「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の版間の差分
m r2.7.2) (ロボットによる 追加: fy:Edward Smith-Stanley |
Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) m →関連項目 |
||
(5人の利用者による、間の13版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{政治家 |
|||
{{出典の明記|date=2012年6月12日 (火) 02:46 (UTC)}} |
|||
|人名 = 第14代ダービー伯爵<br/>エドワード・スミス=スタンリー |
|||
|各国語表記 = Edward Smith-Stanley<br/>14th Earl of Derby |
|||
'''エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー'''(Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, [[1799年]][[3月29日]] - [[1869年]][[10月23日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の首相(第1次内閣:[[1852年]]、第2次内閣:[[1858年]] - [[1859年]]、第3次内閣:[[1866年]] - [[1868年]])。 |
|||
|画像 = 14th Earl of Derby.jpg |
|||
|画像説明 = |
|||
|国略称 ={{GBR}} |
|||
|生年月日 =[[1799年]][[3月29日]] |
|||
|出生地 =[[グレートブリテン王国|イギリス]]、[[イングランド]]、[[ランカシャー]] |
|||
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1799|3|29|1859|6|11}} |
|||
|死没地 =[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]、イングランド、ランカシャー |
|||
|出身校 = [[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]] |
|||
|前職 = |
|||
|所属政党 = [[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]→[[保守党 (イギリス)|保守党]] |
|||
|称号・勲章 = [[ダービー伯爵]]<br/>[[ガーター勲章]] |
|||
|親族(政治家) = |
|||
|配偶者 = エマ |
|||
|サイン = Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby Signature.svg |
|||
|ウェブサイト = |
|||
|サイトタイトル = |
|||
|国旗 = |
|||
|職名 = {{UK}}[[イギリスの首相|首相]] |
|||
|就任日 = [[1852年]][[2月23日]] - [[1852年]][[12月16日]]<ref name="秦(2001)509">[[#秦(2001)|秦(2001)]] p.509</ref><br/>[[1858年]][[2月25日]] - [[1859年]]6月<ref name="秦(2001)509"/><br/>[[1866年]][[7月6日]] |
|||
|退任日 = [[1868年]][[2月25日]]<ref name="秦(2001)509"/> |
|||
|元首職 = [[イギリス国王|女王]] |
|||
|元首 = [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]] |
|||
|職名2 = {{UK}}[[戦争・植民地大臣]] |
|||
|内閣2 = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣<br/>第二次[[ロバート・ピール|ピール]]内閣 |
|||
|就任日2 = [[1833年]]4月3日 - [[1834年]]6月5日<br/>[[1841年]][[9月3日]] |
|||
|退任日2 = [[1845年]][[12月23日]] |
|||
|職名3 = {{UK}}[[:en:Chief Secretary for Ireland|アイルランド担当大臣]] |
|||
|内閣3 = [[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]内閣 |
|||
|就任日3 = [[1830年]][[11月29日]] |
|||
|退任日3 = [[1833年]][[3月29日]] |
|||
|職名4 = {{UK}}[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員 |
|||
|就任日4 = 1844年10月 |
|||
|退任日4 = 1868年 |
|||
|職名5 = {{UK}}[[庶民院]]議員 |
|||
|就任日5 = 1820年 |
|||
|退任日5 = 1844年10月 |
|||
|選挙区5 = [[ストックブリッジ]]選挙区<br/>[[プレストン]]選挙区<ref name="バグリー(1993)295">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.295</ref> |
|||
}} |
|||
'''第14代ダービー伯爵、エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー'''([[英語]]:Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, [[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]] [[1799年]][[3月29日]] - [[1869年]][[10月23日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[貴族]]。 |
|||
[[保守党 (イギリス)|保守党]]とピール派の分裂後に[[ロバート・ピール]]に代わって保守党党首となり、三度にわたって首相(第1次内閣:[[1852年]]、第2次内閣:[[1858年]]-[[1859年]]、第3次内閣:[[1866年]]-[[1868年]])を務めた。しかしいずれも少数与党の短命政権であり、事実上[[選挙管理内閣]]だったため、[[庶民院院内総務]]の地位にあった[[ベンジャミン・ディズレーリ]]が政局を主導するところが多く、影の薄い首相だった。 |
|||
== 経歴 == |
|||
第13代[[ダービー伯爵|ダービー伯]]{{仮リンク|エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|label=エドワード・スミス=スタンリー|en|Edward Smith-Stanley, 13th Earl of Derby}}の息子として生まれ、はじめ[[ストックブリッジ]]選出の、次いで[[ウィンザー (イングランド)|ウィンザー]]選出の、さらに[[北ランカシャー]]選出の庶民院議員となった。最初は[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]に属したものの、やがて[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]へ鞍替えした。その後トーリー党の後身である[[保守党 (イギリス)|保守党]]の党首に就いた。 |
|||
1834年から1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)の[[儀礼称号]]を使用し、1844年から1851年にはビッカースタッフ=スタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)、1851年からはダービー伯爵となった。 |
|||
[[1851年]]まではダービー伯爵家の相続人であることを示すスタンリー卿({{lang|en|Lord Stanley}})の[[儀礼称号]]で呼ばれていたが、その最後の年に、祖父の第12代ダービー伯[[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]の創設した競馬の[[オークス]]をアイリス({{lang|en|Iris}})の馬主として制した。同年、第14代ダービー伯となる。最初の組閣は翌1852年である。 |
|||
== 概要 == |
|||
[[1867年]]に[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ]]内閣に次いで選挙法改正([[第二回選挙法改正]])を成立させる。保守党党首を22年にわたって務め、その間三度[[イギリスの首相]]となった後、1868年に病気のため引退。[[ベンジャミン・ディズレーリ]]を後任とした。 |
|||
[[ダービー伯爵]]家の長男として生まれる。[[イートン校]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]へ進学する。 |
|||
大学在学中の1820年に[[庶民院]]議員に初当選。はじめは[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]系の独立議員だった。1827年に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]自由主義派の[[ジョージ・カニング]]の内閣に戦争・植民地省次官として参加した。1830年の[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]のホイッグ党政権にも{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}、のち[[戦争・植民地大臣]]として入閣したが、1834年にはグレイ伯爵のアイルランド国教会の歳入を社会保障に回す政策に反発して辞職した。 |
|||
翌1869年死去。ダービー伯爵位は長男の[[エドワード・スミス=スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]が継いだ。 |
|||
以降ホイッグ党を離れて[[保守党 (イギリス)|保守党]](旧トーリー党)へ接近し、1837年に同党に入党した。1841年の保守党政権[[ロバート・ピール]]内閣で戦争・植民地大臣として入閣。1844年にビッカースタッフ=スタンリー男爵に叙されて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]へ移籍した。 |
|||
イギリス領[[フォークランド諸島]]の首都[[スタンリー (フォークランド諸島)|スタンリー]](ポートスタンリー)の名は彼の名に因んでいる。 |
|||
1845年にピール首相が[[穀物法]]を廃止して穀物の自由貿易を行おうとしたことに反対した。最終的に穀物法は廃止されるもピールらが{{仮リンク|ピール派|en|Peelite}}を立ち上げて保守党を去ったため、その後を受けて保守党党首に就任した。 |
|||
1851年に父の死でダービー伯爵位を世襲する。 |
|||
[[ベンジャミン・ディズレーリ]]を保守党庶民院院内総務に任じて、庶民院対策を一任し、1852年に[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]のホイッグ党政権を倒して第一次内閣を組閣した。しかし少数与党政権だったので大蔵大臣として入閣したディズレーリの予算案に否決されたことで同年のうちに総辞職することとなった。 |
|||
1858年にホイッグ党政権[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]内閣が議会で敗れたため、第二次内閣を組閣したが、やはり少数与党政権なので1859年には議会で敗北して総辞職に追い込まれた。 |
|||
1865年に[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ラッセル伯爵]]内閣が選挙法改正法案をめぐって議会で敗北したことで第三次内閣を組閣。第一次、第二次同様に少数与党政権であったが、ディズレーリの主導により第二次選挙法改正を達成した。ダービー伯爵はこの法案の貴族院の通過にとりわけ大きな貢献をした。 |
