コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「アレクサンダー・グラハム・ベル」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
RedBot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.2) (ロボットによる 追加: ckb:ئەلێکساندەر گراهام بێڵ
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m 解消済み仮リンクベル電話会社を内部リンクに置き換えます (今回のBot作業のうち59.6%が完了しました)
 
(100人を超える利用者による、間の159版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 人物
{{Infobox scientist
| name = アレクサンダー・グラハム・ベル<br />Alexander Graham Bell
| name = アレクサンダー・グラハム・ベル
| image = Alexander Graham Bell.jpg
| image_width =
| image = Alexander Graham Bell.jpg
| alt =
| caption = <center>Portrait of Alexander Graham Bell</center> <center>c.1914–1919</center>
| caption = 1914年から1919年ごろ
| birth_date = {{birth date|1847|03|03|df=y}}
| birth_name =
| birth_place = {{SCO}} [[エディンバラ]]
| death_date = {{death date and age|1922|8|2|1847|3|3|mf=y}}
| birth_date = {{生年月日と年齢|1847|03|03|no}}
| death_place = {{CAN}} [[スコシア州]]
| birth_place = {{SCO}}[[エディン]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1847|3|3|1922|8|2}}
| death_cause = [[糖尿病]]
| death_place = {{CAN1921}}、[[ノバスコシア州]] ベイン・バリー
| education = [[エディンバラ大学]]<br>[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]
| death_cause =
| occupation = Inventor, Scientist, Engineer, Professor (Boston University), Teacher of the Deaf
| residence = {{GBR3}}、{{USA1877}}、{{CAN1868}}
| known_for = [[電話機]]の発明
| citizenship = <!-- 市民権 -->
| spouse = [[:en:Mabel Hubbard|Mabel Hubbard]] <br>(married 1877–1922)
| nationality = {{GBR3}}、{{USA1877}}、{{CAN1868}}
| parents = [[:en:Alexander Melville Bell|Alexander Melville Bell]]<br>Eliza Grace Symonds Bell
| field = [[工学]]
| signature = AGB Signature.svg
| workplaces = [[ボストン大学]]
| children = (4) Two sons who died in infancy and two daughters
| alma_mater = [[エディンバラ大学]]<br/>[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]
| relatives = [[:en:Gardiner Greene Hubbard|Gardiner Greene Hubbard]] (father-in-law)<br>[[:en:Gilbert Hovey Grosvenor|Gilbert Hovey Grosvenor]] (son-in-law)<br>[[:en:Melville Bell Grosvenor|Melville Bell Grosvenor]](grandson)
| doctoral_advisor = <!-- 博士課程指導教員 -->
| academic_advisors = <!-- 他の指導教員 -->
| doctoral_students = <!-- 博士課程指導学生 -->
| notable_students = <!-- 他の指導学生 -->
| known_for = [[電話機]]の発明
{{Listen |pos=center |embed=yes |filename=Alexander Graham Bell speaking.ogg |title={{big|電話機で話すベルの声}}{{thinsp}}<ref name="voice">{{cite web |url=https://spectrum.ieee.org/particle-physics-resurrects-alexander-graham-bells-voice|title=アレクサンダー・グラハム・ベルの肉声|website=[[IEEE Spectrum]] |access-date=May 10, 2018|date=April 30, 2018}}</ref> |type=speech |description=[[Volta Laboratory and Bureau#Bell's voice|Re-identified in 2013]], Bell made this [[Phonograph cylinder#Early development|wax-disc]] recording of his voice in 1885.}}
| influences = <!-- 影響を受けた者 -->
| influenced = <!-- 影響を与えた者 -->
| awards = <!-- 主な受賞歴 -->
| author_abbreviation_bot = <!-- 命名者名略表記(植物学) -->
| author_abbreviation_zoo = <!-- 命名者名略表記(動物学) -->
| signature = Alexander Graham Bell (signature).svg
| signature_alt =
| footnotes =
}}
}}
'''アレクサンダー・グラハム・ベル'''('''Alexander Graham Bell'''、[[1847年]][[3月3日]] - [[1922年]][[8月2日]])は、[[スコットランド]]生まれの[[科学者]]、[[発明家]]、[[工学者]]。世界初の実用的[[電話]]の発明で知られている{{#tag:ref|ベルは元々はイギリス市民だった。[[アメリカ合衆国の市民権]]を得たのは電話を発明した後の1882年のことであり、その後はアメリカ人を自称した。ベル自身はこれについて「あなたは生まれた国の市民になるしかない。しかし私は自分でそれを選んだ」と述べている<ref>{{Harvnb|Gray|2006|p=228}}</ref>。ベル自身の見解は別として、[[カナダ総督]]の演説でも示されているように、カナダ市民の多くはベルをカナダ市民と考えていた。1917年10月24日、ブラントフォードでのベル電話記念碑の除幕式で彼(カナダ総督)は数千人の観衆を前にして次のように述べた。「ベル博士に対し同じ市民や同胞の評価が得られたことをここに祝う」<ref name="B.H.S.-Reville">Reville, F. Douglas. [http://brantford.library.on.ca/localhistory/pdfs/reville1.pdf "History of the County of Brant: Illustrated With Fifty Half-Tones Taken From Miniatures And Photographs."] ''Brantford Historical Society,'' Hurley Printing,Brantford, Ontario, 1920, p. 319. Retrieved from ''Brantford.Library.on.ca'', May 4, 2012.</ref>|group="注釈"}}。
'''アレクサンダー・グラハム・ベル'''(Alexander Graham Bell, [[1847年]][[3月3日]] - [[1922年]][[8月2日]])は、[[スコットランド]]生まれの学者、発明家。その生涯を通じて科学振興および[[ろう教育|聾者教育]]に尽力した。


ベルの祖父、父、兄弟は[[弁論術]]と[[スピーチ]]に関連した仕事をし、母と妻は[[ろう者|聾]]だった。このことはベルの[[ライフワーク]]に深く影響している<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=419}}</ref>。[[聴覚]]とスピーチに関する[[研究]]から聴覚機器の実験を行い、ついに最初の[[米国の特許制度|アメリカ合衆国の特許]]を取得した電話の発明(1876年)として結実した{{#tag:ref|引用: 「電子工学技術を応用し、電信と同じように送信機と受信機で音声を送り、人間の聴覚を補助することができると彼は思った」<ref>{{Harvnb|Black|1997|p=18}}</ref> |group="注釈"}}。のちにベルは彼のもっとも有名な発明が科学者としての本当の仕事には余計なものだったと考え、書斎に電話機を置くことを断わった<ref name="multiref1">{{harvnb|MacLeod|1999|p=19}}</ref>{{#tag:ref|ベルの死後、未亡人のメイベルはAT&T副社長ジョン・J・カーティへの手紙でベルが書斎に電話を置かなかった件について次のように記している。「(新聞に書かれた)…ベルが電話を嫌っていたという件について。もちろん彼は書斎に決して電話を置かせませんでした。書斎は彼にとって考えにふけり仕事をするために行く場所でした。電話は当然ながら外界からの侵入を意味します。そして電話での会話には(時候の挨拶やご機嫌伺いなど)面倒なやりとりが伴い、彼はそれにいらいらさせられたので、他者に伝言のやりとりを依頼するというやり方を好みました。しかし、ビジネス上の本当に重要な件は自分で電話を使っていました。うちのように完璧に電話を設置した民家はほとんどなく…ベルほど我が家の電話サービスにこだわった者はいません… 電話によってお医者様やご近所と親密に交わり、電信局とも定期的に連絡できたので、電話がなかったらここに住みつづけることができなかったでしょう。…… ベルは冗談半分に「どうして電話を発明してしまったんだろう」とよく言っていましたが、誰よりも電話の必要性を理解していたし、必要とあれば自由にそれを使いこなし、それを成し遂げたことを大いに誇りに思っていました」<ref>Bell, Mabel. [http://ia600208.us.archive.org/17/items/belltelephonemag26amerrich/belltelephonemag26amerrich.pdf "Twenty-Five Years Ago: Dr. Bell's Telephone Service (letter, dated August 24, 1922)."] ''Bell Telephone Quarterly,'' Vol. 1, No. 3, October 1922, reprinted in ''Bell Telephone Magazine'', Autumn 1947, p. 174.</ref>|group="注釈"}}。
ベルが会長(在職期間:1896年 - 1904年)を務めた[[ナショナルジオグラフィック協会]]の月刊誌である『[[ナショナル ジオグラフィック]]』日本版(日経ナショナル ジオグラフィック社)では「アレクサンダー・グラハム・ベル」としているため、本記事ではこれに従うが、表記発音については脚注参照<ref>アレグザンダー・グレアム・ベルとも表記発音する。ファーストネームよりもミドルネームのほうが知られており、グラハム・ベル、またはグレアム・ベルと呼ばれることも多い。なお、原音に比較的近い表記はエリグゼンダ・グレイアム・ベル([[国際音声記号|IPA]]: /ˌælɪgzˈændɚ grˈeɪəm bˈel/)[http://ejje.weblio.jp/content/Alexander][http://ejje.weblio.jp/content/Graham][http://ejje.weblio.jp/content/bell#]である。</ref>。


その後もさまざまな発明をしており、[[光無線通信]]・[[水中翼船]]・[[航空工学]]などの分野で重要な業績を残した。1888年には[[ナショナルジオグラフィック協会]]創設に関わった<ref>[http://www.nationalgeographic.com/mission/ "National Geographic Mission."] ''nationalgeographic.com.'' Retrieved: July 28, 2010.{{リンク切れ|date=2012年12月}}</ref>。その生涯を通じて科学振興および[[ろう教育|聾者教育]]に尽力し、人類の歴史上もっとも影響を及ぼした人物の1人とされることもある<ref>{{Harvnb|Hart|2000|p=222}}</ref>。[[デシベル]] (decibel; dB)などに使われる相対単位「ベル」などにその名を残す。
== 略歴 ==
* [[1847年]] - [[スコットランド]]の[[エディンバラ]]に生まれる。父は大学教授で視話法の考案者であるアレクサンダー・メルヴィル・ベル (Alexander Melville Bell) 。母はイライザ・グレイス (Eliza Grace)。
* [[1863年]] - 高等教育を受けたベルは寄宿学校[[ウェストンハウス学院]] (Weston House) で教職を得る。この頃、[[エディンバラ大学]]でも音声学を学んでいるが、電気と音声についても興味を持つ。
* [[1868年]] - [[ロンドン大学]]に学ぶ。
* [[1870年]] - 一族で[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]へ移住、後にアメリカへ移る。[[猩紅熱]](しょうこうねつ)の後遺症で深刻な問題であった[[聾|聾者教育]]のために東海岸の複数の学校で[[視話法]]を教える。
* [[1873年]] - [[ボストン大学]] (Boston University) で[[発声生理学]]を教える。この前後に[[マサチューセッツ]]で製皮会社を経営するトマス・サンダース (Thomas Sanders, [[1839年]] - [[1911年]])、弁護士を開業しているG・G・ハバード (Gardiner Green Hubbard) と友人になる。
* [[1874年]] - 20歳の電気工である T・A・ワトソン (Thomas Augustus Watson) と出会う。ワトソンはベルの[[電話]]の発明に協力する。
* [[1876年]][[2月14日]] - [[ワシントンD.C.|ワシントン]]特許局に「電信の改良」(Improvment in Telegraphy) の特許を出願。同年の[[3月3日]]に認可され[[3月7日]]に公告された(特許番号 174,465)。
* 1876年[[3月10日]] - 電話の実験に成功、最初の言葉は「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」 ("Mr. Watson! Come here; I want you!") 。
* [[1877年]] - 電話機を日本へ輸出する。
* [[1877年]] - ハバードの三女メイベル (Mabel Green Hubbard) と結婚。
* [[1878年]] - 「電気的電信の改良」 (Improvment in Electric Telegraphy) の特許(特許番号 186,787)を得る。
* [[1875年]] - ハバードとサンダースとベルの3人は特許に関しBell Patent Association の協定を成立させる。これが幾多の変遷を経て「ベル・システム」を完成させた[[AT&T]] (American Telephone and Telegraph Company) へつながっていく。<ref>詳細は[[林紘一郎]]と田川義博の共著『ユニバーサル・サービス』[[中公新書]](1994年)を参照。</ref>
* [[1882年]] - 「[[サイエンス]] SCIENTIFIC AMERICAN」を発行する[[アメリカ科学振興協会]] (American Association for the Advancement of Science) を創設する。
* [[1882年]] - アメリカ国籍へ[[帰化]]する。
* [[1887年]] - [[アン・サリヴァン]]を旧知の[[ヘレン・ケラー]]の家庭教師として紹介する。
* [[1922年]][[8月2日]] - 没す。


ベルが会長(在職期間:1896年 - 1904年)を務めた[[ナショナルジオグラフィック協会]]の月刊誌である『[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]]』日本版(日経ナショナル ジオグラフィック社)では「アレクサンダー・グラハム・ベル」としているため、本記事ではこれに従うが、表記発音については脚注参照<ref group="注釈">アレグザンダー・グレアム・ベルなどとも表記する。ファーストネームよりもミドルネームのほうが知られており、グラハム・ベル、またはグレアム・ベルと呼ばれることも多い。なお、原音に比較的近い表記はアレグザンダ・グレイアム・ベル( {{IPA-en|ˌælɪgˈzændɚ ˈgreɪəm ˈbel|}} )[http://ejje.weblio.jp/content/Alexander][http://ejje.weblio.jp/content/Graham][http://ejje.weblio.jp/content/bell#]である。</ref>。
== 電話に関する逸話 ==

[[ファイル:Actor_portraying_Alexander_Graham_Bell_in_an_AT&T_promotional_film_(1926).jpg|thumb|200px|right|グラハム・ベル自ら電話機で話す様子(1876年)]]
== 前半生 ==
* 1876年の電話の実験成功の直後に、東京音楽学校の校長となる[[伊沢修二]]と留学生仲間であるのちの司法大臣[[金子堅太郎]]は電話を使って会話をしており、[[日本語]]が世界で2番目に電話を通して通話された言語になった。
[[ファイル:Alexander graham bell family.jpg|thumb|right|両親と兄弟 (1852年)]]
* アメリカ人の発明家である[[イライシャ・グレイ]]はスコットランド人であるベルと同時期に[[電話]]を発明したが、ワシントン特許局への特許申請がベルより(2時間か3時間程度)遅れたため、特許取得を逃したとする説がある。アメリカは日本のように[[先願主義]]ではなく[[先発明主義]]でありしかも外国人のベルはこのシステムを利用できなかった。またグレイが申請したのは特許予約の申請であったため、順番で遅れてもリカバリーの手段があったのはグレイや彼の協力者も知っていたはずである。しかし先手を打たれたグレイが不利であった点も間違いはなく、このためグレイとの競争説は誤りとはいえないが、また本当であるともいえない。
[[1847年]]3月3日、[[スコットランド]]の[[エディンバラ]]に生まれる<ref>{{Harvnb|Petrie|1975|p=4}}</ref>。生家のあった場所には、2012年現在石碑が立っている。メルヴィル・ジェームズ・ベル(1845年 - 1870年)とエドワード・チャールズ・ベル(1848年 - 1867年)という2人の兄弟がいたが、2人とも[[結核]]で若くして亡くなった<ref>[http://memory.loc.gov/ammem/bellhtml/belltime.html "Time Line of Alexander Graham Bell."] ''memory.loc.goiv.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref>。父は大学教授の[[アレクサンダー・メルヴィル・ベル]]、母はイライザ・グレイス(旧姓はシモンズ)である<ref>"Alexander M. Bell Dead. Father of Prof. A.G. Bell Developed [[手話|Sign Language]] for Mutes." ''[[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]]'' Tuesday, August 8, 1905.</ref>。ベルが生まれたときの名前にはミドルネームがなかったが、10歳のときに父に兄弟たちのようなミドルネームが欲しいと懇願した<ref>[http://www.fi.edu/case_files/bell/agb.html "Call me Alexander Graham Bell."] ''fi.edu.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref>{{#tag:ref|ベルは名前を略さずフルネームで署名していた。|group="注釈"}}。11歳の誕生日、父はその願いを聞き入れ "Graham" というミドルネームを与えた。"Graham" としたのは、父の友人にアレクサンダー・グラハムというカナダ人がいたからで、その友人への敬意をこめてそれをミドルネームとしたのだった<ref>{{harvnb|Groundwater|2005|p=23}}</ref>。父は彼を「アレック」と呼び続け、近親者や友人にもアレックと呼ばれていた<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=17-19}}</ref>。
* 一世紀以上の間、イタリア以外では電話はベルによって発明された事になっていた。 2002年6月11日アメリカ合衆国議会の決議案269で[[アントニオ・メウッチ]]が電話の最初の発明者として公式に認められた。

=== 最初の発明 ===
幼いころから好奇心旺盛で、植物標本を集めたり、実験したりしていた。そのころの親友ベン・ハードマンの家では製粉所などを営んでいた。若きベルは製粉所で困ったことはないかと訊ねた。そして、製粉前の脱穀が重労働だということを知り、12歳のアレックは回転パドルとブラシを組み合わせた単純な脱穀機を作り、それが何年も実際に使われたという<ref name="Bruce p. 16.">{{Harvnb|Bruce|1990|p=16}}</ref>。お返しにベンの父ジョン・ハードマンは2人の少年に「発明」のための作業場を与えた<ref name="Bruce p. 16."/>。

幼いころから感受性が高く、母から芸術、詩、音楽を教え込まれ才能を発揮した。正式な訓練を受けずにピアノ演奏を習得し、一家のピアニストになった<ref name="Gray p. 8">{{Harvnb|Gray|2006|p=8}}</ref>。普段は物静かで内省的であるにもかかわらず、訪問客があると物真似や[[腹話術]]のような「声のトリック」でもてなし、楽しませた。また母の聴覚障害が進行したことにも深く影響を受け(彼が12歳のとき聴力を失い始めた)、手話を習得し、母の側に座り家族の会話を手話で同時通訳した<ref name="Gray p. 9">{{Harvnb|Gray|2006|p=9}}</ref>。さらに、母の額に直接口を当てて明瞭に発音することで、母がそれなりの明瞭さで聞き取れるというテクニックも生み出した<ref name="Mackay p.25">{{Harvnb|Mackay|1997|p=25}}</ref>。母の聴覚障害について没頭するあまり、[[音響学]]を学び始めることになった。

彼の一族は長年弁論術の教育に関わってきた。祖父アレクサンダー・ベルはロンドンで、叔父は[[ダブリン]]で、父はエディンバラで弁論術の専門家として活躍している。父は ''The Standard Elocutionist'' (1860)<ref name="Gray p. 8"/> などの著作で知られている。''The Standard Elocutionist'' はイギリスで168刷まで版を重ね、アメリカ合衆国でも25万部以上を売り上げた。その中で父は、[[ろう者|聾唖者]](当時の呼称)に単語の発音を教える技法や、[[読唇術]]で他者が何をしゃべっているかを推測する技法を説明している。父はアレックや兄弟に[[視話法]]の書き方だけでなく、さまざまなシンボルとそれに付随する発音の識別法を教えた<ref name="Petrie p. 7">{{Harvnb|Petrie|1975|p=7}}</ref>。ベルはそれに熟達したため、父の公開デモンストレーションでも実演し、聴衆を驚かせた。彼は視話法で書かれていればどんな言語でも事前知識なしに正確に発音でき、[[ラテン語]]、[[スコットランド・ゲール語]]、さらには[[サンスクリット]]などを発音して人々を驚かせた<ref name="Petrie p. 7"/>。

=== 教育 ===
幼少期のアレックは兄弟たちと同様、自宅で父から教育を受けた。それ以外に早くからエディンバラの [[:en:Royal High School, Edinburgh|Royal High School]] に入学したが、最初の4学年まで修了した15歳のときに退学している<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=31}}</ref>。学校での記録によれば、欠席常習者で成績も平凡だった。彼が興味を持っていたのは科学、特に生物学だったが、ほかの教科にはまったく無関心だった<ref>{{harvnb|Gray|2006|p=11}}</ref>。退学後、アレックはロンドンへ行き祖父のもとに身を寄せた。祖父と過ごす間に向学心が湧き上がり、真剣な議論や学習に時間を費やすようになる。祖父はベルを教師にするために必要な信念と明瞭な話法を教え込んだ<ref>{{Harvnb|Town|1988|p=7}}</ref>。16歳のとき、スコットランド[[マレー (スコットランド)|マレー]]のエルギンにあるウェストンハウス学院で弁論術と音楽の教師の職を得た。同時に学生としてラテン語とギリシャ語を学びつつ教師も務め、1回の授業あたり10ポンドの給料を得ていた<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=37}}</ref>。翌年、兄メルヴィルが前年に入学した[[エディンバラ大学]]に入学。カナダに移住する直前の1868年、[[ロンドン大学]]の入学試験に合格している<ref>{{Harvnb|Shulman|2008|p=49}}</ref>。

=== 音声についての初実験 ===
1863年、父はアレックの科学への関心を育てるため、[[ヴォルフガング・フォン・ケンペレン]]の業績に基づいて[[チャールズ・ホイートストン]]が開発した[[オートマタ]]を見せに連れ出した<ref name="Groundwater p. 25">{{harvnb|Groundwater|2005|p=25}}</ref>。このオートマタは人間の声を真似てしゃべる機械だった。ベルはこの機械に魅了され、ケンペレンのドイツ語の著作を手に入れて苦労して翻訳し、兄メルヴィルとともにオートマタの頭部を作りはじめた。父はそれらに大いに関心を寄せ、2人に資金提供を約束し、成功したら大きな褒美をやろうと言って発破をかけた<ref name="Groundwater p. 25"/>。兄がオートマタの喉と[[喉頭]]を作り、アレックはより困難な本物そっくりの頭蓋骨の製作に取り組んだ。努力の結果、人間そっくりの「しゃべる」頭部が完成した(ただし、しゃべることができるのはほんの数語である)<ref name="Groundwater p. 25"/>。唇の動きを微妙に調整し、[[鞴]]で空気を[[気管]]に送り込むと、はっきりと「ママ (Mama)」と発音し、その発明を見に来た近所の人々を驚かせた<ref name="Petrie pp. 7–9">{{Harvnb|Petrie|1975|pp=7-9}}</ref>。

その結果に好奇心をそそられたアレックは、一家の飼っていた[[スカイ・テリア]] "Trouve" を使った動物実験を行った<ref>{{Harvnb|Petrie|1975|p=9}}</ref>。彼はその犬に継続的に吠え方、唇の使い方などを教えこみ、犬は "Ow ah oo ga ma ma" としゃべる(うなる)ようになった。訪問者は犬が "How are you grandma?"(おばあさん、ごきげんいかが?)としゃべったことを信じられなかった。多くはアレックのいたずら好きの性質を知っていたが、ベルは彼らが「しゃべる犬」を目にしていることを納得させた<ref name="Groundwater p. 30." ">{{Harvnb|Groundwater|2005|p=30}}</ref>。この音声に関する最初の実験から、アレックは[[音叉]]を使っての[[共鳴]]など音響伝達について真剣に研究するようになる。

19歳のとき、それまでの研究成果を論文にまとめ、父の同僚だった言語学者[[アレクサンダー・ジョン・エリス]]に送った(エリスは、のちに『[[ピグマリオン (戯曲)|ピグマリオン]]』のヒギンズ博士のモデルとなった)<ref name="Groundwater p. 30." ">{{Harvnb|Groundwater|2005|p=30}}</ref>。エリスはすぐに、同様の実験はすでにドイツで行われているという返事を出し、[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]の著作 ''The Sensations of Tone as a Physiological Basis for the Theory of Music'' をアレックに貸している<ref>{{Harvnb|Shulman|2008|p=46}}</ref>。

ヘルムホルツがすでに音叉を工夫することで母音を生成するという研究をしていたことを知って狼狽したアレックは、そのドイツ人科学者の著作を熟読した。そこで彼は[[ドイツ語]]の理解不足からある誤解をし、その誤解がその後の音声信号伝送の業績の土台となった。当時を振り返ってベルは「その主題についてよく知らない私は、母音を電気的手段で生成できるなら子音も生成できるだろうし、文をしゃべらせることもできると推測した」と述べ、「私はヘルムホルツがそこまで実施したのだと思った…そしてそれは私が電気について無知だったための失敗だった。それは貴重な失敗だった…もし当時の私がドイツ語を読めたなら、私は決して実験を始めなかったかもしれない」と述べている<ref name="MacKenzie2008">{{Harvnb|MacKenzie|2003|p=41}}</ref><ref>{{Harvnb|Groundwater|2005|p=31}}</ref><ref>{{Harvnb|Shulman|2008|pp=46-48}}</ref>。

