックバッハ || align="left" | 11 オスト || 8.04 || 10,280 || 2,083 || 20.3
|-
| align="center" | 35 || align="left" | フェッヒェンハイム || align="left" | 11 オスト || 7.18 || 16,030 || 5,629 || 35.1
|-
| align="center" | 36 || align="left" | [[フランクフルト=ヘーヒスト| ヘーヒスト]] || align="left" | 06 ヴェスト || 4.73 || 14,061 || 5,257 || 37.4
|-
| align="center" | 37 || align="left" | ニート || align="left" | 06 ヴェスト || 3.82 || 18,079 || 5,354 || 29.6
|-
| align="center" | 38 || align="left" | ジントリンゲン || align="left" | 06 ヴェスト || 3.98 || 9,009 || 2,136 || 23.7
|-
| align="center" | 39 || align="left" | ツァイルスハイム || align="left" | 06 ヴェスト || 5.47 || 12,138 || 2,677 || 22.1
|-
| align="center" | 40 || align="left" | ウンターリーダーバッハ || align="left" | 06 ヴェスト || 5.85 || 14,536 || 3,585 || 24.7
|-
| align="center" | 41 || align="left" | ゾッセンハイム || align="left" | 06 ヴェスト || 5.97 || 15,767 || 4,273 || 27.1
|-
| align="center" | 42 || align="left" | ニーダー=エルレンバッハ || align="left" | 13 ニーダー=エルレンバッハ || 8.34 || 4,637 || 526 || 11.3
|-
| align="center" | 43 || align="left" | カルバッハ=リートベルク || align="left" | 12 カルバッハ=リートベルク || 6.90 || 9,463 || 1,510 || 16.0
|-
| align="center" | 44 || align="left" | ハルハイム || align="left" | 14 ハルハイム || 5.02 || 4,363 || 435 || 10.0
|-
| align="center" | 45 || align="left" | ニーダー=エシュバッハ || align="left" | 15 ニーダー=エッシュバッハ || 6.35 || 11,516 || 1,992 || 17.3
|-
| align="center" | 46 || align="left" | ベルゲン=エンクハイム || align="left" | 16 ベルゲン=エンクハイム || 12.54 || 18,098 || 2,794 || 15.4
|-
| align="center" | 47 || align="left" | フランクフルター・ベルク || align="left" | 10 ノルト=オスト || 2.16 || 7,341 || 1,732 || 23.6
|-
| align="center" colspan="3" | '''フランクフルト・アム・マイン市''' || '''248.33''' || '''688,191''' || '''167,194''' || '''24.3'''
|-
| align="center" colspan="7" |[[File:Frankfurt Subdivisions.svg|center|600px|thumb|フランクフルトの市区と管区]]
|}
* '''表注'''
{{reflist|group="表注"}}


=== 市町村合併 ===
フランクフルトは何世紀にもわたってドイツ金融の中心であり、多数の銀行や証券会社が所在する。[[フランクフルト証券取引所]]の取引高は圧倒的にドイツ最大であり、世界有数の重要性を有する。[[ユーロ]]を共通通貨として採用し、唯一の[[法定通貨]]とする[[欧州連合加盟国|欧州連合加盟]]17箇国の[[ユーロ圏]]の金融政策を定める[[欧州中央銀行]]及び[[ドイツ連邦銀行]]の本店はフランクフルトに所在する。2010年、国内銀行63行及び国際銀行152行がフランクフルトに営業所を登録し、特に[[ドイツ銀行]]や[[コメルツ銀行]]のような主要国内銀行の本店や国際銀行の代理店41店舗が所在していた。<ref name="Bundesbank: Bankenplatz Frankfurt">[http://www.bundesbank.de/download/hv/frankfurt/bankenplatz_frankfurt.pdf Bundesbank: Bankenplatz Frankfurt]</ref>
1866年までフランクフルト・アム・マインの市域は、現在の市区でアルトシュタット、インネンシュタット、バーンホーフスフィールテル、グートロイトフィールテル、ガルス、ヴェストエント、ノルトエント、オストエント、リーダーヴァルトおよびザクセンハウゼン(市の森を含む)の「シュタットベツィルク」(都市管区)と、ボルンハイム、ハウゼン、ニーダーウルゼル([[ヘッセン大公]]と折半)、ボナーメス、ニーダー=エルレンバッハ、ドルテルヴァイル、オーバーラート、ニーダーラートの 8つの村からなる「ラントベツィルク」(周辺管区)で構成されていた。[[プロイセン王国]]による[[自由都市フランクフルト]]併合後は、フラクフルト都市クライスが形成された。1877年から都市クライスの町村が、1910年からは1855年に形成されたフランクフルト郡の町村も、徐々にフランクフルト市に合併されていった。最後の合併が完了したのは1977年であった。かつてフランクフルトに属していた8つの村のうち、ドルテルヴァイルだけは、市域から外れた。


== 街の景観 ==
近年、フランクフルトの金融センターとしての重要性が高まっている。この兆候として、欧州における保険の監督当局であるEIOPA (European Insurance and Occupational Pensions Authority) や、EUにおける金融市場のシステム上のリスクを早期発見、予防及び管理する欧州システミック・リスク・カウンシルの設立を挙げられる。加えて、単一の欧州監督機関である欧州バンキング・ユニオンがユーロ圏における6000行以上の銀行を監督することを目的として、フランクフルト所在の欧州中央銀行に2013年以降運営される。
[[File:Frankfurt Am Main-Stadtbefestigung-Projektion Gegenwart.jpg|right|200px|thumb|フランクフルト旧市街地図。マイン川北側の緑色のラインがシュタウフェンマウアー。黄色と黒の線が堡塁跡でその内側が旧市街。堡塁の線沿いに緑色で塗られている箇所がヴァルザーヴィトゥートによって公園として保護されている。]]
=== アルトシュタットとインネンシュタット ===
他のドイツの大都市同様フランクフルトの街の様子は[[第二次世界大戦]]で大きく様変わりした。それは、爆撃による甚大な被害とそれに続く近代的な復興によるもので、街は旧市街の中心に典型的な建物ではなく、自動車優先の道路網や近代建築で構成されるものとなった。


中世盛期以後、戦禍や大火の被害を受けなかったドイツ最大の稠密なかつての旧市街は、もうわずかにしか残されていない。約 3,000棟の木組み建築の中で無傷のまま遺されているのは、ファール門近くのヴェルトハイム邸の1棟だけである。19世紀半ばから[[第一次世界大戦]]までの間にはすでに新しい貫通道路の建設(ブラウバッハ通り)や、区画全体の解体(ユーデンガッセ)が行われていた。歴史的な旧市街の遺構は、ドイツで最も有名な都市広場の一つであるレーマーベルク付近でしか見ることはできない。
=== 交通 ===


アルトシュタット区(直訳すると「旧市街」区)の区境に沿って 12世紀に建造された市壁、いわゆるシュタウフェンマウアー([[ホーエンシュタウフェン朝|シュタウフェン時代]]の壁)があった。この壁は、現在のノイエ・マインツェー通り - カイザー通り - ロスマルクト - ツァイル - クルト=シューマッヒャー通りにおおむね沿って建造されていた。アルトシュタットには、フランクフルト大聖堂や有名な[[パウロ教会|パウルス教会]]がある。17世紀のフランクフルトの姿を詳細に描いた[[マテウス・メーリアン]]の版画がある。
フランクフルトは[[w:Transport in Germany|交通]]の中心で、[[フランクフルト国際空港]]は[[w:World's busiest airports by passenger traffic|世界有数の航空旅客数]]を有し、[[フランクフルト中央駅]]は欧州有数の大規模なターミナル駅であり、[[w:Frankfurter Kreuz|Frankfurter Kreuz]]は[[アウトバーン]]の[[インターチェンジ]]として欧州有数の交通量を有する。さらに、フランクフルト所在の[[w:DE-CIX|DE-CIX]]は世界最大の[[インターネットエクスチェンジ]]である。


現在のインネンシュタット区(直訳すると「内市街」区)は、1333年からノイシュタット(直訳すると「新市街」)として拡張された旧市街の一部で、19世紀に大規模な改造を受けた。17世紀から旧市街を囲んでいた大きな堡塁を持つ[[バロック建築|バロック様式]]の都市防衛施設は取り壊され、堡塁の鋸歯型の遺構は旧市街を取り囲む環状の公園施設に造り替えられた。フィッシャーフェルトが建設された。都市プランナーのゲオルク・ヘスは新しい建築物が見えるような規則を設けた。彼は、施主に対して[[古典主義建築|古典主義様式]]を採用するよう要求したのである。フランクフルト古典主義建築の例として、1820年から1825年に建設され1944年に一部が破壊された旧市立図書館が挙げられる。この建物は2005年に「文学館」として元の姿に復元された。1827年にヴァルザーヴィトゥートによって鋸歯状施設内を巡る遊歩道には建造物を建設することが禁止された。この規則は、市が認可したいくつかの例外([[旧オペラ座|アルテ・オーパー]]、シャウシュピールハウス、[[ヒルトンホテル]]など)を除いて、現在も遵守されている。
フランクフルトの優れた交通インフラである[[フランクフルト国際空港]]は[[w:World's busiest airports by passenger traffic|欧州第3位の航空旅客数]]を有し、ドイツの[[フラッグ・キャリア]]かつ欧州最大の航空会社である[[ルフトハンザドイツ航空]]がメインの[[ハブ空港]]として使用している。同空港は欧州で最も交通量の多い東西方向の[[アウトバーン 3]]及び南北方向の[[w:Bundesautobahn 5|アウトバーン 5]]の2本の[[アウトバーン]]の[[インターチェンジ]]である[[w:Frankfurter Kreuz|Frankfurter Kreuz]]に程近い。加えて、フランクフルトは高速鉄道[[ICE]]の停車駅として[[フランクフルト中央駅]]、[[w:Frankfurt South station|フランクフルト南駅]]及び[[フランクフルト空港駅]]の3駅を有する。フランクフルトはドイツの国営鉄道会社である[[ドイツ鉄道]]が毎日国内外342本の列車を運行する最繁忙な分岐合流点である。<ref>[http://www.bahnhof.de/site/bahnhoefe/de/sued/frankfurt__hbf/daten__und__fakten/daten__und__fakten__.html Bahnhof.de Frankfurt Hbf]. Retrieved 27 September 2011.</ref>


19世紀末にハウプトヴァーヒェは市の中心地に発展された。ツァイルは中央オフィス街となった。1678年から1681年にツァイルの入口に建設されたバロック様式のカタリーナ教会は、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の一家と親密な関係にあった。現在この教会はフランクフルト最大の[[プロテスタント]]教会である。
=== 見本市 ===
[[File:Frankfurt Am Main-PalaisQuartier-Ansicht vom Maintower-20110328.jpg|right|200px|thumb|パレー・クヴァルティーア・プロジェクトで再開発されたツァイル]]
21世紀になると、フランクフルトはツァイルをショッピング街にする大規模な再開発を行った。エッシェンハイム門とツァイルとの間にあった1956年に建設されたフラクフルトで最初期の高層ビルであるフェルンメルデホーホハウスを解体し、その跡地および周辺を再開発するというものである。2009年2月にテレコムの跡地にショッピングセンター MyZeil がオープンした。また、オフィスとホテルが入った2棟の高層ビルが建設された。さらに、1737年から1741年に建設され、1944年に破壊されたトゥルン・ウント・タキス宮殿が元の姿とほぼ同様に復元された。これらパレー・クヴァルティーアと名付けられた一連のプロジェクトは、2010年半ばに完了した。そのすぐ北側の場所では、フランクフルター・ルントシャウの1953年に建設された社屋であるルントシャウ=ハウスが解体され、住宅およびオフィス用地とされた。2.25ヘクタールの広さのこのエリアは、[[ラボバンク|ラボ・リアル・エステート・グループ]]傘下のオランダのデベロッパー MAB によって開発された<ref>[http://www.mab.com/en/projects/DEFrankfurtPalaisquartier/Pages/default.aspx "MAB Development: PalaisQuartier"](2013年3月3日 閲覧)</ref>。


より新しい再開発としては、2010年の大聖堂とレーマーベルクとの間のフランクフルト市技術局の解体がある。ドーム=レーマー=プロジェクトの一環で、ここには旧市街の歴史的な背景を踏まえた約 40棟の建物が建設され、少なくともそのうちの 8棟は木組み建築で元の姿に忠実に復元されることとなっている。
[[w:Messe Frankfurt|フランクフルト見本市]]は総面積578,000km2で世界第3位の規模を有する[[見本市]]である。屋内展示スペースとしては総面積321,754km2の10ホール、屋外展示スペースとしては96,078km2以上の敷地が利用可能である。フランクフルトでは毎年大規模な見本市が多数開催され、世界最大のモーターショーである[[フランクフルトモーターショー]]や、世界最大の書籍見本市である[[フランクフルト・ブックフェア]]、世界最大の音楽見本市である[[w:Musikmesse|Musikmesse]]は特筆すべきである。


=== 教育・文化 ===
=== 泡沫会社設立時代地区 ===
1830年頃から、堡塁施設の外側にヴェストエント、ノルトエント、オストエント(直訳するとそれぞれ「西側」「北側」「東側」)といった市区が建設された。[[フランクフルト中央駅|中央駅]]の建設後、堡塁施設のすぐ西側に接してそれ以前にあった3つの駅(ヴェストバーンヘーフェ=西駅と総称されていた)の敷地跡に、1890年代にバーンホーフスフィールテルが建設された。


先に挙げた3つの市区とマイン川対岸に位置するザクセンハウゼンが住宅地として大きく発展した。フランクフルト市民は新鮮な空気を欲したのであった。建設はまず、エッシャースハイマー・ラントシュトラーセやボッケンハイマー・ラントシュトラーセといった郊外へ通じる道路沿いから行われた。1866年までの開発は、無計画に行われた。堡塁施設付近の曲がりくねった道路からその様子が現在も見て取れる。プロイセン時代になって初めて製図板の上で格子状の道路網が設計されるようになった。この時代に典型的な多角形の広場が建設され、視界を広く取るため教会の建物などが壊された。
フランクフルトは多数の[[w:Education in Germany|教育]]及び[[w:Culture of Germany|文化]]機関を有し、[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン]](フランクフルト大学)や[[w:Frankfurt University of Applied Sciences|フランクフルト応用科学専門大学]]、[[シュテーデル美術館]]、[[w:Naturmuseum Senckenberg|ゼンケンベルク自然博物館]]、[[w:Goethe House|ゲーテの家]]がこれに該当し、主たる[[植物園]]としては、[[w:Palmengarten|パルメンガルテン (椰子庭園) ]]及び[[w:Botanischer Garten der Johann Wolfgang Goethe-Universität Frankfurt am Main|フランクフルト大学植物園]]の2園を挙げられる。


建物は通常、5階から6階建ての密集したブロックの形式で建設され、それ以前の古典主義建築はその大部分が破壊され、建て替えられた。しかし地域的な特徴として、1880年になっても多くの場所で控えめな後期古典主義建築が優勢であり、[[ヴィースバーデン]]、[[ライプツィヒ]]、[[ベルリン]]といった同じ頃に発展した都市とは異なりそれに続いて多層階の住居で発展した過度に「ヴィルヘルム風」趣味で造られた建物は流行しなかった。
フランクフルト独自の特徴は、[[w:List of tallest buildings in Frankfurt|フランクフルトのスカイライン]]を形成する市中心部における数多の[[超高層建築物]]である。このようなスカイラインを形成する都市は欧州連合においては数都市しかなく、[[ロンドン]]や[[ミラノ]]、[[モスクワ]]、[[ワルシャワ]]、[[マドリード]]、[[ロッテルダム]]、[[パリ]]の外部領域における[[ラ・デファンス]]がこれに該当する。この都市のスカイラインを要因として、ドイツ人はフランクフルト・アム・マインのことを「マインハッタン」 ([[マイン川|マイン]]河畔の[[マンハッタン]]) と呼称することがある。

1877年と1895年に合併したボルンハイムとボッケンハイムはこの都市景観の中に組み込まれ、新しい道路が造られ、フランクフルト市電がつながったが、その特徴は今日に至るまで遺されている。20世紀の初めに建築責任者フランツ・アディッケスの下で、現在も通行量の多いフランクフルト・アレーリングが造られた。この道路は泡沫会社会社乱立時代(1870年代)の街を多大に結んでいる。この道路はおおむねフランクフルトの古い国境沿いを通っている。

この時代に典型的なのが、建物の質や機能の東西格差であった。19世紀から20世紀への転換期に、バーンホーフスフィールテルは贅沢なオフィス街、ヴェストエントは上品な富裕層の住宅地であったのに対して、ノルトエントからボルンハイムを経てオストエント一帯は中産階級や労働者たちの地域になっていた。こうした関係は第二次世界大戦以後逆転した。特に1960年代、70年代にオフィスを建設するためにバーンホーフスフィールテルやウェストエントの帝国時代の建物が取り壊され、建て替えられるようになってから、中心地は徐々に東に移動していった。とりわけノルトエントやボルンハイムは、「スツェーネフィールテル」(先端の地域)として[[ジェントリフィケーション]]にさらされている。オストラントでの[[欧州中央銀行]]新庁舎建設やガスル市区付近でのオイローパフィールテルやスカイライン・プラザの建設は泡沫会社乱立時代に開発された地区のさらなる発展を予見させるものである。

この街には、堡塁施設跡の他にも多くの庭園が造られた。ノルトエント東区には、たとえば、ヒムリッシェン・フリーデンスの中国風庭園を含むベトマン公園がある。ノルトエントには、ホルツハウゼン公園やギュンタースブルク公園がある。また、ヴェストエント北区の西部にはグリューネブルク公園がある。この公園内には[[ギリシア正教]]の教会や韓国風庭園がある。パルメンガルテン・フランクフルト(フランクフルト椰子園)は1871年に設立された国際的に評判の良い植物園である。約 2500 種類の植物が栽培されており、パパゲーノ音楽劇場やパルメン=エクスプレス公園鉄道などのアトラクションがある。そのすぐ隣には大学の植物園がある。これら3つの互いに隣り合った庭園は、フランクフルト中心街に近接した最大の緑地を形成している。オストエントのオスト公園は1907年に造られたフランクフルト発の市民公園で、隣接する工業地域の労働者たち住民の憩いの場となっている。

=== ヘーヒストと周辺市区 ===
20世紀の初めまで、何段階にもわたってインネンシュタットの北に位置する市区を合併していった。いくつかの市区は、すでに1866年までに自由都市フランクフルトの領土に属していたが、他はそれ以前にはフランクフルトと関わりのない地域も含まれていた。1914年頃にフランクフルトはドイツで最も面積が広い都市となった。[[エルンスト・マイ]]は、1920年代にアレーリングの外側に位置する新しい地区に広大なジードルンク(住宅地)を建設した。北部のプラウンハイム住宅地、レーマーシュタット住宅地、ヴェストハウゼン住宅地、東部のボルンハイマー・ハング住宅地、南部のヘレンホーフジードルングやハイマートジードルングがこれにあたる。

市域は1928年にさらに拡大した。[[フランクフルト=ヘーヒスト|ヘーヒスト・アム・マイン]]市の合併は、フランクフルト市を文化的に豊かにした。ヘーヒストの旧市街は現在も大変良好に保存されており、1972年からは保護文化財に指定されている。フランクフルト市で最も古い建物もここにある。ユスティヌス教会がそれである。最後の合併は1972年と1977年に市の北東部について行われた。これらの市区の一部は、現在も田舎風の特徴を残している(カルバッハ、ハルハイム、ニーダー=エシュバッハ、ニーダー=エルレンバッハ、さらに東部のベルゲン=エンクハイム)。
{{wide image|Hoechster Mainpanorama August 2007.jpg|800px|マイン川から見たヘーヒスト}}
=== 緑地帯 ===
1994年に制定されたフランクフルト緑地帯は、中心街を環状に取り巻く景観保護地域である。総面積 8,000 [[ヘクタール|ha]] で、フランクフルトの市域の約 1/3 を占める。自然景観を害するような建設は認められていない。緑地帯の一部は、広大な保護区で保養地の「レギオナルパーク・ラインマイン」に切れ目なくつながっている。

広さ 4,902 ha のフランクフルト・シュタットヴァルトも緑地帯に含まれる。この森は市街中心部にある森としてはドイツ最大級の森の一つであり、シュヴァンハイム区、ニーダーラート区、ザクセンハウゼン区、オーバーラート区の南部およびフルクハーフェン区北部に広がっている。

この他、シュヴァンハイマー・デューネ、ニッダタール、ニッダパーク、ロールベルク、フートパーク、エンクハイマー・リート、ゼックバッヒャー・リート、フェッヒェンハイマー・マインボーゲン、数多くの小庭園が緑地帯に含まれる。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[File:Karl der Grosse vor dem Historischen Museum Frankfurt.jpg|right|140px|thumb|フランクフルト歴史博物館前のカール大帝像]]
{{main|{{仮リンク|フランクフルト・アム・マインの歴史|en|History of Frankfurt am Main}}}}
フランクフルト・アム・マインは、[[794年]]2月22日に[[カール大帝]]が[[レーゲンスブルク]]の聖エンメラム修道院宛の文書に初めて記述されている。この文書にはラテン語で次のように書かれている: "… actum super fluvium Moin in loco nuncupante Franconofurd"、すなわち「マイン川の畔にフランクフルトと名付けられた村がある」ドームヒューゲルの集落は[[新石器時代]]から継続的に存続していることが証明されている。この村は、おそらく[[ローマ帝国|ローマ]]の軍事基地となり、[[メロヴィング朝]]時代に[[フランク王国]]の王宮所在地となった。[[843年]]にフランクフルトはしばしば[[東フランク王国]]の最も重要な王の居城であり、[[帝国会議 (神聖ローマ帝国)|帝国会議]]の開催地となった。フランクフルトは[[1220年]]に[[帝国自由都市]]となった。
[[ファイル:Nationalversammlung.jpg|thumb|left|[[フランクフルト国民議会]]]]
[[ローマ人]]により古代時代にはローマ軍の駐屯地であった。フランクフルトの地名は[[5世紀]]頃に[[フランク王国]]が、隣国のアレマン族との戦争の際に、マイン川を渡る地点として選んだ、浅瀬の場所を「Frank(フランク人)Furt(渡る場所)」と呼んだ事に由来する。


[[1356年]]の[[金印勅書]]は、フランクフルトを恒久的な[[ローマ王]]の選挙開催地に指定した。しかしそれ以前の[[1147年]]からすでにほとんどの王の選挙がこの街で行われている。[[1562年]]からは皇帝の[[戴冠]]も、[[1792年]]の最後の[[神聖ローマ皇帝]][[フランツ2世]]の戴冠に至るまで、フランクフルトで挙行されるようになった。
[[中世]]に入っては[[神聖ローマ帝国]]都市として発達を遂げ、やがて[[見本市]](メッセ)都市として発達していく。
[[8世紀]]末には、[[カール大帝]]の伝記を書いた[[アインハルト]]がこの町をフランコノフルトとよんでおり、カール大帝の治世には王国会議が数回ひらかれた。市の重要な教会である[[バルトロメウス大聖堂]]は9世紀の教会があった場所に[[13世紀]]に建設されたもので、[[1356年]]の[[金印勅書]]には、ここを神聖ローマ帝国皇帝選挙の地とさだめられ、[[1562年]]以降は[[戴冠式]]もおこなわれた。
[[1372年]]にフランクフルトは自由都市となり、[[1530年]]ごろには[[プロテスタント]]の拠点のひとつとなった。[[1806年]]の[[ライン同盟]]成立によってその支配下にはいったが、[[1815年]]には[[自由都市]]としての地位を回復した。[[1848年]]の[[1848年革命|3月革命]]の際には、最初の全ドイツ国会である[[フランクフルト国民議会]]が[[パウルス教会]]でおこなわれた。[[第二次世界大戦]]中には爆撃により大きな被害をうけたものの、[[1993年]]に[[欧州連合|EU]]の[[ヨーロッパ中央銀行]]の準備機関である欧州通貨機構(EMI=European Monetary Institute)の所在地に選ばれ、[[1998年]]には[[ヨーロッパ中央銀行]]が設置されるなど、現在ではドイツ経済の中心地となっている。


[[1806年]]、旧帝国の滅亡に伴い、フランクフルトは領主司教[[カール・テオドール・フォン・ダールベルク]]の支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよび[[アシャッフェンブルク]]とともに[[ライン同盟]]内で独立領邦を形成した。[[1810年]]にダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン公に割譲し、これと交換に[[ハーナウ]]と[[フルダ]]を得た。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から[[1813年]]までの短期間ではあるが[[フランクフルト大公国]]を創設した。
だが最も市民及びドイツ人がこの街を誇りに思うのは、この街が[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]を生んだという点においてである。哲学者[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]が後半生を過ごした街としても知られる。


[[ナポレオン]]体制の崩壊により、フランクフルトは1813年12月14日に戦勝連合国によってフリードリヒ・マクシミリアン・フォン・グリュンダーローデの支配下に置かれた。
ドイツ語圏への玄関口にある自由都市として、中世から商業を活発化してきたフランクフルトは、他の都市より多くのユダヤ人を招き、特に大きな[[ユダヤ人]]口をもつようになる。マイン川と大聖堂の近くにフランクフルト・ユダヤ人博物館があり、彼らの偉業をたたえている。近世までにはフランクフルトは、金融都市の性格を築いていった。フランス、イギリスへと家族を拡大したロスチャイルド家(独語では、[[ロスチャイルド家|ロートシルト家]])もこの町とゆかりが深い金融業を中心とした富豪である。この都市の富裕者の生活は、スイスの児童小説[[ハイジ]]でも、ハイジが奉公に行かされたゼーゼマン家の暮しぶりに表現されている。ナチス政権前のフランクフルト市長の[[:en:Ludwig Landmann|ルートヴィヒ・ラントマン]]もユダヤ系であった。20世紀前半の批判哲学・クリティカルセオリーの啓蒙者である[[テオドール・アドルノ|アドルノ]]を中心とした[[フランクフルト学派]]は、ナチの台頭まで、この町を新たな思想の中心地としていた。ナチ政権下でユダヤ人迫害と企業と金融業のドイツ人による独占がはじまると、裕福な暮しをしていた多くのユダヤ人はフランクフルトを去らなければならなかったが、その中には[[アンネ・フランク]]の家族もあった、現在、市内の地下鉄ドルンブッシュ駅周辺の彼女の生誕地に、アンネフランク記念館がある。
[[File:Nationalversammlung.jpg|left|200px|thumb|1848年のパウルス教会でのフランクフルト国民議会]]
[[ウィーン会議]]で[[バイエルン王国]]はフランクフルトの併合を目論んだが、[[1815年]]6月8日に会議はフランクフルトを[[ドイツ連邦]]内の自由都市とすることを決定した。これによりフランクフルトは[[ハンブルク]]、[[ブレーメン]]、[[リューベック]]と並ぶ 4つの自由都市の一つとなった。この伝統的な都市自由権は近代に至るまで存続した。ドイツ連邦の連邦議会はフランクフルトで開催された。[[1848年]]、ドイツで[[ドイツ革命 (1848年)|3月革命]]が起こった。招集された[[フランクフルト国民議会|国民議会]]はフランクフルトの[[パウロ教会|パウルス教会]]で開催された。


[[1866年]]の[[普墺戦争]]では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセンとの連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの街を併合し、これによりこの街の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。[[1868年]]にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。[[1871年]]、[[普仏戦争]]は[[フランクフルト講和条約]]をもって公式に終結した。
また20世紀後半の[[資本主義]]社会の大衆操作の社会の実像を鋭く分析した[[ホルクハイマー]]をはじめ[[フランクフルト大学]]の[[社会学者の一覧|社会学者]]の活動も知られる。ドイツが東西分断されていた当時には、この地は[[西ドイツ]]のほぼ中央に位置し、首都候補にもなったが、経済の中心をフランクフルトと政治の中心を[[ボン]]にと分けられた。


プロイセンによる併合は、市の急速な人口増加を伴う工業都市への発展にとって有利であった。フランクフルトは、[[1877年]]から[[1910年]]までの間に何段階にもわたって周辺の町村を合併し、その面積を 70 km<sup><small>2</small></sup> から 135 km<sup><small>2</small></sup> に拡大した。これによりフランクフルトは20世紀の初めには、短い期間ではあったが、ドイツで最も広い都市となった。急速な人口増加に伴い市は公的な[[インフラストラクチャー]]を整備していった: 多くの学校やマイン川の橋、上水道、下水道、近代的な職業消防隊、屠殺場および食肉加工場、マルクトハレ、路面電車、駅、港などが含まれる。その後の工業化はまず、ボッケンハイム区や、マインツァー・ラントシュトラーセあるいはザクセンハウゼン・ラントシュトラーセといった街道沿いで進行し、[[1909年]]から[[1912年]]に工業地域を伴う東港が整備された。新たに開発されたこの工業地区の面積は、19世紀末時点でのマインツ側北岸の全市域面積に匹敵するほど広大なものであった。フランクフルトの伝統的な産業である鋳造や金属加工あるいは活字鋳造や印刷業の他に、化学工場や、[[1891年]]の国際電子博覧会以降は電子産業もこの街に進出した。[[1914年]]、フランクフルト市民の寄附によって総合大学が創設された。
== 経済 ==
[[File:Frankfurt 1945 June destructions after bombing raids old town aerial.JPG|right|200px|thumb|第二次世界大戦の空爆でほぼ完全に破壊されたフランクフルト中心部(1945年)]]
[[File:European central bank euro frankfurt germany.jpg|thumb|left|200px|[[欧州中央銀行]]]]
フランクフルトは、[[第一次世界大戦]]による破壊を免れたが、プロイセンに属すヘッセンとバイエルンとの国境にあたるその立地のために、食料品や日用品の不足に苦しめられた。[[1918年]]の[[ドイツ革命|11月革命]]の際には暴動が起き、時には市街戦が行われる状況が[[1919年]]末まで続いた。
[[File:Frankfurt Am Main-Neue Boerse von Suedosten-20120222.jpg|thumb|[[フランクフルト証券取引所]]]]
2009年8月現在、[[ナスダック]]、[[ニューヨーク証券取引所|ニューヨーク]]、[[上海証券取引所|上海]]、[[東京証券取引所|東京]]、[[ロンドン証券取引所|ロンドン]]、[[深セン証券取引所|深セン]]に次いで世界第7位の取引高[http://www.world-exchanges.org/statistics/ytd-monthly]を誇る[[フランクフルト証券取引所]]や、前述のように各大手銀行の本店があるドイツの金融の中心地であると同時に、欧州中央銀行を擁する欧州の[[金融センター]]の一つ。


1920年代にフランクフルトは文化的隆盛を迎えた。特に演劇や、近代的キッチンの祖型として国際的に名高い[[フランクフルトキッチン]]を含む都市計画新フランクフルトプログラムがその代表である。[[1925年]]に[[ヴァルトシュタディオン|ヴァルトシュターディオン]]で第1回国際労働者オリンピックが開催された。
国際的な町並みを呈しており、国際的な[[見本市]]なども行われる。毎年秋に開催される[[フランクフルト書籍見本市]]は国際的に出版業界の重要な行事として知られる。これらの見本市は主に、市内の「[[フランクフルト・メッセ]]」で開催される。
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[[国家社会主義]]の時代には、11,134人の[[ユダヤ人]]がフランクフルトから追放され、殺害された。[[第二次世界大戦]]では、連合国によるフランクフルト空襲によって市域の約 70 % が、アルトシュタットおよびインネンシュタットはほぼ完全に破壊された。これにより、密集した中世の街並みは[[1944年]]までに失われ、1950年代の復興において古い街並みが復元されることはなかった。アルトシュタットの多くの部分には、この時代に建設された簡潔で近代的な合目的建造物や合理的道路配置が今日も遺っている。
== 交通 ==
[[File:Frankfurt am Main - Netzplan Schienennahverkehr.png|thumb|トラム及び地下鉄の路線図]]


終戦後、[[アメリカ合衆国]]の軍事政府はこの街を本拠地とした。その後、フランクフルトにトリゾーン(米英仏管理地域)の統治機関が置かれた。[[1949年]]5月10日、連邦の首都を定める選挙でフランクフルトは、[[コンラート・アデナウアー]]が推す[[ボン]]に敗れた<ref>基本法制定会議で 33 : 29、1949年11月3日の連邦議会投票では 200 : 176 であった。</ref>。だが、フランクフルトには既に国会議事堂が建てられていた。この建物は現在ヘッセン放送が使用している。戦後フランクフルトは経済の中心地となり、[[1998年]]に[[欧州中央銀行]]の所在地となった。
=== 長距離交通 ===
; 航空
市街地の南西側にある[[フランクフルト国際空港]]は、[[シャルル・ド・ゴール国際空港]]、[[ロンドン・ヒースロー空港]]などと並ぶヨーロッパでも特に重要な[[ハブ空港]]の一つで、利用人数、貨物取り扱い量など様々な面で上位にあり、ドイツを代表する航空会社・[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ]]のメイン・ハブ空港としても機能している。このため、ドイツ国内・欧州域内はもとよりアジア、アメリカ、アフリカ各国からも多数の航空会社・路線が就航している。[[日本]]からは、[[直行便]]が[[成田国際空港]](ルフトハンザ、[[日本航空]]、[[全日本空輸]])、[[関西国際空港]](ルフトハンザ)、[[中部国際空港]](ルフトハンザ)から就航している。


=== 人口推移 ===
; 鉄道
[[File:Frankfurt population.svg|right|300px|thumb|人口推移グラフ]]
長距離列車のターミナルである[[フランクフルト中央駅]]は行き止まり式の大規模な駅で、[[ICE]]など欧州各地から列車が発着する。また、フランクフルト国際空港にも[[フランクフルト空港駅]]が設置されており、航空路線と鉄道を乗り継ぐことができる。
フランクフルトの人口推移については、19世紀になるまでは不正確な推定値に基づくしかない。1810年頃から国勢調査や公式な統計調査がなされるようになった。中世のフランクフルトは人口約1万人の中規模都市であった。17世紀に2万人、18世紀に中頃に3万人、1810年頃に4万人を超えた。自由都市フランクフルトが終焉した1866年までに市の人口は9万人を超えたが、このうち約 78,000人が堡塁施設の内側に住んでいた。現在そこに住んでいるのは約 7,000人である。


1875年、フランクフルトの人口は 10万人を超えた。1880年頃にこの街はドイツの10大都市の1つとなった。1910年の人口は 414,576人で、ドイツで9番目、プロイセンで4番目に大きな都市となった。第二次世界大戦前に人口は 553,464人にまでに増加した。
=== 近距離交通 ===
市内交通は、 フランクフルト市交通公社(VGF:Stadtwerke Verkehrsgesellschaft Frankfurt am Main)が[[路面電車]]、[[Uバーン]]([[地下鉄]])、バスを運行している。ただし地下鉄は、ベルリンやニュルンベルクのような本格的なものではなく、路面電車をもとに、都心では地下化、郊外では専用軌道化することで高速化したものである。これらVGFの車両は、一部を除き外装を[[ターコイズグリーン]]で統一している。


第二次世界大戦中には、4,800人以上の一般フランクフルト市民と 12,700人以上のフランクフルト兵士が命を落とした。また、約3万人のフランクフルト在住ユダヤ人のうち約 12,000人が[[ホロコースト]]によって殺害された。1945年末のこの街の人口は約 358,000人で、戦争により住民の約半数が亡くなった。
また近郊地帯や近隣都市との間には、ドイツ鉄道の[[Sバーン]](郊外電車)が運行されている。中央駅と南駅の間は地下線になっており、市内交通としての役割も果たしている。一部路線は空港駅にも乗り入れており、中心地と約10分で結んでいる。


その後人口は、1951年に戦前の1939年の情態に復し、1963年に 691,257人の史上最大数となった。周辺への人口移動によって1986年までに人口は 592,411人と減少したが、その後再び増加して、 2010年12月31日現在の人口は1986年から14.7 % 増の 679,664人となった。この間の最後の5年間は平均で1年あたり約 7,000人の増加が見られた。こうした折り返し傾向は、独居世帯の不釣り合いな増加や、住宅地の増加と関連している<ref>[http://www.statistik-hessen.de/themenauswahl/bevoelkerung-gebiet/regionaldaten/bevoelkerung-der-hessischen-gemeinden/index.html ヘッセン州の市町村別人口](2012年6月30日現在)、ヘッセン州統計局(2013年3月9日 閲覧)</ref>。
なお、市内および近郊の交通機関は、ラインマイン運輸連合(RMV:Rhein-Main-Verkehrsverbund)に加盟しており、運賃などの面では同一の交通機関として乗車することができる。


2009年12月31日の調査に基づき統計および選挙住民局が2010年12月に算定した「フランクフルト2030年人口予測」の計算では、フランクフルトの人口は2020年までに約 725,000人に増加し、その後2030年までにわずかに減少して723,000人となると予測されている。これは副人口(ドイツでは主な住所と別に副住所を登録できる)を併せた全人口に対する推定値である。市の調査によれば、2012年6月30日現在の人口は、700,256人で、初めて7万人を超えたことになる<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/16_Einwohner_1Halbjahr2012.pdf フランクフルトの人口動態 ― 2012年上半期]、frankfurt statistik aktuell Nr. 16/2012(2013年3月9日 閲覧)</ref>
* [[フランクフルト地下鉄]]