|||
1868年に病気のため、ディズレーリに首相職を譲って退任。その翌年に死去した。 |
|||
{{-}} |
|||
== 生涯 == |
|||
=== 生い立ち === |
|||
[[File:Knowsleyhall.jpg|right|thumb|250px|ダービー伯爵家の自邸{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}。]] |
|||
[[ランカシャー]]のダービー伯爵家の自邸{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}に生まれる。 |
|||
父は後の第13代[[ダービー伯爵|ダービー伯]]{{仮リンク|エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|label=エドワード・スミス=スタンリー|en|Edward Smith-Stanley, 13th Earl of Derby}})(まだ家督前でこの頃はスタンリー卿の儀礼称号を使用していた)。母は[[ウィニック]][[教区]][[牧師]]ジェフリー・ホーンビーの娘シャーロット<ref name="バグリー(1993)282">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.282</ref>。 |
|||
[[イートン校]]、[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]で学ぶ<ref name="バグリー(1993)292">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.292</ref>。学生時代から作詞に熱心で、これは生涯にわたるエドワードの趣味となった<ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.292-293</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== ホイッグ党系独立議員時代 === |
|||
大学在学中の[[1820年]]に[[ストックブリッジ]]選挙区から[[庶民院]]議員選挙に出馬して初当選<ref name="バグリー(1993)293">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.293</ref>。ダービー伯爵家は代々[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]支持であり、エドワードも公式にはそう称していたが、彼は独自の判断で行動した。とりわけ[[イングランド国教会]]を守りたいと思っていたのでホイッグ党とは相容れない部分もあった<ref name="バグリー(1993)295">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.295</ref>。 |
|||
[[1824年]]にエドワード・ブートル=ウィルブリアムの娘エマと結婚し、彼女との間に長男{{仮リンク|エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|label=エドワード|en|Edward Stanley, 15th Earl of Derby}}(第15代ダービー伯爵)と次男{{仮リンク|フレデリック・スタンリー (第16代ダービー伯爵)|label=フレデリック|en|Frederick Stanley, 16th Earl of Derby}}(第16代ダービー伯爵)、他一女を儲けた。 |
|||
[[1827年]]に[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]自由主義派の[[ジョージ・カニング]]内閣に戦争・植民地省次官として参加したが、その後、トーリー党保守派の[[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]が首相となったために辞職した。この際にエドワードは「私がトーリー党政権を代表するのはカニングのようなトーリー党リベラル派が政権を握ったときのみである」と宣言した<ref name="バグリー(1993)296">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.296</ref>。 |
|||
[[1830年]]、半世紀にわたったトーリー党政権が倒れ、[[チャールズ・グレイ (第2代グレイ伯爵)|グレイ伯爵]]のホイッグ党政権が誕生すると、その{{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}として入閣した<ref name="バグリー(1993)296">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.296</ref>。[[連合法 (1800年)|連合法]]廃止を求めるアイルランド独立運動家{{仮リンク|ダニエル・オコンネル|en|Daniel O'Connell}}議員と庶民院において激しく激闘した<ref name="バグリー(1993)296">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.296</ref>。一方でアイルランドに無宗派の学校を次々と創設することでプロテスタントとカトリックの教育をめぐる争いの解消を目指した<ref name="バグリー(1993)297">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.297</ref>。 |
|||
[[1833年]]3月に[[戦争・植民地大臣]]に栄転し、[[大英帝国]][[植民地]]における奴隷貿易廃止に尽力した(イギリス本国における奴隷貿易は1807年に禁じられていたが、植民地では未だ合法であった。)<ref name="バグリー(1993)299">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.299</ref>。 |
|||
しかし1834年5月にはアイルランド国教会の歳入を社会保障費に転換しようというグレイ伯爵の政策に反対して戦争・植民地相を辞職した<ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.299-300</ref>。 |
|||
以降エドワードはホイッグ党から離れていくことになるが、これは彼の父スタンリー卿、祖父[[エドワード・スミス=スタンリー (第12代ダービー伯爵)|第12代ダービー伯爵]]からも賛同を得た上でのことであった。彼らスタンリー家三代によれば自分たちがホイッグ党の本道から離れたのではなく、ホイッグ党の方がホイッグ党の本道にいる自分たちから離れたのだという<ref name="バグリー(1993)300">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.300</ref>。 |
|||
[[1834年]]10月に祖父である第12代ダービー伯爵が死去し、父が第13代ダービー伯爵位を継承したことで、以降エドワードは'''スタンリー卿'''(Lord Stanley)の[[儀礼称号]]を使用するようになった。 |
|||
1834年から[[1835年]]にかけての短期間の保守党政権をはさんで、1835年に[[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン子爵]]率いるホイッグ党が政権を奪還すると、スタンリー卿も入閣を求められたが、メルバーン子爵がアイルランド独立運動家オコンネルに譲歩する構えだったのでスタンリー卿は入閣を拒否した<ref name="バグリー(1993)301">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.301</ref>。 |
|||
=== 保守党中堅議員時代 === |
|||
[[1837年]]12月に正式に[[保守党 (イギリス)|保守党]]に入党した<ref name="バグリー(1993)299">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.299</ref>。 |
|||
[[1841年]]に誕生した[[ロバート・ピール]]保守党政権に再び[[戦争・植民地大臣]]として入閣した<ref name="バグリー(1993)303">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303</ref>。[[阿片戦争]]の最終局面を指導して[[清]]に[[南京条約]]を締結させることに成功した。また[[英領カナダ]]と[[アメリカ合衆国]]の緊張の高まりを緩和してアメリカとの戦争を回避することにも成功した<ref name="バグリー(1993)303">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303</ref>。 |
|||
スタンリー卿は保護貿易主義者であり、野党ホイッグ党や首相ピールが検討していた穀物法廃止には反対の立場であったが、植民地と本国間の関税を軽減することには賛成であり、[[カナダ]]産小麦の関税を下げるカナダ穀物法を通している<ref name="バグリー(1993)303-304">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303-304</ref>。 |
|||
[[1844年]]10月に'''ビッカースタッフ=スタンリー男爵'''(Baron Stanley of Bickerstaffe)に叙されて[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]へ移籍した<ref name="バグリー(1993)304">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.304</ref>。 |
|||
[[1845年]]夏に[[アイルランド]]で発生した[[ジャガイモ飢饉]]により、野党を中心にパンの値段を下げるため穀物関税を定めている穀物法廃止の機運が高まり、11月にピール首相も[[穀物法]]を廃止の方針を表明した<ref name="バグリー(1993)303">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.303</ref>。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。ビッカースタッフ=スタンリー男爵も[[ウォルター・モンタギュー・ダグラス・スコット (第5代バクルー公爵)|バクルー公爵]]とともに反対した。ピールは二人を説得できず、内閣は一度総辞職した<ref name="ブレイク(1993)260">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.260</ref>。しかし女王が大命を与えたホイッグ党の[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]が組閣に失敗したため、再度ピールに大命があり、12月にスタンリーとバクルー公爵の二人だけを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた(ビッカースタッフ=スタンリー男爵の後任は[[ウィリアム・グラッドストン]]だった)<ref name="バグリー(1993)306">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.306</ref><ref name="ブレイク(1993)261">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.261</ref>。 |
|||
以降ビッカースタッフ=スタンリー男爵は貴族院における反ピール運動の中心的人物となった<ref name="バグリー(1993)306">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.306</ref>。一方庶民院でその運動を主導したのは[[ベンジャミン・ディズレーリ]]と[[ジョージ・ベンティンク]]卿だった<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.268-269</ref>。 |
