「フィンセント・ファン・ゴッホ」の版間の差分
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| caption = 1990年代初頭に発見された1886年頃の写真<br />専門家の中では反対意見もある |
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| influenced by = 画家:[[アントン・モーヴ]]、[[フェルナン・コルモン]]、[[ドラクロワ]]、[[アドルフ・モンティセリ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]<br />流派:[[印象派]]、[[反アカデミズム]]、[[ジャポニズム]] |
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'''フィンセント・ファン・ゴッホ'''<ref group="注釈">[[ファン (前置詞)|ファン/ヴァン]]は姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。[[オランダ語]]では{{IPA-nl|vɑŋ ˈɣɔχ|lang|Nl-Vincent_van_Gogh.ogg}}。オランダ・[[ホラント州]]の方言では、vanの"v"が無声化して{{IPA-nl|ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx||Nl-Vincent_van_Gogh.ogg}}となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を[[無声硬口蓋摩擦音]]化して{{IPA-nl|vɑɲˈʝɔç|}}と発音していた可能性がある。イギリス英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|x}}、場合によって{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|ɒ|f}}と発音し、アメリカ英語では{{IPAc-en|ˌ|v|æ|n|_|ˈ|ɡ|oʊ}}(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、{{IPA-fr|vɑ̃ ɡɔɡ<sup>ə</sup>|}}(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。</ref>(Vincent van Gogh、[[1853年]][[3月30日]] - [[1890年]][[7月29日]])は、[[オランダ]]の[[後期印象派]]の[[画家]]。彼の作品は感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、20世紀の美術に大きな影響を及ぼした。長い間精神疾患の発作に苦しめられながらも創作活動を続け<ref>Tralbaut (1981: 286-87)。</ref><ref>Hulsker (1990: 390)。</ref>、37歳の時に銃創が原因で死亡した。自傷と考えられているが、銃は見つかっていない<ref>{{cite news|title=Vincent Van Gogh expert doubts 'accidental death' theory|url=http://www.telegraph.co.uk/culture/art/art-news/8832202/Vincent-Van-Gogh-expert-doubts-accidental-death-theory.html|accessdate=8 February 2012|newspaper=''[[The Daily Telegraph]]''|date=2011-10-17}}</ref><ref group ="注釈">2011年刊行のある本は、ゴッホは自殺ではないとしている。著者らは、「調子の悪い銃」を持っていた知り合いの2人の少年が犯人としている([[:en:Vincent van Gogh's death]])。{{Cite news | first = Will | last= Gompertz | authorlink = http://www.bbc.co.uk/news/correspondents/willgompertz/ | author=Will Gompertz | title= Van Gogh did not kill himself, authors claim | url= http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-15328583 |publisher=BBC News| date=2011-10-17 | accessdate = 2011-10-17 }}</ref>。 |
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'''フィンセント・ファン・ゴッホ'''('''ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ'''、Vincent van Gogh, [[1853年]][[3月30日]] - [[1890年]][[7月29日]])は、[[オランダ]]の[[画家]]。姓・名前とも様々に表記されるが、詳細は[[#日本におけるゴッホの表記と発音]]を参照。なお、[[ファン (前置詞)|ファン/ヴァン]]は本来は姓の一部である。 |
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[[後期印象派]]・[[表現主義]]の代表的・先駆的作家としての活動もさることながら、その劇的で短命に終わった人生からしばしば「情熱的な画家」「狂気の天才」といった幻想的イメージが抱かれがちな人物でもある。こうしたエピソードの多くは真偽が不明なものもあり、誇張された人物像は「[[炎の人ゴッホ]]」などの創作作品や伝記でますます高められ、現在でも一般人のゴッホに対するイメージに影響を与えている。また客観的な写実性より内面の主観性を重んじて作品制作に当たったことから幻想的な世界観を描き出した作品も多く、[[幻想絵画]]の分類として捉える傾向もある。 |
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== 概要 == |
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[[フランス]]の[[パリ]]や[[アルル]]に居を構え、[[印象派]]や[[浮世絵]]の影響を受けた作品を描いた。[[ポスト印象派]]の代表的画家である。現在でこそ高く評価をされているが、生前に売れた絵はたった1枚『[[赤い葡萄畑]]』だった。人に贈った絵が、鶏小屋の穴を塞ぐのに使われていたこともあった(『医師フェリックス・レイの肖像』)。1890年に銃で自殺。彼を終生援助した弟[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]](通称テオ)にあてた書簡はのちに出版され、文学的に高く評価されている。 |
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[[フランス]]の[[パリ]]や[[アルル]]に居を構え、[[印象派]]や[[浮世絵]]の影響を受けた作品を描いた。[[ポスト印象派|後期印象派]]の代表的画家として現在でこそ高く評価されているが、生前に売れた絵はたった1枚『[[赤い葡萄畑]]』だった。人に贈った絵が、鶏小屋の穴を塞ぐのに使われていたこともあった(『医師フェリックス・レイの肖像』)。彼を終生援助した弟[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス]](通称テオ)にあてた書簡はのちに出版され、文学的に高く評価されているとともにゴッホの生涯を知る上で最も重要な資料とされている。 |
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== 生涯 == |
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[[ファイル:Vincent van Gogh 1866.jpg|thumb|150px|left|13歳(1866年)]] |
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*[[1853年]]、[[オランダ]]南部の[[ベルギー]]との国境に近い町[[ズンデルト]]に生まれた。祖父、父共に[[牧師]]だった。前年に生まれてすぐに死んだ兄と同じ名前を付けられた。幼い頃から性格は激しく、家族を含め、他人との交流に問題を抱えていた。 |
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*[[1869年]]から[[美術商]]として成功していた伯父の[[グーピル商会]]に勤め、熱心に働いた。 |
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*[[1872年]]からは兄弟の中で唯一気の合った弟の[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオドルス(テオ)]]と文通を始めた。この文通は何度か途切れるが、死に至るまで20年にわたって続けられた。商会の[[ロンドン]]や[[パリ]]の支店に勤めるが、[[失恋]]をきっかけに美術商への熱意を失う。 |
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*[[1876年]]に勤務態度があまりにも悪かったため、商会を退職させられる、[[牧師]]を目指し、貧しい人々のために献身的に活動を行う。 |
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*[[1879年]]にあまりにみすぼらしい有様が牧師らしくないと言われ、伝道師の仮免許を剥奪される。その後もしばらく[[炭坑]]で伝道の補助を行う。 |
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[[ファイル:VanGogh-self-portrait-with bandaged ear.jpg|thumb|210px|耳を切った後に描かれた自画像(1889年)。背後には、[[浮世絵]]が飾られている。[[コートールド・ギャラリー]]蔵]] |
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*[[1880年]]に画家となることを決心し、[[ブリュッセル]]で[[デッサン]]の勉強を始める。 |
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*[[1881年]]に実家に戻る。自宅に画室を作り、義理の従兄弟の画家[[アントン・モーヴ]]にも指導を受ける。 |
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*[[1885年]]に実家を離れ、[[アントウェルペン]]の美術学校で学ぶ。 |
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*[[1886年]]にパリに移住する。パリでは、[[フェルナン・コルモン]]の画塾で学び、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]や[[エミール・ベルナール]]等と知り合った。特にロートレックはゴッホの数少ない理解者であった。 |
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*[[1888年]]に、[[ポール・ゴーギャン]]と南フランスの[[アルル]]で共同生活をする(他に十数人の画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだった)。しかし不和となり、ゴーギャンに「[[自画像]]の耳の形がおかしい」と言われると、自分の左の[[耳たぶ]]を切り取り、女友達に送り付けるなど奇行を始め、[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の[[精神科]]病院に入院する(この事件に関して、かつてフェンシングを嗜んでいたゴーギャンが剣でゴッホの耳を切断した可能性があるという新説を、2009年にドイツ人の歴史家が唱えた<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200905/2009050600084 ゴッホの耳を切ったのは?=友人ゴーギャンか-英紙 【ロンドン5日時事】(2009/05/06-07:39) - 時事ドットコム ]2009年5月21日閲覧。また、MSN産経ニュース[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090506/erp0905060040000-n1.htm]</ref>)。 |
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*[[1890年]]7月27日に、パリ郊外の[[オーヴェル・シュル・オワーズ]]で[[猟銃]]([[リボルバー]]という説もある)の弾を腹部に受け、2日後に死亡した。37歳没。死ぬ前日には、テオに自分の芸術論等などを滔滔と話していたという。 |
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*弟テオは、ヴィンセントの死から数ヶ月後の1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院した後、1891年1月25日に病で死去する。 |
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== 概要 == |
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ゴッホは、早くから美術に関心を持っており、子供の頃から、画家になることを決めるまでにも、いくつもスケッチを描いている。油絵を始めたのは20代後半になってからであり、有名な作品の多くは最後の2年間に完成されたものである。約10年の間に、2100以上の作品――860の[[油絵]]と1300の水彩、スケッチ、版画――を制作した。その中には、[[自画像 (ゴッホ)|自画像]]、風景画、花の静物画、[[肖像画]]、[[糸杉]]・小麦畑・[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]などの絵がある。 |
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[[ファイル:Paul Gauguin 104.jpg|thumb|220px|[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]によるゴッホの肖像画<br />(1888年)]] |
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[[ファイル:Henri de Toulouse-Lautrec 056.jpg|thumb|170px|[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]によるゴッホの肖像画<br />(1887年)]] |
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ゴッホの初期作品は、[[ジャン・ミレー|ミレー]]の影響が強かったが、印象派と出会うことによりその資質が開花したといえる。当時のパリでは[[ジャポニスム]]が流行していたこともあり、浮世絵にも大きな影響を受けた。印象派の画家達の筆触が比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下るとともに筆触は長く伸び、うねり、のちの[[表現主義]]を予告するようなものになる。また新印象派が理論的だったのに対し、ゴッホは主観的・また[[象徴主義]]的である。強い輪郭線、色面による構成、デフォルメ等も、印象派とは異質のものである。彼は夜の街も描き、人間社会の憂鬱さや、神的な世界をもモチーフにした。 |
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ゴッホは、成人してしばらくの間、[[画商]]の店に勤め、[[ハーグ]]、[[ロンドン]]、[[パリ]]を転々とし、イギリスでしばらく教師を務めた。彼は[[牧師]]になりたいという希望を持ち、[[1879年]]から[[ベルギー]]の炭鉱街で伝道師として働くかたわら、土地の人々のスケッチをするようになった。[[1885年]]、最初の主要作品といえる「[[ジャガイモを食べる人々]]」を制作した。当時の彼の[[パレット (絵画)|パレット]]は、地味で暗い色調がほとんどであり、後年に見られる活き活きとした色使いは影を見せない。[[1886年]]3月、パリに移ってフランスの[[印象派]]と出会い、更にその後南フランスに移ってからは輝く日光に魅了され、彼の作品はどんどん明るさを増していった。そして[[1888年]]の[[アルル]]滞在において最もユニークなスタイルを確立した。 |
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== 日本での受容 == |
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ゴッホが日本において知られるようになったのは、[[1911年]]に[[武者小路実篤]]が文芸誌『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』において紹介したのが最初と言われる。[[1919年]]には[[山本顧彌太]]が『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』を購入し、日本に持ち込んでいる。戦後は劇作品で[[劇団民藝]]代表の[[滝沢修]]が、1951年から生涯にわたり公演した『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』([[三好十郎]]脚本)の影響も大きい。 |
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精神疾患が彼の絵に及ぼした影響については、死後、多くの推測がされてきた。彼の病気についてはロマンチックに美化して捉えられることが多いが、現代の評論家は、発作による活動停止に苦しめられる画家の姿を見出している。 |
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[[1996年]]、ゴッホの生涯を、単独の[[漫画]]で初めて紹介した『ゴッホ-太陽を愛した「ひまわり」の画家』([[小学館]]版学習まんが人物館)が発売された。 |
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== 手紙 == |
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=== ゴッホ作品の高騰 === |
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ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われるが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半([[1888年]]2月から[[1890年]]7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ない。 |
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[[1987年]]に[[安田火災海上]](現[[損保ジャパン]])は『ひまわり』を約58億円で落札し、話題を呼んだ。現在は、[[損保ジャパン東郷青児美術館]]が所蔵している。 |
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『[[医師ガシェの肖像]]』は、テオの未亡人ヨハンナによって、[[1898年]]頃にわずか300[[フラン (通貨)|フラン]]で売却されたと伝えられる作品である。[[1990年]][[5月15日]]に[[ニューヨーク]]の[[クリスティーズ]]での[[競売]]で、8,250万[[USドル|ドル]](当時のレートで約124億5,000万円)で[[齊藤了英]]に競り落とされ、日本人による高額落札として話題となった。[[2010年]]現在でも、ゴッホ作品の最高落札額である。 |
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近年では、[[2006年]]に『[[アルルの女(ジヌー夫人)]]』が4,033万ドルで落札されている。 |
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== 日本におけるゴッホの表記と発音 == |
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[[ファイル:Vincent Van Gogh Signature.svg|thumb|220px|ゴッホのサイン]] |
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*[[オランダ語]]での発音を[[日本語]]で表記するのは難しい。<small> [http://ja.forvo.com/word/vincent_van_gogh オランダ語の発音例]</small> |
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*オランダ語の「g」は、日本語では表記不可能な発音である。日本語で表記するなら「'''ホッホ'''」がより近い。 |
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*オランダ語の「v」は「f」に近く発音される。よって「フィンセント」と「ヴィンセント」及び「ファン」と「ヴァン」については共に前者が近い。 |
