1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙
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(ドイツ民主共和国人民議会1990年選挙から転送)
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主要政党の州別得票結果 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙(1990ねんドイツみんしゅきょうわこくじんみんぎかいせんきょ、ドイツ語: Volkskammerwahl 1990)は、1990年3月18日にドイツ民主共和国(東ドイツ)で行われた人民議会議員の総選挙である。
概要
[編集]前年1989年の東ドイツの民主化とそれに続くベルリンの壁崩壊で、社会主義統一党 (SED) の一党独裁体制が崩壊し、新たな政府を発足させるために行われた選挙である。
この選挙によって東西ドイツの早期統一を掲げる勢力が勝利し、同年10月に東西ドイツが統一されたため、東ドイツにとっては最初で最後の自由選挙となった(それ以前の選挙は、予め議席数の決まったリストに賛否を問うものでしかなかった)[1]。この地域で行われた自由選挙としては、1932年11月ドイツ国会選挙以来実に57年ぶりである[注 1]。
選挙データ
[編集]内閣
[編集]- 選挙前:モドロウ内閣(第5代)
- 首相:ハンス・モドロウ
- 選挙後:デメジエール内閣(第6代)
- 首相:ロタール・デメジエール
投票日
[編集]- 1990年3月18日
改選数
[編集]- 400(100)
選挙制度
[編集]- 比例代表制
- 35:ベルリン(東ベルリン)
- 46:ドレスデン県
- 48:カール=マルクス=シュタット県
- 37:ライプツィヒ県
- 22:ゲーラ県
- 34:エアフルト県
- 17:ズール県
- 47:ハレ県
- 34:マクデブルク県
- 25:コトブス県
- 31:ポツダム県
- 21:フランクフルト (オーダー)県
- 19:ノイブランデンブルク県
- 18:シュヴェリーン県
- 26:ロストック県
- 議席阻止条項はなし
- 得票は全国レベルで集票して各党に比例配分(ニーマイアー式による議席配分)
- 次に各選挙区に選挙区毎の得票数に応じて、配分される。
- 政党への助成 - 有効得票総数の 0.25% を得た政党には、1票につき5マルクが国庫補助金として支給される。
選挙結果
[編集]党派別獲得議席
[編集]政党/候補者名簿連合 | 議席数 | 増減 | 得票数 | 得票率 | 改選前 | |||
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キリスト教民主同盟 | CDU | 163 | 91 | 4,710,598 | 40.82% | 52 | ||
ドイツ社会同盟 | CSU | 25 | 25 | 727,730 | 6.31% | 新党 | ||
民主主義の出発 | DA | 4 | 4 | 106,146 | 0.92% | 新党 | ||
民主社会党[注 3] | PDS | 66 | 39 | 1,892,381 | 16.40% | 105 | ||
自由民主同盟[注 4] | BFD | 21 | 31 | 608,935 | 5.28% | 52 | ||
ドイツ民主農民党 | DBD | 9 | 43 | 251,226 | 2.18% | 52 | ||
ドイツ国家民主党 | NDPD | 2 | 50 | 44,292 | 0.38% | 52 | ||
ドイツ民主婦人同盟 | DFD | 1 | 31 | 38,192 | 0.33% | 32 | ||
オルタナティブ青年リスト[注 5] | AJL | 0 | 37 | 14,616 | 0.13% | 37 | ||
自由ドイツ労働総同盟 | FDGB | 0 | 61 | - | - | 61 | ||
東ドイツ文化連盟 | KB | 0 | 21 | - | - | 21 | ||
農民共済組合 | VdgB | 0 | 14 | - | - | 14 | ||
東ドイツ社会民主党[注 6] | SDP | 88 | 88 | 2,525,534 | 21.88% | 新党 | ||
同盟90[注 7] | B90 | 12 | 12 | 336,074 | 2.91% | 新党 | ||
東ドイツ緑の党・独立婦人同盟[注 8] | GP-UFV | 8 | 8 | 226,932 | 1.97% | 新党 | ||