=== 家族の悲劇 ===
1865年、ベル一家はロンドンに引っ越したが<ref>{{Harvnb|Micklos|2006|p=8}}</ref>、アレック本人はウェストンハウス学院に助手として戻り、空いた時間で最小限の実験器具を使って音響についての実験を続けた。おもに電気で音声を伝送する実験を行い、のちに自分の部屋から友人の部屋まで[[電信]]線を引いた<ref>{{harvnb|Bruce|1990|p=45}}</ref>。1867年後半には極度の疲労で健康を害している。弟エドワードも[[結核]]にかかり、同様に寝たきりとなった。アレックは翌年には回復し、イングランドの[[バース (イングランド)|バース]]にある{{仮リンク|サマーセット大学|en|Somerset College}}で講師を務めたが、弟の病状は悪化した。結局エドワードはそのまま亡くなり、アレックはロンドンに戻っている。兄メルヴィルは結婚して実家を出ている。[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]で学位を得るという目標を定め、学位試験のための勉強をし、空いた時間も実家での勉強に充てた。

父の視話法のデモンストレーションと講義も手伝い、ロンドンのサウス・ケンジントンにあったスザンナ・E・ハルの私立聾学校を知るようになる。彼が最初に教えたのはそこの2人の聾唖の少女で、2人は彼の指導でみるみる上達した。兄は弁論術の学校を開校し特許も取得するなど、ある程度の成功を収めていた。しかし1870年5月、兄が結核をこじらせて亡くなり、一家の危機が訪れた。父も若いころかかった病気がぶりかえしたため、[[ニューファンドランド島]](カナダ)で療養することにした。唯一生き残った息子であるアレックも病弱だと気付いた両親は、長期的移住の計画を立て始めた。父は断固として計画を推し進め、ベルに一家の財産の処分をさせ<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=67–68}}</ref>{{#tag:ref|ペットは兄の妻の家族に譲った。|group="注釈"}}、兄の残した仕事の後始末をさせ(アレックは兄の学校の最後の生徒の面倒を見て、発音の矯正を行った)<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=68}}</ref>、両親とともに「[[新世界]]」へ移住した<ref name="multiref2">{{harvnb|Groundwater|2005|p=33}}</ref>。当時ベルはマリー・エクレストンという娘に恋心を抱いていたが、彼女はイングランドを離れることに同意しなかったため、しぶしぶ別れた<ref name="multiref2"/>。

== カナダ ==
1870年、23歳のとき、ベルと兄の未亡人キャロライン<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=50}}</ref>と両親はネストリアン号という船で[[カナダ]]に向かった<ref>{{Harvnb|Petrie|1975|p=10}}</ref>。[[ケベック・シティー]]に到着すると列車で[[モントリオール]]に向かい、さらに一家の友人トーマス・ヘンダーソン牧師のいる[[オンタリオ州]]パリに滞在。まもなく近くの[[ブラントフォード]]に程近い10.5[[エーカー]] (4万2,000[[平方メートル|平米]])の農場を購入。農場には、果樹、大きな屋敷、馬小屋、豚小屋、鶏小屋、車庫があり、エリー湖に注ぐグランド川に面していた<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=61}}</ref>{{#tag:ref|その農場は今では "Bell Homestead" と呼ばれ、カナダの史跡に指定されている。カナダ政府がここを史跡に指定したのは1996年6月1日のことである。<ref>{{Cite web|url= http://www.historicplaces.ca/en/rep-reg/place-lieu.aspx?id=12773&pid=0 |title=Canada's Historic Places: Bell Homestead National Historic Site of Canada. |publisher=Canadian Register of Historic Places, Parks Canada |accessdate=2012-04-24}}</ref>|group="注釈"}}。

ベルは車庫を改造して仕事場とし<ref name="Wing p. 10"/>、その裏の川岸にある凹みを「夢見る場所 (dreaming place)」と呼んだ<ref>{{Harvnb|Groundwater|2005|p=34}}</ref>。カナダに到着したころは病弱だったが、気候と環境がよかったせいか、みるみる健康を取り戻していった<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=62}}</ref>{{#tag:ref|ベルは後にカナダに着いたころは「死人」同然だったと記している。|group="注釈"}}。音声についての研究を続け、グランド川の対岸に先住民の居留地{{enlink|Six Nations of the Grand River First Nation|Six Nations Reserve}}があることに気付き、そこで[[モホーク語]]を学び、その語彙を視話法のシンボルに翻訳した。その業績は[[モホーク族]]に喜ばれ、ベルは彼らの頭飾りをつけ伝統的なダンスをともに踊り、モホーク族の名誉酋長となった<ref>{{harvnb|Groundwater|2005|p=35}}</ref>{{#tag:ref|ベルはその居留地で認められたことを喜び、その後も何かに大喜びしたときはモホーク族の出陣の踊りを踊った。|group="注釈"}}。

仕事場を作ると、ベルはヘルムホルツの業績に基づいた電気と音声についての実験を続けた<ref name="Wing p. 10">{{Harvnb|Wing|1980|p=10}}</ref>。電気を使って音を離れた場所に伝送するピアノを設計。また1871年、視話法を教えることを計画している父とともにモントリオールに出向き、父は首尾よく視話法を教える職を提供された。

== 聾者教育 ==
[[ファイル:Alexander Graham Bell and his Scott Circle School.jpg|thumb|right|ベルと聾学校の生徒および先生たち(1883年、ワシントンD.C.にて)]]
ベルの父は[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]のボストン聾学校(現在の [[:en:Horace Mann School for the Deaf and Hard of Hearing|Horace Mann School for the Deaf]])<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=74}}</ref>校長サラ・フラーに同校のインストラクターに視話法を教えてほしいと頼まれたが、彼はそれを辞退して代わりに息子を推薦した。1871年4月、ボストンに出向いたベルは首尾よくインストラクターへの視話法伝授を成功させた<ref>{{Harvnb|Town|1988|p=12}}</ref>。続いて[[コネチカット州]][[ハートフォード (コネチカット州)|ハートフォード]]にある [[:en:American School for the Deaf|American Asylum for Deaf-mutes]]、マサチューセッツ州[[ノーサンプトン (マサチューセッツ州)|ノーサンプトン]]の [[:en:Clarke School for the Deaf|Clarke School for the Deaf]] でも同様の仕事をした。当時、[[猩紅熱]](しょうこうねつ)の後遺症で[[聾|聾者教育]]が深刻な問題となっていた。

6か月後にブラントフォードに戻ると、"harmonic telegraph" と名付けたものの実験を続けた<ref name="Alexander Graham Bell' 1979, p. 8">{{Harvnb|Alexander Graham Bell|1979|p=8}}</ref>{{#tag:ref|後にベルは電話の発明と「夢見る場所」の関係を説明している。|group="注釈"}}。彼の意匠の根底にある概念は、1つの導線で複数のメッセージをそれぞれ異なるピッチで送るというものだが、そのための送信機と受信機が新たに必要だった<ref name="Groundwater p. 39"/>。将来に確信がないまま彼はロンドンに戻って研究を完成させることも考えたが、結局ボストンに戻って教師をすることにした<ref>{{Harvnb|Petrie|1975|p=14}}</ref>。父の紹介で Clarke School for the Deaf の校長[[ガーディナー・グリーン・ハバード]]が彼の開業を支援することになった。1872年10月、ボストンで視話法を教える学校 "School of Vocal Physiology and Mechanics of Speech" を開校。多くの若い聾者の注目を集め、開校当初に30人が入学した<ref>{{Harvnb|Petrie|1975|p=15}}</ref><ref>{{Harvnb|Town|1988|pp=12-13}}</ref>。のちに、当時まだ幼かった[[ヘレン・ケラー]]と知り合っている。1887年、ベルはケラーに家庭教師[[アン・サリヴァン]]を紹介している。後年ケラーはベルについて、「隔離され隔絶された非人間的な静けさ」に風穴を開けてくれた人と評した<ref>{{Harvnb|Petrie|1975|p=17}}</ref>。

ベルも含めた当時の影響力のある人々の一部には、聴覚障害を克服すべきものとする見方があり、金と時間をかけ聾者に話し方を教え[[手話]]を使わずに済むようにすることで、それまで閉ざされていた広い世界への道が拓けると信じていた<ref name="Miller-Branson">{{Harvnb|Miller|Branson|2002|pp=30-31, 152-153}}</ref>。しかし、当時の学校ではしゃべることを強制的に訓練するために、手話ができないように手を後ろで縛るといった虐待も行われていた。ベルは手話教育に反対していたため、[[ろう文化]]に肯定的な人々はベルを否定的に評価することがある<ref>{{Harvnb|Ayers et al.|2009|pp=194-195}}</ref>。

== さらなる実験 ==
1873年、[[ボストン大学]]で発声生理学と弁論術の教授になる。このころ、ボストンとブラントフォードを行ったり来たりという生活で、夏はブラントフォードの家で過ごした。音響に関する研究を続け、音符を伝送する方法や音声を発する方法を捜していたが、実験に十分な時間をあてることは難しかった。日中は夕方まで講義などで費やされるため、寄宿舎の部屋にレンタルした設備を揃えて夜遅くまで次々と実験する生活を送った。研究成果を奪われることを恐れ、ノートと実験装置を盗まれないよう施錠するのに大変苦労している。ベルは特製のテーブルにノートや実験装置を納め、ロックカバーの中に隠した<ref>{{Harvnb|Town|1988|p=15}}</ref>。悪いことに、彼はひどい頭痛に悩まされるようになり、健康状態が悪化した<ref name="Groundwater p. 39">{{harvnb|Groundwater|2005|p=39}}</ref>。1873年秋にボストンに戻ったとき、ベルは音響に関する実験に専念するという重大な決断をした。

ボストンでの収入を諦めると決めたベルは、生まれつき聾の16歳のジョージ・サンダースと15歳の[[メイベル・ガーディナー・ハバード|メイベル・ハバード]]という2人の生徒だけを雇った。その後の実験で2人は重要な役割を演じることとなる。ジョージの父トーマス・サンダースは[[セイラム (マサチューセッツ州)|セイラム]]近郊の屋敷をベルに提供し、そこでジョージの祖母も住み、実験室も設えた。実際に支援を申し出たのはジョージの母で、1872年にジョージと看護婦をベルの寄宿舎の側に引っ越させているが、トーマス・サンダースがその背後にいたことは明白である<ref>{{Harvnb|Town|1988|p=16}}</ref>。合意によりベルと生徒たちはそこで一緒に働くことになった。メイベルは利発で魅力的な娘であり、10歳年下だったがベルの愛情の標的となった。彼女は5歳の誕生日を迎えたころに[[猩紅熱]]で聴力を失い{{#tag:ref|Eber<ref name="Eber1">{{Harvnb|Eber|1991|p=43}}</ref>はメイベルがニューヨークで「5歳の誕生日の直前に」猩紅熱にかかったと主張している。Toward<ref name="Toward-1984b">{{Harvnb|Toward|1984|p=1}}</ref>はこの件の詳細な時系列を提供しており、猩紅熱にかかったのは1863年1月、ニューヨークに到着した後のことで、5歳の誕生日から5週間ほど後のこととしている。メイベルが聾者となった時期は、彼女がその時点でしゃべれたのか、それとも聾者となってからしゃべることを一から学んだのかという議論で重要となる。|group="注釈"}}、[[読唇術]]を学んだ。メイベルの父[[ガーディナー・グリーン・ハバード]]はベルの支援者で友人であり、メイベルがベルの側にいることを望んだ<ref>{{Harvnb|Dunn|1990|p=20}}</ref>。

== 電話 ==
[[ファイル:Actor_portraying_Alexander_Graham_Bell_in_an_AT&T_promotional_film_(1926).jpg|thumb|200px|right|グラハム・ベル自ら電話機で話す様子 (1876年)]]
1874年、harmonic telegraph に関する研究は、ボストンの研究施設(賃貸)とカナダの実家で新たな段階に入った{{#tag:ref|引用: 「ブラントフォードは『テレフォン・シティ』を自称しており、1874年に電話が生まれた場所として知られている」<ref name="Alexander Graham Bell' 1979, p. 8"/>|group="注釈"}}。同年夏、ブラントフォードにて[[フォノトグラフ]]を使った実験を行った。フォノトグラフはススを塗布したガラスに音の[[波形]]を描くペンのような装置である。そこからベルは[[音波]]と同じ波形の電流を生成できるかもしれないと考えた<ref>{{Harvnb|Matthews|1999|pp=19-21}}</ref>。ベルはまた、ハープのようにそれぞれ異なる周波数に調律された複数の金属リードを使って、脈打つ電流を音に戻すことができるのではないかと考えた。しかし、これらのアイデアを実証するための試作はまったく行わなかった<ref>{{Harvnb|Matthews|1999|p=21}}</ref>。

そのころ[[電信]]([[電報]])が盛んに使われるようになり、[[ウエスタンユニオン]]会長ウィリアム・オートンは「商業の神経系」と称した。オートンはコストのかかる新たな電信線の敷設を避けるため、発明家の[[トーマス・エジソン]]と[[イライシャ・グレイ]]に1本の導線で複数の電信メッセージを伝送する方法を研究させていた<ref>[http://ieee.cincinnati.fuse.net/reiman/03_2005.htm "A History of Electrical Engineering."] ''ieee.cincinnati.fuse.net''. Retrieved: December 29, 2009.</ref>。ベルが複数の高さの音を1本の導線で伝送する方法に取り組んでいることをガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースに伝えると、2人の裕福な後援者はベルの実験を財政的に支援しはじめた<ref>{{Harvnb|Town|1988|p=17}}</ref>。特許に関してはハバードの紹介した[[弁理士]]{{仮リンク|アンソニー・ポロック|en|Anthony Pollok}}が面倒を見ることになった<ref>{{Harvnb|Evenson|2000|pp=18-25}}</ref>。

1875年3月、ベルとポロックは[[スミソニアン博物館|スミソニアン協会]]会長を務めていた有名な科学者[[ジョセフ・ヘンリー]]を訪ね、ベルの考えている複数の金属リードを備えた装置で電信線を使って音声を送受信するというアイデアについて意見を求めた。ヘンリーはベルが「偉大な発明の萌芽」を持っていると答えた。ベルがそれを実現するのに必要な知識がないと述べると、ヘンリーは「では、それを獲得しなさい」と応じた。これに勇気づけられたベルは実験を繰り返したが、必要な実験器具を作れず、試作品も作れずにいた。しかしベルはそれ以前の1874年に電気や機械に熟達した[[トーマス・A・ワトソン]]と出会っていた。

サンダースとハバードの金銭的支援により、ベルはトーマス・ワトソンを助手として雇うことができ{{#tag:ref|ハバードの支援は十分ではなく、ベルは研究の傍ら教職を続けなければならなかった<ref>Fitzgerald, Brian. [http://www.bu.edu/bridge/archive/2001/09-14/bell.html "Alexander Graham Bell: The BU Years."] ''B.U. Bridge,'' Vol. V, No. 5, 14 September 2001. Retrieved: 28 March 2010.</ref>。金に困ったベルは雇っていたトーマス・ワトソンに金を借りたことさえある。ベル電話会社(およびAT&T)の前身となった Bell Patent Association はハバードとサンダースとベルが結成したものだが、後に収益の約10%をワトソンに与えることにした<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=291}}</ref>。これは、最初の電話機を試作したことにベルがワトソンに借金していたことと給料の代替とするという意味があった。|group="注釈"}}、2人は1875年6月2日に [[:en:acoustic telegraphy|acoustic telegraphy]] の実験を行った。そのときワトソンは偶然金属リードの1本を引き抜いてしまい、受信側にいたベルがその金属リードの倍音を聞いた。倍音は音声の伝送に必要である。このことからベルは複数のリードは不要であり、1つのリードでよいと気付いた。これにより、明瞭な音声は伝えられないが、何らかの音だけは伝送できる電話のようなものができた。

=== 特許出願競争 ===
1875年、ベルは [[:en:Acoustic telegraphy|acoustic telegraph]] を開発し、その特許申請書を書いた。アメリカでの収益は後援者であるガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースと分配することで合意し、Bell Patent Association の協定を成立させる。これが幾多の変遷を経て「ベル・システム」を完成させた[[AT&amp;T]] (American Telephone and Telegraph Company) へつながっていく<ref>[[林紘一郎]]、田川義博(1994年)『ユニバーサル・サービス』[[中公新書]]</ref>。そこでベルはオンタリオ州の知人 [[:en:George Brown (Canadian politician)|George Brown]] に頼んでイギリスでも特許を出願し、イギリスで特許が受理されたあとにアメリカで特許申請するよう弁護士に指示した(イギリスは、ほかの国で以前に特許を取得した発明には特許を与えない方針だったため)<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=158–159}}</ref>。

[[ファイル:USPTO Telephone Patent No. 174465.jpg|thumb|right|ベルの電話の特許<ref>{{Patent|US|174465|Alexander Graham Bell: "Improvement in Telegraphy" filed on February 14, 1876, granted on March 7, 1876.}}</ref>(1876年3月)]]
一方、[[イライシャ・グレイ]]も同様の用途の実験を行っており、水を媒体として音声を電流に変換する方法を考えていた。1876年2月14日、グレイは水を媒体とする設計の電話について特許予告記載を[[ワシントンD.C.|ワシントン]]特許局に申請した。同じ日の朝、ベルの弁護士もワシントン特許局にベルの「電信の改良」(Improvment in Telegraphy) の特許出願書を提出している。どちらが特許局に先に現れたのかについては議論があり、のちにグレイはベルの特許の無効を訴えることになった。2月14日にはベルはボストンにおり、2月26日までワシントンD.C.を訪れていない。

ベルの特許 (特許番号: 174,465)は[[米国特許商標庁]]によって1876年[[3月3日]]に認可され[[3月7日]]に公告された。ベルの特許の請求範囲は「声などの音に伴う空気の振動の波形に似せた電気の波を起こすことにより…声などの音を電信のように伝送する手段および機構」だった{{#tag:ref|{{Harvnb|MacLeod|1999|pp=12-13}} では、この特許の草稿のコピーが示されており、「おそらく史上最も価値のある特許」とされている。|group="注釈"}}。

1876年[[3月10日]]、特許公告の3日後、電話の実験に成功。グレイの設計と似たような液体送信機を使っていた。音を受けた膜が振動し、その振動で水中の針を振動させ、回路内の[[電気抵抗]]を変化させる仕組みである。最初の言葉は「'''ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ'''」 (''"Mr. Watson! Come here; I want to see you!"'') である<ref>[http://www.loc.gov/exhibits/treasures/trr002.html "Bell's Lab notebook I, pp. 40–41 (image 22)."] ''loc.gov.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref>。ワトソンは隣の部屋の受信機でそれらの言葉をはっきりと聞いた<ref>{{Harvnb|MacLeod|1999|p=12}}</ref>。

ベルはグレイの電話の設計を盗んだとして訴えられたが<ref>{{Harvnb|Shulman|2008|p=211}}</ref>、ベルがグレイの液体送信機の設計を使ったのは特許取得後で、しかも[[概念実証]]としての科学的実験でだけであり<ref>{{Harvnb|Evenson|2000|p=99}}</ref>、「明瞭な声」を電気的に伝送可能であることを示すためだった<ref>{{Harvnb|Evenson|2000|p=98}}</ref>。それ以降ベルは電磁式の電話の改良に集中し、グレイの液体送信機をデモンストレーションや商用に使ったことはない<ref>{{Harvnb|Evenson|2000|p=100}}</ref>。

ベルの特許が発効する以前、審査官は電気抵抗を変化させるという電話の仕組みについて優先順位問題を提起した。審査官はベルに、請求範囲にあるのと同様の仕組みがグレイの予告記載にもあることを告げている。ベルは、彼が特許申請書で示している可変抵抗デバイスは水ではなく水銀であると指摘した。ベルは約1年前の1875年2月25日に水銀を使った特許を出願しており、イライシャ・グレイが水を使ったデバイスを申請するずっと前のことだった。しかもグレイは予告記載を撤回し、ベルの発明が先だったということに異議を申し立てなかったため、審査官は1876年3月3日にベルの特許を認可したのだった。グレイも確かに独自に可変抵抗を使った電話を発明したが、最初にそれを文書化したのはベルであり、最初に電話の実験を成功させたのもベルである<ref>{{Harvnb|Evenson|2000|pp=81-82}}</ref>。

[[審査官 (特許庁)|特許審査官]] Zenas Fisk Wilber はのちに法廷で、ベルの弁護士の{{仮リンク|マーセラス・ベイリー|en|Marcellus Bailey}}とは[[南北戦争]]で一緒に戦った仲で、ベイリーに借金していたことを証言した。また、Baileyにグレイの特許予告記載を見せたと証言している。また、のちにベルがワシントンD.C.の特許局を訪れた際にグレイの予告記載を見せ、ベルから100ドルを受け取ったと証言した。ベルは一般論として特許について議論しただけだと主張したが、グレイへの手紙では何らかの技術的詳細をそこから学んだと認めている。ベルは審査官に金を払ったことはないと宣誓証言で否定している<ref>"Mr. Wilbur confesses." ''The Washington Post,'' May 22, 1886, p. 1.</ref>。

=== その後の発展 ===
ブラントフォードで実験を続け、ベルは実動する電話機を自宅に持ち込んだ。1876年8月3日、ブラントフォードと約8km離れた電信局から、準備完了したことを知らせる電報を送った。証人として見物人を集めた状態で、ささやき声のような応答が返ってきた。次の夜、ブラントフォードからベル家までの約6kmを電信線やフェンスに沿わせたり、トンネルをくぐったりして電話線を即席に引いて、家族や客を驚かせた。これらの実験で、電話が長距離でも作動することをはっきりと証明した<ref>{{Harvnb|MacLeod|1999|p=14}}</ref>。

1876年の電話の実験成功の直後に、ボストン近郊のブリッジウォーター師範学校(現・{{仮リンク|ブリッジウォーター州立大学|en|Bridgewater State University}})に留学中だった[[伊沢修二]]と留学生仲間で[[ハーバード大学]]にいた[[金子堅太郎]]がベルの下宿先を訪問した際、実用化のためにスポンサーを探していたベルは喜んで通話を体験させた。日本においては翌1877年には[[工部省]]が電話機を輸入して実験を行い、1890年から電話交換サービスが開始された<ref>{{Cite report|author=NTT西日本|authorlink=NTT西日本|title=データブックNTT西日本|date=Dec 2022|url=https://www.ntt-west.co.jp/info/databook/pdf/230.pdf|pages=230|accessdate=2023-04-03}}より「電話機のあゆみ」</ref>。

[[ファイル:Alexander Graham Telephone in Newyork.jpg|thumb|1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベル]]
ベルとパートナーのハバードとサンダースは、その特許を[[ウエスタンユニオン]]に10万ドルで売ることを申し出ているが、ウエスタンユニオン社長は電話をおもちゃ以外の何物でもないと考えており、買い取らなかった。2年後彼は友人に2,500万ドルでも安売りだと考えるだろうと話している。そのころには特許を売ることはもう考えていない<ref>Fenster, Julie M. [https://web.archive.org/web/20060317071408/http://www.americanheritage.com/events/articles/web/20060307-alexander-graham-bell-telephone-patent-telegraph-elisha-gray-thomas-watson-gardiner-hubbard-western-union-thomas-edison.shtml "Inventing the Telephone—And Triggering All-Out Patent War."] ''AmericanHeritage.com, American Heritage'', 2006.(2006年3月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。出資者は百万長者となり、ベルも借金を返し終わると100万ドルの財産を築くようになった<ref>{{Harvnb|Winfield|1987|p=21}}</ref>。

この新発明を紹介すべく、ベルは一連の公開デモンストレーションと講演を科学界や大衆向けに行った。1876年の[[フィラデルフィア]]での[[フィラデルフィア万国博覧会|万国博覧会]]で電話を公開して国際的注目を集めた<ref>{{Harvnb|Webb|1991|p=15}}</ref>。この万博には海外からも大勢の客が訪れており、その中にブラジル皇帝[[ペドロ2世 (ブラジル皇帝)|ペドロ2世]]もいた(ちなみに、ペドロ2世はかつてベルの聾学校を視察したことがあった)。また、スコットランドの有名な科学者[[ウィリアム・トムソン]]卿にも個人的にデモンストレーションを見せ、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]には[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]に招待され、観衆の前で電話を披露した。女王はそのデモンストレーションを "most extraordinary"(もっとも並外れている)と評した。そのようにして、この革命的機器の普及の土台を築いていった<ref>{{Harvnb|Ross|2001|pp=21-22}}</ref>。

1877年、[[ベル電話会社]]を創業。1886年にはアメリカで15万台の電話が使われている。同社の技術者は電話にさまざまな改良を施していき、電話機は史上もっとも成功した製品のひとつになった。1879年、ベル電話会社はエジソンの[[マイクロフォン#カーボンマイク|カーボンマイク]]の特許をウエスタンユニオンから買い取った。これによってさらに長距離の通話が可能になり、受話器に向かって叫ぶ必要がなくなった。