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*特に、「van」のvの前に無声音のtが立つため、「Vincent」のVよりも無声化する確率が高い。 |
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*そのため、「Vincent」を「ビンセント」「ヴィンセント」と有声音風にしておきながら「van」は「ファン」と表記されることもある。 |
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*[[ドイツ語]]の[[発音]]では、「'''フィンツェント・ファン・ゴッホ'''」と呼ばれる(「Goch」とも表記される場合がある)。 |
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*[[フランス語]]では「'''ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ'''」と発音する。 |
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*[[英語]]風の「'''ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ'''」という表記もしばしば見受けられる。 |
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== 映画 == |
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| caption1 = 1871-72年頃(18歳)のフィンセント。ハーグのグーピル商会の画廊で働いていた時の写真<ref name ="pick">Pickvance (1986: 129)。</ref><ref>Tralbaut (1981: 39)。</ref>。 |
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| caption2 = 1878年(21歳)の[[テオドルス・ファン・ゴッホ|テオ]]。兄フィンセントの支援者・理解者であった。兄とともに[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]に埋葬された。 |
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| caption2 = 弟のテオ(1878年、21歳) |
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画家としてのゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、弟で画商だった[[テオドルス・ファン・ゴッホ]](通称テオ)との間でやり取りされた手紙である<ref name="Pix">Pomerans (1996: ix)。</ref>。彼の考えや信念についての現在の理解は、これらの手紙を基礎に置いている<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghletters.org/vg/ |title=Van Gogh: The Letters |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2009-10-07}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/ |title=Van Gogh's letters, Unabridged and Annotated |accessdate=2009-06-25 }}</ref>。テオは、金銭的にも精神面でも兄を支え続けた。1872年から1890年にかけて、フィンセントからテオに宛てての手紙が600通以上、テオからフィンセント宛が40通残っており、2人の交流と、フィンセントの思想や芸術理論を知ることができる。 |
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*『[[ヴァン・ゴッホ (映画)|ヴァン・ゴッホ]]』 ''Van Gogh'' (1948) |
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*:監督:[[アラン・レネ]]。[[フランス]]の[[短編映画]]。日本では劇場未公開。 |
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*『[[炎の人ゴッホ]]』 ''Lust for Life'' (1955) |
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*:監督:[[ヴィンセント・ミネリ]]、出演:[[カーク・ダグラス]]。[[アメリカ映画]]。ゴッホの[[伝記映画]]の中では最も有名な作品で、「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という通俗的なゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。原作は[[アーヴィング・ストーン]]『炎の人ゴッホ』(新版・[[中公文庫]]) |
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*『[[ゴッホ (映画)|ゴッホ]]』 ''Vincent & Theo'' (1990) |
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*:監督:[[ロバート・アルトマン]]、出演:[[ティム・ロス]]。神話化されたゴッホの物語の[[脱構築]]を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は(他の作品に比べれば)感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。 |
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*『[[夢 (映画)|夢]]』 ''Dreams'' (1990) |
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*:監督:[[黒澤明]]。エピソードの1つに、ゴッホの絵画世界の中に入り込んでしまう夢話がある。ゴッホを演じたのは[[映画監督]]の[[マーティン・スコセッシ]]。「太陽が絵を描けと僕を脅迫する」という言葉はこの映画におけるセリフである。 |
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日付が付されていない手紙が多いが、歴史家の手により、概ね年代順に並べることができるようになっている。ただし、アルル時代のものは、オランダ語、フランス語、英語で200通もの手紙を友人に宛てて書いているが、時期の特定に問題が残っている<ref name="H143">Hughes (1990: 143)。</ref>。また、パリ時代はフィンセントとテオが同居していたため、手紙が残っておらず、様子を知ることが最も難しくなっている<ref>Pomerans (1996: i–xxvi)。</ref>。 |
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== 手紙 == |
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* [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]] 『ゴッホの手紙』 [[新潮社]]、[[角川文庫]]、(新版「全作品集20」、新潮社) [[読売文学賞]]受賞 |
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テオとの手紙のほかに残っている資料としては、{{仮リンク|アントン・ファン・ラッパルト|en|Anthon van Rappard}}、{{仮リンク|エミール・ベルナール|en|Émile Bernard}}、妹の{{仮リンク|ウィル・ファン・ゴッホ|en|Wil van Gogh}}とその友達Line Kruysseに宛てて書いた手紙がある<ref>Pomerans (1997: xiii)。</ref>。これらの手紙はテオの妻{{仮リンク|ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル|en|Johanna van Gogh-Bonger}}(通称ヨー)が[[1913年]]に注釈付きで公表したものだが、彼女はフィンセントの人生のドラマ性が作品への先入観を与えるのを望まないため、公表を迷ったと述べている。なお、フィンセント自身は他の画家の伝記を熱心に読み、人生とその人の芸術は一致していると考えていたという<ref name="Pix" />。 |
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* 二見史郎<ref>訳者二見史郎は、展覧会図録『アルルのファン・ゴッホ』と、『ファン・ゴッホとミレー』を編訳・解説し、集大成の著作『ファン・ゴッホ詳伝』を、2010年11月に公刊(各[[みすず書房]])。</ref>・[[粟津則雄]]ほか訳 『ファン・ゴッホ書簡全集 (全6巻)』 [[みすず書房]] 元版1970年、新版1984年 |
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* 二見史郎編訳/[[圀府寺司]]訳 『ファン・ゴッホの手紙』 みすず書房 2001年 |
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== 生涯 == |
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* [[硲伊之助]]訳 『ゴッホの手紙』 [[岩波文庫]]上中下-訳者は、[[アンリ・マティス]]の弟子で洋画・[[陶芸家]] |
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=== 前半生 === |
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*戦前から戦後にかけ、[[木村荘八]]や[[式場隆三郎]]が翻訳出版した。 |
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{| border="0" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |
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|<div style="position: relative">[[ファイル: 000 Hollanda harta.PNG|center|オランダの地図]] |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 国 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:170px;top:170px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:75px;top:320px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:95%;right:30px;top:280px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div> |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:140px;top:153px">'''[[アムステルダム]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:60px;top:40px">[[デルフゼイル]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:130px;top:65px">[[レーワルデン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:240px;top:63px">[[フローニンゲン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:250px;top:82px">[[アッセン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:207px;top:88px">[[デン・ヘルダー]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:220px;top:140px">[[ズヴォレ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:220px;top:140px">[[エイマイデン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:215px;top:153px">[[ハールレム]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:240px;top:180px">'''[[デン・ハーグ|ハーグ]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:150px;top:185px">[[ユトレヒト]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:205px;top:195px">[[アーネム]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:240px;top:210px">[[ロッテルダム港]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:110px;top:203px">[[ロッテルダム]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:120px;top:217px">[[ドルトレヒト]]</div> |
|||
<div style="position:absolute;font-size:80%;left:204px;top:213px">[[ナイメーヘン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:140px;top:235px">[[ティルブルフ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:160px;top:264px">[[アイントホーフェン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:60px;top:267px">[[テルネーゼン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:190px;top:322px">[[マーストリヒト]]</div> |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 海 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:110%;color:blue;left:10px; top:120px">''[[北海]]''</div> |
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<!-- ゴッホ関連事項--> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:210px;top:243px">'''[[エッテン=ラア|エッテン★]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:178px;top:250px">'''[[ヌエーネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|★ニュネン]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:208px;top:254px">'''[[ズンデルト|ズンデルト★]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;right:50px;top:105px">''[[ドレンテ州]]''</div> |
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</div> |
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|} |
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フィンセント・ファン・ゴッホは、[[1853年]]3月30日、[[オランダ]]南部の[[北ブラバント州]][[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]にほど近い[[ズンデルト]]の村で生まれた。ここは[[カトリック]]の影響が強い地域である<ref>{{Cite web |url=http://www.arthistoryarchive.com/arthistory/expressionism/Vincent-Van-Gogh.html |title=Vincent Van Gogh Biography, Quotes & Paintings |publisher= The Art History Archive |accessdate=2011-07-12}}</ref><ref>Pomerans (1997: 1)。</ref>。[[オランダ改革派]]の牧師であった父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス牧師)と、母アンナ・コルネリア・カルベントゥスとの間の長子であった。フィンセントという名は祖父の名前であり、また彼の1年前に[[死産]]だった兄に付けられた名前でもあった<ref group="注釈">死産の兄と同じ名前を付けられたことは、画家の青年期に深い影を落としたのではないかという指摘がされている。また男性2人組の肖像などにはこうした背景と結びつく要素があるとされている。Lubin (1972: 82-84)。</ref>。当時、同じ名前を付けるということは珍しいことではなかった。祖父フィンセント (1789-1874) には6人の息子があったが、うち3人は画商になり、そのうちの1人もフィンセントという名前であり、ゴッホの手紙の中で「セント叔父」と呼ばれる人物である。祖父フィンセント自身も、その大叔父で[[彫刻家]]だったフィンセント・ファン・ゴッホ (1729-1802) の名前をとって名付けられたと思われる<ref name = erickson9>Erickson (1998: 9)。</ref><ref>{{Cite web |author=Van Gogh-Bonger, Johanna. |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/memoir/sisterinlaw/1.html |title=Memoir of Vincent van Gogh |publisher=van Gogh's Letters |accessdate=2011-07-12}}</ref>。画家フィンセントの後には、妹アンナ(1855年)、弟テオ(1857年)、妹エリーザベト(1859年)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年)、弟コルネリス(通称コル、1867年)が生まれた<ref>Tralbaut (1981: 24)。</ref>。 |
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[[ファイル:Vincent van Gogh 1866.jpg|thumb|left|150px|1866年頃(13歳頃)のフィンセント。]] |
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少年時代、ゴッホは寡黙で思索にふける性格であった。[[1860年]]からズンデルト村の、1人のカトリックの教師が200人の生徒を教える学校に通った。[[1861年]]から1864年まで、妹アンナとともに[[ガヴァネス|家庭教師]]の指導を受け、[[1864年]]10月1日からは30km余り離れた[[ゼーフェンベルゲン]]のヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、この時家族のもとを離れるのが非常につらかったと、成人してから振り返っている。[[1866年]]9月15日、[[ティルブルフ]]に新しくできた国立中学、ウィレム2世校に進学した。パリで成功した画家Constantijn C. Huysmansがここでゴッホに絵を描くことを教えた。ゴッホの絵画への興味は早期から芽生え、子供の時から、画家となることを決意する以前にも多くの絵を描いていた。もっとも、初期の絵は表情豊かではあったが後年の激しさはまだ見られない<ref> Tralbaut (1981:25-35)、Hulsker (1984: 8-9)。</ref>。[[1868年]]3月、ゴッホは突然学校をやめ家に帰ってしまった。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で「僕の小さい時は暗く、冷たく、不毛だった」と書いている<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/14/347.htm |title=Letter 347: Vincent to Theo |date=1883-12-18 |publisher=van Gogh's Letters |accessdate=2011-07-12}}</ref>。 |
