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== 概要 == |
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ドイツ民主共和国は[[社会主義国]]<ref>[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr.html#KAPITEL%201-1 東ドイツ憲法第1条]「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である」({{lang|de|Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.}}) </ref>であった。政治体制は[[一党制]]ではなく反[[ファシズム]]を最大公約数とした複数政党による[[間接民主制|議会制民主主義]]国([[人民民主主義]])の形態を採っていたが、実際は[[ドイツ社会主義統一党]] (SED) が[[寡頭政治]]政党として[[党の指導性|指導権]]を有していた<ref>[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr.html#KAPITEL%201-1 東ドイツ憲法第1条]「(ドイツ民主共和国は)労働者階級とその[[マルクス・レーニン主義]]政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」({{lang|de|Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.}}) </ref>。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、[[衛星政党]]としての性格が強かった([[ヘゲモニー政党制]])。[[ソビエト連邦軍]]が駐屯する[[冷戦]]の最前線でもあり、[[政治]]的・[[軍事]]的にはソビエト連邦の[[衛星国]]であった。 |
ドイツ民主共和国は[[社会主義国]]<ref>[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr.html#KAPITEL%201-1 東ドイツ憲法第1条]「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である」({{lang|de|Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.}}) </ref>であった。政治体制は[[ソ連型社会主義]]で典型的な[[一党制]]ではなく反[[ファシズム]]を最大公約数とした複数政党による[[間接民主制|議会制民主主義]]国([[人民民主主義]])の形態を採っていたが、実際は[[ドイツ社会主義統一党]] (SED) が[[寡頭政治]]政党として[[党の指導性|指導権]]を有していた<ref>[http://www.documentarchiv.de/ddr/verfddr.html#KAPITEL%201-1 東ドイツ憲法第1条]「(ドイツ民主共和国は)労働者階級とその[[マルクス・レーニン主義]]政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」({{lang|de|Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.}}) </ref>。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、[[衛星政党]]としての性格が強かった([[ヘゲモニー政党制]])。多数の[[ソビエト連邦軍]]が駐屯する[[冷戦]]の最前線でもあり、[[政治]]的・[[軍事]]的にはソビエト連邦の[[衛星国]]であった。 |
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また、[[秘密警察]]である「国家保安省([[シュタージ]])」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員 (IM) を配置し、相互[[監視]]の網を張り巡らせた。 |
また、[[秘密警察]]である「国家保安省([[シュタージ]])」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった<ref>憲法には言論の自由、集会・結社の自由などが規定されていたが、それらはすべて「憲法に反しない」範囲とされており、結局第1条に規定されているSEDによる国家の指導権によって制約を受けた。また、刑法の規定ではSEDやソ連を批判するだけで1年から8年の[[懲役刑]]が科された(仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P74-75。</ref>。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員 (IM) を配置し、相互[[監視]]の網を張り巡らせた。 |
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経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、中・[[東ヨーロッパ]]の[[社会主義]]諸国でも最も発展し、一般家庭への[[家庭用電気機械器具|電化製品]]の普及も円滑に進み、テレビでは多数のCMも流され、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の[[香港]]人一般庶民程度)を実現したと言われる。そ |
経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、中・[[東ヨーロッパ]]の[[社会主義]]諸国でも最も発展し、一般家庭への[[家庭用電気機械器具|電化製品]]の普及も円滑に進み、テレビでは多数のCMも流され、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の[[香港]]人一般庶民程度)を実現したと言われる。そういった事もあって「'''社会主義の優等生'''」「'''東欧の[[日本]]'''」とも呼ばれていた。また[[女性]]の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。 |
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[[1980年代]]には、裁判において[[陪審員]]制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、[[徴兵制]]導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも[[良心的兵役拒否]]が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。[[1987年]]には[[死刑]]を廃止した。 |
[[1980年代]]には、裁判において[[陪審員]]制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、[[徴兵制]]導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも[[良心的兵役拒否]]が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。[[1987年]]には[[死刑]]を廃止した。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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{{ドイツの歴史}} |
{{ドイツの歴史}} |
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=== 概要 === |
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第二次世界大戦を経て、ドイツは[[アメリカ合衆国|米]]・[[イギリス|英]]・[[フランス|仏]]・ソの四か国による[[連合軍軍政期 (ドイツ)|占領下に置かれた]]。しかし、戦後の[[冷戦]]構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。[[1948年]]より、米・英・仏の占領地域による[[通貨改革]]を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側も[[ベルリン封鎖]]で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。[[1949年]]9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。 |
第二次世界大戦を経て、ドイツは[[アメリカ合衆国|米]]・[[イギリス|英]]・[[フランス|仏]]・ソの四か国による[[連合軍軍政期 (ドイツ)|占領下に置かれた]]。しかし、戦後の[[冷戦]]構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。[[1948年]]より、米・英・仏の占領地域による[[通貨改革]]を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側も[[ベルリン封鎖]]で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。[[1949年]]9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。 |
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しかし、[[1973年]]の[[オイルショック]]などによって[[東側諸国]]全体の経済が停滞する中、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]政権の下東ドイツの政治・経済は共に停滞・硬直化した。1980年代後半になると西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の[[東欧革命]]により他の中東欧の[[社会主義国|共産主義国]]が次々と[[民主化]]すると、[[オーストリア]]との[[国境]]を開放した[[ハンガリー]]などを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した([[汎ヨーロッパ・ピクニック]])。1989年10月9日、南部の都市[[ライプツィヒ]]での反政府運動「[[月曜デモ]]」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年[[11月9日]]、[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁の開放]]に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には[[通貨統合]]、そして[[10月3日]]にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。 |
しかし、[[1973年]]の[[オイルショック]]などによって[[東側諸国]]全体の経済が停滞する中、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]政権の下東ドイツの政治・経済は共に停滞・硬直化した。1980年代後半になると西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の[[東欧革命]]により他の中東欧の[[社会主義国|共産主義国]]が次々と[[民主化]]すると、[[オーストリア]]との[[国境]]を開放した[[ハンガリー]]などを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した([[汎ヨーロッパ・ピクニック]])。1989年10月9日、南部の都市[[ライプツィヒ]]での反政府運動「[[月曜デモ]]」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年[[11月9日]]、[[ベルリンの壁崩壊|ベルリンの壁の開放]]に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には[[通貨統合]]、そして[[10月3日]]にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。 |
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=== 東ドイツの建国と社会主義の建設(1949-1961) === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-19000-3301, Berlin, DDR-Gründung, Wahl Pieck, Grotewohl.jpg|thumb|東ドイツ建国時の[[ヴィルヘルム・ピーク]]と[[オットー・グローテヴォール]](撮影:[[1949年]]10月7日)]] |
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東ドイツは、[[1948年]]10月に[[ドイツ民主共和国憲法]]を起草、[[1949年]]10月7日({{仮リンク|共和国の日_(ドイツ民主共和国)|label=共和国の日|de|Tag der Republik (DDR)}})に建国した。{{仮リンク|第二次ドイツ人民議会|de|Deutscher Volksrat#Zweiter Deutscher Volksrat}}が、暫定的な[[人民議会_(東ドイツ)|人民議会]]として成立し、[[オットー・グローテヴォール]]が首相として政府創設の任に当たった。10月11日、グローテヴォールの同僚である[[ドイツ社会主義統一党|SED]]議長の[[ヴィルヘルム・ピーク]]が、{{仮リンク|東ドイツ大統領|de|Präsident_der_DDR}}に選出された。 |
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東ドイツは、{{仮リンク|現実社会主義|de|Realsozialismus}}の[[人民共和国]]であったが、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]だけでなく、[[ドイツ自由民主党|自民党]]や[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|キリスト教民主同盟]](CDU)のような「[[中道右派]]」政党の活動も許されていた。ただし、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]や[[ドイツ民主農民党|民主農民党]]、[[ドイツ自由民主党|自民党]]、[[ドイツ国家民主党 (東ドイツ)|国家民主党]]は、[[衛星政党]]として[[ドイツ社会主義統一党|SED]]と共に[[国民戦線]]を組んでいた。公式的には{{仮リンク|閣僚評議会_(東ドイツ)|label=閣僚評議会|de|Ministerrat_der_DDR}}が東ドイツの政府であったが、実際には{{仮リンク|SED中央委員会政治局|de|Sozialistische Einheitspartei Deutschlands#Zentralkomitee}}が権力の中枢であった。[[ヴァルター・ウルブリヒト]]は、政治局のメンバーであり、[[1950年]]以降は、{{仮リンク|SED中央委員会|de|Sozialistische Einheitspartei Deutschlands#Zentralkomitee}}の[[書記長]]となった。さらに[[ドイツ駐留ソ連軍]]の総司令部陸軍大将であった[[ワシーリー・チュイコフ]]の{{仮リンク|ソ連管理委員会|de|Sowjetische Kontrollkommission}}は強い権力を持っていた{{#tag:ref|[http://www.krr-faq.net/verwueb.htm ''Erklärung des Vorsitzenden der Sowjetischen Kontrollkommission zur Übergabe von Verwaltungsfunktionen an deutsche Behörden vom 11. November 1949''], aus: [[:de:Ingo von Münch|Ingo von Münch]], ''Dokumente des geteilten Deutschlands'', S. 325 ff.}}。ソ連政府は[[1954年]]3月25日に、「[[ソ連]]は、他の主権国家と同様に、東ドイツとも平等な関係」を望んでいると説明したが、東ドイツの[[主権]]<ref>[http://www.krr-faq.net/souvddr.htm ''Erklärung der Regierung der UdSSR über die Gewährung der Souveränität an die Deutsche Demokratische Republik vom 25. März 1954''], aus: Ingo von Münch, ''Dokumente des geteilten Deutschlands'', S. 329 ff.</ref>は制限されたままであった。社会史家の{{仮リンク|ハンス=ウルリッヒ・ヴェーラー|de|Hans-Ulrich Wehler}}は、当時の東ドイツは「ソ連帝国の西部戦線の[[サトラップ]](地方総督)」であったとしている{{#tag:ref|Hans-Ulrich Wehler: ''Deutsche Gesellschaftsgeschichte.'' Bd. 5: ''Bundesrepublik und DDR 1949–1990'', C.H. Beck, München 2008, [http://books.google.com/books?id=4PzvV1qadMMC&pg=PR15 S. XV], 342, 425, Zitat auf [http://books.google.com/books?id=4PzvV1qadMMC&pg=PA23 S. 23]}}{{#tag:ref|[[:de:Henning Köhler (Historiker)|Henning Köhler]], ''Deutschland auf dem Weg zu sich selbst. Eine Jahrhundertgeschichte.'' Hohenheim-Verlag, Stuttgart 2002, S. 486 ff.; [[:de:Wichard Woyke|Wichard Woyke]] (Hrsg.), ''Handwörterbuch Internationale Politik'', 11. Aufl., UTB, Opladen 2008, S. 64.}}。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-S90339, Berlin, DDR-Gründung, Regierung bei Tschuikow.jpg|thumb|ソ連管理委員会の委員長として陸軍大将[[ワシーリー・チュイコフ|チュイコフ]]が、東ドイツ政府の要人たちを迎えている(撮影:[[1949年]]11月11日)]] |
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人民議会の最初の選挙は、[[1950年]]10月15日に決まり、統一名簿に基づいて行われた。憲法発行後1年以上たって期日とその選挙方法がやっと決まったことに対して、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]や[[ドイツ自由民主党|LDPD]]の[[中道右派]]の政治家たちは反発したが、代わりに新政府での高い職位を得ることで決着した。[[ドイツ自由民主党|LDPD]]党首の{{仮リンク|ハンス・ロッホ|de|Hans Loch}}は財務大臣に、[[ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)|CDU]]党首の{{仮リンク|オットー・ヌシュケ|de|Otto Nuschke}}は副首相に、その党友である{{仮リンク|ゲオルグ・ドルティンガー|de|Georg Dertinger}}は外務大臣になった。彼らの在任中、東ドイツの外交政策で重要だったのは二つある。[[1950年]]7月6日、[[ポーランド人民共和国]]と{{仮リンク|ゲルリッツ協定|de|Görlitzer Abkommen}}を結んで、[[オーデル・ナイセ線]]を国境線として確定したこと、[[1950年]]9月29日、[[経済相互援助会議]](RGW/COMECON)に加盟したことである。 |
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東ドイツは西ドイツと同様に、{{仮リンク|ドイツの正当な継承国|de|Alleinvertretungsanspruch#Deutsche Demokratische Republik}}であることであると主張していた。当初は東側の憲法も民主的であることが強調され、東西ドイツが協調する可能性が模索されたが失敗した。非武装中立国としてドイツを独立させることを提唱した{{仮リンク|スターリン・ノート|de|Stalin-Noten}}([[1952年]])に対し、西側諸国が全ドイツでの自由選挙による独立を最低条件としたことで折り合いがつかなかったように、双方にとって納得できない提案を双方が押し付け合ったためである。 |
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その後、[[ヨシフ・スターリン]]は[[1952年]]7月にウルブリヒトを中心とした[[ドイツ社会主義統一党|SED]]指導部に{{仮リンク|社会主義建設|de|Aufbau des Sozialismus}}のための全権を与えた。経済では、工業産業の[[国有化]]が進められ、農業においては、{{仮リンク|農業協同組合_(ドイツ民主共和国)|label=農協|de|Landwirtschaftliche Produktionsgenossenschaft}}をモデルとした[[集団農場]]が称揚された。また、全ての敵対者、特に{{仮リンク|東ドイツのキリスト教と教会|label=教会|de|Christen und Kirchen in der DDR}}に対して政治的な弾圧が加えられた。[[1952年]]5月に遮断されていた{{仮リンク|ドイツ国内国境|de|Innerdeutsche_Grenze}}では、{{仮リンク|害虫駆除作戦|de|Aktion Ungeziefer}}が実行され、逃亡の可能性があると疑われた国境付近の住民が強制的に移住させられた([[:de:Vertreibung|Vertreibung]]){{#tag:ref|Heiner Emde: [http://www.focus.de/politik/deutschland/aktion-ungeziefer-vergessene-opfer-an-der-grenze_aid_142635.html ''Vergessene Opfer an der Grenze'']. In: ''[[:de:Focus Online|Focus Online]]'', 1993年2月22日, 参照:2012年1月15日}}。 |
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[[File:Stamp Germany 2003 MiNr2342 17. Juni.jpg|thumb|ベルリン{{仮リンク|ライプツィヒ広場|de|Leipziger_Platz}}でのソ連軍戦車への投石([[1953年]]6月17日)を現した切手([[2003年]]に発行)]] |
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[[1953年]]3月にスターリンが死去したあと、ソ連指導部は{{仮リンク|6月17日蜂起_(東ドイツ)|label=方針転換|de|Aufstand des 17. Juni#Neuer Kurs}}し、強制的な社会主義化と政治的弾圧をやめるようになった。[[ドイツ社会主義統一党|SED]]はこの方針に従ったが、しかしノルマを達成しない労働者の賃金をカットする「労働規範([[:de:Arbeitsnorm|Arbeitsnorm]])」は撤回しなかったことで、[[東ベルリン]]で抗議デモが起こり、それが発展して[[1953年]]6月17日に[[東ベルリン暴動]]が起こった。東ドイツ国内に駐留していたソ連軍による鎮圧によって、少なくとも55人が死亡した<ref>[http://www.17juni53.de/tote/recherche.html Tote des 17. Juni 1953]. In: 17. Juni 1953. 2004年, 参照:2008年11月12日</ref>。 |
