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{{Otheruses|元NFL選手|[[ギャングスター]]|モンタナ・ジョー}} |
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{{Infobox NFLplayer |
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[[ファイル:Joe Montana ESPN cropped2.jpg|thumb|right|200px|ジョー・モンタナ(2006年)]] |
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|選手名=ジョー・モンタナ |
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'''ジョー・モンタナ'''('''Joe Montana'''、本名:Joseph Clifford Montana Jr.、[[1956年]][[6月11日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の元[[NFL]]選手。ポジションは[[アメリカンフットボールのポジション#クォーターバック|クォーターバック]](QB)。アメリカ合衆国・[[ペンシルベニア州]]出身。史上最高のQBと称されることが多いが、これは[[スーパーボウル]]4戦全勝(MVP3回)という実績に加え、「'''モンタナマジック'''」と呼ばれる数多くの華麗な逆転勝利を数多く成功させたことによる。特に[[1989年]]の第23回スーパーボウルでのザ・ドライブと称される逆転劇は、スーパーボウル史上の伝説として語られている。[[2000年]]、[[プロフットボール殿堂]]入りした。なお、[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ|サンフランシスコ・49ers]]での背番号'''16'''は[[永久欠番]]となっている<ref>{{cite web|url=http://www.nfljapan.com/todayinnfl/2010/1215/index.html |title=“伝説のQB”モンタナの背番号16が永久欠番に |publisher=NFL JAPAN |date=2010-12-15 |accessdate=2010-12-19}}</ref>。 |
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|欧文表記=Joe Montana |
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|写真ファイル名=Joe Montana ESPN cropped2.jpg |
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|写真サイズ=300 |
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|キャプション=2006年 |
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|現所属チーム= |
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|背番号= |
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|引退選手背番号=16, 19 |
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|ポジション=[[クォーターバック]] |
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|他のポジション= |
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|生年月日={{生年月日と年齢|1956|6|11}} |
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|没年月日=<!--{{死亡年月日と没年齢||||||}}--> |
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|出身地={{USA}}[[ペンシルベニア州]][[ニューイーグル]] |
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|身長={{フィートとcm (身長用変換)|6|2}} |
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|体重={{ポンドとkg (体重用変換)|205}} |
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|初出場年=1979年 |
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|初出場チーム=サンフランシスコ・フォーティナイナーズ |
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|経歴=<nowiki></nowiki> |
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|大学=[[ノートルダム大学]] |
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|プロ入り年度=1979年 |
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|ドラフト巡=3 |
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|○番目=82 |
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|プロ入り年度2= |
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|ドラフト巡2= |
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|プロ入り年度3= |
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|ドラフト巡3= |
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|○番目2= |
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|プロ入り年度4= |
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|過去の所属チーム=<nowiki></nowiki> |
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* [[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]] (1979年-1992年) |
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* [[カンザスシティ・チーフス]] (1993年-1994年) |
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|年度=1994年 |
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|成績名1=[[アメリカンフットボール#タッチダウン|TD]]/[[アメリカンフットボールの用語集#イ|INT]] |
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|成績値1= 273回/139回 |
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|成績名2= パス獲得ヤード |
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|成績値2= 40,551 |
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|成績名3= QBレイティング |
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|成績値3= 92.3 |
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|成績名4= ラン獲得ヤード |
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|成績値4= 1,676ヤード |
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|成績名5= ラッシングTD |
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|成績値5= 20回 |
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|成績名6= |
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|成績値6= |
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|nfl= MON392207 |
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|pfr= MontJo01.htm |
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|cbs= |
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|espn= 6445 |
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|si= |
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|受賞歴・記録=<nowiki></nowiki> |
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* プロボウル選出8回:1981年、1983年-1985年、1987年、1988年、1990年、1993年 |
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* オールプロ選出6回:1981年、1983年、1984年、1987年、1989年、1990年 |
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* スーパーボウル優勝4回:[[第16回スーパーボウル|第16回]]、[[第19回スーパーボウル|第19回]]、[[第23回スーパーボウル|第23回]]、[[第24回スーパーボウル|第24回]] |
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* [[スーパーボウルMVP]]3回:第16回、第19回、第24回 |
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* [[最優秀選手 (NFL)|最優秀選手]]2回:1989年、1990年 |
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* AP通信選出年間最優秀男性アスリート2回:1989年、1990年 |
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* [[UPI通信]][[ナショナル・フットボール・カンファレンス|NFC]]最優秀選手(1981年) |
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* カムバック賞 (NFL)|カムバック賞]]:1986年 |
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* [[スポーツ・イラストレイテッド]]最優秀スポーツマン(1990年) |
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* バート・ベル賞(1989年) |
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* [[コットンボウル]]MVP(1979年) |
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* NFL75周年記念チーム |
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* NFL1980年代オールディケイドチーム |
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* [[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]][[永久欠番]] |
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* [[プロフットボール殿堂]](2000年) |
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|NFL殿堂=154 |
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|カレッジフットボール殿堂= |
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|カナディアンフットボール殿堂= |