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[[1869年]]7月、セント叔父の助力で、[[ハーグ]]にある画商グーピル商会の徒弟となった。徒弟期間の後、[[1873年]]5月に彼は[[ロンドン]]支店に転勤となった<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/1/007.htm%20007 |title=Letter 7: Vincent to Theo |date=1873-05-05 |publisher=van Gogh's Letters |accessdate=2011-07-12 }}</ref>。仕事は順調で、20歳当時、彼の収入は父親を超えていた。ゴッホは単身赴任の為にブリクストン市のハックス・フォード沿いに借家を借りて生活を始めた<ref>Hackford Road. vauxhallsociety.org.uk. Retrieved 27 June 2009.</ref>。 |
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テオの妻ヨーは、この当時がゴッホの人生で一番幸せだった時だと述べている。ヨーによれば、ゴッホは下宿先の娘(ウージェニ・ロワイエ)に恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ゴッホの「20歳の恋」<ref group="注釈">ゴッホは、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いている。二見 (2010: 29)。</ref>の相手はハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある<ref>二見 (2010: 27-34)。</ref>。[[1875年]]5月、彼は[[パリ]]に転勤となったが、この頃から彼は美術品が単なる商品として扱われていることに不快感を持つようになっていた。翌[[1876年]]4月1日をもって、彼はグーピル商会から解雇された<ref>Tralbaut (1981: 35-47)。</ref>。 |
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=== 聖職者への志望 === |
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同年(1876年)4月、ゴッホはイギリスに戻り、[[ラムズゲート]]の港を見下ろす小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。そこでいくつかの風景画のスケッチをした。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外の{{仮リンク|アイルワース|en|Isleworth}}に移ることとなり、フィンセントはリッチモンドまで汽車で、その先アイルワースまでを徒歩で旅した<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/4/073.htm |title=Letter from Vincent van Gogh to Theo van Gogh |date=1876-08-18 |publisher=van Gogh's Letters |accessdate=2011-07-12}}</ref>。しかしこの学校で教師を続けることはできず、[[福音書]]を説いて回りたいという希望に従い、[[メソジスト]]の牧師の手伝いを始めた<ref>Tralbaut (1981: 47–56)。</ref>。その年のクリスマス、彼は{{仮リンク|エッテン=ラア|en|Etten-Leur|label=エッテン}}(ブレダ西郊の農村)に移っていた父の家<ref group="注釈">父は[[1875年]]10月、エッテンの教会の牧師となり、一家はそこに移り住んだ。二見 (2010: 36)。</ref>に帰省し、翌[[1876年]]1月から、[[南ホラント州]][[ドルトレヒト]]の書店で6箇月間働いた。しかしここでの仕事には満足できず、暇を見つけては[[聖書]]の章句を英語やフランス語やドイツ語に訳したりして過ごした<ref name=callow54>Callow (1990: 54)。</ref>。この時の下宿先の同居人で教師だったヘルリッツは、フィンセントの食事は質素で、肉を口にしなかったと語っている<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/5/etc-94a.htm |author= M. J. Brusse |date=1914-05-26 |title=Letter from M. J. Brusse to Nieuwe Rotterdamse Courant |publisher=van Gogh's letters |accessdate=2012-03-04 }}</ref>。 |
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ゴッホの宗教的情熱はますます燃え上がり、[[聖職者]]こそ自分の天職と考えるに至った。[[牧師]]になるという彼の希望を叶えようと、家族は[[1877年]]5月、ゴッホを[[アムステルダム]]に住む[[海軍中将]]のヤン・ファン・ゴッホ伯父のもとに[[神学]]の勉強のために送り出した<ref>McQuillan (1989: 26)。</ref><ref>Erickson (1998: 23)。</ref>。彼は、そこで伯父で名声のある神学者{{仮リンク|ヨハネス・ストリッケル|en|Johannes Stricker}}牧師と相談しながら、[[神学部]]の受験勉強を始めた。しかし、受験勉強には挫折し、[[1878年]]7月、ヤン伯父の家を出てエッテンの実家に戻った。今度は同年8月から[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]北郊[[ラーケン]]の[[プロテスタント]]系伝道師養成学校で3箇月間の試行期間を過ごしたが、正規課程への入学には至らなかった<ref>Hulsker (1990: 60–62, 73)。</ref>。 |
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[[ファイル:Cuesmes JPG001.jpg|thumb|left|1880年、ゴッホがクウェムで暮らした家。ここにいる時に彼は画家となることを決めた。]] |
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{| border="0" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |
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|<div style="position: relative">[[ファイル:Belgium üres.png|center|ベルギーの地図]] |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 国 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:160px;top:140px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:210px;top:020px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:030px;top:260px">'''{{LinkColor|grey|フランス}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:85%;left:271px;top:252px">'''{{LinkColor|grey|ルクセンブルク}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:95%;right:5px;top:98px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div> |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:163px;top:121px">'''[[ブリュッセル]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:070px;top:125px">[[コルトレイク]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:112px;top:104px">[[ヘント]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:071px;top:086px">[[ブルッヘ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:020px;top:055px">[[ゼーブルッヘ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:005px;top:069px">[[オーステンデ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:161px;top:078px">'''[[アントウェルペン]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:200px;top:104px">[[ハッセルト]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:137px;top:185px">[[シャルルロワ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:97px;top:180px">[[モンス]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:209px;top:179px">[[ナミュール]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:220px;top:230px">[[バストーニュ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:252px;top:150px">[[リエージュ]]</div> |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 海 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:110%;color:blue;left:5px; top:20px">''[[北海]]''</div> |
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<!-- ゴッホ関連事項--> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;left:70px;top:160px">''[[ボリナージュ地方]]''</div> |
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</div> |
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[[1878年]]12月、彼はベルギーの炭坑地帯、{{仮リンク|ボリナージュ|en|Borinage}}地方([[モンス]]近郊)に赴き、{{仮リンク|プティ=ヴァム|en|Petit Wasmes}}の村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。彼は貧しい坑夫らの生活に感化されて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった<ref>二見 (49-51)。</ref>。しかし教会の伝道委員会はこれを伝道師の威厳を損なうものとして否定した。[[1879年]]8月、彼はボリナージュ地方の{{仮リンク|クウェム|en|Cuesmes}}に移り住んだ。[[1880年]]3月頃、北フランスへの徒歩旅行に出た後、エッテンの実家に帰ったが、[[ヘール (ベルギー)|ヘール]]の精神病院に入れようとした父ドルス牧師との間で衝突し、クウェムに戻った<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/10/158.htm |title=Letter 158: Vincent to Theo |date=1881-11-18 |publisher=van Gogh's Letters |accessdate=2011-07-12}}</ref>。 |
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同年(1880年)7月から10月まで、クウェムの坑夫シャルル・ドゥクリュクのところに住んだ<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/8/134.htm |title=Letter 134 |date=1880-08-20 |publisher=van Gogh's Letters |accessdate=2012-03-04 }}</ref>。周りの人々や風景をスケッチしているうち、テオの助言もあり、ゴッホは本格的に絵を描くことを決意した。その年の秋、彼は絵を勉強しようとしてブリュッセルに行き、11月15日に{{仮リンク|ブリュッセル王立美術アカデミー|en|Académie Royale des Beaux-Arts}}に登録した。王立美術アカデミーでは、[[解剖学]]、[[陰影画法]]、[[透視図法]]について学んだ。 |
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=== エッテン(1881年) === |
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[[ファイル:Kee Vos met zoon Jan.jpg|thumb|left|upright|ケイ・フォス・ストリッケルとその息子(1879年-80年頃)。]] |
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[[1881年]]4月、ゴッホはエッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を書き続けた<ref>二見 (2010: 61-62)。</ref>。夏の間、最近夫を亡くした[[いとこ]]のケイ・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れ、彼はケイと連れ立って散歩したりするうちに彼女に好意を持つようになった<ref name=erickson5>Erickson (1998: 5)。</ref>。ケイは、8歳の息子を持つ、ゴッホよりも7歳年上の女性であった。ゴッホはケイに結婚を申し込んだが、彼女は「とんでもない、だめ、絶対に」という言葉で拒絶した<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/10/153.htm |title=Letter 153: Vincent to Theo |date=1881-11-03 |accessdate=2012-03-07}}</ref><ref name= "Letter 179">{{Cite web|title= Letter 179: To Theo van Gogh. Etten |date=1881-11-03 |url= http://vangoghletters.org/vg/letters/let179/letter.html|work=Vincent van Gogh: The Letters |publisher=Van Gogh Museum|at= Note 1|quote= ..."no, nay, never"...|accessdate=2012-03-07 }}</ref>。11月下旬、ゴッホはストリッケル牧師に強い調子の手紙を出した後<ref>{{Cite web|url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/10/161.htm |title=Letter 161: Vincent to Theo |date=1881-11-23 |accessdate=2012-03-07 }}</ref>、[[アムステルダム]]まで赴き、ストリッケル牧師のもとを何度も訪ねたが<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/10/164.htm |title=Letter 164: Vincent to Theo, from Etten |date=1881-12-21 |accessdate=2012-03-07 }}</ref>、ケイからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと手紙で非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください」と迫ったが<ref name = "Letter193">{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/11/193.htm |title=Letter 193: from Vincent to Theo, The Hague |date=1882-05-14 |accessdate=2012-06-23}}</ref>、ストリッケル牧師は、稼ぎのないゴッホにケイと結婚することはできないと伝えた<ref name = Gayford130>Gayford (2006: 130–31)。</ref>。伯父で師でもあったストリッケル牧師の頑迷な態度は彼に衝撃を与え、[[教会]]への疑念を持つことになった<ref>Pomerans (1997: 112)。</ref>。その年のクリスマス、エッテンの実家に帰っていた時、彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに[[ハーグ]]へ発ってしまった<ref>{{Cite web |url=http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/11/166.htm |title=Letter 166: Vincent to Theo |date=1881-12-29 |accessdate=2012-03-08}}</ref><ref name= "Letter 194">{{cite web|title= Letter 194: To Theo van Gogh.|date=1881-12-29|url= http://vangoghletters.org/vg/letters/let194/letter.html|work=Vincent van Gogh: The Letters|publisher=Van Gogh Museum|at= Note 2|accessdate=2012-03-08 }}</ref>。 |
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=== ハーグ(1882年-1883年) === |
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[[ファイル:Vincent van Gogh - Sorrow.jpg|thumb|right|130px|シーンをモデルとした「悲しみ」1882年4月、ハーグ。黒チョーク、44.5×27cm。Garman Ryan Collection([[ロンドン]])。]] |
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[[ファイル:Vincent Willem van Gogh 016.jpg|thumb|left|200px| 「屋根、ハーグのアトリエからの眺め」1882年、水彩。個人コレクション。]] |
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[[1882年]]1月、彼は[[デン・ハーグ|ハーグ]]に住み始め、義理のいとこ{{仮リンク|アントン・モーヴ|en|Anton Mauve}}を頼った。モーヴはオランダ・リアリズムの画家で、ハーグ派の担い手であった。モーヴはゴッホに油彩画、水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸したりもしたが<ref>{{cite web|url=http://vangoghletters.org/vg/letters/let196/letter.html |title=Letter 196 |work=Vincent van Gogh. The Letters |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2012-04-22}}</ref>、間もなく2人の関係は悪化した。モーヴは1月末頃に急にゴッホに対して冷たくなり、素描は石膏像でやらなくてはいけないなどと言ってゴッホを怒らせた。ゴッホが手紙を書いても返事が来なくなった<ref>二見 (2010: 72-73)。</ref>。ゴッホは、この頃、シーン(クラシーナ・マリア・ホールニク)というアルコール中毒の[[娼婦]]を家に入れ、彼女をモデルに絵を描いていたことから、モーヴの態度が変わったのはこのことを知ったからだろうとゴッホ自身は推測している<ref>{{cite web|url=http://www.vangoghletters.org/vg/letters/let224/letter.html |title=Letter 224 |work=Vincent van Gogh. The Letters |publisher=Van Gogh Museum |accessdate=2012-04-22}}</ref>。ゴッホがシーンと出会った時、シーンは5歳の娘を連れていた上、妊娠していた<ref name="Tralbaut 1981, 107">Tralbaut (1981: 107)。</ref>。 |