[[1915年]]1月、世界初の大陸間横断通話を行った。ニューヨークの[[AT&T]]本社のベルとサンフランシスコのトーマス・ワトソンによる通話である。[[ニューヨーク・タイムズ]]紙は次のように報じている。
{{Quote|1876年10月9日、アレクサンダー・グラハム・ベルとトーマス・A・ワトソンは、ケンブリッジとボストン間2マイルに張った電話線を通して電話で話をした。これが世界初の電話線を通した通話である。昨日 (1915年1月25日)の午後、同じ2人がニューヨークとサンフランシスコ間3,400マイル{{efn|約5,400 km}}を隔てて電話で会話した。電話の発明者ベル博士はニューヨークに、かつての助手ワトソン氏は大陸のもう一方の端にいた。彼らは38年前のときよりも明瞭に互いの声を聞くことができた。<ref>[http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/big/0125.html "Phone to Pacific From the Atlantic"]. ''The New York Times'', January 26, 1915. Retrieved: July 21, 2007.</ref>}}

=== 特許裁判 ===
科学的発明・発見に時折見られるように、電話の場合も多くの発明者が同時に開発を行っていた<ref name="multiref1"/>。ベル電話会社は18年間以上にわたり587件もの特許訴訟に対応し、そのうち5件は[[合衆国最高裁判所]]にまで持ち込まれたが<ref name="ATCS">Australasian Telephone Collecting Society. [http://www.telephonecollecting.org/invent.htm "Who Really Invented The Telephone?"] ''ATCS'', Moorebank, NSW, Australia. Retrieved from ''telephonecollecting.org'' on April 22, 2011.</ref>、ベルの特許を負かすことに成功した者はおらず<ref name="Groundwater p.95"/><ref>{{harvnb|Black|1997|p=19}}</ref>、ベル電話会社が最終的に敗訴することはなかった<ref name="Groundwater p.95"/>。ベルの研究ノートや家族との手紙が、彼の長期の研究を証明する鍵となった<ref name="Groundwater p.95">{{harvnb|Groundwater|2005|p=95}}</ref>。ベルの会社の弁護士らは、イライシャ・グレイや{{仮リンク|エイモス・ドルベア|en|Amos Dolbear}}をはじめとする無数の訴訟を撃退した。ベルへの私信でグレイとドルベアはベルの以前からの業績を知っていたと認めており、それによって彼らの主張は弱められた<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=179}}</ref>。

1887年1月13日、[[アメリカ政府]]は詐欺と偽証に基づいてベルの特許を無効にしようと提訴した。その訴訟は最高裁まで続き、下級裁判所でのもともとの主張については判断を下さずに、最高裁判所にてベルの会社側が勝利を勝ち取った<ref>[http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?court=us&vol=167&invol=224 "U.S. Supreme Court: U S v. AMERICAN BELL TEL CO, 167 U.S. 224 (1897)."] ''caselaw.lp.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref><ref>[http://supreme.justia.com/us/128/315/case.html "United states V. American Bell Telephone Co., 128 U.S. 315 (1888)."] ''supreme.justia.com.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref>。この裁判は9年かかり、その間に2人の検事が亡くなり、ベルの2つの特許(1876年3月7日の第174,465号と1877年1月30日の第186,787号)も失効していたが、裁判長は[[判例]]として重要だということで裁判を継続した。当初の訴訟から双方の利害対立する点が変化してきたため、[[アメリカ合衆国司法長官]]は1897年11月30日、いくつかの問題に決定を下さないまま訴訟を取り下げた<ref>[http://bst.sagepub.com/cgi/reprint/22/6/426.pdf Basilio Catania 2002 "The United States Government vs. Alexander Graham Bell. An important acknowledgment for Antonio Meucci."] ''Bulletin of Science Technology Society'', 22, 2002, pp. 426–442. Retrieved: December 29, 2009.</ref>。

1887年の訴訟でなされた証言記録の中に、イタリアの発明家[[アントニオ・メウッチ]]が1854年に世界初の実動する電話を作ったと主張した証言がある。1886年、ベルの関わった3つの訴訟の1つ目で、メウッチが発明の優先順位を決定づける証人として証言台に立った。メウッチの証言は発明の証拠物件が示されなかったため、異議を唱えられた。うわさによればその証拠物件はニューヨークの [[:en:The ADT Corporation|American District Telegraph]] (ADT)の研究所で紛失し、同所は1901年に[[ウエスタンユニオン]]の一部となった<ref name="Catania">Catania, Basilio "Antonio Meucci – Questions and Answers: What did Meucci to bring his invention to the public?" ''Chezbasilio.it''. Retrieved: July 8, 2009.</ref><ref name="ADT">[http://www.adt.com/about_adt/company_history#1901 "History of ADT Security."] ''ADT.com'' website. Retrieved: July 8, 2009.</ref>。当時の他の発明と同様、メウッチの業績はそれ以前から知られていた音響に関する原理に基づき、初期の実験の証拠もあったのだが、メウッチが亡くなったため、メウッチに関する訴訟は取り下げられた<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=271–272}}</ref>。下院議員 [[:en:Vito Fossella|Vito Fossella]] の努力により2002年6月11日、[[アメリカ合衆国下院]]は決議案269でメウッチの「電話の発明における業績は認められるべきである」という声明を採択したが、それで議論が終結するわけではない<ref>{{Cite web|url=https://www.congress.gov/bill/107th-congress/house-resolution/269/text|title=H.Res.269 - Expressing the sense of the House of Representatives to honor the life and achievements of 19th Century Italian-American inventor Antonio Meucci, and his work in the invention of the telephone.|publisher=[[アメリカ議会図書館]]|date=2002-06-11|accessdate=2020-07-24}}</ref>{{#tag:ref|メウッチは最終的な裁判には関係していなかった。|group="注釈"}}<ref>[https://web.archive.org/web/20090422094614/http://www.italianhistorical.org/MeucciStory.htm "Meucci Story."] ''Italian Historical Society.'' Retrieved: July 28, 2010.(2009年4月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。現代の学者の中には、ベルの電話についての業績がメウッチの発明に影響されたことを認めていない者もいる{{#tag:ref|トーマス・ファーリーは、誰もが理解できる明瞭さで音声を伝送したのはベルとワトソンが最初だったというのが学界の一般的見方だとしている。<ref>[http://inventors.about.com/library/inventors/bl_Antonio_Meucci.htm "Antonio Meucci."] ''inventors.about.com''. Retrieved: December 29, 2009.</ref>|group="注釈"}}。

ベルの特許の価値は世界中で認められ、多くの国で特許を取得したが、ドイツでは特許出願が遅れた。その間に[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]](S&H)が電話製造会社を設立して独自の特許を取得した。S&Hは特許料を支払わずにベルのものとほぼ同じ電話機を生産した<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=178}}</ref>。1880年、ベルギーのブリュッセルに{{仮リンク|国際ベル電話会社|en|International Bell Telephone Company}}を創業し、一連の合意を取りつけて世界的電話網の統合を成し遂げた。ベル自身は頻繁に出廷しなければならず、仕事に支障をきたしたため、会社を辞めた<ref>{{Harvnb|Parker|1995|p=23}}</ref>{{#tag:ref|多くの訴訟でグレイとベルは険悪な状態となったが、ベルがグレイを名誉毀損で反訴することはなかった。|group="注釈"}}。

== 家庭生活 ==
[[ファイル:Alexander Graham Bell and family.jpg|thumb|right|ベルと妻メイベルと娘エルシー(左)とマリアン(1885年ごろ)]]
1877年7月11日、[[ベル電話会社]]の創業の数日後、[[メイベル・ガーディナー・ハバード|メイベル・ハバード]] (1857年 - 1923年)と結婚。[[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]のハバード宅で結婚式を行った。花嫁への結婚のプレゼントとして新会社の彼の持株1,497株のうち1,487株を妻の名義に書き換えた<ref>{{Harvnb|Eber|1982|p=44}}</ref>。その後約1年間、ヨーロッパへ新婚旅行に出かけた。新婚旅行とはいっても、ベルは手製の電話機も携行し、仕事を兼ねていた。求愛したのは数年前である。ベルは金銭的に余裕ができるまでプロポーズを延ばした。電話で即座に収益を上げられたわけではなく、ベルのおもな収入源は1897年までは講義だった<ref>{{Harvnb|Dunn|1990|p=28}}</ref>。婚約者からのちょっと変わった要求として、通称の「アレック」の綴りを "Aleck" から "Alec" に変えるというものがあり、1876年からは "Alec Bell" と署名するようになった<ref>{{Harvnb|Mackay|1997|p=120}}</ref><ref>"Mrs. A.G. Bell Dies. Inspired Telephone. Deaf Girl's Romance With Distinguished Inventor Was Due to Her Affliction." ''New York Times'', January 4, 1923.</ref>。夫妻は4人の子をもうけた。エルシー・メイ・ベル(1878年 - 1964年)は[[ナショナルジオグラフィック協会]]の{{仮リンク|ギルバート・グローヴナー|en|Gilbert Hovey Grosvenor}}と結婚<ref>"Dr. Gilbert H. Grosvenor Dies; Head of National Geographic, 90; Editor of Magazine 55 Years Introduced Photos, Increased Circulation to 4.5&nbsp;million." ''New York Times'', February 5, 1966.</ref>{{#tag:ref|Canadian Press 紙、1966年2月4日: ノバスコシア州バデック: ナショナルジオグラフィック協会の会長(前社長)ギルバート・H・グローヴナー博士が、義理の父で発明家のアレクサンダー・グラハム・ベルから相続したケープ・ブレトン島で死去。90歳だった。|group="注釈"}}{{#tag:ref|引用: ワシントンD.C.、1964年12月26日: ギルバート・グローヴナー夫人のエルシー・メイ・ベル・グローヴナーは[[ベセスダ (メリーランド州)|ベセスダ]]の自宅で亡くなった。86歳だった。死因は心臓病と老化とされている。<ref>"Mrs. Gilbert Grosvenor Dead; Joined in Geographic's Treks; Married Professor's Son." ''New York Times'', December 27, 1964.</ref>|group="注釈"}}。マリアン・ハバード・ベル(1880年 - 1962年)は通称は「デイジー」で<ref>"Mrs. David Fairchild, 82, Dead; Daughter of Bell, Phone Inventor." New York Times, September 25, 1962.</ref>{{#tag:ref|引用:Canadian Press 紙、1962年9月24日: マリアン・ベル・フェアチャイルド夫人(電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベルの娘)が夏の別荘で亡くなった。82歳だった。|group="注釈"}}{{#tag:ref|なお、マリアンが生まれた数日後「フォトフォン」の実験が成功し、有頂天になったベルは2人目の娘を "Photophone" と名付けようとしたが、妻が反対したという逸話がある<ref>{{Harvnb|Carson|2007|p=77}}</ref>。|group="注釈"}}、ほかに2人の男子が生まれたがともに幼少期に亡くなった。一家は1880年までマサチューセッツ州ケンブリッジに住み、その後、義理の父ハバードが購入したワシントンD.C.の屋敷に引っ越し、1882年にはベル自身が購入したワシントンD.C.の屋敷に引っ越した。ワシントンD.C.に住んだのは、特許に関する裁判が長く続き、頻繁に出廷する必要があったためである<ref>{{Harvnb|Gray|2006|pp=202-205}}</ref>。

1882年、アメリカ合衆国の[[市民権]]を取得するまでベルはスコットランドでもカナダでもイギリス市民だった。1915年、「私は2つの国へ忠誠を誓うような外国系アメリカ人ではない」と述べている<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=90}}</ref>。それにもかかわらず、彼が住んでいたスコットランド・カナダ・アメリカの3国でベルを自国民と主張している<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=471-472}}</ref>。

[[ファイル:Brodhead-Bell-Morton Mansion.jpg|thumb|1882年から1889年まで一家が住んでいたワシントンD.C.での屋敷<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=297–299}}</ref>]]
1885年、新たな夏の別荘を持つことにした。その夏、ベル一家は[[ノバスコシア州]][[ケープ・ブレトン島]]のバデックという小さな村で休暇を過ごした<ref name="Bethune">{{Harvnb|Bethune|2009|p=2}}</ref>。1886年にもそこに赴き、バデックの対岸の{{仮リンク|ブラスダー湖|en|Bras d'Or Lake}}を一望できる場所に別荘を建て始めた<ref>{{Harvnb|Bethune|2009|p=92}}</ref>。1889年、''The Lodge'' と名付けたログハウスが完成し、2年後には研究室も含めた大きな複合建築物となった<ref name="Bethune" />。ベルはその地を故郷の[[ハイランド地方]]にちなんで{{仮リンク|ベイン・バリー|en|Beinn Bhreagh}}(ゲール語で「美しい山」の意)と名付けた<ref>{{Harvnb|Tulloch|2006|pp=25-27}}</ref>{{#tag:ref|ボストンの建築家カボット、エベレット、ミードの指導の下で、ノバスコシアの建築会社 Rhodes, Curry and Company が実際の建設を行った。|group="注釈"}}。ベルはその後の後半生の大部分をワシントンD.C.とベイン・バリーで過ごした<ref>{{harvnb|MacLeod|1999|p=22}}</ref>。

ベルは実験に没頭することが多くなり、ベイン・バリーで過ごす期間が徐々に長くなっていった。夫妻はバデックの村民との交流を大事にし、村民として認められた<ref name="Bethune" />。1917年12月6日、[[ハリファックス大爆発]]が起きたときもベルはベイン・バリーにいた。夫妻はハリファックスの被災者救出に奔走した<ref>{{Harvnb|Tulloch|2006|p=42}}</ref>。

== その後の発明 ==
[[ファイル:AG Bell 1.jpg|thumb|後年のアレクサンダー・グラハム・ベル]]
ベルといえば電話だが、彼の興味の範囲はもっと幅広い。ベルの伝記を書いた{{仮リンク|シャーロット・グレイ (作家)|en|Charlotte Gray (author)|label=シャーロット・グレイ}}によれば、ベルの業績は「科学全体にまたがって」おり、しばしば貪欲に新たな興味ある領域を捜すため[[ブリタニカ百科事典]]を読みながら眠りについたという<ref>{{Harvnb|Gray|2006|p=219}}</ref>。その発明の才の範囲は、単独で取得した18の特許と連名で取得した12の特許である程度表されている。そのうち14は電話と電信に関するもので、4つは[[フォトフォン]]、1つは[[蓄音機]]、5つは[[航空機]]、4つは水中翼船、2つは[[セレン]]光電池に関するものである。ベルの発明は彼の興味の範囲を表しており、呼吸を補助する金属ジャケット、難聴を検出する{{仮リンク|聴力計|en|audiometer}}、氷山の位置を特定する機器、海水から塩を分離する研究、[[代替燃料]]についての研究などがある。

ベルは医療関連でも幅広く働き、聴覚障害者にしゃべり方を教える技法を発明した。ボルタ基金(後述)で創設した研究所では、仲間とともに音声再生方法として[[磁場]]を使って録音する手段を検討した。彼らは簡単な実験をしたが、実用的な試作品を開発するには至らなかった。今では[[テープレコーダー]]・[[ハードディスク]] (HD)・[[フロッピーディスク]] (FD)といった[[磁気記録]]媒体に応用されている原理を発見したことに気付かず、彼らはそのアイデアを捨ててしまった。

ベルの自宅には原始的な[[空気調和]]が備わっており、氷の大きな塊にファンで風をあてて冷風を送ることができた。また、燃料の枯渇や産業による公害を予測している。農場や工場から無駄に[[メタン]] (CH<sub>4</sub>)ガスが放出されていると指摘している。ノバスコシアの自宅で、[[バイオトイレ]]や大気中から水を得る装置などを実験している。死の直前に出版された雑誌に掲載されたインタビューで、暖房に[[ソーラーパネル]]を使う可能性を述べている。

=== フォトフォン ===
[[ファイル:Photophony1.jpg|thumb|フォトフォン受信機。ベルの光無線通信システムの一方の装置]]
ベルは助手の[[チャールズ・サムナー・テインター]]と共同で[[フォトフォン]]と名付けた無線電話を発明した。これは、[[光]]のビームを使って音や声を伝送するものである<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=336}}</ref><ref name="SDU">Jones, Newell. "First 'Radio' Built by San Diego Resident Partner of Inventor of Telephone: Keeps Notebook of Experiences With Bell." ''San Diego Evening Tribune'', July 31, 1937. Retrieved from the ''University of San Diego History Department'' website, November 26, 2009.</ref>。

1880年6月21日、電波による音声通信が成功する19年前に、ベルの助手が発したメッセージを約213メートル離れた地点のベルが受信に成功している<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=338}}</ref><ref>{{Harvnb|Carson|2007|pp=76-78}}</ref><ref name="Groth">Groth, Mike. [http://www.bluehaze.com.au/modlight/GrothArticle1.htm "Photophones Revisted."] ''Amateur Radio'' magazine, Wireless Institute of Australia, Melbourne, April 1987, pp. 12–17 and May 1987, pp. 13–17.</ref><ref>{{Harvnb|Mims|1982|p=11}}</ref>。

ベルはフォトフォンの原理が自身最大の発明だと考えており、「電話よりも重大な発明」だと記している<ref>Phillipson, Donald J.C., and Laura Neilson. [http://www.thecanadianencyclopedia.com/articles/alexander-graham-bell "Bell, Alexander Graham."] ''The Canadian Encyclopedia online''. Retrieved: August 6, 2009.</ref>。フォトフォンは1980年代に普及しはじめた[[光通信]]システムの先駆けである<ref>Morgan, Tim J. "The Fiber Optic Backbone". ''[[北テキサス大学|University of North Texas]]'', 2011.</ref><ref name="AmericanScientist-1984.V72.No1">Miller, Stewart E. [http://www.jstor.org/stable/i27852430 "Lightwaves and Telecommunication".] ''American Scientist'', Sigma Xi, The Scientific Research Society, Vol. 72, No. 1, January-February 1984, pp. 66-71.</ref>。その主要特許は1880年12月に発効しており、その原理が広く使われる前に失効している。

=== 金属探知機 ===
1881年には、[[金属探知機]]を発明したとされる。テロリストに銃で撃たれた当時のアメリカ大統領[[ジェームズ・ガーフィールド]]の体内にいまだ埋まっているはずの弾丸を見つけるため、素早く完成させた。試験ではうまく機能したが、大統領が横たわっているベッドの金属フレームが雑音を生じたため、暗殺者の弾丸を見つけることはできなかった<ref name="Grosvenor and Wesson, p. 107">{{Harvnb|Grosvenor|Wesson|1997|p=107}}</ref>。外科医はベルの金属探知機について懐疑的で、ベルが大統領を金属製のベッドから移したいと言っても聞き入れなかった。一方、最初の試験でベルの金属探知機はまったく無音であり、弾丸は大急ぎで作った機器で検出できないほど深い位置にあったとも考えられる<ref name="Grosvenor and Wesson, p. 107"/>。1882年8月に[[アメリカ科学振興協会]] (AAAS)へ論文を提出する前に、ベルは新聞に実験に関して詳細な説明をしている。

=== 水中翼船 ===
[[ファイル:Bell HD-4.jpg|thumb|試験航行中のBell [[HD-4]](1919年ごろ)]]
アメリカ人で[[水中翼船]]を研究していたウィリアム・E・ミーチャムは、[[サイエンティフィック・アメリカン]]誌1906年3月号の記事で水中翼の基本原理を解説した。ベルは水中翼船を完成させたら大きな発明になると考えた。そこでこの記事に基づいて水中翼船のスケッチを描き始めた。ベルと助手の{{仮リンク|フレデリック・ウォーカー・ボールドウィン|en|Frederick Walker Baldwin|label=フレデリック・W・ボールドウィン}}は1908年夏、水中翼船の原理が水上からの航空機の離陸方法に使えるのではないかと考え、実験を開始した。ボールドウィンはイタリアの発明家[[エンリコ・フォルラニーニ]]の業績を研究し、模型での試験を開始。それによりベルとボールドウィンは軍用の水中翼船の実用化に向かうことになった。

1910年から1911年にかけて世界旅行に赴き、ベルとボールドウィンはフランスでフォルラニーニと面会し、[[マッジョーレ湖]]でフォルラニーニの水中翼船に乗った。ボールドウィンは飛んでいるように滑らかだったと描写している。バデックに戻るといくつかの模型を作って実験を開始。中でも ''Dhonnas Beag'' は彼らとしては初の自力推進する模型だった<ref>{{Harvnb|Boileau|2004|p=18}}</ref>。[[概念実証]]を経て、より実用的な[[HD-4]]を開発。これは、[[ルノー]]製エンジンを搭載した水中翼船である。最高時速87キロを達成し、水中翼の効果で加速が早く、波が高くても安定して操縦可能だった<ref>{{Harvnb|Boileau|2004|pp=28-30}}</ref>。1913年、ベルはシドニー出身でノバスコシア州ウェストマウントでヨット作りをしていたウォルター・ピノードを雇って、HD-4の改良をさせた。ピノードはベイン・バリーの小型造船所を引き継ぎ、ヨット作りの経験を生かしてHD-4のデザインを改良。第一次世界大戦後、HD-4の改良を再開。ベルは[[アメリカ海軍]]に報告書を提出し、1919年7月に350[[馬力]]のエンジン2基を提供された。1919年9月9日、当時の水上の世界記録である時速114.0キロを達成し<ref>{{Harvnb|Boileau|2004|p=30}}</ref>、その記録は10年間破られなかった。

=== 航空 ===
{{Main|アエリアル・エクスペリメント・アソシエーション}}
[[ファイル:AEA Silver Dart.jpg|thumb|AEAシルバーダート(1909年ごろ)]]
1891年、ベルは飛行機の実験を開始した。[[アエリアル・エクスペリメント・アソシエーション]] (AEA)は空を飛ぶことが夢だったベルが60歳のとき (1907年)、妻メイベルの若者の支援を受けるべきだという助言に従って結成したものである。

1898年、ベルは[[三角錐]]形の{{仮リンク|箱凧|en|Box kite}}と栗色の絹を張った[[四面体凧]]を複数組み合わせた翼を実験した{{#tag:ref|ベルは[[オーストラリア]]の航空工学者[[ローレンス・ハーグレイヴ]]の人間を乗せられる箱凧の実験に触発された<ref>''Technical Gazette'', New South Wales, 1924, p.&nbsp;46.</ref>。ハーグレイヴは特許をとらず、ベルもこれに関しては特許をとっていない。また、ベルは青空に映えるように栗色の絹を使った。|group="注釈"}}。三角錐の箱凧 ''Cygnet'' は3号機まで作り、1907年から1912年まで無人および有人で飛行を行った(1号機はセルフリッジが乗っているときに墜落した)。ベルの凧の一部は{{仮リンク|アレクサンダー・グラハム・ベル歴史史跡|en|Alexander Graham Bell National Historic Site}}で展示されている<ref>[http://ns1763.ca/victco/bellmusbbm.html "Nova Scotia's Electric Scrapbook."] ''ns1763.ca''. Retrieved: December 29, 2009.</ref>。

ベルは[[アエリアル・エクスペリメント・アソシエーション]] (AEA)を通して[[航空宇宙工学]]研究に貢献した。AEAはノバスコシア州バデックにて1907年10月、妻メイベルの示唆と資金援助(所有する不動産の一部を売却)で正式に創設された<ref name="Gillis">Gillis, Rannie. [http://www.capebretonpost.com/index.cfm?sid=175549&sc=150 "Mabel Bell Was A Focal Figure In The First Flight of the Silver Dart."] ''Cape Breton Post'', September 29, 2008. Retrieved from [http://ns1763.ca/victco/baddckcrth.html "First Airplane Flight In Canada."] ''ns1763.ca'', April 2, 2010. Retrieved: June 12, 2010.</ref>。AEAの会長はベルで、創設メンバーは4人の若者だった。アメリカ人の[[グレン・カーチス]]はオートバイ製造業者で、自作のオートバイで世界最高速度を記録し「世界最速の男」と呼ばれていた。また、のちに[[西半球]]初の1キロの公式な飛行を成功させたとして、[[サイエンティフィック・アメリカン]]誌に認められ、世界的に有名な飛行機製作者となった。{{仮リンク|トーマス・セルフリッジ|en|Thomas Selfridge}}はアメリカ政府からオブザーバーとして派遣された軍人で、米軍の中で唯一航空機の将来を信じていた。{{仮リンク|フレデリック・ウォーカー・ボールドウィン|en|Frederick Walker Baldwin|label=フレデリック・W・ボールドウィン}}は、ニューヨーク州ハモンズポートでカナダ人(および[[大英連邦]]内で)初の公式な飛行を行った。そして[[ジョン・マカーディ]]がいた。ボールドウィンとマカーディは[[トロント大学]]の新しくできた工学部を卒業している。