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'''ジョー・モンタナ'''('''Joe Montana'''、本名:Joseph Clifford Montana Jr.、[[1956年]][[6月11日]] - )は[[ペンシルベニア州]][[ニューイーグル (ペンシルベニア州)|ニューイーグル]]出身の[[アメリカンフットボール]]選手。[[NFL]]の[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ]]、[[カンザスシティ・チーフス]]でプレーした。ポジションは[[クォーターバック]](QB)。1980年代に4回[[スーパーボウル]]に優勝、3回[[スーパーボウルMVP]]に選ばれている<ref name="hof">{{cite web|url=http://www.profootballhof.com/hof/member.aspx?player_id=154 |title=Hall of Famers |publisher=[[プロフットボール殿堂]] |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。「ジョー・クール」と呼ばれた<ref name="usatoday">{{cite web|url=http://www.usatoday.com/sports/football/nfl/2007-07-23-no-1-joe-montana_N.htm |title=No. 1: Montana's Super success raised the bar |publisher=[[USAトゥデイ]] |date=2007-07-23 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。[[2000年]]、[[プロフットボール殿堂]]入りしている。[[サンフランシスコ・フォーティナイナーズ|サンフランシスコ・49ers]]での背番号16は[[永久欠番]]となっている<ref>{{cite web|url=http://www.nfljapan.com/todayinnfl/2010/1215/index.html |title=“伝説のQB”モンタナの背番号16が永久欠番に |publisher=NFL JAPAN |date=2010-12-15 |accessdate=2010-12-19}}</ref>。 |
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史上最高のQBと称されることが多いが、これは[[スーパーボウル]]4戦全勝(MVP3回)という実績に加え、「モンタナマジック」と呼ばれる華麗な逆転勝利を数多く成功させたことによる<ref>{{cite web|url=http://www.profootballhof.com/history/release.aspx?release_id=717 |title=The Best Ever? The story of 'Joe Cool' |publisher=プロフットボール殿堂 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。特に[[1989年]]の[[第23回スーパーボウル]]での[[#ザ・ドライブ|ザ・ドライブ]]と称される逆転劇は、スーパーボウル史上の伝説として語られている<ref name="top6">{{cite web|url=http://www.nfljapan.com/headlines/34171.html |title=名QBモンタナの偉大な試合トップ6 |publisher=NFL JAPAN |date=2012-06-12 |accessdate=2012-06-28 }}</ref>。 |
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== 略歴 == |
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[[1979年]] [[ノートルダム大学]]から、ドラフト3巡目(全体の82番目)指名で49ersへ加入した。ドラフト指名が3巡目となったのは、肩も弱くサイズもなかったため、有能なクォータバックとしては認知されていたものの、中々指名されるまでには至らなかった。しかし当時のヘッドコーチ、[[ビル・ウォルシュ]]は、自身が用いた、短いパスを正確につないで確実に得点を挙げていくという戦術「[[ウェストコーストオフェンス]]」にマッチする、「俊敏でパスが正確」というクイックデリバリー能力のあるクォーターバックを欲している時に、モンタナが3巡目指名になっても残っていた事に着目、即指名を決めたというエピソードがある。初年度は[[スティーブ・ディバーグ]]の控えで23回のパス試投に留まった。<ref name=jrank>{{cite web|title=Picked by 49ers |work=jrank.org |url=http://sports.jrank.org/pages/3292/Montana-Joe-Picked-by-49ers-in-Third-Round-Draft.html | accessdate=2008-03-13}}</ref> |
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翌1980年のシーズン終盤から、チームのエースQBとなった。12月7日に地元[[キャンドルスティック・パーク]]で行われた[[ニューオーリンズ・セインツ]]戦で、ハーフタイムに7-35とリードされたゲームは第4Q開始時点でも21-35とセインツがリードしていた。しかしこの試合はオーバータイムに持ち込まれ、最後はキッカーの[[レイ・ワーシング]]がフィールドゴールを決めて49ersが逆転勝利した。この試合はモンタナがキャリア16年で31回(49ers時代には26回)達成する、第4Qからの逆転勝利した最初の試合となった<ref name=hof2>{{cite web|title=The Best Ever? (pg 2) |work=profootballhof.com |url=http://www.profootballhof.com/hof/release.jsp?RELEASE_ID=721 |accessdate=2008-03-13}}</ref><ref>VHS 伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN4-16-911614-3</ref>。この年のチームは6勝10敗、モンタナは1795ヤードを投げてタッチダウン15回、インターセプトは9回であった。またパス成功率64.5%はリーグトップの数字だった。<ref name=jrank /> |
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== 経歴 == |
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[[1982年]] [[シンシナティ・ベンガルズ]](先発QBはケン・アンダーソン)を26-21で破り[[第16回スーパーボウル]]を制覇した。この試合でモンタナはパス22回中14回成功、157ヤードを投げ、1タッチダウンを記録、スーパーボウルMVPに選ばれた。[[1985年]]には[[ダン・マリーノ]]とのQB対決が話題となった[[第19回スーパーボウル]]で、[[マイアミ・ドルフィンズ]]を38-16で破り2度目の優勝を果たした。1986年に[[ニューヨーク・ジャイアンツ]]の[[ジム・バート]]のヒットで負傷、この時の欠場によりフォーティナイナーズは控えQBとして[[スティーブ・ヤング]]を獲得した。 |
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=== 大学入学まで === |
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[[ペンシルベニア州]]西部<ref>[[ダン・マリーノ]]、[[ジョニー・ユナイタス]]、[[ジョニー・ルージャック]]、[[ジョー・ネイマス]]、[[ジョージ・ブランダ]]、[[ジム・ケリー]]、[[テリー・ハンラティ]]などタフなQBを多く出している地域</ref>の[[ニューイーグル (ペンシルベニア州)|ニューイーグル]]に一人っ子として生まれた<ref name="schwartz">{{cite web|url=http://espn.go.com/sportscentury/features/00016306.html |title=Montana was comeback king |publisher=ESPN |author=Larry Schwartz |date= |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。[[炭鉱]]の町で[[ピッツバーグ]]から南に40km、同州[[モノンガヒーラ]]で育った<ref name="schwartz"/><ref name="okuda">{{cite book|和書|title=NFL 100QBs NFL 伝説の100クォーターバック |Pages=10-13 |publisher=[[ベースボールマガジン社]] |year=2006 ISBN=4-583-61403-9 }}</ref>。母方の祖父母はそれぞれ[[イタリア系アメリカ人]]であった。 |
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8歳の時からアメリカンフットボールを始めた彼は[[野球]]や[[バスケットボール]]にも興味を持ち、高校ではアメリカンフットボール、野球、バスケットボールを行った。バスケットボールでは州のオールチームに選ばれた。[[ノースカロライナ州立大学]]からバスケットボールでの[[奨学金]]のオファーも受けた。アメリカンフットボールでは当初控え選手であったが、その後先発QBに昇格し、最終学年のときには[[パレード (雑誌)|パレード誌]]よりオールアメリカンに選ばれた。[[ノートルダム大学]]から奨学金のオファーを受けた彼は同大学への進学を決めた。彼が進学を決めた理由の1つには、彼の少年時代のアイドル、[[テリー・ハンラティ]]の出身校であるということもあった。彼の卒業から32年後の2006年、高校はフットボールスタジアムをジョー・モンタナ・スタジアムと改名した<ref>{{cite web|url=http://www.pittsburghlive.com/x/pittsburghtrib/news/cityregion/s_46 |title=Local teams to vie in opening week of high school football |publisher=[[ピッツバーグ・トリビューン]] |author=Bruce Wald |date=2006-08-27 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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[[1989年]]には[[シンシナティ・ベンガルズ]](先発QBは[[ブーマー・アサイアソン]])を20-16で破り[[第23回スーパーボウル]]を制覇した。[[1990年]] [[デンバー・ブロンコス]](先発QBは[[ジョン・エルウェイ]])を55-10で破り[[第24回スーパーボウル]]を制覇。この年のスーパーボウルは、史上最多得点差のついたゲームとなった。史上初のスーパーボウル3連覇を目指した1990年の[[NFCチャンピオンシップゲーム]]で[[レナード・マーシャル]]にサックされた際に負傷退場、13-15で敗れた。その後同年のプレシーズンゲームでひじを痛めてしまいおよそ2年間欠場している間に控えQBの[[スティーブ・ヤング]]に先発QBの座を奪われてしまい、[[1992年]] [[カンザスシティ・チーフス]]へ移籍した。[[1995年]]のシーズン終了後、現役を引退した。 |
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=== ノートルダム大学 === |
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彼が入学した前年の1973年、[[アラ・パルセギアン]]ヘッドコーチに率いられたチームは全米チャンピオンとなっていた。1974年に入学した彼はチームの方針から練習生扱いとされ、フレッシュマンの試合に出場したのみであった。同年12月15日、パルセギアンが健康上の理由で辞任、[[ダン・ディバイン]]が後任となった。1975年、彼は先発QBとしての地位は確立していなかったが[[ノースウェスタン大学]]戦で31-7と勝利<ref>{{cite web|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F10E1FFD395E16738DDDA10A94D1405B858BF1D3&scp=3&sq=Ara%20Parseghian%20montana&st=cse |title=Sophomore Leads Irish To Victory |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |date=1975-09-27 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>、[[ノースカロライナ大学チャペルヒル校|ノースカロライナ大学]]戦で残り5分11秒、6-14と敗れていたところ、21-14とチームを逆転勝利に導いた。[[空軍士官学校 (アメリカ合衆国)|空軍士官学校]]戦では10-30とリードされた第4Qから出場し、31-30と逆転勝利した。 |
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1976年シーズン開幕前に肩を[[脱臼]]した彼はシーズンを棒に振った<ref name="okuda"/><ref name="schwartz"/>。1977年、当初第3QBだった彼は3試合目の[[パデュー大学]]戦で残り11分、14-24とリードされたところで途中出場、154ヤードを投げて1TDパスを決めるなど、31-24と逆転勝利した<ref name="okuda"/><ref name="schwartz"/>。翌週から先発QBに昇格した彼は残り9試合を全勝、[[コットンボウル]]でランキング1位の[[テキサス大学]]を38-10で破り<ref name="schwartz"/>、チームは11勝1敗で[[カレッジフットボール|全米]]チャンピオンとなった<ref name="okuda"/>。1978年の[[南カリフォルニア大学|USC]]戦では前半を6-24で折り返したが第4Qに25-24と逆転に成功、最後は相手FGが決まり25-27と敗れた。1979年1月1日に[[ヒューストン大学]]との間で行われたコットンボウルで、彼は[[寒波]]のため[[低体温症]]で苦しんでいた<ref name="okuda"/>。ハーフタイムには[[点滴静脈注射|点滴]]を受けたり、[[ブイヨン]]のスープを飲んで体を温めた。第4Q残り7分37秒にフィールドに復帰した彼は12-34から23点を取り35-34とチームを逆転に導いた<ref name="okuda"/><ref name="schwartz"/><ref>{{cite web|url=http://espn.go.com/page2/s/list/bestbowls.html |title=The List: Greatest bowl games |publisher=ESPN |date= |accessdate=2012-03-03 }}</ref><ref name="centurys">{{cite web|url=http://sportsillustrated.cnn.com/centurys_best/news/1999/08/13/flashback_montana2/ |title=Born to be a quarterback |publisher=[[スポーツ・イラストレイテッド]] |author=[[ポール・ジマーマン]] |date=1999-08-13 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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=== サンフランシスコ・49ers === |