|||
=== 保守党党首に === |
|||
穀物法廃止法案は保守党内自由貿易派と野党のホイッグ党や急進派の賛成多数により可決されたものの、保守党内には埋めがたい溝ができ、ディズレーリやベンティンク卿は野党勢力と連携して[[1846年]]6月にアイルランド強圧法を否決することでピール内閣を総辞職に追い込んだ<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.280-282</ref><ref name="神川(2011)124">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.124</ref>。 |
|||
ロバート・ピール以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党して{{仮リンク|ピール派|en|Peelite}}を結成した。これによって[[ウィリアム・グラッドストン]]など閣僚や政務次官経験者はほぼすべてピール派に流れていった<ref name="神川(2011)125">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.125</ref><ref name="ブレイク(1993)287">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.287</ref>。 |
|||
[[7月18日]]の保守党両院議員による晩餐会が開かれ、その席上でビッカースタッフ=スタンリー男爵が保守党全体の党首、ベンティンク卿が保守党下院院内総務と定められた<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.288-289</ref>。 |
|||
ヴィクトリア女王は辞職したピールに代わってビッカースタッフ=スタンリー男爵に大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断してホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう助言し、その結果[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]が組閣することとなった<ref name="君塚(2007)52">[[#君塚(2007)|君塚(2007)]] p.52</ref>。 |
|||
[[1851年]]春に父第13代ダービー伯爵が死去し、52歳にして'''第14代ダービー伯爵'''位を継承した<ref name="バグリー(1993)308">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.308</ref>。 |
|||
=== 第一次ダービー伯爵内閣 === |
|||
ホイッグ党政権は首相ジョン・ラッセル卿とラッセルに解任された外相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]の内紛にディズレーリが付け入る形で崩壊した。その後を受けて1852年2月にダービー伯爵が大命を受けた<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.362-363</ref><ref name="バグリー(1993)311">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.311</ref>。 |
|||
第一次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか三人の内閣で後は全員新顔だった。そのため「{{仮リンク|誰?誰?内閣|en|Who? Who? Ministry}}」と呼ばれた<ref name="バグリー(1993)312">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.312</ref><ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.364-365</ref><ref name="モロワ(1960)195">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.195</ref>。 |
|||
1852年7月の{{仮リンク|1852年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1852}}で保守党は議席を伸ばしたが、過半数には今一歩で届かなかったため、11月に議会が始まれば倒閣されることを覚悟せねばならなかった<ref name="バグリー(1993)313">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.313</ref>。 |
|||
10月にオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に就任した<ref name="バグリー(1993)317">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.317</ref>。 |
|||
12月には庶民院でディズレーリの予算案が庶民院で否決され、内閣総辞職を余儀なくされた。ピール派の[[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]内閣にとって代わられた<ref name="ブレイク(1993)403-404">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.404-404</ref><ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.151-153</ref>。 |
|||
=== 第二次内閣までの野党時代 === |
|||
以降5年にわたって野党党首時代を送った<ref name="ブレイク(1993)408">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.408</ref>。この間、保守党庶民院院内総務ディズレーリは政権に対して徹底対決路線をとったが、一方ダービー伯爵はピール派を保守党に呼び戻したいという意図から徹底対決路線を避けようとした<ref name="ブレイク(1993)414">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.414</ref>。 |
|||
[[クリミア戦争]]についてはアバディーン伯爵がはじめからフランスを支持するとロシア皇帝に通達しておけば、恐らくロシアはバルカン半島への侵攻など企まなかったであろうと主張してアバディーン伯爵政権の優柔不断な外交を批判した。しかし開戦後は挙国一致体制のためとして原則として政府の戦争遂行を支持するという立場をとった<ref name="バグリー(1993)318">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.318</ref>。 |
|||
首相がホイッグ党の[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]に代わった後の[[1856年]]に勃発した[[アロー戦争]]については「私は弱者を擁護する者である。強大なイギリスに対して弱き中国のために一助を惜しまぬものである」として戦争反対を表明した<ref name="バグリー(1993)320">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.320</ref>。一方ディズレーリは国民の愛国ムードを敏感に感じており、これを争点にしても勝ち目はないと正しく予見していたが、党首ダービー伯爵はアロー戦争反対で政府に闘争を挑むことを決定してしまった<ref name="ブレイク(1993)435">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.435</ref>。 |
|||
保守党、ピール派、急進派の賛成多数でパーマストン子爵を批判する決議が採択されると、パーマストン子爵は[[1857年]]4月に{{仮リンク|1857年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1857}}に打って出た<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.435-436</ref><ref name="神川(2011)168">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.168</ref>。選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員が大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった<ref name="ブレイク(1993)436">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.436</ref><ref name="神川(2011)169">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.169</ref>。 |
|||
あてが外れてダービー伯爵は意気消沈したという<ref name="バグリー(1993)318">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.318</ref>。 |
|||
=== 第二次ダービー伯爵内閣 === |
|||
この後、パーマストン子爵が殺人共謀罪をめぐる採決で敗れて総辞職したことで1858年2月にダービー伯爵に二度目の大命があった<ref>[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.441-443</ref>。しかし保守党は庶民院の総議席の三分の一程度の議席しか有していなかったので、野党が団結したら即座に倒されてしまう不安定な内閣だった<ref name="ブレイク(1993)443">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.443</ref>。 |
|||
息子のスタンリー卿(後の{{仮リンク|エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|label=第15代ダービー伯爵|en|Edward Stanley, 15th Earl of Derby}})を植民地大臣に任じ、前パーマストン子爵内閣が鎮圧した[[インド大反乱]]後のインドの統治システムの構築に取り組んだ。女王や野党との協議の末にインドを[[イギリス東インド会社]]統治からイギリス女王(実質的には「女王陛下の政府」)の直接統治へ移行した<ref name="バグリー(1993)321">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.321</ref>。 |
|||
また[[ユダヤ人]]が[[キリスト教徒]]としての宣誓を行えないがために例え選挙で当選しても議場に入れない状態を解消すべく、庶民院院内総務ディズレーリとともに貴族院と庶民院でそれぞれ新しい宣誓の形を定めた<ref name="バグリー(1993)322">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.322</ref><ref name="ブレイク(1993)302">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.302</ref>。 |
|||