AEAでは、凧で得られた知識をグライダーに適用し、さらにエンジン搭載の飛行機へと進んでいった。ハモンズポートに拠点を移すと、{{仮リンク|AEAレッドウィング|en|AEA Red Wing|label=レッドウィング号}}を製作。竹でフレームを作り、赤い絹を張り、小さな空冷式エンジンを搭載した複葉機である<ref>{{Harvnb|Phillips|1977|p=95}}</ref>。1908年3月12日、{{仮リンク|ケウカ湖|en|Keuka Lake}}にてレッドウィング号で北米初の公式飛行を成功させた{{#tag:ref|時速25から30マイル。アメリカ初の空気より重い車両 (car) の公式な飛行。アレクサンダー・グラハム・ベル教授の新たな機械は、セルフリッジ大尉の計画に沿って製作され、ケウカ湖上を飛行してそれが可能であることを示した。最後には尾部が崩壊して試験飛行が終了した。<ref>"Selfridge Aerodrome Sails Steadily for 319 feet (97m)." ''[[ワシントン・ポスト|Washington Post]]'' May 13, 1908.</ref>|group="注釈"}}。設計の目新しい点として、コックピットを覆った点と[[方向舵]]を備えた点が挙げられる。AEAの発明として[[補助翼]]があるが、[[ロベール・エスノー=ペルトリ]]らも独立に発明している。補助翼は航空機の操縦手段として普及していった。その後、{{仮リンク|AEAホワイトウィング|en|AEA White Wing|label=ホワイトウィング号}}と{{仮リンク|AEAジューンバグ|en|AEA June Bug|label=ジューンバグ号}}を製作し、1908年末には大きな事故を起こさずに150回の飛行を達成している。しかし資金が底をつき、メイベルが新たに1万5,000ドルを提供してなんとか活動を続けた<ref>{{harvnb|Phillips|1977|p=96}}</ref>。

AEAが最後に設計した飛行機が{{仮リンク|AEAシルバーダート|en|AEA Silver Dart|label=シルバーダート号}}で、それまでの経験を生かして設計され、1909年2月23日、マカーディが操縦して凍ったブラスダー湖上で初飛行し、カナダで最初に飛行した航空機となった。氷上の飛行ということでベルは事故を心配し、医師を待機させた。この成功をもってAEAは解散となり、シルバーダート号はボールドウィンとマカーディが創業した Canadian Aerodrome Company が引き継いだ。のちに彼らは[[カナダ陸軍]]向けにデモンストレーション飛行を行っている<ref>{{Harvnb|Phillips|1977|pp=96-97}}</ref>。

== 優生学 ==
ベルはアメリカでの[[優生学]]運動とも関わりがある。1883年11月13日、[[米国科学アカデミー]]で ''Memoir upon the formation of a deaf variety of the human race'' と題した講演を行い、その中で両親が先天的に聾者だった場合に聾者の子が生まれる可能性が高いため、そのような婚姻は避けるべきだと提唱した<ref>Bell, Alexander Graham. [http://saveourdeafschools.org/race.pdf "Memoir upon the formation of a deaf variety of the human race."] ''Alexander Graham Bell Association for the Deaf'', 1883.</ref>。それとは別に家畜の繁殖を趣味として行っており、それが昂じて [[:en:American Breeders Association|American Breeders Association]] の保護下にあった生物学者[[デイビッド・スター・ジョーダン]]の優生学委員会の委員に任命された。この委員会は明らかに優生学をヒトにも拡張適用した<ref>{{Harvnb|Bruce|1990|pp=410–417}}</ref>。1912年から1918年まで、ニューヨークの[[コールド・スプリング・ハーバー研究所]]の優生記録所の科学諮問委員会委員長を務め、定期会合に出席していた。1921年、[[アメリカ自然史博物館]]が後援した第2回国際優生学会議の名誉議長を務めた。これらの組織はベルが「不完全な人種」と呼んだ人々の[[断種]]を法律化することを提案した(一部の州では実際に法律になった)。1930年代後半にはアメリカの半分の州が優生学的な法律を持っており、カリフォルニア州のそれは[[ナチス・ドイツ]]が手本にしたほどだった<ref>{{Harvnb|Lusane|2003|p=124}}</ref>。

== 死 ==
1922年8月2日、[[糖尿病]]に起因する合併症により[[ノバスコシア州]]ベイン・バリーの自宅で75歳で亡くなった<ref>{{harvnb|Gray|2006|p=419}}</ref>。[[悪性貧血]]も患っていた<ref>{{Harvnb|Gray|2006|p=418}}</ref>。最後に午前2時ごろ月明かりに照らされた風景を見たという{{#tag:ref|引退したベルは妻や家族や友人とともにベイン・バリーに住んでいた。<ref>{{Harvnb|Bethune|2009|p=95}}</ref><ref>Duffy, Andrew. [http://www2.canada.com/news/national/canada+flight/1319873/story.html?id=1319873 "The Silver Dart sputtered into history."] ''The Ottawa Citizen,'' February 23, 2009.</ref>|group="注釈"}}{{#tag:ref|引用: 「(彼の最期のときは)午前2時だった… 妻メイベル、娘デイジー、義理の息子デビッド・フェアチャイルドが集まっていた。最期に彼は愛していた山の上に月がでているのを眺めた」<ref>{{Harvnb|Bethune|2009|p=119}}</ref>|group="注釈"}}。夫の長い闘病を支えた妻メイベルは「私を置いていかないで」とささやいた。それに答えるようにベルは手話でNOのサインをし、息を引き取った<ref name="NYTimes">[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?res=9807E7DF1339EF3ABC4B53DFBE668389639EDE "Obituary: Dr. Bell, Inventor of Telephone, Dies: Sudden End, Due to Anemia, Comes in Seventy-Sixth Year at His Nova Scotia Home: Notables Pay Him Tribute."] ''The New York Times'', August 3, 1922. Retrieved: March 3, 2009.</ref><ref>{{Harvnb|Bruce|1990|p=491}}</ref>。

ベルの死の知らせを受けた[[カナダ首相]][[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]はベル夫人に次のような電報を打った。
<blockquote>(政府は)あなたの偉大な夫が亡くなったことが世界の損失であることを表明する。彼の名はその偉大な発明とともに永遠に記憶され、歴史の一部となることは、わが国のプライドの源となるだろう。カナダ国民を代表して、感謝と同情の念をお伝えしたい。<ref name="NYTimes"/></blockquote>

ベルの棺は研究室のスタッフがベイン・バリーの松を使って作り、四面体の凧の実験で使われたのと同じ赤い絹で内張りされた。葬儀に際して夫人は夫の生涯を祝福するため、列席者に黒い服装をしないで欲しいと頼んだ。葬儀では[[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]の "Requiem" の一節が Jean MacDonald によって唱えられた<ref name="Bethune 119-120">{{Harvnb|Bethune|2009|pp=119-120}}</ref>。

<blockquote>''Under a wide and starry sky,<br/>
''Dig the grave and let me lie.<br/>
''Glad did I live and gladly die<br/>
''And I lay me down with a will.</blockquote>

ベルの葬儀の最後に、「遠距離の直接的通信方法を人類にもたらした男に敬意を表して、北米のすべての電話が沈黙した」<ref name="Bethune" /><ref name="NAS" />。

ベルは自分の所有する地所であるベイン・バリー山の頂上に埋葬された<ref name="NYTimes"/>。後には妻メイベル、2人の娘エルシー・メイとマリオン、10人の孫が遺された<ref name="NYTimes"/><ref>[http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0303.html "Dr. Bell, Inventor of Telephone, Dies."] ''The New York Times'', August 3, 1922. Retrieved: July 21, 2007. 引用: 電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベル博士は本日午前2時ベイン・バリーの自宅で亡くなった。</ref><ref>"Descendants of Alexander Melville Bell - Three Generations". ''Bell Telephone Company of Canada Historical Collection and Company Library'' (undated), from the ''Brant Historical Society'', June 2012.</ref>。

== 栄誉と顕彰 ==
[[ファイル:Bell Statue in front of the Brantford Bell Telephone Building 0.98.jpg|thumb|right|ベルの銅像([[:en:Cleeve Horne|Cleeve Horne]] 作)。[[ブラントフォード]]のベル・テレフォン・ビルディングの柱廊玄関にあり、[[リンカーン記念館]]のリンカーン像とスタイルが似ている。{{#tag:ref|ブラントフォードの新たなベル・テレフォン・ビルディングの柱廊玄関にベル像が設置され、1949年6月17日に除幕式が行われた。ベルの娘ギルバート・グローヴナー夫人、ベル・カナダ社長フレデリック・ジョンソン、ブラントフォード市長ウォルター・J・ドウデンらが列席している。像に面した柱には "In Gratefull Recognition of the Inventor of the Telephone" と刻まれていた。この式典の模様はカナダ中に生中継された。<ref>Ireland, Carolyn. "The Portrait Studio House". ''The Globe and Mail,'' 27 February 2009.</ref><ref>"Daughter Unveils Inventor's Statue: Bronze Figure Is Dedicated By Phone Pioneers". ''Brantford Expositor'', 18 June 1949.</ref>|group="注釈"}}<small>(Courtesy: '''''Brantford Heritage Inventory''', City of Brantford, Ontario, Canada'')</small>]]
電話の普及とともにベルの名声は高まり、さまざまな栄誉と賛辞が贈られた。多数の大学から名誉学位を贈られた<ref>"Alexander Graham Bell Family Papers." ''Library of Congress.''</ref>。存命中にもさまざまな賞を受賞し、賛辞を受けている。1880年、[[アカデミー・フランセーズ]]から{{仮リンク|ボルタ賞|en|Volta Prize}}と副賞5,000フランを授与された。審査員には[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]や[[アレクサンドル・デュマ・フィス|デュマ]]といった有名人もいた。ボルタ賞は[[ナポレオン・ボナパルト]]が1801年に創設した賞で、[[アレッサンドロ・ボルタ]]を記念した賞である。ベルは歴代3位の賞を授与されている<ref>Crosland, Maurice P. "Science Under Control: The French Academy of Sciences, 1795–1914". ''Cambridge University Press,'' 1992. As cited by James Love in [http://www.keionline.org/content/view/170/1 "KEI Issues Report on Selected Innovation Prizes and Reward Programs: The Volta Prize For Electricity."] ''Knowledge Ecology International'', March 20, 2008, p. 16. Retrieved: January 5, 2010.</ref><ref>Davis. John L. [http://www.informaworld.com/smpp/content~db=all~content=a756511478 "Artisans and savants: The Role of the Academy of Sciences in the Process of Electrical Innovation in France, 1850–1880."] ''Annals of Science,'' Volume 55, Issue 3, July 1998, p. 301. Retrieved from ''InformaWorld.com,'' January 5, 2010.</ref><ref name="NYTimes" /><ref>[http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/P?magbell:19:./temp/~ammem_JqTx:: "Honors to Professor Bell."] ''Boston Daily Evening Traveller'', September 1, 1880, Library of Congress, Alexander Graham Bell Family Papers. Retrieved: April 5, 2009.</ref>。ベルはこの賞金を使って基金(ボルタ基金)を創設。その基金によりワシントンD.C.に聴覚障害の研究機関が創設されている。[[トーマス・エジソン]]が[[蓄音機]]に使った蝋管はその研究所で発明された<ref>"Letter from Mabel Hubbard Bell, February 27, 1880." ''Library of Congress'', Alexander Graham Bell Family Papers. Retrieved: April 5, 2009. Note (N.B.): The last line of the typed note refers to the future disposition of award funds: "... and thus the matter lay till the paper turned up. He intends putting the full amount into his Laboratory and Library".</ref>。フォトフォンの研究もその研究所で行った。その研究所はのちに [[:en:Alexander Graham Bell Association for the Deaf and Hard of Hearing|Alexander Graham Bell Association for the Deaf and Hard of Hearing]] に組み込まれた。フランス政府は[[レジオンドヌール勲章]]を授与。英国[[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ]]は1902年、[[アルバート・メダル]]を授与。1907年には[[ジョン・フリッツ・メダル]]を受賞。1912年、{{仮リンク|フランクリン協会|en|Franklin Institute}}から[[エリオット・クレッソン・メダル]]を授与された。

[[1882年]]、[[ガーディナー・グリーン・ハバード]]と共同で[[アメリカ科学振興協会]]の発行する[[サイエンス]]誌創刊を支援した。1884年、[[IEEE]]の前身である[[アメリカ電気学会]]{{enlink|American Institute of Electrical Engineers}} (AIEE)の創設にも関わり、1891年から1892年まで会長を務めた。1888年、[[ナショナルジオグラフィック協会]]の創設に関わり、第2代会長 (1897年 - 1904年)を務め、[[スミソニアン博物館]]理事 (1898年 - 1922年)も務めた。1914年、AIEEから[[エジソンメダル]]を授与された<ref>[http://www.ieeeghn.org/wiki/index.php/Alexander_Graham_Bell "Alexander Graham Bell."] ''IEEE Global History Network.'' Retrieved: August 8, 2011.</ref>。

銅像や記念碑も立てられており、例えば1917年、[[ブラントフォード]]の ''Alexander Graham Bell Gardens'' に [[:en:Bell Telephone Memorial|Bell Telephone Memorial]] が立てられた<ref name="NAS">Osborne, Harold S. "Biographical Memoir of Alexander Gramam Bell." ''National Academy of Sciences'': Biographical Memoirs, Vol. XXIII, 1847–1922, presented to the Academy at its 1943 annual meeting.</ref>。

ベルに関しては手紙やノートの類がほかの19世紀および20世紀の著名な発明家と比較しても圧倒的に多く、また、彼を顕彰する法人が丁寧に整理している。これはベルが学者で教育者であった点と、もう1つは特許に関して自分の発明が先行した点を証明する必要があった点が挙げられる。ベルの書いた書簡、ノート、論文、その他の文書は[[アメリカ議会図書館]] (''Alexander Graham Bell Family Papers'')<ref>[http://memory.loc.gov/ammem/bellhtml/bellhome.html "Alexander Graham Bell Family Papers: Home."] ''Memory.loc.gov.'' Retrieved: February 14, 2012.</ref> とノバスコシア州のケープ・ブレトン大学にあるアレクサンダー・グラハム・ベル研究所に集められており、大部分はオンラインで閲覧可能となっている。それらの記録を細かく整理したうえで作成された伝記が『孤独の克服 - グラハム・ベルの生涯』(ロバート・V・ブルース著)である。

アメリカとカナダの最初の電話会社を含めて北米とヨーロッパにあるベルに関連するおもな史跡としては、以下のものがある。
[[ファイル:Grahambellmuseumcorridoor.jpg|thumb|right|[[ケープ・ブレトン島]]の{{仮リンク|アレクサンダー・グラハム・ベル歴史史跡|en|Alexander Graham Bell National Historic Site}}にあるベル博物館]]
* {{仮リンク|アレクサンダー・グラハム・ベル歴史史跡|en|Alexander Graham Bell National Historic Site}}は(ベルの地所ベイン・バリーに程近い)ノバスコシア州バデックにあり、[[パークス・カナダ]]が運営している。ベル博物館などがある<ref>[http://www.pc.gc.ca/lhn-nhs/ns/grahambell/index_e.asp "Alexander Graham Bell National Historic Site."] ''Parks Canada.'' Retrieved: February 14, 2012.</ref>。ベル博物館の展示品はベルの娘が寄贈した。
* The Bell Homestead National Historic Site はベル一家が北米に移住してきた際の最初の屋敷である。カナダの最初の電話会社の建物 "Henderson Home" は、1969年に Bell Homestead のそばに移築された。[[ブラントフォード]]の Bell Homestead Society が運営している<ref>[http://www.bellhomestead.ca/ "Bell Homestead".] ''Bell Homestead Society.'' Retrieved: February 14, 2012.</ref>。
* ブラントフォードの北にある Alexander Graham Bell Memorial Park には、1917年に立てられた新古典主義の複数の記念碑がある。

ベル (B)と[[デシベル]] (dB)は[[音圧レベル]]などの[[物理単位]]であり、[[ベル研究所]]が考案し、ベルにちなんで名付けた<ref>[http://www.sfu.ca/sonic-studio/handbook/Decibel.html "Decibel."] ''sfu.ca.'' Retrieved: July 28, 2010.</ref> {{#tag:ref|1デシベルは1ベルの10分の1である。|group="注釈"}}<ref>[http://www.thefreedictionary.com/bel "Definition: 'bel'."] ''freedictionary.com'', American Heritage Dictionary of the English Language by Houghton Mifflin Company, Fourth Edition, 2000. Retrieved: September 2, 2009.</ref>。1976年から、[[IEEE]]は電気通信分野の優れた業績を表彰する[[IEEEアレクサンダー・グラハム・ベル・メダル|アレクサンダー・グラハム・ベル・メダル]]を毎年授与している。

[[ファイル:Alexander Grahm Bell2 1940 Issue-10c.jpg|thumb |180px|<center>~ A.G. Bell ~ </center> <center>1940年発行</center>]]
1940年、[[アメリカ合衆国郵便公社]]はベルの記念[[アメリカ切手|切手]]を発行した。同年10月28日にボストンで発行を記念した式典が開催された。ベルの切手は大変な人気となり、すぐさま売り切れた。コレクターの間では、有名人が描かれた切手としてはもっとも価値が高いとされている<ref>''Scott's United States Stamp catalogue.''</ref>。

ベル生誕150周年の1997年、[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]]が記念の1[[スターリング・ポンド紙幣|ポンド紙幣]]を発行した。紙幣の裏面には、ベルの横顔、署名、電話を利用する人々、音声信号の[[波形]]、電話機、手話、航空工学への興味を与えたガチョウ、遺伝学を理解するために研究した羊などが描かれている<ref name="commemorative">[http://www.rampantscotland.com/SCM/royalcomm.htm "Royal Bank Commemorative Notes."] ''Rampant Scotland''. Retrieved: October 14, 2008.</ref>。同じく1997年、カナダ政府は100カナダドルの記念金貨を発行した。また、2009年にはカナダでの(ベルの指導で設計されたシルバーダートの)初飛行100周年を記念した銀貨を発行した<ref>[http://www.mint.ca/store/coin/proof-set-100th-anniversary-of-flight-in-canada-2009-prod530013 "100th Anniversary of Flight in Canada."] ''Royal Canadian Mint''. Retrieved: June 12, 2010.</ref>。ほかにも世界各国でベルの肖像や発明品が硬貨や紙幣のデザインに採用されてきた。

ベルの名は世界各地の教育機関・企業・通り (avenue)・地名などの名前に使われている。BBCが2002年に行った[[100名の最も偉大な英国人]]の投票でベルが57位となった<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/2208671.stm "100 great British heroes."] ''BBC News World Edition'', August 21, 2002. Retrieved: April 5, 2010.</ref><ref>[http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=8552 "Beatlelinks: The Greatest Britons of All Times."] ''news.bbc.co.uk''. Retrieved: December 29, 2009.</ref>。また、2004年の [[:en:The Greatest Canadian|Top Ten Greatest Canadians]] でも、2005年の [[:en:The Greatest American|the 100 Greatest Americans]] でもランクインしている。2006年、スコットランド史上もっとも偉大な10人の科学者に選ばれ、{{仮リンク|スコットランド国立図書館|en|National Library of Scotland}}の 'Scottish Science Hall of Fame' に挙げられた<ref>[http://www.nls.uk/scientists/biographies/alexander-graham-bell/index.html "Alexander Graham Bell (1847–1922)."] ''Scottish Science Hall of Fame''. Retrieved: April 5, 2010.</ref>。

LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年でもっとも重要な功績を残した世界の人物100人」にも選ばれている。

[[ファイル:Bell receives honorary LL.D from University of Edinburgh.jpg|thumb|right|1906年、エディンバラ大学で法学の名誉博士号 (LL.D)を授与された際のベル]]

=== 名誉学位 ===
ベルは若いころ大学を卒業できなかった。のちに以下のような大学から名誉学位を授与されている。
*[[ギャローデット大学]](ワシントンD.C.) - 1880年、[[Ph.D.]]<ref>[http://provost.gallaudet.edu/Academic_Affairs/Honorary_Degrees/Honorary_Degree_Recipients.html "Honorary Degree Recipients."] ''Provost.gallaudet.edu''. Retrieved: July 28, 2010.</ref>
*[[ハーバード大学]](マサチューセッツ州ケンブリッジ) - 1896年、[[法学博士|LL.D]]
*[[ユリウス・マクシミリアン大学ヴュルツブルク|ヴュルツブルク大学]]([[ヴュルツブルク]]) - 1902年、Ph.D.
*[[エディンバラ大学]](エディンバラ) - 1906年4月、LL.D<ref>[http://www.scripts.sasg.ed.ac.uk/registry/Graduations/Honorary_Graduates.cfm "Overview , Graduations, Registry."] ''Registry.ed.ac.uk'', July 12, 2010. Retrieved: July 28, 2010.</ref>
*[[クイーンズ大学 (カナダ)|クイーンズ大学]](オンタリオ州キングストン) - 1909年
*[[ダートマス大学]](ニューハンプシャー州ハノーバー) - 1913年6月25日、LL.D<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=2&res=9903E3D6103CE633A25755C2A9609C946296D6CF "Dartmouth graduates."] ''The New York Times''. Retrieved: July 30, 2009.</ref>


== 個人に関する逸話 ==
== 個人に関する逸話 ==

* ベルに関しては手紙やノートの類が他の19世紀及び20世紀の著名な発明家と比較しても圧倒的に多く、また、彼を顕彰する法人が丁寧に整理している。これはベルが学者で教育者であった点と、もう1つは特許に関して自分の発明が先行した点を証明する必要があった点が挙げられる。この記録を細かく整理した上で作成された伝記が『孤独の克服―グラハム・ベルの生涯』(ロバート・V・ブルース著)である。
* [[正高信男]]は自著『天才はなぜ生まれるか』(中公新書)で、ブルース著『孤独の克服―グラハム・ベルの生涯』を読んだで、ライバルとの競争や後援者からの重圧に耐えかねているベルの様子から人間いが下手であると主張。[[自閉症]]であったとし、さらに[[高機能自閉症]]([[アスペルガー症候群]])ではないかと主張している。
* {{信頼性要検証範囲|[[正高信男]]は自著『天才はなぜ生まれるか』(中公新書)で、ブルース著『孤独の克服―グラハム・ベルの生涯』を読んだうえで、ライバルとの競争や後援者からの重圧に耐えかねているベルの様子から人間いが下手であると主張。[[自閉症]]であったとし、さらに[[高機能自閉症]]([[アスペルガー症候群]])ではないかと主張している。|date=2023年4月}}

== 日本との関係 ==
前述のように、1876年に米国留学中だった[[伊沢修二]]と[[金子堅太郎]]は電話発明の噂を聞きつけ、ベルの下宿先を訪問した。金子の回想によると、その家はボストン北部にある中流以下の住宅街にあり、思わず尻込みするほどの貧しい雰囲気で、屋根裏にあったベルの部屋も飾り気ひとつない殺風景なものだった<ref name=kaneko>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1234839/174 電話の發明者グラハム・ベル氏を語る 伯爵 金子堅太郞氏]『逓信畠の先輩巡礼』内海朝次郎 著 (交通経済社出版部, 1935) </ref>。実用化に向けて資本家を探していたベルは、外国人が興味を持ってくれたことに電話の将来を暗示されたようで嬉しいと語り、外国語で通話するのは初めてだと言って、居室と隣の実験室とに電話機を置いて2人に実験するよう勧めた<ref name=kaneko/>。 2人は互いに「おい、聞こえるか」と呼びかけ、誰の声か判明できるほどであることに驚いたという<ref name=kaneko/>。

1898年にはベルが来日し、東京と京都で講演したほか、[[天皇]]にも謁見し、[[勲等|勲三等]]を受勲するなど外国人としては破格の優遇を受けた<ref name=kaneko/>。講演では米国聾教育事情の紹介と日本への提言のほか、全米地形地質学会の会長でもあったベルは、雨量と山岳の多い日本は[[水力エネルギー]]の宝庫であると指摘し、日本の将来を鼓舞した<ref name=helen>[http://www.thka.jp/shupan/journal/201402.html 48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり(35)ろう教育史料も]点字ジャーナル 2014年2月号、第45巻2号(通巻第525号)、東京ヘレンケラー協会</ref><ref>[http://damnet.or.jp/cgi-bin/binranB/TPage.cgi?id=479 ダムインタビュー(26)竹村公太郎さんに聞く「未来を見通したインフラ整備が大事で、ダムの役目はまだまだ大きいですよ」]一般財団法人日本ダム協会、2010年7月</ref>。東京での講演は伊沢修二が『唖子教育談』としてまとめ、京都での講演については京盲文書が『ベル氏来院記』として出版した( 2013年に『ベル来日講演録 ―東京・京都―』(近畿聾史グループ編)として復刻)<ref name=helen/>。

1904年に金子が[[日露戦争]]のための外債募集に渡米した際には、ロシアの勝利を信じて日本国債購入に消極的であった米国要人にベルが日本の実情を説明し、募債の成立に協力した<ref name=kaneko/>。このときベルの秘書をしていたグロブナーはベルの娘エルシーと結婚し、彼らの三女(ベルの孫)リリアンは[[駐日米国大使館]]書記官カボット・コビル夫人として昭和初期に来日し、東京で男児を2人生んだ(のちに離婚)<ref name=kaneko/><ref name=washington>[https://www.washingtonpost.com/archive/local/1987/02/19/foreign-services-cabot-coville-is-dead-at-84/68886266-acd2-4232-8238-2ad23d5e1420/?noredirect=on&utm_term=.fa54f780c28e FOREIGN SERVICE'S CABOT COVILLE IS DEAD AT 84]The Washington Post, 1987.2.9</ref><ref>[https://www.loc.gov/collections/alexander-graham-bell-papers/articles-and-essays/family-tree/elsie-may-bell-grosvenor/ Elsie May Bell Grosvenor]Library of Congress</ref><ref>[https://www.findagrave.com/memorial/128096086/lilian-waters-jones Lilian Waters Grosvenor Jones]Find A Grave</ref>。コビルは戦後[[ダグラス・マッカーサー]]の政治アドバイザーを務めた<ref name=washington/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}