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彼がNFLに指名される当時は[[NFLスカウティング・コンバイン]]はなかった(1982年よりスタート)。ドラフト候補選手たちは1から9にランクされており(1が最低、9が最高評価)、彼は全体評価で6.5、肩の強さで6と評価されていた。その年最も高い評価を受けていたQBは[[ワシントン州立大学]]の[[ジャック・トンプソン (アメリカンフットボール)|ジャック・トンプソン]]であった。 |
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[[1979年のNFL|1979年]]、[[NFLドラフト]]3巡目(全体の82番目)で49ersより指名された。QBとしては1巡で指名されたトンプソン、[[フィル・シムズ]]、[[スティーブ・フラー]]の3人に続く4番目の指名であった<ref name="usatoday"/>。ドラフト指名が3巡目となったのは、肩も弱くサイズもなかったため、有能なクォータバックとしては認知されていたものの、中々指名されるまでには至らなかった。しかし当時のヘッドコーチ、[[ビル・ウォルシュ]]は、自身が用いた、短いパスを正確につないで確実に得点を挙げていくという戦術「[[ウェストコーストオフェンス]]」にマッチする、「俊敏でパスが正確」というクイックデリバリー能力のあるクォーターバックを欲している時に、モンタナが3巡目指名になっても残っていた事に着目、即指名を決めたというエピソードがある<ref name="okuda"/>。初年度は[[スティーブ・ディバーグ]]の控えで23回のパス試投に留まった<ref name=jrank>{{cite web|title=Picked by 49ers |work=jrank.org |url=http://sports.jrank.org/pages/3292/Montana-Joe-Picked-by-49ers-in-Third-Round-Draft.html | accessdate=2008-03-13}}</ref>。 |
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翌[[1980年のNFL|1980年シーズン]]終盤から、チームのエースQBとなった<ref name="okuda"/>。12月7日に地元[[キャンドルスティック・パーク]]で行われた[[ニューオーリンズ・セインツ]]戦で、ハーフタイムに7-35とリードされたゲームは第4Q開始時点でも21-35とセインツがリードしていた。しかしこの試合はオーバータイムに持ち込まれ、最後はキッカーの[[レイ・ワーシング]]がフィールドゴールを決めて49ersが逆転勝利した<ref name="okuda"/>。この試合はモンタナがキャリア16年で31回(49ers時代には26回)達成する、第4Qからの逆転勝利した最初の試合となった<ref name=hof2>{{cite web|title=The Best Ever? (pg 2) |work=profootballhof.com |url=http://www.profootballhof.com/hof/release.jsp?RELEASE_ID=721 |accessdate=2008-03-13}}</ref><ref>VHS 伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN4-16-911614-3</ref>。この年のチームは6勝10敗、モンタナは1,795ヤードを投げてタッチダウン15回、インターセプトは9回であった。またパス成功率64.5%はリーグトップの数字だった<ref name=jrank />。 |
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[[1981年のNFL|1981年]]、 チームは13勝3敗の成績をあげた<ref name="schwartz"/>。この年モンタナは[[プロボウル]]に初めて選ばれた。また第4Qに2度の逆転勝利を演じた。1982年1月10日に[[キャンドルスティック・パーク]]で行われた[[ダラス・カウボーイズ]]との[[NFCチャンピオンシップゲーム]]は残り4分54秒でカウボーイズがTDをあげて21-27とリードした。ナイナーズは自陣11ヤードからの攻撃を開始、敵陣6ヤードまで前進した残り58秒、第3ダウン残り3ヤードから、モンタナは右に走りながら[[ドワイト・クラーク]]へ浮かしたパスを投げ、これが決勝TDパスとなりナイナーズが28-27と逆転勝利した<ref name="okuda"/>。このプレーは'''「ザ・キャッチ」'''として知られている<ref name="usatoday"/><ref name="schwartz"/>、このプレー終了後カウボーイズには残り51秒の時間が残されていたが、試合はそのまま28-27で終わり、ナイナーズが初のスーパーボウル出場を決めた。[[第16回スーパーボウル]]では、自陣32ヤードからの最初の攻撃でダブルリバースからのフリーフリッカーで、TE[[チャールズ・ヤング]]への14ヤードのパス、[[フレディ・ソロモン]]への14ヤードのパスなどで前進、最後は自らのQBスニークで7-0と先制した<ref name="complete16">{{cite book|author=Richard J. Brenner |year=1988 |title=THE COMPLETE SUPER BOWL STORY |publisher=ARMADA |location=London |pages=77-81 |isbn=0-00-693278-9 }}</ref>その後自陣8ヤードからの攻撃では、[[フレディ・ソロモン]]への20ヤードのパス、ドワイト・クラークへの12ヤードのパスなどで前進、プレイアクションからの[[アール・クーパー]]への11ヤードのTDパスで14-0とリードを広げた。92ヤードのタッチダウンドライブはスーパーボウル記録となった。この試合でモンタナは、パス22回中14回成功、157ヤード、1TDパス、ランでも1TDをあげて26-21で[[シンシナティ・ベンガルズ]]に勝利<ref name="schwartz"/>、[[スーパーボウルMVP|MVP]]に選ばれた<ref name="centurys"/>。[[カレッジフットボール]]で全米チャンピオンとなり、かつスーパーボウルを制覇したQBは他に[[ジョー・ネイマス]]しかいない。 |
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[[1982年のNFL|1982年]]、ストライキで9試合に短縮されたシーズン、彼は2,613ヤードを投げて17TD、当時のNFL記録となる5試合連続で300ヤード以上を投げたが、チームは3勝6敗でプレーオフ出場を逃した<ref name="yowell">{{cite web|url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703740004574513473606656990.html |title=1984: Redskins Survive Comeback by 49ers to Win NFC Championship |publisher=[[ウォールストリートジャーナル]] |author=KEITH YOWELL |date=2010-01-08 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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[[1983年のNFL|1983年]]には3,910ヤードを投げて26TD、[[プロボウル]]に選ばれた。チームは10勝6敗で[[NFC西地区]]優勝を果たした<ref name="yowell"/>。ディビジョナルプレーオフで[[デトロイト・ライオンズ]]を[[フレディ・ソロモン]]への逆転TDパスで24-23と破り、NFCチャンピオンシップゲームでは[[ワシントン・レッドスキンズ]]と対戦した。0-21と相手にリードされたが7分半の間に、モンタナの3本のTDパスで一時同点とした、しかし最後は相手キッカー、[[マーク・モーズリー]]の25ヤードのFGで21-24と敗れた。この試合でモンタナはパス48回中27回成功、347ヤード、3TDをあげた<ref name="yowell"/>。 |
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[[1984年のNFL|1984年]]には2年連続でプロボウルに選ばれる活躍を見せて、NFLが[[1978年のNFL|1978年]]レギュラーシーズン16週となってから初の15勝1敗にチームを導いた<ref name="complete19">{{cite book|author=Richard J. Brenner |year=1988 |title=THE COMPLETE SUPER BOWL STORY |publisher=ARMADA |location=London |pages=91-96 |isbn=0-00-693278-9 }}</ref>。プレーオフでは[[ニューヨーク・ジャイアンツ]]、[[シカゴ・ベアーズ]]を2試合合計44-10と圧勝、レギュラーシーズンで48TDパスのNFL記録を作った[[ダン・マリーノ]]の[[マイアミ・ドルフィンズ]]と対戦した<ref name="schwartz"/>。この試合はドルフィンズ有利と見られていたが<ref name="top6"/>、モンタナはパス35回中24回成功、3TD、スーパーボウル記録となる331ヤード、ランでもQB記録となる59ヤードを走り、38-16で勝利<ref name="okuda"/><ref name="schwartz"/>、2度目の優勝及び自身2度目のMVPに選ばれた<ref name="centurys"/>。 |
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[[1985年のNFL|1985年]]、3,653ヤード、27TDをあげてプロボウルに選ばれる活躍を見せた。チームは10勝6敗でプレーオフに出場したが[[ワイルドカード (スポーツ)|ワイルドカード]]で[[ニューヨーク・ジャイアンツ]]に3-17で敗れた<ref name="bounces">{{cite web|url=http://sports.jrank.org/pages/3294/Montana-Joe-Bounces-Back-from-Back-Injury.html |title=Joe Montana - Bounces Back From Back Injury |publisher=sports.jrank.org |date= |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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[[1986年のNFL|1986年]]、シーズン開幕まもなく、[[脊髄]]に狭い空洞ができていた彼は背中の手術を受けた。医師はモンタナは2度とプレーできなくなるかもしれないと語ったが<ref name="schwartz"/><ref name="bounces"/>、彼は手術を決断、9月下旬に退院した。彼が退院したとき医師は復帰には2,3ヶ月かかるだろうと話したが<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1986/09/23/sports/montana-out-of-hospital.html |title=Montana Out of Hospital |publisher=ニューヨーク・タイムズ |date=1986-09-23 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>、8試合の欠場で<ref name="usatoday"/>55日後に彼は復帰した<ref name="centurys"/>。9月15日に[[故障者リスト]]入りした彼は11月6日に復帰(当時は故障者リスト入りしてもシーズン中に復帰することができた。)、復帰初戦の[[アリゾナ・カージナルス|セントルイス・カージナルス]]戦では270ヤードを投げて3TDパス、43-17と勝利した。この年彼は8試合に出場、キャリアを通じて唯一タッチダウンよりインターセプトが多かった。ミネソタ・バイキングスのQB、[[トミー・クレイマー]]と共に[[カムバック賞 (NFL)|カムバック賞]]に選ばれている。チームは10勝5敗1分でシーズンを終えプレーオフに出場したが、[[ニューヨーク・ジャイアンツ]]戦で彼は相手[[ノーズタックル|ノーズガード]]の[[ジム・バート]]にヒットされた際、あごにヘルメットが当たり負傷退場、チームは3-49で敗れた<ref name="schwartz"/><ref name="bounces"/><ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2002/12/30/sports/sports-of-the-times-a-new-york-football-weekend.html |title=A New York Football Weekend |publisher=ニューヨーク・タイムズ |date=2002-12-30 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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[[1987年のNFL|1987年]]、4月にナイナーズは[[タンパベイ・バッカニアーズ]]からドラフト2巡指名権とトレードで[[スティーブ・ヤング]]を獲得した<ref>{{cite web|url=http://articles.latimes.com/1987-04-25/sports/sp-917_1_steve-young |title=49ers Trade Two Draft Choices for Steve Young |publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]] |date=1987-04-25 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。