ヨハネス・フェルメール
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『取り持ち女』(1656年)の左端の人物。この人物をフェルメールの自画像とする説がある。 | |
生誕 |
Jan van der Meer van Delft 1632年10月31日 ネーデルラント連邦共和国 デルフト |
死没 |
1675年12月15日(43歳) ネーデルラント連邦共和国 デルフト |
国籍 | オランダ |
著名な実績 | 絵画 |
代表作 | 『真珠の耳飾りの少女』、『牛乳を注ぐ女』、『デルフト眺望』など |
運動・動向 | オランダ黄金時代、バロック絵画 |
後援者 | ピーテル・ファン・ライフェン |
影響を受けた 芸術家 | カレル・ファブリティウス、レオナールト・ブラーメル |
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer オランダ語: [joːˈɦɑnəs vərˈmeːr], 1632年10月31日? - 1675年12月15日?)は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の画家で、バロック期を代表する画家の1人である。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴とする。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られる。本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト (Jan van der Meer van Delft)。
概要
[編集]フェルメールは、同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどとともに、バロック絵画を代表する画家の1人である。また、レンブラントやハルスと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家である[1]。
生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごした。最も初期の作品の一つ『マリアとマルタの家のキリスト』(1654年-55年頃)に見られるように、彼は初め物語画家として出発したが、やがて1656年の年記のある『取り持ち女』の頃から風俗画家へと転向していく。現存する作品点数は、研究者によって異同はあるものの、32から37点と少ない。このほか記録にのみ残っている作品が少なくとも10点はある。
生涯
[編集]出生
[編集]1632年にデルフトに生まれる。同年10月31日にデルフトで洗礼を受けた[1]。本業の絹織物職人を勤める傍ら、パブと宿屋を営んでいた父レイニエル・ヤンスゾーン・フォスは(後に姓をフォスからファン・デル・メールに変えている)、ヨハネス誕生の前年に画家中心のギルドである聖ルカ組合に画商として登録されている。ヨハネスの本名のファン・デルフトは「デルフトの」という意味で、彼がアムステルダム在住の同姓同名の人物と間違えられないように付け加えたものである。父親の姓フォス (Vos) は英語のきつね (Fox) を意味するものだった。父がなぜファン・デル・メールに改姓したのか、またヨハネスがなぜそれを短縮して「フェルメール」としたのかは分かっていない。10年後の1641年には現在フェルメールの家として知られる家を購入し、フランドルのメヘレンに因んで名付け転居した。
結婚と画家としての出発
[編集]フェルメールは、1653年4月5日、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚したが[1]、彼の父に借金があったことや、彼がカルヴァン派のプロテスタントであるのに対して、カタリーナはカトリックであったことなどから、当初カタリーナの母マーリア・ティンスにこの結婚を反対された。デルフトの画家レオナールト・ブラーメルが結婚立会人を務めている。
この8か月後に聖ルカ組合に親方画家として登録されているが[1]、当時親方画家として活動するには6年の下積みが必要だったため、これ以前に誰かの弟子として修業を積んだはずだが、師事した人物については不明。カレル・ファブリティウスとの説もあるが、確証がない[1]。なお修業地はデルフト以外の場所だった模様。新婚当初はメヘレンにて生活していたが、しばらくしてカタリーナの実家で大変裕福な母親とともに暮らしを始めている。この理由はよく分からないが、カレル・ファブリティウスも命を落とし、作品の大半を焼失させた1654年の大規模な弾薬庫の爆発事故が原因とする説がある。彼らの間には15人の子供が生まれたが、4人は夭折(ようせつ)した。それでも13人の大家族であり、画業では養うことができなかったため、裕福な義母マーリアに頼らざるを得なかったと思われる。
全盛期
[編集]父親の死後、1655年に実家の家業を継いで[1]、パブ兼宿屋でもあったメヘレンの経営に乗り出している。こういった収入やパトロン、先述の大変裕福だった義母などのおかげで、当時純金と同じほど高価だったラピスラズリを原料とするウルトラマリンを惜しげもなく絵に使用できた。また、この年の9月20日ピーテル・デ・ホーホが聖ルカ組合に加入したことで、彼との親密な付き合いが始まった。この2人はのちに「デルフト派」と呼ばれるようになる[1]。他のオランダの都市に比べて、この時代のデルフトの美術品・工芸品は、よりエレガントな傾向があるが、それはデルフトの上品な顧客層やオランダ総督を務めたオラニエ=ナッサウ家の宮廷があるデン・ハーグに近く、宮廷関係の顧客の好みが作風に反映されていたからで、フェルメールやデ・ホーホも洗練された画風の静寂な作品を描いている。