== 宗教 ==
なお、ドイツ鉄道は自転車の貸出しも行っており、大通りの交差点や駅で見つけることができる。使用料は口座引き落しになり、事前に登録が必要。
[[File:Frankfurter Dom Eiserner Steg.jpg|right|200px|thumb|フランクフルト大聖堂 聖バルトロメウス教会]]
フランクフルトには数多くの宗教団体や、公式には宗教団体と認められていない世界観を共有するグループが存在している。しかし、フランクフルト市民の多くは、特に[[無宗教|無宗教者]]や[[不可知論|不可知論者]]、[[ムスリム]]などは、組織的に連携しているわけではない。


現在の大聖堂の場所には、7世紀からすでに小さな教会があった。12世紀末から急速に数多くの教会や礼拝堂が、あるものは市民の喜捨により、あるものは教団の下部組織として、建設された。
== 観光 ==
[[ファイル:Frankfurter Dom Eiserner Steg.jpg|thumb|[[w:Frankfurt Cathedral|バルトロメウス大聖堂]]]]
[[File:Frankfurt Am Main-Roemerberg 19-27 von Suedosten-20110307.jpg|thumb|[[w:Römerberg (Frankfurt)|レーマー広場]]]]


1533年、[[帝国自由都市]]フランクフルトでも[[宗教改革]]がなされた。しかし、1548年の[[アウクスブルク仮信条協定]]以後、[[カトリック教会|カトリック]]の参事会教会と修道院がカトリック教会組織に復した。これは、カトリック教徒である皇帝との衝突を避け、市の特権(特に[[メッセ]]と皇帝選挙の開催権)を護るためであった。1555年の[[アウクスブルクの宗教和議]]以降1806年まで、わずかに残ったカトリック教徒に対して市民権は例外的にしか与えられなかった。フランスから亡命した[[ユグノー派|ユグノー教徒]]は、1554年にドイツで最初のユグノー派の街を造った。
* [[レーマー広場]] Römerberg
* [[旧市庁舎レーマー]] Römer
* [[ゲーテの家]] Goethe-Haus - ゲーテの生家と博物館
* [[バルトロメウス大聖堂]] Dom
* [[パウルス教会]] Paulskirche
* [[カタリーナ教会]] Katharinenkirche 
* [[ツァイル]] Zeil - 歩行者天国
* [[ゲーテ通り]] Goethestraße - 高級ブランド商店街
* [[旧オペラ座]] Alte Oper - コンサートホール
* [[フランクフルト歌劇場]] Oper Frankfurt - オペラハウス
* [[シュテーデル美術館]] Städel
* [[シルン美術館]] Schirn Kunsthalle Frankfurt
* [[ギエルシュ博物館]] Museum Giersch
* [[リービークハウス]] Liebieghaus - 古代彫刻美術館
* [[パルメンガルテン]] Palmengarten - 植物園
* [[フランクフルト動物園]] Zoo Frankfurt -動物園
* [[マインタワー]] Main Tower ― 公共展望台あり
* [[メッセタワー]] Messeturm
* [[フランクフルト・ブックフェア]] Buchmesse
* りんご酒電車(エッベルヴァイ・エクスプレス)Ebbelwei-Express - 観光電車


[[カルヴァン主義|改革派教会]]は、1786年からフランクフルトに教会を有していた。1866年に改革派教会と[[ルター派]]教会は合併し、フランクフルト・ラント教会が形成された。
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ファイル:Zeil-ffm001.jpg|ツァイル
ファイル:Paulskirche-ffm002.jpg|[[パウルス教会]]
ファイル:Frankfurt Am Main-Katharinenkirche-Ansicht von der Grossen Eschenheimer Strasse-20100808.jpg|カタリーナ教会
File:Alte Oper Frankfurt Winter 2008.jpg|[[旧オペラ座]]
ファイル:Buehnen-ffm002.jpg|[[フランクフルト歌劇場]]
ファイル:Messeturm (Messegelände) Frankfurt-2.jpg|[[メッセタワー]]
</gallery>


1933年にフランクフルト・ラント教会は国からの圧力により、ヘッセン=ダルムシュタットいおよびナッサウ福音派教会とともにナッサウ=ヘッセン福音派ラント教会を形成し、1947年にヘッセンおよびナッサウ福音派教会 (EKHN) となった。これに対し、1976年にフランクフルトに合併したベルゲン=エンクハイムは、クールヘッセン=ヴァルデック福音派教会に属した。
== 娯楽・文化 ==


18世紀、さらには19世紀、20世紀の移住者によって、カトリック信者が[[プロテスタント]]信者に迫る勢いで増加した。フランクフルトのカトリック信者は、1917年までは一つの組織にまとめられていたが、その後次第に多くの小教区を形成していった。この街のカトリック教会は主にリンブルク司教区に属すが、ベルゲン=エンクハイムはフルダ司教区に、1972年に合併した市区であるハルハイム、ニーダー=エルレンバッハ、ニーダー=エシュバッハ区はマインツ司教区に属す。
=== 芸術 ===
[[ファイル:FrankfurtM Staedel.jpg|thumb|[[シュテーデル美術館]]]]
博物館・美術館としては[[ゲーテ]]の生家の他は、特に[[マイン川]]沿いに[[シュテーデル美術館]]をはじめとする多くの博物館・美術館が置かれている。


カトリック、プロテスタントの[[キリスト教]] 2大宗派の他に、[[正教会]]、[[東方諸教会]]、[[自由教会]]やその他のキリスト教系宗教団体がフランクフルトに存在している。これには、[[復古カトリック教会]]、[[新使徒派教会]]、[[エホバの証人]]が含まれる。
=== 音楽 ===
2つの対照的な[[オーケストラ]]、[[hr交響楽団]]と[[フランクフルト・ムゼウム管弦楽団]]がフランクフルト市を拠点として活動している。
[[旧オペラ座]]は、その名の示すとおり、かつての[[オペラハウス]]であり、現在は[[コンサートホール]]である。[[オペラ]]は、[[フランクフルト歌劇場]]で上演される。ドイツ語でもコンサートはAlte Oper、オペラはOper Frankfurtと、混同しやすい。


フランクフルトの[[ユダヤ教|ユダヤ教団]]は、1150年に初めて記録されている。中世では 1241年と 1349年の 2回、フランクフルトのユダヤ人は迫害の犠牲になっている。1462年から1796年までユダヤ人はユーデンガッセの[[ゲットー]]に住むことを強いられた。1806年になってやっと彼らは他の宗教信者と同等に扱われるようになった。フランクフルトは、ドイツで最も早い時期にあたる1864年にユダヤ人に対して無制限の同等性を認めた街である。1930年頃、フランクフルトには約 28,000人のユダヤ人が居た。国家社会主義の時代、そのほとんどが追放され、あるいは殺害された。大規模だったシナゴーグは[[水晶の夜|1938年11月の排斥運動]]によって破壊された。11,134人のフランクフルトのユダヤ人がホロコーストによって殺害された。終戦時、この街で生き延びることができたユダヤ人は約 160人だけであった。終戦直後からすぐに、東欧から追放されたユダヤ人たちによって新たなユダヤ教組織が形成された。現在この街のユダヤ教団は約 7,200人が所属するドイツでも大規模な教団の1つである。フランクフルト最大のシナゴーグはヴェストエントシナゴーグである。

1959年にザクセンハウゼン区に建設された Ahmadiyya Muslim Jamaat の ヌール・モスクは、フランクフルトで最初の[[モスク]]であり、ドイツでも最初期のものの一つである。その後フランクフルトには様々な[[イスラム教|イスラム宗派]]のモスクが建設されていった。

[[末日聖徒イエス・キリスト教会]](モルモン教)はヨーロッパ中央地域の本部をフランクフルト・アム・マイン(エッケンハイム)に置いている。さらにエッケンハイムとヘーヒストの2つの教会組織を有している。フリードリヒスドルフのフランクフルト寺院は、1987年に建設された当時としてはドイツ初のモルモン教寺院である。

フランクフルトの市外ではあるが、[[ホーフハイム=ランゲンハイン|ホーフハイム・アム・タウヌス]]に、1964年からヨーロッパで唯一の[[バハイ教]]教団の祈祷所がある。

この他、フランクフルト中心街には、1845年に創設され、1000人以上の会員を有する[[ユニテリアン主義]]の自由宗教団がある。

== 行政 ==
[[File:Mk Rathaus Buchgasse.jpg|right|200px|thumb|フランクフルト市庁舎]]
フランクフルト基本条例とヘッセン州自治体法がこの街の骨格を定めている。

フランクフルトは、2013年現在、[[ドイツキリスト教民主同盟|CDU]]と[[同盟90/緑の党|Grüne]]の連立野党と上級市長ペーター・フェルトマンによって運営されている。2012年7月1日にそれまでの上級市長ペトラ・ロートが引退を宣言し、ペーター・フェルトマンがこの職に就任した。[[ドイツ社会民主党|SPD]]の候補者であったフェルトマンはCDUの候補者でヘッセン州内務大臣のボリス・ラインに対して、2012年3月15日の決選投票で 57.4 % の過半数を獲得し、当選を果たした。ラインは、3月11日の一次選挙の時点ではフェルトマンの票を上回っていた<ref>[http://www.hr-online.de/website/specials/obwahl12/index.jsp?rubrik=71048&key=standard_document_44332961&msg=71048 "Frankfurt hat gewält: Oberbürgermeister-Stichwahl am 25. März 2012"], hr online.de(2013年3月9日 閲覧)</ref><ref>[http://www.statistik-hessen.de/themenauswahl/wahlen/daten/direktwahlen/frankfurt-am-main-st/index.html フランクフルト上級市長選挙結果]、ヘッセン州統計局(2013年3月9日 閲覧)</ref>。

=== 議会 ===
フランクフルト市の市議会は、93議席からなる。政党別議席数は以下の通りである<ref>[http://www.statistik-hessen.de/K2011/EG412000.htm 2011年3月27日の市議会議員選挙結果]、ヘッセン州統計局(2013年3月9日 閲覧)</ref>
{| class="prettytable"
| style="background:#efefef;" align="center" | 政党
| style="background:#efefef;" align="center" | 得票率
| style="background:#efefef;" align="center" | 議席数
|- ---- align="center"
| [[ドイツキリスト教民主同盟|CDU]] || 30.5 % || 28
|- ---- align="center"
| [[同盟90/緑の党|Die Grünen]] || 25.8 % || 24
|- ---- align="center"
| [[ドイツ社会民主党|SPD]]|| 21.3 % || 20
|- ---- align="center"
| [[左翼党 (ドイツ)|Linke]] || 5.4 % || 5
|- ---- align="center"
| [[自由民主党 (ドイツ)|FDP]] || 3.9 % || 4
|- ---- align="center"
| FW || 3.8 % || 4
|- ---- align="center"
| [[ドイツ海賊党|Piraten]] || 2.0 % || 2
|- ---- align="center"
| FAG || 1.4 % || 1
|- ---- align="center"
| ÖkoLinX-ARL ||1.2 % || 1
|- ---- align="center"
| NPD ||1.1 % ||1
|- ---- align="center"
| ELF || 1.1% || 1
|- ---- align="center"
| [[共和党 (ドイツ)|REP]] ||0.8 % || 1
|- bgcolor="#CCDDEE" align="center"
| 計 || 投票率 42.4 % || 93
|}
[[File:Coat of arms of Frankfurt (temporarily in Weimar Republic).svg|right|80px|thumb|1925年から1936年頃に用いられたハンス・ライスティコフによる市章]]
=== 紋章 ===
図柄: 赤地に金の冠を被った銀の鷲。金と青の爪、嘴、舌で威嚇している。

解説: フランクフルトの鷲は単頭の帝国鷲であり、その起源は13世紀に遡る。帝国都市として帝国に依存していることを示す徴として鷲は冠を被っている。1841年に彫刻家エドゥアルト・シュミット・フォン・デア・ラウニッツが現在の紋章のデザインを作成した。1920年代にはグラフィックデザイナーのハンス・ライスティコフによる過激なまでに簡略化されたバージョンが用いられた<ref>[http://www.stadtgeschichte-ffm.de/artikel/stadtadler.html "Institut für Stadtgeschichte, Das Stadtwappen"](2013年3月9日 閲覧)</ref>。当時の上級市長ルートヴィヒ・ラントマン(1924年 - 1933年)は時代精神に従い、鷲のこうした[[表現主義]]的デザインを採用したのであった。しかしこのデザインは市民には不評であった。1936年には古い紋章が再び使用されることとなった。第二次世界大戦後、1936年に確定された紋章は1952年の基本条例で公式に制定されたが、新たに異なる鷲の表現方法も試みられた。ライスティコフの鷲は現在では、フランクフルト市の栄誉メダル、市史研究所の旗、フランクフルト・アム・マイン消防スポーツクラブの紋章などの特殊な場合に限って用いられている。

=== 姉妹都市 ===
フランクフルト・アム・マインは、以下の都市と姉妹都市関係を結んでいる<ref>[http://www.rgre.de/rgre-partnerschaften/?dt_orgname=Frankfurt+am+Main&dt_plz=&dt_einwohnerzahl_min=&dt_einwohnerzahl_max=&dt_bundesland=&aus_orgname=&aus_plz=&aus_land=&aus_kontinent=&partner_seit_von=&partner_seit_bis=&partner_form=&submit=Suche&order_by=partner_seit&direction=asc "Rat der Gemeinden und Regionen Europas"](2013年3月9日 閲覧)</ref>。
* {{flagicon|FRA}} [[リヨン]]([[フランス]]、[[ローヌ県]])1960年
* {{flagicon|UK}} [[バーミンガム]]([[イギリス]]、[[ウェスト・ミッドランズ]])1966年
* {{flagicon|ITA}} [[ミラノ]]([[イタリア]]、[[ロンバルディア州]])1970年
* {{flagicon|CHN}} [[広州市]]([[中華人民共和国]]、[[広東省]])1988年
* {{flagicon|HUN}} [[ブダペスト]]([[ハンガリー]])1990年
* {{flagicon|CZE}} [[プラハ]]([[チェコ]])1990年
* {{flagicon|NIC}} [[グラナダ (ニカラグア)|グラナダ]]([[ニカラグア]]、[[グラナダ県 (ニカラグア)|グラナダ県]])1991年
* {{flagicon|POL}} [[クラクフ]]([[ポーランド]]、[[マウォポルスカ県]])1991年
* {{flagicon|JPN}} [[横浜市]]([[日本]]、[[神奈川県]])2011年
また、1967年に当時は独立した自治体であったニーダー=エシュバッハとフランスの[[ドゥイユ=ラ=バール]]との間で姉妹自治体協定が結ばれた。

友好都市は以下の都市がある。
* {{flagicon|EGY}} [[カイロ]]([[エジプト]]、[[カーヒラ県]])1979年
* {{flagicon|ISR}} [[テルアビブ]]([[イスラエル]]、[[テルアビブ地区]])1980年
* {{flagicon|CAN}} [[トロント]]([[カナダ]]、[[オンタリオ州]])1989年
* {{flagicon|GER}} [[ライプツィヒ]]([[ドイツ]]、[[ザクセン州]])1990年
* {{flagicon|UAE}} [[ドバイ]]([[アラブ首長国連邦]]、[[ドバイ|ドバイ首長国]])2005年
2006年から中国南部の都市[[深セン市|深圳市]]との間で経済協力振興がなされている。2007年からは[[天津市]]、[[北京市]]もこれに加わっている。

=== 市の財政 ===
フランクフルトは、1980年代のCDUの上級市長ヴァルター・ヴァルマンおよびヴォルフラム・ブリュックの下で行った大規模な公共建設政策により、市の負債は8億4千万[[ユーロ]](1977年)から22億5千万ユーロ(1989年)に増加した<ref>F.A.Z vom 20. Oktober 1997</ref>。さらにSPDと緑の党の連合からなる市当局はこの負債を1993年に最大の34億ユーロにまで膨れあがらせた。これにより、フランクフルトはドイツの大都市(都市州を除く)の中で最も高額な負債を抱えた街となった。このため、市の監査局は負債をこれ以上増大することを禁じ、市は1994年から予算の強化を開始した。その後、営業税の大幅増税、支出の削減、そして当面の良好な経済発展により、負債は明らかに減少した。

フランクフルトの2006年の年間負債額は人口1人あたり約 2200ユーロでドイツの15大都市の中で6位([[ブレーメン]] 約 17,000、[[ベルリン]] 約 16,000、[[ハンブルク]] 約 13,000、[[ケルン]] 約 3,800、[[ミュンヘン]] 約 2,700)である。良好な税収と財政黒字によって負債は2010年末までに 9億8300万ユーロに減少した。

2008年6月13日に市は、2007年1月1日の[[貸借対照表|開始貸借対照表]]を公開した。それによれば、フランクフルト市は125億2千万ユーロの資産があるが、そのうち118億ユーロが固定資産である。市はその所有物にたとえば以下のものを挙げている: 1145 km の道路、 44,266 の土地、約 1800棟の建物、58.6 km の[[Uバーン]]路線、椰子園の約 2500種の植物、動物園の約 580種4500頭の動物、4902 ha シュタットヴァルトなどである。すべての建物の中で最も[[簿価]]が高いのは5800万ユーロの大聖堂である。市の自己資本は 82億9000万ユーロで、自己資本率は 66.2 % に相当する。債務は18億ユーロで、これは主として年金に充当するための引当金(12億ユーロ)である<ref>Tobias Rösmann: [http://www.faz.net/aktuell/rhein-main/frankfurt/frankfurts-finanzen-solide-vermoegenslage-1538900.html "Solide Vermögenslage"], Frankfurter Allgemeine Rhein-Main, 2008年6月14日付け(2013年3月9日 閲覧)</ref>。

2007年と2008年に市は、年間の黒字を 5億ユーロ以上とする目標を達成した。しかしその後、金融危機のために税収は年間 4億ユーロ以上減少した。市は2009年にわずかながら黒字に転じた製造業の2010年、2011年に期待をしたが、少なくとも翌2013年まではネガティブな結果を予測している<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/738/broschuere_z_produkthh_2010%20_%202011.pdf Haushalt 2010/2011 "Trotz Krise unser Frankfurt von morge gestalten."](2013年3月10日 閲覧)</ref>。

主な理由は、フランクフルト市の最も重要な財源である営業税の伸びである。2008年の営業税は史上最高額の 16億4千万ユーロであった。これによりフランクフルトはミュンヘン(19億ユーロ)に次いでドイツで最も営業税収入の多い都市となったが、ミュンヘンの人口はフランクフルトのほぼ 2倍ある。フランクフルトと同規模の都市である[[シュトゥットガルト]]や[[ドルトムント]]の営業税収入は、フランクフルトの半分から 1/5 程度にとどまっている<ref>Tobias Rösmann: [http://www.faz.net/aktuell/rhein-main/frankfurt/1-64-milliarden-euro-gewerbesteuerrekord-in-frankfurt-1752961.html "1,64 Milliarden Euro: Gewerbesteuerrekord in Frankfurt"], Frankfurter Allgemeine Rhein-Main 2009年1月9日付け(2013年3月10日 閲覧)</ref>。2010年の営業税収入は13億ユーロ、2011年の予算では11億ユーロと推定されている<ref>Tobias Rösmann: [http://www.faz.net/aktuell/rhein-main/frankfurt/frankfurter-doppeletat-mit-voller-fahrt-durch-die-krise-1893881.html "Frankfurter Doppeletat: Mit voller Fahrt durch die Krise"], Frankfurter Allgemeine Rhein-Main 2009年12月10日付け(2013年3月10日 閲覧)</ref>。

== 経済と社会資本 ==
[[File:Bankenviertel Frankfurt.jpg|right|200px|thumb|フランクフルトのバンケンフィールテル(銀行街)]]
2001年に作成された[[リヴァプール大学]]のランキングリストによれば、フランクフルトはヨーロッパで最も生産力(一人あたりの[[国内総生産|GDP]])の高い街([[カールスルーエ]]、[[パリ]]、[[ミュンヘン]]をおさえて)である<ref>Nick Swift: [http://www.citymayors.com/business/eurocities_gdp.html "European cities outperform their English conterparts"], City Mayors 2004年2月3日付け(英語、2013年3月10日 閲覧)</ref>。この街は現在、ヨーロッパで最も裕福で、ポテンシャルの高い街の一つである。それは、この街に国際的企業の支店・代理店が多くあることにもつながっている。[[クッシュマン・アンド・ウェイクフィールド]]の年次研究(ヨーロピアン・シティー・モニター 2009)では、フランクフルトは国際コンツェルンにとってヨーロッパで最適な街の3位([[ロンドン]]、パリに次ぐ)に20年前からランキングされている<ref>[http://www.cushwake.com/sites/landing/citiesmonitor/European-cities-monitor-2009-holding.pdf "European Cities Monitor 2009"](英語、2013年3月10日 閲覧)</ref>。フランクフルトはヘッセン州にとって最も重要な中心都市である。ヘッセン州の営業税 42億4千万ユーロのうち 40 % がフランクフルトからの収入である<ref>Tobias Rösmann: [http://www.faz.net/aktuell/rhein-main/hessen/wegen-hoher-steuereinnahmen-frankfurt-soll-land-millionenbetrag-erstatten-1768861.html "Wegen hoher Steuereinnahmen: Frankfurt soll Land Millionenbetrag erstatten"], Frankfurter Allgemeine Rhein-Main 2009年2月8日付け(2013年3月10日 閲覧)</ref>。生活費が世界で最も高い都市に関する調査が[[エコノミスト]]報道部によって 2011年12月に行われ、フランクフルトはドイツで1位、世界で10位に位置づけられた<ref>[http://www.journal-frankfurt.de/journal_news/Panorama-2/Top-Ten-Armmacher-Frankfurt-zehntteuerste-Stadt-der-Welt-15198.html "Frankfurt: zehntteuerste Stadt der Welt"], Journal Frankfurt 2012年2月17日付け(2013年3月10日 閲覧)</ref>。

=== 労働 ===
フランクフルトには 622,600人の就労者がおり<ref name="arbeit">[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/J2011K04x.pdf "Arbeitsmarkt, Statistisches Jahrbuch 2011"](2013年3月10日 閲覧)</ref>、このうち約 49万人が社会保険を義務づけられた被雇用者である。フランクフルトはドイツで最も労働密度が高く、通勤者の多い街である。2010年現在のこの街への通勤者は1日あたり 325,485人で、この街から他の街に通う通勤者は 68,080人であった<ref name="arbeit"/>。500社以上約 75,000人が[[フランクフルト国際空港]]で働いており、この空港はドイツ最大の職場となっている<ref>[http://www.fraport.de/content/fraport/de.html "Fraport AG"](2013年3月10日 閲覧)</ref>。業種別では金融・保険業が最大の業種で、約 72,800人が務めている<ref name="arbeit"/>。

社会保険を義務づけられた全日制労働者の平均月額給与は、2010年現在 3,619ユーロで、2000年よりも約 600ユーロ上昇している。報酬は職種によって明らかに異なっている: 接客業や単純なサービス業の給与は 2000ユーロ以下であるのに対し、IT関連では 4,500ユーロ、金融関連では 5,400ユーロを超える<ref name="arbeit"/>。こうした高額給与所得者はわずかに約 46,700人ほどである。一方、約 26,000人の失業者がいる。

この街の高い経済力は、平均を超える収入をフランクフルトで稼いだ通勤者を通して、近隣、特にフォルダータウヌス地方の市町村の金庫も潤沢にしている。このためドイツの豊かな郡トップ 5に隣接する郡が 2つランクされている: [[バート・ホルンブルク・フォア・デア・ヘーエ]]を郡庁所在地とする[[ホーホタウヌス郡]]と[[ホーフハイム・アム・タウヌス]]を郡庁所在地とする[[マイン=タウヌス郡]]である。

さらにフランクフルトは、人口1人あたりあるいは就労者1人あたりの[[粗付加価値]]およびGDPがドイツの大都市の中で最も高い街である(2007年現在)<ref>[http://www.frankfurt-main.ihk.de/standortpolitik/konjunktur_statistik/wirtschaftsstruktur/ihk-bezirk/bruttowertschoepfung/index.html "Buttowertschöpfung"], IHK Frankfurt am Main(2013年3月10日 閲覧)</ref>。

=== 生活 ===
[[マーシュ・アンド・マクレナン]]の2012年の調査によれば、フランクフルトは生活の質が高い世界の都市ランキングで 7位に位置づけられた<ref name="QOL">[http://www.mercer.com/qualityoflivingpr#City_Ranking_Tables 2012 "Quality of Living worldwide city rankings – Mercer survey"](英語、2013年3月10日 閲覧)</ref>。ドイツでフランクフルトよりも上位であったのは、[[ミュンヘン]]の4位と[[デュッセルドルフ]]で 6位であった。エコノミストの同種の調査(2011年)では、フランクフルトは 18位で、ドイツでこれよりも上位だったのは[[ハンブルク]]の 14位だけであった<ref>[http://www.fr-online.de/frankfurt/neue-studie-frankfurt-ist-die-zweitattraktivste-stadt-deutschlands,1472798,9894738.html "Frankfurt ist die zweitattraktivste Stadt Deutschlands"], Frankfurter Rundschau 2011年8月30日付け(2013年3月10日 閲覧)</ref>。Wealth Report(2013年)は Quality of Life 部門でフランクフルトを 5位に挙げている<ref>[http://my.knightfrank.com/research-reports/the-wealth-report.aspx "The Wealth Report"], p.22(2013年3月10日 閲覧)</ref>。

2010年12月のフランクフルト市の住民アンケート<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/738/08_Bindung_und_Zufriedenheit_BB2010.pdf "Bindungen an die Stadt und Zufriedenheit mit Lebensbereichen - Ergebnisse der Frankfurter Bürgerbefragung vom Dezember 2010"], Frankfurt Statistik aktuell No.8/2011(2013年3月10日 閲覧)</ref>では、フランクフルト市民の 66 % がこの街を「満足」または「大変満足」と回答しており、「不満足」の回答は 6 % であった。1993年から「満足」の割合は約 22 % 増加し、「不満足」は約 8 % 減少した。84 % のフランクフルト市民がこの街に住み続けたいと答え、13 % が別の場所で暮らしたいと回答した。フランクフルトの安全性について満足しているのは 37 %(1993年は、わずか 9 % であった)、不満足なのは 22 % (1993年は 64 %)であった。

=== 犯罪 ===
人口 20万人以上のドイツの都市の中で、フランクフルトは人口あたりの犯罪が最も多い。2011年の犯罪頻度は、人口10万人あたり 16,137件であった<ref>連邦内務省: [Polizeiliche
Kriminalstatistik 2011](2013年3月10日 閲覧)</ref><ref>フランクフルト・アム・マイン警察署: [http://www.polizei.hessen.de/icc/internetzentral/binarywriterservlet?imgUid=16a70f32-0da3-8531-c1b4-ec1ef798e7b5&uBasVariant=11111111-1111-1111-1111-111111111111 "Polizeiliche Kriminalstatistik 2011"](2013年3月10日 閲覧)</ref>。犯罪統計においてこの街はトップの座を占めており、メディアは時にこの街を「犯罪の首都」<ref>たとえば、[http://www.bild.de/news/inland/kriminalstatistik/kriminalitaetsstatistik-frankfurt-hauptstadt-des-verbrechens-19647722.bild.html "Kriminalitäts-Statistik | Frankfurt bleibt Hauptstadt des Verbrechens"], Bild.de 2011年8月29日付け(2013年3月10日 閲覧)や[http://www.focus.de/panorama/welt/kriminalitaet-bka-frankfurt-bleibt-hauptstadt-des-verbrechens_aid_659742.html "Kriminalität: BKA: Frankfurt bleibt Hauptstadt des Verbrechens"], Focus online, 2011年8月28日付け(2013年3月10日 閲覧)など</ref>や、「ドイツで最も危険な街」<ref>"Tatort Deutschland" in Focus Nr. 35/2011, pp. 44 - .</ref>

フランクフルト警察署は、機関紙の中であらゆる犯罪の頻度を他の大都市と比較しながら公開している。ドイツで最も多い通勤者を有するこの街では、日中には市民に加えて毎日 26万人が滞在している。さらに訪問客や旅行客、すなわち年間約150万から 250万人に及ぶメッセの客や約5300万人に達する空港利用客が市域に存在している。犯罪の約 6 % が空港で起きている。荷物の窃盗、パスポート犯罪、入国管理法違反や航空交通法違反などである。

市の機関や委員会も、犯罪統計に解説を付けた公報を発行している<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/10_Kriminalit%C3%A4t.pdf "Und ewig grüßt das Murmeltier:
Spitzenkennzahl der Kriminalstatistik zeichnet wieder falsches Bild von Frankfurt"], Frankfurter Statistik aktuell Nr. 10/2012(2013年3月10日 閲覧)</ref>。犯罪種別ごとに細分化された考察すると、フランクフルトは[[麻薬]]犯罪と[[不法滞在]]がドイツで1番多く、[[詐欺]]、単純な[[窃盗]]、[[不正乗車]]がトップグループにある事がわかる。[[クレジットカード]]や銀行口座の詐欺は、実際の犯行現場とは無関係に当該銀行の本店所在地に記録される。判明した麻薬犯罪や不正乗車の件数が多いのは、空港や交通の後換え駅での強力なチェックの結果である。安全に関わる犯罪、謀殺、故殺、暴行、レイプ、強盗、傷害事件に関しては、フランクフルトは統計の中位に位置している<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/media.php/678/Kriminalstatistik_Langfassung.pdf "Kriminalstatistik im Städtevergleich: Frankfurterinnen und Frankfurter leben sicher"](2013年3月10日 閲覧)</ref>

2011年4月に行われた[[エルンスト=モーリッツ=アルント大学グライフスヴァルト|グライフスヴァルト大学]]の「フランクフルト・アム・マイン市民の主観的安全性調査」によると、調査対象となった市民の 84 % が、犯罪に対して昼間は安全あるいはとても安全と回答し、夜間についても 71 % がそう答えた<ref>[http://www.gewalt-sehen-helfen.de/show.php?ID=4666&psid=42a55a4aac2cbda6997fe9309666fb3d "Subjektives Sicherheitsempfinden der Bevölkerung von Frankfurt am Main"](2013年3月10日 閲覧)</ref> 。

=== 地元企業 ===
フランクフルトほど様々な分野(化学コンツェルン、広告代理店(たとえば[[サーチ・アンド・サーチ]]のドイツ本部や[[ジェイ・ウォルター・トンプソン|JWT]]の支社など)、ソフトウェア会社、コールセンターなど)の国際的リーディングカンパニーが数多く集まっている街は、ドイツでは他にほとんどない。[[DBレギオ|DBレギオAG]]、DBフェルンフェアケールAG、その他の[[ドイツ鉄道]]の主要部門や子会社のDBネッツAGといった旅客交通の中枢がガルスのDBセンターに集まっている。また、フランクフルトは[[ヘキスト|ヘキストAG]]を擁し、長年にわたって「世界の薬局」として重要視されてきた。このヨーロッパ3大化学・医薬品企業の1つの所在地がインダストリーパーク・ヘーヒストである。食品コンツェルンの[[ネスレ]]や[[フェレロ]]のドイツセンターやドイツ最大の[[ブルワリー]]・グループであるラーデベルガーグループの本社もフランクフルトにある。さらに4大会計監査会社の1つである[[KPMG]]は、ヨーロッパ本部をフランクフルトに置いている。プライスウォーターハウスクーパースはドイツセンターをフランクフルトに置いており、[[デロイト トウシュ トーマツ|デロイト・トウシュ・トーマツ]]は支店を、[[アーンスト・アンド・ヤング]]は下部組織をエシュボルン区の市境付近(フランクフルト市外)に有している。この他にも大規模な経営コンサルタントや国際法律事務所のいくつかがフランクフルトを拠点としている。

==== 金融業 ====
[[ファイル:Deutschebundesbank-ffm003.jpg|right|200px|thumb|ドイツ連邦銀行]]
フランクフルト・アム・マインは、重要な金融都市・証券取引の街であり、世界で最も重要な[[金融センター]]の一つに数えられている。フランクフルトは、2010年の [[世界都市#GaWC|GaWC]](グローバリゼーションと世界都市研究ネットワーク)による経済上の重要度で「アルファー」(3番目のカテゴリー)に格付けされた。これは、2008年のランキングを更新したもので、以前フランクフルトは「アルファー マイナス」(4番目のカテゴリー)に分類されていた<ref>[http://www.lboro.ac.uk/gawc/world2010t.html "GaWC - The World According to GaWC 2010"](2013年3月11日 閲覧)</ref><ref>[http://www.lboro.ac.uk/gawc/world2008t.html "GaWC - The World According to GaWC 2008"](2013年3月11日 閲覧)</ref>。

フランクフルトには、[[欧州中央銀行]]および[[ドイツ連邦銀行]]の他に、ドイツの 4大銀行<ref>[http://bankenverband.de/service/statistik-service/banken/strukturdaten-die-100-groesten-deutschen-kreditinstitute/files/fileinnercontentproxy.2011-08-02.2898611668 "Die 100 Größten Deutschen Kreditinstitute"], die Bank 2011年8月(2013年3月11日 閲覧)</ref>が本社を構えている: [[ドイツ銀行]]、[[コメルツ銀行]]、[[KfW銀行グループ]](ドイツ復興金融公庫銀行)、[[DZ銀行]]である。

ドイツ銀行<ref>[https://www.deutsche-bank.de/index.htm "Deutsche Bank"](2013年3月12日 閲覧)</ref>とコメルツ銀行<ref>[https://www.commerzbank.de/ "Commerzbank AG"](2013年3月12日 閲覧)</ref>はユニバーサルバンクであり、世界中に支店を有している。KfW銀行グループの主業務は[[中産階級]]や[[ベンチャー企業]]の支援であり<ref>[http://www.kfw.de/ "KfW Bankfruppe"](2013年3月12日 閲覧)</ref>、DB銀行は[[信用協同組合]]の中心となる存在である<ref>[https://www.dzbank.de/ "DZ Bank"](2013年3月12日 閲覧)</ref>。DB銀行の子会社であるウニオーン・インヴェストメント、DVB銀行、ライゼ銀行もフランクフルトに本社があり、さらにドイツで2番目に大きな信用協同組合であるフランクフルター・フォルクスバンクもこの街を本拠地としている。

公立あるいは半公立の金融機関では、[[ヘッセン=テューリンゲン州立銀行]] (ヘラバ)、Deka銀行、レンテン銀行、フランクフルト貯蓄銀行がフランクフルトに本店を置いている<ref>[https://www.helaba.de/de/MaerkteUndAnalysen/ResearchUndVolkswirtschaft/FinanzplatzFrankfurt/Downloads/20110118-FinanzplatzstudieJan11.pdf "Helaba Volkswirtschaft / Research"](2013年3月12日 閲覧)</ref>。

ドイツ最大の[[ネット銀行]] [[ING-DiBa]] もフランクフルトに本社がある。これに加えて、SEB AG、バンクハウス・メッツラー、ハウク・ウント・アウフホイザー、デルブリュック・ベトマン・マッファイ、BHF銀行、コーリアルクレジット銀行といった重要な民営銀行のいくつかが本社やドイツ本部をフランクフルトに置いている。また、エシカルバンク(社会貢献度の高い企業に低金利で長期の融資を行う銀行)の[[トリオドス銀行]]や[[GLD銀行|GLSゲマインシャフツ銀行]]の支店もフランクフルトにある。

2010年末現在、154行の外国銀行がフランクフルトにドイツ本部を置き、さらに40行が事務所を構えている。

[[ドイツ証券取引所]]AGが運営する証券市場、[[フランクフルト証券取引所]]と[[クセトラ]]を有するフランクフルトはヨーロッパで2番目に大きな証券市場であり、ドイツの証券取引の大部分を担っている。時価総額で見た市場規模では、ドイツ証券取引所は世界最大の証券取引所である<ref>[http://deutsche-boerse.com/dbg/dispatch/de/kir/dbg_nav/home "Gruppe Deutch Böse"](2013年3月12日 閲覧)</ref>。

さらに国際的な[[格付け機関]]である[[スタンダード・アンド・プアーズ]]、[[ムーディーズ]]、[[フィッチ・レーティングス]]の3社はフランクフルトにドイツ本部を置いている。この3社はこの業界の「ビッグ・スリー」と称される機関である<ref>[http://www.standardandpoors.com/about-sp/office-locations/en/eu/?contName=Europe&contID=1221191102201 "Standard & Poors - About S&P - Europe"](2013年3月12日 閲覧)</ref><ref>[http://www.moodys.com/Pages/contactus.aspx "Moody's - Contact us"](2013年3月12日 閲覧)</ref><ref>[http://www.fitchratings.com/web/en/dynamic/contact-us.jsp "Fitch Ratings - Contact us"](2013年3月12日 閲覧)</ref>。