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ソ連は、東ドイツへの賠償を放棄し、東ドイツ国内にあった{{仮リンク|ソ連法人|de|Sowjetische Aktiengesellschaft}}を国営企業へと変えるなどして財政援助を行った。このことによって物資不足は緩和され、かなり国内で疑問視されていた[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]政権下の[[ドイツ社会主義統一党|SED]]体制も安定するようになった。[[1956年]]11月の[[ハンガリー動乱]]で、ソ連軍が鎮圧にあたった際には、数千人の死者が出ただけでなく、さらに2,000人以上が処刑された。これに応じて、東ドイツでも、体制批判的な学生や学者に対して新たに[[弾圧]]が行われた。[[1959年]]、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]は「社会主義建設」のための第二段階を実行するようになった。まず[[ドイツ社会主義統一党|SED]]はあらゆる手段を使って、[[1960年]]の第一四半期に農業面積の約40%を「自発的な」加入によって農協の所有物にし、農産物の90%を集団農場で作ることの必要性を喚起した<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S. 135–145 (Originalausgabe 1998).</ref>。そのことによって{{仮リンク|ソ連軍占領地域および東ドイツからの難民|label=難民|de|Flucht_aus_der_Sowjetischen_Besatzungszone_und_der_DDR}}の数は飛躍的に増大し、47,433人が[[1961年]]8月初めに東ドイツから逃亡した。 |
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=== 壁建設と緊張緩和政策(1961–1971) === |
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[[File:Mauer axb01.jpg|thumb|[[ベルリンの壁]]]] |
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[[File:Innerdeutsche Grenze beim Grenzmuseum Schifflersgrund - Flucht v. Heinz-Josef Große.jpg|thumb|[[ヘッセン]](左)・[[チューリンゲン]](右)のあいだにある国境]] |
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多数の国民の海外流出、とくに比較的高い教育を受けた若者たちの逃亡は、東ドイツの存在そのものを脅かした。これに対応するため、8月12日と13日の夜に[[国家人民軍|人民軍]]、[[ドイツ人民警察|人民警察]]、[[労働者階級戦闘団]]は、ソ連指導部の後ろだてもあって、西ベルリンの周囲を有刺鉄線と武力で封鎖し始めた。東西[[冷戦]]の象徴となった[[ベルリンの壁]]建設の始まりである。壁、[[地雷原]]、{{仮リンク|自動発射装置|de|Selbstschussanlage}}が大規模に設置され、国境警備兵には、逃亡者に対する{{仮リンク|射殺命令|de|Schießbefehl}}が下された。ベルリンの壁は「反ファシズム防壁」というプロパガンダで呼ばれた。この防御システムを切り抜けようとした数百の難民が東西ドイツ国境で殺された。東ドイツで行われた[[人権蹂躙|人権侵害]]は、西ドイツの[[ザルツギッター]]にある{{仮リンク|国家司法局中央記録センター|de|Zentrale Erfassungsstelle der Landesjustizverwaltungen}}で記録された。 |
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壁建設が始まってから2ヶ月、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]指導部は、国外逃亡に失敗した反体制者を弾圧していたが、このことに対して[[1961年]]10月にモスクワから警告を受けた。この頃のソ連は、書記長[[ニキータ・フルシチョフ]]が[[非スターリン化]]の第二段階を始めていた最中であった。東ベルリンでは、[[個人崇拝]]に対する拒絶反応が起こり、スターリンの名が入った通り・広場・施設が改名された{{#tag:ref|しかしそれにも関わらず、[[1963年]]にはウルブリヒトが「明快で、誠実で、質素で、率直で、立派で、清潔である」ことから、60歳の誕生日会が行われた。そして、「高貴な人間性」を持った「新しいタイプの政治家」であると吹聴された。Hermann Weber: ''DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990.'' Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S. 100 (Originalausgabe 1976).}}。反抗的な一部の住民に対する弾圧は行われなくなり、政治的な宣伝活動と、[[生活水準]]を上げる経済政策が始まった。国外に逃亡しようとしていた人びとは、この新しい状況のなかでやりくりし、仕事に打ち込んで、生活水準と出世可能性を可能な限り高めるよう模索するようになった。「このような態度は、経済成長というポジティブな結果を生み、それによって物質的豊かさが改善され、反体制的な意見は無くなり、指導部と国民との関係は徐々に冷静なものになった<ref>Hermann Weber: ''DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990.'' Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S. 98 (Originalausgabe 1976).</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-J1231-1002-002 Walter Ulbricht, Neujahrsansprache.jpg|thumb|[[ヴァルター・ウルブリヒト]] (1970)]] |
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[[1968年]]、[[プラハの春]]が起こると、ふたたび弾圧の空気が生じた。東ドイツ国民は自由を重視した{{仮リンク|改良社会主義|de|Reformsozialisten}}を期待したが、ソ連の影響下にあった[[ワルシャワ条約機構]]軍が、[[チェコスロバキア共産党]]第一書記[[アレクサンデル・ドゥプチェク]]の改革モデルを軍事力で鎮圧すると、改革の機運はすぐに打ち砕かれることになった。それに対して、東ドイツの4つの町で主に若者たちによる小規模な抗議デモが行われたが、公安当局によって摘みとられた。[[シュタージ]]は、[[1968年]]11月までに、この件に関する2,000以上の「敵対行為」を確認している<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S. 187 (Originalausgabe 1998).</ref>。なお同年4月には憲法が改正され、「ドイツ民主共和国はドイツ民族の社会主義国家である({{lang|de|Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat deutscher Nation.}})」「労働者階級とマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる」と規定され、公式に社会主義国であると規定されている。 |
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モスクワからの東ドイツ指導部に出される要望には依然として決定的な影響力があり、そのことは[[1970年]]に始まった[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]と[[エーリッヒ・ホーネッカー|ホーネッカー]]の権力闘争にも見られる。ホーネッカーは、自分が東西ドイツの緊張緩和政策に関するソ連の要望を理解している政治家であるとアピールし、ウルブリヒトの経済政策を批判することで[[ドイツ社会主義統一党|SED]]政治局を支持をとりつけた。ウルブリヒトは成長産業や研究、工業の助成に関心を持っていたのに対し、ホーネッカーは個人消費向け産業の計画が遅れていたこと、その生産量が減少していたことを問題にしていた。[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]]の協力で、最終的に[[1971年]]4月にウルブリヒトを辞任させることになった<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S. 208–210 (Originalausgabe 1998).</ref>。 |
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=== 新たな裂け目から停滞へ (1971–1981) === |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-1986-0421-044, Berlin, XI. SED-Parteitag, Erich Honecker.jpg|thumb|[[エーリッヒ・ホーネッカー]]]] |
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[[ヴァルター・ウルブリヒト|ウルブリヒト]]がホーネッカーの工作と「健康上の理由」によりSEDの第一書記と国防評議会議長の職から辞任したあと<ref>ウルブリヒトはこれらの職を追われ、実権をホーネッカーに奪われた後も国家元首である国家評議会議長の職には死去するまで在任していた。</ref>、彼は[[1973年]]8月1日に死去した。[[エーリッヒ・ホーネッカー|ホーネッカー]]は、すでに[[1971年]]6月の党大会で、方針転換を決定しており、「国民の物質的・文化的な生活水準をさらにあげること」を党の「主要課題」にした。「{{仮リンク|経済政策と社会政策の両立|de|Einheit von Wirtschafts- und Sozialpolitik}}」が中心的なスローガンになった。重点が置かれたのは、住宅建設と住宅環境の整備であった。予定では[[1990年]]までこの住宅問題は解決されることになっていた。女性の労働参加は、ワークシェアリングや産休期間の延長、[[保育所]]や[[幼稚園]]の拡充によって促進された。[[1976年]]まで最低賃金が400[[東ドイツマルク|マルク]]、最低年金が200[[東ドイツマルク|マルク]]のまま変わらなかったとはいえ、冷蔵庫やテレビなどの電化製品に代表される家庭向け製品に生産が集中したことで、東ドイツの生活環境は大きく変わり、豊かさへの期待も膨らんでいった。経済と消費の刺激が可能だったのは、西側からの[[対外債務]]を増大させたことも大きい<ref>Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 117–119; Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S. 219 f. (Originalausgabe 1998).</ref>{{#tag:ref|Einen Milliardenkredit fädelte 1983 Franz Josef Strauß ein; vgl. hierzu [[:de:einestages|einestages]] ([[:de:Spiegel Online|Spiegel Online]]): [http://einestages.spiegel.de/static/topicalbumbackground/2408/milliardenspritze_fuer_den_mauerbauer.html ''Milliardenspritze für den Mauerbauer''].}} |
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[[1971年]]12月にホーネッカーは[[文化政策]]でも一時的に自由化する傾向を見せたが、[[1970年]]半ばから徐々に硬直していった<ref>Manfred Jäger: ''Kultur und Politik in der DDR 1945–1990.'' Köln 1995, S. 140.</ref>。 |
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{{Quote|もし社会主義が確固たる地位を築いているということを前提にするなら、私の考えでは芸術にも文学にもタブーはありえない。もちろん、このことは内容の問題にもスタイルの問題にも当てはまるし、一言でいえば、何が芸術的な傑作かという問題にも当てはまる。}} |
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対外関係において、ホーネッカーは、ウルブリヒトとの権力闘争を繰り広げていた時に主張したように、ソ連との緊密な関係を構築する方針を取り、「社会主義国家共同体のなかに着実と根を下ろすこと」を約束した。ソ連との関係は、[[1974年]]の公式見解によれば、「実際、日常生活でソ連との友好関係が現れないような場所はない」ほどに成熟していた<ref>Hermann Weber: ''DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990.'' Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S. 147 (Originalausgabe 1976).</ref>。 |
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[[1970年]]、西ドイツ首相の[[ヴィリー・ブラント]]は、{{仮リンク|エアフルト首脳会談|de|Erfurter Gipfeltreffen}}を皮切りに新[[東方外交]]政策を打ち出し、東西ドイツの対話をもたらした。東西緊張緩和の背景には東ドイツが外貨を獲得しようとしたも大きい。{{仮リンク|トランジット協定|de|Transitabkommen}}は、東ドイツを通過する際の手続き簡略化を保証し、西ベルリンの交通路の状況を改善した。[[1972年]]に[[東西ドイツ基本条約]]が結ばれ、両国([[ボン]]と[[東ベルリン]])に大使館を設置することが決まり([[:de:Ständige Vertretungen der Bundesrepublik Deutschland und der Deutschen Demokratischen Republik|Ständige Vertretungen]])、両国が平和的に共存するために相互承認が行われた。それに基づき、[[1973年]]に両国は[[国際連合|国連]]に加盟した。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-J0814-0008-001, Leipzig, "Altes Rathaus", Parkplatz.jpg|thumb|「''東ドイツは貿易相手国として国際的に承認された''」<br />– [[1970年]][[ライプツィヒ]]のプロパガンダポスター]] |
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[[1975年]]、[[ヘルシンキ宣言_(全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]署名により、確かに東ドイツ指導部は外交的な評価を受けたが、しかし[[人権]]に関する国際的な要求にも対処しなければならなかった。[[国際連合|国連]]や[[ヘルシンキ宣言_(全欧安全保障協力会議)|全欧安全保障協力会議]]加盟国の立場からすれば、東ドイツが{{仮リンク|出国申請|de|Ausreiseantrag}}を認めないのは[[逮捕・監禁罪|監禁罪]]にあたるのではないかと非難した市民がいたが、その市民は[[1976年]]10月に逮捕され、「{{仮リンク|国家反逆扇動罪|de|Staatsfeindliche Hetze}}」の判決を受け、一年後に西ドイツへの{{仮リンク|国外追放法|label=国外追放|de|Abschiebung (Recht)}}となった。[[連邦政府_(ドイツ)|西ドイツ政府]]は、[[1964年]]~[[1989年]]までのあいだに東ドイツ刑務所にいた33,753人の[[政治犯]]に対して、合計34億マルクの{{仮リンク|囚人釈放金|de|Häftlingsfreikauf}}を支払っていた。歴史家の{{仮リンク|ステファン・ヴォレ|de|Stefan_Wolle}}は、この件に関して、[[絶対王政]]時代の[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン=カッセル方伯]][[フリードリヒ2世_(ヘッセン=カッセル方伯)|フリードリヒ2世]]の{{仮リンク|ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の傭兵売買|label=傭兵売買|de|Soldatenhandel unter Landgraf Friedrich II. von Hessen-Kassel}}と全く同じであると見ている{{#tag:ref|Zitiert bei [[:de:Heinrich August Winkler|Heinrich August Winkler]]: ''Der lange Weg nach Westen.'' Bd. 2: ''Deutsche Geschichte vom „Dritten Reich“ bis zur Wiedervereinigung''. C.H. Beck, München 2010, S. 364.}}。他方で、囚人になることで国外へ脱出してしまおうという運動も広がるようになり、ホーネッカーはそれを断固として阻止しようとし、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]の地方議会書記長に、次のような指示を与えた。 |
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{{Quote|最近、西ドイツの報復主義的なグループがいわゆる西ドイツの市民権運動を組織しようと躍起になっている。……これらのグループには断固として反対するべきである。ヘルシンキ宣言や他の言い訳を持ち出して、東ドイツ国籍を解消し、西ドイツへの出国を申請する人すべてを当局は拒否する必要がある。}} |
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ホーネッカーは、そのような出国申請者を職場から解雇すること、[[1977年]]4月の刑法改正の枠組において違法とすることを命令した<ref>Zitiert nach Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S. 235 (Originalausgabe 1998).</ref>。 |
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同様に[[1976年]]、[[ケルン]]でのコンサートで[[ヴォルフ・ビーアマン]]は、東ドイツの幹部とその共産主義的な忠誠に対する思い切った批判を行ったことで国外追放処分となった。もっとも、かねてよりビーアマンの市民権剥奪は予定されており、その絶好の機会がたまたま来ただけであった。これによって、ホーネッカーの時代とともに始まった文化政策の開放は終了したことが鮮明になった。[[ドイツ社会主義統一党|SED]]上層部にとっては予見できなかったことであるが、この{{仮リンク|市民権剥奪|de|Ausbürgerung}}に対しては、もちろん、東ドイツの有名な作家たちの抗議活動も生じ、それは大きな共感を得るものだった。しかし、[[1976年]]11月17日に12名の作家たちが抗議文書を作成し、共同署名したが、[[1978年]]5月に行われた{{仮リンク|東ドイツ作家協会|de|Deutscher Schriftstellerverband}}の第8回作家会議に出席したのはわずか2名であった。他の作家たちは出席許可を得なかったか、自分から諦めてしまった。<ref>Manfred Jäger: ''Kultur und Politik in der DDR 1945–1990.'' Köln 1995, S. 165–167.</ref> |
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東ドイツ国家の対外的な立場は、1970年代後半には難しいものになった。[[西ヨーロッパ]]では、ソ連型の共産主義モデルとは距離を置き、[[自由]]と[[民主主義]]を擁護した[[ユーロコミュニズム]]が台頭し、[[チェコスロバキア]]では[[ヘルシンキ宣言_(全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]順守を求めた人権団体[[憲章77]]が設立され、1980年代になると[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)|ソ連のアフガン侵攻]]に対する国際的非難が高まり、[[1980年]]、[[ポーランド]]では[[独立自主管理労働組合「連帯」]]が結成された。 |
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=== 凋落・変革 (1981–1990) === |
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{{main|[[:de:Wende und friedliche Revolution in der DDR|東ドイツの転換と平和革命]]{{de icon}}}} |
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[[1979年]]の第二次[[オイルショック]]で、東ドイツの不景気はさらに加速するようになった。経済的困難から抜け出せなかったソ連指導部は、東ドイツへの優遇条件での石油供給量を年間1900万トンから1700万トンに減らした<ref>Joachim Kahlert: [http://epub.ub.uni-muenchen.de/2197/1/Kahlert_2197.pdf ''Die Energiepolitik der DDR – Mängelverwaltung zwischen Kernkraft und Braunkohle'', Bonn 1988].</ref>。それに対してホーネッカーは何度も抗議をし、[[ブレジネフ]]に「200万トンの石油に、東ドイツを不安定にし、党と国家に対する国民の信頼を壊すほどの価値があるのか」と問いただした{{#tag:ref|Zitat in [http://www.focus.de/politik/deutschland/honecker-er-meint-die-mauer_aid_150526.html ''Honecker: „Er meint die Mauer“''], [[Focus]] Magazin, Nr. 22, 1995.}}。その間、東ドイツは、ソ連の石油を{{仮リンク|シュヴェート・オーデル|label=オーデル|de|Schwedt/Oder}}、{{仮リンク|ベーレン_(ザクセン)|label=ベーレン|de|Böhlen_(Sachsen)}}、{{仮リンク|リュッツケンドルフ|de|Lützkendorf}}、{{仮リンク|ロイナ|de|Leuna}}([[:de:Leunawerke|Leunawerke]])の石油精製所での加工しており、それらを西ヨーロッパの市場で販売して外貨を獲得していた。ホーネッカーの抗議に効果はなく、むしろソ連と共に苦労を分かち合おうという激励に応えるものであった。そうしなければ「完璧な社会主義共同体制」の世界的立場が危ういものになってしまうからである。そのため、東ドイツの財政は、「不安と絶望の袋小路」になった<ref>Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S. 269–271.</ref>。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1007-402, Berlin, 40. Jahrestag DDR-Gründung, Ehrengäste.jpg|thumb|東ドイツの党と国家の指導部メンバーと、外国の代表者。ベルリンの{{仮リンク|カール・マルクス・アレー|de|Karl-Marx-Allee}}にある貴賓用観覧席([[1989年]]10月7日の東ドイツ第40回建国記念日)]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-1989-1104-437, Berlin, Demonstration am 4. November.jpg|thumb|[[東ベルリン]]の{{仮リンク|アレクサンダープラッツ・デモ|de|Alexanderplatz-Demonstration}}([[1989年]]11月4日)]] |