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一方、同年(1882年)3月、コル叔父がゴッホのもとを訪れた。コル叔父から街の風景の素描を12点注文され、ゴッホはハーグ市街を描き続けた<ref>二見 (2010:70-71)。</ref>。もっとも、コル叔父に送った素描に対してはゴッホが期待したほどの代金は送られてこず、また良い評価もされなかった<ref>二見 (2010: 75)。</ref>。ゴッホは、同年6月、[[淋病]]で3週間入院した<ref>{{Cite web |url= http://www.webexhibits.org/vangogh/letter/11/206.htm |title=Letter 206 |year=1882 |month=06 |publisher=van Gogh's Letters |accessdate=2012-04-22 }}</ref>。退院直後の7月始め、ゴッホは今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、男の子を出産したばかりのシーンとその子供が住み込んだ<ref>二見 (2010: 77-78)。</ref>。夏の間、油彩を描き始めた<ref>Tralbaut (1981: 110)。</ref>。 |
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[[1883年]]9月、ゴッホは経済的苦境もあってハーグを去ることを決意し、シーンを置いてオランダ北部の[[ドレンテ州]][[ホーヘフェーン]]へ発った。また10月からはドレンテ州{{仮リンク|ニーウ・アムステルダム|en|Nieuw-Amsterdam, Drenthe}}の泥炭地帯を旅した<ref>二見 (2010: 89-92)。</ref>。 |
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=== ニュネン(1883年末-1885年) === |
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[[ファイル: Van-willem-vincent-gogh-die-kartoffelesser-03850.jpg|thumb|right|240px|「[[ジャガイモを食べる人々]]」1885年4月、ニュネン。油彩、キャンバス、81.5×114.5cm。[[ゴッホ美術館]]。最初の本格的作品と言われる。]] |
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1883年12月5日、ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ[[北ブラバント州]][[ヌエーネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニュネン]]の農村([[アイントホーフェン]]の東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父といったん口論になったものの、話合いを経て、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、[[1884年]]1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した<ref>二見 (2010: 95-97)。</ref>。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古い[[オーク]]の[[織機]]や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた<ref>二見 (2010: 98-100)。</ref>。しかし、[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]や[[クロード・モネ|モネ]]など明るい[[印象派]]の作品に関心を注ぐテオと、[[バルビゾン派]]を師として暗い色調の絵を描くフィンセントの間には意見の対立が生じた<ref>二見 (2010: 100, 104)。</ref>。 |
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1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットは[[ストリキニーネ]]を飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こした<ref name="Tralbaut 1981, 107"/><ref>二見 (2010: 100-01)。</ref>。[[1885年]]3月26日、ゴッホの父が心臓発作で世を去った<ref>Tralbaut (1981: 154)。</ref>。 |
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[[ファイル:Van Gogh - Stillleben mit Bibel.jpeg|thumb|left|240px|「開かれた聖書の静物画」1885年10月、ニュネン。油彩、キャンバス、65×78cm。ゴッホ美術館。]] |
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1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「[[ジャガイモを食べる人々]]」を完成させた<ref>McQuillan, 127</ref>。しかし、同年5月、[[ユトレヒト]]の友人ラッパルトからは、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受け、2人の関係は断絶に至る<ref>二見 (2010: 110-11)。</ref>。夏の間、ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、[[ミソサザイ]]の巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いた[[エミール・ゾラ]]の小説『[[ジェルミナール (小説)|ジェルミナール]]』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する<ref>二見 (2010: 111-12)。</ref>。一方、「ジャガイモを食べる人々」のモデルになった女性が9月に妊娠した件について、ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた<ref>{{Cite web |url=http://www.vangoghaventure.com/english/chrono/degroot.html |title=Vincent Van Gogh and Gordina de Groot|publisher=VanGochAdventure.com |accessdate=2012-06-23}}</ref><ref>二見 (2010: 113)。</ref>。 |
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同年(1885年)10月、ゴッホは首都[[アムステルダム]]の[[アムステルダム国立美術館|国立美術館]]を訪れ、[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]、[[フランス・ハルス]]、ライズダールなどの17世紀オランダの大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の[[聖書]]と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った<ref>二見 (2010: 113-14)。</ref>。 |
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=== アントウェルペン(1885年末-1886年初頭) === |
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1885年11月、ゴッホはベルギーの[[アントウェルペン]]へ移り、リュ・デ・ジマージュ通りに面した絵具屋の2階の小さな部屋を借りた<ref>二見 (2010: 117)。</ref>。[[1886年]]1月から、[[アントウェルペン王立芸術学院]]で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。また、美術館やカテドラルを訪れ、特に[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]の絵に関心を持った。さらに、[[エドモン・ド・ゴンクール]]の小説『シェリ』を読んでその[[ジャポネズリー]](日本趣味)に魅了され、多くの[[浮世絵]]を買い求めて部屋の壁に貼った<ref>二見 (2010: 118-20)。</ref>。 |
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金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を[[画材]]とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した<ref name=callow184>Callow (1990: 184)。</ref><ref>二見 (2010: 120, 122)。</ref>。また、この頃から、[[アブサン]]を飲むようになった<ref name=callow253>Callow (1990: 253)。</ref>。 |
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=== パリ(1886年-1888年) === |
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| image1= Van Gogh - Gipstorso (weiblich).jpeg | width1= 120 | caption1 =石膏彫刻の女性トルソー。1886年春、パリ。油彩、ボール紙、41×32.5cm。[[ゴッホ美術館]]。 |
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| image2= Van Gogh - Montmartre bei der oberen Mühle.jpeg |width2=140 |caption2=「[[モンマルトル]]」1886年秋、パリ。油彩、キャンバス、44×33.5cm。[[シカゴ美術館]]。 |
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| image3= Van Gogh - Le Moulin de la Galette3.jpeg |width3=200 |caption3=「[[ムーラン・ド・ラ・ギャレット]]」1886年秋、パリ。油彩、キャンバス、38.5×46cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]。 |
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[[1886年]]2月末、ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会を承継)の支店を任されているテオを頼って、夜行列車で[[パリ]]に向かい、[[モンマルトル]]の弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはリュ・ルピック通りのアパルトマンに2人で転居した<ref>二見 (2010: 123)。</ref>。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ゴッホの生活について分かっていないことが多い<ref>Tralbaut (1981: 187-91)。</ref>。モンマルトルの[[フェルナン・コルモン]]の画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性[[トルソー]]の素描や、子供の裸像、男性モデルの裸像などを残している。ここで彼は、[[ルイ・アンクタン]]、[[ジョン・ラッセル (画家)|ジョン・ラッセル]]、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]、[[エミール・ベルナール]]といった若い生徒と知り合った<ref>二見 (2010: 124-25)。</ref>。 |
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1886年当時のパリでは、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]、[[クロード・モネ]]、[[カミーユ・ピサロ]]といった今までの[[印象派]]画家とは異なり、[[純色]]の微細な色点を敷き詰めて表現する[[ジョルジュ・スーラ]]、[[ポール・シニャック]]といった[[新印象派]]・分割主義と呼ばれる一派が台頭しており、この年、印象派絵画展が第8回をもって終了した<ref>二見 (2010: 125-26)。</ref>。ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。若い画家が集まる交流の場となっていたジュリアン・タンギー([[タンギー爺さん]])の店で絵具を買っていた<ref>二見 (2010: 126, 130-31)。</ref>。また、画商ドラルベレットのところで{{仮リンク|アドルフ・モンティセリ|en|Adolphe Joseph Thomas Monticelli}}の絵を見てから、この画家に傾倒するようになった<ref>二見 (2010: 126)。</ref>。 |
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| image1= Van Gogh - la courtisane.jpg | width1= 120 | caption1 =「おいらん([[渓斎英泉|栄泉]]を模して)」1887年、パリ。ゴッホ美術館。 |
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| image2= Van Gogh the blooming plumtree (after Hiroshige), 1887.jpg | width2= 160 | caption2 = 「ジャポネズリー:梅の開花([[歌川広重|広重]]を模して)」1887年9月-10月、パリ。油彩、キャンパス、55×46cm。ゴッホ美術館。 |
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| image3 = Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG | width3 = 160 | caption3=「[[タンギー爺さん]]」1887年、パリ。[[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]]。 |
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[[ファイル: Henri de Toulouse-Lautrec 056.jpg|thumb|right|180px|[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|トゥールーズ=ロートレック]]が描いたゴッホの肖像(1887年)。]] |
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ゴッホは、リュ・ドゥ・プロヴァンスの通りにある[[サミュエル・ビング]]の店で多くの日本版画を買い集め、[[1887年]]3月にはレストラン・タンブランの店の壁を利用して日本版画展を開いた<ref>二見 (2010: 131-32)。</ref>。1887年に描いた「[[タンギー爺さん]]」の肖像画の背景にはいくつかの浮世絵が貼られている。また、「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号の表紙を飾った[[渓斎英泉]]の「雲龍打掛の花魁」(左右反転して複製されたもの)のほか、[[歌川広重]]の[[名所江戸百景]]「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している<ref>二見 (2010: 140-41)。</ref>。 |
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同年(1887年)11月、ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した<ref>二見 (2010: 133-34)。</ref>。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べている<ref>Hulsker (1990: 256)。</ref>。同月、[[ポール・ゴーギャン]]が[[カリブ海]]の[[マルティニーク]]からフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる<ref>二見 (2010: 142)。</ref>。 |
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=== アルル(1888年-1889年) === |
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{| border="0" align="right" cellpadding="0" cellspacing="0" style="margin: 0 0 0 0; background: #f9f9f9; border: 0px #aaaaaa solid; border-collapse: collapse; font-size: 090%;" |
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|<div style="position: relative">[[ファイル:000 Franca harta.PNG|center|フランスの地図]] |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 国 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:100%;left:135px;top:161px">'''{{LinkColor|grey|フランス}}'''</div> |