1657年から彼は生涯最大のパトロンであり、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・ファン・ライフェンに恵まれた。このパトロンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点所持していた。彼の援助があったからこそ、仕事をじっくり丁寧にこなすことができ、年間2、3作という寡作でも問題なかったと考えられる。
1662年から2年間聖ルカ組合の理事を務め、また1669年からも2年間同じ役職に就いている[1]。2度にわたって画家の組合である聖ルカ組合の理事に選出されるのは大変珍しいことであり、生前から画家として高い評価を受けていたことが窺われる。
不遇の時代
[編集]レンブラントの時代は好景気に沸いていたが、1670年代になると、画家兼美術商である彼にとって冬の時代が始まった。第3次英蘭戦争が勃発したことでオランダの国土は荒れ、経済が低迷していったことや、彼とは違った画風をとる若手画家の台頭によって彼自身の人気が低迷していったことが原因である。追い打ちをかけるように、この頃にファン・ライフェンも亡くなった。さらに、戦争によって彼の義母はかつてほど裕福でなくなり、オランダの絵画市場も大打撃を受けた。戦争勃発以降、彼の作品は1点も売れなくなり、市民社会の流行の移り変わりの激しさにも見舞われることになった。この打撃によって、オランダの画家数は17世紀半頃と17世紀末を比べると4分の1にまで減少している。
死去
[編集]フェルメールの11人の子供のうち、8人が未成年であったため(当時の未成年は25歳未満を指した)、大量に抱えた負債をなんとかしようと必死で駆け回ったが、とうとう首が回らなくなった。そして、1675年にデルフトで死去した(死因不明)。12月16日に埋葬されたとの記録があるが[1]、正確な死亡日は分かっていない。42歳、または43歳没。
同郷同年生まれの織物商であり博物学者としても知られるアントニ・ファン・レーウェンフックが死後の遺産管財人となった。
フェルメールの死後、妻カタリーナには一家を背負う責任がのしかかったが、結局破産し、過酷な生活を送る羽目となった。しかし、カタリーナの母マーリアはフェルメールの莫大な負債から孫たちを守るためにその遺産を直接孫たちに手渡したため、カタリーナの生活を改善してやることはできなかった。1680年にはマーリアも死去し、フェルメールの死後12年経った1687年、56歳でカタリーナも死去した。
後世
[編集]「忘れられた画家」と「再発見」
[編集]聖ルカ組合の理事に選出されていたことからも明らかなように、生前は画家として高い評価を得ていた。死後20年以上たった1696年の競売でも彼の作品は高値が付けられている。
しかしながら、18世紀に入った途端、フェルメールの名は急速に忘れられていった。この理由として、あまりに寡作だったこと、それらが個人コレクションだったため公開されていなかったこと、芸術アカデミーの影響でその画風や主だった主題が軽視されていたことが挙げられる。もっとも、18世紀においても、ジョシュア・レノルズは、オランダを旅した際の報告において、彼について言及している。
19世紀のフランスにおいて、ついに再び脚光を浴びることとなる。それまでのフランス画壇においては、絵画は理想的に描くもの、非日常的なものという考えが支配的であったが、それらの考えに反旗を翻し、民衆の日常生活を理想化せずに描くギュスターヴ・クールベやジャン=フランソワ・ミレーが現れたのである。この新しい絵画の潮流が後の印象派誕生へつながることとなった。このような時代背景の中で、写実主義を基本とした17世紀オランダ絵画が人気を獲得し、フェルメールが再び高い評価と人気を勝ち得ることとなった。
1866年にフランス人研究家トレ・ビュルガーが美術雑誌「ガゼット・デ・ボザール」に著した論文が、フェルメールに関する初の本格的なモノグラフである。当時フェルメールに関する文献資料は少なく、トレ・ビュルガーは自らをフェルメールの「発見者」として位置付けた。しかし、実際にはフェルメールの評価は生前から高く、完全に「忘れられた画家」だったわけではない。トレは研究者であっただけでなくコレクターで画商であったため、フェルメール「再発見」のシナリオによって利益を得ようとしたのではないかと言う研究者もいる[誰?]。
その後、マルセル・プルーストやポール・クローデルといった文学者などから高い評価を得た。
フェルメールのモチーフはこれまで検討されていないが、当時出島からオランダにもたらされ、評判を呼んだ日本の着物と見える衣裳の人物像が5点ほど見える。オランダ絵画の黄金時代を花開かせた商人の経済力には、当時、世界的に注目を受けていた石見銀山で産出した銀が、出島からオランダにもたらされ莫大な利益を生んでいたことも関係している。
贋作(がんさく)事件
[編集]トレ・ビュルガーがフェルメールの作品として認定した絵画は70点以上にのぼる。これらの作品の多くは、その後の研究によって別人の作であることが明らかになり、次々と作品リストから取り除かれていった。20世紀に入ると、このような動きと逆行するようにフェルメールの贋作が現れてくる。中でも最大のスキャンダルといわれるのがハン・ファン・メーヘレンによる一連の贋作事件である。