さらにディズレーリの主導で選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは賃料価値に関わらず男子戸主全員に選挙権を与える制度を欲していたが<ref name="モロワ(1960)214">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.214</ref>、保守党内の選挙権拡大慎重派を考慮して、10[[ポンド]]以上の賃料価値の住居の所有者、あるいは20ポンド以上の賃料価値の住居の間借人に選挙権を認めるとの改正を目指した<ref name="ブレイク(1993)462">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.462</ref>。選挙権拡大に慎重なダービー伯爵はさらに10ポンド以上の[[コンソル公債]]を所持しているか、あるいは60ポンド以上の銀行預金がある者という条件も加えさせている<ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.322-323</ref>。 |
|||
1859年2月にディズレーリが庶民院に選挙法改正法案を提出したが、保守派からは選挙権を拡大しすぎると批判され、一方急進派からは選挙権拡大が手ぬるすぎると批判されて4月1日に否決された。これを受けてダービー伯爵は{{仮リンク|1859年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1859}}に打って出て、30議席ほど保守党の議席を上済みしたが、過半数には届かず、6月には議会で敗北を喫して総辞職する羽目となった<ref name="神川(2011)176">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.176</ref><ref name="バグリー(1993)323">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.323</ref>。 |
|||
この退任の際に女王より与野党の折衝の功を労われて[[ガーター勲章]]を授与された<ref name="バグリー(1993)323"/>。 |
|||
=== 第三次内閣までの野党時代 === |
|||
[[File:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby-1865.jpg|right|thumb|150px|1865年のダービー伯爵]] |
|||
[[イタリア統一戦争]]については、はじめイタリア・[[ナショナリズム]]に強い不信感をもっていたが、徐々に理解を示すようになり、1864年4月には[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]が[[主賓]]になっているロンドンでの晩餐会に出席して話題となった<ref name="バグリー(1993)327">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.327</ref>。 |
|||
[[プロイセン王国]]宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]の策動で始まった[[シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争]]については中立の立場をとるよう政府に訴えた<ref name="バグリー(1993)327">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.327</ref>。 |
|||
1865年7月の{{仮リンク|1865年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1865}}に保守党の総力を挙げて臨んだダービー伯爵だったが、結局20議席を失う敗北を喫している<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref><ref name="神川(2011)206">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.206</ref>。 |
|||
1865年10月、選挙権拡大に慎重だった首相パーマストン子爵が死去し、代わってラッセル伯爵が首相となると、庶民院院内総務になった[[ウィリアム・グラッドストン]]の主導で選挙法改正法案が提出されたが、保守党や自由党右派の反対で否決され、ラッセル伯爵内閣は総辞職に追い込まれた<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
=== 第三次ダービー伯爵内閣 === |
|||
[[File:The Derby Cabinet of 1867.jpg|right|thumb|250px|第三次ダービー伯爵内閣の閣議。右から三人目がダービー伯爵。]] |
|||
ラッセル伯爵内閣の総辞職を受けて、1866年6月末に女王より大命を受けた<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref>。この第三次ダービー伯爵内閣も少数与党政権であり、第一次や第二次と同様に[[選挙管理内閣]]の性質が強かった<ref name="ブレイク(1993)519">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.519</ref>。 |
|||
選挙法改正の挫折で国民の抗議デモや暴動が多発し、急進派の{{仮リンク|ジョン・ブライト|en|John Bright}}が国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった<ref>[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.221-222</ref><ref>[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.111/114</ref>。ダービー伯爵は基本的に選挙権拡大に反対の立場だったが、ディズレーリからの説得で最終的には早急に選挙法を改正する必要性を理解した<ref name="バグリー(1993)328">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.328</ref>。 |
|||
ディズレーリの主導で1867年2月に選挙法改正法案が庶民院に提出された。都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る{{#tag:ref|地方税の納税方式には一括納税と直接納税があった。一括納税すると直接納税より安く済むため、多くの人がこちらの納税方式を選択していた。下層民が選挙権を得るためだけに高い税金に切り替えるとは思えないため、この条件は下層民から選挙権を排除する最大の安全装置であった<ref name="神川(2011)231">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.231</ref>。|group=注釈}}、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった<ref name="村岡(1991)155">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.155</ref> |
|||
しかし保守的なインド担当大臣クランボーン子爵(後の[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]])、戦争大臣{{仮リンク|ジョナサン・ピール|en|Jonathan Peel}}将軍、植民地大臣{{仮リンク|ヘンリー・ハーバート (第4代カーナーヴォン伯爵)|label=カーナーヴォン伯爵|en|Henry Herbert, 4th Earl of Carnarvon}}らは[[自由党 (イギリス)|自由党]]が強い大都市選挙区に有利な改正になるとして反対し、ついには辞職した<ref name="神川(2011)226">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.226</ref><ref name="ブレイク(1993)536">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.536</ref>。 |
|||
一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃していった結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された<ref name="神川(2011)232">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.232</ref><ref name="ブレイク(1993)552">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.552</ref><ref>[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.329-330</ref>。 |
|||
可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。直接納税の条件は納税方式を直接納税のみにすることによって廃しており、2年の居住制限の条件は1年に減らされた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められていた。州選挙区の有権者資格については年価値12ポンド以上の土地所有者が選挙権を有することとなった<ref name="尾鍋(1984)113">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.113</ref><ref name="神川(2011)240">[[#神川(2011)|神川(2011)]] p.240</ref>。 |
|||
この第二次選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった<ref name="村岡(1991)155">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.155</ref>。ダービー伯爵にとってもディズレーリにとっても予想外の選挙権の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという<ref name="ブレイク(1993)555">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.555</ref>。 |
|||
第二次選挙法改正法案をめぐる議会での論争の際には、すでにダービー伯爵の持病の[[痛風]]は相当悪化していた。閣議もしばしば[[ロンドン]]・{{仮リンク|セント・ジェームズ・スクウェア|en|St. James's Square}}23番地にある彼の自邸で開かれるようになっていた<ref name="バグリー(1993)330">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.330</ref>。1867年秋には[[ゾフィー・フォン・ヴュルテンベルク|オランダ王妃]]を所領の自邸{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}に迎えたが、ダービー伯爵の衰弱した様子を見た王妃は「伯爵は今にも燃えつきそうです。熱っぽい目と青白い顔を見ていると身の毛がよだちます」とその印象を語っている<ref name="バグリー(1993)330">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.330</ref>。 |
|||
1868年2月に新議会が招集されたが、ダービー伯爵はもはや議会に出席できない状態だった。彼はまだそれほどの高齢ではなかったので引退生活に入ることを渋っていたが、医者の薦めで辞意を固めた<ref name="ブレイク(1993)566">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.566</ref>。女王もすでにディズレーリを後任にと考えていた<ref name="ブレイク(1993)566">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.566</ref>。 |
|||