国際金融センターとしてのフランクフルトの重要性は近年さらに高まっている。[[欧州保険・企業年金監督局]] (EIOPA)<ref>[https://eiopa.europa.eu/ "EIOPA"](英語、2013年3月12日 閲覧)</ref> や、EU金融市場のシステミックリスクを早期発見、予防、撲滅を目的とする[[欧州システミックリスク理事会]] (ESRB) <ref>[http://www.esrb.europa.eu/home/html/index.en.html "European Systemic Risk Board"](英語、2013年3月12日 閲覧)</ref>をはじめ、数多くの超国家的金融機関がフランクフルトで設立されている。さらに2013年からは、欧州中央銀行内の欧州銀行監督機構が、ユーロ圏の 6000以上の銀行を統括して監督する。
{{gallery
|height=200
|File:European Central Bank 041107.jpg|欧州中央銀行
|File:Twintowers of Deutsche Bank Headquarter in Frankfurt a.M..jpg|ドイツ銀行
|File:Frankfurt Am Main-Commerzbank Tower vom Rathenauplatz-20100808.jpg|コメルツ銀行
|File:Frankfurt Am Main-Westend Tower-Ansicht vom Maintower.jpg|DZ銀行
}}

==== 建築・不動産業 ====
フランクフルトには約 11,300社の建築・不動産業者があり、29,900人が働いている(2008年現在)。1999年には 36,000人以上がこの職種に就いていた。大手企業としては、DTZツァーデルホーフ、Jones LangLaSalle、BNPパーリバス・レアル・エステイト、ビルフィンガー・ベルガー、ホーホティーフ、ポル・ドイチュラント、テケム、ナッサウイシェ・ハイムシュテッテ、ABGフランクフルト・ホールディングス、ワイス・ウント・フライターク、ヴィザク、Ed. チュープリン、アルバート・スペアー・アンド・パートナーがある<ref>[http://www.frankfurt-main.ihk.de/imperia/md/content/pdf/standortpolitik/IHK-Immobilienstudie_2009_internet.pdf "Die Bau- und Immobilienwirtschaft in FrankfurtRheinMain"](2013年3月12日 閲覧)</ref>。不動産所得税の課税対象となる取引の売上高は、2008年現在で 40億ユーロを上回った。
[[File:Frankfurt Am Main-Zeil-Ansicht vom Maintower am fruehen Abend-20110328.jpg|right|140px|thumb|夕暮れのツァイル]]
==== 小売業 ====
インネンシュタット区の全長 600 m のツァイルは、フランクフルトで最も有名で、最も売上高の高いショッピング街である。[[ジョーンズ・ラング・ラサール]]の調査(2012年7月17日現在)によると、1時間あたり最大13,120人がこの街を訪れた、ドイツで最も人通りの多いショッピング街であった<ref name="LaSalle">[http://www.joneslanglasalle.de/Germany/DE-DE/Pages/NewsItem.aspx?ItemID=25581 "Frankfurter Zeil ist die meistbesuchte Einkaufsmeile Deutschlands"], Jones Lang LaSalle(2013年3月13日 閲覧)</ref>。また、ツァイルは2009年にドイツの小売り商業地の賃貸評価額で2位となった。店主は、最高で 1 m<sup><small>2</small></sup> あたり265ユーロの賃借料を支払うこともある。2009年2月、パレー・クヴァルティーアに新しいショッピングセンター「マイツァイル」がオープンした。

ツァイルにミドルクラスの価格帯の店が好んで出店するのに対して、近くにあるゲーテ通りは高級ショッピング街として知られている。2012年の調査では、ゲーテ通りは 1時間あたり 1,520人が訪れるドイツで 5番目に人通りが多い高級ショッピング街であった<ref name="LaSalle"/>。この他のフランクフルトの重要なショッピング街としては、ドイツ最大級のショッピングセンターの一つであるノルトヴェストシュタットの「ノルトヴェストツェントルム」、ベルゲン=エンクハイムの「ヘッセン=センター」、フランクフルト市内ではないものの、隣接するズルツバッハの市境沿いにある「マイン=タウヌス=ツェントルム」がある。

この他の市区にもショッピング街がある。ボルンハイムのベルガー通り、ザクセンハウゼンのシュヴァイツァー通り、ボッケンハイムのライプツィガー通り、[[フランクフルト=ヘーヒスト|ヘーヒスト]]のケーニヒシュタイナー通り、インネンシュタットからノルトエントに通じるエーダー・ヴェクなどである。

さらに 2011年から新たに「スカイライン・プラザ」の建設が始まった<ref>[http://www.faz.net/aktuell/rhein-main/frankfurt/frankfurter-europaviertel-spatenstich-fuer-das-skyline-plaza-16313.html "Frankfurter Europaviertel: Spatenstich für das Skyline Plaza"], Frankfurter Allgemeine Rhein-Main 2011年6月1日付け(2013年3月13日 閲覧)</ref>。これは、オイローパフィールテルの旧貨物中央駅跡地に建設されるショッピングセンターで、完成後には 180店舗が出店予定である。

==== 自動車製造業 ====
フランクフルトには多くの外国自動車メーカーのヨーロッパ本部やドイツ本部がある。たとえば、[[フィアット]]([[アルファ・ロメオ]]や[[ランチア]]を含む)や[[起亜自動車]]などである。隣接する市町村では、[[リュッセルスハイム]]には[[オペル]]や[[サーブ・オートモービル|サーブ]]があり、[[シュヴァルバッハ・アム・タウヌス]]には[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]がある。さらに近隣の[[ヴァイターシュタット]]には[[シュコダ]]や[[セアト|セアト・ドイチュラント]]本社がある。日本の自動車メーカーである[[マツダ]]は、[[オーバーウルゼル (タウヌス)|オーバーウルゼル]]にデザインセンターを有している。[[オッフェンバッハ・アム・マイン]]には[[ホンダ]]の北ヨーロッパ本部と開発デザイン部門や、[[現代自動車|ヒュンダイ]]のヨーロッパ販売センターがある。

さらに自動車部品製造業も盛んである。[[コンチネンタル (自動車部品製造業)|コンチネンタルAG]]は、生産、管理、開発の拠点をフランクフルト、エシュボルン、シュヴァルバッハ、カルベン、バーベンハウゼン、フリートベルクに有している。これらの自動車メーカーおよび自動車部品製造業者は、ライン・マイン・ネッカー自動車クラスターに参画している。

==== ITおよびテレコミュニケーション産業 ====
[[情報技術|IT]]および[[テレコミュニケーション]]部門の企業もフランクフルトには多くある。大資本と連携している企業として、[[T-システムズ]]、フィナンツ・インフォマティーク、DBシステル、ルフトハンザ・システムズがある。テレコミュニケーションサービスの[[コルト・テクノロジーサービス]]やレベル 3 コミュニケーションズ、テレコミュニケーション設備の[[アバイア]]は、フランクフルトにドイツ本部を置いている。ドイツの[[ドメインネーム]]は、フランクフルトにある DENIC が管理している。[[オイローパトゥルム]](ヨーロッパタワー)にある国際ネットマネジメントセンター (INMC) は、[[ドイツテレコム]]の国際電話および国際データネットワークの運営、保守を行っている。フランクフルトに本社を構えるデック 13 インタラクティヴ、ケーン・ゲームス、[[Crytek]](クライテック)は、いずれも評判の高いコンピュータ・ゲームの開発会社であり、[[アタリ (企業)|アタリ・ドイチュラント]]や[[コナミ|コナミ・ヨーロッパ]]の本社もこの街にある。IT系企業が特に多く集まっているのが、ハーナウアー・ラントシュトラーセ、マインツァー・ラントシュトラーセ、グートロイト通り沿いの旧工業地域である。より広域のフランクフルト大都市圏では、[[バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ|バート・ホムブルク]]、[[エシュボルン]]、[[クロンベルク・イム・タウヌス|クロンベルク]]、[[ランゲン (ヘッセン)|ランゲン]]、[[ノイ=イーゼンブルク]]に集まっている。フランクフルトは、ライン=マイン=ネッカー IT クラスターの一部をなしている。

==== 業界団体、規制委員会 ====
化学工業連合会 (VCI)、光学工業連合会、ドイツ機械・設備製造連合会 (VDMA)、電子技術規制委員会を有する電気技術・電子・情報技術連合会、ドイツ調理師連合会、ドイツ通信販売連合会、自動車工業連合会 (VDA) といった業界団体がフランクフルトにある。VDA は、2年毎に[[フランクフルトモーターショー|国際モーターショー]]をフランクフルトで開催している。[[フランクフルト・ブックフェア|書籍見本市]]を組織しているドイツ書籍協会もフランクフルトに本部がある。公益科学技術協会である DECHEM科学技術、バイオテクノロジー協会 e.V. は、数多くの賞を授与し、メッセ・フランクフルトとともに科学技術、環境保護、バイオテクノロジーの世界最大の見本市(アヘマ)を3年に1度開催している。

==== 労働組合 ====
ドイツ労働組合連合会に属す金属業界労働組合、農業環境業界組合、教育・研究者組合 (GEW) の本部がフランクフルトにある。この他、機関車運転手労働組合もフランクフルトに本部を持つ。
[[File:Haupteingang Frankfurter Messe im Jahr 2005.jpg|right|200px|thumb|メッセ・フランクフルトの入口]]
=== 見本市 ===
商業見本市は、[[中世]]からフランクフルトで行われていた。[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]がこの街に[[見本市]]開催の特権を与え、その保護の下でヨーロッパの交易品を展示する秋の見本市が毎年開催された。1330年に春の見本市も開催されることとなった。[[神聖ローマ帝国]]内で2番目に大きな見本市開催都市である[[ライプツィヒ]]とフランクフルトとの間は、ヴィア・レギアという広域幹線道路で結ばれていた。18世紀以降に衰退した時代があったが、第二次世界大戦後この街は古い見本市の伝統と再び結びついた。

これに加えて、[[フランクフルト・ブックフェア|フランクフルト書籍見本市]]、[[フランクフルトモーターショー|国際モーターショー]]、アヘムやアンビエンテが開催されている。一方、近年は「テンデンス」と呼ばれている伝統的な秋の見本市は、その重要性を失いつつある。
{{gallery
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|File:Messe-frankfurt-ffm003.jpg|トーアハウスとメッセ会場
|File:Frankfurter Messeturm 2.jpg|[[メッセタワー]]
|File:Buchmesse2005.jpg|フランクフルト書籍見本市(2005年)
|File:IAA 2005 Mercedes1.jpg|フランクフルトモーターショー(2005年)
}}
=== 新たな経済発展 ===
[[マスターカード]]の依頼を承けた経済研究グループは、毎年、世界で最も重要なビジネスセンターがどこであるかという調査を行っている。この調査でフランクフルトは2007年に第7位となった。このランキングには国内よりもグローバルであることが求められるため、ドイツの他の都市よりも高いランキングとなっている。この街の経済発展におけるグローバル化の重要性はフランクフルト経済が1980年代からの数十年で経験した大きな構造変化にも現れている。

[[ドイツ株価指数|DAX]]対象企業 30社のうち、1988年から 5社が、1990年から1996年には 6社がフランクフルト・アム・マインにあった。このうち 3社が銀行([[コメルツ銀行|コメルツ銀行AG]]、[[ドイツ銀行|ドイツ銀行AG]]、[[ドレスナー銀行|ドレストナー銀行AG]])、3社が工業系企業([[エヴォニック・デグサ|デグサAG]]、[[ヘキスト|ヘキストAG]]、[[GEAグループ|メタルゲゼルシャフト]])であった。しかし2007年半ばからフランクフルトのDAX対象企業は3社だけになった。このうち2社が銀行(コメルツ銀行とドイツ銀行)、サービス系企業が1社([[ドイツ証券取引所]])である。構造変化は、1980年代にまず、フランクフルトで伝統的に強い金属業界や電子業界で起こった。ハルトマン・ウント・ブラウン、フェライニクテ・ドイチェ・メタルヴェルケ、デマグ、ナクソス=ウニオーン、アドラーヴェルケ、VDOといった会社が、多くは吸収・合併の後、フランクフルトの工場を閉鎖したり、本社を移転したりした。かつてドイツで 2番目に大きな電子機器コンツェルンであった [[AEG]] は、1982年に債務超過の末に[[ダイムラー・ベンツ]]に吸収され、長年にわたる経済的衰退の結果、1996年に解体された。メタルゲゼルシャフトは、GEAグループに吸収された後、2005年に[[ボーフム]]に移転した。
[[File:Industriepark Höchst, Leunabrücke.jpg|right|200px|thumb|インダストリーパーク・ヘーヒスト]]
フランクフルトは、世界最大級の化学・医薬品産業の所在地であるにもかかわらず、この街に本社を置く大企業はない。ヘキストAGは1970年代から1980年代には売上高世界第2位の化学・医薬品企業であった。しかし1977年に代表取締役ユルゲン・ドルマンの下で多くの企業に分割され、それぞれ異なる企業と合併して本社が移転した。[[アメリカ合衆国]]の[[セラニーズ]]、[[スイス]]の[[クラリアント]]、[[フランス]]の[[サノフィ]]などである。かつてのヘキストの工場跡地であるインダストリーパーク・ヘーヒストは、現在でもヨーロッパで最も広い化学工場用地トップ3の1つであり、1990年代よりもさらに多くの従業員が働いている<ref>[http://www.industriepark-hoechst.com/ "Industriepark Frankfurt-Höchst"](2013年3月16日 閲覧)</ref>。

かつて最大の染料メーカーの1つだったフェッヒェンハイムのカッセラAGは、1995年にヘキストAGと合併した。この事業部門はヘキスト分割に伴って、1997年にクラリアントに属すこととなった。マインクールの旧カッセラ工場は、その後アレッサケミーGmbH の本社として存続している。この企業名アレッサケミー (AllessaChemie) は、カッセラ (Cassella) の[[アナニム]](綴りを逆向きに並べ替えたもの)である。

デグサは2001年に本社を[[デュッセルドルフ]]に移し、[[エッセン]]の[[エヴォニク]]・コンツェルンに編入された。

[[ドイツ鉄道]]は[[ドイツ再統一|東西ドイツ再統一]]に伴い、2000年にグループ本社を[[ベルリン]]に移転した。ただしグループ開発およびその他の中心的な部門、ならびに子会社のDBネットやDBシステルはフランクフルトに残っている。

フランクフルトの高い営業税、高い事務所家賃、高い地価により、企業の周辺自治体への移転が助長された。ドイツ銀行は1990年代に新しい計算機センターをエシュボルンに建設し、BHF銀行も1997年に[[オッフェンバッハ・アム・マイン|オッフェンバッハ]]に計算機センターを設立した。

2013年に発表されたフランクフルト・アム・マイン商工会議所による景気に関するアンケートによれば、[[世界金融危機 (2007年)|世界金融危機]]以後、ほぼすべての経済分野で市場は回復傾向にある<ref>[http://www.frankfurt-main.ihk.de/standortpolitik/konjunktur_statistik/konjunktur/konjunkturbericht/frankfurt/index.html "Konjunkturbericht IHK-Bezirk Frankfurt"](2013年3月16日 閲覧)</ref>

2011年9月26日にチコナの新しい生産工場がオープンした<ref>Jutta Rippegather: [http://www.fr-online.de/rhein-main/flughafen-ticona-macht-platz,1472796,10843412.html "Ticona macht Platz"], Frankfurter Rundschau 2011年9月15日付け(2013年3月16日 閲覧)</ref>。これはケルスターバッハからインダストリーパーク・ヘーヒストに移転したものである。

=== 購買力 ===
構造変化にもかかわらず、2006年から2007年の住民1人あたり、あるいは就業者1人あたりの [[国民総生産|GDP]] は、ドイツの大都市の中でその地位を保ち続けている。生活の質や移住誘引力も上述の通り高い状態にある<ref>[http://www.n24.de/news/newsitem_5018178.html "Städte mit höchster Lebensqualität gekürt"], N24 2009年4月30日付け(2013年3月16日 閲覧)</ref>。古典的な産業の衰退は、フラポートやドイツ証券取引所といったサービス業の進展や、自動車産業・IT産業分野の国外大企業のヨーロッパ本部あるいはドイツ本部設置によって相殺されている。一方、この街は金融分野とは全く異なる、[[バイオテクノロジー]]の研究都市として発展しようと努力している。人口増加、失業率、住民あるいは就業者1人あたりのGDPといった指標において、フランクフルトは強力な地位を占めている。収入はドイツで最も高い水準にある<ref>[http://web.archive.org/web/20080226233228/http://www.wiwo.de/politik/zweiter-im-niveau-ranking-mit-den-hoechsten-einkommen-237091/ "Zweiter im Niveau-Ranking mit den höchsten Einkommen"], wiwo.de 2008年2月27日付け(2013年3月16日 閲覧)</ref>。高所得の労働者は、主にフランクフルトに隣接する、住宅密度の高いフォルダータウヌス地方の郡部(特に、[[ケーニヒシュタイン・イム・タウヌス]]、[[クロンベルク・イム・タウヌス]]、[[バート・ゾーデン・アム・タウヌス]])に住んでいる<ref>[http://www.innovations-report.de/html/berichte/studien/bericht-53269.html "Kaufkräftigste Deutschen wohnen im Raum Frankfurt am Main"] innovations report 2005年12月21日付け(2013年3月16日 閲覧)</ref>。それにもかかわらず、フランクフルトの2012年現在の購買力指標は 117.5 と平均よりも高い値を示している(ホーホタウヌス郡およびマイン=タウヌス郡のそれは、それぞれ 137.7、146.3、ヘッセン州全体では 107.4 である)<ref>[http://www.frankfurt-main.ihk.de/standortpolitik/konjunktur_statistik/wirtschaftsstruktur/ihk-bezirk/kaufkraft_bezirk/index.html "Kaufkraft im IHK-Bezirk 2012"], Industrie- und Handelskammer Frankfurt am Main(2013年3月16日 閲覧)</ref>。

=== 観光業 ===
観光業もフランクフルトにとって有力で成長力の大きい分野である。ビジネス客や見本市を訪れる人の他、世界中からますます多くの観光客が集まるようになっている。2007年にフランクフルトを訪れた人は約 250万人で、ベルリン、ミュンヘンに次いで 3番目に多かった。2009年の訪問者数は 300万人、2010年は 340万人で、[[ベルリン]]、[[ミュンヘン]]、[[ハンブルク]]に次いで4位であった<ref>[http://www.n-tv.de/reise/Deutsche-Staedte-noch-beliebter-article2702216.html "Auf Podest: Berlin, München, Hamburg: Deutsche Städte noch beliebter"] n-tv.de 2011年2月25日付け(2013年3月16日 閲覧)</ref>。人口1人あたりの訪問者数ではフランクフルトがトップであり、統計上は市民1人あたり5人のゲストを迎えたことになる。

=== 交通 ===
フランクフルト・アム・マイン市はヨーロッパの中央に位置することから、ヨーロッパで最も重要な交通の中継地点の一つとなっている。鉄道、道路交通、内陸水運、航空が、ここで互いに交差している。[[マーシュ・アンド・マクレナン|マーシュ・アンド・マクレナン・カンパニーズ]]の調査(2009年)によれば、フランクフルトは世界で 8番目に社会資本(航空、公共旅客交通、渋滞状況を含む)が豊かな都市であった<ref name="QOL"/>。これは、[[ロンドン]]、[[パリ]]、[[シドニー]]、[[東京]]、[[ニューヨーク]]といった国際都市よりも上位である。ドイツではミュンヘン(2位)、デュッセルドルフ(6位)が上位にいる。

世界初の航空会社 [[ドイツ飛行船旅行|DELAG]] は、1909年にフランクフルトで設立された。
[[File:Aerial View of Frankfurt Airport 1.jpg|right|300px|thumb|フランクフルト国際空港]]
==== 空港 ====
この街は世界最大級の空港の 1つである[[フランクフルト国際空港]]を有している。乗降客数は、ロンドンの[[ロンドン・ヒースロー空港|ヒースロー空港]]、パリの[[シャルル・ド・ゴール国際空港]]に次いで3番目に多い。2010年には 5,300万人の乗降客と 220万トンの貨物がこの空港を通過した。

[[フランクフルト・ハーン空港|フランクフルト=ハーン空港]]は、その名称から勘違いされるが、フランクフルトにあるわけではなく、西に約 120 km 離れた[[ラウツェンハウゼン]]([[ラインラント=プファルツ州]])にある。ドイツで 11番目に乗降客数が多いこの空港は、2007年に 400万人が利用指した。

フランクフルト=エーゲルスバッハ飛行場もフランクフルトではなく、17 km 南の[[エーゲルスバッハ]]にある。

==== 道路 ====
フランクフルト国際空港に近いフランクフルト・ジャンクションで連邦[[アウトバーン]] A5号線([[バート・ヘルスフェルト|ハッテンバッハ・ジャンクション]] - [[バーゼル]])と A3号線([[アーネム]] - [[リンツ]])が交差している。このジャンクションは1日に約 32万台が通行するドイツで最も通行量の多いアウトバーン・ジャンクションである。

この他のアウトバーンとしては、西の[[ヴィースバーデン]]から東の[[フルダ]]に至る A66号線が通り、短いがメッセ会場やインネンシュタットへの連絡路として重要な A648号線、[[オーバーウルゼル (タウヌス)|オーバーウルゼル]]からエーゲルスバッハへ南北に貫く A661号線がある。西のA5号線、北東のA661号線、南のA3号線が、フランクフルトを取り巻くアウトバーン・リングを形成している。このアウトバーン・リングは2008年10月1日に制定されたウムヴェルトツォーネ(都市環境整備地区)の境界をなしている<ref>[http://www.umweltzone.frankfurt.de/ "Umweltzone Frankfurt am Main"](2013年3月16日 閲覧)</ref>。

この街に通じる連邦道は、B3号線、B8号線、B43号線、B44号線がある。

市が所有する道路は 1145 km に及ぶ。フランクフルトには人口 1,000人あたり 715台の自動車があり、ドイツの大都市の中で最も自動車密度の高い街である。都市アウトバーン(一部は連邦アウトバーン、あるいはアウトバーン風に拡張された連邦道や州道である)が、市内を通っている。

多くの長距離バス路線がフランクフルトと他の都市(ベルリン、ハンブルク、[[マンハイム]]、ミュンヘンなど)とを結んでいる。
[[File:Frankfurt Main Hauptbahnhof 6229.jpg|right|300px|thumb|フランクフルト中央駅]]
==== 鉄道 ====
鉄道交通では、[[フランクフルト中央駅]]によってヨーロッパで最も鉄道旅客の多い都市の一つとなっている。ドイツ鉄道は、フランクフルトをドイツで最も重要な乗換駅と位置づけている。[[ICE]] 13路線が乗り入れており、高速鉄道網の最も重要な接続駅となっている。

フランクフルト中央駅は、1日に約 35万人が利用する。これは、[[ハンブルク中央駅]](1日の利用客数約 45万人)に次ぎ、[[ミュンヘン中央駅]]と並んでドイツで 2番目の数である。また、駅の面積では、[[ライプツィヒ中央駅]]、[[チューリッヒ中央駅]]と並んで、ヨーロッパ最大規模である。この駅を発着する最も長い行程を走る列車は、[[バーゼル]] - [[モスクワ]]間を結んでいる。2002年から、[[ケルン]]行きの新しい ICE路線が営業を開始し、両都市間の移動時間を 75分に短縮した。さらに、Rhealys プロジェクトとして、[[パリ]]行きの高速鉄道路線もある。乗客は、フランクフルト中央駅と[[パリ東駅]]との間をわずか 4時間で旅することができる。

[[フランクフルト空港駅|フランクフルト空港遠距離駅]]は、フランクフルト市内にある高速鉄道網にとって極めて重要なもう一つの駅である。この駅はフランクフルト南駅とともに、キャパシティーの限界まで運用されている中央駅の負担軽減に寄与している。

貨物鉄道交通における重要性は後退している。ドイツ鉄道は、フランクフルト西部にあった広大な貨物中央駅を1996年に閉鎖した。空いた土地は、隣接するメッセ・フランクフルトが一部利用している。さらにオイローパフィールテルという新しい街区が生まれている。東駅には現在も、小規模な操車場があり、運用されている。
[[File:Frankfurt am Main - Netzplan Schienennahverkehr.png|right|300px|thumb|フランクフルトの近郊鉄道路線図]]
==== 公共近距離交通 ====
フランクフルトおよび周辺地域の公共近距離交通は、[[Sバーン]]、一部が [[地下鉄|Uバーン]]化された市電、[[路面電車]]、市バスおよび多くの[[レギオナルバーン]]からなる。Sバーンの8つの駅のうち、7駅がその中にあるシティー・トンネルがインネンシュタットの地下を通っている。中央駅、ハウプトヴァッヒェ、コンスタブラーヴァッヒェおよび南駅は、Sバーンおよび Uバーンがともに地下で乗り換えることができる。

この街のローカルな交通機関の運行会社で最大なのが、フランクフルト交通会社 (VGF) である。ローカルな交通運行会社 traffiQ GmbH は、近郊交通機関のコーディネイトを行っている。この会社は、地域交通と統一料金の管理を行うライン=マイン交通連盟のパートナーである。

フランクフルト国際空港に、1994年に全長 3.8 km の全自動交通システム「スカイライン」が設けられた。この路線は、2つのターミナルを結んでおり、遠距離交通駅と将来できる第3ターミナルとの間に新しい路線が造られる予定である。

{{gallery
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|File:Frankfurt Hauptbahnhof tief S-Bahn S6.jpg|Sバーン(中央駅地下)
|File:Frankfurt Hauptbahnhof U-Bahn Typ U3 Linie U4.jpg|Uバーン(中央駅)
|File:VGF S201 29.11.2005 Suedbahnhof.JPG|フランクフルトの路面電車(南駅)
|File:Frankfurt skyline 003.jpg|フランクフルト空港のスカイライン
}}

==== 内陸水運 ====
フランクフルトは、内陸水運では、[[ライン川]]を経由して重要な工業地域である[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]や[[オランダ]]と結ばれている。また、[[マイン=ドナウ運河]]を経由して[[中央ヨーロッパ]]南東部とも結ばれている。

フランクフルトには、西港を住宅・オフィス地区に転換した後も、東港、フルスハーフェン・グートロイトシュトラーセ、インダストリーパーク・ヘーヒスト港がある。

==== 自転車道 ====
マインの川岸には多くの自転車道が通っている。
* ヘッセン自転車道 R3号線(ライン=マイン=キンツィヒ自転車道)は、「シュペートレーゼライターの轍」のモットーの下、[[ライン川]]、[[マイン川]]、[[キンツィヒ川]]に沿って[[フルダ]]を経由して[[レーン山地]]の[[タン (レーン)|タン]]に至る。
* マイン自転車道は、[[白マイン川]]および[[赤マイン川]]の水源からマイン川がライン川に注ぐ合流地点の[[マインツ]]まで延びている。
* D-ルート5(ザール=モーゼル=マイン)は、[[ザールブリュッケン]]から、[[トリーア]]、[[コブレンツ]]、マインツ、フランクフルト・アム・マイン、[[ヴュルツブルク]]、[[バイロイト]]を経て[[チェコ]]との国境までたどる(全長 1,021 km)

=== 電子的コミュニケーション ===
[[インターネット]]についてもフランクフルトは重要な街である。ドイツ最大の[[インターネットエクスチェンジ]] DE-CIX と[[トップレベルドメイン]] .de に対するドメインを管理する DENICがこの街にある。トータルの平均データ量で、DE-CIX は世界1位である<ref>[http://www.heise.de/netze/meldung/Frankfurter-Internet-Knoten-DE-CIX-weltweit-auf-Platz-eins-988160.html "Frankfurter Internet-Knoten DE-CIX weltweit auf Platz eins"], heise Netze 2010年4月27日付け(2013年3月16日 閲覧)</ref>。

=== 病院 ===
フランクフルト・アム・マインには、27の病院がある。

=== 下水道 ===
フランクフルトの[[下水道]]の配管システムは、道路の地下を約 1,600 km にわたって張り巡らされている。1877年に、[[旧オペラ座|アルテ・オーパー]]に最初の下水道が設けられ、1897年に最初の[[下水処理場]]が稼働を開始した。フランクフルトとハンブルクが、こうした方法で[[伝染病]]の危険を克服しようと試みた大陸で最初の 2つの街である。

=== 国の施設と組織 ===
1957年から[[ドイツ連邦銀行]]はフランクフルトに本部を置いている。1988年から、EU加盟国でユーロ圏に属す 17カ国の金融政策に責任を持つ[[欧州中央銀行]]がこの街に置かれた。2004年からヨーロッパの保険を監督する機関(2004年から2011年までは CEIOPS、それ以後は [[欧州保険・企業年金監督局|EIOPA]])の本部がこの街にある<ref>Thorsten Winter: [http://www.faz.net/aktuell/wirtschaft/ceiops-der-grosse-auftritt-der-unbekannten-aufseher-1488038.html "Der große Auftritt der unbekannten Aufseher"], Frankfurter Allgemeine Wirtschaft 2007年11月19日付け(2013年3月16日)</ref>。この他に、ドイツ復興金融公庫銀行(KfW銀行グループ)本社や[[国際金融公社]]事務所([[世界銀行]]の一部)がある。

フランクフルトはまた、[[ドイツ国立図書館]]の所在地である。司法機関では、ヘッセン州を管轄するフランクフルト高等裁判所、ヘッセン州労働裁判所、フランクフルト・アム・マイン地方裁判所、フランクフルト・アム・マイン社会裁判所、フランクフルト・アム・マイン労働裁判所、フランクフルト・アム・マイン行政裁判所、フランクフルト・アム・マイン区裁判所がある。また、2003年末に廃止されるまで連邦懲罰裁判所があった。

フランクフルト・アム・マイン警察本部は、ヘッセン州に7つある警察本部の1つである。街の安全や治安維持の業務はフランクフルト市警察(ヘッセン州安全治安維持条令 § 99 の補助警察にあたる)が担っている。フランクフルトは、ヘッセン州財務局の所在地である。また、ヘッセン州社会生活保護庁もフランクフルトにある。1874年に創設された職業消防庁と28の自衛消防団からなるフランクフルト消防隊は、10箇所の消防署に別れて所属している。

フランクフルトには、92の[[領事館]]がある<ref>[http://www.frankfurt.de/sixcms/detail.php?id=3798&_ffmpar&#x5B;_id_inhalt&#x5D;=220010 "Ausländische diplomatische Vertretungen und Konsulate"](2013年3月17日 閲覧)</ref>。各国の首都を除けば、これ以上の外国公館を有する都市はニューヨークとハンブルクだけである。中国とロシアはフランクフルトに[[総領事館]]を開設した。エッケンハイムのアメリカ合衆国総領事館は世界最大のアメリカ合衆国領事館である。

=== メディア ===
==== 新聞、その他の印刷メディア ====
世界で最も早くから新聞が刊行されていた都市の一つであるフランクフルトは、2つの全国的な新聞社の本社所在地である。リベラル=保守系の[[フランクフルト・アルゲマイネ・ツァイトゥング]] (F.A.Z.) は、編集局と出版者をガルスのマインツァー・ラントシュトラーセ沿いに有している。左翼リベラル系の[[フランクフルター・ルントシャウ]]は、2005年7月からザクセンハウゼンにある。さらにフラクフルトでは、ベルゼン=ツァイトゥング(株式市場新聞)も刊行されている。重要な(保守系)地方紙が、フランクフルター・ノイエ・プレッセ (FNP) である。この新聞を刊行しているフランクフルター・ゾシーエテート出版社は F.A.Z. の出版社のすぐ隣にある。フランクフルトでは、[[ロシア語]]日刊紙[[モスコフスキー・コムソモーレツ]]の姉妹紙としてロシア語の週刊紙 MK-ドイチュラントが刊行されている。

日刊紙の他にいくつかの雑誌もフランクフルトのメディア状況を彩っている。ジャーナル・フランクフルトは、この街のイベント、祭、地元の豆知識などが掲載された最もよく知られた雑誌である。F.A.Z. と FNP と同じようにジャーナル・フランクフルトの編集局もガルス区にある。ボッケンハイム区のエコ=テスト出版社は「エコロジー関連雑誌」に特化している。最もよく知られているのは、同名のテスト雑誌「エコ=テスト=マガツィーン」である。同じくボッケンハイムに、風刺雑誌「タイタニック」の編集局がある。経営協議委員会(「アーバイツレヒト・イム・ベトリープ」)や職員協議会(「デア・ペルゾナールレーテ」)に関する専門誌が、フランクフルトのヘッデルンハイム区にあるブント出版社から出版されている。

==== ラジオ、映画、テレビ ====
フランクフルトで最も古い放送局は、1924年に設立された南西ドイツ放送サービスAG(現存する[[南西ドイツ放送]]とは別)である。現在はその後継企業である[[ヘッセン放送]]が、この街のラジオおよびテレビの最も重要な報道機関である。また、ARDシュテルンプンクトもある。この会社は、共同制作した番組(たとえば「ダス・エルステ」)を高速ネットワークを介して送信局に提供している。アメリカ軍の放送局 [[AFN]] も1945年8月からフランクフルトに本部を置いていた。しかし、兵力の削減に伴って、フランクフルトの AFN施設は閉鎖された。2004年10月以降、AFNのヨーロッパ向け放送は、[[マンハイム]]から送られている。アメリカ合衆国のメディア・コンツェルン [[ブルーフバーグテレビジョン]]は、フランクフルト=インネンシュタットのノイエ・マインツァー通りにドイツ・スタジオを有している。これらに加えて、RTLグループのラジオスタジオもある。フランクフルトのマインFMなどの、ラジオ専門放送局もある。さらに、民間ではあるが営利企業ではないラジオ放送局ラジオXもある。この放送局はコンスタブラーヴァッヘの近くにある。この地域で最も古く、最も大きなラジオ局ヒットラジオ FFH は、1989年にフランクフルトで設立された。この放送局は 2001年以降フランクフルトと境を接する[[バート・ヴィルベル]]から放送を行っている。フランクフルトには若者向けの情報番組や音楽番組を放送している iM1-TV の放送センターがある。ダルムシュテットラー・ラントシュトラーセにはホーム・エンターテイメント社や映画会社 [[20世紀フォックス]]のドイツ・センターがある。さらに[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]のドイツ映画部門もフランクフルトにある。ラジオ・ボブは、フランクフルト・ルントシャウの社屋内にマーケティング部門を置いている。

フランクフルトには通信社[[ロイター|ロイター・ドイチュラント]](メッセタワー内)や[[AP通信|アソシエイテッド・プレス・ドイチュラント]]の本部もある。[[ドイツ通信社]]は研修センターをフランクフルトに置いている。

=== 教育と研究 ===
[[ファイル:Goethe University Frankfurt Poelzig Building.jpeg|right|300px|thumb|フランクフルト大学ヴェストエントキャンパスの IG.ファルベンハウス]]
フランクフルト・アム・マインには、2つの総合大学と数多くの専門単科大学がある。この街で最も有名で、最も古い大学が、[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン]](フランクフルト大学)である。この大学はボッケンハイム、ヴェストエント、リートベルク、ニーダーラート大学病院の 4つのキャンパスからなる。

1971年にいくつかの先行機関から設立されたフランクフルト・アム・マイン専門大学は、応用工学と経済学を重点分野とする大学である。

ザンクト・ゲオルゲン哲学・神学大学は、フランクフルトで最も古い私立大学である。この大学は[[イエズス会]]ドイツ支部によって運営されており、1926年からザクセンハウゼンにある。この他に多くの単科大学がある。フランクフルト金融・マネジメントスクールは、かつての銀行アカデミーと銀行学単科大学から創設された大学で、フランクフルト=オストエントにキャンパスがある。2001年に開校した FOM経済・マネジメント大学 (FOM) はヴェストエントに学習センターを有している。2003年に設立されたプロヴァディス国際経営およびテクノロジースクールはインダストリーパーク・ヘーヒストにある。マネジメント国際スクールは2007年からザクセンハウゼンに学舎を有する。

芸術分野では、国立造形芸術大学(シュテーデルシューレ)がある。この大学は、1817年にヨハン・フリードリヒ・シュテーデルによって創設され、その後、市の所有を経て、1942年に国立の造形芸術大学に昇格した。他の高名な芸術大学としては、1878年に創設された私立の学校 Dr. ホーホのコンセルヴァトリウム(音楽アカデミー)を起源とする[[フランクフルト音楽・舞台芸術大学]]がある。

2003年9月までは、[[図書館学]]の専門単科大学であるフランクフルト・アム・マイン図書館学学校もあった。これは学問の場としての図書館で高度なサービスを行うための実務に関する教育・研究を行う専門単科大学であった。この大学は、2003年9月に閉鎖された。

フランクフルトには、マックス・プランク学術振興協会の欧州法制史研究所、[[生物物理学]]研究所、脳研究所などがある。総合大学を緊密な関係にあるフランクフルト先端学問研究所は、物理学、化学、生物学、神経学、情報学の論理的基礎研究に対する研究所で、民間がスポンサーになっている。

