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「ボニファティウス8世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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'''ボニファティウス8世'''(Bonifatius VIII [[1235年]] - [[1303年]][[10月11日]])は、中世の[[教皇|ローマ教皇]](在位[[1294年]] - 1303年)。[[フランス王国|フランス]]王と争い、晩年[[アナーニ事件]]後、'''憤死'''する。
'''ボニファティウス8世'''(Bonifatius VIII [[1235年]]ころ - [[1303年]][[10月11日]])は、中世の[[教皇|ローマ教皇]](在位[[1294年]] - 1303年)。[[フランス王国|フランス]]王および[[コロンナ家]]と争い、晩年に起こった[[アナーニ事件]]の直に「憤死」した。[[学術]]・[[文化]]の保護者としても知られる。


== 生涯 ==
== 教皇登位まで ==
ローマ南東にある[[アナーニ]]の名門出身で、本名は'''ベネデット・カエターニ'''(Benedetto Caetani)[[ケレティヌ5世 (ロ教皇)|ケレスティヌ5世]]の退位後、ローマ教皇に選出される。当時、ローマは繁栄期迎えた。
[[ローマ市]]の南東方向にある[[アナーニ]]([[ラツィオ州]][[フロジノーネ県]])の名門([[貴族]]階級)出身で、本名は'''ベネデット・カエターニ'''(Benedetto Caetani)である<ref name=pgms>[[#PGMS|マックウェル・チュアト(1999)pp.159-162]]</ref><ref name=tsuru54>[[#鶴岡|鶴岡(2012)pp.54-64]]</ref>。歴代教皇の[[別荘]]がある[[ポレート]]([[ウンブリア州]][[ペルージャ県]])などで教会法などを学び[[パリ]]やローマで[[聖堂]][[参事会]]の会員となり[[1276年]]に[[ローマ教皇庁]]入り果たした。[[枢機卿]]に昇進したのち、教皇特使とし[[イタリア半島]]各地やフランスなどを往復し、各界に多くの知遇を得<ref name=tsuru54/>


第192代ローマ教皇の[[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]は有徳の人であったが、「教皇の器にあらず」と在位数ヶ月にして自ら退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のカエターニ枢機卿に相談した<ref name=pgms/>。ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実は、部下に教皇の[[寝室]]まで[[伝声管]]を引かせて毎夜ささやき、教皇を[[不眠症]]と[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]に追い込んだ張本人はカエターニ自身であったといわれている<ref name=tsuru54/>。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した<ref name=pgms/>。ケレスティヌス退任後、ただちに再び[[コンクラーヴェ]](教皇選挙会議)がひらかれ、[[グレゴリウス10世 (ローマ教皇)|グレゴリウス10世]]の定めた手続きにしたがって後継者が選ばれることとなって、その結果カエターニ枢機卿がボニファティウス8世としてローマ教皇に選出された<ref name=pgms/>。
ボニファティウス8世は[[1300年]]を最初の[[聖年]]した(これ以前には聖年を祝うことはなかった。ローマには多くの巡礼者が集まり、教会の財政は潤た。[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]らの芸術家がローマに集まり、[[サン・ピエトロ大聖堂]]や[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]などが改修された。聖職者の養成を企図し、[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]]を設立した。


前任のケレスティウス5世は、その就任時に[[ナポリ王国]]の[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]に身をゆだね、カルロ王が望む人物を役職につけ、ローマではなく[[ナポリ]]に住むことにまで同意していた<ref name=pgms/>。しかし、ボニファティウス8世が就任した当時のローマは繁栄期を迎えていた。
一方、[[フィレンツェ]]の支配を意図して内紛(教皇支持の黒派対白派)を扇動する。[[1301年]]、[[ダンテ・アリギエーリ]]はフィレンツェ使節の1人として教皇に会うが、帰途シエナに滞在中、永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされ。『[[神曲]]』の中でボニファティウス8世は地獄に堕ち、逆さまに入れられ、燃やされてい。同時代のフィレンツェの政治家[[ディーノ・コンパーニ]]による年代記には「この法王は猛烈果断な気象と卓越せる才能を持ち、自我流に教会を導き、自説に同意しない者を斥けた」と書かれている。