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<div style="position: absolute;font-size:80%;left:075px;top:010px">'''{{LinkColor|grey|イギリス}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;left:197px;top:013px">'''{{LinkColor|grey|オランダ}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:013px;top:040px">'''{{LinkColor|grey|ドイツ}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;left:185px;top:050px">'''{{LinkColor|grey|ベルギー}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:70%;left:240px;top:066px">'''{{LinkColor|grey|ルクセンブルク}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:70%;right:0px;top:125px">'''{{LinkColor|grey|オーストリア}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:260px;top:158px">'''{{LinkColor|grey|スイス}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:277px;top:210px">'''{{LinkColor|grey|イタリア}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:272px;top:254px">'''{{LinkColor|grey|モナコ}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:015px;top:295px">'''{{LinkColor|grey|スペイン}}'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:110px;top:310px">'''{{LinkColor|grey|アンドラ}}'''</div> |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 都市 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:168px;top:106px">'''[[パリ]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:173px;top:044px">[[ダンケルク]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:160px;top:057px">[[リール (フランス)|リール]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:089px;top:082px">[[シェルブール]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:140px;top:091px">[[ルーアン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:235px;top:105px">[[ナンシー]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:30px;top:115px">[[ブレスト (フランス)|ブレスト]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:076px;top:122px">[[ストラスブール]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:155px;top:134px">[[オルレアン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:218px;top:151px">[[ディジョン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:86px;top:152px">[[ナント]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:142px;top:195px">[[リモージュ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:216px;top:196px">[[リヨン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:103px;top:211px">[[グルノーブル]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:103px;top:224px">[[ボルドー]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:120px;top:221px">[[ヴァランス]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:068px;top:253px">[[ニース]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:90px;top:267px">[[トゥールーズ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:240px;top:281px">[[トゥーロン]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:100px;top:275px">[[マルセイユ]]</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:176px;top:288px">[[ペルピニャン]]</div> |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 海 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;left:55px;top:065px">''[[イギリス海峡]]''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;right:253px;top:240px">''[[ビスケー湾]]''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:90%;left:190px;top:320px">''[[地中海]]''</div> |
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<!-- --------------------------------------------------------------------------------- 島 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;right:0px;top:300px">''[[コルシカ島]]''</div> |
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<!-- ゴッホ関連地名 --> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:200px;top:262px">'''[[アルル|★アルル]]'''</div> |
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<div style="position:absolute;font-size:80%;left:33px;top:133px">[[ポン=タヴェン|★ポン=タヴェン]]</div> |
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</div> |
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==== ゴーギャン到着まで ==== |
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ゴッホは、[[1888年]]2月、テオのアパルトマンを去って南フランスの[[アルル]]に到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった<ref>二見 (2010: 142-43)。</ref>。当時、彼は飲酒と喫煙で体を壊しており、静養を求めていた<ref name="H143" />。ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。[[エドガー・ドガ]]、モネ、ルノワール、[[アルフレッド・シスレー]]、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そして[[アルマン・ギヨマン]]、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった<ref>二見 (2010: 144)。</ref>。 |
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[[ファイル: Van Gogh -Die Brücke von Langlois in Arles mit Wäscherinnen.jpeg|thumb|left|「[[アルルの跳ね橋]]」1888年3月、アルル。油彩、キャンバス、54×65cm。[[クレラー・ミュラー美術館]]。]] |
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ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため[[日本]]みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の[[運河]]にかかるラングロワ橋を描き(「[[アルルの跳ね橋]]」)、3月下旬から4月にかけては[[アンズ]]や[[モモ]]、[[リンゴ]]、[[プラム]]、[[梨]]と、花の季節の移ろいに合わせて[[果樹園]]を次々に描いた<ref>二見 (2010: 145-47)。</ref>。 |
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同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、後に「[[黄色い家]]」として知られる2階建ての建物の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの[[家具]]がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。[[ポン=タヴェン]]にいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている<ref>二見 (2010: 149-51)。</ref>。5月30日頃、[[地中海]]に面した[[サント=マリー=ド=ラ=メール]]の海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動する<ref>二見 (2010: 152)。</ref>。6月には炎天下、蚊や[[ミストラル]](北風)と戦いながら、毎日のように外に出て[[クロー平野]]の麦畑や、[[修道院]]の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはアルジェリア植民地兵である[[ズアーブ兵]]をモデルにした絵を描いた<ref>二見 (2010: 155, 157, 160)。</ref>。7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、[[ピエール・ロティ]]の『お菊さん』を読んで知った日本語を使って「{{仮リンク|ラ・ムスメ|en|La Mousmé}}」という題を付けた<ref>二見 (2010: 162, 164)。</ref>。同月、[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン|郵便夫ジョゼフ・ルーラン]]の肖像を描いた<ref>二見 (2010: 165)。</ref>。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、「[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]」を4作続けて制作した<ref>二見 (2010: 166-67)。</ref>。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた「[[夜のカフェ]]」を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす[[居酒屋]]であり、ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている<ref>二見 (2010: 170-71)。</ref>。 |
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一方、ポン=タヴェンにいるゴーギャンからは、ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた<ref>二見 (2010: 165)。</ref>。ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に「[[夜のカフェテラス]]」を描き上げた<ref>二見 (2010: 173-75)。</ref>。9月下旬、「[[黄色い家]]」を描いた<ref>二見 (2010: 178)。</ref>。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(「[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]」)<ref>二見 (2010: 182-83)。</ref>。 |
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ファイル: Vincent Willem van Gogh 128.jpg |「[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]」1888年8月、アルル。[[ノイエ・ピナコテーク]]([[ミュンヘン]])。 |
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ファイル: Vincent Willem van Gogh 076.jpg |「[[夜のカフェ]]」1888年9月、アルル。[[イェール大学]]美術館([[アメリカ合衆国|米]][[コネチカット州]])。 |
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ファイル: Gogh4.jpg |「[[夜のカフェテラス]]」1888年9月、アルル。[[クレラー・ミュラー美術館]]。 |
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ファイル: Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg |「[[黄色い家]]」1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72×91.5cm。ゴッホ美術館。 |
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ファイル: VanGogh Bedroom Arles1.jpg |「[[ファンゴッホの寝室|アルルの寝室]]」1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72×90cm。ゴッホ美術館。 |
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</gallery> |
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==== ゴーギャンとの共同生活 ==== |
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| image1= Paul Gauguin 104.jpg |width1=150 |caption1=ゴーギャンによる、ひまわりを描くゴッホの肖像(1888年)。ゴッホ美術館。 |
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| image2= Gauguin Misères humaines.jpg |width2=150 |caption2=ゴーギャンによる「ぶどうの収穫――人間の悲哀」1888年11月、アルル。 |
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| image3= Red vineyards.jpg |width3=150 |caption3=ゴッホによる「[[赤い葡萄畑]]」1888年11月、アルル。油彩、75 cm × 93 cm。[[プーシキン美術館]]([[モスクワ]])。 |
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同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった<ref>二見 (2010: 185)。</ref>。2人は、街の南東のはずれにある{{仮リンク|レ・ザリスカン|en|Les Alyscamps}}の散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ゴッホの「[[赤い葡萄畑]]」)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリをモデルに絵を描いた(ゴッホの「[[アルルの女 (ジヌー夫人)|アルルの女]]」)<ref>二見 (2010: 187-89)。</ref>。ゴーギャンはゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた<ref>二見 (2010: 190)。</ref>。しかし、ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている<ref>二見 (2010: 192)。</ref>。11月下旬、ゴッホは2点の「種まく人」を描いた<ref>二見 (2010: 190-91)。</ref>。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている<ref>二見 (2010: 193)。</ref>。 |
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一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン〔ゴッホ〕と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている<ref>二見 (2010: 192)。</ref>。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている<ref>二見 (2010: 194)。</ref>。12月中旬(16日頃)、2人は汽車でアルルから西へ70キロの[[モンペリエ]]に行き、[[ファーブル美術館]]を訪れた。ゴッホは特に[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]の作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワや[[レンブラント・ファン・レイン]]について熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた<ref>二見 (2010: 194-97)。</ref>。 |
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同年12月23日、ゴッホが自らの[[耳たぶ]]を切り落とす事件が発生した<ref group="注釈">耳の付け根からではなく、下部の耳たぶを切断した。二見 (2010: 336)。</ref>。12月30日の地方紙「ル・フォロム・レピュブリカン」は、「先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼家1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、『この品を大事に取っておいてくれ』と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。」と報じている。ゴッホ自身はこの事件について記憶にないようであり、何も語っていない<ref>二見 (2010: 198)。</ref><ref group="注釈">パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、ゴーギャンから伝え聞いた話として、1889年1月1日[[消印]]の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。「アルルを去る前の晩、私〔ゴーギャン〕の後をヴァンサン〔ゴッホ〕が追いかけてきた。私は振り向いた。時々彼が変な振舞いをするので警戒したのだ。すると彼は言った。『あなたは無口になった。僕も静かにするよ。』。私はホテルへ寝に行き、帰宅した時、家の前にはアルル中の人が押しかけていた。その時警官たちが私を[[逮捕]]した。家の中が血まみれになっていたからだ。事の次第はこうだ――私が立ち去った後、彼は家に戻り、[[剃刀]]で耳を切り落とした。それから大きな[[ベレー帽]]をかぶって、娼家へ行き、遊女の一人に耳を渡して言った。『真心から君に言うが、君は僕を忘れないでくれるね。』」。一方、その10年あまり後に晩年のゴーギャンが書いた『前後録』の中では、ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手にして突進してきた話が付け加えられている。二見 (2010: 199-200)。</ref>。翌日の12月24日、ゴーギャンはテオを電報でアルルに呼び寄せた上で、パリに帰った<ref>二見 (2010: 199)。</ref>。 |
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==== アルル市立病院 ==== |
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| align =right |
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| image1= Van Gogh - Selbstbildnis mit verbundenem Ohr und Pfeife.jpeg |width1=150 |caption1=「[[包帯をしてパイプをくわえた自画像]]」1889年1月、アルル。油彩、キャンバス、51×45cm。 |
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| image2= Van Gogh - Bildnis Doktor Félix Rey.jpeg |width2=150 |caption2=レー医師の肖像。1889年1月、アルル。油彩、キャンバス、64×53 cm。プーシキン美術館。 |
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}} |
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ゴッホは、アルル市立病院に収容された。兄を病院に見舞ってパリに戻ったテオは、[[婚約]]を決めたばかりの相手ヨー(ヨハンナ・ボンゲル)に対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに[[哲学]]や[[神学]]をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している<ref>二見 (2010: 201)。</ref>。担当医(インターン)のフェリクス・レーのほか、郵便夫ルーラン、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・サルがゴッホの面倒を見てくれ、テオに兄の病状を書き送っている。容態は改善に向かい、ゴッホは[[1889年]]1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月7日退院して「黄色い家」に戻った<ref>二見 (2010: 202-06)。</ref>。 |