フランクフルト市民大学は、私企業としてフランクフルト市が組織しているもので、フランクフルト=オストエントに本部を置いている。

カトリック成人教育 ― ヘッセン州共同作業体は、リンブルク司教区の教育機関であり<ref>[http://dioezesanbildungswerk.bistumlimburg.de/ Diözesanbildiungswerk Limburg](2013年3月20日 閲覧)</ref>、フランクフルト、マイン=タウヌス、ホーホタウヌス校の本部がハウス・アム・ドームにある。

ゲームス・アカデミーもフランクフルトに下部組織を有している。

== 文化と見所 ==
=== 賞、栄誉 ===
* 名誉市民権(この街最大の栄誉)
* ゴルデネス・ブーフ(黄金の書)に登録
* フランクフルト・アム・マイン市名誉章(1952年から毎年、最大5名まで)
* フランクフルト・アム・マイン市市民賞(2002年から毎年、最大5名まで)
* フランクフルター・グリュンダー賞(2001年から)
* フランクフルト・アム・マイン市ゲーテ章(1947年から毎年、芸術分野で功績のあった人物に贈られる)
* フランクフルト市ゲーテ賞(1927年から、当初は毎年、後に3年に1度、ゲーテの誕生日に贈られる。賞金 5万ユーロ)
* [[イグナツ・ブービス]]賞(2001年から3年毎)
* インテグレーション賞(毎年、個人または団体に贈られる。賞金1万5千ユーロ)
* 国際高層ビル賞(毎年、デカ銀行の後援による。賞金5万ユーロ)
* [[マックス・ベックマン]]賞(3年に1度、ベックマンの誕生日に絵画、グラフィック、彫刻、建築分野の奨励と優れた功績を称揚するために授与される)
* [[オットー・ハーン]]賞(2年に1度、化学、物理、応用工学分野の優れた功績に対して贈られる)
* フランクフルト・アム・マイン市レーマー章(無給の栄誉職を長く務めた人物に贈られる。10年、15年、20年の3段階がある)
* スポーツ章(スポーツでのタイトル獲得者や、スポーツ分野での名誉職を務めた人物に贈られる)
* [[テオドール・アドルノ|テオドール W. アドルノ]]賞(1977年から3年に1度、哲学、音楽、演劇、映画分野での優れた功績に対して贈られる。賞金5万ユーロ)
* [[トニー・ゼンダー]]賞(2年毎に人権活動の促進に対して贈られる。賞金1万ユーロ)
* [[ヴァルター・メラー]]章(2年毎にグループ活動や住民活動に対して贈られる。賞金1万ユーロ)
* [[ヴァルター・コルプ]]記念賞(毎年、優れた学術論文に対して贈られる。賞金2,500ユーロ)
* [[ヨハン・フィリップ・フォン・ベトマン]]学術賞(毎年、フランクフルトの市史研究に関する優れたプロジェクトに対して贈られる。

=== 見所 ===
[[File:Frankfurt Am Main-St Bartholomaeus-Ansicht vom Nextower-20110812.jpg|right|200px|thumb|カイザードーム]]
==== アルトシュタット ====
この街で最も重要な3つの見所がアルトシュタットに集まっている。カイザードーム(大聖堂)、レーマーベルク、パウルス教会である。

特徴的な後期[[ゴシック建築|ゴシック様式]]の西塔を持つ[[カトリック教会|カトリック]]の聖バルトロメウス大聖堂は、皇帝の選挙と戴冠が行われた場所である。この大聖堂からレーマー(市庁舎)に通じる道はケーニヒスヴェク(王の径)と名付けられている。新たに戴冠した皇帝が、市庁舎への宴のために行列を連ねた通りである。現在(2013年)、大聖堂前には、[[ローマ時代]]や[[カロリング朝]]時代の出土品が発掘された「アルケオローギシャー・ガルテン」(考古学の庭)がある。
[[File:Frankfurt Am Main-Samstagsberg-20070607.jpg|right|200px|thumb|レーマーベルクの東側の一連の建物。左端は大聖堂の西塔。]]
レーマーベルクは、アルトシュタットの中心となっている広場で、14世紀の市庁舎(レーマー)、初期ゴシック様式の旧ニコライ教会、戦争で破壊された後に再建された広場東側の一連の建造物などがある。地元クラブ([[アイントラハト・フランクフルト]]や[[フランクフルト・ライオンズ]])がタイトルを獲得した際には、市庁舎バルコニーで祝勝イベントが開かれる。サッカーワールドカップの際にも、ファンとともにこれを祝った。

[[パウロ教会|パウルス教会]]は、1786年に取り壊された中世の跣足教会に替えて、1789年から1833年に建設された教会で、1944年まで[[プロテスタント]]の中央教会として使用された。ヨハン・ゲオルク・クリスティアン・ヘスによるこの[[古典主義建築|古典主義様式]]の円形建造物内で、1848 / 49年のフランクフルト国民議会が開催された。パウルス広場はストリートカフェのある人気の都市広場である。

レーマーベルクとリープフラウエンベルクとの間にノイエ・クレーメ(通りの名前)がある。リープフラウエンベルクには、14世紀に建立されたリープフラウエン教会(聖母教会)、1770年建造のリープフラウエンブルンネン(聖母の泉)、フランクフルトに残る数少ない[[バロック建築]]の1つである1775年建造の家屋「ツーム・パラディース/グリムフォーゲル」がある。

1944年に破壊された後、1954年に建設された新しい建物であるクラインマルクトハレ(小市場)は、この街のグルメセンターである。平日には、150以上のテナントであらゆる種類の食材が売られている。この他に、アルトシュタット西部のグローサー・ヒルシュグラーベンには[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の生家がある。現在では閑静な通りのコルンマルクト(直訳すると「穀物市場」)は、中世にはこの街のメインストリートであった。
{{gallery
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|File:Archaeologischer-Garten-10-2012-Ffm-889.jpg|考古学の庭
|File:Rathauskomplex-roemer-ffm002.jpg|レーマー全景
|File:Frankfurt Am Main-Nikolaikirche-20070607.jpg|旧ニコライ教会
|File:Frankfurt Am Main-Paulskirche-Ansicht vom Maintower.jpg|パウルス教会
|File:Mk Frankfurt Neue Kräme 2.jpg|ノイエ・クレーマー通りを通してみる聖母教会
|File:Frankfurt, Liebfrauenbergbrunnen.JPG|聖母の泉
|File:Kleinmarkthalle Frankfurt Marktszene.jpg|クラインマルクトハレの内部
|File:Frankfurt Am Main-Goethe-Haus-Ansicht am Grossen Hirschgraben.jpg|ゲーテの生家
}}
[[File:Frankfurt Am Main-Saalhof-2007.jpg|right|200px|thumb|ザールホーフ]]
==== マイン川沿い、マイン川の橋 ====
[[マイン川]]の両岸は、フランクフルト市内で最も魅力的な地域に発展してきている。ムゼウムスウーファー(博物館堤)の拡張、川岸施設の刷新、旧フランクフルト西港の住宅・産業地域への改変といったプロジェクトが行われ、建築上見所の多いマイン川の橋などがある。アルテ・ブリュッケ(直訳すると「古い橋」、1222年にはすでに文献に記録されている)は、何世紀もの間、この町で最も重要な建造物であった。2006年にマイン川の中州に展示ホール「ポルティクス」が建設された。1869年に開通した歩行者専用橋のアイゼルナー・シュテークは、この街の象徴的建造物の1つである。この橋の北詰にあるザールホーフとカトリックのレオンハルツ教会は[[ホーエンシュタウフェン朝|シュタウフェン朝]]にまで遡る文化財建築である。

インネンシュタット東部のマイン川の橋から見たアルトシュタットとスカイラインは、フランクフルトを表現する画像としてよく用いられる。インネンシュタットの東側、マイン川の両岸にそれぞれ大きなビーチ・クラブが設けられた。ゲーテとマリアンネ・フォン・ヴィレマーがデートした場所として文学史に名を遺すゲルバーミューレは現在、行楽地のレストランとなっている。

自然保護地域「シュヴァンハイマー砂丘」は、ヨーロッパで数少ない内陸[[砂丘]]の1つで、シュヴァンハイム区西部のマイン川近くにある。総面積は 58.5 [[ヘクタール|ha]]で、絶滅の危機に瀕した珍しい種を含め多くの動植物が棲息している。

{{gallery
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|File:Museumsufer-teil1-ffm001.jpg|博物館堤、画面右手前は聖三位一体教会、その奥がドイツ・イコン博物館
|File:Frankfurter Mainbruecken.jpg|マイン川に架かる橋、画面右端がアイゼルナー・シュテーク、その左隣の橋がアルテ・ブリュッケ
|File:Portikus001.jpg|ポルティクスとアルテ・ブリュッケ
|File:Frankfurt Am Main-Leonhardskirche-Ansicht vom Eisernen Steg-Gegenwart.jpg|レオンハルツ教会
|File:Gerbermühle.jpg|ゲルバーミューレ
|File:Schwanheimer Düne Weg 1.jpg|シュヴァンハイマー砂丘
}}
[[File:The Squaire 2011-07-11.jpg|right|200px|thumb|ザ・スクワイア]]
==== ザ・スクワイア ====
ザ・スクワイアは総面積 14万 m<sup><small>2</small></sup> の、ドイツ最大のオフィスビルである。この建物は、全長 660 m、10階建てで高さ 45 m、全幅 65 m ある。この建物の中に[[フランクフルト国際空港]]の遠距離鉄道駅が入っている。さらに2つのホテルと多くの店舗も入居している。建築費は約 10億ユーロで、フランクフルト・アム・マイン市の最も高額な不動産の1つである。

==== 寄進教会 ====
フランクフルトで特徴的なのが寄進教会である。1802年以降、市がインネンシュタットのすべての教会およびザクセンハウゼン区の聖三位一体教会の所有者となっており、1830年以降は国家教会協定によりその管理・運営責任を負っている。教会暦に基づく宗教の祭などにより、市内の教会が鐘を打ち鳴らすフランクフルター・シュタットゲロイテが年に何度も行われる。

==== 摩天楼 ====
[[File:Frankfurt Am Main-Stadtansicht von der Deutschherrnbruecke am fruehen Abend-20110808.jpg|right|200px|thumb|夕暮れのフランクフルト・アム・マインのスカイライン]]
[[File:Europaturm Ginnheimer Spargel.jpg|right|140px|thumb|オイローパ塔]]
フランクフルトは、ヨーロッパでは数少ない印象的な[[スカイライン]]を持つ街であり、このため[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]をもじって「マインハッタン」とも呼ばれる。特に多くの[[高層建築物]]が、インネンシュタット西部の銀行地区、バーンホーフスフィールテル東部、ヴェストエント南部に密集している。最初の高層ビルは1950年代に建設され、1970年代中頃から高さ 150 m を超える[[超高層建築物]]も建造されるようになった。

1953年からフランクフルトの都市建設計画も高層ビルの規定に取り組んだ。1998年に高層建築構造計画が起草され、2008年に最終決定がなされた。これは、高層ビルを一定の区画に集中させグループとして取り扱うことを意図したもので、オストエント区の欧州中央銀行新庁舎や中央駅前のバーンタワーといった例外はあるものの、実際に運用された。

1950年代から新規建造物の高さは高くなっていった。1951年に造られたジュニア=ハウスは高さ 35 m、1953年に開館した AEGホーホハウスは 45 m であった。1956年には、ハウプトヴァーヒェのフェルンメルデホーホハウスが高さ 69 m でこの街の最も高い建物であった。1960年代には、ホテル・インター=コンチネンタル (67 m)、チューリッヒ=ハウス (68 m) といった同じような高さの建物が建てられた。ジュニア=ハウスとホテルを除き、これらの建物は後に取り壊され、より高い建物に置き換えられた。ザクセンハウゼン区のヘニンガー塔は高さ120 m で、カイザードーム西塔 (95 m) を超えたフランクフルトで最初の建物であった。1960年代に建てられたこの他の高層ビルとしては、たとえば BHF 銀行ホーホハウス (82 m) やライン=マイン=センター (84 m) がある。

1972年になるとゲーテ大学の AfE 塔が高さ 116 m で最も高い建物であり、1974年に 142 m のシティー=ホーホハウスが建造された。最初の[[超高層建築物]]が 1976年にオープンした 159 m のプラザ・ビューロ・センターであり、1978年に建設された[[ドレスナー銀行]]のジルバー塔は高さ 166 m で当時のドイツ連邦共和国で最も高い建物であった。[[ユーロタワー]]とヘラバ=ホーホハウスにより、都市中心部の高層ビル密度は高まった。1980年代に建てられた建造物は、それまでの高さを超えることはなかった。この時代の最も有名な建物が 1984年に完成した高さ 155 m の[[ドイツ銀行ツインタワー]]である。この建物は、地元ではゾル・ウント・ハーベンと呼ばれている。

1990年代には、第2次高層建築ジェネレーションが新たな記録を樹立していった。メッセ塔は1991年に高さ 257 m でヨーロッパで最も高い建物となり、1997年には高さ 259 m の[[コメルツ銀行タワー]]が建てられた。この時代の、やはり 200 m を超えた他の建物としては、DZ銀行の[[ヴェストエント・タワー]]や[[マインタワー]]がある。マインタワーは、屋上プラットフォームに一般人が立ち入りできるフランクフルトで唯一の高層建築である。ジャパン・センターの 25階にはレストランが、オイロテウムの 22階にはバーがある。不定期に開催されるヴォルケンクラッツェン=フェスティヴァル(摩天楼祭)の期間中には他の高層建築も一般に開放される。

21世紀には、フランクフルトに他の高層建築が建設された。[[タワー 185]]、[[オペルン塔]]、[[スカイパー]]、ガリレオ、ネクスタワーやヴェストハーフェン・タワーなどである。2011年現在、フランクフルトには高さ 150 m 以上の建物が 12 棟あり、ドイツ高い建物ベスト8がこの街にある。さらに欧州中央銀行新庁舎とタウヌス塔の2つの超高層建造物が建設中である。

この街でもっとっも高い建物は、1978年以降、テレコムの放送通信塔であるオイローパ塔(フラクフルト市民からは「ギンハイマー・シュパーゲル」と呼ばれる)で、高さは 337.5 m である。オイローパ塔には、ビジターエリアがあったが、資金不足から1999年以降閉鎖されている。
[[File:Dreikoenigskirche-ffm001.jpg|right|200px|thumb|ザクセンハウゼンの三位一体教会]]

==== ザクセンハウゼン ====
1192年に初めて文献に記録されているマイン川南岸のザクセンハウゼンは、フランクフルト方言で「ドリップデバッハ」(川の対岸)と呼ばれている。この呼び名はインネンシュタットを指す「ヒップデバッハ」(川のこちら側)に対する呼び名である。中世からここには主に漁師、農民、職人が住んでおり、粗野な言葉遣いや生活態度で知られていた。18世紀から19世紀にかけて次第に裕福な市民も住むようになった。やがてザクセンハウゼンの旧市街は人気の飲食店街となった。しかし、アメリカ軍駐屯地が閉鎖された後、この街は訪れる人の減少に苦しんだ。これ以後、空き家や荒廃した建物が目立つようになっていった。それでも伝統的な、一部はとても古くから続くリンゴ酒の酒場が残った。市は、この地区の復興に尽力した。その結果、飲食店の他に小さなオフィスやアトリエが開設され、日中も活気が高まっている。

ザクセンハウゼンのマイン河岸で他を圧する建物が、1875年から1881年に建設された三位一体教会である。また、マイン川に沿ってムゼウムウーファーの博物館が点在している。ザクセンハウゼンでは第2土曜日ごとに、ドイツ最大級の[[ノミの市]]が開催される。

ザクセンハウゼン北部シュヴァイツァー広場周辺の古い家屋は、小売店やレストランが混在する人気の住宅地となった。「ヴァーグナー」や「ゲマルテン・ハウス」といった有名なリンゴ酒の酒場の他にモダンなカクテルバーも営業している。

また、南部には、1960年代に建設された「レルヒェスベルク」などの高級住宅街がある。さらに、ザクセンハウゼン旧市街の東側にあった旧屠畜場跡に、1990年代以降新しい住宅地ドイチュヘルン地区が建設され、人気の住宅地に発展した。新しい地域の象徴的建造物が、高層ビルのマイン・プラザである。

この他、ザクセンハウゼンの区域内には、シュタットヴァルト内にドイツで最も高い木造建造物の 1つであるゲーテ塔や、[[ロードレース (自転車競技)|自転車レース]]「[[ルント・ウム・デン・ヘニンガー=トゥルム]]」で知られる旧穀物倉庫のヘニンガー塔がある。
{{gallery
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|File:Apfelweinviertel.jpg|ザクセンハウゼンの飲食店街
|File:Museumsufer-teil2-ffm002.jpg|ムゼウムスウーファー、画面右よりの大きな通りがシュヴァイツァー通り
|File:Frankfurt Am Main-Deutschherrnviertel-Ansicht vom Main Tower-20121009.jpg|ドイチュヘルン地区、中央の茶色いビルがマイン・プラザ
|File:Goetheturm.jpg|ゲーテ塔
|File:Henninger.jpg|ヘニンガー塔
}}
[[File:Frankfurt Hbf. (5946207265).jpg|right|200px|thumb|中央駅の中央出入口]]
==== 中央駅とバーンホーフスフィールテル ====
1888年にオープンした中央駅は長距離列車の本数や乗降客数で、ヨーロッパ最大級の駅の 1つである。巨大な 5つの[[トレイン・シェッド]]、様式を留めて保存された駅舎、見切れないほどの地上および地下施設は、見応えのある強い印象を示す構造物である。

バーンホーフスフィールテル(直訳すると「駅周辺地区」)は、文化のるつぼである。ここにはオフィスや異なる文化圏の様々な種類のレストランが混在している。タウヌス通りをはじめとする歓楽街だけでなく、それ以外でもバーンホーフスフィールテルは 24時間活動している街である。この地区は国際的な交通の要衝であることが都市にもたらす問題点の典型例でもある。通勤客や銀行員、国際的なメッセ参加者、日帰り客が作る人の流れのすぐ傍らに、物乞い、アルコール中毒者、薬物中毒者がたむろしている。中央駅の出入り口から直接目にできるカイザー通りは、市の[[ブールバール]]で、多彩な文化の小売店、泡沫会社乱立時代の古い建物からなる歓楽街のすぐ隣に近代的な銀行の高層ビルが建っている。
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|File:Kaiserstrasse-Frankfurt-Ecke-Weserstrasse-b.jpg|カイザー通り
|File:Rotlichviertel Frankfurt Main.JPG|夜の歓楽街
}}
[[File:Staedel-Frankfurt-2013-Ffm-828.jpg|right|300px|thumb|シュテーデル美術館]]
=== 博物館とギャラリー ===
この街は多彩な文化プログラムを提供している。大小 60館以上の美術館、博物館、展示場からなるユニークな博物館群もその 1つである。これらは主にマイン川の両岸に位置している。ムゼウムスウーファー(博物館堤)の原型となった、1968年にティル・ベーレンスによって計画されたフランクフルトの緑地・マイン河岸コンセプトは、1980年代初めから実際に緑地が巡らされ、現在も継続されている。

マイン川のザクセンハウゼン側にあたるムゼウムスウーファーは、[[シュテーデル美術館]]、リービークハウス美術館、コミュニケーション博物館(かつての郵便博物館)、ドイツ建築博物館 (DAM)、ドイツ映画博物館、世界文化博物館、実用芸術美術館(かつての工芸美術館)といった有名な美術館や博物館を含んでいる<ref>[http://www.museumsufer-frankfurt.de/portal/de/Aktuelles/Start/0/0/0/0/2281.aspx Museumsufer Frankfurt Aktuelles](2013年3月30日 閲覧)</ref>。

美術館やギャラリーとしては、シュテーデル美術館(絵画)<ref>[http://www.staedelmuseum.de/sm/ Städel Museum](2013年3月30日 閲覧)</ref>、リービークハウス美術館(彫像)<ref>[http://www.liebieghaus.de/lh/ Liebieghaus](2013年3月30日 閲覧)</ref>、近代芸術美術館 (MMK)<ref>[http://www.mmk-frankfurt.de/ MMK MUSEUM FÜR MODERUNE KUNST FRANKFURT AM MAIN](2013年3月30日 閲覧)</ref>、シルン芸術ホール<ref>[http://www.schirn.de/ SCHIRN KUNSTHALLE FRANKFURT](2013年3月30日 閲覧)</ref>、ドイツ建築博物館 (DAM)<ref>[http://www.dam-online.de/portal/de/Start/Start/0/0/0/0/1581.aspx DAM](2013年3月30日 閲覧)</ref>、ドイツ映画博物館<ref>[http://deutsches-filminstitut.de/filmmuseum/ Deutsches Filmmuseum](2013年3月30日 閲覧)</ref>、ドイツ実用芸術美術館<ref>[http://www.museumangewandtekunst.de/ Museum für Angewandte Kunst Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>がある。

歴史博物館としては、[[カルメル会]]修道院内の考古学博物館<ref>[http://www.archaeologisches-museum.frankfurt.de/ Archäologisches Museum Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>、歴史博物館(市史)<ref>[http://www.historisches-museum.frankfurt.de/ Historisches Museum Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>、ユダヤ博物館<ref>[http://www.juedisches-museum.de/ Jüdisches Museum Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>がある。

技術系の博物館としては、コミュニケーション博物館<ref>[http://www.mfk-frankfurt.de/ コミュニケーション博物館](2013年3月30日 閲覧)</ref>、フランクフルト軽便鉄道博物館<ref>[http://www.feldbahn-ffm.de/ Frankfurt Feldbahnmuseum e.V.](2013年3月30日 閲覧)</ref>、フランクフルト交通博物館(路面電車)<ref>[http://www.hsf-ffm.de/verkehrsmuseum-frankfurt.html Historische Straßenbahn der Stadt Frankfurt am Main: Verkehrsmuseum Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>、エクスペリミンタ<ref>[http://www.experiminta.de/ Experiminta Museum Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>、フランクフルト歴史鉄道協会の[[保存鉄道]]<ref>[http://www.frankfurt-historischeeisenbahn.de/ Historische Eisenbahn Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>、ホーホフート技術コレクション<ref>[http://www.technische-sammlung-hochhut.de/ Technische Sammlung Hochhut](2013年3月30日 閲覧)</ref>がある。ノルトエント地区の EXPLORA は視覚と錯覚の博物館である。ここには多くの[[アナグリフ]]の絵、[[ステレオスコピー]]、[[ホログラム]]や新しい形の視覚効果を体験することができる<ref>[http://www.exploramuseum.de/ EXPLORA Museum+Wissenschaft+Technik, Frankfurt am Main](2013年3月30日 閲覧)</ref>。

[[ゼンケンベルク自然博物館]]は世界的に有名な自然科学の博物館であり、[[世界遺産]]に登録されている[[メッセル採掘場]]から出土した[[化石]]を見ることができる<ref>[http://www.senckenberg.de/root/index.php?page_id=5247 SENCKENBERG world of buodiversity](2013年3月30日 閲覧)</ref>。民族学の博物館としては、世界文化博物館がある<ref>[http://www.weltkulturenmuseum.de/ Weltkulturen Museum](2013年3月30日 閲覧)</ref>。

芸術活動には、シルンの向かいにあるフランクフルト芸術協会<ref>[http://www.fkv.de/frontend/startseite.php Frankfurter Kunstverein](2013年3月30日 閲覧)</ref>、シュテーデルシューレ(国立絵画芸術大学シュテーデルシューレ)の他、多くの私立芸術ギャラリーや入れ替え展示室がある。ギャラリーは異なる専門分野に分かれた古典芸術から現代芸術に至るまでさまざまなものがある。入れ替え展示室は多くの芸術家や若い芸術研究者が利用しており、たとえばザクセンハウゼン地区の展示ホールやボルンハイム地区の展示スペース EULENGASSE 65 などがある。

{{gallery
|width=140
|height=140
|File:J. VERMEER - El geógrafo (Museo Städel, Fráncfort del Meno, 1669).jpg|シュテーデル美術館所蔵の[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]作『[[地理学者 (フェルメールの絵画)|地理学者]]』
|File:Liebieghaus.jpg|リービークハウス美術館の外観
|File:Museum-fuer-kommunikation-ffm011.jpg|コミュニケーション博物館の展示物
|File:Deutsches Architekturmuseum, Frankfurt.jpg|ドイツ建築博物館
|File:Das-Deutsche-Filmmuseum.jpg|ドイツ映画博物館
|File:Mdw-haupthaus29-ffm002.jpg|世界文化博物館の本館
|File:Kaendler Apoll und die Musen makffm 01.jpg|実用芸術博物館の展示物、ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーの『パルナス山のアポロンとミューズ』
|File:MMK Farbgestaltung DSC 6305.jpg|近代芸術美術館の内部
|File:Frankfurter-Schirn-Kunsthalle-2012-Ffm-893.jpg|シルン芸術ホール
|File:Frankfurt Archäologisches Museum 2011.jpg|考古学博物館
|File:HMF Treuner Roemerberg Nikolaikirche DSC 6279.jpg|歴史博物館に展示されている戦前の旧市街の模型
|File:Juedisches Museum Frankfurt am Main.jpg|ユダヤ博物館
|File:Feldbahn Jacobi und Mallet.jpg|軽便鉄道博物館の機関車
|File:C- D- F-Triebwagen Schwanheim 01052009.JPG|交通博物館
|File:52-4867 FBerg-FDorf Spiesswald.jpg|フランクフルト歴史鉄道協会が運行する保存鉄道
|File:Benz-Motorwagen 1886 Hochhut 16082007.JPG|ホーホフート技術コレクションに展示されているベンツのモーターワゴン
|File:Frankfurt, Explora Museum Ausstellung 3.JPG|EXPLORA の展示室
|File:Triceratops 2 Skulls Senckenberg.jpg|ゼンケンベルク自然博物館に展示されている[[トリケラトプス]]の化石(オリジナル)
|File:Frankfurt Am Main-Steinernes-Haus von Suedosten-20110705.jpg|芸術協会が入居しているシュタイナーネスハウス
|File:Staedelschule Eingang.jpg|シュテーデルシューレ
}}
[[File:Buehnen-ffm002.jpg|right|200px|thumb|市立ビューネ]]
=== オペラ、コンサート、ステージ ===
フランクフルトでは活発な演劇活動がなされている。市立ビューネは、多くの分野のステージが 1つの建物に入っている<ref>[http://www.buehnen-frankfurt.de/ Stadtische Buehnen Frankfurt am Main](2013年3月30日 閲覧)</ref>。[[フランクフルト歌劇場]]は国際的に評価の高いオペラハウスで、オペラハウス・オブ・ザ・イヤーを何度も(直近では2003年)獲得している。シャウシュピール・フランクフルトは、1960年代にハリー・ブックヴィッツ、1970年代から1980年代にペーター・パリッチュの指導下での共同参画モデルについて世論を賑わせた。市立ビューネの他の2つ、バレエ・フランクフルトとテアター・アム・トゥルム (TAT) は 2004年に閉鎖されたが、2005年から「ザ・フォーサイス・カンパニー」の名で民営のダンスカンパニーグループとして再興している<ref>[http://www.theforsythecompany.com/thecompany.html The Forsythe Company - The Company](2013年3月30日 閲覧)</ref>。
[[File:Frankfurt Am Main-Alte Oper von Suedosten-20110425.jpg|right|200px|thumb|アルテ・オーパ]]
1881年に開館した[[旧オペラ座|アルテ・オーパ]](旧オペラ座)は第二次世界大戦で破壊され、1981年にコンサートハウスとして再建された。アルテ・オーパでは、とても素晴らしいコンサートホールであり、ヨーロッパの重要な音楽センターとして重きをなしている<ref>[http://www.alteoper.de/ Alte Oper Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>。この他のコンサートホールとしては、ウンターリーダーバッハ地区のヤールフンデルトハレ、ボッケンハイム地区の祝祭ホール、[[ヘッセン放送]]の放送ホールがある。

ノイエ・マインツァー通りの「ディー・コメディー」<ref>[http://www.diekomoedie.de/ Die Komödie Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>と動物園事務棟の「フリッツ・レーモント劇場」<ref>[http://www.fritzremond.de/ Dritz Rémond Theater im Zoo](2013年3月30日 閲覧)</ref>は、この街で有名な 2つの大衆劇場である。フォルクステアター・フランクフルトは、古典的な方言劇の他に古典劇や現代劇を方言に翻案した作品を上演している<ref>[http://www.volkstheater-frankfurt.de/ Volkstheater Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>。よく似たコンセプトの劇団が、俳優ミヒャエル・クヴァスト主宰のフリーゲンデ・フォルクスビューネである<ref>[http://www.fliegendevolksbuehne.de/ Fliegende Volksbühne Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>。ザ・イングリッシュ・テアトルはヨーロッパ大陸で最大の英語劇場である<ref>[http://www.english-theatre.org/ English Theatre Frankfurt](2013年3月30日 閲覧)</ref>。

近代舞台芸術(パフォーマンスやダンスなど)のためのフランクフルト最大で広く知られている劇場がボルンハイムのモウゾントゥルム芸術ハウスである。演劇グループやアンサンブルのためのステージとなっているのが、ガルス地区にある旧アドラーヴェルク社のガルス・テアター、グートロイトフィールテルの近代演劇のためのランドゥンクスブリュッケン・フランクフルトおよびケラーテアター・フランクフルトである。

決まった上演劇場を有する劇団としては、ボッケンハイム地区カファ・エクツェスのディー・ドラマティシェ・ビューネ、ノルトエント地区のミヒャエル・ヘルルのシュタルブルク・テアター、オストエント地区ナクソスハレのテアター・ヴィリー・プラムル、ボッケンハイム地区のフライエ・シャウシュピール・アンサンブル、ハウゼン地区ブロットファブリークのフランクフルター・アウトーレン・テアターがある。

バラエティー、[[キャバレー]]、演芸の分野では、ジョニー・クリンケのティーガーパラスト、 die KÄS、カルメル会修道院のディー・シュミーレ(1950年から「世界最悪の劇場」と自称している)、ヘーヒスト地区のノイエス・テアターが知られている。

テアターハウス・フランクフルトは、たとえば「グリューン・ゾーセ」などの数多くの子供演劇アンサンブルが上演されており、ノルトヴェストシュタットの青少年演劇センターやパルムガルテンのパパゲーノ音楽シアターとともにフランクフルトの活発な子供演劇シーンを形成している。また、特殊な子供劇場としては、1975年から2005年まで活動していたクラップマウル人形劇場があった。

{{gallery
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|height=140
|File:Frankfurt Die Komödie 1.jpg|ディー・コメディー
|File:Zoo-Frankfurt-Gesellschaftshaus-a.jpg|フリッツ・レーモント劇場が入居している動物園事務棟
|File:The English Theatre Ffm DSC 0808.jpg|ザ・イングリッシュ・テアトル
|File:Mousonturm Frankfurt.jpg|モウゾントゥルム・フランクフルト
|File:Kellertheater Ffm Eingang Pano.jpg|ケラーテアターの入口
|File:Ffm Leipziger Straße 4.jpg|ディー・ドラマティシェ・ビューネ
|File:Frankfurt Am Main-Stalburger Oede-Theater-Inneres von Nordwesten-20120413.jpg|シュタルブルク・テアター
|File:Naxoshalle Frankfurt am Main Februar 2008.JPG|テアター・ヴィリー・プラムル
|File:Frankfurt brotfabrik.jpg|ブロットファブリーク
|File:Johnny Klinke DSC 9922.jpg|ティガーパラストの創始者ジョニー・クリンケ
|File:Haus Emmerich-Josef-Strasse 46 F-Hoechst.jpg|ヘーヒストのノイエス・テアター
|File:Frankfurt Palmengarten Musiktheater Papageno 2005.jpg|パパゲーノ音楽シアター
}}

=== 音楽家 ===
フランクフルトには 2つの大きな[[オーケストラ]]がある。市立ビューネの[[フランクフルト・ムゼウム管弦楽団]]と[[hr交響楽団]](旧フランクフルト放送交響楽団)である。[[アンサンブル・モデルン]]や[[ユンゲ・ドイツ・フィルハーモニー]]もフランクフルトを本拠地としている。有名な合唱団としては、1818年に創設されたフランクフルト・チェチーリア合唱団、フランクフルター・ジングアカデミー、フランクフルトター・カントライがある。

[[ラッパー]]のモーゼス・ペルハム、[[ピアニスト]]のトム・シュリューター、[[スラッシュメタル|メタルバンド]]の[[タンカード]]、[[ハードロック|ハードロックバンド]]の[[ベーゼ・オンケルツ]]、[[テクノポップ]][[ディスクジョッキー|DJ]]の[[スヴェン・フェート]]や[[クリス・リービング]]、[[ユーロダンス]]グループの[[Snap!]]もフランクフルトで結成された。

=== フランクフルト書籍見本市 ===
15世紀にはすでに開催されていたフランクフルト書籍見本市は世界最大の書籍見本市として、単なる経済活動にとどまらず、重要な文化行事でもある。毎年この見本市の期間には、数多くの付随行事が行われ、そのクライマックスとしてドイツ書籍販売組合の平和賞授与がパウルス教会で開催される。
<!-- 方言の項は省略 -->
[[File:Batschkapp-ffm002.jpg|right|200px|thumb|バッチュカップ]]
=== ナイトライフ ===
* バッチュカップ(ロッククラブ)
* スヴェン・フェートのコクーン・クラブ(テクノクラブ)
* ギブソン・クラブ
* ジャズケラー・フランクフルト(ジャズクラブ)
* キング・カメハメハ・クラブ(ディスコ)
* リビング XXL
* U60311(ディスコ)
* ヴェルヴェット・クラブ
[[File:Stadion Frankfurt Commerzbankarena Fankurve große Fahne.jpg|right|200px|thumb|アイントラハト・フランクフルトのサポーター]]
=== スポーツ ===
=== スポーツ ===
フランクフルトは多くのスポーツクラブのホームシティーである。
[[File:Comm.jpg|thumb|[[ヴァルトシュタディオン]]]]
* [[アイントラハト・フランクフルト]]([[サッカー]]、[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|サッカー・ブンデスリーガ]])
; チーム
* [[アイントラハト・フランクフルト]] - [[サッカーブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]所属のプロ[[サッカー]]クラブである。
* [[FSVフランクフルト]]サッカー、[[2. ブンデスリーガ (ドイツサッカー)|2. ブンデスリーガ]]
* [[FSVフランクフルト]] - [[ボルンハイム]]地区を本拠地とするブンデスリーガ所属のプロサッカークラブである
* [[ロート=ヴァイス・フランクフルト]](サッカー、[[サッカー・ヘッセンリーガ]])
* [[1.FFCフランクフルト]] - [[サッカー・女子ブンデスリーガ (ドイツ)|女子ブンデスリーガ]]1部所属の[[女子サッカー]]クラブである。
* [[1.FFCフランクフルト]](女子サッカー、[[女子サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|女子サッカー・ブンデスリーガ]]
* [[フランクフルト・ライオンズ]] - ドイツアイスホッケーリーグ一部に所属しているアイスホッケークラブチム。
* レーヴェン・フランクフルト([[アイスホッケー]]、アイスホッケー・オーバーリガ)
* ドイツバンク([[ドイツ銀行]])・スカイライナーズ - [[バスケットボール・ブンデスリーガ (男子)|バスケットボール・ブンデスリーガ]](ドイツプロ[[バスケットボール]]リーグの1部所属。
* [[スカイライナース・フランクフルト]]([[バスケットボール]]、[[バスケットボール・ブンデスリーガ]])
* トゥルンゲマインデ・ボルンハイム(種々のスポーツ、ヘッセン州最大のスポーツクラブである)
* FTG フランクフルト(98種目の競技が用意されている)
* TSG ノルトヴェスト 1898 フランクフルト・アム・マイン(18種目)
* [[SCフランクフルト1880]]([[ホッケー]]、[[テニス]]、[[ラグビー]]、[[ラクロス]])
* フランクフルト・フライヤーズ([[トランポリン]])
* フランクフルター RG ゲルマニア 1869([[漕艇]]競技)
フランクフルトで毎年開催される重要なスポーツイベントに以下のものがある。
* フランクフルト・シティー・トライアスロン([[トライアスロン]]、8月)
* [[フランクフルト・マラソン]]([[マラソン|都市マラソン]]、10月)
* [[ルント・ウム・デン・ヘニンガー=トゥルム]]([[ロードレース (自転車競技)|自転車レース]]、5月)
* アイアンマン・ジャーマニー(トライアスロン、7月)
* JPモーガン・チェイス・コーポレイト・チャレンジ(5.6 km 走の市内レース)
* フランクフルト・ハーフマラソン(ハーフマラソン、3月)
* ヘッセン・タンツト(世界最大の[[ダンス競技]]大会)
[[File:Luftbild Ffm 2005-08-11.jpg|right|200px|thumb|コメルツバンク・アレーナ]]
この街の重要なスポーツ競技場には以下のものがある。
* [[ヴァルトシュタディオン|コメルツバンク・アレーナ]](サッカー競技場)、元は「ヴァルトシュターディオン」という名前であった。「FIFA WM シュターディオン・フランクフルト・アム・マイン」という名称で[[2006 FIFAワールドカップ|2006年FIFAワールドカップ]]および[[2011 FIFA女子ワールドカップ|2011年FIFA女子ワールドカップ]]の会場として使用された。
* ボルンハイマー・ハングのフランクフルター・フォルクスバンク・シュターディオン(サッカーおよび[[陸上競技]])
* シュターディオン・アム・ブレンターノバート(サッカー)
* フラポート・アレーナ(バスケットボール、[[ハンドボール]])2011年までは「バルスポルトハレ」が公式名称であった。
* アイススポルトハレ・フランクフルト(アイスホッケー)
* フランクフルト競馬場([[競馬]])
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|height=140
|File:Frankfurter Volksbank Stadion Innenraum.jpg|フランクフルター・フォルクスバンク・シュターディオン
|File:Ballsporthalle1.jpg|フラポート・アレーナ
|File:Eissporthalle-2011-ffm-108.jpg|アイススポルトハレ・フランクフルト
}}
この他、フランクフルトにはドイツの重要なスポーツ協会がある。
* [[ドイツ・オリンピック・スポーツ連盟]] (DOSB)
* [[ドイツサッカー連盟|ドイツ・サッカー連盟]] (DFB)
* ドイツ体操連盟 (DTB)
* ドイツ・モーター・スポーツ連盟 (DMSB)