== 治世 ==
1303年、教会への課税を巡ってフランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]と争い、[[破門]]にしようとするが、フランス使節と反教皇派の[[コロンナ家]](ボニファティウス8世によって破門され、所領を没収されていた)が結び、アナーニの別荘にいた教皇を捕らえて侮辱を加えた。まもなく釈放されたが、屈辱をこうむった教皇の病状は悪化し、死去した([[アナーニ事件]])。
ボニファティウス8世が教皇となって最初にしたことは、ナポリ王カルロ2世が送り込んだ人物を罷免することと教皇宮をナポリからローマに移すことであった<ref name=pgms/>。ボニファティウスは、先代のようにカルロ2世を前面にたてることはしなかったが、登位後7年にわたって[[シチリア島]]の奪回に意を注いだ<ref name=pgms/>。カルロ2世は、称号こそ「[[シチリア王国|シチリア王]]」の名乗りを許されていたが、シチリアの支配権は失っており、事実上の統治者は[[アラゴン連合王国|アラゴン王国]]の[[ハイメ2世 (アラゴン王)|ハイメ2世]]であった<ref name=pgms/>。


=== コロンナ家との対立 ===
れ以降、教皇庁に対するフランスの圧迫強まり、後の[[アヴィニョン捕囚]]を迎える('''教皇のバビロン捕囚''')。
ローマを本拠にしていたイタリア有数の貴族[[コロンナ家]]が新教皇ボニファティウス8世に反感をいだいたのは、当初ボニファティウスの傲慢さが原因だったともいわれるが、アラゴン派に属していた彼らは教皇のシチリア政策にも反対していた<ref name=pgms/>。そこで、前教皇退位の経緯に着目し退位の合法性に疑問を呈した。もしも、この退任が教会法に違背しているならば、新教皇の正統性が揺らぐこととなる<ref group="注釈">ただし、コロンナ家が当初から本気で教会法違反の疑問を追及していたわけではなかった。コロンナ家出身の2人の枢機卿もコンクラーヴェではボニファティウス8世支持の票を投じている。[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)p.160]]</ref>。ボニファティウス8世は、これに対し、みずからの保身のため前教皇をローマ南東36キロメートルの[[フモーネ|フモーネ城]]の[[牢獄]]に幽閉した<ref name=pgms/><ref group="注釈">ケレスティヌス5世は[[感染症]]に罹患し、幽閉後10ヶ月の間、[[膿瘍]]の痛みに苦しんだのちフモーネの牢獄で死去した。[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)p.160]]</ref>。

[[1297年]]、コロンナ家はアナーニからローマへ移送中の教皇の個人[[財産]]を強奪するという実力行使に出た。その品はのちに返却されたが、コロンナ家はその後も「ボニファティウス8世は真の教皇にあらず」との[[声明文]]を発し続けたため、教皇はコロンナ当主とその一族を[[破門]]とする命令を発し、一族討伐のための「[[十字軍]]」を招集した。[[1298年]]、コロンナ家は教皇軍に屈したものの、その年のうちに[[反乱]]を起こし、やがてフランスへと逃亡した<ref name=pgms/>。

=== フランス王との対立 ===
[[1294年]]、[[フランス王国|フランス]]の王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]](端麗王)は[[ガスコーニュ]]や[[フランドル]]をめぐって[[イングランド王国|イングランド]]と対立し、イングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]に対して[[戦争]]を開始したが、長期化したこの戦争で必要となった膨大な戦費を調達するため、フランスではじめて全国的[[課税]]を実施し、税は[[キリスト教会]]にも課せられた<ref name=fujita>[[#藤田|藤田(1995)pp.106-109]]</ref>。しかし、戦費調達のための教会課税は[[教皇至上主義]]を掲げるボニファティウス8世にとって承知できないことであった<ref name=fujita/>。敬虔な[[キリスト教徒]]の国フランスは[[ローマ教皇庁]]にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手となったのである<ref name=tsuru54/>。

ボニファティウス8世は、聖職者への課税を禁止する勅書を発行した<ref name=pgms/>。しかし、このときの対立はボニファティウスがフィリップ4世の祖父[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]](聖王)を列聖したことで、それ以上の事態には発展しなかった<ref name=pgms/>。