統一左翼行動同盟[注 9] | VL | 1 | 1 | 20,342 | 0.18% | 新党 | ||
キリスト教同盟 | LIGA | 0 | 10,691 | 0.09% | 新党 | |||
ドイツ共産党 | KPD | 0 | 8,819 | 0.08% | 新党 | |||
ドイツ独立社会民主党 | USPD | 0 | 3.891 | 0.03% | 新党 | |||
欧州連邦党 | EFP | 0 | 3.636 | 0.03% | 新党 | |||
独立人民党 | UVP | 0 | 3,007 | 0.03% | 新党 | |||
ドイツビール飲酒者同盟 | DBU | 0 | 2.534 | 0.02% | 新党 | |||
ドイツスパルタシスト労働者党 | SpAD | 0 | 2,417 | 0.02% | 新党 | |||
いま団結を | EJ | 0 | 2,396 | 0.02% | 新党 | |||
社会主義労働者連盟 | BSA | 0 | 386 | 0.00% | 0 | |||
労働政策と民主主義に関する作業部会協会 | VAA | 0 | 380 | 0.00% | 新党 | |||
無所属・欠員 | 0 | 22 | - | - | 22 | |||
総計 | 400 | 100 | 11,541,155 | 100.0% | 500 | |||
有効票数(有効率) | 11,541,155 | 99.45% | ||||||
無効票・白票数(無効率) | 63,263 | 0.55% | ||||||
投票総数(投票率) | 11,604,418 | 93.38% | ||||||
棄権者数(棄権率) | 822,025 | 6.62% | ||||||
有権者数 | 12,426,443 | 100.0% | ||||||
出典:IPU |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1933年3月ドイツ国会選挙も複数政党のもとで行われたが、既にナチ党政権が成立しており、また国会解散後に国民の集会の自由および報道の自由を制限する「ドイツ民族保護のための大統領令」が、投票直前に国会議事堂放火事件が発生した後には事実上の戒厳令である「国民及び国家保護のための大統領令」がヒトラー首相の建議によってヒンデンブルグ大統領より出されていたため、選挙期間中に社会民主党など対立政党に対する様々な嫌がらせ・弾圧が行われていた。
- ^ 社会主義体制時代の衛星政党であるドイツキリスト教民主同盟(西ドイツの同名政党とは別団体)などが、西ドイツのドイツキリスト教民主同盟の支援を受けた政党連盟である。
- ^ ドイツ社会主義統一党(SED)が、ごく短期間は社会主義統一民主社会党(SED-PDS)を名乗ったのち、選挙前に再改名したもの。統一後、2007年に左翼党となる。
- ^ 社会主義体制時代の衛星政党であるドイツ自由民主党(1990年2月に LDPD を LDP に改めた)と東ドイツ自由民主党 およびドイツ・フォーラム党(DFP)の3党で結成された連合体。
- ^ 民主化以前の人民議会では、国民戦線を形成していた自由ドイツ青年団(SEDの青年組織)・自由ドイツ労働総同盟(官製労組)・文化連盟などの諸団体にも議席が配分されていた。
- ^ 第二次世界大戦直後の旧ソ連占領地区ではドイツ社会民主党はドイツ共産党と半強制的に合併させられドイツ社会主義統一党となっていたが、西ドイツのドイツ社会民主党の支援を受けて再建された。
- ^ 市民団体・新フォーラム、民主主義を今、平和と人権イニシアティヴの連合体。1993年に旧西ドイツ側の緑の党と統合し、同盟90/緑の党となっている。
- ^ 東ベルリンの女性たちがドイツ民主婦人同盟に対抗して創設したグループ。
- ^ キリスト教社会主義者、トロツキスト、チトー主義的な自主管理社会主義者などが集った統一左翼(VL)とマルクス主義の正統派を名乗ったカーネーション(ナデシコの意味。社会主義統一党を見限ったマルクス主義者が多かった)の連合体。のちに両者とも民主社会党と連携を組んだ。
出典
[編集]- ^ ドイツ統一までの道のり - ドイツ連邦共和国大使館
参考文献
[編集]- 山田徹著『東ドイツ・体制崩壊の政治過程』(日本評論社)380頁、表12-1「選挙結果:各党の得票・議席数」
関連項目
[編集]- ザビーネ・ベルクマン=ポール - 自由選挙実施後からドイツ再統一までの期間、東ドイツの国家元首(人民議会議長)を務めた女性政治家。
- ロタール・デメジエール - 東ドイツ最後の閣僚評議会議長(首相)を勤めた。