=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}

== 参考文献 ==
{{Refbegin}}
* {{Citation |title=Alexander Graham Bell (booklet)|place=Halifax, Nova Scotia |publisher=Maritime Telegraph & Telephone Limited |year=1979 |ref={{SfnRef|Alexander Graham Bell|1979}}}}
* {{Citation |editor1-last=Ayers |editor1-first=William C. |editor2-first=Therese |editor2-last=Quinn |editor3-first=David |editor3-last=Stovall |title=The Handbook of Social Justice in Education |place=London |publisher=Routledge |year=2009 |isbn=978-0-80585-928-7 |ref={{SfnRef|Ayers et al.|2009}}}}
* Bell, Alexander Graham. [http://saveourdeafschools.org/question.pdf ''The Question of Sign-Language and The Utility of Signs in the Instruction of the Deaf—Two papers.''] Washington, D.C.: Sanders Printing Office, 1898.
* {{Citation |last=Bethune |first=Jocelyn |url= https://books.google.ca/books?id=YmtoPgAACAAJ&hl=en |title=Historic Baddeck |series=Images of our Past series |place=Halifax, Nova Scotia, Canada |publisher=Nimbus Publishing |year=2009 |isbn=978-1-55109-706-0}}
* {{Citation |last=Bruce |first=Robert V. |url= https://books.google.ca/books?id=ZmR0MOQAu0UC&hl=en |title=Bell: Alexander Bell and the Conquest of Solitude |place=Ithaca, New York |publisher=[[コーネル大学|Cornell University Press]] |year=1990 |isbn=0-8014-9691-8}}
* {{Citation |last=Black |first=Harry |title=Canadian Scientists and Inventors: Biographies of People who made a Difference |place=Markham, Ontario, Canada |publisher=Pembroke Publishers Limited |year=1997 |isbn=1-55138-081-1}}
* {{Citation |last=Boileau |first=John |title=Fastest in the World: The Saga of Canada's Revolutionary Hydrofoils |place=Halifax, Nova Scotia, Canada |publisher=Formac Publishing Company Limited |year=2004 |isbn=0-88780-621-X}}
* {{Citation |last=Carson |first=Mary Kay |title=Alexander Graham Bell: Giving Voice to the World |publisher=Sterling Publishing Company, Inc. |year=2007 |isbn=978-1-40274-951-3 }}
* {{Citation |last=Dunn |first=Andrew |title=Alexander Graham Bell |series=Pioneers of Science series |place=[[イースト・サセックス|East Sussex]], UK |publisher=Wayland Limited |year=1990 |isbn=1-85210-958-0}}
* {{Citation |last=Eber |first=Dorothy Harley |title=Genius at Work: Images of Alexander Graham Bell |place=Toronto, Ontario, Canada |publisher=McClelland and Stewart |year=1982 |isbn=0-7710-3036-3}}
* {{Citation | last = Eber | first = Dorothy Harley | title = Genius at Work: Images of Alexander Graham Bell | year = 1991 | month = October | publisher = Nimbus Publishing | isbn = 978-0-921054-67-2}}
* {{Citation |last=Evenson |first=A. Edward |title=The Telephone Patent Conspiracy of 1876: The Elisha Gray&nbsp;— Alexander Bell Controversy |place=Jefferson, North Carolina |publisher=McFarland Publishing |year=2000 |isbn=0-7864-0138-9}}
* {{Citation |last=Gray |first=Charlotte |title=Reluctant Genius: Alexander Graham Bell and the Passion for Invention |place=New York |publisher=Arcade Publishing |year=2006 |isbn=1-55970-809-3}}
* {{Citation |last1=Grosvenor |first1=Edwin S. |last2=Wesson |first2=Morgan |title=Alexander Graham Bell: The Life and Times of the Man Who Invented the Telephone |place=New York |publisher=Harry N. Abrahms, Inc. |year=1997 |isbn=0-8109-4005-1}}
* {{Citation |last=Groundwater |first=Jennifer |title=Alexander Graham Bell: The Spirit of Invention |place=Calgary, Alberta, Canada |publisher=Altitude Publishing |year=2005 |isbn=1-55439-006-0}}
* {{Citation |last=Lusane |first=Clarence |title=Hitler's Black Victims: The Historical Experiences of Afro-Germans, European Blacks, Africans, and African Americans in the Nazi Era |place=Hove, East Sussex, UK |publisher=Psychology Press |year=2003 |isbn=978-0-415932-950}}
* {{Citation |last=Hart |first=Michael H. |title=The 100: A Ranking of the Most Influential Persons in History. |place=New York |publisher=Citadel |year=2000 |isbn=0-89104-175-3}}
* {{Citation |last=Mackay |first=James |title=Sounds Out of Silence: A life of Alexander Graham Bell |place=Edinburgh |publisher=Mainstream Publishing Company |year=1997 |isbn=1-85158-833-7}}
* {{Citation |last=MacKenzie |first=Catherine |url= https://books.google.ca/books?id=iFOcw4lN_ZYC&hl=en |title=Alexander Graham Bell |place=Whitefish, Montana |publisher=Kessinger Publishing |year=2003 |isbn=978-0-7661-4385-2}}
* {{Citation |last=MacLeod |first=Elizabeth |title=Alexander Graham Bell: An Inventive Life |place=Toronto, Ontario, Canada |publisher=Kids Can Press |year=1999 |isbn=1-55074-456-9}}
* {{Citation |last=Matthews |first=Tom L. |title=Always Inventing: A Photobiography of Alexander Graham Bell |place=Washington, D.C. |publisher=National Geographic Society |year=1999 |isbn=0-7922-7391-5}}
* {{Citation |last=Micklos |first=John Jr. |title=Alexander Graham Bell: Inventor of the Telephone |place=New York |publisher=[[ハーパーコリンズ|Harper Collins]] Publishers Ltd. |year=2006 |isbn=978-0-06-057618-9}}
* {{Citation |last=Miller |first=Don |first2=Jan |last2=Branson |url= https://books.google.ca/books?id=j1opaWDzsWwC&hl=en |title=Damned For Their Difference: The Cultural Construction Of Deaf People as Disabled: A Sociological History |place=Washington, D.C. |publisher=Gallaudet University Press |year=2002 |isbn=978-1-56368-121-9}}
* {{Citation |last=Mims III |first=Forest M. |url= https://books.google.ca/books?id=zoaSp1BJu50C&pg=PA1&hl=en#v=onepage&q&f=false |title=The First Century of Lightwave Communications |journal=Fiber Optics Weekly Update |publisher=Information Gatekeepers |date= February 10–26, 1982 |pages=6-23 |ref={{SfnRef|Mims|1982}}}}
* Mullett, Mary B. ''The Story of A Famous Inventor.'' New York: Rogers and Fowle, 1921.
* {{Citation |last=Parker |first=Steve |title=Alexander Graham Bell and the Telephone |series=Science Discoveries series |place=New York |publisher=Chelsea House Publishers |year=1995 |isbn=0-7910-3004-0}}
* {{Citation |last=Petrie |first=A. Roy |title=Alexander Graham Bell |place=Don Mills, Ontario |publisher=Fitzhenry & Whiteside Limited |year=1975 |isbn=0-88902-209-7}}
* {{Citation |last=Phillips |first=Allan |title=Into the 20th Century: 1900/1910 |series=Canada's Illustrated Heritage |place=Toronto, Ontario, Canada |publisher=Natural Science of Canada Limited |year=1977 |isbn=0-919644-22-8}}
* {{Citation |last=Ross |first=Stewart |title=Alexander Graham Bell |series=Scientists who Made History series |place=New York |publisher=Raintree Steck-Vaughn Publishers |year=2001 |isbn=0-7398-4415-6}}
* {{Citation |last=Shulman |first=Seth |title=The Telephone Gambit: Chasing Alexander Bell's Secret |place=New York |publisher=Norton & Company |year=2008 |isbn=978-0-393-06206-9}}
* {{Citation |last=Toward |first=Lilias M. |title=Mabel Bell: Alexander's Silent Partner |place=Toronto, Ontario, Canada |publisher=Methuen |year=1984 |isbn=0-458-98090-0}}
* {{Citation |last=Town |first=Florida |title=Alexander Graham Bell |place=Toronto, Ontario, Canada |publisher=Grolier Limite |year=1988 |isbn=0-7172-1950-X}}
* {{Citation |last=Tulloch |first=Judith |title=The Bell Family in Baddeck: Alexander Graham Bell and Mabel Bell in Cape Breton |place=Halifax, Nova Scotia, Canada |publisher=Formac Publishing Company Limited |year=2006 |isbn=978-0-88780-713-8}}
* Walters, Eric. ''The Hydrofoil Mystery''. Toronto, Ontario, Canada: Puffin Books, 1999. ISBN 0-14-130220-8.
* {{Citation |last=Webb |first=Michael, ed. |title=Alexander Graham Bell: Inventor of the Telephone |place=[[ミシサガ (オンタリオ州)|Mississauga, Ontario]], Canada |publisher=Copp Clark Pitman Ltd. |year=1991 |isbn=0-7730-5049-3}}
* {{Citation |last=Winfield |first=Richard |title=Never the Twain Shall Meet: Bell, Gallaudet, and the Communications Debate |place=Washington, D.C. |publisher=Gallaudet University Press |year=1987 |isbn=0-913580-99-6}}
* {{Citation |last=Wing |first=Chris |title=Alexander Graham Bell at Baddeck |place=Baddeck, Nova Scotia, Canada |publisher=Christopher King |year=1980}}
* Winzer, Margret A. [https://books.google.ca/books?id=sXFaytRNneUC&hl=en ''The History Of Special Education: From Isolation To Integration''.] Washington, D.C.: Gallaudet University Press, 1993. ISBN 978-1-56368-018-2.
{{Refend}}


Ladefoged, Peter and Sandra F. Disner (2012) ''Vowels and Consonants'', Wily-Blackwell, 『母音と子音:音声学の世界に踏み出そう』田村幸誠・貞光宮城訳、開拓社、2021年. ISBN 978-4-7589-2286-9


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[アントニオ・メウッチ]] - イタリア人の電話機の発明者
* [[アントニオ・メウッチ]] - イタリア人の電話機の発明者
* [[ベル (単位)]] - 通常はデシベルとして用いられる。
* [[ベル研究所]]
* [[ベル研究所]]
* [[エミール・ベルリナー]]
* [[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]] - [[1997年]]に生誕150周年を記念する1[[スターリング・ポンド紙幣|ポンド紙幣]]を発行した。
* 『{{仮リンク|科学者ベル|en|The Story of Alexander Graham Bell}}』 - 1939年の伝記映画
*『[[アサシン クリード シンジケート]]』 - 2015年のゲームソフト。ベルが登場する


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Wikiquotelang|en|Alexander Graham Bell|アレクサンダー・グラハム・ベル}}
{{commons|Alexander Graham Bell}}
{{commons|Alexander Graham Bell}}
* [http://bell.uccb.ns.ca/ Alexander Graham Bell Institute]
{{Wikisource1911Enc|Bell, Alexander Graham}}
{{Wikisource author}}
* [http://www.biographi.ca/009004-119.01-e.php?&id_nbr=7894 Biography at the ''Dictionary of Canadian Biography Online'']
* [http://bell.cbu.ca/agbi_about.asp Alexander Graham Bell Institute at Cape Breton University]
* [http://www.telephonetribute.com/pdf/bell_memorial_booklet.pdf Bell Telephone Memorial] - ''Alexander Graham Bell Gardens''([[ブラントフォード]])
* [http://www.telecomhall.ca/tour/inventors/bell/index.htm Biography and photos] at the [http://www.telecomhall.ca ''Canada's Telecommunications Hall of Fame '' website]
* [http://virtualology.com/ALEXANDERGRAHAMBELL.ORG/ Appleton's Biography edited by Stanley L. Klos]
* [http://www.pc.gc.ca/lhn-nhs/ns/grahambell/index_e.asp Alexander Graham Bell National Historic Site Museum located in Baddeck, Nova Scotia containing many of Bell's experiments and models]
* [http://memory.loc.gov/ammem/bellhtml/bellhome.html Alexander Graham Bell family papers Online version at the Library of Congress] - 書簡、科学的メモ、雑誌、設計図、写真など 4,695 点(画像にして51,500枚)がある。
* [http://www3.iath.virginia.edu/albell/homepage.html Bell's path to the invention of the telephone]
* [http://histv2.free.fr/bell/bell1.htm Bell's speech before the American Association for the Advancement of Science in Boston on August 27, 1880, presenting the Photophone, very clear description; published as "On the Production and Reproduction of Sound by Light" in the ''American Journal of Sciences'', Third Series, vol. '''XX''', No. 118, October 1880, pp.&nbsp;305–324 and as "Selenium and the Photophone" in ''[[ネイチャー|Nature]]'', September 1880]
* [http://www.alexanderbell.com/ AlexanderBell.com – Telecom pioneer]
* [https://www.findagrave.com/memorial/2125/alexander-graham-bell Alexander Graham Bell gravesite]
* [http://www.answers.com/topic/alexander-graham-bell Alexander Graham Bell: Biography and Much More from Answers.com Excellent summary of Alexander Graham Bell's life, has many useful dates for important parts of his life]
* [http://memory.loc.gov/ammem/bellhtml/agbtree.html Bell family tree]
* [http://www.loc.gov/exhibits/treasures/trr002.html ''American Treasures of the Library of Congress'', Alexander Graham Bell – Lab notebook I, pp. 40–41 (image 22)]
* [http://www.science.ca/scientists/scientistprofile.php?pID=120 Scientists' profile: Alexander Graham Bell]
* {{Cite Appleton's|wstitle=Bell, Alexander Graham|year=1900|notaref=x}}
* {{Worldcat id|lccn-n79-113947}}
* [http://www.nasonline.org/publications/biographical-memoirs/memoir-pdfs/bell-alexander-graham.pdf National Academy of Sciences Biographical Memoir]
* {{Kotobank|アレキサンダー・グラハム ベル}}


=== 特許 ===
{{DEFAULTSORT:へる あれくさんた くらはむ}}
* {{US patent|161739}} ''Improvement in Transmitters and Receivers for Electric Telegraphs''、1875年3月出願、1875年4月発効(1本の導線で複数の信号を伝送する方法)
* {{US patent|174465}} ''Improvement in Telegraphy''、1876年2月14日出願、1876年3月7日発効(電話に関する最初の特許)
* {{US patent|178399}} ''Improvement in Telephonic Telegraph Receivers''、1876年4月出願、1876年6月発効
* {{US patent|181553}} ''Improvement in Generating Electric Currents''、1876年8月出願、1876年8月発効(永久磁石を回転させて電気を発生させる方法)
* {{US patent|186787}} ''Electric Telegraphy''、1877年1月15日出願、1877年1月30日発効(永久磁石式受信機)
* {{US patent|235199}} ''Apparatus for Signalling and Communicating, called Photophone''、1880年8月出願、1880年12月発効
* {{US patent|757012}} ''Aerial Vehicle''、1903年6月出願、1904年4月発効

=== 映画 ===
* {{Imdb title|id=0956089|title=Animated Hero Classics: Alexander Graham Bell (1995)}}
* {{Imdb title|id=0031981|title=The Story of Alexander Graham Bell (1933)}}
* {{Imdb title|id=0106241|title=The Sound and the Silence (1992)}}

{{100名の最も偉大な英国人}}
{{Telecommunications}}

{{Normdaten}}
{{Good article}}
{{デフォルトソート:へる あれくさんたあ くらはむ}}
[[Category:アレクサンダー・グラハム・ベル|*]]
[[Category:19世紀スコットランドの科学者]]
[[Category:20世紀スコットランドの科学者]]
[[Category:スコットランドの発明家]]
[[Category:スコットランドの発明家]]
[[Category:スコットランドの技術者]]
[[Category:19世紀の特殊教育専門家]]
[[Category:20世紀の特殊教育専門家]]
[[Category:19世紀アメリカ合衆国の科学者]]
[[Category:20世紀アメリカ合衆国の科学者]]
[[Category:20世紀カナダの科学者]]
[[Category:19世紀の発明家]]
[[Category:20世紀の発明家]]
[[Category:カナダの物理学者]]
[[Category:カナダの科学者]]
[[Category:カナダの発明家]]
[[Category:アメリカ合衆国の発明家]]
[[Category:アメリカ合衆国の発明家]]
[[Category:アメリカ合衆国の物理学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の物理学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の技術者]]
[[Category:アメリカ合衆国の技術者]]
[[Category:アメリカ合衆国の特殊教育専門家]]
[[Category:通信に関する人物]]
[[Category:通信に関する人物]]
[[Category:IEEEエジソンメダル受賞者]]
[[Category:航空の先駆者]]
[[Category:ろう教育者]]
[[Category:アメリカ合衆国の実業家]]
[[Category:アメリカ合衆国の実業家]]
[[Category:アメリカ合衆国の教育学者]]
[[Category:アメリカ合衆国の教育学者]]
[[Category:特別支援教育|人]]
[[Category:アメリカ合衆国の優生学者]]
[[Category:米国科学アカデミー会員]]
[[Category:アメリカ哲学協会会員]]
[[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]]
[[Category:全米発明家殿堂]]
[[Category:IEEEエジソンメダル受賞者]]
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]
[[Category:ボストン大学の教員]]
[[Category:ボストン大学の教員]]
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]
[[Category:スコットランド系アメリカ人]]
[[Category:スコットランド系カナダ人]]
[[Category:ヴィクトリア朝の人物]]
[[Category:アメリカ合衆国帰化市民]]
[[Category:スミソニアン博物館の人物]]
[[Category:ナショナルジオグラフィック協会の人物]]
[[Category:スコットランド・ポンド紙幣の人物]]
[[Category:ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン出身の人物]]
[[Category:エディンバラ大学出身の人物]]
[[Category:エディンバラ出身の人物]]
[[Category:エディンバラ出身の人物]]
[[Category:スコットランド・ポンド紙幣の人物]]
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]
[[Category:1847年生]]
[[Category:1847年生]]
[[Category:1922年没]]
[[Category:1922年没]]

{{Link FA|bs}}
{{Link GA|es}}

[[af:Alexander Graham Bell]]
[[an:Alexander Graham Bell]]
[[ar:ألكسندر جراهام بيل]]
[[arz:اليكساندر جراهام بيل]]
[[ast:Alexander Graham Bell]]
[[az:Aleksandr Bell]]
[[be:Аляксандр Грэям Бел]]
[[be-x-old:Аляксандар Грэм Бэл]]
[[bg:Александър Бел]]
[[bn:আলেকজান্ডার গ্রাহাম বেল]]
[[br:Alexander Graham Bell]]
[[bs:Alexander Graham Bell]]
[[ca:Alexander Graham Bell]]
[[ckb:ئەلێکساندەر گراهام بێڵ]]
[[cs:Alexander Graham Bell]]
[[cy:Alexander Graham Bell]]
[[da:Alexander Graham Bell]]
[[de:Alexander Graham Bell]]
[[el:Αλεξάντερ Γκράχαμ Μπελ]]
[[en:Alexander Graham Bell]]
[[eo:Alexander Graham Bell]]
[[es:Alexander Graham Bell]]
[[et:Alexander Graham Bell]]
[[eu:Alexander Graham Bell]]
[[fa:الکساندر گراهام بل]]
[[fi:Alexander Graham Bell]]
[[fr:Alexandre Graham Bell]]
[[fy:Alexander Graham Bell]]
[[ga:Alexander Graham Bell]]
[[gd:Alexander Graham Bell]]
[[gl:Alexander Graham Bell]]
[[gu:એલેક્ઝાન્ડર ગ્રેહામ બેલ]]
[[he:אלכסנדר גרהם בל]]
[[hi:अलेक्ज़ांडर ग्राहम बेल]]
[[hr:Alexander Graham Bell]]
[[hu:Alexander Graham Bell]]
[[hy:Ալեքսանդր Բելլ]]
[[id:Alexander Graham Bell]]
[[io:Alexander Graham Bell]]
[[is:Alexander Graham Bell]]
[[it:Alexander Graham Bell]]
[[jv:Alexander Graham Bell]]
[[kn:ಅಲೆಕ್ಸಾಂಡರ್ ಗ್ರಹಾಂ ಬೆಲ್‌]]
[[ko:알렉산더 그레이엄 벨]]
[[la:Alexander Graham Bell]]
[[lb:Alexander Graham Bell]]
[[lt:Alexander Graham Bell]]
[[lv:Aleksandrs Greiems Bells]]
[[map-bms:Alexander Graham Bell]]
[[mk:Александар Грејам Бел]]
[[ml:അലക്സാണ്ടർ ഗ്രഹാം ബെൽ]]
[[mn:Александр Грэхэм Белл]]
[[mr:अलेक्झांडर ग्रॅहॅम बेल]]
[[ms:Alexander Graham Bell]]
[[my:အလက်ဇန္ဒား ဂရေဟမ် ဘဲလ်]]
[[ne:अलेक्ज्याण्डर ग्राहम बेल]]
[[nl:Alexander Graham Bell]]
[[no:Alexander Graham Bell]]
[[oc:Alexander Graham Bell]]
[[pam:Alexander Graham Bell]]
[[pl:Alexander Graham Bell]]
[[pnb:گراہم بل]]
[[ps:الېکسانډر ګراهام بېل]]
[[pt:Alexander Graham Bell]]
[[qu:Alexander Graham Bell]]
[[ro:Alexander Graham Bell]]
[[ru:Белл, Александр Грэм]]
[[sah:Александр Белл]]
[[scn:Alexander Graham Bell]]
[[sco:Alexander Graham Bell]]
[[sh:Alexander Graham Bell]]
[[simple:Alexander Graham Bell]]
[[sk:Alexander Graham Bell]]
[[sl:Alexander Graham Bell]]
[[so:Alexander Graham Bell]]
[[sr:Александар Грејам Бел]]
[[su:Alexander Graham Bell]]
[[sv:Alexander Graham Bell]]
[[sw:Alexander Graham Bell]]
[[ta:அலெக்சாண்டர் கிரகாம் பெல்]]
[[te:అలెగ్జాండర్ గ్రాహంబెల్]]
[[th:อเล็กซานเดอร์ เกรแฮม เบลล์]]
[[tl:Alexander Graham Bell]]
[[tr:Alexander Graham Bell]]
[[uk:Александер Грем Белл]]
[[ur:الیگزنڈر گراہم بیل]]
[[vi:Alexander Graham Bell]]
[[war:Alexander Graham Bell]]
[[yi:אלעקסאנדער גרעהעם בעל]]
[[zh:亚历山大·格拉汉姆·贝尔]]
[[zh-min-nan:Alexander Graham Bell]]

2024年11月15日 (金) 21:41時点における最新版

アレクサンダー・グラハム・ベル
1914年から1919年ごろ
生誕 (1847-03-03) 1847年3月3日
スコットランドの旗 スコットランドエディンバラ
死没 (1922-08-02) 1922年8月2日(75歳没)
カナダの旗 カナダノバスコシア州 ベイン・バリー
居住 イギリスの旗 イギリス アメリカ合衆国カナダの旗 カナダ
国籍 イギリスの旗 イギリス アメリカ合衆国カナダの旗 カナダ
研究分野 工学
研究機関 ボストン大学
出身校 エディンバラ大学
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
主な業績

電話機の発明

署名
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

アレクサンダー・グラハム・ベルAlexander Graham Bell1847年3月3日 - 1922年8月2日)は、スコットランド生まれの科学者発明家工学者。世界初の実用的電話の発明で知られている[注釈 1]

ベルの祖父、父、兄弟は弁論術スピーチに関連した仕事をし、母と妻はだった。このことはベルのライフワークに深く影響している[4]聴覚とスピーチに関する研究から聴覚機器の実験を行い、ついに最初のアメリカ合衆国の特許を取得した電話の発明(1876年)として結実した[注釈 2]。のちにベルは彼のもっとも有名な発明が科学者としての本当の仕事には余計なものだったと考え、書斎に電話機を置くことを断わった[6][注釈 3]

その後もさまざまな発明をしており、光無線通信水中翼船航空工学などの分野で重要な業績を残した。1888年にはナショナルジオグラフィック協会創設に関わった[8]。その生涯を通じて科学振興および聾者教育に尽力し、人類の歴史上もっとも影響を及ぼした人物の1人とされることもある[9]デシベル (decibel; dB)などに使われる相対単位「ベル」などにその名を残す。