=== 聖年祭とローマの繁栄 ===
[[ファイル:Giotto - Bonifatius VIII.jpg|right|thumb|200px|サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で聖年を宣言するボニファティウス8世(ジョット画、1300年)]]
ボニファティウス8世は[[1300年]]を[[聖年]]」に定めて盛大な[[祭典]](聖年祭)を挙行し、[[ヨーロッパ]]の全聖職者の[[ローマ]][[巡礼]]を強制して死後の[[天国]]行きを確約した<ref name=tsuru54/>。聖年を定めたのはボニオファティウス8世が最初であり、それ以前には聖年を祝うことはなかった。ローマには多くの巡礼者が集まり、フランス王フィリップの教会課税で苦境に陥った[[ローマ教会]][[財政]]は潤いを取り戻した。[[ジョット・ディ・ボンドーネ]]をはじめとする[[芸術家]]がローマに集まり、[[サン・ピエトロ大聖堂]]や[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂]]などが改修された。彼は、彫刻家や画家たちに自分の像を多数つくらせている<ref name=pgms/>。ボニファティウスはまた、[[聖職者]]の養成を企図し、[[1303年]]には[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]]を設立した。

その一方、ボニファティウスは、[[フィレンツェ]]の支配を意図して内紛(教皇支持の黒派対白派)を扇動した。[[1301年]]、[[ダンテ・アリギエーリ]]はフィレンツェ使節の1人として教皇に会うが、帰途[[シエ]]に滞在中、永久追放の[[判決]]を受け、[[亡命]]生活を余儀なくされダンテの代表作『[[神曲]]』第1部(「地獄篇」)は、ボニファティウス8世は[[地獄]]に堕ちた教皇として、逆さまに生き埋めれ、燃やされる姿が描かれている<ref name=tsuru54/>

=== フランシスコ会との関係 ===
[[13世紀]]前葉、清貧をモットーに[[アッシジのフランチェスコ]]によって創設された[[托鉢修道会]]の[[フランシスコ会]]は、13世紀中葉まで歴代教皇の恩顧によって司牧活動における諸々の特典を認められており、それが各地の[[司教]]の反発を招いていた。[[1279年]]に教皇[[ニコラウス3世 (ローマ教皇)|ニコラウス3世]]が「エクジイト・クィ・セミナート」でフランシスコ会の司牧特典を擁護したことをめぐって激しい論争が巻き起こったが、これが問題となったのは、この時期の[[貨幣経済]]の進展が著しく、司教たちが[[秘蹟]]の授与など司牧活動に収入源を大きく依存せざるを得なくなってきたという社会の変化と、フランシスコ会への[[特典]]がすべて教皇の個人的な恩顧によるものであり、教会法のなかで規定を設けない状態のままになっていたという法的不備の問題が背景にあった。そこで、ボニファティウス8世はこの問題を決着させるべく、1300年に[[教皇勅書]]「スーペル・カテドラム」を発布して[[聴罪]]や[[葬儀]]に関わる限定的な一部の規定以外の特典を廃止する決定を下した<ref group="注釈">これに対するフランシスコ会側の反発は大きく、[[1304年]]にボニファティウスの教勅はいったん撤回された。教皇[[クレメンス5世 (ローマ教皇)|クレメンス5世]]の時代にようやく教会法に規定されるようになった。</ref>。
また、[[フィオーレのヨアキム]]の著作の影響がフランシスコ会にもおよび、[[1255年]]にフランシスコ会修道士の[[ボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルド]]によって[[ヨアキム主義]]的な『永遠の福音入門』が出版されると、その反響は大きく、教皇[[アレクサンデル4世 (ローマ教皇)|アレクサンデル4世]]はヨアキム主義を否定したが、13世紀後半には、北イタリアから南フランスにかけての地域で、ヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった([[スピリトゥアル主義]])。北イタリアのスピリトゥアル主義(心霊派、厳格派)は、[[1280年]]以降フランシスコ会内部でも弾圧されたが、教皇ケレスティヌス5世はこれに同情的で「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」として分離が赦された。しかしボニファティウス8世は、これを弾劾している。