=== ヤーコプスヴェク ===
; 競技場
2010年以降、[[フルダ]]からベルガー・リュッケンを越え、ボルンハイマー・ハングの麓を通り、マイン川沿いに至るヤーコプスヴェク(ヤコブの巡礼路)の枝道が設けられた<ref>[http://www.rmv.de/linkableblob/Infomaterial__Kanal/40812-35884/data/rhein-main-vergnuegen_jakobsweg_pdf_karte.pdf Rhein-Main-Vergnügen Jakobsweg] (PDF)(2013年3月31日 閲覧)</ref>。この道は、ライプツィヒからフランクフルト・アム・マインに至る「ヴィア・レギア」という古い街道のルートにほぼ合致している。この道は、フルダからフランクフルト・アム・マインまで 116 km 以上の道程であり、[[サンチャゴ・デ・コンポステラ]]に向かう[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|ヤコブの巡礼路]]の一部をなしている。フラクフルト市内のコースは、聖十字架教会からオストパーク、旧大市場ホール跡である欧州中央銀行新庁舎を通り、マイン川のアイゼルナー・シュテークに至り、これを渡ってマイン川左岸を[[マインツ]]、さらには[[トリーア]]方面に向かう。
*[[ヴァルトシュタディオン|コメルツバンク・アレナ(ヴァルトシュタディオン)]] - [[サッカー]]スタジアム、上述のアイントラハト・フランクフルトの本拠地で同名のプロホッケーチームもある。
[[File:Frankfurter weihnachtsmarkt nacht.jpg|right|200px|thumb|フランクフルト=レーマー広場のクリスマスマーケット]]
=== 年中行事 ===
1988年から毎年8月に開催されるムゼウムスウーファーフェスト(博物館堤祭)は、音楽と文化の祭典で、ライン=マイン地域最大の世俗祭である。2007年には 3日間の会期に約350万人の来訪者があった。


[[聖霊降臨祭]]後の火曜日に開催されるヴェルトヒェスタークは、多くの来訪者をフランクフルトのシュタットヴァルトに呼び寄せる。1990年代までは、フランクフルト市内の多くの企業がこの日は正午で業務を終了し、従業員は12時以降自由になっていた。このため、地元では冗談半分にフランクフルトの国民の祝日と呼ばれていた。
; イベント
* [[2006 FIFAワールドカップ]] - 上述のコメルツバンク・アレーナで5試合が開催された。
* [[2011 FIFA女子ワールドカップ]] - コメルツバンク・アレーナで、[[サッカー日本女子代表|なでしこジャパン]]が優勝を果たした決勝戦など4試合が開催された。


もう1つの伝統的な世俗祭がディッペメスである。毎年2回、春に3週間、秋に10日間開催され、それぞれ約 200万人の来訪者を集める。ディッペメスは中世から伝わる日用雑貨、特に陶器の鉢(ディッペ)の市場をその起源とする。
== フランクフルト出身者 ==
<!--* [[{人名}]] - [[{職業}]]のように記載して下さい。なお、追加する人物は既に記事がある人物に限ります。また、追加する場合はアイウエオ順(姓)でお願いします。-->
{{colbegin|2}}
'''ア行'''
* [[ヘルマン・アーベントロート]] - [[指揮者]]
* [[テオドール・アドルノ]] - [[哲学者]]
* [[ベッティーナ・フォン・アルニム]] - [[作家]]
* [[ヤーコプ・アルユーニ]] - [[推理作家]]、[[劇作家]]
* [[フリードリヒ・ヴェーラー]] - [[化学者]]
* [[エリク・H・エリクソン|エリク・ホーンブルガー・エリクソン]] - [[心理学者]]
* [[ロバート・オーマン]] - [[経済学者]]


1393年に最初の記録が遺るフランクフルトの[[クリスマスマーケット]]は、毎年[[アドヴェント]]の時期に開催される。現在では約 300万人の来訪者を数えるドイツ有数のクリスマスマーケットである。200点以上の露店がマインカイからレーマーベルク、パウルス広場、ノイエ・クレーメ通り、リープフラウエンベルクを経てツァイルまで建ち並ぶ。
'''カ行'''
* [[アーブラハム・ガイガー]] - ユダヤ教指導者([[ラビ]])
* [[ミヒャエル・グロス]] - [[水泳選手]]
* [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ヴォルフガング・ゲーテ]] - [[詩人]]、劇作家、小説家、科学者、哲学者、政治家
* [[ヘルマン・ゴルトシュミット]] - [[天文学者]]


フランクフルトの[[謝肉祭]]のパレードには 6,000人以上が参加し、30万人以上が見物し、1.5 km の距離を練り歩くヘッセン州最大の謝肉祭のパレードである。
'''サ行'''
* [[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]] - [[法学者]]
* [[ジェイコブ・シフ]] - [[銀行家]]
* [[ハンス・ジマー]] - [[作曲家]]
* [[カール・シュヴァルツシルト]] - [[天文学者]]
* [[アーサー・シュスター]] - [[物理学者]]
* [[ホルスト・ルートヴィヒ・シュテルマー]] - [[物理学者]]
* [[クリスティーネ・シェーファー]] - [[ソプラノ]][[歌手]]


2003年から2008年まで毎年夏に、様々な文化の人々の友好を示す文化のパレードが開催されていた。最後となった2008年のパレードには約 1,700人が参加し、10万人が見物した。2003年からは、[[ダウン症候群]]の患者数百人が様々なスポーツ競技を競うダウン=シュポルトラーフェスティヴァル(ダウン症のスポーツ選手祭)がフランクフルトで開催されている。
'''タ行'''


この他の年中行事としては、5月祭、クリストファー・ストリート・デイ (CSD)、パルメンガルテンのバラと光の祭典、オペルン広場祭、フレースガッセのラインガウのワイン祭、レーマーベルクのシュテフヒェ祭がある。
'''ナ行'''
* [[ピート・ナムルック]] - ミュージシャン


人気なのは、4月に約 4万人来訪者がある「ナハト・デア・ムゼウム」(美術館・博物館の夜)や「ナハト・デア・クラブ」である。
'''ハ行'''
* [[エルンスト・ハース]] - 政治学者
* [[オットー・ハーン]] - 化学者・物理学者
* [[アントン・ド・バリー]] - 植物学者
* [[フェルディナント・ヒラー]] - 作曲家
* [[ティリー・フライシャー]] - やり投げ選手、1936年ベルリンオリンピック金メダル
* [[ヴァルター・ブラウンフェルス]] - ピアニスト
* [[アンネ・フランク]] - ユダヤ系。「アンネの日記」の著者
* [[オットー・フランク]] - ユダヤ系実業家で、アンネ・フランクの父、後にオランダに亡命、「アンネの日記」出版にかかわる


これらの他に各市区での祭もある。ヘーヒスト城館祭、ボルンハイムのベルガー通り祭、ザクセンハウゼンのシュヴァイツァー通り祭、1839年にまで起源を遡ることができるヘッデルンハイムの謝肉祭のパレード、1951年に上級市長ヴァルター・コルプによって創設されたロールベルガー祭、フランクフルトの陸上選手による青少年のためのベルクシュポルトフェスト(山歩き祭)などである。
* [[サンソン・フランソワ]] - ピアニスト
* [[ビルギット・プリンツ]] - [[女子サッカー]]選手
* [[ヘルマン・フローン]] - 気象学者
* [[エーリヒ・フロム]] - 心理学者
* [[ルートヴィヒ・ベルネ]] - ユダヤ系。作家、文芸評論家。


不定期に開催される祭では、いわゆる摩天楼祭は2007年5月に行われたのを最後に6年間開催されていなかった。これ祭では、インネンシュタットの15棟の高層ビルが一般開放され、120万人が訪れた。この祭は2013年に開催される<ref>[http://www.wolkenkratzer-festival.de/ Wolkenkratzer Festival 2013](2013年3月31日 閲覧)</ref>。
'''マ行'''
* [[ウルリケ・マイフェルト]] - 走り高跳び選手
* [[アルベルト・マンゲルスドルフ]] - トロンボーン奏者
* [[ウィリー・メッサーシュミット]] - 航空機技術者
* [[アンドレアス・メラー]] - サッカー選手


1994年から2004年まで毎年開催されていた音楽祭サウンド・オブ・フランクフルトには若い世代を中心に50万人が訪れていた。
'''ヤ行'''


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'''ラ行'''
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* [[トーマス・ライター]] - 宇宙飛行士
|height=140
* [[エイミー・レイド]] - ポルノ女優
|File:Museumsuferfest 2005 - Schaumainkai Tiefufer.jpg|ムゼウムスウーファーフェストの屋台(2005年)
* [[マーティン・ローレンス]] - 俳優
|File:Frankfurt-Waeldchestag.jpg|ヴェルトヒェスタークのシュタットヴァルトの様子(2002年)
* [[ロスチャイルド家]](ロートシルト家<small>(独語)</small>)
|File:Dippemess-2011-ffm-platz-103.jpg|ディッペメスの会場(2011年春)
** [[マイアー・アムシェル・ロートシルト]] - 銀行家
}}
** [[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]] - 銀行家
[[File:Frankfurter wuerstchen.jpg|right|200px|thumb|フランクフルター・ヴュルストヒェンとジャガイモのサラダ]]
=== 郷土料理・食材 ===
フランクフルトでは、皇帝の[[戴冠式]]や[[メッセ]]のために多くの裕福な客が多く訪れ、これに伴って17世紀から18世紀にはすでに高度な食文化・ホテル文化が形成されていた。フラクフルトの料理は、19世紀には[[ハンブルク]]や[[ウィーン]]と並んでドイツで主導的な地位にあった<ref>この項に関する文献: Wolfgang Klötzer: Zu Gast im alten Frankfurt. Heinrich Hugendubel-Verlag, München 1990, ISBN 3-88034-493-0. Norbert Brieke, Köstlichkeiten aus Frankfurts Küche und Keller, Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1991, ISBN 3-7829-0409-5.</ref>。


中世から作られていた豚肉製のフランクフルター・ヴュルストヒェン(フランクフルト・ソーセージ)は最も古く最も有名な料理の一つである。19世紀にはこれにフランクフルター・リンツヴルスト(牛肉製)が加わった。
'''ワ行'''
{{colend}}


フランクフルトの特別な料理がグリューネ・ゾーセ(グリーン・ソース)で、伝統的に7種類の野菜で作られる: [[ルリジサ]]、[[シャク属|シャク]]、[[コショウソウ]]、[[パセリ]]、[[サラダバーネット]]、[[スイバ]]、[[チャイブ]]である。フランクフルトの有名なスイーツとしては、フランクフルター・ブレンテン、ベトメンヒェン、ハッデクーヒェ、[[フランクフルタークランツ]]がある。
== 姉妹都市 ==
{{colbegin|2}}
* {{Flagicon|CAN}} [[トロント]]、[[カナダ]]
* {{Flagicon|UK}} [[バーミンガム]]、[[イギリス]] - [[1966年]]
* {{Flagicon|HUN}} [[ブダペスト]]、[[ハンガリー]] - [[1990年]]
* {{Flagicon|POL}} [[クラクフ]]、[[ポーランド]] - [[1991年]]
* {{Flagicon|NCA}} [[グラナダ (ニカラグア)|グラナダ]]、[[ニカラグア]] - [[1991年]]
* {{Flagicon|CHN}} [[広州市|広州]]、[[中華人民共和国]] - [[1988年]]
* {{Flagicon|FRA}} [[リヨン]]、[[フランス]] - [[1960年]]
* {{Flagicon|ITA}} [[ミラノ]]、[[イタリア]] - [[1971年]]
* {{Flagicon|CZE}} [[プラハ]]、[[チェコ]] - [[1990年]]
* {{Flagicon|ISR}} [[テルアビブ]]、[[イスラエル]] - [[1980年]]
* {{Flagicon|IND}} [[チェンナイ]]、[[インド]] - [[2005年]]
* {{Flagicon|UAE}} [[ドバイ]]、[[アラブ首長国連邦|UAE]] - [[2002年]]
* {{Flagicon|PAK}} [[イスラマバード]], [[パキスタン]]
* {{Flagicon|JPN}} [[横浜市]]、 [[日本]] - [[2011年]] - [[パートナー都市]]
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ワイン製造業の衰退に伴って、それまで卑俗なものとされていたリンゴ酒(エッベルヴォイ)がフランクフルトでは一般的となった。リンゴ酒は1600年頃から製造されていた。現在ではフランクフルトの伝統的な飲料と見なされている。リンゴ酒には栄養のある食事が合うとされ、リップヒェンのクラウト添えやハントケス・ミット・ムジークが好まれる。
== フランクフルト・アム・マインを舞台にした作品 ==
* [[アルプスの少女ハイジ]] [[ヨハンナ・シュピリ]]の小説。作中において、クララの住むゼーゼマン邸は、この地域に設定されている。
* [[詩と真実]] [[ゲーテ]]の自叙伝で、神聖ローマ帝国の直轄都市として栄えていた当時のフランクフルトを知るための資料としても貴重。


現在、フラクフルトのブドウ園は、ロールベルクの斜面に1箇所だけある。ここはラインガウで最も小さく、最も東に位置するブドウ園で、フランクフルト市がこのブドウ園を管理している。ここからは、毎年約 1万本の[[リースリング]]・ワインが生産される。多くはトロッケン(辛口)に熟成され、状態の良い年にはシュペートレーゼに格付けされる。
== その他 ==
フランクフルト・アム・マインは、[[ルフトハンザドイツ航空]]のフラッグシップである[[エアバスA380]]で、同社の歴史的初号機となったD-AIMA型機の愛称<ref>但し、エアバスA380が導入される前は[[ボーイング747-400]]のD-ABVF型機の愛称であった。</ref>となっている。なお、この歴史的初号機の初めての営業路線は[[フランクフルト国際空港|フランクフルト]]-[[成田国際空港|成田]]であった。


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== ギャラリー ==
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{{wide image|Panorama Frankfurt vom Maintower edit.jpg|1500px|フランクフルト・アム・マインの摩天楼群}}
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|File:7KräuterDerGrünenSoße.JPG|グリューネ・ゾーセの材料
|File:Grie Soss und Ebbelwoi.jpg|グリューネ・ゾーセをかけたジャガイモ
|File:Frankfurter Brenten1.jpg|フランクフルター・ブレンテン
|File:Bethmaennchen1.jpg|ベトメンヒェン
|File:Haddekuche.jpg|ハッデクーヒェ
|File:Frankfurter kranz hg.jpg|フランクフルター・クランツ
|File:Apfelwein Geripptes Bembel.jpg|リンゴ酒
|File:Frankfurter-rippchen-mit-kraut-kpl.001-2.jpg|リップヒェンのクラウトとジャガイモ添え
|File:Handkäse mit Musik 004ok.jpg|ハントケス・ミット・ムジーク
}}
[[File:FGS-Frankfurt-Am-Main.JPG|right|200px|thumb|ベルリン級補給艦フランクフルト・アム・マイン]]
=== フランクフルトの名前を持つもの ===
[[ドイツ海軍]]の[[ベルリン級補給艦]]に[[フランクフルト・アム・マイン (補給艦)|フランクフルト・アム・マインの名を持つ艦]]がある。これ以前には第一次世界大戦中の[[フランクフルト (軽巡洋艦)|小型巡洋艦]]やドイツ連邦の木造[[外輪船]]の[[コルベット]]にもフランクフルトにちなんだ名前を有するものがあった。商船では、1900年から1918年まで[[北ドイツ・ロイド社]]の高速蒸気船や1954年から就航した[[ハンブルク=アメリカ郵船株式会社]] (HAPAG) の貨物船にフランクフルトの名が付けられ、1981年から2007年に運行しており1984年までは世界最大の[[コンテナ船]]であった[[フランクフルト・エクスプレス]]もあった。2010年に新たなコンテナ船にフランクフルト・エクスプレスという名前が付けられた。


1960年にフランクフルト市は初めて[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ]]の飛行機の名親になった<ref>Frankfurter Allgemeine Zeitung 1995年10月10日付け</ref>。1960年から1975年までは[[ボーイング707]] D-ABOD に、1975年から1985年までは[[DC-10 (航空機)|DC-10]]に、1985年から1990年までは[[ボーイング747|ボーイング747-200]]に、1991年からはボーイング747-300 D-ABVF にそれぞれフランクフルトの名前が付けられていた。2010年5月19日に初めて[[エアバスA380]] D-AIMA にフラクフルト・アム・マインの名が付けられた<ref>[http://www.spiegel.de/reise/aktuell/riesenjet-lufthansa-tauft-ersten-a380-a-695563.html Riesenjet: Lufthabnsa tauft erst A380], Spiegel on line 2010年5月19日付け(2013年3月31日 閲覧)</ref>。
== 関連項目 ==
* [[ユダヤ人]]
* [[ゲットー]]、[[フランクフルト・ゲットー]]


[[小惑星帯]]で2007年に発見された[[小惑星]]の一つに (204852) フランクフルトという名前が付けられている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}


{{gallery
== 外部リンク ==
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{{Commons&cat|Frankfurt am Main|Frankfurt am Main}}
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; 公式
|File:Frankfurt Express 2012.jpg|2010年以後のフランクフルト・エクスプレス
* [http://www.frankfurt.de/sixcms/detail.php?id=stadtfrankfurt_eval01.c.317693.ja&template=hp_flash フランクフルト市公式サイト] {{Ja icon}}
|File:SMS Frankfurt.jpg|小型巡洋艦フランクフルト
|File:2010-05-27 A380 LH D-AIMA 06.jpg|フランクフルトの名が付けられたエアバスA380
}}


=== その他 ===
; 日本政府
多くの隣接する街の間がそうであるように、フランクフルト・アム・マインとオッフェンバッハ・アム・マインとの間にも緊密なライバル関係が存在する。それはお互いの街を揶揄する数多くのジョークに現れている。
* [http://www.frankfurt.de.emb-japan.go.jp/jp/index.htm 在フランクフルト日本国総領事館] {{Ja icon}}

両市のライバル関係は歴史に根ざしている。中世には既に、[[帝国都市]]フランクフルトと近隣の都市との間で領土争いが起きていた。[[三十年戦争]]では、スウェーデン王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ・アドルフ]]はオッフェンバッハのイーゼンブルク城を居所とした。彼はここからフランクフルトの降伏を宣言した。[[宗教改革]]後は[[ルター派]]のフランクフルトと[[カルヴァン派|改革派]]のオッフェンバッハとの間で宗教争議が起こった。さらに18世紀以降イーゼンブルク伯は、ブルジョア的なフランクフルトが望まなかった工業の導入を奨励した。19世紀になってもフランクフルトは純粋な商業都市であり、オッフェンバッハは工業への転換を一層進めた。プロイセンによる併合後、フランクフルトも工業化が進展し、ライバル関係を強めていった。20世紀にフランクフルトはプロイセン領の衛星都市を合併し、北や西方向へ拡大していった。一方、オッフェンバッハが拡大することはなかった。1945年までは両市の市境は、国境でもあった。

長年のスポーツにおけるライバル関係は、両市のサッカークラブ、[[キッカーズ・オッフェンバッハ]]と[[アイントラハト・フランクフルト]]およびそのファンたちを育てた。やがて両者の試合は「ダービー」と呼ばれるようになった。特に激しかったのは、1950年代(たとえば、1959年の[[ドイツ・サッカー選手権]]決勝戦)、[[DFBポカール]](最後の対戦は2009年)、キッカーズ・オッフェンバッハが陥落するまでの[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|サッカー・ブンデスリーガ]]などである。

フランクフルト市は1969年にドイツ考古学研究所 (DAI) のヴィンケルマン=メダルを授与されている。

== 人物 ==
フランクフルト・アム・マイン出身の主な人物やゆかりの人物については、[[フランクフルト・アム・マインの人物]]を参照のこと。

== 参考文献 ==
=== 歴史 ===
* Bernhard Müller: ''Bilderatlas zur Geschichte der Stadt Frankfurt am Main.'' Verlag Moritz Diesterweg, Frankfurt am Main 1916, Reprint im Verlag W. Weidlich, Frankfurt am Main 1976, ISBN 3-8035-8904-5.
* ''Hessisches Städtebuch.'' Bd 4. 1. Teilb. aus: ''Deutsches Städtebuch. Handbuch städtischer Geschichte.'' Im Auftrage der Arbeitsgemeinschaft der historischen Kommissionen und mit Unterstützung des Deutschen Städtetages, des Deutschen Städtebundes und des Deutschen Gemeindetages, hrsg. von Erich Keyser. Kohlhammer, Stuttgart 1957.
* Walter Gerteis: ''Das unbekannte Frankfurt.'' 3 Bände. Verlag Frankfurter Bücher, Frankfurt am Main 1960–1963 (populäre, essayistisch-anekdotische Stadtgeschichte).
* Friedrich Bothe: ''Geschichte der Stadt Frankfurt am Main.'' Verlag Wolfgang Weidlich, Frankfurt am Main 1977, ISBN 3-8035-8920-7.
* Waldemar Kramer (Hrsg.): ''Frankfurt Chronik.'' Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1987 (3. Auflage), ISBN 3-7829-0321-8.
* Frankfurter Historische Kommission (Hrsg.): ''Frankfurt am Main – Die Geschichte der Stadt in neun Beiträgen.'' Jan Thorbecke Verlag, Sigmaringen 1991, ISBN 3-7995-4158-6 (''Veröffentlichungen der Frankfurter Historischen Kommission'' 17).
* Lothar Gall (Hrsg.): ''FFM 1200. Traditionen und Perspektiven einer Stadt.'' Jan Thorbecke Verlag, Sigmaringen 1994, ISBN 3-7995-1203-9 (Katalog zur 1200-Jahrfeier 1994 mit wiss. Aufsätzen).
* Ernst Mack: ''Von der Steinzeit zur Stauferstadt. Die frühe Geschichte von Frankfurt am Main.'' Verlag Josef Knecht, Frankfurt am Main 1994, ISBN 3-7820-0685-2.

=== 建造物 ===
* Bau-und Informationsamt Frankfurt am Main: ''Kunst + Bau in Frankfurt am Main.'' Text: Günther Vogt, 1971
* Bernd Kalusche, Wolf-Christian Setzepfand: Architekturführer Frankfurt am Main. Reimer, Berlin 1992, ISBN 3-496-01100-9.
* Heinz Ulrich Krauß: ''Frankfurt am Main. Daten, Schlaglichter, Baugeschehen.'' Societäts-Verl., Frankfurt am Main 1997, ISBN 3-7973-0626-1. (Chronik mit Schwerpunkt auf Architektur und Baugeschichte)
* Ulf Jonak: ''Die Frankfurter Skyline.'' Campus, Frankfurt am Main – New York 1997, ISBN 3-593-35822-0. (Kritische Betrachtung des Hochhausbaus)
* Clemens Jöckle: 100 Bauwerke in Frankfurt am Main, Regensburg, Schnell & Steiner, 1998, ISBN 3-7954-1166-1
* Hugo Müller-Vogg: ''Hochhäuser in Frankfurt.'' Societäts-Verl., Frankfurt am Main 1999, ISBN 3-7973-0721-7. (Vorstellung aller Hochhäuser in Frankfurt)
* Dieter Bartetzko: ''Frankfurts hohe Häuser.'' Insel, Frankfurt am Main – Leipzig 2001, ISBN 3-458-34353-9. (Darstellung des Hochhausbaus in Frankfurt)
* Heinz Schohmann: ''Frankfurt am Main und Umgebung. Von der Pfalzsiedlung zum Bankenzentrum.'' Dumont Kunstreiseführer. Dumont, Köln 2003, ISBN 3-7701-6305-2. (mit Schwerpunkt Architektur)
* Christof Bodenbach (Hrsg.): ''Neue Architektur in Frankfurt am Main.'' Junius Verlag, Hamburg 2008, ISBN 978-3-88506-583-8.
* Angela Pfotenhauer, Elmar Lixenfeld und Uwe Dettmer: ''Frankfurt am Main.'' Deutsche Stiftung Denkmalschutz, 2009, ISBN 978-3-86795-009-1.
* Christian Freigang, Markus Dauss und Evely Brockhoff: ''Das „Neue“ Frankfurt, Innovationen in der Frankfurter Kunst vom Mittelalter bis heute.'' Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 2010, ISBN 978-3-86539-673-0.
* Christian Grau, André Risto und Willi Bucher (Hrsg.): ''Frankfurt. Der andere Blick.'' Theiss Verlag, Stuttgart 2010 ISBN 978-3-8062-2388-0. (Aufnahmen aus der Luft)

=== その他 ===
* Barbara M. Henke, Thomas Kirn, Ruth Rieger: ''Edition Die deutschen Städte – Frankfurt.'' C. J. Bucher, München 1994, ISBN 3-7658-0873-3.
* Matthias Alexander, Gerd Kittel: ''Hochhäuser in Frankfurt.'' Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 2006, ISBN 3-7973-1000-5.
* Christian Setzepfandt: ''Geheimnisvolles Frankfurt am Main.'' Wartberg, Gudensberg-Gleichen 2003, ISBN 3-8313-1347-4.
* Martin Mosebach: ''Mein Frankfurt.'' Mit Photographien von Barbara Klemm. Insel, Frankfurt am Main 2002, ISBN 3-458-34571-X. (Insel-Taschenbuch. Bd 2871)
* Benno Reifenberg: ''Das Einzigartige von Frankfurt.'' Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1979, ISBN 3-7829-0220-3.
* ''Ausgewählte Frankfurter Mundartdichtung.'' Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1966, ISBN 3-7829-0067-7.
* Helmut Bode: ''Frankfurter Sagenschatz. 100 Sagen und sagenhafte Geschichten, nach den Quellen und älteren Sammlungen sowie der Lersnerschen Chronik neu erzählt.'' Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1978, ISBN 3-7829-0209-2.
* Alice Selinger: ''Frankfurt am Main. Stadtführer Geschichte Kultur.'' Verlag Waldemar Kramer/Marix Verlag, Wiesbaden 2011, ISBN 978-3-86539-683-9.<!-- wurde teilweise mit falscher ISBN 978-3-86539-383-9 ausgeliefert-->
* Anja Zeller: ''Frankfurt to go''. Der Stadtwanderführer für Frankfurt! 978-3940874436, Verlag archimappublishers, Berlin 2012
<small>これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。</small>

== 引用、参考 ==
{{reflist|2}}

== 外部リンク ==
{{Commonscat|Frankfurt am Main}}
* [http://www.frankfurt.de/ フランクフルト・アム・マイン市の公式ウェブサイト]
* [http://www.kultur-frankfurt.de/ フランクフルト・アム・マイン市の文化ポータル]
* {{dmoz|World/Deutsch/Regional/Europa/Deutschland/Hessen/St%c3%a4dte_und_Gemeinden/F/Frankfurt_am_Main|Frankfurt am Main}}
* [http://vereins.wikia.com/wiki/Kategorie:Frankfurt_am_Main Vereins-Wiki: Frankfurt am Main]


{{ダルムシュタット行政管区の郡および郡独立市}}
; 観光
* [http://www.frankfurt-tourismus.de/cms/tourismussuite/ja/home.html フランクフルト観光局] {{Ja icon}}
* [http://www.visit-germany.jp/JPN/destination_germany/master_tlstadt-id1078.htm ドイツ政府観光局 - フランクフルト] {{Ja icon}}
* [http://www.panorama-cities.net/frankfurt/frankfurt_germany.html フランクフルトパノラマ] {{En icon}}


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[[Category:ヘッセン州の行政区画]]
[[Category:ヘッセン州の行政区画]]

2013年4月7日 (日) 01:12時点における版

紋章 地図
基本情報
連邦州: ヘッセン州
行政管区: ダルムシュタット行政管区
郡: 郡独立市
緯度経度: 北緯50度06分38秒 東経08度40分56秒 / 北緯50.11056度 東経8.68222度 / 50.11056; 8.68222
標高: 海抜 112 m
面積: 248.31 km²
人口:

775,790人(2023年12月31日現在) [1]

人口密度: 3,124 人/km²
郵便番号: 60308 - 60599, 65929 - 65936
市外局番: 069, 06101, 06109
ナンバープレート: F
自治体コード: 06 4 12 000
行政庁舎の住所: Römerberg 23
60311 Frankfurt am Main
ウェブサイト: www.frankfurt.de
首長: ペーター・フェルトマン (Peter Feldmann)
州内の位置
「マインハッタン」とも呼ばれるフランクフルト・アム・マインのスカイライン

フランクフルト・アム・マイン (Frankfurt am Main) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州に属す郡独立市である。人口 69万人を超えるヘッセン州最大の街であり(2012年6月30日現在)[2]ベルリンハンブルクミュンヘンケルンに次ぐドイツで5番目に大きな街である。狭義の人口密集地域であるフランクフルト/ライン=マイン地域の人口は約 220万人(2010年12月現在)[3]、広義のライン=マイン大都市圏の総人口は 550万人である。

フランクフルトは中世からドイツで最も重要な中心都市の一つであった。794年に初めて文献に記録され、中世盛期からは帝国自由都市であった。1806年まで神聖ローマ皇帝の選挙が行われる街であり、1562年からは戴冠式もこの街で挙行された。また、1816年からドイツ連邦の議会がフランクフルト自由都市で開催され、1848年/49年に初めて自由選挙で選出された議会もこの街に置かれた。普墺戦争の結果、プロイセンに併合され、フランクフルトは1866年に都市国家としての独立権を喪失した。1875年にフランクフルトの人口は初めて 10万人を、1928年には初めて 50万人を超えた。

現在のフランクフルトは国際金融センターであり、経済的側面から世界都市の一つに数えられている[4]欧州中央銀行ドイツ連邦銀行フランクフルト証券取引所ドイツ銀行コメルツ銀行KfW銀行英語版(ドイツ復興金融公庫銀行)、DZ銀行英語版ヘッセン=テューリンゲン州立銀行英語版(ヘラバ)が、この街に存在する最も重要な金融機関である。メッセ・フランクフルトは、世界最大の見本市会場の一つである。さらにフランクフルトは重要な工業およびサービス産業都市でもある。

フランクフルトは、ヨーロッパの中央に位置することからヨーロッパ交通の最も重要な中継点の一つである。フランクフルト国際空港は世界最大級の空港であり、フランクフルト中央駅は鉄道交通の中心的な乗り継ぎ駅となっており、フランクフルト・ジャンクションは最も交通量の多いジャンクションの一つである[5]。さらにフランクフルトの German Commercial Internet Exchange (DE-CIX) は、データ転送量において、世界最大のインターネット中継点である。

特筆すべきは、この街のスカイラインである。ヨーロッパで最も高いクラスのオフィスビルが林立するそれは、しばしばマンハッタンをもじって「マインハッタン」と称される。

地名

フランクフルトの伝説

ドームヒューゲルの入植地の名前は、794年に初めて文献に記録された際、Franconofurd,[6] または Francorum vadus[7]古高ドイツ語およびラテン語で記述されている。どちらもフランク人の徒渉地を意味する。おそらく、現在のアルテ・ブリュッケのやや上流側の川底に岩があり浅瀬になっていたために、通常の水位の状態であれば、現在よりはかなり川幅があったと思われるマイン川を歩いて渡ることができた。この徒渉地は、ローマ時代になると戦略的意味はなかったが、マインツからゲルマニア領内を通る街道は、マイン川河口域の湿地を迂回してドームヒューゲルを通っていた。

ローマ人が撤退した後、260年頃にドームヒューゲルはアレマン人に占領された。530年頃フランク人がアレマン人に替わってマイン川下流域の覇権を掌握した。おそらく新しい領主は、この徒渉地を重要な交易路として利用した。このため、交易相手はこの徒渉地を「フランケンフルト」と呼んだ[8]

年代記作者のティートマール・フォン・メルゼブルクドイツ語版は、1014年から1017年に、カール大帝によるこの街の創設に関する現在まで知られている伝説を記述している[9]。それは、ザクセン戦争と関連している。

「信頼できる人々から聞いたことを今から私が物語ろう。ピピン王の王子カール大帝の治世に、あなたがたの先祖と我々の祖先(ザクセン人)との間で戦争が起こった。この戦いでフランク人は我々の祖先によって打ち負かされた。彼らが不案内な徒渉地を通ってマイン川を渡らねばならなくなった時、彼らの前を一頭の雌シカが川を渡り、神の温情をもって渡るべき道を示した。彼らはシカに続いて川を渡り、陽気な気分で安全な岸にたどり着いた。これ以後、この村はフランクフルトと呼ばれるようになった。」
ティートマール・フォン・メルゼブルク、『年代記』VII, 75

実際には、カール大帝はザクセン族とマイン地域で戦ったことはない。また、勝利した王によって捕らえられたザクセン族の定住地であるとする誤ったフランクフルト=ザクセンハウゼンの名前の成立史についても、単なる伝説である。これらは、おそらく794年に北ドイツで蜂起したザクセン族鎮圧のための遠征直前に立ち寄った史実が、口承によって様々な話と混じり合った事に由来すると思われる。

フランクフルトの名前と創設に関する他の伝説は、現在ではあまり知られていない。それは特に近世初期にフランクフルトの重要性を神秘的に高めるために利用された話である。人文主義者ヨハンネス・トリテミウスは、15世紀にフランクフルトの同意語として「ヘレノポリス」という地名を用いた。この地名は、18世紀まで他の人文主義者によって時折使われていた。この地名の由来は明らかではない。ヘレノポリスは、プリアモスの息子でトロイアから逃走したヘレノスがこの地を居と定め創設した街であるという。別の著者は、コンスタンティン大帝の母ヘレナに由来するとも記述している。

トリテミウスの神話は、フランクフルトの名前の由来も明らかにしている。それによれば、紀元130年頃 Hogier 公 Francus が古いヘレノポリスの街を再興し、自らの名前にちなんで Frankenfurt と名付けたという[10]

元来の名前 Franconofurd は中世に Frankenfort または Frankinfort、近世に Franckfort および Franckfurth と変化した。そして遅くとも19世紀の初めには、Frankfurt という表記が確定した。名前に添えられた「アム・マイン」は、最も古くは14世紀から、しばしば付けられるようになった[11]。日常的には、フランクフルト (オーダー)と混同する恐れがない限りは、「フランクフルト」と短縮される。また、Frankfurt/Main あるいは Frankfurt a. M. 表記方法もしばしば見られ、鉄道関係では Frankfurt (Main) という表記も残っている。さらに Ffm や FFM といった略号も用いられる。

地理

フランクフルト市内の最高地点に立つベルガー・ヴァルテ

位置

フランクフルト・アム・マイン市は、南西ドイツのタウヌス山地南東麓マイン川下流の両岸に位置し、ドイツで最も重要な経済圏を形成している。市域の約 1/3 がフランクフルト緑地帯景観保護地域に指定されている。これには、ドイツ最大の都市林であるフランクフルター・シュタットヴァルト(フランクフルトの市の森)が含まれる。市域は東西 23.4 km、南北 23.3 km の広がりを持つ。

自然構造物で最も高い地点は、ゼックバッハ市区ベルガー・リュッケンのベルガー・ヴァルテ(直訳すると「山の監視所」)のある位置で、海抜 212.6 m である。一方最低地点は、ジントリンゲン市区のマイン川の河原で、海抜 88 m である。本市は、バーゼルからライン=マイン地域にいたるオーバーライン地溝の北端にあたる。

現在の市域の地理上の重心、すなわち地理的中心点は、ボッケンハイム区のフランクフルト西駅付近で、歴史的市街地の外側にある[12]