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[[File:Stamps of Germany (DDR) 1990, MiNr 3315.jpg|thumb|{{仮リンク|1990年の東ドイツ郵便局切手|de|Briefmarken-Jahrgang 1990 der Deutschen Post der DDR}}のうちの「''{{仮リンク|我々が国民だ|de|Wir sind das Volk}}''」切手([[1990年]]2月28日発行)]] |
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[[1982年]]に東ドイツは財政破綻の危機をむかえた<ref>Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 137.</ref>。それを防いだのは、[[1983年]]と[[1984年]]の2回にわたる西ドイツからの何十億マルクもの出資であったが、それには{{仮リンク|アレクサンダー・シャルク=ゴロットコフスキー|de|Alexander Schalck-Golodkowski}}の尽力も大きかった。彼は外貨獲得を担当していた{{仮リンク|貿易調整部_(ドイツ民主共和国)|label=貿易調整部|de|Kommerzielle Koordinierung}}の所長であり、それと同時にシュタージの{{仮リンク|特務将校|de|Offizier_im_besonderen_Einsatz}}も兼任していた。彼は、特に東ドイツの国境の規制緩和を約束することで、バイエルン州首相の[[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]]を調停者として味方につけることに成功した<ref>東ドイツの発表によれば、貿易調整部は、[[1967年]]~[[1989年]]までに410億[[ドイツマルク]]を調達しており、そのうち270億マルクが直接企業を経営したり、他のビジネスで得たものであり、140億マルクが西ドイツに払ってもらったものである。(Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990.'' München 2000, S. 272.)</ref>。それ以前にも、[[ヘルムート・シュミット|第三次シュミット内閣]](1980-1982)が、[[チューリッヒ]]の「偽装銀行」(Strohbank)を通じて30億から50億[[ドイツマルク]]を貸し出すかどうかを検討していた{{#tag:ref|[http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-13490556.html Ganz spitze Finger.] In: [[:de:Der Spiegel|Der Spiegel]]. Nr. 36, 1991, S. 31–35.}}{{#tag:ref|[http://www.spiegel.de/spiegel/print/d-13497127.html Der Zorn wird täglich größer.] In: [[:de:Der Spiegel|Der Spiegel]]. Nr. 50, 1989, S. 30–37 (11. Dezember 1989).}}。しかし、高額な消費財を国民に提供することは、満足にはできなかった。西側と同水準のカラーテレビや冷凍庫付き冷蔵庫、全自動洗濯機は、高かっただけでなく、長い待ち時間をも必要とした。「全自動洗濯機の納品期間は3年近くかかり、[[トラバント]]は最低でも十年近く待たなければならなかったが、トップクラスと誇れるほどの質はないままだった」<ref>Ulrich Mählert: ''Kleine Geschichte der DDR.'' 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 134.</ref>。 |
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東西ドイツ間で結ばれた特別協定は、東ドイツ指導部に対するソ連の不信を解消させることにもなった{{#tag:ref|[[:de:Hans-Hermann Hertle|Hans-Hermann Hertle]], [[:de:Konrad Jarausch|Konrad H. Jarausch]] (Hrsg.): ''Risse im Bruderbund. Die Gespräche Honecker – Breshnew 1974 bis 1982.'' Links, Berlin 2006.}}。それゆえ[[1987年]]にホーネッカーの西ドイツ訪問が初めて実現し、東ドイツの国際的承認の晴れ舞台となった。[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]は[[ペレストロイカ]]と[[グラスノスチ]]で改革方針をすでに打ちだしており、[[東側諸国]]で良好な関係にある党と国家に、国内統治に対する自由裁量を認めていたが、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]上層部は、ながいあいだソ連指導部を東ドイツの権力基盤の保証人であると思うことに慣れていたため、外交方針は大きく揺らぐことになった。 |
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他の中東欧の社会主義国と違い分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、民主化や経済の自由化は西ドイツとの差異を無くし、ひいては国家の存在意義の消滅を意味することを東ドイツの指導部は知っていたため<ref>三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』([[岩波新書]] 1992年 ISBN4004302560)P3-4</ref>、ゴルバチョフのモデルに従うことを彼らは強く拒絶し、ソ連メディアの情報にさえ検閲をかけ<ref>1988年には、ソ連の雑誌「スプートニク」を発禁処分にしている。(南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 講談社現代新書 1990年 P106) </ref>、「{{仮リンク|東ドイツカラーの社会主義|de|Sozialismus_in_den_Farben_der_DDR}}」というプロパガンダを打ちだした。 |
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このことは、東ドイツ国民には理解されず、ますます反感を買うようになった。抗議は、主に1980年以降に成立した平和運動のなかに見られる。これらの平和運動は、地域で集まった小さなグループから成り、環境の大切さと[[第三世界]]の重要性を訴えた。そのグループのいくつかには、教会の支援と説得もあった。[[1989年]]5月に行われた地方自治体選挙の結果が改ざんされたことが明らかになると、それに対する抗議が行われ、それが[[ドイツ社会主義統一党|SED]]への不満をいっそう明確に可視化させ、多様な公民権運動へとつながった。SEDにとってより重大だったのは、[[ハンガリー]]が、[[1989年]]2月[[オーストリア]]への国境を解放し、[[1989年]]8月19日には非公式にハンガリー当局は東ドイツ国民のオーストリアへの出国を許し([[汎ヨーロッパ・ピクニック]])、さらには9月11日には正式に東ドイツ国民にオーストリアへの出国を許可したことで、[[ベルリンの壁崩壊#.E6.9D.B1.E3.83.89.E3.82.A4.E3.83.84.E5.9B.BD.E6.B0.91.E3.81.AE.E5.A4.A7.E9.87.8F.E8.84.B1.E5.87.BA|大量国外脱出]]が始まったことだった。秋に定期的に開催された[[月曜デモ]]で、公民権運動で改革を目指した抗議が行われた。[[東ベルリン]]で10月7日に建国40周年記念祝典が行われていたので、デモは治安部隊によって解散させられていたが、2日後に大規模抗議デモが[[ライプツィヒ]]で起こると、東ドイツの{{仮リンク|東ドイツの転換と平和革命|label=平和革命|de|Wende_und_friedliche_Revolution_in_der_DDR#Triumph_der_friedlichen_Demonstranten}}が爆発した。10月18日にホーネッカーは退任、後任の[[エゴン・クレンツ]]と新[[ドイツ社会主義統一党|SED]]指導部は国民との対話を提案したが、国家と党の体制崩壊を引き止めることはできなかった。[[1989年]]11月9日の夜、SED政治局員[[ギュンター・シャボウスキー]]が誤って西側への出国許可が「遅滞なく」下りると発表すると、[[ベルリンの壁]]に市民が殺到し、[[ベルリンの壁崩壊|壁は崩壊]]した。 |
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11月に成立した[[ハンス・モドロウ]]政権は、[[円卓会議]]で国民との対話を行い、政治の民主化、シュタージの解体を進め、12月にはSEDの国家に対する指導権を規定した憲法第1条の規定も削除された。しかし、壁崩壊後出国者は1日2,000人を超え、通貨も暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった<ref>三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36</ref>。[[月曜デモ]]の参加者のスローガンは、かつて国家権力を挑発するときに使った「{{仮リンク|我々が国民だ|de|Wir sind das Volk}}!」({{lang-de-short|Wir sind das Volk!}})から、ドイツ再統一を訴える「{{仮リンク|我々はひとつの国民だ|de|Wir sind ein Volk}}!」({{lang-de-short|Wir sind ein Volk!}})に変わっていった。 |
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西ドイツの[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]]の支援を受けた{{仮リンク|ドイツのための連立|de|Allianz für Deutschland}}が[[ドイツ民主共和国人民議会1990年選挙|1990年3月18日の選挙]]で勝利すると、ドイツ再統一への方針が決まった。初の自由選挙で就任した[[ロタール・デメジエール]]の連立政権は、第三次[[ヘルムート・コール]]内閣からの支援を受け、[[ドイツ連邦共和国基本法]]第23条に基づいて東ドイツを[[ドイツ連邦|西ドイツ]]へと加盟させることを決定した。{{仮リンク|通貨・経済・社会の連合|de|Währungs-, Wirtschafts- und Sozialunion}}を[[1990年]]7月1日に施行、8月31日に[[統一条約]]に批准、9月12日に第二世界大戦戦勝国との[[ドイツ最終規定条約]]に調印したあと、東ドイツは[[1990年]]10月3日に[[ドイツ連邦]]へと吸収された。 |
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== 政治 == |
== 政治 == |
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==== その他 ==== |
==== その他 ==== |
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* [[オットー・グローテヴォール]] - 初代首相。東地区の[[ドイツ社会民主党]]出身。 |
* [[オットー・グローテヴォール]] - 初代首相。東地区の[[ドイツ社会民主党]]出身。 |
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* [[ギュンター・シャボウスキー]] - [[ベルリンの壁崩壊]]の直接のきっかけを作ったSED政治局員。 |
* [[ギュンター・シャボウスキー]] - [[ベルリンの壁崩壊]]の直接のきっかけを作ったSED政治局員。SEDベルリン地区委員会第一書記。 |
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* [[エーリッヒ・ミールケ]] - ベルリンの壁崩壊直前まで32年間にわたりシュタージのトップ(国家保安省長官)を務めた。SED政治局員 |
* [[エーリッヒ・ミールケ]] - ベルリンの壁崩壊直前まで32年間にわたりシュタージのトップ(国家保安省長官)を務めた。SED政治局員。 |
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* [[マルゴット・ホーネッカー]] - エーリッヒの妻。 |
* [[マルゴット・ホーネッカー]] - エーリッヒの妻。人民教育相を務め、エーリッヒの後継者候補と目されていた。 |
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* [[ロタール・デメジエール]] - キリスト教民主同盟党首。1990年の自由選挙から再統一による国家消滅まで、最後の東ドイツ首相。再統一後は自党を西側の党へ吸収合併させ、コール政権へ入閣したが、1991年、シュタージの協力者だった経歴が発覚して失脚。 |
* [[ロタール・デメジエール]] - キリスト教民主同盟党首。1990年の自由選挙から再統一による国家消滅まで、最後の東ドイツ首相。再統一後は自党を西側の党へ吸収合併させ、コール政権へ入閣したが、1991年、シュタージの協力者だった経歴が発覚して失脚。 |
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「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」「東ドイツは約26万人([[東欧革命]]より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う[[思いやり予算]]の重圧で自然崩壊した」などの言説は、現在では[[西側諸国|西側]][[報道機関|マスコミ]]による[[プロパガンダ]]だったというのが通説となっている。 |
「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」「東ドイツは約26万人([[東欧革命]]より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う[[思いやり予算]]の重圧で自然崩壊した」などの言説は、現在では[[西側諸国|西側]][[報道機関|マスコミ]]による[[プロパガンダ]]だったというのが通説となっている。 |
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[[国家人民軍]]のほかの軍事組織としては[[ドイツ民主共和国国境警備隊|国境警備隊]]と、民兵組織である労働者戦闘団 |
[[国家人民軍]]のほかの軍事組織としては[[ドイツ民主共和国国境警備隊|国境警備隊]](国防省所属だが国家人民軍とは別に置かれた)と、[[民兵]]組織である[[労働者階級戦闘団]]が存在した。また、国家保安省や[[ドイツ人民警察]]は[[準軍事組織]]としての側面を持っていた(国家保安省は[[フェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊]]という部隊を保有していた)ほか、[[民間防衛]]組織として[[民間防衛隊 (東ドイツ)|民間防衛隊]]があった。 |
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[[1973年]]、西ドイツと同時に[[国際連合]]に加盟。なお、ドイツ民主共和国は[[ナチス・ドイツ]]と戦ってきた反ファシズムによって樹立された政権であり、ベルリンの壁の崩壊まで第二次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争や[[ホロコースト]]に対する責任を負う立場にないとしていた。 |
[[1973年]]、西ドイツと同時に[[国際連合]]に加盟。なお、ドイツ民主共和国は[[ナチス・ドイツ]]と戦ってきた反ファシズムによって樹立された政権であり、ベルリンの壁の崩壊まで第二次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争や[[ホロコースト]]に対する責任を負う立場にないとしていた。 |
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====西ドイツとの関係==== |
====西ドイツとの関係==== |
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東ドイツ政府は建国当初は全ドイツを統一するという目標を持っており、東西が分断されたのは西の責任であると主張していた(西ドイツ側もドイツの唯一の正統政府を自認し、[[ハルシュタイン原則]]に基づき、東ドイツと国交を結ぶ国とは国交を結ばない方針を取っていた)。そのために、国有鉄道の名称もあえて戦前の[[ドイツ国有鉄道]]の名称を継承し、西に対抗する形で「ルフトハンザ航空」を設立したりしていた<ref>先に戦前の名称を継承して設立された西側の[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ]]と対抗したものの結局敗れ、新たに設立された[[インターフルーク]]が国営航空会社としての役割を継承した。</ref>。また、東西お互いに相手を非難する[[プロパガンダ]]放送(東側では「黒いチャンネル」、西側では「赤いレンズ」)を流し合っていた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P98</ref>。 |
東ドイツ政府は建国当初は全ドイツを統一するという目標を持っており、東西が分断されたのは西の責任であると主張していた(西ドイツ側もドイツの唯一の正統政府を自認し、[[ハルシュタイン原則]]に基づき、東ドイツと国交を結ぶ国とは国交を結ばない方針を取っていた)。そのために、[[ドイツ国営鉄道 (東ドイツ)|国有鉄道]]の名称もあえて戦前の[[ドイツ国有鉄道]]の名称を継承し、西に対抗する形で「[[ルフトハンザドイツ航空 (ドイツ民主共和国)|ルフトハンザドイツ航空]]」を設立したりしていた<ref>先に戦前の名称を継承して設立された西側の[[ルフトハンザドイツ航空|ルフトハンザ]]と対抗したものの結局敗れ、新たに設立された[[インターフルーク]]が国営航空会社としての役割を継承した。</ref>。また、東西お互いに相手を非難する[[プロパガンダ]]放送(東側では「黒いチャンネル」、西側では「赤いレンズ」)を流し合っていた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P98</ref>。 |
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しかし、1972年の東西ドイツ基本条約の締結による相互承認、翌年の東西ドイツの国連加盟によって東ドイツが国際的に承認されると一転して「ドイツ民主共和国は社会主義的民族の国であって、資本主義的民族の国家である西とは別である」という主張で二国並立状態を正当化するようになった<ref>仲井斌『もうひとつのドイツ』(朝日新聞社、1983年)P155、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』([[岩波書店]] ヨーロッパ史入門 2009年)P103-P104、永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』([[NHK出版|日本放送出版協会]] 1990年)P80-81</ref>。 |
しかし、1972年の東西ドイツ基本条約の締結による相互承認、翌年の東西ドイツの国連加盟によって東ドイツが国際的に承認されると一転して「ドイツ民主共和国は社会主義的民族の国であって、資本主義的民族の国家である西とは別である」という主張で二国並立状態を正当化するようになった<ref>仲井斌『もうひとつのドイツ』(朝日新聞社、1983年)P155、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』([[岩波書店]] ヨーロッパ史入門 2009年)P103-P104、永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』([[NHK出版|日本放送出版協会]] 1990年)P80-81</ref>。 |
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==== 日・東独関係 ==== |
==== 日・東独関係 ==== |
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日本と東ドイツは[[1973年]]に正式な国交を結んだ[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPEU/19730515.O1J.html]。東ドイツ駐日[[大使館]]は東京都港区赤坂7丁目にあった。 |
日本と東ドイツは[[1973年]]に正式な国交を結んだ[http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPEU/19730515.O1J.html]。東ドイツ駐日[[大使館]]は東京都港区赤坂7丁目にあった。 |
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=== 女性・家族政策 === |
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東ドイツにおける女性と家族政策に関する法律は、[[1950年]]に決議された「{{仮リンク|母子保護および女性の権利に関する法律|de|Gesetz über den Mutter- und Kinderschutz und die Rechte der Frau}}」である。[[仕事]]と[[家族]]の両立は、東ドイツの女性にとっては、あたりまえのことと考えられており、重点的に助成されていた。[[1989年]]までに約92%の女性が職業に就いており、[[西ドイツ]]の女性よりも[[就職率]]は明らかに高かった。女性の就業は、男女同権という社会主義の考えを反映してものであったが、他方では、東ドイツの労働需要を補うためのものであった。不釣合いなほどに多くの男性の専門労働者が、早い段階で東ドイツを見限って逃亡していたのである<ref>Mary Fulbrook, ''Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR.'' Darmstadt 2008, S. 167 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).</ref>。もっとも、管理職の地位についている女性は、明らかに男性よりも低かった。 |
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女性の職業参加を促進するために、例えば託児所・保育園の大規模な拡充が行われたり、家族をもつ学生に対する特別な教育や就学プランが作られたりした。{{仮リンク|家族政策|de|Familienpolitik}}という枠組みで、国家は、まず第一に子供のいる[[夫婦]]に対して、特殊なローンや優先的な住居の割り当てなどを行うことで、促進した。中絶問題に関しては、女性には[[1972年]]に導入された中絶法によって、最初の12週間以内での中絶が許可されるようになった。しかしそれにも関わらず、[[1973年]]から[[1980年]]のあいだに出生数は、3分の1ほど増加した<ref>[[1973年]]は180,336人だったが、[[1980年]]には245,132人となった。参照:Mary Fulbrook: ''Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR.'' Darmstadt 2008, S. 173 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).</ref>。 |