ストライキで[[NFL選手会]]に所属する大部分の選手が[[ピケッティング|ピケ]]を張って欠場し、多くの代替選手が代わりに出場した際もチームメートの[[ロジャー・クレイグ (アメリカンフットボール)|ロジャー・クレイグ]]、[[ドワイト・クラーク]]や[[ローレンス・テイラー]]、[[マーク・ガスティノー]]、[[ランディ・ホワイト (アメリカンフットボール)|ランディ・ホワイト]]、[[ツートール・ジョーンズ]]、[[スティーブ・ラージェント]]、[[リン・スワン]]、[[トニー・ドーセット]]、[[ハウィー・ロング]]などとピケ破りを行い試合出場を続けた<ref>{{cite web|url=http://goldenrankings.com/mbordelon4345/nfl1987.htm |title=1987 NFL Players Union Strike |publisher=goldenrankings.com |date= |accessdate=2012-03-03 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.realclearsports.com/lists/work_stoppages_in_sports/nfl_strike_1987.html |title=3. 1987 NFL Strike |publisher=realclearsports.com |date=2011-03-14 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。彼はこの年、自己最高の31TDパスを13試合の出場であげ、22本連続パス成功のNFL記録も作り<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1987/12/07/sports/nfl-montana-s-record-helps-49ers-win.html |title=Montana's Record Helps 49ers Win |publisher=ニューヨーク・タイムズ |date=1987-12-07 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>、3,054ヤード、NFLトップのQBレイティング<ref name="hof"/><ref name="bounces"/>102,1の成績をあげた。チームは13勝2敗とNFLトップの成績をあげて、プレーオフ初戦で8勝7敗でシーズンを終えた[[ミネソタ・バイキングス]]と対戦した。バイキングスの[[ジェリー・バーンズ]]ヘッドコーチのゲームプランはモンタナに徹底的にマークし、ライスとのホットラインを絶つことにあった。この試合で彼は4サックされ、24-36と敗れシーズンを終えた<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1988/01/10/sports/vikings-shock-49ers-browns-stop-colts-carter-sets-a-record-in-easy-36-24-victory.html |title=VIKINGS SHOCK 49ERS; BROWNS STOP COLTS: Carter Sets a Record In Easy 36-24 Victory |publisher=ニューヨーク・タイムズ |author=FRANK LITSKY |date=1988-01-10 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。なおスティーブ・ヤングはこの年8試合に出場、QBレイティング120.8の成績をあげた。 |
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[[1988年のNFL|1988年]]にはレギュラーシーズンで不調となり、一時[[スティーブ・ヤング]]にポジションを奪われた。ヤングは11試合に出場、モンタナをトレードに出すべきという声も聞かれた。[[オークランド・レイダーズ|ロサンゼルス・レイダーズ]]に敗れて6勝5敗、地区3位となり、プレーオフ出場も危ぶまれたところで先発QBに復帰、最後の5試合を4勝1敗とし、10勝6敗で地区優勝を果たした。プレーオフでは1年前に敗れた相手、ミネソタ・バイキングスを34-9、[[シカゴ・ベアーズ]]を敵地[[ソルジャー・フィールド]]で28-3と破りスーパーボウル出場を決めた。[[第23回スーパーボウル]]ではパス36回中23回成功、スーパーボウル記録となる357ヤード、2TDを決めて、[[シンシナティ・ベンガルズ]]を20-16で破り3度目のスーパーボウル優勝を果たした。この試合では残り3分20秒で13-16とリードされ自陣8ヤードからの攻撃を残り34秒に[[ジョン・テイラー (アメリカンフットボール)|ジョン・テイラー]]への10ヤードの逆転TDに結びつけた<ref name="schwartz"/>。この攻撃シリーズで彼はパス9回中8回成功、97ヤードを獲得した(反則による罰退があったため92ヤードより長い。)。 |
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{{Main|#ザ・ドライブ}} |
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[[1989年のNFL|1989年]]、第4週の[[フィラデルフィア・イーグルス]]戦では[[バディ・ライアン]]のブリッツディフェンスに8サックを浴びながら、第4Qに4本のTDパスを決めて逆転勝利にチームを導いた<ref name="okuda"/>。[[セントルイス・ラムズ|ロサンゼルス・ラムズ]]との[[マンデーナイトフットボール]]ではパス458ヤードを投げて17点差から逆転した<ref name="okuda"/>。この年彼は3,521ヤード、26TDパス、8インターセプトで、QBレイティングのシーズン記録を更新(1994年、スティーブ・ヤングがこの記録を更新)、ランでも227ヤードを走り3TDをあげ、[[最優秀選手 (NFL)|シーズンMVP]]に選ばれた。チームも14勝2敗<ref>{{cite web|url=http://football.about.com/library/weekly/bl_nflstandings1989.htm |title=NFL Final Standings 1989 |publisher=football.about.com |date= |accessdate=2012-03-03 }}</ref>、敗れた2試合の得失点差の合計はわずか5点であった。プレーオフでチームはミネソタ・バイキングスを41-13、ロサンゼルス・ラムズを30-3で破った。2試合合計で503ヤード、6TD、インターセプトなしの活躍を見せた。[[デンバー・ブロンコス]]との[[第24回スーパーボウル]]ではパス29回中22回成功、297ヤード、当時のスーパーボウル記録となる5TDパス(ライスへ3TD、[[ブレント・ジョーンズ]]とジョン・テイラーにそれぞれ1TD)を決めて55-10と勝利、史上初の3回目のスーパーボウルMVPに選ばれた<ref name="top6"/><ref>{{cite web|url=http://www.nfl.com/superbowl/history/mvp/sbxxiv |title=Super Bowl XXIV MVP |publisher=nfl.com |date=1990-01-29 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。この年のスーパーボウルは、史上最多得点差のついたゲームとなった。プレーオフ3試合で彼は800ヤードを投げて、11TDパス、インターセプト0であった<ref name="schwartz"/>。 |
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[[1990年のNFL|1990年]]、[[アトランタ・ファルコンズ|ファルコンズ]]戦で自己ベストの476ヤード、[[ジェリー・ライス]]への5本を含む6TDパスを記録した。このシーズン彼はチームをNFLトップの14勝2敗に導いた。この年彼は3,944ヤード、26TDを投げたが、一方でキャリアワーストの16インターセプトを記録した。[[スポーツ・イラストレイテッド]]より年間最優秀スポーツマンに選ばれている。史上初のスーパーボウル3連覇を目指した[[ニューヨーク・ジャイアンツ]]との[[NFCチャンピオンシップゲーム]]では、第4Qに[[レナード・マーシャル]]にサックされた際に[[胸骨]]、右手の骨折及び[[脳震盪]]を起こし負傷退場、チームも13-15で敗れた<ref name="okuda"/><ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1991/01/21/sports/montana-s-season-comes-to-end.html |title=Montana's Season Comes to End |publisher=ニューヨーク・タイムズ |date=1991-01-21 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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[[1991年のNFL|1991年]]のプレシーズンゲームでひじを痛めてしまい、その年は全試合に欠場した。 |
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[[1992年のNFL|1992年]]、開幕戦を前に早くても10月まで復帰できない[[故障者リスト]]入りした<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1992/09/03/sports/football-pass-fail-tests-montana-unhappy-hostetler-wobbly-49ers-legend-may-want.html?scp=10&sq=joe+montana+1992&st=nyt |title=Pass-Fail Tests: Montana Is Unhappy and Hostetler Is Wobbly; 49ers' Legend May Want Out |publisher=ニューヨーク・タイムズ |author=MICHAEL MARTINEZ |date=1992-09-03 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。最終戦[[デトロイト・ライオンズ]]戦の後半から出場しパス21回中15回成功、126ヤード、2TDをあげてチームは24-6で勝利した<ref name="hof"/>。しかしこの時点でスティーブ・ヤングがモンタナから完全に先発QBの座を確保していた<ref name="usatoday"/><ref name="schwartz"/>。 |
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=== カンザスシティ・チーフス === |
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[[1993年のNFL|1993年]]4月、[[カンザスシティ・チーフス]]へドラフト1巡全体18位の指名権と引き替えにトレードされた<ref name="arrowhead">{{cite web|url=http://www.arrowheadpride.com/2009/7/17/951229/the-greatest-kansas-city-chiefs-by |title=The Greatest Kansas City Chiefs, By the Numbers: #19 |publisher=arrowheadpride.com |author=Chris Thorman |date=2009-07-17 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。チーフスにはこのシーズン、ロサンゼルス・レイダーズから[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]になった[[マーカス・アレン]]が加入しメディアの注目を集めた。 |
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チーフスは彼に3つの背番号を提示した。ノートルダム大学時代の3番、[[リトルリーグ]]や1979年のトレーニングキャンプで着けた19番、そして[[プロフットボール殿堂]]入りしたQB[[レン・ドーソン]]が着けていたチームの永久欠番である16番である。ドーソンはモンタナに16番を着けてもらいたいと希望したが、彼はそれを断り、19番を着けることを決めて、3年間1,000万ドルでチーフスと契約を結んだ<ref name="arrowhead"/>。[[1993年のNFL|1993年]]彼は負傷もあったが、プロボウルに選ばれる活躍を見せ、[[1970年のNFL|1970年]]以来となるプレーオフでの勝利をチームにもたらし、[[バッファロー・ビルズ]]との[[AFCチャンピオンシップゲーム]]までチームを導いた。 |
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[[1994年のNFL|1994年]]、14試合に出場、第2週には古巣のサンフランシスコ・フォーティナイナーズを24-17で破った<ref name="top6"/>。[[デンバー・ブロンコス]]との[[マンデーナイトフットボール]]ではパス393ヤード、試合終了直前のTDパスを含む3TDを決めて31-28で勝利した<ref name="top6"/>。この年彼は史上5人目となるパス獲得通算40,000ヤードを達成し<ref name="hof"/>、チームをプレーオフに導いた<ref name="schwartz"/>。シーズン終了後、1995年4月18日、[[サンフランシスコ]]で現役引退を発表した。この記者会見は地元テレビ局で報道されたが、[[ジョン・マッデン (アメリカンフットボール)|ジョン・マッデン]]、[[エディ・デバートロ・ジュニア]]などよりスピーチが寄せられた。ナイナーズの元チームメートたちも姿を見せ、[[ビル・ウォルシュ]]がMCを務めた。 |
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チーフスでの2年間で彼は先発して17勝8敗、パス成功率60%、29TD、13INTの成績を残した<ref name="arrowhead"/>。チーフスでのモンタナの後継者はナイナーズでも控えQBだった[[スティーブ・ボノ]]が務めることとなった。 |
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=== 引退後 === |
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ナイナーズ時代の背番号16は、1997年12月15日の[[デンバー・ブロンコス]]戦のハーフタイムに[[永久欠番]]とするイベントが行われた<ref>{{cite web|url=http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?file=/c/a/1997/12/15/SP18334.DTL |title=He's Back in the Big Picture The man who defined the 49ers' greatness has number retired |publisher=[[サンフランシスコ・クロニクル]] |author=Ira Miller |date=1997-12-15 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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2000年、[[プロフットボール殿堂]]入りを果たした。 |