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[[ファイル: Van Gogh - Garten des Hospitals in Arles1.jpeg|thumb|left|アルルの病院の中庭。1889年4月、アルル。油彩、キャンバス、73×92cm。オスカー・ラインハルト・コレクション([[ヴィンタートゥール]])。]] |
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退院したゴッホは、レー医師の肖像や、耳に[[包帯]]をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた「[[ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女]]」も完成させた<ref>二見 (207-10)。</ref>。ゴッホは、耐えられない[[幻覚]]はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたとテオに書いている。しかし、2月7日、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、近所の人が警察に対応を求めたことから、病院に収容された<ref>二見 (2010: 211-13)。</ref>。2月17日に仮退院したが、住民29名から市長に、オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えているとして、家族が引き取るか[[精神病院]]に収容するよう要請するという請願書が提出され、2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された<ref>二見 (2010: 214-15)。</ref>。 |
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*[[1888年]]に、ポール・ゴーギャンと南フランスの[[アルル]]で共同生活をする(他に十数人の画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだった)。しかし不和となり、ゴーギャンに「[[自画像]]の耳の形がおかしい」と言われると、自分の左の[[耳たぶ]]を切り取り、女友達に送り付けるなど奇行を始め、[[サン=レミ=ド=プロヴァンス]]の[[精神科]]病院に入院する(この事件に関して、かつてフェンシングを嗜んでいたゴーギャンが剣でゴッホの耳を切断した可能性があるという新説を、2009年にドイツ人の歴史家が唱えた<ref>[http://www.jiji.com/jc/zc?k=200905/2009050600084 ゴッホの耳を切ったのは?=友人ゴーギャンか-英紙 【ロンドン5日時事】(2009/05/06-07:39) - 時事ドットコム ]2009年5月21日閲覧。また、MSN産経ニュース[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/090506/erp0905060040000-n1.htm]</ref>)。 |
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*[[1890年]]7月27日に、パリ郊外の[[オーヴェル・シュル・オワーズ]]で[[猟銃]]([[リボルバー]]という説もある)の弾を腹部に受け、2日後に死亡した。37歳没。死ぬ前日には、テオに自分の芸術論等などを滔滔と話していたという。 |
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*弟テオは、ヴィンセントの死から数ヶ月後の1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院した後、1891年1月25日に病で死去する。 |
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== 作品 == |
== 作品 == |
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{{Commons|Van Gogh works by date|ゴッホの年代順作品一覧}} |
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{{Main|フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧|Category:フィンセント・ファン・ゴッホの作品}} |
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{{Main|フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧}} |
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<!---制作年順---> |
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ゴッホの初期作品は、[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の影響が強かったが、印象派と出会うことによりその資質が開花したといえる。当時のパリでは[[ジャポニスム]]が流行していたこともあり、浮世絵にも大きな影響を受けた。印象派の画家達の筆触が比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下るとともに筆触は長く伸び、うねり、のちの[[表現主義]]を予告するようなものになる。また新印象派が理論的だったのに対し、ゴッホは主観的・また[[象徴主義]]的である。強い輪郭線、色面による構成、デフォルメ等も、印象派とは異質のものである。彼は夜の街も描き、人間社会の憂鬱さや、神的な世界をもモチーフにした。 |
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画像:Van-willem-vincent-gogh-die-kartoffelesser-03850.jpg|[[ジャガイモを食べる人々]]([[1885年|1885]])[[ゴッホ美術館]] |
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画像:Moulin de la galette.jpg|[[ムーラン・ド・ラ・ギャレット (ゴッホの絵画)|ムーラン・ド・ラ・ギャレット]]([[1886年|1886]]) |
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画像:Vincent Willem van Gogh 020.jpg|[[アニエールのレストラン・ド・ラ・シレーヌ]]([[1887年|1887]])[[オルセー美術館]] |
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画像:Van Gogh - Das gelbe Haus (Vincents Haus)2.jpeg|[[黄色い家]]([[1888年|1888]])[[ゴッホ美術館]] |
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画像:Gogh4.jpg|[[夜のカフェテラス]]([[1888年|1888]])[[クレラー・ミュラー美術館]] |
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画像:Vincent Willem van Gogh 076.jpg|[[夜のカフェ]]([[1888年|1888]])[[コネチカット]]・[[イェール大学]]美術館 |
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画像:Vincent Willem van Gogh 128.jpg|[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]([[1888年|1888]])[[ノイエ・ピナコテーク]] |
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画像:Van_Gogh_Vase_with_Fifteen_Sunflowers.jpg|[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]([[1888年|1888]])[[損保ジャパン東郷青児美術館]] |
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画像:The Sower.jpg|[[種まく人]]([[1888年|1888]])[[クレラー・ミュラー美術館]]、<small>[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の作品の模写といわれている</small> |
画像:The Sower.jpg|[[種まく人]]([[1888年|1888]])[[クレラー・ミュラー美術館]]、<small>[[ジャン=フランソワ・ミレー|ミレー]]の作品の模写といわれている</small> |
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画像:VanGogh-starry_night.jpg|[[星月夜]]([[1889年|1889]])[[ニューヨーク近代美術館]] |
画像:VanGogh-starry_night.jpg|[[星月夜]]([[1889年|1889]])[[ニューヨーク近代美術館]] |
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画像:Whitehousenight.jpg|[[夜の白い家]]([[1890年|1890]])[[エルミタージュ美術館]] |
画像:Whitehousenight.jpg|[[夜の白い家]]([[1890年|1890]])[[エルミタージュ美術館]] |
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画像:Vincent_van_Gogh_(1853-1890)_-_Wheat_Field_with_Crows_(1890).jpg|[[カラスのいる麦畑]]([[1890年|1890]])[[ゴッホ美術館]] |
画像:Vincent_van_Gogh_(1853-1890)_-_Wheat_Field_with_Crows_(1890).jpg|[[カラスのいる麦畑]]([[1890年|1890]])[[ゴッホ美術館]] |
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画像:Van Gogh - la courtisane.jpg|日本趣味・花魁(渓斉英泉による) ([[1887年|1887]])[[ゴッホ美術館]] |
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画像:Hiroshige_Van_Gogh_1.JPG|日本趣味・花咲く梅の木(広重による)([[1887年|1887]])[[ゴッホ美術館]]、<small>左は[[歌川広重]]作 名所江戸百景 亀戸梅屋舗</small> |
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画像:Hiroshige_Van_Gogh_2.JPG|日本趣味・雨の大橋(広重による)([[1887年|1887]])[[ゴッホ美術館]]、<small>左は[[歌川広重]]作 名所江戸百景 雨の大橋</small> |
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== 肖像画 == |
=== 肖像画 === |
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画像:Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG|[[タンギー爺さん]]([[1887年|1887]])[[ロダン美術館 (パリ)|ロダン美術館]] |
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画像:Vincent Willem van Gogh 086.jpg|[[パシアンス・エスカリエの肖像]]([[1888年|1888]]) |
画像:Vincent Willem van Gogh 086.jpg|[[パシアンス・エスカリエの肖像]]([[1888年|1888]]) |
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画像:Vincent Willem van Gogh 089.jpg|[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン]]([[1888年|1888]])[[ボストン美術館]] |
画像:Vincent Willem van Gogh 089.jpg|[[郵便配達人ジョゼフ・ルーラン]]([[1888年|1888]])[[ボストン美術館]] |
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== 自画像 == |
=== 自画像 === |
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{{Main|自画像 (ゴッホ)}} |
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画像:Vincent van Gogh - National Gallery of Art.JPG|([[1889年|1889]])[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]] |
画像:Vincent van Gogh - National Gallery of Art.JPG|([[1889年|1889]])[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]] |
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== 日本での受容 == |
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ゴッホが日本において知られるようになったのは、[[1911年]]に[[武者小路実篤]]が文芸誌『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』において紹介したのが最初と言われる。[[1919年]]には[[山本顧彌太]]が『[[ひまわり (絵画)|ひまわり]]』を購入し、日本に持ち込んでいる。戦後は劇作品で[[劇団民藝]]代表の[[滝沢修]]が、1951年から生涯にわたり公演した『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』([[三好十郎]]脚本)の影響も大きい。 |
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[[1996年]]、ゴッホの生涯を、単独の[[漫画]]で初めて紹介した『ゴッホ-太陽を愛した「ひまわり」の画家』([[小学館]]版学習まんが人物館)が発売された。 |
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=== ゴッホ作品の高騰 === |
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ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われるが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半([[1888年]]2月から[[1890年]]7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ない。 |
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[[1987年]]に[[安田火災海上]](現[[損保ジャパン]])は『ひまわり』を約58億円で落札し、話題を呼んだ。現在は、[[損保ジャパン東郷青児美術館]]が所蔵している。 |
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『[[医師ガシェの肖像]]』は、テオの未亡人ヨハンナによって、[[1898年]]頃にわずか300[[フラン (通貨)|フラン]]で売却されたと伝えられる作品である。[[1990年]][[5月15日]]に[[ニューヨーク]]の[[クリスティーズ]]での[[競売]]で、8,250万[[USドル|ドル]](当時のレートで約124億5,000万円)で[[齊藤了英]]に競り落とされ、日本人による高額落札として話題となった。[[2010年]]現在でも、ゴッホ作品の最高落札額である。 |
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近年では、[[2006年]]に『[[アルルの女(ジヌー夫人)]]』が4,033万ドルで落札されている。 |
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== 映画 == |
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*『[[ヴァン・ゴッホ (映画)|ヴァン・ゴッホ]]』 ''Van Gogh'' (1948) |
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*:監督:[[アラン・レネ]]。[[フランス]]の[[短編映画]]。日本では劇場未公開。 |
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*『[[炎の人ゴッホ]]』 ''Lust for Life'' (1955) |
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*:監督:[[ヴィンセント・ミネリ]]、出演:[[カーク・ダグラス]]。[[アメリカ映画]]。ゴッホの[[伝記映画]]の中では最も有名な作品で、「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という通俗的なゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。原作は[[アーヴィング・ストーン]]『炎の人ゴッホ』(新版・[[中公文庫]]) |
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*『[[ゴッホ (映画)|ゴッホ]]』 ''Vincent & Theo'' (1990) |
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*:監督:[[ロバート・アルトマン]]、出演:[[ティム・ロス]]。神話化されたゴッホの物語の[[脱構築]]を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は(他の作品に比べれば)感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。 |
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*『[[夢 (映画)|夢]]』 ''Dreams'' (1990) |
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*:監督:[[黒澤明]]。エピソードの1つに、ゴッホの絵画世界の中に入り込んでしまう夢話がある。ゴッホを演じたのは[[映画監督]]の[[マーティン・スコセッシ]]。「太陽が絵を描けと僕を脅迫する」という言葉はこの映画におけるセリフである。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references group="注釈" /> |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=二見史郎 |title=ファン・ゴッホ詳伝 |publisher=[[みすず書房]] |year=2010 |id=ISBN 978-4-622-07571-4 }} |
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* Bernard, Bruce (ed.). ''Vincent by Himself''. London: Time Warner, 2004. |
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* Rewald, John. ''Studies in Post-Impressionism''. New York: Abrams, 1986. ISBN 0-8109-1632-0 |
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* Walther, Ingo F. & Metzger, Rainer. ''Van Gogh: the Complete Paintings''. New York: Taschen, 1997. ISBN 3-8228-8265-8 |