この事件は1945年ナチス・ドイツの国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングの居城からフェルメールの作品とされていた『キリストと悔恨の女』(実際には贋作)が押収されたことに端を発する。売却経路の追及によって、メーヘレンが逮捕された。オランダの至宝を敵国に売り渡した売国奴としてである。ところが、メーヘレンはこの作品は自らが描いた贋作であると告白したのである。さらに多数のフェルメールの贋作を世に送り出しており、その中には『エマオのキリスト』も含まれていると言うのである。『エマオのキリスト』は、1938年にロッテルダムのボイマンス美術館が購入したものであり、購入額の54万ギルダーはオランダ絵画としては過去最高額であった。当初メーヘレンの告白が受け入れられなかったため、彼は法廷で衆人環視の中、贋作を作ってみせたという。『エマオのキリスト』は、現在でもボイマンス美術館の一画に「メーヘレンの作品」として展示されている。
フェルメールとダリ
[編集]シュルレアリストとして有名な画家サルバドール・ダリは、フェルメールを絶賛しており、自ら『テーブルとして使われるフェルメールの亡霊』(1934年、ダリ美術館)、『フェルメールの「レースを編む女」に関する偏執狂的=批判的習作』(1955年、グッゲンハイム美術館)など、フェルメールをモチーフにした作品を描いている。
ダリは著書の中で、歴史的芸術家達を技術、構成など項目別に採点しており、レオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソなど名だたる天才の中でも、フェルメールに最高点をつけている。独創性において1点減点する以外はすべて満点をつけた。
盗難事件
[編集]1970年代以降、フェルメールの作品はたびたび盗難に遭った。
1971年、アムステルダム国立美術館所蔵の『恋文』が、ブリュッセルで行われた展覧会への貸し出し中に盗難に遭った。程なく犯人は逮捕されたが、盗難の際に木枠からカンバスをナイフで切り出し、丸めて持ち歩いたため、周辺部の絵具が剥離してしまい、作品は深刻なダメージを蒙った。
1974年2月23日、『ギターを弾く女』がロンドンの美術館であるケンウッド・ハウスから盗まれている。この作品と引き換えに、無期懲役刑に処せられているIRA暫定派のテロリスト、プライス姉妹をロンドンの刑務所から北アイルランドの刑務所に移送せよとの要求が犯人から突きつけられた。
さらに5週間後の4月26日には、ダブリン郊外の私邸ラスボロー・ハウスからフェルメールの『手紙を書く婦人と召使』を始めとした19点の絵画が盗まれた。こちらの犯人からは、同じくプライス姉妹の北アイルランド移送と、50万ポンドの身代金の要求があった。
イギリス政府はいずれの要求にも応じなかったものの、『手紙を書く婦人と召使』などケンウッド・ハウスから盗まれた絵画は、翌週5月4日に、別件で逮捕されたIRAメンバーの宿泊先から無事保護された。さらに『ギターを弾く女』も盗難から2か月半後の5月6日、スコットランドヤードに対しロンドン市内の墓地に置かれているという匿名の電話があり、無事保護された。
ラスボロー・ハウスの『手紙を書く婦人と召使』は1986年にも盗まれたが、7年後の1993年に、おとり捜査によって犯人グループが逮捕され、作品は取り戻されている。
1990年3月18日の深夜1時過ぎ、ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館にボストン市警の警察官を名乗る2人組が現れて警備員を拘束、フェルメールの『合奏』を始め、レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、ドガ、マネの作品など計13点を強奪の上、逃走した。被害総額は当時の価値で2億ドルとも3億ドルともいわれ、史上最大の美術品盗難事件となってしまった。これらの絵画は依然として発見されていない[2]。
作品
[編集]技法
[編集]人物など作品の中心をなす部分は精密に描き込まれた濃厚な描写になっているのに対し、周辺の事物はあっさりとした描写になっており、生々しい筆のタッチを見ることができる。この対比によって、見る者の視点を主題に集中させ、画面に緊張感を与えている。『レースを編む女』の糸くずの固まり、『ヴァージナルの前に立つ女』の床の模様などが典型的な例として挙げられる。また、その絵の意味を寓意する画中画が描かれた作品が多い。
フェルメールは、描画の参考とするためカメラ・オブスクラを用いていたという説がある[1][3]。
彼の用いた遠近法については、NHK制作のドキュメンタリー(ハイビジョンスペシャル)「フェルメール盗難事件」[4]にて別の研究成果が紹介された。まず、絵の一部に消失点となる点を決め、そこに小さな鋲(びょう)のようなものを打つ。次に、それにひもを結びつけてひっぱる。このとき、このひもにチョークを塗り、大工道具の墨壺(すみつぼ)のような原理で直線を引く。この線と実際の絵を比較すると、窓やテーブルの角のラインが一致している。フェルメールの17の作品において鋲を打っていたと思われる場所に小さな穴があいていることからもこの手法がとられていた可能性は高い。
少女の髪や耳飾りが窓から差し込む光を反射して輝くところを明るい絵具の点で表現しており、この技法はポワンティエ (pointillé) と呼ばれ、フェルメールの作品における特徴の1つとされる。