=== アナーニ事件 ===
[[ファイル:Anagni cathedral.jpg|left|thumb|300px|アナーニ聖堂のボニファティウス8世像]]
1301年、フランス王フィリップ4世は再びフランス国内の教会に王権を発動し、教会課税を推しすすめようとしたが、この問題について、ボニファティウス8世は[[1302年]]に「[[ウナム・サンクタム]](唯一聖なる)」という[[教皇勅書|教皇回勅]]を発して教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越し、教皇に服従しない者は救済されないと宣した<ref name=pgms/><ref name=tsuru54/>。「ウナム・サンクタム」は、教皇の首位権について述べた最も明快かつ力強い声明文であり、歴代教皇が政敵から身を守る際の切り札として利用された<ref name=pgms/>。さらにボニファティウスは、「聴け最愛の子ら」という回勅を発してフィリップ4世に対し教皇の命にしたがうよう促した<ref name=pgms/><ref name=tsuru54/>。

1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために[[聖職者]]・[[貴族]]・[[市民]]の3身分からなる「[[三部会]]」と呼ばれる[[議会]]を[[パリ]]の[[ノートルダム大聖堂]]に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた<ref name=fujita/>。人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な[[価値観]]を強要する教皇に対して国内[[世論]]を味方につけた<ref name=tsuru54/>。ボニファティウス8世は怒ってフィリップを[[破門]]にしたが、フィリップの側も悪徳教皇[[弾劾]]の[[公会議]]を開くよう求めて両者は決裂した<ref name=tsuru54/>。このとき、ローマ教皇とフランス王の[[和解]]に反対し、フィリップ4世に対し、教皇と徹底的に戦うべきことを進言したのが、「レジスト」と称された世俗法曹家出身の[[ギヨーム・ド・ノガレ]]であった<ref name=pgms/>。

フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ教皇の捕縛を計った<ref name=ikegami258>[[#池上|佐藤&池上(1997)pp.258-259]]</ref>。ノガレの両親はかつて[[異端審問|異端審問裁判]]で[[火刑]]に処せられていたためローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた<ref name=pgms/>。いっぽう、教皇の政敵で[[財産]]没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた<ref name=pgms/><ref name=tsuru54/>。ノガレは、コロンナ家がフランスの[[法廷]]で[[証言]]した各種の[[情報]]をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した<ref name=pgms/>。

[[ファイル:Manno bandini da siena, bonifacio VIII, rame battuto e bronzo fuso su anima in legno, inv. 1668, 01.JPG|right|thumb|130px|1668年に制作されたボニファティウス8世の像]]
[[1303年]]9月、ノガレはコロンナ家の一族と結託して、教皇が教皇離宮のある[[アナーニ]]に滞在中、同地を襲撃した([[アナーニ事件]])<ref name=tsuru54/>。

ギョーム・ド・ノガレと[[シアッラ・コロンナ]]は、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた<ref name=tsuru54/>。教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と[[祭服]]を奪った<ref name=pgms/><ref name=tsuru54/>。これについては両者の思惑が異なり、シアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレはのがれられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった<ref name=pgms/>。2人は激しい言い争いになり、それが翌日までつづいたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された<ref name=pgms/>。教皇の監禁は3日間にわたり、ナポリ王カルロ2世とシチリア王[[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]]が教皇に暴力を振るわれていることを聞きつけて、その救出のための準備をしていたという<ref name=pgms/><ref name=tsuru54/>。ボニファティウス8世は[[民衆]]の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたが、辱められた彼はこの事件に動揺し、この年の[[10月11日]]、急逝した<ref name=ikegami258/>。高齢と長年の不摂生で[[腎臓]]を患っていたのが死因であるとされているが、人びとはこれを「憤死」と表現した<ref name=tsuru54/>。

の事件ののち、教皇庁に対するフランスの圧迫強まり、やがて[[アヴィニョン捕囚]]を迎える(教皇のバビロン捕囚)。

== 人物評価 ==
[[ファイル:Tomb of Boniface VIII.jpg|left|thumb|260px|ボニファティウス8世の石棺(ヴァチカン)]]
同時代のフィレンツェの政治家[[ディーノ・コンパーニ]]による[[年代記]]には「この法王は猛烈果断な気性と卓越せる才能を持ち、自我流に教会を導き、自説に同意しない者を斥けた」と記されている。