1868年2月24日に女王に辞表を提出した<ref name="バグリー(1993)331">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.331</ref>。その際にディズレーリに大命を与えるよう助言している<ref name="尾鍋(1984)116">[[#尾鍋(1984)|尾鍋(1984)]] p.116</ref><ref name="ブレイク(1993)566">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.566</ref>。 |
|||
=== 死去 === |
|||
[[File:Edward Smith-Stanley, Vanity Fair, 1869-05-29.jpg|right|thumb|150px|[[1869年]][[5月29日]]の『{{仮リンク|ヴァニティ・フェアー (イギリス雑誌)|label=ヴァニティ・フェアー|en|Vanity Fair (British magazine)}}』のダービー伯爵の[[戯画]]。]] |
|||
退任後は{{仮リンク|ノウズリー・ホール|en|Knowsley Hall}}で過ごすことがほとんどだったが、1869年3月には最後の力を振り絞って貴族院に出席し、自由党政権[[ウィリアム・グラッドストン]]内閣が提出したアイルランド国教会を廃止しようとする法案に反対する演説を行った(しかしこの法案は可決している)<ref name="バグリー(1993)331">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.331</ref>。 |
|||
その後、1869年10月23日にノウズリー・ホールで死去した<ref name="バグリー(1993)332">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.332</ref>。ダービー伯爵位は長男の{{仮リンク|エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|label=第15代ダービー伯爵|en|Edward Stanley, 15th Earl of Derby}}が継承した<ref name="バグリー(1993)342">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.342</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
== 人物 == |
|||
[[File:Earl of Derby statue, Parliament Square SW1 - geograph.org.uk - 1324165.jpg|right|thumb|150px|[[ロンドン]]・{{仮リンク|パーラメント・スクエア|en|Parliament Square}}にあるダービー伯爵の銅像。]] |
|||
[[貴族主義]]的な人物で、[[民主主義]]を嫌っていた。彼の理想とする社会は「貴族」による[[寡頭政治]]だった。ただし彼の言う「貴族」とは爵位をもつ者だけではなく、爵位のない地主層[[ジェントリ]]も含んでおり、つまり地方[[ジェントルマン]]全般のことであった<ref name="バグリー(1993)305">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.305</ref>。その貴族主義は徹底しており、大貴族として威張り、庶民を見下すことを好んだ。「成りあがり者の[[ヘブライ人]]」ディズレーリのことも、その才能は認めていたが、好んではいなかった<ref name="モロワ(1960)177">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.177</ref>。 |
|||
外交では[[栄光ある孤立|孤立主義]]・[[不干渉主義]]を基調として、イギリスの名誉が傷付かない限り、戦争には消極的であった<ref name="バグリー(1993)327">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.327</ref>。 |
|||
性格は激昂しやすかったという<ref name="ブレイク(1993)332">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.332</ref>。 |
|||
[[クラシック]]音楽の愛好家であり、『[[イーリアス]]』を詩歌に翻訳したこともある<ref name="ブレイク(1993)332">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.332</ref><ref name="モロワ(1960)177">[[#モロワ(1960)|モロワ(1960)]] p.177</ref>。 |
|||
[[競馬]]を愛し、競馬界の[[パトロン]]であった<ref name="ブレイク(1993)332">[[#ブレイク(1993)|ブレイク(1993)]] p.332</ref>。公務より競馬を優先することもしばしばあり、補佐役のディズレーリは頭を抱えたという<ref name="バグリー(1993)316">[[#バグリー(1993)|バグリー(1993)]] p.316</ref>。 |
|||
{{-}} |
|||
== 脚注 == |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{reflist|group=注釈|1}} |
|||
=== 出典 === |
|||
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|2}}</div> |
|||
== 参考文献 == |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[尾鍋輝彦]]|date=1984年(昭和59年)|title=最高の議会人 グラッドストン|series=[[清水新書]]016|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389440169|ref=尾鍋(1984)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[神川信彦]]、[[君塚直隆]]|date=2011年(平成13年)|title=グラッドストン 政治における使命感|publisher=[[吉田書店]]|isbn=978-4905497028|ref=神川(2011)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=2007年(平成19年)|title=ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4121019165|ref=君塚(2007)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[ジョン・ジョゼフ バグリー]]|translator=[[海保真夫]]|date=1993年(平成15年)|title=ダービー伯爵の英国史|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582474510|ref=バグリー(1993)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[谷福丸]]|editor=[[瀬尾弘吉]]監修|date=1993年(平成5年)|title=ディズレイリ|publisher=[[大蔵省印刷局]]|isbn=978-4172820000|ref=ブレイク(1993)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[アンドレ・モーロワ|アンドレ・モロワ]]|date=1960年(昭和35年)|title=ディズレーリ伝|translator=[[安東次男]]|publisher=[[東京創元社]]|asin=B000JAOYH6|ref=モロワ(1960)}} |
|||
== 関連項目 == |
|||
{{Commonscat|Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby}} |
|||
*[[イギリスの首相の一覧]] |
|||
*[[保守党 (イギリス)]] |
|||
*[[ダービー伯爵]] |
|||
*[[穀物法]] |
|||
*[[保護貿易主義]] |
|||
*[[ロバート・ピール]] |
|||
*[[ベンジャミン・ディズレーリ]] |
|||
*[[スタンリー (フォークランド諸島)]]:イギリス領フォークランド諸島の首都。彼の名に因んでいる。 |
|||
{{start box}} |
{{start box}} |
||
{{s-off}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[イギリスの首相|首相]]| years = [[1866年]]-[[1868年]]| before = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ラッセル伯爵]]| after = [[ベンジャミン・ディズレーリ]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|貴族院院内総務|en|Leader of the House of Lords}}| years = [[1866年]] - [[1868年]]| before =[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ラッセル伯爵]]| after = {{仮リンク|ジェームズ・ハリス (第3代マルムズベリー伯爵)|label=マルムズベリー伯爵|en|James Harris, 3rd Earl of Malmesbury}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 首相| years = [[1858年]]-[[1859年]]| before = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]| after = [[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 貴族院院内総務| years = [[1858年]] - [[1859年]]| before ={{仮リンク|グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|label=グランヴィル伯爵|en|Granville Leveson-Gower, 2nd Earl Granville}}| after = {{仮リンク|グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|label=グランヴィル伯爵|en|Granville Leveson-Gower, 2nd Earl Granville}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 首相| years = [[1852年]]| before = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]] |
|||
| after = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 貴族院院内総務| years = [[1852年]]| before ={{仮リンク|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)|label=ランズダウン侯爵|en|Henry Petty-Fitzmaurice, 3rd Marquess of Lansdowne}}| after = [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|アバディーン伯爵]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} [[戦争・植民地大臣]]| years = [[1841年]]-[[1845年]]| before = [[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯)|ジョン・ラッセル卿]]| after = [[ウィリアム・グラッドストン]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} 戦争・植民地大臣| years = [[1833年]]-[[1834年]]| before = [[ゴドリッチ子爵フレデリック・ジョン・ロビンソン|ゴドリッチ子爵]]| after = {{仮リンク|トーマス・スプリング・ライス (初代ブランドン=モンティ―グル男爵)|label=トーマス・スプリング・ライス|en|Thomas Spring Rice, 1st Baron Monteagle of Brandon}}}} |