フェルメールの絵に使用される鮮やかな青は「フェルメール・ブルー」と呼ばれる(天然ではラピスラズリに含まれるウルトラマリンという顔料に由来)。
フェルメールからインスピレーションを受けたアーティストは多い。たとえば料理写真家のエイミー・ツイガーはフェルメールが描いた乳母の優雅さにインスピレーションを受けた。彼女の作風は、特に『窓辺の読書少女』の「絨毯とカーテン」を思わせる。
初期の物語画
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『マリアとマルタの家のキリスト』1654年 - 1655年頃。スコットランド国立美術館(エディンバラ)。
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『聖プラクセディス』
風俗画
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『牛乳を注ぐ女』1658年 - 1660年頃。 アムステルダム国立美術館。
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『窓辺で手紙を読む女』1659年頃。アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン)。
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『真珠の首飾りの女』 1663年 - 1665年。絵画館(ベルリン)。
都市景観画
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『小路』1658年頃。アムステルダム国立美術館。
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『デルフト眺望』1660年 - 1661年頃。マウリッツハイス美術館(ハーグ)。
脚注・出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 「フェルメール」『日本大百科全書(ニッポニカ), ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典, 百科事典マイペディア, 精選版 日本国語大辞典, デジタル大辞泉, 世界大百科事典 第2版』 。コトバンクより2021年11月27日閲覧。
- ^ 朽木ゆり子へのインタビュー by 松本治人 (2018年10月5日). “フェルメール、盗難情報に1000万ドル”. 日経 BizGate. 2024年5月31日閲覧。 “ガードナー美術館は盗難の数日後には、作品の返還につながる有力な情報提供者には報奨金100万ドルを支払うことを発表…97年には500万ドル…2017年には1000万ドルに引き上げました。”
- ^ フィリップ・ステッドマン (2010), p. 1:"フェルメール(1632-75年)は、カメラ・オブスクラを用いて絵を描いた。本書では、彼がどのようにそれを用いたのかを正確に示そうと思う。" / pp.39-64:"2章 カメラ・オブスクラを用いたという発見".
- ^ "フェルメール盗難事件 ~解き明かされた名画の謎~". ハイビジョンスペシャル. 2001年6月3日. NHK. NHKデジタル衛星ハイビジョン. 2021年11月13日閲覧。
参考文献
[編集]この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
単行本
[編集]- 赤瀬川原平『赤瀬川原平の名画探険 フェルメールの眼』講談社、1998年。ISBN 978-4-06-209012-4。
- 尾崎彰宏『西洋絵画の巨匠5 フェルメール』小学館、2006年。ISBN 978-4-09-675105-3。
- 木村泰司『名画の言い分 巨匠たちの迷宮』集英社、2009年。ISBN 978-4-08-781421-7。
- 朽木ゆり子『フェルメール 全点踏破の旅』(ヴィジュアル版)集英社〈集英社新書〉、2006年。ISBN 978-4-08-720358-5。
- 小林頼子『フェルメール論 -神話解体の試み-』(改訂版)八坂書房、2008年7月。ISBN 978-4-89694-913-1。
- 抜粋版『フェルメール -作品と生涯-』 角川ソフィア文庫(改訂版)、2018年10月、ISBN 978-4-04-400442-2
- 解説『フェルメール作品集』 東京美術、2018年、ISBN 978-4-8087-1130-6
- 星野知子『フェルメールとオランダの旅』小学館、2000年。ISBN 4-09-606053-4。
- 林綾野『フェルメールの食卓』講談社、2011年。ISBN 978-4-06-217046-8。
- フィリップ・ステッドマン 著、鈴木光太郎 訳『フェルメールのカメラ』新曜社、2010年(原著2001年)。ISBN 978-4788512078。
その他
[編集]- 「特集フェルメール」『ユリイカ 詩と批評』2008年8月号、青土社、ISBN 978-4-7917-0181-0。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Een ontdekkingstocht door het leven van Johannes Vermeer デルフト・フェルメール・センター公式サイト
- Essential Vermeer エッセンシャル・フェルメール、フェルメールに関する総合サイト