ベルが会長(在職期間:1896年 - 1904年)を務めたナショナルジオグラフィック協会の月刊誌である『ナショナル ジオグラフィック』日本版(日経ナショナル ジオグラフィック社)では「アレクサンダー・グラハム・ベル」としているため、本記事ではこれに従うが、表記発音については脚注参照[注釈 4]

前半生

[編集]
両親と兄弟 (1852年)

1847年3月3日、スコットランドエディンバラに生まれる[10]。生家のあった場所には、2012年現在石碑が立っている。メルヴィル・ジェームズ・ベル(1845年 - 1870年)とエドワード・チャールズ・ベル(1848年 - 1867年)という2人の兄弟がいたが、2人とも結核で若くして亡くなった[11]。父は大学教授のアレクサンダー・メルヴィル・ベル、母はイライザ・グレイス(旧姓はシモンズ)である[12]。ベルが生まれたときの名前にはミドルネームがなかったが、10歳のときに父に兄弟たちのようなミドルネームが欲しいと懇願した[13][注釈 5]。11歳の誕生日、父はその願いを聞き入れ "Graham" というミドルネームを与えた。"Graham" としたのは、父の友人にアレクサンダー・グラハムというカナダ人がいたからで、その友人への敬意をこめてそれをミドルネームとしたのだった[14]。父は彼を「アレック」と呼び続け、近親者や友人にもアレックと呼ばれていた[15]

最初の発明

[編集]

幼いころから好奇心旺盛で、植物標本を集めたり、実験したりしていた。そのころの親友ベン・ハードマンの家では製粉所などを営んでいた。若きベルは製粉所で困ったことはないかと訊ねた。そして、製粉前の脱穀が重労働だということを知り、12歳のアレックは回転パドルとブラシを組み合わせた単純な脱穀機を作り、それが何年も実際に使われたという[16]。お返しにベンの父ジョン・ハードマンは2人の少年に「発明」のための作業場を与えた[16]

幼いころから感受性が高く、母から芸術、詩、音楽を教え込まれ才能を発揮した。正式な訓練を受けずにピアノ演奏を習得し、一家のピアニストになった[17]。普段は物静かで内省的であるにもかかわらず、訪問客があると物真似や腹話術のような「声のトリック」でもてなし、楽しませた。また母の聴覚障害が進行したことにも深く影響を受け(彼が12歳のとき聴力を失い始めた)、手話を習得し、母の側に座り家族の会話を手話で同時通訳した[18]。さらに、母の額に直接口を当てて明瞭に発音することで、母がそれなりの明瞭さで聞き取れるというテクニックも生み出した[19]。母の聴覚障害について没頭するあまり、音響学を学び始めることになった。

彼の一族は長年弁論術の教育に関わってきた。祖父アレクサンダー・ベルはロンドンで、叔父はダブリンで、父はエディンバラで弁論術の専門家として活躍している。父は The Standard Elocutionist (1860)[17] などの著作で知られている。The Standard Elocutionist はイギリスで168刷まで版を重ね、アメリカ合衆国でも25万部以上を売り上げた。その中で父は、聾唖者(当時の呼称)に単語の発音を教える技法や、読唇術で他者が何をしゃべっているかを推測する技法を説明している。父はアレックや兄弟に視話法の書き方だけでなく、さまざまなシンボルとそれに付随する発音の識別法を教えた[20]。ベルはそれに熟達したため、父の公開デモンストレーションでも実演し、聴衆を驚かせた。彼は視話法で書かれていればどんな言語でも事前知識なしに正確に発音でき、ラテン語スコットランド・ゲール語、さらにはサンスクリットなどを発音して人々を驚かせた[20]

教育

[編集]

幼少期のアレックは兄弟たちと同様、自宅で父から教育を受けた。それ以外に早くからエディンバラの Royal High School に入学したが、最初の4学年まで修了した15歳のときに退学している[21]。学校での記録によれば、欠席常習者で成績も平凡だった。彼が興味を持っていたのは科学、特に生物学だったが、ほかの教科にはまったく無関心だった[22]。退学後、アレックはロンドンへ行き祖父のもとに身を寄せた。祖父と過ごす間に向学心が湧き上がり、真剣な議論や学習に時間を費やすようになる。祖父はベルを教師にするために必要な信念と明瞭な話法を教え込んだ[23]。16歳のとき、スコットランドマレーのエルギンにあるウェストンハウス学院で弁論術と音楽の教師の職を得た。同時に学生としてラテン語とギリシャ語を学びつつ教師も務め、1回の授業あたり10ポンドの給料を得ていた[24]。翌年、兄メルヴィルが前年に入学したエディンバラ大学に入学。カナダに移住する直前の1868年、ロンドン大学の入学試験に合格している[25]

音声についての初実験

[編集]

1863年、父はアレックの科学への関心を育てるため、ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの業績に基づいてチャールズ・ホイートストンが開発したオートマタを見せに連れ出した[26]。このオートマタは人間の声を真似てしゃべる機械だった。ベルはこの機械に魅了され、ケンペレンのドイツ語の著作を手に入れて苦労して翻訳し、兄メルヴィルとともにオートマタの頭部を作りはじめた。父はそれらに大いに関心を寄せ、2人に資金提供を約束し、成功したら大きな褒美をやろうと言って発破をかけた[26]。兄がオートマタの喉と喉頭を作り、アレックはより困難な本物そっくりの頭蓋骨の製作に取り組んだ。努力の結果、人間そっくりの「しゃべる」頭部が完成した(ただし、しゃべることができるのはほんの数語である)[26]。唇の動きを微妙に調整し、で空気を気管に送り込むと、はっきりと「ママ (Mama)」と発音し、その発明を見に来た近所の人々を驚かせた[27]

その結果に好奇心をそそられたアレックは、一家の飼っていたスカイ・テリア "Trouve" を使った動物実験を行った[28]。彼はその犬に継続的に吠え方、唇の使い方などを教えこみ、犬は "Ow ah oo ga ma ma" としゃべる(うなる)ようになった。訪問者は犬が "How are you grandma?"(おばあさん、ごきげんいかが?)としゃべったことを信じられなかった。多くはアレックのいたずら好きの性質を知っていたが、ベルは彼らが「しゃべる犬」を目にしていることを納得させた[29]。この音声に関する最初の実験から、アレックは音叉を使っての共鳴など音響伝達について真剣に研究するようになる。

19歳のとき、それまでの研究成果を論文にまとめ、父の同僚だった言語学者アレクサンダー・ジョン・エリスに送った(エリスは、のちに『ピグマリオン』のヒギンズ博士のモデルとなった)[29]。エリスはすぐに、同様の実験はすでにドイツで行われているという返事を出し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの著作 The Sensations of Tone as a Physiological Basis for the Theory of Music をアレックに貸している[30]

ヘルムホルツがすでに音叉を工夫することで母音を生成するという研究をしていたことを知って狼狽したアレックは、そのドイツ人科学者の著作を熟読した。そこで彼はドイツ語の理解不足からある誤解をし、その誤解がその後の音声信号伝送の業績の土台となった。当時を振り返ってベルは「その主題についてよく知らない私は、母音を電気的手段で生成できるなら子音も生成できるだろうし、文をしゃべらせることもできると推測した」と述べ、「私はヘルムホルツがそこまで実施したのだと思った…そしてそれは私が電気について無知だったための失敗だった。それは貴重な失敗だった…もし当時の私がドイツ語を読めたなら、私は決して実験を始めなかったかもしれない」と述べている[31][32][33]

家族の悲劇

[編集]

1865年、ベル一家はロンドンに引っ越したが[34]、アレック本人はウェストンハウス学院に助手として戻り、空いた時間で最小限の実験器具を使って音響についての実験を続けた。おもに電気で音声を伝送する実験を行い、のちに自分の部屋から友人の部屋まで電信線を引いた[35]。1867年後半には極度の疲労で健康を害している。弟エドワードも結核にかかり、同様に寝たきりとなった。アレックは翌年には回復し、イングランドのバースにあるサマーセット大学英語版で講師を務めたが、弟の病状は悪化した。結局エドワードはそのまま亡くなり、アレックはロンドンに戻っている。兄メルヴィルは結婚して実家を出ている。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学位を得るという目標を定め、学位試験のための勉強をし、空いた時間も実家での勉強に充てた。

父の視話法のデモンストレーションと講義も手伝い、ロンドンのサウス・ケンジントンにあったスザンナ・E・ハルの私立聾学校を知るようになる。彼が最初に教えたのはそこの2人の聾唖の少女で、2人は彼の指導でみるみる上達した。兄は弁論術の学校を開校し特許も取得するなど、ある程度の成功を収めていた。しかし1870年5月、兄が結核をこじらせて亡くなり、一家の危機が訪れた。父も若いころかかった病気がぶりかえしたため、ニューファンドランド島(カナダ)で療養することにした。唯一生き残った息子であるアレックも病弱だと気付いた両親は、長期的移住の計画を立て始めた。父は断固として計画を推し進め、ベルに一家の財産の処分をさせ[36][注釈 6]、兄の残した仕事の後始末をさせ(アレックは兄の学校の最後の生徒の面倒を見て、発音の矯正を行った)[37]、両親とともに「新世界」へ移住した[38]。当時ベルはマリー・エクレストンという娘に恋心を抱いていたが、彼女はイングランドを離れることに同意しなかったため、しぶしぶ別れた[38]

カナダ

[編集]

1870年、23歳のとき、ベルと兄の未亡人キャロライン[39]と両親はネストリアン号という船でカナダに向かった[40]ケベック・シティーに到着すると列車でモントリオールに向かい、さらに一家の友人トーマス・ヘンダーソン牧師のいるオンタリオ州パリに滞在。まもなく近くのブラントフォードに程近い10.5エーカー (4万2,000平米)の農場を購入。農場には、果樹、大きな屋敷、馬小屋、豚小屋、鶏小屋、車庫があり、エリー湖に注ぐグランド川に面していた[41][注釈 7]

ベルは車庫を改造して仕事場とし[43]、その裏の川岸にある凹みを「夢見る場所 (dreaming place)」と呼んだ[44]。カナダに到着したころは病弱だったが、気候と環境がよかったせいか、みるみる健康を取り戻していった[45][注釈 8]。音声についての研究を続け、グランド川の対岸に先住民の居留地 (Six Nations Reserveがあることに気付き、そこでモホーク語を学び、その語彙を視話法のシンボルに翻訳した。その業績はモホーク族に喜ばれ、ベルは彼らの頭飾りをつけ伝統的なダンスをともに踊り、モホーク族の名誉酋長となった[46][注釈 9]

仕事場を作ると、ベルはヘルムホルツの業績に基づいた電気と音声についての実験を続けた[43]。電気を使って音を離れた場所に伝送するピアノを設計。また1871年、視話法を教えることを計画している父とともにモントリオールに出向き、父は首尾よく視話法を教える職を提供された。

聾者教育

[編集]
ベルと聾学校の生徒および先生たち(1883年、ワシントンD.C.にて)

ベルの父はマサチューセッツ州ボストンのボストン聾学校(現在の Horace Mann School for the Deaf[47]校長サラ・フラーに同校のインストラクターに視話法を教えてほしいと頼まれたが、彼はそれを辞退して代わりに息子を推薦した。1871年4月、ボストンに出向いたベルは首尾よくインストラクターへの視話法伝授を成功させた[48]。続いてコネチカット州ハートフォードにある American Asylum for Deaf-mutes、マサチューセッツ州ノーサンプトンClarke School for the Deaf でも同様の仕事をした。当時、猩紅熱(しょうこうねつ)の後遺症で聾者教育が深刻な問題となっていた。

6か月後にブラントフォードに戻ると、"harmonic telegraph" と名付けたものの実験を続けた[49][注釈 10]。彼の意匠の根底にある概念は、1つの導線で複数のメッセージをそれぞれ異なるピッチで送るというものだが、そのための送信機と受信機が新たに必要だった[50]。将来に確信がないまま彼はロンドンに戻って研究を完成させることも考えたが、結局ボストンに戻って教師をすることにした[51]。父の紹介で Clarke School for the Deaf の校長ガーディナー・グリーン・ハバードが彼の開業を支援することになった。1872年10月、ボストンで視話法を教える学校 "School of Vocal Physiology and Mechanics of Speech" を開校。多くの若い聾者の注目を集め、開校当初に30人が入学した[52][53]。のちに、当時まだ幼かったヘレン・ケラーと知り合っている。1887年、ベルはケラーに家庭教師アン・サリヴァンを紹介している。後年ケラーはベルについて、「隔離され隔絶された非人間的な静けさ」に風穴を開けてくれた人と評した[54]

ベルも含めた当時の影響力のある人々の一部には、聴覚障害を克服すべきものとする見方があり、金と時間をかけ聾者に話し方を教え手話を使わずに済むようにすることで、それまで閉ざされていた広い世界への道が拓けると信じていた[55]。しかし、当時の学校ではしゃべることを強制的に訓練するために、手話ができないように手を後ろで縛るといった虐待も行われていた。ベルは手話教育に反対していたため、ろう文化に肯定的な人々はベルを否定的に評価することがある[56]

さらなる実験

[編集]

1873年、ボストン大学で発声生理学と弁論術の教授になる。このころ、ボストンとブラントフォードを行ったり来たりという生活で、夏はブラントフォードの家で過ごした。音響に関する研究を続け、音符を伝送する方法や音声を発する方法を捜していたが、実験に十分な時間をあてることは難しかった。日中は夕方まで講義などで費やされるため、寄宿舎の部屋にレンタルした設備を揃えて夜遅くまで次々と実験する生活を送った。研究成果を奪われることを恐れ、ノートと実験装置を盗まれないよう施錠するのに大変苦労している。ベルは特製のテーブルにノートや実験装置を納め、ロックカバーの中に隠した[57]。悪いことに、彼はひどい頭痛に悩まされるようになり、健康状態が悪化した[50]。1873年秋にボストンに戻ったとき、ベルは音響に関する実験に専念するという重大な決断をした。

ボストンでの収入を諦めると決めたベルは、生まれつき聾の16歳のジョージ・サンダースと15歳のメイベル・ハバードという2人の生徒だけを雇った。その後の実験で2人は重要な役割を演じることとなる。ジョージの父トーマス・サンダースはセイラム近郊の屋敷をベルに提供し、そこでジョージの祖母も住み、実験室も設えた。実際に支援を申し出たのはジョージの母で、1872年にジョージと看護婦をベルの寄宿舎の側に引っ越させているが、トーマス・サンダースがその背後にいたことは明白である[58]。合意によりベルと生徒たちはそこで一緒に働くことになった。メイベルは利発で魅力的な娘であり、10歳年下だったがベルの愛情の標的となった。彼女は5歳の誕生日を迎えたころに猩紅熱で聴力を失い[注釈 11]読唇術を学んだ。メイベルの父ガーディナー・グリーン・ハバードはベルの支援者で友人であり、メイベルがベルの側にいることを望んだ[61]

電話

[編集]
グラハム・ベル自ら電話機で話す様子 (1876年)

1874年、harmonic telegraph に関する研究は、ボストンの研究施設(賃貸)とカナダの実家で新たな段階に入った[注釈 12]。同年夏、ブラントフォードにてフォノトグラフを使った実験を行った。フォノトグラフはススを塗布したガラスに音の波形を描くペンのような装置である。そこからベルは音波と同じ波形の電流を生成できるかもしれないと考えた[62]。ベルはまた、ハープのようにそれぞれ異なる周波数に調律された複数の金属リードを使って、脈打つ電流を音に戻すことができるのではないかと考えた。しかし、これらのアイデアを実証するための試作はまったく行わなかった[63]

そのころ電信電報)が盛んに使われるようになり、ウエスタンユニオン会長ウィリアム・オートンは「商業の神経系」と称した。オートンはコストのかかる新たな電信線の敷設を避けるため、発明家のトーマス・エジソンイライシャ・グレイに1本の導線で複数の電信メッセージを伝送する方法を研究させていた[64]。ベルが複数の高さの音を1本の導線で伝送する方法に取り組んでいることをガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースに伝えると、2人の裕福な後援者はベルの実験を財政的に支援しはじめた[65]。特許に関してはハバードの紹介した弁理士アンソニー・ポロック英語版が面倒を見ることになった[66]

1875年3月、ベルとポロックはスミソニアン協会会長を務めていた有名な科学者ジョセフ・ヘンリーを訪ね、ベルの考えている複数の金属リードを備えた装置で電信線を使って音声を送受信するというアイデアについて意見を求めた。ヘンリーはベルが「偉大な発明の萌芽」を持っていると答えた。ベルがそれを実現するのに必要な知識がないと述べると、ヘンリーは「では、それを獲得しなさい」と応じた。これに勇気づけられたベルは実験を繰り返したが、必要な実験器具を作れず、試作品も作れずにいた。しかしベルはそれ以前の1874年に電気や機械に熟達したトーマス・A・ワトソンと出会っていた。

サンダースとハバードの金銭的支援により、ベルはトーマス・ワトソンを助手として雇うことができ[注釈 13]、2人は1875年6月2日に acoustic telegraphy の実験を行った。そのときワトソンは偶然金属リードの1本を引き抜いてしまい、受信側にいたベルがその金属リードの倍音を聞いた。倍音は音声の伝送に必要である。このことからベルは複数のリードは不要であり、1つのリードでよいと気付いた。これにより、明瞭な音声は伝えられないが、何らかの音だけは伝送できる電話のようなものができた。

特許出願競争

[編集]

1875年、ベルは acoustic telegraph を開発し、その特許申請書を書いた。アメリカでの収益は後援者であるガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースと分配することで合意し、Bell Patent Association の協定を成立させる。これが幾多の変遷を経て「ベル・システム」を完成させたAT&T (American Telephone and Telegraph Company) へつながっていく[69]。そこでベルはオンタリオ州の知人 George Brown に頼んでイギリスでも特許を出願し、イギリスで特許が受理されたあとにアメリカで特許申請するよう弁護士に指示した(イギリスは、ほかの国で以前に特許を取得した発明には特許を与えない方針だったため)[70]

ベルの電話の特許[71](1876年3月)

一方、イライシャ・グレイも同様の用途の実験を行っており、水を媒体として音声を電流に変換する方法を考えていた。1876年2月14日、グレイは水を媒体とする設計の電話について特許予告記載をワシントン特許局に申請した。同じ日の朝、ベルの弁護士もワシントン特許局にベルの「電信の改良」(Improvment in Telegraphy) の特許出願書を提出している。どちらが特許局に先に現れたのかについては議論があり、のちにグレイはベルの特許の無効を訴えることになった。2月14日にはベルはボストンにおり、2月26日までワシントンD.C.を訪れていない。

ベルの特許 (特許番号: 174,465)は米国特許商標庁によって1876年3月3日に認可され3月7日に公告された。ベルの特許の請求範囲は「声などの音に伴う空気の振動の波形に似せた電気の波を起こすことにより…声などの音を電信のように伝送する手段および機構」だった[注釈 14]

1876年3月10日、特許公告の3日後、電話の実験に成功。グレイの設計と似たような液体送信機を使っていた。音を受けた膜が振動し、その振動で水中の針を振動させ、回路内の電気抵抗を変化させる仕組みである。最初の言葉は「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」 ("Mr. Watson! Come here; I want to see you!") である[72]。ワトソンは隣の部屋の受信機でそれらの言葉をはっきりと聞いた[73]

ベルはグレイの電話の設計を盗んだとして訴えられたが[74]、ベルがグレイの液体送信機の設計を使ったのは特許取得後で、しかも概念実証としての科学的実験でだけであり[75]、「明瞭な声」を電気的に伝送可能であることを示すためだった[76]。それ以降ベルは電磁式の電話の改良に集中し、グレイの液体送信機をデモンストレーションや商用に使ったことはない[77]

ベルの特許が発効する以前、審査官は電気抵抗を変化させるという電話の仕組みについて優先順位問題を提起した。審査官はベルに、請求範囲にあるのと同様の仕組みがグレイの予告記載にもあることを告げている。ベルは、彼が特許申請書で示している可変抵抗デバイスは水ではなく水銀であると指摘した。ベルは約1年前の1875年2月25日に水銀を使った特許を出願しており、イライシャ・グレイが水を使ったデバイスを申請するずっと前のことだった。しかもグレイは予告記載を撤回し、ベルの発明が先だったということに異議を申し立てなかったため、審査官は1876年3月3日にベルの特許を認可したのだった。グレイも確かに独自に可変抵抗を使った電話を発明したが、最初にそれを文書化したのはベルであり、最初に電話の実験を成功させたのもベルである[78]

特許審査官 Zenas Fisk Wilber はのちに法廷で、ベルの弁護士のマーセラス・ベイリー英語版とは南北戦争で一緒に戦った仲で、ベイリーに借金していたことを証言した。また、Baileyにグレイの特許予告記載を見せたと証言している。また、のちにベルがワシントンD.C.の特許局を訪れた際にグレイの予告記載を見せ、ベルから100ドルを受け取ったと証言した。ベルは一般論として特許について議論しただけだと主張したが、グレイへの手紙では何らかの技術的詳細をそこから学んだと認めている。ベルは審査官に金を払ったことはないと宣誓証言で否定している[79]

その後の発展

[編集]

ブラントフォードで実験を続け、ベルは実動する電話機を自宅に持ち込んだ。1876年8月3日、ブラントフォードと約8km離れた電信局から、準備完了したことを知らせる電報を送った。証人として見物人を集めた状態で、ささやき声のような応答が返ってきた。次の夜、ブラントフォードからベル家までの約6kmを電信線やフェンスに沿わせたり、トンネルをくぐったりして電話線を即席に引いて、家族や客を驚かせた。これらの実験で、電話が長距離でも作動することをはっきりと証明した[80]

1876年の電話の実験成功の直後に、ボストン近郊のブリッジウォーター師範学校(現・ブリッジウォーター州立大学英語版)に留学中だった伊沢修二と留学生仲間でハーバード大学にいた金子堅太郎がベルの下宿先を訪問した際、実用化のためにスポンサーを探していたベルは喜んで通話を体験させた。日本においては翌1877年には工部省が電話機を輸入して実験を行い、1890年から電話交換サービスが開始された[81]

1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベル

ベルとパートナーのハバードとサンダースは、その特許をウエスタンユニオンに10万ドルで売ることを申し出ているが、ウエスタンユニオン社長は電話をおもちゃ以外の何物でもないと考えており、買い取らなかった。2年後彼は友人に2,500万ドルでも安売りだと考えるだろうと話している。そのころには特許を売ることはもう考えていない[82]。出資者は百万長者となり、ベルも借金を返し終わると100万ドルの財産を築くようになった[83]

この新発明を紹介すべく、ベルは一連の公開デモンストレーションと講演を科学界や大衆向けに行った。1876年のフィラデルフィアでの万国博覧会で電話を公開して国際的注目を集めた[84]。この万博には海外からも大勢の客が訪れており、その中にブラジル皇帝ペドロ2世もいた(ちなみに、ペドロ2世はかつてベルの聾学校を視察したことがあった)。また、スコットランドの有名な科学者ウィリアム・トムソン卿にも個人的にデモンストレーションを見せ、ヴィクトリア女王にはワイト島オズボーン・ハウスに招待され、観衆の前で電話を披露した。女王はそのデモンストレーションを "most extraordinary"(もっとも並外れている)と評した。そのようにして、この革命的機器の普及の土台を築いていった[85]

1877年、ベル電話会社を創業。1886年にはアメリカで15万台の電話が使われている。同社の技術者は電話にさまざまな改良を施していき、電話機は史上もっとも成功した製品のひとつになった。1879年、ベル電話会社はエジソンのカーボンマイクの特許をウエスタンユニオンから買い取った。これによってさらに長距離の通話が可能になり、受話器に向かって叫ぶ必要がなくなった。

1915年1月、世界初の大陸間横断通話を行った。ニューヨークのAT&T本社のベルとサンフランシスコのトーマス・ワトソンによる通話である。ニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じている。

1876年10月9日、アレクサンダー・グラハム・ベルとトーマス・A・ワトソンは、ケンブリッジとボストン間2マイルに張った電話線を通して電話で話をした。これが世界初の電話線を通した通話である。昨日 (1915年1月25日)の午後、同じ2人がニューヨークとサンフランシスコ間3,400マイル[注釈 15]を隔てて電話で会話した。電話の発明者ベル博士はニューヨークに、かつての助手ワトソン氏は大陸のもう一方の端にいた。彼らは38年前のときよりも明瞭に互いの声を聞くことができた。[86]

特許裁判

[編集]

科学的発明・発見に時折見られるように、電話の場合も多くの発明者が同時に開発を行っていた[6]。ベル電話会社は18年間以上にわたり587件もの特許訴訟に対応し、そのうち5件は合衆国最高裁判所にまで持ち込まれたが[87]、ベルの特許を負かすことに成功した者はおらず[88][89]、ベル電話会社が最終的に敗訴することはなかった[88]。ベルの研究ノートや家族との手紙が、彼の長期の研究を証明する鍵となった[88]。ベルの会社の弁護士らは、イライシャ・グレイやエイモス・ドルベア英語版をはじめとする無数の訴訟を撃退した。ベルへの私信でグレイとドルベアはベルの以前からの業績を知っていたと認めており、それによって彼らの主張は弱められた[90]