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== ザ・ドライブ == |
== ザ・ドライブ == |
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第23回スーパーボウル残り時間3分20秒からの逆転勝利を指す。ただし、[[1986年]]のプレーオフで[[ジョン・エルウェイ]]が見せた自陣2[[ヤード]]からのドライブを指す場合と区別し、「ザ・モンタナ・ドライブ」と呼ばれることも多い。 |
[[第23回スーパーボウル]]残り時間3分20秒からの逆転勝利を指す。ただし、[[1986年]]のプレーオフで[[ジョン・エルウェイ]]が見せた自陣2[[ヤード]]からのドライブを指す場合と区別し、「ザ・モンタナ・ドライブ」と呼ばれることも多い。 |
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1989年の第23回スーパーボウル対戦相手は、1982年[[第16回スーパーボウル]]でナイナーズに敗れた[[シンシナティ・ベンガルズ|ベンガルズ]]だった。攻撃陣の獲得ヤードではナイナーズがリードしたものの、FG失敗、ファンブルでボールを失うなど、スーパーボウル史上初となる同点 (3-3) でハーフタイムを迎えた。 |
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第3Q、お互いにFGを決めて6-6となった直後、ベンガルズの36番[[スタンフォード・ジェニングス]]が93ヤードの[[キックオフ・リターン]]・[[アメリカンフットボール#タッチダウン|タッチダウン]](TD)を決めて13-6とリードしたが、第4Qに入り[[ジェリー・ライス]]のタイトロープTDにより13-13と同点になった。残り時間3分20秒ベンガルズのキッカー、[[ジム・ブリーチ]]が40ヤードのFGを決め16-13。そしてその直後の49ersの攻撃はキックオフの際にイリーガルブロックの反則でハーフディスタンスの罰退となり、自陣8ヤードからという厳しいフィールドポジションからの攻撃となった。 |
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残り3分10秒を残してナイナーズに攻撃権が移ったことについて、ベンガルズのある選手は「モンタナに時間を残しすぎたのでは。」と[[サム・ワイチ]](ベンガルズヘッドコーチ)にこの時話しかけている。勝利には92ヤードのドライブでTDが必要であったがモンタナは冷静でチームメートの[[ハリス・バートン]]に「(エンドゾーンの)向こうに{{仮リンク|ジョン・キャンディ|en|John Candy}}(コメディアン)がいるぞ。」<ref name="schwartz"/>と語るなど冷静であった。 |
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残り時間の少ない中、ベンガルズのディフェンスはモンタナがサイドライン際にパスを投げて時計を止めようとするだろうと予想したが、モンタナはフィールド中央のクレイグ、TE[[ジョン・フランク]]に連続してパスを通した。ライスへの7ヤードのパスが成功した後、クレイグの2回のランでナイナーズは自陣35ヤードまでボールを進めて最初のタイムアウトを取った。 |
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その後ライスへの17ヤード、クレイグへの13ヤードのパスで敵陣35ヤードまで前進した。次のプレーでモンタナはこのドライブで初めてパスを失敗、しかもイリーガルマン・ダウンフィールドの反則で10ヤード罰退、残り1分15秒で第1ダウン残り20ヤードに追い込まれた。この困難な状況でモンタナは敵陣33ヤード地点で3人のディフェンスに囲まれたライスへのパスを成功させ、ライスはランアフターキャッチで15ヤードを稼ぎ、このプレーは27ヤードのパスとなり、[[レイ・ホートン (アメリカンフットボール)|レイ・ホートン]]がライスを止めなければタッチダウンとなっていたところであった。クレイグへの8ヤードのパスで残り39秒で敵陣10ヤードまで前進、最後は[[ジョン・テイラー (アメリカンフットボール)|ジョン・テイラー]]への10ヤードのTDパスが決まり20-16となり、モンタナは11回92ヤードのTDドライブを成功させた<ref name="history">{{cite web|url=http://www.nfljapan.com/superbowl2012/history23.html |title=第23回スーパーボウルヒストリー |publisher=NFL JAPAN |date= |accessdate=2012-02-09 }}</ref>。 |
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1989年の第23回スーパーボウル対戦相手は、1982年第16回スーパーボウルで49ersに敗れた[[シンシナティ・ベンガルズ|ベンガルズ]]だった。前半戦スーパーボウル史上初となる同点 (3-3) で折り返すも、試合はややベンガルズ優勢で進んでいく。第3Q6-6からベンガルズの36番[[スタンフォード・ジェニングス]]が93ヤードの[[キックオフ・リターン]]・[[アメリカンフットボール#タッチダウン|タッチダウン]](TD)を決めて13-6と突き放すが、第4Qに入り[[ジェリー・ライス]]のタイトロープTDにより13-13となる。残り時間3分20秒ベンガルズの3番[[ジム・ブリーチ]]が40ヤードのフィールドゴールを決め16-13。そしてその直後の49ersの攻撃は自陣8ヤードからの攻撃となった。この時点でほとんどの者が、ベンガルズの勝利を確信していた。 |
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残り時間わずかでのベンガルズの攻撃も[[ブーマー・アサイアソン]]から[[クリス・コリンズワース]]へのパスが失敗し試合終了、ナイナーズが4年ぶり3回目の優勝を果たした。1978年にレギュラーシーズンが16試合制になってから、10勝6敗のチームがスーパーボウルで優勝するのは初めてのことであった。なおモンタナは最後のドライブで[[過呼吸症候群]]にかかっていた<ref>NFL スーパーボウル・コレクション: サンフランシスコ・49ers (DVD) [[ワーナー・ホーム・ビデオ]] 2008年1月25日 ASIN: B000UUST44</ref>。この92ヤードのドライブでモンタナはパスを9回中8本通して87ヤード前進させた。 |
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== 記録 == |
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現役時代に39試合で300ヤード以上、7試合で400ヤード以上を投げた<ref name="hof"/>。現役引退時のQBレイティングは[[スティーブ・ヤング]]の96.8に次いでNFL歴代2位の92.3であった<ref name="hof"/>。また先発した試合で100勝を最速であげたQBであった(この記録は2008年に[[トム・ブレイディ]]に更新された<ref>{{cite web|url=http://sports.espn.go.com/nfl/recap?gameId=280120017 |title=Pats put away Chargers for fourth Super Bowl berth in seven years |publisher=ESPN |date=2008-01-20 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>)。また先発した試合で117勝47敗、勝率71.3%の数字を残し、第4Qに31回のカムバックを演じている<ref name="hof"/><ref name="usatoday"/><ref name="schwartz"/><ref>{{cite web|url=http://www.thedebster.com/nflstats.html |title=THE COMEBACK KID |publisher=thedebster.com |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。1989年のラムズ戦であげた458ヤードは、[[マンデーナイトフットボール]]記録であったが、2011年にトム・ブレイディに更新された。彼はNFL史上唯一、95ヤード以上のTDパスを2回成功させている<ref>{{cite web|url=http://www.pro-football-reference.com/play-index/tiny.cgi?id=1jFpq |title=Player Touchdown Finder Query Results |publisher=pro-football-reference.com |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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[[1981年]]、その年13勝3敗でシーズンを終えた49ersは、[[NFCチャンピオンシップゲーム]]で[[ダラス・カウボーイズ]]と対戦。最後は自陣11ヤードからの攻撃シリーズで、「ザ・キャッチ」と呼ばれる劇的なタッチダウンパスをWR[[ドワイト・クラーク]]に決めて、28-27で勝利した。 |
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== 通算成績 == |
=== 通算成績 === |
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*パス試投:5,391 |
*パス試投:5,391 |
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*パス成功:3,409 |
*パス成功:3,409 |
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29行目: | 158行目: | ||
*1インターセプトあたりのパス試投:38.7 |
*1インターセプトあたりのパス試投:38.7 |
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== プレーオフ及びスーパーボウルでの成績 == |
=== プレーオフ及びスーパーボウルでの成績 === |
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*16勝7敗 |
*16勝7敗 |
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*パス試投:732 |
*パス試投:732 |
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*パス成功:463 |
*パス成功:463 |
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*パス獲得ヤード:5, |
*パス獲得ヤード:5,772(歴代2位) |
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*300ヤード以上投げた試合:6([[カート・ワーナー]]とタイ記録) |
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*タッチダウン:45 |
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*タッチダウン:45(NFL記録)<ref name="usatoday"/> |
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*2TDパス以上投げた連続試合数:7([[テリー・ブラッドショー]]とタイ記録) |
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*インターセプト:21 |
*インターセプト:21 |
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*1インターセプトあたりのパス試投:34.8 |
*1インターセプトあたりのパス試投:34.8 |
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40行目: | 171行目: | ||
*スーパーボウルMVP:3回 |
*スーパーボウルMVP:3回 |
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*スーパーボウル優勝:4回 |
*スーパーボウル優勝:4回 |
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*スーパーボウルでのインターセプト:0 |
*スーパーボウルでのインターセプト:0<ref name="usatoday"/> |
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*スーパーボウルでのパス成功:83回<ref name="schwartz"/>(スーパーボウル記録) |
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*スーパーボウルでのパス試投:122回<ref name="usatoday"/><ref name="schwartz"/>(スーパーボウル記録) |
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*スーパーボウルでのQBレイティング:127.8(スーパーボウル記録)<ref name="usatoday"/> |
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== 人物 == |