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* Wilkie, Kenneth. "The Van Gogh File: The Myth and the Man". Souvenir Press Ltd, 2004. ISBN 978-0285636910 |
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=== 手紙 === |
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* [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]] 『ゴッホの手紙』[[新潮社]]、[[角川文庫]]、(新版「全作品集20」、新潮社) [[読売文学賞]]受賞 |
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* 二見史郎・[[粟津則雄]]ほか訳『ファン・ゴッホ書簡全集(全6巻)』[[みすず書房]] 元版1970年、新版1984年 |
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* 二見史郎編訳/[[圀府寺司]]訳『ファン・ゴッホの手紙』みすず書房 2001年 |
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* [[硲伊之助]]訳『ゴッホの手紙』([[岩波文庫]]上中下) |
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*戦前から戦後にかけ、[[木村荘八]]や[[式場隆三郎]]が翻訳出版した。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{sister project links|wikt=no|b=no|q=en:Vincent van Gogh|s=en:Author:Vincent van Gogh|commons=Vincent van Gogh|n=no|v=no|species=no|author=no}} |
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* [[フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧]] |
* [[フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧]] |
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* [[自画像 (ゴッホ)]] |
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* [[:Category:フィンセント・ファン・ゴッホの作品]] |
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* [[ゴッホ美術館]] |
* [[ゴッホ美術館]] |
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* [[クレラー・ミュラー美術館]] |
* [[クレラー・ミュラー美術館]] |
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* [[ポスト印象派]] |
* [[ポスト印象派]] |
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* [[競売]] |
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* [[ファン・ゴッホ (小惑星)]] |
* [[ファン・ゴッホ (小惑星)]] |
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* [[テオ・ファン・ゴッホ (映画監督)]] - 弟テオの曾孫。 |
* [[テオ・ファン・ゴッホ (映画監督)]] - 弟テオの曾孫。 |
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* [[ジャンヌ・カルマン]] - ゴッホと面会したことのある人物として知られ、印象について「汚くて、格好も性格も悪い人」と語っている。 |
* [[ジャンヌ・カルマン]] - ゴッホと面会したことのある人物として知られ、印象について「汚くて、格好も性格も悪い人」と語っている。 |
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== 関連カテゴリ == |
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* [[:Category:フィンセント・ファン・ゴッホの作品]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.vangoghmuseum.nl/ ゴッホ美術館公式サイト] オランダ語・英語(一部日本語ページ有り) |
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*[http://www.vangoghmuseum.nl/ ゴッホ美術館公式サイト] オランダ語・英語(一部日本語ページ有り) |
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*[http://matome.naver.jp/odai/2129770716193377901 フィンセント・ファン・ゴッホ作品画像コレクション] |
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2012年7月3日 (火) 02:31時点における版
フィンセント・ファン・ゴッホ Vincent van Gogh | |
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『自画像』(1887年) シカゴ美術館蔵 | |
生誕 |
1853年3月30日 オランダ ズンデルト |
死没 |
1890年7月29日(37歳没) フランス ヴァル=ドワーズ県、オーヴェル=シュル=オワーズ |
国籍 | オランダ |
教育 |
ブリュッセル王立美術アカデミー アントウェルペン王立芸術学院 |
著名な実績 | 画家 |
代表作 | 『ジャガイモを食べる人々』、『ひまわり』、『タンギー爺さん』、『星月夜』など |
運動・動向 | 後期印象派 |
後援者 |
テオドルス(弟) アントン・モーヴ(従兄弟) |
影響を受けた 芸術家 |
画家:アントン・モーヴ、フェルナン・コルモン、ドラクロワ、アドルフ・モンティセリ、ジャン=フランソワ・ミレー 流派:印象派、反アカデミズム、ジャポニズム |
影響を与えた 芸術家 | 後期印象派、ドイツ表現主義、世紀末芸術 |
フィンセント・ファン・ゴッホ[注釈 1](Vincent van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダの後期印象派の画家。彼の作品は感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、20世紀の美術に大きな影響を及ぼした。長い間精神疾患の発作に苦しめられながらも創作活動を続け[1][2]、37歳の時に銃創が原因で死亡した。自傷と考えられているが、銃は見つかっていない[3][注釈 2]。
後期印象派・表現主義の代表的・先駆的作家としての活動もさることながら、その劇的で短命に終わった人生からしばしば「情熱的な画家」「狂気の天才」といった幻想的イメージが抱かれがちな人物でもある。こうしたエピソードの多くは真偽が不明なものもあり、誇張された人物像は「炎の人ゴッホ」などの創作作品や伝記でますます高められ、現在でも一般人のゴッホに対するイメージに影響を与えている。また客観的な写実性より内面の主観性を重んじて作品制作に当たったことから幻想的な世界観を描き出した作品も多く、幻想絵画の分類として捉える傾向もある。
フランスのパリやアルルに居を構え、印象派や浮世絵の影響を受けた作品を描いた。後期印象派の代表的画家として現在でこそ高く評価されているが、生前に売れた絵はたった1枚『赤い葡萄畑』だった。人に贈った絵が、鶏小屋の穴を塞ぐのに使われていたこともあった(『医師フェリックス・レイの肖像』)。彼を終生援助した弟テオドルス(通称テオ)にあてた書簡はのちに出版され、文学的に高く評価されているとともにゴッホの生涯を知る上で最も重要な資料とされている。
概要
ゴッホは、早くから美術に関心を持っており、子供の頃から、画家になることを決めるまでにも、いくつもスケッチを描いている。油絵を始めたのは20代後半になってからであり、有名な作品の多くは最後の2年間に完成されたものである。約10年の間に、2100以上の作品――860の油絵と1300の水彩、スケッチ、版画――を制作した。その中には、自画像、風景画、花の静物画、肖像画、糸杉・小麦畑・ひまわりなどの絵がある。
ゴッホは、成人してしばらくの間、画商の店に勤め、ハーグ、ロンドン、パリを転々とし、イギリスでしばらく教師を務めた。彼は牧師になりたいという希望を持ち、1879年からベルギーの炭鉱街で伝道師として働くかたわら、土地の人々のスケッチをするようになった。1885年、最初の主要作品といえる「ジャガイモを食べる人々」を制作した。当時の彼のパレットは、地味で暗い色調がほとんどであり、後年に見られる活き活きとした色使いは影を見せない。1886年3月、パリに移ってフランスの印象派と出会い、更にその後南フランスに移ってからは輝く日光に魅了され、彼の作品はどんどん明るさを増していった。そして1888年のアルル滞在において最もユニークなスタイルを確立した。
精神疾患が彼の絵に及ぼした影響については、死後、多くの推測がされてきた。彼の病気についてはロマンチックに美化して捉えられることが多いが、現代の評論家は、発作による活動停止に苦しめられる画家の姿を見出している。
手紙
画家としてのゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、弟で画商だったテオドルス・ファン・ゴッホ(通称テオ)との間でやり取りされた手紙である[6]。彼の考えや信念についての現在の理解は、これらの手紙を基礎に置いている[7][8]。テオは、金銭的にも精神面でも兄を支え続けた。1872年から1890年にかけて、フィンセントからテオに宛てての手紙が600通以上、テオからフィンセント宛が40通残っており、2人の交流と、フィンセントの思想や芸術理論を知ることができる。
日付が付されていない手紙が多いが、歴史家の手により、概ね年代順に並べることができるようになっている。ただし、アルル時代のものは、オランダ語、フランス語、英語で200通もの手紙を友人に宛てて書いているが、時期の特定に問題が残っている[9]。また、パリ時代はフィンセントとテオが同居していたため、手紙が残っておらず、様子を知ることが最も難しくなっている[10]。
テオとの手紙のほかに残っている資料としては、アントン・ファン・ラッパルト、エミール・ベルナール、妹のウィル・ファン・ゴッホとその友達Line Kruysseに宛てて書いた手紙がある[11]。これらの手紙はテオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(通称ヨー)が1913年に注釈付きで公表したものだが、彼女はフィンセントの人生のドラマ性が作品への先入観を与えるのを望まないため、公表を迷ったと述べている。なお、フィンセント自身は他の画家の伝記を熱心に読み、人生とその人の芸術は一致していると考えていたという[6]。
生涯
前半生
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルトの村で生まれた。ここはカトリックの影響が強い地域である[12][13]。オランダ改革派の牧師であった父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス牧師)と、母アンナ・コルネリア・カルベントゥスとの間の長子であった。フィンセントという名は祖父の名前であり、また彼の1年前に死産だった兄に付けられた名前でもあった[注釈 3]。当時、同じ名前を付けるということは珍しいことではなかった。祖父フィンセント (1789-1874) には6人の息子があったが、うち3人は画商になり、そのうちの1人もフィンセントという名前であり、ゴッホの手紙の中で「セント叔父」と呼ばれる人物である。祖父フィンセント自身も、その大叔父で彫刻家だったフィンセント・ファン・ゴッホ (1729-1802) の名前をとって名付けられたと思われる[14][15]。画家フィンセントの後には、妹アンナ(1855年)、弟テオ(1857年)、妹エリーザベト(1859年)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年)、弟コルネリス(通称コル、1867年)が生まれた[16]。
少年時代、ゴッホは寡黙で思索にふける性格であった。1860年からズンデルト村の、1人のカトリックの教師が200人の生徒を教える学校に通った。1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受け、1864年10月1日からは30km余り離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った。彼は、この時家族のもとを離れるのが非常につらかったと、成人してから振り返っている。1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立中学、ウィレム2世校に進学した。パリで成功した画家Constantijn C. Huysmansがここでゴッホに絵を描くことを教えた。ゴッホの絵画への興味は早期から芽生え、子供の時から、画家となることを決意する以前にも多くの絵を描いていた。もっとも、初期の絵は表情豊かではあったが後年の激しさはまだ見られない[17]。1868年3月、ゴッホは突然学校をやめ家に帰ってしまった。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で「僕の小さい時は暗く、冷たく、不毛だった」と書いている[18]。
1869年7月、セント叔父の助力で、ハーグにある画商グーピル商会の徒弟となった。徒弟期間の後、1873年5月に彼はロンドン支店に転勤となった[19]。仕事は順調で、20歳当時、彼の収入は父親を超えていた。ゴッホは単身赴任の為にブリクストン市のハックス・フォード沿いに借家を借りて生活を始めた[20]。
テオの妻ヨーは、この当時がゴッホの人生で一番幸せだった時だと述べている。ヨーによれば、ゴッホは下宿先の娘(ウージェニ・ロワイエ)に恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ゴッホの「20歳の恋」[注釈 4]の相手はハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある[21]。1875年5月、彼はパリに転勤となったが、この頃から彼は美術品が単なる商品として扱われていることに不快感を持つようになっていた。翌1876年4月1日をもって、彼はグーピル商会から解雇された[22]。
聖職者への志望
同年(1876年)4月、ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。そこでいくつかの風景画のスケッチをした。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイルワースに移ることとなり、フィンセントはリッチモンドまで汽車で、その先アイルワースまでを徒歩で旅した[23]。しかしこの学校で教師を続けることはできず、福音書を説いて回りたいという希望に従い、メソジストの牧師の手伝いを始めた[24]。その年のクリスマス、彼はエッテン(ブレダ西郊の農村)に移っていた父の家[注釈 5]に帰省し、翌1876年1月から、南ホラント州ドルトレヒトの書店で6箇月間働いた。しかしここでの仕事には満足できず、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に訳したりして過ごした[25]。この時の下宿先の同居人で教師だったヘルリッツは、フィンセントの食事は質素で、肉を口にしなかったと語っている[26]。
ゴッホの宗教的情熱はますます燃え上がり、聖職者こそ自分の天職と考えるに至った。牧師になるという彼の希望を叶えようと、家族は1877年5月、ゴッホをアムステルダムに住む海軍中将のヤン・ファン・ゴッホ伯父のもとに神学の勉強のために送り出した[27][28]。彼は、そこで伯父で名声のある神学者ヨハネス・ストリッケル牧師と相談しながら、神学部の受験勉強を始めた。しかし、受験勉強には挫折し、1878年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンの実家に戻った。今度は同年8月からベルギーのブリュッセル北郊ラーケンのプロテスタント系伝道師養成学校で3箇月間の試行期間を過ごしたが、正規課程への入学には至らなかった[29]。
1878年12月、彼はベルギーの炭坑地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。彼は貧しい坑夫らの生活に感化されて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった[30]。しかし教会の伝道委員会はこれを伝道師の威厳を損なうものとして否定した。1879年8月、彼はボリナージュ地方のクウェムに移り住んだ。1880年3月頃、北フランスへの徒歩旅行に出た後、エッテンの実家に帰ったが、ヘールの精神病院に入れようとした父ドルス牧師との間で衝突し、クウェムに戻った[31]。
同年(1880年)7月から10月まで、クウェムの坑夫シャルル・ドゥクリュクのところに住んだ[32]。周りの人々や風景をスケッチしているうち、テオの助言もあり、ゴッホは本格的に絵を描くことを決意した。その年の秋、彼は絵を勉強しようとしてブリュッセルに行き、11月15日にブリュッセル王立美術アカデミーに登録した。王立美術アカデミーでは、解剖学、陰影画法、透視図法について学んだ。
エッテン(1881年)
1881年4月、ゴッホはエッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を書き続けた[33]。夏の間、最近夫を亡くしたいとこのケイ・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れ、彼はケイと連れ立って散歩したりするうちに彼女に好意を持つようになった[34]。ケイは、8歳の息子を持つ、ゴッホよりも7歳年上の女性であった。ゴッホはケイに結婚を申し込んだが、彼女は「とんでもない、だめ、絶対に」という言葉で拒絶した[35][36]。11月下旬、ゴッホはストリッケル牧師に強い調子の手紙を出した後[37]、アムステルダムまで赴き、ストリッケル牧師のもとを何度も訪ねたが[38]、ケイからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと手紙で非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください」と迫ったが[39]、ストリッケル牧師は、稼ぎのないゴッホにケイと結婚することはできないと伝えた[40]。伯父で師でもあったストリッケル牧師の頑迷な態度は彼に衝撃を与え、教会への疑念を持つことになった[41]。その年のクリスマス、エッテンの実家に帰っていた時、彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちにハーグへ発ってしまった[42][43]。
ハーグ(1882年-1883年)
1882年1月、彼はハーグに住み始め、義理のいとこアントン・モーヴを頼った。モーヴはオランダ・リアリズムの画家で、ハーグ派の担い手であった。モーヴはゴッホに油彩画、水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸したりもしたが[44]、間もなく2人の関係は悪化した。モーヴは1月末頃に急にゴッホに対して冷たくなり、素描は石膏像でやらなくてはいけないなどと言ってゴッホを怒らせた。ゴッホが手紙を書いても返事が来なくなった[45]。ゴッホは、この頃、シーン(クラシーナ・マリア・ホールニク)というアルコール中毒の娼婦を家に入れ、彼女をモデルに絵を描いていたことから、モーヴの態度が変わったのはこのことを知ったからだろうとゴッホ自身は推測している[46]。ゴッホがシーンと出会った時、シーンは5歳の娘を連れていた上、妊娠していた[47]。
一方、同年(1882年)3月、コル叔父がゴッホのもとを訪れた。コル叔父から街の風景の素描を12点注文され、ゴッホはハーグ市街を描き続けた[48]。もっとも、コル叔父に送った素描に対してはゴッホが期待したほどの代金は送られてこず、また良い評価もされなかった[49]。ゴッホは、同年6月、淋病で3週間入院した[50]。退院直後の7月始め、ゴッホは今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、男の子を出産したばかりのシーンとその子供が住み込んだ[51]。夏の間、油彩を描き始めた[52]。
1883年9月、ゴッホは経済的苦境もあってハーグを去ることを決意し、シーンを置いてオランダ北部のドレンテ州ホーヘフェーンへ発った。また10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅した[53]。
ニュネン(1883年末-1885年)
1883年12月5日、ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニュネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父といったん口論になったものの、話合いを経て、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した[54]。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオークの織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた[55]。しかし、ピサロやモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を師として暗い色調の絵を描くフィンセントの間には意見の対立が生じた[56]。