ボニファティウスはまた、聖職にある身としてはめずらしいほどの[[現実主義]]者であり、また、「[[最後の審判]]」は存在しないと信じていた<ref name=tsuru54/>。敬虔な人から悩みを打ち明けられても、「[[イエス・キリスト]]はわれらと同じただの[[人間]]である」と述べ、「自分の身さえ救うことのできなかった男が他人のために何をしてくれようか」と公言してはばからなかったともいわれている<ref name=tsuru54/>。

ボニファティウス8世は、何ごとによらず華美を好み、[[美食]]家で、[[宝石]]でかざったきらびやかな[[衣服]]を身にまとい、[[金]]や[[銀]]などの[[宝飾品]]を常に着用していた<ref name=tsuru54/>。[[賭博]]も好み、教皇庁はまるで[[カジノ]]のようであったという<ref name=tsuru54/>。性的には精力絶倫で、あやしげな男女が毎晩のように教皇の寝所に出入りしたともいわれている<ref name=tsuru54/>。

その一方でボニファティウス8世は[[学問]]の造詣深く、[[ヴァチカン]]の[[公文書]]保管庫を改造して蔵書の[[目録]]をつくらせ、上述のようにローマ大学を創設し、ジョットら画家や彫刻家の[[パトロン]]となって[[文化]]・[[芸術]]の保護者となった<ref name=pgms/>。以上、さまざまな点で[[ルネサンス]]時代を先取りするかのような印象がもたれる教皇である<ref name=pgms/>。

== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<div class="references-small">{{Reflist|2}}</div>

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[藤田朋久]]|chapter=フィリップ4世|editor=|year=1995|month=5|title=人物世界史1 西洋編(古代~17世紀)|publisher=[[山川出版社]]|series=|isbn=4-634-64300-6
|ref=藤田}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤彰一]]・[[池上俊一]]|chapter=|editor=|year=1997|month=5|title=世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成|publisher=[[中央公論社]]|series=|isbn=4-12-403410-5|ref=池上}}
* {{Cite book|和書|author=P.G.マックスウェル・スチュアート|translator=月森左知・菅沼裕乃(訳)|chapter=|editor=[[高橋正男]](監修)|year=1999|month=12|title=ローマ教皇歴代誌|publisher=[[創元社]]|series=|isbn=4-422-21513-2|ref=PGMS}}
* {{Cite book|和書|author=[[鶴岡聡]]|chapter=|editor=|year=2012|month=8|title=教科書では学べない世界史のディープな人々|publisher=[[中経出版]]|series=|isbn=978-4-8061-4429-8|ref=鶴岡}}

== 関連項目 ==
*[[ウナム・サンクタム]]
*[[政教分離の歴史]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.fordham.edu/halsall/source/b8-clericos.html The Bull Clericis Laicos] (Medieval Sourcebook)
* [http://www.fordham.edu/halsall/source/b8-clericos.html The Bull Clericis Laicos] (Medieval Sourcebook)
* [http://www.bautz.de/bbkl/b/bonifatius_viii_p.shtml ''Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon"] "Bonifatius VIII"
* [http://www.bautz.de/bbkl/b/bonifatius_viii_p.shtml ''Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon"] "Bonifatius VIII"

== 関連項目 ==
*[[ウナム・サンクタム]]
*[[政教分離の歴史]]


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2012年10月24日 (水) 23:17時点における版

ボニファティウス8世
第193代 ローマ教皇

ボニファティウス8世像。フィレンツェ、ドゥオーモ付属美術館蔵。
教皇就任 1294年12月24日
教皇離任 1303年10月11日
先代 ケレスティヌス5世
次代 ベネディクトゥス11世
個人情報
出生 1235年
イタリアの旗 イタリア アナーニ
死去 1303年10月11日
イタリアの旗 イタリア ローマ
その他のボニファティウス
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ボニファティウス8世(Bonifatius VIII 1235年ころ - 1303年10月11日)は、中世のローマ教皇(在位1294年 - 1303年)。フランス王およびコロンナ家と争い、最晩年に起こったアナーニ事件の直後に「憤死」した。学術文化の保護者としても知られる。