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3回結婚している。ノートルダム大学時代の1974年に地元出身の恋人キム・モーゼスと最初の結婚をしたが、3年経たずに離婚した。1981年に再婚したが1984年に離婚した<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1984/07/08/sports/sports-people-comings-and-goings.html |title=Comings and Goings |publisher=ニューヨーク・タイムズ |date=1984-07-08 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。そして[[シック (剃刀)|シック]]のコマーシャルで共演した女優、モデルのジェニファー・ウォレスと1985年に結婚した。彼女との間には4人の子どもがおり<ref>{{cite web|url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703740004574513473606656990.html |title=Where Joe Montana Kicks Back |publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]] |author=JULIET CHUNG |date=2009-11-06 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>、長男の{{仮リンク|ネイト・モンタナ|en|Nate Montana}}は父親と同じノートルダム大学や[[モンタナ大学]]でプレーしている。 |
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2008年、モンタナはかつての妻であるモーゼスが、ノートルダム大学時代に彼女スに送ったラブレターや記念品を[[オークション]]にかけたことから彼女とオークションサイトに対して訴えを起こした<ref>{{cite web|url=http://reason.com/blog/2008/05/28/invasion-of-privacy-copyright |title=Invasion of Privacy, Copyright Infringement, or Just Shame at Sending a Ziggy Card? |publisher=reason.com |author=Nick Gillespie |date=2008-05-28 |accessdate=2012-03-03 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://bleacherreport.com/articles/743445-the-40-nastiest-divorces-in-sports-history#/articles/743445-the-40-nastiest-divorces-in-sports-history/page/3 |title=Joe Montana & Kim Moses |publisher=bleacherreport.com |author=Amber Lee |date=2011-06-24 |accessdate=2012-03-03 }}</ref>。 |
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*1980年の[[ニューオーリンズ・セインツ|セインツ]]戦で、ハーフタイムには28点差で負けていたところを38-35と逆転勝利。26回ある第4Qの逆転劇の最初の1つとなった。 |
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*第19回スーパーボウルでのラッシングヤード59は、QBによるラッシング記録である。 |
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2006年2月の[[第40回スーパーボウル]]に過去のMVP受賞者として、ゲストとして招かれてコイントスも務める計画があったが、「息子のバスケットボールの試合の方が大事だから」と出演を断っている<ref name="okuda"/>(10万ドルの出演料を断られたからという報道もあったがそれは事実ではなく<ref name="okuda"/>、引退選手を杜撰に扱うリーグに対する抗議の意味もあった、と後に語っている)。[[テリー・ブラッドショー]]も招待されていたがモンタナと同様に出演を断っている。 |
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*モンタナの控えQBとなった[[スティーブ・ヤング]]は、史上最高の控えQBと言われた(後にQB年間[[レイティング#アメリカンフットボールのレイティング|レイティング]]トップ6回:史上最多タイ)。 |
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*スティーブ・ヤングに更新される前は、モンタナがNFL年間レイティング史上最高記録を持っていた。 |
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1991年に公開された映画『[[ハートブルー]]』で[[キアヌ・リーブス]]が演じたキャラクター、ジョニー・ユタの名は、彼の名前にインスパイアされたものである。 |
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*1990年の[[アトランタ・ファルコンズ|ファルコンズ]]戦で自己ベストの476ヤード、6TDを記録した。 |
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*[[第40回スーパーボウル]]にゲストとして招かれる予定だったが、「息子のバスケットボールの試合の方が大事だから」と出演をキャンセルした(引退選手を杜撰に扱うリーグに対する抗議の意味もあった、と後に語っている)。 |
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=== 評価 === |
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<!--*アメフト漫画「[[アイシールド21]]」では登場人物の雷門太郎が「モン太」というアダナをつけられ、そのアダナを撤回しようとしたところ「ジョー・モンタナからとっているんだぞ」といわれ納得した。(彼のポジションはWRな為、その部分を除いても騙されている)--><!--モンタナの記事ではなく,アイシールド21の記事に記述すべき内容--> |
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2000年にプロフットボール殿堂入りした際、[[ジョン・マッデン (アメリカンフットボール)|ジョン・マッデン]]は史上最高のQBと彼のことを評した<ref name="usatoday"/>。ナイナーズ時代のチームメート、[[ランディ・クロス]]は「モンタナより強肩であったり、走力があったり、身体能力の優れたQBは多くいるが、試合に勝つこと、タッチダウンをあげること、チャンピオンになることで、モンタナ以上のQBはいなかった。」と語った<ref name="schwartz"/>。 |
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*映画『[[ハートブルー]]』で[[キアヌ・リーブス]]が演じたキャラクター、ジョニー・ユタの名は、彼の名前にインスパイアされたものである。 |
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== 獲得タイトル == |
== 獲得タイトル == |
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57行目: | 192行目: | ||
*リーグ・MVP : 2回 - 1989年、1990年 |
*リーグ・MVP : 2回 - 1989年、1990年 |
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*最優秀攻撃選手賞 : 1989年 |
*最優秀攻撃選手賞 : 1989年 |
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*[[カムバック賞 |
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== 引退時の言葉 == |
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== 日本での知名度 == |
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[[三菱電機]]のCMに出演し、「どんなモンタナ」と言うセリフでインパクトを残した。 |
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== 脚注 == |
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2012年9月15日 (土) 20:25時点における版
Joe Montana | |||||||||||||
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2006年 | |||||||||||||
基本情報 | |||||||||||||
ポジション | クォーターバック | ||||||||||||
生年月日 | 1956年6月11日(68歳) | ||||||||||||
出身地 | アメリカ合衆国ペンシルベニア州ニューイーグル | ||||||||||||
身長: | 6' 2" =約188cm | ||||||||||||
体重: | 205 lb =約93kg | ||||||||||||
経歴 | |||||||||||||
大学 | ノートルダム大学 | ||||||||||||
NFLドラフト | 1979年 - 3巡目全体82位 | ||||||||||||
初出場年 | 1979年 | ||||||||||||
初出場チーム | サンフランシスコ・フォーティナイナーズ | ||||||||||||
所属歴 | |||||||||||||
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受賞歴・記録 | |||||||||||||
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NFL 通算成績 | |||||||||||||
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Player stats at PFR | |||||||||||||
ジョー・モンタナ(Joe Montana、本名:Joseph Clifford Montana Jr.、1956年6月11日 - )はペンシルベニア州ニューイーグル出身のアメリカンフットボール選手。NFLのサンフランシスコ・フォーティナイナーズ、カンザスシティ・チーフスでプレーした。ポジションはクォーターバック(QB)。1980年代に4回スーパーボウルに優勝、3回スーパーボウルMVPに選ばれている[1]。「ジョー・クール」と呼ばれた[2]。2000年、プロフットボール殿堂入りしている。サンフランシスコ・49ersでの背番号16は永久欠番となっている[3]。
史上最高のQBと称されることが多いが、これはスーパーボウル4戦全勝(MVP3回)という実績に加え、「モンタナマジック」と呼ばれる華麗な逆転勝利を数多く成功させたことによる[4]。特に1989年の第23回スーパーボウルでのザ・ドライブと称される逆転劇は、スーパーボウル史上の伝説として語られている[5]。
経歴
大学入学まで
ペンシルベニア州西部[6]のニューイーグルに一人っ子として生まれた[7]。炭鉱の町でピッツバーグから南に40km、同州モノンガヒーラで育った[7][8]。母方の祖父母はそれぞれイタリア系アメリカ人であった。
8歳の時からアメリカンフットボールを始めた彼は野球やバスケットボールにも興味を持ち、高校ではアメリカンフットボール、野球、バスケットボールを行った。バスケットボールでは州のオールチームに選ばれた。ノースカロライナ州立大学からバスケットボールでの奨学金のオファーも受けた。アメリカンフットボールでは当初控え選手であったが、その後先発QBに昇格し、最終学年のときにはパレード誌よりオールアメリカンに選ばれた。ノートルダム大学から奨学金のオファーを受けた彼は同大学への進学を決めた。彼が進学を決めた理由の1つには、彼の少年時代のアイドル、テリー・ハンラティの出身校であるということもあった。彼の卒業から32年後の2006年、高校はフットボールスタジアムをジョー・モンタナ・スタジアムと改名した[9]。
ノートルダム大学
彼が入学した前年の1973年、アラ・パルセギアンヘッドコーチに率いられたチームは全米チャンピオンとなっていた。1974年に入学した彼はチームの方針から練習生扱いとされ、フレッシュマンの試合に出場したのみであった。同年12月15日、パルセギアンが健康上の理由で辞任、ダン・ディバインが後任となった。1975年、彼は先発QBとしての地位は確立していなかったがノースウェスタン大学戦で31-7と勝利[10]、ノースカロライナ大学戦で残り5分11秒、6-14と敗れていたところ、21-14とチームを逆転勝利に導いた。空軍士官学校戦では10-30とリードされた第4Qから出場し、31-30と逆転勝利した。
1976年シーズン開幕前に肩を脱臼した彼はシーズンを棒に振った[8][7]。1977年、当初第3QBだった彼は3試合目のパデュー大学戦で残り11分、14-24とリードされたところで途中出場、154ヤードを投げて1TDパスを決めるなど、31-24と逆転勝利した[8][7]。翌週から先発QBに昇格した彼は残り9試合を全勝、コットンボウルでランキング1位のテキサス大学を38-10で破り[7]、チームは11勝1敗で全米チャンピオンとなった[8]。1978年のUSC戦では前半を6-24で折り返したが第4Qに25-24と逆転に成功、最後は相手FGが決まり25-27と敗れた。1979年1月1日にヒューストン大学との間で行われたコットンボウルで、彼は寒波のため低体温症で苦しんでいた[8]。ハーフタイムには点滴を受けたり、ブイヨンのスープを飲んで体を温めた。第4Q残り7分37秒にフィールドに復帰した彼は12-34から23点を取り35-34とチームを逆転に導いた[8][7][11][12]。
サンフランシスコ・49ers
彼がNFLに指名される当時はNFLスカウティング・コンバインはなかった(1982年よりスタート)。ドラフト候補選手たちは1から9にランクされており(1が最低、9が最高評価)、彼は全体評価で6.5、肩の強さで6と評価されていた。その年最も高い評価を受けていたQBはワシントン州立大学のジャック・トンプソンであった。
1979年、NFLドラフト3巡目(全体の82番目)で49ersより指名された。QBとしては1巡で指名されたトンプソン、フィル・シムズ、スティーブ・フラーの3人に続く4番目の指名であった[2]。ドラフト指名が3巡目となったのは、肩も弱くサイズもなかったため、有能なクォータバックとしては認知されていたものの、中々指名されるまでには至らなかった。しかし当時のヘッドコーチ、ビル・ウォルシュは、自身が用いた、短いパスを正確につないで確実に得点を挙げていくという戦術「ウェストコーストオフェンス」にマッチする、「俊敏でパスが正確」というクイックデリバリー能力のあるクォーターバックを欲している時に、モンタナが3巡目指名になっても残っていた事に着目、即指名を決めたというエピソードがある[8]。初年度はスティーブ・ディバーグの控えで23回のパス試投に留まった[13]。