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就業による男女同権化は、日常では多くの場合、仕事と家事・家族という二つの重荷を背負わされることになった。従来通りの男性の仕事が、たんに伝統的な女性の役割に追加されただけだからである。[[1970年]]に行われた世論調査によると、平均的な週の家事時間である47時間のうち、女性が引き受けたのはそのうち37時間であり、男性は6時間、「その他」が4時間であった<ref>Mary Fulbrook: ''Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR.'' Darmstadt 2008, S. 161, 178 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).</ref>。 |
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=== 環境政策 === |
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戦後の再工業化は、東西ドイツとも極めて強い環境破壊を引き起こした。その頂点を極めたのは、初めて環境政策が経済政策にとって重要であると考えられるようになった1970年代であったが、東ドイツでは環境政策は取られなかった。投資の柔軟性は欠如しており、すでに商品の生産も不充分であったため、迅速に環境保護を始めることは不可能であった。さらに東ドイツ指導部は、環境のために何かしたいと思っている積極的な市民たちを無視した。それでも1980年代には、自転車クラブなどの環境保護運動が増大した。[[2009年]]の新しい研究では、東ドイツの環境保護の状況は「破滅的」であったとされている<ref name="schroeder_initiativeNSM_22-27">Klaus Schroeder: ''20 Jahre nach dem Mauerfall – eine Wohlstandsbilanz''. In: [http://www.insm.de/dms/insm/textdokumente/pdf/Einheitsbilanz-Deutschland/090821_gutachten_schroeder_finale.pdf ''Gutachten für die Initiative Neue Soziale Marktwirtschaft'']. (PDF), S. 22–27.</ref>。石炭資源が不足していたため、たくさんの[[二酸化硫黄]]を排出する[[褐炭]]を利用したことで、ヨーロッパで最も高い粉塵汚染が生じた。[[大気汚染]]によって、男性の[[気管支炎]]、[[肺気腫]]、[[気管支喘息]]の死亡率は、ヨーロッパ平均よりも2倍以上であった。およそ120万人の人びとが、生活に欠かせない[[飲料水]]にありつけなかった。[[1989年]]の時点で、汚染されていない湖は1%、河川は3%であった。その時まで、[[下水処理場]]に排水できたのは、全国民のうち58%だけであった。森林の52%が「損害」を受けていると見なされた。ゴミの40%以上が、適切な方法では処理されなかった。{{仮リンク|危険ごみ|de|gefährliche Abfälle}}に必要な高温焼却施設は存在していなかった。環境に関する情報は、階級の敵が東ドイツの信用を落とすために利用するであろうという理由で、[[1970年]]から「機密情報」となり、1980年代には「極秘情報」となり、一般には公開されなかった。環境政策への批判は、容赦なく弾圧された<ref name="schroeder_initiativeNSM_22-27" />。 |
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西側諸国、とくに[[西ドイツ]]からのごみの輸入は、東ドイツにとって利益をもたらすものであり、西側の客(企業、地方自治体、国家)にとっても経費節減となった。東ドイツのダンピング価格は、[[西ドイツ]]で普通に運営されているゴミ処理場でかかる費用よりも10分1も安かった。ごみ処理代行ビジネスで獲得した外貨獲得には、{{仮リンク|貿易調整部_(ドイツ民主共和国)|label=貿易調整部|de|Kommerzielle Koordinierung}}と[[シュタージ]]が関与しており、その金額の一部は、[[エーリッヒ・ホーネッカー|ホーネッカー]]と[[エーリッヒ・ミールケ|ミールケ]]の口座にも振り込まれていたし、党幹部の居住区であるヴァンドリッツにも使われたといわれている。1980年代終わりごろにシュタージは、西ドイツだけでなく東ドイツの住民のあいだでも環境意識が高まっており、東ドイツのごみ輸入に対する批判的な態度もあったと記録している。それに対して、東ドイツで西ドイツのごみを処理する際、西ドイツの環境基準は履行されていなかった。ある種の「歴史の皮肉」と見られているのは、これらの(環境負荷をかけた)ごみ焼却場は、[[1990年]]には[[ドイツ連邦]]の責任となったということだ{{#tag:ref|[[Peter Krewer]]: ''Geschäfte mit dem Klassenfeind. Die DDR im innerdeutschen Handel 1949–1989.'' Trier 2008, S. 216 ff., 299.}}。 |
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東ドイツで生産された[[トラバント]]や[[ヴァルトブルク_(自動車)|ヴァルトブルク]]のような[[乗用車]]は、時代に合わない[[2ストローク機関]]で動き、青い排気ガスを出したが、それらは環境汚染を感じさせることになった。2ストローク機関の排気ガスは、高い[[炭化水素]]を含んでいたため、はっきりと見ることも嗅ぐこともできるものであった。[[酸性雨]]や[[スモッグ]]の原因となる[[窒素酸化物]]は、[[トラバント]]は同時代の[[4ストローク機関]]に比べて、10分の1しか排出しなかった<ref>''Kraftfahrzeugtechnik'', Heft 2/1990, S. 46–47.</ref>。 |
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=== 地方制度 === |
=== 地方制度 === |
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==== 東ベルリン以外 ==== |
==== 東ベルリン以外 ==== |
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当初は5つの[[州]] ({{lang|de|Land}}) が置かれた[[連邦|連邦制]]で、旧西ドイツの[[連邦参議院]]にあたる参議院 (Landeskammer) も存在したが、[[1952年]]以降は14の[[県]] ({{interlang|de|Bezirk}}) に再編されて参議院は廃止され、[[中央集権]]化が進められた。 |
当初は5つの[[州]] ({{lang|de|Land}}) が置かれた[[連邦|連邦制]]で、旧西ドイツの[[連邦参議院]]にあたる参議院<ref>『ドイツ憲法集【第6版】』翻訳:高田敏、初宿正典(2010年 信山社)P13の表記に拠った。原語を直訳すると「諸州院」</ref>(Landeskammer) も存在したが、[[1952年]]以降は14の[[県]] ({{interlang|de|Bezirk}}) に再編されて参議院は廃止され、[[中央集権]]化が進められた。 |
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* [[ドレスデン県]]({{lang|de|Bezirk Dresden}}, 県都は[[ドレスデン]]) |
* [[ドレスデン県]]({{lang|de|Bezirk Dresden}}, 県都は[[ドレスデン]]) |
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== 経済 == |
== 経済 == |
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{{See also|[[ドイツ民主共和国の経済]]}} |
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上述のように、東ドイツは東側の社会主義国の中では最も高い経済成長を達成していた。東ドイツは[[ルール工業地帯]]を擁する西ドイツに比べると経済基盤は弱く、しかもソ連が賠償と称して、多くの工場の機材や施設を持ち去ってしまった状態からのスタートを余儀なくされながらも1960-70年代には3%程度の平均成長率を保ち、世界でも15位以内に入る工業国となり、一人あたりの国民所得では社会主義国で第一位となった。食料自給率も高く、1980年代には一人あたりの肉の消費量も東側陣営では最も多くなっていた<ref>ただし、[[ビール]]や[[コーヒー]]などの嗜好品の品質は低く、コーヒーは1970年代には[[チコリ]]の根などの代用コーヒーが半分混ざった状態のものであったし、ドイツの名産品であるはずのビールでも原料が確保できずに[[ビール純粋令]]を遵守出来ないような物しか作れなかったり、同じ銘柄でも輸出用だけ味の良いものが製造されて国内用は味が落ちる、という状態であった(伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P24-30)。</ref>。1980年代までには冷蔵庫やテレビといった家電製品も普及していた<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P73-79、伸井斌『もうひとつのドイツ』P157-159</ref>。 |
上述のように、東ドイツは東側の社会主義国の中では最も高い経済成長を達成していた。東ドイツは[[ルール工業地帯]]を擁する西ドイツに比べると経済基盤は弱く、しかもソ連が賠償と称して、多くの工場の機材や施設を持ち去ってしまった状態からのスタートを余儀なくされながらも1960-70年代には3%程度の平均成長率を保ち、世界でも15位以内に入る工業国となり、一人あたりの国民所得では社会主義国で第一位となった。食料自給率も高く、1980年代には一人あたりの肉の消費量も東側陣営では最も多くなっていた<ref>ただし、[[ビール]]や[[コーヒー]]などの嗜好品の品質は低く、コーヒーは1970年代には[[チコリ]]の根などの代用コーヒーが半分混ざった状態のものであったし、ドイツの名産品であるはずのビールでも原料が確保できずに[[ビール純粋令]]を遵守出来ないような物しか作れなかったり、同じ銘柄でも輸出用だけ味の良いものが製造されて国内用は味が落ちる、という状態であった(伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P24-30)。</ref>。1980年代までには冷蔵庫やテレビといった家電製品も普及していた<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P73-79、伸井斌『もうひとつのドイツ』P157-159</ref>。 |
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** [[トラバント]](東ドイツの[[大衆車]]) |
** [[トラバント]](東ドイツの[[大衆車]]) |
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* [[アイゼナハー・モトーレンヴェルク|アウトモビールヴェルク・アイゼナハ]] |
* [[アイゼナハー・モトーレンヴェルク|アウトモビールヴェルク・アイゼナハ]] |
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** ソ連が[[BMW]]アイゼナハ工場を接収、ソ連企業 |
** ソ連が[[BMW]]アイゼナハ工場を接収、[[在独ソ連軍政府]](SMAD)が管轄するソビエト企業 (Sowjetische AG)の1つ、Awtowelo機械工業 (Maschinenbau Awtowelo) のアイゼナハBMW工場 (Werk BMW Eisenach) に改組。その後、アイゼナハー・モトーレンヴェルク (Eisenacher Motorenwerk: EMW) として東ドイツ企業化、最終的にアウトモビールヴェルク・アイゼナハ (VEB Automobilwerk Eisenach: AWE) に改称。 |
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** 東西ドイツ統合後、多くの東西分裂企業は分裂前の企業同士で再統合(或いは吸収)されたが、同社はBMWではなく[[オペル]]([[ゼネラルモーターズ|GM]]傘下)に吸収される道を選んでいる。 |
** 東西ドイツ統合後、多くの東西分裂企業は分裂前の企業同士で再統合(或いは吸収)されたが、同社はBMWではなく[[オペル]]([[ゼネラルモーターズ|GM]]傘下)に吸収される道を選んでいる。 |
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** [[ヴァルトブルク (自動車)|ヴァルトブルク]] |
** [[ヴァルトブルク (自動車)|ヴァルトブルク]] |
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* [[MZモトラッド]] ([[オートバイ]]) |
* [[MZモトラッド]] ([[オートバイ]]) |
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** [[DKW]]の東ドイツ地域内企業インフラ・企業法人を継承。 |
** [[DKW]]の東ドイツ地域内企業インフラ・企業法人を継承。 |
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* [[PIKO]](東ドイツの国営玩具企業) |
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** 総合玩具製造企業。東側を中心に製造されていた鉄道模型は西側での販売に耐えうる製品であったので、西ドイツの契約企業を経由して西側にも輸出されていた。現在は民営化のうえ、操業。国営企業時代の製品はコレクターズアイテム。 |
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== 宗教 == |
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東ドイツには、様々な信仰団体があった。最も大きかったのは、[[キリスト教]]である。[[1969年]]から政治的な理由で[[プロテスタント]]の8つの{{仮リンク|地方教会_(ドイツ)|label=地方教会|de|Landeskirche}}が東西ドイツの統一組織であった[[ドイツ福音主義教会]]を離れ<ref>[[ベルリンの壁]]が建設される1961年までは、東西ドイツ間の移住は比較的容易であった。(フランク・リースナー著 菅野智明監修 生田幸子訳『私は東ドイツに生まれた』2012年 東洋書店 P171)ため、東西間で聖職者の移動も行われており、例えば福音主義教会の牧師だった[[アンゲラ・メルケル]]の父親も1954年に[[ハンブルク]]から妻子とともに東ドイツへ赴任・移住している。</ref>、{{仮リンク|東ドイツ福音教会連盟|de|Bund der Evangelischen Kirchen in der DDR}}に統合された。これらの[[プロテスタント]]教会の他には、[[カトリック教会]]があり、他にも{{仮リンク|東ドイツ福音主義自由教会連盟|de|Bund Evangelisch-Freikirchlicher Gemeinden in der DDR}}、{{仮リンク|ドイツ自由福音主義教会連盟|de|Bund Freier evangelischer Gemeinden in Deutschland}}、{{仮リンク|メソジスト福音主義教会|de|Evangelisch-methodistische Kirche}}、[[モラヴィア兄弟団]]、[[セブンスデー・アドベンチスト教会]]、[[メノナイト]]、[[クエーカー]]などの[[自由教会]]も存在していた。{{仮リンク|ルター派自由教会|de|Evangelisch-Lutherische_Freikirche}}、{{仮リンク|ルター派(旧ルーテル)教会|de|Evangelisch-lutherische (altlutherische) Kirche}}、東ドイツ福音改革派教会などもあった<ref>[http://www.kas.de/wf/de/71.6606/ Konrad-Adenauer-Stiftung: ''Freikirchen in der ehemaligen DDR'']</ref>。 |
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[[信仰の自由]]は東ドイツでは[[ドイツ民主共和国憲法|憲法]]で公的に保証されていた。しかし東ドイツは、教会の影響力を抑え、特に若者を教会から遠ざけようとしていた<ref>教会の青年組織の存在は社会主義統一党の青年組織[[自由ドイツ青年団]]にとっては目の上のコブであったため、教会組織を弱めようとしていた(仲井斌『もうひとつのドイツ』P111)</ref>。[[1953年]]に{{仮リンク|教会青年団|de|Junge_Gemeinde_(evangelisch)}}の活動が犯罪となり、学校や大学で退学者や逮捕者を出した。この措置は[[1953年]]6月には撤回されたものの、信仰を公言したキリスト教徒は、大学進学や、国家のキャリアコースを歩む可能性が限定されることになった{{#tag:ref|Klaus Schroeder: ''Der SED-Staat. Geschichte und Strukturen der DDR.'' München 1998, S. 474.}}。 |
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このため国民の大部分は、信仰を持たなかった。[[1949年]]の時点では全国民の92%が何らかのキリスト教会に属していたのに対し、[[1988年]]になると、全国民の約40%(約660万人)となった<ref>Gerhard Krause, Gerhard Müller (Hrsg.): ''Theologische Realenzyklopädie.'' (TRE). DeGruyter, Berlin 1993, S. 601.</ref><ref name="Heise">Joachim Heise: ''Kirchenpolitik von SED und Staat''. In: Günther Heydemann, Lothar Kettenacker (Hrsg.): ''Kirchen in der Diktatur: Drittes Reich und SED-Staat.'' Vandenhoeck und Ruprecht, Göttingen 1993, ISBN 3-525-01351-5, S. 136.</ref>。 |
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それ以外にも、[[ユダヤ教]]の教会があり、1980年代以降には、散発的ではあるが[[仏教]]や[[ヒンドゥー教]]、[[イスラム教]]の信仰団体も存在していた。 |
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信仰を持つ人の数は著しく減少したものの、東ドイツの政治は、キリスト教会の独自性を完全に妨げることはできなかった<ref>[http://www.kas.de/wf/de/71.6657/ Konrad-Adenauer-Stiftung: ''Mythos: „Die Kirchen waren in das System der SED-Diktatur integriert“'']</ref>。多くの人びとは教会を半ばオープンな集会所であると思っており、全く信仰とは関係なく教会のスペースを利用する人もいた。彼らは{{仮リンク|東ドイツの転換と平和革命|de|Wende und friedliche Revolution in der DDR}}の担い手になった。 |
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== 文化 == |
== 文化 == |
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音楽・演劇・スポーツなどでは、「西ドイツを大きくリードする目覚しい成果が挙げられた」とされている。しかし、東ドイツ出身の[[作曲家]]イェルク・ヘルヘットは、「何年に[[十二音技法]]が解禁、何年には[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]が解禁などという謎のルールに縛られた奇妙な文化政策」であったことを告白している。また、[[ヴォルフ・ビアマン]]のように反体制的な人物は西ドイツへ国外追放された(他の東側諸国と違って西ドイツと言う同言語の国があり、西ドイツは東ドイツ国民には自動的に西ドイツ国籍を付与していたため、反体制派は追放してしまえばいいという政策がとれた<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P100-101</ref>)。 |
音楽・演劇・スポーツなどでは、「西ドイツを大きくリードする目覚しい成果が挙げられた」とされている。しかし、東ドイツ出身の[[作曲家]]イェルク・ヘルヘットは、「何年に[[十二音技法]]が解禁、何年には[[カールハインツ・シュトックハウゼン|シュトックハウゼン]]が解禁などという謎のルールに縛られた奇妙な文化政策」であったことを告白している。また、[[ヴォルフ・ビアマン]]のように反体制的な人物は西ドイツへ国外追放された(他の東側諸国と違って西ドイツと言う同言語の国があり、西ドイツは東ドイツ国民には自動的に西ドイツ国籍を付与していたため、反体制派は追放してしまえばいいという政策がとれた<ref>メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P100-101</ref>)。 |
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東西両ドイツともかつての伝統的文化を受け継いでいたが、西ドイツでは西欧やアメリカの影響を強く受け、国際的な文化が育まれた。対照的に東ドイツでは伝統的文化に対して保守的で、ソ連型の社会主義的思想が刷り込まれていった。しかし東ドイツの多くの地域で西ドイツのテレビやラジオの放送が受信ができたこともあり、東ドイツの若者の多くは西側特にアメリカにあこがれを抱いていた。 |
東西両ドイツともかつての伝統的文化を受け継いでいたが、西ドイツでは西欧やアメリカの影響を強く受け、国際的な文化が育まれた。対照的に東ドイツでは伝統的文化に対して保守的で、ソ連型の社会主義的思想が刷り込まれていった。しかし東ドイツの多くの地域で西ドイツのテレビやラジオの放送が受信ができたこともあり、東ドイツの若者の多くは西側特にアメリカにあこがれを抱いていた。 |
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東西再統一後、旧西ドイツ国民にとっては生活環境にほとんど変化はなかったが、旧東ドイツ国民にとってはそれまでの日常のスタイル・文化が一掃されて様変わりした。そのため、再統一後は[[オスタルギー]]という東ドイツの文化を懐かしむ風潮も生まれた。 |
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東西再統一後、旧西ドイツ国民にとっては生活環境にほとんど変化はなかったが、旧東ドイツ国民にとってはそれまでの日常のスタイル・文化が一掃されて様変わりした。そのため、再統一後は[[オスタルギー]]という東ドイツの文化を懐かしむ風潮も生まれた。 |
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=== 文学 === |
=== 文学 === |
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ナチス |
ナチス党政権に抵抗した[[文学者]]たちの中で、[[アンナ・ゼーガース]]、[[アルノルト・ツヴァイク]]や[[ベルトルト・ブレヒト]]は東ドイツで活動を続けた。また、[[クリスタ・ヴォルフ]]は「引き裂かれた空」で、ベルリンの壁のできる前後の時代の東ドイツの生活を描いた。 |