教皇登位まで

ローマ市の南東方向にあるアナーニラツィオ州フロジノーネ県)の名門(貴族階級)出身で、本名はベネデット・カエターニ(Benedetto Caetani)である[1][2]。歴代教皇の別荘があるスポレートウンブリア州ペルージャ県)などで教会法などを学び、パリやローマで聖堂参事会の会員となり、1276年ローマ教皇庁入りを果たした。枢機卿に昇進したのち、教皇特使としてイタリア半島各地やフランスなどを往復し、各界に多くの知遇を得た[2]

第192代ローマ教皇のケレスティヌス5世は有徳の人であったが、「教皇の器にあらず」と在位数ヶ月にして自ら退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のカエターニ枢機卿に相談した[1]。ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実は、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎夜ささやき、教皇を不眠症神経衰弱に追い込んだ張本人はカエターニ自身であったといわれている[2]。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した[1]。ケレスティヌス退任後、ただちに再びコンクラーヴェ(教皇選挙会議)がひらかれ、グレゴリウス10世の定めた手続きにしたがって後継者が選ばれることとなって、その結果カエターニ枢機卿がボニファティウス8世としてローマ教皇に選出された[1]

前任のケレスティウス5世は、その就任時にナポリ王国カルロ2世に身をゆだね、カルロ王が望む人物を役職につけ、ローマではなくナポリに住むことにまで同意していた[1]。しかし、ボニファティウス8世が就任した当時のローマは繁栄期を迎えていた。

治世

ボニファティウス8世が教皇となって最初にしたことは、ナポリ王カルロ2世が送り込んだ人物を罷免することと教皇宮をナポリからローマに移すことであった[1]。ボニファティウスは、先代のようにカルロ2世を前面にたてることはしなかったが、登位後7年にわたってシチリア島の奪回に意を注いだ[1]。カルロ2世は、称号こそ「シチリア王」の名乗りを許されていたが、シチリアの支配権は失っており、事実上の統治者はアラゴン王国ハイメ2世であった[1]

コロンナ家との対立

ローマを本拠にしていたイタリア有数の貴族コロンナ家が新教皇ボニファティウス8世に反感をいだいたのは、当初ボニファティウスの傲慢さが原因だったともいわれるが、アラゴン派に属していた彼らは教皇のシチリア政策にも反対していた[1]。そこで、前教皇退位の経緯に着目し退位の合法性に疑問を呈した。もしも、この退任が教会法に違背しているならば、新教皇の正統性が揺らぐこととなる[注釈 1]。ボニファティウス8世は、これに対し、みずからの保身のため前教皇をローマ南東36キロメートルのフモーネ城牢獄に幽閉した[1][注釈 2]

1297年、コロンナ家はアナーニからローマへ移送中の教皇の個人財産を強奪するという実力行使に出た。その品はのちに返却されたが、コロンナ家はその後も「ボニファティウス8世は真の教皇にあらず」との声明文を発し続けたため、教皇はコロンナ当主とその一族を破門とする命令を発し、一族討伐のための「十字軍」を招集した。1298年、コロンナ家は教皇軍に屈したものの、その年のうちに反乱を起こし、やがてフランスへと逃亡した[1]

フランス王との対立

1294年フランスの王フィリップ4世(端麗王)はガスコーニュフランドルをめぐってイングランドと対立し、イングランド王エドワード1世に対して戦争を開始したが、長期化したこの戦争で必要となった膨大な戦費を調達するため、フランスではじめて全国的課税を実施し、税はキリスト教会にも課せられた[3]。しかし、戦費調達のための教会課税は教皇至上主義を掲げるボニファティウス8世にとって承知できないことであった[3]。敬虔なキリスト教徒の国フランスはローマ教皇庁にとって収入源として重要な地位を占めていたため、教会課税は教皇にとって大きな痛手となったのである[2]

ボニファティウス8世は、聖職者への課税を禁止する勅書を発行した[1]。しかし、このときの対立はボニファティウスがフィリップ4世の祖父ルイ9世(聖王)を列聖したことで、それ以上の事態には発展しなかった[1]

聖年祭とローマの繁栄

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で聖年を宣言するボニファティウス8世(ジョット画、1300年)