翌1980年シーズン終盤から、チームのエースQBとなった[8]。12月7日に地元キャンドルスティック・パークで行われたニューオーリンズ・セインツ戦で、ハーフタイムに7-35とリードされたゲームは第4Q開始時点でも21-35とセインツがリードしていた。しかしこの試合はオーバータイムに持ち込まれ、最後はキッカーのレイ・ワーシングがフィールドゴールを決めて49ersが逆転勝利した[8]。この試合はモンタナがキャリア16年で31回(49ers時代には26回)達成する、第4Qからの逆転勝利した最初の試合となった[14][15]。この年のチームは6勝10敗、モンタナは1,795ヤードを投げてタッチダウン15回、インターセプトは9回であった。またパス成功率64.5%はリーグトップの数字だった[13]。
1981年、 チームは13勝3敗の成績をあげた[7]。この年モンタナはプロボウルに初めて選ばれた。また第4Qに2度の逆転勝利を演じた。1982年1月10日にキャンドルスティック・パークで行われたダラス・カウボーイズとのNFCチャンピオンシップゲームは残り4分54秒でカウボーイズがTDをあげて21-27とリードした。ナイナーズは自陣11ヤードからの攻撃を開始、敵陣6ヤードまで前進した残り58秒、第3ダウン残り3ヤードから、モンタナは右に走りながらドワイト・クラークへ浮かしたパスを投げ、これが決勝TDパスとなりナイナーズが28-27と逆転勝利した[8]。このプレーは「ザ・キャッチ」として知られている[2][7]、このプレー終了後カウボーイズには残り51秒の時間が残されていたが、試合はそのまま28-27で終わり、ナイナーズが初のスーパーボウル出場を決めた。第16回スーパーボウルでは、自陣32ヤードからの最初の攻撃でダブルリバースからのフリーフリッカーで、TEチャールズ・ヤングへの14ヤードのパス、フレディ・ソロモンへの14ヤードのパスなどで前進、最後は自らのQBスニークで7-0と先制した[16]その後自陣8ヤードからの攻撃では、フレディ・ソロモンへの20ヤードのパス、ドワイト・クラークへの12ヤードのパスなどで前進、プレイアクションからのアール・クーパーへの11ヤードのTDパスで14-0とリードを広げた。92ヤードのタッチダウンドライブはスーパーボウル記録となった。この試合でモンタナは、パス22回中14回成功、157ヤード、1TDパス、ランでも1TDをあげて26-21でシンシナティ・ベンガルズに勝利[7]、MVPに選ばれた[12]。カレッジフットボールで全米チャンピオンとなり、かつスーパーボウルを制覇したQBは他にジョー・ネイマスしかいない。
1982年、ストライキで9試合に短縮されたシーズン、彼は2,613ヤードを投げて17TD、当時のNFL記録となる5試合連続で300ヤード以上を投げたが、チームは3勝6敗でプレーオフ出場を逃した[17]。
1983年には3,910ヤードを投げて26TD、プロボウルに選ばれた。チームは10勝6敗でNFC西地区優勝を果たした[17]。ディビジョナルプレーオフでデトロイト・ライオンズをフレディ・ソロモンへの逆転TDパスで24-23と破り、NFCチャンピオンシップゲームではワシントン・レッドスキンズと対戦した。0-21と相手にリードされたが7分半の間に、モンタナの3本のTDパスで一時同点とした、しかし最後は相手キッカー、マーク・モーズリーの25ヤードのFGで21-24と敗れた。この試合でモンタナはパス48回中27回成功、347ヤード、3TDをあげた[17]。
1984年には2年連続でプロボウルに選ばれる活躍を見せて、NFLが1978年レギュラーシーズン16週となってから初の15勝1敗にチームを導いた[18]。プレーオフではニューヨーク・ジャイアンツ、シカゴ・ベアーズを2試合合計44-10と圧勝、レギュラーシーズンで48TDパスのNFL記録を作ったダン・マリーノのマイアミ・ドルフィンズと対戦した[7]。この試合はドルフィンズ有利と見られていたが[5]、モンタナはパス35回中24回成功、3TD、スーパーボウル記録となる331ヤード、ランでもQB記録となる59ヤードを走り、38-16で勝利[8][7]、2度目の優勝及び自身2度目のMVPに選ばれた[12]。
1985年、3,653ヤード、27TDをあげてプロボウルに選ばれる活躍を見せた。チームは10勝6敗でプレーオフに出場したがワイルドカードでニューヨーク・ジャイアンツに3-17で敗れた[19]。
1986年、シーズン開幕まもなく、脊髄に狭い空洞ができていた彼は背中の手術を受けた。医師はモンタナは2度とプレーできなくなるかもしれないと語ったが[7][19]、彼は手術を決断、9月下旬に退院した。彼が退院したとき医師は復帰には2,3ヶ月かかるだろうと話したが[20]、8試合の欠場で[2]55日後に彼は復帰した[12]。9月15日に故障者リスト入りした彼は11月6日に復帰(当時は故障者リスト入りしてもシーズン中に復帰することができた。)、復帰初戦のセントルイス・カージナルス戦では270ヤードを投げて3TDパス、43-17と勝利した。この年彼は8試合に出場、キャリアを通じて唯一タッチダウンよりインターセプトが多かった。ミネソタ・バイキングスのQB、トミー・クレイマーと共にカムバック賞に選ばれている。チームは10勝5敗1分でシーズンを終えプレーオフに出場したが、ニューヨーク・ジャイアンツ戦で彼は相手ノーズガードのジム・バートにヒットされた際、あごにヘルメットが当たり負傷退場、チームは3-49で敗れた[7][19][21]。
1987年、4月にナイナーズはタンパベイ・バッカニアーズからドラフト2巡指名権とトレードでスティーブ・ヤングを獲得した[22]。ストライキでNFL選手会に所属する大部分の選手がピケを張って欠場し、多くの代替選手が代わりに出場した際もチームメートのロジャー・クレイグ、ドワイト・クラークやローレンス・テイラー、マーク・ガスティノー、ランディ・ホワイト、ツートール・ジョーンズ、スティーブ・ラージェント、リン・スワン、トニー・ドーセット、ハウィー・ロングなどとピケ破りを行い試合出場を続けた[23][24]。彼はこの年、自己最高の31TDパスを13試合の出場であげ、22本連続パス成功のNFL記録も作り[25]、3,054ヤード、NFLトップのQBレイティング[1][19]102,1の成績をあげた。チームは13勝2敗とNFLトップの成績をあげて、プレーオフ初戦で8勝7敗でシーズンを終えたミネソタ・バイキングスと対戦した。バイキングスのジェリー・バーンズヘッドコーチのゲームプランはモンタナに徹底的にマークし、ライスとのホットラインを絶つことにあった。この試合で彼は4サックされ、24-36と敗れシーズンを終えた[26]。なおスティーブ・ヤングはこの年8試合に出場、QBレイティング120.8の成績をあげた。
1988年にはレギュラーシーズンで不調となり、一時スティーブ・ヤングにポジションを奪われた。ヤングは11試合に出場、モンタナをトレードに出すべきという声も聞かれた。ロサンゼルス・レイダーズに敗れて6勝5敗、地区3位となり、プレーオフ出場も危ぶまれたところで先発QBに復帰、最後の5試合を4勝1敗とし、10勝6敗で地区優勝を果たした。プレーオフでは1年前に敗れた相手、ミネソタ・バイキングスを34-9、シカゴ・ベアーズを敵地ソルジャー・フィールドで28-3と破りスーパーボウル出場を決めた。第23回スーパーボウルではパス36回中23回成功、スーパーボウル記録となる357ヤード、2TDを決めて、シンシナティ・ベンガルズを20-16で破り3度目のスーパーボウル優勝を果たした。この試合では残り3分20秒で13-16とリードされ自陣8ヤードからの攻撃を残り34秒にジョン・テイラーへの10ヤードの逆転TDに結びつけた[7]。この攻撃シリーズで彼はパス9回中8回成功、97ヤードを獲得した(反則による罰退があったため92ヤードより長い。)。
1989年、第4週のフィラデルフィア・イーグルス戦ではバディ・ライアンのブリッツディフェンスに8サックを浴びながら、第4Qに4本のTDパスを決めて逆転勝利にチームを導いた[8]。ロサンゼルス・ラムズとのマンデーナイトフットボールではパス458ヤードを投げて17点差から逆転した[8]。この年彼は3,521ヤード、26TDパス、8インターセプトで、QBレイティングのシーズン記録を更新(1994年、スティーブ・ヤングがこの記録を更新)、ランでも227ヤードを走り3TDをあげ、シーズンMVPに選ばれた。チームも14勝2敗[27]、敗れた2試合の得失点差の合計はわずか5点であった。プレーオフでチームはミネソタ・バイキングスを41-13、ロサンゼルス・ラムズを30-3で破った。2試合合計で503ヤード、6TD、インターセプトなしの活躍を見せた。デンバー・ブロンコスとの第24回スーパーボウルではパス29回中22回成功、297ヤード、当時のスーパーボウル記録となる5TDパス(ライスへ3TD、ブレント・ジョーンズとジョン・テイラーにそれぞれ1TD)を決めて55-10と勝利、史上初の3回目のスーパーボウルMVPに選ばれた[5][28]。この年のスーパーボウルは、史上最多得点差のついたゲームとなった。プレーオフ3試合で彼は800ヤードを投げて、11TDパス、インターセプト0であった[7]。
1990年、ファルコンズ戦で自己ベストの476ヤード、ジェリー・ライスへの5本を含む6TDパスを記録した。このシーズン彼はチームをNFLトップの14勝2敗に導いた。この年彼は3,944ヤード、26TDを投げたが、一方でキャリアワーストの16インターセプトを記録した。スポーツ・イラストレイテッドより年間最優秀スポーツマンに選ばれている。史上初のスーパーボウル3連覇を目指したニューヨーク・ジャイアンツとのNFCチャンピオンシップゲームでは、第4Qにレナード・マーシャルにサックされた際に胸骨、右手の骨折及び脳震盪を起こし負傷退場、チームも13-15で敗れた[8][29]。
1991年のプレシーズンゲームでひじを痛めてしまい、その年は全試合に欠場した。
1992年、開幕戦を前に早くても10月まで復帰できない故障者リスト入りした[30]。最終戦デトロイト・ライオンズ戦の後半から出場しパス21回中15回成功、126ヤード、2TDをあげてチームは24-6で勝利した[1]。しかしこの時点でスティーブ・ヤングがモンタナから完全に先発QBの座を確保していた[2][7]。
カンザスシティ・チーフス
1993年4月、カンザスシティ・チーフスへドラフト1巡全体18位の指名権と引き替えにトレードされた[31]。チーフスにはこのシーズン、ロサンゼルス・レイダーズからフリーエージェントになったマーカス・アレンが加入しメディアの注目を集めた。
チーフスは彼に3つの背番号を提示した。ノートルダム大学時代の3番、リトルリーグや1979年のトレーニングキャンプで着けた19番、そしてプロフットボール殿堂入りしたQBレン・ドーソンが着けていたチームの永久欠番である16番である。ドーソンはモンタナに16番を着けてもらいたいと希望したが、彼はそれを断り、19番を着けることを決めて、3年間1,000万ドルでチーフスと契約を結んだ[31]。1993年彼は負傷もあったが、プロボウルに選ばれる活躍を見せ、1970年以来となるプレーオフでの勝利をチームにもたらし、バッファロー・ビルズとのAFCチャンピオンシップゲームまでチームを導いた。
1994年、14試合に出場、第2週には古巣のサンフランシスコ・フォーティナイナーズを24-17で破った[5]。デンバー・ブロンコスとのマンデーナイトフットボールではパス393ヤード、試合終了直前のTDパスを含む3TDを決めて31-28で勝利した[5]。この年彼は史上5人目となるパス獲得通算40,000ヤードを達成し[1]、チームをプレーオフに導いた[7]。シーズン終了後、1995年4月18日、サンフランシスコで現役引退を発表した。この記者会見は地元テレビ局で報道されたが、ジョン・マッデン、エディ・デバートロ・ジュニアなどよりスピーチが寄せられた。ナイナーズの元チームメートたちも姿を見せ、ビル・ウォルシュがMCを務めた。
チーフスでの2年間で彼は先発して17勝8敗、パス成功率60%、29TD、13INTの成績を残した[31]。チーフスでのモンタナの後継者はナイナーズでも控えQBだったスティーブ・ボノが務めることとなった。
引退後
ナイナーズ時代の背番号16は、1997年12月15日のデンバー・ブロンコス戦のハーフタイムに永久欠番とするイベントが行われた[32]。
2000年、プロフットボール殿堂入りを果たした。
ザ・ドライブ
第23回スーパーボウル残り時間3分20秒からの逆転勝利を指す。ただし、1986年のプレーオフでジョン・エルウェイが見せた自陣2ヤードからのドライブを指す場合と区別し、「ザ・モンタナ・ドライブ」と呼ばれることも多い。
1989年の第23回スーパーボウル対戦相手は、1982年第16回スーパーボウルでナイナーズに敗れたベンガルズだった。攻撃陣の獲得ヤードではナイナーズがリードしたものの、FG失敗、ファンブルでボールを失うなど、スーパーボウル史上初となる同点 (3-3) でハーフタイムを迎えた。
第3Q、お互いにFGを決めて6-6となった直後、ベンガルズの36番スタンフォード・ジェニングスが93ヤードのキックオフ・リターン・タッチダウン(TD)を決めて13-6とリードしたが、第4Qに入りジェリー・ライスのタイトロープTDにより13-13と同点になった。残り時間3分20秒ベンガルズのキッカー、ジム・ブリーチが40ヤードのFGを決め16-13。そしてその直後の49ersの攻撃はキックオフの際にイリーガルブロックの反則でハーフディスタンスの罰退となり、自陣8ヤードからという厳しいフィールドポジションからの攻撃となった。
残り3分10秒を残してナイナーズに攻撃権が移ったことについて、ベンガルズのある選手は「モンタナに時間を残しすぎたのでは。」とサム・ワイチ(ベンガルズヘッドコーチ)にこの時話しかけている。勝利には92ヤードのドライブでTDが必要であったがモンタナは冷静でチームメートのハリス・バートンに「(エンドゾーンの)向こうにジョン・キャンディ(コメディアン)がいるぞ。」[7]と語るなど冷静であった。
残り時間の少ない中、ベンガルズのディフェンスはモンタナがサイドライン際にパスを投げて時計を止めようとするだろうと予想したが、モンタナはフィールド中央のクレイグ、TEジョン・フランクに連続してパスを通した。ライスへの7ヤードのパスが成功した後、クレイグの2回のランでナイナーズは自陣35ヤードまでボールを進めて最初のタイムアウトを取った。
その後ライスへの17ヤード、クレイグへの13ヤードのパスで敵陣35ヤードまで前進した。次のプレーでモンタナはこのドライブで初めてパスを失敗、しかもイリーガルマン・ダウンフィールドの反則で10ヤード罰退、残り1分15秒で第1ダウン残り20ヤードに追い込まれた。この困難な状況でモンタナは敵陣33ヤード地点で3人のディフェンスに囲まれたライスへのパスを成功させ、ライスはランアフターキャッチで15ヤードを稼ぎ、このプレーは27ヤードのパスとなり、レイ・ホートンがライスを止めなければタッチダウンとなっていたところであった。クレイグへの8ヤードのパスで残り39秒で敵陣10ヤードまで前進、最後はジョン・テイラーへの10ヤードのTDパスが決まり20-16となり、モンタナは11回92ヤードのTDドライブを成功させた[33]。