|||
{{Succession box| title = {{flagicon|UK}} {{仮リンク|アイルランド担当大臣|en|Chief Secretary for Ireland}}| years = [[1830年]]-[[1833年]]| before = {{仮リンク|ヘンリー・ハーディング (初代ハーディング子爵)|label=サー・ヘンリー・ハーディング|en|Henry Hardinge, 1st Viscount Hardinge}}| after = {{仮リンク|ジョン・ホブハウス (初代ブロウトン男爵)|label=サー・ジョン・ホブハウス准男爵|en|John Hobhouse, 1st Baron Broughton}}}} |
|||
{{s-ppo}} |
|||
{{Succession box| title = [[保守党 (イギリス)|保守党]]党首| years = [[1846年]]-[[1868年]]| before = [[ロバート・ピール|サー・ロバート・ピール准男爵]]| after = [[ベンジャミン・ディズレーリ]]}} |
|||
{{Succession box| title = {{仮リンク|保守党貴族院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Lords 1834–present}}| years = [[1846年]]-[[1868年]]| before = [[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]| after = {{仮リンク|ジェームズ・ハリス (第3代マルムズベリー伯爵)|label=マルムズベリー伯爵|en|James Harris, 3rd Earl of Malmesbury}}}} |
|||
{{s-aca}} |
|||
{{Succession box| title = [[オックスフォード大学]]学長| years = [[1852年]]-[[1869年]]| before = [[アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)|ウェリントン公爵]]| after = [[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯爵)|ソールズベリー侯爵]]}} |
|||
{{s-reg|en}} |
{{s-reg|en}} |
||
{{succession box | title=[[ダービー伯爵]] | before= |
{{succession box | title=第14代[[ダービー伯爵]] | before={{仮リンク|エドワード・スミス=スタンリー (第13代ダービー伯爵)|label=第13代ダービー伯爵|en|Edward Smith-Stanley, 13th Earl of Derby}} | after={{仮リンク|エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|label=第15代ダービー伯爵|en|Edward Stanley, 15th Earl of Derby}} | years=1844年 - 1869年}} |
||
{{ |
{{End box}} |
||
{{イギリスの首相}} |
{{イギリスの首相}} |
||
{{DEFAULTSORT:たひはくしやくすみすすたんりえとわと}} |
|||
{{Politician-stub}} |
|||
{{DEFAULTSORT:すみすすたんり えとわと}} |
|||
[[Category:イギリスの首相]] |
[[Category:イギリスの首相]] |
||
[[Category:イギリス・ホイッグ党の政治家]] |
|||
[[Category:イギリス保守党の政治家]] |
[[Category:イギリス保守党の政治家]] |
||
[[Category:イギリスの伯爵]] |
[[Category:イギリスの伯爵]] |
||
[[Category:ガーター勲章]] |
|||
[[Category:1799年生]] |
[[Category:1799年生]] |
||
[[Category:1869年没]] |
[[Category:1869年没]] |
||
[[Category:イートン・カレッジ出身の人物]] |
[[Category:イートン・カレッジ出身の人物]] |
||
[[Category:オックスフォード大学出身の人物]] |
|||
[[ar:إدوارد سميث ستانلي]] |
[[ar:إدوارد سميث ستانلي]] |
||
[[be:Эдвард Сміт-Стэнлі]] |
[[be:Эдвард Сміт-Стэнлі]] |
||
[[be-x-old:Эдвард Сьміт-Стэнлі]] |
[[be-x-old:Эдвард Сьміт-Стэнлі]] |
||
[[bg:Едуард Смит-Стенли]] |
|||
[[ca:Edward Smith-Stanley]] |
[[ca:Edward Smith-Stanley]] |
||
[[cs:Edward Smith-Stanley]] |
[[cs:Edward Smith-Stanley]] |
||
[[de:Edward Geoffrey Smith Stanley, 14. Earl of Derby]] |
[[de:Edward Geoffrey Smith Stanley, 14. Earl of Derby]] |
||
[[en:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby]] |
[[en:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby]] |
||
[[es:Edward Smith-Stanley]] |
[[es:Edward Smith-Stanley, 14º conde de Derby]] |
||
[[et:Edward Smith-Stanley (14. Derby krahv)]] |
[[et:Edward Smith-Stanley (14. Derby krahv)]] |
||
[[fi:Edward Smith-Stanley (14. Derbyn jaarli)]] |
[[fi:Edward Smith-Stanley (14. Derbyn jaarli)]] |
||
44行目: | 276行目: | ||
[[fy:Edward Smith-Stanley]] |
[[fy:Edward Smith-Stanley]] |
||
[[gd:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby]] |
[[gd:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby]] |
||
[[it:Edward |
[[it:Edward Smith-Stanley, XIV conte di Derby]] |
||
[[la:Eduardus Galfridus Smith Stanley]] |
[[la:Eduardus Galfridus Smith Stanley]] |
||
[[lt:Edward Smith-Stanley]] |
[[lt:Edward Smith-Stanley]] |
||
53行目: | 285行目: | ||
[[pt:Edward George Geoffrey Smith-Stanley]] |
[[pt:Edward George Geoffrey Smith-Stanley]] |
||
[[ro:Edward Smith-Stanley]] |
[[ro:Edward Smith-Stanley]] |
||
[[ru: |
[[ru:Смит-Стэнли, Эдуард, 14-й граф Дерби]] |
||
[[simple:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby]] |
[[simple:Edward Smith-Stanley, 14th Earl of Derby]] |
||
[[sv:Edward Smith-Stanley, 14:e earl av Derby]] |
[[sv:Edward Smith-Stanley, 14:e earl av Derby]] |
2013年1月3日 (木) 07:21時点における版
第14代ダービー伯爵 エドワード・スミス=スタンリー Edward Smith-Stanley 14th Earl of Derby | |
---|---|
| |
生年月日 | 1799年3月29日 |
出生地 | イギリス、イングランド、ランカシャー |
没年月日 | 1859年6月11日(60歳没) |
死没地 | イギリス、イングランド、ランカシャー |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | ホイッグ党→保守党 |
称号 |
ダービー伯爵 ガーター勲章 |
配偶者 | エマ |
サイン | |
在任期間 |
1852年2月23日 - 1852年12月16日[1] 1858年2月25日 - 1859年6月[1] 1866年7月6日 - 1868年2月25日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 |
グレイ伯爵内閣 第二次ピール内閣 |
在任期間 |
1833年4月3日 - 1834年6月5日 1841年9月3日 - 1845年12月23日 |
内閣 | グレイ伯爵内閣 |
在任期間 | 1830年11月29日 - 1833年3月29日 |
在任期間 | 1844年10月 - 1868年 |
選挙区 |
ストックブリッジ選挙区 プレストン選挙区[2] |
在任期間 | 1820年 - 1844年10月 |
第14代ダービー伯爵、エドワード・ジョージ・ジョフリー・スミス=スタンリー(英語:Edward George Geoffrey Smith-Stanley, 14th Earl of Derby, KG, PC 1799年3月29日 - 1869年10月23日)は、イギリスの政治家、貴族。
保守党とピール派の分裂後にロバート・ピールに代わって保守党党首となり、三度にわたって首相(第1次内閣:1852年、第2次内閣:1858年-1859年、第3次内閣:1866年-1868年)を務めた。しかしいずれも少数与党の短命政権であり、事実上選挙管理内閣だったため、庶民院院内総務の地位にあったベンジャミン・ディズレーリが政局を主導するところが多く、影の薄い首相だった。
1834年から1844年まではスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用し、1844年から1851年にはビッカースタッフ=スタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)、1851年からはダービー伯爵となった。
概要
ダービー伯爵家の長男として生まれる。イートン校を経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学する。
大学在学中の1820年に庶民院議員に初当選。はじめはホイッグ党系の独立議員だった。1827年にトーリー党自由主義派のジョージ・カニングの内閣に戦争・植民地省次官として参加した。1830年のグレイ伯爵のホイッグ党政権にもアイルランド担当大臣、のち戦争・植民地大臣として入閣したが、1834年にはグレイ伯爵のアイルランド国教会の歳入を社会保障に回す政策に反発して辞職した。