隣接する郡と市町村

フランクフルトは、西はマイン=タウヌス郡ハッタースハイム・アム・マインクリフテルホーフハイム・アム・タウヌスケルクハイム (タウヌス)リーダーバッハ・アム・タウヌスズルツバッハ (タウヌス)シュヴァルバッハ・アム・タウスヌエシュボルン)、北西はホーホタウヌス郡シュタインバッハ (タウヌス)オーバーウルゼル (タウヌス)バート・ホムブルク・フォア・デア・ヘーエ)、北はヴェッテラウ郡カルベンバート・フィルベル)、北東はマイン=キンツィヒ郡ニーダードルフェルデンマインタール)、南東はオッフェンバッハ・アム・マイン、南はオッフェンバッハ郡ノイ=イーゼンブルク)、南西はグロース=ゲーラウ郡メルフェルデン=ヴァルドルフリュッセルスハイムラウンハイムケルスターバッハ)と境を接している。

地質学

フランクフルトの市域は、大部分がウンターマイネベーネ(マイン川下流域盆地)西部に属す。市の東部はハーナウ=ゼーリゲンシュタット盆地、最北部はヴェッテラウである[13]。地質学的には、本市の市域内には鮮新世後期から更新世に形成されたマイン川ニッダ川の4つの段丘が見られる。最も高い段丘は、タウヌス山地の岩石で構成されており、市内ではベルガー・リュッケンでのみ見られる。高さ 170 m から 120 m の上の段丘には、市北部から北東部の市区が存在している。ここから北西はニッダ川へ、南はボルンハイマー・ハングやレーダーベルク付近を急斜面で下る。ザクセンハウゼン南のミュールベルクやザクセンホイザー・ベルクもこの段丘にあたる。中央の段丘は 100 m から 115 m の高さにある。これは、市域内ではたとえばケルスターバッハ川の川岸や、ヘーヒスト旧市街の断崖状の川岸がこれにあたる。高さ 95 m から 90 m の下の段丘は、完新世になって形成された。これは、マイン川の両岸に沿っている。ここには、街の歴史の出発点となったドームヒューゲル(聖堂の丘)やカルメリッターヒューゲル(カルメル会の丘)がある。ボッケンハイム区(バザルト通り)やシュタットヴァルトといった市内の限られた場所に、中新世のフォーゲルスベルク玄武岩でできた下の地層を見ることができる。この層の厚さは 14 m 程度である。

気候

最も古い気温の測定値は1695年12月のもので、アヒレス・アウグストゥス・フォン・レルスナーの年代記に記録されている。1826年以後は、異なる測候所での継続的な測定値が存在している[14]。現在フランクフルトには、ドイツ気象庁の測候所が多くある。これには、フランクフルト国際空港の測候所も含まれており、その測定記録は1949年にまで遡る。

フランクフルトおよびライン=マイン地域は、ドイツで最も温暖な気候に属するオーバーライン地溝の北端に位置する。年間平均気温は 9.7 ℃(1961年から1990年の長期平均値)で、ドイツの他の大都市(ベルリン 8.9 ℃、ハンブルク 9.0 ℃、ミュンヘン 7.6℃)よりも高い値である。

このためフランクフルトの気候は総じて穏やかである。11月から1月までの時期には平均1から2時間しか晴天にならない。冬の時期における1日の最高気温の平均値は、1月で約 3.8 ℃、夜間の最低気温は、平均 -1.1 ℃(1971年から2000年の統計値)である。雪は1月に平均7日間降る。積雪が 10 cm を超えることは滅多になく、ほとんどはすぐに消える。しかし市の北西部のタウヌス山地だけはしばしば雪が積もる。

夏の最高気温は 25 ℃(30 ℃を超える日は平均年間10日である)と暖かい。にわか雨や突然の豪雨でやや変わりやすいものの、毎日7時間から8時間の日照が得られる時期である。夏は、特に市内中心部では蒸し暑くなる。

最も気温が高い月は7月から8月で平均気温は 17.1 ℃から 19.4 ℃、最も寒いのは12月から2月で平均気温は 1.6 ℃から 2.7 ℃である。観測史上最低気温は1929年1月の -21.6 ℃、最高気温は 2003年8月の 39.2 ℃であった。

1971年から2000年までの平均気温は 0.4 ℃高い 10.1℃、年間降水量は平均 611 mm であった。市内中心部では、環境の違いにより気温はフルクハーフェン区(空港付近)よりも約 0.6 ℃高いが、降水量はタウヌス山地の陰になるため周辺よりも少ない。

風向きは主に西風である。1971年から2000年の統計で最も降水量が多いのは 7月で 65 mm、最も少ないのは 2月で 37 mm であった[15]

フランクフルトの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 4.0
(39.2)
5.6
(42.1)
10.4
(50.7)
14.5
(58.1)
19.5
(67.1)
22.3
(72.1)
24.8
(76.6)
24.8
(76.6)
20.1
(68.2)
14.0
(57.2)
7.7
(45.9)
5.0
(41)
14.4
(57.9)
平均最低気温 °C°F −1.3
(29.7)
−1.2
(29.8)
1.9
(35.4)
4.1
(39.4)
8.4
(47.1)
11.7
(53.1)
13.7
(56.7)
13.4
(56.1)
10.1
(50.2)
6.0
(42.8)
2.1
(35.8)
0.0
(32)
5.8
(42.4)
降水量 mm (inch) 42.5
(1.673)
37.1
(1.461)
47.6
(1.874)
42.8
(1.685)
60.2
(2.37)
60.6
(2.386)
64.9
(2.555)
52.9
(2.083)
50.0
(1.969)
54.6
(2.15)
51.8
(2.039)
55.7
(2.193)
520.7
(20.5)
平均降雨日数 9.8 7.1 9.3 8.5 9.8 10.3 9.3 7.8 8.1 9.3 9.7 9.9 108.9
出典:平均気温 – ドイツ気象庁 (DWD) [16]

市の構成

フランクフルト・アム・マイン市は、46のシュタットタイル(市区)に分割されるが、市区の番号は 47 まである(23は技術的な理由から欠番となっているのだが、プラウンハイム区に充てられることもある)。これらはさらに 121 のシュタットベツィルク(市街区)、448のヴァールベツィルク(選挙区)、6,130のブロックで構成されている[17]

行政上、市は 16のオルツベツィルク(管区)に分けられ、それぞれに代表者としての地区長を有する地区議会がある。1970年代に合併した旧町村は、それぞれ合併前の領域がそれぞれの管区を形成している。

人口が最も少ない市区はフルクハーフェン区、面積が一番狭い市区はアルトシュタット区である。最も大きな市区は面積、人口ともにザクセンハウゼン区であり、人口で見るとこれにノルトエント区、ボッケンハイム区が続く。

2010年12月31日現在の46市区の人口
No.
市区
管区 面積 (km²)[18]
人口(人)[19]
外国人数[19]
外国人比率 (%)[19]
01 アルトシュタット 01 インネンシュタット I 0.51 3,569 1,201 33.7
02 インネンシュタット 01 インネンシュタット I 1.52 6,558 2,433 37.1
03 バーンホーフスフィールテル 01 インネンシュタット I 0.53 2,187 810 37.0
04 ヴェストエント南 02 インネンシュタット II 2.47 17,544 3,369 19.2
05 ヴェストエント北 02 インネンシュタット II 1.67 9,120 2,217 24.3
06 ノルトエント西 03 インネンシュタット III 3.07 29,086 5,048 17.4
07 ノルトエント東 03 インネンシュタット III [表注 1] 1.69 26,733 5,439 20.3
08 オストエント 04 インネンシュタット IV 5.40 27,271 7,229 26.5
09 ボルンハイム 04 インネンシュタット IV 2.66 27,613 6,279 22.7
10 グートロイトフィールテル 01 インネンシュタット I 2.20 5,810 1,888 32.5
11 ガルス 01 インネンシュタット I 4.22 27,358 11,215 41.0
12 ボッケンハイム 02 インネンシュタット II [表注 2] 8.04 35,529 9,091 25.6
13 ザクセンハウゼン北 05 ジュート 4.24 30,901 6,632 21.5
14 ザクセンハウゼン南 05 ジュート 34.91 26,680 4,935 18.5
15 フルクハーフェン 05 ジュート 20.00 人口はザクセンハウゼン南に合算されている
16 オーバーラート 05 ジュート 2.74 13,040 3,264 25.0
17 ニーダーラート 05 ジュート 2.93 23,310 6,831 29.3
18 シュヴァンハイム 06 ヴェスト [表注 3] 17.73 20,303 3,596 17.7
19 グリースハイム 06 ヴェスト 4.90 22,944 8,163 35.6
20 レーデルハイム 07 ミッテ=ヴェスト 5.15 17,850 4,767 26.7
21 ハウゼン 07 ミッテ=ヴェスト 1.26 7,311 2,172 29.7
22
(23)
プラウンハイム 07 ミッテ=ヴェスト [表注 4] 4.55 15,845 3,269 20.6
24 ヘデルンハイム 08 ノルト=ヴェスト 2.49 16,480 3,155 19.1
25 ニーダーウルゼル 08 ノルト=ヴェスト 7.22 16,352 3,611 22.1
26 ギンハイム 09 ミッテ=ノルト 2.73 16,636 4,048 24.3
27 ドルンブッシュ 09 ミッテ=ノルト 2.38 18,677 3,535 18.9
28 エッシャースハイム 09 ミッテ=ノルト 3.34 15,009 2,703 18.0
29 エッケンハイム 10 ノルト=オスト 2.23 14,371 3,686 25.6
30 プロインゲスハイム 10 ノルト=オスト 3.74 14,022 3,563 25.4
31 ボナーメス 10 ノルト=オスト 1.24 6,394 1,339 20.9
32 ベルカースハイム 10 ノルト=オスト 3.18 3,435 586 17.1
33 リーダーヴァルト 11 オスト 1.04 4,935 1,137 23.0
34 ゼックバッハ 11 オスト 8.04 10,280 2,083 20.3
35 フェッヒェンハイム 11 オスト 7.18 16,030 5,629 35.1
36 ヘーヒスト 06 ヴェスト 4.73 14,061 5,257 37.4
37 ニート 06 ヴェスト 3.82 18,079 5,354 29.6
38 ジントリンゲン 06 ヴェスト 3.98 9,009 2,136 23.7
39 ツァイルスハイム 06 ヴェスト 5.47 12,138 2,677 22.1
40 ウンターリーダーバッハ 06 ヴェスト 5.85 14,536 3,585 24.7
41 ゾッセンハイム 06 ヴェスト 5.97 15,767 4,273 27.1
42 ニーダー=エルレンバッハ 13 ニーダー=エルレンバッハ 8.34 4,637 526 11.3
43 カルバッハ=リートベルク 12 カルバッハ=リートベルク 6.90 9,463 1,510 16.0
44 ハルハイム 14 ハルハイム 5.02 4,363 435 10.0
45 ニーダー=エシュバッハ 15 ニーダー=エッシュバッハ 6.35 11,516 1,992 17.3
46 ベルゲン=エンクハイム 16 ベルゲン=エンクハイム 12.54 18,098 2,794 15.4
47 フランクフルター・ベルク 10 ノルト=オスト 2.16 7,341 1,732 23.6
フランクフルト・アム・マイン市 248.33 688,191 167,194 24.3
フランクフルトの市区と管区
  • 表注
  1. ^ 一部 インネンシュタットIV
  2. ^ 一部 ミッテ=ヴェスト
  3. ^ 一部 ジュート
  4. ^ 一部 ノルト=ヴェスト

市町村合併

1866年までフランクフルト・アム・マインの市域は、現在の市区でアルトシュタット、インネンシュタット、バーンホーフスフィールテル、グートロイトフィールテル、ガルス、ヴェストエント、ノルトエント、オストエント、リーダーヴァルトおよびザクセンハウゼン(市の森を含む)の「シュタットベツィルク」(都市管区)と、ボルンハイム、ハウゼン、ニーダーウルゼル(ヘッセン大公と折半)、ボナーメス、ニーダー=エルレンバッハ、ドルテルヴァイル、オーバーラート、ニーダーラートの 8つの村からなる「ラントベツィルク」(周辺管区)で構成されていた。プロイセン王国による自由都市フランクフルト併合後は、フラクフルト都市クライスが形成された。1877年から都市クライスの町村が、1910年からは1855年に形成されたフランクフルト郡の町村も、徐々にフランクフルト市に合併されていった。最後の合併が完了したのは1977年であった。かつてフランクフルトに属していた8つの村のうち、ドルテルヴァイルだけは、市域から外れた。

街の景観

フランクフルト旧市街地図。マイン川北側の緑色のラインがシュタウフェンマウアー。黄色と黒の線が堡塁跡でその内側が旧市街。堡塁の線沿いに緑色で塗られている箇所がヴァルザーヴィトゥートによって公園として保護されている。

アルトシュタットとインネンシュタット

他のドイツの大都市同様フランクフルトの街の様子は第二次世界大戦で大きく様変わりした。それは、爆撃による甚大な被害とそれに続く近代的な復興によるもので、街は旧市街の中心に典型的な建物ではなく、自動車優先の道路網や近代建築で構成されるものとなった。

中世盛期以後、戦禍や大火の被害を受けなかったドイツ最大の稠密なかつての旧市街は、もうわずかにしか残されていない。約 3,000棟の木組み建築の中で無傷のまま遺されているのは、ファール門近くのヴェルトハイム邸の1棟だけである。19世紀半ばから第一次世界大戦までの間にはすでに新しい貫通道路の建設(ブラウバッハ通り)や、区画全体の解体(ユーデンガッセ)が行われていた。歴史的な旧市街の遺構は、ドイツで最も有名な都市広場の一つであるレーマーベルク付近でしか見ることはできない。

アルトシュタット区(直訳すると「旧市街」区)の区境に沿って 12世紀に建造された市壁、いわゆるシュタウフェンマウアー(シュタウフェン時代の壁)があった。この壁は、現在のノイエ・マインツェー通り - カイザー通り - ロスマルクト - ツァイル - クルト=シューマッヒャー通りにおおむね沿って建造されていた。アルトシュタットには、フランクフルト大聖堂や有名なパウルス教会がある。17世紀のフランクフルトの姿を詳細に描いたマテウス・メーリアンの版画がある。

現在のインネンシュタット区(直訳すると「内市街」区)は、1333年からノイシュタット(直訳すると「新市街」)として拡張された旧市街の一部で、19世紀に大規模な改造を受けた。17世紀から旧市街を囲んでいた大きな堡塁を持つバロック様式の都市防衛施設は取り壊され、堡塁の鋸歯型の遺構は旧市街を取り囲む環状の公園施設に造り替えられた。フィッシャーフェルトが建設された。都市プランナーのゲオルク・ヘスは新しい建築物が見えるような規則を設けた。彼は、施主に対して古典主義様式を採用するよう要求したのである。フランクフルト古典主義建築の例として、1820年から1825年に建設され1944年に一部が破壊された旧市立図書館が挙げられる。この建物は2005年に「文学館」として元の姿に復元された。1827年にヴァルザーヴィトゥートによって鋸歯状施設内を巡る遊歩道には建造物を建設することが禁止された。この規則は、市が認可したいくつかの例外(アルテ・オーパー、シャウシュピールハウス、ヒルトンホテルなど)を除いて、現在も遵守されている。

19世紀末にハウプトヴァーヒェは市の中心地に発展された。ツァイルは中央オフィス街となった。1678年から1681年にツァイルの入口に建設されたバロック様式のカタリーナ教会は、ゲーテの一家と親密な関係にあった。現在この教会はフランクフルト最大のプロテスタント教会である。

パレー・クヴァルティーア・プロジェクトで再開発されたツァイル

21世紀になると、フランクフルトはツァイルをショッピング街にする大規模な再開発を行った。エッシェンハイム門とツァイルとの間にあった1956年に建設されたフラクフルトで最初期の高層ビルであるフェルンメルデホーホハウスを解体し、その跡地および周辺を再開発するというものである。2009年2月にテレコムの跡地にショッピングセンター MyZeil がオープンした。また、オフィスとホテルが入った2棟の高層ビルが建設された。さらに、1737年から1741年に建設され、1944年に破壊されたトゥルン・ウント・タキス宮殿が元の姿とほぼ同様に復元された。これらパレー・クヴァルティーアと名付けられた一連のプロジェクトは、2010年半ばに完了した。そのすぐ北側の場所では、フランクフルター・ルントシャウの1953年に建設された社屋であるルントシャウ=ハウスが解体され、住宅およびオフィス用地とされた。2.25ヘクタールの広さのこのエリアは、ラボ・リアル・エステート・グループ傘下のオランダのデベロッパー MAB によって開発された[20]

より新しい再開発としては、2010年の大聖堂とレーマーベルクとの間のフランクフルト市技術局の解体がある。ドーム=レーマー=プロジェクトの一環で、ここには旧市街の歴史的な背景を踏まえた約 40棟の建物が建設され、少なくともそのうちの 8棟は木組み建築で元の姿に忠実に復元されることとなっている。

泡沫会社設立時代地区

1830年頃から、堡塁施設の外側にヴェストエント、ノルトエント、オストエント(直訳するとそれぞれ「西側」「北側」「東側」)といった市区が建設された。中央駅の建設後、堡塁施設のすぐ西側に接してそれ以前にあった3つの駅(ヴェストバーンヘーフェ=西駅と総称されていた)の敷地跡に、1890年代にバーンホーフスフィールテルが建設された。

先に挙げた3つの市区とマイン川対岸に位置するザクセンハウゼンが住宅地として大きく発展した。フランクフルト市民は新鮮な空気を欲したのであった。建設はまず、エッシャースハイマー・ラントシュトラーセやボッケンハイマー・ラントシュトラーセといった郊外へ通じる道路沿いから行われた。1866年までの開発は、無計画に行われた。堡塁施設付近の曲がりくねった道路からその様子が現在も見て取れる。プロイセン時代になって初めて製図板の上で格子状の道路網が設計されるようになった。この時代に典型的な多角形の広場が建設され、視界を広く取るため教会の建物などが壊された。

建物は通常、5階から6階建ての密集したブロックの形式で建設され、それ以前の古典主義建築はその大部分が破壊され、建て替えられた。しかし地域的な特徴として、1880年になっても多くの場所で控えめな後期古典主義建築が優勢であり、ヴィースバーデンライプツィヒベルリンといった同じ頃に発展した都市とは異なりそれに続いて多層階の住居で発展した過度に「ヴィルヘルム風」趣味で造られた建物は流行しなかった。

1877年と1895年に合併したボルンハイムとボッケンハイムはこの都市景観の中に組み込まれ、新しい道路が造られ、フランクフルト市電がつながったが、その特徴は今日に至るまで遺されている。20世紀の初めに建築責任者フランツ・アディッケスの下で、現在も通行量の多いフランクフルト・アレーリングが造られた。この道路は泡沫会社会社乱立時代(1870年代)の街を多大に結んでいる。この道路はおおむねフランクフルトの古い国境沿いを通っている。

この時代に典型的なのが、建物の質や機能の東西格差であった。19世紀から20世紀への転換期に、バーンホーフスフィールテルは贅沢なオフィス街、ヴェストエントは上品な富裕層の住宅地であったのに対して、ノルトエントからボルンハイムを経てオストエント一帯は中産階級や労働者たちの地域になっていた。こうした関係は第二次世界大戦以後逆転した。特に1960年代、70年代にオフィスを建設するためにバーンホーフスフィールテルやウェストエントの帝国時代の建物が取り壊され、建て替えられるようになってから、中心地は徐々に東に移動していった。とりわけノルトエントやボルンハイムは、「スツェーネフィールテル」(先端の地域)としてジェントリフィケーションにさらされている。オストラントでの欧州中央銀行新庁舎建設やガスル市区付近でのオイローパフィールテルやスカイライン・プラザの建設は泡沫会社乱立時代に開発された地区のさらなる発展を予見させるものである。

この街には、堡塁施設跡の他にも多くの庭園が造られた。ノルトエント東区には、たとえば、ヒムリッシェン・フリーデンスの中国風庭園を含むベトマン公園がある。ノルトエントには、ホルツハウゼン公園やギュンタースブルク公園がある。また、ヴェストエント北区の西部にはグリューネブルク公園がある。この公園内にはギリシア正教の教会や韓国風庭園がある。パルメンガルテン・フランクフルト(フランクフルト椰子園)は1871年に設立された国際的に評判の良い植物園である。約 2500 種類の植物が栽培されており、パパゲーノ音楽劇場やパルメン=エクスプレス公園鉄道などのアトラクションがある。そのすぐ隣には大学の植物園がある。これら3つの互いに隣り合った庭園は、フランクフルト中心街に近接した最大の緑地を形成している。オストエントのオスト公園は1907年に造られたフランクフルト発の市民公園で、隣接する工業地域の労働者たち住民の憩いの場となっている。

ヘーヒストと周辺市区

20世紀の初めまで、何段階にもわたってインネンシュタットの北に位置する市区を合併していった。いくつかの市区は、すでに1866年までに自由都市フランクフルトの領土に属していたが、他はそれ以前にはフランクフルトと関わりのない地域も含まれていた。1914年頃にフランクフルトはドイツで最も面積が広い都市となった。エルンスト・マイは、1920年代にアレーリングの外側に位置する新しい地区に広大なジードルンク(住宅地)を建設した。北部のプラウンハイム住宅地、レーマーシュタット住宅地、ヴェストハウゼン住宅地、東部のボルンハイマー・ハング住宅地、南部のヘレンホーフジードルングやハイマートジードルングがこれにあたる。

市域は1928年にさらに拡大した。ヘーヒスト・アム・マイン市の合併は、フランクフルト市を文化的に豊かにした。ヘーヒストの旧市街は現在も大変良好に保存されており、1972年からは保護文化財に指定されている。フランクフルト市で最も古い建物もここにある。ユスティヌス教会がそれである。最後の合併は1972年と1977年に市の北東部について行われた。これらの市区の一部は、現在も田舎風の特徴を残している(カルバッハ、ハルハイム、ニーダー=エシュバッハ、ニーダー=エルレンバッハ、さらに東部のベルゲン=エンクハイム)。

マイン川から見たヘーヒスト

緑地帯

1994年に制定されたフランクフルト緑地帯は、中心街を環状に取り巻く景観保護地域である。総面積 8,000 ha で、フランクフルトの市域の約 1/3 を占める。自然景観を害するような建設は認められていない。緑地帯の一部は、広大な保護区で保養地の「レギオナルパーク・ラインマイン」に切れ目なくつながっている。

広さ 4,902 ha のフランクフルト・シュタットヴァルトも緑地帯に含まれる。この森は市街中心部にある森としてはドイツ最大級の森の一つであり、シュヴァンハイム区、ニーダーラート区、ザクセンハウゼン区、オーバーラート区の南部およびフルクハーフェン区北部に広がっている。

この他、シュヴァンハイマー・デューネ、ニッダタール、ニッダパーク、ロールベルク、フートパーク、エンクハイマー・リート、ゼックバッヒャー・リート、フェッヒェンハイマー・マインボーゲン、数多くの小庭園が緑地帯に含まれる。

歴史

フランクフルト歴史博物館前のカール大帝像

フランクフルト・アム・マインは、794年2月22日にカール大帝レーゲンスブルクの聖エンメラム修道院宛の文書に初めて記述されている。この文書にはラテン語で次のように書かれている: "… actum super fluvium Moin in loco nuncupante Franconofurd"、すなわち「マイン川の畔にフランクフルトと名付けられた村がある」ドームヒューゲルの集落は新石器時代から継続的に存続していることが証明されている。この村は、おそらくローマの軍事基地となり、メロヴィング朝時代にフランク王国の王宮所在地となった。843年にフランクフルトはしばしば東フランク王国の最も重要な王の居城であり、帝国会議の開催地となった。フランクフルトは1220年帝国自由都市となった。

1356年金印勅書は、フランクフルトを恒久的なローマ王の選挙開催地に指定した。しかしそれ以前の1147年からすでにほとんどの王の選挙がこの街で行われている。1562年からは皇帝の戴冠も、1792年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世の戴冠に至るまで、フランクフルトで挙行されるようになった。

1806年、旧帝国の滅亡に伴い、フランクフルトは領主司教カール・テオドール・フォン・ダールベルクの支配下に置かれ、自らの領邦であったレーゲンスブルクおよびアシャッフェンブルクとともにライン同盟内で独立領邦を形成した。1810年にダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン公に割譲し、これと交換にハーナウフルダを得た。これらとフランクフルト市やアシャッフェンブルク地方を併せて、1810年から1813年までの短期間ではあるがフランクフルト大公国を創設した。

ナポレオン体制の崩壊により、フランクフルトは1813年12月14日に戦勝連合国によってフリードリヒ・マクシミリアン・フォン・グリュンダーローデの支配下に置かれた。

1848年のパウルス教会でのフランクフルト国民議会

ウィーン会議バイエルン王国はフランクフルトの併合を目論んだが、1815年6月8日に会議はフランクフルトをドイツ連邦内の自由都市とすることを決定した。これによりフランクフルトはハンブルクブレーメンリューベックと並ぶ 4つの自由都市の一つとなった。この伝統的な都市自由権は近代に至るまで存続した。ドイツ連邦の連邦議会はフランクフルトで開催された。1848年、ドイツで3月革命が起こった。招集された国民議会はフランクフルトのパウルス教会で開催された。

1866年普墺戦争では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセンとの連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの街を併合し、これによりこの街の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。1868年にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。1871年普仏戦争フランクフルト講和条約をもって公式に終結した。

プロイセンによる併合は、市の急速な人口増加を伴う工業都市への発展にとって有利であった。フランクフルトは、1877年から1910年までの間に何段階にもわたって周辺の町村を合併し、その面積を 70 km2 から 135 km2 に拡大した。これによりフランクフルトは20世紀の初めには、短い期間ではあったが、ドイツで最も広い都市となった。急速な人口増加に伴い市は公的なインフラストラクチャーを整備していった: 多くの学校やマイン川の橋、上水道、下水道、近代的な職業消防隊、屠殺場および食肉加工場、マルクトハレ、路面電車、駅、港などが含まれる。その後の工業化はまず、ボッケンハイム区や、マインツァー・ラントシュトラーセあるいはザクセンハウゼン・ラントシュトラーセといった街道沿いで進行し、1909年から1912年に工業地域を伴う東港が整備された。新たに開発されたこの工業地区の面積は、19世紀末時点でのマインツ側北岸の全市域面積に匹敵するほど広大なものであった。フランクフルトの伝統的な産業である鋳造や金属加工あるいは活字鋳造や印刷業の他に、化学工場や、1891年の国際電子博覧会以降は電子産業もこの街に進出した。1914年、フランクフルト市民の寄附によって総合大学が創設された。

第二次世界大戦の空爆でほぼ完全に破壊されたフランクフルト中心部(1945年)

フランクフルトは、第一次世界大戦による破壊を免れたが、プロイセンに属すヘッセンとバイエルンとの国境にあたるその立地のために、食料品や日用品の不足に苦しめられた。1918年11月革命の際には暴動が起き、時には市街戦が行われる状況が1919年末まで続いた。

1920年代にフランクフルトは文化的隆盛を迎えた。特に演劇や、近代的キッチンの祖型として国際的に名高いフランクフルトキッチンを含む都市計画新フランクフルトプログラムがその代表である。1925年ヴァルトシュターディオンで第1回国際労働者オリンピックが開催された。

国家社会主義の時代には、11,134人のユダヤ人がフランクフルトから追放され、殺害された。第二次世界大戦では、連合国によるフランクフルト空襲によって市域の約 70 % が、アルトシュタットおよびインネンシュタットはほぼ完全に破壊された。これにより、密集した中世の街並みは1944年までに失われ、1950年代の復興において古い街並みが復元されることはなかった。アルトシュタットの多くの部分には、この時代に建設された簡潔で近代的な合目的建造物や合理的道路配置が今日も遺っている。

終戦後、アメリカ合衆国の軍事政府はこの街を本拠地とした。その後、フランクフルトにトリゾーン(米英仏管理地域)の統治機関が置かれた。1949年5月10日、連邦の首都を定める選挙でフランクフルトは、コンラート・アデナウアーが推すボンに敗れた[21]。だが、フランクフルトには既に国会議事堂が建てられていた。この建物は現在ヘッセン放送が使用している。戦後フランクフルトは経済の中心地となり、1998年欧州中央銀行の所在地となった。

人口推移

人口推移グラフ

フランクフルトの人口推移については、19世紀になるまでは不正確な推定値に基づくしかない。1810年頃から国勢調査や公式な統計調査がなされるようになった。中世のフランクフルトは人口約1万人の中規模都市であった。17世紀に2万人、18世紀に中頃に3万人、1810年頃に4万人を超えた。自由都市フランクフルトが終焉した1866年までに市の人口は9万人を超えたが、このうち約 78,000人が堡塁施設の内側に住んでいた。現在そこに住んでいるのは約 7,000人である。

1875年、フランクフルトの人口は 10万人を超えた。1880年頃にこの街はドイツの10大都市の1つとなった。1910年の人口は 414,576人で、ドイツで9番目、プロイセンで4番目に大きな都市となった。第二次世界大戦前に人口は 553,464人にまでに増加した。

第二次世界大戦中には、4,800人以上の一般フランクフルト市民と 12,700人以上のフランクフルト兵士が命を落とした。また、約3万人のフランクフルト在住ユダヤ人のうち約 12,000人がホロコーストによって殺害された。1945年末のこの街の人口は約 358,000人で、戦争により住民の約半数が亡くなった。

その後人口は、1951年に戦前の1939年の情態に復し、1963年に 691,257人の史上最大数となった。周辺への人口移動によって1986年までに人口は 592,411人と減少したが、その後再び増加して、 2010年12月31日現在の人口は1986年から14.7 % 増の 679,664人となった。この間の最後の5年間は平均で1年あたり約 7,000人の増加が見られた。こうした折り返し傾向は、独居世帯の不釣り合いな増加や、住宅地の増加と関連している[22]

2009年12月31日の調査に基づき統計および選挙住民局が2010年12月に算定した「フランクフルト2030年人口予測」の計算では、フランクフルトの人口は2020年までに約 725,000人に増加し、その後2030年までにわずかに減少して723,000人となると予測されている。これは副人口(ドイツでは主な住所と別に副住所を登録できる)を併せた全人口に対する推定値である。市の調査によれば、2012年6月30日現在の人口は、700,256人で、初めて7万人を超えたことになる[23]

宗教

フランクフルト大聖堂 聖バルトロメウス教会

フランクフルトには数多くの宗教団体や、公式には宗教団体と認められていない世界観を共有するグループが存在している。しかし、フランクフルト市民の多くは、特に無宗教者不可知論者ムスリムなどは、組織的に連携しているわけではない。

現在の大聖堂の場所には、7世紀からすでに小さな教会があった。12世紀末から急速に数多くの教会や礼拝堂が、あるものは市民の喜捨により、あるものは教団の下部組織として、建設された。

1533年、帝国自由都市フランクフルトでも宗教改革がなされた。しかし、1548年のアウクスブルク仮信条協定以後、カトリックの参事会教会と修道院がカトリック教会組織に復した。これは、カトリック教徒である皇帝との衝突を避け、市の特権(特にメッセと皇帝選挙の開催権)を護るためであった。1555年のアウクスブルクの宗教和議以降1806年まで、わずかに残ったカトリック教徒に対して市民権は例外的にしか与えられなかった。フランスから亡命したユグノー教徒は、1554年にドイツで最初のユグノー派の街を造った。

改革派教会は、1786年からフランクフルトに教会を有していた。1866年に改革派教会とルター派教会は合併し、フランクフルト・ラント教会が形成された。

1933年にフランクフルト・ラント教会は国からの圧力により、ヘッセン=ダルムシュタットいおよびナッサウ福音派教会とともにナッサウ=ヘッセン福音派ラント教会を形成し、1947年にヘッセンおよびナッサウ福音派教会 (EKHN) となった。これに対し、1976年にフランクフルトに合併したベルゲン=エンクハイムは、クールヘッセン=ヴァルデック福音派教会に属した。

18世紀、さらには19世紀、20世紀の移住者によって、カトリック信者がプロテスタント信者に迫る勢いで増加した。フランクフルトのカトリック信者は、1917年までは一つの組織にまとめられていたが、その後次第に多くの小教区を形成していった。この街のカトリック教会は主にリンブルク司教区に属すが、ベルゲン=エンクハイムはフルダ司教区に、1972年に合併した市区であるハルハイム、ニーダー=エルレンバッハ、ニーダー=エシュバッハ区はマインツ司教区に属す。

カトリック、プロテスタントのキリスト教 2大宗派の他に、正教会東方諸教会自由教会やその他のキリスト教系宗教団体がフランクフルトに存在している。これには、復古カトリック教会新使徒派教会エホバの証人が含まれる。

フランクフルトのユダヤ教団は、1150年に初めて記録されている。中世では 1241年と 1349年の 2回、フランクフルトのユダヤ人は迫害の犠牲になっている。1462年から1796年までユダヤ人はユーデンガッセのゲットーに住むことを強いられた。1806年になってやっと彼らは他の宗教信者と同等に扱われるようになった。フランクフルトは、ドイツで最も早い時期にあたる1864年にユダヤ人に対して無制限の同等性を認めた街である。1930年頃、フランクフルトには約 28,000人のユダヤ人が居た。国家社会主義の時代、そのほとんどが追放され、あるいは殺害された。大規模だったシナゴーグは1938年11月の排斥運動によって破壊された。11,134人のフランクフルトのユダヤ人がホロコーストによって殺害された。終戦時、この街で生き延びることができたユダヤ人は約 160人だけであった。終戦直後からすぐに、東欧から追放されたユダヤ人たちによって新たなユダヤ教組織が形成された。現在この街のユダヤ教団は約 7,200人が所属するドイツでも大規模な教団の1つである。フランクフルト最大のシナゴーグはヴェストエントシナゴーグである。

1959年にザクセンハウゼン区に建設された Ahmadiyya Muslim Jamaat の ヌール・モスクは、フランクフルトで最初のモスクであり、ドイツでも最初期のものの一つである。その後フランクフルトには様々なイスラム宗派のモスクが建設されていった。

末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)はヨーロッパ中央地域の本部をフランクフルト・アム・マイン(エッケンハイム)に置いている。さらにエッケンハイムとヘーヒストの2つの教会組織を有している。フリードリヒスドルフのフランクフルト寺院は、1987年に建設された当時としてはドイツ初のモルモン教寺院である。

フランクフルトの市外ではあるが、ホーフハイム・アム・タウヌスに、1964年からヨーロッパで唯一のバハイ教教団の祈祷所がある。

この他、フランクフルト中心街には、1845年に創設され、1000人以上の会員を有するユニテリアン主義の自由宗教団がある。

行政

フランクフルト市庁舎

フランクフルト基本条例とヘッセン州自治体法がこの街の骨格を定めている。

フランクフルトは、2013年現在、CDUGrüneの連立野党と上級市長ペーター・フェルトマンによって運営されている。2012年7月1日にそれまでの上級市長ペトラ・ロートが引退を宣言し、ペーター・フェルトマンがこの職に就任した。SPDの候補者であったフェルトマンはCDUの候補者でヘッセン州内務大臣のボリス・ラインに対して、2012年3月15日の決選投票で 57.4 % の過半数を獲得し、当選を果たした。ラインは、3月11日の一次選挙の時点ではフェルトマンの票を上回っていた[24][25]

議会

フランクフルト市の市議会は、93議席からなる。政党別議席数は以下の通りである[26]

政党 得票率 議席数
CDU 30.5 % 28
Die Grünen 25.8 % 24
SPD 21.3 % 20
Linke 5.4 % 5
FDP 3.9 % 4
FW 3.8 % 4
Piraten 2.0 % 2
FAG 1.4 % 1
ÖkoLinX-ARL 1.2 % 1
NPD 1.1 % 1
ELF 1.1% 1
REP 0.8 % 1
投票率 42.4 % 93
1925年から1936年頃に用いられたハンス・ライスティコフによる市章

紋章

図柄: 赤地に金の冠を被った銀の鷲。金と青の爪、嘴、舌で威嚇している。

解説: フランクフルトの鷲は単頭の帝国鷲であり、その起源は13世紀に遡る。帝国都市として帝国に依存していることを示す徴として鷲は冠を被っている。1841年に彫刻家エドゥアルト・シュミット・フォン・デア・ラウニッツが現在の紋章のデザインを作成した。1920年代にはグラフィックデザイナーのハンス・ライスティコフによる過激なまでに簡略化されたバージョンが用いられた[27]。当時の上級市長ルートヴィヒ・ラントマン(1924年 - 1933年)は時代精神に従い、鷲のこうした表現主義的デザインを採用したのであった。しかしこのデザインは市民には不評であった。1936年には古い紋章が再び使用されることとなった。第二次世界大戦後、1936年に確定された紋章は1952年の基本条例で公式に制定されたが、新たに異なる鷲の表現方法も試みられた。ライスティコフの鷲は現在では、フランクフルト市の栄誉メダル、市史研究所の旗、フランクフルト・アム・マイン消防スポーツクラブの紋章などの特殊な場合に限って用いられている。

姉妹都市

フランクフルト・アム・マインは、以下の都市と姉妹都市関係を結んでいる[28]