残り時間わずかでのベンガルズの攻撃もブーマー・アサイアソンからクリス・コリンズワースへのパスが失敗し試合終了、ナイナーズが4年ぶり3回目の優勝を果たした。1978年にレギュラーシーズンが16試合制になってから、10勝6敗のチームがスーパーボウルで優勝するのは初めてのことであった。なおモンタナは最後のドライブで過呼吸症候群にかかっていた[34]。この92ヤードのドライブでモンタナはパスを9回中8本通して87ヤード前進させた。
記録
現役時代に39試合で300ヤード以上、7試合で400ヤード以上を投げた[1]。現役引退時のQBレイティングはスティーブ・ヤングの96.8に次いでNFL歴代2位の92.3であった[1]。また先発した試合で100勝を最速であげたQBであった(この記録は2008年にトム・ブレイディに更新された[35])。また先発した試合で117勝47敗、勝率71.3%の数字を残し、第4Qに31回のカムバックを演じている[1][2][7][36]。1989年のラムズ戦であげた458ヤードは、マンデーナイトフットボール記録であったが、2011年にトム・ブレイディに更新された。彼はNFL史上唯一、95ヤード以上のTDパスを2回成功させている[37]。
通算成績
- パス試投:5,391
- パス成功:3,409
- パス獲得ヤード:40,551ヤード
- タッチダウンパス:273
- インターセプト:139
- 1インターセプトあたりのパス試投:38.7
プレーオフ及びスーパーボウルでの成績
- 16勝7敗
- パス試投:732
- パス成功:463
- パス獲得ヤード:5,772(歴代2位)
- 300ヤード以上投げた試合:6(カート・ワーナーとタイ記録)
- タッチダウン:45(NFL記録)[2]
- 2TDパス以上投げた連続試合数:7(テリー・ブラッドショーとタイ記録)
- インターセプト:21
- 1インターセプトあたりのパス試投:34.8
- プロボウル出場:8回
- スーパーボウルMVP:3回
- スーパーボウル優勝:4回
- スーパーボウルでのインターセプト:0[2]
- スーパーボウルでのパス成功:83回[7](スーパーボウル記録)
- スーパーボウルでのパス試投:122回[2][7](スーパーボウル記録)
- スーパーボウルでのQBレイティング:127.8(スーパーボウル記録)[2]
人物
3回結婚している。ノートルダム大学時代の1974年に地元出身の恋人キム・モーゼスと最初の結婚をしたが、3年経たずに離婚した。1981年に再婚したが1984年に離婚した[38]。そしてシックのコマーシャルで共演した女優、モデルのジェニファー・ウォレスと1985年に結婚した。彼女との間には4人の子どもがおり[39]、長男のネイト・モンタナは父親と同じノートルダム大学やモンタナ大学でプレーしている。
2008年、モンタナはかつての妻であるモーゼスが、ノートルダム大学時代に彼女スに送ったラブレターや記念品をオークションにかけたことから彼女とオークションサイトに対して訴えを起こした[40][41]。
2006年2月の第40回スーパーボウルに過去のMVP受賞者として、ゲストとして招かれてコイントスも務める計画があったが、「息子のバスケットボールの試合の方が大事だから」と出演を断っている[8](10万ドルの出演料を断られたからという報道もあったがそれは事実ではなく[8]、引退選手を杜撰に扱うリーグに対する抗議の意味もあった、と後に語っている)。テリー・ブラッドショーも招待されていたがモンタナと同様に出演を断っている。
1991年に公開された映画『ハートブルー』でキアヌ・リーブスが演じたキャラクター、ジョニー・ユタの名は、彼の名前にインスパイアされたものである。
評価
2000年にプロフットボール殿堂入りした際、ジョン・マッデンは史上最高のQBと彼のことを評した[2]。ナイナーズ時代のチームメート、ランディ・クロスは「モンタナより強肩であったり、走力があったり、身体能力の優れたQBは多くいるが、試合に勝つこと、タッチダウンをあげること、チャンピオンになることで、モンタナ以上のQBはいなかった。」と語った[7]。
獲得タイトル
- スーパーボウル・MVP : 3回 - 1982年、1985年、1990年
- リーグ・MVP : 2回 - 1989年、1990年
- 最優秀攻撃選手賞 : 1989年
- カムバック賞 : 1986年
- プロボウル選出 : 8回 - 1981年、1983年、1984年、1985年、1987年、1989年、1990年、1993年
引退時の言葉
「夢から醒める時が来た」
日本での知名度
三菱電機のCMに出演し、「どんなモンタナ」と言うセリフでインパクトを残した。
脚注
- ^ a b c d e f g “Hall of Famers”. プロフットボール殿堂. 2012年3月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “No. 1: Montana's Super success raised the bar”. USAトゥデイ (2007年7月23日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ ““伝説のQB”モンタナの背番号16が永久欠番に”. NFL JAPAN (2010年12月15日). 2010年12月19日閲覧。
- ^ “The Best Ever? The story of 'Joe Cool'”. プロフットボール殿堂. 2012年3月3日閲覧。
- ^ a b c d e “名QBモンタナの偉大な試合トップ6”. NFL JAPAN (2012年6月12日). 2012年6月28日閲覧。
- ^ ダン・マリーノ、ジョニー・ユナイタス、ジョニー・ルージャック、ジョー・ネイマス、ジョージ・ブランダ、ジム・ケリー、テリー・ハンラティなどタフなQBを多く出している地域
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v Larry Schwartz. “Montana was comeback king”. ESPN. 2012年3月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『NFL 100QBs NFL 伝説の100クォーターバック』ベースボールマガジン社、2006 ISBN=4-583-61403-9。
- ^ Bruce Wald (2006年8月27日). “Local teams to vie in opening week of high school football”. ピッツバーグ・トリビューン. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “Sophomore Leads Irish To Victory”. ニューヨーク・タイムズ (1975年9月27日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ “The List: Greatest bowl games”. ESPN. 2012年3月3日閲覧。
- ^ a b c d ポール・ジマーマン (1999年8月13日). “Born to be a quarterback”. スポーツ・イラストレイテッド. 2012年3月3日閲覧。
- ^ a b “Picked by 49ers”. jrank.org. 2008年3月13日閲覧。
- ^ “The Best Ever? (pg 2)”. profootballhof.com. 2008年3月13日閲覧。
- ^ VHS 伝説の名勝負ベスト15 大逆転!NFL Number VIDEO ISBN4-16-911614-3
- ^ Richard J. Brenner (1988). THE COMPLETE SUPER BOWL STORY. London: ARMADA. pp. 77-81. ISBN 0-00-693278-9
- ^ a b c KEITH YOWELL (2010年1月8日). “1984: Redskins Survive Comeback by 49ers to Win NFC Championship”. ウォールストリートジャーナル. 2012年3月3日閲覧。
- ^ Richard J. Brenner (1988). THE COMPLETE SUPER BOWL STORY. London: ARMADA. pp. 91-96. ISBN 0-00-693278-9
- ^ a b c d “Joe Montana - Bounces Back From Back Injury”. sports.jrank.org. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “Montana Out of Hospital”. ニューヨーク・タイムズ (1986年9月23日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ “A New York Football Weekend”. ニューヨーク・タイムズ (2002年12月30日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ “49ers Trade Two Draft Choices for Steve Young”. ロサンゼルス・タイムズ (1987年4月25日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ “1987 NFL Players Union Strike”. goldenrankings.com. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “3. 1987 NFL Strike”. realclearsports.com (2011年3月14日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ “Montana's Record Helps 49ers Win”. ニューヨーク・タイムズ (1987年12月7日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ FRANK LITSKY (1988年1月10日). “VIKINGS SHOCK 49ERS; BROWNS STOP COLTS: Carter Sets a Record In Easy 36-24 Victory”. ニューヨーク・タイムズ. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “NFL Final Standings 1989”. football.about.com. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “Super Bowl XXIV MVP”. nfl.com (1990年1月29日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ “Montana's Season Comes to End”. ニューヨーク・タイムズ (1991年1月21日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ MICHAEL MARTINEZ (1992年9月3日). “Pass-Fail Tests: Montana Is Unhappy and Hostetler Is Wobbly; 49ers' Legend May Want Out”. ニューヨーク・タイムズ. 2012年3月3日閲覧。
- ^ a b c Chris Thorman (2009年7月17日). “The Greatest Kansas City Chiefs, By the Numbers: #19”. arrowheadpride.com. 2012年3月3日閲覧。
- ^ Ira Miller (1997年12月15日). “He's Back in the Big Picture The man who defined the 49ers' greatness has number retired”. サンフランシスコ・クロニクル. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “第23回スーパーボウルヒストリー”. NFL JAPAN. 2012年2月9日閲覧。
- ^ NFL スーパーボウル・コレクション: サンフランシスコ・49ers (DVD) ワーナー・ホーム・ビデオ 2008年1月25日 ASIN: B000UUST44
- ^ “Pats put away Chargers for fourth Super Bowl berth in seven years”. ESPN (2008年1月20日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ “THE COMEBACK KID”. thedebster.com. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “Player Touchdown Finder Query Results”. pro-football-reference.com. 2012年3月3日閲覧。
- ^ “Comings and Goings”. ニューヨーク・タイムズ (1984年7月8日). 2012年3月3日閲覧。
- ^ JULIET CHUNG (2009年11月6日). “Where Joe Montana Kicks Back”. ウォール・ストリート・ジャーナル. 2012年3月3日閲覧。
- ^ Nick Gillespie (2008年5月28日). “Invasion of Privacy, Copyright Infringement, or Just Shame at Sending a Ziggy Card?”. reason.com. 2012年3月3日閲覧。
- ^ Amber Lee (2011年6月24日). “Joe Montana & Kim Moses”. bleacherreport.com. 2012年3月3日閲覧。
外部リンク
- 通算成績と情報 NFL.com, or ESPN, or Pro-Football-Reference
- ジョー・モンタナ - IMDb
- Top Ten Clutch QBs: Joe Montana (NFL.com)
- Joe Montana Quotes
受賞や功績 | ||
---|---|---|
先代 ジム・プランケット |
スーパーボウルMVP 第16回スーパーボウル, 1982年 |
次代 ジョン・リギンズ |
先代 マーカス・アレン |
スーパーボウルMVP 第19回スーパーボウル, 1985年 |
次代 リチャード・デント |
先代 ジェリー・ライス |
スーパーボウルMVP 第24回スーパーボウル, 1990年 |
次代 オーティス・アンダーソン |
先代 ブーマー・アサイアソン |
シーズンMVP 1989年、1990年 |
次代 サーマン・トーマス |
先代 ジョン・ストールワース(1) |
カムバック賞 1986年 トミー・クレイマー |
次代 チャールズ・ホワイト |
注釈 | ||
1. 1985年のカムバック賞受賞者はいなかった。1984年にジョン・ストールワースが受賞している。 |