以降ホイッグ党を離れて保守党(旧トーリー党)へ接近し、1837年に同党に入党した。1841年の保守党政権ロバート・ピール内閣で戦争・植民地大臣として入閣。1844年にビッカースタッフ=スタンリー男爵に叙されて貴族院へ移籍した。
1845年にピール首相が穀物法を廃止して穀物の自由貿易を行おうとしたことに反対した。最終的に穀物法は廃止されるもピールらがピール派を立ち上げて保守党を去ったため、その後を受けて保守党党首に就任した。
1851年に父の死でダービー伯爵位を世襲する。
ベンジャミン・ディズレーリを保守党庶民院院内総務に任じて、庶民院対策を一任し、1852年にジョン・ラッセル卿のホイッグ党政権を倒して第一次内閣を組閣した。しかし少数与党政権だったので大蔵大臣として入閣したディズレーリの予算案に否決されたことで同年のうちに総辞職することとなった。
1858年にホイッグ党政権パーマストン子爵内閣が議会で敗れたため、第二次内閣を組閣したが、やはり少数与党政権なので1859年には議会で敗北して総辞職に追い込まれた。
1865年にラッセル伯爵内閣が選挙法改正法案をめぐって議会で敗北したことで第三次内閣を組閣。第一次、第二次同様に少数与党政権であったが、ディズレーリの主導により第二次選挙法改正を達成した。ダービー伯爵はこの法案の貴族院の通過にとりわけ大きな貢献をした。
1868年に病気のため、ディズレーリに首相職を譲って退任。その翌年に死去した。
生涯
生い立ち
ランカシャーのダービー伯爵家の自邸ノウズリー・ホールに生まれる。
父は後の第13代ダービー伯エドワード・スミス=スタンリー)(まだ家督前でこの頃はスタンリー卿の儀礼称号を使用していた)。母はウィニック教区牧師ジェフリー・ホーンビーの娘シャーロット[3]。
イートン校、オックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[4]。学生時代から作詞に熱心で、これは生涯にわたるエドワードの趣味となった[5]。
ホイッグ党系独立議員時代
大学在学中の1820年にストックブリッジ選挙区から庶民院議員選挙に出馬して初当選[6]。ダービー伯爵家は代々ホイッグ党支持であり、エドワードも公式にはそう称していたが、彼は独自の判断で行動した。とりわけイングランド国教会を守りたいと思っていたのでホイッグ党とは相容れない部分もあった[2]。
1824年にエドワード・ブートル=ウィルブリアムの娘エマと結婚し、彼女との間に長男エドワード(第15代ダービー伯爵)と次男フレデリック(第16代ダービー伯爵)、他一女を儲けた。
1827年にトーリー党自由主義派のジョージ・カニング内閣に戦争・植民地省次官として参加したが、その後、トーリー党保守派のウェリントン公爵が首相となったために辞職した。この際にエドワードは「私がトーリー党政権を代表するのはカニングのようなトーリー党リベラル派が政権を握ったときのみである」と宣言した[7]。
1830年、半世紀にわたったトーリー党政権が倒れ、グレイ伯爵のホイッグ党政権が誕生すると、そのアイルランド担当大臣として入閣した[7]。連合法廃止を求めるアイルランド独立運動家ダニエル・オコンネル議員と庶民院において激しく激闘した[7]。一方でアイルランドに無宗派の学校を次々と創設することでプロテスタントとカトリックの教育をめぐる争いの解消を目指した[8]。
1833年3月に戦争・植民地大臣に栄転し、大英帝国植民地における奴隷貿易廃止に尽力した(イギリス本国における奴隷貿易は1807年に禁じられていたが、植民地では未だ合法であった。)[9]。
しかし1834年5月にはアイルランド国教会の歳入を社会保障費に転換しようというグレイ伯爵の政策に反対して戦争・植民地相を辞職した[10]。
以降エドワードはホイッグ党から離れていくことになるが、これは彼の父スタンリー卿、祖父第12代ダービー伯爵からも賛同を得た上でのことであった。彼らスタンリー家三代によれば自分たちがホイッグ党の本道から離れたのではなく、ホイッグ党の方がホイッグ党の本道にいる自分たちから離れたのだという[11]。
1834年10月に祖父である第12代ダービー伯爵が死去し、父が第13代ダービー伯爵位を継承したことで、以降エドワードはスタンリー卿(Lord Stanley)の儀礼称号を使用するようになった。
1834年から1835年にかけての短期間の保守党政権をはさんで、1835年にメルバーン子爵率いるホイッグ党が政権を奪還すると、スタンリー卿も入閣を求められたが、メルバーン子爵がアイルランド独立運動家オコンネルに譲歩する構えだったのでスタンリー卿は入閣を拒否した[12]。
保守党中堅議員時代
1841年に誕生したロバート・ピール保守党政権に再び戦争・植民地大臣として入閣した[13]。阿片戦争の最終局面を指導して清に南京条約を締結させることに成功した。また英領カナダとアメリカ合衆国の緊張の高まりを緩和してアメリカとの戦争を回避することにも成功した[13]。
スタンリー卿は保護貿易主義者であり、野党ホイッグ党や首相ピールが検討していた穀物法廃止には反対の立場であったが、植民地と本国間の関税を軽減することには賛成であり、カナダ産小麦の関税を下げるカナダ穀物法を通している[14]。
1844年10月にビッカースタッフ=スタンリー男爵(Baron Stanley of Bickerstaffe)に叙されて貴族院へ移籍した[15]。
1845年夏にアイルランドで発生したジャガイモ飢饉により、野党を中心にパンの値段を下げるため穀物関税を定めている穀物法廃止の機運が高まり、11月にピール首相も穀物法を廃止の方針を表明した[13]。しかし地主が多く所属する保守党内の抵抗勢力から激しい抵抗を受けた。ビッカースタッフ=スタンリー男爵もバクルー公爵とともに反対した。ピールは二人を説得できず、内閣は一度総辞職した[16]。しかし女王が大命を与えたホイッグ党のジョン・ラッセル卿が組閣に失敗したため、再度ピールに大命があり、12月にスタンリーとバクルー公爵の二人だけを除いた以前と同じ顔触れの内閣を発足させた(ビッカースタッフ=スタンリー男爵の後任はウィリアム・グラッドストンだった)[17][18]。
以降ビッカースタッフ=スタンリー男爵は貴族院における反ピール運動の中心的人物となった[17]。一方庶民院でその運動を主導したのはベンジャミン・ディズレーリとジョージ・ベンティンク卿だった[19]。
保守党党首に
穀物法廃止法案は保守党内自由貿易派と野党のホイッグ党や急進派の賛成多数により可決されたものの、保守党内には埋めがたい溝ができ、ディズレーリやベンティンク卿は野党勢力と連携して1846年6月にアイルランド強圧法を否決することでピール内閣を総辞職に追い込んだ[20][21]。
ロバート・ピール以下、保守党内の自由貿易派議員112名は保守党を離党してピール派を結成した。これによってウィリアム・グラッドストンなど閣僚や政務次官経験者はほぼすべてピール派に流れていった[22][23]。
7月18日の保守党両院議員による晩餐会が開かれ、その席上でビッカースタッフ=スタンリー男爵が保守党全体の党首、ベンティンク卿が保守党下院院内総務と定められた[24]。
ヴィクトリア女王は辞職したピールに代わってビッカースタッフ=スタンリー男爵に大命を与えようとしたが、彼は党の実務経験者がすべてピール派に移っていたことから組閣は不可能と判断してホイッグ党とピール派に連立政権を作らせるよう助言し、その結果ジョン・ラッセル卿が組閣することとなった[25]。
1851年春に父第13代ダービー伯爵が死去し、52歳にして第14代ダービー伯爵位を継承した[26]。
第一次ダービー伯爵内閣
ホイッグ党政権は首相ジョン・ラッセル卿とラッセルに解任された外相パーマストン子爵の内紛にディズレーリが付け入る形で崩壊した。その後を受けて1852年2月にダービー伯爵が大命を受けた[27][28]。
第一次ダービー伯爵内閣は大臣・枢密顧問官経験者がわずか三人の内閣で後は全員新顔だった。そのため「誰?誰?内閣」と呼ばれた[29][30][31]。
1852年7月の総選挙で保守党は議席を伸ばしたが、過半数には今一歩で届かなかったため、11月に議会が始まれば倒閣されることを覚悟せねばならなかった[32]。
10月にオックスフォード大学総長(Chancellors of the University of Oxford)に就任した[33]。
12月には庶民院でディズレーリの予算案が庶民院で否決され、内閣総辞職を余儀なくされた。ピール派のアバディーン伯爵内閣にとって代わられた[34][35]。
第二次内閣までの野党時代
以降5年にわたって野党党首時代を送った[36]。この間、保守党庶民院院内総務ディズレーリは政権に対して徹底対決路線をとったが、一方ダービー伯爵はピール派を保守党に呼び戻したいという意図から徹底対決路線を避けようとした[37]。
クリミア戦争についてはアバディーン伯爵がはじめからフランスを支持するとロシア皇帝に通達しておけば、恐らくロシアはバルカン半島への侵攻など企まなかったであろうと主張してアバディーン伯爵政権の優柔不断な外交を批判した。しかし開戦後は挙国一致体制のためとして原則として政府の戦争遂行を支持するという立場をとった[38]。
首相がホイッグ党のパーマストン子爵に代わった後の1856年に勃発したアロー戦争については「私は弱者を擁護する者である。強大なイギリスに対して弱き中国のために一助を惜しまぬものである」として戦争反対を表明した[39]。一方ディズレーリは国民の愛国ムードを敏感に感じており、これを争点にしても勝ち目はないと正しく予見していたが、党首ダービー伯爵はアロー戦争反対で政府に闘争を挑むことを決定してしまった[40]。
保守党、ピール派、急進派の賛成多数でパーマストン子爵を批判する決議が採択されると、パーマストン子爵は1857年4月に解散総選挙に打って出た[41][42]。選挙は党派を超えてパーマストン子爵を支持する議員が大勝し、強硬な戦争反対派議員はほぼ全員落選した。保守党全体としては20議席ほど減らす結果となった[43][44]。
あてが外れてダービー伯爵は意気消沈したという[38]。
第二次ダービー伯爵内閣
この後、パーマストン子爵が殺人共謀罪をめぐる採決で敗れて総辞職したことで1858年2月にダービー伯爵に二度目の大命があった[45]。しかし保守党は庶民院の総議席の三分の一程度の議席しか有していなかったので、野党が団結したら即座に倒されてしまう不安定な内閣だった[46]。
息子のスタンリー卿(後の第15代ダービー伯爵)を植民地大臣に任じ、前パーマストン子爵内閣が鎮圧したインド大反乱後のインドの統治システムの構築に取り組んだ。女王や野党との協議の末にインドをイギリス東インド会社統治からイギリス女王(実質的には「女王陛下の政府」)の直接統治へ移行した[47]。
またユダヤ人がキリスト教徒としての宣誓を行えないがために例え選挙で当選しても議場に入れない状態を解消すべく、庶民院院内総務ディズレーリとともに貴族院と庶民院でそれぞれ新しい宣誓の形を定めた[48][49]。
さらにディズレーリの主導で選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは賃料価値に関わらず男子戸主全員に選挙権を与える制度を欲していたが[50]、保守党内の選挙権拡大慎重派を考慮して、10ポンド以上の賃料価値の住居の所有者、あるいは20ポンド以上の賃料価値の住居の間借人に選挙権を認めるとの改正を目指した[51]。選挙権拡大に慎重なダービー伯爵はさらに10ポンド以上のコンソル公債を所持しているか、あるいは60ポンド以上の銀行預金がある者という条件も加えさせている[52]。
1859年2月にディズレーリが庶民院に選挙法改正法案を提出したが、保守派からは選挙権を拡大しすぎると批判され、一方急進派からは選挙権拡大が手ぬるすぎると批判されて4月1日に否決された。これを受けてダービー伯爵は解散総選挙に打って出て、30議席ほど保守党の議席を上済みしたが、過半数には届かず、6月には議会で敗北を喫して総辞職する羽目となった[53][54]。
この退任の際に女王より与野党の折衝の功を労われてガーター勲章を授与された[54]。
第三次内閣までの野党時代
イタリア統一戦争については、はじめイタリア・ナショナリズムに強い不信感をもっていたが、徐々に理解を示すようになり、1864年4月にはジュゼッペ・ガリバルディが主賓になっているロンドンでの晩餐会に出席して話題となった[55]。
プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動で始まったシュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争については中立の立場をとるよう政府に訴えた[55]。
1865年7月の解散総選挙に保守党の総力を挙げて臨んだダービー伯爵だったが、結局20議席を失う敗北を喫している[56][57]。