また、1967年に当時は独立した自治体であったニーダー=エシュバッハとフランスのドゥイユ=ラ=バールとの間で姉妹自治体協定が結ばれた。

友好都市は以下の都市がある。

2006年から中国南部の都市深圳市との間で経済協力振興がなされている。2007年からは天津市北京市もこれに加わっている。

市の財政

フランクフルトは、1980年代のCDUの上級市長ヴァルター・ヴァルマンおよびヴォルフラム・ブリュックの下で行った大規模な公共建設政策により、市の負債は8億4千万ユーロ(1977年)から22億5千万ユーロ(1989年)に増加した[29]。さらにSPDと緑の党の連合からなる市当局はこの負債を1993年に最大の34億ユーロにまで膨れあがらせた。これにより、フランクフルトはドイツの大都市(都市州を除く)の中で最も高額な負債を抱えた街となった。このため、市の監査局は負債をこれ以上増大することを禁じ、市は1994年から予算の強化を開始した。その後、営業税の大幅増税、支出の削減、そして当面の良好な経済発展により、負債は明らかに減少した。

フランクフルトの2006年の年間負債額は人口1人あたり約 2200ユーロでドイツの15大都市の中で6位(ブレーメン 約 17,000、ベルリン 約 16,000、ハンブルク 約 13,000、ケルン 約 3,800、ミュンヘン 約 2,700)である。良好な税収と財政黒字によって負債は2010年末までに 9億8300万ユーロに減少した。

2008年6月13日に市は、2007年1月1日の開始貸借対照表を公開した。それによれば、フランクフルト市は125億2千万ユーロの資産があるが、そのうち118億ユーロが固定資産である。市はその所有物にたとえば以下のものを挙げている: 1145 km の道路、 44,266 の土地、約 1800棟の建物、58.6 km のUバーン路線、椰子園の約 2500種の植物、動物園の約 580種4500頭の動物、4902 ha シュタットヴァルトなどである。すべての建物の中で最も簿価が高いのは5800万ユーロの大聖堂である。市の自己資本は 82億9000万ユーロで、自己資本率は 66.2 % に相当する。債務は18億ユーロで、これは主として年金に充当するための引当金(12億ユーロ)である[30]

2007年と2008年に市は、年間の黒字を 5億ユーロ以上とする目標を達成した。しかしその後、金融危機のために税収は年間 4億ユーロ以上減少した。市は2009年にわずかながら黒字に転じた製造業の2010年、2011年に期待をしたが、少なくとも翌2013年まではネガティブな結果を予測している[31]

主な理由は、フランクフルト市の最も重要な財源である営業税の伸びである。2008年の営業税は史上最高額の 16億4千万ユーロであった。これによりフランクフルトはミュンヘン(19億ユーロ)に次いでドイツで最も営業税収入の多い都市となったが、ミュンヘンの人口はフランクフルトのほぼ 2倍ある。フランクフルトと同規模の都市であるシュトゥットガルトドルトムントの営業税収入は、フランクフルトの半分から 1/5 程度にとどまっている[32]。2010年の営業税収入は13億ユーロ、2011年の予算では11億ユーロと推定されている[33]

経済と社会資本

フランクフルトのバンケンフィールテル(銀行街)

2001年に作成されたリヴァプール大学のランキングリストによれば、フランクフルトはヨーロッパで最も生産力(一人あたりのGDP)の高い街(カールスルーエパリミュンヘンをおさえて)である[34]。この街は現在、ヨーロッパで最も裕福で、ポテンシャルの高い街の一つである。それは、この街に国際的企業の支店・代理店が多くあることにもつながっている。クッシュマン・アンド・ウェイクフィールドの年次研究(ヨーロピアン・シティー・モニター 2009)では、フランクフルトは国際コンツェルンにとってヨーロッパで最適な街の3位(ロンドン、パリに次ぐ)に20年前からランキングされている[35]。フランクフルトはヘッセン州にとって最も重要な中心都市である。ヘッセン州の営業税 42億4千万ユーロのうち 40 % がフランクフルトからの収入である[36]。生活費が世界で最も高い都市に関する調査がエコノミスト報道部によって 2011年12月に行われ、フランクフルトはドイツで1位、世界で10位に位置づけられた[37]

労働

フランクフルトには 622,600人の就労者がおり[38]、このうち約 49万人が社会保険を義務づけられた被雇用者である。フランクフルトはドイツで最も労働密度が高く、通勤者の多い街である。2010年現在のこの街への通勤者は1日あたり 325,485人で、この街から他の街に通う通勤者は 68,080人であった[38]。500社以上約 75,000人がフランクフルト国際空港で働いており、この空港はドイツ最大の職場となっている[39]。業種別では金融・保険業が最大の業種で、約 72,800人が務めている[38]

社会保険を義務づけられた全日制労働者の平均月額給与は、2010年現在 3,619ユーロで、2000年よりも約 600ユーロ上昇している。報酬は職種によって明らかに異なっている: 接客業や単純なサービス業の給与は 2000ユーロ以下であるのに対し、IT関連では 4,500ユーロ、金融関連では 5,400ユーロを超える[38]。こうした高額給与所得者はわずかに約 46,700人ほどである。一方、約 26,000人の失業者がいる。

この街の高い経済力は、平均を超える収入をフランクフルトで稼いだ通勤者を通して、近隣、特にフォルダータウヌス地方の市町村の金庫も潤沢にしている。このためドイツの豊かな郡トップ 5に隣接する郡が 2つランクされている: バート・ホルンブルク・フォア・デア・ヘーエを郡庁所在地とするホーホタウヌス郡ホーフハイム・アム・タウヌスを郡庁所在地とするマイン=タウヌス郡である。

さらにフランクフルトは、人口1人あたりあるいは就労者1人あたりの粗付加価値およびGDPがドイツの大都市の中で最も高い街である(2007年現在)[40]

生活

マーシュ・アンド・マクレナンの2012年の調査によれば、フランクフルトは生活の質が高い世界の都市ランキングで 7位に位置づけられた[41]。ドイツでフランクフルトよりも上位であったのは、ミュンヘンの4位とデュッセルドルフで 6位であった。エコノミストの同種の調査(2011年)では、フランクフルトは 18位で、ドイツでこれよりも上位だったのはハンブルクの 14位だけであった[42]。Wealth Report(2013年)は Quality of Life 部門でフランクフルトを 5位に挙げている[43]

2010年12月のフランクフルト市の住民アンケート[44]では、フランクフルト市民の 66 % がこの街を「満足」または「大変満足」と回答しており、「不満足」の回答は 6 % であった。1993年から「満足」の割合は約 22 % 増加し、「不満足」は約 8 % 減少した。84 % のフランクフルト市民がこの街に住み続けたいと答え、13 % が別の場所で暮らしたいと回答した。フランクフルトの安全性について満足しているのは 37 %(1993年は、わずか 9 % であった)、不満足なのは 22 % (1993年は 64 %)であった。

犯罪

人口 20万人以上のドイツの都市の中で、フランクフルトは人口あたりの犯罪が最も多い。2011年の犯罪頻度は、人口10万人あたり 16,137件であった[45][46]。犯罪統計においてこの街はトップの座を占めており、メディアは時にこの街を「犯罪の首都」[47]や、「ドイツで最も危険な街」[48]

フランクフルト警察署は、機関紙の中であらゆる犯罪の頻度を他の大都市と比較しながら公開している。ドイツで最も多い通勤者を有するこの街では、日中には市民に加えて毎日 26万人が滞在している。さらに訪問客や旅行客、すなわち年間約150万から 250万人に及ぶメッセの客や約5300万人に達する空港利用客が市域に存在している。犯罪の約 6 % が空港で起きている。荷物の窃盗、パスポート犯罪、入国管理法違反や航空交通法違反などである。

市の機関や委員会も、犯罪統計に解説を付けた公報を発行している[49]。犯罪種別ごとに細分化された考察すると、フランクフルトは麻薬犯罪と不法滞在がドイツで1番多く、詐欺、単純な窃盗不正乗車がトップグループにある事がわかる。クレジットカードや銀行口座の詐欺は、実際の犯行現場とは無関係に当該銀行の本店所在地に記録される。判明した麻薬犯罪や不正乗車の件数が多いのは、空港や交通の後換え駅での強力なチェックの結果である。安全に関わる犯罪、謀殺、故殺、暴行、レイプ、強盗、傷害事件に関しては、フランクフルトは統計の中位に位置している[50]

2011年4月に行われたグライフスヴァルト大学の「フランクフルト・アム・マイン市民の主観的安全性調査」によると、調査対象となった市民の 84 % が、犯罪に対して昼間は安全あるいはとても安全と回答し、夜間についても 71 % がそう答えた[51]

地元企業

フランクフルトほど様々な分野(化学コンツェルン、広告代理店(たとえばサーチ・アンド・サーチのドイツ本部やJWTの支社など)、ソフトウェア会社、コールセンターなど)の国際的リーディングカンパニーが数多く集まっている街は、ドイツでは他にほとんどない。DBレギオAG、DBフェルンフェアケールAG、その他のドイツ鉄道の主要部門や子会社のDBネッツAGといった旅客交通の中枢がガルスのDBセンターに集まっている。また、フランクフルトはヘキストAGを擁し、長年にわたって「世界の薬局」として重要視されてきた。このヨーロッパ3大化学・医薬品企業の1つの所在地がインダストリーパーク・ヘーヒストである。食品コンツェルンのネスレフェレロのドイツセンターやドイツ最大のブルワリー・グループであるラーデベルガーグループの本社もフランクフルトにある。さらに4大会計監査会社の1つであるKPMGは、ヨーロッパ本部をフランクフルトに置いている。プライスウォーターハウスクーパースはドイツセンターをフランクフルトに置いており、デロイト・トウシュ・トーマツは支店を、アーンスト・アンド・ヤングは下部組織をエシュボルン区の市境付近(フランクフルト市外)に有している。この他にも大規模な経営コンサルタントや国際法律事務所のいくつかがフランクフルトを拠点としている。

金融業

ドイツ連邦銀行

フランクフルト・アム・マインは、重要な金融都市・証券取引の街であり、世界で最も重要な金融センターの一つに数えられている。フランクフルトは、2010年の GaWC(グローバリゼーションと世界都市研究ネットワーク)による経済上の重要度で「アルファー」(3番目のカテゴリー)に格付けされた。これは、2008年のランキングを更新したもので、以前フランクフルトは「アルファー マイナス」(4番目のカテゴリー)に分類されていた[52][53]

フランクフルトには、欧州中央銀行およびドイツ連邦銀行の他に、ドイツの 4大銀行[54]が本社を構えている: ドイツ銀行コメルツ銀行KfW銀行グループ(ドイツ復興金融公庫銀行)、DZ銀行である。

ドイツ銀行[55]とコメルツ銀行[56]はユニバーサルバンクであり、世界中に支店を有している。KfW銀行グループの主業務は中産階級ベンチャー企業の支援であり[57]、DB銀行は信用協同組合の中心となる存在である[58]。DB銀行の子会社であるウニオーン・インヴェストメント、DVB銀行、ライゼ銀行もフランクフルトに本社があり、さらにドイツで2番目に大きな信用協同組合であるフランクフルター・フォルクスバンクもこの街を本拠地としている。

公立あるいは半公立の金融機関では、ヘッセン=テューリンゲン州立銀行 (ヘラバ)、Deka銀行、レンテン銀行、フランクフルト貯蓄銀行がフランクフルトに本店を置いている[59]

ドイツ最大のネット銀行 ING-DiBa もフランクフルトに本社がある。これに加えて、SEB AG、バンクハウス・メッツラー、ハウク・ウント・アウフホイザー、デルブリュック・ベトマン・マッファイ、BHF銀行、コーリアルクレジット銀行といった重要な民営銀行のいくつかが本社やドイツ本部をフランクフルトに置いている。また、エシカルバンク(社会貢献度の高い企業に低金利で長期の融資を行う銀行)のトリオドス銀行GLSゲマインシャフツ銀行の支店もフランクフルトにある。

2010年末現在、154行の外国銀行がフランクフルトにドイツ本部を置き、さらに40行が事務所を構えている。

ドイツ証券取引所AGが運営する証券市場、フランクフルト証券取引所クセトラを有するフランクフルトはヨーロッパで2番目に大きな証券市場であり、ドイツの証券取引の大部分を担っている。時価総額で見た市場規模では、ドイツ証券取引所は世界最大の証券取引所である[60]

さらに国際的な格付け機関であるスタンダード・アンド・プアーズムーディーズフィッチ・レーティングスの3社はフランクフルトにドイツ本部を置いている。この3社はこの業界の「ビッグ・スリー」と称される機関である[61][62][63]

国際金融センターとしてのフランクフルトの重要性は近年さらに高まっている。欧州保険・企業年金監督局 (EIOPA)[64] や、EU金融市場のシステミックリスクを早期発見、予防、撲滅を目的とする欧州システミックリスク理事会 (ESRB) [65]をはじめ、数多くの超国家的金融機関がフランクフルトで設立されている。さらに2013年からは、欧州中央銀行内の欧州銀行監督機構が、ユーロ圏の 6000以上の銀行を統括して監督する。

建築・不動産業

フランクフルトには約 11,300社の建築・不動産業者があり、29,900人が働いている(2008年現在)。1999年には 36,000人以上がこの職種に就いていた。大手企業としては、DTZツァーデルホーフ、Jones LangLaSalle、BNPパーリバス・レアル・エステイト、ビルフィンガー・ベルガー、ホーホティーフ、ポル・ドイチュラント、テケム、ナッサウイシェ・ハイムシュテッテ、ABGフランクフルト・ホールディングス、ワイス・ウント・フライターク、ヴィザク、Ed. チュープリン、アルバート・スペアー・アンド・パートナーがある[66]。不動産所得税の課税対象となる取引の売上高は、2008年現在で 40億ユーロを上回った。

夕暮れのツァイル

小売業

インネンシュタット区の全長 600 m のツァイルは、フランクフルトで最も有名で、最も売上高の高いショッピング街である。ジョーンズ・ラング・ラサールの調査(2012年7月17日現在)によると、1時間あたり最大13,120人がこの街を訪れた、ドイツで最も人通りの多いショッピング街であった[67]。また、ツァイルは2009年にドイツの小売り商業地の賃貸評価額で2位となった。店主は、最高で 1 m2 あたり265ユーロの賃借料を支払うこともある。2009年2月、パレー・クヴァルティーアに新しいショッピングセンター「マイツァイル」がオープンした。

ツァイルにミドルクラスの価格帯の店が好んで出店するのに対して、近くにあるゲーテ通りは高級ショッピング街として知られている。2012年の調査では、ゲーテ通りは 1時間あたり 1,520人が訪れるドイツで 5番目に人通りが多い高級ショッピング街であった[67]。この他のフランクフルトの重要なショッピング街としては、ドイツ最大級のショッピングセンターの一つであるノルトヴェストシュタットの「ノルトヴェストツェントルム」、ベルゲン=エンクハイムの「ヘッセン=センター」、フランクフルト市内ではないものの、隣接するズルツバッハの市境沿いにある「マイン=タウヌス=ツェントルム」がある。

この他の市区にもショッピング街がある。ボルンハイムのベルガー通り、ザクセンハウゼンのシュヴァイツァー通り、ボッケンハイムのライプツィガー通り、ヘーヒストのケーニヒシュタイナー通り、インネンシュタットからノルトエントに通じるエーダー・ヴェクなどである。

さらに 2011年から新たに「スカイライン・プラザ」の建設が始まった[68]。これは、オイローパフィールテルの旧貨物中央駅跡地に建設されるショッピングセンターで、完成後には 180店舗が出店予定である。

自動車製造業

フランクフルトには多くの外国自動車メーカーのヨーロッパ本部やドイツ本部がある。たとえば、フィアットアルファ・ロメオランチアを含む)や起亜自動車などである。隣接する市町村では、リュッセルスハイムにはオペルサーブがあり、シュヴァルバッハ・アム・タウヌスにはジャガーがある。さらに近隣のヴァイターシュタットにはシュコダセアト・ドイチュラント本社がある。日本の自動車メーカーであるマツダは、オーバーウルゼルにデザインセンターを有している。オッフェンバッハ・アム・マインにはホンダの北ヨーロッパ本部と開発デザイン部門や、ヒュンダイのヨーロッパ販売センターがある。

さらに自動車部品製造業も盛んである。コンチネンタルAGは、生産、管理、開発の拠点をフランクフルト、エシュボルン、シュヴァルバッハ、カルベン、バーベンハウゼン、フリートベルクに有している。これらの自動車メーカーおよび自動車部品製造業者は、ライン・マイン・ネッカー自動車クラスターに参画している。

ITおよびテレコミュニケーション産業

ITおよびテレコミュニケーション部門の企業もフランクフルトには多くある。大資本と連携している企業として、T-システムズ、フィナンツ・インフォマティーク、DBシステル、ルフトハンザ・システムズがある。テレコミュニケーションサービスのコルト・テクノロジーサービスやレベル 3 コミュニケーションズ、テレコミュニケーション設備のアバイアは、フランクフルトにドイツ本部を置いている。ドイツのドメインネームは、フランクフルトにある DENIC が管理している。オイローパトゥルム(ヨーロッパタワー)にある国際ネットマネジメントセンター (INMC) は、ドイツテレコムの国際電話および国際データネットワークの運営、保守を行っている。フランクフルトに本社を構えるデック 13 インタラクティヴ、ケーン・ゲームス、Crytek(クライテック)は、いずれも評判の高いコンピュータ・ゲームの開発会社であり、アタリ・ドイチュラントコナミ・ヨーロッパの本社もこの街にある。IT系企業が特に多く集まっているのが、ハーナウアー・ラントシュトラーセ、マインツァー・ラントシュトラーセ、グートロイト通り沿いの旧工業地域である。より広域のフランクフルト大都市圏では、バート・ホムブルクエシュボルンクロンベルクランゲンノイ=イーゼンブルクに集まっている。フランクフルトは、ライン=マイン=ネッカー IT クラスターの一部をなしている。

業界団体、規制委員会

化学工業連合会 (VCI)、光学工業連合会、ドイツ機械・設備製造連合会 (VDMA)、電子技術規制委員会を有する電気技術・電子・情報技術連合会、ドイツ調理師連合会、ドイツ通信販売連合会、自動車工業連合会 (VDA) といった業界団体がフランクフルトにある。VDA は、2年毎に国際モーターショーをフランクフルトで開催している。書籍見本市を組織しているドイツ書籍協会もフランクフルトに本部がある。公益科学技術協会である DECHEM科学技術、バイオテクノロジー協会 e.V. は、数多くの賞を授与し、メッセ・フランクフルトとともに科学技術、環境保護、バイオテクノロジーの世界最大の見本市(アヘマ)を3年に1度開催している。

労働組合

ドイツ労働組合連合会に属す金属業界労働組合、農業環境業界組合、教育・研究者組合 (GEW) の本部がフランクフルトにある。この他、機関車運転手労働組合もフランクフルトに本部を持つ。

メッセ・フランクフルトの入口

見本市

商業見本市は、中世からフランクフルトで行われていた。皇帝フリードリヒ2世がこの街に見本市開催の特権を与え、その保護の下でヨーロッパの交易品を展示する秋の見本市が毎年開催された。1330年に春の見本市も開催されることとなった。神聖ローマ帝国内で2番目に大きな見本市開催都市であるライプツィヒとフランクフルトとの間は、ヴィア・レギアという広域幹線道路で結ばれていた。18世紀以降に衰退した時代があったが、第二次世界大戦後この街は古い見本市の伝統と再び結びついた。

これに加えて、フランクフルト書籍見本市国際モーターショー、アヘムやアンビエンテが開催されている。一方、近年は「テンデンス」と呼ばれている伝統的な秋の見本市は、その重要性を失いつつある。

新たな経済発展

マスターカードの依頼を承けた経済研究グループは、毎年、世界で最も重要なビジネスセンターがどこであるかという調査を行っている。この調査でフランクフルトは2007年に第7位となった。このランキングには国内よりもグローバルであることが求められるため、ドイツの他の都市よりも高いランキングとなっている。この街の経済発展におけるグローバル化の重要性はフランクフルト経済が1980年代からの数十年で経験した大きな構造変化にも現れている。

DAX対象企業 30社のうち、1988年から 5社が、1990年から1996年には 6社がフランクフルト・アム・マインにあった。このうち 3社が銀行(コメルツ銀行AGドイツ銀行AGドレストナー銀行AG)、3社が工業系企業(デグサAGヘキストAGメタルゲゼルシャフト)であった。しかし2007年半ばからフランクフルトのDAX対象企業は3社だけになった。このうち2社が銀行(コメルツ銀行とドイツ銀行)、サービス系企業が1社(ドイツ証券取引所)である。構造変化は、1980年代にまず、フランクフルトで伝統的に強い金属業界や電子業界で起こった。ハルトマン・ウント・ブラウン、フェライニクテ・ドイチェ・メタルヴェルケ、デマグ、ナクソス=ウニオーン、アドラーヴェルケ、VDOといった会社が、多くは吸収・合併の後、フランクフルトの工場を閉鎖したり、本社を移転したりした。かつてドイツで 2番目に大きな電子機器コンツェルンであった AEG は、1982年に債務超過の末にダイムラー・ベンツに吸収され、長年にわたる経済的衰退の結果、1996年に解体された。メタルゲゼルシャフトは、GEAグループに吸収された後、2005年にボーフムに移転した。

インダストリーパーク・ヘーヒスト

フランクフルトは、世界最大級の化学・医薬品産業の所在地であるにもかかわらず、この街に本社を置く大企業はない。ヘキストAGは1970年代から1980年代には売上高世界第2位の化学・医薬品企業であった。しかし1977年に代表取締役ユルゲン・ドルマンの下で多くの企業に分割され、それぞれ異なる企業と合併して本社が移転した。アメリカ合衆国セラニーズスイスクラリアントフランスサノフィなどである。かつてのヘキストの工場跡地であるインダストリーパーク・ヘーヒストは、現在でもヨーロッパで最も広い化学工場用地トップ3の1つであり、1990年代よりもさらに多くの従業員が働いている[69]

かつて最大の染料メーカーの1つだったフェッヒェンハイムのカッセラAGは、1995年にヘキストAGと合併した。この事業部門はヘキスト分割に伴って、1997年にクラリアントに属すこととなった。マインクールの旧カッセラ工場は、その後アレッサケミーGmbH の本社として存続している。この企業名アレッサケミー (AllessaChemie) は、カッセラ (Cassella) のアナニム(綴りを逆向きに並べ替えたもの)である。

デグサは2001年に本社をデュッセルドルフに移し、エッセンエヴォニク・コンツェルンに編入された。

ドイツ鉄道東西ドイツ再統一に伴い、2000年にグループ本社をベルリンに移転した。ただしグループ開発およびその他の中心的な部門、ならびに子会社のDBネットやDBシステルはフランクフルトに残っている。

フランクフルトの高い営業税、高い事務所家賃、高い地価により、企業の周辺自治体への移転が助長された。ドイツ銀行は1990年代に新しい計算機センターをエシュボルンに建設し、BHF銀行も1997年にオッフェンバッハに計算機センターを設立した。

2013年に発表されたフランクフルト・アム・マイン商工会議所による景気に関するアンケートによれば、世界金融危機以後、ほぼすべての経済分野で市場は回復傾向にある[70]

2011年9月26日にチコナの新しい生産工場がオープンした[71]。これはケルスターバッハからインダストリーパーク・ヘーヒストに移転したものである。

購買力

構造変化にもかかわらず、2006年から2007年の住民1人あたり、あるいは就業者1人あたりの GDP は、ドイツの大都市の中でその地位を保ち続けている。生活の質や移住誘引力も上述の通り高い状態にある[72]。古典的な産業の衰退は、フラポートやドイツ証券取引所といったサービス業の進展や、自動車産業・IT産業分野の国外大企業のヨーロッパ本部あるいはドイツ本部設置によって相殺されている。一方、この街は金融分野とは全く異なる、バイオテクノロジーの研究都市として発展しようと努力している。人口増加、失業率、住民あるいは就業者1人あたりのGDPといった指標において、フランクフルトは強力な地位を占めている。収入はドイツで最も高い水準にある[73]。高所得の労働者は、主にフランクフルトに隣接する、住宅密度の高いフォルダータウヌス地方の郡部(特に、ケーニヒシュタイン・イム・タウヌスクロンベルク・イム・タウヌスバート・ゾーデン・アム・タウヌス)に住んでいる[74]。それにもかかわらず、フランクフルトの2012年現在の購買力指標は 117.5 と平均よりも高い値を示している(ホーホタウヌス郡およびマイン=タウヌス郡のそれは、それぞれ 137.7、146.3、ヘッセン州全体では 107.4 である)[75]

観光業

観光業もフランクフルトにとって有力で成長力の大きい分野である。ビジネス客や見本市を訪れる人の他、世界中からますます多くの観光客が集まるようになっている。2007年にフランクフルトを訪れた人は約 250万人で、ベルリン、ミュンヘンに次いで 3番目に多かった。2009年の訪問者数は 300万人、2010年は 340万人で、ベルリンミュンヘンハンブルクに次いで4位であった[76]。人口1人あたりの訪問者数ではフランクフルトがトップであり、統計上は市民1人あたり5人のゲストを迎えたことになる。

交通

フランクフルト・アム・マイン市はヨーロッパの中央に位置することから、ヨーロッパで最も重要な交通の中継地点の一つとなっている。鉄道、道路交通、内陸水運、航空が、ここで互いに交差している。マーシュ・アンド・マクレナン・カンパニーズの調査(2009年)によれば、フランクフルトは世界で 8番目に社会資本(航空、公共旅客交通、渋滞状況を含む)が豊かな都市であった[41]。これは、ロンドンパリシドニー東京ニューヨークといった国際都市よりも上位である。ドイツではミュンヘン(2位)、デュッセルドルフ(6位)が上位にいる。

世界初の航空会社 DELAG は、1909年にフランクフルトで設立された。

フランクフルト国際空港

空港

この街は世界最大級の空港の 1つであるフランクフルト国際空港を有している。乗降客数は、ロンドンのヒースロー空港、パリのシャルル・ド・ゴール国際空港に次いで3番目に多い。2010年には 5,300万人の乗降客と 220万トンの貨物がこの空港を通過した。

フランクフルト=ハーン空港は、その名称から勘違いされるが、フランクフルトにあるわけではなく、西に約 120 km 離れたラウツェンハウゼンラインラント=プファルツ州)にある。ドイツで 11番目に乗降客数が多いこの空港は、2007年に 400万人が利用指した。

フランクフルト=エーゲルスバッハ飛行場もフランクフルトではなく、17 km 南のエーゲルスバッハにある。

道路

フランクフルト国際空港に近いフランクフルト・ジャンクションで連邦アウトバーン A5号線(ハッテンバッハ・ジャンクション - バーゼル)と A3号線(アーネム - リンツ)が交差している。このジャンクションは1日に約 32万台が通行するドイツで最も通行量の多いアウトバーン・ジャンクションである。

この他のアウトバーンとしては、西のヴィースバーデンから東のフルダに至る A66号線が通り、短いがメッセ会場やインネンシュタットへの連絡路として重要な A648号線、オーバーウルゼルからエーゲルスバッハへ南北に貫く A661号線がある。西のA5号線、北東のA661号線、南のA3号線が、フランクフルトを取り巻くアウトバーン・リングを形成している。このアウトバーン・リングは2008年10月1日に制定されたウムヴェルトツォーネ(都市環境整備地区)の境界をなしている[77]

この街に通じる連邦道は、B3号線、B8号線、B43号線、B44号線がある。

市が所有する道路は 1145 km に及ぶ。フランクフルトには人口 1,000人あたり 715台の自動車があり、ドイツの大都市の中で最も自動車密度の高い街である。都市アウトバーン(一部は連邦アウトバーン、あるいはアウトバーン風に拡張された連邦道や州道である)が、市内を通っている。

多くの長距離バス路線がフランクフルトと他の都市(ベルリン、ハンブルク、マンハイム、ミュンヘンなど)とを結んでいる。

フランクフルト中央駅

鉄道

鉄道交通では、フランクフルト中央駅によってヨーロッパで最も鉄道旅客の多い都市の一つとなっている。ドイツ鉄道は、フランクフルトをドイツで最も重要な乗換駅と位置づけている。ICE 13路線が乗り入れており、高速鉄道網の最も重要な接続駅となっている。

フランクフルト中央駅は、1日に約 35万人が利用する。これは、ハンブルク中央駅(1日の利用客数約 45万人)に次ぎ、ミュンヘン中央駅と並んでドイツで 2番目の数である。また、駅の面積では、ライプツィヒ中央駅チューリッヒ中央駅と並んで、ヨーロッパ最大規模である。この駅を発着する最も長い行程を走る列車は、バーゼル - モスクワ間を結んでいる。2002年から、ケルン行きの新しい ICE路線が営業を開始し、両都市間の移動時間を 75分に短縮した。さらに、Rhealys プロジェクトとして、パリ行きの高速鉄道路線もある。乗客は、フランクフルト中央駅とパリ東駅との間をわずか 4時間で旅することができる。

フランクフルト空港遠距離駅は、フランクフルト市内にある高速鉄道網にとって極めて重要なもう一つの駅である。この駅はフランクフルト南駅とともに、キャパシティーの限界まで運用されている中央駅の負担軽減に寄与している。

貨物鉄道交通における重要性は後退している。ドイツ鉄道は、フランクフルト西部にあった広大な貨物中央駅を1996年に閉鎖した。空いた土地は、隣接するメッセ・フランクフルトが一部利用している。さらにオイローパフィールテルという新しい街区が生まれている。東駅には現在も、小規模な操車場があり、運用されている。

フランクフルトの近郊鉄道路線図

公共近距離交通

フランクフルトおよび周辺地域の公共近距離交通は、Sバーン、一部が Uバーン化された市電、路面電車、市バスおよび多くのレギオナルバーンからなる。Sバーンの8つの駅のうち、7駅がその中にあるシティー・トンネルがインネンシュタットの地下を通っている。中央駅、ハウプトヴァッヒェ、コンスタブラーヴァッヒェおよび南駅は、Sバーンおよび Uバーンがともに地下で乗り換えることができる。

この街のローカルな交通機関の運行会社で最大なのが、フランクフルト交通会社 (VGF) である。ローカルな交通運行会社 traffiQ GmbH は、近郊交通機関のコーディネイトを行っている。この会社は、地域交通と統一料金の管理を行うライン=マイン交通連盟のパートナーである。

フランクフルト国際空港に、1994年に全長 3.8 km の全自動交通システム「スカイライン」が設けられた。この路線は、2つのターミナルを結んでおり、遠距離交通駅と将来できる第3ターミナルとの間に新しい路線が造られる予定である。

内陸水運

フランクフルトは、内陸水運では、ライン川を経由して重要な工業地域であるノルトライン=ヴェストファーレン州オランダと結ばれている。また、マイン=ドナウ運河を経由して中央ヨーロッパ南東部とも結ばれている。

フランクフルトには、西港を住宅・オフィス地区に転換した後も、東港、フルスハーフェン・グートロイトシュトラーセ、インダストリーパーク・ヘーヒスト港がある。

自転車道

マインの川岸には多くの自転車道が通っている。

電子的コミュニケーション

インターネットについてもフランクフルトは重要な街である。ドイツ最大のインターネットエクスチェンジ DE-CIX とトップレベルドメイン .de に対するドメインを管理する DENICがこの街にある。トータルの平均データ量で、DE-CIX は世界1位である[78]

病院

フランクフルト・アム・マインには、27の病院がある。

下水道

フランクフルトの下水道の配管システムは、道路の地下を約 1,600 km にわたって張り巡らされている。1877年に、アルテ・オーパーに最初の下水道が設けられ、1897年に最初の下水処理場が稼働を開始した。フランクフルトとハンブルクが、こうした方法で伝染病の危険を克服しようと試みた大陸で最初の 2つの街である。

国の施設と組織

1957年からドイツ連邦銀行はフランクフルトに本部を置いている。1988年から、EU加盟国でユーロ圏に属す 17カ国の金融政策に責任を持つ欧州中央銀行がこの街に置かれた。2004年からヨーロッパの保険を監督する機関(2004年から2011年までは CEIOPS、それ以後は EIOPA)の本部がこの街にある[79]。この他に、ドイツ復興金融公庫銀行(KfW銀行グループ)本社や国際金融公社事務所(世界銀行の一部)がある。

フランクフルトはまた、ドイツ国立図書館の所在地である。司法機関では、ヘッセン州を管轄するフランクフルト高等裁判所、ヘッセン州労働裁判所、フランクフルト・アム・マイン地方裁判所、フランクフルト・アム・マイン社会裁判所、フランクフルト・アム・マイン労働裁判所、フランクフルト・アム・マイン行政裁判所、フランクフルト・アム・マイン区裁判所がある。また、2003年末に廃止されるまで連邦懲罰裁判所があった。

フランクフルト・アム・マイン警察本部は、ヘッセン州に7つある警察本部の1つである。街の安全や治安維持の業務はフランクフルト市警察(ヘッセン州安全治安維持条令 § 99 の補助警察にあたる)が担っている。フランクフルトは、ヘッセン州財務局の所在地である。また、ヘッセン州社会生活保護庁もフランクフルトにある。1874年に創設された職業消防庁と28の自衛消防団からなるフランクフルト消防隊は、10箇所の消防署に別れて所属している。

フランクフルトには、92の領事館がある[80]。各国の首都を除けば、これ以上の外国公館を有する都市はニューヨークとハンブルクだけである。中国とロシアはフランクフルトに総領事館を開設した。エッケンハイムのアメリカ合衆国総領事館は世界最大のアメリカ合衆国領事館である。

メディア

新聞、その他の印刷メディア

世界で最も早くから新聞が刊行されていた都市の一つであるフランクフルトは、2つの全国的な新聞社の本社所在地である。リベラル=保守系のフランクフルト・アルゲマイネ・ツァイトゥング (F.A.Z.) は、編集局と出版者をガルスのマインツァー・ラントシュトラーセ沿いに有している。左翼リベラル系のフランクフルター・ルントシャウは、2005年7月からザクセンハウゼンにある。さらにフラクフルトでは、ベルゼン=ツァイトゥング(株式市場新聞)も刊行されている。重要な(保守系)地方紙が、フランクフルター・ノイエ・プレッセ (FNP) である。この新聞を刊行しているフランクフルター・ゾシーエテート出版社は F.A.Z. の出版社のすぐ隣にある。フランクフルトでは、ロシア語日刊紙モスコフスキー・コムソモーレツの姉妹紙としてロシア語の週刊紙 MK-ドイチュラントが刊行されている。

日刊紙の他にいくつかの雑誌もフランクフルトのメディア状況を彩っている。ジャーナル・フランクフルトは、この街のイベント、祭、地元の豆知識などが掲載された最もよく知られた雑誌である。F.A.Z. と FNP と同じようにジャーナル・フランクフルトの編集局もガルス区にある。ボッケンハイム区のエコ=テスト出版社は「エコロジー関連雑誌」に特化している。最もよく知られているのは、同名のテスト雑誌「エコ=テスト=マガツィーン」である。同じくボッケンハイムに、風刺雑誌「タイタニック」の編集局がある。経営協議委員会(「アーバイツレヒト・イム・ベトリープ」)や職員協議会(「デア・ペルゾナールレーテ」)に関する専門誌が、フランクフルトのヘッデルンハイム区にあるブント出版社から出版されている。

ラジオ、映画、テレビ

フランクフルトで最も古い放送局は、1924年に設立された南西ドイツ放送サービスAG(現存する南西ドイツ放送とは別)である。現在はその後継企業であるヘッセン放送が、この街のラジオおよびテレビの最も重要な報道機関である。また、ARDシュテルンプンクトもある。この会社は、共同制作した番組(たとえば「ダス・エルステ」)を高速ネットワークを介して送信局に提供している。アメリカ軍の放送局 AFN も1945年8月からフランクフルトに本部を置いていた。しかし、兵力の削減に伴って、フランクフルトの AFN施設は閉鎖された。2004年10月以降、AFNのヨーロッパ向け放送は、マンハイムから送られている。アメリカ合衆国のメディア・コンツェルン ブルーフバーグテレビジョンは、フランクフルト=インネンシュタットのノイエ・マインツァー通りにドイツ・スタジオを有している。これらに加えて、RTLグループのラジオスタジオもある。フランクフルトのマインFMなどの、ラジオ専門放送局もある。さらに、民間ではあるが営利企業ではないラジオ放送局ラジオXもある。この放送局はコンスタブラーヴァッヘの近くにある。この地域で最も古く、最も大きなラジオ局ヒットラジオ FFH は、1989年にフランクフルトで設立された。この放送局は 2001年以降フランクフルトと境を接するバート・ヴィルベルから放送を行っている。フランクフルトには若者向けの情報番組や音楽番組を放送している iM1-TV の放送センターがある。ダルムシュテットラー・ラントシュトラーセにはホーム・エンターテイメント社や映画会社 20世紀フォックスのドイツ・センターがある。さらにユニバーサル・ピクチャーズのドイツ映画部門もフランクフルトにある。ラジオ・ボブは、フランクフルト・ルントシャウの社屋内にマーケティング部門を置いている。