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=== 音楽 === |
=== 音楽 === |
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音楽では[[シュターツカペレ・ドレスデン|ドレスデン国立歌劇場管弦楽団]]、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]、[[ベルリン国立歌劇場]]などの伝統あるオーケストラや[[オペラハウス]]が活動し、[[クルト・ザンデルリング]]、[[オトマール・スウィトナー]]、[[ヘルベルト・ケーゲル]]、[[クルト・マズア]]、[[ペーター・シュライアー]]といった[[指揮者]]や演奏家が活躍していた。国際化されない、比較的伝統的なドイツ風のサウンドが保存され、オーストリア人のスウィトナーのほか、同じく[[カール・ベーム]]、西ドイツ人の[[ルドルフ・ケンペ]]らもしばしば指揮台に立った。なお、[[クラウス・テンシュテット]]は東ドイツでの活動に疑問を感じ、[[1971年]]に[[西側諸国|西側]]に[[亡命]]している。 |
音楽では[[シュターツカペレ・ドレスデン|ドレスデン国立歌劇場管弦楽団]]、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]、[[ベルリン国立歌劇場]]などの伝統あるオーケストラや[[オペラハウス]]が活動し、[[クルト・ザンデルリング]]、[[オトマール・スウィトナー]]、[[ヘルベルト・ケーゲル]]、[[クルト・マズア]]、[[ペーター・シュライアー]]といった[[指揮者]]や演奏家が活躍していた。国際化されない、比較的伝統的なドイツ風のサウンドが保存され、オーストリア人のスウィトナーのほか、同じく[[カール・ベーム]]、西ドイツ人の[[ルドルフ・ケンペ]]らもしばしば指揮台に立った。なお、[[クラウス・テンシュテット]]は東ドイツでの活動に疑問を感じ、[[1971年]]に[[西側諸国|西側]]に[[亡命]]している。 |
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作曲家では、ナチス |
作曲家では、ナチス党政権時代にアメリカに亡命していた[[ハンス・アイスラー]]や[[パウル・デッサウ]]が戦後に帰国し、楽壇の中心的存在として活動した。 |
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音楽のジャンルでは[[ロック]]は他の東欧各国と同様に'''「西側諸国の退廃の象徴」'''として原則禁止の政策が取られていた。しかしながら、ダンス音楽としての名目で軽音楽は認可されており、Karat、[[:de:Stern-Combo_Meißen|Stern Combo Meißen]]、[[:de:Electra_(Band)|Electra]] などのロック・バンドが活動し、国営レーベル Amiga からレコードも出版されていた。[[ハンガリー]]の Omega などのロック・バンドも東ドイツでコンサートを開催し、東ドイツでもその名は知られていた。 |
音楽のジャンルでは[[ロック (音楽)|ロック]]は他の東欧各国と同様に'''「西側諸国の退廃の象徴」'''として原則禁止の政策が取られていた。しかしながら、ダンス音楽としての名目で軽音楽は認可されており、Karat、[[:de:Stern-Combo_Meißen|Stern Combo Meißen]]、[[:de:Electra_(Band)|Electra]] などのロック・バンドが活動し、国営レーベル Amiga からレコードも出版されていた。[[ハンガリー]]の Omega などのロック・バンドも東ドイツでコンサートを開催し、東ドイツでもその名は知られていた。 |
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=== 映画 === |
=== 映画 === |
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===マスコミ=== |
===マスコミ=== |
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{{See also|ドイツ民主共和国における検閲}} |
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[[File:West german tv penetration.svg|thumb|250px|東ドイツにおける[[ドイツ公共放送連盟|第一ドイツテレビ(ARD)]]の視聴可能地域(灰色)、黒い部分が受信不能地域で「無知者の谷({{lang|de|Tal der Ahnungslosen}})」と呼ばれた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P97</ref>。赤い四角は西ドイツ側の電波送信所]] |
[[File:West german tv penetration.svg|thumb|250px|東ドイツにおける[[ドイツ公共放送連盟|第一ドイツテレビ(ARD)]]の視聴可能地域(灰色)、黒い部分が受信不能地域で「無知者の谷({{lang|de|Tal der Ahnungslosen}})」と呼ばれた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P97</ref>。赤い四角は西ドイツ側の電波送信所]] |
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新聞は最有力紙である社会主義統一党[[機関紙]]『ノイエス・ドイチュラント(新しいドイツ)』をはじめ、いくつかの日刊紙が存在した。また、『ジビレ』などの女性ファッション誌なども発行されていた。『ジビレ』はハンガリーなどでも読まれる、社会主義諸国の最先端ファッション雑誌であった<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P50-51</ref>。 |
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東ドイツでも日常的にマスメディアが浸透していた。1980年代半ばには、たいていの家庭がラジオ(99%)とテレビ(93%)を持っており、郵便ポストには毎日1つか2つの新聞が入っていた{{#tag:ref|[http://www.bpb.de/izpb/7560/blick-ueber-die-mauer-medien-in-der-ddr Blick über die Mauer: Medien in der DDR, In: [[:de:Bundeszentrale für politische Bildung|Bundeszentrale für politische Bildung]], 2011年6月8日, 参照:2013年2月17日]]}}。新聞は情報手段ではあったものの、[[ドイツ社会主義統一党|SED]]や[[大衆組織]]の管理下にあり、[[プロパガンダ]]装置でもあった。検閲は、公式上は([[1949年]]の憲法で)禁止されていることになっていたが、実際には、直接的な検閲があり、また著者に「自己検閲」をさせるような微妙な検閲も行われた{{#tag:ref|[http://www.kas.de/wf/de/71.6619/ In der DDR gab es keine freien und unabhängigen Medien, es herrschten staatliche Kontrolle und Genehmigungspflicht], In: [[:de:Konrad-Adenauer-Stiftung|Konrad-Adenauer-Stiftung]], 参照:2013年2月17日}}。 |
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放送局としては東ドイツ国営放送({{lang|de|Fernsehen der DDR}})が2つのチャンネルを使って[[テレビ放送]]を行っていた。ラジオ放送はラジオDDR({{lang|de|Rundfunk der DDR}}: [[DDRラジオ放送局]])、DDRの声、ベルリン放送、[[ラジオ・ベルリン・インターナショナル]]の4つの放送局があった<ref> [[サイマル出版会]]編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)P268</ref>。 |
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新聞としては最有力紙である社会主義統一党[[機関紙]]『ノイエス・ドイチュラント(新しいドイツ)』をはじめ、いくつかの日刊紙が存在した。また、『[[ズィビレ (雑誌)|ジビレ]]』などの女性ファッション誌なども発行されていた。『ジビレ』はハンガリーなどでも読まれる、社会主義諸国の最先端ファッション雑誌であった<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P50-51</ref>。 |
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放送局としては[[ドイツテレビジョン放送|東ドイツ国営放送]]({{lang|de|Fernsehen der DDR}})が2つのチャンネルを使って[[テレビ放送]]を行っていた。ラジオ放送はラジオDDR({{lang|de|Rundfunk der DDR}}: [[DDRラジオ放送局]])、DDRの声、ベルリン放送、[[ラジオ・ベルリン・インターナショナル]]の4つの放送局があった<ref> [[サイマル出版会]]編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)P268</ref>。 |
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大半の地域では西ドイツのテレビ放送が[[スピルオーバー]]していたため、多くの東ドイツ国民は当局の監視から隠れて(見つかった場合は罰則が科された)西側の放送を見ていた。ライプツィヒの中央青少年研究所によれば、1976年から88年までの間に毎日西ドイツのテレビだけを見る若者の数は14パーセントから56パーセントにまで増加している。ザクセン地方など一部では西ドイツの電波が届かなかったが、ドレスデン市民の中には西ドイツのテレビを見るために様々な団体の協力を受けて衛星放送の受信装置を設置した者までいた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P96-97</ref>。 |
大半の地域では西ドイツのテレビ放送が[[スピルオーバー]]していたため、多くの東ドイツ国民は当局の監視から隠れて(見つかった場合は罰則が科された)西側の放送を見ていた。ライプツィヒの中央青少年研究所によれば、1976年から88年までの間に毎日西ドイツのテレビだけを見る若者の数は14パーセントから56パーセントにまで増加している。ザクセン地方など一部では西ドイツの電波が届かなかったが、ドレスデン市民の中には西ドイツのテレビを見るために様々な団体の協力を受けて衛星放送の受信装置を設置した者までいた<ref>伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P96-97</ref>。 |
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* 小説『[[元首の謀叛]]』(作: [[中村正軌]] [[文藝春秋]]) |
* 小説『[[元首の謀叛]]』(作: [[中村正軌]] [[文藝春秋]]) |
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* 小説・映画『[[007 オクトパシー]]』 |
* 小説・映画『[[007 オクトパシー]]』 |
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* 映画『NVA』 (2005年ドイツ): 1980年代後半に[[国家人民軍|東ドイツ陸軍 (NVA)]]へ入隊した若者たちの目を通して、軍隊生活と東ドイツ崩壊を描く。 |
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* 演劇『[[国境のない地図]]』(1995年 [[宝塚歌劇団]][[星組 (宝塚歌劇)|星組]]) [[ベルリンの壁]]に翻弄された母子の別れと再会を描く。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* 伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』[[社会評論社]]、2009年 |
* 伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』[[社会評論社]]、2009年 |
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* メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』[[岩波書店]] ヨーロッパ史入門 2009年 |
* メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』[[岩波書店]] ヨーロッパ史入門 2009年 |
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* 永井清彦 |
* 永井清彦・[[南塚信吾]]・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』[[NHK出版|日本放送出版協会]] 1990年 |
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* [[サイマル出版会]]編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会) |
* [[サイマル出版会]]編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会) |
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==脚注== |
==脚注== |
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<references /> |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[トロイハントアンシュタルト]] ([[:de:Treuhandanstalt|Treuhandanstalt]]) - 旧東ドイツ国営企業整理のため、東西統一後のドイツ政府により設立された[[信託公社]]。独自の調査で「旧西ドイツの2倍の労働者数で2分の1の労働成果しか果たしていない(つまり生産効率が旧西ドイツの25%にしか達していない)」と断言し、多数の旧東ドイツ国営企業を解体・改組、失業を生んだ。現在も旧東ドイツ地域の失業率は、西側先進国の4~5倍近い20%前半台である。3代目長官であった[[デトレフ・ローヴェダー]] ([[:de:Detlev Karsten Rohwedder|Detlev Karsten Rohwedder]]) は旧東ドイツ側失業者の恨みを一身に背負い、東西ドイツ統一のわずか半年後である1991年4月に暗殺された。 |
* [[トロイハントアンシュタルト]] ([[:de:Treuhandanstalt|Treuhandanstalt]]) - 旧東ドイツ国営企業整理のため、東西統一後のドイツ政府により設立された[[信託公社]]。独自の調査で「旧西ドイツの2倍の労働者数で2分の1の労働成果しか果たしていない(つまり生産効率が旧西ドイツの25%にしか達していない)」と断言し、多数の旧東ドイツ国営企業を解体・改組、失業を生んだ。現在も旧東ドイツ地域の失業率は、西側先進国の4~5倍近い20%前半台である。3代目長官であった[[デトレフ・ローヴェダー]] ([[:de:Detlev Karsten Rohwedder|Detlev Karsten Rohwedder]]) は旧東ドイツ側失業者の恨みを一身に背負い、東西ドイツ統一のわずか半年後である1991年4月に暗殺された。 |
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2013年2月23日 (土) 01:43時点における版
- ドイツ民主共和国
- Deutsche Demokratische Republik
-
← 1949年 - 1990年 → (国旗) (国章) - 国歌: 廃墟からの復活
-
公用語 ドイツ語 首都 東ベルリン[1] 通貨 東ドイツマルク 時間帯 UTC +1(DST: +2) ccTLD .dd 国際電話番号 37
ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、独: Deutsche Demokratische Republik; DDR、英: German Democratic Republic; GDR)、通称東ドイツ(ひがしドイツ、独: Ostdeutschland)は、第二次世界大戦後の1949年に、ドイツのソビエト連邦占領地域に建国された国家。ドイツ西部から南部にかけてのアメリカ・イギリス・フランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅した。
概要
ドイツ民主共和国は社会主義国[1]であった。政治体制はソ連型社会主義で典型的な一党制ではなく反ファシズムを最大公約数とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) が寡頭政治政党として指導権を有していた[2]。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。多数のソビエト連邦軍が駐屯する冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソビエト連邦の衛星国であった。
また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった[3]。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員 (IM) を配置し、相互監視の網を張り巡らせた。
経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、中・東ヨーロッパの社会主義諸国でも最も発展し、一般家庭への電化製品の普及も円滑に進み、テレビでは多数のCMも流され、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の香港人一般庶民程度)を実現したと言われる。そういった事もあって「社会主義の優等生」「東欧の日本」とも呼ばれていた。また女性の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。
1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。1987年には死刑を廃止した。
1970年代以降は公共投資が進み、日本の企業も積極的に進出し、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツには大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく、重化学工業生産が優先されていた。例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった。もっとも、この間に即金で買うだけの貯金ができるということで、不満ばかりではなかったといわれる。
一方、経済成長に偏向し過ぎたため、深刻な環境問題などを引き起こすことになった。
なお、一定期間無職でいると、自分に合う、合わないといった職種選択権が無い、問答無用の強制労働が科せられていた。
歴史
ドイツの歴史 | |
東フランク王国 | |
神聖ローマ帝国 | |
プロイセン王国 | ライン同盟諸国 |
ドイツ連邦 | |
北ドイツ連邦 | 南部諸国 |
ドイツ帝国 | |
ヴァイマル共和政 | |
ナチス・ドイツ | |
連合軍軍政期 | |
ドイツ民主共和国 (東ドイツ) |
ドイツ連邦共和国 (西ドイツ) |
ドイツ連邦共和国 |
概要
第二次世界大戦を経て、ドイツは米・英・仏・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。1948年より、米・英・仏の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側もベルリン封鎖で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。
形式的には複数政党制が採られたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) の一党独裁体制であり、計画経済の下で1951年より第1次五カ年計画が開始された。計画実施のために中央集権化が図られ、連邦主義的な州は廃止されて14の県 (Bezirk) へと再編された。
1953年3月、ソ連のヨシフ・スターリンが死去したことは、東ドイツ指導部を動揺させた。また、抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こっており、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こした(六月十七日事件)が、ソ連軍の介入によって弾圧され、6,000人以上が逮捕された。
無謀な計画経済・農業集団化は、東ドイツ経済を麻痺させていった。東ドイツの将来に絶望した人々は、唯一境界が開かれていたベルリンを経由して西ドイツへ逃亡していった。こうして、青年層、知識人、熟練労働者などの流出が深刻化したため、政府は1961年8月に西ベルリンとの境界を完全に封鎖、この境界にはやがてベルリンの壁と呼ばれる壁が建設され、東西冷戦の象徴となった。こうして労働力の流出を強制的に防いだこともあって経済は発展し、1960年代から1970年代初頭にかけて「社会主義の優等生」と呼ばれるまでに成長、1972年には西ドイツと東西ドイツ基本条約を締結し、国交を樹立した。
しかし、1973年のオイルショックなどによって東側諸国全体の経済が停滞する中、エーリッヒ・ホーネッカー政権の下東ドイツの政治・経済は共に停滞・硬直化した。1980年代後半になると西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の東欧革命により他の中東欧の共産主義国が次々と民主化すると、オーストリアとの国境を開放したハンガリーなどを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した(汎ヨーロッパ・ピクニック)。1989年10月9日、南部の都市ライプツィヒでの反政府運動「月曜デモ」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年11月9日、ベルリンの壁の開放に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には通貨統合、そして10月3日にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。
東ドイツの建国と社会主義の建設(1949-1961)
東ドイツは、1948年10月にドイツ民主共和国憲法を起草、1949年10月7日(共和国の日)に建国した。第二次ドイツ人民議会が、暫定的な人民議会として成立し、オットー・グローテヴォールが首相として政府創設の任に当たった。10月11日、グローテヴォールの同僚であるSED議長のヴィルヘルム・ピークが、東ドイツ大統領に選出された。
東ドイツは、現実社会主義の人民共和国であったが、SEDだけでなく、自民党やキリスト教民主同盟(CDU)のような「中道右派」政党の活動も許されていた。ただし、CDUや民主農民党、自民党、国家民主党は、衛星政党としてSEDと共に国民戦線を組んでいた。公式的には閣僚評議会が東ドイツの政府であったが、実際にはSED中央委員会政治局が権力の中枢であった。ヴァルター・ウルブリヒトは、政治局のメンバーであり、1950年以降は、SED中央委員会の書記長となった。さらにドイツ駐留ソ連軍の総司令部陸軍大将であったワシーリー・チュイコフのソ連管理委員会は強い権力を持っていた[4]。ソ連政府は1954年3月25日に、「ソ連は、他の主権国家と同様に、東ドイツとも平等な関係」を望んでいると説明したが、東ドイツの主権[5]は制限されたままであった。社会史家のハンス=ウルリッヒ・ヴェーラーは、当時の東ドイツは「ソ連帝国の西部戦線のサトラップ(地方総督)」であったとしている[6][7]。