ボニファティウス8世は1300年を「聖年」に定めて盛大な祭典(聖年祭)を挙行し、ヨーロッパの全聖職者のローマ巡礼を強制して死後の天国行きを確約した[2]。聖年を定めたのはボニオファティウス8世が最初であり、それ以前には聖年を祝うことはなかった。ローマには多くの巡礼者が集まり、フランス王フィリップの教会課税で苦境に陥ったローマ教会財政は潤いを取り戻した。ジョット・ディ・ボンドーネをはじめとする芸術家がローマに集まり、サン・ピエトロ大聖堂サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂などが改修された。彼は、彫刻家や画家たちに自分の像を多数つくらせている[1]。ボニファティウスはまた、聖職者の養成を企図し、1303年にはローマ・ラ・サピエンツァ大学を設立した。

その一方、ボニファティウスは、フィレンツェの支配を意図して内紛(教皇支持の黒派対白派)を扇動した。1301年ダンテ・アリギエーリはフィレンツェ使節の1人として教皇に会うが、帰途シエーナに滞在中、永久追放の判決を受け、亡命生活を余儀なくされた。ダンテの代表作『神曲』第1部(「地獄篇」)では、ボニファティウス8世は地獄に堕ちた教皇として、逆さまに生き埋めにされ、燃やされる姿が描かれている[2]

フランシスコ会との関係

13世紀前葉、清貧をモットーにアッシジのフランチェスコによって創設された托鉢修道会フランシスコ会は、13世紀中葉まで歴代教皇の恩顧によって司牧活動における諸々の特典を認められており、それが各地の司教の反発を招いていた。1279年に教皇ニコラウス3世が「エクジイト・クィ・セミナート」でフランシスコ会の司牧特典を擁護したことをめぐって激しい論争が巻き起こったが、これが問題となったのは、この時期の貨幣経済の進展が著しく、司教たちが秘蹟の授与など司牧活動に収入源を大きく依存せざるを得なくなってきたという社会の変化と、フランシスコ会への特典がすべて教皇の個人的な恩顧によるものであり、教会法のなかで規定を設けない状態のままになっていたという法的不備の問題が背景にあった。そこで、ボニファティウス8世はこの問題を決着させるべく、1300年に教皇勅書「スーペル・カテドラム」を発布して聴罪葬儀に関わる限定的な一部の規定以外の特典を廃止する決定を下した[注釈 3]

また、フィオーレのヨアキムの著作の影響がフランシスコ会にもおよび、1255年にフランシスコ会修道士のボルゴ・サン・ドンニーノのゼラルドによってヨアキム主義的な『永遠の福音入門』が出版されると、その反響は大きく、教皇アレクサンデル4世はヨアキム主義を否定したが、13世紀後半には、北イタリアから南フランスにかけての地域で、ヨアキム主義の影響を受けたフランシスコ会の少数派が清貧の厳格な実践を唱えるようになった(スピリトゥアル主義)。北イタリアのスピリトゥアル主義(心霊派、厳格派)は、1280年以降フランシスコ会内部でも弾圧されたが、教皇ケレスティヌス5世はこれに同情的で「教皇ケレスティヌスの貧しき隠遁者」として分離が赦された。しかしボニファティウス8世は、これを弾劾している。

アナーニ事件

アナーニ聖堂のボニファティウス8世像

1301年、フランス王フィリップ4世は再びフランス国内の教会に王権を発動し、教会課税を推しすすめようとしたが、この問題について、ボニファティウス8世は1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発して教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越し、教皇に服従しない者は救済されないと宣した[1][2]。「ウナム・サンクタム」は、教皇の首位権について述べた最も明快かつ力強い声明文であり、歴代教皇が政敵から身を守る際の切り札として利用された[1]。さらにボニファティウスは、「聴け最愛の子ら」という回勅を発してフィリップ4世に対し教皇の命にしたがうよう促した[1][2]

1302年、フィリップ4世は国内の支持を得るために聖職者貴族市民の3身分からなる「三部会」と呼ばれる議会パリノートルダム大聖堂に設け、フランスの国益を宣伝して支持を求めた[3]。人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して国内世論を味方につけた[2]。ボニファティウス8世は怒ってフィリップを破門にしたが、フィリップの側も悪徳教皇弾劾公会議を開くよう求めて両者は決裂した[2]。このとき、ローマ教皇とフランス王の和解に反対し、フィリップ4世に対し、教皇と徹底的に戦うべきことを進言したのが、「レジスト」と称された世俗法曹家出身のギヨーム・ド・ノガレであった[1]

フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ教皇の捕縛を計った[4]。ノガレの両親はかつて異端審問裁判火刑に処せられていたためローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた[1]。いっぽう、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた[1][2]。ノガレは、コロンナ家がフランスの法廷証言した各種の情報をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した[1]

1668年に制作されたボニファティウス8世の像

1303年9月、ノガレはコロンナ家の一族と結託して、教皇が教皇離宮のあるアナーニに滞在中、同地を襲撃した(アナーニ事件[2]

ギョーム・ド・ノガレとシアッラ・コロンナは、教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」と面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するよう求めた[2]。教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪った[1][2]。これについては両者の思惑が異なり、シアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレはのがれられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出させ、いずれは退任させる腹づもりであった[1]。2人は激しい言い争いになり、それが翌日までつづいたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された[1]。教皇の監禁は3日間にわたり、ナポリ王カルロ2世とシチリア王フェデリーコ2世が教皇に暴力を振るわれていることを聞きつけて、その救出のための準備をしていたという[1][2]。ボニファティウス8世は民衆の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたが、辱められた彼はこの事件に動揺し、この年の10月11日、急逝した[4]。高齢と長年の不摂生で腎臓を患っていたのが死因であるとされているが、人びとはこれを「憤死」と表現した[2]

この事件ののち、教皇庁に対するフランスの圧迫が強まり、やがてアヴィニョン捕囚を迎える(「教皇のバビロン捕囚」)。

人物評価

ボニファティウス8世の石棺(ヴァチカン)

同時代のフィレンツェの政治家ディーノ・コンパーニによる年代記には「この法王は猛烈果断な気性と卓越せる才能を持ち、自我流に教会を導き、自説に同意しない者を斥けた」と記されている。

ボニファティウスはまた、聖職にある身としてはめずらしいほどの現実主義者であり、また、「最後の審判」は存在しないと信じていた[2]。敬虔な人から悩みを打ち明けられても、「イエス・キリストはわれらと同じただの人間である」と述べ、「自分の身さえ救うことのできなかった男が他人のために何をしてくれようか」と公言してはばからなかったともいわれている[2]

ボニファティウス8世は、何ごとによらず華美を好み、美食家で、宝石でかざったきらびやかな衣服を身にまとい、などの宝飾品を常に着用していた[2]賭博も好み、教皇庁はまるでカジノのようであったという[2]。性的には精力絶倫で、あやしげな男女が毎晩のように教皇の寝所に出入りしたともいわれている[2]

その一方でボニファティウス8世は学問の造詣深く、ヴァチカン公文書保管庫を改造して蔵書の目録をつくらせ、上述のようにローマ大学を創設し、ジョットら画家や彫刻家のパトロンとなって文化芸術の保護者となった[1]。以上、さまざまな点でルネサンス時代を先取りするかのような印象がもたれる教皇である[1]

脚注

注釈

  1. ^ ただし、コロンナ家が当初から本気で教会法違反の疑問を追及していたわけではなかった。コロンナ家出身の2人の枢機卿もコンクラーヴェではボニファティウス8世支持の票を投じている。マックスウェル・スチュアート(1999)p.160
  2. ^ ケレスティヌス5世は感染症に罹患し、幽閉後10ヶ月の間、膿瘍の痛みに苦しんだのちフモーネの牢獄で死去した。マックスウェル・スチュアート(1999)p.160
  3. ^ これに対するフランシスコ会側の反発は大きく、1304年にボニファティウスの教勅はいったん撤回された。教皇クレメンス5世の時代にようやく教会法に規定されるようになった。

出典

参考文献 

  • 藤田朋久「フィリップ4世」『人物世界史1 西洋編(古代~17世紀)』山川出版社、1995年5月。ISBN 4-634-64300-6 
  • 佐藤彰一池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論社、1997年5月。ISBN 4-12-403410-5 
  • P.G.マックスウェル・スチュアート 著、月森左知・菅沼裕乃(訳) 訳、高橋正男(監修) 編『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年12月。ISBN 4-422-21513-2 
  • 鶴岡聡『教科書では学べない世界史のディープな人々』中経出版、2012年8月。ISBN 978-4-8061-4429-8 

関連項目

外部リンク