フランクフルトには通信社ロイター・ドイチュラント(メッセタワー内)やアソシエイテッド・プレス・ドイチュラントの本部もある。ドイツ通信社は研修センターをフランクフルトに置いている。

教育と研究

フランクフルト大学ヴェストエントキャンパスの IG.ファルベンハウス

フランクフルト・アム・マインには、2つの総合大学と数多くの専門単科大学がある。この街で最も有名で、最も古い大学が、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン(フランクフルト大学)である。この大学はボッケンハイム、ヴェストエント、リートベルク、ニーダーラート大学病院の 4つのキャンパスからなる。

1971年にいくつかの先行機関から設立されたフランクフルト・アム・マイン専門大学は、応用工学と経済学を重点分野とする大学である。

ザンクト・ゲオルゲン哲学・神学大学は、フランクフルトで最も古い私立大学である。この大学はイエズス会ドイツ支部によって運営されており、1926年からザクセンハウゼンにある。この他に多くの単科大学がある。フランクフルト金融・マネジメントスクールは、かつての銀行アカデミーと銀行学単科大学から創設された大学で、フランクフルト=オストエントにキャンパスがある。2001年に開校した FOM経済・マネジメント大学 (FOM) はヴェストエントに学習センターを有している。2003年に設立されたプロヴァディス国際経営およびテクノロジースクールはインダストリーパーク・ヘーヒストにある。マネジメント国際スクールは2007年からザクセンハウゼンに学舎を有する。

芸術分野では、国立造形芸術大学(シュテーデルシューレ)がある。この大学は、1817年にヨハン・フリードリヒ・シュテーデルによって創設され、その後、市の所有を経て、1942年に国立の造形芸術大学に昇格した。他の高名な芸術大学としては、1878年に創設された私立の学校 Dr. ホーホのコンセルヴァトリウム(音楽アカデミー)を起源とするフランクフルト音楽・舞台芸術大学がある。

2003年9月までは、図書館学の専門単科大学であるフランクフルト・アム・マイン図書館学学校もあった。これは学問の場としての図書館で高度なサービスを行うための実務に関する教育・研究を行う専門単科大学であった。この大学は、2003年9月に閉鎖された。

フランクフルトには、マックス・プランク学術振興協会の欧州法制史研究所、生物物理学研究所、脳研究所などがある。総合大学を緊密な関係にあるフランクフルト先端学問研究所は、物理学、化学、生物学、神経学、情報学の論理的基礎研究に対する研究所で、民間がスポンサーになっている。

フランクフルト市民大学は、私企業としてフランクフルト市が組織しているもので、フランクフルト=オストエントに本部を置いている。

カトリック成人教育 ― ヘッセン州共同作業体は、リンブルク司教区の教育機関であり[81]、フランクフルト、マイン=タウヌス、ホーホタウヌス校の本部がハウス・アム・ドームにある。

ゲームス・アカデミーもフランクフルトに下部組織を有している。

文化と見所

賞、栄誉

  • 名誉市民権(この街最大の栄誉)
  • ゴルデネス・ブーフ(黄金の書)に登録
  • フランクフルト・アム・マイン市名誉章(1952年から毎年、最大5名まで)
  • フランクフルト・アム・マイン市市民賞(2002年から毎年、最大5名まで)
  • フランクフルター・グリュンダー賞(2001年から)
  • フランクフルト・アム・マイン市ゲーテ章(1947年から毎年、芸術分野で功績のあった人物に贈られる)
  • フランクフルト市ゲーテ賞(1927年から、当初は毎年、後に3年に1度、ゲーテの誕生日に贈られる。賞金 5万ユーロ)
  • イグナツ・ブービス賞(2001年から3年毎)
  • インテグレーション賞(毎年、個人または団体に贈られる。賞金1万5千ユーロ)
  • 国際高層ビル賞(毎年、デカ銀行の後援による。賞金5万ユーロ)
  • マックス・ベックマン賞(3年に1度、ベックマンの誕生日に絵画、グラフィック、彫刻、建築分野の奨励と優れた功績を称揚するために授与される)
  • オットー・ハーン賞(2年に1度、化学、物理、応用工学分野の優れた功績に対して贈られる)
  • フランクフルト・アム・マイン市レーマー章(無給の栄誉職を長く務めた人物に贈られる。10年、15年、20年の3段階がある)
  • スポーツ章(スポーツでのタイトル獲得者や、スポーツ分野での名誉職を務めた人物に贈られる)
  • テオドール W. アドルノ賞(1977年から3年に1度、哲学、音楽、演劇、映画分野での優れた功績に対して贈られる。賞金5万ユーロ)
  • トニー・ゼンダー賞(2年毎に人権活動の促進に対して贈られる。賞金1万ユーロ)
  • ヴァルター・メラー章(2年毎にグループ活動や住民活動に対して贈られる。賞金1万ユーロ)
  • ヴァルター・コルプ記念賞(毎年、優れた学術論文に対して贈られる。賞金2,500ユーロ)
  • ヨハン・フィリップ・フォン・ベトマン学術賞(毎年、フランクフルトの市史研究に関する優れたプロジェクトに対して贈られる。

見所

カイザードーム

アルトシュタット

この街で最も重要な3つの見所がアルトシュタットに集まっている。カイザードーム(大聖堂)、レーマーベルク、パウルス教会である。

特徴的な後期ゴシック様式の西塔を持つカトリックの聖バルトロメウス大聖堂は、皇帝の選挙と戴冠が行われた場所である。この大聖堂からレーマー(市庁舎)に通じる道はケーニヒスヴェク(王の径)と名付けられている。新たに戴冠した皇帝が、市庁舎への宴のために行列を連ねた通りである。現在(2013年)、大聖堂前には、ローマ時代カロリング朝時代の出土品が発掘された「アルケオローギシャー・ガルテン」(考古学の庭)がある。

レーマーベルクの東側の一連の建物。左端は大聖堂の西塔。

レーマーベルクは、アルトシュタットの中心となっている広場で、14世紀の市庁舎(レーマー)、初期ゴシック様式の旧ニコライ教会、戦争で破壊された後に再建された広場東側の一連の建造物などがある。地元クラブ(アイントラハト・フランクフルトフランクフルト・ライオンズ)がタイトルを獲得した際には、市庁舎バルコニーで祝勝イベントが開かれる。サッカーワールドカップの際にも、ファンとともにこれを祝った。

パウルス教会は、1786年に取り壊された中世の跣足教会に替えて、1789年から1833年に建設された教会で、1944年までプロテスタントの中央教会として使用された。ヨハン・ゲオルク・クリスティアン・ヘスによるこの古典主義様式の円形建造物内で、1848 / 49年のフランクフルト国民議会が開催された。パウルス広場はストリートカフェのある人気の都市広場である。

レーマーベルクとリープフラウエンベルクとの間にノイエ・クレーメ(通りの名前)がある。リープフラウエンベルクには、14世紀に建立されたリープフラウエン教会(聖母教会)、1770年建造のリープフラウエンブルンネン(聖母の泉)、フランクフルトに残る数少ないバロック建築の1つである1775年建造の家屋「ツーム・パラディース/グリムフォーゲル」がある。

1944年に破壊された後、1954年に建設された新しい建物であるクラインマルクトハレ(小市場)は、この街のグルメセンターである。平日には、150以上のテナントであらゆる種類の食材が売られている。この他に、アルトシュタット西部のグローサー・ヒルシュグラーベンにはゲーテの生家がある。現在では閑静な通りのコルンマルクト(直訳すると「穀物市場」)は、中世にはこの街のメインストリートであった。

ザールホーフ

マイン川沿い、マイン川の橋

マイン川の両岸は、フランクフルト市内で最も魅力的な地域に発展してきている。ムゼウムスウーファー(博物館堤)の拡張、川岸施設の刷新、旧フランクフルト西港の住宅・産業地域への改変といったプロジェクトが行われ、建築上見所の多いマイン川の橋などがある。アルテ・ブリュッケ(直訳すると「古い橋」、1222年にはすでに文献に記録されている)は、何世紀もの間、この町で最も重要な建造物であった。2006年にマイン川の中州に展示ホール「ポルティクス」が建設された。1869年に開通した歩行者専用橋のアイゼルナー・シュテークは、この街の象徴的建造物の1つである。この橋の北詰にあるザールホーフとカトリックのレオンハルツ教会はシュタウフェン朝にまで遡る文化財建築である。

インネンシュタット東部のマイン川の橋から見たアルトシュタットとスカイラインは、フランクフルトを表現する画像としてよく用いられる。インネンシュタットの東側、マイン川の両岸にそれぞれ大きなビーチ・クラブが設けられた。ゲーテとマリアンネ・フォン・ヴィレマーがデートした場所として文学史に名を遺すゲルバーミューレは現在、行楽地のレストランとなっている。

自然保護地域「シュヴァンハイマー砂丘」は、ヨーロッパで数少ない内陸砂丘の1つで、シュヴァンハイム区西部のマイン川近くにある。総面積は 58.5 haで、絶滅の危機に瀕した珍しい種を含め多くの動植物が棲息している。

ザ・スクワイア

ザ・スクワイア

ザ・スクワイアは総面積 14万 m2 の、ドイツ最大のオフィスビルである。この建物は、全長 660 m、10階建てで高さ 45 m、全幅 65 m ある。この建物の中にフランクフルト国際空港の遠距離鉄道駅が入っている。さらに2つのホテルと多くの店舗も入居している。建築費は約 10億ユーロで、フランクフルト・アム・マイン市の最も高額な不動産の1つである。

寄進教会

フランクフルトで特徴的なのが寄進教会である。1802年以降、市がインネンシュタットのすべての教会およびザクセンハウゼン区の聖三位一体教会の所有者となっており、1830年以降は国家教会協定によりその管理・運営責任を負っている。教会暦に基づく宗教の祭などにより、市内の教会が鐘を打ち鳴らすフランクフルター・シュタットゲロイテが年に何度も行われる。

摩天楼

夕暮れのフランクフルト・アム・マインのスカイライン
オイローパ塔

フランクフルトは、ヨーロッパでは数少ない印象的なスカイラインを持つ街であり、このためニューヨークマンハッタンをもじって「マインハッタン」とも呼ばれる。特に多くの高層建築物が、インネンシュタット西部の銀行地区、バーンホーフスフィールテル東部、ヴェストエント南部に密集している。最初の高層ビルは1950年代に建設され、1970年代中頃から高さ 150 m を超える超高層建築物も建造されるようになった。

1953年からフランクフルトの都市建設計画も高層ビルの規定に取り組んだ。1998年に高層建築構造計画が起草され、2008年に最終決定がなされた。これは、高層ビルを一定の区画に集中させグループとして取り扱うことを意図したもので、オストエント区の欧州中央銀行新庁舎や中央駅前のバーンタワーといった例外はあるものの、実際に運用された。

1950年代から新規建造物の高さは高くなっていった。1951年に造られたジュニア=ハウスは高さ 35 m、1953年に開館した AEGホーホハウスは 45 m であった。1956年には、ハウプトヴァーヒェのフェルンメルデホーホハウスが高さ 69 m でこの街の最も高い建物であった。1960年代には、ホテル・インター=コンチネンタル (67 m)、チューリッヒ=ハウス (68 m) といった同じような高さの建物が建てられた。ジュニア=ハウスとホテルを除き、これらの建物は後に取り壊され、より高い建物に置き換えられた。ザクセンハウゼン区のヘニンガー塔は高さ120 m で、カイザードーム西塔 (95 m) を超えたフランクフルトで最初の建物であった。1960年代に建てられたこの他の高層ビルとしては、たとえば BHF 銀行ホーホハウス (82 m) やライン=マイン=センター (84 m) がある。

1972年になるとゲーテ大学の AfE 塔が高さ 116 m で最も高い建物であり、1974年に 142 m のシティー=ホーホハウスが建造された。最初の超高層建築物が 1976年にオープンした 159 m のプラザ・ビューロ・センターであり、1978年に建設されたドレスナー銀行のジルバー塔は高さ 166 m で当時のドイツ連邦共和国で最も高い建物であった。ユーロタワーとヘラバ=ホーホハウスにより、都市中心部の高層ビル密度は高まった。1980年代に建てられた建造物は、それまでの高さを超えることはなかった。この時代の最も有名な建物が 1984年に完成した高さ 155 m のドイツ銀行ツインタワーである。この建物は、地元ではゾル・ウント・ハーベンと呼ばれている。

1990年代には、第2次高層建築ジェネレーションが新たな記録を樹立していった。メッセ塔は1991年に高さ 257 m でヨーロッパで最も高い建物となり、1997年には高さ 259 m のコメルツ銀行タワーが建てられた。この時代の、やはり 200 m を超えた他の建物としては、DZ銀行のヴェストエント・タワーマインタワーがある。マインタワーは、屋上プラットフォームに一般人が立ち入りできるフランクフルトで唯一の高層建築である。ジャパン・センターの 25階にはレストランが、オイロテウムの 22階にはバーがある。不定期に開催されるヴォルケンクラッツェン=フェスティヴァル(摩天楼祭)の期間中には他の高層建築も一般に開放される。

21世紀には、フランクフルトに他の高層建築が建設された。タワー 185オペルン塔スカイパー、ガリレオ、ネクスタワーやヴェストハーフェン・タワーなどである。2011年現在、フランクフルトには高さ 150 m 以上の建物が 12 棟あり、ドイツ高い建物ベスト8がこの街にある。さらに欧州中央銀行新庁舎とタウヌス塔の2つの超高層建造物が建設中である。

この街でもっとっも高い建物は、1978年以降、テレコムの放送通信塔であるオイローパ塔(フラクフルト市民からは「ギンハイマー・シュパーゲル」と呼ばれる)で、高さは 337.5 m である。オイローパ塔には、ビジターエリアがあったが、資金不足から1999年以降閉鎖されている。

ザクセンハウゼンの三位一体教会

ザクセンハウゼン

1192年に初めて文献に記録されているマイン川南岸のザクセンハウゼンは、フランクフルト方言で「ドリップデバッハ」(川の対岸)と呼ばれている。この呼び名はインネンシュタットを指す「ヒップデバッハ」(川のこちら側)に対する呼び名である。中世からここには主に漁師、農民、職人が住んでおり、粗野な言葉遣いや生活態度で知られていた。18世紀から19世紀にかけて次第に裕福な市民も住むようになった。やがてザクセンハウゼンの旧市街は人気の飲食店街となった。しかし、アメリカ軍駐屯地が閉鎖された後、この街は訪れる人の減少に苦しんだ。これ以後、空き家や荒廃した建物が目立つようになっていった。それでも伝統的な、一部はとても古くから続くリンゴ酒の酒場が残った。市は、この地区の復興に尽力した。その結果、飲食店の他に小さなオフィスやアトリエが開設され、日中も活気が高まっている。

ザクセンハウゼンのマイン河岸で他を圧する建物が、1875年から1881年に建設された三位一体教会である。また、マイン川に沿ってムゼウムウーファーの博物館が点在している。ザクセンハウゼンでは第2土曜日ごとに、ドイツ最大級のノミの市が開催される。

ザクセンハウゼン北部シュヴァイツァー広場周辺の古い家屋は、小売店やレストランが混在する人気の住宅地となった。「ヴァーグナー」や「ゲマルテン・ハウス」といった有名なリンゴ酒の酒場の他にモダンなカクテルバーも営業している。

また、南部には、1960年代に建設された「レルヒェスベルク」などの高級住宅街がある。さらに、ザクセンハウゼン旧市街の東側にあった旧屠畜場跡に、1990年代以降新しい住宅地ドイチュヘルン地区が建設され、人気の住宅地に発展した。新しい地域の象徴的建造物が、高層ビルのマイン・プラザである。

この他、ザクセンハウゼンの区域内には、シュタットヴァルト内にドイツで最も高い木造建造物の 1つであるゲーテ塔や、自転車レースルント・ウム・デン・ヘニンガー=トゥルム」で知られる旧穀物倉庫のヘニンガー塔がある。

中央駅の中央出入口

中央駅とバーンホーフスフィールテル

1888年にオープンした中央駅は長距離列車の本数や乗降客数で、ヨーロッパ最大級の駅の 1つである。巨大な 5つのトレイン・シェッド、様式を留めて保存された駅舎、見切れないほどの地上および地下施設は、見応えのある強い印象を示す構造物である。

バーンホーフスフィールテル(直訳すると「駅周辺地区」)は、文化のるつぼである。ここにはオフィスや異なる文化圏の様々な種類のレストランが混在している。タウヌス通りをはじめとする歓楽街だけでなく、それ以外でもバーンホーフスフィールテルは 24時間活動している街である。この地区は国際的な交通の要衝であることが都市にもたらす問題点の典型例でもある。通勤客や銀行員、国際的なメッセ参加者、日帰り客が作る人の流れのすぐ傍らに、物乞い、アルコール中毒者、薬物中毒者がたむろしている。中央駅の出入り口から直接目にできるカイザー通りは、市のブールバールで、多彩な文化の小売店、泡沫会社乱立時代の古い建物からなる歓楽街のすぐ隣に近代的な銀行の高層ビルが建っている。

シュテーデル美術館

博物館とギャラリー

この街は多彩な文化プログラムを提供している。大小 60館以上の美術館、博物館、展示場からなるユニークな博物館群もその 1つである。これらは主にマイン川の両岸に位置している。ムゼウムスウーファー(博物館堤)の原型となった、1968年にティル・ベーレンスによって計画されたフランクフルトの緑地・マイン河岸コンセプトは、1980年代初めから実際に緑地が巡らされ、現在も継続されている。

マイン川のザクセンハウゼン側にあたるムゼウムスウーファーは、シュテーデル美術館、リービークハウス美術館、コミュニケーション博物館(かつての郵便博物館)、ドイツ建築博物館 (DAM)、ドイツ映画博物館、世界文化博物館、実用芸術美術館(かつての工芸美術館)といった有名な美術館や博物館を含んでいる[82]

美術館やギャラリーとしては、シュテーデル美術館(絵画)[83]、リービークハウス美術館(彫像)[84]、近代芸術美術館 (MMK)[85]、シルン芸術ホール[86]、ドイツ建築博物館 (DAM)[87]、ドイツ映画博物館[88]、ドイツ実用芸術美術館[89]がある。

歴史博物館としては、カルメル会修道院内の考古学博物館[90]、歴史博物館(市史)[91]、ユダヤ博物館[92]がある。

技術系の博物館としては、コミュニケーション博物館[93]、フランクフルト軽便鉄道博物館[94]、フランクフルト交通博物館(路面電車)[95]、エクスペリミンタ[96]、フランクフルト歴史鉄道協会の保存鉄道[97]、ホーホフート技術コレクション[98]がある。ノルトエント地区の EXPLORA は視覚と錯覚の博物館である。ここには多くのアナグリフの絵、ステレオスコピーホログラムや新しい形の視覚効果を体験することができる[99]

ゼンケンベルク自然博物館は世界的に有名な自然科学の博物館であり、世界遺産に登録されているメッセル採掘場から出土した化石を見ることができる[100]。民族学の博物館としては、世界文化博物館がある[101]

芸術活動には、シルンの向かいにあるフランクフルト芸術協会[102]、シュテーデルシューレ(国立絵画芸術大学シュテーデルシューレ)の他、多くの私立芸術ギャラリーや入れ替え展示室がある。ギャラリーは異なる専門分野に分かれた古典芸術から現代芸術に至るまでさまざまなものがある。入れ替え展示室は多くの芸術家や若い芸術研究者が利用しており、たとえばザクセンハウゼン地区の展示ホールやボルンハイム地区の展示スペース EULENGASSE 65 などがある。

市立ビューネ

オペラ、コンサート、ステージ

フランクフルトでは活発な演劇活動がなされている。市立ビューネは、多くの分野のステージが 1つの建物に入っている[103]フランクフルト歌劇場は国際的に評価の高いオペラハウスで、オペラハウス・オブ・ザ・イヤーを何度も(直近では2003年)獲得している。シャウシュピール・フランクフルトは、1960年代にハリー・ブックヴィッツ、1970年代から1980年代にペーター・パリッチュの指導下での共同参画モデルについて世論を賑わせた。市立ビューネの他の2つ、バレエ・フランクフルトとテアター・アム・トゥルム (TAT) は 2004年に閉鎖されたが、2005年から「ザ・フォーサイス・カンパニー」の名で民営のダンスカンパニーグループとして再興している[104]

アルテ・オーパ

1881年に開館したアルテ・オーパ(旧オペラ座)は第二次世界大戦で破壊され、1981年にコンサートハウスとして再建された。アルテ・オーパでは、とても素晴らしいコンサートホールであり、ヨーロッパの重要な音楽センターとして重きをなしている[105]。この他のコンサートホールとしては、ウンターリーダーバッハ地区のヤールフンデルトハレ、ボッケンハイム地区の祝祭ホール、ヘッセン放送の放送ホールがある。

ノイエ・マインツァー通りの「ディー・コメディー」[106]と動物園事務棟の「フリッツ・レーモント劇場」[107]は、この街で有名な 2つの大衆劇場である。フォルクステアター・フランクフルトは、古典的な方言劇の他に古典劇や現代劇を方言に翻案した作品を上演している[108]。よく似たコンセプトの劇団が、俳優ミヒャエル・クヴァスト主宰のフリーゲンデ・フォルクスビューネである[109]。ザ・イングリッシュ・テアトルはヨーロッパ大陸で最大の英語劇場である[110]

近代舞台芸術(パフォーマンスやダンスなど)のためのフランクフルト最大で広く知られている劇場がボルンハイムのモウゾントゥルム芸術ハウスである。演劇グループやアンサンブルのためのステージとなっているのが、ガルス地区にある旧アドラーヴェルク社のガルス・テアター、グートロイトフィールテルの近代演劇のためのランドゥンクスブリュッケン・フランクフルトおよびケラーテアター・フランクフルトである。

決まった上演劇場を有する劇団としては、ボッケンハイム地区カファ・エクツェスのディー・ドラマティシェ・ビューネ、ノルトエント地区のミヒャエル・ヘルルのシュタルブルク・テアター、オストエント地区ナクソスハレのテアター・ヴィリー・プラムル、ボッケンハイム地区のフライエ・シャウシュピール・アンサンブル、ハウゼン地区ブロットファブリークのフランクフルター・アウトーレン・テアターがある。

バラエティー、キャバレー、演芸の分野では、ジョニー・クリンケのティーガーパラスト、 die KÄS、カルメル会修道院のディー・シュミーレ(1950年から「世界最悪の劇場」と自称している)、ヘーヒスト地区のノイエス・テアターが知られている。

テアターハウス・フランクフルトは、たとえば「グリューン・ゾーセ」などの数多くの子供演劇アンサンブルが上演されており、ノルトヴェストシュタットの青少年演劇センターやパルムガルテンのパパゲーノ音楽シアターとともにフランクフルトの活発な子供演劇シーンを形成している。また、特殊な子供劇場としては、1975年から2005年まで活動していたクラップマウル人形劇場があった。

音楽家

フランクフルトには 2つの大きなオーケストラがある。市立ビューネのフランクフルト・ムゼウム管弦楽団hr交響楽団(旧フランクフルト放送交響楽団)である。アンサンブル・モデルンユンゲ・ドイツ・フィルハーモニーもフランクフルトを本拠地としている。有名な合唱団としては、1818年に創設されたフランクフルト・チェチーリア合唱団、フランクフルター・ジングアカデミー、フランクフルトター・カントライがある。

ラッパーのモーゼス・ペルハム、ピアニストのトム・シュリューター、メタルバンドタンカードハードロックバンドベーゼ・オンケルツテクノポップDJスヴェン・フェートクリス・リービングユーロダンスグループのSnap!もフランクフルトで結成された。

フランクフルト書籍見本市

15世紀にはすでに開催されていたフランクフルト書籍見本市は世界最大の書籍見本市として、単なる経済活動にとどまらず、重要な文化行事でもある。毎年この見本市の期間には、数多くの付随行事が行われ、そのクライマックスとしてドイツ書籍販売組合の平和賞授与がパウルス教会で開催される。

バッチュカップ

ナイトライフ

  • バッチュカップ(ロッククラブ)
  • スヴェン・フェートのコクーン・クラブ(テクノクラブ)
  • ギブソン・クラブ
  • ジャズケラー・フランクフルト(ジャズクラブ)
  • キング・カメハメハ・クラブ(ディスコ)
  • リビング XXL
  • U60311(ディスコ)
  • ヴェルヴェット・クラブ
ファイル:Stadion Frankfurt Commerzbankarena Fankurve große Fahne.jpg
アイントラハト・フランクフルトのサポーター

スポーツ

フランクフルトは多くのスポーツクラブのホームシティーである。

フランクフルトで毎年開催される重要なスポーツイベントに以下のものがある。

ファイル:Luftbild Ffm 2005-08-11.jpg
コメルツバンク・アレーナ

この街の重要なスポーツ競技場には以下のものがある。

  • コメルツバンク・アレーナ(サッカー競技場)、元は「ヴァルトシュターディオン」という名前であった。「FIFA WM シュターディオン・フランクフルト・アム・マイン」という名称で2006年FIFAワールドカップおよび2011年FIFA女子ワールドカップの会場として使用された。
  • ボルンハイマー・ハングのフランクフルター・フォルクスバンク・シュターディオン(サッカーおよび陸上競技
  • シュターディオン・アム・ブレンターノバート(サッカー)
  • フラポート・アレーナ(バスケットボール、ハンドボール)2011年までは「バルスポルトハレ」が公式名称であった。
  • アイススポルトハレ・フランクフルト(アイスホッケー)
  • フランクフルト競馬場(競馬

この他、フランクフルトにはドイツの重要なスポーツ協会がある。

ヤーコプスヴェク

2010年以降、フルダからベルガー・リュッケンを越え、ボルンハイマー・ハングの麓を通り、マイン川沿いに至るヤーコプスヴェク(ヤコブの巡礼路)の枝道が設けられた[111]。この道は、ライプツィヒからフランクフルト・アム・マインに至る「ヴィア・レギア」という古い街道のルートにほぼ合致している。この道は、フルダからフランクフルト・アム・マインまで 116 km 以上の道程であり、サンチャゴ・デ・コンポステラに向かうヤコブの巡礼路の一部をなしている。フラクフルト市内のコースは、聖十字架教会からオストパーク、旧大市場ホール跡である欧州中央銀行新庁舎を通り、マイン川のアイゼルナー・シュテークに至り、これを渡ってマイン川左岸をマインツ、さらにはトリーア方面に向かう。

フランクフルト=レーマー広場のクリスマスマーケット

年中行事

1988年から毎年8月に開催されるムゼウムスウーファーフェスト(博物館堤祭)は、音楽と文化の祭典で、ライン=マイン地域最大の世俗祭である。2007年には 3日間の会期に約350万人の来訪者があった。

聖霊降臨祭後の火曜日に開催されるヴェルトヒェスタークは、多くの来訪者をフランクフルトのシュタットヴァルトに呼び寄せる。1990年代までは、フランクフルト市内の多くの企業がこの日は正午で業務を終了し、従業員は12時以降自由になっていた。このため、地元では冗談半分にフランクフルトの国民の祝日と呼ばれていた。

もう1つの伝統的な世俗祭がディッペメスである。毎年2回、春に3週間、秋に10日間開催され、それぞれ約 200万人の来訪者を集める。ディッペメスは中世から伝わる日用雑貨、特に陶器の鉢(ディッペ)の市場をその起源とする。

1393年に最初の記録が遺るフランクフルトのクリスマスマーケットは、毎年アドヴェントの時期に開催される。現在では約 300万人の来訪者を数えるドイツ有数のクリスマスマーケットである。200点以上の露店がマインカイからレーマーベルク、パウルス広場、ノイエ・クレーメ通り、リープフラウエンベルクを経てツァイルまで建ち並ぶ。

フランクフルトの謝肉祭のパレードには 6,000人以上が参加し、30万人以上が見物し、1.5 km の距離を練り歩くヘッセン州最大の謝肉祭のパレードである。

2003年から2008年まで毎年夏に、様々な文化の人々の友好を示す文化のパレードが開催されていた。最後となった2008年のパレードには約 1,700人が参加し、10万人が見物した。2003年からは、ダウン症候群の患者数百人が様々なスポーツ競技を競うダウン=シュポルトラーフェスティヴァル(ダウン症のスポーツ選手祭)がフランクフルトで開催されている。

この他の年中行事としては、5月祭、クリストファー・ストリート・デイ (CSD)、パルメンガルテンのバラと光の祭典、オペルン広場祭、フレースガッセのラインガウのワイン祭、レーマーベルクのシュテフヒェ祭がある。

人気なのは、4月に約 4万人来訪者がある「ナハト・デア・ムゼウム」(美術館・博物館の夜)や「ナハト・デア・クラブ」である。

これらの他に各市区での祭もある。ヘーヒスト城館祭、ボルンハイムのベルガー通り祭、ザクセンハウゼンのシュヴァイツァー通り祭、1839年にまで起源を遡ることができるヘッデルンハイムの謝肉祭のパレード、1951年に上級市長ヴァルター・コルプによって創設されたロールベルガー祭、フランクフルトの陸上選手による青少年のためのベルクシュポルトフェスト(山歩き祭)などである。

不定期に開催される祭では、いわゆる摩天楼祭は2007年5月に行われたのを最後に6年間開催されていなかった。これ祭では、インネンシュタットの15棟の高層ビルが一般開放され、120万人が訪れた。この祭は2013年に開催される[112]

1994年から2004年まで毎年開催されていた音楽祭サウンド・オブ・フランクフルトには若い世代を中心に50万人が訪れていた。

フランクフルター・ヴュルストヒェンとジャガイモのサラダ

郷土料理・食材

フランクフルトでは、皇帝の戴冠式メッセのために多くの裕福な客が多く訪れ、これに伴って17世紀から18世紀にはすでに高度な食文化・ホテル文化が形成されていた。フラクフルトの料理は、19世紀にはハンブルクウィーンと並んでドイツで主導的な地位にあった[113]

中世から作られていた豚肉製のフランクフルター・ヴュルストヒェン(フランクフルト・ソーセージ)は最も古く最も有名な料理の一つである。19世紀にはこれにフランクフルター・リンツヴルスト(牛肉製)が加わった。

フランクフルトの特別な料理がグリューネ・ゾーセ(グリーン・ソース)で、伝統的に7種類の野菜で作られる: ルリジサシャクコショウソウパセリサラダバーネットスイバチャイブである。フランクフルトの有名なスイーツとしては、フランクフルター・ブレンテン、ベトメンヒェン、ハッデクーヒェ、フランクフルタークランツがある。

ワイン製造業の衰退に伴って、それまで卑俗なものとされていたリンゴ酒(エッベルヴォイ)がフランクフルトでは一般的となった。リンゴ酒は1600年頃から製造されていた。現在ではフランクフルトの伝統的な飲料と見なされている。リンゴ酒には栄養のある食事が合うとされ、リップヒェンのクラウト添えやハントケス・ミット・ムジークが好まれる。

現在、フラクフルトのブドウ園は、ロールベルクの斜面に1箇所だけある。ここはラインガウで最も小さく、最も東に位置するブドウ園で、フランクフルト市がこのブドウ園を管理している。ここからは、毎年約 1万本のリースリング・ワインが生産される。多くはトロッケン(辛口)に熟成され、状態の良い年にはシュペートレーゼに格付けされる。

ベルリン級補給艦フランクフルト・アム・マイン

フランクフルトの名前を持つもの

ドイツ海軍ベルリン級補給艦フランクフルト・アム・マインの名を持つ艦がある。これ以前には第一次世界大戦中の小型巡洋艦やドイツ連邦の木造外輪船コルベットにもフランクフルトにちなんだ名前を有するものがあった。商船では、1900年から1918年まで北ドイツ・ロイド社の高速蒸気船や1954年から就航したハンブルク=アメリカ郵船株式会社 (HAPAG) の貨物船にフランクフルトの名が付けられ、1981年から2007年に運行しており1984年までは世界最大のコンテナ船であったフランクフルト・エクスプレスもあった。2010年に新たなコンテナ船にフランクフルト・エクスプレスという名前が付けられた。

1960年にフランクフルト市は初めてルフトハンザの飛行機の名親になった[114]。1960年から1975年まではボーイング707 D-ABOD に、1975年から1985年まではDC-10に、1985年から1990年まではボーイング747-200に、1991年からはボーイング747-300 D-ABVF にそれぞれフランクフルトの名前が付けられていた。2010年5月19日に初めてエアバスA380 D-AIMA にフラクフルト・アム・マインの名が付けられた[115]

小惑星帯で2007年に発見された小惑星の一つに (204852) フランクフルトという名前が付けられている。

その他

多くの隣接する街の間がそうであるように、フランクフルト・アム・マインとオッフェンバッハ・アム・マインとの間にも緊密なライバル関係が存在する。それはお互いの街を揶揄する数多くのジョークに現れている。

両市のライバル関係は歴史に根ざしている。中世には既に、帝国都市フランクフルトと近隣の都市との間で領土争いが起きていた。三十年戦争では、スウェーデン王グスタフ・アドルフはオッフェンバッハのイーゼンブルク城を居所とした。彼はここからフランクフルトの降伏を宣言した。宗教改革後はルター派のフランクフルトと改革派のオッフェンバッハとの間で宗教争議が起こった。さらに18世紀以降イーゼンブルク伯は、ブルジョア的なフランクフルトが望まなかった工業の導入を奨励した。19世紀になってもフランクフルトは純粋な商業都市であり、オッフェンバッハは工業への転換を一層進めた。プロイセンによる併合後、フランクフルトも工業化が進展し、ライバル関係を強めていった。20世紀にフランクフルトはプロイセン領の衛星都市を合併し、北や西方向へ拡大していった。一方、オッフェンバッハが拡大することはなかった。1945年までは両市の市境は、国境でもあった。

長年のスポーツにおけるライバル関係は、両市のサッカークラブ、キッカーズ・オッフェンバッハアイントラハト・フランクフルトおよびそのファンたちを育てた。やがて両者の試合は「ダービー」と呼ばれるようになった。特に激しかったのは、1950年代(たとえば、1959年のドイツ・サッカー選手権決勝戦)、DFBポカール(最後の対戦は2009年)、キッカーズ・オッフェンバッハが陥落するまでのサッカー・ブンデスリーガなどである。

フランクフルト市は1969年にドイツ考古学研究所 (DAI) のヴィンケルマン=メダルを授与されている。

人物

フランクフルト・アム・マイン出身の主な人物やゆかりの人物については、フランクフルト・アム・マインの人物を参照のこと。

参考文献

歴史

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  • Heinz Schohmann: Frankfurt am Main und Umgebung. Von der Pfalzsiedlung zum Bankenzentrum. Dumont Kunstreiseführer. Dumont, Köln 2003, ISBN 3-7701-6305-2. (mit Schwerpunkt Architektur)
  • Christof Bodenbach (Hrsg.): Neue Architektur in Frankfurt am Main. Junius Verlag, Hamburg 2008, ISBN 978-3-88506-583-8.
  • Angela Pfotenhauer, Elmar Lixenfeld und Uwe Dettmer: Frankfurt am Main. Deutsche Stiftung Denkmalschutz, 2009, ISBN 978-3-86795-009-1.
  • Christian Freigang, Markus Dauss und Evely Brockhoff: Das „Neue“ Frankfurt, Innovationen in der Frankfurter Kunst vom Mittelalter bis heute. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 2010, ISBN 978-3-86539-673-0.
  • Christian Grau, André Risto und Willi Bucher (Hrsg.): Frankfurt. Der andere Blick. Theiss Verlag, Stuttgart 2010 ISBN 978-3-8062-2388-0. (Aufnahmen aus der Luft)

その他

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  • Matthias Alexander, Gerd Kittel: Hochhäuser in Frankfurt. Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 2006, ISBN 3-7973-1000-5.
  • Christian Setzepfandt: Geheimnisvolles Frankfurt am Main. Wartberg, Gudensberg-Gleichen 2003, ISBN 3-8313-1347-4.
  • Martin Mosebach: Mein Frankfurt. Mit Photographien von Barbara Klemm. Insel, Frankfurt am Main 2002, ISBN 3-458-34571-X. (Insel-Taschenbuch. Bd 2871)
  • Benno Reifenberg: Das Einzigartige von Frankfurt. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1979, ISBN 3-7829-0220-3.
  • Ausgewählte Frankfurter Mundartdichtung. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1966, ISBN 3-7829-0067-7.
  • Helmut Bode: Frankfurter Sagenschatz. 100 Sagen und sagenhafte Geschichten, nach den Quellen und älteren Sammlungen sowie der Lersnerschen Chronik neu erzählt. Verlag Waldemar Kramer, Frankfurt am Main 1978, ISBN 3-7829-0209-2.
  • Alice Selinger: Frankfurt am Main. Stadtführer Geschichte Kultur. Verlag Waldemar Kramer/Marix Verlag, Wiesbaden 2011, ISBN 978-3-86539-683-9.
  • Anja Zeller: Frankfurt to go. Der Stadtwanderführer für Frankfurt! 978-3940874436, Verlag archimappublishers, Berlin 2012

これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。

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外部リンク

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