人民議会の最初の選挙は、1950年10月15日に決まり、統一名簿に基づいて行われた。憲法発行後1年以上たって期日とその選挙方法がやっと決まったことに対して、CDUやLDPDの中道右派の政治家たちは反発したが、代わりに新政府での高い職位を得ることで決着した。LDPD党首のハンス・ロッホは財務大臣に、CDU党首のオットー・ヌシュケは副首相に、その党友であるゲオルグ・ドルティンガーは外務大臣になった。彼らの在任中、東ドイツの外交政策で重要だったのは二つある。1950年7月6日、ポーランド人民共和国とゲルリッツ協定を結んで、オーデル・ナイセ線を国境線として確定したこと、1950年9月29日、経済相互援助会議(RGW/COMECON)に加盟したことである。
東ドイツは西ドイツと同様に、ドイツの正当な継承国であることであると主張していた。当初は東側の憲法も民主的であることが強調され、東西ドイツが協調する可能性が模索されたが失敗した。非武装中立国としてドイツを独立させることを提唱したスターリン・ノート(1952年)に対し、西側諸国が全ドイツでの自由選挙による独立を最低条件としたことで折り合いがつかなかったように、双方にとって納得できない提案を双方が押し付け合ったためである。
その後、ヨシフ・スターリンは1952年7月にウルブリヒトを中心としたSED指導部に社会主義建設のための全権を与えた。経済では、工業産業の国有化が進められ、農業においては、農協をモデルとした集団農場が称揚された。また、全ての敵対者、特に教会に対して政治的な弾圧が加えられた。1952年5月に遮断されていたドイツ国内国境では、害虫駆除作戦が実行され、逃亡の可能性があると疑われた国境付近の住民が強制的に移住させられた(Vertreibung)[8]。
1953年3月にスターリンが死去したあと、ソ連指導部は方針転換し、強制的な社会主義化と政治的弾圧をやめるようになった。SEDはこの方針に従ったが、しかしノルマを達成しない労働者の賃金をカットする「労働規範(Arbeitsnorm)」は撤回しなかったことで、東ベルリンで抗議デモが起こり、それが発展して1953年6月17日に東ベルリン暴動が起こった。東ドイツ国内に駐留していたソ連軍による鎮圧によって、少なくとも55人が死亡した[9]。
ソ連は、東ドイツへの賠償を放棄し、東ドイツ国内にあったソ連法人を国営企業へと変えるなどして財政援助を行った。このことによって物資不足は緩和され、かなり国内で疑問視されていたウルブリヒト政権下のSED体制も安定するようになった。1956年11月のハンガリー動乱で、ソ連軍が鎮圧にあたった際には、数千人の死者が出ただけでなく、さらに2,000人以上が処刑された。これに応じて、東ドイツでも、体制批判的な学生や学者に対して新たに弾圧が行われた。1959年、SEDは「社会主義建設」のための第二段階を実行するようになった。まずSEDはあらゆる手段を使って、1960年の第一四半期に農業面積の約40%を「自発的な」加入によって農協の所有物にし、農産物の90%を集団農場で作ることの必要性を喚起した[10]。そのことによって難民の数は飛躍的に増大し、47,433人が1961年8月初めに東ドイツから逃亡した。
壁建設と緊張緩和政策(1961–1971)
多数の国民の海外流出、とくに比較的高い教育を受けた若者たちの逃亡は、東ドイツの存在そのものを脅かした。これに対応するため、8月12日と13日の夜に人民軍、人民警察、労働者階級戦闘団は、ソ連指導部の後ろだてもあって、西ベルリンの周囲を有刺鉄線と武力で封鎖し始めた。東西冷戦の象徴となったベルリンの壁建設の始まりである。壁、地雷原、自動発射装置が大規模に設置され、国境警備兵には、逃亡者に対する射殺命令が下された。ベルリンの壁は「反ファシズム防壁」というプロパガンダで呼ばれた。この防御システムを切り抜けようとした数百の難民が東西ドイツ国境で殺された。東ドイツで行われた人権侵害は、西ドイツのザルツギッターにある国家司法局中央記録センターで記録された。
壁建設が始まってから2ヶ月、SED指導部は、国外逃亡に失敗した反体制者を弾圧していたが、このことに対して1961年10月にモスクワから警告を受けた。この頃のソ連は、書記長ニキータ・フルシチョフが非スターリン化の第二段階を始めていた最中であった。東ベルリンでは、個人崇拝に対する拒絶反応が起こり、スターリンの名が入った通り・広場・施設が改名された[11]。反抗的な一部の住民に対する弾圧は行われなくなり、政治的な宣伝活動と、生活水準を上げる経済政策が始まった。国外に逃亡しようとしていた人びとは、この新しい状況のなかでやりくりし、仕事に打ち込んで、生活水準と出世可能性を可能な限り高めるよう模索するようになった。「このような態度は、経済成長というポジティブな結果を生み、それによって物質的豊かさが改善され、反体制的な意見は無くなり、指導部と国民との関係は徐々に冷静なものになった[12]。
1968年、プラハの春が起こると、ふたたび弾圧の空気が生じた。東ドイツ国民は自由を重視した改良社会主義を期待したが、ソ連の影響下にあったワルシャワ条約機構軍が、チェコスロバキア共産党第一書記アレクサンデル・ドゥプチェクの改革モデルを軍事力で鎮圧すると、改革の機運はすぐに打ち砕かれることになった。それに対して、東ドイツの4つの町で主に若者たちによる小規模な抗議デモが行われたが、公安当局によって摘みとられた。シュタージは、1968年11月までに、この件に関する2,000以上の「敵対行為」を確認している[13]。なお同年4月には憲法が改正され、「ドイツ民主共和国はドイツ民族の社会主義国家である(Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat deutscher Nation.)」「労働者階級とマルクス・レーニン主義政党の指導の下に置かれる」と規定され、公式に社会主義国であると規定されている。
モスクワからの東ドイツ指導部に出される要望には依然として決定的な影響力があり、そのことは1970年に始まったウルブリヒトとホーネッカーの権力闘争にも見られる。ホーネッカーは、自分が東西ドイツの緊張緩和政策に関するソ連の要望を理解している政治家であるとアピールし、ウルブリヒトの経済政策を批判することでSED政治局を支持をとりつけた。ウルブリヒトは成長産業や研究、工業の助成に関心を持っていたのに対し、ホーネッカーは個人消費向け産業の計画が遅れていたこと、その生産量が減少していたことを問題にしていた。ブレジネフの協力で、最終的に1971年4月にウルブリヒトを辞任させることになった[14]。
新たな裂け目から停滞へ (1971–1981)
ウルブリヒトがホーネッカーの工作と「健康上の理由」によりSEDの第一書記と国防評議会議長の職から辞任したあと[15]、彼は1973年8月1日に死去した。ホーネッカーは、すでに1971年6月の党大会で、方針転換を決定しており、「国民の物質的・文化的な生活水準をさらにあげること」を党の「主要課題」にした。「経済政策と社会政策の両立」が中心的なスローガンになった。重点が置かれたのは、住宅建設と住宅環境の整備であった。予定では1990年までこの住宅問題は解決されることになっていた。女性の労働参加は、ワークシェアリングや産休期間の延長、保育所や幼稚園の拡充によって促進された。1976年まで最低賃金が400マルク、最低年金が200マルクのまま変わらなかったとはいえ、冷蔵庫やテレビなどの電化製品に代表される家庭向け製品に生産が集中したことで、東ドイツの生活環境は大きく変わり、豊かさへの期待も膨らんでいった。経済と消費の刺激が可能だったのは、西側からの対外債務を増大させたことも大きい[16][17]
1971年12月にホーネッカーは文化政策でも一時的に自由化する傾向を見せたが、1970年半ばから徐々に硬直していった[18]。
もし社会主義が確固たる地位を築いているということを前提にするなら、私の考えでは芸術にも文学にもタブーはありえない。もちろん、このことは内容の問題にもスタイルの問題にも当てはまるし、一言でいえば、何が芸術的な傑作かという問題にも当てはまる。
対外関係において、ホーネッカーは、ウルブリヒトとの権力闘争を繰り広げていた時に主張したように、ソ連との緊密な関係を構築する方針を取り、「社会主義国家共同体のなかに着実と根を下ろすこと」を約束した。ソ連との関係は、1974年の公式見解によれば、「実際、日常生活でソ連との友好関係が現れないような場所はない」ほどに成熟していた[19]。
1970年、西ドイツ首相のヴィリー・ブラントは、エアフルト首脳会談を皮切りに新東方外交政策を打ち出し、東西ドイツの対話をもたらした。東西緊張緩和の背景には東ドイツが外貨を獲得しようとしたも大きい。トランジット協定は、東ドイツを通過する際の手続き簡略化を保証し、西ベルリンの交通路の状況を改善した。1972年に東西ドイツ基本条約が結ばれ、両国(ボンと東ベルリン)に大使館を設置することが決まり(Ständige Vertretungen)、両国が平和的に共存するために相互承認が行われた。それに基づき、1973年に両国は国連に加盟した。
1975年、ヘルシンキ宣言署名により、確かに東ドイツ指導部は外交的な評価を受けたが、しかし人権に関する国際的な要求にも対処しなければならなかった。国連や全欧安全保障協力会議加盟国の立場からすれば、東ドイツが出国申請を認めないのは監禁罪にあたるのではないかと非難した市民がいたが、その市民は1976年10月に逮捕され、「国家反逆扇動罪」の判決を受け、一年後に西ドイツへの国外追放となった。西ドイツ政府は、1964年~1989年までのあいだに東ドイツ刑務所にいた33,753人の政治犯に対して、合計34億マルクの囚人釈放金を支払っていた。歴史家のステファン・ヴォレは、この件に関して、絶対王政時代のヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の傭兵売買と全く同じであると見ている[20]。他方で、囚人になることで国外へ脱出してしまおうという運動も広がるようになり、ホーネッカーはそれを断固として阻止しようとし、SEDの地方議会書記長に、次のような指示を与えた。
最近、西ドイツの報復主義的なグループがいわゆる西ドイツの市民権運動を組織しようと躍起になっている。……これらのグループには断固として反対するべきである。ヘルシンキ宣言や他の言い訳を持ち出して、東ドイツ国籍を解消し、西ドイツへの出国を申請する人すべてを当局は拒否する必要がある。
ホーネッカーは、そのような出国申請者を職場から解雇すること、1977年4月の刑法改正の枠組において違法とすることを命令した[21]。
同様に1976年、ケルンでのコンサートでヴォルフ・ビーアマンは、東ドイツの幹部とその共産主義的な忠誠に対する思い切った批判を行ったことで国外追放処分となった。もっとも、かねてよりビーアマンの市民権剥奪は予定されており、その絶好の機会がたまたま来ただけであった。これによって、ホーネッカーの時代とともに始まった文化政策の開放は終了したことが鮮明になった。SED上層部にとっては予見できなかったことであるが、この市民権剥奪に対しては、もちろん、東ドイツの有名な作家たちの抗議活動も生じ、それは大きな共感を得るものだった。しかし、1976年11月17日に12名の作家たちが抗議文書を作成し、共同署名したが、1978年5月に行われた東ドイツ作家協会の第8回作家会議に出席したのはわずか2名であった。他の作家たちは出席許可を得なかったか、自分から諦めてしまった。[22]
東ドイツ国家の対外的な立場は、1970年代後半には難しいものになった。西ヨーロッパでは、ソ連型の共産主義モデルとは距離を置き、自由と民主主義を擁護したユーロコミュニズムが台頭し、チェコスロバキアではヘルシンキ宣言順守を求めた人権団体憲章77が設立され、1980年代になるとソ連のアフガン侵攻に対する国際的非難が高まり、1980年、ポーランドでは独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。
凋落・変革 (1981–1990)
1979年の第二次オイルショックで、東ドイツの不景気はさらに加速するようになった。経済的困難から抜け出せなかったソ連指導部は、東ドイツへの優遇条件での石油供給量を年間1900万トンから1700万トンに減らした[23]。それに対してホーネッカーは何度も抗議をし、ブレジネフに「200万トンの石油に、東ドイツを不安定にし、党と国家に対する国民の信頼を壊すほどの価値があるのか」と問いただした[24]。その間、東ドイツは、ソ連の石油をオーデル、ベーレン、リュッツケンドルフ、ロイナ(Leunawerke)の石油精製所での加工しており、それらを西ヨーロッパの市場で販売して外貨を獲得していた。ホーネッカーの抗議に効果はなく、むしろソ連と共に苦労を分かち合おうという激励に応えるものであった。そうしなければ「完璧な社会主義共同体制」の世界的立場が危ういものになってしまうからである。そのため、東ドイツの財政は、「不安と絶望の袋小路」になった[25]。
1982年に東ドイツは財政破綻の危機をむかえた[26]。それを防いだのは、1983年と1984年の2回にわたる西ドイツからの何十億マルクもの出資であったが、それにはアレクサンダー・シャルク=ゴロットコフスキーの尽力も大きかった。彼は外貨獲得を担当していた貿易調整部の所長であり、それと同時にシュタージの特務将校も兼任していた。彼は、特に東ドイツの国境の規制緩和を約束することで、バイエルン州首相のフランツ・ヨーゼフ・シュトラウスを調停者として味方につけることに成功した[27]。それ以前にも、第三次シュミット内閣(1980-1982)が、チューリッヒの「偽装銀行」(Strohbank)を通じて30億から50億ドイツマルクを貸し出すかどうかを検討していた[28][29]。しかし、高額な消費財を国民に提供することは、満足にはできなかった。西側と同水準のカラーテレビや冷凍庫付き冷蔵庫、全自動洗濯機は、高かっただけでなく、長い待ち時間をも必要とした。「全自動洗濯機の納品期間は3年近くかかり、トラバントは最低でも十年近く待たなければならなかったが、トップクラスと誇れるほどの質はないままだった」[30]。
東西ドイツ間で結ばれた特別協定は、東ドイツ指導部に対するソ連の不信を解消させることにもなった[31]。それゆえ1987年にホーネッカーの西ドイツ訪問が初めて実現し、東ドイツの国際的承認の晴れ舞台となった。ゴルバチョフはペレストロイカとグラスノスチで改革方針をすでに打ちだしており、東側諸国で良好な関係にある党と国家に、国内統治に対する自由裁量を認めていたが、SED上層部は、ながいあいだソ連指導部を東ドイツの権力基盤の保証人であると思うことに慣れていたため、外交方針は大きく揺らぐことになった。
他の中東欧の社会主義国と違い分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、民主化や経済の自由化は西ドイツとの差異を無くし、ひいては国家の存在意義の消滅を意味することを東ドイツの指導部は知っていたため[32]、ゴルバチョフのモデルに従うことを彼らは強く拒絶し、ソ連メディアの情報にさえ検閲をかけ[33]、「東ドイツカラーの社会主義」というプロパガンダを打ちだした。
このことは、東ドイツ国民には理解されず、ますます反感を買うようになった。抗議は、主に1980年以降に成立した平和運動のなかに見られる。これらの平和運動は、地域で集まった小さなグループから成り、環境の大切さと第三世界の重要性を訴えた。そのグループのいくつかには、教会の支援と説得もあった。1989年5月に行われた地方自治体選挙の結果が改ざんされたことが明らかになると、それに対する抗議が行われ、それがSEDへの不満をいっそう明確に可視化させ、多様な公民権運動へとつながった。SEDにとってより重大だったのは、ハンガリーが、1989年2月オーストリアへの国境を解放し、1989年8月19日には非公式にハンガリー当局は東ドイツ国民のオーストリアへの出国を許し(汎ヨーロッパ・ピクニック)、さらには9月11日には正式に東ドイツ国民にオーストリアへの出国を許可したことで、大量国外脱出が始まったことだった。秋に定期的に開催された月曜デモで、公民権運動で改革を目指した抗議が行われた。東ベルリンで10月7日に建国40周年記念祝典が行われていたので、デモは治安部隊によって解散させられていたが、2日後に大規模抗議デモがライプツィヒで起こると、東ドイツの平和革命が爆発した。10月18日にホーネッカーは退任、後任のエゴン・クレンツと新SED指導部は国民との対話を提案したが、国家と党の体制崩壊を引き止めることはできなかった。1989年11月9日の夜、SED政治局員ギュンター・シャボウスキーが誤って西側への出国許可が「遅滞なく」下りると発表すると、ベルリンの壁に市民が殺到し、壁は崩壊した。
11月に成立したハンス・モドロウ政権は、円卓会議で国民との対話を行い、政治の民主化、シュタージの解体を進め、12月にはSEDの国家に対する指導権を規定した憲法第1条の規定も削除された。しかし、壁崩壊後出国者は1日2,000人を超え、通貨も暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった[34]。月曜デモの参加者のスローガンは、かつて国家権力を挑発するときに使った「我々が国民だ!」(独: Wir sind das Volk!)から、ドイツ再統一を訴える「我々はひとつの国民だ!」(独: Wir sind ein Volk!)に変わっていった。
西ドイツのキリスト教民主同盟の支援を受けたドイツのための連立が1990年3月18日の選挙で勝利すると、ドイツ再統一への方針が決まった。初の自由選挙で就任したロタール・デメジエールの連立政権は、第三次ヘルムート・コール内閣からの支援を受け、ドイツ連邦共和国基本法第23条に基づいて東ドイツを西ドイツへと加盟させることを決定した。通貨・経済・社会の連合を1990年7月1日に施行、8月31日に統一条約に批准、9月12日に第二世界大戦戦勝国とのドイツ最終規定条約に調印したあと、東ドイツは1990年10月3日にドイツ連邦へと吸収された。
政治
ドイツ民主共和国は、典型的なソ連型社会主義による一党独裁型の政治体制を採っていた。
国会にあたる人民議会 (Volkskammer) があり、そこから選出される国家評議会議長が国家元首であった。また内閣に相当する機関として閣僚評議会が置かれ、閣僚評議会議長が首相に当たる。ただし、「民主共和国」の名とは裏腹に、議会はおよそ民主的とは言えない選挙方法で選ばれたものであり、また国政の実権は他の社会主義国と同様支配政党であるSEDの書記長が握っていた。
政党と選挙
政党
ドイツ民主共和国では、5つの政党が存在し、5つの政党で「民主ブロック(Demokratischer Block)」を形成していた。しかしドイツ社会主義統一党以外の政党は同党の指導を認めた上で存在する衛星政党で、各党の党首が国家評議会副議長となる[35]などして体制内に取り込まれており、「複数政党制」という建前を維持するための飾り物的存在であった。ヘゲモニー政党制の典型例である。
- ドイツ社会主義統一党 (SED) - 支配政党
- ドイツキリスト教民主同盟 (CDU (DDR)) - 旧西ドイツのドイツキリスト教民主同盟 (CDU) とは別政党
- ドイツ自由民主党 (LDPD) - 旧西ドイツの自由民主党 (FDP) とは別政党
- ドイツ国民民主党(国家民主党) - 現在のドイツの極右政党ドイツ国家民主党とは別政党
- ドイツ民主農民党
東西ドイツ統一後、上記の政党のうちSEDは民主社会党(PDS, 現在は左翼党に)と改名して存続し、キリスト教民主同盟・民主農民党は西側のキリスト教民主同盟へ合流、ドイツ自由民主党 (LDPD)・国家民主党は西側の自由民主党 (FDP) へ合流している。
選挙
人民議会の選挙は、予め決められた議席配分リストに対して賛成の場合はそのまま無記入で投票、反対の場合は「反対」の欄に印を書く、というものであった。無記名投票ではあったが、反対の時のみ書かなければいけなかったため、すぐに誰が反対したのか分かるようになっていた。選挙の投票率は常に99%に近く、そのうちの賛成率も99%以上であった。棄権率、反対率は大都市になるほど高くなった。都市では投票の相互監視が比較的薄いからである。1981年からは棄権率、反対率は東ベルリンが最高である(ベルリンは表向き4か国管理となっているために、相互の国会に直接議員を送ることができなかった。東ドイツは1981年よりその慣習を破って人民議会の直接選挙を行った)。
人民議会における議席配分は常に一定され、5政党のほかに「国民戦線 (Nationale Front)」を構成する労働組合や職能団体などに配分されていた。当然社会主義統一党 (SED) が最大勢力になるように配分されている。また自由ドイツ青年団(FDJ)はSEDの下部組織であり、自由ドイツ労働総同盟などの諸団体もSEDの影響下にあった。
- 社会主義統一党 127議席
- キリスト教民主同盟 52議席
- 自由民主党 52議席
- 国家民主党 52議席
- 民主農民党 52議席
- 自由ドイツ労働総同盟 68議席
- 自由ドイツ青年団 40議席
- ドイツ民主婦人連盟 35議席
- ドイツ文化連盟 22議席
- 計 500議席
民主化後の選挙
1989年秋に大規模な民主化運動が発生し、ホーネッカー体制が崩壊すると、社会主義統一党は国家に対する支配性を放棄して社会主義統一党/民主社会党 (SED/PDS) と改称した。そして、1990年3月18日には東ドイツ国家史上初、かつ最後の自由選挙が実施された。この際、西ドイツからの政治家の応援演説や資金提供が容認されたため、社会主義体制下の衛星政党からの脱却に成功したドイツキリスト教民主同盟やドイツ自由民主党の保守・中道政党は西ドイツの同系統の政党から強い支援を受けた。また、1946年に社会主義統一党へと事実上強制吸収されたドイツ社会民主党も元党員も加わる形で再建され、1972年に東西ドイツ基本条約を締結して東ドイツ国民から強く信頼されていたヴィリー・ブラント元首相などが西ドイツ側の社会民主党から支援に駆けつけた。また、民主化運動の中心勢力も同盟90など独自のグループを結成し、社会主義統一党/民主社会党などとともに選挙に臨んだ。
選挙の事前予想では緩やかな国家統一を主張する社会民主党が優位だったが、首相でもある西ドイツのキリスト教民主同盟党首ヘルムート・コールは精力的に東ドイツ全土を遊説し、東ドイツマルクから西ドイツマルクへの交換レートなどで東ドイツ国民に配慮した公約を行った。これが成功してキリスト教民主同盟が社会民主党を抑えて第一党となり、西ドイツと同様に自由民主党の連立参加を受け、党首のロタール・デメジエールが首相に就任した。一方、社会主義統一党/民主社会党は大きく議席を減らし、「東ドイツにとどまり、この国を民主化する」事を唱えた民主化勢力も伸び悩んだ(ドイツ民主共和国人民議会1990年選挙)。これにより、東ドイツは事実上独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。
主な政治家
歴代国家元首
- ヴィルヘルム・ピーク(注1):1949年 - 1960年
- ヴァルター・ウルブリヒト(注2):1960年 - 1973年
- フリードリヒ・エーベルト(注3):1973年
- ヴィリー・シュトフ:1973年 - 1976年
- エーリッヒ・ホーネッカー(注4):1976年 - 1989年
- エゴン・クレンツ:1989年
- マンフレート・ゲルラッハ(注5):1989年 - 1990年
- ザビーネ・ベルクマン=ポール(注6):1990年
- 注1:ヴィルヘルム・ピークは、「大統領 (Staatspräsident)」、それ以降は「国家評議会議長 (Staatsratsvorsitzender)」。
- 注2:ヴァルター・ウルブリヒトは、社会主義統一党 (SED) 書記長兼任(1949年10月~71年4月)。
- 注3:フリードリヒ・エーベルトは、国家評議会議長代理。
- 注4:エーリッヒ・ホーネッカーは、SED書記長兼任(1971年4月~89年10月)。
- 注5:マンフレート・ゲルラッハ(ドイツ自由民主党出身)の評議会議長在任は、1990年の自由選挙実施時まで。
- 注6:ザビーネ・ベルクマン=ポールは、人民議会議長・暫定国家元首を自由選挙実施後から再統一時まで務めた。
その他
- オットー・グローテヴォール - 初代首相。東地区のドイツ社会民主党出身。
- ギュンター・シャボウスキー - ベルリンの壁崩壊の直接のきっかけを作ったSED政治局員。SEDベルリン地区委員会第一書記。
- エーリッヒ・ミールケ - ベルリンの壁崩壊直前まで32年間にわたりシュタージのトップ(国家保安省長官)を務めた。SED政治局員。
- マルゴット・ホーネッカー - エーリッヒの妻。人民教育相を務め、エーリッヒの後継者候補と目されていた。
- ロタール・デメジエール - キリスト教民主同盟党首。1990年の自由選挙から再統一による国家消滅まで、最後の東ドイツ首相。再統一後は自党を西側の党へ吸収合併させ、コール政権へ入閣したが、1991年、シュタージの協力者だった経歴が発覚して失脚。
外交・軍事政策
他の東ヨーロッパの社会主義国同様、ワルシャワ条約機構に属していた。軍隊である国家人民軍の人数は約9万人で、約26万人の在独ソ連軍の3分の1ほどに過ぎなかったが、「棍棒で鍛えられた」とも表現されるその錬度の高さはワルシャワ条約機構軍一と言われ、同軍の武器庫、弾薬庫の鍵は、叛乱を恐れ必ず在独ソ連軍の将校が管理したとも噂された。T-72その他の同軍の兵器はソ連仕様よりも武装や装甲が大幅にスペックダウン(モンキーモデル化)されており、実際にソ連側にとっての叛乱防止の意図があったと見られている。