1865年10月、選挙権拡大に慎重だった首相パーマストン子爵が死去し、代わってラッセル伯爵が首相となると、庶民院院内総務になったウィリアム・グラッドストンの主導で選挙法改正法案が提出されたが、保守党や自由党右派の反対で否決され、ラッセル伯爵内閣は総辞職に追い込まれた[56]。
第三次ダービー伯爵内閣
ラッセル伯爵内閣の総辞職を受けて、1866年6月末に女王より大命を受けた[56]。この第三次ダービー伯爵内閣も少数与党政権であり、第一次や第二次と同様に選挙管理内閣の性質が強かった[58]。
選挙法改正の挫折で国民の抗議デモや暴動が多発し、急進派のジョン・ブライトが国民の武装蜂起をちらつかせて政府に選挙法改正を迫ってきた。保守党内にも暴動への恐怖が広がり、早急な選挙法改正を求める声が強まった[59][60]。ダービー伯爵は基本的に選挙権拡大に反対の立場だったが、ディズレーリからの説得で最終的には早急に選挙法を改正する必要性を理解した[56]。
ディズレーリの主導で1867年2月に選挙法改正法案が庶民院に提出された。都市選挙区については基本的に男子戸主に選挙権を認めるが、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る[注釈 1]、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった[62]
しかし保守的なインド担当大臣クランボーン子爵(後のソールズベリー侯爵)、戦争大臣ジョナサン・ピール将軍、植民地大臣カーナーヴォン伯爵らは自由党が強い大都市選挙区に有利な改正になるとして反対し、ついには辞職した[63][64]。
一方ディズレーリは、庶民院における主導権を自らが握るため、何としても選挙法改正法案を通す決意を固めていた。そのためジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ね、条件を次々に廃していった結果、法案は6月15日に第三読会を通過した。貴族院では激しい反発があったものの、ダービー伯爵が辞職をちらつかせて不満を抑え込んだ結果、貴族院もなんとか通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された[65][66][67]。
可決された法案は、都市選挙区については男子戸主であれば選挙権を認めていた。直接納税の条件は納税方式を直接納税のみにすることによって廃しており、2年の居住制限の条件は1年に減らされた。また年価値10ポンド以上の住居の借家人にも選挙権が認められていた。州選挙区の有権者資格については年価値12ポンド以上の土地所有者が選挙権を有することとなった[68][69]。
この第二次選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。法案が提案された当初は誰も予想していなかった選挙権の大幅拡大となった[62]。ダービー伯爵にとってもディズレーリにとっても予想外の選挙権の大盤振る舞いになったが、彼らは政権維持のための代価と考えて割り切ったという[70]。
第二次選挙法改正法案をめぐる議会での論争の際には、すでにダービー伯爵の持病の痛風は相当悪化していた。閣議もしばしばロンドン・セント・ジェームズ・スクウェア23番地にある彼の自邸で開かれるようになっていた[71]。1867年秋にはオランダ王妃を所領の自邸ノウズリー・ホールに迎えたが、ダービー伯爵の衰弱した様子を見た王妃は「伯爵は今にも燃えつきそうです。熱っぽい目と青白い顔を見ていると身の毛がよだちます」とその印象を語っている[71]。
1868年2月に新議会が招集されたが、ダービー伯爵はもはや議会に出席できない状態だった。彼はまだそれほどの高齢ではなかったので引退生活に入ることを渋っていたが、医者の薦めで辞意を固めた[72]。女王もすでにディズレーリを後任にと考えていた[72]。
1868年2月24日に女王に辞表を提出した[73]。その際にディズレーリに大命を与えるよう助言している[74][72]。
死去
退任後はノウズリー・ホールで過ごすことがほとんどだったが、1869年3月には最後の力を振り絞って貴族院に出席し、自由党政権ウィリアム・グラッドストン内閣が提出したアイルランド国教会を廃止しようとする法案に反対する演説を行った(しかしこの法案は可決している)[73]。
その後、1869年10月23日にノウズリー・ホールで死去した[75]。ダービー伯爵位は長男の第15代ダービー伯爵が継承した[76]。
人物
貴族主義的な人物で、民主主義を嫌っていた。彼の理想とする社会は「貴族」による寡頭政治だった。ただし彼の言う「貴族」とは爵位をもつ者だけではなく、爵位のない地主層ジェントリも含んでおり、つまり地方ジェントルマン全般のことであった[77]。その貴族主義は徹底しており、大貴族として威張り、庶民を見下すことを好んだ。「成りあがり者のヘブライ人」ディズレーリのことも、その才能は認めていたが、好んではいなかった[78]。
外交では孤立主義・不干渉主義を基調として、イギリスの名誉が傷付かない限り、戦争には消極的であった[55]。
性格は激昂しやすかったという[79]。
クラシック音楽の愛好家であり、『イーリアス』を詩歌に翻訳したこともある[79][78]。
競馬を愛し、競馬界のパトロンであった[79]。公務より競馬を優先することもしばしばあり、補佐役のディズレーリは頭を抱えたという[80]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 秦(2001) p.509
- ^ a b バグリー(1993) p.295
- ^ バグリー(1993) p.282
- ^ バグリー(1993) p.292
- ^ バグリー(1993) p.292-293
- ^ バグリー(1993) p.293
- ^ a b c バグリー(1993) p.296
- ^ バグリー(1993) p.297
- ^ a b バグリー(1993) p.299
- ^ バグリー(1993) p.299-300
- ^ バグリー(1993) p.300
- ^ バグリー(1993) p.301
- ^ a b c バグリー(1993) p.303
- ^ バグリー(1993) p.303-304
- ^ バグリー(1993) p.304
- ^ ブレイク(1993) p.260
- ^ a b バグリー(1993) p.306
- ^ ブレイク(1993) p.261
- ^ ブレイク(1993) p.268-269
- ^ ブレイク(1993) p.280-282
- ^ 神川(2011) p.124
- ^ 神川(2011) p.125
- ^ ブレイク(1993) p.287
- ^ ブレイク(1993) p.288-289
- ^ 君塚(2007) p.52
- ^ バグリー(1993) p.308
- ^ ブレイク(1993) p.362-363
- ^ バグリー(1993) p.311
- ^ バグリー(1993) p.312
- ^ ブレイク(1993) p.364-365
- ^ モロワ(1960) p.195
- ^ バグリー(1993) p.313
- ^ バグリー(1993) p.317
- ^ ブレイク(1993) p.404-404
- ^ 神川(2011) p.151-153
- ^ ブレイク(1993) p.408
- ^ ブレイク(1993) p.414
- ^ a b バグリー(1993) p.318
- ^ バグリー(1993) p.320
- ^ ブレイク(1993) p.435
- ^ ブレイク(1993) p.435-436
- ^ 神川(2011) p.168
- ^ ブレイク(1993) p.436
- ^ 神川(2011) p.169
- ^ ブレイク(1993) p.441-443
- ^ ブレイク(1993) p.443
- ^ バグリー(1993) p.321
- ^ バグリー(1993) p.322
- ^ ブレイク(1993) p.302
- ^ モロワ(1960) p.214
- ^ ブレイク(1993) p.462
- ^ バグリー(1993) p.322-323
- ^ 神川(2011) p.176
- ^ a b バグリー(1993) p.323
- ^ a b c バグリー(1993) p.327
- ^ a b c d バグリー(1993) p.328
- ^ 神川(2011) p.206
- ^ ブレイク(1993) p.519
- ^ 神川(2011) p.221-222
- ^ 尾鍋(1984) p.111/114
- ^ 神川(2011) p.231
- ^ a b 村岡、木畑(1991) p.155
- ^ 神川(2011) p.226
- ^ ブレイク(1993) p.536
- ^ 神川(2011) p.232
- ^ ブレイク(1993) p.552
- ^ バグリー(1993) p.329-330
- ^ 尾鍋(1984) p.113
- ^ 神川(2011) p.240
- ^ ブレイク(1993) p.555
- ^ a b バグリー(1993) p.330
- ^ a b c ブレイク(1993) p.566
- ^ a b バグリー(1993) p.331
- ^ 尾鍋(1984) p.116
- ^ バグリー(1993) p.332
- ^ バグリー(1993) p.342
- ^ バグリー(1993) p.305
- ^ a b モロワ(1960) p.177
- ^ a b c ブレイク(1993) p.332
- ^ バグリー(1993) p.316
参考文献
- 尾鍋輝彦『最高の議会人 グラッドストン』清水書院〈清水新書016〉、1984年(昭和59年)。ISBN 978-4389440169。
- 神川信彦、君塚直隆『グラッドストン 政治における使命感』吉田書店、2011年(平成13年)。ISBN 978-4905497028。
- 君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王”』中央公論新社、2007年(平成19年)。ISBN 978-4121019165。
- ジョン・ジョゼフ バグリー 著、海保真夫 訳『ダービー伯爵の英国史』平凡社、1993年(平成15年)。ISBN 978-4582474510。
- ブレイク男爵 著、谷福丸 訳、瀬尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年(平成5年)。ISBN 978-4172820000。
- 村岡健次、木畑洋一編 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300。
- アンドレ・モロワ 著、安東次男 訳『ディズレーリ伝』東京創元社、1960年(昭和35年)。ASIN B000JAOYH6。
関連項目
- イギリスの首相の一覧
- 保守党 (イギリス)
- ダービー伯爵
- 穀物法
- 保護貿易主義
- ロバート・ピール
- ベンジャミン・ディズレーリ
- スタンリー (フォークランド諸島):イギリス領フォークランド諸島の首都。彼の名に因んでいる。
公職 | ||
---|---|---|
先代 ラッセル伯爵 |
首相 1866年-1868年 |
次代 ベンジャミン・ディズレーリ |
先代 ラッセル伯爵 |
貴族院院内総務 1866年 - 1868年 |
次代 マルムズベリー伯爵 |
先代 パーマストン子爵 |
首相 1858年-1859年 |
次代 パーマストン子爵 |
先代 グランヴィル伯爵 |
貴族院院内総務 1858年 - 1859年 |
次代 グランヴィル伯爵 |
先代 ジョン・ラッセル卿 |
首相 1852年 |
次代 アバディーン伯爵 |
先代 ランズダウン侯爵 |
貴族院院内総務 1852年 |
次代 アバディーン伯爵 |
先代 ジョン・ラッセル卿 |
戦争・植民地大臣 1841年-1845年 |
次代 ウィリアム・グラッドストン |
先代 ゴドリッチ子爵 |
戦争・植民地大臣 1833年-1834年 |
次代 トーマス・スプリング・ライス |
先代 サー・ヘンリー・ハーディング |
アイルランド担当大臣 1830年-1833年 |
次代 サー・ジョン・ホブハウス准男爵 |
党職 | ||
先代 サー・ロバート・ピール准男爵 |
保守党党首 1846年-1868年 |
次代 ベンジャミン・ディズレーリ |
先代 ウェリントン公爵 |
保守党貴族院院内総務 1846年-1868年 |
次代 マルムズベリー伯爵 |
学職 | ||
先代 ウェリントン公爵 |
オックスフォード大学学長 1852年-1869年 |
次代 ソールズベリー侯爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 第13代ダービー伯爵 |
第14代ダービー伯爵 1844年 - 1869年 |
次代 第15代ダービー伯爵 |