1887年1月13日、アメリカ政府は詐欺と偽証に基づいてベルの特許を無効にしようと提訴した。その訴訟は最高裁まで続き、下級裁判所でのもともとの主張については判断を下さずに、最高裁判所にてベルの会社側が勝利を勝ち取った[91][92]。この裁判は9年かかり、その間に2人の検事が亡くなり、ベルの2つの特許(1876年3月7日の第174,465号と1877年1月30日の第186,787号)も失効していたが、裁判長は判例として重要だということで裁判を継続した。当初の訴訟から双方の利害対立する点が変化してきたため、アメリカ合衆国司法長官は1897年11月30日、いくつかの問題に決定を下さないまま訴訟を取り下げた[93]

1887年の訴訟でなされた証言記録の中に、イタリアの発明家アントニオ・メウッチが1854年に世界初の実動する電話を作ったと主張した証言がある。1886年、ベルの関わった3つの訴訟の1つ目で、メウッチが発明の優先順位を決定づける証人として証言台に立った。メウッチの証言は発明の証拠物件が示されなかったため、異議を唱えられた。うわさによればその証拠物件はニューヨークの American District Telegraph (ADT)の研究所で紛失し、同所は1901年にウエスタンユニオンの一部となった[94][95]。当時の他の発明と同様、メウッチの業績はそれ以前から知られていた音響に関する原理に基づき、初期の実験の証拠もあったのだが、メウッチが亡くなったため、メウッチに関する訴訟は取り下げられた[96]。下院議員 Vito Fossella の努力により2002年6月11日、アメリカ合衆国下院は決議案269でメウッチの「電話の発明における業績は認められるべきである」という声明を採択したが、それで議論が終結するわけではない[97][注釈 16][98]。現代の学者の中には、ベルの電話についての業績がメウッチの発明に影響されたことを認めていない者もいる[注釈 17]

ベルの特許の価値は世界中で認められ、多くの国で特許を取得したが、ドイツでは特許出願が遅れた。その間にジーメンス・ウント・ハルスケ(S&H)が電話製造会社を設立して独自の特許を取得した。S&Hは特許料を支払わずにベルのものとほぼ同じ電話機を生産した[100]。1880年、ベルギーのブリュッセルに国際ベル電話会社英語版を創業し、一連の合意を取りつけて世界的電話網の統合を成し遂げた。ベル自身は頻繁に出廷しなければならず、仕事に支障をきたしたため、会社を辞めた[101][注釈 18]

家庭生活

[編集]
ベルと妻メイベルと娘エルシー(左)とマリアン(1885年ごろ)

1877年7月11日、ベル電話会社の創業の数日後、メイベル・ハバード (1857年 - 1923年)と結婚。ケンブリッジのハバード宅で結婚式を行った。花嫁への結婚のプレゼントとして新会社の彼の持株1,497株のうち1,487株を妻の名義に書き換えた[102]。その後約1年間、ヨーロッパへ新婚旅行に出かけた。新婚旅行とはいっても、ベルは手製の電話機も携行し、仕事を兼ねていた。求愛したのは数年前である。ベルは金銭的に余裕ができるまでプロポーズを延ばした。電話で即座に収益を上げられたわけではなく、ベルのおもな収入源は1897年までは講義だった[103]。婚約者からのちょっと変わった要求として、通称の「アレック」の綴りを "Aleck" から "Alec" に変えるというものがあり、1876年からは "Alec Bell" と署名するようになった[104][105]。夫妻は4人の子をもうけた。エルシー・メイ・ベル(1878年 - 1964年)はナショナルジオグラフィック協会ギルバート・グローヴナー英語版と結婚[106][注釈 19][注釈 20]。マリアン・ハバード・ベル(1880年 - 1962年)は通称は「デイジー」で[108][注釈 21][注釈 22]、ほかに2人の男子が生まれたがともに幼少期に亡くなった。一家は1880年までマサチューセッツ州ケンブリッジに住み、その後、義理の父ハバードが購入したワシントンD.C.の屋敷に引っ越し、1882年にはベル自身が購入したワシントンD.C.の屋敷に引っ越した。ワシントンD.C.に住んだのは、特許に関する裁判が長く続き、頻繁に出廷する必要があったためである[110]

1882年、アメリカ合衆国の市民権を取得するまでベルはスコットランドでもカナダでもイギリス市民だった。1915年、「私は2つの国へ忠誠を誓うような外国系アメリカ人ではない」と述べている[111]。それにもかかわらず、彼が住んでいたスコットランド・カナダ・アメリカの3国でベルを自国民と主張している[112]

1882年から1889年まで一家が住んでいたワシントンD.C.での屋敷[113]

1885年、新たな夏の別荘を持つことにした。その夏、ベル一家はノバスコシア州ケープ・ブレトン島のバデックという小さな村で休暇を過ごした[114]。1886年にもそこに赴き、バデックの対岸のブラスダー湖英語版を一望できる場所に別荘を建て始めた[115]。1889年、The Lodge と名付けたログハウスが完成し、2年後には研究室も含めた大きな複合建築物となった[114]。ベルはその地を故郷のハイランド地方にちなんでベイン・バリー英語版(ゲール語で「美しい山」の意)と名付けた[116][注釈 23]。ベルはその後の後半生の大部分をワシントンD.C.とベイン・バリーで過ごした[117]

ベルは実験に没頭することが多くなり、ベイン・バリーで過ごす期間が徐々に長くなっていった。夫妻はバデックの村民との交流を大事にし、村民として認められた[114]。1917年12月6日、ハリファックス大爆発が起きたときもベルはベイン・バリーにいた。夫妻はハリファックスの被災者救出に奔走した[118]

その後の発明

[編集]
後年のアレクサンダー・グラハム・ベル

ベルといえば電話だが、彼の興味の範囲はもっと幅広い。ベルの伝記を書いたシャーロット・グレイ英語版によれば、ベルの業績は「科学全体にまたがって」おり、しばしば貪欲に新たな興味ある領域を捜すためブリタニカ百科事典を読みながら眠りについたという[119]。その発明の才の範囲は、単独で取得した18の特許と連名で取得した12の特許である程度表されている。そのうち14は電話と電信に関するもので、4つはフォトフォン、1つは蓄音機、5つは航空機、4つは水中翼船、2つはセレン光電池に関するものである。ベルの発明は彼の興味の範囲を表しており、呼吸を補助する金属ジャケット、難聴を検出する聴力計、氷山の位置を特定する機器、海水から塩を分離する研究、代替燃料についての研究などがある。

ベルは医療関連でも幅広く働き、聴覚障害者にしゃべり方を教える技法を発明した。ボルタ基金(後述)で創設した研究所では、仲間とともに音声再生方法として磁場を使って録音する手段を検討した。彼らは簡単な実験をしたが、実用的な試作品を開発するには至らなかった。今ではテープレコーダーハードディスク (HD)・フロッピーディスク (FD)といった磁気記録媒体に応用されている原理を発見したことに気付かず、彼らはそのアイデアを捨ててしまった。

ベルの自宅には原始的な空気調和が備わっており、氷の大きな塊にファンで風をあてて冷風を送ることができた。また、燃料の枯渇や産業による公害を予測している。農場や工場から無駄にメタン (CH4)ガスが放出されていると指摘している。ノバスコシアの自宅で、バイオトイレや大気中から水を得る装置などを実験している。死の直前に出版された雑誌に掲載されたインタビューで、暖房にソーラーパネルを使う可能性を述べている。

フォトフォン

[編集]
フォトフォン受信機。ベルの光無線通信システムの一方の装置

ベルは助手のチャールズ・サムナー・テインターと共同でフォトフォンと名付けた無線電話を発明した。これは、のビームを使って音や声を伝送するものである[120][121]

1880年6月21日、電波による音声通信が成功する19年前に、ベルの助手が発したメッセージを約213メートル離れた地点のベルが受信に成功している[122][123][124][125]

ベルはフォトフォンの原理が自身最大の発明だと考えており、「電話よりも重大な発明」だと記している[126]。フォトフォンは1980年代に普及しはじめた光通信システムの先駆けである[127][128]。その主要特許は1880年12月に発効しており、その原理が広く使われる前に失効している。

金属探知機

[編集]

1881年には、金属探知機を発明したとされる。テロリストに銃で撃たれた当時のアメリカ大統領ジェームズ・ガーフィールドの体内にいまだ埋まっているはずの弾丸を見つけるため、素早く完成させた。試験ではうまく機能したが、大統領が横たわっているベッドの金属フレームが雑音を生じたため、暗殺者の弾丸を見つけることはできなかった[129]。外科医はベルの金属探知機について懐疑的で、ベルが大統領を金属製のベッドから移したいと言っても聞き入れなかった。一方、最初の試験でベルの金属探知機はまったく無音であり、弾丸は大急ぎで作った機器で検出できないほど深い位置にあったとも考えられる[129]。1882年8月にアメリカ科学振興協会 (AAAS)へ論文を提出する前に、ベルは新聞に実験に関して詳細な説明をしている。

水中翼船

[編集]
試験航行中のBell HD-4(1919年ごろ)

アメリカ人で水中翼船を研究していたウィリアム・E・ミーチャムは、サイエンティフィック・アメリカン誌1906年3月号の記事で水中翼の基本原理を解説した。ベルは水中翼船を完成させたら大きな発明になると考えた。そこでこの記事に基づいて水中翼船のスケッチを描き始めた。ベルと助手のフレデリック・W・ボールドウィン英語版は1908年夏、水中翼船の原理が水上からの航空機の離陸方法に使えるのではないかと考え、実験を開始した。ボールドウィンはイタリアの発明家エンリコ・フォルラニーニの業績を研究し、模型での試験を開始。それによりベルとボールドウィンは軍用の水中翼船の実用化に向かうことになった。

1910年から1911年にかけて世界旅行に赴き、ベルとボールドウィンはフランスでフォルラニーニと面会し、マッジョーレ湖でフォルラニーニの水中翼船に乗った。ボールドウィンは飛んでいるように滑らかだったと描写している。バデックに戻るといくつかの模型を作って実験を開始。中でも Dhonnas Beag は彼らとしては初の自力推進する模型だった[130]概念実証を経て、より実用的なHD-4を開発。これは、ルノー製エンジンを搭載した水中翼船である。最高時速87キロを達成し、水中翼の効果で加速が早く、波が高くても安定して操縦可能だった[131]。1913年、ベルはシドニー出身でノバスコシア州ウェストマウントでヨット作りをしていたウォルター・ピノードを雇って、HD-4の改良をさせた。ピノードはベイン・バリーの小型造船所を引き継ぎ、ヨット作りの経験を生かしてHD-4のデザインを改良。第一次世界大戦後、HD-4の改良を再開。ベルはアメリカ海軍に報告書を提出し、1919年7月に350馬力のエンジン2基を提供された。1919年9月9日、当時の水上の世界記録である時速114.0キロを達成し[132]、その記録は10年間破られなかった。

航空

[編集]
AEAシルバーダート(1909年ごろ)

1891年、ベルは飛行機の実験を開始した。アエリアル・エクスペリメント・アソシエーション (AEA)は空を飛ぶことが夢だったベルが60歳のとき (1907年)、妻メイベルの若者の支援を受けるべきだという助言に従って結成したものである。

1898年、ベルは三角錐形の箱凧英語版と栗色の絹を張った四面体凧を複数組み合わせた翼を実験した[注釈 24]。三角錐の箱凧 Cygnet は3号機まで作り、1907年から1912年まで無人および有人で飛行を行った(1号機はセルフリッジが乗っているときに墜落した)。ベルの凧の一部はアレクサンダー・グラハム・ベル歴史史跡英語版で展示されている[134]

ベルはアエリアル・エクスペリメント・アソシエーション (AEA)を通して航空宇宙工学研究に貢献した。AEAはノバスコシア州バデックにて1907年10月、妻メイベルの示唆と資金援助(所有する不動産の一部を売却)で正式に創設された[135]。AEAの会長はベルで、創設メンバーは4人の若者だった。アメリカ人のグレン・カーチスはオートバイ製造業者で、自作のオートバイで世界最高速度を記録し「世界最速の男」と呼ばれていた。また、のちに西半球初の1キロの公式な飛行を成功させたとして、サイエンティフィック・アメリカン誌に認められ、世界的に有名な飛行機製作者となった。トーマス・セルフリッジ英語版はアメリカ政府からオブザーバーとして派遣された軍人で、米軍の中で唯一航空機の将来を信じていた。フレデリック・W・ボールドウィン英語版は、ニューヨーク州ハモンズポートでカナダ人(および大英連邦内で)初の公式な飛行を行った。そしてジョン・マカーディがいた。ボールドウィンとマカーディはトロント大学の新しくできた工学部を卒業している。

AEAでは、凧で得られた知識をグライダーに適用し、さらにエンジン搭載の飛行機へと進んでいった。ハモンズポートに拠点を移すと、レッドウィング号英語版を製作。竹でフレームを作り、赤い絹を張り、小さな空冷式エンジンを搭載した複葉機である[136]。1908年3月12日、ケウカ湖英語版にてレッドウィング号で北米初の公式飛行を成功させた[注釈 25]。設計の目新しい点として、コックピットを覆った点と方向舵を備えた点が挙げられる。AEAの発明として補助翼があるが、ロベール・エスノー=ペルトリらも独立に発明している。補助翼は航空機の操縦手段として普及していった。その後、ホワイトウィング号英語版ジューンバグ号英語版を製作し、1908年末には大きな事故を起こさずに150回の飛行を達成している。しかし資金が底をつき、メイベルが新たに1万5,000ドルを提供してなんとか活動を続けた[138]

AEAが最後に設計した飛行機がシルバーダート号英語版で、それまでの経験を生かして設計され、1909年2月23日、マカーディが操縦して凍ったブラスダー湖上で初飛行し、カナダで最初に飛行した航空機となった。氷上の飛行ということでベルは事故を心配し、医師を待機させた。この成功をもってAEAは解散となり、シルバーダート号はボールドウィンとマカーディが創業した Canadian Aerodrome Company が引き継いだ。のちに彼らはカナダ陸軍向けにデモンストレーション飛行を行っている[139]

優生学

[編集]

ベルはアメリカでの優生学運動とも関わりがある。1883年11月13日、米国科学アカデミーMemoir upon the formation of a deaf variety of the human race と題した講演を行い、その中で両親が先天的に聾者だった場合に聾者の子が生まれる可能性が高いため、そのような婚姻は避けるべきだと提唱した[140]。それとは別に家畜の繁殖を趣味として行っており、それが昂じて American Breeders Association の保護下にあった生物学者デイビッド・スター・ジョーダンの優生学委員会の委員に任命された。この委員会は明らかに優生学をヒトにも拡張適用した[141]。1912年から1918年まで、ニューヨークのコールド・スプリング・ハーバー研究所の優生記録所の科学諮問委員会委員長を務め、定期会合に出席していた。1921年、アメリカ自然史博物館が後援した第2回国際優生学会議の名誉議長を務めた。これらの組織はベルが「不完全な人種」と呼んだ人々の断種を法律化することを提案した(一部の州では実際に法律になった)。1930年代後半にはアメリカの半分の州が優生学的な法律を持っており、カリフォルニア州のそれはナチス・ドイツが手本にしたほどだった[142]

[編集]

1922年8月2日、糖尿病に起因する合併症によりノバスコシア州ベイン・バリーの自宅で75歳で亡くなった[143]悪性貧血も患っていた[144]。最後に午前2時ごろ月明かりに照らされた風景を見たという[注釈 26][注釈 27]。夫の長い闘病を支えた妻メイベルは「私を置いていかないで」とささやいた。それに答えるようにベルは手話でNOのサインをし、息を引き取った[148][149]

ベルの死の知らせを受けたカナダ首相ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングはベル夫人に次のような電報を打った。

(政府は)あなたの偉大な夫が亡くなったことが世界の損失であることを表明する。彼の名はその偉大な発明とともに永遠に記憶され、歴史の一部となることは、わが国のプライドの源となるだろう。カナダ国民を代表して、感謝と同情の念をお伝えしたい。[148]

ベルの棺は研究室のスタッフがベイン・バリーの松を使って作り、四面体の凧の実験で使われたのと同じ赤い絹で内張りされた。葬儀に際して夫人は夫の生涯を祝福するため、列席者に黒い服装をしないで欲しいと頼んだ。葬儀ではロバート・ルイス・スティーヴンソンの "Requiem" の一節が Jean MacDonald によって唱えられた[150]

Under a wide and starry sky,

Dig the grave and let me lie.
Glad did I live and gladly die

And I lay me down with a will.

ベルの葬儀の最後に、「遠距離の直接的通信方法を人類にもたらした男に敬意を表して、北米のすべての電話が沈黙した」[114][151]

ベルは自分の所有する地所であるベイン・バリー山の頂上に埋葬された[148]。後には妻メイベル、2人の娘エルシー・メイとマリオン、10人の孫が遺された[148][152][153]

栄誉と顕彰

[編集]
ベルの銅像(Cleeve Horne 作)。ブラントフォードのベル・テレフォン・ビルディングの柱廊玄関にあり、リンカーン記念館のリンカーン像とスタイルが似ている。[注釈 28](Courtesy: Brantford Heritage Inventory, City of Brantford, Ontario, Canada)

電話の普及とともにベルの名声は高まり、さまざまな栄誉と賛辞が贈られた。多数の大学から名誉学位を贈られた[156]。存命中にもさまざまな賞を受賞し、賛辞を受けている。1880年、アカデミー・フランセーズからボルタ賞英語版と副賞5,000フランを授与された。審査員にはユーゴーデュマといった有名人もいた。ボルタ賞はナポレオン・ボナパルトが1801年に創設した賞で、アレッサンドロ・ボルタを記念した賞である。ベルは歴代3位の賞を授与されている[157][158][148][159]。ベルはこの賞金を使って基金(ボルタ基金)を創設。その基金によりワシントンD.C.に聴覚障害の研究機関が創設されている。トーマス・エジソン蓄音機に使った蝋管はその研究所で発明された[160]。フォトフォンの研究もその研究所で行った。その研究所はのちに Alexander Graham Bell Association for the Deaf and Hard of Hearing に組み込まれた。フランス政府はレジオンドヌール勲章を授与。英国ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツは1902年、アルバート・メダルを授与。1907年にはジョン・フリッツ・メダルを受賞。1912年、フランクリン協会英語版からエリオット・クレッソン・メダルを授与された。

1882年ガーディナー・グリーン・ハバードと共同でアメリカ科学振興協会の発行するサイエンス誌創刊を支援した。1884年、IEEEの前身であるアメリカ電気学会 (American Institute of Electrical Engineers (AIEE)の創設にも関わり、1891年から1892年まで会長を務めた。1888年、ナショナルジオグラフィック協会の創設に関わり、第2代会長 (1897年 - 1904年)を務め、スミソニアン博物館理事 (1898年 - 1922年)も務めた。1914年、AIEEからエジソンメダルを授与された[161]

銅像や記念碑も立てられており、例えば1917年、ブラントフォードAlexander Graham Bell GardensBell Telephone Memorial が立てられた[151]

ベルに関しては手紙やノートの類がほかの19世紀および20世紀の著名な発明家と比較しても圧倒的に多く、また、彼を顕彰する法人が丁寧に整理している。これはベルが学者で教育者であった点と、もう1つは特許に関して自分の発明が先行した点を証明する必要があった点が挙げられる。ベルの書いた書簡、ノート、論文、その他の文書はアメリカ議会図書館 (Alexander Graham Bell Family Papers)[162] とノバスコシア州のケープ・ブレトン大学にあるアレクサンダー・グラハム・ベル研究所に集められており、大部分はオンラインで閲覧可能となっている。それらの記録を細かく整理したうえで作成された伝記が『孤独の克服 - グラハム・ベルの生涯』(ロバート・V・ブルース著)である。

アメリカとカナダの最初の電話会社を含めて北米とヨーロッパにあるベルに関連するおもな史跡としては、以下のものがある。

ケープ・ブレトン島アレクサンダー・グラハム・ベル歴史史跡英語版にあるベル博物館
  • アレクサンダー・グラハム・ベル歴史史跡英語版は(ベルの地所ベイン・バリーに程近い)ノバスコシア州バデックにあり、パークス・カナダが運営している。ベル博物館などがある[163]。ベル博物館の展示品はベルの娘が寄贈した。
  • The Bell Homestead National Historic Site はベル一家が北米に移住してきた際の最初の屋敷である。カナダの最初の電話会社の建物 "Henderson Home" は、1969年に Bell Homestead のそばに移築された。ブラントフォードの Bell Homestead Society が運営している[164]
  • ブラントフォードの北にある Alexander Graham Bell Memorial Park には、1917年に立てられた新古典主義の複数の記念碑がある。

ベル (B)とデシベル (dB)は音圧レベルなどの物理単位であり、ベル研究所が考案し、ベルにちなんで名付けた[165] [注釈 29][166]。1976年から、IEEEは電気通信分野の優れた業績を表彰するアレクサンダー・グラハム・ベル・メダルを毎年授与している。

~ A.G. Bell ~
1940年発行

1940年、アメリカ合衆国郵便公社はベルの記念切手を発行した。同年10月28日にボストンで発行を記念した式典が開催された。ベルの切手は大変な人気となり、すぐさま売り切れた。コレクターの間では、有名人が描かれた切手としてはもっとも価値が高いとされている[167]

ベル生誕150周年の1997年、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドが記念の1ポンド紙幣を発行した。紙幣の裏面には、ベルの横顔、署名、電話を利用する人々、音声信号の波形、電話機、手話、航空工学への興味を与えたガチョウ、遺伝学を理解するために研究した羊などが描かれている[168]。同じく1997年、カナダ政府は100カナダドルの記念金貨を発行した。また、2009年にはカナダでの(ベルの指導で設計されたシルバーダートの)初飛行100周年を記念した銀貨を発行した[169]。ほかにも世界各国でベルの肖像や発明品が硬貨や紙幣のデザインに採用されてきた。

ベルの名は世界各地の教育機関・企業・通り (avenue)・地名などの名前に使われている。BBCが2002年に行った100名の最も偉大な英国人の投票でベルが57位となった[170][171]。また、2004年の Top Ten Greatest Canadians でも、2005年の the 100 Greatest Americans でもランクインしている。2006年、スコットランド史上もっとも偉大な10人の科学者に選ばれ、スコットランド国立図書館英語版の 'Scottish Science Hall of Fame' に挙げられた[172]

LIFE誌が1999年に選んだ「この1000年でもっとも重要な功績を残した世界の人物100人」にも選ばれている。

1906年、エディンバラ大学で法学の名誉博士号 (LL.D)を授与された際のベル

名誉学位

[編集]

ベルは若いころ大学を卒業できなかった。のちに以下のような大学から名誉学位を授与されている。

個人に関する逸話

[編集]
  • 正高信男は自著『天才はなぜ生まれるか』(中公新書)で、ブルース著『孤独の克服―グラハム・ベルの生涯』を読んだうえで、ライバルとの競争や後援者からの重圧に耐えかねているベルの様子から人間付き合いが下手であると主張。自閉症であったとし、さらに高機能自閉症アスペルガー症候群)ではないかと主張している。[信頼性要検証]

日本との関係

[編集]

前述のように、1876年に米国留学中だった伊沢修二金子堅太郎は電話発明の噂を聞きつけ、ベルの下宿先を訪問した。金子の回想によると、その家はボストン北部にある中流以下の住宅街にあり、思わず尻込みするほどの貧しい雰囲気で、屋根裏にあったベルの部屋も飾り気ひとつない殺風景なものだった[176]。実用化に向けて資本家を探していたベルは、外国人が興味を持ってくれたことに電話の将来を暗示されたようで嬉しいと語り、外国語で通話するのは初めてだと言って、居室と隣の実験室とに電話機を置いて2人に実験するよう勧めた[176]。 2人は互いに「おい、聞こえるか」と呼びかけ、誰の声か判明できるほどであることに驚いたという[176]

1898年にはベルが来日し、東京と京都で講演したほか、天皇にも謁見し、勲三等を受勲するなど外国人としては破格の優遇を受けた[176]。講演では米国聾教育事情の紹介と日本への提言のほか、全米地形地質学会の会長でもあったベルは、雨量と山岳の多い日本は水力エネルギーの宝庫であると指摘し、日本の将来を鼓舞した[177][178]。東京での講演は伊沢修二が『唖子教育談』としてまとめ、京都での講演については京盲文書が『ベル氏来院記』として出版した( 2013年に『ベル来日講演録 ―東京・京都―』(近畿聾史グループ編)として復刻)[177]