「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」「東ドイツは約26万人(東欧革命より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う思いやり予算の重圧で自然崩壊した」などの言説は、現在では西側マスコミによるプロパガンダだったというのが通説となっている。
国家人民軍のほかの軍事組織としては国境警備隊(国防省所属だが国家人民軍とは別に置かれた)と、民兵組織である労働者階級戦闘団が存在した。また、国家保安省やドイツ人民警察は準軍事組織としての側面を持っていた(国家保安省はフェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊という部隊を保有していた)ほか、民間防衛組織として民間防衛隊があった。
1973年、西ドイツと同時に国際連合に加盟。なお、ドイツ民主共和国はナチス・ドイツと戦ってきた反ファシズムによって樹立された政権であり、ベルリンの壁の崩壊まで第二次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストに対する責任を負う立場にないとしていた。
西ドイツとの関係
東ドイツ政府は建国当初は全ドイツを統一するという目標を持っており、東西が分断されたのは西の責任であると主張していた(西ドイツ側もドイツの唯一の正統政府を自認し、ハルシュタイン原則に基づき、東ドイツと国交を結ぶ国とは国交を結ばない方針を取っていた)。そのために、国有鉄道の名称もあえて戦前のドイツ国有鉄道の名称を継承し、西に対抗する形で「ルフトハンザドイツ航空」を設立したりしていた[36]。また、東西お互いに相手を非難するプロパガンダ放送(東側では「黒いチャンネル」、西側では「赤いレンズ」)を流し合っていた[37]。
しかし、1972年の東西ドイツ基本条約の締結による相互承認、翌年の東西ドイツの国連加盟によって東ドイツが国際的に承認されると一転して「ドイツ民主共和国は社会主義的民族の国であって、資本主義的民族の国家である西とは別である」という主張で二国並立状態を正当化するようになった[38]。
このように政治的には西と対立し、分断国家の固定化を進めていたがその一方でホーネッカー政権は経済面では西との交易を進めた他、東ドイツ国民の消費生活を維持するために西ドイツから銀行保証付きの借款を受けていた。また西ドイツがローマ条約締結時に東ドイツとの貿易は「国内取引」であり無関税・無課税であると主張したため、実質的に欧州共同体(EC)の一員と同じ条件で貿易が出来るという他の東側諸国に比べて恵まれた立場を享受することが出来た。東ドイツが他の社会主義国よりも経済を発展させることが出来た(その代り西への債務も増大したが)のは、この側面も無視できない[39]。
日・東独関係
日本と東ドイツは1973年に正式な国交を結んだ[1]。東ドイツ駐日大使館は東京都港区赤坂7丁目にあった。
女性・家族政策
東ドイツにおける女性と家族政策に関する法律は、1950年に決議された「母子保護および女性の権利に関する法律」である。仕事と家族の両立は、東ドイツの女性にとっては、あたりまえのことと考えられており、重点的に助成されていた。1989年までに約92%の女性が職業に就いており、西ドイツの女性よりも就職率は明らかに高かった。女性の就業は、男女同権という社会主義の考えを反映してものであったが、他方では、東ドイツの労働需要を補うためのものであった。不釣合いなほどに多くの男性の専門労働者が、早い段階で東ドイツを見限って逃亡していたのである[40]。もっとも、管理職の地位についている女性は、明らかに男性よりも低かった。
女性の職業参加を促進するために、例えば託児所・保育園の大規模な拡充が行われたり、家族をもつ学生に対する特別な教育や就学プランが作られたりした。家族政策という枠組みで、国家は、まず第一に子供のいる夫婦に対して、特殊なローンや優先的な住居の割り当てなどを行うことで、促進した。中絶問題に関しては、女性には1972年に導入された中絶法によって、最初の12週間以内での中絶が許可されるようになった。しかしそれにも関わらず、1973年から1980年のあいだに出生数は、3分の1ほど増加した[41]。
就業による男女同権化は、日常では多くの場合、仕事と家事・家族という二つの重荷を背負わされることになった。従来通りの男性の仕事が、たんに伝統的な女性の役割に追加されただけだからである。1970年に行われた世論調査によると、平均的な週の家事時間である47時間のうち、女性が引き受けたのはそのうち37時間であり、男性は6時間、「その他」が4時間であった[42]。
環境政策
戦後の再工業化は、東西ドイツとも極めて強い環境破壊を引き起こした。その頂点を極めたのは、初めて環境政策が経済政策にとって重要であると考えられるようになった1970年代であったが、東ドイツでは環境政策は取られなかった。投資の柔軟性は欠如しており、すでに商品の生産も不充分であったため、迅速に環境保護を始めることは不可能であった。さらに東ドイツ指導部は、環境のために何かしたいと思っている積極的な市民たちを無視した。それでも1980年代には、自転車クラブなどの環境保護運動が増大した。2009年の新しい研究では、東ドイツの環境保護の状況は「破滅的」であったとされている[43]。石炭資源が不足していたため、たくさんの二酸化硫黄を排出する褐炭を利用したことで、ヨーロッパで最も高い粉塵汚染が生じた。大気汚染によって、男性の気管支炎、肺気腫、気管支喘息の死亡率は、ヨーロッパ平均よりも2倍以上であった。およそ120万人の人びとが、生活に欠かせない飲料水にありつけなかった。1989年の時点で、汚染されていない湖は1%、河川は3%であった。その時まで、下水処理場に排水できたのは、全国民のうち58%だけであった。森林の52%が「損害」を受けていると見なされた。ゴミの40%以上が、適切な方法では処理されなかった。危険ごみに必要な高温焼却施設は存在していなかった。環境に関する情報は、階級の敵が東ドイツの信用を落とすために利用するであろうという理由で、1970年から「機密情報」となり、1980年代には「極秘情報」となり、一般には公開されなかった。環境政策への批判は、容赦なく弾圧された[43]。
西側諸国、とくに西ドイツからのごみの輸入は、東ドイツにとって利益をもたらすものであり、西側の客(企業、地方自治体、国家)にとっても経費節減となった。東ドイツのダンピング価格は、西ドイツで普通に運営されているゴミ処理場でかかる費用よりも10分1も安かった。ごみ処理代行ビジネスで獲得した外貨獲得には、貿易調整部とシュタージが関与しており、その金額の一部は、ホーネッカーとミールケの口座にも振り込まれていたし、党幹部の居住区であるヴァンドリッツにも使われたといわれている。1980年代終わりごろにシュタージは、西ドイツだけでなく東ドイツの住民のあいだでも環境意識が高まっており、東ドイツのごみ輸入に対する批判的な態度もあったと記録している。それに対して、東ドイツで西ドイツのごみを処理する際、西ドイツの環境基準は履行されていなかった。ある種の「歴史の皮肉」と見られているのは、これらの(環境負荷をかけた)ごみ焼却場は、1990年にはドイツ連邦の責任となったということだ[44]。
東ドイツで生産されたトラバントやヴァルトブルクのような乗用車は、時代に合わない2ストローク機関で動き、青い排気ガスを出したが、それらは環境汚染を感じさせることになった。2ストローク機関の排気ガスは、高い炭化水素を含んでいたため、はっきりと見ることも嗅ぐこともできるものであった。酸性雨やスモッグの原因となる窒素酸化物は、トラバントは同時代の4ストローク機関に比べて、10分の1しか排出しなかった[45]。
地方制度
東ベルリン以外
当初は5つの州 (Land) が置かれた連邦制で、旧西ドイツの連邦参議院にあたる参議院[46](Landeskammer) も存在したが、1952年以降は14の県 (Bezirk) に再編されて参議院は廃止され、中央集権化が進められた。
- ドレスデン県(Bezirk Dresden, 県都はドレスデン)
- カール=マルクス=シュタット県(Bezirk Karl-Marx-Stadt, 県都はカール=マルクス=シュタット)
- ライプツィヒ県(Bezirk Leipzig, 県都はライプツィヒ)
- ゲーラ県(Bezirk Gera, 県都はゲーラ)
- エアフルト県(Bezirk Erfurt, 県都はエアフルト)
- ズール県(Bezirk Suhl, 県都はズール)
- ハレ県(Bezirk Halle, 県都はハレ)
- マクデブルク県(Bezirk Magdeburg, 県都はマクデブルク)
- コトブス県(Bezirk Cottbus, 県都はコトブス)
- ポツダム県(Bezirk Potsdam, 県都はポツダム)
- フランクフルト県(Bezirk Frankfurt (Oder), 県都はフランクフルト・アン・デア・オーダー)
- ノイブランデンブルク県(Bezirk Neubrandenburg, 県都はノイブランデンブルク)
- シュヴェリーン県(Bezirk Schwerin, 県都はシュヴェリーン)
- ロストック県(Bezirk Rostock, 県都はロストック)
統一を目前にした1990年7月23日に人民議会によって州の復活が決定し、以下の5州が復活した。この5州を新連邦州 (Neue Bundesländer)、新5州、東ドイツ5州という。名称は以前の州と同じだが、州界は微妙に異なる。
この5州は、ドイツ基本法(西ドイツ・現在のドイツの憲法に相当する法)23条に基づいてドイツ連邦共和国に加入した。
東ベルリン
東ベルリンは、事実上の東ドイツ領だったが、国際法的には連合国軍4か国(米・ソ・仏・英)占領地ベルリンのソ連管理地域で、厳密には東ドイツ領ではなかった。そのため、県も州も置かれていなかった。
ドイツ統一に伴い、4か国はベルリンの統治を終了し、ベルリンをドイツに返還した。東ベルリンはドイツ基本法23条に基づいて、西ベルリンを事実上統治していたベルリン州に編入された。
経済
上述のように、東ドイツは東側の社会主義国の中では最も高い経済成長を達成していた。東ドイツはルール工業地帯を擁する西ドイツに比べると経済基盤は弱く、しかもソ連が賠償と称して、多くの工場の機材や施設を持ち去ってしまった状態からのスタートを余儀なくされながらも1960-70年代には3%程度の平均成長率を保ち、世界でも15位以内に入る工業国となり、一人あたりの国民所得では社会主義国で第一位となった。食料自給率も高く、1980年代には一人あたりの肉の消費量も東側陣営では最も多くなっていた[47]。1980年代までには冷蔵庫やテレビといった家電製品も普及していた[48]。
ただし、「社会主義国の優等生」であった東ドイツには西ドイツより条件は劣るとはいえ他の東欧社会主義国より有利な面もあった。一つ目はドイツは第二次世界大戦前に既に工業化が進んでおり(他に工業化が戦前から進展していたのはチェコスロバキアのボヘミア地方くらいであった)、他の東欧諸国のように農業国から工業国への転換から始める必要が無かったこと、二つ目は「西ドイツとの関係」でも述べているように西ドイツとの貿易では特殊な地位にあったために実質的にEC加盟国と同じ条件で西側と貿易できたこと、三つ目には西ドイツから多額の借款を受けることが出来たことである[49]。
また、ホーネッカー政権下の経済成長と消費者の満足を追求した政策は、環境の破壊と西側からの上記の対外債務による財政の破綻という結果を招き、ひいては1980年代末の東ドイツの政治的破産を招く結果になった[50]。
地方経済
ここでは、東ドイツを5つの地域(北部・中部・東ベルリン・南部・南西部)に分けて論じる。
北部
ロストック県、シュヴェリーン県、ノイブランデンブルク県といった北部は農業地域であった。また、バルト海に面するロストック県では水産業も盛んだった。工業部門では、港湾都市ロストックで造船業がみられた。ロストックは、ソ連、東欧に輸出するための最も重要な貿易港でもあった。また、シュヴェリーンやノイブランデンブルクで金属加工、軽工業が発展していた。
中部
マクデブルク県、ポツダム県、フランクフルト・アン・デア・オーダー県、コトブス県でも、農業が盛んであった。また、コトブス周辺は褐炭の最大生産地域であり、同県のエネルギー産業は東ドイツのエネルギー生産の約4割を支えていた。そのほか、西ドイツ経済に追いつくシンボル・モデル都市として地方都市としては異例なほどの資本投入とインフラ整備が行われたアイゼンヒュッテンシュタット(旧スターリンシュタット)の鉄鋼コンビナートや、マクデブルクの機械製造工業などが発展していた。
東ベルリン
工業、通信、サービス業などが盛んであった。シーメンスやAEGを受け継いで、電気・電子産業も発展した。
南部
ドレスデン県、カール・マルクス・シュタット県、ライプツィヒ県、ハレ県といった南部は、東ドイツにおける工業地域であった。ハレ県では化学産業が盛んで、東ドイツにおける生産全体の4割程度を支えた。カール・マルクス・シュタット県では繊維産業が盛んで、東ドイツ全体の5割強を支えた。また、同県のツヴィッカウはトラバント(東ドイツの大衆車)の生産で知られた。
南西部
エアフルト県、ゲーラ県、ズール県も東ドイツにおける工業地域であった。エアフルトとイエナにおける電子・光学産業や、アイゼナハの自動車産業が発展した。
著名な企業
- 人民公社カール・ツァイス・イェーナ
- カール・ツァイスの東ドイツ地域内企業インフラ・企業法人を継承。
- 同公社が開発・製造したプラネタリウム(分断前の旧カール・ツァイスによる発明)機器は西側諸国でも異例の高評価を浴び、日本国内の幾つかの科学館施設(明石市・旭川市)への納入販売にも成功している。
- FCカールツァイス・イェーナ
- ペンタコン人民公社
- インターフルーク(東ドイツの国営航空)
- ザクセンリンク
- アウトモビールヴェルク・アイゼナハ
- ソ連がBMWアイゼナハ工場を接収、在独ソ連軍政府(SMAD)が管轄するソビエト企業 (Sowjetische AG)の1つ、Awtowelo機械工業 (Maschinenbau Awtowelo) のアイゼナハBMW工場 (Werk BMW Eisenach) に改組。その後、アイゼナハー・モトーレンヴェルク (Eisenacher Motorenwerk: EMW) として東ドイツ企業化、最終的にアウトモビールヴェルク・アイゼナハ (VEB Automobilwerk Eisenach: AWE) に改称。
- 東西ドイツ統合後、多くの東西分裂企業は分裂前の企業同士で再統合(或いは吸収)されたが、同社はBMWではなくオペル(GM傘下)に吸収される道を選んでいる。
- ヴァルトブルク
- フラモ社
- 前身企業も同名。全ての企業インフラ・企業法人を継承。
- バルカス
- タクラフ
- ロボトロン
- 電機製造業者。コンピューターの製造なども行っていた。
- MZモトラッド (オートバイ)
- DKWの東ドイツ地域内企業インフラ・企業法人を継承。
- PIKO(東ドイツの国営玩具企業)
- 総合玩具製造企業。東側を中心に製造されていた鉄道模型は西側での販売に耐えうる製品であったので、西ドイツの契約企業を経由して西側にも輸出されていた。現在は民営化のうえ、操業。国営企業時代の製品はコレクターズアイテム。
宗教
東ドイツには、様々な信仰団体があった。最も大きかったのは、キリスト教である。1969年から政治的な理由でプロテスタントの8つの地方教会が東西ドイツの統一組織であったドイツ福音主義教会を離れ[51]、東ドイツ福音教会連盟に統合された。これらのプロテスタント教会の他には、カトリック教会があり、他にも東ドイツ福音主義自由教会連盟、ドイツ自由福音主義教会連盟、メソジスト福音主義教会、モラヴィア兄弟団、セブンスデー・アドベンチスト教会、メノナイト、クエーカーなどの自由教会も存在していた。ルター派自由教会、ルター派(旧ルーテル)教会、東ドイツ福音改革派教会などもあった[52]。
信仰の自由は東ドイツでは憲法で公的に保証されていた。しかし東ドイツは、教会の影響力を抑え、特に若者を教会から遠ざけようとしていた[53]。1953年に教会青年団の活動が犯罪となり、学校や大学で退学者や逮捕者を出した。この措置は1953年6月には撤回されたものの、信仰を公言したキリスト教徒は、大学進学や、国家のキャリアコースを歩む可能性が限定されることになった[54]。
このため国民の大部分は、信仰を持たなかった。1949年の時点では全国民の92%が何らかのキリスト教会に属していたのに対し、1988年になると、全国民の約40%(約660万人)となった[55][56]。
それ以外にも、ユダヤ教の教会があり、1980年代以降には、散発的ではあるが仏教やヒンドゥー教、イスラム教の信仰団体も存在していた。
信仰を持つ人の数は著しく減少したものの、東ドイツの政治は、キリスト教会の独自性を完全に妨げることはできなかった[57]。多くの人びとは教会を半ばオープンな集会所であると思っており、全く信仰とは関係なく教会のスペースを利用する人もいた。彼らは東ドイツの転換と平和革命の担い手になった。
文化
音楽・演劇・スポーツなどでは、「西ドイツを大きくリードする目覚しい成果が挙げられた」とされている。しかし、東ドイツ出身の作曲家イェルク・ヘルヘットは、「何年に十二音技法が解禁、何年にはシュトックハウゼンが解禁などという謎のルールに縛られた奇妙な文化政策」であったことを告白している。また、ヴォルフ・ビアマンのように反体制的な人物は西ドイツへ国外追放された(他の東側諸国と違って西ドイツと言う同言語の国があり、西ドイツは東ドイツ国民には自動的に西ドイツ国籍を付与していたため、反体制派は追放してしまえばいいという政策がとれた[58])。 東西両ドイツともかつての伝統的文化を受け継いでいたが、西ドイツでは西欧やアメリカの影響を強く受け、国際的な文化が育まれた。対照的に東ドイツでは伝統的文化に対して保守的で、ソ連型の社会主義的思想が刷り込まれていった。しかし東ドイツの多くの地域で西ドイツのテレビやラジオの放送が受信ができたこともあり、東ドイツの若者の多くは西側特にアメリカにあこがれを抱いていた。
東西再統一後、旧西ドイツ国民にとっては生活環境にほとんど変化はなかったが、旧東ドイツ国民にとってはそれまでの日常のスタイル・文化が一掃されて様変わりした。そのため、再統一後はオスタルギーという東ドイツの文化を懐かしむ風潮も生まれた。
文学
ナチス党政権に抵抗した文学者たちの中で、アンナ・ゼーガース、アルノルト・ツヴァイクやベルトルト・ブレヒトは東ドイツで活動を続けた。また、クリスタ・ヴォルフは「引き裂かれた空」で、ベルリンの壁のできる前後の時代の東ドイツの生活を描いた。
音楽
音楽ではドレスデン国立歌劇場管弦楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ベルリン国立歌劇場などの伝統あるオーケストラやオペラハウスが活動し、クルト・ザンデルリング、オトマール・スウィトナー、ヘルベルト・ケーゲル、クルト・マズア、ペーター・シュライアーといった指揮者や演奏家が活躍していた。国際化されない、比較的伝統的なドイツ風のサウンドが保存され、オーストリア人のスウィトナーのほか、同じくカール・ベーム、西ドイツ人のルドルフ・ケンペらもしばしば指揮台に立った。なお、クラウス・テンシュテットは東ドイツでの活動に疑問を感じ、1971年に西側に亡命している。
作曲家では、ナチス党政権時代にアメリカに亡命していたハンス・アイスラーやパウル・デッサウが戦後に帰国し、楽壇の中心的存在として活動した。
音楽のジャンルではロックは他の東欧各国と同様に「西側諸国の退廃の象徴」として原則禁止の政策が取られていた。しかしながら、ダンス音楽としての名目で軽音楽は認可されており、Karat、Stern Combo Meißen、Electra などのロック・バンドが活動し、国営レーベル Amiga からレコードも出版されていた。ハンガリーの Omega などのロック・バンドも東ドイツでコンサートを開催し、東ドイツでもその名は知られていた。
映画
マスコミ
東ドイツでも日常的にマスメディアが浸透していた。1980年代半ばには、たいていの家庭がラジオ(99%)とテレビ(93%)を持っており、郵便ポストには毎日1つか2つの新聞が入っていた[60]。新聞は情報手段ではあったものの、SEDや大衆組織の管理下にあり、プロパガンダ装置でもあった。検閲は、公式上は(1949年の憲法で)禁止されていることになっていたが、実際には、直接的な検閲があり、また著者に「自己検閲」をさせるような微妙な検閲も行われた[61]。
新聞としては最有力紙である社会主義統一党機関紙『ノイエス・ドイチュラント(新しいドイツ)』をはじめ、いくつかの日刊紙が存在した。また、『ジビレ』などの女性ファッション誌なども発行されていた。『ジビレ』はハンガリーなどでも読まれる、社会主義諸国の最先端ファッション雑誌であった[62]。
放送局としては東ドイツ国営放送(Fernsehen der DDR)が2つのチャンネルを使ってテレビ放送を行っていた。ラジオ放送はラジオDDR(Rundfunk der DDR: DDRラジオ放送局)、DDRの声、ベルリン放送、ラジオ・ベルリン・インターナショナルの4つの放送局があった[63]。
大半の地域では西ドイツのテレビ放送がスピルオーバーしていたため、多くの東ドイツ国民は当局の監視から隠れて(見つかった場合は罰則が科された)西側の放送を見ていた。ライプツィヒの中央青少年研究所によれば、1976年から88年までの間に毎日西ドイツのテレビだけを見る若者の数は14パーセントから56パーセントにまで増加している。ザクセン地方など一部では西ドイツの電波が届かなかったが、ドレスデン市民の中には西ドイツのテレビを見るために様々な団体の協力を受けて衛星放送の受信装置を設置した者までいた[64]。
著名な施設
- ベルリン中央駅(現ベルリン東駅)
- シェーネフェルト空港
- 東ドイツ最大の空港。東西ドイツ統合後、国際空港化され、大幅な拡張工事を経た後に「ベルリン・ブランデンブルク国際空港」に改称予定。
- 旧西ベルリン地区にあるベルリン・テーゲル国際空港、及びベルリン・テンペルホーフ国際空港は、同空港に機能全面移転の上、廃港が決定している。
- ゲヴァントハウス
- 東ドイツ第2の都市ライプツィヒに建設された音楽施設。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地。
- アレクサンダー広場(世界時計設置)
- ドイツ民主共和国首都ベルリンの社会主義的都心改造
- スターリンシュタット(現アイゼンヒュッテンシュタット)
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Neujahr | |
3月8日 | 国際女性デー | Tag der Frau | |
移動祝日 | 聖金曜日 | Karfreitag | |
移動祝日 | 復活祭 | Ostersonntag | |
移動祝日 | Easter Monday | Ostermontag | |
5月1日 | メーデー | Tag der Arbeit | |
移動祝日 | 父の日/主の昇天 | Vatertag / Christi Himmelfahrt | 復活祭後の第五日曜日後の木曜日 |
移動祝日 | 聖霊降臨 | Pfingstmontag | 復活祭から50日後 |
10月7日 | 共和国の日 | Tag der Republik | 建国記念日 |
12月25日 | クリスマス | 1. Weihnachtsfeiertag | |
12月26日 | ボクシング・デー | 2. Weihnachtsfeiertag |
スポーツ
オリンピック
スポーツでは、他の社会主義国同様国家の威信をかけた強化策が取られ、いわゆる、「ステート・アマチュア」選手が量産され、陸上競技や水泳競技などはオリンピックなどでも「輝かしい成績」を残した。特に1970年代後半から1980年代にかけてはアメリカを抑えて世界第2位の金メダル大国となった。
ただし、その陰には人権も人格も無視した選手育成と、ステロイドをその中心に用いた組織的なドーピングが存在し、シュタージによるスポーツ関係者の監視や協力要員化が行われた。統一後にこれらの問題が噴出し、競技水準の低下が起こった。
サッカー
シュタージのスポーツへの関与
- 1.FCディナモ・ドレスデン
- ベルリナーFCディナモ
- ディナモ(秘密警察系スポーツクラブ)
- SVディナモ (Sportvereinigung Dynamo) - シュタージ内のスポーツ・クラブ群
東ドイツを扱った作品
- 映画『グッバイ、レーニン!』
- 映画『善き人のためのソナタ』
- 映画『バッファロー・ソルジャーズ』
- コミックス『MONSTER』(作:浦沢直樹 小学館)
- 浦沢直樹はコミックス『MASTERキートン』などでも、しばしば旧東ドイツを題材に取り上げている。
- 小説『元首の謀叛』(作: 中村正軌 文藝春秋)
- 小説・映画『007 オクトパシー』
- 映画『NVA』 (2005年ドイツ): 1980年代後半に東ドイツ陸軍 (NVA)へ入隊した若者たちの目を通して、軍隊生活と東ドイツ崩壊を描く。
- 演劇『国境のない地図』(1995年 宝塚歌劇団星組) ベルリンの壁に翻弄された母子の別れと再会を描く。
参考文献
- Hannes Bahrmann/Christoph Links: Chronik der Wende. Die Ereignisse in der DDR zwischen 7.Oktober 1989 und 18.März 1990, Berlin:Links, 1999, ISBN 3-86153-187-9.