1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こした[47][57]。1885年3月26日、ゴッホの父が心臓発作で世を去った[58]。
1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させた[59]。しかし、同年5月、ユトレヒトの友人ラッパルトからは、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受け、2人の関係は断絶に至る[60]。夏の間、ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する[61]。一方、「ジャガイモを食べる人々」のモデルになった女性が9月に妊娠した件について、ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた[62][63]。
同年(1885年)10月、ゴッホは首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、レンブラント、フランス・ハルス、ライズダールなどの17世紀オランダの大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った[64]。
アントウェルペン(1885年末-1886年初頭)
1885年11月、ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、リュ・デ・ジマージュ通りに面した絵具屋の2階の小さな部屋を借りた[65]。1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た。また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った[66]。
金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した[67][68]。また、この頃から、アブサンを飲むようになった[69]。
パリ(1886年-1888年)
1886年2月末、ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会を承継)の支店を任されているテオを頼って、夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはリュ・ルピック通りのアパルトマンに2人で転居した[70]。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ゴッホの生活について分かっていないことが多い[71]。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描や、子供の裸像、男性モデルの裸像などを残している。ここで彼は、ルイ・アンクタン、ジョン・ラッセル、トゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナールといった若い生徒と知り合った[72]。
1886年当時のパリでは、ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭しており、この年、印象派絵画展が第8回をもって終了した[73]。ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。若い画家が集まる交流の場となっていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店で絵具を買っていた[74]。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった[75]。
ゴッホは、リュ・ドゥ・プロヴァンスの通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集め、1887年3月にはレストラン・タンブランの店の壁を利用して日本版画展を開いた[76]。1887年に描いた「タンギー爺さん」の肖像画の背景にはいくつかの浮世絵が貼られている。また、「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号の表紙を飾った渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」(左右反転して複製されたもの)のほか、歌川広重の名所江戸百景「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している[77]。
同年(1887年)11月、ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した[78]。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べている[79]。同月、ポール・ゴーギャンがカリブ海のマルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる[80]。
アルル(1888年-1889年)
ゴーギャン到着まで
ゴッホは、1888年2月、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった[81]。当時、彼は飲酒と喫煙で体を壊しており、静養を求めていた[9]。ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった[82]。
ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(「アルルの跳ね橋」)、3月下旬から4月にかけてはアンズやモモ、リンゴ、プラム、梨と、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた[83]。
同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、後に「黄色い家」として知られる2階建ての建物の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴェンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている[84]。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動する[85]。6月には炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはアルジェリア植民地兵であるズアーブ兵をモデルにした絵を描いた[86]。7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って「ラ・ムスメ」という題を付けた[87]。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた[88]。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、「ひまわり」を4作続けて制作した[89]。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた「夜のカフェ」を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている[90]。
一方、ポン=タヴェンにいるゴーギャンからは、ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた[91]。ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に「夜のカフェテラス」を描き上げた[92]。9月下旬、「黄色い家」を描いた[93]。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(「アルルの寝室」)[94]。
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「夜のカフェテラス」1888年9月、アルル。クレラー・ミュラー美術館。
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「黄色い家」1888年9月、アルル。油彩、キャンバス、72×91.5cm。ゴッホ美術館。
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「アルルの寝室」1888年10月、アルル。油彩、キャンバス、72×90cm。ゴッホ美術館。
ゴーギャンとの共同生活
同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった[95]。2人は、街の南東のはずれにあるレ・ザリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ゴッホの「赤い葡萄畑」)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリをモデルに絵を描いた(ゴッホの「アルルの女」)[96]。ゴーギャンはゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた[97]。しかし、ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている[98]。11月下旬、ゴッホは2点の「種まく人」を描いた[99]。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている[100]。
一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン〔ゴッホ〕と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている[101]。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている[102]。12月中旬(16日頃)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ゴッホは特にウジェーヌ・ドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラント・ファン・レインについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた[103]。
同年12月23日、ゴッホが自らの耳たぶを切り落とす事件が発生した[注釈 6]。12月30日の地方紙「ル・フォロム・レピュブリカン」は、「先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼家1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、『この品を大事に取っておいてくれ』と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。」と報じている。ゴッホ自身はこの事件について記憶にないようであり、何も語っていない[104][注釈 7]。翌日の12月24日、ゴーギャンはテオを電報でアルルに呼び寄せた上で、パリに帰った[105]。
アルル市立病院
ゴッホは、アルル市立病院に収容された。兄を病院に見舞ってパリに戻ったテオは、婚約を決めたばかりの相手ヨー(ヨハンナ・ボンゲル)に対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している[106]。担当医(インターン)のフェリクス・レーのほか、郵便夫ルーラン、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・サルがゴッホの面倒を見てくれ、テオに兄の病状を書き送っている。容態は改善に向かい、ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月7日退院して「黄色い家」に戻った[107]。
退院したゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」も完成させた[108]。ゴッホは、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたとテオに書いている。しかし、2月7日、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、近所の人が警察に対応を求めたことから、病院に収容された[109]。2月17日に仮退院したが、住民29名から市長に、オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えているとして、家族が引き取るか精神病院に収容するよう要請するという請願書が提出され、2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された[110]。
この節の加筆が望まれています。 |
- 1888年に、ポール・ゴーギャンと南フランスのアルルで共同生活をする(他に十数人の画家の仲間達を招待していたが、来たのはゴーギャンだけだった)。しかし不和となり、ゴーギャンに「自画像の耳の形がおかしい」と言われると、自分の左の耳たぶを切り取り、女友達に送り付けるなど奇行を始め、サン=レミ=ド=プロヴァンスの精神科病院に入院する(この事件に関して、かつてフェンシングを嗜んでいたゴーギャンが剣でゴッホの耳を切断した可能性があるという新説を、2009年にドイツ人の歴史家が唱えた[111])。
- 1890年7月27日に、パリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで猟銃(リボルバーという説もある)の弾を腹部に受け、2日後に死亡した。37歳没。死ぬ前日には、テオに自分の芸術論等などを滔滔と話していたという。
- 弟テオは、ヴィンセントの死から数ヶ月後の1890年11月18日にユトレヒトの精神病院に入院した後、1891年1月25日に病で死去する。
作品
ゴッホの初期作品は、ミレーの影響が強かったが、印象派と出会うことによりその資質が開花したといえる。当時のパリではジャポニスムが流行していたこともあり、浮世絵にも大きな影響を受けた。印象派の画家達の筆触が比較的細かなものであるのに対し、ゴッホは時代が下るとともに筆触は長く伸び、うねり、のちの表現主義を予告するようなものになる。また新印象派が理論的だったのに対し、ゴッホは主観的・また象徴主義的である。強い輪郭線、色面による構成、デフォルメ等も、印象派とは異質のものである。彼は夜の街も描き、人間社会の憂鬱さや、神的な世界をもモチーフにした。
肖像画
自画像
日本での受容
ゴッホが日本において知られるようになったのは、1911年に武者小路実篤が文芸誌『白樺』において紹介したのが最初と言われる。1919年には山本顧彌太が『ひまわり』を購入し、日本に持ち込んでいる。戦後は劇作品で劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり公演した『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)の影響も大きい。
1996年、ゴッホの生涯を、単独の漫画で初めて紹介した『ゴッホ-太陽を愛した「ひまわり」の画家』(小学館版学習まんが人物館)が発売された。
ゴッホ作品の高騰
ゴッホは画家としての活動が約10年間と短く、絶対数としては油彩900点、素描1100点があると言われるが、傑作とされる作品はほとんどが晩年の約2年半(1888年2月から1890年7月)に制作されたものであり、知名度に比して(傑作・良作とされる)作品数は少ない。
1987年に安田火災海上(現損保ジャパン)は『ひまわり』を約58億円で落札し、話題を呼んだ。現在は、損保ジャパン東郷青児美術館が所蔵している。
『医師ガシェの肖像』は、テオの未亡人ヨハンナによって、1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられる作品である。1990年5月15日にニューヨークのクリスティーズでの競売で、8,250万ドル(当時のレートで約124億5,000万円)で齊藤了英に競り落とされ、日本人による高額落札として話題となった。2010年現在でも、ゴッホ作品の最高落札額である。
近年では、2006年に『アルルの女(ジヌー夫人)』が4,033万ドルで落札されている。
映画
- 『ヴァン・ゴッホ』 Van Gogh (1948)
- 『炎の人ゴッホ』 Lust for Life (1955)
- 監督:ヴィンセント・ミネリ、出演:カーク・ダグラス。アメリカ映画。ゴッホの伝記映画の中では最も有名な作品で、「周囲の無理解にもかかわらず情熱をもって独自の芸術を追求した狂気の天才画家」という通俗的なゴッホのイメージを定着させるのに決定的な役割を果たした。原作はアーヴィング・ストーン『炎の人ゴッホ』(新版・中公文庫)
- 『ゴッホ』 Vincent & Theo (1990)
- 監督:ロバート・アルトマン、出演:ティム・ロス。神話化されたゴッホの物語の脱構築を目指した作品で、いくぶん脚色されているとはいえ比較的史実に近い。画家は(他の作品に比べれば)感情を抑えた冷静で分析的な性格として描かれている。原題が示すように弟のテオにもスポットが当てられている。
- 『夢』 Dreams (1990)
- 監督:黒澤明。エピソードの1つに、ゴッホの絵画世界の中に入り込んでしまう夢話がある。ゴッホを演じたのは映画監督のマーティン・スコセッシ。「太陽が絵を描けと僕を脅迫する」という言葉はこの映画におけるセリフである。
脚注
注釈
- ^ ファン/ヴァンは姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。オランダ語ではオランダ語: [vɑŋ ˈɣɔχ] ( 音声ファイル)。オランダ・ホラント州の方言では、vanの"v"が無声化して[ˈvɪnsɛnt fɑŋˈxɔx] ( 音声ファイル)となる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を無声硬口蓋摩擦音化して[vɑɲˈʝɔç]と発音していた可能性がある。イギリス英語では[ˌvæn ˈɡɒx]、場合によって[ˌvæn ˈɡɒf]と発音し、アメリカ英語では[ˌvæn ˈɡoʊ](ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、[vɑ̃ ɡɔɡə](ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。
- ^ 2011年刊行のある本は、ゴッホは自殺ではないとしている。著者らは、「調子の悪い銃」を持っていた知り合いの2人の少年が犯人としている(en:Vincent van Gogh's death)。[|Gompertz, Will] (2011年10月17日). “Van Gogh did not kill himself, authors claim”. BBC News 2011年10月17日閲覧。
- ^ 死産の兄と同じ名前を付けられたことは、画家の青年期に深い影を落としたのではないかという指摘がされている。また男性2人組の肖像などにはこうした背景と結びつく要素があるとされている。Lubin (1972: 82-84)。
- ^ ゴッホは、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いている。二見 (2010: 29)。
- ^ 父は1875年10月、エッテンの教会の牧師となり、一家はそこに移り住んだ。二見 (2010: 36)。
- ^ 耳の付け根からではなく、下部の耳たぶを切断した。二見 (2010: 336)。
- ^ パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、ゴーギャンから伝え聞いた話として、1889年1月1日消印の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。「アルルを去る前の晩、私〔ゴーギャン〕の後をヴァンサン〔ゴッホ〕が追いかけてきた。私は振り向いた。時々彼が変な振舞いをするので警戒したのだ。すると彼は言った。『あなたは無口になった。僕も静かにするよ。』。私はホテルへ寝に行き、帰宅した時、家の前にはアルル中の人が押しかけていた。その時警官たちが私を逮捕した。家の中が血まみれになっていたからだ。事の次第はこうだ――私が立ち去った後、彼は家に戻り、剃刀で耳を切り落とした。それから大きなベレー帽をかぶって、娼家へ行き、遊女の一人に耳を渡して言った。『真心から君に言うが、君は僕を忘れないでくれるね。』」。一方、その10年あまり後に晩年のゴーギャンが書いた『前後録』の中では、ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手にして突進してきた話が付け加えられている。二見 (2010: 199-200)。
出典
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手紙
- 小林秀雄 『ゴッホの手紙』新潮社、角川文庫、(新版「全作品集20」、新潮社) 読売文学賞受賞
- 二見史郎・粟津則雄ほか訳『ファン・ゴッホ書簡全集(全6巻)』みすず書房 元版1970年、新版1984年
- 二見史郎編訳/圀府寺司訳『ファン・ゴッホの手紙』みすず書房 2001年
- 硲伊之助訳『ゴッホの手紙』(岩波文庫上中下)
- 戦前から戦後にかけ、木村荘八や式場隆三郎が翻訳出版した。
関連項目
- フィンセント・ファン・ゴッホの作品一覧
- ゴッホ美術館
- クレラー・ミュラー美術館
- ポスト印象派
- ファン・ゴッホ (小惑星)
- テオ・ファン・ゴッホ (映画監督) - 弟テオの曾孫。
- ジャンヌ・カルマン - ゴッホと面会したことのある人物として知られ、印象について「汚くて、格好も性格も悪い人」と語っている。
関連カテゴリ
外部リンク
- ゴッホ美術館公式サイト オランダ語・英語(一部日本語ページ有り)
- 図書館にあるフィンセント・ファン・ゴッホに関係する蔵書一覧 - WorldCatカタログ
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