1904年に金子が日露戦争のための外債募集に渡米した際には、ロシアの勝利を信じて日本国債購入に消極的であった米国要人にベルが日本の実情を説明し、募債の成立に協力した[176]。このときベルの秘書をしていたグロブナーはベルの娘エルシーと結婚し、彼らの三女(ベルの孫)リリアンは駐日米国大使館書記官カボット・コビル夫人として昭和初期に来日し、東京で男児を2人生んだ(のちに離婚)[176][179][180][181]。コビルは戦後ダグラス・マッカーサーの政治アドバイザーを務めた[179]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ベルは元々はイギリス市民だった。アメリカ合衆国の市民権を得たのは電話を発明した後の1882年のことであり、その後はアメリカ人を自称した。ベル自身はこれについて「あなたは生まれた国の市民になるしかない。しかし私は自分でそれを選んだ」と述べている[2]。ベル自身の見解は別として、カナダ総督の演説でも示されているように、カナダ市民の多くはベルをカナダ市民と考えていた。1917年10月24日、ブラントフォードでのベル電話記念碑の除幕式で彼(カナダ総督)は数千人の観衆を前にして次のように述べた。「ベル博士に対し同じ市民や同胞の評価が得られたことをここに祝う」[3]
  2. ^ 引用: 「電子工学技術を応用し、電信と同じように送信機と受信機で音声を送り、人間の聴覚を補助することができると彼は思った」[5]
  3. ^ ベルの死後、未亡人のメイベルはAT&T副社長ジョン・J・カーティへの手紙でベルが書斎に電話を置かなかった件について次のように記している。「(新聞に書かれた)…ベルが電話を嫌っていたという件について。もちろん彼は書斎に決して電話を置かせませんでした。書斎は彼にとって考えにふけり仕事をするために行く場所でした。電話は当然ながら外界からの侵入を意味します。そして電話での会話には(時候の挨拶やご機嫌伺いなど)面倒なやりとりが伴い、彼はそれにいらいらさせられたので、他者に伝言のやりとりを依頼するというやり方を好みました。しかし、ビジネス上の本当に重要な件は自分で電話を使っていました。うちのように完璧に電話を設置した民家はほとんどなく…ベルほど我が家の電話サービスにこだわった者はいません… 電話によってお医者様やご近所と親密に交わり、電信局とも定期的に連絡できたので、電話がなかったらここに住みつづけることができなかったでしょう。…… ベルは冗談半分に「どうして電話を発明してしまったんだろう」とよく言っていましたが、誰よりも電話の必要性を理解していたし、必要とあれば自由にそれを使いこなし、それを成し遂げたことを大いに誇りに思っていました」[7]
  4. ^ アレグザンダー・グレアム・ベルなどとも表記する。ファーストネームよりもミドルネームのほうが知られており、グラハム・ベル、またはグレアム・ベルと呼ばれることも多い。なお、原音に比較的近い表記はアレグザンダ・グレイアム・ベル( [ˌælɪgˈzændɚ ˈgreɪəm ˈbel][1][2][3]である。
  5. ^ ベルは名前を略さずフルネームで署名していた。
  6. ^ ペットは兄の妻の家族に譲った。
  7. ^ その農場は今では "Bell Homestead" と呼ばれ、カナダの史跡に指定されている。カナダ政府がここを史跡に指定したのは1996年6月1日のことである。[42]
  8. ^ ベルは後にカナダに着いたころは「死人」同然だったと記している。
  9. ^ ベルはその居留地で認められたことを喜び、その後も何かに大喜びしたときはモホーク族の出陣の踊りを踊った。
  10. ^ 後にベルは電話の発明と「夢見る場所」の関係を説明している。
  11. ^ Eber[59]はメイベルがニューヨークで「5歳の誕生日の直前に」猩紅熱にかかったと主張している。Toward[60]はこの件の詳細な時系列を提供しており、猩紅熱にかかったのは1863年1月、ニューヨークに到着した後のことで、5歳の誕生日から5週間ほど後のこととしている。メイベルが聾者となった時期は、彼女がその時点でしゃべれたのか、それとも聾者となってからしゃべることを一から学んだのかという議論で重要となる。
  12. ^ 引用: 「ブラントフォードは『テレフォン・シティ』を自称しており、1874年に電話が生まれた場所として知られている」[49]
  13. ^ ハバードの支援は十分ではなく、ベルは研究の傍ら教職を続けなければならなかった[67]。金に困ったベルは雇っていたトーマス・ワトソンに金を借りたことさえある。ベル電話会社(およびAT&T)の前身となった Bell Patent Association はハバードとサンダースとベルが結成したものだが、後に収益の約10%をワトソンに与えることにした[68]。これは、最初の電話機を試作したことにベルがワトソンに借金していたことと給料の代替とするという意味があった。
  14. ^ MacLeod 1999, pp. 12–13 では、この特許の草稿のコピーが示されており、「おそらく史上最も価値のある特許」とされている。
  15. ^ 約5,400 km
  16. ^ メウッチは最終的な裁判には関係していなかった。
  17. ^ トーマス・ファーリーは、誰もが理解できる明瞭さで音声を伝送したのはベルとワトソンが最初だったというのが学界の一般的見方だとしている。[99]
  18. ^ 多くの訴訟でグレイとベルは険悪な状態となったが、ベルがグレイを名誉毀損で反訴することはなかった。
  19. ^ Canadian Press 紙、1966年2月4日: ノバスコシア州バデック: ナショナルジオグラフィック協会の会長(前社長)ギルバート・H・グローヴナー博士が、義理の父で発明家のアレクサンダー・グラハム・ベルから相続したケープ・ブレトン島で死去。90歳だった。
  20. ^ 引用: ワシントンD.C.、1964年12月26日: ギルバート・グローヴナー夫人のエルシー・メイ・ベル・グローヴナーはベセスダの自宅で亡くなった。86歳だった。死因は心臓病と老化とされている。[107]
  21. ^ 引用:Canadian Press 紙、1962年9月24日: マリアン・ベル・フェアチャイルド夫人(電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベルの娘)が夏の別荘で亡くなった。82歳だった。
  22. ^ なお、マリアンが生まれた数日後「フォトフォン」の実験が成功し、有頂天になったベルは2人目の娘を "Photophone" と名付けようとしたが、妻が反対したという逸話がある[109]
  23. ^ ボストンの建築家カボット、エベレット、ミードの指導の下で、ノバスコシアの建築会社 Rhodes, Curry and Company が実際の建設を行った。
  24. ^ ベルはオーストラリアの航空工学者ローレンス・ハーグレイヴの人間を乗せられる箱凧の実験に触発された[133]。ハーグレイヴは特許をとらず、ベルもこれに関しては特許をとっていない。また、ベルは青空に映えるように栗色の絹を使った。
  25. ^ 時速25から30マイル。アメリカ初の空気より重い車両 (car) の公式な飛行。アレクサンダー・グラハム・ベル教授の新たな機械は、セルフリッジ大尉の計画に沿って製作され、ケウカ湖上を飛行してそれが可能であることを示した。最後には尾部が崩壊して試験飛行が終了した。[137]
  26. ^ 引退したベルは妻や家族や友人とともにベイン・バリーに住んでいた。[145][146]
  27. ^ 引用: 「(彼の最期のときは)午前2時だった… 妻メイベル、娘デイジー、義理の息子デビッド・フェアチャイルドが集まっていた。最期に彼は愛していた山の上に月がでているのを眺めた」[147]
  28. ^ ブラントフォードの新たなベル・テレフォン・ビルディングの柱廊玄関にベル像が設置され、1949年6月17日に除幕式が行われた。ベルの娘ギルバート・グローヴナー夫人、ベル・カナダ社長フレデリック・ジョンソン、ブラントフォード市長ウォルター・J・ドウデンらが列席している。像に面した柱には "In Gratefull Recognition of the Inventor of the Telephone" と刻まれていた。この式典の模様はカナダ中に生中継された。[154][155]
  29. ^ 1デシベルは1ベルの10分の1である。

出典

[編集]
  1. ^ アレクサンダー・グラハム・ベルの肉声”. IEEE Spectrum (April 30, 2018). May 10, 2018閲覧。
  2. ^ Gray 2006, p. 228
  3. ^ Reville, F. Douglas. "History of the County of Brant: Illustrated With Fifty Half-Tones Taken From Miniatures And Photographs." Brantford Historical Society, Hurley Printing,Brantford, Ontario, 1920, p. 319. Retrieved from Brantford.Library.on.ca, May 4, 2012.
  4. ^ Bruce 1990, p. 419
  5. ^ Black 1997, p. 18
  6. ^ a b MacLeod 1999, p. 19
  7. ^ Bell, Mabel. "Twenty-Five Years Ago: Dr. Bell's Telephone Service (letter, dated August 24, 1922)." Bell Telephone Quarterly, Vol. 1, No. 3, October 1922, reprinted in Bell Telephone Magazine, Autumn 1947, p. 174.
  8. ^ "National Geographic Mission." nationalgeographic.com. Retrieved: July 28, 2010.[リンク切れ]
  9. ^ Hart 2000, p. 222
  10. ^ Petrie 1975, p. 4
  11. ^ "Time Line of Alexander Graham Bell." memory.loc.goiv. Retrieved: July 28, 2010.
  12. ^ "Alexander M. Bell Dead. Father of Prof. A.G. Bell Developed Sign Language for Mutes." New York Times Tuesday, August 8, 1905.
  13. ^ "Call me Alexander Graham Bell." fi.edu. Retrieved: July 28, 2010.
  14. ^ Groundwater 2005, p. 23
  15. ^ Bruce 1990, pp. 17–19
  16. ^ a b Bruce 1990, p. 16
  17. ^ a b Gray 2006, p. 8
  18. ^ Gray 2006, p. 9
  19. ^ Mackay 1997, p. 25
  20. ^ a b Petrie 1975, p. 7
  21. ^ Mackay 1997, p. 31
  22. ^ Gray 2006, p. 11
  23. ^ Town 1988, p. 7
  24. ^ Bruce 1990, p. 37
  25. ^ Shulman 2008, p. 49
  26. ^ a b c Groundwater 2005, p. 25
  27. ^ Petrie 1975, pp. 7–9
  28. ^ Petrie 1975, p. 9
  29. ^ a b Groundwater 2005, p. 30
  30. ^ Shulman 2008, p. 46
  31. ^ MacKenzie 2003, p. 41
  32. ^ Groundwater 2005, p. 31
  33. ^ Shulman 2008, pp. 46–48
  34. ^ Micklos 2006, p. 8
  35. ^ Bruce 1990, p. 45
  36. ^ Bruce 1990, pp. 67–68
  37. ^ Bruce 1990, p. 68
  38. ^ a b Groundwater 2005, p. 33
  39. ^ Mackay 1997, p. 50
  40. ^ Petrie 1975, p. 10
  41. ^ Mackay 1997, p. 61
  42. ^ Canada's Historic Places: Bell Homestead National Historic Site of Canada.”. Canadian Register of Historic Places, Parks Canada. 2012年4月24日閲覧。
  43. ^ a b Wing 1980, p. 10
  44. ^ Groundwater 2005, p. 34
  45. ^ Mackay 1997, p. 62
  46. ^ Groundwater 2005, p. 35
  47. ^ Bruce 1990, p. 74
  48. ^ Town 1988, p. 12
  49. ^ a b Alexander Graham Bell 1979, p. 8
  50. ^ a b Groundwater 2005, p. 39
  51. ^ Petrie 1975, p. 14
  52. ^ Petrie 1975, p. 15
  53. ^ Town 1988, pp. 12–13
  54. ^ Petrie 1975, p. 17
  55. ^ Miller & Branson 2002, pp. 30–31, 152–153
  56. ^ Ayers et al. 2009, pp. 194–195
  57. ^ Town 1988, p. 15
  58. ^ Town 1988, p. 16
  59. ^ Eber 1991, p. 43
  60. ^ Toward 1984, p. 1
  61. ^ Dunn 1990, p. 20
  62. ^ Matthews 1999, pp. 19–21
  63. ^ Matthews 1999, p. 21
  64. ^ "A History of Electrical Engineering." ieee.cincinnati.fuse.net. Retrieved: December 29, 2009.
  65. ^ Town 1988, p. 17
  66. ^ Evenson 2000, pp. 18–25
  67. ^ Fitzgerald, Brian. "Alexander Graham Bell: The BU Years." B.U. Bridge, Vol. V, No. 5, 14 September 2001. Retrieved: 28 March 2010.
  68. ^ Bruce 1990, p. 291
  69. ^ 林紘一郎、田川義博(1994年)『ユニバーサル・サービス』中公新書
  70. ^ Bruce 1990, pp. 158–159
  71. ^ US 174465  Alexander Graham Bell: "Improvement in Telegraphy" filed on February 14, 1876, granted on March 7, 1876.
  72. ^ "Bell's Lab notebook I, pp. 40–41 (image 22)." loc.gov. Retrieved: July 28, 2010.
  73. ^ MacLeod 1999, p. 12
  74. ^ Shulman 2008, p. 211
  75. ^ Evenson 2000, p. 99
  76. ^ Evenson 2000, p. 98
  77. ^ Evenson 2000, p. 100
  78. ^ Evenson 2000, pp. 81–82
  79. ^ "Mr. Wilbur confesses." The Washington Post, May 22, 1886, p. 1.
  80. ^ MacLeod 1999, p. 14
  81. ^ NTT西日本 (December 2022). データブックNTT西日本 (PDF) (Report). p. 230. 2023年4月3日閲覧より「電話機のあゆみ」
  82. ^ Fenster, Julie M. "Inventing the Telephone—And Triggering All-Out Patent War." AmericanHeritage.com, American Heritage, 2006.(2006年3月17日時点のアーカイブ
  83. ^ Winfield 1987, p. 21
  84. ^ Webb 1991, p. 15
  85. ^ Ross 2001, pp. 21–22
  86. ^ "Phone to Pacific From the Atlantic". The New York Times, January 26, 1915. Retrieved: July 21, 2007.
  87. ^ Australasian Telephone Collecting Society. "Who Really Invented The Telephone?" ATCS, Moorebank, NSW, Australia. Retrieved from telephonecollecting.org on April 22, 2011.
  88. ^ a b c Groundwater 2005, p. 95
  89. ^ Black 1997, p. 19
  90. ^ Mackay 1997, p. 179
  91. ^ "U.S. Supreme Court: U S v. AMERICAN BELL TEL CO, 167 U.S. 224 (1897)." caselaw.lp. Retrieved: July 28, 2010.
  92. ^ "United states V. American Bell Telephone Co., 128 U.S. 315 (1888)." supreme.justia.com. Retrieved: July 28, 2010.
  93. ^ Basilio Catania 2002 "The United States Government vs. Alexander Graham Bell. An important acknowledgment for Antonio Meucci." Bulletin of Science Technology Society, 22, 2002, pp. 426–442. Retrieved: December 29, 2009.
  94. ^ Catania, Basilio "Antonio Meucci – Questions and Answers: What did Meucci to bring his invention to the public?" Chezbasilio.it. Retrieved: July 8, 2009.
  95. ^ "History of ADT Security." ADT.com website. Retrieved: July 8, 2009.
  96. ^ Bruce 1990, pp. 271–272
  97. ^ H.Res.269 - Expressing the sense of the House of Representatives to honor the life and achievements of 19th Century Italian-American inventor Antonio Meucci, and his work in the invention of the telephone.”. アメリカ議会図書館 (2002年6月11日). 2020年7月24日閲覧。
  98. ^ "Meucci Story." Italian Historical Society. Retrieved: July 28, 2010.(2009年4月22日時点のアーカイブ
  99. ^ "Antonio Meucci." inventors.about.com. Retrieved: December 29, 2009.
  100. ^ Mackay 1997, p. 178
  101. ^ Parker 1995, p. 23
  102. ^ Eber 1982, p. 44
  103. ^ Dunn 1990, p. 28
  104. ^ Mackay 1997, p. 120
  105. ^ "Mrs. A.G. Bell Dies. Inspired Telephone. Deaf Girl's Romance With Distinguished Inventor Was Due to Her Affliction." New York Times, January 4, 1923.
  106. ^ "Dr. Gilbert H. Grosvenor Dies; Head of National Geographic, 90; Editor of Magazine 55 Years Introduced Photos, Increased Circulation to 4.5 million." New York Times, February 5, 1966.
  107. ^ "Mrs. Gilbert Grosvenor Dead; Joined in Geographic's Treks; Married Professor's Son." New York Times, December 27, 1964.
  108. ^ "Mrs. David Fairchild, 82, Dead; Daughter of Bell, Phone Inventor." New York Times, September 25, 1962.
  109. ^ Carson 2007, p. 77
  110. ^ Gray 2006, pp. 202–205
  111. ^ Bruce 1990, p. 90
  112. ^ Bruce 1990, pp. 471–472
  113. ^ Bruce 1990, pp. 297–299
  114. ^ a b c d Bethune 2009, p. 2
  115. ^ Bethune 2009, p. 92
  116. ^ Tulloch 2006, pp. 25–27
  117. ^ MacLeod 1999, p. 22
  118. ^ Tulloch 2006, p. 42
  119. ^ Gray 2006, p. 219
  120. ^ Bruce 1990, p. 336
  121. ^ Jones, Newell. "First 'Radio' Built by San Diego Resident Partner of Inventor of Telephone: Keeps Notebook of Experiences With Bell." San Diego Evening Tribune, July 31, 1937. Retrieved from the University of San Diego History Department website, November 26, 2009.
  122. ^ Bruce 1990, p. 338
  123. ^ Carson 2007, pp. 76–78
  124. ^ Groth, Mike. "Photophones Revisted." Amateur Radio magazine, Wireless Institute of Australia, Melbourne, April 1987, pp. 12–17 and May 1987, pp. 13–17.
  125. ^ Mims 1982, p. 11
  126. ^ Phillipson, Donald J.C., and Laura Neilson. "Bell, Alexander Graham." The Canadian Encyclopedia online. Retrieved: August 6, 2009.
  127. ^ Morgan, Tim J. "The Fiber Optic Backbone". University of North Texas, 2011.
  128. ^ Miller, Stewart E. "Lightwaves and Telecommunication". American Scientist, Sigma Xi, The Scientific Research Society, Vol. 72, No. 1, January-February 1984, pp. 66-71.
  129. ^ a b Grosvenor & Wesson 1997, p. 107
  130. ^ Boileau 2004, p. 18
  131. ^ Boileau 2004, pp. 28–30
  132. ^ Boileau 2004, p. 30
  133. ^ Technical Gazette, New South Wales, 1924, p. 46.
  134. ^ "Nova Scotia's Electric Scrapbook." ns1763.ca. Retrieved: December 29, 2009.
  135. ^ Gillis, Rannie. "Mabel Bell Was A Focal Figure In The First Flight of the Silver Dart." Cape Breton Post, September 29, 2008. Retrieved from "First Airplane Flight In Canada." ns1763.ca, April 2, 2010. Retrieved: June 12, 2010.
  136. ^ Phillips 1977, p. 95
  137. ^ "Selfridge Aerodrome Sails Steadily for 319 feet (97m)." Washington Post May 13, 1908.
  138. ^ Phillips 1977, p. 96
  139. ^ Phillips 1977, pp. 96–97
  140. ^ Bell, Alexander Graham. "Memoir upon the formation of a deaf variety of the human race." Alexander Graham Bell Association for the Deaf, 1883.
  141. ^ Bruce 1990, pp. 410–417
  142. ^ Lusane 2003, p. 124
  143. ^ Gray 2006, p. 419
  144. ^ Gray 2006, p. 418
  145. ^ Bethune 2009, p. 95
  146. ^ Duffy, Andrew. "The Silver Dart sputtered into history." The Ottawa Citizen, February 23, 2009.
  147. ^ Bethune 2009, p. 119
  148. ^ a b c d e "Obituary: Dr. Bell, Inventor of Telephone, Dies: Sudden End, Due to Anemia, Comes in Seventy-Sixth Year at His Nova Scotia Home: Notables Pay Him Tribute." The New York Times, August 3, 1922. Retrieved: March 3, 2009.
  149. ^ Bruce 1990, p. 491
  150. ^ Bethune 2009, pp. 119–120
  151. ^ a b Osborne, Harold S. "Biographical Memoir of Alexander Gramam Bell." National Academy of Sciences: Biographical Memoirs, Vol. XXIII, 1847–1922, presented to the Academy at its 1943 annual meeting.
  152. ^ "Dr. Bell, Inventor of Telephone, Dies." The New York Times, August 3, 1922. Retrieved: July 21, 2007. 引用: 電話の発明者アレクサンダー・グラハム・ベル博士は本日午前2時ベイン・バリーの自宅で亡くなった。
  153. ^ "Descendants of Alexander Melville Bell - Three Generations". Bell Telephone Company of Canada Historical Collection and Company Library (undated), from the Brant Historical Society, June 2012.
  154. ^ Ireland, Carolyn. "The Portrait Studio House". The Globe and Mail, 27 February 2009.
  155. ^ "Daughter Unveils Inventor's Statue: Bronze Figure Is Dedicated By Phone Pioneers". Brantford Expositor, 18 June 1949.
  156. ^ "Alexander Graham Bell Family Papers." Library of Congress.
  157. ^ Crosland, Maurice P. "Science Under Control: The French Academy of Sciences, 1795–1914". Cambridge University Press, 1992. As cited by James Love in "KEI Issues Report on Selected Innovation Prizes and Reward Programs: The Volta Prize For Electricity." Knowledge Ecology International, March 20, 2008, p. 16. Retrieved: January 5, 2010.
  158. ^ Davis. John L. "Artisans and savants: The Role of the Academy of Sciences in the Process of Electrical Innovation in France, 1850–1880." Annals of Science, Volume 55, Issue 3, July 1998, p. 301. Retrieved from InformaWorld.com, January 5, 2010.
  159. ^ "Honors to Professor Bell." Boston Daily Evening Traveller, September 1, 1880, Library of Congress, Alexander Graham Bell Family Papers. Retrieved: April 5, 2009.
  160. ^ "Letter from Mabel Hubbard Bell, February 27, 1880." Library of Congress, Alexander Graham Bell Family Papers. Retrieved: April 5, 2009. Note (N.B.): The last line of the typed note refers to the future disposition of award funds: "... and thus the matter lay till the paper turned up. He intends putting the full amount into his Laboratory and Library".
  161. ^ "Alexander Graham Bell." IEEE Global History Network. Retrieved: August 8, 2011.
  162. ^ "Alexander Graham Bell Family Papers: Home." Memory.loc.gov. Retrieved: February 14, 2012.
  163. ^ "Alexander Graham Bell National Historic Site." Parks Canada. Retrieved: February 14, 2012.
  164. ^ "Bell Homestead". Bell Homestead Society. Retrieved: February 14, 2012.
  165. ^ "Decibel." sfu.ca. Retrieved: July 28, 2010.
  166. ^ "Definition: 'bel'." freedictionary.com, American Heritage Dictionary of the English Language by Houghton Mifflin Company, Fourth Edition, 2000. Retrieved: September 2, 2009.
  167. ^ Scott's United States Stamp catalogue.
  168. ^ "Royal Bank Commemorative Notes." Rampant Scotland. Retrieved: October 14, 2008.
  169. ^ "100th Anniversary of Flight in Canada." Royal Canadian Mint. Retrieved: June 12, 2010.
  170. ^ "100 great British heroes." BBC News World Edition, August 21, 2002. Retrieved: April 5, 2010.
  171. ^ "Beatlelinks: The Greatest Britons of All Times." news.bbc.co.uk. Retrieved: December 29, 2009.
  172. ^ "Alexander Graham Bell (1847–1922)." Scottish Science Hall of Fame. Retrieved: April 5, 2010.
  173. ^ "Honorary Degree Recipients." Provost.gallaudet.edu. Retrieved: July 28, 2010.
  174. ^ "Overview , Graduations, Registry." Registry.ed.ac.uk, July 12, 2010. Retrieved: July 28, 2010.
  175. ^ "Dartmouth graduates." The New York Times. Retrieved: July 30, 2009.
  176. ^ a b c d e f 電話の發明者グラハム・ベル氏を語る 伯爵 金子堅太郞氏『逓信畠の先輩巡礼』内海朝次郎 著 (交通経済社出版部, 1935)
  177. ^ a b 48㎡の宝箱 ―― 京盲史料monoがたり(35)ろう教育史料も点字ジャーナル 2014年2月号、第45巻2号(通巻第525号)、東京ヘレンケラー協会
  178. ^ ダムインタビュー(26)竹村公太郎さんに聞く「未来を見通したインフラ整備が大事で、ダムの役目はまだまだ大きいですよ」一般財団法人日本ダム協会、2010年7月
  179. ^ a b FOREIGN SERVICE'S CABOT COVILLE IS DEAD AT 84The Washington Post, 1987.2.9
  180. ^ Elsie May Bell GrosvenorLibrary of Congress
  181. ^ Lilian Waters Grosvenor JonesFind A Grave

参考文献

[編集]


Ladefoged, Peter and Sandra F. Disner (2012) Vowels and Consonants, Wily-Blackwell, 『母音と子音:音声学の世界に踏み出そう』田村幸誠・貞光宮城訳、開拓社、2021年. ISBN 978-4-7589-2286-9

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

特許

[編集]

映画

[編集]