- 山田徹『東ドイツ・体制崩壊の政治過程』日本評論社、1994年
- 仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年
- 伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』社会評論社、2009年
- 伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』社会評論社、2009年
- メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年
- 永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』日本放送出版協会 1990年
- サイマル出版会編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)
脚注
- ^ 東ドイツ憲法第1条「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である」(Die Deutsche Demokratische Republik ist ein sozialistischer Staat der Arbeiter und Bauern.)
- ^ 東ドイツ憲法第1条「(ドイツ民主共和国は)労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」(Sie ist die politische Organisation der Werktätigen in Stadt und Land unter der Führung der Arbeiterklasse und ihrer marxistisch-leninistischen Partei.)
- ^ 憲法には言論の自由、集会・結社の自由などが規定されていたが、それらはすべて「憲法に反しない」範囲とされており、結局第1条に規定されているSEDによる国家の指導権によって制約を受けた。また、刑法の規定ではSEDやソ連を批判するだけで1年から8年の懲役刑が科された(仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P74-75。
- ^ Erklärung des Vorsitzenden der Sowjetischen Kontrollkommission zur Übergabe von Verwaltungsfunktionen an deutsche Behörden vom 11. November 1949, aus: Ingo von Münch, Dokumente des geteilten Deutschlands, S. 325 ff.
- ^ Erklärung der Regierung der UdSSR über die Gewährung der Souveränität an die Deutsche Demokratische Republik vom 25. März 1954, aus: Ingo von Münch, Dokumente des geteilten Deutschlands, S. 329 ff.
- ^ Hans-Ulrich Wehler: Deutsche Gesellschaftsgeschichte. Bd. 5: Bundesrepublik und DDR 1949–1990, C.H. Beck, München 2008, S. XV, 342, 425, Zitat auf S. 23
- ^ Henning Köhler, Deutschland auf dem Weg zu sich selbst. Eine Jahrhundertgeschichte. Hohenheim-Verlag, Stuttgart 2002, S. 486 ff.; Wichard Woyke (Hrsg.), Handwörterbuch Internationale Politik, 11. Aufl., UTB, Opladen 2008, S. 64.
- ^ Heiner Emde: Vergessene Opfer an der Grenze. In: Focus Online, 1993年2月22日, 参照:2012年1月15日
- ^ Tote des 17. Juni 1953. In: 17. Juni 1953. 2004年, 参照:2008年11月12日
- ^ Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990. München 2000, S. 135–145 (Originalausgabe 1998).
- ^ しかしそれにも関わらず、1963年にはウルブリヒトが「明快で、誠実で、質素で、率直で、立派で、清潔である」ことから、60歳の誕生日会が行われた。そして、「高貴な人間性」を持った「新しいタイプの政治家」であると吹聴された。Hermann Weber: DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990. Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S. 100 (Originalausgabe 1976).
- ^ Hermann Weber: DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990. Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S. 98 (Originalausgabe 1976).
- ^ Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990. München 2000, S. 187 (Originalausgabe 1998).
- ^ Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990. München 2000, S. 208–210 (Originalausgabe 1998).
- ^ ウルブリヒトはこれらの職を追われ、実権をホーネッカーに奪われた後も国家元首である国家評議会議長の職には死去するまで在任していた。
- ^ Ulrich Mählert: Kleine Geschichte der DDR. 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 117–119; Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990. München 2000, S. 219 f. (Originalausgabe 1998).
- ^ Einen Milliardenkredit fädelte 1983 Franz Josef Strauß ein; vgl. hierzu einestages (Spiegel Online): Milliardenspritze für den Mauerbauer.
- ^ Manfred Jäger: Kultur und Politik in der DDR 1945–1990. Köln 1995, S. 140.
- ^ Hermann Weber: DDR. Grundriß der Geschichte 1945–1990. Vollständig überarbeitete und ergänzte Neuauflage, Hannover 1991, S. 147 (Originalausgabe 1976).
- ^ Zitiert bei Heinrich August Winkler: Der lange Weg nach Westen. Bd. 2: Deutsche Geschichte vom „Dritten Reich“ bis zur Wiedervereinigung. C.H. Beck, München 2010, S. 364.
- ^ Zitiert nach Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990. München 2000, S. 235 (Originalausgabe 1998).
- ^ Manfred Jäger: Kultur und Politik in der DDR 1945–1990. Köln 1995, S. 165–167.
- ^ Joachim Kahlert: Die Energiepolitik der DDR – Mängelverwaltung zwischen Kernkraft und Braunkohle, Bonn 1988.
- ^ Zitat in Honecker: „Er meint die Mauer“, Focus Magazin, Nr. 22, 1995.
- ^ Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990. München 2000, S. 269–271.
- ^ Ulrich Mählert: Kleine Geschichte der DDR. 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 137.
- ^ 東ドイツの発表によれば、貿易調整部は、1967年~1989年までに410億ドイツマルクを調達しており、そのうち270億マルクが直接企業を経営したり、他のビジネスで得たものであり、140億マルクが西ドイツに払ってもらったものである。(Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Partei, Staat und Gesellschaft 1949–1990. München 2000, S. 272.)
- ^ Ganz spitze Finger. In: Der Spiegel. Nr. 36, 1991, S. 31–35.
- ^ Der Zorn wird täglich größer. In: Der Spiegel. Nr. 50, 1989, S. 30–37 (11. Dezember 1989).
- ^ Ulrich Mählert: Kleine Geschichte der DDR. 4. überarbeitete Aufl., München 2004, S. 134.
- ^ Hans-Hermann Hertle, Konrad H. Jarausch (Hrsg.): Risse im Bruderbund. Die Gespräche Honecker – Breshnew 1974 bis 1982. Links, Berlin 2006.
- ^ 三浦元博・山崎博康『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』(岩波新書 1992年 ISBN4004302560)P3-4
- ^ 1988年には、ソ連の雑誌「スプートニク」を発禁処分にしている。(南塚信吾、宮島直機『’89・東欧改革―何がどう変わったか』 講談社現代新書 1990年 P106)
- ^ 三浦・山崎『東欧革命-権力の内側で何が起きたか-』P36
- ^ 伸井斌『もうひとつのドイツ』(1983年 朝日新聞社)P173
- ^ 先に戦前の名称を継承して設立された西側のルフトハンザと対抗したものの結局敗れ、新たに設立されたインターフルークが国営航空会社としての役割を継承した。
- ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P98
- ^ 仲井斌『もうひとつのドイツ』(朝日新聞社、1983年)P155、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』(岩波書店 ヨーロッパ史入門 2009年)P103-P104、永井清彦。南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』(日本放送出版協会 1990年)P80-81
- ^ 仲井斌『もうひとつのドイツ』P155-P156、メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78
- ^ Mary Fulbrook, Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR. Darmstadt 2008, S. 167 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).
- ^ 1973年は180,336人だったが、1980年には245,132人となった。参照:Mary Fulbrook: Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR. Darmstadt 2008, S. 173 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).
- ^ Mary Fulbrook: Ein ganz normales Leben. Alltag und Gesellschaft in der DDR. Darmstadt 2008, S. 161, 178 (engl. Originalausgabe: New Haven and London 2005).
- ^ a b Klaus Schroeder: 20 Jahre nach dem Mauerfall – eine Wohlstandsbilanz. In: Gutachten für die Initiative Neue Soziale Marktwirtschaft. (PDF), S. 22–27.
- ^ Peter Krewer: Geschäfte mit dem Klassenfeind. Die DDR im innerdeutschen Handel 1949–1989. Trier 2008, S. 216 ff., 299.
- ^ Kraftfahrzeugtechnik, Heft 2/1990, S. 46–47.
- ^ 『ドイツ憲法集【第6版】』翻訳:高田敏、初宿正典(2010年 信山社)P13の表記に拠った。原語を直訳すると「諸州院」
- ^ ただし、ビールやコーヒーなどの嗜好品の品質は低く、コーヒーは1970年代にはチコリの根などの代用コーヒーが半分混ざった状態のものであったし、ドイツの名産品であるはずのビールでも原料が確保できずにビール純粋令を遵守出来ないような物しか作れなかったり、同じ銘柄でも輸出用だけ味の良いものが製造されて国内用は味が落ちる、という状態であった(伸井太一『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P24-30)。
- ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P73-79、伸井斌『もうひとつのドイツ』P157-159
- ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P77-78
- ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P74-75
- ^ ベルリンの壁が建設される1961年までは、東西ドイツ間の移住は比較的容易であった。(フランク・リースナー著 菅野智明監修 生田幸子訳『私は東ドイツに生まれた』2012年 東洋書店 P171)ため、東西間で聖職者の移動も行われており、例えば福音主義教会の牧師だったアンゲラ・メルケルの父親も1954年にハンブルクから妻子とともに東ドイツへ赴任・移住している。
- ^ Konrad-Adenauer-Stiftung: Freikirchen in der ehemaligen DDR
- ^ 教会の青年組織の存在は社会主義統一党の青年組織自由ドイツ青年団にとっては目の上のコブであったため、教会組織を弱めようとしていた(仲井斌『もうひとつのドイツ』P111)
- ^ Klaus Schroeder: Der SED-Staat. Geschichte und Strukturen der DDR. München 1998, S. 474.
- ^ Gerhard Krause, Gerhard Müller (Hrsg.): Theologische Realenzyklopädie. (TRE). DeGruyter, Berlin 1993, S. 601.
- ^ Joachim Heise: Kirchenpolitik von SED und Staat. In: Günther Heydemann, Lothar Kettenacker (Hrsg.): Kirchen in der Diktatur: Drittes Reich und SED-Staat. Vandenhoeck und Ruprecht, Göttingen 1993, ISBN 3-525-01351-5, S. 136.
- ^ Konrad-Adenauer-Stiftung: Mythos: „Die Kirchen waren in das System der SED-Diktatur integriert“
- ^ メアリー・フルブルック(芝健介訳)『二つのドイツ 1945-1990』P100-101
- ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P97
- ^ Blick über die Mauer: Medien in der DDR, In: Bundeszentrale für politische Bildung, 2011年6月8日, 参照:2013年2月17日]
- ^ In der DDR gab es keine freien und unabhängigen Medien, es herrschten staatliche Kontrolle und Genehmigungspflicht, In: Konrad-Adenauer-Stiftung, 参照:2013年2月17日
- ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈2〉 ≒東ドイツ製生活用品』P50-51
- ^ サイマル出版会編 協力:パノラマDDR(東ドイツ対外出版公社)とライゼビューロー(東ドイツ国営旅行公社)『行ってみたい東ドイツ』(1983年 サイマル出版会)P268
- ^ 伸井太一 『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』 (社会評論社〈共産趣味インターナショナル VOL2〉2009年)P96-97
関連項目
- ドイツ民主共和国憲法
- トロイハントアンシュタルト (Treuhandanstalt) - 旧東ドイツ国営企業整理のため、東西統一後のドイツ政府により設立された信託公社。独自の調査で「旧西ドイツの2倍の労働者数で2分の1の労働成果しか果たしていない(つまり生産効率が旧西ドイツの25%にしか達していない)」と断言し、多数の旧東ドイツ国営企業を解体・改組、失業を生んだ。現在も旧東ドイツ地域の失業率は、西側先進国の4~5倍近い20%前半台である。3代目長官であったデトレフ・ローヴェダー (Detlev Karsten Rohwedder) は旧東ドイツ側失業者の恨みを一身に背負い、東西ドイツ統一のわずか半年後である1991年4月に暗殺された。
- DDRラジオ放送局
- ドイツテレビジョン放送
- ベルリンSバーン485型電車 - 東ドイツの地下鉄車両。
- SVT(Schnellverkehrstriebwagen) - BR175、675系(旧称は「VT16系」、及び「VT18系」)。旧東ドイツで開発され、1964年より運行が開始された特急電車。時速は160km。外見は日本の初代新幹線である新幹線0系電車に似ている。
- アンペルマン - 東ドイツ生まれの信号機キャラクター。
- ザントマン - 元々は古くからドイツに伝わる童謡。東ドイツのテレビ局により、未来の乗り物などが多数登場するクレイアニメ版が製作され、統一後はドイツ全体に浸透し、親しまれる。
- メルクス・ヴァルトブルグ・RS1000 - 共産圏全体の中でも珍しい東ドイツ製スーパーカー。2005年よりBMWの技術協力を受け開発された後継車種シリーズRS200は現在も生産・販売されるなど、ドイツ統一後も命脈を保ち続けている。
- バーデ 152 - 東ドイツが独自に開発した民間旅客機機種。
- オスタルギー - 旧東ドイツ国民が社会主義時代の過去へ寄せる郷愁を意味する造語。ドイツ語で東を意味する「オスト」と「ノスタルギー」(英語でいう「ノスタルジー」との合成)。
- ジークムント・イェーン - 旧国家人民軍空軍少将、東ドイツ宇宙飛行士第一号。
- トーマス・ハイゼ - 旧東ドイツで代表的な映画監督。
- 消滅した政権一覧
- 冷戦
- ドイツ再統一
外部リンク
- DDR Museum - ベルリンにある、ドイツ民主共和国に関する資料を展示している博物館(ドイツ語、英語)
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西側諸国 | 東側諸国 | 統一後の状況 | |||
大韓民国(韓国) (朝鮮半島南部) |
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) (朝鮮半島北部) |
未統一 (朝鮮統一問題も参照) |
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サイゴン陥落前の南ベトナム (ベトナム国→ベトナム共和国) |
ベトナム民主共和国(北ベトナム) (+サイゴン陥落後の南ベトナム) |
ベトナム社会主義共和国 (統合<補足>:1976年7月2日) |
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中華民国 (台湾) |
中華人民共和国 (中国大陸) | 未統一 (中国統一も参照) |
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ドイツ連邦共和国 (西ドイツ) |
ドイツ民主共和国 (東ドイツ) |
ドイツ連邦共和国 (再統一:1990年10月3日) |
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イエメン・アラブ共和国 (北イエメン) |
イエメン人民民主共和国 (南イエメン) |
イエメン共和国 (統一:1990年5月22日) ただし内戦下で再分裂 |
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アンゴラ民主人民共和国 | アンゴラ人民共和国 | アンゴラ共和国 (統一:2002年4月4日) |
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※太字記載の国は統一の主体となった国。 |